[3月1日〜3月31日迄]                              BACK(「ことばの溜め池」表紙へ) MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

2000年3月31日(金)晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

櫻道 都につなぎ 走り来る

「師資相承(シシザウゼウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

師資相承(シヽザウゼウ)善人者不善人之師。不善人者善人之資。故――――。<元亀本323F>

師資相承(シ―サウシウ)善人者不善人之師。不善人者善人之資。故曰――――。<静嘉堂本382B>

とある。標記語「師資相承」の語注記は、「善人は不善人の師。不善人は善人の資。故に師資相承と曰ふ」という。『下学集』には未収載にある。『節用集』類では、天正十八年本節用集』に、

師資相承(シヽサウゼウ)師弟義也。<下・言語進退33オH>

とあり、印度本系統の弘治二年本<249E>・永禄二年本<212A>・黒本本饅頭屋本など、そして『伊京集』の語注記も「師弟之義也」<114I>とあってほぼ同じく収載している。ここで、広本節用集』が何故かこの語を未収載にするのである。

 さて、『運歩色葉集』の語注記内容は、鎌倉時代の古辞書『塵袋』巻第五の「師弟ト云ハントテ師資ト云フ心ロ如何」によれば、

老子曰、善人ハ為不善人之師ト不善人ハ為善人之資ト云云。此ノ文ノ句末ノ一字ヲトリ含テ師資ト申ナラヒタル也。假令師ハ善人、弟子ハ不善人ニ配スルニヤ。後漢書ノ列傳ニ不勝(タヘ)師資之情(サマタケ/ナサケ)[平]罪當(アタレリ)万坐ニト云フシタノ注ニモ上ノ文ヲヒケリ。顕宗帝ノ時キ廉苑カ文學ノ師薛漢カツミアルヲタスケ、アハレンテ帝ノセメタマフトキ申シタル詞也。<三七五〜三七六頁>

とあって、典拠の記載はないのだが、『老子』に拠るものであることが知られる。

節用集』類とは異なるものである。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、「師資相承(シヽサウシヤウ)」<黒川本下82ウB>と標記語のみで収載する。

[ことばの実際]

 此人ハ指鬘比丘ト云フ人ノ弟子也、師資相承(シシサウジヨウ)シテ外道ノ法ヲ信ジテ其ノ法ヲ習ヘリ。<『今昔物語集』巻第一・第十六・大系一85D>

大系本の頭注に、「善人は不善人の師。不善人は消極的な意味で善人の資となるというところから、師から弟子へと相次いで道統を伝えること」と注記する。この内容は、『運歩色葉集』の語注記に近似ている。

 この經をすなはち法となづく。これに八萬四千の説法蘊あり。この經のなかに、成等正覚の諸佛なる文字あり、現住世間の諸佛なる文字あり、入般涅槃の諸佛なる文字あり。如来如去、ともに經中の文字なり、法上の法文なり。拈花瞬目、微笑破顔、すなはち七佛正傳の古經なり。腰雪断臂、礼拝得髄、まさしく師資相承の古經なり。つひにすなはち傳法附衣する、これすなはち廣文全巻を附嘱せしむる時節至なり。みたび臼をうち、みたび箕の米をひる、經の經を出手せしめ、經の經に正嗣するなり。」<『正法眼蔵』仏経,十14オH>とある。

2000年3月30日(木)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

櫻見て 遠き道も 近づきし

「十二運(ジフニウン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

十二運(――)臨。帝。衰。病。死。墓。絶。。養。長。沐。。<元亀本330E>

十二運(――)臨。帝。衰。病。死。墓。絶。。養。長。沐。。<静嘉堂本392G>

とある。標記語「十二運」の語注記は、「臨。帝。衰。病。死。墓。絶。体。養。長。沐。冠」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。小学館日本国語大辞典』によれば、「中国の九星において、十二年で一巡する運勢のこと。・養・長・沐・・臨・帝・衰・病・死・墓・絶をいい、帝に至るまでの七年間は万事によいとされ、衰からの後の五年間は万事に悪いとする。日本では江戸時代から暦に記載するようになり、また、前の七年間を有卦(うけ)、後の五年間を無卦と称する。」とある。ここで音は同じでも、表記の異なる語として、タイ「胎」⇒「体」、クワン「官」⇒「冠」の二表記がある。江戸時代の『書字考節用集』には、

十二運(−−ウン)長。沐。。臨。帝。衰。病。死。墓。絶。養。<数量十三68A>

とあって、排列が異なること以外は上記国語辞典に合致する。現代でも「十二運星」として、

長生、沐浴、冠帯、臨官、帝・旺・衰・病・死・墓・絶、胎養

と十二宮に配し、人の運命を占うのがこれである。

 

2000年3月29日(水)晴れのち雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

雲雷に 櫻ほころび 江戸の春

「後昆(コウコン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古」部に、

後昆(−コン)−ハ明也。<元亀本229H>

後昆(コウコン)−ハ明也。<静嘉堂本263D>

後昆(−コン)−ハ明也。<天正十七年本中60ウD>

とある。標記語「後昆」の語注記は、「昆は明なり」という。易林本節用集』には、

後代(コウダイ)−記(キ)。−訴(ソ)。−證(シヨウ)。−悔(クワイ)。−便(ビン)。−勘(カン)。−期(キ)。−顔(カン)。−輩(ハイ)。−人(ジン)。−胤(イン)。−音(イン)。−生(セイ/ゴシヤウ)。−昆(コン)。−參(サン)。−來(ライ)。−學(ガク)。−見(ケン)。−陣(ヂン)。−世(セ)。<言辞159@>

と注記並列語のなかに収載されている。

庭訓徃來註』に、

侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可沙汰反逆之輩者為後昆(コウゴンノ)今自以後之義也昆ハ明也。<謙堂文庫藏三六オC>

とあって、この部分の末尾の注記に『運歩色葉集』の語注記は共通している。この部分からの採録とみてよい。本来の意味である注記「今より以後の義なり」を未収載にしていることからも、意味理会の範疇にある記述は、ここでは省略されたものと見ておくべきである。江戸時代の『書字考節用集』には、

後昆(コウコン) [文選註]後嗣也。<人倫四59B>

とある。

[ことばの実際]

 鎌倉時代の『平家物語』巻第三・醫師問答に、

榮耀又一期を限()て、後昆(コウコン)の恥(はぢ)におよぶべく()ば、重盛が運命をつゞめて、來世の苦輪を助け給へ。<大系上・241K>

とある。また、『立正安国論』に、

彼の竹杖之目連尊者を害せし也、永く無間之底に沈み、提婆達多之蓮華比丘尼を殺せし也、久しく阿鼻の焔に咽ぶ。先証斯れ明らかなり。後昆最も恐れあり。謗法を誡むるに似て既に禁言を破す。此の事信じ難し、如何が意得ん矣。 [p1473]

とある。

2000年3月28日(火)晴れのち雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

椿落つ 春の嵐来て 留まらず

「三里(サンリ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左部」に、

三里(−リ)膝灸所。<元亀本277F>

三里(サンリ)膝(ヒサ)ノ灸所(キウシヨ)。<静嘉堂本317A>

とある。標記語「三里」の語注記は、「膝(ひざ)の灸所(キュウショ)」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、

三里(サンリ)灸穴。<気形五28A>

とある。現代の私たちは、このツボの部位名称を「足の三里」という。

[ことばの実際]

 鎌倉時代の随筆『徒然草』第百四十八段に、

四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼(や)かざれば、上氣(ジヤウキ)の事あり。必ず灸すべし。<大系214G>

とある。

2000年3月27日(月)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)⇒九段下(九段会館)

街路樹の 公孫樹の枝 切り落とし

「三費(みつのついへ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「見部」に、

三費(―ツイヘ) 少而斈老忘。事(ツヒヘテ)君ニ而有功。輕(カル/\シ)負(ソムク)。久交(マシハツ)テ中絶スル是――也。<元亀本299B>

三費(ミツノツイヘ) 少而学老忘。事君而。有功輕負。久交テ中絶ス。是――也。 曽子。<静嘉堂本347F>

とある。標記語「三費」の語注記は、「@少(わか)くして斈(まな)び老(お)いて忘(わす)る。A君(きみ)に事(つひへ)て功(コウ)あり、輕(かるがる)しく負(そむ)く。B久(ひさ)しく交(まじはつ)て中絶(チュウゼツ)する。是(これ)、三費(みつのついへ)なり」という。『下学集』『節用集』類は未收載にある。『庭訓徃來註』二月廿三日の状に、

面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧 中絶君子道也。詩云子夏過曽子。々々曰、入セヨ。子夏曰、不之費乎。曽子曰、君子三費飲食其中ニ|シテ而学老是一費也。功輕負是一費久交中(ナカコロ)是一。其中々絶。〔謙堂文庫藏八右C〕

とあって、「中絶」の語注記内容から引用抜粋したものであることが知られる。そして、現代の国語辞書及び漢和辞書にも未收載の語である。ここで、単漢字「費」の仮名遣いについて見るに、兩本とも「ついへ」とする。易林本節用集』では、

(ツイ)。(同)。<言辞107D>

とあって、「ついえ」とヤ行表記している。

[ことばの実際]

 当代の軍記物語『太平記』巻第一「後醍醐天皇御治世事武家繁昌事」に、

倩(つらつら)古(いにしへ)を引(ひい)て、今を視(みる)に、行跡(カウセキ)甚(はなはだ)輕(かろく)して、人の嘲(あざけり)を顧みず、政道正しからずして、民の弊(つひえ)を思はず、唯(ただ)日夜に逸遊(イツイウ)を事として、前烈(ゼンレツ)を地下(チカ)に羞(はづか)しめ、朝暮(テウボ)に奇物(キモツ)を翫(もてあそび)て、傾廢(ケイハイ)を生前(シヤウゼン)に致さんとす。<大系一・36O>

とあり、傍訓表記は「つひえ」である。江戸時代の『寛永諸家系圖傳』に、

頼義是を見て無用のつゐへなる事きらひ、日置(へき)にかたつていはく、<一84下>

とあって、ここでは「つゐへ」と表記する。仮名草子『伊曽保物語』もこの表記を示す。

2000年3月26日(日)晴れ。東京(八王子)

枝めぐる 新たの小鳥 出会ひかな

「消息(セウソク)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

消息(セウソク) 消ハ尽也。通也。息ハ生。象陰与陽也。又―(ケス)―(イキ)ヲ讀間。筆ニテ書之也。口不言也。是――也。或書ニ記之ヲ。<元亀本353H>

消息(―ソク) 消ハ尽也。通也。息ハ生。象陰与陽ニ|也。又――讀間。筆ニテ書也。口不言也。是――也。或(アル)書ニ記之。〔静嘉堂本429C〕

とある。標記語「消息」の語注記は、「消は尽なり。通なり。息は生なり。陰と陽に象どるなり。又、息を消すと讀む間、筆にて書くなり。口にて言はずなり。是れ消息なり。或(アル)書にこれを記す」という。『下学集』は未收載にある。『庭訓徃來古註』十二月之条に、

消息忽ニ披(ヒ)見珎重々々消ハ尽也。通也。息ハ生也。消象ル於陰ニ。息ハ象於陽只音信マテ也。又消(ケス)息(イキ)ヲ。讀間筆ニテ畫シテ口ニテ不ルヲ言消息ト云之ヲ也。<謙堂文庫藏六三オG>

とあって、『運歩色葉集』の語注記内容はここに合致する。言うまでもなく、この箇所からの引用である。最後の注記「或(アル)書にこれを記す」というところは、『運歩色葉集』の増補注記である。『節用集』類の広本節用集』には、

消息(セウソク/キユル、ヤム・イキ)月令注陽生シテ陰死為消。又消息音信也。〔態藝門1093@〕

とあって、別個の注記となっている。印度本系統の『節用集』類は、

消息(シヨウソク)。〔弘治二年本・言語進退248G〕

消息(セウソク)。〔永祿二年本・言語226F〕

消息(セウソク/アリサマ)。〔尭空本・言語214B〕

とあって、語注記を未記載にしている。

2000年3月25日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)卒業式

春巣立つ 心に笑顔 若人よ

「四恩(シオン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

四恩(−ヲン)天地恩。父母恩。国王恩。衆生恩。<元亀本327@>

四恩(−ヲン)天地恩。父母恩。国王恩。衆生恩。<静嘉堂本387D>

とある。標記語「四恩」の語注記は、「天地恩。父母恩。国王恩。衆生恩」という。解りやすくいえば、第一に「天地自然からの恩恵(めぐみ)」、第二に「ちち・はは(両親)からの恩恵(めぐみ)」、第三に「国を治める国王からの恩恵(めぐみ)」、第四に「世の中もろもろの人からの恩恵(めぐみ)」ということである。『下学集』には、

四恩(シヲン)天地恩。國王恩。父母恩。衆生恩(シユジヤウ[オン])。<數量140A>

とあって、排列順序が異なるがここから継承依拠しているといえる。さらに、広本節用集』にも、

四恩(シヲン/−、イツクシ)王寳恩。國土恩。父母恩。衆生恩。又翰墨云、父母。師友。國王。檀施。<数量門930@>

とあって、排列順序だけでなく、用語も異なり、さらに別の資料である「翰墨」の云う「四恩」を増補収載する。『日葡辞書』にも、

Xiuou.シヲン(四恩).特に際立った四つの恩.すなわち,父の恩,師の恩,主君の恩,など.<784r>

とあって、多少異なる捉え方をここに見るのである。

 ところで、『下学集』の収載する「四恩」の語は、鎌倉時代の『平家物語』巻第二・教訓状の、

まづ世に四恩候。天地の恩、國王の恩、父母の恩、衆生の恩是也。<大系上172G>

とあって、共通する内容の捉え方であり、さらに江戸時代の『書字考節用集』にも、

四恩(シヲン)天地。國王。父母。衆生。<数量十三32E>

とあって、中世・近世日本における「四恩」という一つの認識をここに見ることができる。

2000年3月24日(金)晴れのち曇り一時雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

春の雨 草木に潤ひ 明日を待ち

「九魔王神(クマワウシン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

九魔王神(クマワウシン)一徳六害申子辰、北方。二儀七陽乕午戌、南方。三生八難亥卯未、東方。四殺九厄酉巳丑、西方。五鬼丑未辰戌。<元亀本196F>

九魔王神(クマ――)一徳(トク)六害(ガイ)申子辰、北方。二儀(ギ)七陽(ヤウ)乕午戌、南方。三生八難(ハツナン)亥卯未、東方。四殺(セツ)九厄(ヤク)酉巳丑、西方。五鬼丑未辰戌。<静嘉堂本224A>

九魔王神(クマワウ−)一徳六害申子辰、北方。二儀七陽寅午戌、南方。三生八難亥卯未、東方。四〓〔急−攵〕九厄巳酉丑、西方。五鬼丑未辰戌。<天正十七年本中41ウC>

とある。標記語「九魔王神」の語注記は、「一徳六害申子辰、北方。二儀七陽乕午戌、南方。三生八難亥卯未、東方。四殺九厄酉巳丑、西方。五鬼丑未辰戌」という。『下学集』は未収載にある。

現代の国語辞書には、小学館日本国語大辞典』の見出し語「くまうじ」に、

くまうじ【熊王神・九魔王神】()陰陽道に基づく方角の忌み詞。測定法は時代によって違い、地方差も多いが、特定の方角に向かって旅立ちや船出をすると、怪我をするとか死ぬとかいう俗信。[方言]旅立ちなどするのに日によって凶とされる方向。香川県821(くまお)山口県大島77220巻本6-582頁>

とあるのだが、本書の載録記載はない。さて、『運歩色葉集』における語注記の語である「一徳六害」「二儀七陽」「三生八難」「四殺九厄」「五鬼」の用語がどうあるのかといえば、全く立項されていない。

[ことばの実際] 鳥坂には明治、大正の頃までは交通機関として常に数人の俥夫がたむろしていたそうである。俥夫とは人力車に客を乗せて運ぶ職業である。映画「無法松の一生」で有名な富島松五郎も博多の俥夫である。この俥夫たちは客を奪い合ってトラブルが絶えなかったといわれている。そこで、年齢の高い順に客を運ぶきまりを作っていたが、彼らは行く方向によって、今日は「北ぐま」だからと言っては行き渋ることがあった。つまり「北方が『くまうじ』に当たる。」というのである。「くまうじ」とは古くから伝わる迷信で、北西南東の順(時計まわりの逆)で四日目毎にどこかの方角が「くまうじ」に当たり、それに向って行けば縁談、商談などいろいろの願いごとはつぶれてしまう。と信じられていたのである。(これは現在でも古老のなかには信じている人がいるらしい。)さて、そんな理由で乗車拒否をされた客こそ迷惑である。そうした客を、ある若い俥夫は心よく引き受けて走ったそうである。同僚が、「人が忌み嫌う方向へ行くのは余っ程物好きじゃのうー。」と皮肉ると、「北ぐまであることは百も承知じゃ。だが帰りは『追いぐま』になり縁起がええ。空車で戻ることは滅多にないんじゃ。現にいまもついそこまで客を乗せて往復とも儲かったわ。」若い俥夫は得意そうに答えた。<「鳥坂峠今昔」より>

2000年3月23日(木)晴れ夜半風雨。東京(八王子) ⇒八王子

パソコンの 組み立て入力 日がかりに

「常宮(ジヤウキウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

常宮(ジヤウキウ)在越前敦賀。即神皇后廟也。<元亀本317F>

常宮(――)在越前敦賀。即神功皇后之廟也。<静嘉堂本373C>

とある。標記語「常宮」の語注記は、「越前鶴賀にあり。すなはち、神宮皇后の廟なり」という。『下学集』は未收載にある。また、現代の国語辞書にも未收載にある。

2000年3月22日(水)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

風に舞ふ 梅の花びら 心ゆく

「十二門(ジフニモン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

十二門(−−−)陽明門(ヤウメイ)。待賢門(ジケン)。郁方門(ユウハウ)東面。美福門(ヒフク)。朱雀門(シユシヤク)。皇嘉門(-)。談天門(タン-)。藻壁門(サウヘキ)。殷富門(インフク)西面。安嘉門(アンカ)。偉鑑門(イカン)。達智門(タツチ)。<元亀本330F>

十二門(−−−)陽明門。待賢門。郁西。美福門(ビ-)。朱雀門。皇嘉門天門。藻壁門。殷富門(イン-)西面。安嘉門。偉鑑門。達智門。<静嘉堂本393C>

とある。標記語「十二門」は、分類名称で云えば数量門と呼ばれる一群の語として収載されていて、語注記は、「陽明門。待賢門。郁西。美福門。朱雀門。皇嘉門天門。藻壁門。殷富門西面。安嘉門。偉鑑門。達智門」の順序で示されている。『下学集』および『節用集』類は、未収載にある。ただし、語注記に示されている門名を個別に検索すると、『下学集』家屋門に、

陽明門(ヤウメイ−)待賢門(タイケン−)郁芳門(ユハウ−)以上東面也。<家屋53F>

美福門(ビフク−)朱雀門(シユジヤク−)皇嘉門(クワウカ−)以上南面也。<家屋,54@>

談天門(タンテン−)藻壁門(サウヘキ−)殷富門(インフ−)以上西面也。<家屋,54A>

安嘉門(アン)偉鑑門(イカン−)達智門(タツチ−)以上北面也。<家屋54B>

このうち、「安嘉門(アン)」は、「安喜門」と表記し、「平安京内裏の内郭十二門の一。北面の東門」をいう。この門名との読み違いである。

とある。同じく、広本節用集』も、各イロハ部の家屋門ごとに、

陽明門(ヤウメイモン/ミナミ、アキラカ、カド)大内十二門ノ内東面也。<家屋門554F>

待賢門(タイケンモン/マツ、カシコシ、カド)内裡十二門ノ内東面。<家屋門331@>

郁芳門(ユクハウモン/カウバシ、カウバシ、カド) 禁裡十二門ノ内東面。<家屋門858B>

美福門(ビフクモン/カホヨシ、サイワイ、カド)禁裡十二門ノ内南面。<家屋門1027E>

朱雀門(シユジヤクモン/アカシ、スヾメ、カド) 禁裡十二門ノ内南面。<家屋門907E>

皇嘉門(クワウカモン/スベラギ、ヨシ、カド) 禁裡十二門ノ内南面。<家屋門497F>

談天門(ダンテンモン/カタル、ソラ、カド)(内裡十二門ノ内)西面也。<家屋門331@>

藻壁() (サウヘキ/モ、カベ) 禁裡十二門ノ内西面。<家屋門773@>

殷富門(インフモン/ヲヽシ・アカシ、トミ、カド) 禁裡(キンリ)十二門ノ内西面(ニシヲモテ)。<家屋門5@>

安嘉門(アンカモン、イツクンソ--/ヤスシ、ヨシ、カド)大裡() 十二門ノ内北面也。<家屋門743G>

偉鑑門(イカンモン/ヲヽイ也、カヾ゙ミ、カド)(禁裡(キンリ)十二門ノ内)北面也。<家屋門5@>

達智門(タツチモン/イタル、サトル・サカシヽ、カド)(内裡十二門ノ内)北面也。<家屋門331@>

とあって、それぞれに語注記が施されていて、注記の冠頭部分に「大裡(おほうち)」「禁裡(キンリ)」「内裡(ダイリ)」と三種の異なりが見られるが、これに即して「十二門」をここでも網羅していることが知られるのである。そして、当面の『運歩色葉集』も、

陽明門(ヤウメイモン)大内近衛門。<元亀本204C>

待賢門(タイ[]ケン−)。<元亀本142C>

郁芳門(ユハウモン)大内東三門之内。<元亀本294@>

美福門(ビフクモン)大内南門。<元亀本344D>

朱雀門(−ジヤクモン)大内南門。<元亀本321E>

皇嘉門(クワウカモン)大内南門。三門之内。<元亀本197A>

談天門(タンデン−)大内西面。<元亀本142C>

藻壁門(サウヘキモン)大内西面。不開門也。<元亀本275E>

殷富門(インフクモン)大内西。三門内。<元亀本14G>

安嘉門(アンカモン)大内北門。<元亀本261B>

偉鑑門(イカン−)大内北。三門内。<元亀本14G>

達智門(タツチモン)大内北門。<元亀本142C>

と「十二門」を統括標記語として、さらに、イロハ部門それぞれに注記語を付けて収載している。ここで、注目したいのは、「藻壁門」の語注記に、「不開門也」と記載している点である。上記の『下学集』及び『節用集』には見えない注記内容であり、これが『拾芥抄』門号起事と宮城門に、

 門号起事 取佳名云々

陽明門(ヤウメイ)東面額逸勢。山氏造之。五間戸三間号近衛御門

待賢門(タイ)額同前。建部氏造之。同上号中御門

郁芳門額同前。的氏造之。已上起角北東面

美福門(ヒフク)南面額弘法大師。壬生氏造之。五間戸三間本名壬生門

朱雀門(シユシヤク)伴氏造之。号金閣七間戸五間

皇嘉門(クワウカ)。若犬耳氏造之。号釈司卿御門

談天門(タンテン)。西面額小野道風。或説弘法大師云々。壬生氏造之。号馬司御門。五間戸三間

藻壁門(サウヘキ)。佐伯氏造之。本名佐伯門。同上。

殷富門(インフク)。伊福部氏造之。本名近衛御門。已上起南面西面。

安嘉門(アンカ)。北面額嵯峨天皇。上東号土御門無額。海大養氏造之。号兵司卿。号兵庫寮(ヒヤウゴツカサ)ノ御門。

偉鑑門(イカン)五間戸三間。猪養氏造之。不開御門(アケスノミカト)不開門五間戸三間

達智門(タチ)。丹治比氏造之。已上起角西北面。号多天井門。

 宮城門

陽明門五間戸三間。号兵衛御門。

待賢門同。号中御門。

郁芳門号大炊御門。南ノハシ 已上東面。東大宮大路也。

美福門二階五間戸三間。号壬生御門。

朱雀門二階七間戸五間。号朱雀御門。中二階門也。

皇嘉門号雅樂(ウタツカサ)ノ寮已上南面二条。御門西ノハシ 大路。

談天門五間戸三間。号馬寮(ムマツカサ)ノ御門。南ノハシ。

藻壁門同。西中御門。

殷富門同。西近衛御門。北ノハシ 已上西面。西大宮大路。

安嘉門号兵庫寮(ヒヤウゴツカサ)ノ御門。

偉鑑門同。不開御門(アケスノミカト)

達智門同。已上北面。一条大路。

十二門、此外有上東門陽明門北。東面号土御門。上西門殷富門西面西土御門也。或書云、西會廟、関東會廟門是上西門本名也。見日本紀云々。或説云、偉鑒門元者玄武門也。世俗号之不開門。或人云、花山院御出家之時自此門令出給云々。其後不被開歟。

とあって「偉鑑門」の「不開御門(アケスノミカト)」を世俗語で「不開門」と呼び、これに基づくものと考えられるからである。また、「郁芳門」の読み方だが、『下学集』『運歩色葉集』が「ユハウモン」とし、広本節用集』が「ユハウモン」としている。当代両用の読みがあったことを示唆するものである。

2000年3月21日(火)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

蒲公英の 黄なる花ぞ 野辺に咲く

「玄暉門(ゲンキモン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」に、

玄暉門(−キカ−)大内北門。<元亀本218I>

玄暉門(ゲンキ−)大内北門。<静嘉堂本249E>

玄暉門(ゲンキ−)大内北門<天正十七年本中53ウA>

とある。標記語「玄暉門」の語注記は「大内の北門」という。『下学集』は、未収載にある。『拾芥抄』中・宮城部代十九の宮城門に、

玄暉門[平上濁](クエンキ−)三間謂之宮北南僻仗内門朔平門。<E>

とあって、大内の北門だが、「朔平門(サクヘイ−)大内北門」<元亀本275G>の内門をいう。また、図式の箇所にも、

九重誦 度青〓〔玉+巣〕門不通。玄暉昇殿上不度陛下。今案上古宮女白日出入於玄輝門有。勅不許男子之通此門也。近代不然云々。

といった記述が見えている。

 さて、内裏の門のうち、「氣部」所載の四門をここに注記する『運歩色葉集』だが、他の内裏の門名も部ごとに記載していることを確認してみた。この結果として、「宣陽門(センヤウモン)大内東門。右衛門陣」<元亀本355G>「陰明門(インメイモン)大内。右衛門陣」<元亀本14G>とあるが、「春花門(シユンクワモン)」「修明門(シユメイモン)」「式乾門(シキケンモン)」「承明門(シヨウメイ−)」「長樂門(チヤウラクモン)」「永安門(エイアンモン)」「安門(アンキモン)「徽安門(キアンモン)」「嘉陽門(カヤウモン)」「延政門(エンセイモン)」「武徳門(ブトクモン)」「遊義門(イウギモン)」が未収載にあるようだ。

2000年3月20日(月)晴れ。東京(八王子) ⇒代々木(オリンピック青少年国際センター)

ランニング学会

風小僧 大なる旋毛 宙に見せ

「月花門(ゲツクワモン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」に、

月花門(−グワ−)宮前西。右近陳。<元亀本218I>

月花門(−グワ−)宮前西。右近陳。<元亀本218I>

月花門(ケツクワ−)宮前西。右衛門陳。<天正十七年本中53ウB>

とある。標記語「月花門」の語注記は「宮前西右近陳」という。『下学集』は、未収載にある。『拾芥抄』中・宮城部代十九の宮城門に、

月華門[去濁平] (クエツクワ−)西謂之同前。西向門。安福校書兩殿間有此門。右近陳。<H>

という。この門の対象となる「日花門(ジツクワモン)大内宮前東。右近陣」<元亀本321A>が「志部」に収載されている。これも『拾芥抄』に、

日華門[去濁平] (ジツクワモン)東謂之南殿前大庭東向門春興宣陽兩殿間有此門号左近陣。<H>

とある。

2000年3月19日(日)曇りのち雨。名古屋⇒東京(八王子)

味噌だれに 舌つづみして 山本屋

「建礼門(ケンレイモン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」に、

建礼門(ケンレイモン)大内南外。<元亀本218I>

建礼門(ケンレイモン)大内南外。<静嘉堂本249E>

建礼門(ケンレイ−)大内南外。<天正十七年本中53ウA>

とある。標記語「建礼門」の語注記は「大内南外」という。『下学集』は、未収載にある。『拾芥抄』中・宮城部代十九の宮城門に、

建礼門[去濁上] (ケンレイ−)五間戸三間云、青馬陣。謂之南面僻仗(ヘキチヤウ)中門。<B>

という。<建礼門>

2000年3月18日(土)晴れ。

東京(八王子)⇒代々木(オリンピック青少年国際センター)⇒駒沢⇒名古屋

花束を 抱えし人等 式のあと

「建春門(ケンシュンモン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」に、

建春門 (ケンシユンモン)宮前東北。左衛門陳。<元亀本218H>

建春門(ケンシユンモン)宮前東北。左衛門陳。〓歟<静嘉堂本249E>

建春門(ケンシユンモン)宮前東北。左衛門陳。<天正十七年本中53ウA>

とある。標記語「建春門」の語注記は「宮前東北左衛門陳」という。宮城(京都御所略図)による御門名称の一つである。『下学集』は、未収載にある。

拾芥抄』中・宮城部代十九の宮城門に、

建春門(ケンシユンモン)東面三間号左衛門陣。一云、外記門。謂之宮東僻仗門。<C>

とある。この門の対象となる「宜秋門(−セウモン)大内四外。左衛門陣」<元亀本285F>が「記部」に収載されている。これも『拾芥抄』に、

宜秋門(キシウモン)西面三間云右衛門陣。謂之西面中門。<D>

とある。<建春門

2000年3月17日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

山茱萸の 黄の花咲き 見頃なり

「阡陌(センバク)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢部」に、

阡陌(センバク)(セン)ハ、竪小路東西。―ハ、横小路南北。<元亀本355B>

阡陌(――)―ハ竪小路東西。―ハ横小路南北。<静嘉堂本431D>

とある。標記語「阡陌」の語注記は、「は、竪小路東西。は、横小路南北」という。ここで、注意しておきたいのは、『日本国語大辞典』の記述を見るに、「」が南北に通じる道を表し、「」が東西に通じる道を表すのであるが、『運歩色葉集』の注記内容は、この「」と「」とを逆に記載するものである。『下学集』は、未収載にある。易林本節用集』に、

阡陌(センハク)。<乾坤232D>

と標記語だけで語注記の内容は未収載にあって、上記の点を確認できない。『庭訓徃來註』に、

仟佰東西ヲ云阡ト。南北云陌ト。又市中ノ街ヲ云陌ト。[頭冠に「異本ニハ阡陌ハ人扁ニ畫コトハ非也」]<謙堂文庫藏一二ウB>

とあって、注記内容の前部は、まさに共通している。これについて、『風俗通』 (應劭,中川藤四郎蔵板,萬治3年)の記述を見るに、

南北ヲ曰ヒト、東西ヲ曰フトト。河東以テ東西ヲ爲シト、南北ヲ爲ス

とあって、通常は「」が南北に通じる道を表し、「」が東西に通じる道を表すのであるが、「河東」の「阡陌」の意を表現していることになるのである。当代の『日葡辞書』には、

Xenpacu.センパク(阡陌) Chimata.(巷・街)に同じ道の交差している所.§また,田や地所の境界.<752l

とあって、南北東西の道路が交差するところ、すなわち、「交差点」を意味している。また、「阡陌」を、「灌漑施設を中心とした企画整理された農地」の意として漢籍『史記』商君列伝第八に、

田開阡陌封疆、而賦税平。〔田のために阡陌封疆を開き、賦税平らかなり〕

語釈○開阡陌封疆 「阡」と「陌」は田畑の中を東西南北に通じる小路。<新釈漢文大系(列伝一)208頁>

と用いられている。現代では、日本人の姓に「阡陌」さんが知られている。

[ことばの実際]

NKK鋼構造・機械システム本部(本部長:常務取締役 阡陌昭彦)は、このほど香港で最も高い超高層ビルとなる「香港セントラルノースイーストタワー」(高さ420メートル)の基礎部分の鉄骨工事を住友商事(株)と共同で受注しました。<http://www.nkk.co.jp/release/9712/1224.html

2000年3月16日(木)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

春雨に けむる白梅 傘もなき

「 〓〔耳+或〕(きりみみ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「見部」に、

〓〔耳+或〕(キリミヽ)左傳。合戰之時頸取之。而−而備忠也。<元亀本287G>

〓〔耳+或〕(キリミ(ヽ))左傳ニ。合戰之時頸(クヒ)ヲ取之ヲ。而――而備(ソナウ)忠ニ也。<静嘉堂本333C>

とある。標記語「〓〔耳+或〕」の語注記は、「『左傳』に、合戰の時、頸をこれを取る。しかるにきりみみにして忠に備ふなり」という。易林本節用集』には、

(キリミ(ヽ))。<言辞192@>

とあって、標記語を異にしている。当代の古字書である慶長十五年版倭玉篇』には、

(カク) ミヽキルキリミヽ。<61A>

〓〔耳+或〕(カク) キリミヽ。シム<76E>

とあって、両標記語が収載されている。

院政時代の古字書、観智院本類聚名義抄』に、

馘 獲 キリミヽ[平平○○]。<僧中43@>

〓〔酉+幺戈〕〓〔酉+或〕俗正 古獲反 截耳 キリミヽサク 或〓〔耳+或〕〓〔國+或〕。<僧下111C>

とある。

鎌倉時代の古字書『塵袋』巻第六に、

一 頼義カ堂ヲハミノワ堂ト云フ。ソレヲ一説ニ耳納堂(ミヽナフ−)ト云フ。イクサニカチ、カタキノ、耳ヲキリアツメテオサムル故ヘニミヽキル事ハ先例アル歟如何。

文選ニ、獻(タテマツル)コト(キリミヽ)ヲ万[去濁][]ト云ヘルヲ、李周幹釈シテ云、(タヽカヒ)(カツ)(トキンハ)(サイ)死人之耳ヲ以テ献ル君。又計ハ言多キコトヲト云ヘリ。鄭玄云、左ノ耳也、ミヽヲキル事本説カクノ如シ。<日本古典全集四〇五〜四〇六頁>

とあって、典拠を『文選』と後漢の大儒鄭玄(127200)が論ずるところの『左傳』とを示している。これはさらに、江戸時代の『書字考節用集』に、

(キリミヽ) [文選註]戰勝則割テ死人ノ耳ヲ以獻ス。[左傳註]軍ニ截ヲ左ノ耳ヲ−ト。<肢体門・五30@>

とあって、この『塵袋』の内容を継承している。標記語を「」にして、語注記は、「『文選註』に戰勝の則、死人の耳を割てもって獻ず。『左傳註』に軍に左の耳を截をといふ」という。

補遺:大修館『廣漢和大辞典』下に、【】カク@耳を切る。敵を殺して左の耳を切り、討ち取った首の数の心覚えとした。=「〓〔耳+或〕春秋傳ニ曰ク、〓テ爲スト〓〔耳+或〕。从ヒ耳ニ或ノ聲。馘、〓〔耳+或〕或ハ从フ首ニ。〕と載録している。

2000年3月15日(水)晴れ後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

黄水仙 坂道伝ひに 花並べ

「相(みちびく)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「見部」に、

(ミチビク)。相()(ミチヒク)(イクサ/スイ)ニ。論語。<元亀本303D>

(ミチビク)。相()−帥。論語。<静嘉堂本353D>

とある。標記語「」は、現代の私たちも「みちびく」と読む。そして次の「同」で示されている標記語「」には、語注記として「帥(イクサ/スイ)(ミチヒク)。『論語』」という。『下学集』には語注記にこの単漢字を「みる」と読むしか見えていない。広本節用集』には典拠である『論語』を数多く引用しているが未収載にある。この注記内容に該当する部分は、『論語』の

師冕見及階、子曰階也、及席、子曰席也。皆坐。子告之曰某在斯。某在斯。師冕出。子張問曰、與師言之道與。子曰然、相師之道也。<衛靈公第十五>

子曰く、然り、固より師を相(たす)くるの道なりと

であるが、少しく検討せねばなるまい。因みに、当代の『聚分韻略』や慶長十五年版倭玉篇』には、「(ミチヒク)」は未記載にある。

補遺>京都大学附属図書館所蔵 重要文化財『論語(良枝筆)』[v. 2, pp. 58-59]((魏)何晏集解。伝・清原良枝筆。[室町初期]写)、「子曰然カナリ、固(マコト)ニ(ミチヒク)ヲ之道(ミ−)ナリ也」や、同じく『論語(枝賢筆)』[v. 2, pp. 92-93]((魏)何晏集解。清原枝賢筆。天文八年写)にも「(ミチヒク)」の訓を見るのである。すなわち、『運歩色葉集』の収載するこの語訓は、清原家の訓読に依拠することを意味している。

2000年3月14日(火)晴れ後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇒芝公園

駒澤大学陸上競技部“祝賀会”-於東京プリンスホテル-

 歩くこと 走る強さを 占ふや

「楚割(すばしり)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須部」に、

楚割(スバシリ)(マス)。自破之也。〔元亀本361二〕

楚割(スハシリ)鱒。自背破之也。〔静嘉堂本440二〕

とある。標記語「楚割」の語注記は、「鱒、背よりこれを破るなり」という。元和本『下學集』、そして慶長十六年冩の春良本下學集』には、

(スバシリ)。〔氣形門65三〕※古冩本の亀田本『下學集』〔広本節用集』に尤も近い傳冩本〕類はこの語を未収載にする

(スハシリ/サ)。〔春良本・氣形門57四〕

とあって、標記語も異なり、語注記も未記載にある。易林本節用集』は、

(スバシリ)。〔氣形239三〕

とあり、標記語もまた異なり、語注記も未記載にある。『伊京集』は、

(スバシリ)。〔畜類127十一〕

とあり、天正十八年本節用集』は、

(スバシリ)玉篇云、白魚。〔畜類下41ウ一〕

とあって、『伊京集』と標記語を同じくして、語注記に「『玉篇』云、白魚」という。そして、唯一饅頭屋本節用集』に、

楚割(スハシリ)。〔畜類177一〕

とあって、語注記はないが、標記語を『運歩色葉集』と同じくする。さらに、印度本系統の弘治二年本及び永禄二年本節用集』には、

(スハシリ)。楚割()背破タル也。〔弘・畜類269四〕

(スハシリ)。楚割()タル也。〔永・畜類230七・八〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記内容に尤も近似た注記内容であることがわかる。ただ、広本節用集』がこの語を未収載にしていることが特に注目されよう。というのは、古冩本『下學集』がすべて未収載にしていることから、世俗では飲食門魚鳥類の珎物としてこの語が知られていて、とりわけ禅門寺院にあっては禁忌な語とされていたことが未収載の理由として考えられるからである。広本節用集』の編者にしてみれば、氣形門にそのまま収載する意図にあれば、おそらく脱落する語でない。これを別の飲食門などの分類門に載録するには都合が良くない意識がここにも反映していて、意図的に外したのではなかろうか?その意味からすれば、広本節用集』の編者もまた禅門僧のひとりではなかったかと推測する手がかりとなろう。また、『運歩色葉集』が単漢字「」の語を本編には未収載にしていることは、本編が『庭訓徃來註』にだけ依拠しているのに対し、補遺部「魚之名」の収載には『伊京集』や天正十八年版節用集』などの別資料を参照したものとして捉えることが可能であろう。すなわち、分類門を「氣形門」「畜類門」におかないことで、編者はこの語を本編中では飲食門の語として取り扱っていたと考えられる。実際、『運歩色葉集』の末尾「魚之名」には、

(スバシリ)。楚割()鱒自背脊破之也。〔元亀本368四〕

(スバシリ)。()楚割()鱒自背脊也。〔静嘉堂本447七〕

とあって、印度本系統の『節用集』類と共通する注記内容を確認することができるのである。そして、この注記は、「鱒が背脊でこれ(簀の網)を破る」というその動作状況そのものをとらえたものであると解釈して、本編とは別枠にして改編収載したものであったのではなかろうか?如何。さらに、この「楚割」の読み方だが、下記に示した源順和名類聚抄』(934年)や橘忠兼色葉字類抄』(1164年頃)までは、「須波夜利⇒スハヤリ」とあるのに対し、室町時代の古辞書すべてが「スハシリ」または、「スバシリ」と訓じていて、第三拍めの表記が「ヤ」から「シ」に代わっていることに気づく。カタカナ文字表記の異同としては、この表記字が誤る虞れはまず考えにくい。これを万葉仮名風に借字表記して「須波失利」とすれば、「須波矢利」と見誤る可能性は無いわけではないが、こうした表記とその対象物とが混同乃至はこれを意味する料理珍物を生物化するうえでのことばのすり替えが意識的になされた可能性も捨てきれまいと推測しておく。

 当代の『日葡辞書』に、

†Subaxiri.スバシリ(鮠・洲走) ある海の魚.〔邦訳581l〕

とあって、標記語を「鮠・洲走」の語にして、その意味を「ある海の魚」としている。「楚割」の見出し語及び注記は未収載にある。

 江戸時代の『書字考節用集』は、

(スバシリ)[下學集]。〔五・氣形93四〕

とあって、典拠を『下學集』として、『節用集』類でなく『下學集』を継承する。

近代、明治時代の国語辞書である大槻文彦編『言海』にあっては、

すばしり(名)〔洲走ノ義〕鯔(ボラ)ノ條ヲ見ヨ。〔235頁B〕

ぼら(名)【】〔形ノ圓廓ナル故ノ名カ〕又、ナヨシ。名吉(ミヤウギチ)。魚ノ名、早春ヨリ、溝渠等ノ淡水ニ産ジ、後、川ニ出デテ、海ニ入ル、成長ニ随ヒテ、諸國、方言、種種ナリ、東京ニテハ、初生ノ一寸許ナルヲ、をぼこトイヒ、二寸許ナルヲ、洲走(スバシリ)トイヒ、頗ル長ジタルヲ、いなトイヒ、河海ニ出デ、年ヲ歴テ大ナルハ、ぼらナリ、其ノ更ニ大ナルヲ、とどトイフ、身圓ク、頭、平タクシテ、色黒ク、腹白シ、水中ヲ連行シ、能ク跳リテ、水ノ上ニ出ヅ。〔439頁B〕

として、「洲走」というその動作状況をもってこの「魚の名」として示している。次に見出し語「すはやり」を見るに、

すはやり【楚割】すわやり〔和語名詞〕〔楚と、割との約、楚割とも云ふは、更に、其約なり、の音ならず〕魚肉を、細そく割りて、鹽を附け、乾して、氣條の如くしたるもの。削りて、食用とせしが如し、鯛のすはやり、平魚のすはやり、鮫のすはやり、すはやり鮭、雜魚のすはやりなど、古く見えたり。略轉して、そはやり。すはり。そわり。※『倭名類聚抄』十六.17魚鳥類「魚條、讀二須波夜利一、本朝式云、楚割」※撮壤抄「魚條、楚割、スハヤリ」※遊仙窟「魚條)」※大膳職式「平魚楚割」※内膳司式「楚割鮭」※宮内省式「鯛楚割」※廚事類記「楚割、鮭を鹽漬けずして、乾して、削天、供レ之」※『吾妻鏡』十、文治六年十月十三日、佐々木守綱、云云、鮭の楚割を獻ず、頼朝の歌に♪待ちえたる、人の情も、すはやりの、わりなく見ゆる、心ざしかな(すはえわりのわりなくの意)。魚條〔1058-1〕

とあって、詳細であるが室町時代の古辞書のうち、標記語の読みが「すはしり」とあることについては記述が至っていない。因みに、現代の国語辞典である小学館日本国語大辞典』第二版には、「すわやり【楚割・魚条】<名>(「すわえわり」の変化した語。楚(すわえ)のように細く割ったものの意)魚肉を細長くさいて干したもの。けずって食用にする。すわうお。すわり。そわり」と記載する。

[ことばの補遺]

庭訓徃來註』五月日の状に、

306雲雀水鳥山鳥一番塩肴者鮪K作(アヒ)ノ白干楚割 自云也。〔謙堂文庫藏三三右C〕

とあって、その語注記に「背より破るを云ふなり」という。また、静嘉堂本『庭訓徃來抄』古冩書込みに、

鱒楚割 背ハルトハ非也。せノトヲホソク切也。其ヤクヲ包丁クリカラヤキト云。料理上珎物也。

という。江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(ます)楚割(そわり)楚割塩したるますなり。〔三十六オ三〕

とあって、標記語「楚割」の語注記は「塩したるますなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

鹽肴(しほざかな)(ハ)(あゆ)白干(しらぼし)(しび)黒作(くろづくり)(ます)楚割(そわり)_肴者鮎_干鮪_作鱒_楚割ハ背びらきの事也。〔二十九ウ五〕

塩肴(しほさかな)にハ者鮎(あゆ)の白干(しらほし)(しび)の黒作(くろつくり)(ます)の楚割(そわり)楚割ハ背(せ)びらきの事也。〔五十一オ四〕

とあって、標記語「楚割」の語注記は、「楚割は、背びらきの事なり」という。

上記『運歩色葉集』及び印度本系統の弘治二年本及び永禄二年本節用集』は、この『庭訓徃來註』より引用収録したものと見てよかろう。その上で比較検討するに、『運歩色葉集』がより忠実な引用であるのに対し、印度本系統の『節用集』はやや簡略化した注記となっている。

また、元和本下学集』に収載する標記語「」だが、諸橋轍次編『大漢和辞典』卷十二・46202番に、「[國字]すばしり。ぼらの初生から二三寸許に至るまでの稱」と記す。この標記字を「國字」と認定していているものの、その使用の起源は未詳に等しい。この表記字は、他に『同文通考』「スバシリ 鯔魚ノ小ナル者」、『和字正俗通』(妄制)に「スハシリ」、『毫品記』などに収載が知られる。これを古字書にてはどう収載しているかといえば、昌住の『新撰字鏡』小学篇に「豆久良」にはじまり、世尊寺本字鏡』に、「 ツクラ/ 豆良/作歟」〔第一冊55ウ二〕とする。これを継承して永正本字鏡鈔』に「 ツクラ」、天文本字鏡抄』〔497六〕白河本字鏡集』、『倭玉篇』系統の『拾篇目集』に「ツクラ」、『篇目次第』に「ツクラ 无」とあって、標記語「」を「つくら」という語訓をもって古字書は継承していて、「すばしり」の訓とは全く平行線上にある。

[ことばの実際]

魚條スハヤリ/東海鯔/―是也。楚割同。《前田家本『色葉字類抄』下・飲食115ウ四・黒川本『色葉字類抄』下・飲食109オ七》

魚條 遊仙窟云東海鯔條。讀須波夜利本朝式楚割。《二十卷本『和名類聚抄』卷十六・魚鳥類第二百十二719八》

信濃國 楚割鮭。越後國 楚割鮭八籠八十隻。《『延喜式』卷第三十九・内膳司》

ナヨシ (略)其小なるをスバシリといひしば。漁人これを捕るに。水面に簀う泛べて。迎へ進みぬれば。驚き躍りて。簀の中に走り入ぬるを云ふなり。即是表録異に見えし。跳といふもの。異魚圖賛に鯔魚極眇。一筋千頭。名曰。不網収。といふ物也。《『東雅』鱗介「鯔ナヨシ」の項中545十三》

(ハ)ツクラ{ヲ}同。《黒川本色葉字類抄』中・動物21ウ六》観智院本類聚名義抄』は前者の「」をもって「ツクラ」の訓を収載する。

於遠江國菊河宿、佐々木三郎盛綱、相副小刀於鮭楚割〈居折敷〉以子息小童、送進御宿、申云、只今削之令食之處、氣味頗懇切早可聞食歟〈云云〉《読み下し》遠江ノ国菊河ノ宿ニ於テ、佐佐木ノ三郎盛綱、小刀ヲ鮭ノ楚割ニ相ヒ副ヘ〈折敷ニ居ク〉子息小童ヲ以テ、御宿ニ送リ進ズ、申シテ云ク、只今之ヲ削リ食セシムルノ処ニ、気味頗ル懇切ナリ。早ク聞シ食スベキカト〈云云〉。《『吾妻鏡』建久元年十月十三日条》

関連参照HPリンク奈良時代まで遡る干物の歴史

2000年3月13日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

沈丁花 生垣毎に かをり増す

「七座(シチザ・なゝザ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

七座(―サ)魚。米。器。塩。刀。衣。藥之七賣――。[欄外]七座之棚ト云意也。<元亀本328@>

七座(――)魚。米。器。塩。刀。衣。藥之七賣之。<静嘉堂本389C>

とある。標記語「七座」の語注記は、「魚。米。器。塩。刀。衣。藥の七(品を)賣る七座。[欄外]七座の棚という意(こころ)なり」という。『下学集』には未収載にある。『庭訓徃來註』に、

藝才(ザイ)七座之店(タナ) 藝才トハ自始学スルヲ藝。七座魚米器塩刀衣藥之七也。〔謙堂文庫藏二七右B〕諸國商人旅客(キヤク)ノ宿所-送之賣買之律

とあって、この注記に合致する。中世の商工業における専売店として、主にこの七品を取り扱っていたのである。地名に残る「七軒町」などは、この「七座」が軒を並べる商店街を指し、七店の棚のあることから生まれた名称かもしれない。鎌倉には「材木座」という地名が今も残っているが、この地名もこれらに由来するものであろう。“鎌倉名数”によれば、「鎌倉七座」は、

建久3年(一一九二)鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、府下七ヵ所を定めて交易の場所とした。「座」とは中世の商工業者たちが結成した特権的同業者組合のことで、急速に発展した新興都市鎌倉にも七座がおかれた。 絹座・炭座・米座・材木座(檜物)・千朶積座(行商)・相物座(塩魚類)・馬商座がそれで、それぞれが分業販売を行っていた。 現在も、当時材木が舟で運ばれてくる港町にあった「材木座」だけが地名として残っている。

とある。『運歩色葉集』の「七座」の品目とは、少しく異なりが見られる。古版『庭訓徃来註』では、

七座(ナヽザ)ノ之店(タナ)諸國商人(アキント)。七座ノ店(タナ)トハ先(サキ)ノ文ニ市(イチ)町ノ事有ニ依(ヨツ)テ。此ノ返事ニ七座の店(タナ)トハ有也。惣(ソウ)シテ市ニハ。百賣(ハイ)千買(ハイ)トテ百(モヽ)ノ賣(ウリ)物ニ千ノ買(カイ)物有ナリ。又市毎(コト)ニ。七座ハ有也。座ト云事ハ。物ヲ賣座也。一ニハ(キヌ)ノ座。二ニハ(スミ)ノ座。三ニハ米ノ座。四ニハ檜物(ヒモノ)座。五ニハ千朶積ノ事也。六ニハ相物(アヒモノ)座トテ魚(ウヲ)(シホ)ウル座也。此座不審(シン)ナリ。紙(カミ)ノ座トモ云ヘリ。ニハ(ムマ)(アキナフ)座是(コレ)ナリ。其外(ソノホカ)ニ手買振賣(テガヒフリウリ)トテアリ。皆々此七座ニ與力(ヨリキ)スル賣物(ウリモノ)(ドモ)(ヲヽ)シ。諸國ノ商人(アキンド)(イチ)ニ集(アツマル)。〔下初オ二・三〕

とあって、この標記語「七座」の語注記は、「七座の店とは、先の文に市町の事有るに依って、此の返事に七座の店とは有るなり。惣じて市には、百賣千買とて百の賣物に千の買物有るなり。又市毎に、七座は有なり。座と云ふ事は、物を賣る座なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

藝才(げいさい)七座(なゝざ)(たな)藝才(ザイ)七座之店。七座とハ一に絹(きぬ)。二にハ炭(すミ)。三には米。四には桧(ひ)物。五にハ千朶積(せんたつミ)。六には相物座とて魚塩をうる。七には馬商なり。〔廿六ウ二〕

とし、標記語「七座」に対する語注記は、上記古版『庭訓徃来註』の後半部の注記内容に依拠しつつも稍異なりを見せている。

[今後の課題] 「京都七座」について

[HP補遺] あひもの【相物】合物あるいは塩干物(えんぴもの)ともいい、主に保存のために塩をあたえる塩魚を扱う業者を指す。しかし、江戸時代以前は魚屋のことを相物といった。『庭訓往来』(1334年)に鎌倉で“芸才七座の店が繁盛した”とあるが、この「七座」とは、「絹・炭・米・檜物・千朶櫃・相物・馬商」という七つの問屋店(たな)のことで、この相物というのが今の「魚屋」のことである。東京では魚屋が「魚○」というところを地方では「相○」などと呼ぶことがあるのは、その名残り。また、相物を商う業者を「いさば」ともいう。→いさば〔明解市場語辞典より〕

2000年3月12日(日)雨午後晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

雨もまた 楽しき世界 走る顔

「不緒由(あつかいをするゆへをしらず)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「安部」に、

緒由(アツカイヲスルユヘヲシラス)慈照院殿此ノ字ヲ讀ヲ一条禅閤ニ被尋申禅閤答テ曰ク神祇第二ニ在之。讀如此。<元亀本263F>

緒由(アツカイヲスルユヘヲシラス)慈照院殿此ノ字ノ讀一条禅閤ニ被尋ネ申禅閤答曰神祇第二ニ在之。讀如此。<静嘉堂本299D>

とある。標記語「緒由」の語注記は、「慈照院殿、此の字の読みを一条禅閤に尋ねられ、禅閤申し答へて曰く、神祇第二にこれあり。かくの如く読む」という。この「慈照院殿」については、『運歩色葉集』の「志部」に、

慈照院殿(ジセウインドノ)御名乗義政。御法名道慶。御道号花山。号東山殿。任准三后。延徳元巳酉正月七日薨。至天文十七戌申六十年也。<元亀本326D>

慈照院殿(――)御名乗義政。御法名道慶。御道号花山。号東山殿。任准三。延元巳酉正月七日薨。至天文十七戌申六十季也。<静嘉堂本386D>

とあって、足利將軍義政公のことをいう。その相手である「一条禅閤」については、標記語としての記載がなされていない。「禅閤(ゼンカフ)」は、「禅定太閤(ゼンヂヤウタイカフ)」の略で、「太閤」が出家して仏門に入ってからの称であり、人物としては「一条兼良(いちじょうかねよし) 1402年(応永 9. 5. 27)〜1481年(文明13. 4. 2)◇室町中期の歌人・古典学者・公卿。「かねら」「かねなが」とも。通称は一条禅閤(ゼンコウ)・後成恩寺(ゴジョウオンジ)(関白)、別号は桃華野人・桃華老人・三関老人・東斎、法号は覚恵。関白一条経嗣(ツネツグ)の六男、摂政関白二条良基(ヨシモト)の孫。教房・冬良(フユラ)の父。雲章一慶(ウンショウ・イッケイ)の弟。1412年(応永19)兄の権大納言経輔が病弱で退隠し、元服して家督を継ぎ、兼良(カネヨシ)と名乗る。12歳で従四位下権中将、19歳で左近衛大将、20歳で内大臣、23歳で右大臣、31歳で摂政太政大臣。1446年(文安 3)太政大臣となり、1447(文安 4)46歳で関白氏長者(ウジノチョウジャ)・准后とも呼ばれ、1453年(享徳 2)辞職。1467年(応仁元. 5.)66歳で再び関白となるが、応仁の乱(1467?1477)で一家は離散する。1470年(文明 2)関白を辞職。1473年(文明 5)72歳で出家し、覚恵と改める。1477年(文明 9)帰京。当代随一の学者といわれたが、晩年は日野富子に迎合する。著書『尺素往来(セキソオウライ)』『公事根源(クジコンゲン)』『花鳥余情』『樵談治要(ショウダンチヨウ)』『文明一統記』。◎『耳底記(ジテイキ)』に「かねよし」と振り仮名が施されている。」がそれである。次に「神祇第二」については、

神祇(−ギ)。<元亀本305D>

神祇(−ギ)。<静嘉堂本355E>

と標記語のみの記載に留まるものである。これは、勅撰和歌集の部立ての一つである「神祇歌(ジンギカ)」を指すものか、これについて検索を試みる必要があろう。この「緒由」を「あつかひするゆゑをしらず」と読むことからも、「緒由」を「あつかひするゆゑ」と読むものであり、この「あつかひ」の語については、鎌倉時代の語源辞書『名語記』九に、「もてあそび、あつかふは、あやつる義也」とあり、本来、処理しきれないことを意味していたのが、意味派生して、両者の間に立って争いごとなどの調停・仲裁をすることをも意味する語となっているのである。『下学集』『節用集』類には未収載にある。

[今後の課題] 足利將軍義政公一条兼良(いちじょうかねよし)の関係について

2000年3月11日(土)薄晴れ午後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

喘こみて 何が何やら 春を待つ

「七所押板飾様(シチシヨをしいたかざりヤウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

七所押板飾様(――ヲシイタカザリヤウ)水瓶。花一本。筆架。筆。墨。研屏。硯。/印篭、牙籤、軸物有臺。 能阿、藝阿/相阿飾様如此也。<元亀本328I>

七所押板飾様(――ヲシイタカザリヤウ)水瓶。花一本。筆架。筆。墨。研屏。硯。/印篭、牙籤、軸物 有臺。/能阿、藝阿/相阿飾様/如此也。<静嘉堂本390D>

とある。標記語「七所押板飾様」の語注記は、「水瓶。花一本。筆架。筆。墨。研屏。硯。/印篭、牙籤、軸物 有臺。/能阿・藝阿・相阿の飾様(かざりヤウ)、此のごときなり」という。いわゆる書院の七箇所に台子をもって茶器を飾るしきたりで、軍記物語『太平記』に、

次に今度七夕の夜は、新将軍、相模ノ守が館(タチ)へをはして、七百番の謌合をして遊ブ可キ也と、兼(カネ)て仰セ被(ラレ)ければ、相摸ノ守誠に興(キヨウ)じ思ヒて、様々の珍膳を認(コシラヘ)、哥読(ウタヨミ)共数十人誘引(イウイン)して、已(スデ)に案内を申しける處に、道誉又我(ワガ)宿所に七所を粧(カザツ)、七番菜(サイ)を調へ、七百種の課物(カケモノ)を積み、七十服の本非の茶を呑(ノム)可キ由を申て、宰相中将殿を招請(セウシヤウ)し奉リける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾(カザリ)は珍(メヅラシ)き遊(アソビ)なるべしとて、兼日の約束を引違(-キチガヘ)、道誉が方へをはしければ、相摸ノ守が用意徒(イタヅラ)に成て、数寄(スキ)の人も空(ムナシ)く帰リにけり。<巻第三十六「清氏謀叛の事付けたり相模守子息元服の事」大系三・357LN>

とあって、佐々木道誉に始まることが知られる。『下学集』『節用集』は未収載にある。

2000年3月10日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇒四谷

 昼寝する 猫の傍らに 乙女座す

「七観音(シチクワンノン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

七観音(――)革堂。河崎。中山。長楽寺。清水。六波ラ堂。六角堂。<元亀本328H>

七観音(――)革堂。河崎。中山。長楽寺。清水。六波羅。六角堂。<静嘉堂本390D>

とある。標記語「七観音」の語注記は、「革堂(コウドウ)。河崎清和院(感応寺)。中山。長楽寺。清水。六波羅蜜寺。六角堂」という。これは、静嘉堂本の語注記の冒頭にあるように京都における「七観音」を意味している。『土+盖嚢鈔』第六68に、

一 七観音ハ誰人草創 革堂行願寺ト云八尺ノ千手、一條院寛弘二年乙巳ニ建立アリ。本願行圓上人頭ヘニ載テ宝冠ヲ身ニ披(キル)革衣ヲ故ニ世人呼テ革(カハノ)上人ト云。此人ノ建立ナル間革堂ト云也。<後略> 河崎号感應寺一演僧正ノ草創也。彼僧正元ヨリ観音ノ霊像ヲ所持セリ。依テ勝地ヲ得テ此尊ヲ欲安置ト。<後略>河崎ノ鎮守ハ是祇園。 清水寺本尊八尺千手千願ノ像。<後略>。六波羅密寺ハ八尺ノ十一面、村上御宇天暦五辛亥年ニ建立ス。<後略> 六角堂頂法寺ト云、生身ノ如意輪聖徳太子七生ノ御宇佛ト云々。<後略>或説ニ云、此本尊ハ高麗國光明寺ノ像也。然ヲ本國ノ僧徳胤法師太子ヲ令迎奉ル佛也。長一尺周二寸ト云々。

と詳細な縁起による記載が見えている。ただし、「中山」の記載が漏れている。

 江戸時代の『書字考節用集』にも、

ヲナシク(京都)七観音(ケウトノシチクハンヲン)革堂。河崎。吉田寺。清水寺。六波羅密寺。六角堂。蓮華王院。<十三48F>

としていて、『運歩色葉集』が「中山」とするところを「吉田寺」、「長楽寺」とするところを「蓮華王院」としていて、排列も若干異なっている。

2000年3月9日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

チューリップの 芽ふくらかき 花壇かな

「五辛(ゴシン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

五辛(ーシン)大蒜(ヲホヒル)。葱()。薤(ニラ)。蘭葱(アサツキ)。興渠(クレノヲモ)。<元亀本239C>

五辛(ーシン)大蒜。葱。薤。蘭葱。興渠。<静嘉堂本275G>

五辛(−−)大蒜(−ヒル)。葱()。薤(ニラ)。蘭葱(アサツキ)。興渠(クレヲモ)。<天正十七年本中66ウG>

とある。標記語「五辛」の語注記は、「大蒜(ヲホヒル)。葱()。薤(ニラ)。蘭葱(アサツキ)。興渠(クレノヲモ)」というように、辛味や臭みのある植物種を羅列する。『下学集』には、

大蒜(ダイサン/ヲヽヒル)<草木125E>

茖葱(カクソウ/キ)<草木125E>

薤葱(ガイソウ/ニラ)<草木125E>

蘭葱(ランソウ/アサツキ)<草木125E>

興渠(コウキヨ/クレノヲモ)以上五辛([ゴ]シン)ナリ也。興渠ハ不ス(シラ)何レノ草トイフコトヲ|。或ハ云ヒ〓〓〔〕(ツクシツ)|。或ハ云フ大根([ダイ]コン)|。雖トモ有リト諸注|。未タ/スト∨‖分明ナラ云々。<草木125E>

とあって、標記語に五種の辛味名を挙げ、「以上、五辛([ゴ]シン)なり。興渠は何れの草といふことを知らず。或は〓〓〔〕(ツクシツ)をば云ひ或は大根([ダイ]コン)を云ふ諸注を有りと雖ども未だ分明ならず。云々」と注記するのである。広本節用集』は、

五辛(ゴシンイツヽ・カラシ)(ヒル)。葱(ヒトモジ)。韭(ニラ)。<数量門664E>

とあって、標記語「五辛」を立項し、注記語の五品種については、最後の二品種「」に異なりが見られるのである。次にこれを『拾芥抄』下に、

江納言書状云。服蒜忌世俗五十日許然而内典忌七十日云々。右府御書状云。天喜三年六月十六日癸卯今日主上令服蒜御同七月廿三日巳卯此日祈年穀奉幣八月五日庚寅迄此日服御云々。隆禪僧都勘文云。引内教云。蒜七日、葱三日、薤一日可忌云云。○南海傳云。服蒜者忌七日云云。蒜ヲ服タル人七日、葱ハ三日、薤一日。或ハ五辛皆七日ト云リ。是ハ汗ヲトツル事也。神之モトニハ不忌所モアリ。又ヒサシク忌所モアリ。

梵網経五辛者 大蒜(/−ヒル)。蓉葱(ニラ/コヒル)。薤葱(キ/キ)。蘭葱(コヒル/アサツキ)。興渠(クレヲモ/クレノヲモ)。是等也。又ニラヲイルヽ事モアリ。<>

・『梵網経』下「若仏子、不五辛。大蒜・革葱・慈葱・蘭葱・興渠。是五種一切食中不食。若故食者、犯軽垢罪」。

五辛 大蒜(−サン/−ヒル)。慈葱(或ネヒル/キ)。角葱(イ草/ニラ)。蘭葱(ラン−/ネヒル)。興〓〔艸+渠〕 (コウコ/クレノヲモ)。已上見令僧尼。又梵網経。多異説云云。又ヒル、クレノヲモ、キ、ニラ、アサツキ。此ヲ可為帯之由有。院宣云云。<飲食部第廿八>

とあって、典拠を仏典『梵網経』とし、五品種は『下学集』に等しい。『運歩色葉集』も略これに準じているものといえよう。

2000年3月8日(水)晴れ午後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

陽も射して 白き里山 梅が園

「櫻貝(さくらがひ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左部」に、

櫻貝(サクラガイ)三月也。<元亀本272G>

櫻貝(サクラカイ)。<静嘉堂本311F>

とある。標記語「櫻貝」の語注記は、元亀本のみにあって、「三月なり」という。『下学集』には未収載にある。『節用集』では、伊勢本系の明応六年本に、「櫻貝(サクラカイ)」<畜類168F>と見えている。また、『日葡辞書』に、

Sacuragai.サクラガイ(桜貝).蛤のような或る貝.<547r

と見えている。この元亀本『運歩色葉集』の注記「三月也」は、何を意味するものかが未だ判然としていない。近代の国語辞書である大槻文編『大言海』には、

さくらがひ ()櫻貝 ()貝の、色の、紅なるもの。*公任集「夜(ヨル)散りける花の、遣水(ヤリミヅ)の波に寄せられて、蘇芳貝のさまなるに、櫻がひとは、これをや、など言ひて()()貝の、淡紅色にして、美麗なるもの。殻は、薄く横に伸び、後方は、次第に狭し。花貝とも云ふ、多く、貝細工に用ゐらる。<789-5>

と記載する。ここで『公任集』を用例として引用している。現代の用語として、その1「さくら貝の歌」その2「さくら貝の歌」が知られ、「さくら貝」を「べに貝」「はな貝」とも呼称する。また、1915(大正4)に泉鏡花の作品『桜貝』<『鏡花全集』全29巻の巻十六・岩波書店>がある。

2000年3月7日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

穏やかさ 告げる小鳥に 朝一番

「〓〔糸+相〕氈(サウセン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左部」に、

〓〔糸+相〕氈(サウセン)木綿之類之事。<元亀本272G>

〓〔糸+相〕氈(サウセン)木綿之類事。<静嘉堂本311F>

とある。標記語「〓〔糸+相〕氈」の読みを「ソウセン」とし、語注記は、「木綿の類のこと」という。本来、「〓〔糸+相〕」の字は、浅黄色のきぬ、萌黄色のきぬを云い、「氈」は、毛織の敷物をいう。であるからして、「浅黄色(萌黄色)の毛織の敷物」を云うのであろうか。『下学集』『節用集』は未収載にある。そして、現代の国語辞書や漢和辞書にもこの標記語は未記載にある。

2000年3月6日(月)曇り。東京(八王子)

啓蟄や 寒さ戻りて 地に蓋す

「卵箱(ランばこ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「羅部」に、

卵箱(―バコ)院宣入之。平家。<元亀本172E>

卵箱(ランバコ)院宣入之。<静嘉堂本192A>

卵箱(ランハコ)。<天正十七年本中26オG>

とある。標記語「卵箱」の語注記は、元亀本が尤も詳細で、「院宣これに入るる。『平家(物語)』」という。実際、典拠とする『平家物語』巻第八「征夷將軍院宣」に、

院宣をば、らん箱に入れられたりけり。兵衞佐に奉る。やゝあッて、らんばこをば返されけり。<大系・下137H.新大系・下87DE>

とあり、院宣・宣旨などの文書を貴人に御覧にいれるために用いる箱で、藤葛(ふじかずら)で編み、蓋付きのものをいう。現代の国語辞書を繙くと通常、「覽箱」の表記をもって示されている。だが、『平家物語』は、「らん箱」「らんばこ」と仮名書きである。この記述部文を竹柏園本では、

院宣ヲ、欄筥ニ入ラレタリ。兵衛佐殿ニ奉。良有テ、欄筥ヲ被〓〔迅-衣〕。<八13オ@,天理図書館善本叢書4695@>

とし、平松家本も、

院宣ヲ、欄筥(ランノハ−)ニ入レ重カリケレハ康貞是ヲ闕(ア‐)テ見ニ砂金三百兩被タリ入[納(イレ)]。<古典刊行会611A>

とあって、「欄筥」と表記している。次に佐賀大学附属図書館蔵小城鍋島文庫本では、

兵衛佐院宣ヲ請取奉リ、蘭筥(ランバコ)ヲ開キ、拝シ奉ル。箱ニ砂金三百兩入テゾ、返サレケル。<汲古書院刊、248上右B>

とあって、「蘭筥」の表記を示している。延慶本は、

宣旨ヲ蘿箱ノ盖ニ康貞入マヒラセ候トテ、抑御使ハ誰人ニテオワシ候ソト尋ネ申テ候シカハ、三浦介トハ名ノリ候ワテ、三浦荒次郎義澄トナノリ候テ、宣旨ヲ請取マヒラセテ後、良久候テ蘿箱盖ニハ砂金百両入ラレテ返サレ候ヌ。<第四巻32オ・265EH>

とあって、「蘿箱」の表記を示している。ここまで調査したところでいえば、『運歩色葉集』の「卵箱」の表記は見えていない。そして『下学集』『節用集』におけるこの語は未収載にある。

 ことばの実際としては、『平安遺文』(CD-ROM)に、

此一巻小唐櫃覧筥入了、<文書番号2277東大寺領越後国荘園文書返納目録○東大寺文書四ノ八十六。《書籍頁一九二八》>

大略入文書等、勅書等入覧筥一合、入九巻、大和庄庄文書{七ケ所}<文書番号2973東大寺文書出納日記○東大寺文書四ノ八十六。《書籍頁二四四五》>

辛芫闕 一合大花筥八十七枚〈覧筥 一枚〉 一合入花筥八十三枚 一合花筥廿六枚〈覧筥十八合〉 一合花筥七十枚 一合覧筥卅合 一合花筥四十枚 一合花筥七十枚 一合覧筥七十【枚】合 一合花筥七十枚<文書番号4970東大寺綱封蔵納物注文、正倉院塵芥文書《書籍頁三八五七》>

とあって、「覧筥」の表記が見えている。

2000年3月5日(日)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川)

こよろぎの 勤しむ月日 花盛り

「黎民(レイミン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記部」に、

黎民(レイミン/クロキタミ)黎ハ黒也。不着冠。故ニ黒也。<元亀本149H>

黎民(レイミン/クロキタミ)黎ハ黒也。不着冠。故ニ黒也。<静嘉堂本163C>

黎民(レイミン/クロキタミ)。不着冠。故黒也。<天正十七年本中13ウB>

とある。標記語「黎民」の語注記は、「黎は黒なり。冠を着せず。故ニ黒なり」という。『下学集』は未収載にある。この語の典拠は、『庭訓徃來注』にある。

黎民之竃ニハ朝夕之烟厚ク 庶民黎黒。冠不着。故黒也。烟ニ哥云高屋ニ登テ見ハ烟立ツ民ノ竃ハ賑ニ梟リ延喜御門ノ御詠哥也。<謙堂文庫藏一九ウH>

と云う部分に拠る。『日葡辞書』にも、

Reimin.レイミン(黎民).Tami Reiminnno camadoni choxeqino qemuri atcuxi.(黎民の竃に朝夕の烟厚し)民びと,または,農民の台所に,朝方にも夕方にも,食物があり栄えていることを示すたくさんの烟が立ちのぼる.*庭訓徃來四月条<邦訳本527l>

とあって、典拠を同じくする。

2000年3月4日(土)曇り後一時雨。東京(八王子)⇒北区(板橋)

梅が香に 誘はれ歩く 雅び街

「九宮(クキュウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記部」に、

九宮(−キウ)伏門。生門。陽門。社門。死門。宗門。驚門。開門。<元亀本194C>

九宮(クキウ)伏門。生門。陽門。社門。死(門)。宗門。驚門。開門。東馬。南鳥。西兎。北鼠。校之可知方吉凶ヲ。<静嘉堂本220B>

九宮(クキウ)福門。生門。陽門。社門。死門。(宗門)。驚門。開門。東馬。南鳥。西卯北子。校之可知方吉凶。<天正十七年本中39ウC>

とある。標記語「九宮」の語注記は、「伏門。生門。陽門。社門。死門。宗門。驚門。開門」という八門が記載され、これに、静嘉堂本と天正十七年本の両写本には、この後に「東の馬。南の鳥。西の兎。北の鼠。これを校べて方の吉凶を知るべし」といった注記内容を記載する。『下学集』『節用集』には未収載にある。そして、現代の国語辞書にも未収載の語である。

 

2000年3月3日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

紅梅に 大小の鳥 絡みをり

「曲水宴(キヨクスイのエン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記部」に、

曲水宴(キヨクスイノエン)三月三日。<元亀本286@>

曲水宴(キヨクスイノヱン)三月三日。<静嘉堂本331A>

とある。標記語「曲水宴」の語注記は、「三月三日」という。この「曲水の宴」は、平安朝時代に、朝廷で三月上巳、乃至三月三日に、曲がりくねった水の流れに臨んで所々に座し、上流から盃を流して、それが自分の前を通り過ぎる前に詩を作り、盃を取り上げて酒を飲み、後の宴会にその詩を披露する行事である。この語は、「草餅(クサモチ)」の語注記に見えている注記語であり、これをここに立項している語とも云えるが、この語は『下学集』に、

曲水(キヨクスイ)三月三日ナリ也。<時節28E>

とあって、標記語もただ「曲水」とし、注記も同じように「三月三日なり」と単簡な説明である。ここから見ると『下学集』そのものによる継承語ともとれるのである。そして、何故か『節用集』類にあっては、「草餅(クサモチ)」の語注記と同様、未収載にある。当代の『日葡辞書』には、

Qiocusui.キョクスイ(曲水) 例,Qiocusuino yen.(曲水の宴)シナの慣例に従って,一定の杯で順繰りに酒を飲む飲み方.詩歌語.<501r>

とあり、中国から伝来し、その行事の仕種を説明記述している。江戸時代の『書字考節用集』には、

曲水宴(キヨクスイノエン) [日本紀]顯宗帝元年三月上巳幸シテ後苑ニ−−ノ宴アリ。<時節二77B>

とあって、これまた別の系統書からの説明内容注記になっているのである。

2000年3月2日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

尉鶲(じょうびたき) ひたすら尾舞ふ 梅が枝に

「無相(まさりがほなみ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「万部」に、

無相(マサリガヲナ)伊勢物語。定。<元亀本208@>

無相(マサリカヲナ)伊勢物語。定。<静嘉堂本236G>

無相(マサリカヲナ)伊勢物語。<天正十七年本>

とある。標記語「無相」の読みだが、元亀本と静嘉堂本の両本ともが「まさりかをなみ」とあって、古語辞典などでは、天正十七年本と同じように見出し語を「まさりがほなし」としていて、最後の「ミ」は「シ」の字形相似による揺れのように取れるところだが、古注釈をみると「み」であり、「まさりかをなみ」とする写本に拠ったことが解る。語注記は、「『伊勢物語』。定(家仮名遣)。」という。その典拠である『伊勢物語』の第62段に、

これやこの我にあふみをのがれつゝ年月ふれどまさりがほなき<大系145D>

という箇所にあたる。これを『真字伊勢物語』下や『旧本伊勢物語』二で見ると、

是哉児之吾尓近江乎遁乍年月雖勝面無美。[頭注○美字作牙]<下5オC>

とあって、「勝面無」の表記を用いている。そして、最後の漢字を「美」とし「み」を「き」に改めている。だが、『伊勢物語闕疑抄』には、

これやこの我にあふのみをのかれつつ年月ふれとまさりこほなみ

我にあふ事をのかれて年月うつれと思ひなをす事もなきといはんとてまさりかほなき人也。もと業平の所に居て出たる女なれは我を思ふ事のもとよりは少もまされたるやと思へともさもなきよしをうらむるなり。女をあておとしてよめるにはあらす。業平の本性に相違するなり。当流本意亦如此なり。<下>

としている。さらに、契沖『勢語臆断』も、

これやこの我にあふみをのかれつゝとし月ふれとまさりかほなみ

我にあふみは我にあひかなふみなり。我とかたらひて似あふへき身をおとつれすして我をのかれて後年月ふれともまさることもなきははかなきこゝろからなりとかつはうらみかつはあはれふなり。きぬをとらするをおもふへしといひてきぬきてとらせけれとすてゝにけにけり。<三30ウF>

とある。だが、『運歩色葉集』の示す「無相」の標記語はここには見ることができない。易林本『節用集』は、

數寄(マサリガヲナシ)。<言辞142B>

とする。また、『伊京集』にも、

數寄(スキ/マサリカヲナシ)倭俗世話癖愛曰――。<言辞129A>

と見えているが、『運歩色葉集』の典拠とは異にする資料からの収録語であるといえる。

2000年3月1日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

弥生きて 穏やかな時に 春うらら

「草餅(くさもち)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

〓〔食+善〕〓〔食+高〕(クサモチ)草餅(同、クサモチイ)周ノ幽王世乱。群臣愁苦ス。于時設(マウク)曲水宴ヲ。或人作――。貢王。々嘗(ナメ)味ヲ為美ナリト。王ノ曰是ノ餅珍物也。可宗廟(ヒウ)。周世大ニ乱ル遂ニ致ス太平ヲ后人ノ相傳作ス草餅ヲ十節記云。<元亀本193I>

〓〔食+羔〕〓〔食+高〕(クサモチ)草餅(――)周幽王世乱。群臣愁苦ス。于時設曲水ノ宴(ヱン)。或人作(ツク)――ニ。貢(クウ)ズ王ニ。嘗(ナメ)味ヲ(ナス)()ヲ。王ノ曰ク是ノ餅珍物也。可宗廟ニ。周ノ世大ニ乱ル。致太平ヲ|。后人相傳テ作(ナス)――十節記。<静嘉堂本219E>

〓〔食+羔〕〓〔食+高〕(クサモチイ)草餅()周ノ幽(ユウ)王ノ之世乱ル。群臣愁苦。于〓〔日+之〕設(マウク)曲ク水ノ宴ヲ。或ル人ト作――。貢(クウ)王。々嘗(ナム)味ヒ美ヲ。王ノ曰是餅(モチイ)珎物也。可宗廟ニ。周ノ世大ニ乱ル。遂ニ致太平ヲ|。后人相イ傳テ作――十節記。<天正十七年本中39オF>

とある。標記語「〓〔食+羔〕〓〔食+高〕」と「草餅」の語注記は、「周の幽王の世乱る。群臣愁苦す。時に曲水の宴を設(マウ)く。或人草餅を作(ツク)りて王に貢(クウ)す。王嘗(ナメ)て其の味はひ美(ビ)なりと。王の曰く、是の餅珍物なり。宗廟(ヒウ)に献ずべし。周の世、大に[治]る。遂に太平を致す。后人の相い傳へ草餅を作す。『十節記』に云ふ」という。この拠所については、『拾芥抄』上に、

○三月三日草餅何昔シ周幽王淫(イン)乱群臣愁苦ム。于時設河上曲水宴。或人作草餅幽王々嘗(ナメ)其味為ナリ美也。王云是餅珎物也。可宗廟周世大ニ治ル。遂ニ致太平ヲ。後人相傳テ作草餅三月三日進ル于祖霊ニ。草餅之興リ。従此始ル。十節録。

とあって、これに略等しい。大いに文意の面で異なる箇所は、『運歩色葉集』が「周ノ世大ニ乱ル」に対し、「周世大ニ治ル」とある点であるまいか。また、この記事は『年中行事秘抄』上50にも見えていて、文意からしても「治る」が正しいようだ。『下学集』には、未収載にある。広本『節用集』には、

草餅(クサモチ/サウヘイ)三月三日進之。昔周ノ幽王時(トキ)ノ之人始テ作テ之。直(ヂキ)ニ献幽王ニ。其味美也。即献ス宗廟ニ。周世大治平也。<飲食門503F>

とあるが、語注記の内容は同じ典拠素材からであることが知られるのだが、「曲水宴」の説明箇所がなく、『運歩色葉集』のほうが改編することもなくより詳しい記載になっている。その語注記の記述は、「草餅」の発祥を説明することに重点が置かれていて、三月三日の節句に「祖霊」に進上するということは古辞書群にあっては等しく削除していることが解るのである。当代の『日葡辞書』には、

Cusamochi. クサモチ(草餅・〓〔食+羔).または,Cusanomochi(草の餅)とも言い,むしろその方がまさる.ある草を使って作った緑色のある種の餅(Mochi).<173r

と見えていて、意義内容の記述方針は、宣教師たちにとって、事物そのものをありのままに記述記載することにあったことが見て取れよう。本邦の古辞書における意義説明との異なりをここに見ることができる。古くは、平安時代の『和名類聚抄』に、

〓〔食+羔〕 考聲切韻云〓〔食+羔〕古勞反字亦作〓〔食+高〕久佐毛知比蒸米屑爲之文徳實録云嘉祥三年訛言曰今茲三日不可造〓〔食+羔〕以無母子也 <巻十六14オA>

とあって、和訓「くさもちひ」としている。この語注記に見える『文徳実録』嘉祥三年五月壬午に、「毎三月三日、婦女採之、蒸擣以為〓〔食+羔〕」とある。ここでも語注記の記述に異なりを知るのである。逆に江戸時代の『書字考節用集』には、

艾葉餅(クサモチ) 本朝三月上巳所用者事ハ見[文徳實録]。今按[歳時記]所謂竜舌〓〔米+半ハン〕之遺事矣。〓〔食+羔〕同(クサモチ) [順和名]<服食七29@〜A>

とあって、『和名抄』との継承はあるが、室町時代の古辞書群とは以外に没交渉になっているのである。

 現在、三月三日の上巳すなわち、雛の節句に「草餅」を供える習慣は、しだいに遠ざかりつつあるようだ。

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