[6月1日〜6月30日まで]                             

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

2000年6月30日(金)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

暑さ来て 木蔭恋しや かくれんぼ

「捐舘(エンクワン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「衛部」に、

捐舘(エンクワン)曰大人ノ遠行ヲ也。〔元亀本336I〕

捐舘(ヱンクワン)曰大人之遠行ヲ。〔静嘉堂本402F〕

とある。標記語「捐舘」の語注記は、「大人の遠行を曰ふなり」という。この注記語の「遠行」は、

遠行(−カウ)。〔元亀本336@〕

とあって、読み方は「ヱンカウ」で、その注記語は未記載にある。広本節用集』には、

遠行(エンカウ)死去義也。〔態藝門〕

とあり、さらに当代の『日葡辞書』にも、

Ye~co<.エンコウ(遠行) Touoqu yuqu.(遠く行く)尊敬すべき人の死去.〔818r〕

とある語である。すなわち、「遠くへ行く」意であり、ここから転じて「この世を去る(人の死去)」を意味する語となる。これを『下学集』には、

捐舘(エンクワン)新圓寂([シンエン]ジヤク)ノ義也。人死シ去テ捐(スツ)平生ノ舘屋ヲ。〔態藝92F〕

新圓寂の義なり。人死し去りて平生の舘屋を捐つ。

と注記説明していて、その注記内容を異にする。広本節用集』にも、

捐舘(エンクワン) 新圓寂之義也。去(サツ)テ捐(スツル)平生之舘屋義也。〔態藝703F〕

とあって、こちらはほぼ『下学集』の注記内容を継承している。意味は「平生暮らしていた舘屋をすてて、この世を去ること」をいうのである。ということは、『運歩色葉集』の「捐舘」の語注記は、これらの注記内容を全く継承せずに独自の記載内容となっていることにもなる。

[ことばの実際]

君卒然、君雖恨於臣、亦無可奈何。〔『史記』笵〓〔目+隹〕蔡澤列傳十九〕

2000年6月29日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

梅雨の間に 日和は蒸しき 星をみゆ

「磁石山(ジシヤクセン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

磁石山(シシヤク−)――者吸銕物。〔元亀本321C〕

磁石山(シシヤクセン)――者吸鉄物。〔静嘉堂本378F〕

とある。標記語「磁石山」の語注記は、その場所を示すのではなくして、「磁石は銕{鉄}物を吸ふ」というように「磁石」の語注記に共通するものとなっている。そこで、「磁石」の語注記と比較しておこう。

磁石(ジシヤク)吸(スフ)銕ヲ也。〔元亀本313A〕

磁石(ジシヤク)吸鉄ヲ物也。〔静嘉堂本366G〕

とあって、語注記は、「銕{鉄}を吸ふ物なり」とほぼ位置する内容にあることが知られよう。『下学集』は両語とも未収載にある。広本節用集』には、

磁石山(ジヤクセン/−セキ、−イシヤマ)食(クラウ)鐵(クロカネ)ヲ石之山也。〔天地門905@〕

とあって、その語注記は、「鐵を食らふ石の山なり」というように、「鉄を吸う」ではなくして、「鉄を食らう」と表現し、「もの」といった漠然としたものではなく、明確に「石の山」と表現しているのである。そこで次に『節用集』類で精査に確認してみると、印度本系統の弘治二年本には、

磁石山(ジシヤクザン)含鉄石山。〔天地門235@〕

とあり、「鉄を含む石の山」であり、これは明応本

磁石山(ジシヤクセン)食銕石山。〔天地門196C〕

とあるのや、黒本本

磁石山(ジシヤクセン)食(クラウ)鉄石之山也。〔天地門174C〕

とある「食」の字と「含」の字とが字形相似によるところから派生したことが考えられるのである。それを裏付けるように、天正十七年本節用集』には、

磁石山(ジシヤクセン)含{}[食イ]鉄石山。〔天地門457F〕

とあって、「含」と表記した左上に符号「ヒ」をおいて、傍らに「食」としている。

和漢通用集』には、

磁石山(シシヤクセン)くろがねをすう。〔天地門394E〕

とあって、この「くろがねをすう」であり、易林本

磁石山(ジシヤクセン)吸(スフ)銕(テツ)ヲ山也。〔乾坤門202B〕

とあるのが『運歩色葉集』に尤も近い語注記表現となっている。

永祿二年本は「磁石山(シシヤクセン)」〔天地門195C〕、尭空本は「磁石山(ジシヤクセン)」〔天地門185C〕、図書陵零本は「磁石山(ジシヤクセン)」〔58E〕と語注記が未記載にある。

 以上、この「磁石山」なる語の注記内容を『運歩色葉集』と『節用集』とをもって比較考察してみたところ、和語動詞「食らふ」と「吸ふ」といった両様の注記表現が用いられてきたことを少しく確認できた。

[ことばの実際]

某は唐と日本の境にちくらが沖といふ所に磁石山といふ山が有。其山の磁石の精じや、夜前鳥目を飲ふだれば、殊の外のどに詰まつて悪い、今汝が太刀を見ればせい/\として飲みたい程に、切先から只一呑にせふぞ。〔続狂言記 巻五磁石』457上B〕

餘りの事の不思議さに、「薬種は何ぞ」と聞きたれば、「此藥と申は、唐と日本の境なる、磁石山(シヤク)の石也。昔或人劔を差して、かの山の麓を通りしに、かの山に吸ひ入れたり。道を隔てゝ行人さへ吸ひ入れたりし石なれば、眼に入たる鐵の少し、などや験の無かるべし」と言ひければ、「さても作意の竹齋かな」と、褒めぬ人こそ無かりけれ。〔仮名草子竹齋』下・大系138L〕

磁石山」の場所を「唐と日本の境」とする両書の記述については、上記古辞書には何故か反映されていない。この場所を朝鮮半島と対馬との間にある「巨済島(ちくら)」の古名「ちやくせん島」がこれであり、当時このように伝承されていたようだ。

2000年6月28日(水)雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

 シャワー走 陽焼け顔には うってつけ

「鵜舟(うぶね)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「宇部」に、

鵜舟(ウブネ) 六月。〔元亀本181C〕

鵜舟(ウブネ) 六月。〔静嘉堂本203B〕

鵜舟(ウフネ) 六月。〔天正十七年本中31オ@〕

とある。標記語「鵜舟」の語注記は、「六月」という。『下学集広本節用集』は未収載にある。注記語の「六月」を見るに、

六月(――)林鐘。皆。尽月。夏。〔元亀本23C〕

六月(――)林鐘。水皆。尽月。季夏。〔静嘉堂本20E〕

六月(――)林鐘。水皆。尽月。季夏。〔天正十七年本上11オF〕

六月(――)林鐘。季夏。水[コホリ氷]皆尽月。〔西来寺本35B〕

とあって、語注記に「鵜舟」は見えないのである。逆に「六月」の注記語である四語のうち先頭の「林鐘」の語だけは、

林鐘(―セウ)六月。〔元亀本72H〕

林鐘(―セウ)六月。〔静嘉堂本〕

林鐘(―セウ)六月。〔天正十七年本〕

林鐘(―セウ)六月。〔西来寺本〕

と立項されているのである。これは『下学集』に、

林鐘(リンシヨウ)六月。〔時節門29C〕

と見えている語である。広本節用集』には、

六月(ロクグワツ/リクゲツ、ムツツキ)斗建/指未。孝經緯。季夏――曰在{井事}柳。月令季夏――林鐘(リンシヨウ)月令季夏律中――鶉火。月令注、日月會――。火老。韓詩――候愈濁。蟋蟀居壁。記月令季夏。金柔韓詩――氣尚低。莎鷄振羽。詩幽風六月――。旦月三旬。炎熱。大火。鶉首。季夏。賜氷。節季月。仲伏。朱明月。秀月。新樹風。皎(カウ)月。夏中。景短。殘夏。一陰。窮夏。暑月。焦暑。溽暑。月令上潤――。炎暑。〔時節門43E〕

とあって、ここには「林鐘」と「季夏」の注記語が『運歩色葉集』の注記語と共通するにすぎない。

さて、「鵜舟」だが、正しくは「うかいぶね【鵜飼舟】」と呼称したものであり、これを中の語を省略して「うぶね」と呼称する。「鵜舟」の季節は、まさに六月というところか。

[ことばの実際]

こまかに仲行が子にとい侍しかば、「宇治の左府は馬にのるにをよばず、戦場、大炊御門の御所に御堂のありけるにや、つまどに立そいて事をおこないてありけるに、矢のきたりて耳のしもにあたりければ、門邊にありける事に藏人大夫經憲と云者のりぐし申て、かつら河に行て鵜船(うぶね)にのせ申て、こつ河へくだして、知足院殿南都ヘいらせ給たりけるに、「見参せん」と申されければ、「もとより存じたる事也。對面にをよぶまじ」と仰せられける後に、船の内にてひきいられければ、このつねのり・圖書允利成・監物信頼など云ける兩三人、般若寺の大道より上りての方三段ばかり入て、火葬し申てけりとぞうけたまはりし」と申けり。〔『愚管抄』巻第四 後白河・大系223A〕

事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出(い)でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟、端(はし)舟につけて、鵜使はせらる。〔『とはずがたり』巻第二・上、全訳注413頁〕

「夕やみの うぶねにともすかがり火を 水なる月の影かとぞ見る」〔『赤染衛門集』175〕

「嵯峨野の興宴は 鵜舟筏師流れ紅葉 山陰響かす箏の琴 浄土の遊びに異ならず」〔『梁塵秘抄』霊験所歌 六首309〕

「梅津河ともす鵜ぶねのかゞり火に そこのみくづもかくれざりけり」〔『夫木集』巻第八夏部、恵慶法師〕

2000年6月27日(火)薄晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

 前を行く 通ラン人や 勇気増す

「労而無功(ラウしてカウなし)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「羅部」に、

労而無功(−シテ――)三畧。〔元亀本174C〕

労而無功(ラウシテ――)三畧。〔静嘉堂本194A〕

労而無(−シテ――)。〔天正十七年本中27オA〕

とある。標記語「労而無功」の語注記は、典拠である「『三畧』」という。意味は、「骨折ってもさっぱり効果があがらない。苦労してみても得るところがない」ことをいう。この典拠を『運歩色葉集』は、『三略』としているが、『莊子』天運に、「是猶舟於陸也、労而無、身必有殃」とある。江戸時代の『書字考節用集』に、

労而無(ラウシテコウナシ)[莊子] 猶舟於陸也。[三略]釋(ステヽ)近ヲ謀ル遠ヲ者云々。[宗鏡録]猶鑽(キツテ)冰覓(モトメ)火壓テ沙出カ油――ノ−−。〔言辞十35F〕

とあって、典拠を『莊子』『三略』『宗鏡録』として、それぞれ用例を記載している。

2000年6月26日(月)晴れ。常呂(サロマ湖)⇒札幌⇒東京

 連峰に くっきり殘雪 広がり見せ

「柝(ハウシギ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

(ハウシキ) 四二三ト打。<元亀本35B>

(ハウシギ) 四二三ト打。<静嘉堂本37D>

(ハウシキ) 四二三ト打。<天正十七年本上19ウA>

(ハウシギ) 四二三ト打也。<西來寺本61E>

とある。標記語「」の語注記は、「四二三と打つ」という。この「四二三」だが、『謙信流軍書』(嘉永三年1850写)・貝之事に、

用心ノ貝、夜中陣屋亥子丑ノ三剋也。ユリアラニ四二三ト吹也。<48頁>

とあって共通する。読み方は「ハウシギ」と「ハウシキ」と最後の四拍めの「き」を濁る清むの違いに留まる。現代では「ヒョウシギ」と発音している。『下学集文明本節用集』には未収載にある。当代の『日葡辞書』には、

Fio<xigui.l,feo<xigui.ヒャゥシギ.または,ヘャゥシギ(拍子木) 寺(teras)において,鉦の代りとして,互いに打ち合わせて鳴らす二本の木.〔邦訳236l〕

とある。江戸時代の『書字考節用集』に、

(ヘウシギ)本名ハ〓〔木+蠧-木〕[穀梁傳]兩木相撃ツ。曰−ト。[周禮註]戒ル夜ヲ者所ロ撃。蝦蟇更(同)。柝ノ一名見。[紀原][活法]。〔器財門八13A〕

とあって、標記語は『運歩色葉集』に合致するが、注記の打ち方についての説明はここにも見えない。

2000年6月25日(日)晴れ。湧別〜常呂(サロマ湖100kmウルトラマラソン大会)⇒北見

 ワッカ道 ずずいと奥まで 花の海

「一輩(イツバイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「部」に、

一輩(ーバイ) 蟹(カニ)。<元亀本18H>

一輩(ーバイ) 蟹。<静嘉堂本14A>

一輩(ーハイ) 触〓〔刀+牛〕。<天正十七年本上8オG>

一輩(ーハイ) 蟹。<西來寺本28E>

とある。標記語「一輩」の語注記は、「蟹(かに)」という。この注記語「蟹」を色葉部立ての補遺の「魚之名」に、

(カニ) 一輩。〔元亀本366E〕

(カニ) 一輩。〔静嘉堂本445E〕

として記載する。蟹を数えるのに「イツバイ【一輩】」と呼称することをいうのである。これは、蟹の左右が同じように並んでいるところから「輩」の字をもちいるのであろうか。現代の私たちは、蟹を数えるのに「杯」の字をもって数えるが、「ハイ」の音からして繋がりがあるのかもしれない。『下学集』はこの助数詞も語注記の「蟹」の語も未収載にある。文明本節用集』も、助数詞「一輩」の語は見えない。注記語の「蟹」については、

(カニ/カイ)(同/カウ)合紀喝尼(カニ)。異名、招潮。傑歩。郭素。横行。介士。博帯。長ク。彭越。望湖。士内。蘆虎。〔氣形門265A〕

とあって、『国花合紀集』からの引用と「異名」十一語のみで数え方までは記載を見ない。

2000年6月24日(土)晴れ。北海道(札幌)⇒常呂(サロマ湖)

ひんやりと 夜風に吹かれて 北十三条

「〓〔動+動動〕」の「はためく」と「ばためく」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

高〓〔動+動動〕(ハタメク) 天神。?〓〔火+炎〕(同)冨士。(同)。<元亀本35G>

高〓〔動+動動〕(バタメク) 天神。?〓〔火+炎〕(同)冨士。(同)。<静嘉堂本38A>

高〓〔動+動動〕(ハタメク) 天神。?〓〔火+炎〕(同)冨士。(同)。<天正十七年本上19ウF>

高〓〔動+動動〕(同ハタ) 天神。?〓〔火+炎〕(同)冨士。<西來寺本63@>*前の語の読みに誤る。

とある。標記語「高〓〔動+動動〕」の語注記が「天神」、標記語「?〓〔火+炎〕」の語注記を「冨士」という。「」には注記語はない。ここで注目したいのは、読みの異なりについてである。静嘉堂本が、「ばためく」と第一拍を濁音表記する。元亀本・天正十七年本・西來寺本は第一拍を清音「はためく」と表記することである。『下学集』は未収載にある。文明本節用集』には、

〓〔石+盖〕(ハタメク)〓(火+火火)爆。〔態藝門84D〕

とあって、これまた別標記語を示す。

この語の使い用を正確に考察するに、当代の『日葡辞書』には、

Batameqi,u,eita.バタメキ,ク,イタ(ばためき,く,いた) 鳥が飛ぶ時,または,翼で地面を打つ時,音が出る.§また,物が叩かれたりして音が出る.〔邦訳51l〕

Fatameqi,u,eita.ハタメキ,ク,イタ(はためき,く,いた)ある事について,急いで精を出してしている.▼Auate〜.〔邦訳211l〕

と明確に別なる意義説明の記述がなされている。

 「はためく」と「ばためく」の違いは如何に?

「はためく」も「ばためく」も前二音は擬音語であり、「はたはた」「ばたばた」という語の語頭二音に接尾語「めく」が付いて成る派生語動詞である。もとの擬音語の「はたはた」と「ばたばた」の違いを考えてみるに、清音の「はたはた」は自然現象である風や雷・焔などが物にあたって発する音を表現し、濁音の「ばたばた」の方は、人間を含めた生き物が足音・翅音となどとして発する音を表現するものである。とすれば、『運歩色葉集』の標記語二種は、「はためく」と読むのが正しいことになろう。

[ことばの実際]

目は鋺の様に〓〔金+闌きら〕めき、舌は焔(ほのほ)の様に霹(はた)めき合たり。〔『今昔物語集』巻第十四43・大系337O〕

捜(ソウ)神記ニ云、呉人有テ桐ヲ以爨者(イヒカシクモノ)。聞(キヽ)テ其ノ爆-聲(ハクセイ/ハタメク)ヲ曰ハク、此(コレ)ハ良(ヨキ)桐ナリト也。〔『塵袋』巻第七・管絃507〜509〕

内合はする音のはためく事、御神楽の銅拍子を打つが如し。〔『義経記』巻第五・大系219N〕

 

かるがゆへに、かへつてをのれが臑(すね)をまとひてばためく所を、主人走り寄つて烏を取りて、「奇怪(きつくわい)なり。いましめて命を絶つべけれども」とて、羽を切つてぞ放しける。〔仮名草子伊曽保物語』下12鷲と烏の事・大系447H〕

2000年6月23日(金)雨。東京(八王子)⇒北海道(札幌)

夕影鳥 小止みのうちに 聞きほるゝ

「伊羅高(イラタカ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊部」に、

伊羅高(イラタカ) 数珠。<元亀本15E>

伊羅高(イラタカ) 数珠。<静嘉堂本9@>

伊羅高(イラタカ) 数珠。<天正十七年本上6ウC>

伊羅高(イラタカ) 数珠。<西來寺本>

とある。標記語「伊羅高」の語注記は、「数珠」という。注記語「数珠」は「志部」に、

数珠(ジユズ)。<元亀本315B>

数珠(ジユズ)。<静嘉堂本370@>

とあって、注記語はみえないので、「伊羅高」の語との連関性については明確ではない。『下学集』は未収載にある。文明本『節用集』には、「伊羅高」の語は未收載だが、「数珠」は、

数珠(ジユズ/―シユ。カズ、タマ)或云念珠。又云子團先生。梵ニハ鉢塞暮。梁ニハ云――ト。是レ下根ノ修業ノ具也。昔シ有王曰佛言。願ハ示法要。佛言當ニ貫木?〓(木+患)子。一百八箇ヲ。随身称南無佛陀ヲ。滿二十万返身心不乱ナラン云云。<器材門925E>

とあるが、このなかで、「数珠」の別名は「念珠」と「子團先生」、梵語で「鉢塞暮」とあるだけで、「伊羅高」の語は見えない。当代の『日葡辞書』に、

Irataca.l,iratacajuzu.イラタカ,または,イラタカジュズ(苛高.または,苛高数珠) ゼンチヨ(gentios 異教徒)の用いる,ある型の数珠.§Iratacajuzuuo voximomu.(苛高数珠を押し揉む)ゼンチヨ(gentios 異教徒)が熱心に祈祷する時などに,この数珠を両手の間ですり合わせる.〔340l〕

とあって、表記する漢字は判らないが、「いらたか」または「いらたかじゅず」という語を収載する。この数珠は、平べったくって角の高い大き目の珠を連ねたもので、修験者がこれを用い、これで揉むとジャラジャラと大きな音を出すことから「苛高」といい、これを「伊羅高」と書くのであろう。江戸時代の『書字考節用集』にも、

平形金珠(イラタカズズ) 又作最多角ニ。〔器財門八3E〕

とあって、標記語を「平形金珠」と表記している。

[ことばの実際]

山伏、大きに腹を立て、柿の衣の露を結んで肩にかけ、澳行く船に立ち向つて、いらたか誦珠(ジユズ)をさらさらと押し揉みて、「『一持秘密呪(イチヂヒミツジユ)、生々而加護(シヤウシヤウニカゴ)、奉仕修行者(ブジシユギヤウジヤ)、猶如薄伽梵(イウニヨバガボン)』と云へり。〔『太平記』巻第二「長崎新左衛門尉異見の事付阿新殿の事」大系一78H〕

弁慶は、戸さひの上に腰掛けて、腰なる法螺貝取出し、夥しく吹き鳴らし、頸に懸けたる苛高の数珠を取りて、押揉み、「南無日本第一大霊権現、大峰金剛童子、奈良は七堂の大伽藍、長谷は十一面観音、賀茂、春日、住吉、願はくは、九郎判官殿、この道に赴き給ひて、この所の兵士たちの手にかけて、打留め給ひて、名を後代に揚げられ、勲功にあづかりなば、羽黒山の讃岐坊が験徳の程見せ給へ」とぞ祈りける。〔日本古典文学全集438O〕

2000年6月22日(木)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

よくぞ寝た 腰も強気に 栗の花

「細雨(いとさめ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊部」に、

細雨(イトサメ) 雨。<元亀本12I>

細雨(イトサメ) 。<静嘉堂本5B>

細雨(イトサメ) 。<天正十七年本上5オA>

細雨(イトサメ) 。<西来寺本15D>

とある。標記語「細雨」の語注記は、ただ元亀本のみが「雨」という。読み方は「いとさめ」であり、現代人の私たちは、この熟語の読み方を和語で「こまあめ」と読むことはできるだろう。そして、この「細雨」を「こまあめ」と記した資料としては、『倭語類解』天文がある。さらに「ほそあめ」はどうか?さて、読者の諸氏は、如何な読み方をするものだろうか?そして、類語としては「こぬかあめ粉糠雨小糠雨】」がある。『下学集文明本節用集』は未収載にある。当代の『日葡辞書』には、音読みで、

Sai v.サイウ(細雨) Comakana ame.(細かな雨)小雨.文書語.〔邦訳551r〕

とあって、残念ながら和語の読みは収載されていない。

[ことばの実際]

 三月三日 庚戌 細雨下る 鶴ヶ岡の宮一切経供養、将軍家御出で。結城の左衛門の尉朝光御劔を持つ。和田の平太胤長御調度を懸く。〔『吾妻鏡』建暦2年(1212)壬申〕*「サイウ」と読む。時季は一月から三月の記録に見えている。

細かなる雨や二葉のなすび種〔芭蕉俳句全集・元禄三年〕

小雨、にわか雨、しぐれ、春雨、穀雨、五月雨、梅雨、虎が雨、夕立、雷雨、秋雨、長雨、氷雨、寒の雨、霧雨、小糠雨、煙雨、細雨、そばえ(戯)、涙雨、篠突く雨、鉄砲雨、揺雨、恵みの雨、慈雨……。日本人は雨に実に多くの名前をつけた。雨が日本人の精神的風土にどのような影響を及ぼしたのか、四季折々の雨を通して、ときに古典を繙きながら、ときに演歌・ポップスに耳を傾けながら、日本人と雨の関りを楽しく探るエッセイ。〔宮尾 孝 著『雨と日本人』丸善ブックス068 本体 1,700円 四六判 180頁 ISBN 4-621-06068-6 C0339〕

直径0.5mm以下の雨粒を霧雨{きりさめ}、直径0.5?1.0mmの雨粒を細雨{ほそあめ}、直径1.0?3.0mmの雨粒を並雨{なみあめ}、直径3.0mm以上の雨粒を夕立あるいは雷雨という。(雲粒の大きさは0.05mm以下)〔細雨の雨粒の大きさと落下速度は?*国語辞書にはこの読みは未記載。

事実、此世に亡い人かも知れないが、僕の眼にはありありと見える、菅笠を冠つた老爺のボズさんが細雨の中に立て居る。〔国木田独歩都の友へ、B生より』〕

剣閃、雨に映え、人は草を蹂躙して縦横に疾駆する。たけなわ。さもなくば、初冬細雨の宵。浅酌低唱によく、風流詩歌を談ずるにふさわしい静夜だが……。〔林不忘丹下左膳』〕

もう四ツ時分だから駕籠を呼ばせようかと云いましたが、そこらへ出て辻駕籠を拾うからと云って、二人は細雨(こさめ)のふる中を出て行きました」〔岡本綺堂半七捕物帳金の蝋燭』〕

土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺されたのは、文久二年四月八日、夜、十時すぎである。この日、夕刻から、細雨がふった。東洋は、城内の御殿にいた。〔司馬遼太郎竜馬がゆく』〕

[参考資料]いろいろな雨漢詩「梅雨書懐」

2000年6月21日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

桑の葉や 気づかぬうちに 小鳥鳴き

「積塔(シヤクタウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

積塔(−タウ) 座頭。<元亀本316C>

積塔(−タウ) 座頭。<静嘉堂本371D>

とある。標記語「積塔」の語注記は、「座頭」という。これは、正確には新潮国語辞典』の意義説明が適切であるのでその箇所を引用するに、

シャクトウエ積塔会】A室町時代以後、全国の検校(ケンギヨウ)・勾当(コウトウ)・座頭などの盲人が、毎年二月十六日に京都の高倉綾小路(アヤノコウジ)の清聚庵(セイジユアン)に集まって、盲人の守り神である雨夜尊(アマヨノミコト)をまつり、酒宴を開いて平曲を語った法会。〔狂言・どぶかつちり〕

とあって、これをふまえてこの標記語と注記語の関わりを見ると、「座頭たちが季の二月十六日に催す法会式を「積塔会」といい、これを省略して「積塔」という。すなわち、“座頭の寄合”を縮めた意義注記」のことである。この注記語「座頭」は「左部」に、

座頭(―ツウ)。<元亀本268F>

座頭(サトウ)。<静嘉堂本305G>

とあるだけで語注記は未記載にある。上記「積塔」だが、『下学集広本節用集』は未記載にある。易林本節用集』に、

石塔(シヤクタフ) 座頭(ザトウ)ニ用(モチフ)之レヲ。<言辞218@>

とあって、標記語を「石塔」とするが、注記からして「積塔」と同じことが知られる。また、江戸時代の『書字考節用集』に、

積塔(シヤクタフ)二月十六日。琵琶法師ノ家ノ會式。○傳テ云。修スル光孝天皇ノ皇女ノ御忌ヲ者。<時候門二81G>

とあって、その語注記に「二月十六日の日に、琵琶法師の家の會式。○傳て云ふ。修スル光孝天皇の皇女の御忌を修する者」とあって詳細な説明である。この注記語「琵琶法師」は「座頭」のことでもある。

[ことばの実際]

ワキこれは江口の里と申し候、あれな木蔭に石を畳める岸蔭に積塔(しやくとお)の見え候、故ありげなる人の跡と見えて候、里人に尋ねばやと存じ候。<謡曲集江口』大系上50I>*頭注に「小石を積んだ程度の簡潔な墓石。あるいは石塔(せきとう)と同意か」とある。

しやくたう 二月十六日 座頭中行也。<俳諧『誹諧初学抄』中春>

又二月に、しやくたうとて、京中のもうもく〔○盲目〕ども、けんげうの一臈御職(おしよく)のいゑ〔○家〕にあつまりて、おこなひあり、後鳥羽院の御とふらひなりと、きゝつたへ侍る。<浅井了意東海道名所記』二、日本古典全集73L>

2000年6月20日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

山の葉も 緑深きは 陰日向

「相」の読みは「きぎうつ」か「きらつ」か

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀部」に、

(キラツ) 里ニ有喪、則ハ[]不−。礼記。<元亀本288C>

(キヾウタ)里ニ有喪(モ)、則ンハ舂(ウスツク)ニ不−。礼記。<静嘉堂本334A>

とある。標記語「」の語注記は、「里に喪(モ)有る則んば舂(ウスツク)に相(きぎうた)ず。『礼記』」という。ここを元亀本の「相(きらつ)」と読むと否定の「不」が読めない。この典拠を『礼記』と記す。実際『礼記』に、

然後得合葬於防〓鄰有舂不相里有殯。不巷歌。喪冠不〓(糸+委)有虞氏瓦棺 <檀弓上第三>

とあって、その語を確認することができる。この標記語「」の読み方を元亀本は「キラツ」とし、静嘉堂本は「キギウツ」としている。ここで、元亀本の「キラツ」の読み方だが、語頭の「キ」とそして語末の「ツ」は共通していて、語頭の「キ」につづく「ラ」が、「ヽウ」を見誤った可能性もないではない。『下学集』『節用集』類は、この語を未収載にある。

2000年6月19日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

実もごろに 馬鈴薯の花 土盛りす

「十三・若々」の読みは「ほたほた」か「ほのほの」か

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「保部」に、

十三(/\)。若々()。若々ト。人丸哥。<元亀本45C>

十三(ホノ/\ト)。若々()。君々()。人丸哥。<静嘉堂本50F>

十三(ホノ/\)。若々()。若々(ホノ/\)人丸哥。<天正十七年本上26オE>

十三(ホタ/\)。若々()。人丸之哥ニ。<西来寺本79@>

とある。標記語「十三」に「若々」、最後の「君々」(静嘉堂本)と「若々」(元亀本・天正十七年本)の語注記は「人丸の哥」という。読み方も元亀本西来寺本が「ほたほた」に対し、静嘉堂本天正十七年本が「ほのほの」と二分されている。『下学集』は未収載にある。広本節用集』には、「ほたほた」と読む語は未記載にあり、「ほのほの」の語は、

少見(ホノ/\/セウケン。スコシ、ミル)或作髴々(ホノ/\)ト|。<態藝門105E>

とあって、別の標記語「少見」と注記語「髴々」が記されていて、「十三」と「若々」の語は未収載にある。

また、語注記「人丸の哥に」にとあるが、『万葉集』巻第二・217に、

 吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌

秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可

栲紲之 長命乎 露己曽婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曽婆

夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母 髣髴見之 [おほに見し]

事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 劔刀 身二副寐價牟 若草

其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武

時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也

短歌二首

樂浪之 志賀津子等何 [一云] [志賀乃津之子我] 罷道之 川瀬道 見者不怜毛

天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔

とある。「髣髴」の語を「おほ」と訓読しているが、『万葉集』中における「髣髴」の読みを抽出してみるに、

念之妹之 珠蜻 髣髴谷裳 不見思者〔02/0210〕[ほのかにだにも]

夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母 髣髴見之〔02/0217〕[おほみし]

家従裳出而 緑兒乃 哭乎毛置而 朝霧 髣髴為乍〔03/0481〕[おぼになりつつ]

梶之音曽 髣髴為鳴 海末通女 奥藻苅尓 舟出為等思母〔07/1152〕[ほのかにすなる]

玉蜻蜒 髣髴所見而 別去者 毛等奈也戀牟 相時麻而波〔08/1526〕[ほのかにみえて]

目山 徃反道之 朝霞 髣髴谷八 妹尓不相牟〔12/3037〕[ほのかにだにや]

朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 髣髴所見而 徃之兒故尓〔12/3085〕[ほのかにみえて]

髣髴聞而 大<土>乎 <火>穂跡<而 立>居而 去方毛不知〔13/3344〕[ほのかにききて]

退莫立 禁尾迹女蚊 髣髴聞而 我丹所来為 水縹 絹帶尾〔16/3791〕[ほのききて]

とあって、217番と481番が「おぼに」と訓読するが、残りは「ほのかに」「ほの」と訓読している。

 さらに、『古今和歌集』巻第九・羈旅哥に、

409 ほのぼのとあかしのうらのあさぎりに しまがくれゆく舟をしぞ思ふ

このうたはある人のいはく、かきのもとの人まろがうた也 <大系185> 京大本は、この部分を欠く

とある。ただし、「十三」「若々」の標記語は、『古今集註』(毘沙門堂本)によれば、

ホノ/\ト云ニ有三義。明若壽風也。万葉等ノ説也。明者アキラカナル義也。此ハ夜ノアクルヲ云也。又左傳ニ明旦トカキテホノ/\トヨメリ。若ト者春草ナムトノウラワカキヲ云也。奥義抄ニハ深草不出春宮若々(ホノ/\)トヨメリ。壽者壽ノアタナルヲ云也。風ハカセノホノカニフキタル心也。文道ニ常ニ風聞ナムトヨメリ。文集ニ壽(ホノカニ)傳テ三公之政道トカケリ。又風ハ文記等ニ多クヨメル也。此四ノ中ニハ今歌ハ壽ノ義也。高市皇子ノ薨タルヲ云也。アカシノ浦トハ娑婆ノ明ナル所ニ生スルヲ明石浦ト云也。朝霧ト云ハ娑婆ヲ隔生死ノ霧ノ迷也。霧ハ物ヲ隔ル事ニ云也。或人云、朝霧ト云者病ノ名也。此病ヲシテ薨給ヘルヲ云ト云リ。嶋隠レ行トハ秋津洲ヲカクレテ冥土ヘ行也。或人云、生老病死ノ四魔ニカクサレテ行ト云リ。此義難意得。舟ヲシソ思ト云者、王ヲハ舟ト云也。シカレハ彼王子ハ春宮ノ太子ニテ儲君ナレハ、舟ニノルヘキ人ナル故ニ舟ヲシソ思フト云也。薨スルヲオシトソヘテ思也。王ハ民ノ世ヲワタス義ヲ以テ舟ト云也。 史記云、大公主ノ政ト賢シテ悉ク直ナリ惠ノ波流レ外千万ノ濤(サカヒ)ニ貴賎度(ワタル)世ヲ事能ク妙ナリ。故ニ號船筏ト。誰不敬ト云リ。 又貞観政要云、君如船臣如水水能度シ船水還(マタ)覆船在リ臣ニト云リ。 柿本朝臣天足彦國押人命之後也。敏達(ヒタツ)天皇御世依家門有柿樹。爲柿本氏。 此嶋ニクラカケ嶋フタコ嶋ミナウ嶋トテ三ノ嶋斷續セリ。 風帆藏霧遠景絶タリ。祝其風流ハカリ也。豈有多少之義歟。何況於哀傷意哉。

とあって、『奥義抄』に「深草不出春宮、若々(ホノ/\)トヨメリ」とあって、『運歩色葉集』の表記と合致する。また、『庭訓徃來註』二月廿四日返状に、

旋頭 哥曰若々(ホノ/\)ト明石浦朝霧嶋隠舟惜 此哥若々五字皈也。持統天王太子三歳ニシテ御崩去哀悼歌也。〔謙堂文庫藏一〇左C〕

とあって、これも当代の歌学資料から引用されていて、『運歩色葉集』の静嘉堂本と天正十七年本の訓である「ほのほのと」は、これに拠ったものと見たい。

 では次に、「ほたほた」なる語はどうか?といえば、時代は降るのだが、江戸時代の浄瑠璃集仮名手本忠臣蔵』に、

何が其五十兩渡すと悦んで戴。ほた/\いふて戻られたはもふ四つでも有ふかい。<大系328F>「ほたゆ」と同じく、ふざける。おどける。喜んで冗談などいう意。

という例が用いられている。また、文楽浄瑠璃集伊賀越道道中双六』に、

「サア此藥は大切ない物。第一金瘡には其場で治る妙薬。武家方には尋れ共。金銀づくでは手に入ぬ妙薬」と。地ウ語れば…娘は猶ハルほた/\。「詞とゝ様の命の親。一日や二日でお禮は云も盡されず。地ウ成ふ事なら今宵は爰に。ハル御逗留フシ遊ばして。」<大系336B>

とある。これらの語と連関しているかは定かではない。

[ことばの実際]

太陽はやさしい光で照りつけ、蒼穹の空は広がり、若々とした草木はさわやかな風にゆられていた。<創作童話『多喜と藥売り』より>

「あんずほたほたになり落ちにけり」(定本犀星句集『遠野集』)

ほたほたと八瀬のおはぐろとんぼかな」(八木林之助)

[補遺]水鳥川さんからの助言

「ほのほの」と「人丸の哥」というヒントがあると、川柳好きの人間にはぴんとくる歌があります。

古今集』羈旅・409 の「ほのぼのと明石の浦朝霧に 島かくれ行く舟をしぞ思ふ」

です。この歌は朝起きの呪文として有名で、芝居見物や花見の前夜に上の句を唱えて寝ると朝早く目が覚め、起きてから下の句を唱えて詠みおさめるという呪文です。

人丸は花や芝居の起し番 (柳多留一二一丙・22)

人丸は半身おろして明日の朝 (柳多留拾遺五・8)

ほのぼのと人丸堂を矢のごとし (柳多留九・1)

末世まで明石の浦で目を覚まし (柳多留一三・16)

朝ぎりでやぐらの見へぬじぶん行き (柳多留一八・6)

ほのぼのに芝かくれ行船に首 (柳多留九五・12)

隠れ行舟かくれなき御歌也 (柳多留五四・31)

2000年6月18日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

唐黍に 向日葵と百合 背競べす

「硯水(ケンズイ)」は酒の名

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣部」に、

硯水(ケンズイ)感陽宮作ル〓〔日+之〕キ依テ高ニ――(スヽリノミツ)凍(コヲ)ル。入則ノ――不凍(コヲラ)。餘ノ酒大工飲之ヲ。今世傳来曰――(ケンスイ)ト也。<元亀本217A>

硯水(ケンスイ)感陽宮作ル時依高ニ――凍。入酒則ハ――不凍。餘酒ヲ大カ飲(ノム)之ヲ。今世ニ傳来曰――ト也。<静嘉堂本247C>

硯水(ケンスイ)感陽宮作依高――凍。入酒則ンバ――不凍。餘酒ヲ大工飲之。今之世ニ傳来曰――ト也。<天正十七年本中54ウA>

とある。標記語「硯水」の語注記は、「感陽宮作る時、硯水(スヾリノミヅ)高きに依りて凍(コヲ)る。酒を入るる則は、硯水凍(コヲラ)ず。餘りの酒は大工、これを飲む。今世に傳来し、硯水(ケンスイ)と曰ふなり」という。注記語の「感陽宮」の語については、6月16日のところで触れたので省略する。『下学集』は未収載にある。広本節用集』は、

硯水(ケンズイスヾリミヅ)番匠之酒名也。<飲食門592C>

とあって、語注記は『運歩色葉集』とは異なり、「番匠の酒の名なり」とその謂れを触れずに意味だけを示しているにすぎない。「番匠」は昔大和や飛騨から都にのぼり勤番した「大工」のことだが、彼らに振舞う酒の名を「硯水」と呼称し、番匠は「硯水」を頂戴すると言うのであろう。この典拠が何に基づくものなのかは今後の検証に委ねることにしたい。当代の『日葡辞書』にも、

Qenzui.ケンズイ(硯水) 大工とかその他の労働者とかが,夕食,あるいは,普通の食事の時以外に飲む酒.<487l>

とあって、この「硯水」という名の酒が大工仕事の折に飲むものであることもはっきりしてくるのである。さらに、江戸時代の『書字考節用集』には、

建溪(ケンケイ)農家昼食。建水(ケンスイ)仝上。<服食門七31C>

とあって、表記も意味も大きく異なっている。

 現在、酒の異名である「硯水」の語源説明だが、

硯水(けんすい)乾いた硯を水で潤すように、疲れた者に酒菓を与えると慰さめられるというところから。閑田耕筆*「ケンスイ」と第三拍を清音で読んでいる。

として、1986年第五回雑学出版賞となった『酒おもしろ語典』(大和書房)にもほぼ同じ解釈がなされているようである。

[ことばの実際]

2000年6月17日(土)曇り一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

姫裟羅に 誘ひの蜂は もてなすぞ

「客征(カゼイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀部」に、

客征(カゼイ)風也。異名。<元亀本97H>

客征(カセイ)風也。異名。<静嘉堂本122C>

客征(カセイ) 異名。風也。<天正十七年本上60オD>

客征(カゼイ)風也。異名。<西来寺本>

とある。標記語「客征」の語注記は、「風也。異名」という。『下学集』は未収載にある。広本節用集』も標記語「客征」は未収載だが、標記語「」の語注記に、

(カゼ/フウ)鶴林玉露客子(カゼ)國花合紀作欲舌。客之。何安之。〓(風+鬼)〓(風+弗)−ハ音弗也。地類也。百詠云、風ノ名ハ鳶鳴。少女。銅鳥。石燕。虎嘯。龍吟。豊隆鈔ニ云、風者汎也。能汎テ薄ル万物ニ。又風者、天地之使也。又陰陽怒テ而為風ト。无命包ニ曰、天地怒而為風ヲ。尓雅曰、暴風従リ上下ヲ曰頽。従下上ヲ曰〓(風+炎)。亦曰扶揺ト。廻風ヲ曰飄ト。日出テ而風曰暴陰(ク−)テ而風ヲ曰〓(日+壹シチ)ト。風雨リ土曰霾ト。春晴而風ヲ曰光風、和風ト。餘風ヲ曰緒風。吹物有聲曰籟。終日ノ風ヲ曰終風ト。又風俗通ニ猛風ヲ曰〓(風+列)ト。涼風ヲ曰〓(風+留)ト。微風ヲ曰〓(風+火炎)ト。北風ヲ曰〓(風+叟)ト。又八節ノ風者、八方之八卦之風也。易緯曰、立春ニ條風至。東北風也。又作調風ト。春分ニ明鹿風至。東方ノ風也。立夏ニハ清明風至。東南風也。夏至ニハ景風至。南方風也。立秋ニハ涼風至。西南風也。秋分閭闔風至。西方風也。立冬、不周風至。西北風也。冬至廣莫風至。北方風也。尓雅云、春晴西風ヲ曰光風。又東ノ風曰谷風。南風曰凱風。西風曰暴風。北風曰涼風。又文選云、夫レ風ハ生シテ於地ヨリ。起青蘋之末ニ。又夏ノ風ハ呂氏春秋云、東南ノ之風ヲ。曰薫風。又秋風ハ梁ノ元ノ纂要ニ秋風ヲ曰商風。金風。素節。高風。涼風。悲風ト。又冬風ハ、梁ノ元帝ノ纂要ニ曰、冬風曰。厳風。寒風。朔風ト也。又文選云、風ハ生ツテ土嚢ノ口(ハシメ)ヨリ青蘋之末ヨリ。初學記云、陰陽怒而為風。 異名、巽風。−二(ジ)。−封。飛簾。土嚢。青蘋。蘋末。鴬風。雁風。黄雀。天籟。衆籟。万籟。南薫。薫風。封姨。金精。金鳳。楚玉襟。西吹。〓(咸+角)發寒風。扶揺大風也。羊角大風也。<天地門254@>

とあって、異名語群には当該語は未収載にある。ただ、『鶴林玉露』の「客子」が類似する語と見るところであろうか。この語が何に依拠しているのかは今後検討する余地がある。現代の国語辞典では、小学館『日本国語大辞典』がこの『運歩色葉集』の語を引用するに留まっている。

2000年6月16日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

流れ汲む 行き逢ひ水の 冷にして

「秦ノ始皇(シンのシクワウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

秦ノ始皇(−ノ――)陽宮ヲ作ル。<元亀本322G>

秦始皇(シンノシクワウ)陽宮作。<静嘉堂本381@>

とある。標記語「秦始皇」の語注記は、「漢陽宮を作る」という。注記語「咸陽宮」は、「賀部」に、

咸陽宮(カンヤウキウ)秦始皇立之。<元亀本101A>

咸陽宮(カンヤウキウ)秦始皇立之。<静嘉堂本127B>

陽宮(カンヤウキウ)秦始皇立之。<天正十七年本上62ウA>

陽宮(カンヤウキウ)秦始皇立之。<西来寺本176B>

と見え、語注記は、「秦の始皇これを立つ」とあって、両標記語とその注記説明の結びつきが表裏一体化しているのである。ただし、「秦始皇」における注記語「咸陽宮」の「咸」の字を元亀本は「漢」、静嘉堂本は「感」と同音異語の文字をもって記しているのである。これを天正十七年本西来寺本が標記語において静嘉堂本の注記語と同じ「感」の文字表記する。このことは、“固有名称語に対する表記の揺れ”について書写者は正確性を強く意識化においていないことがここに知られよう。『下学集』は未収載にある。広本節用集』は「秦始皇」を未収載とするが、「咸陽宮」の語は、

咸陽宮(カンヤウキウ/ミナ、ミナミ、ミヤ)秦ノ始皇之宮也。<天地門251F>

とあって、『運歩色葉集』の注記内容は、『節用集』類からの継承にあるといえよう。そして、「咸陽宮」の語が頭目語であり、「秦始皇」のほうが立項語という見方が穏当であろう。

2000年6月15日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

雨どいに 知らず何かが 借り止まる

「三論宗[集] (サンロンシウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「佐部」に、

三論(―――)佛入滅之後龍猛菩薩出世。宣(ノフル)‖諸法皆空。所謂百論是也。青辧菩薩出世。同(ノフル)此儀ヲ|。文殊罵鳴竜樹提婆羅什等皆為祖師ト|也。<元亀本280F>

三論宗(―――)佛入滅ノ時竜猛菩薩出世。宣(ノフ)‖諸法皆空之旨ヲ|。所謂百論是也。青辧(ベン)菩薩出世。同(ノフ) ‖此議ヲ|。文殊馬鳴(ハメイ)竜樹(ジユ)提婆羅什(ジウ)等皆為祖師ト。<静嘉堂本318E>

とある。標記語「三論宗」の語注記は、「佛入滅の後、龍猛菩薩世に出づ。諸法皆空の旨を宣ぶる。謂ふ所の百論は是なり。青辧菩薩世に出づ。同じく此の儀を宣ぶる。文殊罵鳴竜樹提婆羅什等皆祖師と為すなり」という。本来であれば、「中論・十二門論・百論」について順に注記するものであるが、最後の「百論」についての内容を説明している。そして、注記語「百論」や「青辧菩薩」は立項されていない。元亀本は最後の音「シウ」を異にする表記にある。『下学集広本節用集』は未収載にある。永祿二年本節用集』には、

八宗(ハツシウ)法相宗(ホツサウジウ)。三論宗(サンロン−)。倶舎宗(クシヤ−)。成實宗(ジヤウジツ−)。律宗(リツ−)。華厳宗(ケゴン−)。天台宗(テンダイ−)。真言宗(シンゴン−)。  禅宗(ゼンシウ)。淨土宗(ジヤウド−)。之則十宗。<数量26C>

とあって、標記語「八宗」の注記語に「三論宗」という語が見えているが、『運歩色葉集』の語注記内容だが、『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

或禪律兩僧 自方等部禪出也。達磨惠可僧〓〔玉+粲〕道信弘忍惠能也。律宗四阿含出也。道宣律師也。日本ニハ仁王四十六代孝謙天王大唐鑑真和尚渡也八宗法相三論倶舎成實律花厳天台真言也。倶舎成實律宗小乗也。法相三論花厳天台真言大乗也。倶舎成實律宗法相三論真言六宗天竺立也。天台花厳二宗震旦所立也。倶舎天竺天親菩薩所立倶舎論是也。成實天竺可利跋摩三蔵所立成實論是也。律宗天竺菊多三蔵五人弟子所立四分五分等是也法相如来滅後提婆菩薩出世為阿育大王。説諸方實相状ヲ|。阿僧伽師出世奉請卒天弥勒菩薩夜分降。天竺説法所謂瑜伽論等是也。又護摩菩薩出世説此宗唯識論等是也三論如来入滅後竜猛菩薩出世宣諸皆空之旨所謂百論等是也。又青辧菩薩出世同宣此義文殊馬(メ)鳴竜樹提婆羅什等皆為租師天台震旦隋代、智大師自南岳惠恩大師又名惠文禅師。爰三種止観篭居於大蘓道場開發霊山之聽弘宣法花深義玄義文句等是也。花厳震旦禅門寺花厳和尚所立。又唐代法蔵大師奉詔講花厳經。至世界品。大地震動。爰則天皇後貴之下勅令疏釈。施宣此經所謂花厳是也。蓋法相花厳天台真言之。倶舎成實三論之也。〔謙堂文庫藏二四左D〕

とあって、「律宗」「八宗」「法相」「倶舎」といった語注記を含め、『運歩色葉集』に引用されている。異なりは、「如来」を「佛」に置換しているところであろう。

[ことばの実際]

およそ宗論の難き事、我かつて聞きぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法・清弁とて二人の菩薩おはしき。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を述べ給ふ。門徒二つに分かれ、彼を是し、これを非す。ある時、この二菩薩相会うて、空有の法論を致し給ふ事、七日七夜なり。共に富楼那の弁舌を借りて、智三千界を傾けしかば、無心の草木も、これを随喜して、時ならず花を開き、人を恐るる鳥獣も、これを感歎して去るべきところを忘れたり。しかれども、論義遂に止まず、法理両篇に分かれしかば、よしや五十六億七千万歳を経て、慈尊の出世し給はん時、会座に臨み、この疑ひを散ずべしとて、護法菩薩は蒼天の雲を分かち、遥かに兜率天宮に上ぼり給へば、清弁菩薩は青山の岩をつんざき、修羅窟に入り給ひにけり。その後、華厳の祖師香象、大唐にしてこの空有の論を聞きて、色即是空なれば、護法の有をも嫌はず、空即是色なれば、清弁の空をも避けずと、二宗を会し給ひけり。上古の菩薩、なほ以つてかくのごとし、いはんや末世の比丘においてをや。〔『太平記』巻第二十四、「山門嗷訴に依つて公卿僉議の事」〕

2000年6月14日(水)雨のち晴れ間。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

色益しき 蕚紫陽花や 花の傘

「四至内(シキナイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

四至内(ーキナイ)坂本也。山徒。<元亀本327E>

(ーキナイ)坂本之山徒。<静嘉堂本>*「室」の字は「至」の誤り。

とある。標記語「四至内」の語注記は、元亀本は「坂本なり。山徒」、静嘉堂本は「坂本の山徒」という。語注記の「坂本」は京都比叡山の地名、比叡山坂本の「山徒」のことか?両語ともに「佐部」に、

坂本(―モト)。<元亀本271G>、坂本(サカモト)。<静嘉堂本310C>

山徒(−ト)。<元亀本268I>、山徒(−ト)。<静嘉堂本306A>

とあって、標記語のみで注記をしない形で立項されているため、その連関性についての確認がむつかしい。この「四至内」という語は、おおかた一里四方を意味し、中世において「四至内」とか「境内」というのは、経済権や警察権などが、その寺社にあるということを意味しているのである。それを掌る「山徒」を云うのであろう。『下学集』『節用集』類は未収載にある。

「至」の字を「キ」と発音することが注目される。『字鏡抄』には、

(シ)[古字・同字省略]ヲホイナリ。アキラム。ムネ。イタル。ヨシ。トヲシ。キハム。<白河本986C>

とあり、『聚分韻略』も、

(シ)到也。イタル。<慶長壬子版7ウ153c>

とあって、字音「シ」のみの記載である。

[ことばの実際]

観心山普賢教法寺四至内之図(正長元年・観音寺蔵)

2000年6月13日(火)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

止まず降る 雨に縛られ 電話音

「容隠輩(ヨウインのともがら)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「与部」に、

容隠輩(ユウイントモガラ)无足之者事也。<元亀本133C>

容隠輩(―――)無足之者也。<静嘉堂本139G>

容隠輩(ヨウインノトモガラ)無足之者之事也。<天正十七年本中2オE>

とある。標記語「容隠輩」の語注記は、「無足の者の事なり」という。「容隠」の語意味は、本来人を迎え入れ、その人を留め置くことである。さらに、隠し立てをした罪を許す。隠し立てをする事自体が罪であり、父が子のために隠し、子が父のために隠すことは人道であるからして、肉親の罪を隠したものは特別に許したことから、やがて罪人をかくまうこと。または、犯罪を見逃すことに用いられることばである。そして、注記語の「無足」だが、『運歩色葉集』は「牟部」には未記載にある。広本節用集』に、

無足(ムソク)。<態藝門462D>

とあるだけで、これも語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

容隠 言出可奉公无所帯少者雖无奉公ニシテ自由之輩也云々。〔謙堂文庫藏一三右H〕

とある。また、当代の『日葡辞書』には、

Musocu.ムソク(無足)領地を持たないこと.または,領地やそれに相当する物を貰わないで奉公すること.<邦訳435l>

Musocuna.l,musocuninatta.ムソクナ.または,ムソクナッタ(無足な.または,無足になった) 武士が持ちつけている知行,或いは,領地がなくなる.§また, Musocuna.l,musocuno.(無足な.または,無足の)無益な(こと),または,徒労な(こと).例, Musocuna xinro<uo itaita.(無足な辛労を致いた)私はむだ骨を折った.<邦訳435l>

Musocunin.ムソクニン(無足人) 所領もなく,知行(Chiguio<)すなわち所領がないのを補うに足るだけの食扶持もない人. <邦訳435l>

とある。さらに、現代の新潮国語辞典』を繙くに、

ムソク無足】(知行の料足のない意)@鎌倉・室町時代に、武士に所領または俸禄(ホウロク)がないこと。また、その武士。「――の兄弟〔御成敗式目〕」A江戸時代に田祿がなくて、ただ米の俸だけを受けること。また、その人。〔勘契備忘記〕B無にすること。むだになること。「――になして太夫狂ひ〔曽我扇八景〕」

とあって、この@の意味であるとすれば、ここでは「容隠輩」を武士であっても所領・俸禄の無い部屋住み者(類義語でいうところの「牢人」など)をこういっていたことになる。さて、「容隠輩」は、『下学集広本節用集』には未収載にある。弘治二年本節用集』に、

容隠輩(ヨウインノトモカラ)無足者也。<人倫91A>

とあって、『運歩色葉集』の語注記に共通する。また、易林本節用集』には、

(ヨウキ)−易(イ)−愛(アイ)−引(イン)−躰(タイ)−艶(エン)−隠(イン)−幸(カウ)−色(シヨク)。<言語86D>

とあって、標記語「容隠」のみの収載が見えている。さらに、『塵芥』にも同じく標記語が見えている。

[ことばの実際]

「曰。乃其速由文王作罰。刑無赦。[注] 康誥所ハ云フ、以テ骨肉之親ヲ、得容隠スルヲ。故ニ左傳ニ云フ、父子兄弟ハ、罪不相及。」<『書經』康誥の注>

件ノ輩トモガラ等。早ク變ヘンジ‖ヨウ-隠イン之思ヲ|。宜ヨロシク ヘシ∨抽ヌキンズ‖クン-功コウノ之節せツヲ|。《件の輩等、早く容隠の思ひを変じ、宜しく勲功の節を抽んずべし。》<『吾妻鏡』文治四年戌申四月小九日乙亥「文治四年二月廾一日宣-旨」170下左>

奥州の住人藤原の泰衡、義顕を容隠せしむるの上、謀叛に與同すること疑ふ所無からんか。御免を蒙り誅罰を加へんと欲する事。》<『吾妻鏡』文治五年己酉二月二十二日甲午>

2000年6月12日(月)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

雨に見ゆ 未央楊の 艶姿

「思無邪(よこしまなからんことをもへ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「与部」に、

(ヨコシマナカランコトヲモヘ)論語。<元亀本133D>

(ヨコシマナカランヲモヘ)論語。<静嘉堂本140@>

(ヨコシマ−ンコト−ヘ)論語。<天正十七年本中2オF>

とある。標記語「」の語注記には典拠名称である「『論語』」という。その『論語』爲政第二に、

子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以徳、齊之以禮、有恥且格。

し、のたまはく、し、さんびゃく、いちごんもってこれをおほふ、いはく、おもひよこしまなし「心にくもりなしと。し、のたまはく、これをみちびくにせいをもってし、これをととのふるにけいをもってすれば、たみ、まぬがれてはづるなし。これをみちびくにとくをもってし、これをととのふるにれいをもってすれば、はづるありてかつただし。

とある。この部分を指示している。実際、清原家の『論語』(枝賢筆)爲政第二に、「子曰、詩三百、一言以蔽之曰、思無邪(ヨコシマナシ(ト)ヲモヘ)。」『論語』爲政第二(良枝筆)には、「曰、思無邪(――ナクンコトヲ−ヘ)。」とあって、この語を引用するものである。ただ、読み方が完全に合致するまでには至らない。『下学集』には未収載にある。広本節用集』には、

(ヨコシマナカランコトヲモヱ)毛詩。<態藝門325A>

とあって、その読み方は『運歩色葉集』と同じであるが、最後の表記字の「ヘ」を「ヱ」で表記している点が異なり、さらに典拠を『毛詩』としている点が大いに異なっている。江戸時代の『書字考節用集』は、

思無(ヲモヒヨコシマナシ)誠之謂出[毛詩]。<九49E>

とあって、訓読の仕方も異なり、注記内容も「誠之謂出[毛詩]」として、広本と同様に『毛詩』を典拠としている。

2000年6月11日(日)雨。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)⇔鶴見

雨も良し 気持ち調へ 走り来る

「傾城(ケイセイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣部」に、

傾城(ケイセイ)古語曰、一顧(イツコ)−−ヲ。再顧傾國ヲ。<元亀本217D>

傾城(ケイセイ)古語云、一顧−−。顧傾国。<静嘉堂本247F>

傾城(−セイ)古語云、一顧−−。再顧傾国ヲ。<天正十七年本中54ウC>

とある。標記語「傾城」の語注記は、「古語に曰く、一顧(イツコ)すれば城を傾く。再顧すれば國を傾く」という。これは、『漢書』外戚上、孝武李夫人傳の、

北方ニ有リ佳人、絶世ニシテ而獨立ス。一顧スレバ傾ケ人ノ城ヲ。再顧スレバ傾ク國ヲ

に拠っている。『下学集』には、

傾城(ケイセイ)。<人倫39F>

と標記語のみの収載にあり、広本節用集』は、

傾城(ケイセイ/カタムク、シロ・ミヤコ)妓女。<人倫門590E>

妓女(ギヂヨ、メアワス/−ヲンナ)云傾城(ケイセイ)ヲ也。<人倫門813A>

とあって、その語注記は意義の語である「妓女」を示していて、『運歩色葉集』とは異なっている。『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

縣御子傾城 列子曰、西施病而〓〔目+賓〕。其里醜人見之美之皈亦捧(ヲサヘ)テ〓〔目+賓〕。彼知コトヲ〓〔目+賓〕而不〓〔目+賓〕之所-以ナル。西施越女也。有絶世。勾踐以与夫差々々嬖国故云傾城也。〔謙堂文庫藏二三左H〕

とある。当代の『日葡辞書』には、

Qeixei.ケイセイ(傾城)遊女.§Qeixeiuo tatcuru.(傾城を立つる)遊女を職とする.▼Tate,Tcuru.<邦訳483l>

とあって、「遊女」の意にしている。江戸時代の『書字考節用集』には、

傾城(ケイセイ)美婦人之通稱。見[前漢外寂傳]<人倫四53F>

とある。

[ことばの実際]

この時、もし義貞、早速に下向せられたらましかば、一人も降参せぬ者はあるまじかりしを、その頃、天下第一の美人と聞えし勾当内侍を内裏より給ひたりけるに、しばしが程も別れを悲しみて、三月の末とも西国下向の事延引せられけるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。<『太平記』巻第十六・西国蜂起官軍進発の事>

2000年6月10日(土)雨。東京(八王子)⇒神田駿河台

しとどにや 降るや静まり 遅躑躅

「夏一(ゲイチ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣部」に、

夏一(ケイチ)教家。<元亀本215H>

夏一(ゲイチ)教。<静嘉堂本245F>

夏一(ケイチ)教家。<天正十七年本中52オD>

とある。標記語「夏一」の語注記は、元亀本・天正十七年本が「教家」、静嘉堂本が「教化」という。そして注記語「教家」「教化」を同じ「氣部」にみるに、

教化(―ケ)。教誨(同)。教家(―ケ)。教外(―ケ)。<元亀本214FG>

教化(―ケ)。教誨(同)。教家(―ケ)。教外(同)。<静嘉堂本244BC>

とあって、同音異語が列記されている。この同音異語だが、

けうけ【教化・教誨】@仏教語で、衆生に説いて、悪を退け、善の道に向かうことを教え導くこと。[『節用集』類]

A儒教の倫理的な教訓。[『下学集』広本『節用集』]

けうけ【教家】仏教語で、特定の経論を持って宗旨を立てている宗派。

けうげ【教外】教外別傳の略語。法の埒外にあること、法の説くところとは異なること。[弘治二年本『節用集』]

ということで、意味の取り方に注目したい。そして、「一夏」の類語「結夏(ケツゲ)」には、

結夏(ケツゲ)自四月十五日至七月十四日。九十日間也。[欄外]一夏九旬ト云也。<元亀本214E>

結夏(ケツゲ)自四月十五日至七月十四日ニ。九十日也。<静嘉堂本244A>

としている。『下学集広本節用集』は未収載にある。そして、この語は、本来は「一夏」で、仏教語「一夏九旬(イチゲクジュン) 安居(アンゴ)の行を修する陰暦四月一六日から七月一五日までの夏の九〇日間」の略語「一夏」を顛倒した世俗語的表現というところのようだ。顛倒語は、現代でも「話の種」を「話のネタ」とする類いであり、その走りを茲に見るのである。

[ことばの実際]

承元三年 四月小十四日 丁ヒノトノ丑晴ハレ 依ヨツテ‖將-軍-家ケノ之仰アフせニ|。神-宮-寺始 ハジメテ結ムスブ‖一-夏九-旬ジユンアン-居キヨヲ|。是タウ-寺 供-華クワノサイ-初シヨナリ。■〔鶴〕ツルガヲカノ-僧ゾウ等。奉ブ‖-仕ジスヲ|。<『吾妻鏡』寛永版380下左@>

是を以て隋の高祖の玄文を崇むる、玉泉水清(すめ)り、唐の文皇神藻を奮ひ、瑶花風芳し。遂に一夏敷揚奥*蹟(アウサク)をして遥かに叡山に傳へ、三國相承の真宗、獨り吾が寺に留めしより以降(このかた)、千祀に及び、軌(あと)百王に垂(なんなん)とす。寔に是れ佛法を弘むる宏規、皇基を護る之洪緒なる者也。<『太平記』巻第十七「山門南都に牒送する事」大系二193N>

2000年6月9日(金)雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

樹木騒く 風の力や 西向きに

「折角(セツカク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢部」に、

折角(セツカク)前漢元帝諸易論之五鹿吐辧朱雲−其――ヲ。<元亀本355C>

折角(――)前漢元帝召諸易之ヲ五鹿辧朱雲−其ノ―ヲ。<静嘉堂本431E>

とある。標記語「折角」の語注記は、「前漢の元帝、諸易を召す。これを論じて五鹿辧を吐く。朱雲其の角を折る」という。『下学集』に、

折角(セツカク)前漢(ゼンカン)ノ元帝(ゲンテイ)召(メシ)テ諸易家ヲ論ス其ノ同異([ドウ]イ)ヲ。五鹿充宗([ゴ]ロクジウソウ)吐(ハイ)テ辯(ベン)ヲ言フ之。諸儒莫シ抗(カウ)スルコト。召シテ朱雲ヲ入テ論難セシム。連(シキリ)ニ‖-挫(トリヒシク)五鹿君ヲ。諸儒語テ曰ク五鹿岳々朱雲折(ヲル)其ノ角(ツノ)ヲ故ニ云フ。<言辭154D>

前漢の元帝、諸易家を召して其の同異を論ず。五鹿の充宗、弁を吐いてこれを言ふ。諸儒、抗することなし。朱雲を召して入れて論難せしむ。五鹿の君を連りに挫しぐ。諸儒、語りて曰く、五鹿嶽々、朱雲その角を折る。

とあって、注記内容も詳細を尽くしている。広本節用集』にも、

折角(セツカク/ヲル、カト、ツノ)前漢ノ元帝召シテ諸易家ヲ論シム其同異ヲ。五鹿充宗吐テ辯ヲ言之。諸儒莫レ抗スルコト。召シテ朱雲ヲ入論難セシム。連(シキリ)ニ‖-挫(トリヒシク)五鹿君ヲハ。諸儒語テ曰、五鹿嶽々朱雲折其角ヲ云々。<態藝門1090C>

とあって、「高慢な人をやりこめる」譚として、その語注記は略『下学集』を継承するものである。(天正十八年本・易林本は標記語のみ収載)ということは、『運歩色葉集』の語注記は、『下学集』、広本節用集』などの語注記をさらに簡便化しようとしたものといえよう。当代の『日葡辞書』には、

Xeccacu.セッカク(折角)Tcunouo uoru.(角を折る)難儀,また,窮迫.§Nangui,xeccacuni vo<.(難儀,折角に遭ふ)難儀などに悩まされて,窮迫する.<743r>

と、「難儀」「窮迫」といったことばの意味そのものが記されている。江戸時代の『書字考節用集』には、

折角(セツカク)前漢ノ人。ニ五鹿嶽々。朱雲――。事ハ見[漢書][蒙求]。<言辞十二48E>

とあって、ことわざに「五鹿嶽々。朱雲折角」と用いられていることと、典拠を『漢書』『蒙求』に記載するといったように、独自の語注記となっていることが知られる。

[ことばの実際]

朱雲折角五鹿充宗爲梁丘易諸儒莫抗召雲入論難〓〔手+主〕五鹿君語曰五鹿獄獄―――其―(朱雲傳)。<『韻府群玉』覺韻五81右I>{『漢書』朱雲傳の故事}

ある人、十二三なる子を寵愛して、つねに謡を教へけるが、「せつかく習へ、やがて十月十三日になるぞ。百はたご食いに連れてゆくぞ。よく覺えて其時うたへ」といふ。<江戸笑話集『きのふはけふの物語』大系76E>*「一生懸命。できるだけ熱心に」の意。

[ことばの補遺]同じく、『韻府群玉』には、「巾折角」の故事(意味の無いことをわざわざすることのたとえ)が収載されている。

折角郭林宗遇雨−一角〓〔執+土〕時人故−巾一―其見慕如此。詳巾。<覺韻五80左H>{『後漢書』郭泰傳の故事}

 また、現代語の「セッカク【折角】」だが、副詞的に用いて、話し手の「惜しい」といった気持ちを表現する。

これでは、折角、海を渡つて、日本人を誘惑に来た甲斐(かひ)がない。<芥川龍之介煙草と悪魔』>

2000年6月8日(木)晴れ一時曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

十藥に 止まる蝶は 何処から

「筑摩湖(ちくまのみづうみ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「知部」に、

筑摩湖(チクマノミヅウミ)和歌詠之。<元亀本69D>

筑摩(チクマ)湖和歌詠之。<静嘉堂本82C>

筑摩湖(チクマノミツウミ)和歌詠之。<天正十七年本上41オE>

筑摩湖(チクマノミヅウミ)和歌詠之。<西来寺本>

とある。標記語「筑摩湖」の語注記は、「和歌に之れを詠む」という。『下学集』は未収載にある。広本節用集』には、

筑摩湖(チクマノミヅウミ/フヱ、−、)信又之川。<天地門152B>「又」は「乃」の誤歟

とあり、語注記は「信乃の川」とその地名を示していて、『運歩色葉集』とは異なるものとなっている。

[ことばの実際]

[原文] 信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟

[訓読] 信濃なる筑摩の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ <『万葉集』3400大系三421B>

其後弘治二年三月廿五夜、謙信筑摩川を渡て信玄旗本をかけ破り、板垣駿河守・一条六郎・小笠原若狭守・諸角豊後・山本勘介・初鹿源五郎を討取。然所へ甲州方先手飯富兵部・高坂弾正・真田一徳斎等一万余、戸神山より廻りて謙信を前後より攻討。依之謙信は川を渡て引退。<『武辺咄聞書』第86話>

2000年6月7日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

明日葉に 広ごりゆくは 袈裟の道

「歎杜(なげきのもり)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「那部」に、

歎杜(ナゲキモ)古今。<元亀本167@>

歎杜(ナケキノモリ)古今。<静嘉堂本185G>

歎杜(ナケキノモリ)。<天正十七年本中23オE>

とある。標記語「歎杜」の読みは「なげきのもり」と読む。その語注記は、「古今(和歌集)」という。実際、『古今和歌集』雜体1055の「題しらず」に、

ねぎ事をさのみきゝけんやしろこそ はてはなげきのもりとなるらめ  さぬき安倍清行朝臣女

とあって、「歎き」と「奈毛木」を掛けている。

天正十七年本はその語注記を未記載とする。『下学集』は未収載にある。広本節用集』に、

奈毛木杜(ナゲキノモリ/ナンゾ、ホウボク)大隈。<天地門432E>

とあって、その標記語を「奈毛木杜」とし、語注記を「大隈(現在の鹿児島県姶良郡)」と名所の地名を示していて異なるのである。

[ことばの実際]

無げのあはれをかけん人々だに、この扇を見給はんには、浅うもあるまじきに、まして、「梨原(なしばら)」にも、やう/\なりぬべかりしを、限りなき御嘆きの森の繁さに、何事も思ひ消ち給へれば、やんごとなからぬ程の事は、まいて思し消ちたり (しこそはあり)しか。<『狭衣物語』巻二、大系182E>

今はむなしき 大空の 雲ばかりをぞ かたみには 明暮に見る 月かげの 木の下闇に まどふめる 歎きの森の しげさをぞ 払はんかたも 思ほえず。<『栄花物語』いはかげ、大系上316G〔長歌〕>

いかにせんなげきの森はしげけれど木の間の月のかくれなき世を<『金葉和歌集』戀下、橘俊宗女>

[ことばの補遺]

杜・森」あはづの杜〔近江〕あはでの杜〔尾張〕生田の杜〔攝津〕いくりの杜〔不明〕いわしろの杜〔紀伊〕岩瀬の森〔大和〕いはたの杜〔山城〕うきたの杜〔山城〕うさかの森〔越中〕うなでの杜〔美作〕おいそのもり〔近江〕おほあらぎの杜〔山城〕かしはぎの杜〔大和〕神なびの杜〔大和〕こごひの杜〔伊豆〕なきさはの杜〔紀伊〕はつかしの杜〔山城〕ははその杜〔山城〕みかさの杜〔大和〕みつの杜〔山城〕

2000年6月6日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

紫陽花の 色づきはじむ 梅雨近し

「外境(ゲキヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣部」に、

外境(―キヤウ)非ス本道ニ。<元亀本215H>

外境(―キヤウ)非夲道。<静嘉堂本245F>

外境(―キヤウ)非本道。<天正十七年本中52オF>

とある。標記語「外境」の語注記は、「本道にあらず」という。この注記語「本道」は、「保部」に立項されているが、ただ「本道(―ダウ)」<元亀本43D>「夲道」<静嘉堂本47G>とあって、これには語注記は未記載にある。さて、この「本道」だが、漢方でいうところの「内科」を意味し、この逆であるところから「外境」は「外科」を意味する。『下学集』にはこの語は未収載にある。広本節用集』には、

外境(ゲキヤウ/ホカ、サカイ)藥師。<態藝門598G>*永祿二年本<人倫142A>も同じ語注記。

夲道(ホンダウ/モト、ミチ)。<態藝門100E>

とあって、「外境」の語注記は、ただ「藥師」としている。これを「くすし」と読み、「外境」の意味を「(きず)くすし」と見てるのかどうかの読み取りがここからはむつかしいところである。そこで、弘治二年本節用集』を見るに、

外境(ゲキヤウ)醫。<人倫173B>

とあって、語注記「醫」すなわち「くすし」ということが見えてくる。当代の『日葡辞書』には、

Gueqio<.ゲキヤウ(外境) 外科医術,または,外科医師.<296r>

Gueqio<ja.ゲキャゥジャ(外境者) 外科医師.<296r>

とあって、一層この意味内容が明確となるのである。江戸時代の『書字考節用集』に、

外科(ゲクワ)支那瘡瘍之所疾謂之ヲ――ト。療スル之ヲ者謂之ヲ瘍醫ト。○本朝俗斥テ瘍醫ヲ――ト。又曰−〓〔病-莖〕外〓〔病-莖〕(ゲキヤウ)。<人倫四53E>

と別字の標記語が用いられている。

[ことばの実際]

夜明けければ、往來の僧、京に出で、施藥院帥嗣成に、此事をこそ語りたりけれ。四、五日有ッて後、足利左兵衛督の北の方、相勞る事有ッて、和氣・丹波の兩流の博士、本道・外科一代の名醫數十人招請せられて、脈を取らせらるゝに、或は、「御勞り風より起ッて候へば、風を治する藥には、牛黄金虎丹・辰沙天麻圓を合せて御療治候ふべし」と申す。<『太平記』巻第二十五「宮方怨靈六本杉に會する事」大系二449M>

をかし、男(おとこ)、「頭(あたま)を禿(は)ぐべし」と云やりたれば、外境(げきやう)、白雲(しらくぼ)に禿げば禿げなん禿げずとて藥代呉るゝ人も有らじを と云へりければ、頭は滑(なめし)になると思ひて、心憂さはいや勝(まさ)りにけり。<仮名草子『仁勢物語』下・大系224A>*頭注に「外科医。当時の外科は主として瘡瘍の治療を主とする瘡家(瘍科)と、金瘡の治療と産婦人科とを兼ねた金瘡医との二派に分れていたが、本道(内科)からは軽侮されていた。」とある。

馬狼に申しけるは、「承り候へば、外境(げきやう)の上手と申。われ此ほど足の株(くいぜ)を踏み立てて候へば、おそれながら御目にかけたし」と申。<仮名草子『伊曽保物語』七「狼夢物語の事」大系440I>

2000年6月5日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

仙川の サクラ並木に 鳥鳴きき

「銀烏(ギンウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「記部」に、

銀烏(―ウ)炭名。<元亀本283B>

銀烏(―ウ)炭名。<静嘉堂本324A>

とある。標記語「銀烏」の語注記は、「炭の名」という。そこで、注記語「炭」を「須部」に繙くと、

(スミ)羊〓〔王+秀〕始作也。異名烏銀(ウキン)。紅獣(コウセウ)。<元亀本362D>

(スミ)羊〓〔王+秀〕始作也。異名烏銀。紅獣。<静嘉堂本441G>

とあって、語注記に「羊〓〔王+秀〕始めて作るなり。異名、烏銀(ウキン)・紅獣(コウセウ)」というように、「銀烏」を逆にした「烏銀(ウキン)」が異名として見えているのである。そして、残念ながら「宇部」には未記載にある。ついでにも一つの異名「紅獣(コウセウ)」についても同じく見出せない。『下学集』は未収載にある。広本節用集』には、

(スミ/タン)羊〓〔王+秀〕始焼之。異名烏銀。薪名−。紅麟。<器財門1125E>

とあって、この語注記にも異名「烏銀」としている。

[ことばの実際]

烏銀は、炭のこと也」<『中華若木詩抄』上、十二オO地>

2000年6月4日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

走りきて 見るや我が顔 黒光り

「月蝕(グワツシヨク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

月蝕(―シヨク)月ノ盈則(トキン)ハ−(カクル)。<元亀本191F>

月蝕(―シヨク)月盈則−。易。<静嘉堂本216C>

月蝕(クワツシヨク)月盈則−(カクル)。<天正十七年本中37ウC>

とある。標記語「月蝕」の読み方だが、現在の私たちは、この語を「ゲッショク」と読んでいるのだが、ここでは「久部」に収載が見られるので「グワツショク」と読むのだろう。天正十七年本はすべての読みを記載する。語注記は、「の盈(みちかけ)の則(トキン)ば(カクル)」という。静嘉堂本は、最後に「易」とあって、出典であり、『易経』下彖傳の「日中則昃。月盈則食。」を示唆するものであることが知られる。『下学集』には、

月蝕(−シヨク)。<時節門32A>

とあって、読みはやはり冒頭部分が記されていないので「グヮツ」なのか「ゲツ」なのか、ここでは明確に出来ない。そして語注記も未記載にある。広本節用集』には、

月蝕(グワツシヨク/ツキ、カクル)日−。月−。<時節門499A>

とあって、読みは「グワツシヨク」とはっきり表示されている。語注記は「日蝕。月蝕」と対応する語を示していて、『運歩色葉集』とは異なるものである。だが、これも左訓に従えば、「つきかくる」で注記に近いものとなる。当代の『日葡辞書』にも、

Guaxxocu.グヮッショク(月蝕)月蝕.§Coyoiua guaxxocude gozaru.(今宵は月蝕でござる)今夜月蝕がある.<邦訳315l>

とあって、当代の読み方が「グヮッショク」であったことでより明確となる。

[ことばの実際]

 [説文]敗創也。(漢書)日月薄−通作食。(易)月盈則−。(春秋)日有食之。(凡三十六)○又凡物侵−皆日−。<『韻府群玉』職韻・五328右C>

九月大 十五日 甲戍霽ハレ 將-軍-家。其ノ夜、白アカラサマニ入ジユ‖-御ギヨシ玉フ相-州ノ御-亭テイ。即チ欲スル有ント還-御トコロニ。亭テイ-主シユタテマツリ‖抑-留シ給フ。今-夜依テタル‖月-蝕。不コヽロナラ亦タ御-逗-留。亭テイ-主殊ニ入イリ|■〔興〕ケウニ給フ。其ノ間。行ユキミツコウジテニ申☆シテ云ク京-極ゴクタイ-閣カフノ御トキ。白河ノ院。御ミ‖ミキシ玉ヒ于宇-治ニ。擬ギス∨有ント還-御。餘-■〔興〕不ルノツキ之間。猶ヲ被ル申サ-逗トウ-留リウ|。而明-日有アレハ還-御者。自ヨリ‖-治ヂ|。洛ラク-陽ハ當アタツ于北ニ。可シト有ルハウ-忌之ノ憚ハヾカリ|云云。殿デン-下-遺-恨コンハナハダシキ之ノ處トコロニ。申ス之ヲ因テコレニ其ノ日ハ。被ラルヤメ‖還-御ギヨ云云。今-夕ノクハツ-蝕シヨク。尤モツトモ天之ノ所トコロ∨然せ也ナリト云云。相-州。殊コトニ御ギヨ-感カント云云(寛永振り仮名本362上左G)

9月15日 甲戌 霽。将軍家、去る夜あからさまに相州の御亭に入御し玉ふ。即ち還御有らんと欲する処に、亭主抑留し奉り給ふ。今夜月蝕たるに依って、意ならずまた御逗留、亭主殊に興に入り給ふ。その間、行光座に候じて申して云く、京極太閤の御時、白河の院宇治に御幸し玉ひ還御有らんと擬す。余興盡きざるの間、なを御逗留申さる。而るに明日還御あられば、宇治より洛陽は北に当たって、方忌の憚り有るべしと。殿下御遺恨甚だしきの処に、[行家朝臣、喜撰法師の詠歌を引いて、今宇治都の南にあらず、巽たるの由]これを申す。ここによって、その日は還御を止めらると。今夕の月蝕、尤も天の然せしむ所なり。相州、殊に御感ありと。<『吾妻鏡』建仁四年九月>

九月大十六日 丙子 月-蝕シヨク正現ゲン。皆ミナカク。初ハ未ヒツシノ尅コク。[割注]廿分。後ハ未タ/ス戍ノ尅コクナラ。廿八分。(566上左F)

9月16日 丙子 月蝕正現す。皆虧く。初めは未の刻(二十分)、後は未だ戌の刻ならず(二十八分)。<『吾妻鏡』延応二年九月>

1月4日 乙巳   子の刻に及んで将軍家内々の御使ひを以て、大納言法印隆弁に仰せられて云く、今年の御本命宿は月曜なり。而るに来十六日の月蝕、殊に御慎み有るべきの由、天文、宿曜の両道勘がへ申す所なり。今度出現せざるの様に祈請すべし。といへば、隆弁一旦子細を申すと雖も、重ねて仰せらるるの間領状す。<『吾妻鏡』寛元二年正月>

寛元二年甲辰 正月十六日 丁巳天晴ハル 自リアシタ至テ戍ノ刻コク。更サラニ無シ一雲臨 ノゾン月-蝕シヨク之期。自リ未申サルノ方ハウ|。片ヘン-雲漸ヤヽソビヱ。忽タチマチヲホツ-天ニ。細サイ-雨頻シキリニ降フル。複マタヒツジ以-後ニ。朗ラウ-月早ハヤクゲンス。丑ノ尅コクニ。將-軍-家。以テヒツノ御サツ。被ルツカハ馬[割注]號ガウ直山ト。名-馬ナリ也。置鞍ヲ御ギヨ-劔[注文]皆白等トウヲ。於隆リウ-辨ベンノ之壇ダン所ニ。肥後ノ三郎左-衛-門ノ尉爲タメシゲ。[割注]父ハ前ノ太サイ少貮タメスケ。當-時爲リ内ノ御廐ノ別-當。爲タリ‖使。彼ノ法-印自リ去ヌル八日。■〔參〕籠☆シテ明王院ノ北斗堂ニ。祈-請ス。(589上左J)

1月16日 丁巳 天晴朝より戌の刻に至って更に一雲無し。月蝕の期に臨んで、未申の方より片雲漸く聳え、忽ちに普天を覆ひ、細雨頻りに降る。また末以後に朗月早現す。丑の刻に将軍家御自筆の御賀札を以て、御馬(直山と号す名馬なり。鞍を置く)、御劔(皆白)等を隆弁の壇所に遣はさる。肥後の三郎左衛門の尉為重(父は前の太宰の小貳為佐、当時内の御厩の別当たり)御使ひたり。彼の法印、去る八日より明王院の北斗堂に参籠して祈請す。<『吾妻鏡』寛元二年正月>

寛元四年丙午 五月大十六日 癸酉天晴ハル月-蝕シヨクス∨ゲンぜ。剰アマツサヘ圓満ニ☆シテ明ナリ。但シ夜-半以-後ニ。陰イン雲ト云云。(616上左G)

5月14日 辛未 天晴 天変並びに月蝕の事、殊に御慎み有るべきに依って、御祈祷等を始行せらる。

5月16日 癸酉 天晴月蝕現ぜず。剰え円満にして明らかなり。但し夜半以後に陰雲す。<『吾妻鏡』寛元五年五月>

2000年6月3日(土)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇔渋谷

時計草 花片離れて 海の星

「透額冠(すきびたいのかふり)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「須部」に、

透額冠(スキビタイノカフリ)業平南都勅使ノ時賜也。<元亀本361I>

透額冠(スキビタイノカムリ)業平南都、勅使之時賜之。<静嘉堂本441B>

とある。標記語「透額冠」の語注記は、「(在原)業平、南都勅使の時これを賜ふなり」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、

透額冠(スキビタイノカムリ)又云薄額ノ冠。<服食七53F>

とあって、その語注記は「又云ふ、薄額の冠」とその別名を示していて異なっている。『運歩色葉集』の語注記が、何に拠るものかを今後明かにせねばなるまい。今その手続きの最初の段階として、注記語の「業平」を繙くに、

業平(ナリヒラ)陽成院元慶五辛丑五月廿六日卒。至天文十七年戌申六百六十八年也。<元亀本167B>

業平(ナリヒラ)陽成元慶五季辛丑五月廿六日卒。至天文十七季戌申六百六十八歳也。<静嘉堂本186B>

とあって、彼の没年月日を記載する注記内容に留まるのである。『伊勢物語抄』には、

業平は平城御孫◇所弾正尹阿保親王第五。母は伊◇内親王。桓武天皇の御母也。天長二年八月に誕生。官は右近権中将兼美濃権守。位は四位上まて也。元慶四年五月廿八日卒。年五十六才。伊勢は業平の老後の書也。然は業平一生の事作物語にして七条后へ奉る。寛平法皇の后也。

とあって、年次と日数とに異なりがある。

[ことばの実際]

をほかたをとなしきやうにふるまひ給て、蔵人の頭になり給へりしに、おとうとにをはせし公行の、弁にはじめてなりて、厚額(あつびたひ)のかうぶりになし給ければ、われも今は額あてせむとて、同じやうにして、内に参り給へるに、成通の宰相の、中將にはじめてなりて、しばしは透額(すきびたひ)のかうぶりにてとや思(おぼ)しけむ、内に参り給て、頭の中將のかうぶりを見給て、額に扇さしかくして、まかで給て、やがて厚額(あつびたひ)になりてをはしける。<『今鏡』ふぢなみの下・第六「梅のこのもと」笠間索引85、184M>

是ぞ此の大内の縣召かや諸人に。つかさを給びてそれ/\に國名をつきし烏帽子の。始めにかけし烏帽子屋が身を立てゑぼし諸眉は。三大臣のお召しとて。スヱテ高き位やかけゑぼし。十二のかふり式法ノの。中に人めのすき額(びたひ)ハルフシ風折ゑぼし。折々は。戀に心や揉ゑぼし。平禮小結梨打ちや。烏帽子屋なれば是をとて。先づ頭にぞ フシ置かれける。<近松浄瑠璃集『用明天王職人鑑』職人づくし・大系下65E>〔頭注に、すき額は、額に半月形の穴をあけ、うすものを張って透かせた冠。元服後間もない男子が着用する。〕

上るり√この鉢まきは過しころ、由縁のすぢの紫の、初元結をまき初し、初冠(はつかふむり)の若松の、まつのはけさきすき額(びたへ)、つゝみ八町風そよぐ、草に音せぬ塗りばなを、一ツ印籠一ツまへ、二重まはりの雲の帯、富士と筑波の山合ひに、袖ふりゆかし君ゆかし」<歌舞伎十八番集『助六』大系93F>

2000年6月2日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

ひららなる 蝶舞ふ苑に 匂ふや花

「天野(あまの)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多部」に、

天野(アマノ)酒名。<元亀本258@>

天野(アマノ)酒名。<静嘉堂本291C>

とある。標記語「天野」の語注記は、「酒の名」という。この語注記「酒名」を立項する「左部」を見るに、

酒名(――)沙戯(サケ)。江南春(カウナンシユン)。土窟春(トクツシユン)。洞庭(ツウテイシユン)。釣詩釣(テウシノツリハリ)。掃愁箒(サウシウノハウキ){箒(シウ/ハウキ)}音シウ。忘憂物(ハウユウモツ)。青州従事(セイシウノシウシ)。歓伯(クワンハク)。友(コウユウ)。上若(−シヤク)。下若(−シヤク)。桑落(サウラク)。緑〓〔酉+〕(リクセウ)。聖人(セイシン)。賢人(−シン)。九献。竹葉酒(チクユウシユ)。<元亀本280H>

酒名(――)沙戯(シヤケイ)。江南春。土窟春。洞庭釣掃愁箒(―――サウシウヘイ)忘憂物。青州従事。歓伯(クワンハク)。友(コウユウ)。上若(ジヤウシヤク)。下若(カジヤク)。若下(シヤクカ)。桑落(サウラク)。緑〓〔酉+〕(リヨクシヨ)。聖人(セイニン)。賢人(ケンニン)。九献。濁酒(ヂヨクシユ)。浮蟻(フギ)。浮蛆(フソ)。濁醪(ダクラウ)。松醪(セウラウ)。村醪(ソンラウ)。茅(ボウ)。柴酒(サイシユ)。<静嘉堂本320E>

とあって、両本の「酒名」並列表記の語を見ると、大きくは「九献」の次からの語に異なりが見えている。また、この「天野(アマノ)」は未記載にあることが分る。『下学集』や広本節用集』も未収載にある。「酒」については、『下学集』には、

九献(クコン)日本世話([セ]ワ)酒ノ名也。三々九献ノ義也。<飲食100F>

歡佰(クワンハク)酒ノ異名也云。<飲食101@>

青州從事(セイシユウーシ)酒異名ナリ也。徹(テツ)スル臍(ホソ)ニ義也。從事ハ官ノ名也。<飲食101@>

緑〓〔酉+疋月〕(リヨクジヨ)酒也。<飲食101A>

聖人(セイジン)呼テ清酒(セイシユ)ヲ云フ聖人ト也。<飲食101A>

賢人(ケンジン)呼テ濁酒(チヨク[シユ])ヲ云フ賢人ト義也。<飲食101A>

薺韲?(スイクキ)。<飲食101B>

濁醪(ダクラウ)。<飲食101B>

松醪(セウラウ)。<飲食101B>

茆柴(バウサイ)濁醪(タクラウ)也。一醉([イツ]スイ)シテ而即チ醒(サム)如シ焼(ヤイ)テ茆柴ヲ火便(スナハチ)滅(メツ)スルカ 故ニ云フ柴酒ト也。<飲食101B>

忘憂物(バウイウフツ)酒ノ異名ナリ也。飲(ノム)トキハ酒ヲ則チ忘(ワスル)憂(ウレイ)ヲ也。<飲食101C>

釣詩鈎(シヲツルツリバリ)。<飲食101C>

掃愁帚(サウシウシウ/ウレイヲハラウハウキ)二ツ共ニ酒ノ異名也。<飲食101C>

浮蟻(フギ)酒ノ名也。酒ノ糟(カス)點(テン)シテ蟻(アリ)ニ泛(ウカフ)盃(サカツキ)ニ如シ浮蟻ノ|。故ニ云フ尓(シカ)。<飲食101D>

とあって、酒名として14語が見えている。次に広本節用集』だが、

(サケ/シユウ)百詠云、飲膳標題ニ酒者、天之美禄ナリ。帝王所‖-以ナリ。享祀シテ所福扶老(サケ)ヲ交歓ヲ百福之會。非酒ニ不行。酒ニ有清濁厚薄之不同。故清者曰〓〔酉+票〕。清而甘白〓〔酉+巳シ〕ト。濁(ニコル)ヲ曰〓〔酉+央皿〕ト。厚曰醇。重醸曰酣。薄曰〓〔酉-漓〕。一宿熟曰醴(ホウ)ト。美者曰〓〔酉+胥〕。紅者曰醍。緑者曰〓〔酉+雨品〕ト。白者曰〓〔酉+差〕。麥酒ノ不去滓(シル)ヲ而飲曰醪。食療經云、五穀華味之至也。故能益シ人ヲ亦能損人ヲ也。異名。松醪。村醪。烏程荊南--。烏祈。魯薄。魯〓〔酉-温〕。魯温。竹葉。浮蟻。浮蛆。緑蛆。紅朋。紅友。緑友。歓伯。新〓〔酉-倍〕。蘂落。浮蝋。麹塵。麹秀才。麹生。鵞黄恠之杓写――。青州従亊。闌玉。玉液。玉友。盈墫。蟻香。浮甕。洞庭春色。督郵谷悪酒。清聖。濁賢。蘭亭。上尊。中尊。下尊。南岸曰上若。北岸曰下若。〓〔勹+米〕酒。緑酒。〓〔手+尤力〕青。三清。桂香。十旬。線茂。〓〔酉-祿〕〓〔酉-倍〕。流霞。流漿。陽燧。去憂。銷憂。酒泉。郡九〓〔酉-温〕酒。明君。齊醸。琥珀。美酒。一壺酒。禅花。白々。薄々。錦江春色黄封。紫霞。新蒭。春蒭。舜泉。忘憂君又草トモ。忘憂ノ物。雪泉。金魚。雲〓〔土+而大〕。小道士。般若湯。焼春。玉蛆玉篇。杏霞。洗泥酒。碧香酒。真一先生白酒。屠蘇。春蟻。麟脂。狂藥。黄直杯ノ情。桐馬。蘭王漢武ノ酒曰--。鵬黄。蒲萄。鵞児酒。蔗漿坡六蔗テ酒ヲ造ル。豫北。竹葉。臘味。松花酒。春酌。麹〓〔薛+子〕尓雅。〓〔酉+需〕〓〔酉-祿〕。醇醴。瓊液。荷心苦。玉東西隹人斗南美酒――艶シ下。瑞露珎坡云酒汚I下。酪母酒滓謂之−鴛。玉〓〔月+高〕。釣詩鈎。茅柴金薄酒。雪液。雲液。〓〔酉+余〕〓〔酉+縻〕酒。宣春。官〓〔酉-温〕悪谷。醗〓〔酉-倍〕。白波酒令同。藥長百薬ノ長同。芳醪。大送美。良薬。玉脂。玉漿玉海。白搗波。碧友。掃愁箒。清酌。官泥赤親折--ヲ坡十六。羅浮春。洞庭ノ春。呉醴。楚瀝。平原。〓〔旱+阜〕筒坡〓〔旱+阜〕ヨリ大竹ノ筒ニ酒ヲ入ルヽ苔トモ作也。玉屑十六巻。藥郎トナス。又索郎谷注。榴花酒。蒲城。酉水分字。消臺藥。平樂香。絳霞。梨花。春雪。宿醸古酒ヲ云。瓊漿。杜康始作合紀。沙掲(サケ)玉露。沙嬉(サケ)。<飲食門779B>

とあって、多くの酒の異名を収載するが、ここにも「天野」の名は見えない。

2000年6月1日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇔東向島

隅田川 一足先に 夏涼み

「雁食(ガンシヨク/−くひ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀部」に、

雁食(ーシヨク)豆。<元亀本93B>

鴈食(ークイ)豆也。<静嘉堂本115D>

雁食(ークヒ)豆。<天正十七年本上56ウE>

雁食(ークイ)豆。<西来寺本161@>

とある。標記語「雁食」の読み方だが、元亀本は音読みして「ガンショク」に対し、静嘉堂本・天正十七年本・西来寺本は混種読みで「ガンくい」と異なりを見せている。語注記は、ただ「豆なり」という。正しくは「ガンくひまめ【雁喰豆】」といい、これを省略した形が「ガンくひ」である。さらに、静嘉堂本と西来寺本は「ガンくい」と口語表記する。この豆は、「五葉豆(ごばまめ)」という大豆の一種で、通常は三葉になるのだが、五小葉になる。そして、豆粒にある窪みを雁の食べた後と見なして、この名称が用いられている。これをCD-ROM『牧野植物圖鑑』に求めてみるに、

ダイズ 中国原産といわれ古来から栽培されている1年草。茎は直立し高さ30〜90cm,全体に毛がある。葉は長い柄があり3出複葉。ごくまれに5小葉のものがありゴバマメまたはガンクイという。花は夏に咲き,花色は紫紅色または白色。種子は黄白色,淡褐色,緑色,黒色などがあり,蛋白質に富む重要な豆。そのまま食べるだけでなく,豆腐に加工したり,油を搾る。和名は漢名大豆の音読み。

と記載を見るものである。『下学集』、広本節用集』は未収載にある。現在でもこの呼称は用いられており、漢字表記としては、「黒平豆」と書いて「ガンクイ」(岩手県盛岡川井村より)という。

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