2000年12月1日から12月31日迄
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2000年12月31日(日)曇り。八王子
いつみつい きよきねきよき いつみつい
和泉遂い 清き根来良き 何時三井
「平江絛(ヒンガウタウ)・平江條(ヒンガウタイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「飛」部に、
平江條(ヒガウタイ)又帯。〔元亀本344@〕
平江條(ヒガウタイ)又帯。〔静嘉堂本413B〕
とある。標記語「平江條」の語注記は、「又帯」という作字についての注記である。『庭訓徃來』に「平江帯」と見え、『下學集』は、
平江絛(ヒンガウタウ) 絛ハ或ハ作帯。平江府ヨリ出ス之ヲ故ニ云フ‖平江絛ト|。以上ノ七種ハ禪家之ノ所ロノ∨用ル物也。〔絹布97@〕
として、標記語を「平江絛」として「絛」の字にて表記し、そのうえで、『庭訓徃來』の「帯」の作字を語注記に示すのである。『庭訓徃來註』十月日日の状に、
素紗(ソ/スジヤ)ノ衣袈裟各一帖(テウ)此ノ外帽子(モウ\ホウス)沓襪(シタウツ/ナイ)柱杖(シユチヤウ)履(クツ)〓〔月-榻〕(タツ)手巾(シユキン)布衫(サン)平江帯(ヒガウタイ) 帯條(タイ)ニ作。−府ヨリ出之故云‖――ト|也云々。〔謙堂文庫蔵五七左@〕
とある。その語注記は「帯を條(タイ)に作る。(平江)府よりこれを出す故に平江帯と云ふなり云々」とあって、『庭訓徃來註』が『下學集』を引用するのだが、『庭訓徃來』が「帯」の作字標記語のため、語注記を「帯を條(タイ)に作る」と冠頭部分の語注記を変更している。そして後はそのまま継承引用する。これを広本『節用集』は、
平江絛(ヒンガウタウ/タイラカ、ヱ、ヒボ・ヲミ) 或絛作∨帯。又作‖平江〓〔巾+?〕ト|。絲ノ縄也。曰‖平江府|始出∨之。故云∨尓也。〔絹布門1034F〕
とあって、やはり『下學集』を継承する。このなかで気づくのは、「タウ/ヒボ・ヲミ」の字を正しく「糸」に作る「絛」の作字を以って示している点にある。これを『庭訓徃來註』を頂点に『運歩色葉集』も「木」に作り、「條」としているのである。これは、『下學集』及び広本『節用集』などが有する「點畫少異字」には未記載の文字である。また、広本『節用集』は、「又作‖平江〓〔巾+?〕ト|。絲ノ縄也」の語注記箇所を増補する内容にある。次に、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
平江帯(ヒンガウタイ) 又云平江條(タウ)。平江府(フ)始出之。故曰平江帯。條絲縄也。〔財宝衣服254A〕
平江帯(ヒンガウタイ) 帯或作∨絛。平江府ヨリ始テ出∨之。故曰‖平江帯|也。絛ハ絲縄也。〔財宝衣服217B〕
平江帯(ヒンカウタイ) 或帯作條。平江始出之。曰―――也。條ハ糸縄也。〔財宝衣服202H〕
とあって、その語注記は、広本『節用集』の有した「絲ノ縄也」を諸本すべてが継承していてこの影響下にあるもであることが知られる。また、逆に標記語「平江絛」を「平江帯」としていて、『庭訓徃來註』を意識した標記語となっていて、そのため冠頭語注記を「帯或作∨○」と置換し、さらには弘治二年本のごとく「又云平江○」としている。ここで、唯一永禄二年本が「タウ」の作字を「絛」と正しく継承していることも気づかせられるのである。この点から『運歩色葉集』の語注記は、弘治二年本の冠頭語注記に近く、このような系統資料をもとに簡略化して成ったものと考えられるのである。
[補遺] 「絛」と「條」
「絛」は、諸橋轍次著『大漢和辞典』巻八・糸部【絛】27465 タウ・トウ 〔集韻〕他刀切 豪[平声]《9200三》
「條」は、諸橋轍次著『大漢和辞典』巻六・木部【條】14859 テウ・デウ 〔集韻〕田聊切 蕭[平声]《6082三》
「條(テウ)徒彫切。枝-條(ヲチ/\)、小枝(コエダ)也」《『大廣益會玉篇』巻第十二木部200C》※「絛」巻第二七糸部に未收載。
2000年12月30日(土)曇り。八王子
いつみれど つきふゆふきつ どれみつい
何時見れど 月冬苳つ どれ三井
「鞭(むち)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「無」部に、
鞭(ムチ)周文王ニ進ス∨馬ヲ以∨矢ヲ打馬、自∨是−始ル也。竹根ノ鞭ハ犬追物ニ用ル∨之ヲ。〔元亀本177H〕
鞭(ムチ)周文王進馬。以矢打馬、自是−始也。竹根−ハ犬追用。常ハ塗−也。〔静嘉堂本198D〕
〔※天正十七年本はこの語を欠く〕
とある。標記語「鞭」の語注記は「周の文王に馬を進ず。矢を以って馬を打つ、是れより鞭始るなり。竹根の鞭は犬追物にこれを用る。常は塗鞭なり」という。ここで、元亀本の語注記の末尾に「常は塗鞭なり」の語を欠くことが知られる。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。そして、『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
鞭差縄等 鞭ト云ハ表‖廿八宿|。依∨其長ハ続ケ、短切ト云也。取卸(ツカ)七寸ヲ龍ト云。長二尺八寸也。本来ノ面目ノ剱也。周ノ文王馬ヲ爲∨進以∨矢ヲ打∨馬、自∨夫始ト云説有。竹根鞭ハ犬追ニ用也。常ハ塗鞭本也。〔謙堂文庫藏三八左D〕
とあって、『運歩色葉集』の語注記がこの『庭訓徃來註』の語注記に依拠していることがこれで明らかである。広本『節用集』は、
滿(ムチ/スイ)鞭(同/ヘン)笞(同/チ)策(同/サク) 殷(同/サウ)五字同。策謀也。〔器財門461E〕
とあって、その語の表記と語注記を異にする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
鞭(ムチ) 策 滿 三字義同。〔財宝146B〕
鞭(ムチ) 策 滿 三字義同。〔財宝117F〕
鞭(ムチ) 策 滿 三字義同。〔財宝107E〕
とあって、広本『節用集』より二字少ないが同様の形態を見せている。ここでも『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』だけの連関となっている。
2000年12月29日(金)晴れ。八王子
いつつくと きねうすうねき とくつつい
何時搗くと 杵臼畝き 説く渟い
「藤原(フヂハラ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「福」部に、
藤原(フヂハラ) 天智天皇ノ時、鎌足大臣始賜――姓也。〔元亀本224A〕
藤原(−ハラ) 天智天王ノ時、鎌足大臣始テ賜‖――ノ姓(セイ)ヲ|也。〔静嘉堂本256E〕
藤原(フヂハラ) 天智天皇、鎌足大臣始贈――姓也。〔天正十七年本中57ウA〕
とある。標記語「藤原」の語注記は、「天智天皇の時、鎌足大臣始めて藤原の姓を賜はるなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』正月十五日の状に、
左衛門尉ノ藤原 官ノ位。唐名等ハ在‖職原ニ|。官ヲ姓ノ上ニ書コトハ官ヲ賞翫之義也。藤原ノ姓ハ仁王三十九代天智天皇時鎌足大臣始テ賜‖藤原姓ヲ|也。〔謙堂文庫藏六右C〕
とあって、その語注記に「官の位。唐名等は職原に在り。官を姓の上に書くことは官を賞翫の義なり。藤原の姓は仁王三十九代天智天皇時、鎌足大臣始めて藤原の姓を賜はるなり」とし、ここには、「仁王三十九代」があるのだが、『運歩色葉集』ではこの箇所を省いて引用する。広本『節用集』及びは、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、『下學集』と同じく未收載にある(広本『節用集』に、「藤原都(フヂハラノミヤコ)同(倭)」〔天地門618A〕とあるのみ)。いわば、この『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とにおける連関語といえるものである。
2000年12月28日(木)晴れ。八王子⇒
いつつやも すきずきずきす もやつつい
逸艶も 好き好き好きす 靄筒井
「扁鵲(ヘンジヤク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
扁鵲(ヘンジヤク) 史-記云。姓ハ秦、名ハ越-人、桑-君以テ‖禁方ヲ|傳∨之。周-末ノ戰-國ノ時ノ名-醫也。〔元亀本52G〕
扁鵲(ヘンジヤク) 史記云。姓ハ秦、名越人、桑-君以禁方傳之。周末之名醫也。〔静嘉堂本58G〕
扁鵲(ヘンシヤク) 史-記云。姓ハ秦、名ハ越-人、桑君以禁方傳之。周末之名醫也。〔天正十七年本上30オF〕
扁鵲(ヘンジヤク) 史記ニ云。姓ハ秦(シ−)、名ハ趙ノ人、桑君以‖禁方ヲ|傳∨之。周之末ノ名-醫也。〔西來寺本94B〕
とあって、標記語「扁鵲」の語注記は、「史記云く。姓は秦、名は越人、桑君禁方を以ってこれを傳ふ。周末の戰國の時の名醫なり」という。四写本のうち、元亀本のみが「周-末ノ戰-國ノ時ノ名-醫也」と記載していて、あとの三写本はこの部分を簡略化している。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
扁鵲(ヘンジヤク)周ノ末ノ戰-國ノ時ノ名-醫ナリ也。史-記ニ云ク扁-鵲姓ハ秦(シン)、名ハ越-人(エツジン)、桑-君以テ‖禁方ヲ|傳∨之ニ云。〔人名門51A〕
とある。これを『庭訓徃來註』は、卯月五日の状に、
并醫師 耆婆ノ末流也。上ニ念比ニ見タリ。扁鵲ハ周ノ末戦国ノ時ノ名醫也。日本ニハ和氣丹波兩氏相傳也。浴‖朝恩|家業ニ嗜侍也。〔謙堂文庫藏二四右B〕
と『下學集』の語注記一部を抜粋して記載注記する。広本『節用集』は、
扁鵲(ヘンジヤク)又 縺鵲集字函。周ノ末戰國之時ノ名醫也。史記云、扁鵲ハ名、姓ハ秦、越人、桑君以‖禁方|傳∨之云也。〔人名門113A〕
とあり、冠頭部分に「又 縺鵲集字函」と別表記を増補する。その次に『下學集』の語注記を引用し、かつ典拠資料『史記』その注記訓読の部分を「扁鵲ハ名、姓ハ秦、越人」と何か拠り所をもってか変更して記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
扁鵲(ヘンジヤク)周末戰國之時ノ名醫。〔弘・人名38@〕
扁鵲(ヘンジヤク)周ノ末戦-国ノ時ノ名醫(メイイ)也。〔永・人名37G〕
扁鵲(ヘンジヤク)周末戦-國ノ時ノ名醫也。〔尭・人名34F〕
扁鵲(ヘンシヤク)周末戦國ノ時ノ名醫。〔両・人名41F〕
とあって、『下學集』の語注記の冠頭部分をもって簡略記載する。その部分が『庭訓徃來註』の抜粋引用部分と同等でもある。そこで、『運歩色葉集』の語注記排列構成について見るとき、『下學集』の二文を逆転配置していることに気付くのである。何故素直に記載しなっかたのであろうか?反転させた記載意識について鑑みるに、広本『節用集』の増補及び補訂が既にあり、これを引き継ぐべき印度本系統の『節用集』類における簡略化、そして、『庭訓徃來註』の抜粋と既に『下學集』の語注記そのものを少しく変更する編纂姿勢がこの語には整っていたのかもしれない。
[ことばの実際]
「へんしやくか門には何かある」ととへは、「ゑんめいといふ草をうへたり。是を見る人善をまねき、悪をさり、壽命久しくのふ」といへり。《『保元物語』》
2000年12月27日(水)晴れ。八王子⇒
いつつなは むすびかびすむ はなつつい
五つ縄 結び華美清む 花筒井
「畫像(エザウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「衛」部に、
畫像(エザウ)。〔元亀本336G〕
※静嘉堂本は未收載。
とある。標記語「畫像」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』広本『節用集』そして印度本系統の『節用集』類は、この語を未收載にする。『庭訓徃來註』卯月五日の状と九月九日の状に、
佛師 優填王為‖仁王|畫像用‖栴檀|。彫∨佛此雕像ノ始也。作者毘首羯摩ハ帝尺十人ノ臣下ノ内ニ七番目也。其故釈迦登‖帝尺ニ|。優填王戀∨佛ヲ給也。其心ヲ釈迦モ帝尺モ哀モ/ミ給テ羯摩ヲ道行人ニ作_成シ優填王ノ在所ニ遣(ヤリ)給也。作終テ後ニ空ニ失タリ。佛ハ座像也。或時佛螺利リ下リ給ニ佛釈迦ノ之迎ニ行_給時釈迦曰、汝ニ東方万八千土ヲ預ルト被∨仰也。波斯匿王、優填王ノ造佛ヲ聞テ用‖黄金|鋳∨像ヲ也。造像始也。内典録ニ云、後漢明帝使下秦景徃中天竺月支国ニ上。得‖優填王ノ雕像ヲ|。尋(ツイ)テ至シム‖洛陽|。帝金-人ノ光有ヲ夢ミル故ニ西天竺ニ使‖秦景|也。日本嵯峨ノ釈迦ハ羯摩カ作也。本朝ニ渡ル_亊ハ奈良ノ京仁孝上人渡∨之。一条院ノ時也。仁孝細工ノ故ニ作_替テ盗∨之也。羯摩カ作ハ即天竺ノ釈迦也。日本ノ作者ノ始ハ定朝一条院ノ時ノ人。位ハ至‖法橋上人ニ|。綱位ハ自∨是始ル。其後運-慶後鳥羽院ノ時ノ人也。其弟子湛慶同安阿弥陀佛ト云者有リ。今佛師其末流ソ。〔謙堂文庫藏二四右D〕
刻∨‐彫ス之|細金(ホソ−)彩‐色ノ絵‐像各一輻 上ニ佛師ト云註ニ委。内典録曰、後漢明帝使∨秦景|往ス中天竺月支国ニ上。得∨優填王ノ彫像|。尋ツイテ至シム∨洛陽ニ|。勅シテ圖∨聖相ヲ|。即漢土ノ画像始也。〔謙堂文庫藏五〇左D〕
とあって、「上に佛師と云ふ註に委し。内典録に曰く、後漢の明帝のときに使∨秦景を天竺月支国に往す。優填王の彫像を得る。尋いで洛陽に至らしむ。勅して聖相を圖す。即ち漢土の画像の始めなり」というように、その詳細は卯月五日の「佛師」の語注記に詳しく記載と示して、そのあとに、『内典録』記載の内容を示すものである。この語注記は、『釋氏要覧』釈道誠(どうじょう)撰。仏教辞彙集。1019年成る。宋・天聖二(1025)年に刊行の「畫像」の語注記に見え、
畫像 唐ノ内典録ニ云。後漢ノ明帝ノ永平七年ニ。使シメテ≡秦景ヲシテ徃カ‖月支國ニ|。得テ‖優填王ノ雕-像ヲ|。師トス‖第四ノ畫樣ヲ|此レ西域ノ始ナリ也。至テ∨洛陽ニ。勅シテ圖シテ‖於西-陽-城-門及ヒ顕-節-陵-上ニ|供養ス此_土為(ス)∨始ト也。〔232@〕
とある箇所からの抜粋引用であろう。
2000年12月26日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつつろく かたひじひたか くろつつい
射つつ? 肩肘引高 玄筒射
「徘徊(ハイクワイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「葉」部に、
徘徊(ハイクワイ)。〔元亀本28A〕
徘徊(ハイクワイ)。〔静嘉堂本27@〕
徘徊(ハイクワイ)。〔天正十七年本上14ウC〕
徘徊(ハイクワイ)。〔西來寺本48D〕
とある。標記語「徘徊」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
徘徊(ハイクワイ)。〔疊字159@〕
とあって、この語注記は未記載である。『庭訓徃來註』五月日の状に、
不審千万之處、玉章怱ニ到來シテ更无∨貽コト‖餘鬱|。以‖便宜ヲ|被‖徘徊|者尤本望也 徘徊ハ立‖_依ノ我所ニ|義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕
とあって、その語注記に、「徘徊は、我所に立ち依るの義なり」という。広本『節用集』は、
徘徊(ハイクワイ/タワフル・タチモドリ、タチモドル)。〔態藝門80E〕
とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
徘徊(ハイクワイ)徃来皃。〔弘・言語進退24F〕
徘徊(ハイクワイ)。〔永・言語23B〕〔両・言語25@〕
徘徊(ハイクワイ)−優。徃来皃。〔尭・言語20G〕
とあって、弘治二年本と尭空本とに語注記が見え、この両本に共通する「徃来の皃」というのは、全く異なる注記である。当代の『日葡辞書』には、
Faiquai.ハイクヮイ(徘徊) すなわち,Vo>rai suru coto.(往来すること)所々を旅して回ること,または,いろいろな地方を巡歴すること.§Cuniguniuo faiquai itasu.(国々を徘徊致す)あちこちの国々を遊歴する、または,遍歴する.※Vo<raiの誤り.〔199l〕
とある。
2000年12月25日(月)晴れのち曇り、北風強。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつつごみ たからとらかた みごつつい
五つ埖 宝寅方 昧後筒井
「金色(コンジキ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古」部に、
金色(−ジキ)。〔元亀本231A〕
金色(−ジキ)。〔静嘉堂本265B〕
金色(−シキ)。〔天正十七年本中61ウA〕
とある。標記語「金色」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、
『庭訓往来註』九月九日の状に、
僧-坊金-色等ノ身 立像也。言ハ建ハ立。旦那ノ長ト等キ也。又後二条ノ関白山王ノ咎ニ病ノ時北政所願ニ御身等身ノ薬師ノ像各七体作被∨供養|也。〔謙堂文庫藏五〇左A〕
とある。その語注記は、「立像なり。言は建は立つ。旦那の長と等しきなり。又、後二条の関白、山王の咎に病ひの時、北政所、願に御身等身の薬師の像、各七体を作り供養せらるるなり」という。広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、『下學集』と同じく未収載にある。そして、『運歩色葉集』にはこの語注記はないものの、この語をここから独自に収載するものとみたい。易林本『節用集』には、
金剛(コンガウ) −色(ジキ) 。〔器財門157E〕
とその収載を見る。当代の『日葡辞書』にも、
Conjiqi.コンジキ(金色) Coganeno iro.(金の色)金の色.〔邦訳146r〕
とある。
2000年12月24日(日)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつつよと ふくさちさくふ とよつつい
居つゝ世と 福幸作風 豊筒居
「如来(ニヨライ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「丹」部に、
如来(ニヨライ)乗シテ如ニ来。乗シテ∨如ニ去之心也。〔元亀本38H〕
如来(ーー)乗如来。乗如去之心也。〔静嘉堂本42B〕
とある。標記語「如来」の語注記は、「如に乗じて来る。如に乗じて去るの心なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、
如来 止観ニ曰、垂∨无二ノ智|来契(カナフ) ∨正覚ニ|。即如来也。〔謙堂文庫藏五〇左B〕
とあって、その語注記は、「止観に曰く、无二の智を垂れ、来正覚に契ふ。即ち如来なり」という。広本『節用集』には、
如来(ニヨライ/ジヨ・ゴトシ、キタル)。〔態藝門89B〕
とあって、語注記は未記載にある。さらに、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』については未収載ある。ということで、『庭訓往来註』と『運歩色葉集』における語注記は、それぞれ異なった資料をもって注記していることになる。
2000年12月23日(土)晴れ。八王子⇒永山
いつつみか たまこにこまた かみつつい
異包みか 玉子二個又 紙筒衣
「湯屋(ユヤ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊」部に、
湯屋(ユヤ)。〔元亀本292C〕
湯屋(−ヤ)。〔静嘉堂本339B〕
とある。標記語「湯屋」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、
湯屋 有∨風呂|。北嶺自∨相国寺|始也。糺陀菩薩ハ湯ノ音ニ得道故用也。〔謙堂文庫藏五〇左@〕
とあって、語注記は「風呂にあり。北嶺相国寺より始るなり。糺陀菩薩は湯の音に得道す。故に用いるなり」という。広本『節用集』に、
湯殿(ユドノ/タウデン)浴室。又作‖湯屋(ユヤ)ト|。自‖相國寺|始也。跋陀菩薩ハ因‖湯沸音|得道。故風呂掛像。〔家屋門858B〕
とあって、標記語を「湯屋」から「湯殿」に置換しているが、かなり『庭訓往来註』の語注記に近似た語注記の内容であり、同一資料からの引用もしくは、この『庭訓往来註』からの引用ということになる。
[ことばの実際]
御行水候へとて湯屋へすかし入れて、橘七五郎は美濃尾張に聞えたる大ぢからなれは、くみてにて候べし。《金刀毘羅宮蔵『平治物語』下、大系262A》
御きやうすい候へとてゆとのに入奉り、橘七五郎は美濃尾張にきこえたる大ちからなれは、くみてにて候へし。《『平治物語』下、京大本》
2000年12月22日(金)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつふつや くらくもくらく やつふつい
逸物や 暗くも苦楽 八つ佛意
「経蔵(キヤウくら/−ザウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記」部に、
経蔵(−ザウ)。〔静嘉堂本325F〕
※元亀本は未収載。
とある。標記語「経蔵」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
經藏(キヤウサウ)。〔家屋門57E〕
とあって、語注記は未記載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、
経蔵 欽明天王僧聴四年辛未ニ経自∨唐渡蔵立也。〔謙堂文庫藏五〇右G〕
とあって、「欽明天皇、僧聴四年辛未に、経唐より渡り、蔵を立つるなり」という。広本『節用集』にも、
経蔵(キヤウクラ・ザウ/ケイ、ヲサム)又云‖輪蔵(リンサウ)ト|。欽明天皇僧聴四年辛未自唐渡蔵立也。〔家屋門810E〕
とあって、冒頭語注記「又輪蔵と云ふ」が付加されているが、後半部「欽明天皇、僧聴四年辛未、唐より渡り蔵立するなり」と『庭訓往来註』の語注記に共通する。さらに、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』については未収載にあり、両足院本『節用集』の「久」部に、
蔵(クラ)經−。土−。〔天地141@〕
とあって、「經−」の語があるにすぎない。すなわち、「経蔵」の語注記において『庭訓往来註』と広本『節用集』の語注記が連関していることがここでも判明する。
2000年12月21日(木)晴れ。冬至。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつついは ほしまつましほ はいつつい
一対は 星待つ真思慕 唄筒居
「鐘樓(シユロウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
鐘樓(シユロウ)。〔元亀本313E〕
鐘樓(シユロウ)。〔静嘉堂本367D〕
とある。標記語「鐘樓」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』九月九日の状に見え、『下學集』には、
鐘樓(シユロウ)。〔家屋57E〕
とあって、やはり語注記を未記載にする。これを『庭訓徃來註』九月九日の状に、
鐘楼 聖武天王天平十五年大佛殿ノ鐘数{楼ヵ}始也。〔謙堂文庫藏五〇右H〕
とあって、語注記に「聖武天王の天平十五年、大佛殿の鐘楼に始まるなり」という。広本『節用集』は、
鐘楼(シユロウ/シヨウ・カネ、タカトノ)聖武天皇天平十五大佛殿之鐘楼立始也。〔家屋門908@〕
とあって、『庭訓往来註』とその語注記が合致する。いわば、『下學集』そして『運歩色葉集』では語注記の記載が無いことから、この注記内容は、やはり『庭訓往来註』と広本『節用集』との連関性を大いに結びつけるものとしてその検証の一つとなるものである。さらに、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』については、
鐘樓(シユロウ)。〔弘・天地235B〕〔永・天地195D〕〔尭・天地185E〕
とあって、広本『節用集』の影響は見られず、いずれも語注記は未記載にあって『運歩色葉集』と共通する。
2000年12月20日(水)曇りのち小雨。八王子⇒板橋(国立国語研究所)
いつつまる かたさきさたか るまつつい
五箇円輪 肩先些高 流末墜
「達磨大師(ダルマダイシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多」部に、
達磨大師(ダルマダイシ)入滅。戌申十月五日。當日本継体正和年。至天文十七戌申一千廿一年也。〔元亀本145I〕
達磨大師(――――)入滅。戌申十月五日。當日本継体正和三季。至天文十七戌申一千廿一季也。〔静嘉堂本157B〕
達磨大師(――――)入滅。戌申十月五日。當日本継体正知三季。至天文十七戌申一千廿一季也。〔天正十七年本中11オ@〕
とある。標記語「達磨大師」の語注記は、「入滅。戌申、十月五日。日本の継体正和三年に當る。天文十七戌申より至る一千廿一年なり」という。『下學集』には、人名「聖徳太子」の語注記のなかに「前生ハ在テハ‖支那ニ|則南岳([ナン]ガク)ノ之惠思禪師也。因テ‖達磨(ダルマ)ノ指南|出‖-生シテ于日本ニ|号(コウ)ス‖聖徳太子ト|」とあるにすぎない。編者東麓破衲なる人物にしてみれば禅僧として、世祖三十八世「達磨大師」を標記語に据えて語注記をしないのかと問われるところであろう。私がいささか思うところでは、この辞書編纂が『庭訓徃來』の語を基に、これを解釈する語注記を重ねていった結果として、標記語及びその語注記を未收載にしたのではないかというあくまで推論でしかない。これを広本『節用集』では、
達磨(ダルマ、−ウス/イタル、ミガク)達摩祖庭亊苑。達磨単傳云々古尊宿。達麻共類説。南天竺香至國王ノ第三ノ子也。於‖唐土ニ|二祖惠可禅師ニ授‖佛法ヲ|。至ルマテ∨今ニ禅僧繁昌也。十月五日有‖入定|。嵩山少林寺也。雖然其日。於‖葱嶺ニ|云‖宗雲ト|者逢下自‖天竺|歸ルニ上時手ニ持‖隻履(カタクツ)ヲ|行クト‖天竺ニ|云云。宗雲於‖唐土ニ|語ル‖此亊ヲ|。則チ開(ヒライ)テ‖定中ヲ|見レハ只有‖隻履ノミ|也。又日本聖徳太子於‖大倭ノ國片岡|逢。其時太子歌曰、支那出(テル)ヤ片岡山ニ飢(ウヱ)テ∨飯(イヽ)ニ臥(フセ)ル旅人(タビー)成(ナス)∨憐(アワレ)ヲソ。達磨返歌曰、怒(イカ)ルカヤ冨(トミ)ノ小川(ヲガワ)ノ絶(タユ)ル我大君忘(ワス)レメ‖御名(ミナ)ヲ|。即太子與(アタ)フ‖御衣ト并トヲ∨食。其明日使∨人見。早死スト云矣。太子有‖御愁歎|。葬‖埋其死ヲ。後又太子飢人(ウヱー)ヲ思‖不審|。開(ヒライ)テ∨墓(ツチ)ヲ見(ミ)レハ無(ナシ)ト‖死骸(―ガイ)|云々。今至‖延徳二年庚戌|。八百九十九年也。又至‖明應三年甲寅|九百六十九年也。又缺歯ノ老胡達磨與‖流支三蔵|論議磨斥(シリゾ)ケ∨相指∨心ヲ支不∨忍‖偏局|。以‖鉄如意|撃‖_折。磨ノ板歯ヲ|。又達磨嗅字達磨初入∨魏時。夫持儒典徃詢問(トイトウ)。磨云、不∨識∨字。但能鼻ニ?(カギ)通ス。諸子以‖論語ヲ|令∨嗅。磨嗅云、説‖是非底ノ文字ヲ|嗅‖春秋|云。血腥。嗅‖周易|云、此天書ナリ。吾西國雖∨無∨之。能以一音一字函之。 黄頭碧眼楚云‖迦毘羅|。此云‖黄頭|。佛生‖迦毘羅ニ|。故ニ為‖黄頭ト|。曰、達磨ノ眼ニ紺青之色。故ニ曰碧眼|亊苑。折∨蘆渡江梁普通元年庚子達磨見‖武帝ニ|。武帝不∨契(カナハ)。折∨蘆渡‖揚子江ヲ|。到岸捨‖折蘆ヲ|。処ニ建∨寺。今ノ長蘆寺是也。 二株嬾桂般若多羅授(サツクル)‖達磨ニ|。偈曰、路行跨水忽ニ逢∨羊。獨自棲々晴渡∨江。日下可怜双馬象。二株嬾桂久昌々。注達磨偈曰。路行武帝名ハ衍(ヱン)従∨行従∨水。故云跨水。帝不∨契。祖有‖洛陽之遊|。故云逢羊。々ハ陽ノ聲近也。祖是ノ夜航ス∨葦ニ。故曰暗渡∨江。西來シテ見‖梁魏ノ二帝ニ|。故曰日下双象馬。九年面‖−壁少林ニ|。故云、二株嬾桂久昌々。久ハ九ノ聲近也。郷_言少林寺ハ魏沙門跋陀製達磨ハ梁ノ大通元年ニ至‖此土ニ|。會シテ‖武帝ニ|之ヲ‖魏ノ洛陽ニ|。止テ‖少林寺ニ|面壁九年。作ハ‖普通八年ト|誤也。〔人名門335@〕
として、ものの見事にまで詳細な語注記を施している。次に印度本系統の弘治二年本『節用集』は、
達磨大師(タルマ―――)入滅。 戌申十月五日。當日本継躰正和三年。至弘治二丙辰千二十九年也。〔弘・人名101A〕
とあって、『運歩色葉集』に共通する。永祿二年本・尭空本『節用集』は、未収載にある。
2000年12月19日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いついくか うたまひまたう かくいつい
何時行く歟 歌舞ひ待たう 斯くエい
「百姓(ヒヤクシヤウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「飛」部に、
百姓(ヒヤクシヤウ)姓本。日本四姓分−其氏公家。八十氏在‖武家也。〔元亀本345@〕
百姓(ヒヤクシヤウ)日本四姓分作−−其廿氏公家。八十氏在武家也。〔静嘉堂本414F〕
とある。標記語「百姓」の語注記は、「姓本。日本の四姓を百姓に分ち、其の廿氏は公家。八十氏は武家に在るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
百姓(−シヤウ)日本ノ之四姓分(ワカツ)テ作ス‖百姓ト|。其ノ内二十氏ハ公家(クゲ)ナリ也 八十氏ハ武家(ブケ)ナリ也。所∨謂(イハユル)物武(モノヽフ)八十氏(ヤソウジ)ノ者(モノ)是レナリ也。〔数量144A〕
とある。その語注記は、「日本の四姓を分(ワカツ)て百姓と作す。其の内、二十氏は公家(クゲ)なり。 八十氏は武家(ブケ) なり。所謂(イハユル)、物武(モノヽフ)八十氏(ヤソウジ)の者(モノ)是れなり」と注記内容も明確である。これを『庭訓徃來注』卯月五日の状に、
百姓ノ門ニハ 公家廿氏、武家八十氏ノ末裔下テ成‖庶民|間云‖百姓|。~武天皇ノ太子有‖四人|。刹利波羅門毘沙殊陀ト号。刹ハ今ノ公家也。波ハ武家、毘ハ商人、殊ハ百姓也。〔謙堂文庫藏二〇左@〕
とあって、その語注記は、「公家廿氏、武家八十氏の末裔、下って庶民と成る間に百姓と云ふ。~武天皇の太子四人有り。刹利・波羅門・毘沙・殊陀と号す。刹は今の公家なり。波は武家、毘は商人、殊は百姓なり」という。ここで『下學集』と『庭訓徃來注』とが共通する内容は「公家廿氏、武家八十氏」の部分である。広本『節用集』は、
百姓(ヒヤクシヤウ/ハクセイ.モモ、ウヂ)日本ノ之四姓分(ワカレ)テ作‖――ト|。其内二十氏ハ公家(−ケ)。八十氏ハ武家。所謂物夫(モノヽフ)ノ八十(ヤソ)氏者是(コレ)ナル也哉(カナ)。〔数量1037C〕
とあって、語注記は『下學集』を継承するものである。次に印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
百姓(ヒヤクシヤウ)日本之四姓(シヤウ)分テ作∨――。其内二十氏ハ公家。八十氏ハ武家也。所_謂(イハユル)物武(モノヽフ)ノ八十氏(ヤソウチ)者是也。〔弘・人倫252A〕
百姓(ヒヤクシヤウ)日本之四姓分テ作∨――。其内二十氏ハ公-家。八十氏ハ武家也。所_謂ル物武(モノヽフ)ノ八十氏(ヤソウチ)トハ者是也。〔永・人倫215F〕
百姓(ヒヤクシヤウ)日本之四姓分作――。其内二十氏ハ公家。八十氏ハ武家也。所謂物武八十氏(ヤソシ)ト者是ナリ。〔尭・人倫201A〕
とあって、『下學集』を継承するものであり、広本『節用集』と比較した時、「もののふ」を「物夫」としているが、ここは「物武」として、『下學集』に等しい。すなわち、広本『節用集』だけが異なる表記を示したものとなっている。また、古辞書類の語注記と『庭訓徃來注』の語注記が共通する内容を持ちながらも、その注記は大いに異なりを見せているものである。
[補遺] 「百姓」の語(「ことばの溜め池」1999・08.01の「百」の数)を参照されたい。
2000年12月18日(月)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)
いついなく むそじのじそむ くないつい
いつ居無く 六十の自尊 宮内つ囲
「城郭(ジヤウカク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
城睾(−クワク) 三里ヲ曰‖−ト|。曰‖七里城ト|。自‖帝尺|始ル也。〔元亀本315A〕
城睾(−クワク) 三里曰−ト。七里ヲ城曰−ト。自帝尺始也。〔静嘉堂本369F〕
とある。標記語「城睾」の語注記は、「三里を城と曰ひ。七里を郭と曰ふ。帝尺より始るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。
『庭訓徃來注』六月二十九日の状に、
徒黨令∨横‖行于所々ニ|、奪‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ|、追‖-捕土民ノ住宅|、剥‖-取ル旅人之衣裳ヲ|間、爲‖誅伐追討|、大將軍依∨被∨發‖-向|、方々當家ノ一族同馳‖-向彼戰場|、破‖-却城郭| 三里云∨城、七里ヲ云∨郭也。自‖帝尺|始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕
とあって、『運歩色葉集』はここから引用する。『下學集』は、
城郭(チヤウクワク)。〔家屋門54五〕
とあって、標記語「城郭」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に、広本『節用集』は、
城郭 (ジヤウクワク/セイ・ミヤコ・シロ、カマヱ)要害也。釋名ニ云。城ハ盛也。盛ニ受‖國都ヲ|。案‖淮南子鯀作∨城。五經異儀天子之城ハ高九仭。公侯ハ七仭。佰ハ五仭。子男三仭。〔天地門907@〕
とあって、その語注記を異にしている。次に印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
城郭 (ジヤウクワク)。〔天地235F〕
城郭 (ジヤウクワク)。〔天地195E〕 城(ジヤウ)要害也。〔天地195F〕
城郭 (ジヤウクワク)。〔天地185D〕 城(シヤウ)要害也。〔天地185H〕
とあって、標記語「城郭」には語注記は無く、「城」に「要害也」と広本『節用集』の語注記冒頭が見えている。また、易林本『節用集』には、
城郭(ジヤウクワク)。〔乾坤202七〕
とあって、標記語「城郭」の語を収載する。
2000年12月17日(日)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)
いついなく むそじのじそむ くないつい
いつ居無く 六十の自尊 宮内つ囲
「座主(ザス)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「佐」部に、
座主(サス) 文徳天皇天長二乙巳始定慈覚大師。至天文十七戌申七三四年也。〔元亀本268E〕
座主(ザス) 文徳天皇天長二乙巳始定慈覚大師。至天文十七戌申七百三十四季也。〔静嘉堂本305E〕
とある。標記語「座主」の語注記は未記載にある。この「文徳天皇、天長二(年)乙巳、始めて慈覚大師を定むる。天文十七(年)戌申至る、七三四年なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、
『庭訓徃來註』十月三日の状に、
座主 日本ニ有‖三座主|叡山宗一也。座主漉言曰有司謂∨之座主。或謂一座之主也。文徳天王始定‖慈覚ヲ天台座主ニ|謂也云々。〔謙堂文庫蔵五五左D〕
とあって、この語注記の末尾に「文徳天王、始めて慈覚を天台座主に定むると謂ふなり云々」とあり、この箇所に『運歩色葉集』は「天長二乙巳」といった年号と、「慈覚」に「大師」という尊称の号を付加したものとなっている。広本『節用集』は、
座主(ザス/ユカ、アルジ・ヌシ)天台――。今ノ釋氏取テ‖学解頴抜(ヱイハツ)ナルヲ|、古ニハ呼(ヨブ)‖講師(カウシ)ナト|。釋氏要覧。〔人倫門775F〕
とあって、「天台座主」という語は共通しても、その語注記はその発祥についてではなく、学徳の優れた人物といった意味の注記であって、その内容を異にしている。すなわちここでは、『釋氏要覧』を引用した語注記となっている。次に印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
座主(ザス) 天台――。〔弘・人倫210B〕
座主(ザス) 天台――。〔永・人倫175A〕
座主(ザス) 天台――。〔尭・人倫163H〕
とあって、広本『節用集』の語注記冒頭部を収載するといった簡略注記となっている。
[ことばの実際]
座主(−ス) 穗言ニ曰。有司謂フ‖之ヲ座主ト|。今釋氏取テ‖学解ノ優瞻頴抜者ヲ|名ク‖座主ト|。謂ク‖一座ノ之主ナリ|。《『釋氏要覧』上31C》
2000年12月16日(土)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いついろの すしめしめしす のろいつい
五色の 寿司飯召しす 鈍い費い
「侍醫(ヲモトイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠」部に、
侍醫(ーイ) 。〔元亀本79@〕
※静嘉堂本・天正十七年本・西来寺本は未記載にして、「左右」(静嘉堂本)「侍者」(天正十七年本)の語注記に、「文集、侍醫著、内記局、名已上。定」と記す。
とある。標記語「侍醫」の語注記は未記載にある。この「侍醫」は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、
披‖玉章ヲ|窺‖厳旨ヲ|御用望既ニ分明也。如∨仰當道(タウ)之名醫者可∨有‖奔走|也。権侍(カリニマカセ/コンチ)ノ‖醫邊ニ| 権侍――内裡ニ雖十二人ノ醫者逢‖天子ノ御氣色ニ|輩一人也。二人歟。其人有‖指_合|不‖参内|。則唯一人別ニ在也。醫辺ノ々ノ字ハ師マテ也。師ノ説ニ曰、権侍醫辺ヲ於茂登(ヲモト)藥師ト讀也。十二人ノ内ニテモ取分自‖典薬|撰出シテ置也。半昇殿ノ人也。故ニ辺ノ字ヲ用歟。旁辺ノ心也。薬ニ有‖佐使君臣ノ差別|佐使ハ其験極急也。君臣ハ其験漸々ニ治∨病ヲ。〔謙堂文庫蔵六一右C〕
※左貫注本に、「権侍(ゴンジ/カリニ、{ヲモトクスシトヨムナリ})ノ醫辺{ハ付字也}」と添え書きする。
とあって、この語注記のなかに「権侍醫辺を於茂登(ヲモト)藥師と読むなり」とあり、「をもとくすし」という読みがここに見えている。この四字表記の中の二字をもって「侍醫」とするに、元亀本『運歩色葉集』の「をもとイ」という和語と漢語の混種読み表記がこの時代に表出してきたことが見て取れるのである。広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、未収載にある。
2000年12月15日(金)晴れ。八王子⇒有楽町(読売ホール7F)
いついごは ことぎきぎとこ はごいつい
五つ以後は 異木樹々所 葉恋つ噫
「五木(ゴモク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古」部に、
五木(ーモク) 梅・桃・柳・桑・杉。又ハ除杉入合歓木。〔元亀本239H〕
五木(ーモク) 梅・桃・柳・桑・杉。又ハ除∨杉。入ルヽ‖合歓木ヲ|。〔静嘉堂本276E〕
五木(ーモク) 梅・桃・柳・桑・杉。又ハ除杉入合歓木。〔天正十七年本中67ウD〕
とある。標記語「五木」の語注記は「梅・桃・柳・桑・杉。又は杉を除き合歓木を入るる」という。この「五木」は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、
大薬秘薬者斟酌之亊候。被∨用‖和薬|者可∨参也。五木 梅桃柳桑杉也。師説ニ除∨杉ヲ被∨入‖歡木ヲ|也。〔謙堂文庫蔵六一左F〕
※天理本「除テ∨杉ヲ被∨入‖歓{松也}木ヲ|也」とし、左貫注本「除∨杉ヲ被∨入‖松{勧イ}木ヲ|也」とする。
とあって、『運歩色葉集』はここからの引用であることが知られる。ただし、「歓木」を「合歓木」としている箇所が異なる。広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、『下學集』と同じく未収載にある。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との連関語ということになる。江戸時代の『書字考節用集』には、
五木(ゴモク) 桑。槐。楮。楡(ニレ)。柳。○桑。槐。桐。樗。朴。〔数量十三40C〕
とあって、室町時代の「五木」と三種乃至四種を異にしている。
2000年12月14日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
ひついよか ひよもすもよひ かよいつひ
筆弥か 終日貰ひ 通い遂ひ
「土産(トサン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登」部に、
土産(トサン)。〔元亀本54F〕
土産(トサン)。〔静嘉堂本60G〕
土産(トサン)。〔天正十七年本上31オF〕
土産(トサン)。〔西来寺本96E〕
とある。標記語「土産」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未收載にある。『庭訓徃來註』十二月晦日の状に、
隔心之至リ雖∨存∨憚ヲ誠ニ及‖推望ニ|御氣色如何然ルニ国ノ土産 和_讀ニ土産(ツト)讀ム也。〔謙堂文庫蔵六二左F〕
とあって、その語注記は「和_讀に土産(ツト)と讀むなり」という。広本『節用集』には、
土産(トサン/ツチ、ウム)。〔態藝門137F〕
裹(ツト/クワ)万葉用‖此ノ字ヲ。又作‖裹(ツト)物|田舎ノ土産也。〔器財門415F〕
とあって、「土産」の語には語注記は見えない。また、「つと」だが、標記語は「裹」の字でしか収載を見ないが、語注記に「また裹物と作りて田舎の土産なり」として「土産」の語が見えている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
土産(トサン)。〔弘・言語進退45@〕〔永・言語45@〕〔尭・言語41F〕〔両・言語49G〕
苞魚(ツト)菩(同)裹(同) 万葉ニハ用此字ヲ。又作裹物田舎之土産也。〔弘・財宝128C〕
裹(ツト) 万葉ニハ用∨此字。又作∨裹物田舎之土産(トサン)也。〔永・財宝105E〕
裹(ツト) 万葉ニハ用此字。又作∨裹物田舎之土産也。〔尭・財宝96@〕
裹(ツト) 万葉ニハ用此字。又作∨裹物田舎之土産也。〔両・財宝117E〕
とあって、広本『節用集』を継承する。また、『庭訓徃來註』の語注記とはまったく異なるものである。そして、『運歩色葉集』の「つと」には、
苴(ツト)苞(同)菩(同)。〔元亀本160G〜H〕〔静嘉堂本176G〕
とあって、「裹」の字は未収載としている。当然語注記はない。
2000年12月13日(水)晴れ。八王子
いついみに かかさぬさかか にみいつい
斎忌みに 欠かさぬ性か 似み噎胃
「講師(カウシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
講師(カウシ)。〔元亀本96C〕
講師(カウシ)。〔静嘉堂本120@〕
講師(カウシ)。〔天正十七年本上59オB〕
講師(カウジ)。〔西來寺本171A〕
とある。標記語「講師」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』九月十五日の状に、
法服可有‖登ノ高座大行-道等|以‖聖-道ノ名僧ヲ|可∨被∨成‖其ノ節ヲ|講師 上‖本壇|法花ヲ講スル也。〔謙堂文庫蔵五二左D〕
とあって、その語注記に「本壇に上り、法花を講ずるなり」という。広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には未收載にある。同時代の『塵芥』にも、
講師(カウシ)論議。歌。〔賀部・人倫門109G〕
とあって、読みは「カウシ」と清音で表記する。小学館『日本国語大辞典』には、「(古く、寺で説経する僧をいった「講師(こうじ)」)を転用した語。→こうじ」とあり、その読み方が濁音から清音に転用された尤も早い用例としてここに取り上げねばなるまい。ただし、同じく当代の『日葡辞書』には、
Co<ji.カゥジ(講師) ある原文などを読んで解釈する坊主(Bozo)。〔143l〕
とあって、「カウジ」と濁音読みを以って載録している。
2000年12月12日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いついつと きめことこめき とついつい
何時何時と 決め事篭めき 咄い終い
「長老(チヤウラウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「知」部に、
長老(チヤウラウ)。〔元亀本65F〕
長老(――)。〔静嘉堂本76G〕
長老(チヤウラウ)。〔天正十七年本上38ウC〕
長老(チヤウラウ)。〔西来寺本118A〕
とある。標記語「長老」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』十月三日の状には、
律僧者長老 長阿含曰有三長老|。謂ル耆年長老年老法長老子違法性内ニ有‖智徳作長老假号肇法師曰内有‖智能|可尊之故ニ名‖是ヲ長老ト|也云々。〔謙堂文庫蔵五五左@〕
とあって、その語注記は「長阿含曰く、三長老有り。謂はゆる耆年長老、年老法長老、子違法性の内に智徳有り。長老と作りて假に号す。肇法師曰く、内に智能有り。尊かるべきの故に是を長老と名づくなり云々」という。広本『節用集』は、
長老(チヤウラウ・ヲサ/ナガシ、ヲイ)内ニ有‖智慧|。可∨尊名‖長老ト|。有‖三長老|云々。〔官位門160F〕
とあって、その語注記は上記『庭訓徃來註』の語注記と排列を前後するがその内容についてみるによく近似ている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
長老(チヤウラウ)。〔弘・人倫48G〕〔永・人倫50@〕〔尭・人倫45H〕〔両・人倫54A〕
とあって、いずれも『運歩色葉集』と同じように語注記を未記載にしている。このことから、『庭訓徃來註』と広本『節用集』との間で、その連関性(共通資料からの引用乃至直接の継承引用)があったことが確認できるのである。
2000年12月11日(月)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
「已講(イカウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「伊」部に、
已講(イカウ)教化之官。〔元亀本13H〕
已講(イカウ)教化之官也。〔静嘉堂本6D〕
已講(イカウ)教化之官。〔天正十七年本上5ウB〕
已講(イカウ)教化之官。〔西来寺本21B〕
とある。標記語「已講」の語注記は「教化の官」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には
已講(イカウ)。〔態藝84E〕
とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』十月三日の状に、
已講(イ−) 奈良ノ衆徒ノ官也。入∨費ヲ為官也。論議シテ明∨瞭ソ隠居スル者。〔謙堂文庫蔵五六右A〕
とあって、その語注記は「奈良の衆徒の官なり。費へを入れ官を為すなり。論議して隠居する者明瞭ぞ」という。広本『節用集』には、
已講(イカウ/ヲノレ・スデニ、ハカル・マツリ)教家(ケ)ニ所∨言。〔態藝84E〕
とあって、この語注記も『運歩色葉集』と若干異なりを見せている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
已講(イカウ)。〔言語進退14A〕
已講(イカウ)。〔言語9E〕〔言語7E〕〔言語9D〕
とあって『下學集』同様、語注記は未記載にある。
2000年12月10日(日)晴れ。八王子
「有職(ユウシヨク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊」部に、
有職(ユウシヨク)。〔元亀本293A〕
有職(ユウシヨク)。〔静嘉堂本340E〕
とある。標記語「有職」には語注記が未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
有職(ユウシヨク)。〔態藝88B〕
とあって、語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』十月三日の状に、
以下承-仕(−ジ)宮-仕等也此外有職(ユウシキ)僧綱(−カウ) 諸職ヲ拵僧云也。〔謙堂文庫蔵五六右C〕
とあって、その語注記は、「諸職を拵ふる僧を云ふなり」という。広本『節用集』は、
有職(ユウシヨク/アル・タモツ、ツカサ)或作‖右族(ユウシヨク)ト|。〔態藝門866D〕
とあって、その語注記は別表記の「右族」を記述する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
有職(ユウシヨク)。〔弘治二年本・言語進退227E〕
有道(ユウタウ)―職(/シヨク)。〔永祿二年本・言語188G〕
有道(ユウタウ)―職。〔尭空本・言語178B〕
とあって、語注記は未記載にある。すなわち古辞書類はこの語に意味注記するものはない。そして、広本『節用集』だけが別表記について注記するものであることがわかる。
2000年12月9日(土)晴れ。八王子
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保」部に、
方丈(―チヤウ)。〔元亀本44D〕
方丈(―チヤウ)。〔静嘉堂本49C〕
方丈(―チヤウ)。〔天正十七年本上25ウC〕
方丈(―チヤウ)。〔西来寺本80E〕
とある。標記語「方丈」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』にみえ、『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』十月日の状に、
御札之旨委細承候大齊之体心亊難‖申尽|候。抑調菜人等无‖可∨然器用ノ仁|候ノ間粗任‖愚才ニ|令註進候。御布施物之亊被(ヒ)物禄物等可∨被∨略∨之候歟。方丈(−チヤウ) 々々蓋寺院ノ正寝也。釈氏要覧ニ曰、維摩東北四里許維摩居士宅示∨疾∨之室遺北畳ミ石為∨之王策躬以手板縦横量之得‖十笏ヲ|。故ニ号‖方丈ト|。〔謙堂文庫蔵五六左H〕
とあって、語注記「方丈は蓋し寺院の正寝なり。釈氏要覧に曰く、維摩東北四里許りに維摩居士の宅之れ疾く示し、室遺北畳み石之れを為し、王策躬、手板を以って縦横量の之十笏を得る。故に方丈と号す」という。広本『節用集』には、
方丈(ホウヂヤウ/ハウ・ミチ・カタ、ハカル)島(シマ)ノ名。又寺(テラ)ノ之丈室之名也。〔天地門94A〕
方丈(ホウヂヤウ/ハウ・ミチ・カタ、ハカル) 蓋シ寺院ノ正寝也。唐ノ顯慶中ニ王彦策徃∨西充(アテラル) ∨使ニ。至ル‖毘耶黎城東北四里計維摩ノ宅|。策以‖手板|縦横量∨之。得‖十笏|。故号ス‖方丈ト|。又云‖丈室|。〔家屋門94F〕
とあって、家屋門の語注記が『庭訓徃來註』に近似ている。すなわち、『庭訓徃來註』がしめすところの典拠『釈氏要覧』という共通の資料からの抜粋であればこその近似であることから、それぞれ別途で書写であってもその可能性がないわけではない。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
方丈(ホウジヤウ)嶋名。又寺丈室。〔弘治二年本・天地31A〕
方丈(ホウヂヤウ)嶋名也。或寺丈室。〔永祿二年本・天地31E〕
方丈(ホウチヤウ)嶋名也。或寺丈室。〔尭空本・天地29A〕
方丈(ホウチヤウ)嶋名也。或寺丈室。〔両足院本・天地34A〕
とあって、広本『節用集』の天地門の語注記のみを継承するに留まっている。この点からも『庭訓徃來註』と広本『節用集』の連関度合いが見えてくる。
[ことばの実際]
方丈 蓋シ寺-院ノ正-寝ナリ也。始テ因ル下唐ノ顯-慶年中ニ勅シテ‖年差-衛尉-寺承李義-表前融州黄水令王-玄-策ニ|住シムルニ上∨西-域ニ充-使。至ル‖毘耶黎-城ノ東-北四-里許ニ|。維摩居士ノ宅|。示スノ∨疾ヲ之_室。遺シ∨址ヲ疊ンテ∨石ヲ為(ツクル)∨之ヲ。王策躬(ミツカラ)以テ‖∨手ヲ板ノ|縦横量ルニ∨之ヲ。得∨十-笏ヲ|。故ニハ號ク∨方丈ト。《『釈氏要覧』上二十二オ4》
2000年12月8日(金)晴れ。八王子⇒目黒(国文学資料館)
「転讀(テンドク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「天」部に、
転讀(テンドク)。〔元亀本245H〕
転讀(テンドク)。〔静嘉堂本284@〕
転讀(テンドク)。〔天正十七年本中70ウF〕
とある。標記語「転讀」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、
書写摺写御經転讀般若 慈覚大師清和天王御宇祈祷之時始也。〔謙堂文庫藏五一右A〕
とあって、その語注記に「慈覚大師、清和天王の御宇、祈祷の時始まるなり」という。これを広本『節用集』には、
轉讀(テントク/ウタヽ、ヨム) 慈覚大師清和天皇自‖御祈念之時|始也。〔態藝門731F〕
とあって、その語注記「慈覚大師、清和天皇御祈念の時より始まるなり」は、この『庭訓往来註』の語注記に近似ている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
轉讀(テンドク)。〔弘治二年本・言語進退199G〕
轉讀(テンドク)―閲(エツ)。―位(イ)。―經(キヤウ)。〔永祿二年本・言語164H〕
轉讀(テントク)―閲。―位。―經。―変。〔尭空本・言語154B〕
とあって、『運歩色葉集』と同じく語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』の「轉讀」の語注記は、ここでは、広本『節用集』と関わりを見出せるものとなった。
2000年12月7日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつなりと ゆめみきみめゆ とりなつい
何時なりと 夢見て観め遊 採り菜摘い
「傷寒(シヤウカン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
傷寒(―カン)。〔元亀本309I〕
傷寒(―カン)。〔静嘉堂本362A〕
とある。標記語「傷寒」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。『庭訓徃來註』十一月十二日の状に、
諠病(コ/キヤ)・咳病(ガイ―)・疾齒(ヤミハ)・膜(マケ)等者如∨形見知候歟。癲狂(テンカラ)・癩病(ライ―)・傷寒 過ルヲ‖三日ニ|傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕
とあって、語注記に「三日に過ぐるを傷寒(カン) と云ふ」という。広本『節用集』には、
傷寒(シヤウカン/ヤブル、サムシ)。〔支體門923B〕
とあって、やはり語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、標記語も未収載にある。このように、『庭訓徃來註』の「傷寒」の語注記は、古辞書群には採録されていない。当代の『日葡辞書』に、
Xo<can.シヨウカン(傷寒) Canni yabururu.(寒に傷るる)寒さがもとで起こる病気.〔邦訳788r〕
とある。
2000年12月6日(水)晴れ。八王子
いつむらに たはたにたはた にらむつい
五邑に 田圃に田園 睨む堆
「養生(ヤウジヤウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「屋」部に、
養性(ヤウジヤウ)。〔元亀本202A〕
養性(ヤウジヤウ)。〔静嘉堂本228E〕
養性(―シヤウ)。〔天正十七年本中44オD〕
とある。標記語「養性」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。『庭訓徃來註』十一月十二日の状に、
針治・湯治・術治・養生之達者、殊ニ大切之亊候 養生ノ法、可下大ニ座伸‖一-脚|屈‖一脚|、以‖兩手ヲ|向∨後ロニ反掣テ各可‖三五度ス|。亦跪テ座シテ以‖兩手ヲ|拒(サヽヘ) ∨地ヲ回-顧シテ用∨力虎視ルコト各三五度能去‖脾臓積風邪|喜∨食也。〔謙堂文庫蔵六〇左@〕
とあって、その語注記に「養生の法、大いに一脚を伸ばし、一脚を屈む、兩手を以って、後ろに向き反り掣きて、各三五度すべし。また跪づきて、座して兩手を以って地を拒へ、回顧して力を用ゆ。虎視ること各三五度、能く座すべし。脾臓積、風邪を去りて食を喜ばすなり」という。広本『節用集』には、
養生(ヤウジヤウ/ヤシナフ、セイ・イキル・ムマルヽ)又作養性。〔態藝門560F〕
養性(ヤウジヤウ/ヤシナフ、セイ・コヽロ)。〔態藝門635A〕
とあって、上記の「養生」には、「養性」の表記が用いられることを「また養性に作る」と示す。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
養生(ヤウジヤウ)又作養性。〔弘・言語進退167D〕
養育(ヤウイク)―生(ジヤウ)。〔永・言語136F〕
養育(ヤウイク)―生。〔尭・言語125F〕
とあって、少なくとも弘治二年本は、広本『節用集』を継承するものである。そして、『庭訓徃來註』の「養生の法」すなわち現代風にいえば「健康法」は、いずれの古辞書にも採用されなかったのである。当代の『日葡辞書』に、
Yo<jo<.ヤゥジャゥ(養生・養性) 病人に対する心くばり,あるいは,病気にかかっているのでなくても,健康に対して払う注意.この語は,病気に使用される薬の意に用いられるだけである。→Cuuaye,uru(加へ,ゆる).〔邦訳826r〕
とある。
2000年12月5日(火)晴れ。朝初霜。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつごろか ゆきふりふきゆ かろごつい
何時頃か 雪降り吹きゆ 火炉後費
「下文(クダシブミ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久」部に、
下文(クダシブミ) 自‖將軍|賜‖所帯|時、先肩ニ被∨書‖下之字也。其次ニ。地之分限等、年号、月日也。有神判。〔元亀本195I〕
下文(クダシフミ) 自將軍。賜所帯時、先肩ニ被書下之字也。其次ニ。地之分限等、年号月日也。有袖判也。〔静嘉堂本221G〕
下文(クタシフミ) 自(ヨリ)‖將軍|贈所帯〓〔日+之〕、先肩被書‖下之字也。其次ニ。地之分限等、年号月日也。有袖判也。〔天正十七年本中40ウ@〕
とある。標記語「下文」の語注記は、「將軍より所帯を賜ふ時、先肩に下の字を書れるなり。其の次に、地の分限等、年号月日なり。袖判有るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、
仰御下文・御教書巌重(テウ)之間 御下文ハ自‖將軍|給‖所帯|時、先肩ニ下ト云字ヲ書。其ノ_次ニ如何様之依テ‖忠節|何ノ地ヲ如何程出スト書‖分限|。判ヲ袖ニ陶(スヘ)給也。又御教書ハ將軍・官領ハ奉行衆ト談合シテ遣ス状也。或ハ自‖本馬殿|出状也。惣シテ自‖將軍|出状三也。御教書・奉書・内書也。此内御教書賞翫也。奉書ハ將軍ノ得‖御意|、奉行人我カ名_判ヲ居ヘ、我則与ル方ニ少ク奉ノ一字ヲ書出也。内書ハ奉行ト不‖談合|將軍ノ意計ニ遣ス也。又御下文トハ々々々ト云三字ヲ書其ノ_下ニ御判有リ。自‖国司|出ヲ云‖奉書ト|、自‖官-領|出ヲモ云‖奉書|。自‖守護|出ルヲ云‖遵行ト|。自‖代官|出ヲ云‖打渡ト|也。〔謙堂文庫蔵一六左G〕
とあって、「御下文は將軍より所帯を給ふ時、先肩に下と云ふ字を書く。其の次に如何様の忠節に依て何の地を如何程出すと分限に書く。判を袖に陶(スヘ)給ふなり」とあって、下位部に若干の異なりがあるが、ここからの引用である。広本『節用集』及び、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には『下學集』同様、未収載にある。
[ことばの実際]
到‖来淀津|云々。解文下文。一日史生秦福充所持来也。《『明衡往来』中末》
2000年12月4日(月)晴れ、風冷たし。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつしきと しみらにらみし ときしつい
一色と 繁ら睨みし 時失意
「施薬院(セヤクイン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢」部に、
施薬院(セヤクイン)。〔元亀本356A〕施薬院(セヤクイン)トハ光明皇后立∨之。京悲田院是也。非人千人ニ皇后自沐浴給也。〔元亀本356C〕
施藥院(―――)。〔静嘉堂本431E〕施藥院(―――)光明皇后立之。京悲田院是也。非人千人皇后自沐浴給也。〔静嘉堂本433@〕
とある。ここで標記語が両本ともに重複し、後の方に語注記として、「光明皇后之れを立つ。京の悲田院是れなり。非人、千人に皇后より沐浴を給ふなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、
施藥院寮ニ有‖可∨然仁|者、可∨被‖拳達|也。 自‖聖武天王ノ后光明皇后|起也。施藥之字心ハ習‖醫師ヲ|始ルニ、京七口ニシテ无-縁ノ者ニ施∨藥、然シテ後ニ、名‖上品薬師|也。京ノ悲田院之建立モ天-下ノ非人施行也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右G〕
とあって、その語注記は、「聖武天王ノ后光明皇后より起るなり。施藥の字心は醫師を習ひ始るに、京七口にして无-縁の者に藥を施こし、然して後に、上品薬師と名づくるなり。京の悲田院の建立も天下の非人を施行するなり云々」として、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』の筋内容はその起源を注記する点で類似するものの、記述の詳細箇所「非人千人…自沐浴給也」などに異なりが見えている。これは拠所を別にするか、はたまた『運歩色葉集』の編者が独自に書き換えしたものかは定かでない。広本『節用集』及び、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には未収載にある。
『拾芥抄』巻中の「諸院」には、
施藥院 唐橋南室町西云々施藥院同処也。東五条藤氏先祖申納諸國薬種。養病人所也。有使以弁 判官 主典イ及外記為別當。
悲田院 在鴨川西畔・施藥院別所也。養孤子・病者也。延喜左右京職式云。凡京中之路邊病者孤子仰テ‖九ケ條令|。其所見遇。隋使必取送施藥院、及悲田院
と記載されている。因みに、『運歩色葉集』にも標記語「悲田院」の語は未収載にある。
2000年12月3日(日)晴れのち曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつれみよ ふゆほしほゆふ よみれつい
何れ観よ 冬星穂夕 夜見列異
「和氣(ワケ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和」部に、
和氣(―ケ)。〔元亀本87D〕
和氣(―ケ)。〔静嘉堂本107F〕
和氣(―ケ)。〔天正十七年本上53オF〕
とある。標記語「和氣」は、語注記が未記載にある。『下學集』には、未収載であり、『庭訓徃來註』十一月十二日の状に、
和氣 彼家ハ典藥也。故至‖于今、一名‖典藥殿|也。内裡居‖于西門之前|也。〔謙堂文庫蔵六〇右@〕
とあって、語注記は、「彼の家は典藥なり。故に今に至る、一に典藥殿と名づくるなり。内裡の西門の前に居すなり」という。広本『節用集』及び、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本『節用集』には未収載にある。そうしたなかで、尭空本・両足院本『節用集』は、
和氣(―ケ)。〔尭・人名64F〕〔両・人名76E〕
と語注記は未記載だが『運歩色葉集』と同じように収載をみるのである。
2000年12月2日(土)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつれにか なべみそみべな かにれつい
孰與にか 鍋味噌実べな 蟹劣位
「大星行縢(ヲヽボシノムカバキ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠」部に、
大星行騰(ヲヽボシノムカバキ)鹿之春皮也。〔元亀本82I〕
大星行縢(ヲヽボシノムカバキ)鹿ノ春皮也。〔静嘉堂本102A〕
大星行騰(ヲホホシノムカハキ)鹿之春皮也。〔天正十七年本上50ウ@〕
大星行騰(ヲヽホシノムカハキ)鹿之春皮也。〔西来寺本148A〕
とある。標記語「大星行縢」の語注記は、「鹿の春皮なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』七月七日の状に、
大口大帷太刀長刀腰刀箙胡禝大星ノ行縢(ムカバキ) 鹿ノ春ノ皮也。〔謙堂文庫藏三九左I〕
とあって、『運歩色葉集』の語注記に合致する。広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には未収載にある。この語も『庭訓徃來註』から『運歩色葉集』が引用継承にあるものとなる。
2000年12月1日(金)朝小雨のち晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)
いつれいは ながさきさがな はいれつい
逸例は 長崎佐賀名 排列異
「染殿后(ソメドノヽキサキ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「楚」部に、
染殿后(ソメドノヽキサキ)清和天皇母。文徳天皇之后也。〔元亀本155D〕
染殿后(ソメトノキサキ)清和天皇母。天徳天皇之后也。〔静嘉堂本170C〕
染殿后(ソメトノヽキサキ)清和天皇母。文徳天皇之后也。〔天正十七年本中16ウD〕
とある。標記語「染殿后」の語注記は、「清和天皇の母。文徳天皇の后なり」という。『下學集』には未収載である。『庭訓徃來註』三月三日の状に、
監物丞源 官ハ見‖職原|。源氏ハ仁王五十六代自‖清和天王|六番目自‖貞純ノ親王|始也。仁王五十五代文徳ノ御子惟仁源氏ノ先祖也。文徳ノ子本后子惟高親王、中宮ノ后染殿ノ御子惟仁親王、兄弟位争アリ。相撲競馬有∨之。惟仁ノ齲蒋良雄長ケ不∨足‖三尺ニ|。惟高ノ名ノ虎ノ右丞尉七十五人力也。彼兩人位争ニ取ル‖相撲|也。爲‖祈祷|惟仁比叡山惠亮和尚憑焚‖護摩ヲ|。平生有‖大威コ明王ノ加護|也。惟高ハ高野山柿本ノ貴僧正ヲ憑祈祷也。是モ護摩ナリ。惟仁思食樣我微力也。不∨叶思謀以母ノ染殿泪ヲ流。僧正ノ至∨前ニ申給樣ハ、和尚ハ祈不シテ∨叶∨皈リ給テ申給ハ、其時僧正早ヤ勝ヌト思テ油斷也。其時惠亮碎ハ∨腦ヲ。二帝即ト∨位ニ云々。和尚當∨壇碎∨腦祈也。故惟仁勝也。是故僧正思死也。本尊ハ不動也。不動ノ負也。僧正ハ美人染殿ヲ見テ戀ノ心起歟。惣シテ惠亮ハ可ト∨勝定也。其ノ故ハ叡山ニハ四王ノ灰ト云物アリ。大江山酒点童子爲∨灰ト。封シテ山ニ置也。負蒔‖此ノ灰ヲ|鬼~国ニ可成爲也云々。〔謙堂文庫藏一二右E〕
とあって、「染殿」の名は見えているが、『運歩色葉集』の語注記とは異なる「惟仁親王(清和天皇)と惟高親王」の皇位争いの形態にある。この譚は、『江談抄』巻二297に見えるものである。
広本『節用集』及び印度本系統の永祿二年本・尭空本『節用集』には未収載にあるが、弘治二年本には、
染殿后(ソメトノヽキサキ) 文徳后、清和母也。一説云河原者娘故ニ云。〔人名119F〕
とあって、前半部は『運歩色葉集』の語注記を逆に配置したものであるが、後半部の「一説に云く、河原者の娘故に云ふ」という箇所の語注記は弘治二年本独自のものである。「染殿后」については、藤原良房の娘明子(文徳天皇の女御、清和天皇の母)というのが通説である。如何なるものに依拠した語注記なのかは今後の研究に待たねばなるまい。ただ、こうした風聞説を当代の古辞書には、何らかの興趣性や教学性をもって記載しようとする意図があったと思えるのである。
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