〔2000.08.26更新〕

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(5)逆さことば

ことばを逆さにすると別の意味が表現できることがある。

たとえば、「たね」が「ねた」となり、本来意味を持たなかった「ねた」という語が「話の種」といった比喩表現の代名詞として活躍するようになるのだ。

  「何か(話の)ネタはないか」

  「(話の)ネタをさがしてこよう」

  「ねたのいいのを見込んで、ワサビのきいたシャリ抜きを注文して、ちびりちびりとやっているのも乙なもんだ」

などと云った言い回しになる。

  「しもねた」(俗語表現)という表現も同じ。

  *現代の国語辞典未収載<新明解・新潮>。

まだ、ある。「かまとと」が「ととかま」と使って逆の意味を持たせた表現である。

*「かまとと」の語については、オール読み物(昭和31年5月号)、井上友一郎『カマトト』の書き出し「カマトトという言葉がある。語源は知らぬが、その何を意味するかという点は、今日およそ一通りわきまえぬ人はあるまい。」とある。この語の語源は「かま」は「蒲鉾」の「かま」、「とと」は魚の幼児語。使い方はこうだ。蒲鉾を見て「あら、なんというお魚?」という具合に、その道の猛者が何にも知らないそぶりをする女人を指していうことば。上方の花柳界で幕末のころ使われはじめたことばのようだ。「ととかま」は、内外タイムス(昭和32年1月8日号)の文芸欄「不安の芽」書評の一節「また男女の性の平等を主張する10代の女性は、ときに『トトカマ』ぶりを発揮する。これは『カマトト』の反対で、ほんとうは性についてはよく知らないのに、何でもよく知っているような顔をする。この手でロマンスグレイのおじさまたちが魅惑されるのである」と見える。(てるおか・やすたか著『すらんぐ卑語ネオン街から屋台まで』カッパブックス・昭和32年刊参照)

 このように一部の社会でしか用いない逆さことばの「隠語」がいつのまにか、広く世間一般においても通用するようになってきている。

逆さことばのみなもと 

「こんにちは」は「はちにんこ」

「おはよう」は「うよはお」

「くちぶえ」は「えぶちく」

「かみさま」は「まさみか」

「おきゃくさま」は「まさくやきお」

と、これらの逆さにしたことばは、いずれも日本語の意味を持たないことばなのである。

「くちぶえふきといぬ」の逆さことばは「ぬいときふえぶちく」で、これも日本語の意味を持たない表現だが、何か意味がありそうだと思うのだ。

「ひろいさとうきびばたけ」は、「けたば、びきうとさ」や「けたは、ひきうとさ」のようになれば、「けった(なら)ば、びきう(―ん)とさ」とか「桁は引き、烏兎さ」といった具合で何か意味らしげなことばに変化していることにだれもが気づくことだろう。

 

子どもの逆さことば

幼少のころの遊びにこの逆さことばによることば遊びがあった。小学校の低学年だったこくごの時間の息抜きの時だったと思う。「みみ」「もも」「こねこ」「トマト」「しんぶんし」「たけやぶやけた」「るすになにする」「みなはおはなみ」「ようかんかうよ」「てつだうよなんどもどんなようだって」などのことば表現を知った。そして、自分たちでともだちの名前を逆さにして、クラスのともだちを呼んでみたりして、その音調が面白いときなどは、その名を繰り返してはしゃいだものだ。「たなか【田中】」くんは「かなた【彼方】」くん、「くぼ【久保】」さんは「ぼく【僕】」さんと結構面白がって呼び合った。私の苗字は、「らわぎは」で意味がない。で、名前の「おしよ」が呼び名となった。このような遊びは、久しく子どもの世界から遠のいて聞くことが久しい。

 

手塚治さんのマンガ『ジャングル大帝』に登場する主人公「レオ」の双子の子ども、その名前は「ルネ」と「ルキオ」。この名前を逆さにすると「ねる」と「おきる」となる。これをひっくり返した名付け方だったことが判る。

大人の逆さことば

「キャバレ」を逆さに読むと「レバ焼き」になる。この発展したことばのいたずらが、そのまま読んだら口に出しにくいことばを相手に使わせる。それに気づき「イヤだ。そんなの口にだせない」と言わせ、互いに苦笑いとなる。

たとえば、「こんま」とか「フルーツポンチ」を逆さに読んでごらんといわれると若い女性でなくともきっとことばに詰まる。「こんま」には、「,」ぐらいの意味であり、「フルーツポンチ」は甘党好きなお店のメニューにはなくてはならない食品なのにである。そして、口に出しやすいのに、逆さに読んでごらんといわれると、これが人前では憚れるような意味に豹変するのだから面白い。これも同じ。某女性アナウンサーがしきりにマイクに向かって「ボボブラジル」を連発しつづけた。これを聞いていた「おばあちゃん」、とにかくおったまげて「このおんなば、ひるまっからなんばいってん」と「おじいちゃん」となにか意味ありげに顔を見合わせ話し出す始末、種を明かせば、二人の出身は九州熊本。この地の人であればすぐにピンとくることばなのである。「ぼぼ」は女性の陰器をさす名称だったからだ。

「まる」「こんま」って符号は、なにか大人のことばを匂わせていて夜のことば遊びの世界をかけめぐるようである。

参照「ちんぽ」「ちんぼこ」の語源

安田徳太郎さん『万葉集の謎』の説は、「日本語の性器は、男の方はレプチャ語では第一がチム・チンである。これをくりかえしたのが、チンチンで、さきの男女共通のボ(性器を意味する)をつけたのが、「チンボ」である。」とした。

上方ことばで「ちんこ」は、背の低い人のこという。『摂陽奇観(せつようきかん)』の天明八(1788)年の条に、「歌舞伎役者の子供十歳前後をあつめ、堀江此太夫芝居にて興行なし、大当り。大阪にてチンコ芝居といふ」。また、式亭三馬の『浮世風呂』(1809年)に、「おや、兄さんのには似指(おちんこ)があるが、鶴さんのはねへの」とあって、「似指」(指に似てちいさいもの指していう)と当て字する。「ちん」は、「ちいさい」の意味で、「ほこ」は「鉾」で、天に宙して突っ立てる。京都祇園祭り山鉾巡行の一番の「長刀鉾」には、人形でなく人間の稚児が乗る風習(私意:稚児が立派に成長し、種族反映をはかれますようにといった祈願がこめられたものか?)もこのあたりと深い関係があるのだろうと思うのである。これは、余談かもしれないが、鉾の上で奏でる祇園囃子、「コンコンチキチン、コンチキチン」と耳に聞こえてくる。この語の由来は「小さな鉾」といった、このあたりにあるのかもしれない。

 

社会事情と逆さことば

朝日新聞1997(平成9)年8月28日(木)朝刊

  気づくのが遅すぎる「ムダなダム」反省の色もなし「ムダなダム」山田 紳

この「ムダなダム」は、逆さことばであり、かつ回文表現にもなっています。このことばの表出した流れの源を追ってみますと、前日の同紙朝刊1面に、「建設省が全国のダム事業計画の見直しとして、計画の中止、休止、凍結を公表した」というニュースを受けるものです。ダム建設は、治水・利水の観点から今も進められている行政の公共事業なのです。これがなぜ、とりやめとなったのかと言いますと、ダム開発の先進国であった欧米諸国、とりわけ米国そのものが新たな試みを始めていることにも影響があるようです。これも同紙26日(火)4面の主張・觧説で村田泰夫論説委員が報告しています。これによると、「かつての生態系を取り戻すために、ダムの撤去を計画したり、放流の仕方を変えて人工洪水を起こしたりしている」といった自然環境の復元の歩みが世論のうねり(@自然環境の破壊に対する国民の批判が強い。A建設費用が高く納税者の理解が得られない)となって、それぞれの行政を動かし始めているとのことです。これに連動するのが日本でも莫大な建設に必要とされる公共事業費に対する国民批判(「出来もしないダムの計画をずるずる続けるのは地元にとって一番迷惑だ」)と財政状况(公共事業費の一律7%削減)そのものだったというわけです。ですが、まだ不可思議な動きが日本の国には依然としてあるようです。近い将来、誕生する公共事業の担当業務を掌る「国土開発省」がそれです。ここでも自然をあくまでコントロールするといった意味での「開発」ということばが提示され続けています。なぜ「国土自然環境省」のもとに森林を毓み、水の流れを自然に緩和できる遊水池を設けようとしないのでしょうか。こんなことを上記の標語はもの申しています。

逆さことばの泉

  あかるいは「いるかあ」

  味の素(あじのもと)は「友の事あ」

  いかは「貝」

  石燈篭(いしどうろ)は「ろうどしい」

  美しい音ね、いいわは「わいいねとおいしくつう」

  馬(うま)は「舞う」

  カードは「どーか」(どうか)

  かたみは「見田か」・「三鷹(地名)」

  キスは「好き」

  狐火(きつねび)は「微熱気」

  京都(きょうと)は「塔良き」

  きのなは「花の木」

  くすりは「リスク」

  くるまは「まるく」

  袈裟(けさ)は「酒」

  胡麻(ごま)は「孫」

  強飯(こはめし)は「締め箱」

  今朝(けさ)は「咲け」

  桜木(さくらき)は「氣楽さ」

  スタミナは「涙す」、「名満たす」

  角(すみ)は「ミス」

  はなおは「お縄」

  ひとは「問ひ」

  ふくろうは「洞空(うろくう)」

  補欠(ホケツ)は「付け簿」

  待()つは「妻」

  ミルクは「胡桃」

  息子(むすこ)は「子住む」

  めだまは「まだ目」

  元(もと)は「友」

  焼き魚(やきさかな)は「長崎屋(ながさきや)

  雪(ゆき)は「消ゆ」

  力士(りきし)は「仕切り」

  留守(るす)は「する」

  わたしは「したわ」

 

 *ここに掲載した「逆さことば」は、みんなで使って、楽しみながら殖やしていきましょう。

 

回文のはじまりは逆さことばから

「田植え歌」は「たうえうた」

「夏まで待つな」は「なつまでまつな」

で、上から読んでも、下から読んでも同じことばとなる。

このようなことばで表現した文章を「回文」という。

「よせにさかさことばはおまかせ」は「背が間を幅・床、逆さにせよ(せかまおはばとこさかさにせよ)」とつなげると逆から呼んでも同じ「回文」に発展していくのである。

次は、「回文」の泉にご招待しまよう。

 

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