[4月1日〜4月30日迄]                              

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

2000年4月30日(日)晴れ午後曇り。東京(八王子) ⇒多摩動物園

躑躅花 庭の若葉や 映え出づる

「??(ヂヨウカ)」《〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地部」に、

?? 〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕(ヂヨウカ)血(チ)ノ凝結(コリムスフ)ヲ曰――(チヨウカ)ト。<元亀本68D>

?? 〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕(ヂウガ)血凝結曰――ヲ。<静嘉堂本80G>

?? 〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕(チヨウカ)血之凝結曰フ――。<天正十七年本上40ウC>

?? 〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕(チウカ)血ノ凝結(コリムスブ)ヲ曰――。<西來寺本124C>

とある。標記語「?〓〔病+徴〕?〓〔病-瑕〕」の語注記は、「血の凝結(こりむすぶ)を――と曰ふ」という。『下学集』は、

〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕(テウガ)血凝結(ゲウケツ)セルヲ曰フ〓〓ト也。<態藝77A>

とあり、文明本節用集』も、

?? 〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕(チウカ/ヤマイ、キズ)血凝結之ヲ――ト也。<支躰門161E>

とあって『下学集』にすべて共通する語注記にある。『日葡辞書』にも、

Cho>ga.チョウガ(〓〔病+徴〕〓〔病-瑕〕)Aru yamaino na.(ある病の名)ある病気.<邦訳『日葡辞書』126r>

と記す。

 

2000年4月29日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒京王堀の内

山郷の 鳥囀るや のほんとす

「虞?之民遜畔(クセイのたみくろをゆづる)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

虞?之民遜畔(クセイノタミクロヲユヅル)家語。<元亀本196I>

虞?之民遜畔(――――――)家語。<静嘉堂本224D>

とある。標記語「虞?之民遜畔」の語注記は、ただ「家語」すなわち、『孔子家語』とその典拠を示すのみである。『下学集』は

(クロ)田ノ之界也。家語ニ虞〓〔艸+内〕(グゼイ)ノ之民([タ]ミ)遜(ノカル)田ノ之畔ヲ也。<天地23A>

とあって、この語を「畔」の語注記に收載する。文明本節用集』も、

(クロ/ハン・ホトリ)田界也。家語曰虞〓〔艸+内〕(グゼイ)ノ之民([タ]ミ)遜(ユツル)―(クロ)ヲ。<天地497B>

とあって、『下学集』の収載方法を継承する。このことから、『運歩色葉集』の編者が標記語「(クロ)」<元亀本198B>の語注記にこの語文注記を記載しないで、独立して立項していることがここに確認できるのである。

現代の国語辞書である『大辞林』第2版に、

ぐ-ぜい 【虞】虞と。ともに中国周代の国名。――の訴(ウツタ)え〔史記(周本紀)〕昔,中国の虞両国が田地を争い,西伯(文王)の決裁を仰ぐため周の国へはいったところ,謙譲の美風が行われているのを見て恥じ,争いをやめたという故事。

といった記載を見ることができるが、「之民遜畔」の故事は未記載にある。

2000年4月28日(金)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

藤棚に 垂るる白房 若葉頃

「提月(テイゲツ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

提月(テイケツ) 晦日也。公羊傳。六鷁退飛故也。<元亀本246H>

提月(テイケツ) 晦日也。公羊傳。六鷁退飛故也。<静嘉堂本>

提月(テイケツ) 晦日也。公羊傳。六鷁退飛故也。<天正十七年本>

とある。標記語「提月」の語注記は、「晦日なり。公羊傳に、六鷁退飛の故なり」という。『下学集』には、

提月(テイケツ)公羊傳ニ提月六鷁([ロク]ゲキ)退(シリソキ)飛(トフ)。注提月ハ晦日也。<時節32F>

とあり、文明本節用集』も、

提月(テイケツ/ヒツサグ、ツキ)公羊傳ニ――六鷁退飛。注ニ――ハ晦日也。<時節門713D>

公羊傳』に提月は六鷁(―ゲキ)退(シリソ)き飛(ト)ぶ。注に提月は晦日なり。

とある。『運歩色葉集』の語注記は、『下学集』『節用集』を継承するものであり、『公羊傳』における「提月」の注文「晦日也」を先述する構成になっていることが判る。この語を『下学集』の編者である東麓破衲がどのように取り込んだものかといえば、直接典拠である『公羊傳』を繙くのではなく、『下学集』の序文・[割注]記に、

或ハ字各(―)ニシテ而訓(クン)同シク、或ハ文均(ヒトシフ)シテ而釋(―)異(コト)ナリ至ルマテ彼之雌霓(シゲキ)[割注]韻府ニ曰ク霓ハ五歴ノ切シ沈約(シン―)製シテ郊居ノ賦ヲ示ス王?(キン)ニ。讀テ至ル――(シゲキ)連蜷ニ。玩シテ掌ヲ欣抃(―ヘン)シテ曰ク僕常恐ル人ノ呼テ昨スト平声ト云云。礼部韻ニ曰ク雌霓連蜷讀テ霓ヲ為入声。<序11F〜12A>

?文安元稔(―シン)閼逢(エンホウ)[割注]――韻府ニ甲歳ヲ曰上音ハ烟。<序13F>

と見えるところの「韻府」すなわち『韻府群玉』<古辞書抄物5近思文庫古辞書研究会編参照。また、典拠確認作業については、本学教員片山晴賢先生のご教授によるものであることをここに付記しておく。>巻之卅五[入聲]の「月」部の、

提月 ――六鷁退飛(公羊)。晦日也。<143右C>

とあって、ここからの孫引き引用と見てよかろう。さらに、『節用集』類そして、この『運歩色葉集』に継承収載された語であることをここに検証認知する。

2000年4月27日(木)曇りのち晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

時静か 物読みするは 心地よげ

「於期(ヲゴ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

於期(ヲゴ)海藻。<元亀本79F>

於期(ヲゴ)海藻。<静嘉堂本97F>

於期(ヲコ)海藻。<天正十七年本上48ウB>

於期(ヲコ)海藻。<西来寺本139C>

とある。標記語「於期」の語注記は、ただ「海藻」という。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』には、この語を未収載としているが、『伊京集明応本天正十八年本易林本には、それぞれ草木門に、

於期(ヲゴ)海藻也。<伊京集26H>

於期(ヲゴ)海藻也。<明応本49C>

於期(ヲゴ)海藻。<天正十八年本上19オG>

於期(ヲゴ)海藻。<易林本61C>

とあって、それぞれと一致している。古くは、『本草和名』に、

海藻<略>和名之末毛、一名爾岐女、一名於古

とあり、『色葉字類抄』にも、

於期菜 海苔名也。オコ。<黒川本336D>

と見えている。当代の『日葡辞書』にも、

Vogo.l,Vogonai.ヲゴ.または,ヲゴナイ (於期.または,おごない) Vmino mo.(海の藻)海藻の一種.*1)この語未詳.於期の別称に“於期海苔”があるので,Vogonoriの誤りか.あるいは,伊呂波字類抄三巻本および十巻本にオコの訓みを付けた“於期菜”が見られるので,“おごな”と言うこともあったのではないか.この想像に立てば, Vogonai.は, Vogona.i,Vmino mo.(於期菜.すなわち,海の藻)の誤植ではないかとも疑われる.<704r>

とある。江戸時代の『和漢三才図絵』に、

於期菜 別名 於古乃里 按ずるに於期菜は海中の石の上に生じ、乱れし糸の如くして青色、長さ一二尺、之を采りて時を過ぐれば蒼黒色に変ず。銅鍋を用ひて之を煮れば色青くして活くるが如し。東海諸州に多く之有り。備前及び淡州にも亦多し。晒して乾して白藻と為す。

とあって、テングサとともに寒天の原料ともする。<この部分からは、緑川さんのEメールにより補足したものである。

[ことばの実際]

一 海藻の類におごといふ藻あり。かのおこもよく食をすゝむる功能あり。さてぞ、武家の台所に飯をはからひもり、人にすゝむる役者をおこといふはいふならし。<安楽庵策伝『醒睡笑』巻一2R>

「初春にうり来し」が「文化の頃より江戸には此商人絶え」「今は貝の剥みうりが、ゆでたるをもてくるのみ」<『用捨箱』>

「むく/\とおごを盛ったる如く也」(古川柳、明四・仁5)

「おごもつたやうになる迄ゑん遠さ」(古川柳「末摘花」一・13)

「おごの白あへ一種也出合茶屋」(古川柳「末摘花」二・15)<コメント:私は古川柳を読むのが趣味ですが、川柳では「陰毛」の見立てが多いようです。>

2000年4月26日(水)雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

紅桜 垂るゝ想ひは 今日盛り

「左青龍(サシヤウリウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左部」に、

左青龍(サシヤウリウ)西也。神名也。<元亀本275B>

左青龍(サシヤウレウ)西也。神名也。<静嘉堂本314E>

とある。標記語「左青龍」の語注記は、「西也。神名也」という。この語と対応する語は、「右白虎(−ビヤツコ)西方」<元亀本182G>となる。また、「前朱雀(センシユジヤク)京南」<元亀本356C>と、「後玄武(ゲンブ)京北也」<235I>がある。ここで、この「左青龍」の方位の記載が「西なり」としているが、これは「東」の誤認表記と考えられる。『下学集』はこの語を未収載としている。また、現代の国語辞書も、この「左青龍」の語を未収載としている。そして、「蒼龍」なる語で収載しているのである。たとえば、小学館日本国語大辞典』には、

そう-りようサウ【蒼龍】(「りょう」は「龍」の正音)A東方の神。白虎・朱雀・玄武とともに四神の一つ。青龍。*三輔黄図「蒼龍、白虎、朱雀、玄武、天之四霊、以正四方」<十二327>

とあるのがそれである。

2000年4月25日(火)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

上天気 身は時つなぎ 懸かり受く

「殿(ヲクルヽ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

殿(同ヲクルヽ)前曰啓、後曰−。論語。<元亀本85C>

殿(同ヲクルヽ)前曰啓、後曰−。論語。<静嘉堂本104F>

殿(同ヲクルヽ)前曰啓後。<天正十七年本上51ウE>

殿(同ヲクルヽ)前曰啓、後曰−。論−。<西来寺本147D>

とある。標記語「殿」の語注記は、「前に啓して曰ふ、後に殿(をくるる)を曰ふ。『論語』」という。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』には、

殿最(ヲクルヽサキ/トノ、サイ。シツハライ、モツトモ)軍ノ前後也。<態藝門227@>

殿(ヲクルヽテン、シツハライ)軍−。(ヲクルヽ、ヲトルコウ、ノチ)−人。<態藝門223A>

先鋒殿後(センホウデンゴマヅ、ホコサキ、シツハライ、ウシロ・ヲクルヽ)在軍前之先鋒ト軍後ニ之殿後ト韻會前謂啓。後曰殿韻府共軍魁致忠節義也。<態藝門1088@>

とあって、三つ目の「韻會前謂啓。後曰殿。」の部分が『運歩色葉集』の語注記内容に近いことがここで確認できる。そこで、「韻會」すなわち『古今韻会挙要』を見るに、

殿 説文〔略〕。廣韻宮殿。増韻堂高大者。初學記〔略〕。風俗通〔略〕。○又本韻丁練切軍前曰啓後曰殿又軍敗後奔曰殿馬融曰殿後軍在前曰奔後曰殿。論語奔而殿又鎮也。殿天子之邦。又殿最。漢書音義云上功曰最下功曰殿註殿後也。謂課居後也。○銑韻徒典切宮殿天子之室也。<巻22四2852A>

とあって、文明本が注記している内容はこの部分からであり、『運歩色葉集』の編者もこの部分を見て記載しているものと考えられる。但し、引用典籍を下部に求めたが故に『論語』としたものであるまいか。実際、典拠である『論語』には、この注記内容に該当する部分が見えないのである。

2000年4月24日(月)晴れ後曇りから雷雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

雷ぴかッと 傘なき人は 雨宿り

「日羅尊者(ニチラソンジヤ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「丹部」に、

日羅尊者(ニチラソンジヤ)自天竺負(ヲヽヒ)テ嵯(シヤ)峨之釈迦ヲ来ルニ唐土ニ。<元亀本40B>

日羅尊者(――――)自天竺負嵯峨釈迦ヲ来ル唐土ニ。<静嘉堂本44@>

日羅尊者(―ラ――)自天竺負嵯峨釈迦来唐土。<天正十七年本上22ウB>

日羅尊者(――――)自天竺嵯峨釈迦来唐土。<西来寺本69A>

とある。標記語「日羅尊者」の語注記は、「天竺より嵯峨をこれ釈迦を負おひて唐土に来たる」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。いわば、『運歩色葉集』のみが収載保有することばである。語注記に見える「嵯峨」の語だが、鎌倉時代の『名語記』巻第六に、

さかしといへる、さか、如何。嵯峨也。

と見えている。現代の国語辞書には標記語として、この「日羅尊者」を記載していないのである。

2000年4月23日(日)晴れ風強し。東京(八王子) ⇒世田谷(玉川・駒沢)

風に飛ぶ ごみの山ほど サクラ花

「塩断(しをたち)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

塩断(−タチ)見利經娑婆論。<元亀本315D>

塩断(−タチ)見利娑婆論。<静嘉堂本370B>

とある。標記語「塩断」の語注記は、「『利經』并びに『娑婆論』に見える。」という典拠を示すものである。この「塩断」だが、神仏の祈願成就を目的として、ある期間をもって塩気のある食物を食さないという行為をいう。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』に、

(シホヲタツ)此亊者見攘虞利子經娑婆論理論等ニ矣。<態藝門976D>

「このことは、『攘虞利』『子經』『娑婆論』『理論』等に見ゆるや」この典拠だが、『伊京集』『天正十八年本』では、「于娑婆論理論等」<>「此亊ハ見娑婆論理論等」<下33ウ@>とあって、最初の『攘虞利』『子經』を欠き、最後の典拠を『理論』としているのが正しい。

とあって、『運歩色葉集』の語注記より典拠も二つ多くし、詳細である。『日葡辞書』は、この語を未収載にする。江戸時代の『和漢三才圖會』第百五7に、

斷鹽(しをたち)凡ソ食品不レハ鹽ヲ則失ス味ヲ。故ニ斷ツ鹽ヲ者以爲難シト矣。佛氏斷ツコト鹽ヲ者見ヘタリ譲虞利童子經娑婆論正理論等ニ。又南史ニ云ク齋ノ崔慰祖父喪ニ不食ハ鹽ヲ。母ノ謂ク毀(ヤスレ)トモ不性ヲ。乃從フ之。又梁ノ張策母ノ憂ヘニ三年不食ハ鹽ヲ。△按有リ僧永(ヒタフル)ニ斷(タチ)テ五穀及鹽ヲ而カモ無病長壽也。唯過食ノ人ハ不存(ナカラヘ)。<1457下A>

とあって、さらに詳細を極めているのである。

[ことばの実際]

「十日の塩断甘口で無い願ひ」(『柳多留』百十一・34)

塩断も養生にすりやあわれ也」(『柳多留』明二・義6)

「三世相見て下女か塩断」(『誹諧武玉川』六・16)

塩断も名代の新造」(『誹諧武玉川』十六・13)

「ナニ私(わちき)やァおひるまでは塩禁だから、どふで何も喰べられません」(『梅暦』)

「おいらん、まだ塩だちをなされますかへ」「おとついで日ぎりがきれんした」(『錦の裏』)<この部分は、緑川さんのEメールにより補足したものである。

2000年4月22日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒

藤もあて 花移ろひぞ 吾が通ひ

「小篠(をさゝ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

小篠(ヲサヽ)大峯ニ。竹ノ名ニモ。<元亀本78F>

小篠(ヲサヽ)。<静嘉堂本96B>

小篠(ヲサ)。<天正十七年本上47ウG>*第三拍めの踊り字「ヽ」を「\」(「キ」のカナ字)と誤る。

小篠(―サ)。<西來寺本141B>*第三拍めの踊り字「ヽ」を脱する。

とある。標記語「小篠」の語注記は、元亀本だけにあって、「大峯に。竹の名にも」という。『下学集』は未收載にある。易林本節用集』草木門に、

小篠(ヲサヽ)。<上31オD>

と、標記語のみで収載する。他に明応本が同様に収載している。元亀本運歩色葉集』に限っての語注記であるが、ここで「小篠」の語注記したその意味を検討してみるに、第一に「大峯に」であり、第二が「竹の名にも」となっている。易林本節用集』などは、第二の意味だけということになる。そこで第一の「大峯」だが、奈良県南部(吉野郡)に広がる修験道の根本道場となる「大峰山(おほみねサン)」を指して云うのであろう。ここには、「小篠」が繁茂していることからも「小篠」と言えば、すなわち「大峰山」を呼称する代名詞というのであろうか。江戸時代の『書字考節用集』にも、

小篠(ヲサヽ)。<生殖六14D>

とあって、語注記はなく、「生殖門」ということから第二の意味で『節用集』と同じく継承するに留まる。

ことばの実際

御夢心地に思し召しけるは、篠の小篠の一節も、問ふべき人も覚えぬ都の他の蓬生に、怪しや誰人の道踏み迷へる休らひぞやと御尋ねありければ、この翁、世に哀れなる気色、言ひ出だせる言葉は無くて、持ちたる梅の花を御前に差し置きて立ち帰りけり。<『太平記』巻第六・民部卿三位局御夢想の事>

中にも道場坊助注記祐覚は、児十人・同宿三十余人、紅裾濃の鎧を一様に着て、児は紅梅の作り花を一枝づつ冑の真向に差し挟みたりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相模の荒夷ども、「児とも言はずただ射よ」とて、散々に差し詰めて射ける間、面に進んだる児八人や、俄かに倒れて小篠の上にぞ臥したりける。<『太平記』巻第十四・箱根・竹下合戦の事>

志すところの矢所を少しも違へず、鎧の弦走りより総角付けの板まで、裏面五重を懸けず射通して、矢先三寸ばかり血潮に染みて出でたりければ、鬼か神と見えつる熊野人、持ちける鉞をうち捨てて、小篠の上にどうと臥す。<『太平記』巻第十七・山門攻めの事付けたり日吉神託の事>

篠の小篠の一節も、つゆかかる事どもありとも、誰か思ひ寄り候ふべき」と、様様掻き口説き聞ゆれども、北の台は、「事の他なる事かな」とばかりうち佗びて、少しも言ひ寄るべき言の葉も無し。<『太平記』第二十一・冶判官讒死の事>

岸は松柏深ければ嵐も鬨の声を添へ、下には小篠繁りて露に馬蹄を立てかねたり。<『太平記』巻第三十四・州龍門山軍の事>

2000年4月21日(金)雨のち止む。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)⇒六本木

傘忘る 電車の客は 降り過ぎて

「於母和久(をもわく)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

於母和久(ヲモワク)出羽ニ有リ――――橋万葉。<元亀本82F>

於母和久(ヲモワク)出有――――橋。万葉。<静嘉堂本101F>

於母和久(ヲモワク)出羽有――――橋。万葉。<天正十七年本上50オF>

とある。標記語「於母和久」の語注記は、「出羽に於母和久橋有り。万葉(集)」という。『下学集』未収載にある。『節用集』類は、易林本節用集』於部言辞門に、

以為(オモハク/オモヘラク)。<126C>

とあって、仮名遣いは「おもはく」と第一拍が「お」であり、第三拍が「は」であって、異なりを示しているのである。『運歩色葉集』では、「於母和久」を標記語としているが、「於母和久橋」をも提示している。この典拠である『万葉集』には、1740の歌に「所許尓念久 從家出而三歳之間尓 垣毛無」と3189の歌に「一云、雖隠君乎思苦止時毛無」として、この「於母和久」の語が示されているわけではない。語注記の「出羽(国)にあり」も気になるところである。江戸時代の『書字考節用集』にも、

以謂 (オモヘラク・ヲモヘリ/オモハク)。以為(同)。<九54A>

と、『節用集』を継承するものである。

2000年4月20日(木)雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

花蕚の 傘に付く路 時を知る

「四門(シモン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

四門(−モン)浄土。發心門。修行門。菩提門。涅槃門。<元亀本327B>

四門(−モン)浄土。發心門。修行門。菩提門。涅槃門。<静嘉堂本387G>

とある。標記語「四門」の語注記は、「浄土。發心門・修行門・菩提門・涅槃門」という。仏教語の特に密教の世界で修行の段階として東西南北に配して説くもので、真言曼陀羅の方位に配した四つの門をいう。東を「発心門」、南を「修行門」、西を「菩提門」、北を「涅槃門」と称する。『下学集』『節用集』類は未収載にある。

[ことばの実際]

四門(モン) 発心門、修行門、菩提門、涅槃門云々、火葬之火屋之四方之額打之。<『譬喩尽』七>

2000年4月19日(水)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)⇔目黒(都立大学)

庭椿 ひっそり咲きけり 大輪は

「濕生(シツシヤウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

濕生(シツシヤウ)卵胎−化之四生之内。<元亀本315G>

濕生(−シヤウ)卵胎湿化之四生之内。<静嘉堂本370E>

とある。標記語「濕生」の語注記は、「卵胎湿化の四生の内」という。この注記語の統括語が「四生」であり、同じく「志部」に、

四生(――)卵生。胎生。濕生。化生。<元亀本326I>

四生(――)卵生。胎生。濕生。化生。<静嘉堂本387C>

とある。これは仏教語で、生物を生まれ方の違いによって四種類に分類したものである。「卵生」は、魚類・鳥類など卵殻から出生するものであり、「胎生」は、哺乳動物など母親の胎内から出生するもの、「濕生」は、湿潤なじめじめとしたところから出生する虫類などをいい、「化生」は、何も無いところから忽然と出生するものをいう。「濕生」の他の語はどのように立項されているかといえば、

卵生(ランジヤウ)。<元亀本172E>

卵生(ランシヤウ)。<静嘉堂本192A>

×。<元亀本・静嘉堂本は、「胎生」の語を未収載>

化生(ケシヤウ)。<元亀本214I>

化生(−シヤウ)。<静嘉堂本244E>

とあって、他の三語は無注記である。なかでも「多部」の「胎生(タイシヤウ)」は立項されていないことが知られるのである。これは、人にも関わることでもあり、意識的に標記語としなかったのではなかろうか?すなわち、この「濕生」の語だけに注記がなされていることになる。何故この語だけに注記したかを少しく検討する必要があろう。『下学集』『節用集』類は未収載にある。『日葡辞書』には、

Xixo<.シシヤウ(四生).Yosamano xo<ji yo<.(四さまの生じ様)すなわち,Taixo<,ranxo<,Xitxo<,qexo<.(胎生,卵生,湿生,化生)四つの生まれ方で,次のとおりである.第一は交尾・交接により,母の胎内から姿形を備えて出るもので,これをTaixo<.(胎生)という.第二は,卵によるもの,すなわち,Ranxo<.(卵生)である.第三は,鼠や虫など,腐敗によるもの,すなわち,Xitxo<.(湿生)である.第四は,魚から獣になったり,または,ある獣が他の獣に転換したりして生ずるもの,すなわち,Qexo<.(化生)である. ▼Tairan.<786l>

とあって、さらに、

†Taixo<.タイシャウ(胎生)そのもの本来の姿形をして,腹から生まれ出る,人間や動物の出生.▼Tairan xicqe;Xixo<(四生).<606l>

†Ranxo<.ランシヤウ(卵生) Xixo<(四生)の条を見よ.<526l>

†Xixxo<.シッシャウ(湿生)Cusari vmaruru.(腐り生まるる)鼠,虫,その他これに類するものが,腐れ朽ちることによって生まれること.仏法語(Bup.). ▼Tairan xicqe;Xixo<(四生).<786r>

Qexo<.ケシャウ(化生) 例,Qexo<no mono.(化生のもの)または,fengueno mono.(変化のもの)姿形を変えて化けたもの,または,他の姿形を取ったもの。<491l>

†Qexo<. ケシャウ(化生) 物の生まれ生ずる四種の生じ方のうちの一つ。Xixo<(四生)の条を見よ。▼Tairanxicqe<491l>

とあって、「卵生」の語だけが省略の記述にあるだけで、あとは意義説明がそれぞれ添えられているのである。

2000年4月18日(火)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

早起きは 三文の得 人繋ぎ

「身毒(ケンドク)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「計部」に、

身毒(ケンドク)天竺之亊。<元亀本217G>

身毒(ケンドク)天竺之亊。<静嘉堂本248B>

身毒(ケントク)天竺之事也。<天正十七年本中54ウG>

とある。標記語「身毒」の語注記は、「天竺のこと」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、

身毒(ケンドク)乾篤ノ二音。○孟康カ云天竺也。[字彙]一名ハ天篤。蓋――声轉シテ爲天篤省テ文ヲ作ル竺ニ。又轉シテ爲竹ノ音ト。<乾坤一89C>

とあって、詳しい。現代の国語辞書には記載を見ない語であるが、漢和辞書である大修館廣漢和大辞典』に、

身毒シンドク・ケントク 中国の古典に見えるインドの古名。梵語Sindhuの音訳。〔史記、大宛傳〕其ノ東南ニ有リ身毒。〔注〕索隠ニ曰ク、身ハ、音乾。毒ハ、音篤。孟康云フ、即チ天竺也。所謂浮屠胡也。<上815-3>

とあり、同じく大修館諸橋轍次著大漢和辞典』巻十の身部「身」38034に、

身毒】89エントク・ケントク 國の名。印度の舊名。天竺。印度。〔史記、西南夷傳〕從東南身毒國。〔注〕索隠曰、身、音捐。毒、音篤。小顔亦曰捐篤也。〔史記、大宛傳〕其東南有身毒。〔注〕索隠曰、身、音乾。毒、音篤。孟康云、即天竺也、所謂浮屠胡也。〔漢書、西南夷傳〕從東南身毒國。〔注〕師古曰、即天竺也。亦曰捐篤也。〔後漢書、西域傳〕天竺國、一名身毒。<970−1>

とあって、これを云うのである。ここでは、概ね『史記』からその用例を引く。『運歩色葉集』が、室町時代にあって、この語をいち早く収載する点について注目したい。

2000年4月17日(月)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

初めてぞ 赤き色映え チュ−リップ

「天上天下唯我独尊(テンジヤウテンガユイガドクソン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天部」に、

天上天下唯我独尊(テンジヤウテンガユイガドクソン)佛誕生之時キ指フ天地ヲ曰。<元亀本249D>

天上天下唯我独尊(――――――――)佛誕生之天地曰。<静嘉堂本288F>

<天正十七年本>は未收載。

とある。標記語「天上天下唯我独尊」の語注記は、「佛、誕生の時き、天地を指さして曰ふ」という。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』には、

天上天下唯我独尊(テンジヤウテンユイガトクソン/ソラ―――タダワレヒトリタトシ)。<天態芸門718A>

とあって、標記語のみが収載されている。典拠は『伝灯禄』にあって、現代の国語辞書などでは、「(釈迦(シャカ)が誕生したとき、右手で天を、左手で地をさして言ったという語)天地間に自分より尊いものはない、の意」として記載されている。ここに『禅の友』<平成12年4月号>で特集“お釈迦さま”があり、本学の池田魯参先生が「まぶたの母」と題して、この語をこのように表現されている。

誕生仏は右手を高く上げて天空を指さし、左手は下げて大地を指しています。このお姿は、天地の間に産み出された人の命は代償の効かない、たった1つの尊い命であるということを表現しています。お釈迦さまは生まれるとすぐ七歩歩かれて、天と地とを指さし、「天上天下唯我独尊(テンジヤウテンユイガドクソン)といわれました。この意味は、天地の間でお釈迦さまの命は何ものにも代えがたい、たった一つの大切なものですという意味です。お釈迦さまの命がそうであるように、どの人の命も同じであるというのです。確かにどんな生命も、みな不思議なご縁をいただいて生存しています。

とお書きになっていて、国語辞書の記述より、このことばの持つ本質に触れられ、その尊さがまさに知られるのである。

2000年4月16日(日)雨のち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(玉川)⇒飯田橋(東京大神宮)

寒戻り 吉野つつじは 甦り

「假廬(かりほ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

假廬(カリホ) 山田守ル−。<元亀本94E>

假廬(カリヲ) 山田守――。<静嘉堂本117C>

假廬(カリホ) 山田守ル−。<天正十七年本上57ウE>

假廬(カリホ) 山田守ル−。<西來寺本167E>*元亀本・静嘉堂本・西來寺本は、「廬」の字「广+戸」に作る。

とある。標記語「假廬」の語注記は、「山田守る――」という。楚部の「僧都(―ツ) 聖家之宮。又山田、驚鳥之物也。備中湯川寺玄賓――始作之故呼曰――ト。」<静嘉堂本167D>の注記にいう「山田」であり、『運歩色葉集』編者は、この歌を理会していても、すべて引用しない方針であったことが、この注記から知られる。「山田守る」の歌としては、文明本『節用集』の「僧都(ソウヅ)」に、

僧都(ソウヅ)在秋田ニ鳥獣ヲ者也。或ハ搗(ツク)米ヲ水ノ器也。備中國温川寺ノ玄賓僧都始造之ヲ。故世俗名之。謂僧都(ソウツ)ト。有倭歌。山田守(モル)僧都(ソウヅ)ノ身コソ悲(カナシ)ケレ。秋終(ハテヌレ)ハ無(ナシ)問人(トウヒト)モ云々。

とあって、和歌、

山田守(モル) 僧都(ソウヅ)の身こそ 悲(カナシ)けれ 秋終(ハテヌレ)は 問ふ人も無し

を収載している。ここでは、『新千載和歌集』巻第五・秋歌下に、

475 山田もる かりほの庵に 露ちりて いなば吹きこす 秋の夕かぜ 前大納言爲兼

の歌を云うのであろうか。これ以前にも『古今和歌集』巻第五・秋歌下に、

306 山田もる 秋のかりいほに をく露は いなおほせ鳥の 涙なりけり たゞみね

の歌が広く知られ、これを「苅庵」「借廬」と表記して「かりほ」と読むことが知られている。

2000年4月15日(土)雨。東京(八王子)

初緑 潤ひましき 庭風情

「〓〔*+攵〕(をしう)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

? 〓〔*+攵〕(ヲシウ) −教也。尚云。惟−ハ學ノ半也。<元亀本86A>

? 〓〔*+攵〕(ヲシウ) −教也。尚書云。惟−ハ也。<静嘉堂本105F>

? 〓〔*+攵〕(ヲシウ) −教也。尚書云。惟−ハ斈ノ半也。<天正十七年本上52オE>

? 〓〔*+攵〕(ヲシユ) −教也。尚書云。惟−ハ斈ノ半也。<西來寺本152D>

とある。標記語「? 〓〔*+攵〕」の語注記は、「? 〓〔*+攵〕は教うなり。『尚書』に云く。惟(これ)? 〓〔*+攵〕は斈(まなぶ)が半(なかば)なり」という。『下学集』に、

〔*+攵〕(ヲシウ)教也。尚書ニ云。惟(コレ)〓(ヲシウル)ニ學フカ半(ナカハ)ナリ。<態藝75B>

文明本節用集』に、

(ヲシユ)。(同)。? 〓〔*+攵〕(同)教也。尚書曰。惟−ルハ学半(ナカラ)也。(同)。(同)。<態藝門232D>

とあって、標記語及び語注記も『下学集』、文明本節用集』と共通していることから、継承収載の語といえよう。

2000年4月14日(金)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

春うらら そよぐ若葉に 眼をやりて

「花鳥餘情(クワテウヨセイ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

花鳥餘情(クワテウヨせイ) 一条兼良作。<元亀本196@>

花鳥餘情(クワテウヨせイ) 一条ノ兼良御作。<静嘉堂本223C>

花鳥餘情(クワテウヨせイ) 一条兼良(カネヨシ)御作。<天正十七年本中41オC>

とある。標記語「花鳥餘情」の語注記は、「一条兼良の御作」という。ここで、天正十七年本だけが、「兼良」に読み仮名「かねよし」を添えている。さらに、静嘉堂本天正十七年本とが「御作」と敬意の接頭辞「御」を記述しているが、元亀本はこの「御」を欠く。このことから『運歩色葉集』編者と一条禅閤こと兼良との関係が些かなりとも見えてきていると考えるものである。兼良は、応仁の乱を避けていたころに筆を執り、文明四年十二月にこの『花鳥餘情』三十巻を完成させている。御年七十一歳のときである。この書名は兼良自らが名づけたことをその序文に記す。内容は、四辻善成の『河海抄』とともに、『源氏物語』(主に底本を河内本に拠っている)の注釈書である。『花鳥餘情』に書き漏らした難義十六条を考説したものに『源語秘訣』があり、その難語を簡略注釈したものに『源氏物語和秘抄』(先行書で、宝徳元年霜月の中五日に成る)がある。さらに源氏の年譜である『源氏年立』(享徳二年成立)が知られる。このなかで、兼良は「我国の至宝は源氏の物語に過ぎたるはなかるべし」といい、とりわけ文意の解明を旨としている。この注釈書は、大内左京大夫政弘が切に懇望し、文明八年七月『伊勢物語愚見抄』と一緒に自ら写して贈っている。この流布本には、嗣子冬良の補筆がなされている。当然、『下学集』は未收載にある。そして文明本節用集』は、ほぼ同時代のこの作品名を知っていたか、知らなかったかであるが、残念ながらこれも未收載にあり知り得ない。『運歩色葉集』編者がこの書名を収載した意図がどのような辞書規範に基づくものであり、これが何を意味するのか、さらに詳細に検討すべきことであることをここに記しておく。

2000年4月13日(水)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

おおそれと 汲み交はす 春の宵

「鑵窯(クワンエウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

鑵窯(クワンエウ) 茶椀。<元亀本189F>

鑵窯(クワンエウ) 茶椀。<静嘉堂本213D>

鑵窯(クワンエウ) 茶〓〔土+完〕。<天正十七年本中36オD>

とある。標記語「鑵窯」の語注記は、「茶椀」という。『下学集』は未收載にある。文明本節用集』に、

鑵〓〔「揺」の旁字〕(クワンヨウ/ツルベ、ホトキ)磁ノ類。<器材門506A>

とあって、語注記を「磁の類」とする。ここで、現代の小学館日本国語大辞典』を繙くと、

かん-よう【官窯】《名》中国の宮廷の窯。宋代のものが、最もすぐれた作品を焼出して有名。狭義には宋代のものをいう場合も多い。

かん-よう【漢窯】《名》中国の漢代に陶窯(とうよう)で作った陶器。漢の時代の焼物。

とあって、読み方は同じだが、異なる表記で二種の語が示されている。時代からすれば、「官窯」の方の意味になるかと思うのだが、確信のいく検証はできていない。

2000年4月12日(水)晴れ。東京(八王子) ⇒東中野〔中央大学〕

宙に舞ふ 花びらが先 鴬ぞ鳴く

「浦初鳥(うらのはつとり)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、

浦初鳥(ウラノハツトリ) 元方。拾。<元亀本183C>

浦初鳥(ウラノハツドリ) 元方歌。拾遺。<静嘉堂本347F>

浦初鳥(ウラノハツトリ) 元方歌。拾遺。<天正十七年本中32オE>

とある。標記語「浦初鳥」の語注記は、「元方の歌。拾遺(集)」という。注記の語である「元方」は、立項をみないが、在原元方(生没年未詳。棟梁の子、業平の孫)をいう。「拾遺集」は、志部に、

拾遺集(―――)一条院、長徳元年乙未勅撰也。至天文十七戌申五百六十四年也。<元亀本325C>

とある。正しくは、『拾遺和歌集』で、花山院の勅撰による、また、同時代に藤原公任が撰者である『拾遺抄』が編まれており、両者の関わりが混沌としている。実際、『拾遺集』には、「浦初鳥」の語は見えない。

下学集』は未收載にある。『節用集』類では、文明本節用集』に、

浦初島(ウラノハツシマホ、シヨ、タウ) 攝州。<宇部天地門467E>

とあって、この標記語「浦初島」と『運歩色葉集』の「浦初鳥」との文字表記、「しま【島】」と「とり【鳥】」の字形相似による異なりについても見据えておく必要があろう。実際、『八雲御抄』巻第五に、

41 うらのはつ−(後撰〔云〕、攝津国云々。可後撰歌。元方)<日本歌学大系別巻三・419L>

という部分がある。これに従えば、『拾遺集』ではなく、『後撰集』にあって、「元方」の作としているのである。これも『後撰集』巻第十一 戀三を検証してみると、

742あな恋しゆきてや見まし津の国の今も有てふ浦の初島 戒仙法師 <新大系216頁>

  ああ!恋しい。行けるものなら行ってみたいものだ。津の国の、今もあるという浦の初島を。

とあって、歌の作者は「戒仙法師」なのである。何故、これを「元方」の作としたのか?さらに、『運歩色葉集』は、これを継承してか、さらに『拾遺集』としているのである。

そして、現代の国語辞書にも「浦初鳥」は、未收載の語であることをここに指摘しておく。

2000年4月11日(火)晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

葉雑じりの サクラ並木に 和みつつ

「莫摘花菓(マクテキクワクワ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「滿部」に、

莫摘花菓(マクテキクワ/\)唐之鳥鳴聲。<元亀本209H>

莫摘花菓(マクテキクワ/\)唐鳥ノ鳴声。<静嘉堂本239A>

莫摘花菓(マクテキクワクワ)唐鳥之鳴声也。<天正十七年本中48ウF>

とある。標記語「莫摘花菓」の語注記は、「唐の鳥の鳴き聲」という。注記の「唐鳥」の語は賀部にも多部にも、そして本末の鳥の名にも立項されていない。『下学集』『節用集』類は未収載にある。鎌倉時代の古辞書『塵袋』巻第三・草鳥「尾長鳥ト云フハ、サ云ヘキ鳥ノアル歟」に、

オナカ鳥カケハ、サ云歟。ツネニハオシハカラヒカラトリト云モノカキテ、尾ナカキユヘニ、ヲナカ鳥ナラハせリ。但常陸風土記云。別リ∨鳥。名尾長ト|。亦号ス‖酒鳥ト|。其青鷺ニ|。取而略(ホヽ)似リ‖〓〔奚+隹〕ニ|。非、栖山野ニ|。亦住里村ニ|ト云ヘリ。<二二三〜二二四頁>

とあって、尾の長い鳥であること、形状は「頂きは黒く、尾は長く、色は青鷺に似たり。雀を取りて略(ホヽ)鷄の子に似たり」とあって、この内容からすると、この「唐鳥」は、「鳳凰」を云っているのであるまいか。鳴き声までは記述されていないのが残念である。また、「鸚鵡」の語は、元和本下学集』に、

鸚鵡(アウム)禮記ニ云ク、鸚鵡能ク言(モノイヘ)トモ不飛鳥ヲ。其ノ鳴ク聲常ニ叫(サケフ)煎茶(センサ)。<氣形58E>

とあって、その鳴き声を「煎茶(センサ)」としていることから、別であろう。

 さて、現代の国語辞書である小学館日本国語大辞典』には、

から-とり唐鳥】外国産の鳥。鸚鵡(おうむ)、錦鷄(きんけい)、孔雀(くじゃく)など。また、中国の想像上の鳥、鳳凰(ほうおう)をさす。*御湯殿上日記-文明一四年三月二一日「大納言殿よりから鳥いんこうまいる」*故実拾要-三「御帳台<略>其の一幅ごとに唐鳥・唐花等の縫ひあり」*談義本・根無草-前・三「両国永代の辺には、見せもの師甚多く、唐鳥(カラトリ)・熊女・碁盤女なども古(ふるく)」

とその記載を見る。ここにはその鳴き声の“聞きなし”である『運歩色葉集』の「莫摘花菓」の立項もその記述も見えていない。ここに列記されている「鸚鵡」「錦鷄」「孔雀」そして想像上「鳳凰」のどの鳥がこのように鳴くのかを文献資料の上でも確認すべきことである。が、現段階ではどのような資料に基づくものかが知られず未審である。

2000年4月10日(月)曇り、桜散る。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

西行が 臨みき姿 桜どれ

「至誠心(シジヤウシン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

至誠心(シジヤウシン)無余念義也。<元亀本321H>

至誠心(―――)無余念。<静嘉堂本379D>

とある。標記語「至誠心」の語注記は、「余念なき義なり」という。注記の「余念」の語は、与部に「餘念(−ネン)」<元亀本131C>と標記語だけが収載されている。『下学集』は未収載にある。『節用集』類は、文明本節用集』に、

至誠心(シジヤウシン/−セイ−、イタル・マコト・ココロ)無餘念義。<態藝門942B>

とあるのを筆頭に、『伊京集明応天正黒本易林と諸古写本に見え、語注記も共通する。江戸時代の『書字考節用集』には、

至誠心(シジヤウシン)。<十二言辞19B>

と、標記語のみを収載するに留まっている。

 この語は、現代の国語辞書『広辞苑』第五版によれば、

しじょう‐しん【至誠心】‥ジヤウ‥〔仏〕いつわりを離れた真実の心。往生を願う真心。三心の一。

とある。仏教語でとりわけ、阿弥陀如来を信じ、極楽往生を強く願う心を意味している。

[ことばの実際]

「行ヒ人ノ一人有ケルカ、コトニ至誠心ヲオコシテ、頭ヨリ黒煙ヲタテ、聲ヲツクシ汗ヲ流シ勇猛ニミテケリ」<慶長十年古活字版沙石集』巻第二「不動利益事」73左G>

2000年4月9日(日)晴れ。東京(八王子) ⇒新宿

かたかごの 斜面見上げて 春景色

「婆餅焦(ボビンゼウ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保部」に、

婆餅焦(ボビンゼウ)鶯ノ鳴声。<元亀本45I>

婆餅焦(ボビンシウ)鶯鳴声。<静嘉堂本51C>

婆餅焦(ホヒンシウ)鴬鳴声。<天正十七年本上26ウA>

婆餅焦(ボビシウ)鴬鳴聲。<西來寺本83C>

とある。標記語「婆餅焦」の詠み方は四本それぞれ異なる。総体の読み方としては、「ボビンシュウ」というところか。語注記は、「鶯の鳴声」という。この聞きなしは、日本風でないような感じを受けないではない。そして、この熟語漢字表記は、何によるのだろうか?『下学集』『節用集』類は未收載にある。

2000年4月8日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

入学式(花祭り⇒降誕会)

雪如く 散り積りける 桜花

「我是守門汝何処来(ガゼシユモンニヨガシヨライ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

我是守門 汝何処来(ガゼシユモン ニヨガシヨライ/ワレハコレカドヲマボル、ナンヂイツレノトコロヨリキタル)犬ノホユル音。<元亀本103B>

我是守門 汝何處来(ガゼシユモン ニヨガシヨラ)犬吠。<静嘉堂本130@>

我是守門汝何処来(カセシユモンニヨカシヨライ/ハレハコレカトヲマホル、ナンチハイツレノトコロヨリキタル)犬吠。<天正十七年本上63G>

我是守門汝何處来(カセシユモンニヨカシヨライ/----ハレヨリ‐−)犬吠。<西来寺本180B>

とある。標記語「我是守門 汝何處来」の語注記は、元亀本が詳しく「犬のほゆる音」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。

 犬が人を見て吠える声を“聞きなし”したとき、「ワンワン」「バウバウ」でなく、「ガゼシュモン、ニヨガショライ」と表現するということが実に奇妙である。この拠所を知りたいものである。

2000年4月7日(金)曇りのち晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

花散るや 昼下がりには 人の波

「八乙女(やをとめ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋部」に、

八乙女(ヤヲトメ)表胎蔵八葉之尊ニ|也。<元亀本204A>

八乙女(ヤヲトメ)表胎蔵八葉(ヨウ)之尊ヲ|也。<静嘉堂本231B>

八乙女(ヤヲトメ)表胎藏八葉之尊也。<天正十七年本中45オG>

とある。標記語「八乙女」の語注記は、「胎蔵八葉(ヨウ)の尊を表すなり」という。だが、注記の「胎蔵八葉之尊」については立項されていないため、この「八乙女」の語をどう解釈するのか不審となっている。“胎蔵曼荼羅”における中央の、「中胎八葉院」と呼ばれる中枢に、“毘慮遮那如来”こと“大日如来”が描かれ、ここには大乗仏教のあらゆる教えを取り込んでいるという。この“大日如来”と「八乙女」をどう結びつけているのかが、ここで表現されている語注記の内容理会になると考えるのである。大乗仏教における「八部衆」は、「天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩〓〔目+侯〕羅迦」であり、これに神に仕える巫女の数「八」が関連付けられ、結びついているのかと推測するに留まる。『日本書紀神代合解』(寛文四(1664)年三月下旬版)に、

所以哭者往時吾兒有八箇少女。毎年爲八岐大蛇所呑。今此少童且臨被呑。無由脱免。故以哀傷。

なくゆへはさきにあがこやつたりのをとめあり。としごとに、やまたのをろちのためにのまれき。いまこのをとめまたのまれなんとす。のがるるによしなし。このゆへにいたむとまうす。

とあって、「八箇少女(やつたりのをとめ)」との連関性はどうであろうか。如何?

下学集』は未収載にある。『節用集』類では、易林本節用集』の也部に、

八乙女(ヤヲトメ)−女(同)。仕。〔人倫136D〕

とあり、語注記内容を全く異にしている。『庭訓徃來注』八月十三日の状にも、

八乙女者曳イテ裙帯透廊(トウ−/スキ−)ニ|。〔謙堂文庫藏四八左H〕

とあって、「八乙女」の語は収載されているが、『運歩色葉集』の語注記に相当する語注記は見えない。江戸時代の『書字考節用集』も、

八乙女(ヤヲトメ)。<人倫四48A>

とあって、語注記を未収載にしている。

[ことばの実際]

八少女は 我が八少女ぞ 立つや八少女 立つや八少女 神のやす 高天原に 立つ八少女 立つ八少女 <古代歌謡集「風俗歌」大系443-24>

1 めづらしきけふの春日のやをとめをかみもこひしとしのばざらめや <歌合集・古代編〔二〕延喜21年五月京極御息所褒子歌合、大系68>

2000年4月6日(木)曇りのち晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

桜はな ちらほら舞ふや 香もなくは

「栄花物語(エイグワのものがたり)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「衛部」に、

栄花物語(エイグワノモノカタリ)四十帖。赤染衛門作。<元亀本337D>

栄花物語(ヱイグワノモノカタリ)四十帖。赤染衛門作。<静嘉堂本403F>

とある。標記語「栄花物語」の語注記は、「四十帖。赤染衛門作」という。王朝女流文学作品の書名を収載するのであり、他に『源氏物語』『伊勢物語』などと同じく一統の語群にある。語注記に、その帖数を「四十帖」と示すに留まり、帖ごとの巻名はここでは未収載とする。次に作者「赤染衛門」については「安部」に立項を見ない。『下学集』『節用集』類は未収載にある。

補遺>「四十帖」『本朝書籍目録』に共通する。現在、三条西家に伝来した梅沢本栄花物語』四十巻十七帖が最古写本と知られ、昭和10年国宝に指定、さらに昭和29年新国宝に再指定されている。巻名は順に「月の宴・花山たづぬる中納言・さまざまのよろこび・みはてぬゆめ・浦々の別・かゞやく藤壺・とりべ野・はつはな・いはかげ・ひかげのかづら・つぼみの花・たまのむらぎく・ゆふしで・あさみどり・うたがひ・もとのしづく・おむがく・たまのうてな・御裳ぎ・御賀・後くゐの大将・とりのまひ・こまくらべの行幸・わかばえ・みねの月・楚王のゆめ・ころものたま・わかみづ・たまのかざり・つるのはやし・殿上の花見・謌合・きるはわびしとなげく女房・暮まつほし・くものふるまひ・根あはせ・けぶりの後・松のしづえ・布引の滝・紫野」となる。

あかぞめゑもん赤染衛門】『拾芥抄』上・又歌人三十六人に、「赤染衛門 大隈赤染時用女。大江匡衡爲妻。鷹司殿女房」とある。「鷹司殿」は、藤原道長の北の方倫子を云い、ここに女房として宮仕えしていたことを示している。

2000年4月5日(水)雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

降りそそぐ 一味の雨や 傘走り

「祇陀林(ギダリン)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「比部」に、

祇陀林(ギタリン)茶臼之名也。<元亀本285E>

祇陀林(キダリン)茶臼之名。<静嘉堂本330C>

とある。標記「祇陀林」の語注記は、「茶臼の名なり」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。『日葡辞書』に、

Guidarin. ギダリン(祇陀林).Chausu(茶臼)に同じ.茶(cha)を碾く碾臼.<298r>

とあって、『運歩色葉集』の語注記内容に合致する。茶器の一種として、茶を碾く碾臼をこのように呼称するのである。本来の「祇陀林」は、中印度、舎衛国の祇陀太子所有の林で、後ここに須達長者が祇園精舎を建てたという地名の呼称である。この「祇陀林」に「茶臼」の別途名称としたその由来についての説明はここではなされていないのである。すなわち、なぜ「茶臼」を「祇陀林」と云うのか?についてである。その謂れについては、同志社大学名誉教授三輪茂雄さんの「ぎだりんとは?」に一つの考察結果をみることができる。以下文言を補訂して掲載する。

 天文二十三(1554)年刊の『茶具備討集』によれば、

茶ウス 祇陀院、昔、此の寺、一条京極にあり、門前に石匠有り。能く切磋琢磨して好き磨を出す。之を祇陀院と謂ふ。佐伯磨、丹波従出る。星磨、白點、星の如く、或いは海梅花の如し。

とあり、それは、京都御所の南、一条京極に“祇陀林寺”が当時あって、その門前に優れた茶磨師がいたので、茶臼のことを「ぎだりん」、またはこれをなまって「ぎんだり」などと呼んだという。ここでいう“祇陀林寺”は、幻の寺ともいわれ、どこにあったかははっきりしない。 “祇陀院”と言ったり、“ギダリン”と訛ってみたり、“ぎんだり”とも云ったようである。連歌集『新撰犬筑波集』(天文年間成立の俳諧連歌の撰集)の一節に

土佐までも くだりこそすれ 京の者

こはぎんだりの ちゃうすがめどの

 こでいう「京の者」というのは、応仁二(1468)年、土佐国中村へ都落ちした、前関白従一位で公卿の一条教房を指す。土佐の豪族、長曽我部は船を出して彼を迎え、高級な茶磨のなかでも最高級の“ぎんだりのちゃうす”とをかけている。ここでいう「ぎんだり」は、この「祇陀林」に通じている。

補遺ぎだりんじ祇陀林寺雍州府志・五9「祇陀林寺、七條南朱雀。古號觀喜寺、或稱廣幡院、元廣幡中納言庶明公之遺跡、而左大臣顯光公之宅地也。顯光遂捨宅、爲寺。釋尊爲本尊。多寄資料、官人等亦相共助力。諸堂成畢。供養日聚衆僧。及奏音樂。爾後西方院座主、院源於斯處舎利會。左大臣則授斯地於上人也。猶須達長者之造祇園精舎。故或號祇陀林寺。傳言、行基菩薩、見斯地。謂三災不動之地也。文徳天皇時、遷和州元興寺所有之勝軍地藏。又安一宇堂。自是世或呼朱雀權現堂|。宇多天皇。暫駐之。民部卿清貫亦來棲云。元天台宗也。故源信僧都亦住斯寺。今爲淨土宗。屬知恩院。」

2000年4月4日(火)晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

歩きつゝ 花の香を聞く 昼下がり

「四ケ太刀(しかのたち)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「比部」に、

四ケ(――)太刀。燕飛(ウンヒ)。燕廻(−クワイ)。遊雲(ユウウン)。鍔(ツハセメ)。<元亀本327A>

四ケ(――)太刀。燕飛。燕廻。遊雲。鍔攻。<静嘉堂本387E>

とある。標記語「四ケ」の語注記は、「太刀。燕飛(ウンヒ)・燕廻(−クワイ)・遊雲(ユウウン)・鍔攻(ツハセメ)」という。この語注記の「燕飛」は、衛部に

燕飛(エンビ)太刀。<元亀本336I>

燕飛(エンビ)太刀。<静嘉堂本402E>

とあり、「燕廻」も、続いて衛部に、

燕廻(ハンクワイ)。<元亀本336I>

燕廻(エンクワイ)太刀。<静嘉堂本402F>

とあり、「遊雲」は、遊部に、

遊雲(−ウン)兵法。<元亀本292B>

遊雲(−ウン)兵法。<静嘉堂本339A>

とあり、「鍔攻」は、津部に、

鍔攻(ツバゼメ)又鐔(ツカ)。<元亀本158F>

鍔攻(ツバセメ)又鐔(ツカ)。<静嘉堂本174C>

とそれぞれ標記語として立項する。『下学集』『節用集』類は未収載にある。

 これらを統括する標記語が「四ケ」である。現在の国語辞書にもこれらの語は未収載にある。

2000年4月3日(月)薄晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

春四月 桜の許に 人行き來

「一連・一聯(ひともと)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「比部」に、

一連(ヒトモト)鷹。又許。一聯()一条禅閤(カウ)書之。<元亀本345C>

一連(ヒトモト)鷹。又許。一聯()同。一条禅閤書之。<静嘉堂本415A>

とある。標記語「一連」と「一聯」という異なる表記法を示し、いずれも「ひともと」と和語の読みをする。実際、「伊部」の「一」の付く熟語群には未収載であるからして、字音語読みの「イチレン」はしないことが知られる。それぞれの語注記は、「鷹。また「許」(の字)」、「同じく、一条禅閤これを書く」という。『下学集』は未収載にある。『節用集』類は、文明本『節用集』に、

一職(ヒトモト/イチシヨク)或作一連(モト)一居(モト)。鷹。<数量門1037@>

とあって、標記語を「一職」とし、これに異なる表記の「一連」と「一居」を注記載する。用い方は、「鷹」とあって、共通する。また、排列位置を別にして、「一本(ヒトモトイチホン)」も収載する。このことは、文明本が別の草木などの数を読み上げる場合と鷹などの猛禽類の鳥を読み上げる場合とで区別して表記することを示唆しているのであろう。そしてここには、一条兼良の表記法「一聯」については未収載であることからして、この語注記は『運歩色葉集』独自のものといえよう。そしてまた、同時代を共有する編者と一条兼良との関係についても今後考察する必要があろう。さらに、当代の『日葡辞書』に、

Fitomoto.ヒトモト(一居・一本)鷹やその他の猛禽類の鳥を数えたり、根のついた草、または、根のついていない草を数えたりする言い方。また、酒を作り始める際のCoji(麹)と呼ばれる酵母や米の或る量を数える言い方。*鷹)原文はfalcoes,& gauioes〔tacaの注〕<249l>

とあって、その用い方が知られるのである。通常は、「一連」もしくは、「一許」と表記し、一条禅閤(兼良)は、「一聯」と表記したということを語注記するものである。現在、漢詩句などに「一聯」と用いるのは、字音読みで「イチレン」と呼称しているが、この当時は如何なものであっただろうか?

[ことばの実際]

この尋ねるすべもない哀しみは 或は 美しい銀貨で買つた一聯の音楽か <津村信夫『水沫』より>

一もとの 姥子の宿の 遅ざくら <富安風生>

2000年4月2日(日)薄晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

こぞりてぞ 木瓜連翹 雪柳

「諸具足面 (もろグソクメ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「毛部」に、

諸具足面(シヨグソク−)着巻帯太刀。曰――――メト也。<元亀本350H>

諸具足面(モログソクメ)着巻帯太刀。曰――――ト也。<静嘉堂本422B>

とある。標記語「諸具足面」の語注記は、「巻を着し、太刀を帯しを諸具足面と曰ふなり」という。すなわち、笂(うつぼ)を着け、太刀を帯びた完全なる武装をした面立ちをいうのである。『下学集』は未収載にある。広本節用集』は、「之部」に、

諸具足(シヨクソク、--タル/モロ/\−アシ)。〔態藝門931G〕

とあって、語注記は見えない。読み方は「シヨグソク」と音読みするのと、「もろグソク」と混種読みする両用であることが知られる。ただし、現代の国語辞書には後者の「もろグソク」の読みしか記載されていないのである。

[ことばの実際]

片小手に腹當して、諸具足(もろグソク)したる中間五百余人、二行(ガウ)に列を引き、馬の前後(ゼンゴ)に随(シタガツ)て、閑(シヅカ)に路次(ロシ)をぞ歩(アユ)みける。<『太平記』巻第六・関東大勢上洛事,大系一・198>頭注に「太刀を佩き、靫(ゆぎ)をつけ、弓を持った扮装」とある

2000年4月1日(土)晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

鴬の 枝に來鳴く 初音かな

「君澤畫 (グンタクがヱ)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

君澤畫(グンタクカエ)孫氏元朝人。斈馬遠憂陸。<元亀本197F>

君澤畫(クンタクヱ)孫氏元朝ノ人。学フ馬遠(ハエン)夏珪(カケイ)ヲ。<静嘉堂本222G>

君澤畫(―――)孫氏元朝人。斈馬遠夏珪。<天正十七年本中40ウF>

とある。標記語「君澤畫」の語注記は、「孫氏、元朝の人。馬遠(ハエン)・夏珪(カケイ)を学ぶ」という。注記の固有名詞「馬遠(ハエン)」「夏珪(カケイ)」は、標記語として載録を見ない。小学館日本国語大辞典』に、

ばえん馬遠】十二〜十三世紀の、中国南宋の画院画家。夏珪とともに南宋院体山水画の代表的画家で後世および日本の室町画壇に大きな影響を与えた。余白の多い狭い景観の構図を好み、そこに詩的情趣の表出をねらった。生没年不祥。

かけい夏珪】中国南宋の画家。字(あざな)は禹玉(うぎよく)。馬遠(ばえん)とともに南宋後半期の院体山水画を代表し、元、明をはじめ、わが国の室町中期以降の水墨画にも大きな影響を与えた。生没年不祥。

とある。当代の『下学集』『節用集』類はこれらの語を未収載にする。

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