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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年11月30日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

また一つ 暮れに近づくや 1999…

「四姓(シショウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

四姓(―シヤウ)日本、源平藤橘。天竺、刹利(セツリ)王種。婆羅門(バラ−)浄志。毘舎(ヒシヤ)商賣。首陀(シユダ)農人唐土、士農工商(シノウコウシヤウ)。<元亀本326G>

四姓(――)日本、源平藤橘。天竺、刹利(セツリ)王種。婆羅門(バラモン)浄志。毘舎(ヒシヤ)商賣。首陀(シユダ)農人唐土、士農工商(シノウコウシヤウ)。<静嘉堂本386G>

とある。標記語「四姓」に対して、語注記は「日本・天竺・唐土」における呼称を紹介するものである。「日本」の場合、「源・平・藤・橘」の氏姓であり、これが天竺では「刹利・婆羅門・毘舎・首陀」であり、唐土にあっては、「士・農・工・商」である。この各々の注記語がそれぞれ別見出しの標記語として採録されているかを確認すると、

婆羅門(バラモン)。<元亀本33F・静嘉堂本35D>

首陀(―ダ)天竺四姓内農人也。<元亀本311G>

首陀(―ダ)天竺四姓之内農人也。<静嘉堂本364F>

士農工商(シノウクウシヤウ)大唐之四姓人也。<元亀本324@>

士農工商(シノウクウシヤウ)大唐□之四姓也。<静嘉堂本383A>

が収載されていて、日本の「源平藤橘」と天竺の王種である「刹利」、そして商売の「毘舎」については未収載にある。何故この語を別仕立ての標記語としなかったのか、その理由は各語において事情は異なるのかもしれない。さて、標記語「四姓」だが、『下学集』には未収載にあるが、広本『節用集』に、

四姓(―シヤウ/セイ・ウヂ) 天竺ノ――刹利王種。婆羅門有名。毘舎商賣。首陀農人。四姓日本ノ――源平藤橘。<数量門929E>

とあり、また、易林本『節用集』にも、

四姓(―シヤウ) 源氏(ゲンジ)平氏(ヘイ−)藤原(フヂハラ)橘氏(タチバナ−)日本。刹利(セツリ)ハ王種(ワウシユ)。婆羅門(バラモン)有名。毘舎(ビシヤ)商賣(シヤウバイ)。首陀(シユタ)ハ農人(ノウニン)。已上天竺(テンヂク)之四姓也。<数量門211C>

と見えている。ここでは、唐土の「士農工商」が省略されている。そして、これは人倫門に「四民(シミン)士農工商(シノウコウシヤウ)」<易林204E>に収載され、この後に「四姓(―シヤウ) 源氏(ゲンジ)平氏(ヘイシ)藤氏(トウ−)橘氏(キツ−)」<易林204F>と、日本の「源平藤橘」だけを記載する。この語についても、『節用集』類との連関性はあるといえるのではないか。

 さて、天竺の「刹利」だが、江戸時代の『書字考節用集』に、

刹利(セツリ)正ニハ曰‖―帝利ト天竺ノ王種也。見[名義集]。<官位門三53F>

と、正しくは「刹帝利」というと注記説明されたものが収載されている。しかし、「毘舎」はここでも未収載にある。

1999年11月29日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

朝霜に 畑も車も 覆われて

「袖璽(そでじるし)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「楚部」に、

袖璽(ソデシルシ)具足ノ袖ノ毛ヲ數テ真中ヨリ一ツ前ヘ寄テ着ル也。守同前。<元亀本153I>

袖璽(ソデジルシ)具足ノ袖ノ毛ヲ數テ真中ヨリ一ツ前ヘ寄テ着也。守同前。<静嘉堂本168E>

袖璽(ソデシルシ)具足之袖ノ毛ヲ数テ真中ヨリ一ツ前ヘ寄テ着也。守モ同前也。<天正十七年本中15ウF>

とある。標記語「袖璽」の語注記は「具足の袖の毛を数えて真中より一つ前へ寄て着るなり。守も同前なり」という。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。

 実際、『兵具雑記并幕星呪』袖験之事に、

袖しるしは、袖の毛をかそへて、滿中よりも一つ前へよせて付なり。袖しるしは、射向に神明八幡大菩薩いささか前へよせて書べし。一袖験は、緒を二つ折て、中をたち候、長さは袖二たけにすべし」(『続群書類従』25上、小学館『日本国語大辞典』用例収録参照)

とあって、下線部の「袖しるしは、袖の毛をかそへて、滿中よりも一つ前へよせて付なり。」は『運歩色葉集』の「袖璽」の語注記に内容が合致している。

1999年11月28日(日)晴れ。東京(八王子)⇒玉川⇒世田谷駒沢

走りきて 甘露の味わひ 夜に牽き

「朝陽對月(テウヤウタイゲツ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

朝陽對月(――――)古詩ニ云――。補破衲ヲ――了ス残經ヲ。取此ノ勺ノ意ヲ畫ソ。非人之名ニ也。<静嘉堂本287F>

とある。標記語「朝陽對月」の語注記は「古詩に云ふ、朝陽は破衲を補ひ、對月は残經を了す。此の句の意を取りて畫くぞ。人の名にあらず。」というのである。何故か元亀本及び天正十七年本には、未収載の語である。勿論、『下学集』『温故知新書』には未収載にある。これも『節用集』類である広本天正十八年本弘治二年本永禄二年本『伊京集』黒本本などに「朝陽對月繪」として見えている。

朝陽對月繪(テウヤウタイゲツノヱ/アシタ、ミナミ、コタウ、ツキ)古人句云。朝陽補破衲。對月了残經ヲ。取テ此句ノ意ヲ以為畫圖ト也。非兩人ノ名(ナ)ニ。<広本・器財門717A>

朝陽對月繪(テウヤウタイケツノヱ)古人句云。朝陽ニ補破衲ヲ。對月了残經ヲ。取此_句意為畫圖。非人ノ名ニ也。<天正十八年本・財宝下15ウ@>

朝陽對月繪(テウヤウタイゲツノエ)古人句云。朝陽補イ破衲ヲ。對月ニ了ス残經ヲ。取此句ノ意圖也。非人_名。<弘治二年本・財宝198A>

朝陽對月繪(テウヤウタイゲツノエ)古人句云。朝陽ニ補イ破衲ヲ。對シテ月ニ了(-)ス残-經ヲ。取此二句ノ意ヲ圖ト。非兩人ノ名ニ也。<永禄二年本・財宝163H>

朝陽對月繪(テウヤウタイケツヱ)古人句ニ云。朝−補破衲ヲ。對−ニ了残經ヲ。取此句ヲ圖ト。非人名也。<伊京集・財宝86G>

朝陽對月繪(テウヤウタイケツノヱ)古人句云。朝陽補破衲。對月了残經。取此句意圖故也。<黒本本・財宝143E>

このことからも、静嘉堂本だけが独自に採録したものでないことが知られ、『節用集』との接点を見い出せるのである。ただ、静嘉堂本が標記語として、最後の「」を省略して採録したことと、語注記の「古人句云」を「古詩ニ云」と改めたことがこの比較によって明らかとなった。さらに、特定の『節用集』からの継承語であることをつきとめねばなるまい。

1999年11月27日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

障子張り 今日また白く なりにけり

「提月(テイゲツ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

提月(テイケツ)晦日也。公羊傳、六鷁退飛故也。<元亀本246H>

提月(テイゲツ)晦日也。公羊傳、六鷁退飛故也。<静嘉堂本285C>

提月(テイケツ)晦日也。公羊傳、六鷁退飛故也。<天正十七年本中71ウ@>

とある。標記語「提月」の語注記は「晦日なり。公羊傳に“六鷁、退飛の故なり”」というのである。『下学集』に、

提月(テイケツ)公羊傳ニ提月六鷁([ロク]ゲキ)退(シリソキ)飛(トフ)。注提ハ月晦日也。<時節32F>

公羊傳に提月に六鷁(ロクゲキ)退(しりぞ)き飛(と)ぶ。注に、提月は晦日なり」

とあり、さらに広本『節用集』には、

提月(テイゲツ/ヒツサグツキ)公羊傳ニ。――ニ六鷁退飛。注ニ――晦日也。<時節門713D>

とあって、継承語であることが知られる。『温故知新書』も、

提月(テウケツ)公羊傳。晦云也。<時候門153B>

とあって、継承語の簡略注記であることが知られる。すなわち、「提月」は月の晦日を云い、典拠を『春秋公羊伝』の僖公十六年「是月、六鷁退飛、過宋都」に見ることができるのである。<『日本国語大辞典』に記載を見る

1999年11月26日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

薄茶が 真っ白となるや 障子張り

「朝夕(チョウセキ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

朝夕(テウセキ)。<元亀本246H>

朝夕(テウセキ)公方。人之名。<静嘉堂本285C>

朝夕(テウセキ)公方。人名也。<天正十七年本中71ウ@>

とあって、元亀本は語注記を欠く。標記語「朝夕」に語注記は「公方、人の名なり」というのである。現代の国語辞書である新潮『国語辞典』第二版で、「朝夕(チョウセキ)」を繙くと、

チョウセキ【朝夕】テウ− 一(名)@朝と夕べ。あさゆう。あさばん。ちょうじゃく。〔字類抄〕〔太平記一八・金崎城落事〕〔日ポ〕A朝と晩の食事。転じて、食事。〔永代蔵一〕二(副)ふだん。つねづね。

という記載内容になっていて、この部分からは、『運歩色葉集』の語注記に相当する意味内容を見て取ることができないのである。だが、ここで諦めずに一@の「ちょうじゃく」を繙くと、

チョウジャク【朝夕】テウ−(字の呉音)@朝と夕方。あさゆう。ちょうせき。A「朝夕人」の略。―ゾウシキ【−雑色】ザフ− 鎌倉幕府で、雑役に使われた下役人。〔太平記二・僧徒六波羅召捕事〕―ニン【−人】@前項に同じ。A「公人(クニン)朝夕人」に同じ。

とあって、ここではじめて、「A「朝夕人」の略。」とか、「A「公人(クニン)朝夕人」に同じ。」と合致するのである。この点からいえば、次に掲げる広本『節用集』の読み方に依拠しているといえよう。そして、この『運歩色葉集』の読み方「テウセキ」と語注記の内容については全く加味されていないことも指摘できるのである。さて、この「朝夕」の語を『下学集』には未收載だが、広本『節用集』に、

朝夕(デウジヤク/−セキ。アシタ、ユフベ)司(ツカサトル)的(マト)ヲ奉行。或作若黨之義ト。又徴夫。<人倫門714B>

と、読み方を「ヂョウジャク」または「ヂョウセキ」として、意義分類でいう“人倫門”に該当する語として収載を確認する。さらに『伊京集』にも、

朝夕(デウジヤク)公方的御矢取者也。<>

とあって、「朝夕」は、「ヂョウジャク」と第一拍を濁り、「公方の的の御矢を取る者(人の名)なり」ということで、『運歩色葉集』のいう「朝夕(テウセキ)」すなわち、「チョウセキ」とこの「ヂョウジャク」という読み慣わしが異なるが、「公方」の語の後に「的の御矢を取る」を省略し「人の名なり」とした当時としてはごく認知されていた内容の語だったということになろうか。このことばが役職人の名称としてどう用いられているかを今後探らねばなるまい。『貞丈雜記』四には、「朝夕人は、ちやうじやくにんとよむ也。<中略>公事の時<中略>政所にて、こまづかひする役人也。<中略>又朝夕人は参内などの時は、しと筒を持つ也。しと筒と云は小便筒也」とある。

 そして、このことは現代の国語辞書における「朝夕」の読み方と意味内容とがうまく結びついていないのではないか。また、『温故知新書』は、「朝夕(テウセキ/ツト、−)尚侍」<時候門153B>とし、次の「調(テウ)朝也。見」とに跨る左傍に「尚侍」と注記している。これを『日葡辞書』では、

Cho>xeqi.チョゥセキ(朝夕)朝と夕方と。▼Reimin.<128r>

として、『温故知新書』と同じ“時候門”の意味内容として記載し、役職を意味することは記述されていない。いわば現代の国語辞書の「ちょうせき【朝夕】」@の意味相当の内容を示しているのである。

[ことばの実際]『吾妻鏡』に見る「朝夕」の語、意味二つ

廿八日丙午。出雲時沢可為雑色長之旨被仰。朝夕祇候雑色等雖有数。征伐之際。時沢之功異他故被抽補彼職云云。<11800012028>

五日甲辰。熊谷二郎直実者。匪励朝夕格勤之忠。<11820006005>

四日辛酉。石河兵衛判官代義資参着関東。可致朝夕官仕之由申之。<11840006004>

十八日癸巳。出雲国園山庄前司師兼。為任憲大徳親昵。此間朝夕祇候。雖無日来之功。殊蒙御芳志。<11860007018>

廿五日辛卯。今暁千手前卒去。(年廿四。)其性大穏便。人人所惜也。前故三位中将重衡参向之時。不慮相馴。彼上洛之後。恋慕之思朝夕不休。憶念之所積。若為発病之因歟之由。人疑之云云。<11880004025>

廿二日丙辰。晴。将軍家令出由比浦給。有流鏑馬。相模四郎。足利五郎。小山五郎。駿河四郎。武田六郎。小笠原六郎。三浦又太郎。城太郎。佐佐木三郎。佐佐木加地八郎等為射手。三的之後。三三九四六三以下作物等各射之。此芸朝夕非可被御覧事之由。如相州内内雖被諌申。凡依有御入輿。不及被止之。連連可被御覧云云。<12290010022>

廿一日壬子。明春正月御弓始射手事。今日召整進奉。有其沙汰。可参的調之人数及用捨。於治定分者。早可相触之由。所被仰付于朝夕雑色番頭湯浅次郎国弘。本田太郎宗高。和海三郎家真等也。<12500012021>

二日辛巳。天晴。椀飯。(入道左馬頭義氏朝臣沙汰。)宰相中将上御簾。御釼。武蔵守(朝直)。御弓箭。陸奥掃部助(実時)。御行騰。和泉前司行方。一御馬。上野三郎国氏。刑部次郎左衛門尉国俊。二御馬。筑前次郎左衛門尉行頼。伊勢次郎行経。三御馬。平新左衛門尉盛時。同四郎兵衛尉。四御馬。三村新左衛門尉時親。同三郎兵衛尉親泰。五御馬。足利太郎家氏。同次郎兼氏。明日依可有御行始于相州御亭。今夕被催供奉人。是以元日著庭衆所被撰也。小侍所司平岡左衛門尉実俊。令朝夕雑色等廻其散状云云。<12530001002>

九日丙辰。天晴。御歌合。衆議判訖。有御連歌。<中略>一。朝夕。雑色。小侍。<12630008009>

1999年11月25日(木)。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

朝露に 大根の青葉 光ります 

「鉢巻(ハチまき)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、

鉢巻(ハチマキ)四尺也。内ニ書四天王ノ名ヲ。以テ勝軍木ヲ漆ヲ。<元亀本27E>

鉢巻(−マキ)四尺也。内ニ書四天之名ヲ。以勝軍木漆ヲ。<静嘉堂本26B>

鉢巻(−マキ)四尺也。内畫四天之名。以勝軍木漆。<天正十七年本上14オE>

鉢巻(−マキ) 四尺也。内書。四天ノ名以勝軍(ヌルテ)ノ木ノ一添ノ。<西来寺本>

とある。標記語「鉢巻」について語注釈は「四尺なり。四天王の名を書す。勝軍木(ぬるて)の木の漆を以ってす。」という。『下学集』は「鉢巻(ハチマキ)」<器財115C>、広本『節用集』は「鉢巻(ハチマキ/−ケン)」<器財門59F>と標記語のみの収載である。

 

1999年11月24日(水)雨。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

メール届き 望月一欠け 兎は僅か

「月兎(ゲツト)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」に、

月兎(ケツト)昔釋尊菩薩行ノ砌鳥類草木迄御心在之。中ニモ猿ハ奉ル菓子ヲ。獺ハ献ス河魚ヲ。兎ハ無其調|。其時集テ草木ヲ焼身欲ス仏食ト成ント|。帝釈感シテ帝尺之ヲ上天ニ被月ニ于今ニ如此月中兎是也。<元亀本216B>

月兎(ゲツト)昔釋尊菩薩ノ行ノ砌リ鳥類草木迄テ御心在之。中ニモ猿ハ奉ル菓子ヲ。獺献河魚ヲ。兎ハ無其調|。其ノ時集草木ヲ焼欲成佛食ニ|。帝釈感シテ之ヲ。上天被戴セ月于今ニ如此月ノ中ノ兎是也。<静嘉堂本246@>

月兎(ケツト)昔シ釋尊菩薩行之砌鳥類草木迄。仰心在之。中ニモ猿ハ奉菓子。獺ハ献河魚。兎無シ其調|。其ノ時集草木焼欲成仰食。帝釈感之。上天被月。于今如此月中之兎是也。<天正十七年本中53オ@>

とある。標記語「月兎」について語中記は「昔、釋尊菩薩、行の砌り、鳥類草木まで御心これあり。中にも猿は菓子を奉る。獺は河魚を献ずる。兎はその調(ととのへ)なし其の時、草木を集め身を焼き佛食に成さんと欲す帝釈これを感じて、天に上らせ月に戴かせられぬ。今にかくのごとく月の中の兎、是なり。」というのである。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。また、この譚は、『今昔物語集』巻第五・三獸行菩薩道、兎焼身語第十三に、

今昔、天竺ニ兎・、三ノ獸有テ共ニ誠ノ心ヲ発ヲコシテ菩薩ノ道ヲ行ヒケリ。各思ハク、「我等前世ニ罪障深重ニシテ賎キ獸ト生タリ。此レ、前世ニ、生有ル者ヲ不哀ズ、財物ヲ惜テ人ニ不与ズ。如此クノ罪ミ深クシテ地獄ニ堕テ苦ヲ久ク受テ残ノ報ニカク生タル也。然レバ此ノ度ビ、此ノ身ヲ捨テム」。年シ、我ヨリ老タルヲバ祖ノ如クニ敬ヒ、年、我ヨリ少シ進タルヲバ兄ノ如クニシ、年、我レヨリ少シ劣タルヲバ弟ノ如ク哀ビ、自ラノ事ヲバ捨テヽ、他ノ事ヲ前トス。天帝尺、此レヲ見ミ給テ、「此等、獸ノ身也ト云ヘドモ、難有キ心也。人ノ身ヲ受タリト云ヘドモ、或ハ生タル者ヲ殺シ、或ハ人ノ財ヲ奪ヒ、或ハ父母ヲ殺シ、或ハ兄弟ヲ讎敵ノ如ク思ヒ、或ハ咲ノ内ニモ悪シキ思ヒ有リ、或ハ戀タル形ニモ嗔レル心深シ。何况ヤ、如此ノ獸ハ、實ノ心深ク難思シ。然レバ試ム」ト思シテ忽ニ老タル翁ノ无力ニシテ羸レ无術氣ナル形ニ變ジテ、此ノ三ノ獸ノ有ル所ニ至給テ宣ハク、「我レ、年老ヒ羸レテ為ム方无シ。汝達、三ノ獣、我レヲ養ナヒ給ヘ。我レ子无ク家貧クシテ食物无シ。聞ケバ、汝達、三ノ獸、哀ミノ心深ク有リ」ト。三ノ獣、此ノ事ヲ聞テ云ク、「此レ、我等ガ本等ガ本ノ心也。速ニ可養シ」ト云テ、猿ハ木ニ登テ、栗・柿・梨子・棗・柑子・橘・[コクハ]・椿・栗・郁子・山女等ヲ取テ持来リ、里ニ出テハ瓜、・茄子・大豆・小豆・大角豆・粟・稗・黍ビ等ヲ取テ持来テ好ミニ随テ令食シム。狐ハ墓屋ノ邊ニ行テ人ノ祭リ置タル粢・炊交・鮑・鰹、種々ノ魚類等ノ取テ持来テ思ヒニ随テ令食ムルニ、翁既ニ飽満シヌ。如此クシテ日来ヲ經ルニ、翁ノ云ク、「此ノ二ノ獣ハ實ニ深キ心有リケリ。此レ、既ニ菩薩也ケリ」ト云フニ、兎ハ勵ノ心ヲ発シテ燈ヲ取テ、耳ハ高ク傴セニシテ、目ハ大キニ、前ノ足短カク、尻ノ穴ハ大キニ開テ、東西南北求メ行ルケドモ、更ニ求メ得タル物无シ。然レバ猿・狐ト翁ト、且ハ耻シメ、且ハ蔑ヅリ咲ヒテ勵セドモ力不及ズシテ、兎ノ思ハク、「我レ翁ヲ養ハムガ為ニ野山ニ行クト云ヘドモ、野山怖シク破无シ。人ニ被殺レ、獸ニ可被[クラハ]シ、徒ニ、心ニ非ズ、身ヲ失フ事无量シ。只不如ジ、我レ今、此ノ身ヲ捨テヽ此ノ翁ニ被食テ永ク此ノ生ヲ離ム」思テ、翁ノ許ニ行テ云ク、「今、我レ、出デヽ甘美ノ物ヲ求テ来ラムトス。木ヲ拾ヒテ火ヲ焼テ待チ給ヘ」ト。然ラバ猿ハ木ヲ拾ヒテ来ヌ。狐ハ火ヲ取テ来テ焼付ケテ、若シヤト待ツ程ニ、兎、持ツ物无クシテ来レリ。其ノ時ニ猿・狐ネ、此レヲ見テ云ク、「汝ヂ何物ヲカ持テ来ラム。此レ、思ツル事也。虚言ヲ以テ人ヲ謀テ木ヲ拾ハセ火ヲ焼セテ、汝ヂ火ヲ温マムトテ、[アナニ]ク」ト云ヘバ、兎、「我レ、食物ヲ求テ持来ルニ无力シ。然レバ只我ガ身ヲ焼テ可食給シ」ト云テ、火ノ中ニ踊入テ焼死ヌ。其ノ時ニ天帝釋、本形ニ復シテ、此ノ兎ノ火ニ入タル形ヲ月ノ中ニ移シテ、普ク一切ノ衆生ニ令見ガ為メニ月ノ中ニ籠メ給ヒツ。然レバ月ノ面ニ雲ノ樣ル物ノ有ハ、此ノ兎ノ火ニ焼タル煙也。亦、月ノ中ニ兎ノ有ルト云ハ此ノ兎ノ形也。万ノ人、月ヲ見ム毎ニ此ノ兎ノ事可思出シ。<大系一365I〜367F>

とあって、三獣のうち、『今昔物語集』では「狐」なのが『運歩色葉集』では「獺」と置換られているのである。この出典は、『大唐西域記』巻第七の「婆羅ク(女黠反)斯國」に、

烈士池西。有三獸S堵波。是如來修菩薩行時。燒身之處。劫初時。於此林野有狐兔や。異類相悦。時天帝釋。欲驗修菩薩行者。降靈應化。爲一老夫。謂三獸曰。二三子善安隱乎。無驚懼耶。曰渉豐草。遊茂林。異類同歡。既安且樂。老夫曰聞二三子情厚意密。忘其老弊。故此遠尋。今正飢乏。何以饋食。曰幸少留此。我躬馳訪。於是同心虚已。分路營求。沿水濱。銜一鮮鯉。於林樹。採異花菓。倶來至止。同進老夫。唯空還。遊躍左右。老夫謂曰。以吾觀之。爾曹未和。や狐同志。各能役心。唯兎空返。獨無相饋。以此言之。誠可知也。兎聞譏議。謂狐や曰。多聚樵蘇。方有所作。狐や競馳。銜草曳木。既已薀崇。猛焔將熾。兎曰仁者我身卑劣。所求難遂。敢以微躬。充此一フ。辭畢入火。尋即致死。是時老夫。復帝釋身。除燼收骸。傷歎良久。謂狐や曰。一何至此。吾感其心。不泯其迹。寄之月輪。傳乎後世。故彼咸言。月中之兎。自斯而有。

という。この類話として、大系本『今昔物語集』の頭注に、『旧雑譬喩經』巻下(45)があって、ここでは、「狐・猿・獺・兎」の四獣が登場しているという。

[補遺]2000年9月29日(金)「烏兎(ウト)」の項目に連関する。この『運歩色葉集』の語注記も『庭訓徃來註』十一月十二日の条「又釈迦菩薩砌、鳥類草木マテ仰心アリ。中ニモル‖菓子ヲ|。狐川魚ヲ|。兎无調法ニシテハ∨ルコト‖一物ヲ|。其時集草木ヲ|ニ|。帝尺シテ∨、天月出也。故尓也云々。」に拠るものであることが知られる。

1999年11月23日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

ひっそりと 明けの鐘に 烏鳴く

「徹衆(テツシユ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

徹衆(テツシユ)。<元亀本245E>

徹衆(テツシユ)土揆(ツチイツキ)之事也。<静嘉堂本283F>

徹衆(テツシユ)。<天正十七年本中70ウD>

とある。標記語「徹衆」に「土揆(つちイッキ)の事なり」と語注記が見えているのは、静嘉堂本だけである。『下学集』『温故知新書』は未収載にある。『節用集』類には

徹衆(テツシユ)徳政土一揆也。<広本態藝733B>

徹衆(テツシ−)徳政土一揆也。<伊京集・人倫J>

徹衆(テツシユ)徳政之土一揆。<永禄二年本・人倫162F>

徹衆(テツシユ)徳政之土一揆。<尭空本・人倫152@>

とあり、さらに弘治二年本明応本天正十八年本饅頭屋本黒本本にも見えている。そして、いずれも「徳政」という語を冠に置いている。この語注記について『運歩色葉集』において『節用集』類と連関性があるといえよう。

1999年11月22日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

昼の午後 眠りこくる 温かさ

「寒食(カンショク)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

寒食(カンシヨク)自冬一百五日目也。<元亀本97A>

寒食(カンシヨク)自冬至一百五日目也。<静嘉堂本121C>

寒食(カンシヨク)自冬一百五日目也。<天正十七年本>

寒食(カンシヨク)自冬一百五日目也。<西来寺本>

とある。標記語「寒食」は、「冬至より一百五日目なり」ということである。『下学集』は未収載にある。広本『節用集』に、

寒食(カンシヨク/サムシ・クラウ)亊林廣記云。寒食無定日。二月或三月。荊楚記云。冬至一百五日。即有疾風甚雨。謂之寒食節。又謂之百五節。秦人呼寒食。爲熟食日。言其不煙火ヲ。豫辯熟食節也。斎人モ亦呼爲冷煙節也。<時節門256C>

亊林廣記』巻第三に、「寒食」寒食無‖-定-日。二月或ハ三月。荊楚記ニ云。去ルコト冬至ヲ一-百-五-日。即チ有リ疾-風甚雨。謂フ之ヲ寒食ノ節ト。又謂フ之ヲ百-五ノ節ト。秦_人呼テ寒食ヲ。爲ス熟食ノ日ト。言ハ其レ不ノ動サ煙-火ヲ。預シメ辯シテ熟-食ヲ過ルナリ節ヲ也。斎_人亦呼テ爲ス冷煙節ト<長澤規矩也編、和刻本『類書集成』(汲古書院刊)第一輯189上A>

とあって、『荊楚歳時記』を引くところに、「冬至一百五日。」と見えている。この部分が『運歩色葉集』の語注記に該当するところである。このことから、典拠は『荊楚歳時記』の「去冬節一百五日。即有疾風甚雨。謂之寒食」に拠ったものといえよう。易林本『節用集』に「寒食(カンシヨク)」<時候門70G>、『温故知新書』に、「寒食(カンシヨク)」<時候門47A>と注記語はないが見えている。

1999年11月21日(日)晴れ。東京(八王子)⇒玉川⇒世田谷駒沢

多摩川に 北の空より 鵜の渡り

「天骨(テンコツ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

天骨(テンコツ)言天然有骨格也。下学。<元亀本243E>

天骨(―コツ)言尺龍有骨格也。下学。<静嘉堂本280E>

天骨(―コツ)言天竜有骨格也。下学。<天正十七年本中69オF>

とある。「天骨」の語注記「言(いふこころ)は、天然として骨格を有するなり。下学」という。そしてこの典拠を『下学集』とする。実際『下学集』に、

天骨(テンコツ)言ハ天然トシテ之有骨格也。<態藝78D>

とあって、分類門が「態藝」であり、『運歩色葉集』の三古写本の「天然」を「尺龍」「天竜」と揺れている点が注視されよう。『下学集』の語注記「天然トシテ」よりその全貌が知られるのである。すなわち、「生まれつき人がもっている骨格」というのである。

1999年11月20日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

朝晩の 冷たさよそに 小春日和

「〓〔穴+龍〕(こそ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

〓〔穴+龍〕(コソ)南都ニ童子ヲ松―(コソ)、千代―(コソ)ト云。殿ノ字ヲ不云ト。―(コソ)ト云也。<元亀本242F>

〓〔穴+龍〕(コソ)南都ニ童子ヲ松―(コソ)、千代―ト云。殿ノ字ヲ不シテ云―ト云也。<静嘉堂本279F>

文字表記は、両本とも「穴」の字を冠に「龍」と書いていて、その前に位置する「(コム)<元242B>・(コムル)<静279B>」の表記文字とは区別している。

とある。標記語「〓〔穴+龍〕」に「南都に、童子を松籠(こそ)、千代籠(こそ)と云ふ。殿の字を云わずして籠(こそ)と云ふなり。」というのである。ここでいう「南都」とは、「南都の文献資料には」ということであり、そのように「童子」のことを口で表現するというだけではなく、文字表記するということでもあろう。そうした資料が如何なるものか求めて見る必要がある。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未收載にある。

さて、童子の人名に添える「こそ」という観点から言えば、『宇治拾遺物語』に、

「去年(こぞ)見しに色もかはらず咲きにけり花こそものは思はざりけれとこそつかうまつりて候ひしか」といひければ、通俊の卿、「よろしく詠みたり。ただし、けれ、けり、けるなどいふ事は、いとしもなきことばかり。それはさることにて、花こそといふ文字こそ女(め)の童(わらは)などの名にしつべけれ」とて、いともほめられざりければ、言葉少なに立ちて、侍(さぶらひ)どもありける所に、「この殿は大方(おほかた)歌の有様知り給はぬにこそ。かかる人の撰集(せんじふ)承りておほするはあさましき事かな。

といった表現が知られている。

1999年11月19日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

人は人 心一つに まみゆるぞ

「源氏の巻名」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の語注記に、“源氏巻名”という語注記について考察する。『源氏物語』の巻名については、『拾芥抄』の「源氏物語目録部第卅」に見えているが、『運歩色葉集』の語注記では、

橋姫(ハシヒメ) 源氏巻名。<元亀本29G>

茗木(ハウキ) 源氏巻名。<元亀本29H>

若紫(ワカムラサキ) 源氏之名〔元亀本87G〕

寄生木(ヤドリキ)源氏巻名。<元亀本204G>

(アヲヒ) 源氏巻名。<元亀本266B>

早蕨(サワラビ) 源氏巻名。<元亀本269C>

(サカキ) 源氏巻之名。<元亀本280C>

夕顔(―ガホ) 源氏之巻名。<元亀本293B>

夕霧(―キリ) 源氏之巻名。<元亀本293E>

畫合(エアワセ) 源氏巻名。<元亀本336G>

蓬生(エモギウ) 源氏巻之名。<元亀本337A>

といった標記語に見えている。ここで、最初の巻「桐壺」は、

桐壺(キリツボ)淑景舎(シユクケイシヤ)也。<元亀本284D>

とあって、語注記は家屋名称のみを記しているのである。

1999年11月18日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

木枯らしや 遠のき温み 戻り来る

「先(てだて)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

同(テダテ) 張郎索書(ソシヨ)ノ序ニ順義ニ之―(テダテ)トヨム也。<元亀本249G>

同(テダテ)。<静嘉堂本289@>

同(テタテ)。<天正十八年本中72ウB>

とある。これで解るように、語注記の付いているのは、元亀本だけである。さて、この標記語「(テダテ)」の注記は「『張郎索書(ソシヨ)』の序に順義、之―(テダテ)とよむなり。」というものである。慶長十五年版『倭玉篇』には、

(セン) マヅ、サキニ、サキダツ。<473@>

といった三訓が示され、これ以前の白河本『字鏡集』にも、

(セム) マツ、サキ、スヽム、ハヤク、ハシメ、サキダツ。<853@>

と和訓の数は六訓と二倍の数値を示しているが、「てだて」の訓そのものは未収載なのである。このことは、現代の漢和辞典においても同様であり、いかに、この和訓が特殊なものであるかを物語っているのではないだろうか。この語注記の示す文献資料を調査することで、この『運歩色葉集』が収載したこの「てだて」の和訓が室町時代という文化状況のなかではじめて如何なるものなのか、僅かながらでも垣間見えるのではないかと思わないではない。

1999年11月17日(水)晴れのち夜雨。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

友といふ 語らひ尽くす 陽だまりに

「赴(なぐ・る)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「那部」に、

(ナグル)掖以テ―(ナゲテ)外ニ殺之。<元亀本169H>

(ナグル)掖以―外殺之ヲ。左。<静嘉堂本189E>

(ナグル)掖以―外殺之。左。<天正十七年本中25オF>

とある。標記語「」に、「掖を以って外に赴(なげ)てこれを殺す。[左(傳)]」というのである。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』は、未収載にある。

当代の古字書、慶長十五年版『倭玉篇』にも、

() ヲモムク、ハシル、コユル、アツム、イタル、ユク。<走部160E>

という六訓が記されているに過ぎない。また、これ以前の『字鏡集』『聚分韻略』にも未収載の訓である。「なぐる」という訓は、果たしてどこに位置しているのか、さらに検証せねばなるまい。静嘉堂本及び天正本の最後の「左」は、『左傳』を意味するのかということも確認していく必要があろう。

[補遺] 日本に古くから伝わる巻子本としては、『春秋左氏傳集解』がある。おそらく唐代の手抄本の系統を引き、鎌倉時代の書写本である。本来、博士家である清原家に伝来していたものであったのが、金沢文庫から紅葉山文庫へ所有が移り、現在では宮内庁書陵部蔵となっている。手近なものとしては岩波文庫の『左伝』訳本があり、冨山房の漢文大系にも収録され、さらには台湾からも影印版が出ている。

1999年11月16日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

風残し 木々にざわめき 暮れの秋

「一八(たたけばひらく)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

一八(タヽケバヒ)蒙古捧和与状其箱之上此字。<元亀本140H>

一八(タヽケバヒ)蒙古、捧和与状。其箱之上――之字。放生記。<静嘉堂本150D>

一八(タヽケハヒ)蒙古、捧和与状。其箱之上――ノ字故上記。<天正十七年本中7オB>

とある。標記語「一八」の読みだが、元亀本と静嘉堂本とは「たたけばひらく」で共通するが、天正本は「たたけばひびく」と読ませまず異なりを見せている。次に語注記そのものだが、「蒙古、捧和与状。其の箱の上に此字(を記す)。[放生記]」というのが一つの解文であり、も一つが「蒙古、捧和与状。其の箱の上に此字(を記す)。故に上記す。」という解文なのである。なにぶん、三写本のこの注記部分が三本それぞれ異なっており、正確な認識がむつかしい。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』は未收載にある。静嘉堂本の語注記に従って、『放生記』なる典拠を探ることにする。この『放生記』の名称だが、「初卯(ハツウ)」<元亀本29D・静嘉堂本29@>の語注記にも見えていることがその指針となっている。さらに、注記語「蒙古(モウコ)」<元亀本348G・静嘉堂本419C>、「捧和与状」(未收載)といった連関する語を見るという方法もあるのだが、この語については連関性の語を見出せない。

1999年11月15日(月)曇り後雨。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

雨煙る 傘もたぬ人ぞ 西東

「望(マウ・バウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「滿部」に、

(マウ)毎月十五日之亊。此日者日与日東西望故曰―也。<元亀本211B>

(マウ)毎月十五日之亊。此日者月ト与日ト東西相―(ノソム)故ニ曰―ト也。<静嘉堂本240E>

とある。標記語「」に、「毎月十五日の事。此の日は月と日と、東西に相望む故にと曰ふなり」というのである。実際晴れた日の、夕暮れ時の東の空に“月”が昇り、西の空に“日”が沈む光景を目の当りにすることが今も出きる。この時分を「」と表記し、「マウ」と読んでいたのである。『下学集』に、

(バウ)毎月十五日ナリ也。此ノ日(ヒ)月(ツキ)ト与日東西ニ相望(アイノソム)故ニ云フ望ト也。<時節32B>

とある。読みは「バウ」と異なるが、語注記そのものは継承されている。易林本『節用集』は「バウ」「マウ」いずれの読みのところにも収載されていない。

1999年11月14日(日)霽。鳥取(鳥取大学) 中国四国支部国語学会⇒東京

駈けてゆく 砂丘に咲く ラッキョウ花

「手向(たむけ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

手向(―ムケ)山路無熟食手折リ山木ノ葉ヲ備(ソナヘル)神供ニ|。故ニ峠(タウゲ)曰―(タムケ)ト。哥ニ云、此旅ハ幣モ取アヘヌ手向山紅葉ノ錦神ノマニ/\。<元亀本137G>

手向(タムケ)山路無熟食折テ山木葉ヲ備ル神供ニ|。故ニ峠曰――ト。歌云、此旅ハ幣モトリアヱス――山紅葉ノニシキ神ノ随ニ/\意。<静嘉堂本145G>

手向(タムケ)<天正十七年本中5オ@>*語注記はない。

とある。標記語「手向」に「山路、熟食なく山木の葉を手折りて神供に備へる。故に、峠(たうげ)手向けと曰ふ。歌に√此旅は幣も取りあへぬ手向山、紅葉の錦神の随意(まにまに)」と「たむけ」の語意そして、「峠(たうげ)」への転意を述べ、和歌を引用するというものである。『下學集』は、

手向(タムケ)神供也。又山ノ坂ヲ曰手向ト也。亦タ起ル於神供ヨリ。其ノ義ニ云ク、旅中ノ之山路ニ無シ熟食(ジユク[ジキ])ノ之神供|。或ハ手折(タヲツ)テ草木ノ枝葉ヲ以テ備(ソナフ)神供ニ|。故ニ呼テ山路ノ坂ヲ手向ト|。倭歌云ク、此(コ)ノ旅(タヒ)ハ幣取(ヌサトリ)不ス敢(アエ)手向山(タムケヤマ)紅葉(モミチ)ノ錦(ニシキ)神(カミ)ノ随意(マニマニ)云々。<神祇35E>

神供なり。また山の坂を手向けと曰ふなり。亦た神供より起こる。其の義に云く、旅中の山路に熟食の神供なし。あるは草木の枝葉を手折りてもって神供に備ふ。故に山路の坂を「手向(たむけ)」と云ふ。和歌ありて云く、「此の旅は 幣も取り敢えず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」云云。

とあって、より詳細な語注記からなっている。ここで「山路の坂を「手向」という」を「峠を「手向け」という」に「山路の坂」という語義を呼ぶ「峠(たうげ)」という呼称名に改変していることが知られるのである。易林本『節用集』は、

手向(タムケ)−折(オル)。<言語93F>

と注記語「手折(たおる)」を収載するが、語義はいちいち示すことなく、簡略を旨としていることがよく理会できよう。そして『運歩色葉集』は、この語の次に「峠」にあたる、

當下(タウゲ)又峠。<元亀本137H・静嘉堂本146@>

當下(タウケ)又峠。<天正十七年本中5オ@>*この語を「手向」の前に置く。

の語を初めて収載し置いているのである。

1999年11月13日(土)晴れ。美方町⇒鳥取(鳥取大学)中国四国支部国語学会

朝靄ぞ 秋の砂丘 望みけり

「列子ハ 乗風(レツシはかぜにのる)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「礼部」に、

列子(レツシ)ハ  (ノル)(カゼ)| 仙人也。<元亀本151E>

列子(レツシ)  (ノル)(カセ)ニ| 仙人也。<静嘉堂本165A>

列子(レツシ)(ノル)| 仙人。<天正十七年本中14オG>

とある。この三写本中、元亀本と静嘉堂本は、「列子」と「風に乗る」との間を大きく空間を置いていることに気付く。そして、天正本はこれを一まとめにして標記するのである。すなわち、標記語「列子は風に乗る」で、語注記は「仙人なり」というのである。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未收載にある。この標記語「列子」と語注記「仙人」について考察するに、「列子、風を御す(レツシフウをギョす)」という『荘子』逍遥遊が典拠の譚である。

1999年11月12日(金)晴れ。八王子⇒鳥取→美方町

滝めぐり 訪なふ冬に 雪囲ひ

「白(ハク)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、

(ハク)天竺−字年ニ用之也。<元亀本36I>

(ハク)天竺−字季ニ用之也。<静嘉堂本39C>

(ハク)天竺−字年ニ用之也。<天正十七年本上20ウ@>

(ハク)天竺ー字年々用之。<西來寺本>

とある。標記語「」に、「天竺、“白”の字を年にこれを用ゆるなり。」としている。“○○年”というところを、天竺(インド)では、“○○白”ということか。『下学集』『温故知新書』は未收載にある。『節用集』類では、広本・明応本・天正十八年本に、

(ハク)者年也。云三十三白遠忌(ハクエンキ)ノ之辰(トキ)ト|。白是也。天竺用白之字。年(トシ)ニ|。故云尓。<広本時候門上6オC>

(ハク)也。三十三白忌之辰云是也。天竺白字用年也。<明應五年本時節門13@>

(ハク)―ハ年也。三十三白遠忌之辰是ヲ也。天竺ニハ白ノ字ヲ用年ニ也。<天正十八年本時候門上6オC>

とあって、「三十三遠忌」の如く「白」の字を「年」に代替して用いるのである。この語注記の前半部を省略した注記内容が『運歩色葉集』の語注記であり、その連関性を知る。

1999年11月11日(木)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

 踏み切りや 足止め待つ間 朝の道

「人魚(ニンギョ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「丹部」に、

人魚 (―ギョ)食之者命長。<元亀本38G>

人魚 食之者命長。<静嘉堂本42@>

人魚 食之者命長。<天正十七年本上21ウD>

人魚 食之者命長。<西来寺本>

とある。標記語「人魚」は、「これを食し者は命長し。」という具合に、人が人魚の肉を食すと延命になるといった迷信譚を基盤にした極めて簡潔な内容である。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』は未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』には、

人魚 (ニンギヨ)今按[本草]稱スル人魚者有二ノ種。曰ク〓〔魚+帝〕魚。曰ク鯢魚。[異物志]似人ノ形長サ尺餘。頂ノ上有小穿。氣從中出。<五45@>

とあって、博物学的に、この生き物の形態を『本草』『異物志』をもとに注記している。

“人魚の延命迷信譚”に関係する事柄としては、既に「八百比丘尼」で取り上げている。

1999年11月10日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

腕出して 風冷たくも 薄着人

「如意(ニョイ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「丹部」に、

如意 (ニヨイ) 牛〓〔口+司〕比丘ハ即チ〓〔小+喬〕梵波提也。口似リ(ウシ)ノ〓〔口+司ネリハム〕ニ人咲ウ之ヲ。為隠之。作‐―隠其ノ顔ヲ也。<元亀本39D>

如意 牛〓〔口+司〕比丘即〓〔小+喬〕梵波提也。口似牛〓〔口+司〕人咲之為隠之。作‐―隠其顔也。<静嘉堂本43@>

如意 牛〓〔口+司〕比丘即f梵波提也。口似牛〓〔口+司〕。人咲之為陰之。作ーー陰其顔也。<天正十七年本上22オD>

如意 牛〓〔口+〕比丘。即橋梵波提也。口似〓〔口+司〕。人咲之為之。作ーー陰其顔也。<西来寺本>

とある。「如意」の語注記は、「牛飼比丘は即わち〓〔小+喬〕梵波提なり。口牛(ウシ)の〓〔口+司ネリハム〕に似たり。人これを咲う。これを隠となし。其の顔を‐―隠と作すなり。」という。この語注記のなかに見える「牛〓〔口+司〕比丘」「〓〔小+喬〕梵波提」は別標記語としていないが、「〓〔口+司ネリハム〕」は、祢部に「〓〔口+司〕(ネリ)牛」<元亀本164H・静嘉堂本182D>とあって注記語の再標記を確認できるのである。『下学集』は未収載にある。広本『節用集』には、

如意(−イ)佛具也。自牛〓〔口+司〕比丘(ハシマル)也。即〓〔小+喬〕梵婆提之亊也。<器財門88B>

とあって、器財門に採録され、最初に「仏具なり」とあることが示されている。逆に「口、牛のねりはむに似たり。人これを咲う。これを隠となし。其の顔を‐―隠と作すなり。」という“〓〔小+喬〕梵婆提”の意義説明は見えないのである。他の『節用集』(伊京集・弘治二年本・永禄二年本・尭空本・両足院本・和漢通用集・村井本・慶長九年本)は、

如意(ニヨイ)佛具。<財宝 B・28C・28F・26C・31@・51C・25F・41B>

と最も簡略の語注記で、『運歩色葉集』とは旨く繋がらない。

『温故知新書』は、標記語「如意(ニヨヰ)」<器財169B>とあって、語注記は見えない。

[補遺]『庭訓徃來註』七月日の状に、

佛具如意 佛具獨鈷三鈷五鈷火舎〓〔木+厥〕(ケツ)閼伽(アカ)桶乳木標此八真言道具。〓〔木+厥〕壇上四隅柱也。乳木護摩白膠(ヌルテ)ノ木也。火舎香炉也。如意牛〓〔口+司〕比丘始。即橋梵婆提之亊也。常居帝釈天帝釈心。又貴体牛〓〔口+司〕。爪。口〓〔口+司〕(ミシカム)ニ。形律ニ達得法善巧也。雖〓〔口+司〕ムニ。人笑之。作如意顔隠也〔謙堂文庫藏四一右A〕

とあって、広本節用集』の語注記は、前半部にあたり、『運歩色葉集』の語注記は後半部になる。この両辞書の語注記を持つものとして注目されたい。

1999年11月9日(火)晴れのち曇。八王子⇒世田谷駒沢

落葉に 雁も高くゆく 天と地ぞ

「銕枴仙人(テッカイセンニン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

銕枴仙人 (テツカイセンニン) 吐テ氣ヲ己カ身ヲ出現ス。<元亀本248C>

銕枴仙人 (テツカイセンニン) 吐テ氣ヲ出-現ス己レカ身ヲ|。<静嘉堂本287D>

銕枴仙人 (テツカイセンニン) 吐テ郷氣出-現ス己レカ身ヲ|。<天正十七年本中72オG>

とある。「銕枴仙人」の語注記は「気を吐きて己が身を出現す。」とある。『下学集』は未収載。『節用集』類は、『伊京集』に、

銕枴 (テツカイ) 仙人吐氣出-者也。<人倫門A>

と、標記語を「銕枴」とし、「仙人」は語注記のなかに包括した形態をとっている。これを受けるように易林本『節用集』は、

銕枴 (テツカイ) 仙人也。<人倫門164C>

とまさに簡略注記に徹している。さらに、『節用集』類では、(弘治二年本・天正十七年本)に、

銕枴仙人(テツカイセンニン) 吐テ氣ヲ出-現ス身ヲ者也。<人名門197C>

銕枴仙人(テツカイセンニン) 吐氣出現身者也。<人名門420@>

と最も『運歩色葉集』に近い形態語注記にあり、「己身」を「身」としているのが大きな異なりである。他の『節用集』類は、

銕枴仙人 (テツカイセンニン) (ハイ)氣出-現スル身ヲ者也。顔暉(カンヒ)筆在<広本715B>

銕枴仙人 (テツカイセンニン) 氣出-現スル身ヲ者也。――――顔輝ノ筆在之<永禄二年本人名163@><尭空本人名152B>

とあって、「顔暉(カンヒ)の筆にこれあり」が典拠として記載されている。このことから、『運歩色葉集』『伊京集』弘治二年本・天正十七年本程度の語注記記載にして「我身」から「己身」へと置換する方針形態をここに見ることが出来る。江戸時代の『書字考節用集』には、

銕枴(テツカイ)見[列仙傳]今ノ世往-々ニ所圖スル吐テ氣ヲ轉スル象ヲ者則是矣。<人倫四61A>

とあって、全く別種の語注記を記載する。

 この「銕枴仙人」は、中国隋代八仙の一人。姓は李、名は洪水。街中乞食を常とし、ある時鉄の杖を空に投げると龍に化し、これに乗ってさったという故事が知られている。

1999年11月8日(月)曇りのち雨。八王子⇒世田谷駒沢

暖かに 汗もぬぐはす 茶の花は

「紅雪(コウセツ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

紅雪(コウセツ) 聖武天平聖暦十三年辛巳奥州降ル。至天文十七年戌申八百八年也。<元亀本234F>

紅雪(コウセツ) 聖武天平聖暦十三季辛巳奥州ニ降(フル)。至天文十七年戌申ニ八百八季也。<静嘉堂本270A>

紅雪(コウセツ) 紅雪(コウセツ)奥州ニ降(フル)。至天文十七戌申ニ|。八百八季也。<天正十七年本>

とある。「紅雪」の語注記は「聖武(帝の)天平聖暦十三季辛巳、奥州ニ降(フル)。天文十七年戌申ニ至るは八百八季なり。」と「紅雪」の降った年号と場所(奥州)について記載するものである。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。近代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』は、この記載を収録するが、[]薬品の名。かぜの熱、食べすぎ内臓諸器官の機能低下による疾患などにきくという。意義用例に取り上げているが、この語注記をまったく見ていない記載である。ここは、[]寒帯地方や高山の恒雪帯で、赤色の下等な藻類が繁殖したために、紅色または朱色に見える雪。赤雪(あかゆき・せきせつ)。の用例としたほうが穏当であろう。『色葉字類抄』は、光彩門に「紅雪(コウセツ)唐物」<黒川本440C>とあるからして、これに牽かれたのかもしれない。

 歴史の上では、聖武(帝の)天平聖暦十三(741)季辛巳は、国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられた年に当たる。また、一年のずれだが、天平十四(742)年一月に「○己巳(二十三日)、陸奥国言、部下黒川郡以北十一郡、赤雪(あかゆき)。平地二寸。」<新大系・巻第十四402I>と『続日本紀』にあり、また、同じく十一月に「丹雪降る」と鎌倉時代の『吾妻鏡』は記録する(天変地異年表<古代>参照)。

1999年11月7日(日)曇りのち晴れ。八王子⇒玉川⇒世田谷駒沢

駒澤大学全日本学生駅伝(熱田〜伊勢)二連覇達成!おめでたう!!

朝がけの 人もまばらな 小道行く

「子日(ねのひ・ねのび)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

子日(ネノヒ) 初斈記歳首ニ祝テ折ル枩枝ヲ。男ハ七女ハ二七也。十節記正月七日子祭(マツリ)岳遠望四方ヲ得ルニ陰陽之靜氣ヲ除ク煩悩之術也。<元亀本163C>

子日(ネノヒ) 初学記ニ歳首ニ祝テ松枝ヲ|。男ハ七女ハ二七也。十節記正月七日岳遠望‖四方ヲ|得ルニ‖陰陽之靜氣ヲ|除ク‖煩悩|之術也。<静嘉堂本180C>

子日(ネノヒ)初学記歳首祝折松枝男ハ七女ハ二七也。十節記正月七日(カ)岳遠四方ニ望得陰陽之精氣除煩悩之術也。<天正十七年本中21オD>

とある。「子日」の御注記は「『初学記』の歳首に祝いて松の枝を折る。男は七、女は二七なり。『十節記』に正月七日祭り、岳四方を遠望し陰陽の精気を得るに煩悩を除くの術なり。」という。『下学集』『温故知新書』は未収載にある。ただ、『節用集』類は、

子日(ネノヒ) 歳首ノ祝折松枝。男七。女二。此説在初学記ニ倭國俗所之子日。始出此歟。又十節曰、正月七日。岳遠望四方得‖陰陽ノ靜氣ヲ|。除也。<広本時節門425C>

子日(ネノビ) 歳首祝折松枝。男七。女二七。此ノ説ハ在初斈記和国ノ俗所之子ノ日松。出此歟。又十節云、正月七日。登テ岳ニ遠望四-方得陰-陽ノ靜-氣(セイキ)ヲ|。除。<永録二年本時節門107B>

『運歩色葉集』の語注記がこの『節用集』類の影響下にあることを示唆している。

また『日葡辞書』に、

Nenobi.ネノビ(子日).長い寿命のある松のように長生きしたいと願い、松の根のついたまま引き抜き家の中に置いて行うショウガチの頃の儀式。<458r>

と「根延(ねの)び」の意として見えている。

[ことばの実際]

今日は子の日なりけり。げに、千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。<『源氏物語』初音大系二379A>

[補遺] 『庭訓徃來註』正月五日の条に、

-催人々子日之間 人々トハ公家殿上人也。子日正月初子也。接家ニハ初子南都風雨雪霜也。又泰山府君此日祭也。泰山府君南極壽星老人亊也。此星福祿壽也。故ス初子祭也。或初子コトハ天子庶民上、子十二支上也。故比天子祭也。祭過レハ公卿各自禁中詩歌管絃遊也。仍老松ニテ摩腰又三尺(ワカ)根引シテ五色箒記身掃座敷也。是可万歳義也。子日云。倚松根千年翠滿。同歌云、子日スル野邊(ヘ)ニ小松リセハ千代(タメシ)ニマシ。又自正月一日七日ニテ日定也。鷄・狗・猪・羊・牛・馬・人。八日穀日。見タリ‖荊楚記ニ|。或書云、七日人日五節初也。若菜ト|。此日以七種菜ヲ|羮食之則人无病患也。七草芹薺勤荊(ゴギヤフ)箱平佛座田苹須々白此七草。又芹薺五行田平子佛座須々子〓〔艸+惠〕(スヽシロ)七草也。子日人日ルコト中古以来也。又正月七日三月三日五月五日八月一日九月九日皆為悪日此日調蚩尤也。〔謙堂文庫藏四右H〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記とは直接は連動していない。⇒連関語「人日」(2000.01.07)を参照。

 

1999年11月6日(土)霽。八王子⇒世田谷駒沢

松の傘 手入れよくして 二千年

「玉箒(たまばわき)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

玉箒(―バワキ)正月子日。自天子百官ニ侍下。融(ユラク)玉ノ緒ト延命千秋万歳義也。<元亀本137H>

玉箒(タマハワキ)正月子日。自天子百官ニ――衣下。融玉ノ緒トハ延命千秋万歳義也。<静嘉堂本146A>

玉箒(タマハワキ) 正月子日。自天子百官ニー被下。融玉ノ緒トハ延命千秋万歳義也。<天正十七年本中5オA>

とある。標記語「玉箒」は、「志賀寺聖人」の語注記に見える和歌に関連したものである。この語注記に「正月子の日、天子より百官に下さるるなり。“融(ゆらぐ)玉の緒”とは、延命、千秋万歳の義なり。」ということである。『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未收載にある。

 和歌古注釈書に示される、「子の日」と和歌用語である「玉箒」について見ておく必要がある。

『俊頼髄脳』玉はゝきといへるはと申す木して子日の小松をひきぐしてはゝきにつくりて、田舎の人の家にむ月の初子の日蠶かふやをはくとぞ申すなる。其やを子午の年にうまれたる女のこがひするに、物よきをかひめとつけて、それしてはかせそめさせて祝言葉にいへる歌なりとぞいひ傳へたる。」<歌学大系第一巻173J>

『古来風体抄』(初撰本)「これをとしよりの朝臣の口傳に申たるは、たまはゝきといふは、春のはつ子の日こまつをひきぐしてはゝきにつくりて、ゐなかの人のいへにこかふやを、ねむまのとしむまれたる女の、こがひするにものよきをかひめとつけて、それしてはきそめさせて、いはひのことばにいふうたなりとぞいひつたへたると申を、」<歌学大系第二巻350O>

『古来風体抄』(再撰本)「これを俊頼朝臣口傳に申したるは、たまはゝきといふは、春のはつねの日こまつをひきぐしてはゝきにつくりて、ゐなかの人の家にこかふやを、子午の年うまれたる女のこがひするに、物よきをかひめとつけて、それしてはきそめさせて、いはひのことばにいふ歌なりとぞいひ傳へたると申す。」<歌学大系第二巻462A>

『和歌色葉』「是は田舎にこがひする物の、正月はつ子の日、といふ靈草をはゝきにして、ねの年の女のこがひよきをしてこやをはかすなり。いはいひてすることなれば、是をほめて玉はゝきといふなり。」<歌学大系第三巻191I>

『八雲御抄』「而俊頼口伝、たまはゝき不審と申儀に、子日をひきぐして、はゝきにつくりて、むつきのはつねの日、かひこかふやをはく也といへる也。又たゞものをほむるゆゑに、たまはゝきといへるか、両説にいへり。<巻第四別巻三385E>

以上、歌学においては俊頼朝臣の説が継承されていることを確認できた。そして、静嘉堂本が「ゆらぐ玉の緒」の「ゆらぐ」に「延命」と漢字表記したことも、この語注記にて明らかとなる。また、『和歌色葉』に「是をいはひの物にして、年のはじめには人もまづとるものにてあれば、手にとるからに、いのちなむのぶるとよめり。ゆらぐとはしばらくといふ事なり。しばらくはとゞまる心なり。とゞまるははのぶるなり。玉のをとはをいふ。たましひのをといふなり。又物ほめて玉といふ事あり。玉き、玉もなんどのたぐひなり。」<歌学大系第三巻191I>

がこのことを裏付けている。また、下記の「志賀寺聖人」とこの「玉箒」に歌語の一節として「ゆらぐ玉の緒」を引くが、この「玉の緒」も、多部の標記語として「玉箒」のあとに「玉置(たまき)」の語をおいて、

玉緒(タマノヲ)命ノ亊也。<元亀本137H>

玉緒(タマノヲ)命ノ亊。<静嘉堂本146A>

とし、天正本は、「玉箒」の前に置き、

玉緒(タマノヲ)命ノ事也。<天正十七年本中5オ@>

と語注記「命のことなり」と短い注文ながら、重厚に収載する姿勢を見せているのである。

1999年11月5日(金)霽。八王子⇒世田谷駒沢

蔭地抜け 蜜柑に光る 心地よさ

「志賀寺聖人(シガてらしやうにん)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

志賀寺聖人(シガテラ――)奉ルニ二条之后作恋后被上寺聖人取后ノ手ヲ哥ニ曰、初春ノ初子ノ今日ノ玉ニ箒手ニトルカラニユラク玉ノ緒  ニ被流矣。<元亀本326F>

志賀寺聖人(シカテラノシヤウニン)奉見二条ノ之后(キサラキ)戀后(キ−)ニ被上寺ヘ聖人取后ノ手ヲ哥、初春ノ初子ノ今日ノ玉箒手ニトルカラニ延命玉ノ緒 ニ被流乎。<静嘉堂本386F>*両写本、歌の「ゆらぐ」と「延命」とに異なる。

とある。標記語「志賀寺聖人」の語注記は、「二条院の后を見奉るに、后に戀をなし、寺へ上がられ聖人后の手を取る。哥に云う。 初春の 初子の今日の 玉箒 手にとるからに 延命(ゆらぐ)玉の緒 後に流さるるや。」と、この“志賀寺聖人”は“二条院の后”に恋慕し、恋歌を詠む。そして後に流罪の身となったというのである。この逸話は、『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未収載にある。この「志賀寺」は、近江の国の崇福寺の別称であるが『運歩色葉集』には別標記語としての記載を見ない。また、“二条院の后”についても別標記語を見ない。いわば、ここだけの取り扱いの標記語なのである。

この譚は、『太平記』巻第三十七「志賀寺上人の事」に、

我が朝には志賀寺の上人とて行学薫修の聖才おはしけり。速やかにかの三界の火宅を出でて、永く九品の浄刹に生せんと願ひしかば、富貴の人を見ても、夢中の快楽と笑ひ、容色の妙なるに会はせても、迷ひの前の着相を哀れむ。雲を隣の柴の庵、しばしばかりと住む程に、手づから植ゑし庭の松も、秋風高く成りにけり。ある時、上人、草庵の内を立ち出でて、手に一尋の杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつつ、湖水の波静かなるに向つて、水想観を成して、心を澄まし、ただ一人立ち給ひたるところに、京極の御息所、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御帰りありけるが、御車の物見を開けられたるに、この上人、御目を見合はせ参らせて、覚えず心迷ひて魂浮かれにけり。遥かに御車の後を見送つて立ちたれども、我が思ひ早遣る方も無かりければ、柴の庵に立ち帰つて、本尊に向ひ奉りたれども、観念の床の上には、妄想の面影のみ立ち添ひて、称名の声の内には、堪へかねたる大息のみぞつかれける。さてももし慰むやと暮山の雲を眺むれば、いとど心も浮き迷ひ、閑窓の月にうそぶけば、忘れぬ思ひなほ深し。今生の妄念遂に離れずは、後生の障りと成りぬべければ、我が思ひの深き色を御息所に一端申して、心安く臨終をもせばやと思ひて、上人狐裘に鳩の杖を突き、泣く泣く京極の御息所の御所へ参つて、鞠の壷の懸かりの許に、一日一夜ぞ立ちたりける。余の人は皆いかなる修行者、乞食の人やらんと、怪しむ事も無かりけるに、御息所、御簾の内より遥かに御覧ぜられて、これはいかさま、志賀の花見の帰さに、目を見合はせたりし聖にてやおはすらん、我故に迷はば、後世の罪誰が身の上にか留まるべき、余所ながら露ばかりの言の葉に情けを懸けば、慰む心もこそあれと思し召して、上人これへぞ召されければ、わなわなと震ひて、中門の御簾の前に跪きて申し出でたる事も無く、さめざめとぞ泣き給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀れにもまた恐ろしくも思し召されければ、雪のごとくなる御手を、御簾の内より少し差し出ださせ給ひたるに、上人御手に取り付きて、  初春の初音の今日の玉箒  手に取るからに揺らく玉の緒 と詠まれければ、やがて御息所取り敢へず、  極楽の玉の台の蓮葉に  我をいざなへ揺らく玉の緒 とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かかる道心堅固の聖人、久修練行の尊宿だにも、遂げ難き発心修行の道なるに、家富み、若き人の憂き世の絆を離れて、永く隠遁の身と成りにける、左衛門佐入道の心の程こそあり難けれ。<大系三383M〜385E>

とあって、その全貌が知られるのである。また、『和歌童蒙抄』第二の「子日」<歌学大系別巻一147J>、『和歌色葉』<第三巻191H>『俊秘抄』下、『古来風体抄』上<第二巻350M・462@>、『宝物集』四、『源平盛衰記』巻四十八、『俊頼髄脳』<175A>、『八雲御抄』巻第四、『歌林良材集』下、『歌道大意』<第九巻48@>、『石上私淑言』<第七巻391N>、『あしわけ小船』<第七巻262N>などにも引用記載を見るのである。そして当代の狂言『枕物狂』に、

祖父(語り)さても京極の御息所 日吉詣の折ふし、御車の物見の御簾を吹き上げしひまより、志賀寺の上人 ただ一目御覧じて、しず戀とならせ給う。このこと 世もって隠れなければ、同宿達 聞こし召し、「イイヤ 苦しからぬこと、ただお文を參らせられ、御心を慰まれ候えかし」とありしかば、さあらばとあって、一首の歌を贈らるる。その御歌は、「初春の 初子のきょうの玉箒(たまほうき)、手に取るからに ゆらぐ玉の緒」と、ただ一ゆらめかし ゆらめかいて、つかわされければ、その御返歌に、「極楽の 玉の臺の蓮葉に、我を誘(いざな)え ゆらぐ玉の緒」と、まった一ゆらめかし、ゆらめかいて、御返歌なされければ、それより 上人の御戀もはれ、いよいよ尊き身とならせ給う。<大系狂言集下・鬼山伏狂言199N>

とあって、事の顛末は吉として仕立てているのである。『運歩色葉集』の「後に流さるるや」とは異なる顛末である。そして、『運歩色葉集』が何に拠ったかを今後明らかにせねばなるまい。江戸時代になるとこの上人に「朝寛、または朝観」の名をつけて引用(『夢想兵衛胡蝶物語』『広益俗説弁』巻八『艶道通鑑』『そしり草』など)されていくのである。

[補遺その1]“二条院の后”については、『伊勢物語』第三段「むかし、おとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもといふ物をやるとて、 思ひあらば葎の宿に寝もしなんひじきものには袖をしつゝも 二條の后のまだ帝にも仕うまつり給はで、たゞ人にておはしましける時のこと也。」を意識した“京極の御息所”との意識的な取り違えと見たい。『八雲御抄』巻第四の「はつ春の」の歌の頭注に、

能因以此歌上人詠歌僻事也。俊成もいへり。只彼上人は古歌をいへる也。如伊勢物語此事多。彼上人はわれをいざなへの歌歟。同躰なれば思渡歟。

と注している。すなわち、“二條の后”こと藤原長良女、諱高子と“京極の御息所”こと藤原時平の女、諱褒子とである。何故のことかは、編者のみが知るところなのである。

[補遺その2]左貫注『庭訓徃來注註』の書き込みに、

志賀寺ノ上人二条ノ院之后ヲ染殿壽命(タマノヲ)御覧シテ戀ノ病トナリ給時、二条院后ヲ寺ヘ登せ御申在時上人ノ手ヲ取テ哥曰、初子ノ今日ノ玉箒キ手ニ取ルカラニユラク玉ノヲ 返歌云、イサヽラハ誠ノ路ニ契イナハ我共ナイユラク玉ノ緒 √家持作、初春ノ子日ノ今日ノ玉掃手ニ取カラニユラク玉ノ尾。√玉掃トハ一説云、山鳥羽ヲ五色ノ絲ヲ以テ結テ天子ノ后正月初子簪ヲナデ玉フ。是ヲ玉掃ト云ヘリ。此説好歟。〔正月五日の状「子日」の冠頭部分書き込み〕

とあって、「志賀寺上人」と「二条院后」のこの話は広く当時流布していたのであろう。

1999年11月4日(木)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

汗流す 朝の走りも 重ね着し

「獅子高麗戌(シシこまいぬ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

獅子高麗戌(シヽコマイヌ)神功皇后異国退治之時西降参。刻其形為験令侍殿前ニ但依有猛心令メ獅子ヲ開口對之警固焉云々。<元亀本326@>

獅子高麗戌(シヽコマイヌ)神功皇后異国退治之時西(サイジ)降参(カウサン)ス。刻其形ヲ験令侍(ハンベラ)シム殿前ニ依有猛心|。令シテ獅子ヲ口對之警固焉云々。<静嘉堂本385G>

とある。標記語「獅子高麗戌」の語注記は、「神功皇后、異国退治の時、西(サイジ)降参す。其の形を刻み、験と為し殿前に侍(ハンベ)らしむ。但し、猛心あるによりて、獅子をして口を開かし、これに對し警固するなり云々」という謂れを記載する。本邦にあっては、勿論「獅子狛犬」は存在しない。いわゆる大陸の動物である。ここで注記語のキィーワードとなる語として、「神功皇后」と「西戌(セイジュウ)」の二語が見られ、これを別見出しの標記語としているかを確認するに、両語のうち、前者の「神功皇后」は、「八幡(ハチマン)」「應神天皇」「脇楯(わいだて)」「干珠滿珠」という標記語のなかでしか採録を見ないのである(『下学集』「神馬草(ジンバサウ)」〔130A〕、広本『節用集』には「神馬藻(ジンバサウ)」<914A>が加わる)。後者の「西(セイジュウ)」は、「西(−ゼウ)」<元亀本353F>。「西(−ジウ)」<静嘉堂本429B>。広本『節用集』も「西戌(セイシウ/ニシエビス)」<1079D>といずれも標記語だけで、語注記はなされていないのである。(『運歩色葉集』では「西戌」の表記であるが、大漢和辞典等は、「西戎」の表記をもって示す。この「戌」と「」とが字形相似によるものなのか、まったく別語なのかを文字表記の観点から改めて問わねばなるまい。今は同じ意味として捉えておく。)ここでいう「西戎(セイジュウ)」は、中国を基点にしてみたのではなく、あくまで、本邦を基点にしたものと見たい。さらに、「其の形を刻み、験(あかし)と為し、殿前に侍(ハンベ)らしむ。」は、八幡神社の「獅子狛犬」の像を指しているのであるまいか。この語注記の典拠を「八幡愚童記」などに求めてみることは、まだ手付かずである。そしてこのこと自体すら、後世に引き継がれていないことをどう見ればよいのか。今後の詳細な検証を待つしかない。

『和漢三才図絵』に、「又云う。皇后弓の〓(弓+肖ハツ)を以って巨石に画いていわく、高麗の王は吾が日本の狗なり。その石、今尚存するや」<異国の人物巻の十三.新典社刊第三巻27J>

1999年11月3日(水)曇りのち晴れ。八王子

寒さまし 石蕗の黄 岩蔭に

「獅子身中虫(シシシンチュウのむし)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

獅子身中虫(シヽシンチウノムシ)人ノ自損其身ヲ也。言ハ獅子ハ雖已死ト。百獣尚其威ヲ不能食其|。故自身中生虫自食也。<元亀本326A>

獅子身中虫(シヽシン−ノムシ)喩人自損其身也。言獅子ハ雖已死。百獣尚畏其威不能食其|。故自身中生虫自食其也。<静嘉堂本386@>

とあって、標記語「獅子身中虫」に、語注記は、「人自ずから其の身を損ねることに喩えるなり。言うこころは、獅子はすでに死すと雖ども、百獣なお其の威を畏れてその肉を食すに能わず。故に自身の中に虫生じて、自ずからその肉を食すなり。」とその転じての意味用法の説明と元の実際の意味内容を示している。この「獅子身中虫」の金言句だが、『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未收載にある。古くは『世俗諺文』に、

師子身中虫自食師子 仁王經云。如師子身中虫自食師子寶梁經云。譬如師子王死已虎狼鳥獸無食其肉者師子身中自生諸虫還食其肉於佛法中出惡比丘貧惜利養不滅惡法不修善法是惡比丘能壞我佛法。<七>

とある。

1999年11月2日(火)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

夕暮れて 辛き味噌煮や 勝る飯

「鴟吻(シブン・シフン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

鴟吻(シブン)魚名。屋上瓦云也。<元亀本319E>

鴟吻(シフン)魚名。屋瓦在之。<静嘉堂本376C>

とある。両写本の読み方だが、「シブン」と「シフン」と第二拍めの清濁表記が異なっている。次に、語注記の内容だが、「魚名」までは一致するが、そのあとの「屋上(ヲクジャウ)の瓦(かはら)を云う」<元亀本>、「屋瓦(ヲクがはら)にこれあり」<静嘉堂本>と短い語注記でありながら記述をやや異にするものである。まだ熟されていない表現である「屋上の瓦」と複合熟語化した湯桶読みの「屋瓦」とは同じものを示している。ただ、静嘉堂本の「屋瓦」については、「遠部」には採録されていない語である。さらに、標記語の「鴟吻」は、“魚名”のところに、

鴟吻(シフン)魚名。屋上置之。<元亀本367I>

鴟吻(シフン)魚名。屋上置之。<静嘉堂本447C>

とあって、読みも「シフン」と合致し、語注記は、「屋上(ヲクジャウ)にこれを置く」として両写本ともすべて一致する。これを上記部分で編者が語注記の改編を試みたのか、書写者が変更して記述したのか問われるところでもある。元亀本書写者の積極的な変更が伺われる点でもある。これについては、暫らく時間を要したい。意義部門にして排列をする場合、氣形門と乾坤門とに併記する語であろう。易林本『節用集』は、氣形門に「鴟吻(シフン)魚名。棟瓦圖之。」<206E>。『温故知新書』は、氣形門に「鴟吻(シフン)」<103C>と収載する。

1999年11月1日(月)雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷駒沢

雨風に 落ち葉増し 氣むるむる

「城々」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

城々(シヤウ/\)始有城ト云フ座頭ノ二字ヲ分テ曰八坂方。曰城ト置タル上城ノ字ヲ曰−ト置下也。<元亀本315B>

城々(ジヤウイチ)――ト座等。分テ二字ヲ八坂方。曰∨―上城方者ヲハ曰−置下。<静嘉堂本369G>

とある。標記語「城々」の読み方が「しやうしやう」と「じやういち」と両写本において異なっている。語注記として、「城々と始まる座頭を云う。二字を分ちて八坂方。上に置きたる城という。城の字を下に置きたる城という」とあって、どうも琵琶法師の名前のようであるが理会に苦しむ内容である。「ザトウ」も「座頭」と「座等」と異なりを見せている。元亀本では「座頭(―ツウ)」<268F>とあって、「ザツウ」と読むようであるが、静嘉堂本は「座頭(サトウ)」<305G>であるからして、「座等」と表記して「ザトウ」でよいのかもしれない。この「座頭」には語注記はないが、小学館の『日本国語大辞典』の「ざ-とう【座頭】」の[2]に、「室町時代に結成された盲人の琵琶法師の当道座に設けられた四官(検校・別当・勾当・座頭)の最下位。名の下に「一」、あるいは上に「城」の字を用いることを許された。勾当以上は一般の遊芸人と同席して演奏することが許されないが、これは許され、その場合には必ず上座につくのでこの名が生じた。」とあって、これをもとに語注記の内容を再現するに、「始め城一(ジョウイチ)と云う座頭ありて、この城一の二文字を分けて、八坂方、上に置いて城といい、城方の者をば下に置いて一という。」ということになろうか?さらに再検討したいところである。そして『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未收載にある。

 

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