活躍する卒業生

DATE:2018.06.02活躍する卒業生

チャンスをつかむための準備をしていれば、きっと人生を楽しむことができる

トヨタ紡織株式会社 糟谷 悟 さん

トヨタ紡織株式会社 糟谷 悟 さん
1983年愛知県生まれ。2006年法学部政治学科卒業。箱根駅伝に4年連続で出場し、2度区間賞を獲得。駒大箱根4連覇時代、3度の優勝に大きく貢献した。卒業後はトヨタ紡織に入社し、実業団で活躍。2013年に悪性リンパ腫が判明。手術後、抗がん剤治療を経て、競技に復帰し、現在ランナーとして活躍中。

病気を乗り越えて競技復帰を果たし、現在もランナーとして活躍中の糟谷さんに、これまでの軌跡と現役学生へのメッセージなどを伺いました。

陸上を始めたきっかけと、駒澤大学に進学した理由をお聞かせください。

中学の時は、もともとバスケットボール部に入ってたんですよ。それが、学校の体育祭で1500m走ったら成績が良かったので、陸上部から「助っ人で出てくれ」と言われたのが最初です。その後もバスケをやりながら、時々陸上部にレンタルされる形だったのですが、気がついたら、いつの間にか完全に陸上部のみとなっていました。

駒澤大学へ進学したのは、1つは駅伝が全国レベルの強いチームだったこと。もう1つは、高校の2年上の先輩が駒大で活躍していたことです。先輩から「また一緒に頑張ろうよ」と直接声を掛けられて。僕が高校の時に強くなれたのはその先輩のおかげだったので、その言葉で心が決まりましたね。

どのような学生時代でしたか。

たまに行くラーメン屋巡りは楽しみでしたが(笑)、ほぼ陸上一色の生活でした。4年生の時は陸上に集中したかったので、3年生までに卒業に必要な単位は全部取れるよう、真面目に授業にも出ていましたし、寮の門限もほとんど破ってないんですよ(笑)。他にしたいことは色々ありましたけど、犠牲というより優先順位を考えて行動を選択していました。でもそれは他の部員も同じで、皆、競技に対する意識が非常に高かったんです。

学生時代、一番嬉しかったのは1年目で箱根を走る選手に選ばれたこと。逆に一番悔しかったのが、4年生の時に僕のせいで箱根の連覇が途切れてしまったこと。その時に考え方がさらにストイックになりました。当時は必死でしたけど、今から見ると甘ちゃんだったと思います。それぐらい意識の変化が起きましたね。この最後のミスを繰り返さないように、どのように今後に活かしていくのか、自分の考え方の転換となる大きな出来事でした。

2005年の第81回箱根駅伝で7区区間賞を獲得し、逆転優勝に大きく貢献

大学卒業後はトヨタ紡織に入社されましたね。

高校の時から既に夢として、実業団で走りたい、日の丸を付けたいという思いがありました。就職先にトヨタ紡織を選んだのは、高校、大学在学中とずっと声を掛けてくれていて、僕を必要としてくれるのはこの会社だと思ったから。愛知に帰るのは大前提でした。

実業団で活躍されている最中、ご病気に。いつ頃、復帰に向けて気持ちを切り替えることができたのでしょうか。

身体の異変に早く気がつくことができたのは、陸上競技をやっていたおかげです。走っている時の感覚に違和感があって「これは普通じゃないな」と思いました。診断が出る前に自分の中で「たぶん重たい病気だな」と分かっていたので、最終的に医者から悪性リンパ腫と告げられた時は、落ち込むというより「ほらね」という感じでした。むしろ、親戚ががんで亡くなった直後だったので、自分のことより家族や周囲の方が心配でしたね。

それに、段階ごとに何個も目標を立てていくという、陸上で培った考え方が身に付いていたので、「原因は分かった。じゃあ、次はそれを治すために闘っていくだけだ」と早い段階で気持ちを切り替えることができました。

もともと競技を辞めるという考えはなかったし、「できなくなる」と言われようが、自分で試さないと分からないと思っていたので、すぐに復帰プランを考えていました。

学生たちにメッセージを。

病気して、復帰して、様々な仕事や機会をいただいて感じたのは、日頃からアンテナを張って準備して行動することの大切さでした。チャンスはいつ巡ってくるか分からない。そのチャンスがきた時に、それにいかに対応できるか。そういう下準備を日頃から考えて行動していれば、どんなことがあっても自分のプラスになり、結果的に人生を楽しむことができると思います。皆さんには、チャンスがきた時に、いつでも行動できるよう、常にアンテナを張っていてもらいたいですね。

※ 本インタビューは『学園通信332号』(2018年4月発行)に掲載しています。掲載内容は発行当時のものです。

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