<1998.03.08〜2005.08.28更新>

「回文歌」の研究

― その1 ―

 山内潤三先生の「高野山釈教長歌作者笑寿と化政・天保期江戸狂歌壇について」において、高野山釈教長歌碑(天保三年十一月建立)の発見とその碑文解読について事細かに記している。この内容を紹介させていただく。

<本朝第一の一大長編回文長歌>解読文章はこうだ。

しんしむの とものつミらは 無他にちる ゆきかとみつる

夕しもハ 夜さむミおきつ いよしらけ 人も笠名は

かそしれん 参るなかたひ きよしあか ミなくうのミつ

なそしらて みやまのこしに いそけこの 友にたか野を

拝したし 岩をのかたに もとのこけ そいにしこのま

やミてらし そなつミのうく なミかあし よき日たかなる

今むれし そか花坂も とひけらし よい月を見ん

さ夜はもし ふゆるつミとか きゆる地に たんハらミつの

もとのむしむし

                右 中山道熊谷駅

                   七十有三翁 笑寿

[漢字表記文]

身心の 共の罪らは 無他に散る 雪かと見つる

夕霜は 夜寒み起きつ 弥白け 人も笠名は

彼ぞ知れん 参る長旅 清し閼伽 皆空の水

何ぞ知らで 深山の越に 急げ此の 倶に高野を

拝したし 巌の方に 元の苔 添いにし木の間

闇照らし 其な罪の憂く 汝身が悪し 佳き日高なる

今群れし 其が花坂も 訪ひけらし 良い月を見ん

小夜は若し 殖ゆる罪咎 消ゆる地に 檀波羅蜜の

本の無始無始

[全文口語訳]

 そもそも、私たち人間の身や心に、共にそなわる数多くの罪は、他に比べようもない姿で散っていく。その見事な散りざまを、まるで雪かと見紛う。真っ白な夕霜は、この夜の冷えびえとした寒さを身に感じ目覚め起きたのだ。天空はいよいよ白みはじめ、出立つ詣での人も旅道中笠に記した出自名は、あゝ、あれはどこそこの誰々と知れるのだ。ここに参拝するために遠く遠くと長い旅を重ね来て、仏前にこの清き閼伽の水を手向ける。この清らかな閼伽の水ですら、すべて空なる水なのである。実在の水ですら空なのだという御仏の教え給う真理をどうして知らないでいるのだろう。この尊い深山の乗越峠に急げや急げとばかりに、この法の山に、一緒に集い高野の霊場を参拝したいものだ。巌の祠の方にある奥の院御廟には、元の苔むすままに、弘法大師は弥勒菩薩の下生をまち、五十六億七千万年の間、入定しつづけておられる。その元の苔により添って林立する奥の院の幽邃な木の間をぬって、光明は遍く木の下闇の十方世界を照らしている。それぞれの身に負う罪は心憂きもの、その浮く波間に漂う汝の身がもともといけないのだ。風光明媚な紀州日高の地から、今日群れをなして登ってきた参拝者も、高野の参道途中にある名所「花坂」をも訪いやってきたのだろう。こうして有り難き高野参りをした今宵は、高野の佳月を眺めるのだろうか。明月の小夜の光を浴びて殖える罪や咎が綺麗さっぱりと消え去るのならば、高野の聖域にあって、六波羅蜜第一の檀波羅蜜を身に行じよう。慈悲の施し、これやこのあるものなきものすべてもとの無始永劫の窮まりないものに化すことだろう。

[作者笑寿について]

歌碑左側面に「天保三年壬辰十一月建立之   宿坊 大樂院」。

歌碑右側面に「爲 道譽笠寿信士。法譽寿信女。華室蓮貞信女」

この歌碑は、笑寿自身による逆修碑であり、戒名は浄土宗。現在の埼玉県熊谷市の浄土宗寺院、宿坊大樂院に関係がある。

笑寿は宝暦十年(一七六〇)に生まれ、熊谷に住し、化政・天保年間の狂歌師と親交があった。

笑寿は、「高野山釈教長歌碑」建立するまで、数度に及ぶ参詣を繰り返し、建立意志を持ったこと。

熊谷市石上寺に、笑寿の狂歌師匠、三陀羅法師の歌碑があり、二人の関わりを示唆するものである。この三陀羅法師の熊谷入り石上寺観櫻宴は文化五年(一八〇八)三月十三日、七十八歳のときであり、笑寿四十八歳であった。

[笑寿の作品に『風車塵の言の葉』]

 笑寿の作品に『風車塵の言の葉』(国立国会図書館蔵)と題する回文歌百三十六種を収録した独詠集があり、『廻文歌百首』(国立国会図書館蔵)と同一内容であることが野口泰助さん「熊谷市郷土文化誌」第十七号(15)によって指摘されている。『廻文歌百首』が先に編纂され、これを後に『風車塵の言の葉』に改題したものと検証する。その理由として次の三点を指摘する。

1、『廻文歌百首』の百首でとめた次に「右廻文百首 大福窓笑寿蔵 文政三庚辰弥生吉辰」と結びの識語を記し、「追加」と付記し二十二首をあげ、「右追加弐拾弐首」とあること。

2、続いて往復異文体になる回文和歌八首、回文発句六句があり、「総計廻文百三十六首笑寿独詠」と識語して、跋文に五、七の二十三句からなる長歌「車尽くし」を収録する。この長歌「車尽くし」に述べた意を『風車塵の言の葉』の表題にしていること。

3、後述する鈍々亭和樽の序文が文化十一年(一八一四)笑寿五四歳のときであり、百首の次の識語は、文政三年(一八二〇)であるからして、刊行までに六年以上を必要とする気の長い自家出版であったこと。その間に三十六首の追補作がなったこと。

 

[まとめ]

 この風車塵の言の葉に要した作成期間は、明らかではないが文政三年からおよそ十年ちかくをかけたものであろう。自序と跋文の二首の長歌が後年の「高野山釈教長歌碑」建立の魁となっていること。この長歌は、笑寿の国文学素養をもとに修辞技巧を費やしたものである。そして、廻文歌を受け入れる文化人的狂歌師たちが周囲にあったこと。熊谷における笑寿の生い立ち、生業、祖先そして子孫については、今後の調査研究に委ねることとなる。

 今後の調査研究としては、@高野山関係文書。A熊谷市史料。B江戸狂歌集収載歌及び作者部類などから新事実が判明することを期待するものである。

 

[補助資料]

1.廻文歌・廻文俳句・廻文詩資料年表
2.『廻文歌百首』(『風車塵の言の葉』)<1999.2.5追加作業継続中>
3.『廻文百余くるま』
4.「高野山釋教長歌」(中山道熊谷驛七十有三翁笑壽)

 

「回文」研究へのリンク

  さかさ言葉「回文」のすべて ?脳がちがうの?<1999.2.5>

 

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