2001年3月1日から3月31日迄

 BACK(「ことばの溜め池」表紙へ)

 MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2001年3月31日(土)霙。東京→世田谷(駒沢)⇒代々木上原

「花鳥風月(クワテウフウゲツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

花鳥風月(クワチウフウケツ)。〔元亀本196@〕

花鳥風月(――――)。〔静嘉堂本223C〕

花鳥風月(――――)。〔天正十七年本中41オC〕

とある。標記語「花鳥風月」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集広本節用集』印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』も、この四字熟語は未收載であり、いわば『庭訓徃來』と『運歩色葉集』との連関となっている。因みに、『庭訓徃來註』二月廿四日の状に、

58欲是令ント上∨申候処遮而預恩問ニハ御同心之至多生嘉會也抑花之底會花鳥風月者好士(ジ)ノ詩歌管絃 千字文曰、黄帝臣伶倫氏伐竹管吹之。因号樂人。又文選曰、吹。撫ルヲ文選注曰、黄帝取崑崙風風之鳴也。〔謙堂文庫蔵九左F〕

とあって、その「花鳥風月」に関する語注記は見えていない。

2001年3月30日(金)晴れ。東京→神田⇒浅草橋

「詩歌管絃(シイカカンゲン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」「久」部に、

詩歌管絃(シイカクワンゲン)。〔元亀本323G〕  管絃(―ゲン) 。〔元亀本190@〕

詩歌管絃(シイカクワンケン)。〔静嘉堂本382C〕 管絃(―ゲン) 。〔静嘉堂本214@〕

とある。標記語「詩歌管絃」「管絃」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、この四字熟語では未收載であり、広本節用集』は、

詩歌(シカ/コヽロザシ、ウタ)。〔態藝門963C〕

管絃(クワンゲン/フヱ、ツル) 歌曲義也。文選注曰、吹。撫スルヲ也。〔態藝門531F〕

とあって、標記語として個々に表示する。このうち、「管絃」の語注記として、「歌曲の義なり。文選注に曰く、吹くを管と曰ふ。撫ずるを絃と曰ふなり」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』も、

管絃(クワンゲン) 樂。〔・言語進退161E〕

管絃(クワンゲン) 。〔・言語131H〕〔・言語147@〕

管見(クワンケン) ―絃。〔・言語121@〕

とあって、標記語「管絃」を弘治二年本に「樂」と注記する。他本は語注記を未記載にする。

 『庭訓徃來註』二月廿四日の状に、

58欲是令ント上∨申候処遮而預恩問ニハ御同心之至多生嘉會也抑花之底會花鳥風月者好士(ジ)ノ詩歌管絃 千字文曰、黄帝臣伶倫氏伐竹管吹之。因号樂人。又文選曰、吹。撫ルヲ文選注曰、黄帝取崑崙風風之鳴也。〔謙堂文庫蔵九左F〕

とあって、語注記に「千字文に曰く、黄帝の臣伶倫氏竹を伐り管を之れ吹く。因みに樂人と号す。又、文選に曰く、吹くを管と曰ふ。撫るを絃と曰ふ。文選注に曰く、黄帝崑崙の竹を取り、風風の鳴を學ぶなり」とある。この『文選注』の引用箇所が広本節用集』の標記語「管絃」語注記の後半部に共通する。当代の『日葡辞書』には、

Quanguen.クヮンゲン(管絃) 音楽,または,合奏.§Quaguenuo suru.(管絃をする)合奏とともに歌う.⇒Itotaqe;So>xi,suru;Vongacu.〔邦訳518l〕

とある。

2001年3月29日(木)雨。東京→世田谷(駒沢)

「聯句(レング)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「礼」部に、

聯句(レング)。〔元亀本149B〕

聯句(レング)。〔静嘉堂本162C〕

聯句(レンク)。〔天正十七年本中13オC〕

とある。標記語「聯句」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

聯句(レング)。〔態藝79F〕

とあって、やはり語注記を未記載にする。広本節用集』は、

聯句(レング/ツラナル)。〔態藝門380D〕

とあって、これも『下學集』と同じく語注記を未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』も、

聯句(レング)。〔・言語進退116@〕〔・言語99C〕〔・言語90@〕〔・言語109D〕

とあって、同じく未記載にある。そして、読み方はいずれも「レング」とある。

 『庭訓徃來註』二月廿三日の状に、

53一兩輩可御誘引其次聯句詠同所望候 《前畧》聯句者以韓文也云々。〔謙堂文庫蔵九右F〕

とあって、語注記に「聯句は、韓文を以って始りと爲すなり云々」と起源について説明する。この語注記は古辞書には反映されていないことになる。当代の『日葡辞書』には、

Rengu.レング(聯句) Cuuo tcuranuru.(句を聯ぬる) 上述の〔連歌〕と同類のある種の詩であって,シナで行なわれるもの.〔邦訳528r〕

とある。「聯句」は、古くから中国で行なわれていたものが、本邦に渡り、平安時代中期以後の貴族社会で流布した。そして、鎌倉時代になると、連歌から逆に影響され我が国独自の発達を遂げている。この連歌と聯句の関りについては、能勢朝次聯句と連歌』(思文閣出版, 1982.能勢朝次著作集 / 能勢朝次著作集編集委員会編 ; 第7巻)に詳しい。

[ことばの実際]

連歌は天竺にては偈と申すなり。もろ/\の經に偈を説きたるは則ち連歌也。唐國にては連句と申すなり。我が國にては歌を連ねたれば連歌と申すにや。昔の人は續け歌とぞ申し侍りし。《『筑波問答』大系(連歌論集)75M》

答へて云はく、其の事に侍り。京極中納言入道殿も、「連歌を百韻など申す。しかるべからず。聯句をこそ韻の文字あればさやうに申せ。連歌はたゞ百句などにてあるべし」とおほせられし。《『筑波問答』大系(連歌論集)102O》

2001年3月28日(水)曇りのち晴れ。東京→世田谷(駒沢)

「胡盞・烏盞(ウサン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「宇」部に、

烏盞(―サン)。胡盞(同)。〔元亀本179H〕

烏盞(ウサン)。胡盞(同)。〔静嘉堂本201A〕

烏盞(―サン)。胡盞(―サン) 。〔天正十七年本中30オ@〕

とある。標記語「烏盞」「胡盞」の語注記は未記載にある。『下學集』には、

烏盞(ウサン)。〔器財105@〕

とあって、『運歩色葉集』が示すも一つの「胡盞」の語は未收載にある。広本節用集』は、

胡盞(ウザン・ナンソ・ヱビス、サカヅキ) 或胡作烏。〔器財門476A〕

とあって、広本節用集』には、その読みを「ウザン」とし、『下學集』の標記語を用いずに、標記語を「胡盞」とし、その語注記に「或は胡、烏と作す」と記載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』も、

胡盞(ウサン) 。〔・財宝150@〕〔・財宝111D〕〔・財宝135F〕

[烏](ウサン) 。〔・財宝121F〕

とあって、広本節用集』と同様に標記語を「胡盞」とし、永禄二年本以外は「烏盞」の標記語については未收載にある。ここで、『庭訓徃來』『庭訓徃來註』十月日の状に、

胡盞(ウサン)湯盞(タウ―) 胡盞義也。〔謙堂文庫蔵五八左@〕

とある標記語をまず『下學集』は採録してないことが知られる。次に『節用集』類はこの標記語を採録し、『下學集』とは異なる編纂の方向性を見せている。そのうえで、広本節用集』の標記語「胡盞」とし、「或○、作∨●」形態の字注記はこの二種の表記を統括している点で注目されよう。そして、『運歩色葉集』は、注記形態ではないが、これを併記して収載することから、広本節用集』との何らかの接点が見えてくるのである。当代の『日葡辞書』には、

Vsan.ウサン(胡盞) Sacazzuqi(盃)に同じ.コップ,または,盃.文章語.〔邦訳733r〕

とある。

2001年3月27日(火)晴れ。東京→世田谷(駒沢)

「湯盞(タウサン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多」部に、

湯盞(―サン)。〔元亀本135C〕

湯盞(―サン)。〔静嘉堂本142D〕

とある。標記語「湯盞」の語注記は未記載にある。『下學集』には、

湯盞(タウサン)。〔器財105B〕

とあって、語注記は未記載としている。広本節用集』は、

湯盞(タウサン/ユ、サカヅキ)。〔器財門341E〕

とあって、語注記は未記載としている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

湯盞(タウサン) 酒器。〔・財宝104A〕

湯盞(タウサン)。〔・財宝85B〕

湯盞(タウサン)。〔・財宝103@〕

とあって、弘治二年本は、この語注記に唯一「酒器」と記し、永祿二年本は、この語を未收載とし、尭空本両足院本は語注記を未記載としている。

 『庭訓徃來註』十月日の状に、

胡盞(ウサン)湯盞(タウ―) 胡盞義也。〔謙堂文庫蔵五八左@〕

とあって、語注記に「胡盞の義なり」という。当代の『日葡辞書』には、

To<san.タゥサン(湯盞) 盃(Sacazzuqui)の一種で,それ専用の赤く漆塗りした(vruxada)の木の盆にのせたもの. ※Nuri,uの注参照.〔邦訳670l〕

とある。

2001年3月26日(月)曇りのち晴れ。東京→世田谷(駒沢)

「君藥(クンヤク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

君藥(―ヤク)。〔元亀本189C〕

君藥(―ヤク)。〔静嘉堂本213@〕

君藥(―ヤク)。〔天正十七年本中36オ@〕

とある。標記語「君藥」の語注記は未記載にある。『下學集』、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は未収載にある。

 『庭訓徃來註』十一月日の状に、

‖-シテ/シ一流之書籍療養共名誉之達者抜-群之仁候 風寒暑湿四氣、風寒湿暑燥熱六淫、喜怒憂悲思恐驚七情、外(ハツルヽ)病無之能達脈論|。神農本草ニハ薬種三百六十五種也。其内或君藥百廿種、臣藥百廿種、佐使藥百五種也。然ルニ上藥百廿種、為養-性|。以応シテ毒。或中藥百廿種為臣。主以應シテ毒无毒。下藥百弐十五種為佐使主治病ヲ、以応毒也。都合三品ニ三百六十五種也。莫彼藥鍛錬一流一篇之仁云也。〔謙堂文庫蔵六一右G〕

とあって、『神農本草』における薬種365種、これをさらに「君藥」120種、「臣藥」120種「佐使」125種と3つに分類する。この「君藥」は上薬で、養生を主として天に応じて毒性がないものをいう。「臣藥」は中薬で、養命を主として人によっては毒にもなり、毒のないものでもある。「佐使」は、下薬で、病治を主として地に応じて毒性も多いものであると説明している。いわば、『庭訓徃來註』の語注記と『運歩色葉集』の標記語に共通して見える語となっている。そして『運歩色葉集』には、あとの「臣藥」と「佐使」の標記語は未收載としている。当代の『日葡辞書』には、

Cunyacu.クンヤク(君薬) Yoi yacuxu.〔よい薬種〕薬のよい材料.〔邦訳168l〕

とあることでも知られている。今、因みに『日本国語大辞典』には未収載の項目となっている。

[ことばの実際]三省堂『時代別国語辞典』室町時代編二には、「くんやく【君藥】」の項目がある。

[HP:ちょっと似ているのですが、非也の語でした]

 普段薬を飲みつけていない人がたんまに飲むと人一倍効果が良く出るということが言われております。むろんウワバミ君など飲んだことございませんから、効くの効かんのたちまちにしてゴロゴロ、ゴロゴロ……。ゴロゴロ、スポーン、と人間二人(ふたぁり)もろともぜぇーんぶ下してしまいよった。《上方落語【作成メモ】●参照演者:main=桂枝雀 ●main講座記録日:1988/**/** ●番組名:枝雀寄席(ABC) ●ファイル公開日:1996/08/11より》

2001年3月25日(日)曇りのち雨。東京→世田谷(駒沢)卒業式

「君臣佐使(クンシンサシ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

君臣佐使(クンシンサシ) 在藥性。〔元亀本196C〕

君臣佐使(クンシンサシ) 在藥性。〔静嘉堂本223D〕

君臣佐使(−シンサシ) 在藥性。〔天正十七年本中41オD〕

とある。標記語「君臣佐使」の語注記は「藥性に在り」という。『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

君臣(クンシン/キミ、ヤツコ)。〔人倫門500F〕

とあって、「君臣佐使」の標記語注記は未収載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

君臣(クンシン)。〔・人倫157E〕〔・人倫128H〕〔・人倫117H〕〔・人倫143A〕

とあって、広本節用集』に等しい。これを『庭訓徃來註』十一月日の状に、

玉章厳旨御用望既分明也仰當道(タウ)之名醫者可奔走(カリニマカセ/コンチ)ノ 《前畧》薬佐使君臣差別佐使其験極急也。君臣其験漸々。〔謙堂文庫蔵六一右C〕

とあって、「薬に佐使君臣の差別有り。佐使は其験、極めて急なり。君臣は其験、漸々に病を治す」と「佐使君臣」と逆にして語注記する。このことから、『運歩色葉集』が『庭訓徃來註』の語注記内容を要約したものを収載しているといった見方が可能となってくるのである。

2001年3月24日(土)晴れ。京都⇒高槻(関西大学)→東京

「咳病(カイビヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

咳病(カイビヤウ) 。〔元亀本319H〕

咳病(シワブキ) 定。〔静嘉堂本〕

とある。標記語「咳病」の読みは「志」部収録することから和語で「しわぶき」と読むことを意味しているのだが、元亀本は「カイビヤウ」と「賀」部相当する読みを記載している。その語注記についても、元亀本は未記載にあり、静嘉堂本は「定」とある。『庭訓徃來』十一月十二日の状に見え、『下學集』は、

咳病(ガイビヤウ) 。〔態藝76F〕

とあって、標記語の読みを「ガイビヤウ」とし、語注記は未記載としている。広本節用集』は、

咳病(ガイビヤウ/−、ヤマイ) 。〔支體門266F〕

とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

咳病(ガイビヤウ) 。〔・支体79A〕

咳病(ガイヒヤウ) −氣(ガイキ)。〔・支体78F〕

咳病(カイ―――) −氣。〔・支体71B〕

咳病(ガイビヤウ) −氣。〔・支体85B〕

とあって、弘治二年本以外は「咳氣」の語を補注化する傾向が見えてきている。

庭訓徃來註』十一月十二日の状に、

〓〔病+虎〕病(コ/キヤ)咳病(ガイ―)疾齒(ヤミハ)(マケ)等者如形見知候歟。癲狂(テンカラ)癩病(ライ―)傷寒 過ルヲ三日傷寒(カン)ト云。〔謙堂文庫蔵六〇左C〕

とあって、語注記はないものの、『庭訓徃來』からの採録語であることが見て取れるのである。当代の『日葡辞書』には、

Gaibio<.ガイビャウ(咳病) Xiuabuqino yamai.(咳の病)気管支カタル.§Gaibio<uo vocosu.(咳病を起す)気管支カタルを病み始める.§Gaibio<uo vazzuro<.(咳病を煩ふ) 気管支カタルにかかっている.〔邦訳291l〕

とある。

2001年3月23日(金)晴れのち曇り。京都⇒高槻(関西大学)

「土蔵(ドザウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登」部に、

土蔵(−ザウ) 。〔元亀本 54F〕

土蔵(−サウ) 。〔静嘉堂本 60G〕

とある。標記語「土蔵」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』三月三日の状に見え、『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

土蔵(ドザウ・クラ/ツチ、カクス・ヲサム) 。〔家屋門125F〕

とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

土蔵(ドサウ) 。〔・天地 40E〕

土蔵(ドザウ) 。〔・天地 41C〕〔・天地 44G〕

土蔵(ト――) 。〔・天地 38D〕

とあって、語注記は未記載であり、読み方が「ドサウ」「ドザウ」「ト(サウ)」と三様である。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に、

_所者先假葺也傍又可土蔵文庫|。中間(ナカノマ)ハ屏也 蔵庫ルコト、地。即蔵近也。〔謙堂文庫蔵一六右B〕

とあって、「蔵庫」について語注記する。『運歩色葉集』にはこの熟語は見えない。そして、和訓「くら」も、「蔵(クラ)。倉(同)」〔元亀本198@〕とあるのみで、「庫」の字は見えないのである。当代の『日葡辞書』には、

†Tcuchigura.ツチグラ(土蔵) 荷物を納める家、あるいは、倉庫.〔邦訳623r〕

とあって、その読みを「つちぐら」とする。

2001年3月22日(木)晴れのち曇り。京都⇒高槻(関西大学)

「禁忌(キンキ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「幾」部に、

禁忌(キンバウ) 。〔元亀本282I〕

禁忌(キンキ) 。〔静嘉堂本323F〕

とある。標記語「禁忌」の語注記は未記載にある。そして読みだが元亀本は、「キンバウ」と読みをしていることでもわかるように、「忌」の字を「忘」と誤読していることが見て取れるのである。この語は『庭訓徃來』三月三日の状に見え、『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

禁忌(キンキ/イマシメ、イム) 。〔態藝門827G〕

とあって、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

禁忌(キンキ) 。〔・言語進退222G〕

禁忌(キンギ) −獄(ゴク)。−戒(カイ)。−足(ソク)。−断(ダン)。−制(ゼイ)。〔・言語185A〕

禁忌(キンキ) −獄。−戒。−足。−断。−制。〔・言語174D〕

とあって、いずれも語注記未記載である。そして、永祿二年本はその読みを「キン」と第三拍めを濁音表記する。当代の『日葡辞書』に、

Qinqi. キンキ(禁忌) 禁じられている物,または,ある人が自分の胃や健康に害があるために避けている物.〔邦訳499r〕

とある。

[ことばの実際]

治承四年の五節は福原にておこなはれけるに、殿上人、中宮の御方へ推參あ(ッ)しが、或雲客の「竹湘浦に斑なり」といふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞して、「あなあさまし、是は禁忌とこそ承はれ。かゝる事きくともきかじ」とて、ぬきあししてにげ出られぬ。《頭注訳:縁起の悪い句》《『平家物語』祗園女御・大系上422A》

2001年3月21日(水)晴れ。東京(八王子) →世田谷(駒沢)⇒京都

「客殿(キヤクデン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「幾」部に、

客殿(キヤクデン) 。〔元亀本283H〕

客殿(キヤクデン) 。〔静嘉堂本325A〕

とある。標記語「客殿」の語注記は未記載にある。この語は『庭訓徃來』三月三日の状に見え、『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

客〓〔木+閻〕(キヤクデンカク・アヅマ、ノキ) 或作客殿ト。座敷(サシキ)也。〔家屋門810F〕

とあって、標記語の字を語注記にして、註記には「座敷なり」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

客殿(−デン) 座敷。〔・天地216E〕

客殿(キヤクテン) 。〔・天地180H〕

客殿(キヤクテン) 。〔・天地170F〕

とあって、弘治二年本だけが、広本節用集』と同じ「座敷」と語注記し、他二本は『運歩色葉集』と同じように語注記を未記載にしている。

 これを『庭訓徃來註』三月三日の状に、

眺望隨方角禁忌之樣可‖_計之‖_客殿 遠亭之亊也。不可限寺也。〔謙堂文庫蔵一五左H〕

とあって、語注記に「遠亭の亊なり。寺に限るべからざるなり」と異なる語注記を以って記載する。すなわち、古辞書と『庭訓徃來註』との語注記の接点はこの語には見えない。当代の『日葡辞書』には、

Qiacude~.キャクデン(客殿) 客を泊まらせる所,または,客人をもてなす家.〔邦訳492l〕

とある。

[ことばの実際]

道誉は相模守の當敵なれば、此宿所をば定めて毀焼べしと憤られけれ共、楠此情を感じて、其儀を止めしかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖をも不失。《『太平記』巻第三十七・新将軍京落ちの事》

2001年3月20日(火)晴れ。東京(八王子) →代々木青少年センター→世田谷(駒沢)

「稽古(ケイコ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣」部に、

稽古(ケイコ) 。〔元亀本216I〕

稽古(ケイコ) 。〔静嘉堂本247A〕

とある。標記語「稽古」の語注記は未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

稽古(ケイコ) 學文ノ事ナリ也。〔態藝75B〕

とあって、「學文の事なり」という。広本節用集』は、

稽古(ケイコ/イタヾク・カンガウ、イニシヱ) 嗜(タシナミ)習義也。〔態藝門601E〕

とあって、語注記を「嗜(タシナミ)習ふ義なり」とし、『下學集』とその語注記を異にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

稽古(ケイコ) 嗜習義。〔・言語進退175A〕

稽古(ケイコ) 嗜(タシナミ)(ナラウ)義。〔・言語145D〕

稽古(ケイコ) 嗜習義。〔・言語135@〕

とあって、広本節用集』と同じ語注記となっている。

庭訓徃來註』二月廿四日の状に、

聊可用意之由奉候畢可稽古公私〓〔公+心〕忙之間不遑毛挙恐々謹言 稽古也。遑假也。毛挙筆之名也。〔謙堂文庫藏一二右C〕

とあって、「稽古は古へを勘ふるなり」とあって、註記の内容を異にする。当代の『日葡辞書』に、

Qeico.ケイコ(稽古) 習得したことの修練,または,試し.例,Qeico suru.(稽古する)⇒次条.〔邦訳481r〕

†Qeico.*ケイコ(稽古) §また,学習すること.Qeico-ga agaru.(稽古が上がる)学習している技芸が上達する.〔邦訳481r〕

とある。

[ことばの実際]

稽古 漢桓榮曰今日所蒙−−之力也。詳力。〔『韻府群玉』三麌韻166左C〕

2001年3月19日(月)晴れ。東京(八王子)→代々木青少年センター→世田谷(駒沢)

「礼堂(ライダウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「羅」部に、

礼堂(−ダウ) 。〔元亀本172C〕

礼堂(ライダウ) 。〔静嘉堂本192@〕

とある。標記語「礼堂」の語注記は未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』、広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』にも未収載にある。

庭訓徃來註』三月三日の状に、

礼堂 看經所也。礼-拝世尊成道マテ知也。五那含主浄居天コト佛堂三度也。而シテ足|、佛ニハ三礼、~ニハ再拝、々礼二樣|也。上礼・中礼是也。上礼五体ニ。業也。中礼合掌低頭也。是人之業也。〔謙堂文庫蔵一六右@〕

とあって、語注記として「看經所なり」という。語注記は未記載だが、古辞書では『運歩色葉集』だけに収載され、『庭訓徃來註』の語注記にはまた、「礼拝」や「再拝」といった語も『運歩色葉集』の標記語に見えている。

2001年3月18日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川⇒駒沢)

「砂糖(サタウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「左」部に、

砂糖(サタウ) 。〔元亀本270I〕

砂糖(サタウ) 。〔静嘉堂本309A〕

とあって、標記語「砂糖」には、語注記は未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、

砂糖(サタウ) 。〔飲食100D〕

とあって、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

砂糖(サタウ/イサゴ、アメ) 。〔飲食門779A〕

とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

砂糖(サタウ) 。〔・食物212G〕〔・食物177H〕

砂糖(サタウ) ――羊羹。〔・食物166G〕

とあって、尭空本だけが「砂糖羊羹」と語注記を付している。これは、直接『庭訓往来』若しくは『庭訓往来註』に依拠した註記と見て良かろう。『庭訓徃來註』十月日の状に、

羊羹(ヤウカン)猪羹松露羹驢腸(ロチヤウ)笋羊羹(シユンヤウカン)鮮羹(セン−)砂糖(サタウ)羊羹(ハク)魚羹蒸羊羹饂飩(ウントン)饅頭(マンチウ) 土茸也。見土茸不成佛云々。故假食物ニ|佛亊ニ|。其結縁之意也。〔謙堂文庫蔵五七左G〕

とあって、この語に対する語注記は見えないが、尭空本節用集』との連関性が見えている。当代の『日葡辞書』に、

Sato<.サタゥ(砂糖) 砂糖,または,粗糖. ※原文はjagra.〔Curozato<の注〕〔邦訳561l〕

とあって、室町時代には「砂糖」が普及利用されはじめていることが知られるのである。実際には、わが国には754年、唐僧の鑑真和上によって伝えられたとされる。そして、室町時代には中国との貿易が盛んになり、「砂糖」の輸入量も増えたが江戸時代に「砂糖」が国内生産されるまでは貴重な品であったようだ。

2001年3月17日(土)晴れ。東京(八王子)→御徒町

「大角豆(ささげ・ささぎ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「左」部と補遺部「草花名」に、

大角豆(サヽギ) 。〔元亀本275A〕  大角豆(サヽケ) 。〔元亀本380A〕

大角豆(サヽキ) 。〔静嘉堂本314E〕 大角豆(―――) 。〔静嘉堂本458B〕

とあって、標記語「大角豆」には、「ささぎ」と「ささけ」といった二種の読み方が併記されている。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。広本節用集』は、

小角豆(サヽゲ/セウカクトウ・ホソシ、ツノ、マメ) 。〔草木門775B〕

とあって、標記語を「小角豆」と「小」の字で表記している。そして和語の読みは「ささげ」としている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

小角豆(サヽゲ) 。〔・草木210A〕

[大]角豆(サヽゲ) 。〔・草木174H〕

小角豆(サヽケ) 。〔・艸木163D〕

とあって、広本節用集』と同じく「小」の字をもって表記している。ただ、永禄二年本は、横に異本に「大」とする旨の表記が見えている。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に、

大角豆(サヽケ/キ) 江東所種及西洛皆其粒細。或呼粢。粢則是稷(ヒヘ)及〓〔禾+登〕之異名也云々。〔謙堂文庫蔵一四右F〕

とあって、この語の語注記は見えないが、『運歩色葉集』と同じく、「ささげ」と「ささき」の両用の読み方が示されているのである。当代の『日葡辞書』は、

Sasague.ササゲ(小角豆)豆の一種.⇒Sasagui.〔邦訳559r〕

‡Sagagui. ササギ(小角豆) →Cacuxo>zzu;Furo<〜;Sasague.〔邦訳559r〕

とあって、「ささげ」と「ささぎ」の両用の読みが記載されている。そして、いずれもその読み方の相異については一切記載を見ないといった状況にある。そして、『庭訓徃來』『庭訓徃來註』『運歩色葉集』の示す「大角豆」の標記語と広本節用集』印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』の示す「小角豆」の標記語についての当代における「大小」と対義となる異なった表記字体についても一言する必要があるのではなかろうか。古くは平安時代の『延喜式』そして、源順『和名類聚抄』九に、

大角豆 崔禹食経曰大角豆 一名白角豆<佐佐介>色如牙角故以名之 其一穀含數十粒 離々結い房<離々讀布佐奈流 見文選

とあって、「大角豆」と表記し、「佐佐介(ささけ)」と読むことが知られている。さらには、鎌倉時代の語源辞書『名語記』八に、

草のささげ如何。大角豆とかけり

と見えている。とすれば、「ささぎ」の読み方と「小角豆」の表記はこの時代に生じてきた可能性が高くなる。その拠り所としては、宋代の中国名物本草類の取り扱い方をも検証しておく必要があろう。

[ことばの実際]

まづは、北野(きたの)・賀茂河原(かもがはら)に作りたる、まめ・ささげ・うり・なすびといふもの、この中頃は、さらに術(ずち)なかりしものをや。《『大鏡』一法成寺建立 道長一族の無量寿院参詣》

2001年3月16日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「刃傷(ニンシヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「丹」部に、

刃傷(ーシヤウ) 。〔元亀本38C〕

刃傷(――) 。〔静嘉堂本41D〕

刃傷(ニンシヤウ) 。〔天正十七年本上21ウ@〕

刃傷(ーシヤウ) 。〔西來寺本69C〕

とある。標記語「刃傷」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、

刃傷(ニンジヤウ) 。〔態藝82@〕

とあって、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

刃傷(ニンジヤウシン・ヤイバ、ヤブル) ――殺害。〔態藝門90E〕

とあって、語注記には「――殺害」とある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

刃傷(ヂンジヤウ) 。〔・仁部、言語進退29E〕

刃傷(ニンジヤウ) 。〔・言語29E〕

刃傷(ニンシヤウ) 。〔・言語26F〕

刃傷(ニンチヤウ) 。〔・言語31F〕

とあって、語注記は未記載にしている。これを『庭訓徃來註』八月七日の状に、

山海(―ンカイ)ノ-賊強--盗放-- 兵刃棒等以成疵也。〔謙堂文庫藏四六右C〕

とあって、その語注記に「兵、刃棒等を以って疵を成すなり」という。このように古辞書とは語注記に連関性を見出せない語である。当代の『日葡辞書』には、

Ninjo<.ニンジョウ(刃傷) 傷つけること.例,Ximobe-domouo ninjo<xi,xetgai xitacotoua chicagoro fun-betni voyobanu.(下部共を刃傷し,殺害した事は近比分別に及ばぬ)Fei.(平家)巻二.家来や召使どもを傷つけて殺すことは,私には納得できない.※Feiqe,P.112.〔邦訳466l〕

とあって、天草本平家物語』の巻二を引用していることから、広本節用集』の語注記に近いものとなっている。

[ことばの実際]

情如刀傷 棄置復棄置―――釼―(孟郊下第詩)。《『韻府群玉』二・陽韻194左D》

前右大將宗盛卿、大床にた(ッ)て、信連を大庭にひ(ッ)すゑさせ、「まことにわ男は、『宣旨とはなむぞ』とてき(ッ)たりけるか。おほくの廳の下部を、刃傷殺害したん也。せむずるところ、糺問して、よく/\事の仔細をたづねとひ、其後河原にひきいだいて、かうべをはね候へ」とぞの給ひける。《『平家物語』巻第四・信連、大系上288H》

宗盛出て縁に立つていはれたは、「『宣旨とは何事ぞ。』というて、下部どもを刃傷し殺害した事はちかごろ分別に及ばぬ。《天草本平家物語』巻第二95J・112》

2001年3月15日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)⇒鶴見

「東堂(トウダウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登」部に、

東堂(トウダウ) 曰禅家之長老。〔元亀本314I〕

東堂(トウダウ) 曰禅家之長老。〔静嘉堂本60D〕

東堂(トウダウ) 禅家。〔天正十七年本上31オD〕

東堂(トウダウ) 。〔西來寺本96C〕

とある。標記語「東堂」の語注記は「禅家の長老を曰ふ」という。ただし、天正十七年本は「禅家」と省略注記し、西來寺本は語注記を未記載にする。この点については、この語が有する特性そのものが書写過程において必要有無の篩にかけられたものとみてよい。『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

東堂(トウダウ/ヒガシ、イヱ) 謂五山長老也。〔官位門128C〕

とあって、語注記は「五山の長老を謂ふなり」という。『運歩色葉集』の「禅家」の箇所を「五山」としている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

東堂(トウダウ) 長老。〔・人倫42@〕〔・人倫42G〕〔・人倫39D〕〔・人倫46E〕

とあって、省略注記が見られ、ここでは単に「長老」としているのが特徴である。これを『庭訓徃來註』十月三日の状には、

東堂西堂 東堂乗無位地々々トハ寂光土也云々。西堂者當一位也。〔謙堂文庫蔵五四左A〕

とあって、語注記を「東堂は乗無位地。々々の々とは寂光土なり云々」という。まったく別の資料に基づくところの異注記となっている。当代の『日葡辞書』には、

To>do<.トゥダゥ(東堂) 頭立った坊主(Bonzos)の位,あるいは,階級で,寺院の長のようなもの.※原文はReitores.〔邦訳655l〕

とあって、ここでも「禅家」とか「五山」といった特定の寺院での階級呼称であることを表現していない。

2001年3月14日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「遵行(ジユンギヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

遵行(ジユンギヤウ) 自守護出之。〔元亀本314I〕

遵行(ジユンキヤウ) 守護出之。〔静嘉堂本369D〕

とある。標記語「遵行」の語注記は「守護より(これ)出づるなり」という。『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

遵行(ジユンギヤウ・ヲコナウ/シタガウ、ユク・ツラナル)。〔態藝門976G〕

とあって、『下學集』と同じく語注記を未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

遵行(ジユンギヤウ)。〔・言語進退245E〕

遵行(ジユンキヤウ)。〔・言語211B〕

(シユンキヤウ)。〔・言語195C〕

とあって、『下學集』、広本節用集』と同じく語注記を未記載にする。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に見るに、

仰御下文御教書巌重(テウ)之間 《前略》又御下文トハ々々々云三字書其_下御判有。自国司奉書、自官-領ヲモ奉書守護ルヲ遵行。自代官打渡也。〔謙堂文庫蔵一六左G〕

とあって、語注記に「守護より出づるを遵行云ふ」とあって、『運歩色葉集』の語注記内容は、この箇所からの引用であることが明らかとなった。

2001年3月13日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「打渡(うちわたす)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「宇」部に、

打渡(−ワタス) 自代官之。〔元亀本182B〕

打渡(ウチハタル) 代官也。〔静嘉堂本204D〕

とあって、標記語「打渡」の読みは、元亀本が「うちわたす」、静嘉堂本が「うちはたす」と異なっている。その語注記は「代官より(これ)出づるなり」という。『下學集』は未収載にある。広本節用集』には、

打渡(ウチワタス/テイト)。〔態藝門477A〕

とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

打渡(ウチワタス)。〔・言語進退151G〕

打入(ウチイル)−續(ツヾク)。―越(コユル)。―(ワタス)。−莅(ノゾム)。―寄(ヨス)。―破(ヤフル)。―漏(モラス)。〔・言語122F〕

打入(ウチイル)−續。―越。―。−莅。―寄。―破。―漏。〔・言語112C〕

とあって、広本節用集』と同じく、語注記を未記載にする。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に見るに、

仰御下文御教書巌重(テウ)之間 《前略》又御下文トハ々々々云三字書其_下御判有。自国司奉書、自官-領ヲモ奉書。自守護ルヲ遵行代官打渡也。〔謙堂文庫蔵一六左G〕

とあって、語注記末尾に「代官より出づるを打渡云ふなり」とあって、この箇所からの引用であることが明らかとなった。

2001年3月12日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「四阿屋(あづまや)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「阿」部に、

四阿屋(アヅマヤ) 四方垣無之。〔元亀本262@〕

四阿屋(アツマヤ) 四方垣無之。〔静嘉堂本297B〕

とある。標記語「四阿屋」の語注記は「四方に垣これ無し」という。『庭訓往来』に見え、『下學集』は、

四阿屋(アヅマヤ)。〔家屋54D〕

とあって、語注記は未記載にある。広本節用集』には、

四阿屋(アヅマヤ/シアヲク・ヨツ、ヲモネル、イヱ)。〔家屋門744@〕

とあって、これも語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

四阿屋(アヅマヤ)。〔・天地201C〕〔・天地166G〕〔・天地155F〕

とあって、『下學集』と同じく語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に、

局部屋四阿屋 阿―材木置所四方。〔謙堂文庫藏一五右D〕

とあって、『運歩色葉集』はこの語注記に依拠することが知られる。

2001年3月11日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(玉川⇒駒沢)

「註記(チウキ)(チウギ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「地」部に、

註記(―キ) 聖家。〔元亀本64I〕

註記(――) 聖家。〔静嘉堂本75G〕

註記(――) 聖家。〔天正十七年本上38オC〕

註記(――) 聖家。〔西来寺本112D〕

とある。標記語「註記」の語注記は、「聖家」という。静嘉堂本だけが、「聖分家」と「分」の字を記載する。そして、読み方は元亀本でしか記載がないため、第三拍を清・濁いずれかで読むのかを決定するには、ややむつかしい。表記状況は清音である。この語は『庭訓往来』に見え、『下學集』は未収載にある。広本節用集』には、

注記(チウキ/トク・アラワス、シルス) 。〔態藝門173E〕

とあって、「チウキ」と清音であり、同じ読みでも表記を「注記」とした標記語のみをもって収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、『下學集』と同じくこの標記語を未収載にする。そして、『庭訓徃來註』九月十五日の状に、

讀師註記(−ギ) 註記蔵主位也。〔謙堂文庫蔵五二左E〕

とあって、その読みを「チウギ」と第三拍を濁音で記し、語注記に「註記は禪の蔵主の位なり」とあって、『運歩色葉集』とは異なる語注記となっている。当代の『日葡辞書』には、

Chu'qi.チュゥキ(注記) 禅宗僧(Ienxus)の間にある或る役職.〔邦訳131l〕

とあって、第三拍の読みはやはり清音であり、意味内容は、『庭訓徃來註』に近い。そして、邦訳の編者は「注記」の表記をもって示しているのである。

現代の小学館日本国語大辞典』に、

ちゅう-【注記・註記】《名》[3](この場合は「ちゅうぎ」とよむ)寺院で、論議の時、題を読みあげたり、論議の内容を書きしるしたりする役。また、その僧。

として、用例に『御堂関白記』『中右記』『台記』『源平盛衰記』を掲載しているが、その表記はすべて「注記」とある。また、新潮国語辞典』第二版では、

チュウキ【注記・註記】[二]〔仏〕寺院で、論議のとき、題を読み上げ、また、その論議を筆記する役僧。また、延暦(エンリャク)寺では、その論議を書きしるす職。〔盛衰記二〇・八牧夜討事〕

と一言別記載している。この点については、大槻文彦編『大言海』(昭和三十九年新訂版)に、

ちュうき【注記・註記】(二)寺院にて、論議の時に、題を讀みあぐる役僧。又、比叡山にては、其論議を書き記す職。盛衰記、廿、八牧夜討事「八牧を憑みて、筆執りしてありける古山法師に、某の注記と云ひけるが」※『言海』はこの語を未収載。

とあって、これに基づく記載内容であることが知られ、今も昔も辞書編纂には、ある種の意義内容を継承する傾向が見られるのである。

[ことばの実際]

小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城に籠て、取巻れなば叶まじとて、逆よせに平野に懸合せて戦ける程に、道場坊注記祐覺、一軍に打負て、立足もなく引ければ、成願坊律師入替て、一人も不殘討にけり。《『太平記』巻第十七、江州軍の事・二〇四O》

山徒の道場坊助注記祐覺は、元は法勝寺の律僧にて有しが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱で山徒の貌に替へ、弓箭に携て一時の栄華を開けり。《『太平記』巻第十七、還幸供奉の人々禁殺せらるる事・二一三G》

2001年3月10日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「百手(ももて)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「毛」部に、

百手(――) 射手十六人也。的之面以墨圓相三廻而立之。一番立人曰弓太郎矢カス百射之也。〔元亀本350B〕

百手(――) 射手十六人也。的之面以墨圓相三廻シテ立之。一番立人曰弓太郎数百射之也。〔静嘉堂本421E〕

とある。標記語「百手」の語注記は、「射手十六人なり。的の面、墨を以って圓相を三廻して之れを立つ。一番に立つ人を弓太郎と曰ひ、矢かず百、之れを射るなり」という。『庭訓往来』に見え、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、未収載にある。そして、『庭訓徃來註』正月十五日の状に、

百手達者 射手十六人也。言百人勝云。或以圓相三回、是立。弓太郎弓二郎ト云テ二人矢数百射云々。〔謙堂文庫藏七右E〕

とあって、「射手十六人なり。言は、百人に勝るを云ふ。或は、的を張り、的の面、墨を以って圓相を三回し、之れを立つ。弓太郎・弓次郎と云ひて、二人矢数百射る云々」という。この語注記と比較したとき、「言は、百人に勝るを云ふ。或は、的を張り」を省き、また、「弓次郎」「二人」の語を省略する。『運歩色葉集』の語注記は、この語注記を改編しているがこれに依拠するものであり、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』といった両書における継承関係がここに見て取れるのである。

2001年3月9日(金)晴れのち曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「黙止(もだし)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「毛」部に、

黙止(モダシ) 。〔元亀本349E〕

黙止(モダス) 。〔静嘉堂本420D〕

とある。標記語「黙止」の語注記は未記載にある。『庭訓往来』に見え、『下學集』には未収載にある。広本節用集』は、

黙止(モダシ/ホツ・クチゴモル、トヾム)(カタシ/ナン)。〔態藝門1073A〕

黙止(モダシ) 。〔態藝門1073B〕

とあって、語注記は未記載とする。ここでは、「黙止難」と「黙止」の二語を併記して収載している。このことは、上記の二種を別な独立した意味の語としてみる編者の姿勢が看取できるのある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

(カタシ)黙止(モダシ)。〔・言語進退261D〕

(カタシ)黙止(モダシ)。〔・言語進退222D〕

尭空本節用集』は、未収載。

とあって、これも『庭訓往来』の語と共通する。さらに、『庭訓徃來註』二月廿三日の状に、

黙止者此節也 背花不居也。〔謙堂文庫藏8左E〕

とあり、語注記には、「花に背き、居るべからざるなり」という。これが何を意味するのか考えておく必要がある。文楽「花渡し」の中の文句に、「得心すれば栄える花、背くにおいては忽ちに、丸が威勢の嵐に当て、真此通りと欄にはつしと落花微塵」とあり、この語注記に関っているのではと思うのである。現在、「黙止」は、言うべきことを言わないでいる意にとる。

[ことばの実際]

鳥羽院の御時、越前の平泉寺を、山門へつけられけるには、當山を御歸依あさからざるによ(ッ)て、「非を以(ッ)て理とす」とこそ、宣下せられて、院宣をば下されけり。江帥匡房卿の申されし樣に、「神輿を陣頭へふり奉て、う(ッ)たへ申さむには、君いかゞ御ぱからひ候べき」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし。」とぞ仰ける。《語訳:捨てておくわけには行かない》《『平家物語』巻第一・願立129M》

2001年3月8日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)

「刀祢・刀根(とね)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登」部に、

刀祢(トネ) 濱。〔元亀本56C〕

刀祢(トネ) 濱。〔静嘉堂本63B〕

刀祢(トネ) M。〔天正十七年本上32ウB〕

刀祢(トネ) 濱。〔西来寺本〕

とある。標記語「刀祢」の語注記は、「濱」という。『庭訓徃來註』には「刀祢」と見え、『下學集』は未収載にある。広本節用集』は、

刀禰(トネ)。〔人倫門127G〕

とあって、同じ「とね」の読みでも表記を異にし、意味も異なっている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』には、

刀祢(トネ) 舩。〔・人倫42A〕

刀祢(トネ) 舩。〔・人倫42H〕

刀祢(トネ) 舩。〔・人倫39E〕

刀祢(トネ) 舩。〔・人倫46F〕

とあって、その語注記はすべて「舩」という。ここで、印度本系統の『節用集』類と『運歩色葉集』の一語の注記内容が「舩」と「濱」と大いに異なった語注記で収載されていることに気づくのである。これを『庭訓徃來註』卯月十一日の状は、

淀河尻刀根 山城旅人宿所云刀根|。〔謙堂文庫藏二八右@〕

とあって、謙堂文庫本と等しい表記にあり、むしろ天理本が元の『庭訓往来』をもって訂正した形態となっている。その語注記は「山城にあり。旅人の宿所を刀根という」と表記字も「祢」を「根」で表記し、異なるものとなっている。そして、この語注記も古辞書『節用集』類や『運歩色葉集』とはつながりを有していない。当代の『日葡辞書』に、

Tone.トネ(刀禰) 淀(Yodo)と川尻(Cauaxiri)と,この二つの河を航行する人々を泊まらせ,それらの人々と取引をする宿泊所の主.§Yodo,cauaxirino tone.(淀,川尻の刀禰)このような問(Toi)に似た役目を負っている人.※淀と川尻とを二つの河の名としたのは誤解である.⇒Toi(問).〔邦訳660r〕

とあって、この意義説明は『庭訓徃來註』に近似たものである。

2001年3月7日(水)晴れのち曇り。東京(八王子) →世田谷(駒沢)

「生涯(シヤウガイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

生涯(シヤウガイ) 。〔元亀本309G〕

生涯(−ガイ) 一――。〔静嘉堂本361G〕

とある。標記語「生涯」の語注記を元亀本は未記載にするのに対し、静嘉堂本は「一生涯」という三字熟語を示す。この「生涯」の語は『庭訓往来』に「生涯之不覚」と見え、『下學集』はこの語を未収載にする。広本節用集』は、

生涯(シヤウガイセイ・ムマルヽ、ホトリ・キワ) 平生三昧。〔態藝門944G〕

とあって、語注記に「平生の三昧」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

生涯(シヤウガイ) 。〔・言語進退244G〕

生涯(シヤウガイ) 平生之三昧也。〔・言語209D〕

生涯(シヤウカイ) 平生之三昧也。〔・言語193F〕

とあって、弘治二年本は『運歩色葉集』と同じく語注記を未記載にするが、永祿二年本尭空本は、広本節用集』などの伊勢本系『節用集』類と同じ語注記「平生の三昧なり」を収載している。ここで、『庭訓徃來註』七月日の状に、

同被‖_下之用竭(ツキ)_ラハ不日持參若有損失生涯{イキタルキワトヨム折角ノ亊也}之不覚也能々可被存知者歟恐々謹言 〔謙堂文庫藏四二左H〕

とあって、謙堂文庫本の書写者による冠頭部の書き込みに、「イキタルキワ」と読む。「折角の事なり」といった和解の読みとその意味を添えている。この「折角」だが、『運歩色葉集』に、

折角(セツカク)前元帝諸易論之五鹿辧朱雲―其――。〔元亀本355C〕

折角(セツカク)前漢元帝召諸易五鹿咄辯朱雲―――。〔静嘉堂本431E〕

とあって、その語注記に「前漢の元帝、諸易を召して之れを論じ、五鹿辯を咄す。朱雲、其の角を折る」とこの「折角」の故事の由来を注記している。広本節用集』にも、

折角(セツカク/ヲル、カト・ツノ)前漢元帝召シテ諸易家シム其同異五鹿吐之。諸儒莫スルコト。召シテ朱雲―入論難セシム。連(シキリ)ニ(トリヒシク) 五鹿君ヲハ。諸儒語曰、五鹿□々朱雲折其角云々。〔態藝門1090C〕

とあって、『運歩色葉集』よりは事の由来を細密に語注記している。すなわち、慢心にある人の心を打ち砕いてやるという『漢書』朱雲傳に依拠する内容となっているのである。これと伊勢本系統『節用集』類にはじまるこの語の注記内容とは聊か異なっているのである。当代の『日葡辞書』には、

Xo<gai.シャウガイ(生涯) Iqeru caguiri.(生ける涯)一生涯,すなわち,生きている間.§Xo<gaino aida.(生涯の間)生きている間,あるいは,命のある間.§Xo<gaini caqete.(生涯に賭けて)Inochini caqete(命に賭けて)に同じ.たとえ命がけであっても,ある事をする.〔790r〕

とある。

[ことばの実際]

生涯 爛醉是――(杜)。《『韻府群玉』二麻韻165右三》

撰集の有るべき由承りしかば、生涯の面目に、一首なり共御恩を蒙らうと存じて候しに、やがて世の亂出で來て、其沙汰なく候條、唯一身の歎きと存ずる候。《『平家物語』忠度都落》

また近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙つて∨、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候ふ者有」と被尋けれ共、射はづしたらば、生涯の恥辱と思ひけるにや、我承らんと申す者無りけり。《『太平記』巻第十二・広有怪鳥を射る事、大系418E》

2001年3月6日(火)晴れ。信州(伊那・飯田)→東京(八王子)

「海老(えび)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の補遺「魚之名」部に、

海老(エヒ) (同)玉篇曰、長鬚虫也。或作蝦。(同)。?(同)。〔元亀本368@〕

海老(エヒ) (同)玉篇曰、長鬚虫也。或作蝦。(同)。?(同)。〔静嘉堂本447D〕

とある。標記語「」の字に語注記として、「『玉篇』に曰く、長鬚虫なり。或は蝦に作る」という。『庭訓往来』に見え、『下學集』に、

(エヒ) 玉篇長鬚虫也。或。又海老(エビ)。〔氣形65@〕 (エビ)。〔氣形64E〕

とあって、この『下學集』の語注記を継承する。広本節用集』は、

(ヱビ/) 玉篇曰、長鬚虫。又蜆同合紀縁毘(ヱビ)也。或鰕。又海老(ヱビ)。〔氣形701B〕

とある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

海老(エビ) 或云?。又云蜆。(同)玉篇曰、長鬚虫也。又云蝦トナス。〔・畜類194B〕

海老(エヒ) 或云、?(ヱヒ)。又云鰕玉篇曰、長鬚也。(エヒ)・畜類160C〕

海老(エヒ) 或云、?。又云鰕玉篇云、長鬚也。〔・畜類149E〕

とあって、少しく排列に異同が見られるがやはり『下學集』を基盤に継承している。これを『庭訓徃來註』五月日の状に、

〓〔魚+豕〕鱗(ウルカ)烏賊(イカ)辛螺(ニシ)栄螺(サタイ/サヽイ)〓〔虫+耆〕交雑魚 海老玉篇云、長鬚之虫也。〔謙堂文庫藏三三右G〕

とあって、これもまた、『下學集』から引用しているのである。

[ことばの実際]

 

2001年3月5日(月)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)⇒信州(浅間温泉)

「重陽(テウヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「天」部に、

重陽(デウヤウ) 九月九日也。月与日倶應陽数也。重九()。〔元亀本246C〕

重陽(デウヤウ) 九月九日也。月与日倶應陽數也。重九(テウキウ)同(ヲナシ)。〔静嘉堂本284E〕

とある。標記語「重陽」の語注記は「九月九日なり。月と日と倶に應陽の数なり」という。『庭訓往来』に見え、『下學集』に、

重陽(テウヤウ) 九月九日ナリ也。月令、九月九日与日倶陽数。故重陽。此日採(ケン)スル觀音壽命長遠ナリ也。起於彭祖(ホウソ)カ古事也。〔時節30B〕

とあって、その語注記は、「九月九日なり。『月令』に云く、九月九日は月と日と倶に陽数に應ず。故に重陽と云ふ。此の日菊を採りて觀音に献ずる則は壽命長遠なり。彭祖が古事に起こるなり」という。広本節用集』には、

重陽(チヨウヤウ・ヲモシ/シゲシ・カサナル、ミナミ) 又云重九|。拵九八|。周易曰、天。秋相應。仍曰重陽月令曰、重陽日菊黄花亊林廣記云、九月九日、爲重陽文帝云、歳往(ユキ)月來、忽復九月九日。九(カス)ト。其(ソレ)(ヒ)月並(ナラヒ)。故重陽|。續齋諧記云。汝南桓景随費長房游学。謂曰九月九日。汝家當災異。急令家人。縫綵嚢。盛(モリ)茱萸臂上。登高菊花酒。此禍乃銷景従其言。舉家登山。各還而鷄犬一時暴死仙書云、茱萸辟邪翁。菊花延壽客。故此物。以消陽九之厄。尓晋陽秋曰、陶潜九月九日遂於宅邊。採菊花。盈(ミチ)テ(ハ)ニ(ノソミ)見。白衣人至。乃王弘送酒。飲醉而歸。晋孟嘉傳云、嘉為桓温参軍。重九之日、遊龍山行察佐畢集嘉醉有風吹落嘉帽。而不覚。夢臺録云、重都卜賞菊酒花縛成洞戸。〔時節門156B〕

とあって、収載部門も「知」部とし、語注記は、『下學集』の『月令』による語注記より大幅に増補され、典拠も『周易』『亊林廣記』『文帝』『續齋諧記』『仙書』晋『陽秋』晋『孟嘉傳』『夢臺録』とあって多彩な説明内容の記載となっている。ただし、この語注記のうち、『亊林廣記』以下の説明は、『亊林廣記』の「重九」「登高」「白衣酒」「龍山」に依拠する。これに対し、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

重陽(チウヤウ) 節名。九月九日。〔・時節196C〕

重陽(テウヤウ) 節名。九月九日。月令、九月九日月与日倶應陽数。故――也。此日採菊献観音。則壽命長遠ナリ也。起於彭祖亊。〔・時節162A〕

重陽(テウヤウ) 九月九日。月令、九月九日月与日倶應陽数。故云――也。此日採菊献観音。則壽命遠也。起於彭祖亊。〔・時節151E〕

とあって、弘治二年本は語注記を簡略化し、他二本は、『下學集』を継承する。これを『庭訓徃來註』九月九日の状に、

九月九日 佩茱萸食餌飲菊酒令長壽又採茱萸即万吉、又長生也。尺素曰、菊花赤飯九日興味也。〔謙堂文庫藏五一左I〕

とあって、古辞書『下學集』『節用集』『運歩色葉集』とは異なる資料からの収載となっている。当代の『日葡辞書』には、

Cho>yo<.チョゥヤゥ(重陽) Cuguatno coconocano coto.(九月九日のこと)〔陰暦〕九月の九日.〔邦訳129l〕

とある。

[ことばの実際]

重陽 東坡云嶺南氣候不常菊開時節――十月宴賞号小――(歳時雜記)菊花何太苦遭此兩――(李詩)。〔『韻府群玉』二陽韻・174右E〕

茱萸 西京雜記云、漢武帝宮-人賈-佩-蘭佩茱萸食餌菊酒云令長壽ナラ。〔『事林廣記』歳華紀麗巻三14右B〕

2001年3月4日(日)曇り雨のち晴れ間。八王子→世田谷(玉川⇒駒沢)

「纏頭(テンドウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「天」部に、標記語「纏頭」の語は未収載にある。『庭訓往来』に見え、『下學集』に、

纏頭(テンドウ) 遊伎([ユウ]ギ)ノ之賄賂(ワイロ)ナリ也。〔態藝81@〕

とあって、その語注記は、「遊伎の賄賂なり」という。広本節用集』には、

纏頭(テンドウ/マトウ、カウベ) 賜義。又遊伎賄賂(ワイロ)也。〔態藝門738@〕

とあって、語注記の冠頭部に「賜ふ義」を増補し、「又」として『下學集』の語注記を継承する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』に、

纏頭(テンドウ) 遊伎之賄賂也。〔財宝198B〕

纏頭(テンドウ) 遊伎之賄賂也。〔財宝163E〕

纏頭(テントウ) 遊伎之賄賂也。〔財宝153@〕

とあって、『下學集』をそのまま継承している。これを『庭訓徃來註』五月五日の状に、

亦散々候也ンハ御扶持今度之恥辱助成者生前大幸也臨時客人纏頭外无 纏頭見_上也。言客人見上ヨリ。又傾城賜物也。傾城一夜召、暁傾城スニタル々裳賜也。其傾城取皈_間云尓。是言大名等慰申道-具也。故用之也。〔謙堂文庫藏三〇左E〕

とあって、「纏頭は見_上なり。言は客人の見上より外は无し。又傾城に賜はる物なり。傾城を一夜召し、暁に傾城を皈すに、肌に衣たる衣裳を抜ぎて賜ふなり。其れを傾城が取りて頭に纏ひて皈_間に尓云ふ。是の言は彼も大名等を慰さめ申すの道-具なり。故にこれを用ゆるなり」とその語源を説明した古辞書『下學集』『節用集』『運歩色葉集』とは異なる資料からの詳細な注記内容の収載となっている。これを古版『庭訓徃来註』では、

纏頭(テントウ)之外無(タ)卒尓(ソツジ)纏頭ハ。カシラニマトフトヨメリ。〔下五ウ二〕

とあって、この標記語「纏頭」の語注記は、「纏頭とは、かしらにまとふとよめり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

纏頭(てんとう)客人外(ほか)(た)(なし)。纏頭之外無他卒尓纏頭ハ衣類なと人にあたふるを云。又被物(ひふつ)ともいふ。かつけものといふなり。人に衣類を玉ふにハ其人になけかけて玉ふゆへ纏頭とも被物ともいふなり。他なしとハこの外に饗應せん事ハなしとなりある本にハ轉倒の外無他とあり。轉倒ハまろひたをるゝと讀む。されハ不時の客來にてうろたへたる外せん方なしといふ事なり。〔三十二オ二〕

とし、標記語「纏頭」の語注記は「纏頭は、衣類など人にあたふるを云ふ。また、被物ともいふ。かづけものといふなり。人に衣類を玉ふには、其人になげかけて玉ふゆへ纏頭とも被物ともいふなり」とする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

纏頭(てんとう)客人外(ほか)(た)(なし)。纏頭之外無他卒尓纏頭之外無他とハ兎(と)やせん角やせんと頭(かうべ)を纏(めくら)し思案(しあん)にくるゝより外(ほか)の事ハなきといふ意(い)なるべし。〔二十六ウ六〕

纏頭(てんとう)(の)(ほか)(な)し(た)卒尓(そつじ)の纏頭之外無他とハ兎(と)やせん角やせんと頭(かうべ)を纏(めくら)し思案(しあん)にくるゝより外(ほか)の事ハなきといふ意(い)なるべし。〔四十七ウ二〕

とあって、標記語「纏頭」の語注記は「兎やせん角やせんと頭を纏し思案にくるゝより外の事ハなきといふ意なるべし」とある。当代の『日葡辞書』には、

Tendo>.テンドウ(纏頭) 遊女に与えられるある絹の着物。または,反物.§また,取り乱すこと.〔邦訳644r〕

とあって、『庭訓徃來註』の注記内容を端的に説明しているものといえる。ここで、「遊伎」「傾城」「遊女」という異なる表記の類語表現が確認できる。

[ことばの実際]

纏頭 唐王元寳富而無學嘗會客明日人問必多佳話元寳曰但費―――耳 謂歌舞者利物。謝阿蠻善舞上就按樂於清元殿寧王吹笛上鞨鼓妃琵琶秦國夫人端坐視之上戯曰樂籍今日幸得供奉夫人請一纏頭對曰豈有大唐天子阿姨無錢用耶遂出三百萬爲一局(楊妃外傳)。〔『韻府群玉』二466左A〕

2001年3月3日(土)晴れのち曇り。八王子→世田谷(駒沢)

静やかに 鳥渡り来や むめの花

「尺八(シヤクハチ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、標記語「尺八」の語は未収載にある。『庭訓往来』に見え、『下學集』に、

尺八(シヤクハチ) 唐玄宗皇帝善(ヨク)(フク)。後年有祿(ロク)|。古句十字街頭(カイトウ)ニ尺八也。〔元和本・器財111F〕

尺八(――) 唐玄宗皇帝善吹之。後十年有祿山乱古句云。十字街頭吹尺八。〔古写本前田家蔵・器財64B〕※古写本は「後十年」と表記。元和本の誤写表記。

とあって、その語注記は、「唐の玄宗皇帝、善くこれを吹く。後に十[二]年、祿山の亂有り古句に云く、十字街頭に尺八を吹くなり」という。広本節用集』には、

尺八(シヤクハチせキ・ハカリ、―) 唐玄宗善吹之。後十年有祿山|。古句云、十字街頭尺八也。〔器財門926E〕

とあって、『下學集』の語注記を継承する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』に、

尺八(シヤクハチ) 唐玄宗吹之。〔・財宝242@〕

尺八(シヤクハチ) 唐玄宗吹之。後十年有祿山乱|。古句云十字街頭吹――。〔・財宝207G〕

尺八(シヤクハチ) 唐玄宗吹之。後十年有祿山乱|。古句云十字街頭吹――。〔・財宝192A〕

とあって、弘治二年本は簡略して収載し、他二本はそれぞれ、広本節用集』と同様に継承している。これを『庭訓徃來註』七月日の状は、

尺八 唐開元中、僧法秀入終南山。至絶壁所見雲霧掩苒崎嶇。異僧命〓〔火+主〕香望屑層之。忽雲霧開見崖半。有寺額曰、回向。秀具儀謁上方宿老、々宿携秀入空房、呼侍者尺八俄項ニシテ侍者持玉簫至。老宿曰、此唐天子旧居室也。向(サキ)ニ此好声樂。故降人主久。當後皈秀再拜老宿。授-与玉簫。并袈裟嘱曰皈唐天子。秀慨歎詣表上。所寄帝覽之、取玉簫調弄宛如鳳御焉。其後燕沈香亭帝吹玉簫。楊妃起舞懽甚云々。然則尺八乃是簫之異{}也。弄玉簫史風臺之遺声者、蓋斯之謂乎。或詩曰、空有玉簫千載後遺声、時到世間來。又吾本邦宇治僧始傳之。年紀姓氏不分明。尓ヨリ杜撰僧風顛薦、爲定余伴〓〔口+羅〕齊資之。當世数奇族雖貴介公子、雷同以或爲花鳥使之便。或作哥舞曲之具聽者无感歎也。果シテ是不亡国之音。又玄宗時、洛陽袈裟縫僧アリ。或時異僧来袈裟五百条誂異僧遂袈裟縫僧引終南山回向寺入。彼僧尺八袈裟トシテ以奉玄宗也云々。〔謙堂文庫蔵四二右C〕

とあって、『下學集』の語注記とは異なる資料によって注記内容を収載している。当代の『日葡辞書』には、

Xacufachi.シヤクハチ(尺八)われわれの笛と同じように,縦にして吹奏する笛の一種.⇒次々条.〔邦訳741l〕

Xacufat.シャクハッ(尺八)同上.⇒次条.〔邦訳741r〕

†Xacufat.l,Xacufachi. シャクハッ.または,シャクハチ(尺八) 竹製の笛の一種.〔邦訳741r〕

とある。

[ことばの実際]

尺八 明皇夢見終南山廻向院布施有狂僧尋至其院院有老僧曰汝主昔在院愛―――謫在人間今限滿當歸可持尺八付之上得尺八吹之如先所習者後十年有禄山(逸史)。〔『韻府群玉』五177左@〕

2001年3月2日(金)晴れ。八王子→世田谷(駒沢)

「高麗(カウライ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀」部に、

高麗(カウライ)。〔元亀本91C〕

高麗(カウライ)。〔静嘉堂本112E〕

高麗(―ライ)。〔天正十七年本上55オG〕

高麗(カウライ)。〔西来寺本157B〕

とある。『運歩色葉集』は、「高麗」を標記語のみで収載し、その対象語を標記語にして

朝鮮國(テウセンコク)高麗(カウライ)之亊。<静嘉堂本286B>

三韓(−カン)曰高麗。<静嘉堂本316G>

とし、いずれも語注記に「高麗」の語を示している。『庭訓往来』に見え、『下學集』に、

高麗(カウライ) 又云朝鮮國。又云三韓。〔天地20C〕

とあり、広本『節用集』には、

高麗(カウライ/―レイ・タカシ、ウルワシ) 或云朝鮮國(テウセンゴク)ト。又云三韓(―カン)ト。〔天地門253E〕

とこれを継承する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本・両足院本節用集』に、

高麗(カウライ) 又云三韓(カン)。又云朝鮮国(テウセン)。〔・天地74C〕

高麗(カウライ) 又云三韓(カン)ト。又云朝鮮国。〔・天地74A〕

高麗(カウライ) 又云三韓。又云朝鮮国。〔・天地67A〕

高麗(カウライ) 又云三韓。又云朝鮮國。〔・天地79F〕

とあって、語注記の前後を逆にしているが、これも『下學集』を頂点として継承するものである。

これを『庭訓徃來註』四月十一日の状にあっては、

奥漆筑紫穀或異国唐物高麗珎物 高麗朝鮮国。又云。〔謙堂文庫藏三〇右C〕

とあって、「三韓」の語を「三朝」と置換しているが、まさに、『下學集』の語注記を継承するものである。

2001年3月1日(木)雨。八王子→世田谷(駒沢)

「観世(クワンゼ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

観世(―ゼ)伊賀国服部(ハツトリ)也。紋矢筈也。〔元亀本149B〕

観世(――)伊賀国服部也。紋矢筈也。〔静嘉堂本〕

観世(――)伊賀国服部也。紋矢筈也。〔天正十七年本中39オD〕

とある。標記語「観世」の語注記は、「伊賀国服部なり。紋は矢筈なり」という。この注記内容だが、『庭訓徃來註』卯月五日の状「申楽」の語注記「観世」箇所に、

申楽{猿}《前略》観世保昌名也。彼人々伊賀国服部殿。彼等兄弟春日御霊夢春日神楽衆ヨリ∨参有告。其時奉故名字ヲハ服部名乗観世衆ヲモ夕鷺伊賀在名也。保昌ヲハ土肥衆云。大和国在名也。是知行。観世保昌矢筈也。《後略》〔謙堂文庫蔵二一左F〕

とあって、「観世保昌と云ふは、児の名なり。彼の人々は、伊賀の国服部殿の子なり。彼等兄弟、春日の御霊夢に春日の神楽衆へ参り為すより告げあり。其の時奉る故に名字をば服部と名乗り、観世衆をも夕鷺と云ふは伊賀の国に有る在名なり。保昌をば土肥衆と云ふ。大和国の在名なり。是れを知行す。観世保昌の紋は矢筈なり」という語注記からの抄出となっている。

 古辞書では、唯一この『運歩色葉集』に収載が見えるだけで、『下學集』、広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には未収載の語である。

[関連語]⇒『運歩色葉集』「申楽」(2000.07.05)「秦河勝」(1999.10.06)

UP(「ことばの溜め池」最上部へ)

BACK(「言葉の泉」へ)

MAIN MENU(情報言語学研究室へ)

 メールは、<(自宅)hagi@kk.iij4u.or.jp.(学校)hagi@komazawa-u.ac.jp.>で、お願いします。

また、「ことばの溜め池」表紙の壁新聞(「ことばの情報」他)にてでも結構でございます。