[1月1日〜1月31日まで]                              BACK(「ことばの溜め池」表紙へ) MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

新年あけましておめでとうございます。本年も宜しく、お願い申し上げます。

2000年1月31日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

あはてずに 一人びとりに 手習ひす

「髑髏(しやりかうべ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

髑髏(シヤリカウベ)首骨。下。<元亀本311D>

髑髏(シヤリカウベ)首骨。下。<静嘉堂本364B>

とある。標記語「髑髏」の語注記は、「首骨。下学集」という。『下學集』に、

髑髏(ドクロ)首骨也。<支體68E>

とあって、典拠を示す「下」は、『下學集』であることが知られるのだが、この語の読み方が「ドクロ」と「しやりかうべ」と異なっている。広本『節用集』(文明本)は、「髑髏(シヤリカウベ/トク[入濁]ロウ[平])」<支躰門923A>と、標記語のみの収載にあり、「しやりかうべ」の読みを優先している。

2000年1月30日(日)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

ひた走る 成績つけに 今日も来て

「美挙等(みこと)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「美部」に、

美挙等(ミコト)尊也。日本。<元亀本302B>

美挙等(ミコト)也。日本。<静嘉堂本352@>*「草」は「尊」の誤字。

とある。標記語「美挙等」の語注記は、「尊なり。日本書紀」という。『下學集』広本『節用集』(文明本)は未収載にある。典拠を示す「日本」は、『日本書紀』であり、『日本書紀』神代上に、

状(カタチ)葦牙(アシカビ)の如し。便(スナハ)ち神(カミ)と化爲(ナ)る。國常立尊(クニノトコタチノミコト)と號(マウ)す。至(イタ)りて貴(タフト)きをば尊(ソン)と曰(イ)ふ。自餘(コレヨリアマリ)を命(メイ)と曰ふ。並(ナラビ)に美擧等(ミコト)と訓(イ)ふ。<大系上76G>

とあって、この語を示している。因みに、『古事記』には「美許登」、『万葉集』には「美許等」の万葉仮名表記が知られている。

2000年1月29日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

温やかな 昼食しつつ 左手リポート

「伏犠氏(フツキシ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「福部」に、

伏犠氏(フツキシ)三皇ノ始也。始鍋木鋳出也。今慣(ナラウ)之ニ鋳物師ヲ曰――師ト也。<元亀本225G>

伏犠氏(フツキウシ)三皇之始也。鍋等鋳出之。今撰之鋳物師ヲ曰――師ト也。<静嘉堂本258G>

伏犠氏(フツキシ)三皇之始也。始鍋ヘ等鋳出之。今慣之鋳物師ヲ曰――師ト也。<天正十七年本中59ウ@>

とある。標記語「伏犠氏」の語注記は、「三皇の始めなり。始めて鍋ヘ等を之れ鋳出す。今之に慣ひて鋳物師を――師と曰ふなり」という。『下學集』は未収載にある。広本『節用集』(文明本)に、

伏犠(フツキ)又曰包犠ト又作密犠ト密興伏同シ蛇ノ身()人ノ首。風姓木徳也。都()于宛丘ニ今ノ陳列ナリ。言ハ伏犠ハ三皇ノ始也。尚書序ニ曰。始テ畫八卦(クワ)。造(ツクリ)書契(カイ)。以代(カウ)(ムスン)シノ縄ヲ之政ニ。由テ是又籍(セキ)(ナレ)リ焉。又漁猟モ従此代始也。<人名門620E>

とあって、一部共通する語注記内容である。

2000年1月28日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

陽に解けて 霜凍り水 豊かなる

「横尾(ワウビ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和部」に、

横尾(ワウビ) 袈裟也。右肩ニ掛之仏弟子有偏袒相。袒右肩一礼仏也。其心者為懐中刀一事也。仏弟子与外道見分ハ以偏袒之相之。外道不偏袒也。或ル時阿難頭陀而行道〔キヤウタウ〕ニ有汲水女。見阿難右肩之白ヲ。篭テ念誤テ落懐〔フトコロ〕子ヲ於井ノ底ニ。自其佛穢而為右肩ヲ。以ーー〔ワウヒ〕ヲ|。掛右肩。<西來寺本158C>

とある。標記語「横尾」の語注記は、「袈裟なり。」という。『下學集』には、

横尾(ワウビ)。<絹布96D>

とあって、語注記は見えていない。『庭訓徃來註』に、

横尾(ヨコー) 如シテ袈裟右ノ自肩掛也。佛弟子ハ偏袒ノ相トテ右肩ヲ祖テ佛ヲ礼也。其故ニ生涯袒ク也。其ノ心ハ刀ヲ懐中ニ不(ツケ) 指亊ヲ爲顕ンカ也。佛弟子ト与ヲ外道見分ニ偏袒ノ相ヲ以テ知也。外道ハ不偏袒也。間肉色美也。佛弟子ハ偏袒ノ故ニ右肩黒也。有時阿難頭陀シテ道ヲ通ル時、水汲女ノ行逢テ偏袒ノ右肩ノ白ヲ見。篭念ヲ謹懐タル子ヲ井底ニ落入也。自其佛戒ニ右肩ヲ為ニ隠横尾ヲ用也。<40オE>

とあって『運歩色葉集』の語注記は、これに依拠するものである。

2000年1月27日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

走り来て 懐友に出会ふ 至福かな

「上品(シャウボン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、

上品(シヤウ)美濃之所名。絹之事也。〔元亀本314@〕

上品(−ボン)美濃之所名。絹。〔静嘉堂本368A〕

とある。標記語「上品」の語注記は、「美濃の所の名。絹の事なり」という。『下學集』は未収載にある。広本節用集』(文明本)には、

上品(シヤウボン/ノボル、ヒン・シナ)[上去・上]。〔態藝門936C〕

と標記語のみで、語注記は未記載にある。いわゆるこの「上品」の読み方は、「ジョウボン」ではなく、「ショウボン」と語頭「上」を「シャウ」と清音で記載されていることをまず確認しておきたい。次に、普通「上品」を「ジョウヒン」という読み方をするが、この場合、@家柄の良いこと。A品位のあること。B上等な品物に対していう。次に「ジョウボン」の読みだが、仏教語でいう極楽浄土の最上級、九品のなかの上品上生・上品中生・上品下生の総称として用いている。さて、この「ショウボン」については、「上品の絹」を指していて、『庭訓徃来』四月の状に「美濃上品」という語がこの注記内容にあたる。『庭訓徃來註』に、

262美濃上品 絹也。即也。〔謙堂文庫藏二九右D〕

美――上保其処也。又紙云説吉也。上品々字而字吉也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫・冠頭書き込み〕

とあって、ただし、標記語の読みは未記載にあるが、『運歩色葉集』の編者はこれを改編注記したということは間違いなかろう。

2000年1月26日(水)晴れ北風冷たし。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

日陰道 寒きゆえにや ひた走り

「徳日(トクニチ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、

徳日(トクニチ)日事。冠落ヲ曰歓楽之類也。<元亀本54I>

徳日(トクニチ)衰日亊。冠落ヲ曰歓楽之類也。<静嘉堂本61B>

徳日(−ニチ)衰日亊。冠落ヲ曰歓楽之類也。<天正十七年本上31ウA>

徳日(ジツ)襄日之事。冠落ヲ曰歓楽ト之類也

とある。標記語「徳日」の読みは「トクニチ」があたるが、西来寺本だけが「トクジツ」と表記する。その語注記は、「襄日の事。冠落歓楽と曰ふの類ひなり」という。『下學集』には未収載にある。これも陰陽家にいうところの「衰日(スイニチ)」の禁忌語で、『運歩色葉集』久部にも、

衰日(スイニチ)徳事。<元亀本360@>

衰日(スイニチ)徳日事。<静嘉堂本438B>

とあって、すべての言動を忌み慎むべき日を「徳日」と表現したものである。随筆『貞丈雑記』十六に「徳日と云事本名は衰日也。衰日とはおとろふる日と読むゆへその名を忌て徳日といひかへたる物也」とある。『運歩色葉集』の語注記末句は、「歓楽」も正しくは「冠落」と表記するのだが、「冠りが落ちる」という読みの意味合いを忌みて「歓楽」と言い換えたということを示唆しているのである。『運歩色葉集』久部には、

歓樂(−ラク)。冠落(クワンラク)。<元亀本192H>

歓樂(クワンラク)。冠落(同)。<静嘉堂本218A>

歓樂(−ラク)。冠落(同)。<天正十七年本中38ウA>

といったように、この標記語には語注記がないが、その両語が並列記載されている。

2000年1月25日(火)小雪降るのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

小雪舞ひ 信号踏み切り 立待ちて

「鷺足(さぎあし)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左部」に、

鷺足(サキアシ)小児所乗之物。<元亀本273A>

鷺足(サキヤウシ)小児所乗之物。<静嘉堂本312B>

とある。標記語「鷺足」の語注記は、「小児所乗の物」という。これは、子供の遊戯具の一種で、「竹馬(たけうま)」のことをいうのである。静嘉堂本の読みは、「さぎあし(sagiashi)」が「さぎゃあし(sagyaashi)」そして「サギョウシ(sagyoushi)」となっている。『下學集』は未収載にある。ことばの実際は、咄本『醒睡笑』一に、「田樂の姿、下には白袴を着、その上に色ある物うちかけ、鷺足にのり踊るすがた」とあって、元は田樂舞の道具として法師たちが一本の棒状の鷺足をはいて、泥田の中で踊ったものが、のちに子供の遊戯具に取り入れられていったものであることがわかる。

2000年1月24日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

眠き朝 目覚めの走り 地蔵前

「蹈歌(あらればしり)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「阿部」に、

蹈歌(アラレハシリ)正月十四日、於禁中ノ男――行之。同十六日女――、歌祝言而舞也。<元亀本259I>

蹈歌(アラレハシリ)正月十四日、於禁中ノ男――行之。同十六日女――、歌祝言而舞也。<静嘉堂本294B>

とある。標記語「踏歌」の語注記は、「正月十四日、禁中ノ男して――これを行ふ。同十六日、女――、歌祝言して舞ふなり」という。『下學集』は未収載にある。広本『節用集』(文明本)に、

蹈歌(タウカ/アラレハシリ、フム・ウタ)正月十四日、十六日両日禁中ニ之。十四日ハ男(ヲ)――。十六日ハ女――。男女祝言ヲ而舞(マウ)也。<多部時節門331B>

とあってその語注記は、『運歩色葉集』が簡略削除しているが共通している。ことばの実際は、連歌集『新撰莵玖波集』に、「百敷のあらればしりはあけそめて」<巻十三雜一58・大系295B>とあって、その頭注に、麗しい内裏の正月の蹈歌節会に、歌舞の巧みな美しい女を全国から召して、一晩中をたのしく歌い舞いあかした夜も次第に明けはじめようとしている。とその歌意を示している。さらに、補注を見るに、『竹林抄』『老のすさみ』などをひき、

蹈歌は、正月十四十六日也。十四日は男踏歌、十六日は女踏歌也。是は男踏歌の心也.踏歌の起りは昔春の夜月面白き頃、京城の遊子歌を謡ひ興を尽して、此處彼処に歩き遊びける也。其後禁中院宮にて殿上人歌舞を奏し侍る也。霰走りとは踏歌を云也。歌頭と云は謡の声を発する人也。

と記載している。

2000年1月23日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

心地よげ バックの口から 落し物

「日尾山(ひをのやま)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遍部」に、

日尾山(ヒヲノー)大嘗會ノ時作鏡山引之也。<元亀本344A>

日尾山(ヒヲヤマ)大嘗會ノ時作鏡山引之也。<静嘉堂本413C>

とある。標記語「日尾山」の語注記は「大嘗會の時、鏡山を作りこれを引くなり」という。これは「標山(ヘウのやま)」とも云う。『下學集』『節用集』類は未収載にある。

2000年1月22日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

樹木立ち 小鳥の囀り 野辺に聞き

「九族(キウゾク)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「幾部」に、

九族(キウソク)高僧。祖。祢。己。子。孫。曽。玄。。<元亀本284I>

九族(キウゾク)高僧(カウソウ)。祖(ソ)。祢(ネイ)。己(コ)。子。孫(シソン)。曽(ゾウ)。玄(ケン)。<静嘉堂本329G>

とある。標記語「九族」の語注記は、「高僧。祖。祢己。子。孫。曽−。玄−。下」という。元亀本の最後の「下」の字は、『下學集』を典拠としていることを表し、その『下學集』には、

九族(キウゾク)高祖(ヒヒヲウヂ)、曾祖(ヒヲウチ)、祖(ヲウチ)、称(ヲヤ)、己(ヲノレ)、子(コ)、孫(マゴ)、曾孫(ヒコ)、玄孫(ヤシハゴ)ナリ也。<數量144D>

とあって、記載内容も実に明確である。

2000年1月21日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

 北風に 膨らむ板ぞ 隙間知る

「元宵(ゲンセウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」(静嘉堂本は「景部」とする)に、

元宵(−セウ)曰正月十五夜。<元亀本213A>

元宵(――)正月十五夜ヲ。<静嘉堂本242A>

元宵(−セウ)正月十五夜。<天正十七年本中50ウA>

とある。標記語「元宵」の語注記は、「正月十五夜を曰ふ」という。

2000年1月20日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

雨後の朝 活き活きと映ゆ 草木かな

「豹尾(ヘウビ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遍部」に、

豹尾(ヘウヒ)暦ニ在之。一説云、自此方ニ鷹并ニ牛馬等有尾者取之祟也。<元亀本48G>

豹尾(ベウビ)暦在之。一説云、自此方鷹并牛馬等有尾者取之、祟也。<静嘉堂本56C>

豹尾(ヘウビ)暦在之。一説云ク、自此方膺牛馬等有尾者取之祟也。<天正十七年本上29オC>

とある。標記語「豹尾」の語注記は「暦これ在り。一説に云く、此方より牛馬等膺し、尾有る者、これを取るに祟るなり」という。『下學集』に、

豹尾(ヘウビ)暦例ニ云ク豹尾ハ計都星(ケイト[セイ])ノ之精黄幡(ワウバン)對向ノ之方也。故ニ黄幡在辰ノ方ニ 豹尾ハ在戌ノ方ニ。相對也。餘歳亦タ尓也<時節33E>

とあるが、注記内容を異にしている。

2000年1月19日(水)曇りのち雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

早咲きの 梅に冷たき 雨そそぐ

「亦打山(まなうちやま)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「伊部」に、

亦打山(マナヅチヤマ)又夏土(マナツチ)。又信土(同)。<元亀本209A>

亦打山(マツチヤマ)又亦夏土(同)。又信土(同)。下総。<静嘉堂本238D>

亦打山(マナウチヤマ)又夏土。又信土。下学。<天正十七年本中48A>

とある。標記語「亦打山」の読み方が三本それぞれ異なっていて、「まなづちやま」「まつちやま」「まなうちやま」となっている。語注記も、最後のところが静嘉堂本は「下総」としているのに対し、元亀本は欠落し、天正本は「下学」と典拠の如く記載しているが、『下學集』には未収載にある。広本『節用集』(文明本)には、「待乳山(マヂヤマ)紀州」<天地門566A>とある。ことばの実際は、『源氏物語』浮舟の巻に、

いらへたまふべくもあらねば、尼君、「待乳の山、となむ見たまふる」と言ひ出だしたまふ。

という語表現に基くところの源氏古注釈に依拠するものと思われる。

2000年1月18日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

のこのこと 散歩の猫に 手を翳す

「生田若菜(いくたのわかな)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「伊部」に、

生田若菜(イクタノワカナ)海之藻也。青苔(アヲノリ)ノ太也。正月入桶ニ公方樣参ル。<元亀本17@>

生田若菜(イクタノワカナ) 海藻也。青苔太也。正月入桶公方樣参。<静嘉堂本11@>

とある。天正十七年本と西来寺本は未記載にある。そして、標記語「生田若菜」の語注記は、「海の藻なり。青苔の太きなり。正月桶に入れ、公方様へ参る」という。『下學集』『節用集』類は未収載にある。また、「和部」に

若菜節(ワカナノセツ)正月七日摘菜者也。<西來寺本159@>

とある。

 ことばの実際としては、中世歌謡集『閑吟集』に、「いくたびもつめ、いくたのわかな、きみも千代をつむべし」<大系149D>や謡曲『求塚』に、「若菜摘む。生田の小野の朝風に。なほ冴えかへる袂かな。」<大系・上67J>と表現されていて、この「生田若菜(地名「生田」は、攝津国武庫郡で現在の神戸三宮付近を云う)を素材にした歌がそれである。そして、語注記の云うように、これを何時の頃からだろうか?「正月、桶に入れ、公方様に献上した」というその事実関係を確認せねばなるまい。

2000年1月17日(月)霙雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

傘持ちて 走るは遅き 倍時間

「大赤口(おほジャク)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

大赤口(ジヤク)自正月三日次第七日々々ニ廻ル也。<元亀本81D>

(ジヤク)自正月三日次第七日々々廻也。<静嘉堂本99G>

大赤口(シヤク)自正月三日次第七日々々廻也。<天正十七年本上49ウB>

大赤口(シヤク) 正月三日。次第七日々々廻ル也。<西来寺本>

とある。標記語「大赤口」の語注記は、「正月三日より次第七日、七日に廻るなり」という。『下學集』『節用集』類には未収載にある。「赤口(シャックニチ)」とは、陰陽道で云うところの万事が凶という日をいい、各月でいえば「七日で廻る」からして月に四回から乃至五回、廻ってくることになる。ここでは、正月を「大赤口」として説明しているのである。

2000年1月16日(日)薄晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

寒くても 走る喜び 笑顔なり

「紅調粥(ウンデウシユク)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、

紅調粥(ウデウシユク)正月十五日、紅豆粥也。類説曰、張誠於宅南ニ見(ミヘ)テ婦人ヲ曰我ハ是地神也。正月半、宣粥ヲ|。浮テ膏ヲ其ノ上ニ祭テ我ヲ令君蠶桑百倍ナラ|。今正月半設膏粥ヲ自是始ル。<元亀本183E>

紅調粥(ウデウジユク)正月十五日也。紅豆粥也。類説曰、張誠於宅南見婦人ヲ曰我正月半宣作粥膏於其ノ上ニ我令君替桑百倍今正月是地神也。半設膏粥ヲ自是始也。<静嘉堂本206C>

紅調粥(ウテウシユク)正月十五日、紅豆粥也。類説、張誠於宅南見婦人曰ク我是地神也。正月半宣作粥膏於其上|。我令君蠶桑百倍。今正月半設膏粥是始也。<天正十七年本中32ウB>

とある。標記語「紅調粥」の語注記は、「正月十五日は紅豆粥(あづきがゆ)なり。類説に曰く、張誠、宅(いへ)の南において婦人を見(ミヘ)て曰ふ。我は是れ地神なり。正月の半ば、宜しく粥を作るべし其の上に膏を浮かべて我を祭りて、君が蠶桑(サンサウ)を百倍ならしむ今に、正月の半ば膏粥(ガウシユク)を設くこと是れより始まる」という。これは『下學集』に、

紅調粥(ウンデウシユク)正月十五日ノ赤豆粥(アヅキカユ)也。類説(ルイセツ)ニ曰ク張誠(チヤウセイ) 見ル婦人ノ立ルヲ宅(イヘ)ノ南ニ。曰ク我レハ是レ地神ナリ也。正月半ニ宜ク/シ作テ白粥(シラカユ)ヲ|、泛(ウカヘ)膏(アブラ)ヲ於其ノ上ニ祭(マツル)上∨我ヲ。令シテ/シメント君カ蠶桑(サンサウ)ヲ百倍ナラ。今ニ正月半ニ設(マウク)膏粥(カウシユク)ヲ。自リ此レ始ル者ノ也ナリ。<飲食102B>

典拠補遺

泛粥 祠膏續齊諧記曰呉縣張成夜見一婦人立宅東南角謂。成曰此地是君蚕室。地神。明日正月半君宜作白粥泛膏於上以祭我。必當令君蚕百倍。言絶失所在。成如其言為作膏粥年年大得蚕也。祠膏見叙事。<『初學記』歳時部、正月十五日183G>

荊楚歳時記曰正月十五日作豆麋加油膏其上以祠門戸。

齊諧記曰正月半有神降陳氏之宅云、是蠶室若能見祭當令蠶桑百倍疑非其事祭門備之七祠今州里風俗望日祠門其法先以楊枝挿門而祭之〔[割注] 齊諧記曰呉縣張成一婦人立宅東南角謂。成曰、此地是君蠶室。地神矣正月半日可作白粥泛膏於上以祭之。當令君家蚕桑百倍。言訖而去絶失所在。或爲作膏粥已後年年大得蚕。世人正月半作粥祷來待我三蚕老<後略>〕。<『太平御覧』巻三〇時序部、正月十五日140下J>

とあって、『運歩色葉集』はこの注記を継承している。広本『節用集』(文明本)も、

紅調粥(ウンテウシユク/クレナイ、トヽノヱ、カユ)注ニ正月十五日。赤豆粥(アヅキカユ)也。類説曰、張誠(−セイ) 見タリ婦人ノ立ツヲ宅南ニ。曰我是地神也。正月半ニ宜ク作シテ粥ヲ|、泛(ウカヘ)膏ヲ於其上ニ祭(マツル)上∨我ヲ。令シテ/シメント君カ蚕桑ヲ百倍ナラ。今正月半ニ設ク膏粥ヲ。自此(コ)レ始也。<飲食475D>

とあって、語注記の最初の「注ニ」が増補されるぐらいで『下學集』を継承している。易林本『節用集』は、

紅調粥(ウンデウシユク)正月十五日。赤豆粥(アツキカユ)也。<飲食118@>

とあって、語注記の冠頭句だけを収載し、後の部分を削除した簡略化の編纂形態を示している。最後に、『運歩色葉集』だけが「ウデウシユク」と第二拍の「ン」を未記載にしている。

2000年1月15日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

ボロ市に 溢れる人ぞ モノ見の眼

「薬醫門(ヤクイモン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋部」に、

薬醫門(ヤクイモン)門ノ扉(トヒラ)無之。病人徃来無限。故如此也。<元亀本204F>

藥醫門(―――)門ノ扉無之。病人徃来無限。故如此也。<静嘉堂本231G>

薬醫門(ヤクイモン)門之扉(トヒラ)無之レ。病人往来無限。故如此也。<天正十七年本中45A>

とある。標記語「薬醫門」に語注記は、「門の扉これなし。病人の往来限りなし。故に斯くの如きなり」という。『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』に、

藥醫門 藥醫ハ左右ニ立二柱ヲ。上ヲ重ク地伏ノ木ニハ銅ヲ埋地ニ也。扉无也。言ハ醫者ノ所ニハ人ノ徃来无。以其義門ニ扉无也。故曰之ヲ藥醫門ト也。能々可用。<14オH>

とあって、この「藥醫門」についての語注記では、『運歩色葉集』が「病人」として表現するところを、「醫者の所」となっていて、このあたりの改編状況をここに見て取れるのである。

薬醫門補遺薬医門は、鎌倉時代の末ごろから武家や公家の屋敷に現れた門の一形式で、本柱の後方に控柱二本を建て、切り妻屋根を架けたもの。

2000年1月14日(金)濃霧のち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

大寒日 陽の温かさ ぐっと汗

「山迹島(やまとじま)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋部」に、

山迹島(−トシマ)明石――。人丸歌。<元亀本204@>

山迹島(ヤマトジマ)明石−――。人丸哥。<静嘉堂本231A>

山迹島(ヤマトシマ)明石之。人丸歌。<天正十七年本中45オF>

とある。標記語「山迹島」の語注記は、「明石の山迹島。人丸歌」という。これは、『和漢三才図絵』が引く「ほのぼのと明石の浦……」の歌を指すのかもしれない。『庭訓徃來註』に、

旋頭哥曰、若々(ホノ/\)ト明石ノ浦ノ朝霧ニ嶋隠レ行ク舟惜ク思フ。此哥ハ若々ノ五字ニ皈也。持統天王ノ太子三歳ニシテ御崩去哀悼ノ哥也。舟惜トハ舟ヲ惜ク思ノ義也。若々トハ一切衆生ノ初發心ヲ云也。又長短方圓ノ形ニモ非処ヲ指テ云也。又母ノ阿字父ノ〓〔金-拔〕字ヲ指シテ万事方化スル処ヲ云也。朝霧ハ阿ハ勢至佐々苦観音氣里苦ハ阿弥陀。是ヲ三身ノ如来ト云。四魔隠行ハ人魔天魔悪魔煩悩。此ノ四魔隠レテ代終ルヲ四魔隠行ト云也。舟惜ク思ハ我等昼之光者不出而西方極楽世界ニ赴ナリ。<10オC>

とあって、これに依拠するものとである。

2000年1月13日(木)曇り一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

濃霧たち 街の灯び 朧朦げに

「養ク(ヤウキヤウ)」「養国(ヤウコク)」「養営(ヤウエイ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋部」に、

養ク(−キヤウ)五十年ヲ養国(−コク)養営(−エイ) 七十歳ヲ。<元亀本202B>

養ク(−キヤウ)五十歳ヲ養國(ヤウコク) 曰六十歳ヲ養営(−ヱイ) 七十歳ヲ。<静嘉堂本228F>

養ク(−キヤウ)曰五十歳也。養国(−コク) 曰六十歳也。養営(−エイ) 曰七十歳也。<天正十七年本中44オD>

とある。「養」を冠頭とした標記語「養ク」「養国」「養営」の三語は、それぞれ、五十歳をいう「知命」「始衰」、六十歳をいう「耳順」、七十歳をいう「縦心」の呼称名があり、この三語とどういう表現差異で用いられてきたのだろうか。

 実際、この三語は、『禮記』王制の「五十、六十、七十、達於諸侯」に基づく表現である。古辞書では、同じく『伊京集』に、

養ク(ヤウキヤウ)五十歳也。養国(ヤウコク)六十名也。養営(ヤウヱイ)七十名。<言語進退70C>

と見えている。だが、『下學集』そして他の『節用集』類には未収載にある。

2000年1月12日(水)曇り後霙雪雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

六の花 昼に見えるや 事始め

「兩(かざる、かせぐ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

飾餝(カザル) ()()−馬。()(カサル)車ヲ。<元亀本106@>

(カセク)−馬棹(ムナカイ)。左十一。<元亀本106G>

とある。標記語「」を「かざる」と「かせぐ」と読んでいる。この「かせぐ」だが、語注記に「左十一」とあるのは、『春秋左氏傳』をさすものと思われる。この『左傳』に「両〓〔車+句〕」<襄公十四年>とあって、『春秋左氏音義』に、

兩〓〔車+句〕其倶反徐。又古豆反。説文同云軛下曲。者服云車軛兩邊。又馬頸者。<二121G>

という。当代の字書慶長十五年版『倭玉篇』には、

(リヤウ)フタヽビ。フタツ。フタツナガラ。<兩部百九十、254D>

とあって、上記の両訓は未記載にある。『聚分韻略』にも、

(リヤウ)車數。<501631C

とあるに留まる。

また、院政時代の観智院本『類聚名義抄』に、

(リヤウ)力升反 フタツ[上平平濁]、フタリ、カタキアリ[平平○○○]、カザル[上上濁○]。和リヤウ[平レ]。<法下72B>

とあって、「かざる」の訓を確認できる。「かせぐ」の訓はここにも見えていない。

2000年1月11日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

北風や 襟を立て行く 道すがら

「四判官(シハンクワン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

四判官(―ハンクワン)佐々木(ササキ)判官。赤松判官。中条――。小原――。何モ紋ハ蝶鴣也。<元亀本327E>

四判官(―ハングワン)佐々木判官。赤松――。中条――。小原――。何モ紋ハ蝶鴣也。<静嘉堂本388D>

とある。標記語「四判官」の語注記は「佐々木判官。赤松判官。中条判官。小原判官。いづれも紋は蝶鴣(テフコ)なり」という。この家紋「蝶鴣」だが、『日本国語大辞典』によれば、「室町時代、検非違使の判官または弾正の官に任ぜられた人が用いた直垂の紋で、蝶鳥文様」である。そして、佐々木・赤松・中条・小原がその判官であった。

2000年1月10日(月)晴れ。東京(八王子)

蜜柑食み 走る額に 汗も程

「五筆(ゴヒツ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

五筆(―ヒツ)弘法大師、左手。右ノ手。口。左足。右足。<元亀本238G>

五筆(―ヒツ)弘法大師、左手。右ノ手。口。左足。右足。<静嘉堂本275B>

五筆(―ヒツ)弘法大師、左手。右ノ手。口。左足。右足。<天正十七年本中67オ@>

とある。標記語「五筆」の語注記は「弘法大師の左手。右の手。口。左足。右足」という。『下學集』『節用集』は未収載にある。諺に「弘法筆を選ばず」というが、この「筆」は、筆を持つ“身体部位”を表象して言ったものと云えまいか。『たとへづくし−譬喩尽−』に、

弘法も筆の誤り 弘法ハ能書三筆ノ一人也。又五筆和尚トモイフ。<377上@>

とあって、この「五筆和尚」の別称は、『運歩色葉集』の標記語・注記語に連関するものである。

2000年1月9日(日)晴れ後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

汗流し 走る道にや 旨き食

「于思翁(ウサイヲウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、

于思翁(ウサイヲウ)申楽三番奏之詞也。<元亀本183@>

于思翁(ウサイヲウ)申楽三番奏之詞也。<静嘉堂本205E>

于思翁(ウサイヲウ)申楽三番奏之。<天正十七年本中32オA>

とある。標記語「于思翁」の語注記は「申楽三番奏の詞なり」という。角川『古語大辞典』に、「能の翁に出る白色尉(ハクシキジヨウ)。「于思」は、ひげの多いさま。三番叟(サンバソウ)の詞章に「おおさいおおさい、おお喜びありや、喜びありや、われこの所より外へはやらじとぞ思ふ」とある。」<一380-2>と記述している。語用例には、この『運歩色葉集』と「うさいわう喜びありや悦びあれあとの太夫にすずなまいらしょ」〔ト養狂歌集・春〕をあげている。『下學集』『節用集』は未収載にある。

2000年1月8日(土)曇り一時晴れ。東京(八王子)

夢にても 調べ文言 上がり来る

「右流左死(うるさし)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、

右流左死(ウルサシ)菅右丞相流丞相時平朝臣死也。<元亀本184@>

右流左死(ウルサシ)菅右丞相流丞相時平朝臣死也。<静嘉堂本207A>

右流左死(ウルサシ)菅右丞相流丞相時平朝臣死也。<天正十七年本228A>

とある。標記語「右流左死」の語注記は「菅右丞相流され。左丞相時平朝臣死ぬなり」という。平安時代の右大臣菅原道真公が無実の罪にて大宰府に左遷され、このときの首謀者と目される左大臣藤原時平は、その怨念に悩まされ一族諸共に祟られて死に急ぐこととなった説話に基づく宛字である。「うるさし」について、これ以前には「五月蝿」を用いた語例が知られるが、この宛字表記が『下學集』『節用集』には未収載にあることからも、当代どのように流布していたのかが注目されるものである。ところで、この標記語「右流左死」だが、そのまま読めば、「右は流され、左は死す」で上記の説話を端的に示すものとなっている。『大鏡』によれば、「醍醐の帝の御時、この大臣、左大臣の位にて年いと若くておはします。右大臣の位にておはします」<全集90-37>と道真は醍醐天皇の御代の右大臣(35歳)であり、左大臣は時平(29歳)であった。元亀本と天正十七年本がいずれも時平を「右丞相」と注記しているが、静嘉堂本だけが「丞相」と注記している。

2000年1月7日(金)曇り一時晴れ。東京(八王子)

時送り 日夜取り組む 調べもの

「人日(ジンジツ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

人日(ジンジツ)正月七日也。朔日ハ鶏日、二ハ狗日、三日猪ノ日、四日羊、五日牛日、六馬、七日――也。八日穀日也。林之歳時記。又或書云、人日以来作食ヲ之則諸人無病氣(キ)云々。<元亀本314F> 「美」の異体字を上下に重ね字した「羹」を略字化したもの。

人日(ジンジツ)正月七日也。朔日ハ〓〔奚+隹〕日、二日狗日、三日猪日、四日羊日、五日牛日、六日馬、七日人日。八日穀日也。荊楚歳時記。又或書云、人日以菜作羹食之則諸人無病氣云々。<静嘉堂本369@>

とある。標記語「人日」の語注記は、「正月七日なり。朔日は鶏日、二日は狗日、三日は猪の日、四日は羊、五日は牛日、六日は馬、七日は――也。八日は穀日なり。『荊楚歳時記』。また或書に云く、人日以来、羹[美]食を作る。これ則ち、諸人病氣(キ)無し云々」という。『下學集』に、

人日(ジン−)正月七日ナリ也。凡ソ毎年正月一日ヲ曰イ鷄日(ケイ[ジツ])ト。二日ヲ云イ狗日ト。三日ヲ云イ猪日ト。四日ヲ云イ羊日。五日ハ牛日。六日ハ馬日。七日ハ人日。八日ハ曰フ穀日ト。見荊楚(ケイソ)歳時記ニ矣。或ル書ニ曰ク人日ニ以テ七種ノ菜ヲ作テ羮(アツモノ)ヲ食(クラヘ)ハ之ヲ則チ諸人無シ病患([ビヤウ]クワン)也。<時節門27E>

とある。ここで、末尾の「或る書に曰く、人日に七種ノ菜ヲもって、作テ羮(アツモノ)ヲ作りてこれを食(クラ)へば、則ち諸人、病患無きなり」とあって、「七種の菜」すなわち、「七草(―クサ)芹、薺、五行、田平子、佛座、須々子、〓〔艸+惠〕」<元亀本168F>を『運歩色葉集』では削除されていることが知られる。弘治二年本『節用集』にも、

人日(ジンジツ)正月七日ナリ也。正月一日ヲ曰鷄(ケイ)ト。二日ヲ曰狗(ク)ト。三日曰猪(チヨ)ト。四日曰羊(ヤウ)ト。五日曰牛(キウ)ト。六日曰馬(バ)ト。七日曰人(ジン)ト。見歳時記。<時節門G>

『運歩色葉集』以上に削除されているのである。ここで、広本『節用集』(文明本)には、

人日(ジンジツ/ヒト、ヒ)正月七日也。凡ソ毎年正月日、曰穀日(タナツミ)ト。見荊楚歳時記ニ矣。歳時記云、正月日、曰。鶏一日、狗二日、猪三日、羊四日、牛五日、馬六日、人七日。正月七日當人日ニ也。人日以七種ノ菜ヲ羮ヲ食之。則諸人無病患|云々。東方朔占書云、一日鶏、二日犬、三日豕、四日羊、五日牛、六日馬、七日人、八日穀。其日晴主所生之物育陰則災晋薫肋云、正旦畫鶏於門七鏤人於戸上良鴈之也。<時節門909@>

とあって、「或書に曰く」を「東方朔占書云」としたり、『下學集』の内容を増補改編しているのである。このことからも、『下學集』から『節用集』に継承され、次に『運歩色葉集』にも継承されているが、この記載内容の状況の削除句からして、『運歩色葉集』の継承は、直に『下學集』からの引用記載するものなのか、それとも文明本に拠るところかと気になるところである。そしてここに、第三の資料である『庭訓徃來註』の「子日」の語注記に、

又自正月一日七日ニテ日定ル也。鷄・狗・猪・羊・牛・馬・人。八日ヲ曰穀日。見タリ荊楚記ニ。或書云、七日ヲ人日ト云ハ五節ノ初也。節ハ爲若菜ノ節ト。此日以七種菜ヲ羮食之則人无病患也。<3ウH>

とあって、これまた共通する注記内容となっている。この資料自体が『下學集』とどう関わってきているのかを検証することが今後の課題でもある。そして、『運歩色葉集』とは密接な関係にある資料となっていることは言うまでもない。

2000年1月6日(木)曇り一時晴れ。東京世田谷(駒沢)

朝寒く 昼は温かく 夜は寒き

「正月(シヤウグワツ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

正月(シヤウグワツ)睦月。陬月。太簇。端春青陽。肇歳−ハ始也。孟春早春王春開春新春初春親月發月。履端。三陽。甫年。年頭。<元亀本318@>

正月(――)睦月。陬月。太簇。端春。青陽。肇歳−ハ也。孟春。春。王春。開春。新春。改春。月。發月。履端。三陽。甫季。季頭。<静嘉堂本318@>

とある。標記語「正月」に、別名を連ねる。このなかで、「肇歳」の語だけ注記があって「肇は始めなり」という。静嘉堂本は「也」として意味が通らない。『下學集』には、

大簇 −ソク 正月。<時節27B>

履端 リンタン 正月ハ履(フム)一切ノ之事ノ端(ハシ)ヲ。故ニ曰履端ト也。<時節27B>

肇歳 テウサイ 正月也 肇ハ始ナリ也。<時節27B>

甫年 ホ(ネン) 正月也 甫ハ始ナリ也。<時節27C>

睦月 ムツキ 正月ナリ也 睦或ハ作昵ニ 新春ハ親類相依テ娯樂(ゴ[ラク])遊宴ス。故ニ云フ睦月ト也。<時節27B>

獻歳 ケンサイ 正月ナリ也 獻ト与献同シ。<時節27D>

陬月 ムツキ 正月也。<時節27D>

始和 シクワ 正月也。<時節27D>

解凍 カイトウ 正月也。<時節27D>

とあって、最後の二語である「始和」と「解凍」は『運歩色葉集』では未収載にある。広本『節用集』(文明本)には、

正月(シヤウグワツ/−ケツ。ツキ)異名。東風解礼記月令正月節也。孟纂要正月爲孟陽−。春王春秋――正月大簇月令孟春之月律中――。端月史記正月爲――。斗建寅月令注―――月。日在室月令孟春日――。新元。新正。首正。元宵十五日也。立春正月節也。傳柑元宵也。上元十五日也。開基節。孟春。孟陽。三春。上陽。寅月。月熈春。灯夜十五日也。觀灯。陬月。元正。上日。椒盤。履端。淑氣。東風。食麥。剪綵。元旦。正朝。照光。昭光。上月。寒月。熈月。解梅。春陽。猶寒。鶯出谷。雪消水。開柳嫩。三元節也。四始。正朔。左會。蔟生。青春。<時節門908E>

とあって、冠頭に「異名」として語注記を付加しながら列挙する。このうち、「睦月。端春青陽。肇歳−ハ始也。早春王春開春新春初春親月發月三陽。甫年。年頭。」の十四語が『運歩色葉集』と異なり、未収載にあることがわかる。逆に『運歩色葉集』に見えない語も多数である。すなわち、『下學集』『節用集』そして『運歩色葉集』における参考文献資料の異なりをここに見ることが出きるのである。とりわけ、文明本には典拠が示されていることからも確認が比較的可能である。

2000年1月5日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

移り物 足暖めつつ 門出松

「流砂河(リウサがは)」と「葱嶺(ソウレイ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「流部」に、

流砂河(リウサカハ)天竺ト唐之間。<元亀本73H>

(―――)天竺与唐之間。<静嘉堂本88G>

流砂河(リウサカハ)天竺与唐之間。<天正十七年本上44ウ@>

流砂河(―――)天竺与唐ノ。<西來寺本134A>

とある。標記語「流砂河」の語注記は「天竺と唐の間」という。西來寺本だけが最後の「間」を「境」とする。「流砂」の意味は、広大な砂漠をいうのだが、天竺と大唐を結ぶルートには流砂の地が控えている。印度の北、パミール砂漠を指している。『下學集』は未收載にある。

葱嶺(ソウレイ)天竺与大唐与之間。<元亀本154C>

葱嶺(ソウレイ)天竺与大唐之間。<静嘉堂本169B>

とあって、標記語「葱嶺」は、パミール高原カラコルムの山並みを中国での呼称名でいう。山上に悉く野葱を生じることからこの名があるという。漢書、西域伝上に詳しい。すなわち、西の境である。『下學集』はこの語も未收載にある。代って『土+盖嚢鈔』の「五天竺事」に、法顕三蔵渡天竺のなかで、

天竺ト。震旦トノニ。流砂葱嶺(リウサソウレイ)ト云テ。難渡難キ越道アル也。<巻十一27オJ>

とあって、茲に該当するものである。西來寺本が「境」として、この内容表記に尤も順じた表記内容といえる。ことばの実際は、平安時代の『栄花物語』巻第十六の「もとのしづく」に、

天竺・震旦の事も、流砂・葱嶺(ソウレイ)遙(はるか)に隔りたれば知(し)らず。<大系下53A>

と見えている。さらに、鎌倉時代の日蓮『消息文抄』である「千日尼御前返事」に、

夫(それ)、法華經と申(まうし)候御經は、誰れ佛の〔説給て候ぞとをも〕ひ候へば、此の日本國より西、漢土どより又西、流砂(リウシヤ)・葱嶺(ソウレイ)と申(まうす)よりは又はるか西、月氏と申(まうす)國に浄王と申(まうし)ける大王の太子、十九〔の年〕位をすべらせ給(たまひ)て壇どく山と申(まうす)山に入(いり)御出家、三十にして佛とならせ給(たまひ)、身は金色と變じ、神(たましひ)は三世をかがみさせ給(たまふ)。<『親鸞集 日蓮集』大系457の39・40>

とある。

2000年1月4日(火)晴れ。東京(八王子)⇒河津

一二三(けせうぶみ) 人文字三重に 四号車

「打越(うちごし)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、

打越(−ゴシ)閣テ當時ヲ。讀未来ヲ也。君ノ代ハ久シカルヘキ様(タメシ)ニハ兼テソ植シ住吉ノ枩。此躰也。<元亀本182A>

打越(−コシ)閣當時ヲ。讀未来ヲ也。君ガ代ノ久シカルヘキ様ニハ兼テソ植シ住吉ノ松。此躰也。<静嘉堂本204C>

打越(ウチコシ)閣當〓〔日+之〕。讀未来也。君ガ代ノ久シカルヘキ様ニハ兼テソシ住吉ノ松。此ノ躰ヲ云也。<天正十七年本中31ウA>

とある。標記語「打越」の三本写本の読みかたは、元亀本の「うちごし」と第三拍めが濁音表記にするのと静嘉堂本・天正本の「うちこし」と清音表記にする二つの読みに分れている。そして、語注記は「當時を閣て未来を讀むなり。君が代の久しかるべきためしには兼てぞ植えし住吉の松。この躰なり」という。『下學集』には未收載にある。『庭訓徃來註』に、

打越是ハ指‖_置當時。曰未来ト哥也。君カ代ノ久シ加留可キ様ニハ兼ソ殖シ住吉ノ松。是等ヲ云打越ノ哥ト也。云々。<10ウC>

とあって、共通する注記内容にある。

 この注釈の意味は、小学館『日本国語大辞典』が示す、

うちこし-うた打越歌】(名)将来を祝福した賀歌。*和漢三才図会-十六「和歌(やまとうた)<略>打越歌 指未来。君が代の久しかるべきためしにはかねてぞ植し住吉の松」

にあたるものである。「打越歌」の意味は「当時をひらきおきて、未来を読む」であり、その実用例の和歌が「君が代の久しかるべきためしにはかねてぞ植し住吉の松」で『運歩色葉集』の和歌と『和漢三才圖會』の和歌とがまた、一致している。

なぜ、このように説明したかというと、現代国語辞書である『新潮国語辞典』第二版には、この「うちこし打越】」の語を、

1.連歌・俳諧で、付句より一句へだてた前の句。また、その句と付句が、同趣・同意であることや、同類の語を使うことを嫌うこともいう。打越嫌い。〔七十一番職人歌合〕〔運歩色葉〕」

と引用している点にある。これに従えば、「君が代の久しかるべきためしにはかねてぞ植し住吉の松」の「めし」と「えし」で「eshi」が重複する音であるぐらいであり、「打越嫌い」の意味で『運歩色葉集』は語注記していないことからして、『新潮国語辞典』のここでの引用記載は誤った出典引用であることをここに指摘せねばなるまい。逆に、『日本国語大辞典』もこの『運歩色葉集』や『庭訓徃來註』を典拠用例として引用記載していないことをここに指摘しておく。

2000年1月3日(月)濃霧から晴れ。箱根⇒東京

第76回東京箱根間往復大学駅伝競争(復路)駒澤大学初の総合優勝成る!

賀 正

美酒旨き 開け行く道に おめでたう

「柿本人麿(かきのもとのひとまろ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

柿本人麿(――――)――者。在石見。持統天皇問。曰對(タイ)スル丸者誰(タソ)答曰。人也。依之曰人丸大長四年丁未於石見國高津ニ死。末后一句曰跡ヲ。高津浦ニ。吟残。島。隠。舩。心須真面目。廣刧。以前先。又。哥曰石見ナル高津ノ松ノ木マニテ浮世之月ヲ見ハテヌル哉。文武大宝元年辛丑三月廿一日於明石浦ニ詠哥。至天文十六丁未八百四十七年也。又説聖武天皇神亀元甲子三月十八日。至天文十六丁未八百廿四年也。<元亀本103C>

柿本人麿(カキノモトノヒトマロ)――者。在石見。持統天皇問曰。對丸者ノハ誰答曰。人也。依之曰人丸ト大長四年丁石見國高津死。末后一句曰。留跡高津浦。吟残。島隠舩心頭真ノ面目。廣刧。以前先又。哥曰石見ナル高津ノ松ノ木ノ間ニテ浮世ノ月ヲ見ハテヌル哉。文武大宝元季元辛丑三月廿一日於明石浦詠哥。至天文十六丁未八百四十七季也。又説聖武天皇神亀元甲子三月十八日死。至天文十六丁未八百廿四季也。<静嘉堂本130A>

柿本人麿(カキノモトノヒトマ)――者。在石見。持統天皇問云。對丸者ハ誰答云人也。依之曰人丸。大長四季丁未於石見国高津死。末後一句曰。留跡高津浦、吟残島隠舩心頭真面目廣刧以前先。又哥曰ク石見ナル高津之松之木之間ニテ浮世之月ヲ見ハテヌル哉。文武大宝元季辛丑三月廿一日於明石浦詠哥。至天文十六丁未八百四十七季也。又説聖武天皇神亀元甲子三月十八日死。至天文十六八百廿四季也。<天正十七年本上64オ@>

柿本人麿(カキノモトノ――)――者。在石見。持統天皇問テ云。對テ云丸者、誰答ウ云人也。依之曰人丸ト大長四年丁未石見国高津ニ死ス。末后(コ)ニ一句(ク)云。留(トム)跡(アト)ヲ高津ノ浦吟残島隠舩心頭真ノ面目廣刧已前ノ先(サキ)又哥云。石見ナル高津ノ松ノ木間(コノマ)ニテ浮世ノ月ヲ見終(ハテ)ヌル哉。文武大宝元辛丑三月廿一日於明石浦ニ詠哥。至天文十六丁未八百十七季也。又説聖武天皇神亀元甲子三月十八日死。至天文十六丁未八百廿四季也。<西來寺本184C>

とある。標記語「柿本人麿」は、語注記に「柿本人麿は石見にあり。持統天皇問ふて曰く。「丸」に對する者は誰ぞ。答へて曰ふ。人なり。これに依りて人丸と曰ふ。大長四年丁未、石見の國高津において死す。末后の一句に曰ふ。高津浦(たかつのうら)に跡を留む。吟じて残す。島隠、舩心、頭真の面目。廣く刧つ。以前の先。又、哥に曰ふ。石見なる 高津の松の 木の間にて 浮世の月を 見はてぬるかな。文武大宝元季辛丑三月廿一日、明石の浦において哥を詠ず。至る天文十六年丁未八百四十七季也。又の説に聖武天皇、神亀元年甲子三月十八日死す。至る天文十六年丁未八百廿四季なり」という。『下學集』『節用集』類には未收載にある。『庭訓徃來註』に、

人丸 人丸ハ仁王四十一代持統天王ノ時ノ人也。大長四十年丁未ノ年逝去也。石見国高津ニテ臨終末後ノ一句ニ云、留跡高津浦、吟_残嶋隠ノ舩ニ頭真面目廣刧以前先(サキ)哥ニ云、石見高津ノ松ノ木ノ間ヨリ浮キ世ノ月ヲ見果テヌル哉此人丸ハ在位故ニ望王位。即被明石浦ニ持統天王ノ云、對丸ニ者ハ誰ソト問給。人丸答曰、人也。依其ニ人丸ト云也。唐ニハ王指シテ我_身ヲ朕ト。日本ニハ王指シテ我身ヲ丸ト。柿本ト云処ハ石州和州下野下総此四ヶ国ニ有リ。中ニモ下野宇津宮ノ明神ハ人丸ナリ。哥道ノ秘亊也。和哥ノ三人ハ賀茂住吉人丸也云々。<9ウE>

とあって、一部の語句に「死ス」が「臨終」としてあったり、「心頭」を「」、和歌の「石見ナル」を「石見」、「又哥ニ云」を「哥ニ云」として異なること、語注記の排列移動が見え、その中間に、「此の人丸は位在り。故に王位を望む。即ち明石の浦に流さるる」という注記がなされていることが異なりであり、『運歩色葉集』の語注記は、ここに依拠し、共通する語注記であることを確認する。

 ところで、人麿の和歌として『万葉集』巻第二に見えるのは、

1.石見なる高角の木の間ゆも わが袖振るを妹見けむかも

とある歌が前句の部分が近似ているにすぎない。そして、人麿の死を石見の国高津とし、その年を「大長四年」と記述するがこれは、「大宝四(707)年」のこととして、それ以前の文武天皇の「大宝元(701)年三月廿一日」に明石の浦で詠んだ和歌を示す説とそれより後の聖武天皇の「神亀元(724)年三月十八日」に死んだという説とがあるとする。末期の一句の吟詠についても未解釈にある。これらの典拠を今後も考えてゆかねばなるまい。江戸時代の『和漢三才圖會』の「人丸社」には、

按ずるに、人丸は石見の国の人。持統・文武の両朝に仕へ、新田高市の皇子に遇す。古今独歩の歌仙なり。然れども爵禄いまだ貴からず、いまだ政務を預からず。故に系伝詳らかにせずや。聖武天皇神亀元年三月十八日、石見の国に卒す。けだし、三位は恐らくは贈爵ならんや。曙明(ほのぼの)と赤石浦(あかしのうら)の詠歌最秀逸なるをもって、後人祠を明石の浦に建つ。<原文の漢文を書き下しにして示した>

とあって、後説の「聖武天皇神亀元年三月十八日」を示している。ここでは、「ほのぼのと明石の浦……」の歌を最秀逸として引く。

2000年1月2日(日)晴れ。東京⇒箱根

第76回東京箱根間往復大学駅伝競争(往路)駒澤大学二連覇達成!

賀 正

山かけて 険しき箱根 若き脚

「効験貴僧(ガウケンキソウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

〓(交+頁)験貴僧(ガウケンキソウ)行躰堅固ニシテ有才能謂之。<元亀本103@>

効験貴僧(カウケンノキソウ)行躰堅固ニシテ有才能謂也。<静嘉堂本>

効験貴僧(カウケンノキソウ)行躰堅固ニシテ有才能謂之。<天正十七年本上63ウE>

効験貴僧(カウ―――)行体堅ニシテ有才能之。<西來寺本184@>

とある。標記語「効験貴僧」は語注記に「行躰堅固にして才能あり。これを謂ふ(才能あるを謂ふなり)」という。『下學集』には未收載にある。

ことばの実際は、『庭訓往来』四月状・往に、「効験貴僧(カウケンノキー)」<東洋文庫89A>とある。そして『庭訓往来註』に、

行躰堅固又有才能者也。伝教・弘法之類也。即チ伝教ハ越前北ノ庄ノ舟守ノ子也。弘法ハ攝州尼崎ノ浦網ノ村君船頭ノ子也。

と、前出部分がこの注記と合致していることから、ここからの採録とみてよい。

2000年1月1日(土)晴れ。東京(八王子)

賀 正

時またぎ 無窮自在や 永ふるに

「千僧供養(センゾウクヤウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢部」に、

千僧供養(−ゾウクヤウ)天竺ニテハ優項王始之。於日本ハ嵯峨天皇始之。<元亀本357E>

千僧供養(――――)天竺ニテ優項王始之。於日本嵯峨天皇始之。<静嘉堂本434F>

とある。標記語「千僧供養」に語注記は「天竺にては優項王、之を始む。日本においては嵯峨天皇、之を始む」という。この仏事の法会が天竺と日本にあって、いつから始まったのかを記すことに終始している。この上を行う記録はわからないが、ことばとしては、「万僧供養」がある。また、『運歩色葉集』のこの注記内容を裏づける資料として、『庭訓往来註』(室町時代末写)に、

接待千僧供養非人施行等也。優王始也。日本ニハ嵯峨天王始。<51オB>

とある。所謂『庭訓徃來』の古註からの引用ということが尤も有力かと考えられるのである。今後の課題は、その共通する語注記を確認することでもある。『下學集』『節用集』類には未収載にある。

ことばの実際は、『庭訓往来』九月状往に、

接待(せつたい)、千僧(せんそう)の供養(くよう)、非人の施行(せぎょう)等(とう)なり。<東洋文庫231J>

とあり、室町物語集『高野物語』に、

その頃(ころ)しも、京の父(ちゝ)の第三年(だい−ねん)の仏事(ぶつじ)のために、千僧供養(せんぞうくやう)の摂待(せんたい)をし、無縁(むゑん)の僧(そう)には、いさゝか一会(ゑ)を参(まい)らせしかば、一日に僧(そう)の廿人三十人出(い)で入事まことなり。<新大系336@>

とあって、千人の僧侶を招聘し、斎を設け仏事供養を行う法会をいう。

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