2000年12月1日から12月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2000年12月31日(日)曇り。八王子

いつみつい きよきねきよき いつみつい

和泉遂い 清き根来良き 何時三井

平江(ヒンガウタウ)平江(ヒンガウタイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「飛」部に、

平江條(ヒガウタイ)又帯。〔元亀本344@〕

平江條(ヒガウタイ)又帯。〔静嘉堂本413B〕

とある。標記語「平江條」の語注記は、「又帯」という作字についての注記である。『庭訓徃來』に「平江帯」と見え、『下學集』は、

平江絛(ヒンガウタウ) 絛。平江府ヨリ平江絛。以上七種禪家之ロノ∨物也。〔絹布97@〕

として、標記語を「平江絛」として「」の字にて表記し、そのうえで、『庭訓徃來』の「」の作字を語注記に示すのである。『庭訓徃來註』十月日日の状に、

素紗(ソ/スジヤ)ノ衣袈裟各一帖(テウ)外帽子(モウ\ホウス)沓襪(シタウツ/ナイ)柱杖(シユチヤウ)(クツ)〓〔月-榻〕(タツ)手巾(シユキン)布衫(サン)平江帯(ヒガウタイ) (タイ)ニ作。−府ヨリ出之故云――也云々。〔謙堂文庫蔵五七左@〕

とある。その語注記は「を條(タイ)に作る。(平江)府よりこれを出す故に平江帯と云ふなり云々」とあって、『庭訓徃來註』が『下學集』を引用するのだが、『庭訓徃來』が「」の作字標記語のため、語注記を「を條(タイ)に作る」と冠頭部分の語注記を変更している。そして後はそのまま継承引用する。これを広本節用集』は、

平江絛(ヒンガウタウ/タイラカ、ヱ、ヒボ・ヲミ) 絛作。又作平江〓〔巾+?〕ト|。絲縄也。曰平江府始出之。故云尓也。〔絹布門1034F〕

とあって、やはり『下學集』を継承する。このなかで気づくのは、「タウ/ヒボ・ヲミ」の字を正しく「糸」に作る「」の作字を以って示している点にある。これを『庭訓徃來註』を頂点に『運歩色葉集』も「木」に作り、「」としているのである。これは、『下學集』及び広本節用集』などが有する「點畫少異字」には未記載の文字である。また、広本節用集』は、「又作平江〓〔巾+?〕ト|。絲縄也」の語注記箇所を増補する内容にある。次に、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

平江帯(ヒンガウタイ) 又云平江(タウ)。平江府(フ)始出之。故曰平江帯。絲縄也。〔財宝衣服254A〕

平江帯(ヒンガウタイ) 帯或作。平江府ヨリ之。故曰平江帯也。絲縄也。〔財宝衣服217B〕

平江帯(ヒンカウタイ) 或帯作。平江始出之。曰―――也。糸縄也。〔財宝衣服202H〕

とあって、その語注記は、広本節用集』の有した「絲縄也」を諸本すべてが継承していてこの影響下にあるもであることが知られる。また、逆に標記語「平江絛」を「平江帯」としていて、『庭訓徃來註』を意識した標記語となっていて、そのため冠頭語注記を「帯或作」と置換し、さらには弘治二年本のごとく「又云平江」としている。ここで、唯一永禄二年本が「タウ」の作字を「」と正しく継承していることも気づかせられるのである。この点から『運歩色葉集』の語注記は、弘治二年本の冠頭語注記に近く、このような系統資料をもとに簡略化して成ったものと考えられるのである。

[補遺] 「」と「

」は、諸橋轍次著『大漢和辞典』巻八・糸部【】27465 タウ・トウ 〔集韻〕他刀切 豪[平声]《9200三》

」は、諸橋轍次著『大漢和辞典』巻六・木部【】14859 テウ・デウ 〔集韻〕田聊切 蕭[平声]《6082三》

(テウ)徒彫切。枝-條(ヲチ/\)、小枝(コエダ)也」《『大廣益會玉篇』巻第十二木部200C》※「」巻第二七糸部に未收載。

2000年12月30日(土)曇り。八王子

いつみれど つきふゆふきつ どれみつい

何時見れど 月冬苳つ どれ三井

(むち)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「無」部に、

(ムチ)周文王ス∨打馬、自是−始也。竹根犬追物ル∨〔元亀本177H〕

(ムチ)周文王進馬。以矢打馬、自是−始也。竹根−犬追用。常塗−也。〔静嘉堂本198D〕

〔※天正十七年本はこの語を欠く〕

とある。標記語「」の語注記は「周の文王に馬を進ず。矢を以って馬を打つ、是れより鞭始るなり竹根の鞭は犬追物にこれを用る。常は塗鞭なり」という。ここで、元亀本の語注記の末尾に「常は塗鞭なり」の語を欠くことが知られる。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。そして、『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

差縄等 廿八宿。依其長、短切云也。取卸(ツカ)七寸云。長二尺八寸也。本来面目剱也。文王馬進以馬、自夫始云説有。竹根鞭犬追用也。常塗鞭本也。〔謙堂文庫藏三八左D〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記がこの『庭訓徃來註』の語注記に依拠していることがこれで明らかである。広本節用集』は、

滿(ムチ/スイ)(同/ヘン)(同/)(同/サク) (同/サウ)五字同。策謀也。〔器財門461E〕

とあって、その語の表記と語注記を異にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

(ムチ)滿 三字義同。〔財宝146B〕

(ムチ)滿 三字義同。〔財宝117F〕

(ムチ) 滿 三字義同。〔財宝107E〕

とあって、広本『節用集』より二字少ないが同様の形態を見せている。ここでも『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』だけの連関となっている。

2000年12月29日(金)晴れ。八王子

いつつくと きねうすうねき とくつつい

何時搗くと 杵臼畝き 説く渟い

藤原(フヂハラ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「福」部に、

藤原(フヂハラ) 天智天皇時、鎌足大臣始賜――姓也。〔元亀本224A〕

藤原(−ハラ) 天智天王時、鎌足大臣――(セイ)ヲ|也。〔静嘉堂本256E〕

藤原(フヂハラ) 天智天皇、鎌足大臣――姓也。〔天正十七年本中57ウA〕

とある。標記語「藤原」の語注記は、「天智天皇の時、鎌足大臣始めて藤原の姓を賜はるなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』正月十五日の状に、

左衛門尉藤原 位。唐名等職原。官コトハ賞翫之義也。藤原仁王三十九代天智天皇時鎌足大臣藤原。〔謙堂文庫藏六右C〕

とあって、その語注記に「官の位。唐名等は職原に在り。官を姓の上に書くことは官を賞翫の義なり。藤原の姓は仁王三十九代天智天皇時、鎌足大臣始めて藤原の姓を賜はるなり」とし、ここには、「仁王三十九代」があるのだが、『運歩色葉集』ではこの箇所を省いて引用する。広本節用集』及びは、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、『下學集』と同じく未收載にある(広本節用集』に、「藤原都(フヂハラノミヤコ)同(倭)」〔天地門618A〕とあるのみ)。いわば、この『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とにおける連関語といえるものである。

2000年12月28日(木)晴れ。八王子⇒

いつつやも すきずきずきす もやつつい

逸艶も 好き好き好きす 靄筒井

扁鵲(ヘンジヤク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

扁鵲(ヘンジヤク)-記云。姓--君以禁方之。周-戰-國-醫也。〔元亀本52G〕

扁鵲(ヘンジヤク) 史記云。姓名越人-君以禁方傳之。周末之名醫也。〔静嘉堂本58G〕

扁鵲(ヘンシヤク)-記云。姓-桑君以禁方傳之。周末之名醫也。〔天正十七年本上30オF〕

扁鵲(ヘンジヤク) 史記云。姓(シ−)、桑君以禁方之。周之末-醫也。〔西來寺本94B〕

とあって、標記語「扁鵲」の語注記は、「史記云く。姓は秦名は越人桑君禁方を以ってこれを傳ふ。周末の戰國の時の名醫なり」という。四写本のうち、元亀本のみが「周-戰-國-醫也」と記載していて、あとの三写本はこの部分を簡略化している。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、

扁鵲(ヘンジヤク)周戰-國名-醫ナリ也。史-記扁-鵲姓(シン)、越-人(エツジン)、桑-君以禁方云。〔人名門51A〕

とある。これを『庭訓徃來註』は、卯月五日の状に、

并醫師 耆婆末流也。上念比タリ扁鵲末戦国名醫也。日本ニハ和氣丹波兩氏相傳也。浴朝恩家業嗜侍也。〔謙堂文庫藏二四右B〕

と『下學集』の語注記一部を抜粋して記載注記する。広本節用集』は、

扁鵲(ヘンジヤク)又 集字函。周末戰國之時名醫也。史記云、扁鵲名、姓越人桑君以禁方之云也。〔人名門113A〕

とあり、冠頭部分に「又 集字函」と別表記を増補する。その次に『下學集』の語注記を引用し、かつ典拠資料『史記』その注記訓読の部分を「扁鵲名、姓越人」と何か拠り所をもってか変更して記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、

扁鵲(ヘンジヤク)周末戰國之時名醫。〔弘・人名38@〕

扁鵲(ヘンジヤク)周末戦-国名醫(メイイ)也。〔永・人名37G〕

扁鵲(ヘンジヤク)周末戦-國名醫也。〔尭・人名34F〕

扁鵲(ヘンシヤク)周末戦國名醫。〔両・人名41F〕

とあって、『下學集』の語注記の冠頭部分をもって簡略記載する。その部分が『庭訓徃來註』の抜粋引用部分と同等でもある。そこで、『運歩色葉集』の語注記排列構成について見るとき、『下學集』の二文を逆転配置していることに気付くのである。何故素直に記載しなっかたのであろうか?反転させた記載意識について鑑みるに、広本節用集』の増補及び補訂が既にあり、これを引き継ぐべき印度本系統の『節用集』類における簡略化、そして、『庭訓徃來註』の抜粋と既に『下學集』の語注記そのものを少しく変更する編纂姿勢がこの語には整っていたのかもしれない。

[ことばの実際]

へんしやくか門には何かある」ととへは、「ゑんめいといふ草をうへたり。是を見る人善をまねき、悪をさり、壽命久しくのふ」といへり。《『保元物語』》

2000年12月27日(水)晴れ。八王子⇒

いつつなは むすびかびすむ はなつつい

五つ縄 結び華美清む 花筒井

畫像(エザウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「衛」部に、

畫像(エザウ)。〔元亀本336G〕

静嘉堂本は未收載。

とある。標記語「畫像」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集広本節用集』そして印度本系統の『節用集』類は、この語を未收載にする。『庭訓徃來註』卯月五日の状と九月九日の状に、

佛師 優填王仁王畫像栴檀|。佛此雕像始也。作者毘首羯摩帝尺十人臣下七番目也。其故釈迦帝尺ニ|優填王給也。其心釈迦帝尺モ/ミ羯摩道行人作_成優填王在所(ヤリ)給也。作終タリ。佛座像也。或時佛釈迦之迎行_給時釈迦曰、汝東方万八千土ルト仰也。波斯匿王優填王造佛黄金也。造像始也。内典録云、後漢明帝使秦景徃天竺月支国。得優填王雕像ヲ|。尋(ツイ)テシム洛陽。帝金-人光有ミル西天竺使秦景。日本嵯峨釈迦羯摩作也。本朝_亊奈良仁孝上人之。一条院時也。仁孝細工作_替之也。羯摩即天竺釈迦也。日本作者定朝一条院人。位法橋上人ニ|。綱位是始。其後運-慶後鳥羽院人也。其弟子湛慶安阿弥陀佛云者有。今佛師其末流。〔謙堂文庫藏二四右D〕

細金(ホソ−)各一輻 上佛師云註委。内典録、後漢明帝使秦景ス中天竺月支国ニ上。彫像|。ツイテシム洛陽|。シテ聖相。即漢土画像始也。〔謙堂文庫藏五〇左D〕

とあって、「上に佛師と云ふ註に委し。内典録、後漢の明帝のときに使秦景を天竺月支国に往す王の彫像を得る尋いで洛陽に至らしむ勅して聖相を圖す。即ち漢土の画像の始めなり」というように、その詳細は卯月五日の「佛師」の語注記に詳しく記載と示して、そのあとに、『内典録』記載の内容を示すものである。この語注記は、『釋氏要覧釈道誠(どうじょう)撰。仏教辞彙集。1019年成る。宋・天聖二(1025)年に刊行の「畫像」の語注記に見え、

畫像内典録云。後漢明帝永平七年ニ。使シメテ≡秦景ヲシテカ‖月支國ニ|。得優填王雕-像ヲ|トス第四畫樣西域ナリ洛陽。勅シテシテ‖於西-陽-城-門及顕-節-陵-上供養此_土為(ス)也。〔232@〕

とある箇所からの抜粋引用であろう。

2000年12月26日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつつろく かたひじひたか くろつつい

射つつ? 肩肘引高 玄筒射

徘徊(ハイクワイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「葉」部に、

徘徊(ハイクワイ)。〔元亀本28A〕

徘徊(ハイクワイ)。〔静嘉堂本27@〕

徘徊(ハイクワイ)。〔天正十七年本上14ウC〕

徘徊(ハイクワイ)。〔西來寺本48D〕

とある。標記語「徘徊」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

徘徊(ハイクワイ)。〔疊字159@〕

とあって、この語注記は未記載である。『庭訓徃來註』五月日の状に、

不審千万之處玉章怱到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望也 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、その語注記に、「徘徊は、我所に立ち依るの義なり」という。広本節用集』は、

徘徊(ハイクワイ/タワフル・タチモドリ、タチモドル)。〔態藝門80E〕

とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、

徘徊(ハイクワイ)徃来皃。〔弘・言語進退24F〕

徘徊(ハイクワイ)。〔永・言語23B〕〔両・言語25@〕

徘徊(ハイクワイ)−優。徃来皃。〔尭・言語20G〕

とあって、弘治二年本尭空本とに語注記が見え、この両本に共通する「徃来の皃」というのは、全く異なる注記である。当代の『日葡辞書』には、

Faiquai.ハイクヮイ(徘徊) すなわち,Vo>rai suru coto.(往来すること)所々を旅して回ること,または,いろいろな地方を巡歴すること.§Cuniguniuo faiquai itasu.(国々を徘徊致す)あちこちの国々を遊歴する、または,遍歴する.※Vo<raiの誤り.〔199l〕

とある。

2000年12月25日(月)晴れのち曇り、北風強。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつつごみ たからとらかた みごつつい

五つ埖 宝寅方 昧後筒井

金色(コンジキ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古」部に、

金色(−ジキ)。〔元亀本231A〕

金色(−ジキ)。〔静嘉堂本265B〕

金色(−シキ)。〔天正十七年本中61ウA〕

とある。標記語「金色」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、

庭訓往来註』九月九日の状に、

僧-坊-身 立像也。言立。旦那也。又後二条関白山王時北政所願御身等身薬師像各七体作被供養也。〔謙堂文庫藏五〇左A〕

とある。その語注記は、「立像なり。言は建は立つ。旦那の長と等しきなり。又、後二条の関白、山王の咎に病ひの時、北政所、願に御身等身の薬師の像、各七体を作り供養せらるるなり」という。広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、『下學集』と同じく未収載にある。そして、『運歩色葉集』にはこの語注記はないものの、この語をここから独自に収載するものとみたい。易林本節用集』には、

金剛(コンガウ) −色(ジキ) 。〔器財門157E〕

とその収載を見る。当代の『日葡辞書』にも、

Conjiqi.コンジキ(金色) Coganeno iro.(金の色)金の色.〔邦訳146r〕

とある。

2000年12月24日(日)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつつよと ふくさちさくふ とよつつい

居つゝ世と 福幸作風 豊筒居

如来(ニヨライ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「丹」部に、

如来(ニヨライ)乗シテ来。乗シテ去之心也。〔元亀本38H〕

如来(ーー)乗如来。乗如去之心也。〔静嘉堂本42B〕

とある。標記語「如来」の語注記は、「如に乗じて来る。如に乗じて去るの心なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、

如来 止観曰、垂无二来契(カナフ) ∨正覚。即如来也。〔謙堂文庫藏五〇左B〕

とあって、その語注記は、「止観に曰く、无二の智を垂れ、来正覚に契ふ。即ち如来なり」という。広本節用集』には、

如来(ニヨライ/ジヨ・ゴトシ、キタル)。〔態藝門89B〕

とあって、語注記は未記載にある。さらに、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』については未収載ある。ということで、『庭訓往来註』と『運歩色葉集』における語注記は、それぞれ異なった資料をもって注記していることになる。

2000年12月23日(土)晴れ。八王子⇒永山

いつつみか たまこにこまた かみつつい

異包みか 玉子二個又 紙筒衣

湯屋(ユヤ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遊」部に、

湯屋(ユヤ)。〔元亀本292C〕

湯屋(−ヤ)。〔静嘉堂本339B〕

とある。標記語「湯屋」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、

湯屋 風呂。北嶺自相国寺始也。陀菩薩得道故用也。〔謙堂文庫藏五〇左@〕

とあって、語注記は「風呂にあり。北嶺相国寺より始るなり。陀菩薩は湯の音に得道す。故に用いるなり」という。広本節用集』に、

湯殿(ユドノ/タウデン)浴室。又作湯屋(ユヤ)ト相國寺始也。跋陀菩薩得道風呂掛像。〔家屋門858B〕

とあって、標記語を「湯屋」から「湯殿」に置換しているが、かなり『庭訓往来註』の語注記に近似た語注記の内容であり、同一資料からの引用もしくは、この『庭訓往来註』からの引用ということになる。

[ことばの実際]

御行水候へとて湯屋へすかし入れて、橘七五郎は美濃尾張に聞えたる大ぢからなれは、くみてにて候べし。《金刀毘羅宮蔵『平治物語』下、大系262A》

御きやうすい候へとてゆとのに入奉り、橘七五郎は美濃尾張にきこえたる大ちからなれは、くみてにて候へし。《『平治物語』下、京大本》

2000年12月22日(金)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつふつや くらくもくらく やつふつい

逸物や 暗くも苦楽 八つ佛意

経蔵(キヤウくら/−ザウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「記」部に、

経蔵(−ザウ)。〔静嘉堂本325F〕

※元亀本は未収載。

とある。標記語「経蔵」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、

經藏(キヤウサウ)。〔家屋門57E〕

とあって、語注記は未記載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、

経蔵 欽明天僧聴四年辛未経自唐渡蔵立也。〔謙堂文庫藏五〇右G〕

とあって、「欽明天皇、僧聴四年辛未に、経唐より渡り、蔵を立つるなり」という。広本節用集』にも、

経蔵(キヤウクラ・ザウケイ、ヲサム)又云輪蔵(リンサウ)ト|。欽明天皇僧聴四年辛未自唐渡蔵立也。〔家屋門810E〕

とあって、冒頭語注記「又輪蔵と云ふ」が付加されているが、後半部「欽明天皇、僧聴四年辛未、唐より渡り蔵立するなり」と『庭訓往来註』の語注記に共通する。さらに、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』については未収載にあり、両足院本節用集』の「久」部に、

(クラ)經−。土−。〔天地141@〕

とあって、「經−」の語があるにすぎない。すなわち、「経蔵」の語注記において『庭訓往来註』と広本節用集』の語注記が連関していることがここでも判明する。

2000年12月21日(木)晴れ。冬至。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつついは ほしまつましほ はいつつい

一対は 星待つ真思慕 唄筒居

鐘樓(シユロウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

鐘樓(シユロウ)。〔元亀本313E〕

鐘樓(シユロウ)。〔静嘉堂本367D〕

とある。標記語「鐘樓」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』九月九日の状に見え、『下學集』には、

鐘樓(シユロウ)。〔家屋57E〕

とあって、やはり語注記を未記載にする。これを『庭訓徃來註』九月九日の状に、

鐘楼 聖武天王天平十五年大佛殿鐘数{楼ヵ}始也。〔謙堂文庫藏五〇右H〕

とあって、語注記に「聖武天王の天平十五年、大佛殿の鐘楼に始まるなり」という。広本節用集』は、

鐘楼(シユロウシヨウ・カネ、タカトノ)聖武天皇天平十五大佛殿之鐘楼立始也。〔家屋門908@〕

とあって、『庭訓往来註』とその語注記が合致する。いわば、『下學集』そして『運歩色葉集』では語注記の記載が無いことから、この注記内容は、やはり『庭訓往来註』と広本節用集』との連関性を大いに結びつけるものとしてその検証の一つとなるものである。さらに、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』については、

鐘樓(シユロウ)。〔弘・天地235B〕〔永・天地195D〕〔尭・天地185E〕

とあって、広本『節用集』の影響は見られず、いずれも語注記は未記載にあって『運歩色葉集』と共通する。

2000年12月20日(水)曇りのち小雨。八王子⇒板橋(国立国語研究所)

いつつまる かたさきさたか るまつつい

五箇円輪 肩先些高 流末墜

達磨大師(ダルマダイシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多」部に、

達磨大師(ダルマダイシ)入滅。戌申十月五日。當日本継体正和年。至天文十七戌申一千廿一年也。〔元亀本145I〕

達磨大師(――――)入滅。戌申十月五日。當日本継体正和三季。至天文十七戌申一千廿一季也。〔静嘉堂本157B〕

達磨大師(――――)入滅。戌申十月五日。當日本継体正三季。至天文十七戌申一千廿一季也。〔天正十七年本中11オ@〕

とある。標記語「達磨大師」の語注記は、「入滅。戌申、十月五日。日本の継体正和三年に當る。天文十七戌申より至る一千廿一年なり」という。『下學集』には、人名「聖徳太子」の語注記のなかに「前生テハ支那則南岳([ナン]ガク)ノ之惠思禪師也。因達磨(ダルマ)ノ指南‖-シテ于日本(コウ)ス聖徳太子」とあるにすぎない。編者東麓破衲なる人物にしてみれば禅僧として、世祖三十八世「達磨大師」を標記語に据えて語注記をしないのかと問われるところであろう。私がいささか思うところでは、この辞書編纂が『庭訓徃來』の語を基に、これを解釈する語注記を重ねていった結果として、標記語及びその語注記を未收載にしたのではないかというあくまで推論でしかない。これを広本節用集』では、

達磨(ダルマ、−ウス/イタル、ミガク)達摩祖庭亊苑。達磨単傳云々古尊宿。達麻類説。南天竺香至國王第三子也。於唐土二祖惠可禅師佛法。至ルマテ禅僧繁昌也。十月五日有入定。嵩山少林寺也。雖然其日。於葱嶺宗雲者逢下自天竺ルニ上時手隻履(カタクツ)ヲクト天竺云云。宗雲於唐土此亊。則(ヒライ)テ定中レハ只有隻履ノミ也。又日本聖徳太子於大倭國片岡逢。其時太子歌曰、支那出(テル)ヤ片岡山(ウヱ)テ(イヽ)ニ(フセ)ル旅人(タビー)(ナス)(アワレ)ヲソ。達磨返歌曰、怒(イカ)ルカヤ(トミ)ノ小川(ヲガワ)ノ(タユ)ル我大君忘(ワス)レメ御名(ミナ)ヲ。即太子與(アタ)フ御衣トヲ∨食。其明日使人見。早死スト云矣。太子有御愁歎。葬埋其死。後又太子飢人(ウヱー)ヲ不審。開(ヒライ)テ(ツチ)ヲ(ミ)レハ(ナシ)ト死骸(―ガイ)云々。今至延徳二年庚戌。八百九十九年也。又至明應三年甲寅九百六十九年也。又缺歯老胡達磨與流支三蔵論議磨斥(シリゾ)ケ相指支不偏局。以鉄如意‖_折。磨板歯。又達磨嗅字達磨初入魏時。夫持儒典徃詢問(トイトウ)。磨云、不字。但能鼻?(カギ)。諸子以論語嗅。磨嗅云、説是非底文字春秋云。血腥。嗅周易云、此天書ナリ。吾西國雖之。能以一音一字函之。 黄頭碧眼楚云迦毘羅。此云黄頭。佛生迦毘羅。故黄頭。曰、達磨紺青之色。故曰碧眼亊苑。折蘆渡江梁普通元年庚子達磨見武帝。武帝不(カナハ)。折蘆渡揚子江。到岸捨折蘆。処寺。今長蘆寺是也。 二株嬾桂般若多羅授(サツクル)達磨。偈曰、路行跨水忽羊。獨自棲々晴渡江。日下可怜双馬象。二株嬾桂久昌々。注達磨偈曰。路行武帝名ハ衍(ヱン)従行従水。故云跨水。帝不契。祖有洛陽之遊。故云逢羊。々聲近也。祖是夜航。故曰暗渡江。西來シテ梁魏二帝。故曰日下双象馬。九年面‖−壁少林。故云、二株嬾桂久昌々。久ハ九ノ聲近也。郷_言少林寺ハ魏沙門跋陀製達磨大通元年此土。會シテ武帝洛陽。止少林寺面壁九年。作普通八年誤也。〔人名門335@〕

として、ものの見事にまで詳細な語注記を施している。次に印度本系統の弘治二年本節用集』は、

達磨大師(タルマ―――)入滅。 戌申十月五日。當日本継躰正和三年。至弘治二丙辰千二十九年也。〔弘・人名101A〕

とあって、『運歩色葉集』に共通する。永祿二年本・尭空本節用集』は、未収載にある。

2000年12月19日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いついくか うたまひまたう かくいつい

何時行く歟 歌舞ひ待たう 斯くエい

「百姓(ヒヤクシヤウ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「飛」部に、

百姓(ヒヤクシヤウ)姓本。日本四姓分−其氏公家。八十氏在武家也。〔元亀本345@〕

百姓(ヒヤクシヤウ)日本四姓分作−−其廿氏公家。八十氏在武家也。〔静嘉堂本414F〕

とある。標記語「百姓」の語注記は、「姓本。日本の四姓を百姓に分ち、其の廿氏は公家。八十氏は武家に在るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

百姓(−シヤウ)日本之四姓分(ワカツ)テ百姓。其二十氏公家(クゲ)ナリ也 八十氏武家(ブケ)ナリ也。所(イハユル)(モノヽフ)八十氏(ヤソウジ)ノ(モノ)レナリ也。〔数量144A〕

とある。その語注記は、「日本の四姓を分(ワカツ)て百姓と作す。其の内、二十氏は公家(クゲ)なり。 八十氏は武家(ブケ) なり。所謂(イハユル)、物武(モノヽフ)八十氏(ヤソウジ)の者(モノ)是れなり」と注記内容も明確である。これを『庭訓徃來注』卯月五日の状に、

百姓ニハ 公家廿氏、武家八十氏末裔下庶民間云百姓。~武天皇太子有四人。刹利波羅門毘沙殊陀号。刹公家也。波武家、毘商人、殊百姓也。〔謙堂文庫藏二〇左@〕

とあって、その語注記は、「公家廿氏、武家八十氏の末裔、下って庶民と成る間に百姓と云ふ。~武天皇の太子四人有り。刹利・波羅門・毘沙・殊陀と号す。刹は今の公家なり。波は武家、毘は商人、殊は百姓なり」という。ここで『下學集』と『庭訓徃來注』とが共通する内容は「公家廿氏、武家八十氏」の部分である。広本節用集』は、

百姓(ヒヤクシヤウ/ハクセイ.モモ、ウヂ)日本之四姓分(ワカレ)テ――。其内二十氏公家(−ケ)。八十氏武家。所謂物(モノヽフ)ノ八十(ヤソ)氏者是(コレ)ナル也哉(カナ)。〔数量1037C〕

とあって、語注記は『下學集』を継承するものである。次に印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

百姓(ヒヤクシヤウ)日本之四姓(シヤウ)――。其内二十氏公家八十氏武家也。所_謂(イハユル)(モノヽフ)ノ八十氏(ヤソウチ)者是也。〔弘・人倫252A〕

百姓(ヒヤクシヤウ)日本之四姓分――。其内二十氏公-家八十氏武家也。所_謂(モノヽフ)ノ八十氏(ヤソウチ)トハ者是也。〔永・人倫215F〕

百姓(ヒヤクシヤウ)日本之四姓分作――。其内二十氏公家八十氏武家也。所謂物八十氏(ヤソシ)ト者是ナリ。〔尭・人倫201A〕

とあって、『下學集』を継承するものであり、広本節用集』と比較した時、「もののふ」を「物」としているが、ここは「物」として、『下學集』に等しい。すなわち、広本節用集』だけが異なる表記を示したものとなっている。また、古辞書類の語注記と『庭訓徃來注』の語注記が共通する内容を持ちながらも、その注記は大いに異なりを見せているものである。

[補遺] 「百姓」の語(「ことばの溜め池」1999・08.01の「百」の数)を参照されたい。

2000年12月18日(月)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)

いついなく むそじのじそむ くないつい

いつ居無く 六十の自尊 宮内つ囲

城郭(ジヤウカク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

(−クワク) 三里|。七里城。自帝尺。〔元亀本315A〕

(−クワク) 三里曰−七里城曰−。自帝尺始也。〔静嘉堂本369F〕

とある。標記語「」の語注記は、「三里を城と曰ひ七里を郭と曰ふ。帝尺より始るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。

庭訓徃來注』六月二十九日の状に、

徒黨令行于所々‖-取諸人之財産(ザイサン)ヲ‖-捕土民住宅‖-旅人之衣裳誅伐追討大將軍依‖-方々當家一族同馳‖-向彼戰場‖-城郭 三里云城、七里郭也。自帝尺始也。〔謙堂文庫藏三四右C〕

とあって、『運歩色葉集』はここから引用する。『下學集』は、

城郭(チヤウクワク)。〔家屋門54五〕

とあって、標記語「城郭」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に、広本節用集』は、

城郭 (ジヤウクワクセイ・ミヤコ・シロ、カマヱ)要害也。釋名云。城盛也。盛國都。案淮南子鯀作城。五經異儀天子之城高九仭。公侯七仭。佰五仭。子男三仭。〔天地門907@〕

とあって、その語注記を異にしている。次に印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

城郭 (ジヤウクワク)。〔天地235F〕

城郭 (ジヤウクワク)。〔天地195E〕 (ジヤウ)要害也。〔天地195F〕

城郭 (ジヤウクワク)。〔天地185D〕 (シヤウ)要害也。〔天地185H〕

とあって、標記語「城郭」には語注記は無く、「」に「要害也」と広本節用集』の語注記冒頭が見えている。また、易林本節用集』には、

城郭(ジヤウクワク)。〔乾坤202七〕

とあって、標記語「城郭」の語を収載する。

 古版『庭訓徃来註』では、
戰場(センテウ)ニ|‖-(ハキヤク)シ城郭(ヂヤウクワク)ヲ|楯籠之賊徒シト‖-要害云々。〔下9オ四〜六〕
とあって、この標記語の「城郭」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
城郭(ぢやうかうわく)破却(はきやく)し/‖-城郭。破却ハ打やふるをいふ。却の字ハ助字(じよじ)也。忘却(ほうきやく)遺却(いきやく)なといえる類と同し。城ハしろ。郭ハ城乃外かへなり。謀叛反逆の奴原(やつはら)のこもりたる城をさしていえるなり。〔39オ三〕
とあって、標記語「城郭」で、その語注記は「城ハしろ。郭ハ城乃外かへなり。謀叛反逆の奴原(やつはら)のこもりたる城をさしていえるなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
誅伐(ちうはつ)追討(ついたう)(ため)大將軍(だいしやうぐん)方方(はう/゛\)發行(はつかう)せら(る)るに(よつ)當家(たうけ)一族(いちぞく)(おなじ)(かの)戰塲(せんぢやう)馳向(はせむか)城郭(じやうくわく))破却(はぎやく)楯籠(たてこも)(ところ)(の)賊徒(ぞくと)追伐(ついばつ)要害(えうがい)警固(けいご)之可(べ)しと云云誅伐追討|。大將軍依ルニ‖-セラ方々當家一族‖-戰場‖-城郭楯籠之賊徒シト‖-要害云々城郭ハ内を城(しろ)といひ外を郭(くるわ)といふ也。〔三十一オ三・六〕
(ため)に‖誅伐(ちゆうばつ)追討(つゐたう)|。大將軍(たいしやうぐん)(よつ)て(るゝ)に∨‖-(はつかう)せら方々(はう/゛\)に當家(たうけ)の一族(いちぞく)(おなじ)く(はせ)‖-(むか)ひ(かの)戰場(せんぢやう)に|‖-(はきやく)し城郭(じやうくわく)を|(ついばつ)し(ところ)‖楯籠(たてこも)る(の)賊徒(ぞくと)を上(べ)し‖-(けいご)す要害(えうがい)を云々(うん/\)城郭ハ内を城(しろ)といひ外を郭(くるわ)といふ也。〔五十五オ三・六〕
とあって、標記語「城郭」にして、その語注記は「城郭は、内を城といひ外を郭といふなり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Iiquacu.ジャウクワク(城郭) すなわち,Xiro.(城)城.§Ioquacuuo camayuru.(城郭を構ゆる)城の周囲に防御設備をする,あるいは,城を強化する.〔邦訳369l〕
とあって、標記語「城郭」の意味を「」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
じゃう-くわく(名)【城郭】〔破は助字〕やぶること。こぼつこと。唐書、羅藝傳「藝悍寇數破却之、勇常冠軍」庭訓徃來、六月「破却城郭、追伐所楯籠之賊徒」〔1568-1〕
とあって、「城郭」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「じょう-かく【城郭】[名]@外まわりのかこい。囲い。Aある場所を敵の攻撃から守るために設けた防御施設。軍事的構造物。とりで。B城とそれをとりまく外がこい。C市街地。中国の市街は城郭に囲まれていたところからいう」として収載し、『大言海』が引用する『庭訓徃来』からの用例については未記載にする。
[ことばの実際]
是三井寺衆徒、依搆城郭也《読み下し》是レ三井寺ノ衆徒、城郭(ジヤウクワク)ヲ構フルニ依テナリ。《『吾妻鏡』治承四年五月二十七日の条》

 

2000年12月17日(日)曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)

いついなく むそじのじそむ くないつい

いつ居無く 六十の自尊 宮内つ囲

座主(ザス)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「佐」部に、

座主(サス) 文徳天皇天長二乙巳始定慈覚大師。至天文十七戌申七三四年也。〔元亀本268E〕

座主(ザス) 文徳天皇天長二乙巳始定慈覚大師。至天文十七戌申七百三十四季也。〔静嘉堂本305E〕

とある。標記語「座主」の語注記は未記載にある。この「文徳天皇、天長二(年)乙巳、始めて慈覚大師を定むる。天文十七(年)戌申至る、七三四年なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、

庭訓徃來註』十月三日の状に、

座主 日本座主叡山宗一也。座主漉言曰有司謂座主。或謂一座之主也。文徳天王始定慈覚ヲ天台座主謂也云々。〔謙堂文庫蔵五五左D〕

とあって、この語注記の末尾に「文徳天王、始めて慈覚を天台座主に定むると謂ふなり云々」とあり、この箇所に『運歩色葉集』は「天長二乙巳」といった年号と、「慈覚」に「大師」という尊称の号を付加したものとなっている。広本節用集』は、

座主(ザス/ユカ、アルジ・ヌシ)天台――。今釋氏取学解頴抜(ヱイハツ)ナルヲ、古ニハ(ヨブ)講師(カウシ)ナト|。釋氏要覧。〔人倫門775F〕

とあって、「天台座主」という語は共通しても、その語注記はその発祥についてではなく、学徳の優れた人物といった意味の注記であって、その内容を異にしている。すなわちここでは、『釋氏要覧』を引用した語注記となっている。次に印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

座主(ザス) 天台――。〔弘・人倫210B〕

座主(ザス) 天台――。〔永・人倫175A〕

座主(ザス) 天台――。〔尭・人倫163H〕

とあって、広本節用集』の語注記冒頭部を収載するといった簡略注記となっている。

[ことばの実際]

座主(−ス) 曰。有司謂座主今釋氏取学解優瞻頴抜座主。謂一座之主ナリ。《『釋氏要覧』上31C》

2000年12月16日(土)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いついろの すしめしめしす のろいつい

五色の 寿司飯召しす 鈍い費い

侍醫(ヲモトイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遠」部に、

侍醫(ーイ) 。〔元亀本79@〕

※静嘉堂本・天正十七年本・西来寺本は未記載にして、「左右」(静嘉堂本)「侍者」(天正十七年本)の語注記に、「文集侍醫著、内記局、名已上。定」と記す。

とある。標記語「侍醫」の語注記は未記載にある。この「侍醫」は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、

玉章厳旨御用望既分明也仰當道(タウ)之名醫者可奔走(カリニマカセ/コンチ)ノ 権侍――内裡雖十二人醫者逢天子御氣色輩一人也。二人歟。其人有指_合参内。則唯一人別在也。醫辺マテ也。師曰、権侍醫辺於茂登(ヲモト)藥師讀也。十二人ニテモ取分自典薬撰出シテ置也。半昇殿人也。故用歟。旁辺心也。薬佐使君臣差別佐使其験極急也。君臣其験漸々。〔謙堂文庫蔵六一右C〕

※左貫注本に、「(ゴンジ/カリニ、{ヲモトクスシトヨムナリ})ノ{ハ付字也}」と添え書きする。

とあって、この語注記のなかに「権侍醫辺於茂登(ヲモト)藥師と読むなり」とあり、「をもとくすし」という読みがここに見えている。この四字表記の中の二字をもって「侍醫」とするに、元亀本『運歩色葉集』の「をもとイ」という和語と漢語の混種読み表記がこの時代に表出してきたことが見て取れるのである。広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、未収載にある。

2000年12月15日(金)晴れ。八王子⇒有楽町(読売ホール7F)

いついごは ことぎきぎとこ はごいつい

五つ以後は 異木樹々所 葉恋つ噫

五木(ゴモク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古」部に、

五木(ーモク) 梅・桃・柳・桑・杉。又歓木。〔元亀本239H〕

五木(ーモク) 梅・桃・柳・桑・杉。又入ルヽ歓木。〔静嘉堂本276E〕

五木(ーモク) 梅・桃・柳・桑・杉。又歓木。〔天正十七年本中67ウD〕

とある。標記語「五木」の語注記は「梅・桃・柳・桑・杉。又は杉を除き歓木を入るる」という。この「五木」は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、

大薬秘薬者斟酌之亊候和薬者可参也五木 梅桃柳桑杉也。師説歡木也。〔謙堂文庫蔵六一左F〕

※天理本「テ∨{松也}ヲ|也」とし、左貫注本「{勧イ}ヲ|也」とする。

とあって、『運歩色葉集』はここからの引用であることが知られる。ただし、「歓木」を「合歓木」としている箇所が異なる。広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、『下學集』と同じく未収載にある。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との連関語ということになる。江戸時代の『書字考節用集』には、

五木(ゴモク) 桑。槐。楮。楡(ニレ)。柳。○桑。槐。桐。樗。朴。〔数量十三40C〕

とあって、室町時代の「五木」と三種乃至四種を異にしている。

2000年12月14日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

ひついよか ひよもすもよひ かよいつひ

筆弥か 終日貰ひ 通い遂ひ

土産(トサン)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登」部に、

土産(トサン)。〔元亀本54F〕

土産(トサン)。〔静嘉堂本60G〕

土産(トサン)。〔天正十七年本上31オF〕

土産(トサン)。〔西来寺本96E〕

とある。標記語「土産」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未收載にある。『庭訓徃來註』十二月晦日の状に、

隔心之至推望ニ|御氣色如何然ルニ土産 和_讀土産(ツト)也。〔謙堂文庫蔵六二左F〕

とあって、その語注記は「和_讀に土産(ツト)と讀むなり」という。広本節用集』には、

土産(トサン/ツチ、ウム)。〔態藝門137F〕

(ツト/クワ)万葉用。又作(ツト)田舎土産也。〔器財門415F〕

とあって、「土産」の語には語注記は見えない。また、「つと」だが、標記語は「」の字でしか収載を見ないが、語注記に「また裹物と作りて田舎の土産なり」として「土産」の語が見えている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

土産(トサン)。〔弘・言語進退45@〕〔永・言語45@〕〔尭・言語41F〕〔両・言語49G〕

苞魚(ツト)(同)(同) 万葉ニハ用此字。又作裹物田舎之土産也。〔弘・財宝128C〕

(ツト) 万葉ニハ此字。又作裹物田舎之土産(トサン)也。〔永・財宝105E〕

(ツト) 万葉ニハ用此字。又作裹物田舎之土産也。〔尭・財宝96@〕

(ツト) 万葉ニハ用此字。又作裹物田舎之土産也。〔両・財宝117E〕

とあって、広本節用集』を継承する。また、『庭訓徃來註』の語注記とはまったく異なるものである。そして、『運歩色葉集』の「つと」には、

(ツト)(同)(同)。〔元亀本160G〜H〕〔静嘉堂本176G〕

とあって、「」の字は未収載としている。当然語注記はない。

2000年12月13日(水)晴れ。八王子

いついみに かかさぬさかか にみいつい

斎忌みに 欠かさぬ性か 似み噎胃

講師(カウシ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

講師(カウシ)。〔元亀本96C〕

講師(カウシ)。〔静嘉堂本120@〕

講師(カウシ)。〔天正十七年本上59オB〕

講師(カウジ)。〔西來寺本171A〕

とある。標記語「講師」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』九月十五日の状に、

法服可有高座大行-道等-名僧講師 本壇法花スル也。〔謙堂文庫蔵五二左D〕

とあって、その語注記に「本壇に上り、法花を講ずるなり」という。広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には未收載にある。同時代の『塵芥』にも、

講師(カウシ)論議。歌。〔賀部・人倫門109G〕

とあって、読みは「カウシ」と清音で表記する。小学館『日本国語大辞典』には、「(古く、寺で説経する僧をいった「講師(こうじ)」)を転用した語。→こうじ」とあり、その読み方が濁音から清音に転用された尤も早い用例としてここに取り上げねばなるまい。ただし、同じく当代の『日葡辞書』には、

Co<ji.カゥジ(講師) ある原文などを読んで解釈する坊主(Bozo)。〔143l〕

とあって、「カウジ」と濁音読みを以って載録している。

2000年12月12日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いついつと きめことこめき とついつい

何時何時と 決め事篭めき 咄い終い

長老(チヤウラウ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「知」部に、

長老(チヤウラウ)。〔元亀本65F〕

長老(――)。〔静嘉堂本76G〕

長老(チヤウラウ)。〔天正十七年本上38ウC〕

長老(チヤウラウ)。〔西来寺本118A〕

とある。標記語「長老」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』十月三日の状には、

律僧者長老 長阿含曰有三長老。謂耆年長老年老法長老子違法性内智徳作長老假号肇法師曰内有可尊之故長老ト|云々。〔謙堂文庫蔵五五左@〕

とあって、その語注記は「長阿含曰く、三長老有り。謂はゆる耆年長老、年老法長老、子違法性の内に智徳有り。長老と作りて假に号す。肇法師曰く、内に智能有り。尊かるべきの故に是を長老と名づくなり云々」という。広本節用集』は、

長老(チヤウラウ・ヲサ/ナガシ、ヲイ)内|。尊名長老ト|。有長老云々。〔官位門160F〕

とあって、その語注記は上記『庭訓徃來註』の語注記と排列を前後するがその内容についてみるによく近似ている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

長老(チヤウラウ)。〔弘・人倫48G〕〔永・人倫50@〕〔尭・人倫45H〕〔両・人倫54A〕

とあって、いずれも『運歩色葉集』と同じように語注記を未記載にしている。このことから、『庭訓徃來註』と広本節用集』との間で、その連関性(共通資料からの引用乃至直接の継承引用)があったことが確認できるのである。

2000年12月11日(月)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

「已講(イカウ)

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊」部に、

已講(イカウ)教之官。〔元亀本13H〕

已講(イカウ)教之官也。〔静嘉堂本6D〕

已講(イカウ)教之官。〔天正十七年本上5ウB〕

已講(イカウ)教之官。〔西来寺本21B〕

とある。標記語「已講」の語注記は「教化の官」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には

已講(イカウ)。〔態藝84E〕

とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』十月三日の状に、

已講(イ−) 奈良衆徒官也。入為官也。論議シテ隠居スル者。〔謙堂文庫蔵五六右A〕

とあって、その語注記は「奈良の衆徒の官なり。費へを入れ官を為すなり。論議して隠居する者明瞭ぞ」という。広本節用集』には、

已講(イカウ/ヲノレ・スデニ、ハカル・マツリ)教(ケ)ニ言。〔態藝84E〕

とあって、この語注記も『運歩色葉集』と若干異なりを見せている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

已講(イカウ)。〔言語進退14A〕

已講(イカウ)。〔言語9E〕〔言語7E〕〔言語9D〕

とあって『下學集』同様、語注記は未記載にある。

2000年12月10日(日)晴れ。八王子

「有職(ユウシヨク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遊」部に、

有職(ユウシヨク)。〔元亀本293A〕

有職(ユウシヨク)。〔静嘉堂本340E〕

とある。標記語「有職」には語注記が未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

有職(ユウシヨク)。〔態藝88B〕

とあって、語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』十月三日の状に、

以下承-(−ジ)-仕等也此外有職(ユウシキ)僧綱(−カウ) 諸職拵僧云也。〔謙堂文庫蔵五六右C〕

とあって、その語注記は、「諸職を拵ふる僧を云ふなり」という。広本節用集』は、

有職(ユウシヨク/アル・タモツ、ツカサ)或作右族(ユウシヨク)ト。〔態藝門866D〕

とあって、その語注記は別表記の「右族」を記述する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

有職(ユウシヨク)。〔弘治二年本・言語進退227E〕

有道(ユウタウ)(シヨク)。〔永祿二年本・言語188G〕

有道(ユウタウ)。〔尭空本・言語178B〕

とあって、語注記は未記載にある。すなわち古辞書類はこの語に意味注記するものはない。そして、広本節用集』だけが別表記について注記するものであることがわかる。

2000年12月9日(土)晴れ。八王子

方丈(ホウヂヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「保」部に、

方丈(―チヤウ)。〔元亀本44D〕

方丈(―チヤウ)。〔静嘉堂本49C〕

方丈(―チヤウ)。〔天正十七年本上25ウC〕

方丈(―チヤウ)。〔西来寺本80E〕

とある。標記語「方丈」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』にみえ、『下學集』には未収載にある。『庭訓徃來註』十月日の状に、

御札之旨委細承候大齊之体心亊難申尽抑調菜人等无然器用間粗任愚才令註進候御布施物之亊被(ヒ)物禄物等可之候歟方丈(−チヤウ) 々々蓋寺院正寝也釈氏要覧曰、維摩東北四里維摩居士之室遺北畳石為之王以手板縦横量之得十笏。故方丈。〔謙堂文庫蔵五六左H〕

とあって、語注記「方丈は蓋し寺院の正寝なり。釈氏要覧に曰く、維摩東北四里許りに維摩居士の宅之れ疾く示し、室遺北畳み石之れを為し、王策躬、手板を以って縦横量の之十笏を得る。故に方丈と号す」という。広本節用集』には、

方丈(ホウヂヤウハウ・ミチ・カタ、ハカル)島(シマ)ノ名。又寺(テラ)ノ之丈室之名也。〔天地門94A〕

方丈(ホウヂヤウハウ・ミチ・カタ、ハカル) 蓋寺院正寝也。顯慶中王彦策徃西充(アテラル)使。至毘耶黎城東北四里維摩。策以手板縦横量之。得十笏。故号方丈。又云丈室。〔家屋門94F〕

とあって、家屋門の語注記が『庭訓徃來註』に近似ている。すなわち、『庭訓徃來註』がしめすところの典拠『釈氏要覧』という共通の資料からの抜粋であればこその近似であることから、それぞれ別途で書写であってもその可能性がないわけではない。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

方丈(ホウジヤウ)嶋名。又寺丈室。〔弘治二年本・天地31A〕

方丈(ホウヂヤウ)嶋名也。或寺丈室。〔永祿二年本・天地31E〕

方丈(ホウチヤウ)嶋名也。或寺丈室。〔尭空本・天地29A〕

方丈(ホウチヤウ)嶋名也。或寺丈室。〔両足院本・天地34A〕

とあって、広本節用集』の天地門の語注記のみを継承するに留まっている。この点からも『庭訓徃來註』と広本節用集』の連関度合いが見えてくる。

[ことばの実際]

方丈 --ナリ。始-シテ年差-衛尉-寺承李義-表前融州黄水令--シムルニ上∨西-域-使。至毘耶黎--四-里許|。維摩居士スノ_ンテ(ツクル)ヲ。王策躬(ミツカラ)‖∨ノ|縦横量ルニ-ニハ方丈。《『釈氏要覧』上二十二オ4》

2000年12月8日(金)晴れ。八王子⇒目黒(国文学資料館)

転讀(テンドク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「天」部に、

転讀(テンドク)。〔元亀本245H〕

転讀(テンドク)。〔静嘉堂本284@〕

転讀(テンドク)。〔天正十七年本中70ウF〕

とある。標記語「転讀」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。『庭訓往来註』九月九日の状に、

書写摺写御經転讀般若 慈覚大師清和天王御宇祈祷之時始也。〔謙堂文庫藏五一右A〕

とあって、その語注記に「慈覚大師、清和天王の御宇、祈祷の時始まるなり」という。これを広本節用集』には、

轉讀(テントク/ウタヽ、ヨム) 慈覚大師清和天皇御祈之時始也。〔態藝門731F〕

とあって、その語注記「慈覚大師、清和天皇御祈念の時より始まるなり」は、この『庭訓往来註』の語注記に近似ている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

轉讀(テンドク)。〔弘治二年本・言語進退199G〕

轉讀(テンドク)―閲(エツ)。―位(イ)。―經(キヤウ)。〔永祿二年本・言語164H〕

轉讀(テントク)―閲。―位。―經。―変。〔尭空本・言語154B〕

とあって、『運歩色葉集』と同じく語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』の「轉讀」の語注記は、ここでは、広本節用集』と関わりを見出せるものとなった。

2000年12月7日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつなりと ゆめみきみめゆ とりなつい

何時なりと 夢見て観め遊 採り菜摘い

傷寒(シヤウカン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

傷寒(―カン)。〔元亀本309I〕

傷寒(―カン)。〔静嘉堂本362A〕

とある。標記語「傷寒」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。『庭訓徃來註』十一月十二日の状に、

(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟。癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、語注記に「三日に過ぐるを傷寒(カン) と云ふ」という。広本節用集』には、

傷寒(シヤウカン/ヤブル、サムシ)。〔支體門923B〕

とあって、やはり語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、標記語も未収載にある。このように、『庭訓徃來註』の「傷寒」の語注記は、古辞書群には採録されていない。当代の『日葡辞書』に、

Xo<can.シヨウカン(傷寒) Canni yabururu.(寒に傷るる)寒さがもとで起こる病気.〔邦訳788r〕

とある。

2000年12月6日(水)晴れ。八王子

いつむらに たはたにたはた にらむつい

五邑に 田圃に田園 睨む堆

養生(ヤウジヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「屋」部に、

養性(ヤウジヤウ)。〔元亀本202A〕

養性(ヤウジヤウ)。〔静嘉堂本228E〕

養性(―シヤウ)。〔天正十七年本中44オD〕

とある。標記語「養性」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未収載にある。『庭訓徃來註』十一月十二日の状に、

針治湯治術治養生之達者大切之亊候 養生法、可座伸一-脚一脚、以兩手ロニ反掣各可三五度ス|。亦跪シテ兩手(サヽヘ) 回-顧シテ力虎視ルコト各三五度能去脾臓積風邪食也。〔謙堂文庫蔵六〇左@〕

とあって、その語注記に「養生の法、大いに一脚を伸ばし、一脚を屈む、兩手を以って、後ろに向き反り掣きて、各三五度すべし。また跪づきて、座して兩手を以って地を拒へ、回顧して力を用ゆ。虎視ること各三五度、能く座すべし。脾臓積、風邪を去りて食を喜ばすなり」という。広本節用集』には、

養生(ヤウジヤウ/ヤシナフ、セイ・イキル・ムマルヽ)又作養性。〔態藝門560F〕

養性(ヤウジヤウ/ヤシナフ、セイ・コヽロ)。〔態藝門635A〕

とあって、上記の「養生」には、「養性」の表記が用いられることを「また養性に作る」と示す。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

養生(ヤウジヤウ)又作養性。〔弘・言語進退167D〕

養育(ヤウイク)―(ジヤウ)。〔永・言語136F〕

養育(ヤウイク)―。〔尭・言語125F〕

とあって、少なくとも弘治二年本は、広本節用集』を継承するものである。そして、『庭訓徃來註』の「養生の法」すなわち現代風にいえば「健康法」は、いずれの古辞書にも採用されなかったのである。当代の『日葡辞書』に、

Yo<jo<.ヤゥジャゥ(養生・養性) 病人に対する心くばり,あるいは,病気にかかっているのでなくても,健康に対して払う注意.この語は,病気に使用される薬の意に用いられるだけである。→Cuuaye,uru(加へ,ゆる).〔邦訳826r〕

とある。

2000年12月5日(火)晴れ。朝初霜。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつごろか ゆきふりふきゆ かろごつい

何時頃か 雪降り吹きゆ 火炉後費

下文(クダシブミ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

下文(クダシブミ)將軍所帯時、先肩下之字也。其次。地之分限等、年号、月日也。有判。〔元亀本195I〕

下文(クダシフミ) 自將軍。所帯時、先肩被書下之字也。其次。地之分限等、年号月日也。有袖判也。〔静嘉堂本221G〕

下文(クタシフミ)(ヨリ)將軍所帯〓〔日+之〕、先肩被書下之字也。其次。地之分限等、年号月日也。有袖判也。〔天正十七年本中40ウ@〕

とある。標記語「下文」の語注記は、「將軍より所帯を時、先肩に下の字を書れるなり。其の次に、地の分限等、年号月日なり。袖判有るなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

仰御下文御教書巌重(テウ)之間 御下文將軍所帯時、先肩云字書。其_次如何様之依忠節如何程出スト分限。判(スヘ)給也。又御教書將軍・官領奉行衆談合シテ状也。或本馬殿出状也。惣シテ將軍出状三也。御教書・奉書・内書也。此内御教書賞翫也。奉書將軍御意|、奉行人我名_判、我則与一字書出也。内書奉行談合將軍意計也。又御下文トハ々々々云三字書其_下御判有。自国司奉書、自官-領ヲモ奉書。自守護ルヲ遵行。自代官打渡也。〔謙堂文庫蔵一六左G〕

とあって、「御下文將軍より所帯を給ふ時、先肩に下と云ふ字を書く。其の次に如何様の忠節に依て何の地を如何程出すと分限に書く。判を袖に陶(スヘ)給ふなり」とあって、下位部に若干の異なりがあるが、ここからの引用である。広本節用集』及び、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には『下學集』同様、未収載にある。

[ことばの実際]

来淀津云々。解文下文。一日史生秦福充所持来也。《『明衡往来』中末》

2000年12月4日(月)晴れ、風冷たし。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつしきと しみらにらみし ときしつい

一色と 繁ら睨みし 時失意

施薬院(セヤクイン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢」部に、

施薬院(セヤクイン)。〔元亀本356A〕施薬院(セヤクイン)トハ光明皇后立之。京悲田院是也。非人千人皇后自沐浴給也。〔元亀本356C〕

施藥院(―――)。〔静嘉堂本431E〕施藥院(―――)光明皇后立之。京悲田院是也。非人千人皇后自沐浴給也。〔静嘉堂本433@〕

とある。ここで標記語が両本ともに重複し、後の方に語注記として、「光明皇后之れを立つ。京の悲田院是れなり。非人、千人に皇后より沐浴を給ふなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に未収載にある。『庭訓徃來註』十一月日の状に、

施藥院然仁拳達。 自聖武天王光明皇后起也。施藥之字心醫師ルニ、京七口ニシテ无-縁藥、然シテ、名上品薬師也。悲田院之建立天-下非人施行也云々。〔謙堂文庫蔵六〇右G〕

とあって、その語注記は、「聖武天王光明皇后より起るなり。施藥の字心は醫師を習ひ始るに、京七口にして无-縁の者に藥を施こし、然して後に、上品薬師と名づくるなり。京の悲田院の建立も天下の非人を施行するなり云々」として、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』の筋内容はその起源を注記する点で類似するものの、記述の詳細箇所「非人千人自沐浴給也」などに異なりが見えている。これは拠所を別にするか、はたまた『運歩色葉集』の編者が独自に書き換えしたものかは定かでない。広本節用集』及び、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には未収載にある。

 拾芥抄』巻中の「諸院」には、

施藥院 唐橋南室町西云々施藥院同処也。東五条藤氏先祖申納諸國薬種。養病人所也。有使以弁 判官 主典イ及外記為別當。

悲田院 在鴨川西畔・施藥院別所也。養孤子・病者也。延喜左右京職式云。凡京中之路邊病者孤子仰九ケ條令。其所見遇。隋使必取送施藥院、及悲田院

と記載されている。因みに、『運歩色葉集』にも標記語「悲田院」の語は未収載にある。

2000年12月3日(日)晴れのち曇り。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつれみよ ふゆほしほゆふ よみれつい

何れ観よ 冬星穂夕 夜見列異

和氣(ワケ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「和」部に、

和氣(―ケ)。〔元亀本87D〕

和氣(―ケ)。〔静嘉堂本107F〕

和氣(―ケ)。〔天正十七年本上53オF〕

とある。標記語「和氣」は、語注記が未記載にある。『下學集』には、未収載であり、『庭訓徃來註』十一月十二日の状に、

和氣 彼家典藥也。故至于今、一名典藥殿也。内裡居于西門之前也。〔謙堂文庫蔵六〇右@〕

とあって、語注記は、「彼の家は典藥なり。故に今に至る、一に典藥殿と名づくるなり。内裡の西門の前に居すなり」という。広本節用集』及び、印度本系統の弘治二年本永祿二年本節用集』には未収載にある。そうしたなかで、尭空本・両足院本節用集』は、

和氣(―ケ)。〔尭・人名64F〕〔両・人名76E〕

と語注記は未記載だが『運歩色葉集』と同じように収載をみるのである。

2000年12月2日(土)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつれにか なべみそみべな かにれつい

孰與にか 鍋味噌実べな 蟹劣位

大星行縢(ヲヽボシノムカバキ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遠」部に、

大星行騰(ヲヽボシノムカバキ)鹿之春皮也。〔元亀本82I〕

大星行縢(ヲヽボシノムカバキ)鹿春皮也。〔静嘉堂本102A〕

大星行騰(ヲホホシノムカハキ)鹿之春皮也。〔天正十七年本上50ウ@〕

大星行騰(ヲヽホシノムカハキ)鹿之春皮也。〔西来寺本148A〕

とある。標記語「大星行縢」の語注記は、「鹿の春皮なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』七月七日の状に、

大口大帷太刀長刀腰刀箙胡大星行縢(ムカバキ) 鹿皮也。〔謙堂文庫藏三九左I〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記に合致する。広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には未収載にある。この語も『庭訓徃來註』から『運歩色葉集』が引用継承にあるものとなる。

2000年12月1日(金)朝小雨のち晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

いつれいは ながさきさがな はいれつい

逸例は 長崎佐賀名 排列異

染殿后(ソメドノヽキサキ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「楚」部に、

染殿后(ソメドノヽキサキ)清和天皇母。文徳天皇之后也〔元亀本155D〕

染殿后(ソメトノキサキ)清和天皇母。徳天皇之后也〔静嘉堂本170C〕

染殿后(ソメトノヽキサキ)清和天皇母。文徳天皇之后也。〔天正十七年本中16ウD〕

とある。標記語「染殿后」の語注記は、「清和天皇の母。文徳天皇の后なり」という。『下學集』には未収載である。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

監物丞源 職原。源氏仁王五十六代清和天王六番目自貞純始也。仁王五十五代文徳御子惟仁源氏先祖也。文徳子本后子惟高親王、中宮染殿御子惟仁親王、兄弟位争アリ。相撲競馬有之。惟仁蒋良雄長三尺ニ|。惟高右丞尉七十五人力也。彼兩人位争ル‖相撲也。爲祈祷惟仁比叡山惠亮和尚憑焚護摩。平生有大威コ明王加護也。惟高高野山柿本貴僧正憑祈祷也。是護摩ナリ。惟仁思食樣我微力也。不叶思謀以母染殿流。僧正申給樣、和尚祈不シテ申給、其時僧正早ヌト油斷也。其時惠亮碎。二帝即云々。和尚當壇碎腦祈也。故惟仁勝也。是故僧正思死也。本尊不動也。不動負也。僧正美人染殿心起歟。惣シテ惠亮勝定也。其叡山ニハ四王云物アリ。大江山酒点童子爲ト。シテ置也。負蒔鬼~国可成爲也云々。〔謙堂文庫藏一二右E〕

とあって、「染殿」の名は見えているが、『運歩色葉集』の語注記とは異なる「惟仁親王(清和天皇)と惟高親王」の皇位争いの形態にある。この譚は、『江談抄』巻二297に見えるものである。

 広本節用集』及び印度本系統の永祿二年本尭空本節用集』には未収載にあるが、弘治二年本には、

染殿后(ソメトノヽキサキ) 文徳后、清和母也。一説云河原者娘故云。〔人名119F〕

とあって、前半部は『運歩色葉集』の語注記を逆に配置したものであるが、後半部の「一説に云く、河原者の娘故に云ふ」という箇所の語注記は弘治二年本独自のものである。「染殿后」については、藤原良房の娘明子(文徳天皇の女御、清和天皇の母)というのが通説である。如何なるものに依拠した語注記なのかは今後の研究に待たねばなるまい。ただ、こうした風聞説を当代の古辞書には、何らかの興趣性や教学性をもって記載しようとする意図があったと思えるのである。

 

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