[5月1日〜5月31日迄]                             

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

2000年5月31日(水)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

ふみきれば 一歩の走り ままゆくり

「田長(たをさ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多部」に、

田長(ーヲサ)時鳥。<元亀本140F>

田長(ーヲサ)郭公。<静嘉堂本150B>

田長(ーヲサ)郭公。<天正十七年本中7オ@>

とある。標記語「田長」の語注記は、元亀本は「時鳥」、静嘉堂本・天正十七年本は「郭公」という。これは、「たをさどり【田長鳥】」または、「しでのたをさ【死出田長】」の省略表現であり、「ほととぎす【杜鵑】」の異名語である。『下学集』は、

杜鵑(ホトヽギス)又云フ蜀魄([シヨク]ハク)ト。又云子規([シ]キ)ト。又云杜宇(トウ)ト。又云郭公云々。見事文類聚矣。事林廣記ニ呼テ鳩ヲ曰フ郭公ト也。<氣形59@>

とあって、標記語を「杜鵑」とし、静嘉堂本・天正十七年本の語注記「郭公」を「又云」形式で注記する。そして、元亀本の語注記「時鳥」、標記語の「田長」は未収載にある。また、文明本節用集』には、

四重田長(シデノタヲサ)又作四手(デ)ノ田長(タヲサ)ト。<態藝955G>

と、全名称語で収載が見られるのである。当代の『日葡辞書』にも、

Tauosa.タヲサ(田長) Fototoguisu.(ホトトギス)に同じ.ほととぎす.詩歌語.▼Quacco<.。<邦訳618l>

とあって、この異名語を収載する。江戸時代の『書字考節用集』には、

田長(タヲサ)杜鵑ノ一稱。益田家候テ其鳴ヲ與ス農事ヲ。故ニ云爾。出之。<五58F>

とあって、「杜鵑」の一称として記載する。語注記は、異なりを示している。

2000年5月30日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

艶ましき 緑葉照るや 汗拭ひ

「陶朱公(タウシユコウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多部」に、

陶朱公(タウシユコウ)越王勾賤臣范蠡亊。<元亀本143G>

陶朱公(タウシユコウ) 越王勾賤ノ臣范蠡亊也。<静嘉堂本154C>

陶朱公(―――) 越王勾賤臣范蠡事也。<天正十七年本中8オF>

とある。標記語「陶朱公」の語注記は、「越王勾賤が臣范蠡の亊」という。『下学集』には、

家督(カトク)一家ノ之惣領ナリ也。陶朱公(トウシユコフ)カ長子ヲ曰フ家督ト也。都督ノ義也。督ハ率ナリ也。<態藝78A>

とあって、態藝門「家督(カトク)」の語注記に見える人物名である。そして、この「陶朱公」その人物については立項を見ない。文明本節用集』も、

家督(カトクイヱ、タヾシ)一家之總領(ソウリヤウ)也。陶朱公長子曰‖――也。都督(トトク)ノ義也。督(トク)ハ率(ソツ)也。范蠡後(ノチ)ニ改テ名ヲ号(カウ)ス陶朱公。或称鴟夷子皮也矣。<態藝78A>

一家の總領(ソウリヤウ)なり。陶朱公の長子を家督と曰ふなり。都督(トトク)の義なり。督(トク)は率(ソツ)なり。范蠡、後(ノチ)に名を改めて陶朱公と号(カウ)す。或は鴟夷子皮と称すなりや。

と『下学集』の「家督」の語注記を継承し、「范蠡」以下の注記を増補している。江戸時代の『書字考節用集』には、

陶朱公(タウシユコウ)范蠡去テ越ヲ適キ濟ニ致リ産ヲ數万億。間行シテ而之(ユク)陶ニ。又富コト千金。後棄テ之ヲ徃テ蘭陵ニ賣ル藥ヲ。<人倫四30F>

とあって、室町時代の古辞書における語注記とは隔絶した別の注記内容となっている。これは、『韻府群玉』に、

陶朱公(タウシユコウ)范蠡去越浮海不返變姓名鴟夷子皮耕於海畔致産數萬齊欲以爲相乃去止于陶號―――(越世家)。〔『韻府群玉』東韻一36右B〕

とあって、茲に直接ではないが近似資料に依拠していることが知られるのである。また、「鴟夷子皮」の語は、文明本の増補部分に一致している称呼名である。

2000年5月29日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

暑き昼 疲れもなんぞ ひた走り

「凡垣下立(をしかいもとのあるじ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遠部」に、

凡垣下立(ヲシカイモトノアルシ)源氏。<元亀本83@>

凡垣下立(ヲシカイモトノアルジ)源氏。<静嘉堂本102B>

凡垣下立(ヲシカイモトノアルシ)源氏。<天正十七年本上50ウB>

凡垣下立(ヲシカイモトノアルシ)源氏。<西来寺本>

とある。標記語「凡垣下立」の語注記は「『源氏(物語)』」とただその典拠を示す。その『源氏物語』に、

さるは、もの笑ひなどすまじく、過ぐしつつ静まれる限りをと、選り出だして、瓶子なども取らせたまへるに、筋異なりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器とりたまへるを、あさましく咎め出でつつおろす。「おほし、垣下あるじ、はなはだ非常にはべりたうぶ。かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてや、朝廷には仕うまつりたうぶ。はなはだをこなり」など言ふに、人々皆ほころびて笑ひぬれば、また、「鳴り高し。鳴り止まむ。はなはだ非常なり。座を引きて立ちたうびなむ」など、おどし言ふも、いとをかし。<大島本・少女>

高千穂商科大学渋谷栄一さんの解釈語注記には、【おほし垣下あるじ】?以下「をこなり」まで、博士どもの詞。『集成』「「凡し」。総じての意。大学内で用いられた特殊の語であろう」。『完訳』「「凡そ」の転。「はなはだ」「非常」も漢文訓読調。儒者らしい語」と注す。

岩波大系本の頭注には、凡そ−おほし(大体)、上達部が相伴の人の座席に着いて、饗応(あるじ)を受ける事は、甚だ」稀(非常)−例外で御ありなさる。「上達部殿上人達が、儒者等の中に加わるのは、身にあまる忝い事である」と、儒者達が、酒にも酔い威張っても言うのである。「かいもと」は垣下で「ゑんが」略して「ゑが」とも言う。「垣下の座」の略。饗応の時、正客(夕霧)以外の相伴の人の座である。「おほし」「甚だ」「ひざう」などは、一般には用いなかったが、儒者は漢文に慣れて居るから用いた。<二279F>

とあって、「おほし、垣下あるじ」とする。一条禅閤の『花鳥餘情』に、

23をしかいもとあるしはなはたひさうにはへたふ(670I・279)別にしるへし

とあって、その漢字表記「凡垣下立」の「」の字については、ここでは触れていない。

2000年5月28日(日)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川)⇒生田(専修大学)国語学会

一走り 暑さは風に 背の汗か

「羽音(ぶためく・ふためく)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「部」に、

羽音(ブタメク)新札。<元亀本225@>

羽音(フタメク)新札。<静嘉堂本257G>

羽音(フタメク)新札。<天正十七年本中58オB>

とある。標記語「羽音」の読みは「ぶためく」<元亀本>と「ふためく」<静嘉堂本>とあって二分する。そして語注記を「新札」としている。この語注記「新札」は、「志部」に、

新札(―サツ)。<元亀本312E>

新札(―サツ)。<静嘉堂本366@>

とあって、こちらは標記語のみで語注記は未記載にある。この両語の結びつきを求めてみるに、まず、「ふためく」は、現代語にいう「あたふたする」の擬態語「ふた」であり、これに接尾辞「めく」が付いたもので、「バタバタと暴れまわる」さまを表現している。これに鳥が羽を「バタつかせる」音ということで、「羽音」と表記するのであろうか。これに「新札(シンサツ)」すなわち、新年の書状を注記するのであるから、現代人の私たちも年頭のご挨拶たる年賀状(書状)をあわてふためき書き送るという様子から推して見るに、当代の世相風俗が今日とさほど変わらぬものであって、そうしたことがこの語から窺えてくるのである。この意味で「羽音」と「新札」の語とが繋がっているのであるまいか。文明本節用集』には、

咄〓〔鳥+集〕(フタメク/トツ・ノル)。<態藝門649F>

〓〔音+羽〕(フタメク)。<態藝門651G>

とあって、後者の単漢字は分解すると「音」「羽」となり、『運歩色葉集』に通ずる。ここには語注記は見えていない。

[ことばの実際]

 反省することも一つ。天気3で鯛の磯釣りに挑戦!今まで釣りをしても釣れたことのない私の竿にもついに・・・!!う?ん、人生で初めて釣った魚が鯛なんて、めでたい・・・と、ここまでは、まあよかったのですが・・・予報に入ってから、その鯛が大暴れ。慌てふためくスタッフに思わず笑いがこみ上げてしまいました。<2年目女子アナ馬場典子“いつも心に太陽を”「魚と私」より>と、「あわてふためく」と表現する。

2000年5月27日(土)曇りのち雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇒生田(専修大学) 国語学会

傘持ちて 行くか否かは 蟻の穴

「鞦(しりかい)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

〓〔革+龝〕(シリカイ)連索―。富士野往来。一懸ト云也。<元亀本333E>

()連索。富士野往来。一懸ト云也。<静嘉堂本397E>

とある。標記語「」の語注記は、「連索―『富士野往来』。一態と云ふなり」という。また、「遠部」に、

織鞦(シリガイ)今(イマ)之坂東鞦亊也。<元亀本77G>

織鞦(―シリガイ)今之坂東鞦亊。<静嘉堂本95@>

織鞦(ヲリシリカイ)今ノ坂東鞦之事也。<天正十七年本上47オE>

織鞦(――)今{坂}東鞦亊。<西來寺本139C>

とあって、標記語「織鞦」の語注記は、「今(イマ)の坂東鞦の亊なり」という。ここで、上記「」の語注記にみえる、「連索」を「礼部」に、「富士野往来」を「福部」に、「一懸」を「比部」にそれぞれ見ると、「連索」は、

連索(―ジヤウ)負。<元亀本149B>

連索(レンジヤク)負。<静嘉堂本162C>

連索(―シヤク)負(ヲイ)ノ。<天正十七年本中13オC>

とあって、語注記を「負ふ」としている。「富士野往来」は未記載にある。「一懸」は、

一懸(―カケ)魚。山鳥。雉。<静嘉堂本415C>

とあって、この「ひとかけ」という数名詞の語注記には、「」の語のいうところの「ひとがけ」が含まれていないことが知られよう。

次に下記の「織鞦」について、同じように「坂東鞦」を「葉部」に求めてみるが、これも未記載にある。さらに「〇鞦」となる語を逆引き辞書にならってみると「福部」に、

総〓〔革+龝〕(フサシリガイ)鞦。負物(フモツ)。<元亀本224D>

総鞦(フサシリガイ)。負物(フモツ)。<静嘉堂本257A>

総〓〔革+龝〕(フサシリガイ)鞦。負物(フモツ)。<天正十七年本中58オ@>

とあることから、統括標記語を「」として、全てでないにしても語注記から立項した標記語に見える記述をうまく繋ぎ合わせてみると、編纂過程のなかでそれぞれの語と語とが常に連関していることが見えてくるのである。『下学集』には、

(シリガイ)。<器財117@>

と、『運歩色葉集』でいうところの統括標記語のみの記載にある。

2000年5月26日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇒青山 訓点語学会

朝の駅 人楽に乗るや 混み車

「鵜羽湯(うばゆ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「宇部」に、

鵜羽湯(ウバユ)又産湯。<元亀本183B>

鵜羽湯(ウバユ)又産湯。<静嘉堂205G>

鵜羽湯(ウフユ)又産湯。<天正十七年本>

とある。標記語「鵜羽湯」の読みだが「うばゆ」とする。天正十七年本は、これを「うふゆ」と訓をしている。語注記は、「また「産湯」」という。語注記の「産湯」は、同じく「宇部」に、「産湯(―ユ)」<元亀本179C>と標記語のみで語注記は見えない。『下学集』『節用集』類は未収載にある。小学館『日本国語大辞典』に、『神道集』二・六に、「鵜羽湯を浴せずして殺せる罪の深きと仰せられて泣き給へば」といった用例を示すものである。この語源は「乳母&姥」+「湯」に通ずるものか。「うむ」と「うぶ」は、音相通例として「産む」と「産ぶ」であり、連関することばとして捉えることができる。表記の字「鵜羽」+「湯」とすることが何に基づくかを知りたいところでもある。

2000年5月25日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

草刈りて 匂ひは夏に 味も向き

「呪詛(うけゑ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「宇部」に、

(ウユユ)伊勢物語。定。<元亀本181A>*「詛」の字を「祖」の字と重ね書きにする。

呪詛(ウケヱ)伊勢物語。定。<静嘉堂本203B>

呪詛(ウケエ)伊勢物語。<天正十七年本中31オ@>

とある。標記語「呪詛詛」の語注記は、「『伊勢物語』。定(家仮名遣い)」という。この典拠だが、『伊勢物語』の本文にこのような語は見当たらないことから、古注釈の用語かもしれない。また、この語を音で標記するとき「ジュソ」となり、「志部」に、「呪詛(シユソ)」とあって、語注記は未記載にある。そして、『下学集』及び文明本節用集』は未記載にある。また、現代の国語辞典には、この語を収載していないのである。実際、真字本『伊勢物語』卅二(寛永廿(1643)年癸未九月吉日二条通鶴屋町澤田庄左衛門板行」の刊記)や旧本『伊勢物語に、

科裳無人乎咒詛者忘草巳之上尓社負常云成

つみもなきひとをうけへハわすれくさをのかうへにそおふといふなる

とあって、この真字本からの引用典拠であることが知られるのである。この書の解説に、

平安末期から鎌倉初期の文献には伊勢物語真名本についての記述が全くみられないが、『河海抄』には多くの引用があり、真名本自体は南北朝以前の成立ではあると思われる。

というように、『運歩色葉集』語注記の『伊勢物語』は真字本収載の語を引用していることを茲に記しておく。

[補遺] m.midorikawさんからの助言

平凡社の『大辞典』には次のように出ています。

ウケイ うけひ 神の命を祈請(こひう)くる意の語。語原未詳。一説に請言(うけいひ)の義であるといひ(谷川士清)、受魂(うけひ)の義ともいふ(久米邦武)。…(四)神に祈って咒ふこと。咒詛。のろひ。かじり。とこひ。ウケウ うけふ …(四)神に祈って咒ふ。源氏・藤袴「いかで人わらへなるさまに見聞きなさむと、うけひ給ふ人人も多く」

伊勢物語』三一では、「罪もなき人をうけへば忘れ草おのが上にぞ生ふといふなる」

と使われています。

2000年5月24日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

深層水 氷容れ呑む 暑さかな

「はく(吐)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

   吐(ハク)自口。<元亀本36B>

   吐(ハク)自口。<静嘉堂本38E>

   吐(ハク)自口。<天正十七年本上20オB>

   吐(ハク)自口。<西来寺本>

とある。標記語「」の語注記は、「口より(吐く)」という。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』は、

      (/ハク)。 <態藝83F>

とあって、語注記は未記載にある。『和漢通用集』には、

      (はく/はなす)雑談。<47E>

とあって、「はく」の「」の字と、「はなす」の「」の字とが字形相似によって、同一の標記語として取り扱われている。このような表示は、弘治二年本節用集』にも、

   吐(ハナス)雑談。咄イ。(ハク)。<言語進退22F>

と同様な記載が見られる。慶長九年本節用集』には、

   吐(ハク)津ヲー。<言語35D>

とあって、語注記に「津を吐く」としている。村井本も同じく「−津」と語注記する。また、字書である慶長十五年版倭玉篇』も、

      (/ハク)。<83A>

とあって、文明本節用集』と同じである。 

 

2000年5月23日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

初夏思ひ 来たる人には 冷やし水

「藺手屋形(いでのやかた)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊部」に、

藺手屋形(イデノヤカタ)曽我。<元亀本17A>

藺手屋形(イテノヤカタ)曽我。<静嘉堂本11A>

<天正十七年本はこの語を欠く>

藺手屋形(イデノヤカタ)曽我。<西来寺本>

とある。標記語「藺手屋形」の語注記は、「曽我」という。そしてこの語注記「曽我」を「楚部」に引くに、「曽我(ソガ)」<元亀本154B>とあるに留まり、語注記は未記載にある。実際、『曽我物語』に、

日暮、君、井出の屋形へ入給ひしかば、國々の大名・小名、御供してぞかへりける。<大系323E>

とあって、これに拠るものである。また、『吾妻鏡』建久四年五月十五日の条に、

五月十五日 庚辰   藍澤の御狩りの事終わって、富士野の御旅館に入御し玉ひ、南面に当たって五間の仮屋を立つ。御家人同じく軒を連ぬ。狩野の介は路次に参会す。北條殿は予めその所に参候せられ、駄飼を献ぜしめ給ふ。今日は齋日たるに依って御狩り無し。終日御酒宴なり。手越、黄瀬河以下の近辺の遊女群参せしめ御前に列候す。而して里見の冠者義成を召し、向後は遊君別當たるべし。只今則ち彼等群集し頗る物忌なり。傍らに相率いて芸能者を撰び置き、召しに随ふべきの由仰せ付けらる。その後遊女の事等、訴論等に至って、義成一向にこれを執し申す。

と記すところであり、ここでは「藍澤の御狩りの事終わって、富士野の御旅館に入御し玉ひ、南面に当たって五間の仮屋を立つ」としている。『下学集』及び『節用集』類は未収載にある。

2000年5月22日(月)晴れ一時曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

風なけど どこからともや 笹葉散り

「馬衣・馬絹(むまきぬ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「牟部」に、

馬衣(−キヌ)祝言忌之。馬絹(−キヌ) 祝言忌之。<元亀本176B>

馬衣(−ギヌ)祝言忌之。馬絹(−キヌ) 祝言可書之。<静嘉堂本196E>

馬衣(−キヌ)祝言ニハ忌之。絹ト云字可書也。<天正十七年本中28オA>

とある。標記語「馬衣」と「馬絹」の語注記は、元亀本はともに「祝言これを忌む」というものである。静嘉堂本は、「馬衣」の語注記を「祝言これを忌む」とし、「馬絹」の語注記を「祝言これを書くべし」とする。天正十七年本の語注記は、「祝言これを忌む。絹と云ふ字を書くべきなり」という。以上三本の標記語及び語注記に異なりが見えるが、正しくは静嘉堂本の標記語と語注記内容というところである。『下学集』や文明本節用集』は未收載にある。易林本節用集』には、

馬被(ムマギヌ)。<食服114D>

とあって、標記語を「馬被」とし、語注記は未記載にある。また当代の『日葡辞書』に、

Vmaguinu.ウマギヌ(馬衣) 馬にかぶせ着せる毛布.<邦訳691r>

と見えている。古くは、源順和名類聚抄』に、

馬衣 左傳注云馬褐<无麻岐沼>馬被也。

とある。これらの資料から馬の胴から腹にかけて覆う布帛をいうことが知られる。この『運歩色葉集』の注記からして、祝言のときの「むまぎぬ」は、「馬絹」の表記漢字を宛てたということが記述されているが、この語注記の典拠を調べてみる必要がある。また、現在、神奈川県川崎市宮前区の地名に「馬絹(まぎぬ)」があり、ここには終末期古墳である「馬絹古墳」が知られている。

[ことばの実際]

くる年のむまきぬなりや朝霞〔定時〕<俳諧『毛吹草』五>

2000年5月21日(日)曇り。東京(八王子)⇒

燕飛び 巣づくりせむや 軒の家 

「韋駄天(イダテン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊部」に、

韋駄天(イタテン)一時ニ廻三州也。<元亀本15B>

<静嘉堂本・天正十七年本・西來寺本はこの語を欠く>

とある。標記語「韋駄天」の語注記は、「一時に三州を廻るなり」という。この標記語及び語注記は元亀本のみの収載であり、『下学集』『節用集』類も未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、

韋駄天(イダテン)事ハ見[金光明經]。<神祇三2B>

とその典拠である『金光明經』を示す語注記に留まるもので、その詳細なる意義内容は未記載にある。

 現代の国語辞書『大辞林』第二(CD-ROM)版に、

いだてん ダ- [0] 【韋駄天】〔梵 Skanda 塞建陀と音訳〕(1)バラモン教の神。シバ神の子。仏教に入って仏法,特に僧や寺院の守護神。捷疾鬼(シヨウシツキ)が仏舎利を持って逃げ去ったとき,これを追って取り戻したことからよく走る神として知られる。増長天八将軍の一。四天王三十二将の長。(2)足の速い人。

とあって、『運歩色葉集』の示す、「一時に三州を廻る」といった事柄はここには見えていない。

[ことばの実際]

釋尊御入滅の刻み、金棺未だ閉ぢざる時、捷疾鬼と云ふ鬼神、潜かに雙林の下に近付いて、御牙を一つ引缺いて、是を取る。四衆の佛弟子、驚き見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四萬由旬を飛び越えて、須弥の半ば四王天へ逃げ上ぼる韋駄天追ひ攻め、奪ひ取り、是を得て、其の後、漢土の道宣律師に與へらる。尓(しかつし)より以來(このかた)、相承(サウジヤウ)して、我が朝に渡(わたり)しを、嵯峨天皇の御宇に、始めて此寺に安置(アンヂ)し奉らる。<『太平記』巻第八・谷堂炎上の事、大系一274K>

2000年5月20日(土)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

雨つづき 傘も離せず 夜となり

「蒭蕘(スウゲウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「須部」に、

蒭蕘(スイチウ) 苅草−採柴。毛詩トス于ーー。<元亀本360H>

蒭蕘(スウゲウ) −苅草−採柴。毛詩詢于ーー。<静嘉堂本439D>

とある。標記語「蒭蕘」の読み方が元亀本と静嘉堂本とでは異なるが、今は「スウギョウ」と読みおく事にする。語注記は、「は草を苅る、は柴を採る。『毛詩』に蒭蕘に詢(と)ふ」。『下学集』には、

蒭蕘(ウセウ/−ゲウ)蒭ハ刈(カル)草ヲ者也。蕘ハ取柴(シハ)ヲ者毛詩ニ詢(トウ)蒭蕘。<人倫40A>

とあって、この語注記を継承するものであることが知られる。文明本節用集』に、

蒭蕘(スウセウ)蒭刈(カル)草者、蕘採(トル)柴者毛詩詢ル于――ニ。<人倫門1123B>

先民(センミン)有(アリ)言(イヘル)コト詢(ハカル)ト蒭蕘(スウゼウ)ニ毛詩。<態藝門1088B>

詢(トエ)蒭蕘(スウセウ)ニ不(ザレ)恥(ハヂ)下問(カブン)ニ李充。<態藝門1131D>

とあって、『下学集』を継承する。当代の『日葡辞書』にも、

Su<qio>.スウキョウ(蒭蕘).すなわち,Cusa caru vonoco.(草刈る男)草を刈る卑しい男.*“蒭蕘”は正しくは“スウゼウ”で、弘治二年本・永禄二年本『節用集』にはこの形をのせているが、字形にひかれてか、“スウゲウ”とよむこともあって,黒本本『節用集』やキリシタン版落葉集にその例がある.本書も後者の慣用によったものと見られるが,清音形は疑問.意味の説明も不充分で“蕘(きこり)”に対する説明を欠くが,一般には漢語の意味を正確には解せぬまま,未分の卑しい者の意に用いられたことを示すものか. <邦訳590l>

と、この「蒭蕘」の読み方について言及されている。そして、「スウゼウ」⇒「スウゲウ」、さらにここから、「スイチウ」や「スイキョウ」などの読みの表記がなされているのである。鎌倉時代の『塵袋』巻第八・雜物に、

ノ字ヲカリクサトヨムハ、苅草(カリクサ)ノ心歟。  字ノ釈ニハ乾(カン)草也{ママ}云ヘリ。カラクサトイフヘキ也。ホシ草也。サレトモ今ハ偏ヘニカリタルヲハナマシケレトモ、コレヲ用テカリクサトノミ云フ歟。〔日本古典全集598〜599頁〕

とあって、「」の字についてのみの語説明が見られる。江戸時代の『書字考節用集』には、

蒭蕘(スウゼウ)出幾。<人倫四93E>

樵夫(キコリ)[漢書音義]−ハ取ル薪ヲ者也。芻蕘()[毛詩註]采(トル)薪ヲ者[韻會]刈ヲ草ヲ曰−采薪ヲ曰蕘。<人倫四71E>

とこの語を新たに典拠そのものを示しなおして記載している。

[ことばの実際]

草曰芻。薪曰−。蒭蕘詢于――(板詩)○――者徃(孟)。<『韻府群玉』蕭韻二069右B>

蕘(ぜウ)草ヲ曰∨芻ト、ヲ曰∨−ト、蒭蕘ハ二字ナカラ草ノヤウニ心タソ。スウセウハ草カリノイヤシイ者ノ名ニ心エタソ。木コリ草カリニシワケタソ。蒭蕘詢(トウ)于−−ニ[板詩]板ノ詩ハ毛詩ノ第十七ニアリ。大雅ノ部ナリ。此ノ詩ハ凡(ハン)-伯ノ励(レイ)王ヲソシツタソ。<『玉塵抄』十七162H>

2000年5月19日(金)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

薔薇咲きて 濡れ縁に立ち 香り来る

「于思(ムクヒゲ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「牟部」に、

于思(ムクヒゲ)――ニ甲(ヨロイ)ヲ弃(ステ)復来ル。左。<元亀本176C>

于思(ムクヒゲ/ムサイ)――ニ弃(ステ)ヽ∨甲(ヨロイ)ヲ復来ル。左傳。<静嘉堂本196G>

<「天正十七年本」は欠語>

とある。標記語「于思」の語注記は、「甲(ヨロイ)を弃(ステ)て于思に復た来たる。『左傳』」という。すなわち、むくむくと生やしたひげをこう云うのである。『下学集』には未収載にある。文明本節用集』には、

于思(ムクヒゲウサイ、ユク・ヲモフ)左傳在之。<支體門461@>

とあって、語注記は典拠である『左傳』を示すことだけに留まっている。また、天正十八年本『節用集』には、

于思(ムクヒゲ)左傳云、〓〔髟+于〕〓〔髟+思〕。<支体上39ウ@>

とあって、標記語「于思」ではなく、「于思」の上に「髟」を冠した表記字が記載されているのである。実際、『春秋左氏傳音義』に、

于思于思 如字又西才反。多鬚皃。賈逵云、白頭皃。<二75オ@>

とある。

2000年5月18日(木)雨のち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

緑雨 煙るごときは 傘たたみ

「社稷(シヤシヨク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

社稷(−シヨク)守護神ノ亊。<元亀本311F>

社稷(−シヨク)守護神亊。<静嘉堂本364E>

とある。標記語「社稷」の語注記は、「守護神のこと」という。「社」は土地の神、「稷」は穀物の神で、昔、天子・諸侯は、宮殿の右(西方)にこの二神を祭ったことから、のち転じて、国家の意に用いる。『下学集』には、

社稷(−シヨク)守五穀神也。<神祇35C>

とある。文明本節用集』にも、

社稷(シヤシヨクヤシロキビ)守五穀神也。<神祇門915C>

とあって、語注記も「五穀を守る神なり」と『下学集』の注記内容を継承するものである。江戸時代の『書字考節用集』にも、

社稷(シヤシヨク)−ハ祭ル土ヲ。稷ハ祭五穀之長ヲ也。朱子ノ云。―ハ土ノ神。稷ハ穀ノ神。建國則立壇〓〔土+遺〕ヲ以祀ル之。<神祇門三27E>

とある。

[ことばの実際]

祀稷 稷田正也。烈山氏之子曰柱爲稷自夏以土−之周棄亦爲ー自商以來祀之(左)自漢以來禹配社稷配稷。<『韻府群玉』職韻五337右E>

先君以寡人賢、使社稷。<『春秋左氏傳』隠公>

2000年5月17日(水)曇りのち雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

雨雲に 覆われどろり 人は内

「〓〔糸+弗〕(やりなは)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「屋部」に、

〓〔糸+弗〕(ヤリナハ)犬。<元亀本205G>

〓〔糸+弗〕(ヤリナハ)犬。<静嘉堂本>

〓〔糸+弗〕(ヤリナハ)犬。<天正十七年本>

とある。標記語「〓〔糸+弗〕」の語注記は、「犬」という。通常は「遣縄」と表記して、犬・馬そして牛などにつけて、人が引き操るのに用いる「縄」の呼称である。『下学集』『節用集』類は未収載にある。当代の『日葡辞書』に、

†Yariuaua.ヤリナワ(遣縄).犬を狩につれて行くのに使う引綱.<邦訳811r>

とある。この『運歩色葉集』の単漢字「〓〔糸+弗〕」だが、『廣韻』によれば、「〓〔糸+孛〕大索、葬者引車、〓〔糸+弗〕、上同」とあって、喪車の引き綱をいうのだが、この表記を当時、犬などの引綱にも用いたということになる。『韻府群玉』には、「〓〔糸+弗〕亂絲」<五135左I>とある。鎌倉時代の『字鏡集』絲部に、「〓〔糸+弗〕(フツ・ヒ)[同単漢字ハ省略]ハナタリ、クルマノナハ、ウシノツナ、ナハ、ミタレタルアサ、ミタル、棺ノヒクナハ」<白河本790A>とあって、「牛の引き綱」の意を表す訓が見えている。『聚分韻略』勿第五には、「〓〔糸+弗〕(ホツ/フ)ウシノツナ、葬車大索」<慶長壬子版70ウB>「〓〔糸+弗〕(フツ/)葬車大索」<文明辛丑版・器財門73オD>とあり、当代の字書である慶長十五年版倭玉篇』には、「〓〔糸+弗〕(ボツ/ブツ)ゼンノツナ、引棺索也」<443F>とあるにすぎない。

[ことばの実際]

 なのめならず悦て、尋常にしやうぞき、ふところよりやり縄とりいだしつけかへ、涙にくれてゆくさきも見えねども、袖をかほにをしあてて、牛のゆくにまかせつゝ、なく/\や(ッ)てぞまかりける。{頭注}牛馬などを引く縄<『平家物語』大系下・351M>

 「犬の遣縄は三ひろ一寸也。」<『甲陽軍鑑』品45>

2000年5月16日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

道草も したくなりそな 青葉映ゆ

「楊茂(ヤウモ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「屋部」に、

楊茂(ヤマモヽヤウモ)盆香合彫工也。堆紅ニ多シ之。<元亀本203G>

楊茂(――)盆香合彫工也。堆紅ニ多之。<静嘉堂本230F>

楊茂(ヤウモ)盆香合彫。堆紅ニ多之。<天正十七年本中45オD>

とある。標記語「楊茂」の読みは、元亀本語が天正十七年本と共通する「ヤウモ」の読み以外に、傍訓として「ヤマモヽ」とある。この「やまもも」であれば、「楊梅」の字をもって表記する。そして語注記は、「盆・香合の彫工なり。堆紅にこれ多し」という。この「楊茂」なる語は、当代に知られた彫工師の名である。『下学集』『節用集』類は未収載にあり、現代の国語辞典・漢和辞典にも未記載の語である。

 さて、語注記の「堆紅」なる語を求めてみるに、『運歩色葉集』に、

堆朱(ツイシユ)。堆紅(−コウ)。<元亀本157H>

とあって、語注記は未記載にある。『下学集』には、

堆朱(ツイシユ)。堆紅(−コウ)。<器財105@>

とあって共通し、文明本節用集』にも、

堆朱(ツイシユタイ,ウヅタカシ、アカシ)。堆紅(−コウ/−クレナイ)二共、盆(ボン)香合(カウバコ)ニ在之。<器財門414E>

とあって、ここには語注記「二共、盆(ボン)香合(カウバコ)にこれあり」と記述する。この「堆紅」は、漆藝の一種であり、中国では宋代に始まり、元・明代に最も盛んとなって、元末の張成と楊茂の二人は名工として知られたのである。これは、唐物の一つとして渡来し、室町時代にあって、堆朱楊成が現われ、その技法を子孫に伝えたという。

[ことばの実際]

「仍香合一〔堆朱作楊茂〕盆一枚〔堆朱〕遣之候」<『上杉家文書』天文二十一年四月八日・細川晴元書状(大日本古文書一・441)>

2000年5月15日(月)曇り後雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

つばくろや 低き滑空 空もよひ

「鹿切(シヽキル)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

鹿切(シヽキル)筋(スヂ)ヲ多ク而不剪故也。<元亀本311D>

鹿切(シヽキル)筋多而不剪故。<静嘉堂本364B>

とある。標記語「鹿切」の語注記は、「筋(スヂ)を多く、しかうして剪られず故なり」という。この「鹿」の字を「しし」と読み、本来は「肉」を意味する。「鹿(しか)」そのものは、本邦に広く生息していて「獣肉」といえば「鹿(しか)」というほどであり、この字を用いているのであるまいか。『下学集』『節用集』類は未収載にある。そして、現代の国語辞書においても未記載の語である。

2000年5月14日(日)曇り一時晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(砧公園→駒沢)

日差し在り 樹幹を抜く 爽やかさ

「短夜(ミジカヨ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「見部」に、

短夜(ミシカヨ)五月。<元亀本301B>

短夜(ミシカヨ)五月。<静嘉堂本350G>

とある。標記語「短夜」の語注記は、「五月」という。夜の時刻が最も短い季節として「五月」をここではいうのである。『下学集』『節用集』類は未収載にある。

[ことばの実際]

霍公鳥 來鳴く五月の 短夜も 獨りし寢れば 明しかねつも <『万葉集』巻第十・1981>

ホトトギスがやって来て鳴く五月の短夜も、独りで寝ると、なかなか明かしかねることである。

短夜や 乳ぜり啼く児を 須可捨焉乎(すてつちまをか)  竹下しづの女 <定本『竹下しづの女句文集』より 短夜の乳飲み子と母>

《産んで間もないわが子が乳を求めてさかんに啼く。夜昼と啼くので……。この児を万葉仮名表記にして「須可捨焉乎(すてっちまをか)」と呟いてみるのだ。》

2000年5月13日(土)曇り後雨。東京(八王子)⇒竹橋〔国立公文書館〕

古書・古文書にみる歴史人物展”観覧

傘も無し 雨に打たるや 緋の牡丹

「連枝(レンシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「禮部」に、

連枝(レンシ)曰兄弟之事ヲ。<元亀本149A>

連枝(レンシ)曰兄弟之事ヲ。<静嘉堂本162C>

連枝(レンシ)兄弟云也。<天正十七年本中13オC>

とある。標記語「連枝」の語注記は、「兄弟のことを曰ふ」という。木の枝が本を同じくして連なっていることから同胞の兄弟を喩えていうのである。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』は、

連枝(レンシ/ツラナル、ヱタ)。<態藝門380D>

とあって、語注記を未記載にする。また、易林本節用集』には、

連枝(レンシ)?枝。兄弟也。<人倫門97E>

とあって、標記語を「連子」とし、さらに「連枝」を示して、語注記「兄弟なり」としていて、『運歩色葉集』の語注記と共通するのである。これ以上に、印度本系統の弘治二年本節用集』には、

連枝(レンシ)曰兄弟之亊|。<礼部・言語進退A>

とあって、語注記内容を同じくするのである。当代の『日葡辞書』にも、

Renxi.レンシ(連枝). Yedauo tcuranuru.(枝を連ぬる)くっついて連なっている木の枝.ただし,一般には兄弟の意味に取られる.§Renxino chiguiri.(連枝の契り)兄弟の契りと愛情関係と.<529l>

と表現されている。江戸時代の『書字考節用集』には、

連枝(レンシ) [文選註]兄弟ハ如シ木ノ−−而同スルカ|∨本ヲ。又見[千字文註]。<人倫四35A>

とこの語の典拠を『文選註』及び『千字文註』と記載する。

2000年5月12日(金)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

緑の道 足はひたすら 東(ひんがし)へ

「競馬(ケイバ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地部」に、

競馬(ケイバ)五月五日於京賀茂ニ文武慶運三丙午始行之。至天文十七戌申八百四十三年也。<元亀本216@>

競馬(ケイバ)五月五日於京ノ賀茂ニ文武慶運三丙午始テ行之。至天文十七戌申ニ八百四十三季也。<静嘉堂本246B>

競馬(ケイバ)五月五日於京賀茂文武慶運三丙午始行之。至天文十七戌申八百四十三季也。<天正十七年本中52オG>

とある。標記語「競馬」の語注記は、「五月五日京の賀茂に於いて、文武慶運三(年)丙午、始めて之を行する。天文十七(年)戌申より八百四十三年に至るなり」という。『下学集』は、

競馬(ケイバ)五月五日ノ事擬(ナソラフ)支那ノ競渡(ケイト)ニ|。<神祇36A>

とあって、語注記内容を異にする。文明本節用集』は、

競馬(ケイバ)五月五日賀茂祭礼(サイレイ)也。蓋シ擬支那競渡(ケイト)ニ之。<神祇門590C>

とあって、『下学集』の語注記を継承しながらも改編注記し、いささか、『運歩色葉集』の語注記の巻頭部分に共通するものである。江戸時代の『書字考節用集』には、

競馬(ケイバ)出久・幾。<神祇三18C>

として、語注記に「久(部)・幾(部)に出づ」で、「くらべむま」「きそひむま」をさらに繙くと、

競馬(クラベムマ)今按ニ擬スル支那−(フナ)渡(クラヘ)ニ之義乎。○出計。幾。<神祇三16B>

競馬(キソヒムマ)出久。計ニ。<神祇三24D>

とあって、読み方を字音で「ケイバ」の他に、和語で「くらべむま」「きそひむま」ということで、記載する。そのなかで、「くらべむま」の語注記で、「今、按ずるに支那の舟渡りにこれを擬するなり。○出計部、幾部に出ず」と記載している。

[ことばの実際]支那の「競渡

競渡屈原以午日死於汨羅。人以舟拯之――是其遺俗(荊楚)。<遇韻四105右B>

2000年5月11日(木)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

心地よき 茶葉の青さ 何よりゾ

「智妙(チメウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地部」に、

智妙(―メウ)瓜名。<元亀本67D>

智妙(―メイ)瓜ノ名。<静嘉堂本79D>

智妙(―メウ)瓜名。<天正十七年本上40オA>

智妙(―メウ)瓜。<西来寺本118C>

とある。標記語「智妙」の語注記は、「瓜の名」という。また、巻末の草花名部に、

梵天(ボンデン)。唐瓜(カラウリ)。甜瓜(同)本草。智妙(チミウ)。坊瓜(ハウウリ)。白瓜(シロウリ)。越瓜(シロウリ)。冬瓜(カモウリ/トウクワ)。<元亀本378H>

梵天(ホン−)。唐瓜(−ウリ)。甜瓜(同)。(チメウ)。坊賣(−ウリ)。胡瓜(キウリ)。白瓜(シロウリ)。越瓜(同)。冬瓜(カモウリ)本草。<静嘉堂本462D>

と見えている。『下学集』未収載にある。『節用集』類は、饅頭屋本に、

智妙(チメウ)瓜。<草木門32E>

と見え、これに印度本系統の永禄二年本尭空本両足院本それぞれに、

智妙(チメウ)瓜。<草木門永49H・尭45G・両53G>

と見えているのが唯一で、他の『節用集』は未収載になっている。

2000年5月10日(水)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

走り来て 信号機待つ 知り人か

「四調者(ガンヂウシヤ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

四調者(ガンヂウシヤ)馬ノ亊也。五調者()人也。<元亀本100A>

四調者(カンデウシヤ)馬。五調者()人。<静嘉堂本125E>

四調者(カンテウモノ)。五調者()人。<天正十七年本上61ウE>

四調者(カンテウモノ)馬ノ亊也。<西来寺本174E>五調者」を欠く。

とある。標記語「四調者」の語注記は、「馬のことなり」で、標記語「五調者」の語注記は「人なり」という。「ガンジョウシャ」〔元亀本と静嘉堂本〕、「ガンジョウもの」〔天正十七年本と西来寺本〕と読み方が二分する。この両表記を「うま【馬】」と「ひと【人】」とで使い分けているのである。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』には「不部」に、

無五調(ブガンデウ,シラベ/コ,イツヽ・トヽノウ)。<態藝門635A>

という語が収載されていて、「ガンジョウ」の人について言うところの「五調」の表記部分が共通している。当代の『日葡辞書』に、

Gangio>.ガンヂョゥ(五調).労働したり,旅行したりなどする体力.§Gangio<na mono.(五調な者) 労働する力のある人.▼Figangio>;Fugangio<na.<邦訳292l>

とある。江戸時代の『書字考節用集』には、

岩畳(ガンデウイハタヽミ)又作ル−乗。○本朝ノ俗語。勇健之義。五調()人倫。四調()牛馬。<言辞九70D>

とあって、『運歩色葉集』の標記語及び注記内容を継承し、新たに「岩畳」及び「岩乗」を増補標記する。現代ではこの「ガンジョウ」なることばの表記だが、一般には「頑丈」の熟語が広く用いられ、近代の宛字としては、「巖畳」や「強盛」などの表記熟語も用いられてきている。

[ことばの実際]

弓鉄砲之組頭五人十人づつ、五調(ガンテウ)なる者をやとひにけり。<『太閤記』十八・仏茂助名にしおはて還て殺人事>

ガンジョウ巌丈一人、骨組の巌丈(がつちり)した、赤ら顔で、疎髯(まだらひげ)のあるのは、張肱(はりひじ)に竹の如意(ニョイ)を提(ひっさ)げ、一人、目の窪(くぼ)んだ、鼻の低い顎の尖ったのが、紐に通して、牙彫(げぼり)の白髑髏(しやれこうべ)を胸から斜(ななめ)に取って、腰に附けた。<泉 鏡花『薄紅梅』39M,昭和12年・中公文庫>

2000年5月9日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

朝一の 勤めこなすや 躑躅道

「鉢叩(ハチたゝき)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、

鉢叩(ハチタヽキ)空也上人末孫也。<元亀本27F>

鉢叩(ハチタヽキ)空也上人末孫也。<静嘉堂本26C>

鉢叩(ハチタヽキ)空也上人末孫也。<天正十七年本上14オE>

鉢叩(ハチタヽキ)空也上人之末孫也。<西来寺本>

とある。標記語「鉢叩」の語注記は、「空也上人の末孫なり」という。語注記の「空也上人」を「久部」で繙くと、

空也上人(――――)醍醐天皇延喜四年甲子生。至天文十七戌申六百四十五年也。圓融院天禄三年壬申入滅。六十八歳也。至天文十七戌申五百七十年也。<元亀本196H>

空也上人(――――)醍醐天皇延喜四季甲子生。至天文十七戌申六百四十五季也。圓融院天禄三季壬申入滅。六十八歳也。至天文十七戌申百四十七季。<静嘉堂本224C>

空也上人(――――)醍醐天皇延喜四年甲子生。至天文十七戌申六百四十季也。円融院天禄三季壬申入滅。六十八歳也。至天文十七五百七十七季也。<天正十七年本中41ウA>

とあって、ここには「鉢叩」なる後世の人物像のことはいっさい見えないのである。

 さて、素足で巡る寒行の「鉢叩」だが、時宗にあって、空也上人の遺風と称し、鉄製の鉢をたたきながら、勧進することをいう。またその集団人たちの総称である。当代にあって、各地に散在していたようだが、京都市中京区薬師通堀川東入亀屋町にある“空也堂”が時宗鉢叩念仏弘通(グヅ)派の本山であった。ここでは、半僧半俗が、十一月十三日の“空也忌”から年末の四十八日間、鉦を鳴らし、鉢に代えた瓢を竹の枝で叩きながら、素足で巡る寒行として念仏和讃を唱え、洛中を勧進し、洛外の墓所葬場なども巡ったという。また、「茶筌」を売って歩いた。『下学集』はこの語を未収載にする。文明本節用集』に、

鉢叩(ハチタヽキ−,コウ)空也上人、下人ノ末流。<人倫門54D>

とあって、注記内容は、「空也上人」については同じで、最後の部分を「下人の末流」といって異なりを示す。また、『伊京集』にも、

鉢叩(ハチタヽキ)空也聖人末流也。<人倫門>

とあって、「空也上人」を「聖人」と表記し、ただ「末流」としている。当代の『日葡辞書』にも、

Fachitataqi. ハチタヽキ(鉢叩) 施物(せもつ)をもらうために鉦を叩き鳴らす者.<邦訳193r>

とその収載をみるのである。江戸時代の『書字考節用集』には、

鉢敲(ハチタヽキ)空也上人ノ末派。常ニ製シ茶筌ヲ以賣ル市朝ニ。又寒夜敲テ瓢ヲ唱ヘ無常ノ頌ヲ-行シテ葬所ヲ而爲苦修ト蓋平ノ貞盛ヲ爲始祖ト。<人倫四6E>

とあって、「空也上人の末派」とし、そのあとにより詳しい注記内容となっている。

[ことばの実際]

鉢叩甲[割注]いくつも茶筌を付けた笹を肩にして登場。當座でこれは都に住まい致す鉢叩(はちたたき)でござる。天下(てんが)治まりめでたい御代(みよ)でござれば、毎年今日は(こんにツタ) われらごときの人々を伴い、北野の瓢(ふくべ)の神(しん)へ参詣致し 勤(つと)めを致す。また當年も参ろうと存ずる。ようよう時分(じぶん)もようござるによって、いつもの所に待ち合わそうと存ずる。笛座の前方へ行き、すわる

サガリハの囃子で、一同謡いながら登場。いずれも、いくつも茶筅をつけた笹を肩にしている 鉢叩乙√(サガリハ)治まれる、鉢叩乙・皆々√治まれる、都の春の鉢叩、叩きつれたる一節を、茶筅(ちヤせん)召せと囃(はや)さん、コノ 茶筌召せと囃さん。 一同、橋がかりに並ぶ <狂言集福部の神』大系上・120H>

出あひがしらの はちたゝき 世を瓢箪に ぬらくらと なますましなる 茶せん髪 なでずやありけん <狂歌集『徳和歌後萬載集』冬の長うた大系435K>

[余話資料] 地獄とて 遠きにあらず 目の前の 憂き苦しみを 見るにつけても (鉢叩)<江戸狂歌集>

2000年5月8日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

ツンと延び 梅が蒼葉に 紅き薔薇

「張成(チヤウセイ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地部」に、

張成(ーセイ)香合造ル。<元亀本66B>

張成(ーセイ)香合造。<静嘉堂本77F>

張成(ーセイ)香合造。<天正十七年本上39オB>

張成(ーセイ)香合造。<西来寺本115C>

とある。標記語「張成」の語注記は、「香合を造る」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。この語注記の「香合」だが、

香合([カウ]バコ)。<元亀本94A>

に標記語のみで立項されている。この語については、『尺素徃来』に、「香炉。香合(カウハコ)。香箸(キヤウジ)。火匙(コジ)」とあって、ここにも見えている。だが、この「張成」なる人物の語については未審である。現代の国語辞書にも未収載の語である。ただ、“椿尾長鳥堆朱盆(つばきおながどりついしゅぼん)径32.4 cm 高3.5 cm 元時代(14世紀)京都 興臨院 重要文化財”の解説記事に、

盆裏に針書で「張成造」と中国の名工の名が刻されているが、これは日本での後銘と推測される。しかし、室町期にすでに将来彫漆の最上級品として認められた証の銘ともいえよう。

と見えていることから、中国の名工「張成」による「香合」の造り物もあったのではないかと推察するに留める。

2000年5月7日(日)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

土煙り 上ぐるグランド 汗流す

「風賦比興雅頌(フウフヒキウガセウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「福部」に、

風賦比興雅頌(フウフヒキウガセウ)六義。<元亀本226I>

・風・賦・比・興・雅・頌(フウフヒケウガセウ)六義。<静嘉堂本260B>

<『天正十七年本』は欠語>

とある。標記語「風賦比興雅頌」の語注記は、「六義」という。この語注記「六義」を引くに、読みは「リクギ」であるからして、「利部」を見ることになる。そして、ここには、

六義(―キ)頌。<元亀本73B>

六義(―キ)頌。<静嘉堂本88A>

六義(―キ)風(フウ)賦(フ)比(ヒ)興(ケウ)雅(カ)頌(シユウ)。<天正十七年本上44オC>

六義(―−)頌 〓〔公+貝〕イ。<西来寺本123C>

とあって、両方の語がそれぞれ、標記語であり、語注記となっていることが判る。但し、天正十七年本は「六義」のみの収載である。『下学集』には、

六義(リクギ)風(フウ)賦(フ)比(ヒ)興(キヨフ)雅(ガ)頌(シヨフ)。詩歌共ニ言フ之ヲ也。<數量143F>

とあって、語注記は、「風賦比興雅頌」のあとに「詩歌共にこれを言ふなり」と記述する。文明本節用集』にも、

六義(リクギムツ、ヨシ)頌。詩歌共ニ之也。<数量門192A>

とあって、『下学集』の語注記内容をほぼ継承するものである。易林本は、「六義(リ[ク]ギ)」と語注記を未記載にしている。当代の『日葡辞書』にも、

†Ricugui.リクギ(六義) Mutcu nori.(六つ義) 日本で,歌を作る上の六つの作法.<邦訳532l>

と見えている。

 さて、『運歩色葉集』が欠くところの語注記「詩歌共にこれを言ふなり」だが、まず漢詩では『詩経』大序の「故詩有六義焉、一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌」に基づく内容上の分類「賦興」と、表現方法の分類である「風頌」であり、これを日本の和歌にも適応させ、平安時代の『古今和歌集』真名序〔紀淑望〕に、「和哥有六義、一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌」と表現され、これを仮名序で、「うたのさま、むつなり」として、「そへ歌〔風〕、かぞへ歌〔賦〕、なずらへ歌〔比〕、たとへ歌〔興〕、たゞごと歌〔雅〕、いはひ歌〔頌〕」の総称としたことを茲にいうのである。

[ことばの実際]

六義者、風賦比興雅頌也。一風者、鑽仰賢聖、詠述遺風是也。二賦者、賦言鋪也。直鋪陳令之改善惡也。三比者、不直言時政之失、取比類而言、或云比物也。四興者、直言時政之義、取善喩之也。五雅者、正也。言今之正道可|∨後代之法也。六頌者、誦也。令徳改美盛徳之形容是也。<『作文大体』>

2000年5月6日(土)曇り。札幌⇒東京(八王子)

日の射さぬ 雲のどんより 昼下がり

「東作業(トウサクゲウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、

東作業(―サクギウ)東者春也。<元亀本59D>

東作業(―――)東者春也。<静嘉堂本67F>

東作業(トウサクケウ)東者春也。<天正十七年本上34ウC>

東作業(―サクケウ)東ハ春也。<西來寺本107A>

とある。標記語「東作業」の語注記は、「東は春なり」という。意味は、東の字は、「春」を意味し、農事作業が始まる時のことをいうのである。『下学集』は、未収載にある。『節用集』類は、文明本節用集』には、

東作(トウサク/ヒガシ、ツクル)耕(タカヘス)春田ヲ義。<態藝門141C>

とあって、標記語を「東作」として、語注記は「春田を耕す義」と異なりを示す。易林本節用集』にも、

東作業(トウサクケフ)農耕之名。<言語46@>

とあって、語注記が「農耕の名」とこれも異なっている。とりわけ、『運歩色葉集』の語注記は、『庭訓徃來注』三月条に、

東作業之亊[割注]東ハ春也。言ハ春始ニ天子取鋤ヲ。三推(タイ)シテ諸民進農給也。字書ニ曰、東ハ春ノ方其色青シ。即木也。本ニハ日ヲ貫ク謂之東ト韻府ニ能見也。<謙堂文庫藏13オA>

東は春なり。言ふこころは、春の始めに天子、鋤を取る。三推(タイ)して諸民に農を進め給ふなり。字書に曰く、東は春の方、其の色青し。即ち木なり。本には日を貫ぬく、これを東と謂ふ。『韻府群玉』に能く見ゆるなり

[余話]:「東」の字は、漢和辞典の部首では、実は「木部」に収められている文字である。「日部」にはない。たとえば、「日」の含む文字を小学生に他に求め尋ねるてみると、「門部」の「間」などの字が挙がってくる。この「東」と同じような傾向を示すのである。

とあって、この巻頭部分の「東ハ春也」を引用したものである。また、当代の『日葡辞書』には、

To>sacuguio>.トゥサクギョウ(東作業).年の初め,或いは,春季に田を耕して準備すること.文章語.<邦訳『日葡辞書』670l>

とある。また、『庭訓徃來』によれば、この「東作」の対になる語が、「西収(セイシユウ)」であるが、此語は未收載である。

[ことばの実際]

去る治承養和のころより、諸國七道の人民百姓等、源氏のためになやまされ、平家のためにほろぼされ、家かまどをすてて、春〔は〕東作のおもひをわすれ、秋は西収のいとなみにも及ばず。<『平家物語』大系下297H>

その後、后は宮中へ立ち帰り、龍神は天に飛び去つて、風雨時に従ひしかば、農民東作を事とせり。<『太平記』巻第卅七「身子声聞・一角仙人・志賀寺上人の事」>

2000年5月5日(金)晴れ。札幌 子どもの日

雪解けの 豊平川に 濁聚む

「端午(タンゴ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

端午(―ゴ)五月五日事。又―五。<元亀本139D>

端午(タンゴ)五月五日ノ亊。又―五。<静嘉堂本148C>

端午(―コ) 又―五。五月五日。<天正十七年本中6オB>

とある。標記語「端午」の語注記は、「五月五日の事。又は端五」という。『下学集』には、

端午(タンゴハシノムマ)初メ作ル五月五日ノ之遊ヲ。時([ト]キ)日適(タマタマ)當ル端午(ハシノムマ)ニ。故ニ至今ニ呼テ此ノ時ヲ云フ端午ト也。支那ニハ此ノ日吊フ屈原(クツゲン)ヲ也。<時節29B>

《初め五月五日の遊びを作る。時([ト]キ)の日適(タマタマ)端午(ハシノムマ)に當る。故に、今に至る。此の時を呼びて「端午」と云ふなり。支那には此の日屈原(クツゲン)を吊ふなり》

とあり、文明本節用集』にも、

端午(タンゴハシムマ)初作五月五日ノ遊。時日適(タマタマ)當(アタ)ル端午。故至今。呼テ此辰云フ端午ト也。支那此日吊屈原也。又作端五唐書丹午對韻單五三体注端陽重午菖節蒲節風土記云、仲夏端午ノ注云、端ハ始也。謂五月五日ヲ也。曰、楚ノ人屈平ハ五月五日、當初午(ハツムマ)ノ之日ヲ。落(ヲチ)テ汨羅(ベキラ)ノ水(ミツ)ニ而死ス。故五月五日ヲ云端午ト。楚人毎此ノ日ヲ。以テ蒋(マコモ)ノ葉ヲ。納(イレ)テ飯ヲ以五色ノ絲ヲ。巻(マイ)テ入水ニ。以祭ル屈平ヲ風土記云。荊楚人、午日烹鶩〓〔門+虫〕中元鶩烹鵞是也。又云、午日菰葉裹粘米以象陰陽相。裹今粽子是也。又以五綵絲繋臂辟兵鬼氣今百索是也。又續斎諧記云、屈原楚人也。遭讒ニ不見(ラレ)用。遂於暇投汨羅(ヘキラ)江ニ而死。楚人哀之。至此日ニ。以筒貯米。投水祭之。漢建武元年、長沙有人。見之。自称三閭大夫。曰常苦蛟龍所切。更有恵者。願以葦葉果五色絲纏之。則蛟龍所畏也。楚歳時記云、屈原此日投江死。後人以舟楫救之。遂因以為俗。荊楚記ニ曰。五月五日ニ、楚人並ニ〓〔足+日羽〕テ百草ヲ、採テ艾ヲ以為リ人。懸門戸ノ上ニ。以攘(ハラウ)毒氣。故ニ師曠占テ曰、歳(トシ)多病ナル則ハ艾草先ツ生ス。又云、宗則字又度(タク/ト)常ニ以五月五日、未鶏鳴時ヲ。採ル艾ヲ見テ似タル人ニ處ヲ覓テ而取ル之ヲ。用灸(キユウ)ニ有験(シルシ)。近代ハ以テ菖蒲ヲ作ルト云云。其義諺曰、昔平舒王殺ス臣下ヲ。其臣含恨、成毒蛇ト。滅國。彼蛇頭赤身青似菖蒲ニ。刻其体入酒呑。或纏身ニ可降云云。菖蒲(アヤメ)ト云ハ者、蛇ヲ依云ニ菖蒲(アヤメ)ト名(ナツケ)タリ云云越地傳云。競渡(ケイト)ハ起於越王勾践。今龍舟是也。大載記曰、午日以蘭湯沐浴。今謂之浴蘭節ト。抱朴子曰、五日佩赤霊符心前以辟兵道。今釵頭符是也。<時節門331C>

とあって、『下学集』の語注記を継承したあとに、注記内容の増補がなされている。『庭訓徃來註』五月五日の状に、

五月五日 金俗園記曰、昔楚人屈原字霊均為三呂大夫讒出而隠江畔遂汨羅(ヘキー)而死。即五月五日是其死日也。后有長沙人歐回從岸屈原在宜間謂回日我今受飢餓君留惠相濟否回日何物原曰要竹筒盛食粽葉寒頭不然。即以芦葉之。五色絲縛之投水登我々及得食也。不然即被蛟竜侵奪人之祭令我皆不食也。回依言祭之原饗食見而謝之人蒙之以為竹筒粽及芦葉裹米俗作粽及与菱葉粽并五色絲繋之也。尺素徃来曰、菖蒲(アヤメ)ノ角黍(チマキ)ハ端午之祭粢也。〔謙堂文庫藏三二右E〕

とあって、『金俗園記』をもって注記説明としている。また本邦の『尺素徃来』を引く。

通常の『節用集』は、「端午(タンゴ)五月五日」<弘治二年本>と簡略化しているのに対し、唯一詳細増補する形態にある。この増補収載の特徴は、別の表記語「端五唐書。」「丹午對韻。」「單五三体注」三語をその典拠記載し示し、この冒頭の「端五」の語だけだが、『運歩色葉集』の語注記に反映されているのである。この注記部分に連関継承の鍵があるとみたい。次に異名語を「端陽」「重午」「菖節」「蒲節」と四語記載する。続いて引用書籍の名をそれぞれ示し、「端午」の意味内容を注記している。

2000年5月4日(木)晴れ。東京(八王子) ⇒札幌

五月晴れ 穏やかに進む 空路かな

「童子教(ドウジキョウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登部」に、

童子教(ツウジキウ)弘法大師之作。<元亀本59A>

童子教(――ケウ)弘法大師ノ作。<静嘉堂本67B>

童子教(―――)弘法大師作也。<天正十七年本上34オG>

童子教(―――)弘法大師作。<西來寺本106C>

とある。標記語「童子教」の語注記は、「弘法大師の作」という。注記語「弘法大師」については、古部にあって、

弘法大師(コウボウダイシ) 讃州多慶郡人也。又説埼州漢崎綱ノ村舩頭子也。光仁宝亀五甲寅生。廿四歳而立東寺。四十八歳而七月八日立高野。嵯峨帝弘仁七丙申也。至テ天文十七戌申七百卅三年也。四十六而作リ心經秘鍵ヲ。六十二歳而入定。仁明深草帝承和二乙卯三月廿一日也。至天文十七戌申七百廿四年也。御名空海。后經六十七年。延喜廿一年辛巳諡ル弘法大師ト也。至天文十七戌申六百廿八年也。<元亀本237D>

弘法大師(――――) 讃州多慶郡人也。又ノ説接州〓〔水+黄〕崎綱村舩頭子也。光仁宝亀五甲寅生。廿四歳ニシテ立テ東寺ヲ。四十八歳而七月八日立高野ヲ。嵯峨帝王 弘仁七丙申也。至天文十七戌申ニ七百卅三季也。四十六歳ニシテ作ル心經秘鍵ヲ。六十二歳而入定。仁明深草帝 承和二乙卯三月廿一日也。至天文十七戌申七百廿四季也。御名空海。后經六十七季。延喜廿一季辛巳謚弘法大師也。至天文十(七)戌申六百廿八季也。<静嘉堂本273E>

弘法大師(コウホウタイシ)御名空海(クウカイ)讃州(サンー)多慶郡(タケノコウリ)ノ人也。又説ニハ埼州(キー)漢崎(カンサキ)ノ綱ノ村(ムラ)舩頭之子也。光仁宝亀五甲寅生廿四歳而建ツ東寺ヲ。四十八歳七月八日立高野ヲ。嵯峨(サカ)ノ帝王弘仁(ニン)七丙申也。至天文十七戌申七百卅三季也。四十六歳作心經ノ秘鍵(-ケン)ヲ。六十二歳入定。仁明深草(フカクサ)帝承和二乙卯三月廿一日也。至天文十七七百廿四季也。後六十七季。延喜廿一季辛巳諡弘法大師也。至天文十七六百廿八季也。<天正十七年本中68オ@>

とあって、語注記も「讃州多慶郡の人なり。また埼州漢崎綱の村舩頭の子と説くなり。光仁宝亀五年甲寅に生まる。廿四歳にして東寺を立て。四十八歳にして七月八日高野を立つ。嵯峨帝、弘仁七年丙申なり。天文十七年戌申より至りて七百卅三年なり。四十六にして心經の秘鍵を作り。六十二歳にして入定す。仁明深草帝、承和二年乙卯三月廿一日なり。天文十七年戌申より至りて七百廿四年也。御名をば空海。后經、六十七年。延喜廿一年辛巳、弘法大師と謚るなり。天文十七年戌申より至りて六百廿八年なり」と詳細である。だが、ここには『童子教』を編纂したことは、当然記述されていない。『下学集』には、『童子教』及び「弘法大師」の標記語すら見えない。ただし、『童子教』については、その序文に、

彼ノ之實語童子ノ為(タル)教、琵琶ノ為ル引(イン)、長恨ノ之為ル歌(ウタ)、庭訓雜筆ノ為ル往来也。

《かの實語・童子の教たる、琵琶の引たる、長恨のこれ歌たる、庭訓・雑筆の往来たるなり》

とあって、この書物を『實語教』と併合して認知しているのである。この二書については、先学の考究がなされ、中世近世を通じて広く長く初等教育の教科書としてもちいられてきたものであり、ここに云うがごとく「弘法大師」の作という古伝が付されてきたのである。さて、『童子教』だが、漢字五字をもって一句とみるに、三二八句から成り、総漢字数一六四〇字(異なり語数八二七語)で構成されている。成立は、13世紀末、鎌倉時代中期ごろと考えられている。金言名句が随所に鏤められ、日常生活の立ち居振舞い、行儀作法を教諭し、学問を勧め、先人の偉業を引用しながら人倫の道を説諭し、さらには、仏教信仰に導くというものである。も一つの『實語教』については、本辞書は、「實語教(チツゴキウ)」<元亀本322B>として、語注記は未記載にある。

 

2000年5月3日(水)夜半の雨上がり晴れ。東京(八王子) ⇒

日を置きて 白き牡丹や 咲きにけり

「古今集(コキンシウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、

古今集(コキンセウ)友則公延喜五年乙丑之。至天文十七戌申七百四年也。<元亀本235I>

古今集(コキンシウ)友則公延喜五季乙丑撰之。至天文十七戌申七百四年也。<静嘉堂本271F>

古今集(―――)友則公(トモノリクウ)延喜(-キ)五年乙丑撰之。至天文十七戌申七百四季也。<天正十七年本中64オD>

とある。標記語「古今集」の語注記は、「(紀)友則公、延喜五年(905)乙丑之を撰す。天文十七戌申、七百四年、至るなり」という。注記語の「友則公」は、登部や記部に立項されていない。『下学集』『節用集』類は、これらの本邦書籍名は未収載にある。この点、『拾芥抄』の記述が本辞書収録語に及ぼした状況が注目される。

 ここで、延喜五年すなわち、漢詩全盛時代と呼ばれるなかにあって、醍醐天皇の詔による日本最初の勅撰和歌集であることについては注記されていないこと、また、四人の撰者である代表筆頭者として紀友則(きのとものり)の名をもって統括している点が注目されよう。実際、仮名序によれば、撰者には友則のほか、紀貫之(きのつらゆき)・凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)がいる。今日、撰者の代表を紀貫之とする所以は、この仮名序を編み、最も歌数の多いことが考えられよう。集中には、読み人知らずの歌が四百五十首ほどあり、このなかには、巻第七の賀歌

343 わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔のむすまで

現在の国歌「君が代」(明治政府により制定。詳細は紀田順一郎著『日本の書物』7、天地を動かす歌『古今和歌集』に詳しい)の賀詞が含まれている。中世になって、第一句の部分が「君が代は」と詠まれ現在に至る。

 貫之の歌が102首と、何故かくも多く撰述されたのか、その要因の一つには、撰者の筆頭であった友則自信が、編纂直後に病没している点も考えられよう。ここでは、この『古今和歌集』が当代(室町時代)にあっていかなる受容を持つものであったかを考えねばなるまい。その一つに『古今伝授』のように、本集の難解な語句を東常縁(とうのつねより)が宗祇(そうぎ)に密かに伝授したものが知られている。

 

2000年5月2日(火)晴れ。東京(八王子) ⇒

紅牡丹 咲き誇りやと 二つ三つ

「伺候(シコウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

伺候(シコウ)六韜。三農器之所。<元亀本306E>

伺候(シコウ)六韜。三農器之所。<静嘉堂本357A>

とある。標記語「伺候」の語注記は、「六韜。三農器之所」という。『下学集』は、

伺候(シコウ/―、ウカヾウ) 伺或ハ作ス祗ニ。<態藝88B>

とあって、「伺候」の「伺」を「祗」と表記する旨の文字表記の注になっていて、語注記の内容は異なる。易林本節用集』は、標記語のみの収載である。文明本節用集』は、

祗候(シコウ) 或作仕候(シコウ)伺候紙候。韓又‖-於公卿ノ門ニ。<態藝門971@>

とあって、『下学集』の注記に「伺」或いは「祗」に作すと対応表記で示したもので標記語とし、「或いは仕候と作す。伺候・紙候。韓また公卿の門に伺候す」とその注記内容をこれまた異にしているのである。ここでは、他に「仕候」「紙候」といった別表記が示されている。これを含め、ことばの実際でその表記状況をさまざまな資料をもとに確認しておく必要があろう。『日葡辞書』には、

Xico>.シコウ(伺候).Vcagai matcu.(伺ひ候つ)自分に命ぜられることを聞くために,毎日主君の御前に控えて居ること.例, Xico>xite iru.(伺候して居る)唐ワた,行くという意であって,行く先を尊敬して言う.例, Xico>itasu.(伺候致す)<邦訳762l>

とあって、貴人や主君などのもとへ参上し、ご機嫌伺いをすることを意味している。

[ことばの実際]

目昏れ、足も萎えて、絶え入るばかりにありけれども、泣く泣く工藤殿が前に進み出でて、「これは右少弁殿の伺候の者にて候ふが、最後のやう見奉り候はんために、遥々と参つて候ふ。しかるべくは御免を蒙りて御前に参り、北の方の御文をも見参に入れ候はん」と、申しも敢へず涙をはらはらと流しければ、工藤も見るに哀れを催されて、不覚の涙塞き敢へず。<『太平記』巻第二「俊基誅せらるる事ならびに助光が事」>

その辺の郷民どもの欲心を進めて、宮を他所へおびき出だし奉らんと相計らひて、道路の辻に札を書いて立てけるは、「大塔の宮を討ち奉りたらん者には、非職・凡下を言はず、伊勢の車間の庄を恩賞に当て行はるべき由、関東の御教書これあり。その上に、定遍、まづ三日が内に六万貫を与ふべし。御内伺候の人、御手の人を討ちたらん者には五百貫、降人に出でたらん輩には三百貫、いづれもその日の内に必ず沙汰し与ふべし」と定めて、奥に起請文の言葉を載せて、厳密の法をぞ出だしける。<『太平記』巻第五「大塔の宮熊野落ちの事」>

さはありながら、御遺勅他に殊なる宣旨のかたじけなさに、忠義いよいよ心肝に銘じければ、いかにもして一戦に利を得、南方伺候の人々の気をも助けばやと、御国忌の御中陰の過ぐるを遅しとぞ相待ちける。<『太平記』巻第二十一「遺勅に任せ綸旨を成さるる事」>

京都より参仕せられたる月卿雲客をば、降参人とて官職を落され、山中伺候の公卿殿上人をば、多年の労功ありとて、超涯不次の賞を行はれける間、窮達忽ちに地を替へたり。<『太平記』巻第三十「吉野殿と相公羽林と御和睦の事」>

この山中伺候の人々、名家は清華を越え、庶子は嫡家を越えて、官職雅意に任せたり。<『太平記』巻第三十「吉野殿と相公羽林と御和睦の事」>

この山中伺候の人々、名家は清華を越え、庶子は嫡家を越えて、官職雅意に任せたり。<『太平記』巻第三十「吉野殿と相公羽林と御和睦の事」>

かやうの先蹤を、南方伺候の諸卿、誰か存知給はざるに、まづ高倉左兵衛督入道慧源に、大将の号を授けて、兄の尊氏卿を討たせんとし給ひしかども叶はず。<『太平記』巻第卅七「大将を立つべき事付漢・楚義帝を立つる事」>

衣冠正しくしたる人三、四人、大床に伺候して、警固の武士に「誰か候ふ」と尋ねられければ、「その国のそれがしそれがし」と名乗つて、回廊にしかと並み居たり。<『太平記』巻第三「笠置軍の事陶山・小見山夜討の事」>

龍顔に近付き参らせん事、今ならでは何事にかと思はれければ、その事と無く御前に伺候して、龍逢・比干が諌めに死せし恨み、伯夷・叔斉がいさぎよきを踏みにし跡、終夜申し出だして、未明に退出し給へば、大内山の月影も、涙に曇りて微かなり。<『太平記』巻第十三「藤房卿遁世の事」>

「そもそも朕が不徳何事なれば、か程に仏神にも放たれ奉つて、逆臣のために犯さるらん」と旧業の程もあさましく、この世の中も頼み少なく思し召されければ、寛平の遠き跡をも尋ね、花山の近き例をも追はばやと思し召し立たせ給ひけるところに、刑部大輔景繁、武家の許しを得て、ただ一人伺候したりけるが、勾当内侍を以つて密かに奏聞申しけるは、「越前の金崎の合戦に、寄手、毎度打ち負け候ふなる間、加賀国、剣・白山の衆徒ら御方に参り、富樫介が篭つて候ふ那多の城を攻め落して、金崎の後ろ攻めをつかまつらんと企て候ふなる。<『太平記』巻第十八「先帝吉野に潜幸の事」>

さる程に、敵は都を落ちたれども、吉野の帝は洛中へ臨幸も成らず、ただ北畠入道准后・顕能卿父子ばかり京都におはしまして、諸事の成敗を司り給ひて、その他の月卿雲客は、皆主上の御座に付いて、八幡にぞ伺候し給ひける。<『太平記』巻第三十「持明院殿吉野遷幸の事梶井宮の事」>

一人はなにがしの律師・僧都など言はれて、門跡辺に伺候し、顕密の法燈を掲げんと稽古の樞を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらんと覚えたるが、細く疲れたる法師なり。<『太平記』巻第卅五「北野通夜物語の事青砥左衛門が事」>

臣下もさすが智恵ある人多く候ふなれば、世を治めらるべき器用も御渡り候ふらんと、心憎く存じ候へ」と申せば、鬢烏帽子したる雲客うちほほ笑みて、「何をか心憎く思し召し候ふらん。宮方の政道も、これと重二、重一にて候ふものを。それがしも今年の春まで南方に伺候して候ひしが、天下を覆さん事も、守文の道も叶ふまじき程を至極見透かして、京へまかり出でて候ふ間、宮方の心憎きところはつゆばかりも候はず。<『太平記』巻第卅五「北野通夜物語の事青砥左衛門が事」>

天子の御側には、大史の官とて八人の臣下長時に伺候して、君の御振る舞ひを善悪に付き記し留め、官庫に収むる習ひなり。<『太平記』巻第卅五「北野通夜物語の事青砥左衛門が事>

都には東寺の金堂一尺二寸南へ退きて、高祖弘法大師南天へ飛び去らせ給ひぬと、寺僧の夢に見えければ、洛中の御慎みたるべしとて、青蓮院の尊道法親王に仰せられ、伴僧二十口、八月十三日より内裏に伺候して、大熾盛光の法を行はる。<『太平記』巻第卅六「天王寺造営の事京都御祈祷の事」>

この次参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠・従三位兼行右兵衛督臣藤原朝臣為遠・蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国等に至るまで、披講事終はりて、講師皆退き給ひければ、講誦の人々、なほ伺候すべき由、天気に依つて関白読師の円座に着き給ひしかば、別勅にて権中納言時光卿を召され、御製の講師として、 ・咲き匂ふ雲居の花の本つ枝に  百代の春をなほや契らん  講誦十返ばかりに及びしかば、陽すでに内樋に輝く程なり。<『太平記』巻第四十「中殿御会の事」>

 以上、『太平記』中に見える「伺候」の語を検索してみた。漢語名詞七例、漢語サ変動詞九例の計十六例ある。

2000年5月1日(月)晴れ。東京(八王子) ⇒

五月晴れ どこもいかずに 日々暮らす

「五月(ゴグワツ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地部」に、

五月(――)仲夏。〓賓。梅月。早苗月。<元亀本239A>

五月(――)仲夏。〓賓。梅月。早苗月。<静嘉堂本275F>

五月(――)仲夏。〓賓。梅月。早苗月。<天正十七年本中67ウ@>

とある。標記語「五月」の語注記は、「仲夏。〓賓。梅月。早苗月」とこの“五月の異名” 語群を四語掲げている。さらに、この語注記の異名を、

仲夏(―カ)。<元亀本64H>

〓賓(スヒン)五月。<元亀本360H>*「ズイ」の字「?〓」は「豕+生」の合字。

梅月(バイ―)五月。<元亀本29H>

とあって、さらに各部に立項されていて、最後の和語読みの「早苗月(さなへづき)」だけが立項されていないのである。これを『下学集』にあっては、

〓賓(ズイヒン)五月。<時節29A>

梅月(バイ―)五月。又タ云フ送梅(サウ[バイ])ノ月ト。此ノ月送(ヲクリ)尽([ツ]クス)梅子ヲ。故ニ云尓也。<時節29A>

星火(セイクワ)五月。<時節29A>

東井(トウセイ)五月。<時節29B>

皐月(サツキ)。<時節29B>

とすべて「時節門」に収載し、ここでは“五月の異名” 語群を標記語として五語収載する。ここで共通するのが二語である。他の二語は『運歩色葉集』は標記語としても未收載にある。このなかで、とりわけ、「梅月」の「五月。又た送梅(サウ[バイ])の月と云ふ。此の月、梅子を送(ヲクリ)尽([ツ]クス)す。故に「尓」云ふなり」といった語注記が詳しい。文明本節用集』は、

五月(コグワツ/―ケツ、イツヽ・ツキ)異名〓賓[割注]月令仲夏之月、律中―。大火[割注]李詩――五月中。脩景[割注]選南陸迎――。星火[割注]晝日永――。以正仲春薫風[割注]聯句――自南来。景風[割注]李――従南来。辰建午[割注]月令仲夏―――辰。愛日長[割注]聯句我―夏日――。東井[割注]仲夏日在――。風従南[割注]李五月景―――来。昔夜短[割注]杜詩仲夏―――。南訛[割注]書半秋――。暑月皐月暑熱牟月朱夏楳夏梅月登秦接夏梅天五日菊[割注]五日也。蒲朝[割注]或五日也。蒲節芥節[割注]同。泛蒲辰箪炎節炎氣炎景仲律一陰(サツキ)。斗建午。自在参。<時節門653G>

とあって、五月異名の語群は三十五語に及ぶ。だが、文明本は他の部門にこれらの異名語をすべて立項しないのである。ここで、「〓賓[割注]月令仲夏之月、律中―。」「星火[割注]晝日永――。」「東井[割注]仲夏日在――。」「皐月」「梅月」の語が『下学集』所載の異名語であり、すべて包括し収載する。そして、このうち三語には語注記が示されている。ただし、上記に示した「梅月」の語注記については未記載にある。易林本節用集』は、

〓賓(スイヒン)五月。律。<時候門238C>*「スイ」の字、「艸豕+生」の合字。

梅月(バイゲツ)四月。<乾坤門14@>

皐月(サツキ)。<時節門175E>

とあって、「梅月」の語注記を「四月」としている。「星火」「東井」の語は未收載にある。『運歩色葉集』の編者は、『下学集』からというよりは、改編された標記語「五月」の語に従って、文明本節用集』系統の古辞書から、この語の注記内容を簡略化した辞書乃至、自らが簡略化したものと推察しておく。すなわち、この語の継承は、標記語「五月」の語を収載する『節用集』に依拠しているのであるまいか。因みに弘治二年本・易林本は未收載にある。

[ことばの実際]

〓賓五月律也。樂工廉郊池上彈――調池中忽跳出方響一片乃――鐵也。<『韻府群玉』眞韻1-418左G>

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