2001年2月1日から2月28日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2001年2月28日(水)曇り。八王子→世田谷(駒沢)

「獵師(レウシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「礼」部に、

獵師(レウシ/マスラヲ)。〔元亀本149B〕

獵師(レウシ/マスラヲ)。〔静嘉堂本162D〕

〔天正十七年本は「礼」部は未収載〕

獵師(カリヒト)。〔天正十七年本上61オD〕

とある。標記語「獵師」の語注記は、未記載にある。『庭訓往来』に見え、『下學集』に、

獵師(リヨウシ)。〔人倫39E〕

とあって、語注記を未記載にする。広本節用集』も、

獵師(レフシ/カリ、モロ/\)。〔人倫門374G〕

とあって、語注記を未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

獵師(レウシ)。〔・人倫114G〕〔・人倫98E〕〔・人倫89D〕

庭訓徃來註』卯月五日の状に、

深草土器作葺主 (フキシ)壁塗猟師狩人 猟師下知ヲスル者也。下知付者狩人也。〔謙堂文庫藏二一左E〕

とあって、「猟師は狩をなさず、狩の道を知りて下知する者なり。下知に付く者狩人なり」と注記し、「猟師」と「狩人」との定義づけの説明をしている。ここでいう「狩の道」とは、獲物を狩猟する方術全般を意味し、狩場にて実際に指示する役割を担うのが「猟師」ということになる。そして、この指示に従って獲物を狩る者を「狩人」というのである。時代は降って、江戸時代の頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

猟師狩人(れうし,かりうど)▲猟師狩人ハ共に禽獣(とりけたもの)を駈(か)る者〔二十オ三〕〔三五ウ一〕

とあって、語注記を「猟師狩人ハ共に禽獣(とりけたもの)を駈(か)る者」として、両者共通のものと見て、職能の識別を示していないのである。この意識は、当代の『日葡辞書』に、

Reexi.リョウシ(猟師・漁師)狩人,または,漁師.〔邦訳530r〕

とあって、『庭訓徃來註』のような意味付けが既になされていないことを知る。その意味からもこの語注記は、「狩人」と「猟師」を細密に区分した内容を有する点で貴重である。

[ことばの実際]

獵師 内典云譬如群鹿怖畏〓〔犬+葛〕師涅槃文一謂〓〔犬+葛〕者和名加利比止十卷本和名類聚抄』卷二10オ八》

2001年2月27日(火)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「掲焉(イチジルシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊」部に、

掲焉(イチシルシ/ケツエン)史記。文選。〔元亀本13F〕

掲焉(イチシロク)史記。文選。〔静嘉堂本6B〕

掲焉(イチシルキ)史記。文選。〔天正十七年本上5ウ@〕

掲焉(――)史記。文選。〔西来寺本17A〕

とある。標記語「掲焉」の読みは、「いちしるし」「いちしろく」「いちしるき」と多様で、語注記は『史記』『文選』と典拠を示すものである。『庭訓徃來』『庭訓徃來註』八月十三日の状に、

ス‖如在之儀ヲ|~感(カン)之興(ケウ)厳重之態(ワサ)_掲焉(カツエン/イチシルシ){アラタト云意也}耳目之所及不禿筆(トク)ニ|只仰高察而已恐々謹言〔謙堂文庫蔵四九右E〕

とあって、冠頭部書込みに「あらたと云ふ意なり」という。これを『下學集』は、未収載にする。広本節用集』は、

掲焉(イチジルシ/ケツヱン、カヽグ・イヅクンゾ)明白義也。〔態藝門35C〕

とあって、その語注記を「明白の義なり」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

掲焉(イチジルシ)明白(メイハク)ノ義。史記文選用此字。〔・言語14B〕

掲焉(イチジルシ)明白(メイバク)ノ義也。史記文選此字。〔・言語11F〕

掲焉(イチジルシ)明白義也。史記文選用此字。〔・言語9A〕

とある。語注記は、広本節用集』の語注記に見える「明白の義なり」を示し、この後に「史記文選、この字を用ゆ」とあって、『運歩色葉集』の語注記と共通する。ただし、「この字を用ゆ」の部分は増補となるか、または、『運歩色葉集』がこのような語注記を簡略表記したかは、即断しがたい状況にある。

2001年2月26日(月)晴れ風あり。八王子→世田谷(駒沢)

「築地(ツイジ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「津」部に、

築地(―チ)。〔元亀本157C〕

築地(ツイヂ)。〔静嘉堂本172D〕

築地(ツイチ)。〔天正十七年本中17ウE〕

とある。標記語「築地」の語注記は、未記載にある。『下學集』は、

築地(ツイヂ)。〔家屋55B〕

とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状には、

奉行早四方_|。其内可築地 史記曰、秦始皇始令下∨蒙-怙長安以禦胡人也。〔謙堂文庫蔵一四左E〕

とあって、その語注記に「『史記』に曰く、秦の始皇始めて蒙怙に長安を築かしめ、以って胡人を禦ぐなり」という。これを広本節用集』は、

築地(ツイチク・キツク、ツチ)自(シン)ノ始皇之時始也。〔家屋門410D〕

とあって、語注記に「秦の始皇の時より始る」で『庭訓徃來註』の語注記に類似する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、

築地(ツイヂ)。〔・天地125C〕〔・天地103A〕〔・天地93E〕〔・天地113G〕

とあって、これも語注記は未記載としている。いわば、広本節用集』と『庭訓徃來註』とが連関する語であり、『庭訓徃來註』の語注記内容をより簡略化したものが広本節用集』の語注記となっている。当代の『日葡辞書』に、

Tcuigi.ツイヂ(築地) 練土で作った塀,あるいは,土塀. ⇒Tcuifigi.〔邦訳627r〕

とあって、「ついひぢ【築泥】」ともいうことを示唆している。

[ことばの実際]

彼丸山の麓に、棟門高き家あり。「此家に立ち越え、宿取らばや」と思ひ、堀の船橋うち渡り、笈を梅花に寄せ掛け、内の体を見たりければ、古は由有人の住みけるが、住荒らしたると思しくて、門はあれども戸びらなし、築地(ついぢ)はあれども覆ひもなく、瓦も軒も朽ち果てて、旧苔は門を閉ぢ、葎は壁を争ひて、軒の檜皮は毀れ落ち、ちり/\水は漏り行けども、掬びて止むる人はなし。《舞の本『八島』新大系406A》

2001年2月25日(日)晴れ風あり。八王子→世田谷(玉川⇒駒沢)

「五穀(ゴコク)」と「稗(ひえ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古」部に、

五穀(―コク) 粟(アハ)。黍(キビ)。豆(マメ)。稲(イネ)糯。麥(ムギ)。麻(アサ)。〔元亀本238H〕

五穀(―コク) 粟。黍。豆。稲糯。麥。麻。〔静嘉堂本275C〕

五穀(―コク) 粟(アワ)。黍(キヒ)。豆(マメ)。麥(ムキ)。麻(アサ)。稲糯(モチ)。〔天正十七年本中66ウC〕

とあり、天正十七年本だけが語注記の排列を異にしている。語注記は「粟。黍。豆。稲糯。麥。麻」という。『下學集』は、

五穀(ゴコク) 一ニハ粟黍(アハヒエ)ノ(ルイ)。二ニハ稲糯(ウルチゴメ)ノ(ルイ)。三ニハ(マメ)ノ類。四ニハ(アサ)。五ニハ(ムギ)。是(コレ)ナリ也。〔數量143D〕

とあって、その語注記は、「一には粟黍(アハヒエ) の類(ルイ)。二には稲糯(ウルチゴメ)の類(ルイ)。三には豆(マメ)の類。四には麻(アサ)。五には麥(ムギ)。是(コレ)なり」という。これを広本節用集』は、

五穀(ゴコク/イツヽ、アワ・コメ) 神農始作(ツク)ル。一ニハ粟黍(アハキヒ)類。二ニハ稲糯(―モチ)ノ類。三豆類。四ニハ(アサ)。五麥(ムギ)。是也。〔數量門664E〕

とあって、『下學集』の語注記の冠頭部に、「神農始めて作る」の注記を増補している。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

五穀(ゴコク) 一粟黍(アハキビ)類。二稲糯(イネモチイ)。三豆類。四麻(アサ)類。五麥(ムギ)類。是也。〔・草木185F〕

五穀(ゴコク) 一ニハ粟黍(アハキビ)ノ類。二稲糯(―モチ)ノ類。三類。四(アサ)ノ類。五類也。〔・草木152B〕

五穀(ゴコク) 一ニハ粟黍類。二稲糯類。三豆類。四麻類。五麦類也。〔・草木142A〕

とあって、語注記の記載内容は、沓尾部の「是也」を継承するのは弘治二年本のみであり、他二本は、これを削除して概ね『下學集』を継承している。

 これを『庭訓徃來』及び『庭訓徃來註』三月三日の状に見るに、

 五穀楊泉物理論曰、黍・・麥・稲・麻也。穀實也。續也。續云々。〔謙堂文庫蔵一四右G〕

とあって、楊泉の『物理論』を典拠として、「五穀」を「黍・・麥・稲・麻」として、その排列も異なり、大きなる異なりとしては、「」を「」に置換していることにある。そこで、『運歩色葉集』の「飛」部と補遺「草花名」部を見るに、

〓〔艸+稗〕(ヒエ)。()。〔元亀本346E〕 (ヒエ)。〔元亀本381D〕

(ヒヱ)。〔静嘉堂本459G〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にある。ここで、古辞書と『庭訓徃來註』の語注記とで大きなる異なりを見せている。すなわち、『庭訓徃來註』の編者は、『下學集』をもってこの語を示さず、また、『節用集』類及び『運歩色葉集』は、この語に関する限り、『庭訓徃來註』の語注記を受け入れることなく、あくまで『下學集』を継承するのである。この背景にはこの語が『庭訓徃來』に採録所載されていないことも大いに影響しているのであるまいか。因みに、室町末期写の『名數語彙』(静嘉堂文庫蔵・原装影印版古辞書叢刊、雄松堂書店刊)には、

五穀 一粟黍類。二糯稲類。三連豆類。四麻。五麦也。

とある。これは印度本系統の『節用集』類に比例する所載状況というところである。当代の『日葡辞書』には、

Gococu.ゴコク(五穀) 五つの種子,または,穀物.すなわち,Come,mugui,aua,qibi,fiye.(米,麦,粟,黍,稗) 米,小麦・大麦,粟,黍,および黒い色をした一種の黍.〔邦訳304r〕

とあって、この記述内容は、「豆」を含まない点では『庭訓徃來註』の語注記内容「黍・・麥・稲・麻」に近似ている。ただし、「麻」が「粟」となっている点をもってすれば、これもまた別種の資料に依拠しているのである。

2001年2月24日(土)小雨。八王子→世田谷(駒沢)

「麦(むぎ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺「草花名」部に、

(ムギ/カチカタ)。〔元亀本381C〕

(ムギ)。〔静嘉堂本459G〕

とある。標記語「」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』、『庭訓徃來註』三月三日の状に、

次畠蕎麥(ソハ) (原註三) 玉篇云、俗作。仁王卅(サン)代欽明天王御宇善光寺之如來渡之也。小麥合湯皆用之。熱家療也。作〓〔麦+正〕則温明麥亦當如此。終南山生也。〔謙堂文庫蔵一四右C〕

とあって、「麥は玉篇云く、俗にに作る。仁王卅(サン)代、欽明天王の御宇、善光寺の如來之れを渡すなり。小麥・合湯、皆之れを用ゆ。熱家療なり。〓〔麦+正〕に作る。則ち温明麥、亦當に此くの如し。終南山の下に生ずるなり」という。広本節用集』は、

(ムギ/バク)玉篇云。俗作麦。異名、西岐。割髪(カツハツ)。翠芒。斗牟。〔草木門459F〕

とあって、『庭訓徃來註』の語注記の冠頭部に共通している。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

(ムギ) 麦同。〔・草木145C〕

(ムギ) 。〔・草木116E〕

(ムキ) 。〔・草木106D〕

(ムギ/バク) 。〔・草木129D〕

とあって、弘治二年本だけが、正俗両表記を記載するに留まり、他三本は、すべて俗字のみをもって標記語としている。

2001年2月23日(金)晴れ。「冨士山」の日。八王子→戸越(国文学資料館)

出番待つ 白き看板 春の風

「勤仕(キンジ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣」部に、

勤仕(―シ)。〔元亀本284B〕

勤仕(キンジ)。〔静嘉堂本328G〕

とある。標記語「勤仕」の語は、「勤労(キンラウ)式」と「勤旧(―キウ)僧位」との間に排列されていて、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』、

庭訓徃來註』三月三日の状に、

仰下之条々怠慢勤仕忠賞之旨所承也恐々謹言 賞玄番允政所殿此召レハ賞也。知スル告也。〔謙堂文庫蔵一六右G〕

とあって、この語には語注記は見えない。『下學集』は、この語を未收載にする。広本節用集』は、

勤役(キンヱキ/ツトメ、ツカイ)。勤仕(―/ツカマツル)。勤功(―コウ/ツトム)。勤労(―ラウ/イタワル、ツカルヽ)。勤學(―カク/マナブ)。勤舊(−キユウ/フルシ)僧之位。勤厚(―コウ/アツシ)忠節義也。〔態藝826D〕

とあって、「勤」を冠頭にする熟語は七語と多い。そのなかで「勤仕」には語注記を未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

勤旧(キンギウ)僧位。〔・言語進退221E〕

勤旧(キンギウ)僧位。―仕(ジ)。〔・言語185C〕

勤旧(キンギフ)僧位。―仕。〔・言語174E〕

とあって、永祿二年本・尭空本節用集』は、「勤仕」を標記語「勤旧」の語注記に収める形態となっていて、弘治二年本節用集』は、これを未記載としている。

2001年2月22日(木)晴れ。八王子→板橋(国立国語研究所)

出番待つ 白き看板 春の風

「四本懸(シホンがかり)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

四本懸(―――) 鞠者表蚩尤頸蹴之。自唐日本渡亊天智天皇飛鳥井家ヘハ為勅定渡也号日月号陰陽ト|赤白二也切立間軒之間二丈。其内者略柳櫻松楓木也。懸南向也。丑乕辰巳未申戌亥松也。惣而此分也。藤原雅経始之至雅俊九代也。又切立八間一丈八尺也。自縁五尺退之屋也。〔元亀本68G〕

四本懸(――カヽリ) 鞠者表蚩尤之。自唐日本渡亊天智天皇御代飛鳥井家為勅定渡也号日月号陰陽赤白二也切立間廣二丈三尺也。軒之間二丈。其内者略柳・櫻・松・楓式木也。懸也。丑乕辰巳未申戌亥松也。惣而此分也。藤原始之至雅俊九代也。又切立間一丈八尺也。自縁五尺退之可然也。小児之説注之。〔静嘉堂本388E〕

とある。標記語「四本懸」の語注記は、「鞠は蚩尤の頸、之れをるを表す。より日本天智天皇の御なり飛鳥井家へは勅定して渡せらるるなり。また日月と号す。また陰陽と号す。しかるに赤白の二つなり切立の間、軒の間二丈。其の内は略なり柳・櫻・松・楓の木なり。懸りは南向なり。丑乕に櫻辰巳に柳未申に楓戌亥に松なり。惣じて此く分るなり。藤原雅経之れを始として雅俊九代に至るなり。また切立八間は一丈八尺なり。縁より五尺之れを退る屋{然るべき}なり。{小児の説、これを注す}」という。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

同可_東向者構蹴鞠之坪四本懸 鞠之亊左親衞員外藤原雅経卿撰書云。先養也。初ニハ蚩尤之。自唐日本渡亊仁王卅九代天智天王相傳飛鳥井勅定也日月陰陽赤白二也切立丈数者二丈三尺。隘(せ―) 二丈。略義也。木大ナラハ寸分中角ヨリ取也。間二丈隘一丈五尺也。凡軒定秘亊也。木柳櫻松楓、是。雜木栽交亊无子‐細。雜木榎柿桃也。南向。木栽樣丑乕辰_巳未申戌亥松也。縦東北此可栽也。同木一所栽則角_栽。木透亊。下烏帽子碍樣。坪三方義也。朝者東。昼南。夕西也。雅経雅俊九代也。〔謙堂文庫蔵一五右G〕

とあって、この部分からの抜粋引用となっている。これを『下學集』は「蹴鞠」を収載し、この語を未收載にする。広本節用集』は、

蹴鞠(シフキクのツボ/ケル)四本懸也。〔天地門907A〕

として、「四本懸」を語注記にして、標記語としては、『庭訓徃來』の前の語である「蹴鞠」を置いている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』にも、

蹴鞠坪(シウキクノツボ)四本懸。〔・天地235C〕

蹴鞠坪(シユウキクノツボ)四本懸(カヾリ)。〔・天地195F〕

蹴鞠(シウキク)四本懸。〔・天地185F〕

とあって、広本節用集』に等しい。ただ、尭空本節用集』が「蹴鞠」としてこの語注記を記載することが異なりとなっている。このように、『運歩色葉集』と『庭訓徃來註』にあっては『節用集』類より密接な収載のつながりを読み取ることができるのである。

[ことばの実際]

柳、桜、松、楓、四本懸りの庭の内、くるり/\と追ひ廻り、池の汀の戦ひに、山鳥水鳥蹴立てゝ、見參所、対の屋、中門、面廊、遠侍、込み入つ、込み出つ、武藏が棒に当るもの、生きて帰るはなかりけり。《舞の本『堀川夜討』新大系367B》

2001年2月21日(水)晴れ。八王子→浅草橋

「廳庭(チヤウテイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「地」部に、

廳庭(ーテイ) 政所屋之亊。〔元亀本68G〕

廳庭(チヤウテイ) 政所屋之亊。〔静嘉堂本81C〕

廳庭(ーテイ) 政所屋亊。〔天正十七年本上40ウF〕

廳庭(ーテイ) 政所屋亊。〔西來寺本125@〕

とある。標記語「廳庭」の語注記は、「政所の屋の亊」という。これを『庭訓徃來註』十二月の状に、

着府吏務(リム)法儀无ナル子細在廳人等日_(ナミ)ノ出仕恒例奉行无ン‖等閑椀飯盛(ワウハムモリ)物積物以下尽シ‖景物雜亊厨(クリヤ)調(トヽノヘ) ‖種々美物ヲ|廳庭(チヤウ−)ノ経営 政所之屋廳庭ト|也。〔謙堂文庫蔵六四右C〕

とあって、この語注記にまさに合致する。『下學集』は、この語を未收載にする。広本節用集』は、「朝庭(テウテイ)」の語であり、異なっている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本節用集』にも、「朝廷(チヨウテイ)・(チウテイ)」とあって、異なった表記にある。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』といった繋がりがこの標記語及び語注記から検証できるのである。

2001年2月20日(火)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「浅黄(あさぎ)」と「萌黄(もえぎ、もよぎ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「阿」部に、

淺黄(アサギ) 。〔元亀本257G〕

浅黄(アサギ) 。〔静嘉堂本291A〕

とある。標記語「浅黄」の語注記は未記載にある。『下學集』には、

淺黄(アサギ) 〓〔糸+相〕(モヨキ)也。〔彩色136F〕

とあって、その語注記に「〓〔糸+相〕(モヨキ)なり」という。広本節用集』は、

淺黄(アサギセンクワウ) 〓〔糸+相〕也。〔光彩門750A〕

とあって、分類門の名称を「彩色」から「光彩」へと変更しているが、その語注記は共通している。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

淺黄(アサキ) 〓〔糸+相〕(モヨキ)也。〔・色字205@〕

淺黄(アサギ) 〓〔糸+相〕也。〔・財宝170@〕

淺黄(アサキ) 〓〔糸+相〕也。〔・財宝159D〕

とあって、その分類門はそれぞれ別にし、さらに読みも「あさぎ」から「あさき」と清音で表記される資料も見えてきている。これを『庭訓往來』、『庭訓徃來註』七月日の状に、

(カキ)浅黄 水色紋付。〔謙堂文庫藏三九左F〕

とあって、その語注記によれば「水色の紋付」という。

 ここで実際の色を考えて見るに、『下學集』そして『節用集』類の語注記に見える「〓〔糸+相〕」の字は、慶長十五年版倭玉篇』《下441B》によれば、音「シヤウ」、和訓「モヨギ」とあって、『下學集』の読みにも合致する(白河本字鏡集』では、この字の和訓を「ヌヒモノ、イハノハシ」《796B》として異なる訓である。さらに、観智院本類聚名義抄』には「色状 又相/桑初生色」《法中122C》、「襄(シヤウ)。浅黄色。クハシ、ハシフ/又」《法中135@》とあって、「桑の葉の初生色」であり、「浅黄色」という)。この「もよぎ」だが、『運歩色葉集』に、

萌黄(モヨギ)。青黄(同)。〔元亀本348I〕

とあって、「もよぎ」と読み、これを『下學集』では、

青黄(モエキ) 縹(ヘウ)也。或萌黄(モヘキ)ニ也。〔彩色136F〕

として、「もえき」と読み、語注記に「縹(ヘウ)なり。或は萌黄(モヘキ)に爲すなり」という。すなわち、「青」と「黄」との中間色であり、「葱の萌え出すような色」を云うのである。鎌倉時代の語源辞書『名語記』八に、

色ニモエギ如何。答。萌黄トカケリ。萌木トモカケリ。モユキ也。萌ヲバキザストヨメリ。イマダ青クモナラズシテマヅ黄ニテメグミイヅレバ黄老ノ義アル歟。

というのが、この実際の色をことばで表現した最初のものということになる。ここで、『下學集』の編者そして『節用集』類が注記したように、「あさぎ」と「もえぎ」⇒「もよぎ」とが、全く同じ色を表現する「ことば」なのかということがはじめて問われてくるのである。そして、『運歩色葉集』の編者は、両語に語注記を未記載にするが、この両語の実際の色を同色として認識していないのかもしれない。これを裏付けるかのように、当代の『日葡辞書』には、

Asagui.アサギ(浅葱・浅黄) 明るい藍色,水色.〔邦訳33r〕

Moyegui.モエギ(萌黄) 深緑.*原文はVer-de escuro. ⇒Vsumoyogui.〔邦訳428r〕

とあって、その色の判別は、「明るい藍色、水色」と「深緑」という具合に異なりを見せている。こうした色の看取感覚がなぜ生じてきているのかも今後大いに議論して見たいところでもある。

[ことばの実際]

女郎花の衣、浮紋に浅黄の指貫にて供奉せらる。〔『太平記』〕

右は摂津国の掃部頭能直、薄色の指貫、浅黄の織物の狩衣着て沓の役に候す。〔『太平記』〕

三陣には花一揆、命鶴を大将として、六千余騎、萌黄・火威・紫糸・卯の花の端取つたる鎧に薄紅の笠符を付け、梅の花一枝折りて冑の真向に差したれば、四方の嵐吹く度に鎧の袖や匂ふらん。〔『太平記』〕

中にも川越弾正少弼は、余りに風情を好みて、引馬三十匹、白鞍置きて引かせけるが、濃き紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々に馬の毛を染めて、舎人八人に引かせたり。〔『太平記』〕

2001年2月19日(月)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「故實(コジツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古」部に、

故實(コジツ) 。〔元亀本230D〕

故實(コジツ) 。〔静嘉堂本264B〕

故實(−シツ) 。〔天正十七年本中61オA〕

とある。標記語「故實」の語注記は未記載にある。『下學集』には、未収載にある。これを広本節用集』には、

故實(コシツ/フルキ、マコト) 。〔態藝門669C〕

とあって、やはり語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

故實(コジツ) 。〔・言語進退189G〕

故實(コシツ) 。〔・言語155G〕

故實(コシツ) 。〔・言語145F〕

とあって、いずれも語注記は未記載にある。すなわち、古辞書にあって、『下學集』はなぜかこの語を収載していないことが一つであり、次に『節用集』類と『運歩色葉集』には収載されているが、その語注記はないのである。

 古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

或盛物以下故実職者一両輩可令雇給也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_物以--之職-(シヨク―)--輩可メ∨(ヤトハカサ)」〔山田俊雄藏本〕

物以下故実(―シツ)ノ職者一両輩可キ‖ム∨(ヤトヒ)ハラ|」〔経覺筆本〕

或盛物(モリモノ)已下故実(コシツ)ノ職者(シヨク―)-兩輩可令(シメ)∨(ヤトハカサ)(タマ)フ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『庭訓徃來註』五月五{九}日の状に、

或盛物以下、故實職者 故古也。實道也。知其道也。〔謙堂文庫藏三二右B〕

とあって、「故實職者」の語注記に「故は古なり。實は道なり。其の道を知るなり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|萬事奉リ∨-母之ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「故実」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)或盛物以下故實職者一兩輩。はいぜんくわんはいれうりハうてうもりかたなとミなそれ/\の作法礼義あるゆへ故実と云。識者は故実を能知たる者をいふ。〔三十三ウ三〕

とあって、標記語「故実」の語注記は「はいぜん・くわんはい・れうり・ハうてう・もりかたなどミなそれぞれの作法礼義あるゆへ故実と云ふ」とある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)或盛_物已下故実識者一両輩。▲故実識者ハ故事(ふること)の是(きつとし)たる所を辨(わきま)へ知(し)りたる者(もの)をいふ。〔二十七オ八〕

(あるひ)盛物(もりもの)已下(いげ)故実(こじつ)の識者(しきしや)一両輩(いちりやうはい)。▲故実識者ハ故事(ふること)の是(きつとし)たる所を辨(わきま)へ知(し)りたる者(もの)をいふ。〔四十八ウ四〕

とあって、標記語「故実」の語注記は、「故実の識者は、故事のきつとしたる所を辨へ知りたる者をいふ」という。

当代の『日葡辞書』には、

Coxit.コシツ(故実) 昔の事実.たとえば,きまりとか,儀式とかなど.§Coxitno jin(故実の仁)昔の事実とかしきたりとかに精通している人.〔邦訳156r〕

とある。

[ことばの実際]

2001年2月18日(日)晴れ。八王子→世田谷(玉川⇒駒沢)

「江家(ガウケ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

江家(ガウゲ) 大江千里乃吉備大臣也。〔元亀本103@〕

江家(ガウケ) 大江千里乃吉備大臣也。〔静嘉堂本129F〕

江家(カ―ケ) 大江千里乃吉備大臣也。〔天正十七年本上63ウE〕

江家(カウケ) 大江千里吉備大臣也。〔西来寺本179E〕

とある。標記語「江家」の語注記は、「大江千里は、乃ち吉備大臣なり」という。『下學集』、広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、未収載にある。『庭訓徃來』、『庭訓徃來註』二月廿四日の状に、

詩聯句者乍菅家江家之旧流| 《前略》江家祖、吉備大臣也。大江千里是也。故日本儒道菅丞相吉備大臣也。〔謙堂文庫藏一一右E〕

とあって、その語注記は「江家の祖、吉備大臣なり。大江千里是れなり。故に日本の儒道は菅丞相吉備大臣なり」という。『運歩色葉集』と『庭訓徃來註』における注記の順列は異なるが、その内容はほぼ共通するものである。

2001年2月17日(土)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「雜羽(ザウハ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「佐」部に、

雜羽(――ハ) 。〔元亀本269F〕

雜羽(――ハ) 。〔静嘉堂本307A〕

とある。標記語「雜羽」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』六月十一日状に、

鵠鴾本白等 此三鳥雜羽云也。此時一鳥云也。〔謙堂文庫藏三七左D〕

とあって、語注記に、「此の三鳥()の羽を雜羽と云ふなり」という。『下學集』、広本節用集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、この語は未収載にある。いわば、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とにあって見える語であり、『運歩色葉集』には語注記がないことから、「サウハ」という音読みはあるが、当時としては、「雜羽」は通常、「まぜはのや」と和語で読み、音読みでも理会できる範疇の語であったということになろうか。実際、「雜羽矢」については、(2000.07.31)のところで扱っているので参照されたい。

2001年2月16日(金)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「直歳(シツズイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

直歳(シツズイ) 禅家夜廻友。〔元亀本318C〕

直歳(シツズイ) 禅家夜廻友。〔静嘉堂本〕

とある。標記語「直歳」の語注記は「禅家夜廻の友」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』十月三日の状に、

典座(テンソウ)直歳(シツツイ/スイ) 番役。〔謙堂文庫蔵五四左C〕

とあって、その語注記に「番役」という。広本節用集』には、

直歳(シツスイチョクセイ・ナヲシ、トシ) 具十直堪充(アツル)ニ――今掌(ツカサトル)。民―調也。〔官位門919G〕

とあって、語注記は「十直を具へ、堪直歳に充つるに、今圍を掌さどる。民歳を直く調のふなり」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

直歳(シツスイ) 。〔・人倫238A〕

直歳(シツスイ) 。〔・官名200G〕

直歳(シツスイ) 。〔・官名190G〕

とあって、読みは「シツスイ」と清音表記にて、語注記は未記載にある。以上、『節用集』類では広本節用集』そして『運歩色葉集』にこの語の語注記を収載している。だが、どの語注記も共通するものはなく、それぞれ異なる語注記にあることが知られるのである。

2001年2月15日(木)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「柱杖(シユヂヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、未収載にある。『庭訓徃來』そして『庭訓徃來註』十月日の状に、

素紗(ソ/スジヤ)ノ衣袈裟各一帖(テウ)外帽子(モウ\ホウス)沓襪(シタウツ/ナイ)柱杖(シユチヤウ){柱杖ハカジヤウト云ムシノ中ノ骨ナリ。ソノ虫ノ骨ヲ表ス也}脚〓〔月-榻〕(キヤタツ){脚〓、腰カクル者ナリ}手巾(シユキン)布衫(サン)平江帯(ヒガウタイ) (タイ)ニ作−府ヨリ出之故云――也云々。〔謙堂文庫蔵五七左@〕

とあり、頭注に「柱杖ハカジヤウト云ムシノ中ノ骨ナリ。ソノ虫ノ骨ヲ表ス也」とある。『下學集』には、

柱杖(シユヂヤウ)。〔器財121E〕

とあって、語注記は未記載にある。広本節用集』は、

〓〔手+主〕杖(シユヂヤウ/サヽヱ、ツヱ)又作主丈、主杖釋氏要覧云、佛聴蓄――。有因縁。一ニハ老痩無力。二ニハ病苦嬰身故也。又云、蓋行李之善助也云々。或云〓〔手+主〕杖トハ者天竺〓〔穴+牛〕(ラウ)ト。長七尺五寸也。食物セハ獅子象等也。經千年其後云祖師也。一日万里帰也。然此虫行前(ユクサキ)ハ崩落動轉スル也。天竺ニハ月輪。震旦ニハ寒深。本朝ニハ山形也。佛ニハ錫杖。真言曰敬杜。武士云兵杖。鬼神云死活杖。禅家ニハ柱杖悪魔降伏スル故也云々。 異名、黒面翁。黒面老。黒鄰皺。黒輪皺皺菴録又輪作鄰虚堂録。黒鄰杖。一枝柱。木上座。木上人。龍形鉄君。烏藤。藜杖。烏角。兎角。方竹。痩藤。竹方兄。扶老。櫛栗。烟藤。緑竹。青竹。紅藤。龍化。紫栗。于木丈。七尋。赤藤。青藜。健竹。麁〓〔米+氏l梨(ソラツリ)。阿〓〔米+氏l梨。木頭陀。一尋波。若眼(シヤカン)。戸木。夜明。鶴藤。鉄〓〔艸+疾〕藜。一木枴。木居士。手中黒蛇。〔器財門924G〕

とあって、その語注記は大いに詳しい。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、

柱杖(シユヂヤウ)。〔財宝241D〕

〓〔手+主〕杖(シユヂヤウ)。〔財宝207D〕

柱杖(シユシヤウ)。〔財宝191F〕

とあって広本節用集』のような語注記を簡略化したものも未記載にある。この語については、『庭訓徃來』に依拠する『下學集』『節用集』類そして『庭訓徃來註』にあって、尤も詳細な語注記が広本節用集』であり、『運歩色葉集』はなぜ未採録かが問われてくる。

[ことばの実際]

<問答>ワキ「いかに申べき事の候、持仏堂に参り勤めを始めうずると存候処に、安置し給ふべき絵像木像の形もなく、一壁に大長刀、柱杖にあらざる鉄の棒、其外兵具をひつしと立置かれて候、是は何と申御事にて候ぞ」《謡曲百番『熊坂』新大系233A》

2001年2月14日(水)朝小雪舞う、曇り。八王子→世田谷(駒沢)

「徴使(テウシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「天」部に、

徴使()。〔元亀本246@〕

徴使(テウシ)。〔静嘉堂本284B〕

徴使(テウシ)。〔天正十七年本中71オ@〕

とある。標記語「徴使」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』十二月三日の状に見え、『下學集』には、未収載にある。『庭訓徃來註』十二月日の状に、

郷司(カウカ/シ)ハ-亊引付徴使(テウシ/{ハタリツカトヨム也})定使-分 々々本持タル所帯也。〔謙堂文庫蔵六四左A〕

とあって、謙堂文庫本の書き込みに「ハタリツカトヨム也」という。すなわち、和語では「はたりつか(ひ)」というのであり、租税を徴収する使いのことを意味するのである。広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』には、『下學集』と同じく未収載にある。ここで、『運歩色葉集』が『下學集』『節用集』に未採録の語をこの『庭訓徃來』⇒『庭訓徃來註』を通して採録している点にある意味での編纂の積極性を観取するのである。

2001年2月13日(火)曇り。八王子→世田谷(駒沢)

「尋常射手(ジンジヤウのいて)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

尋常射手(ジンシヤウノイテ) 八尺曰尋、過尋曰常蓋曰弓長也。唐書ニハ心也。爰ニハタル射手也。〔元亀本150E〕

尋常(ジンシヤウノ) 八尺曰尋、曰常蓋弓長也。唐書ニハ常之心也。爰ニハタル射手也。〔静嘉堂本383D〕

とある。標記語「尋常射手」の語注記は、「八尺を尋と曰ふ、尋に過るを常蓋と曰ふ、曰弓の長と曰ふなり。唐の書には常の心なり。爰には勝りたる射手なり」という。『庭訓徃來註』正月五日の状に、

尋常射手 八尺尋、過蓋曰也。又尋常ニハ唯常心也。又爰ニハ者勝タル射手及也云々。〔謙堂文庫藏五左F〕

とあって、ここに依拠する。『下學集』には、

尋常(ヨノツネ/ジンジヤウ)。〔言辭157B〕

射手(イテ)。〔態藝75E〕

と「尋常」と「射手」をそれぞれ別にして収載する。広本節用集』も、

尋常(ジンジヤウ/イロ・タヅネ、ツネ)。〔態藝門972F〕

射手(イテ/シヤシユウ)弓。〔態藝門22@〕

とあって、『下學集』と同じ形態を取っている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

尋常(ジンジヤウ)。〔・言語進退248C〕〔・言語211D〕〔・言語195D〕

射手(イテ)弓。〔・人倫4F〕〔・人倫2E〕〔・人倫3@〕〔・人倫3D〕

とあって、同じく分割掲載し、言語門と人倫門に排列する。ここで、『運歩色葉集』が通常の『下學集』『節用集』といった流れに従った辞書編纂ではなく、『庭訓徃來』⇒『庭訓徃來註』に基づく元の熟語である「尋常射手」として採録し、その語注記をも継承することから、より密接なつながりをここに見せていることになる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、標記語「尋常」の語は、

尋常ヨノツネ。〔黒川本疉字上96ウ二〕

尋常 (ヨノツネ)シンシヤウ。〔黒川本疉字下81オ五〕

と「与」部と「志」部の両部に収められている。

 当代の『日葡辞書』には、

Iinjo<.ジンジョウ(尋常) 礼儀正しさ,慎み深さ,重厚さ,など.〔邦訳363r〕

†Yonotcune.ヨノツネ(尋常) 例,Yonotcuneno coto.(尋常のこと)世間並みの,普通の事.→Feijin;Feiso>〔邦訳828r〕

とあって、「尋常(ジンジョウ)」の意味は「礼儀正しさ,慎み深さ,重厚さなど」とあり、「尋常(よのつね)」の意味は「世間並みの,普通の事」とあって、和漢の読みによってその意味合いを異にする。

[補遺]他として、『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「屋作家風尋常而上下已神妙也」〔至徳三年本〕と用いられている。

2001年2月12日(月)曇り。八王子→世田谷(駒沢)

「冷汁(レイシウ・ヒヤシル)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「礼」部に、

冷汁(―シウヒヤシル)。〔元亀本150E〕

冷汁(―ジウ)。〔静嘉堂本164B〕

冷汁(―シウ)。〔天正十七年本中14オ@〕

とある。標記語「冷汁」の読みは、音で「レイシウ」または「レイジウ」、訓読みが「ひやしる」となっている。語注記は未記載にある。

この語は未収載にある。『庭訓徃來』に、「寒汁」(建部伝内書写)と「冷汁」(天文六年写)との二種あり、『下學集』は、この語を未収載にする。『庭訓徃來註』十月日の状に、

并暑蕷(/ヤマノイモ)野老笋蘿蔔(シユンロフ)山葵(ワサヒ){}汁等也 山葵大黄ニ|。色青白也。葉寒汁大根ト|。々ニハ石木ヲ|。如也。刻彫シテ砕也。即是根之亊也。〔謙堂文庫蔵五八左E〕

※天理本・左貫注本は、「寒汁」の読み仮名に、「ヒヤシル」と読みを付す。

とあって、「寒汁」の書込みに、「冷」という表記が見え、これを上記『庭訓徃來』の異本に「冷汁」とあることを示唆していることが知られる。広本節用集』は、

冷汁(ヒヤシルレイシウ)。〔飲食門1034C〕

とあって、「ひやしる」と「レイシウ」の読みが示され、語注記は未記載にある。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

冷汁(ヒヤシル)。〔・食物254F〕

冷汁(ヒヤシル)。〔・食物217H〕

冷麺(ヒヤムキ)冷汁。〔・食物217H〕

とあって、「ひやしる」の読みが示され、語注記は未記載にある。ここで、『下學集』は「寒汁」も未収載にあり、『節用集』類及び『運歩色葉集』が「ひやしる」の表記をすべて「冷汁」としているに留まり、文字表記の注記「或」も見えないのが実に不可解な点となっているのである。その意味からも、謙堂文庫蔵『庭訓徃來註』の「冷」の書込みは、諸本系統を見ていく上にも重要な内容となっているように思えるのである。この謙堂文庫本の書込み者は、古辞書『節用集』類及び『運歩色葉集』の標記語「冷汁」を意識しているとも考えられないわけではない。

2001年2月11日(日)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「庵室(アンジツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「安」部に、この語は未収載にある。『庭訓徃來』に、「庵室」とあり、『下學集』には、

庵室(アンシツ)。〔家屋54E〕

とあって、標記語のみで語注記は見えない。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

庵室 皈依僧居所也。〔謙堂文庫蔵一六右B〕

とあって、その語注記に「皈依僧の居所なり」という。広本節用集』は、

(アン/イホリ)―與菴。同字釋ニハ草爲(ナス)圓屋(ヲク)ヲ。曰。西天僧俗修行多レリ―。―室(―ジチ/―イヱ・ムロ)。〔家屋門744〕

とあって、その読みを「アンジチ」としている。そして「庵室」の語には語注記は未記載にある。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

庵室(アンジツ)小寺。〔・天地201B〕

庵室(アンジツ)。〔・天地166E〕

庵 。〔・天地155F〕

とあって、弘治二年本に「小寺」の語注記が見えている。

2001年2月10日(土)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「瀑落(たき)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多」部に、

瀑布(タキ/ハクフ)。〔元亀本139I〕

瀑布(タキ)。〔静嘉堂本149B〕

瀑布(タキ)。〔天正十七年本中6ウ@〕

とある。標記語「瀑落」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

泉水立石築山遣水《前略》瀑落糸落・布落・離落・傳落・單(ヒトヘ)落・重落・猶々有口傳多也。〔謙堂文庫蔵一五左D〕

とあって、語注記に「瀑落は糸落・布の落・離れ落・傳へ落・單(ヒトヘ)落・重落。猶々、口傳多く有るなり。眺望に任せ、方角に隨ひ、禁忌無きの樣、之れを相ひ計るべき。客殿に相ひ續きて、遠亭の亊なり。寺に限るべからずなり」という。『下學集』は、

(タキ)。(同)二字義同。〔天地23B〕

とある。広本節用集』は、

(タキ/ロウ)。(同/ハク)合紀達琴(タキ)。異名、飛泉(ヒセン)。飛涛。飛流。飛出。雨白龍。白布。〔天地門330D〕

とあって、『下學集』の二字の標記語を逆排列にし、これに語注記として表記字と異名語群を増補したものである。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、

(タキ)。(同)。〔・天地97C〕

(タキ)。(タキ)。〔・天地90D〕

(タキ)。(同/ハク)。〔・天地82C〕

(タキ)。(同/ハク)。〔・天地82C〕

とあって、やはり広本節用集』を継承し、その語注記は未記載にある。ここで、『運歩色葉集』が先行する『下學集』や『節用集』を継承せずに別のところからこの語を収載している点に注目せねばなるまい。そして、『庭訓徃來註』の標記語とも共通しないが、それぞれ二字熟語で収載されているものであることが確認できよう。今後の継承収載の行方を待ちたい。

2001年2月9日(金)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「礼拝(ライハイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「羅」部に、

礼拝(ーハイ)。〔元亀本172C〕

礼拝(ーハイ)。〔静嘉堂本191G〕

禮拝(ライハイ)。〔天正十七年本中26オE〕

とある。標記語「礼拝」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

礼堂 看經所也。礼-拝世尊成道マテ知也。五那含主浄居天コト佛堂三度也。而シテ足|、佛ニハ三礼、~ニハ再拝、々礼二樣|也。上礼・中礼是也。上礼五体ニ。業也。中礼合掌低頭也。是人之業也。〔謙堂文庫蔵一六右@〕

とあって、「礼-拝の始りは、世尊成道の時まで禮を知らざるなり。五那含の主浄居天より來りて、佛堂に繞ること三度なり。而して、尊の足に礼し、佛には三礼、~には再拝、拝礼は二樣有るなり。上礼・中礼是れなり。上礼は五体を地に投ず。是れは天の業なり。中礼は合掌低頭なり。是人の業なり」という。『下學集』は、未收載にある。広本節用集』は、

禮拝(ライハイレイ・ヲガム、ヲガム)禮與礼同。〔態藝門456D〕

とあって、その語注記は「禮」と「礼」の用字についてである。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、この語を『下學集』と同じく未收載にする。

2001年2月8日(木)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「懐紙(クワイシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

懐紙(クワイシ)。〔元亀本190H〕

懐紙(クワイシ)。〔静嘉堂本215B〕

懐紙(クワイシ)。〔天正十七年本中37オA〕

とある。標記語「懐紙」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に、「會紙」とあり、『下學集』には、

懷紙(クワイシ) 懷或ニ。〔器財120A〕

とあって、表記文字の異体字を注記する。これを『庭訓徃來註』二月廿三日の状に、

會紙懐中歟如何。心底之趣難紙上 紙字絲扁コト代蔡倫爲將作大監布衣以造紙。代〓〔糸+曽〕帛。至今傳之。昔使下‖〓〔糸+曽〕帛上∨。日本ニハ伊豆衆禪寺初也云々。{懐紙仁徳天王時在人懐ヨリカミヲ取出書亊アリ。故懐紙云也}〔謙堂文庫蔵九左A〕

とあって、『下學集』の語注記に示す「會紙」の表記で見えている。これを広本節用集』は、

會紙(クワイシ/アツマル、カミ) 或作懐紙。〔器財門506A〕

とあって、『庭訓徃來』に見える「會紙」の表記を標記語として、語注記に「或は「懐紙」に作る」という。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、

會紙(クワイシ) 又懐紙。〔・財宝159A〕

會紙(クハイシ) 又作懐―。〔・財宝130D〕

會紙(クハイシ) 又作懐―。〔・財宝119F〕

會紙(クハイシ) 又作懐―。〔・財寶145C〕

とある。いずれも広本節用集』同様、標記語を「會紙」とし、語注記に「また懐紙に作る」と「懐紙」の表記を示すものである。ここで『下學集』が『庭訓徃來』の表記である「會紙」を用いなかったのか問われるところである。そして、これを『運歩色葉集』が語注記もなく「懐紙」の表記字だけで「會紙」の表記について一切触れずに示している点も注目せねばなるまい。

当代の『日葡辞書』に、

Quaixi.クヮイシ(懐紙) 連歌(rengas)と呼ばれる或る種の歌を作るために催す集会で,その歌を書きつける紙.〔邦訳517r〕

とある。

[ことばの実際]

入逢の聲もうちしきりしかば、忘れじとて古懐紙のうらに書き付け侍る也。《『筑波問答』七五G》

2001年2月7日(水)曇り後雨。八王子→世田谷(駒沢)

「綸言(リンゲン)・綸旨(リンジ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「利」部に、

綸言(リンゲン) ――如(アセ)ノ。一出綸旨(―ジ)。〔元亀本72B〕

綸言(リンゲン) ――如汗。一出不皈。綸旨(―ジ)。〔静嘉堂本86F〕

綸言(リンゲン) ――如汗。一出不皈。綸旨(―ジ)。〔天正十七年本上43ウB〕

綸言(リンゲン) ――如汗。一出不皈。綸旨(―シ)。〔西來寺本131DE〕

とある。標記語「綸旨」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』(『庭訓徃來註』)六月十一日の状に、

只今欲使者候處遮而預音信候条相‖_叶本懐者也殊以喜悦々々抑戦場御進發之亊夜前始所奉也論{綸}旨 今主之言也。禁中帝王之御亊、一天トシテ諱、僧俗共詣侍ルヲ參内ト云。君出御、遠近共行幸申也。大和哥(スヘラキ)ト惣名也。大_内_山・位山・紫庭・百敷大宮・九重雲居、何禁中亊也。玉体・竜顔・叡慮・叡覧等皆同、君詔書・勅定・勅言・鳳詔・綸旨綸言・勅命・宣下・聖断申也。和詔_勅(ミコトノリ)ト二字何書也。物申上ヲハ奏聞、又尋下ニハ勅問、御返事勅答、手跡勅筆・宸筆申也。〔謙堂文庫藏三五左D〕

とあって、その語注記には「今主の言なり」という。『下學集』は、

綸旨(リン―)。綸言(リンゲン)。宣旨(センシ) 三共勅言。〔態藝73D〕

とあって、「綸旨」と「綸言」と「宣旨」の語を組みにして「三共に、勅言を指す」という語注記をとっている。広本節用集』は、

綸旨(リンシ/イトスヂ、ムネ)。綸言(―ゲン/コト・イウ)二共指勅言也。礼記曰、――如汗。出而不再返。〔態藝門192D〕

とあって、利部に「綸旨」と「綸言」の語を組みにして「二共、勅言を指すなり」という『下學集』の語注記形態をもって示している。そして、「綸言」の語注記に「『礼記』に曰く、綸言汗の如し。出でて再び帰らず」を増補する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』は、

綸旨(リンシ)。綸言(―ゲン)。〔・言語進退57G〕 綸言如(リンゲンアセノコトシ)礼記云―――出而不再返。〔・58F〕

綸言(リンゲン)―旨(シ)。―?(ハイ)・言語58E〕 綸言如(リンゲンアセノ―シ)礼記云―――出而不再返。〔・59C〕

綸旨(リンシ)―言。―?。〔・言語52H〕 綸言如(リンゲンアセノ―シ)礼記云―――出而不再返。〔・53E〕

綸言(リンゲン)―旨(ジ)。―?(ハイ)・言語61D〕 綸言如(リンゲンハ―ノ―シ)礼記云―――出而不再返。〔・62A〕

とある。ここで、広本節用集』が増補した格言を別に新たに標記語として設定する形態を見せている。この点から見るに、語排列は逆だが『運歩色葉集』と広本節用集』との連関性が伺えるのである。また、『庭訓徃來註』の語注記は異名・別名を示すものであり、この点についてはさらにつきつめて検討しなおす必要があろう。当代の『日葡辞書』には、

Rinxi.リンシ(綸旨) 国王の出す命令や認可の公文書。〔邦訳534l〕

Ringuen.リンゲン(綸言) Teiv<ono cotoba.(帝王の言)国王の言葉。〔邦訳533l〕

とある。

2001年2月6日(火)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「白柄(しらえ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

白柄(―エ)長刀。〔元亀本313D〕

白柄(シラヱ)長刀。〔静嘉堂本367B〕

とある。標記語「白柄」の語注記は、「長刀」という。『庭訓徃來』(『庭訓徃來註』)六月十一日の状に、

并金作左右(/サヤ)白柄長刀同手鉾馬者

とあって、「白柄長刀」とある。『下學集』、広本節用集』、印度本系統の『節用集』類には、未収載にある。いわば、『運歩色葉集』が『庭訓徃來』(『庭訓徃來註』)から載録した唯一の古辞書ということになる。そして、『庭訓徃來註』にはこの語の語注記は未記載にある。

当代の『日葡辞書』に、

Xiraye.シラエ(白柄) 薙刀(Naguinata)の白い柄。〔邦訳778l〕

とある。

[ことばの実際]

觀音房は黒絲威の腹卷に、白柄の長刀くきみじかに取り、勢至房は、萠黄威の腹卷に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額をきて落し、散々に打わり、「うれしや水、なるは瀧の水、日はてるとも、絶えずとうたへ。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。《『平家物語』額打論》

2001年2月5日(月)薄晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「御多羅枝(ヲンタラシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遠」部に、

御多羅枝(ヲンダラシ)弓名。〔元亀本82F〕

御多羅枝(ヲンタラシ)弓名。〔静嘉堂本101E〕

御多羅枝(ヲンタラシ)弓也。〔天正十七年本上50オE〕

御多羅枝(ヲンダラシ)弓名。〔西来寺本〕

とある。標記語「御多羅枝」の語注記は「弓の名なり」という。『下學集』は、

御多羅枝(ヲンタラシ) 最初(サイ[シヨ])ニ(キツ)テ多羅樹(タラシユノエダ)ヲ|(ツクル)∨。故(イフ)∨(シカ)也。〔器財116C〕

とある。語注記に「最初に多羅樹の枝を載つて以って弓に作る。故に爾が云ふなり」という。これを『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

鷲羽鋒矢各相‖-ス/シ腰當ヲ| 云御多羅枝|。多羅樹弓故云。騎馬弓塗籠之弓也。〔謙堂文庫藏三七左F〕

とあって、「御多羅枝と云ふ言は初めに多羅樹の枝を截りて弓に作る故に尓が云ふ。騎馬の弓は塗籠の弓なり」と前半部は『下學集』を引用し、後半部「騎馬の弓は、塗籠の弓なり」を増補する。広本節用集』には、

御多羅枝(ヲンダラシキヨ・ヲサム、ヲヽシ、ウスモノ、ヱダ) 最初ニハ(キツ)テ多羅樹(タラ―)ノヲ|。作ル∨弓。故云尓。御弓(―ダラシ/キユウ) 俗常用此字ヲ|。〔器財門214C〕

とあって、『下學集』を引用継承する。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足印本節用集』は、

御多羅枝(ヲンタラシ) 最-初(キツ)テ多羅樹ヲ|。作ル∨。故云尓。御弓(―タラシ) 俗常用此字。〔・器財64C〕

御多羅枝(ヲンタラシ) 最初多羅樹ヲ|。作ル∨。故云(シカ)御弓(同) 俗常此字。〔・器財65D〕

御多羅枝(ヲンタラシ) 最初載多羅。作弓。故云尓。御弓(同) 俗常用此字。〔・財物59H〕

御多羅枝(ヲンタラシ) 最初載多羅樹ヲ|。作ル∨。故云尓。御弓(ヲンタラシ) 俗常用此字。〔・財物70B〕

とあって、やはり広本節用集』と同じく『下學集』を引用継承する。そして、別標記語「御弓」を「俗常に此の字を用ゆ」として収載する。

2001年2月4日(日)薄晴れ。八王子→世田谷(玉川⇒駒沢)

別府大分毎日マラソン西田隆維(エスビー食品)が2時間8分45秒自己ベストで初優勝

「印(ヲシテ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遠」部に、

(ヲシテ)。〔元亀本83H〕

(ヲシテ)。〔静嘉堂本103A〕

(ヲシテ)。〔天正十七年本上51オA〕

(ヲシテ)。〔西来寺本〕

とある。標記語「」の語注記は未記載にある。『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』卯月十一日の状に、

宰府之交-(ヱキ) 日本ニハ弘法始也。九州ヘノ交物易義也。交易(ヲシテ)ヲ取合也。。漢旧儀、諸候正印黄金〓〔右冖石木〕駝(タクタ)(チウ)(ジ)ト。列侯黄金鈕文丞相金亀鈕文曰章。二千石至マテ六百石者銀印鼻鈕文印也。交易法也。〔謙堂文庫藏二七左H〕

とあって、その語注記に「交易は、(ヲシテ)を以って取り合はすなり。は文を刻み、信を合はす。漢の旧儀に、諸候の正印は、黄金〔右冖石木〕駝(タクタ)(チウ)文を璽(ジ)と曰ふ。列侯は、黄金の竜の鈕文を印と云ふ。丞相は、金亀鈕文を章と曰ふ。二千石、六百石に至るまでは銀印鼻鈕文を印と曰ふなり。交易の法なり」という。広本節用集』には、

(ヲキテ)。(同/イン・ヲビテ・シルシ)。〔器財門214G〕

とあって、その読みを「をきて」「をびて」と異なる表記にある。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足印本節用集』は、

(ヲシテ/ヲキテ)。(同/イン)。〔・財宝64E〕

(ヲキテ)。(ヲシテ)。〔・財宝65F〕

(ヲシテ)。〔・財宝60@〕

(ヲシテ)。()。〔・財宝70D〕

とあって、広本節用集』の排列表記形態を守りつつ、その読みに「をして」を付加させる姿勢を見せている。他の伊勢本系統の『伊京集明応五年本天正十八年本は、

(ヲシテ)。〔・財宝28A〕

(ヲシテ)。(ヲシテ)。〔・財宝部52BC〕

(ヲシテ)印―。〔天十八・財宝上二十オG〕

とあって、「をきて」の読み表記は無く、すべて「をして」の読み表記を示している。このことからも印本系統の『節用集』類の直接依拠するところが広本節用集』であったと言える。そして、この「」の語については、古辞書は語注記をすべて記載しない。『庭訓徃來註』にして、その意味や用途を上記の語注記から知るのみである。当代の『日葡辞書』には、

‡Voxite.ヲシテ(印) →In(印);Quain(火印);Xinxi(神璽).〔邦訳727l〕

In.イン(印) Oxite.(おして)印判や印形.例,Inuo atayuru.(印を与ゆる)自分の印判を押す,捺印する.§Inuo suyuru,l,vosu.(印を据ゆる,または,押す)印判を押す,捺印する.§また,鳥の踏みつけたあと,すなわち,足跡.例,Xato<ni inuo qizamu camome.(沙頭に印を刻む鴎)浜辺の砂の上に足跡を残す鴎.*Xato>niの誤り.*平家物語三・有王.⇒Qizami,u.〔334l〕

とある。

2001年2月3日(土)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「問注所(モンヂウシヨ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「毛」部に、

問注所(―ヂウシヨ)頼朝始置。〔元亀本350E〕

問注所(―――)頼朝始置。〔静嘉堂本421F〕

とある。標記語「問注所」の語注記は、「頼朝始めて置く」とその発祥について説明する語注記である。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未収載にある。また、『庭訓徃來註』にもこれに該当する語注記は見えていない。次に広本節用集』には、

問注所(モンヂウシヨ/トイ、シルス、トコロ)頼朝之時始置之。〔人倫門1065G〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記より「頼朝の時始めて之れを置く」とやや詳しいものとなっている。これを印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、

問注所(モンヂウシヨ)頼朝(ヨリトモ)ノ之時始置之。〔・人倫258D〕

問注所(モンチウシヨ)頼朝〓〔日+之〕始置之。〔・人倫220G〕

問注所(モンチウシヨ)頼朝時始置之。〔・人倫207@〕

とあって、伊勢本の広本節用集』を継承する。ここで他の伊勢本系統の諸本を確認すると、この語注記は伊勢本系統の諸本全体に見えていることが判明する。すなわち、この語注記は、『下學集』には未収載であっても『節用集』類と『運歩色葉集』とを接合するものであり、この語注記の典拠を『庭訓徃來註』でない別の資料に求めているものであることがここに判明する。

 当代の『日葡辞書』には、

Mongiu<xo.モンヂュゥショ(問注所) Toi,xirusutocoro.(問ひ,注す所)すなわち,Cujino   satadocoro.(公事の沙汰所)裁判所,または,訴えを聴取する所.⇒次条〔邦訳420l〕

†Mongiu<xo. モンヂュゥショ(問注所) 訴えを聞いて,ある文書係の役人に書きとめさせる所. 〔邦訳420l〕

とその組織内容について収載する。

[ことばの実際]

城中是に躁(サワガ)れて、聲々にひしめき合けれ共、將軍は些共不驚給、鎮守の御寶前に看經しておはしける。其前に問注所(モンヂユウショ)信濃の入道々大と土岐伯耆の入道存孝と二人倶して候ひけるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候惡源太を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追沸はせ候はんずる者を」と申ける處に、惡源太つと参つたり。《『太平記』巻第十七△隆資卿八幡より寄せらるる事、大系二・198E》

2001年2月2日(金)曇りのち晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「魔王(マワウ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「滿」部に、

魔王(―ワウ)。〔元亀本207C〕

魔王(――)。〔静嘉堂本235G〕

魔王(―ワウ)。〔天正十七年本中47オF〕

とある。標記語「魔王」の語注記は未記載にある。これを『下學集』には未収載にあり、『庭訓徃來註』六月十一日の状に、

 負云。付云也。是云、魔王表也。帝尺時、彼魔王矢数廿五ニテ射取給故、廿五刺也。是云也。其内大亊矢一有。是云也。大將ルト云亊无。縦矢射_尽打死トモ、此一ヘハ人大將知也。其時此シノ云也。〔謙堂文庫藏三七左A〕

とあって、「」の語注記に「魔王」の語が見えている。広本節用集』、そして印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本節用集』は、未収載にある。いわば、古辞書における「魔王」の収載は、『運歩色葉集』のみであり、この語を上記『庭訓徃來註』から引用したものかは断じがたいがここに示しておくことにする。また、当代の『日葡辞書』に、

Mauo<.マワゥ(魔王) Tenguno vo<.(天狗の王)悪魔の王.〔邦訳389r〕

とある。

[ことばの実際]

第六天の魔王と云ふ外道は、欲界の六天を我物と領じて、なかにも此界の衆生の生死を離るゝ事をおしみ、或は妻となり、或は夫と成て、是を妨るに、三世の諸佛は、一切衆生を一子の如くに思召て、極樂淨土の不退の土に勸入とし給ふに、妻子と云者が、無始曠劫より以來、生死に流轉するきづななるが故に、佛は重う戒しめ給ふ也。《『平家物語』大系下282I》

2001年2月1日(木)曇り一時小雨。八王子→世田谷(駒沢)

「太鼓(タイコ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多」部に、

太鼓(タイコ)。〔元亀本137A〕

太鼓(―コ)。〔静嘉堂本145A〕

太鼓(タイコ)。〔天正十七年本中4ウC〕

とある。標記語「太鼓」の語は未記載にある。『庭訓徃來』七月日の状に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』七月日の状に、

太鼓 皇帝時、始或時首猿、尾虎者來、御殿レハ王御腦有、相者云、彼障碍也。調伏シテ云。其時太鼓張申頭、虎打也。太鼓鷄鳴也。鐘同時始也。慈味鬼云鬼、佛法成障碍調伏也。〔謙堂文庫蔵四二左B〕

とあって、その語注記に「皇帝の時始む。或る時、首は猿に似て、尾は虎に似たる者來たり、御殿に覆と見れば、王御腦有る。相者の云く、彼は障碍なり。調伏して吉と云ふ。其の時太鼓を申の頭を張り、虎の尾に打つなり。太鼓の役は鷄鳴なり。鐘も同時に始むるなり。慈味鬼と云ふ鬼、佛法の障碍と成りて調伏するなり」という。広本節用集』は、『下學集』同様に未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、

太鼓(―コ)。〔・財宝104A〕

大鼓(タイコ) ―海(カイ)茶器。―挙持(タコヂ)杖也。〔・財宝93B〕

大鼓(タイコ)。〔・財宝85B〕

大鼓(タイコ)。〔・財宝103@〕

とあって、『運歩色葉集』と同じく語注記を未記載にする。この「太鼓」の発祥譚は、古辞書にはなくして、上記『庭訓徃來註』のみとなっている。当代の『日葡辞書』に、

Taico.タイコ(太鼓) Vo>qina tcuzzumi.(大きな鼓)太鼓.§Taicouo narasu,l,vtcu.(太鼓を鳴らす,または,打つ)太鼓を打ち鳴らす.〔邦訳603l〕

とある。

[ことばの実際]

 

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