2001年4月1日から日々更新
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2001年4月30日(月)雨。東京(八王子)⇒
「簀子(すのこ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須」部に、
簀子(スノコ)。〔元亀本360B〕
簀子(スノコ)。〔静嘉堂本438E〕
とある。標記語「簀子」の語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に「簀子」と見え、『下學集』は、
簀子(スノコ)。〔家屋55A〕
とあって、語注記は未記載とする。広本『節用集』には、
簀子(スノコ/サクシ) 玉篇云、側革切。牀簀也。桟也。〔家屋門1122@〕
とあって、『下學集』に語注記がないところに、「玉篇に云く、側革の切。牀簀なり。桟なり」と『玉篇』の注記を引用する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
簀(スノコ/サク) 或作‖簀子(スノコ)|。玉篇云、側革切。牀簀也。桟也。〔弘・天地267E〕
簀(スノコ) 或作簀子。玉篇云、側革切。牀簀也。桟也。〔永・天地229B〕
簀(スノコ) 或作箕子。玉篇云、側革切。牀―也。桟也。〔尭・天地215B〕
とあって、標記語を単漢字「簀」とし、「或作○○」注記形態をもって「簀子」を記し、その後は広本『節用集』の語注記形態を援引している。易林本『節用集』寸部は、
簀子(スノコ/せキ―)。〔乾坤238A〕
とあって、語注記は『下學集』『運歩色葉集』と同じく未記載にしている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
149角木縁短柱簀子唐垣 中唐ニシテ見ヘ不∨通也。〔謙堂文庫蔵一八右@〕
とあって、この語に対する語注記は見えない。当代の『日葡辞書』には、
Sunoco.スノコ(簀子) 家の中に,地面から少し高く作る簀の子.§Sunoco ye〜.(簀子縁)竹の簀の子で作った縁側. ※原文はVarada.〔邦訳589l〕
とある。
2001年4月29日(日)晴れ午後から雨模様。東京(八王子)⇒
「短柱(つかばしら)」&「客櫓(キヤクロ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津」部に、
短柱(ツカバシラ)。束柱(同)。〔元亀本158G〕
短柱(ツカバシラ)。束柱(同)。〔静嘉堂本174D〕
短柱(ツカハシラ)。束柱(同)。〔天正十七年本中18ウD〕
とある。標記語「短柱」束柱」の読みは、「つかばしら」で、語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に「短柱」と見え、『下學集』は、
束柱(ツカハシラ) 束或ハ作ス∨短ニ。〔家屋56D〕
とあって、標記語を「束柱」で示し、語注記には「束、或いは短に作す」と共通表記の字体として注記する。広本『節用集』には、
束柱(ツカバシラ/ソクチウ.ツカヌル,―) 或作‖短柱(ツカバシラ)|。〔家屋門410C〕
とあって、『下學集』の語注記形態を援引する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
束柱(ツカハシラ) 又短柱。〔天地125C〕
束柱(ツカハシラ) 或作∨短柱。〔天地103A〕
束柱(ツカハシラ) 或作短―。〔天地93E〕
とあって、いずれも『下學集』の語注記形態を同様に援引している。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
149角木縁短柱簀子唐垣 中唐ニシテ見ヘ不∨通也。〔謙堂文庫蔵一八右@〕
とあって、語注記のなかでは『下學集』『節用集』が標記語とした“異表記字形”である「束」の字については一切触れずじまいである。そして、『運歩色葉集』は、その字形を単に注記するのではなくして、『庭訓徃來』の標記語を先出させ、次いで『下學集』『節用集』の標記語である「束柱」を示す形態をとっているのである。このことは、『運歩色葉集』がこの『庭訓徃來』及び『庭訓往来註』をより意識して編纂していることを私たちは理会するこにもなろう。当代の『日葡辞書』には、
‡Tcucabaxira.ツカバシラ(束柱) →Qiacuro.;Tcu-ca(束).〔邦訳622l〕
Qiacuro. キャクロ(客櫓) すなわち,Tcucabaxira.(束柱) 他の木材の上とか,梁の上とかに据える短い中柱であって,その上に他の木材を載せて据えるためのもの.〔邦訳492r〕
とある。ここでは、新たに「束柱」が「客櫓」という語でも当時表現されることを示している。これを古辞書では『下學集』は未收載にあり、広本『節用集』に、
客櫓(キヤクロ/カク―.アヅマ,サヲ) 家ノ材木也。〔家屋門810F〕
とあって、語注記に「家の材木なり」という。また、『運歩色葉集』幾部に、
客櫓(―ロ)。〔静嘉堂本325B〕
とあり、易林本『節用集』幾部に、
客櫓(―ロ)。〔乾坤184B〕
と収載するが語注記は未記載にある。本邦の古辞書からは、この「束柱」と「客櫓」とを同等のものという観方は見えてこない。本邦古辞書を見ていく上で『日葡辞書』によること、現代の私たちにとっては大であることをここに記しおく。
2001年4月28日(土)晴れ。東京(八王子)⇒目白
「角木(つのぎ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津」部に、
角木(―ギ)。〔元亀本158E〕
角木(ツノキ)。〔静嘉堂本174A〕
角木(ツノキ)。〔天正十七年本中18ウA〕
とある。標記語「角木」の読みは「つのぎ」とし、語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、
角木(スミキ)。〔家屋57@〕
とあって、その読みは「スミキ」であり、語注記はやはり未記載にある。広本『節用集』には、この標記語を「ツノギ」「スミキ」のいずれにも収載をみない。これを受けて印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にも未收載となっている。何故、『節用集』類はこの語を採録しなかったのだろうか。また、詳細改編著しい広本『節用集』を筆頭に、『下學集』と『運歩色葉集』との狭間をうめて考察すべき上記の『節用集』が未收載にあるのに対し、後の易林本『節用集』には、
桷(スミギ)。〔乾坤238B〕
とあって、「角木」の字を単字形にした文字「桷」(現在、この字を「たるき」と読む)をもって「すみぎ」の読みで収載する。こういった流布系統の『節用集』の表記や読みを『運歩色葉集』は、これまた「須」部に、
桷(スミキ)。〔元亀本362C〕 桷(スキ)。〔静嘉堂本441E〕
と採録する。その上での「つのぎ」であることをどう理会するかであろう。『運歩色葉集』の編者をして『下學集』の記述をまったく継承せず、新たな意味概念に基づくところの編纂姿勢をここに見ることにもなるまいか。その三月十二日の状に、
149角木縁短柱簀子唐垣 中唐ニシテ見ヘ不∨通也。〔謙堂文庫蔵一八右@〕
とあって、この「角木」に対する語注記はここでは未記載にある。当代の『日葡辞書』には、
Sumigui.スミギ(角木・桷) 家の角のところに外へ突き出ている桁.〔邦訳588l〕
Tcunogui.ツノギ(角木) 鏃(やじり)として角のついている矢.〔邦訳631l〕
とあって、「すみぎ」と「つのぎ」といった「角木」の同形異義における両用の読み方による使い分けをここに確認することができる。これをもってすれば、『運歩色葉集』の編者は、「桷」の字形で家屋の「すみぎ」を表出し、『庭訓徃來』の「角木」の字形で家屋の「すみぎ」でなく、弓矢の鏃である「つのぎ」を示しているものと推定するに留まる。ここに『運歩色葉集』の意義分類表示を明確にしなかった難度さがあるといえよう。
2001年4月27日(金)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「杣取(ソマドリ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「楚」部に、
杣取(ソマドリ)。〔元亀本154C〕
杣取(ソマトリ)。〔静嘉堂本169A〕
とある。標記語「杣取」の読みは、元亀本は第三拍を濁音表記し、静嘉堂本は清音とする。そして、語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。広本『節用集』には、
杣取(ソマドリ/―,シユウ)。〔態藝門399B〕
とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、『下學集』同様未収載となっている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
141爲(タメ)ニ‖杣取|令∨誂候畢 番匠ハハ先木ヲ可‖見_知|。肝要也。荘子人間世篇ニ云、匠石ハ番之名也。石ハ云‖杣取|也。至‖于曲轅|見‖櫟社ノ樹|。其大サ蔽‖数千牛|繋∨之ヲ百囲也。其高臨∨山ヲ。十仭シテ後ニ有∨枝。其可‖以爲(ツクル) ∨舟ニ者、旁十数アリ。観者如∨市ノ。匠伯不∨顧遂ニ行不∨輟。弟子厭マテ観∨之。走及‖匠石ニ|。自下吾執‖斧斤|以隨中天子ニ上。未下嘗見中材ノ如∨此其美ルヲ上也。先生不‖肯観|行不ルコト∨輟何ソヤ。曰已(ヤメ)矣。勿∨言フ是散木也。以爲ル∨舟則沈ム。以爲ハ‖棺槨ニ|則速ニ腐チン。以爲ハ∨器則速ニ毀ナン。以爲‖門戸|液満ス。爲∨柱蠧。是不材ノ木也。无∨所∨可∨用。故能如∨此寿カシト云。〔謙堂文庫蔵一七左A〕
とあって、その語注記に、「番匠は先づ木を見知るべきが肝要なり。『荘子』人間世篇に云く、匠石は番の名なり。石とは杣取りを云ふなり。曲轅に至り櫟社の樹を見る。其の大きさ数千の牛を蔽す、之れを繋ぐこと百囲なり。其の高さ山を臨むに十仭して後に枝有り。其れを以って舟に爲(ツク)るべきは、旁らに十数あり。観る者、市の如し。匠伯顧みずして遂に行き輟まず。弟子、厭まで之れを観る。走りて匠石に及ぶ。吾が斧斤を執りて以って天子に隨ひ自り、未だ嘗って材の此くの如き其の美なるを見ざるなり。先生肯て観ず。行き輟めざること何ぞやと曰ひて已(ヤメ)ん。言ふこと勿れ。是れ散木なり。以って舟を爲る則んば沈む。以って棺槨に爲るは、則ち速やかに腐ちん。以って器に爲るは則ち速やかに毀ちなん。以って門戸と爲るに液満す。柱に爲るに蠧す。是れ不材の木なり。用るべき所无し。故に能く此の如き寿かしと云ふ」と、典拠としては『荘子』人間世篇を引用して注記する。この説話内容が古辞書の方面に全く記載が見られないことも注目視してよかろう。当代の『日葡辞書』には、
Somadori.ソマドリ(杣取) 山林の中で,鋸で引いたり切ったりすること,すなわち,木材を作ること.〔邦訳571l〕
とある。
[ことばの実際]
周防の国は、去る年四月五日、東大寺造営の為に寄付せらるるの間、材木の事、彼の国に於いて杣取り等有り。而るに御家人少々武威を輝かし、妨げを成す事有るに依って、勧進聖人重源在廰等の状を取り、公家に訴え申すの間、その解状を関東に下され、子細を尋ね仰せらるる所なり。《『吾妻鏡』文治三年四月二十三日 甲午》
匠石之齊,至于曲轅,見櫟社樹。其大蔽數千牛,囗(“契”字以“系”代“大”,音xie2)之百圍,其高臨山十仞而后有枝,其可以為舟者旁十數。觀者如市,匠伯不顧,遂行不輟。弟子厭觀之,走及匠石,曰:‘自吾執斧斤以隨夫子,夫嘗見材如此其美也。先生不肯視,行不輟,何邪?”曰:“已矣,勿言之矣!散木也。以為舟則沈,以為棺槨則速腐,以為器則速毀,以為門戸則液囗(“瞞”字以“木”代“目”,音man2),以為柱則蠹,是不材之木也。無所用,故能若是之壽。”《『荘子』第四人間世篇》
2001年4月26日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「虹梁(コウリヤウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古」部に、
虹梁(コウリヤウ)。〔元亀本233D〕
虹梁(コウリヤウ)。〔静嘉堂本268D〕
虹梁(コウリヤウ)。〔天正十七年本中63オB〕
とある。標記語「虹梁」の語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。広本『節用集』には、
虹梁(コウリヤウ/ニジ、ウツバリ) 大ナル材木也。〔家屋門653E〕
とあって、その語注記に「大なる材木なり」という。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
虹梁(コウリヤウ) 材木。〔弘・天地184B〕〔永・天地151C〕〔尭・天地141C〕
とあって、広本『節用集』の語注記を簡略化した注記形態で「材木」となっている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
140作亊者桁(ケタ)梁柱長押(ナケシ)棟木板敷材木ハ者爲‖虹梁|之間 桁ハ見‖鴛{|。長押漢ニハ云‖承塵。虹梁家ノ水府也。梁ノ上ニ曲折ノ木ヲ横也。即虹ノ形也。梁魚ノ梁。石絶∨水曰∨梁也云々〔謙堂文庫蔵一七左@〕
とあって、「虹梁」の語注記だけを見ると、「家の水府なり。梁の上に曲折の木を横たふなり。即ち虹の形なり。梁魚の梁。石水に絶し梁と曰ふなり云々」とある。また、左貫注に見える書込み注記は、広本『節用集』の語注記に等しいことから、この箇所は左貫注だけの書込みと広本『節用集』との連関性が新たに表出してきていることからも、この書込みの詳細な調査研究が今後必要となってきている。
また、当代の『日葡辞書』に、
Co>rio<.コゥリャゥ(虹梁) Nijino vtcubari.(虹の梁)家を補強する目的で,家の中にさし渡す横材,すなわち,梁.〔邦訳150r〕
とある。
[ことばの実際]
大名 ハハア、虹梁(こうりヨう)・蛙股(かえるまた)・破風(はふ)。ヤイ太郎冠者。《大名狂言『鬼瓦』大系上183G》
朝比奈語りつづける されば古郡(ふるこおり)がつつぬき さげ切(ぎ)り、數(かず)を知らず、こう申す朝比奈が人礫(ひとつぶて)、目を驚かすところに、親にて候義盛 使者を立て、何とて朝比奈には門(もん)破らぬぞ、急ぎ破れとありしかば、畏って候とて、やがて馬より飛んでおり、ゆらりゆらりと立ち越ゆる。内よりも、スワ 朝比奈こそ門破れ、破られては叶わじと、八本(はちほん)の虹梁(こうりヨう)をかけ、大釘(おおくぎ)大鎹(おおかすがい)を、打ち貫(ぬ)き打ち貫きしたりしは、たださながら劒(つるぎ)の山のごとくなり。《鬼山伏狂言『朝比奈』下118O》
2001年4月25日(水)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「註進(チウシン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地」部に、
註進(チウシン)。〔元亀本64G〕
註進(―シン)。〔静嘉堂本75F〕
註進(チウシン)。〔天正十七年本上38オB〕
註進(チウシン)。〔西来寺本116C〕
とある。標記語「註進」の語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。広本『節用集』には、
注進(チウシン/トク・アラワス,スヽム)注与∨註同。〔態藝門173D〕
とあって、標記語を「注進」とし、その語注記に「注は註と同じ」とその相通字として記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
注進(チウシン) 注与∨註同。〔弘・言語進退54B〕
注進(チウシン) 。〔永・言語54C〕〔両・言語58@〕
注進(チウシン)―文。〔尭・言語49A〕
とあって、弘治二年本だけが広本『節用集』の語注記と一にする。これを『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
139尋_捜ヲ、追テ可∨申‖註進ヲ| 无沙汰ノ人ヲ尋出云也。〔謙堂文庫蔵一七右H〕
とあって、その語注記に「沙汰の无き人を尋ね出すを云ふなり」という。当代の『日葡辞書』には、
Chu'xin.チウシン(注進) 陣中から主君に対して,戦争の経過とか,その他の事とかに関する情報を送ること.§Chuxinuo mo<su,l,suru.(注進を申す,または,する)上のような情報を送る,あるいは,情報を知らせる.⇒Voivoino.〔邦訳131r〕
とあって、下記の天草版『平家物語』の文意にあうが、『庭訓徃來註』の注記内容とは異なっている。次の狂言集『武惡』の用例もやはり文意が異なる。
[ことばの実際]
木曾といふ所は信濃にとつても南のはしで、美濃國の境ぢやによつて、都へも無下に近かつたほどに、平家の人々洩れきいて、これはなんとせうぞというて、皆さわがれたれば、清盛、これをきいて、「それは心憎うも思はぬ。信濃一國の者こそ從ひつくとも深いことはあるまいぞ。」といはるゝうちに、又河内國にも敵が出來、伊豫の河野かはのを初めとして、南海道には熊野の別當も平家にそむき、九州の者共も殘り少なに敵になつたと注進をしたれば、今度は宗盛自身東國へ向はうずるといはれたれば、皆、「この儀はしかるべからうず。《天草版『平家物語』巻第三132M》
瀬田をば稻毛の三郎が謀はかりことで、供御ぐごの瀬を渡いて、軍がやぶれたれば、鎌倉殿へ飛脚を以て合戰の次第を注進申されたに、鎌倉殿のまづ御使に、「佐々木はなんと。」と尋ねさせられたれば、「宇治川の眞先き。」と申す。《天草版『平家物語』巻第三199P》
太郎冠者今 來(く)るも別なることでもおりない。ちと そなたに注進(ちユうしん)あって參った。武惡ヤ、注進。《狂言集・大名狂言『武惡』大系上229G》頭注「知らせることがあって」
2001年4月24日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「實否(ヂツブ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
實否(ヂツブ) 。〔元亀本308F〕
實否(―フ) 。〔静嘉堂本360B〕
とある。標記語「實否」の読みは『下學集』が「ジツブ」で、元亀本は「ジ」を「ヂ」で表記するものである。そして語注記を未記載にしている。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
實否(ジツブ) 。〔言辞152@〕
とあって、語注記は未記載にある。広本『節用集』には、
實否(ジツフ/マコト,ヒ・イナヤ) 。〔態藝門940B〕
とあって、読みは「ジツフ」で第三拍めを清音読みにし、これも語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
實否(ジツフ) 。〔弘・言語進退246F〕
實否(シツフ) ―頭{穏當也}。―検。―語。―名。―犯。〔永・言語210@〕
實否(ジツフ) 穏當也。―頭。―検。―語。―名。―犯。―正。〔尭・言語194A〕
とあって、弘治二年本は語注記を未記載にする。また、永祿二年本と尭空本とは同じ冠頭の「實」の熟語を注記し、尭空本は「實頭」の語注記を「實否」の注記として表記している。これを『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
137延引之条恐入候亊ノ實否 言ハ紛失々墜等之義。〔謙堂文庫蔵一七右F〕
※国会図書館蔵左貫注の書込みに、「善悪云ノ義」とある。※天理本は「―フ」と傍訓する。※東大本は、「言紛失々墜等之義」の後に「實否也」を付加する。
とあって、その語注記に「言は紛失・失墜等の義」という。当代の『日葡辞書』には、
Iippu.ジップ(実否) Macotoya inaya.(実や否や)真実か虚偽か.例,Cotono jippuga xirenu.(事の実否が知れぬ)真実か虚偽かがまだ確かにはわからない.§Iippuuo qijte maitta.(実否を聞いて参つた)私は※これまでの経過について確かなところを聞いて,やって来た.※日仏辞書にil vint(彼が来た)と訳したのは誤り.〔邦訳364r〕
とある。
2001年4月23日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「錯乱(サクラン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左」部に、
錯乱(サクラン) 。〔元亀本272C〕
錯乱(サクラン) 。〔静嘉堂本311@〕
とある。標記語「錯乱」の語注記を未記載にする。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
錯乱(サクラン) 。〔疉字159D〕
とあって、語注記は未記載にある。広本『節用集』には、
錯亂(サクラン/マシヱ・アヤマル,ミダル) 。〔態藝門786B〕
とあって、これも語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
錯乱(サクラン) 。〔弘・言語進退214G〕〔永・言語179A〕〔尭・言語168B〕
とあって、『下學集』⇒広本『節用集』⇒印度本系『節用集』、そして『運歩色葉集』も語注記を未記載にする。これを『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
136令シメ∨撰‖吉日良辰|、耕作業ノ最中也。地-下ノ文書ノ之事、或紛失(ジツ)、或失墜、錯乱之由沙汰人等ラ依‖構ノ申ニ| 巧∨言。或号∨有。或号∨无也。〔謙堂文庫蔵一七右D〕※天理図書館蔵『庭訓私記』に、「錯乱ハ咲乱レタル義也」という。
とあって、読みも語注記も明確ではない。当代の『日葡辞書』には、
Sacuran.サクラン(錯乱) 戦争による混乱,すなわち,戦乱.〔邦訳547r〕
とあって、『庭訓私記』と『日葡辞書』とは意味づけが異なっている。
2001年4月22日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
「失墜(シツツイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
失墜(―ヅイ) 。〔元亀本310D〕
失墜(―ツイ) 。〔静嘉堂本362G〕
とある。標記語「失墜」の読みだが元亀本と静嘉堂本とは「ヅ」と「ツ」と第三拍の清濁表記がある。いずれも語注記を未記載にする。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、未收載にある。広本『節用集』には、
失墜(シチツイ/ウシナウ,ヲチル) 。〔態藝門962G〕
とあって、読みは清音で「シチツイ」とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
失墜(シツツイ) 。〔弘・言語進退245F〕
失墜(シツツイ) ―脚。―錯(シヤク)。―念。―食(ジキ)。―礼。〔永・言語210@〕
失墜(シツツイ) ―脚。―錯。―念。―食。―礼。〔尭・言語194A〕
とあって、いずれも読みは「シツツイ」と清音読みをする。これを『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
136令シメ∨撰‖吉日良辰|、耕作業ノ最中也。地-下ノ文書ノ之事、或紛失(ジツ)、或失墜、錯乱之由沙汰人等ラ依‖構ノ申ニ| 巧∨言。或号∨有。或号∨无也。〔謙堂文庫蔵一七右D〕※天理図書館蔵『庭訓私記』に、「失墜はツ井エシツスル事也」という。
とあって、読みも語注記も明確ではない。当代の『日葡辞書』には、
Xittcui.シッツイ(失墜) Vxibai tcuiyasu.(失ひつひやす)出費,または,損失. ⇒次条〔783l〕
†Xittcui.シッツイ(失墜) Vxibai,o<.(失ひ,ふ) すなわち,損耗,または,損失. ⇒Tcuye(費え).〔783l〕
とある。これを見る限りでは、「シッツイ」と「シツツイ」とは同じ読みであり、広本『節用集』の「シチツイ」、さらには『運歩色葉集』元亀本の「(シツ)ヅイ」が読みの異なりとしてあったことを知らねばなるまい。また、『下學集』がこの語をなぜ未收載したのかも考えておく必要があろう。
2001年4月21日(土)曇り後小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「紛失(フンジツ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「福」部に、
紛失(フンジツ) 。〔元亀本223A〕
紛失(フンヂツ) 。〔静嘉堂本255C〕
紛失(フンシツ) 。〔天正十七年本中56ウG〕
とある。標記語「紛失」の読みだが第三拍の清濁表記があるようだ。元亀本と静嘉堂本とは「ジ」と「ヂ」とで四仮名の文字表記が異なるが濁音表記であり、天正十七年本は清音表記にある。いずれも語注記を未記載にする。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
紛失(フンシツ) 。〔言辞155D〕
とあって、第三拍めを清音で表記し、語注記を未記載にする。広本『節用集』には、
紛失(フンシツ/マギレ,ウシナフ) 。〔態藝門636A〕
とあって、『下學集』と同じく第三拍めを清音で表記し、語注記を未記載にする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
紛失(―シツ) 。〔弘・言語進退153A〕
紛失(フンシツ) 。〔永・言語150B〕〔尭・言語140@〕
とあって、いずれも『下學集』⇒広本『節用集』と同じである。これを『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
136令シメ∨撰‖吉日良辰|、耕作業ノ最中也。地-下ノ文書ノ之事、或紛失(ジツ)、或失墜、錯乱之由沙汰人等ラ依‖構ノ申ニ| 巧∨言。或号∨有。或号∨无也。〔謙堂文庫蔵一七右D〕
※天理本書込みに、「マギレウシナウ也/マギリヨウズル也」とある。※国会左貫注の書込みに、「カウヘシ失タルヲ云也」とある。※天理本『庭訓私記』には、「紛失トハ紛レ失スル也」
とあって、この語の読みに「―ジツ」とあって、『運歩色葉集』の元亀本と共通する。静嘉堂本の「ヂツ」の表記は如何なものかとなるが、室町時代中期にける「ジ」と「ヂ」の区別がつき難くなってきている一事象をここでも示唆しているのであるまいか。撥音「ン」のあとに位置する「ジ」の音価[nzi]と「ヂ」の音価[ndzi]の音声等価は、鼻音によって促進されたともいえよう。当代の『日葡辞書』には、
Funxit.フンシツ(紛失) Midare vxino<.(紛れ失ふ)ほかの物に巻き込まれたり,入りまじったりして,物がなくなること.〔邦訳278r〕
とあって、現代の読み方と同じ、清音読みであることが記されている。
2001年4月20日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「吉書(キツジヨ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「幾」部に、
吉書(―ジヨ) 。〔元亀本283F〕
吉書(――) 。〔静嘉堂本324F〕
とある。標記語「吉書」の読みは音で「キツジヨ」で、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、未収載にある。広本『節用集』には、
吉書(キツシヨ/ヨシ,カク) 。〔態藝門826A〕
とあって、「キツシヨ」と第三拍めを清音表記にする。語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
(吉)書(―シヨ) 。〔弘・言語進退223B〕
吉書(キツシヨ) ―慶(ケイ)。―亊(ジ)。―辰(シン)。―例(キチレイ)。―日(ニチ)。―凶。〔永・言語184E〕
吉書(キツシヨ) ―慶。―亊。―辰。―方。―例。―日。―凶。〔尭・言語174@〕
とあって、やはり、第三拍めを清音表記にして語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
135入-部ノ使節、無‖異儀|莅‖彼所ニ|、令‖遵行|候畢。吉書者 言其所始テ取帳、以下ヲ百姓ニ書与ナリ。〔謙堂文庫蔵一七右C〕
※天理本『庭訓私記』には、「吉書ハ入部ノ初ニ民百姓ニ出書ヲサスルヲ云也」とある。
とあって、語注記に「言は其の所に始めて取帳、以下を百姓に書き与ふるなり」という、いわば賦税を怠ることのないように百姓に与える定書のことである。当代の『日葡辞書』には、
†Qixxo.キッショ(吉書) Yocu caqu.(吉く書く)すなわち,新しい年になって書かれる最初のもの.§また,年頭にあたって,何かを初めて書くこと〔書初め〕. ※本書の一般表記法ではYoqu.〔邦訳513r〕
とあって、読みは清音であり、意義説明は「新年の初めに書くもの」すなわち「書初め」のことであり、『庭訓徃來註』の注記内容とはうまく接合していない。
2001年4月19日(木)小雨のち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「等閑(トウカン,なをざり)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「登」部と「奈」部に、
等閑(トウカン) 間。〔元亀本54C〕 等閑(ナヲザリ) 定。〔元亀本166B〕
等閑(―カン) 。〔静嘉堂本60C〕 等閑(ナヲザリ) 。〔静嘉堂本184F〕
等閑(―カン) 。〔天正十七年本上31オC〕 等閑(ナヲサリ) 定。〔天正十七年本中22ウB〕
等閑(トウカン) 。〔西来寺本〕
とある。標記語「等閑」の読みは音で「トウカン」、訓で「なをざり」と両用あって、語注記は「なをざり」に「定(家仮名遣)」とある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
等閑(トウカン/ナヲザリ)。〔言辞153F〕
とあって、右訓と左訓とにそれぞれ読みが見えている。語注記は未記載にある。広本『節用集』には、
等閑(トウカン/ヒトシ,シヅカ) 。〔態藝門136G〕
とあるだけで、「なをざり」の語は採録されていない。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
等閑(トウカン) 。〔弘・言語進退45G〕 等閑(ナヲサリ) 定。〔弘・言語進退141F〕
等閑(トウカン) 。〔永・言語45D〕 等閑(ナヲザリ/トウカン) 。〔永・言語112@〕
等閑(トウカン) 。〔尭・言語42A〕 等閑(ナヲサリ) 。〔尭・言語102E〕
等閑(トウカン) 。〔両・言語50B〕
とあって、音訓両用の読みがそれぞれ収められている。そして、『運歩色葉集』と同じく、弘治二年本に「定」の語注記が見えている。『庭訓徃來註』三月十三日の状に、
133被‖仰_下|條々、具以承候畢。聊不∨可∨存‖等閑|候也。 有∨隙曰∨閑。言ハ彼与∨我等(ヒ―ク)有∨隙之義也。〔謙堂文庫蔵一六左F〕
とあって、語注記には「隙有りて閑と曰ふ。言ふこころは彼と我と等しく隙有るの義なり」という。当代の『日葡辞書』に、
To>can.トウカン(等閑) すなわち,Nauozari.(なほざり)大まかな,大体のこと,あるいは,普通のこと.この語は,一般に否定語を伴って,ある人との仲が親密で並一通りでないことを示すのに用いられることが多い.例,To>canmo nai futode gozaru.(等閑もない人でござる)あの人は,私が日ごろ懇意にしており,深く交際している人である.§To>canno< mo<xi auasuru.(等閑なう申し合はする)このように親密に交わり,つきあう.§To>canna.l,To>can gamaxij.(等閑な.または,等閑がましい)あまり懇意にしていない.〔邦訳653l〕
とある。
2001年4月18日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「平氏(ヘイジ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遍」部に、
平氏(―ジ) 。〔元亀本49A〕※「氏」に「ヽ」有り
平氏(――) 。〔静嘉堂本54B〕※「氏」に「ヽ」有り
平氏(―シ) 。〔天正十七年本上28オB〕※「氏」に「ヽ」有り
平氏(―ジ) 。〔西来寺本〕
とあって、標記語「平氏」の読みは、第三拍めの「ジ」と「シ」に記載が分かれ、「氏」に「ヽ」を添える増画表記として見えている。そして語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には「玄番允平」とのみ見え、『下學集』、広本『節用集』には、この語は未收載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、弘治二年本唯一だけに、
四姓(―シヤウ) 源氏(ゲンジ)。平氏(ヘイ―)。藤氏(トウ―)。橘氏(キツ―)。天竺亦名∨――。〔239C〕
と読みを添えてあって、標記語「四姓」の語注記に見えるのみである。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に、
132謹上御政所殿 玄番允平 平氏ハ仁王五十代桓武天王太子葛原親王始也。〔謙堂文庫蔵一六左D〕
とあって、語注記に「平氏は仁王五十代、桓武天王の太子、葛原親王が始めなり」とあって、そのルーツを注記説明している。当代の『日葡辞書』には、
Feiji.ヘイジ(平氏) Taira vgi.(平氏)すなわち,Feiqeno ichimon.(平家の一門) 日本にける昔の或る高貴な一族.〔邦訳220l〕
とある。
[補遺]上記の『運歩色葉集』における「氏」の字に「ヽ」を添える表記法だが、易林本『節用集』では「ヽ」を添えない表記法を用いている。
2001年4月17日(火)晴れ。東京(八王子)
「茶園(チヤエン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地」部に、
茶園(―エン) 。〔元亀本68@〕〔静嘉堂本80C〕
茶園(―ヱン) 。〔天正十七年本上40オG〕〔西來寺本123D〕
とあって、標記語「茶園」の読みは、第三拍めの「エ」と「ヱ」に記載が分かれる。そして語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、この語は未收載にある。広本『節用集』は、同じくこの語は未收載だが、草木門「茶」に、
茶(チヤ) 窘同。烹雪(カウセツ)。蟹眼。魚眼。團月。月團。團茶。鳳團。龍團。小團龍。大龍團。小鳳。蒼龍。譬雀。古鷹。爪春。涎春。渋素。濤月。兎茶。盧漿。澤舌。建溪。蒙頂。蒙山頂。雲牙。双井湯。陸泉。煮陸。露牙。紫筍。曽坑。雪坑。春莫。雲渋。壑源。雲脚。葉(セウ)家白。棟牙。密雲龍。緑昌明。雪?。紫琳渋。龍鳳團。七椀茶。翡翠斑。南焙。北焙。小蒼璧。中牙。酪奴燕駱。龍焙。草魁杜。小鳳。烏?。霞脚。鴎白。玄圭。玄璧。煮仝。雲白。雷?同。建州北茶。先春。龍焙。洪州。西山。白露。双井。白茅。鶴頂。顧渚。紫笋。常州。義興。陽羨。春池。陽鳳嶺。睦州。鳩坑。宣州。陽坑。南剣。南康。石花。露鐸。籤牙。雲居。峡州。碧澗。明目。東州。獣目。福州。方山。壽州。霍山。黄牙。雅州。穀牙。辭門。團黄。有一旗。二槍之言。一葉三牙也。潭州。鉄色茶。湖州。玉乳。湖當。二郡界茶時二牧畢茶称瑞草魁杜牧。金沙泉。黄金牙万。龍舌同。銅葉同。雪乳同。紫茸。紫雲堆。笋乳同。凍笋同。乳海金。代酒。従亊同。?溪谷六注。醒酒水谷。鳳爪。雪花。雨脚沙溪。北苑。緑麋。銀栗茶ノ花也。塞目。春牙。青雲。緑花。玄味。貞如。腋煙。羅山。腋風。火前。社前。腋涼。腋仙。乳花。玄日。驚雷。笑莢?草。帯芳茗。僧酒礼草周公名。仁卉漢帝名。傳話楚君名。留客。欲仙。碎夢。腋飆□。嘗春醒醉。破昏。春雪。暖醒。媒碧。雪遶。雪氷。玉雨前三前春露。遠山瑞露。雨脚。松風。遠浪。春潮。草中暮。青雪。塋眸袒一瑞雲慶雲碧雲。〔草木門158A〕
とあって、「茶」の異表記のあとに異名軍が注記されている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
茶園(チヤエン) 。〔弘・天地48@〕 茶(チヤ)。〔弘・草木48E〕
茶園(チヤエン) 。〔永・天地49A〕 茶(チヤ)。〔永・草木49H〕
茶園(チヤエン) 。〔尭・天地45B〕 茶(チヤ)。〔尭・艸木48F〕
茶園(チヤエン) 。〔両・天地52G〕 茶(チヤ)。〔両・草木53F〕
とあって、「茶園」と「茶」それぞれの標記語が確認できる。いずれも語注記は未記載にある。易林本『節用集』は、
茶園(チヤヱン) 。〔草木49F〕
とあって、「草木」の部に記載し、「茶」の語は未收載にする。そして、『庭訓徃來註』三月三日の状に、
129後苑ノ樹木、四壁ノ竹前栽之茶薗同可‖調殖|也 茶ハ天竺阿闍世王ノ時、耆婆云、醫者平-生ノ語云、我レ死シテ後ノ以‖一藥|可∨愈ス‖万病ヲ|。亊ヲ案ルニ我死タル時葬墓ノ上ノ草木ノ間ニ必ス一本可∨生。其ヲ取号∨茶ト可∨服云也。果シテ見ルニ有∨之。自∨是始也。日本ニハ建仁寺ノ開山千光国師入唐ノ砌ニ持来。筑前国背振山ノ岩上ニ殖∨是ヲ。号‖岩ノ上茶|。千光在∨京ノ時、栂尾ノ明惠聖人ニ被∨出∨種。上人山城國栂尾ニ殖也。自是流布也。〔謙堂文庫蔵一六右C〕
とあって、その語注記は、樹木である「茶」についてであり、「茶は、天竺阿闍世王の時、耆婆云く、醫者平-生の語に云く、我れ死して後の一藥を以って万病を愈すべし。亊を案ずるに我れ死にたる時、葬墓の上の草木の間に必ず一本生ずべし。其れを取り、茶と号して服すべしと云ふなり。果して見るに之れ有り。是より始まるなり。日本には建仁寺の開山千光国師、入唐の砌りに持ち来たり。筑前国、背振山の岩の上に是れを殖う。岩の上茶と号す。千光、京に在るの時、栂尾の明惠聖人に種を出せらる。上人、山城國栂尾に殖うるなり。是れより流布するなり」とその樹木の由来、日本への渡来経緯とその普及について記す。この語注記の記載姿勢は、古辞書とは一線を画している。当代の『日葡辞書』には、
Chayen.チャエン(茶園) Chano sono.(茶の園)茶(Cha)の木を植えてある茶畑.※原文はChayal.これは,trigo(小麦)に対するtrigal(麦畑),ameixa(梅)に対するameixial(梅林),bambu(竹)に対するbambual(竹林)があるのなどに類推して,Chaから造った語であろう.〔邦訳118r〕
とある。
[ことばの実際]
山本北山の孝経楼漫筆に云はく、嵯峨帝弘仁六年四月近江国志賀辛崎に幸す。嵩福寺永忠大僧都手自茶を煎じ奉る。明恵入宋帰朝の時、茶種を持ち帰り、肥前脊振山に植ゑ、岩上茶といふ。後栂尾に移り、又宇治に移す。○尺素徃来に藤原某著宇治者当代御賞翫。栂尾者此間雖‖衰微之体|名下不∨虚。[割注]当代は足利の時なり。鹿苑院義満公、山名氏清に仰せて始めて宇治の里に茶園を作らしめ給ふ。[割注]後に七所の分あり。森.岩井、宇文字、川下、奥山、朝日、琵琶。《『零砕雜筆』一、宇治の茶〔続日本随筆大成4−205頁〕》
2001年4月16日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「庵室(アンジツ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「安」部に、
菴室(アンジツ) 。〔元亀本259B〕
庵室(―シツ) 。〔静嘉堂本293B〕
とあって、標記語「庵室」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
庵室(アンジツ) 。〔家屋54E〕
とあって、語注記は未記載とする。広本『節用集』は、
庵室(アンジチ/イホリ,イヱ・ムロ) 小寺義也。〔家屋門744@〕
とあって、語注記に「小寺の義なり」という。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
庵室(アンジツ) 小寺。〔弘・天地201B〕
庵室(アンジツ) 。〔永・天地166E〕
庵室(――) 。〔尭・天地155F〕
とあって、弘治二年本だけが語注記に「小寺」と広本『節用集』の語注記を簡略化した形態で記載が見られるのである。また、伊勢本系統の『節用集』では、『伊京集』に、
庵室(アンジツ) 小庵云。菴同。寺。〔天地88A〕
とあって、「小庵を云ふ。菴と同じ。寺」と語注記する。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
127庵室 皈依僧居所也。〔謙堂文庫蔵一六右B〕
とあって、語注記には「皈依僧の居所なり」ということで、そして、広本『節用集』や『伊京集』の語注記とは異なったものとなっている。当代の『日葡辞書』には、
Anjit.アンジッ(庵室) Yupri iye.(庵室)現世を捨てた人の茅屋,あるいは,粗末な藁屋.§Anjituo musubu.(庵室を結ぶ)このような茅屋を造る.〔邦訳26r〕
とある。江戸時代の『書字考節用集』に、
菴室(アンジツ) 出∨伊。〔乾坤二5A〕
とあり、その語注記は「「伊」部に出づ」とあって、「伊」部に、
舎(イホリ/イホ)[説文]市ノ居ヲ曰∨―ト。俗作ハ舎ニ非也。菴(同)[汚]古ノ庵ノ字。廬(同)[漢]食貨志ニ在∨野ニ曰―ト。墅(同)[艶]田廬也。草舎(同)。〔一10C〜E〕
とあって「いほり」の文字表記を示す。ここで、「いおり」の漢字表記を見るに、『下學集』広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本などは「庵」の字で記すのに対し、『運歩色葉集』、一部の伊勢本『節用集』、『書字考節用集』は、「菴」の字をもって記していることに気づく。また、読み方でも広本『節用集』のいうところの「アンジチ」⇒印度本『節用集』群「アンジツ」⇒『運歩色葉集』の「アンシツ」と多様の表記形態を示している。
[ことばの実際]
其ノ後、聖人、背振ノ山ヲ去テ、幡磨ノ國、餝磨ノ郡ノ書寫ノ山ニ移テ三間ノ菴室ヲ造テ住ス。《『今昔物語集』巻第12、書寫山性空聖人語187B》
庵室 [Pinyin] an1shi4 [Korean] amsil [Japanese] anshitsu [Definition] [jpn] A hermitage. A straw thatched hut used by hermits and monks. 〔和名抄、居處、屋宅類〕 [Credit] heh 《World Wide Web CJK-English Dictionary/Database》
2001年4月15日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
「持佛堂(ヂブツダウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「地」部に、
持佛堂(ヂブツダウ) 出堂。〔元亀本69A〕
持佛堂(ヂフツタウ) 。〔静嘉堂本82@〕
持佛堂(チフツタウ) 。〔天正十七年本上41オA〕
持佛堂(ヂブツダウ) 。〔西来寺本〕
とあって、標記語「持佛堂」の語注記は元亀本のみに「出堂」とある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には未収載にある。唯一、易林本『節用集』に、
持佛堂(ヂフツダウ) 。〔乾坤48A〕
とあって、語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
125可∨立ツ‖檜皮葦ノ持佛堂 考妣之牌所也。〔謙堂文庫蔵一五左H〕
※天理図書館蔵『庭訓私記』には、「持佛堂ハ先妣位牌所也」とする。
とあって、語注記には「考妣の牌所なり」ということで、すなわち、死んだ父母の位牌を安置している所をいう。そして、元亀本『運歩色葉集』の語注記とは異なったものとなっている。当代の『日葡辞書』には、
Gibutdo<.ヂブツドウ(持仏堂) 各人がそれぞれ深く信仰している偶像〔仏像〕とか絵像とかを安置してある小聖堂,あるいは,礼拝堂.〔315r〕
とある。江戸時代の『書字考節用集』に、
持佛堂(ヂフツドウ) 又_云念誦堂。〔乾坤一33F〕
とあり、その語注記は「また、念誦堂をいう」とあって、これもまた、異なる語注記となっている。
[ことばの実際]
同(おなじき)年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照シ‖觀月ヲ|、清メ‖心水ヲ|御座けるに、持仏堂(ヂフツドウ)の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春、筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御座ける。《『太平記』巻第十二,大内裏造營事付聖廟御事・大系一405M》頭注に「持仏(護持信仰する仏)を安置する堂」。
菅丞相、御氣色俄に損じて、御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂(ヂフツドウ)の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核、猛火と成て、妻戸に〓〔火+共〕付けるを、僧正、少も不∨騒、向‖〓〔火+共〕火ニ|灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て、妻戸は半焦たる許なり。《『太平記』巻第十二, 大内裏造營事付聖廟御事・大系一406K》
2001年4月14日(土)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「支度(シタク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
支度(シタク)。〔元亀本306H〕
支度(―ド)。〔静嘉堂本357C〕
とあって、標記語「支度」の読み方は、「シタク」と「シド」の二通りの読みが見えている。静嘉堂本『運歩色葉集』の示す「シド」の読みについては、他本にこの読みを見出すことができないことから、読み誤りの可能性が高いのではなかろうか。語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、
支度(シタク) 用意ノ義也。〔態藝89E〕
とあって、語注記に「用意の義なり」という。広本『節用集』には、
支度(シタク・ノリ/サヽヱ,ハカル) 漢書用意ノ義也。〔態藝門962C〕
とあって、『下學集』の語注記を引用するものの典拠資料『漢書』を付加している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
支度(シタク)。〔弘・言語進退245G〕
支度(シタク) ―證。―配。〔永・言語209G〕〔尭・言語194@〕
とあって、『運歩色葉集』と同じく、語注記は未記載にある。『節用集』類では、易林本『節用集』になると、
支配(シハイ) ―證(せウ)。―度(タク)。
とあって、印度本系統の『節用集』とは逆に「支度」の語は、標記語でなくして語注記のなかで「支」漢字熟語のひとつとして取扱われている。
これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
119葦萱葺ニ可‖支度| 漢書曰、用意之義也。〔謙堂文庫蔵一五右E〕
とあって、その語注記に「『漢書』に曰く、用意の義なり」とあって、『下學集』の語注記より広本『節用集』の語注記に近いものとなっている。その点から云えば、広本『節用集』が『庭訓徃來註』の語注記を引用したものという、これまでに検証を重ねてきたことがらにまた一つ組込まれるものとなってくるのである。ただし、従来と異なる点は、『下學集』の語注記が未記載の語が対象であったのが、このように『下學集』にも見え、典拠資料である「『漢書』に曰く」を付加してないというところにある。それ故に、なぜ『下學集』の語注記に従わずに広本『節用集』が『庭訓徃來註』の語注記を引用したのか。またこの逆に『庭訓徃來註』の編者が『下學集』の語注記に満足せずになぜ典拠名をあえて増補したのかを問わねばなるまい。そして、この両書だけが共通する点に関しても偶然の合致でないことは云うまでもない。
当代の『日葡辞書』には、
Xitacu.シタク(支度) 外出するとか,その他いろいろな事のために,着物を着たり,用意したりすること.〔邦訳780r〕
とある。
[ことばの実際]
支度相違(シタクサウ井)《黒川本『色葉字類抄』592A》
[現代「支度」語辞典]
老い支度・帰り支度・心支度・婚礼支度・旅支度・伸び支度(島崎藤村)・冬支度・嫁入り支度・母子父子家庭等児童入学就職支度金・身支度・旅行支度
朝の支度・宴の支度・お出かけの支度・クリスマスの支度・御飯の支度・暦の支度・食事の支度
2001年4月13日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「〓〔手+建〕児所(コンデイどころ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古」部に、
〓〔手+建〕児所(コンデイドコロ) 中間居所。〔元亀本236E〕
〓〔手+建〕児所(コンテイドコロ) 中間所居。〔静嘉堂本272D〕
〓〔手+建〕児所(コンテイトコロ) 中間所居。〔天正十七年本中64ウ@〕
とあって、標記語「〓〔手+建〕児所」の読みだが、元龜本「コンデイどころ」、静嘉堂本は「コンテイどころ」で「テイ」の「テ」と「イ」の右傍らに「−」線を付加している。そして天正十七年本は「コンテイところ」とする。語注記は「中間の居る所」をいう。すなわち、当時の中間(チュウゲン)たちの詰め所であった。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
健兒所(コンテイトコロ) 中間ノ之所∨居ル也。〔家屋56F〕
とあって、語注記は「中間の居る所なり」という。広本『節用集』は、
〓〔牛+建〕兒所(コンデイトコロ/−,チゴ・ヲサナゴ,ジヨ) 中間衆ノ所∨居也。〔家屋門653D〕
とあって、読みを「コンデイところ」とし、標記語を手偏から牛偏としていて、「〓〔牛+建〕兒所」と表記する。語注記を「中間衆の居る所なり」と「衆」の語を付加していう。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、
〓〔牛+建〕兒所(コンデイシヨ) 中間衆所居。〔弘・天地184B〕
〓〔牛+建〕兒所(コンデイドコロ) 中間衆所居。〔永・天地151A〕
〓〔牛+建〕兒所(コンテイトコロ) 中間衆居処。〔尭・天地141B〕
とあって、その読みは、弘治二年本が「コンデイショ」と音読みし、永祿二年本と尭空本とが「コンデイどころ」と混種読みする。これも語注記は「中間衆の所居」とあって、広本『節用集』と等しい。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
118桟敷〓〔手+建〕児所者〓〔手+建〕児所ハ中間堅色也。〔謙堂文庫蔵一五右E〕
※東大本『庭訓徃来古註』14頁左Bの語注記「〓〔手+建〕児所ハ中間座敷也」と表記。
※天理本の語注記「〓〔手+建〕児所ハ中間坐敷也」と表記。また、天理図書館蔵『庭訓私記』には、「〓〔手+建〕児処ハ中間衆ヲ置処也。又□□ニ{カ}公事ヲ談合スル」という。
※国会左貫注本の語注記「〓〔手+建〕児ハ中門座敷雜色也」〔11オ4〕と表記。書込みに、「髪結処也」という。
とあって、その語注記は「〓〔手+建〕児は中間座敷なり」と『下學集』語注記の「所居」の語を「座敷」に置換変更している。
[ことばの実際]
依∨之、非職・凡卑の目代等、貞應以後の新立の庄園を没倒して、在廳官人・檢非違使・健兒所(コンデイドコロ)等、過分の勢ひを高くせり。《『太平記』巻第十三・龍馬進奏事.大系二16M》
2001年4月12日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「公文所(クモンジヨ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久」部に、
公文所(クモンジヨ) 。〔元亀本197H〕
公文所(クモンシヨ) 。〔静嘉堂本223@〕
公文所(−モンシヨ) 。〔天正十七年本中41オ@〕
とあって、標記語「公文所」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は未収載にある。『節用集』類では、易林本『節用集』に、
公文所(クモンシヨ) 。〔乾坤128A〕
とあって、読みを「クモンシヨ」と第四拍めを清音にし、これには語注記はやはり未記載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
115公文所 田所ノ結解ヲ成所ヲ云也。〔謙堂文庫藏一五右C〕
とあって、その語注記は「田所の結解を成す所を云ふなり」という。当代の『日葡辞書』には、
Cumonjo.クモンジヨ(公文所) 司直の長などのような役職の人がいる場所,または,建物.〔邦訳166r〕
とあって、読みは『運歩色葉集』元亀本の読み方に共通している。また、『庭訓徃來註』の語注記については単独の内容であり、意味あいの点からも独自なものとなっている。
[ことばの実際]
元暦元年・十二月二十四日廿四日 己卯 於公文所、被置雜仕女三人爲因幡守沙汰、今日定其輩〈云云〉《『吾妻鏡』V02P168L09》
2001年4月11日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「囲炉裏(イロリ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「伊」部に、
囲炉裏(イロリ) 。〔元亀本15D〕
囲炉裏(イルリ) 。〔静嘉堂本8G〕
囲炉裏(イルリ) 。〔天正十七年本上6ウA〕
囲炉裏(イルリ) 。〔西来寺本20@〕
とあって、標記語「囲炉裏」の読みだが、元龜本「イロリ」、それ以外はすべて「イルリ」とし、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
圍爐裏(イロリ) 。〔家屋57A〕
とあって、語注記は未記載にある。広本『節用集』は、
圍爐裏(イルリ/カコム,ホノヲ,ウチ) 或作‖地爐(チロ)。火−(ロ)ト|。〔家屋門57A〕
圍炉裏(井ルリ) 。〔『伊京集』天地1C〕 囲炉裡(イルリ) 。〔天正十八年本・上1ウB〕
とあって、読みを「イルリ」とし、これには語注記があり、「或は地爐・火爐と作る」という。伊勢本系統の明応五年本『節用集』の「由」部に、
火爐(ユルリ) 或作地炉。〔天地181E〕
火爐(ユルリ) 。〔易林本・乾坤192D〕
とあって、標記語を「火爐」とし、読みを「ゆるり」で、語注記に「或は地炉に作る」としている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
囲{圍}炉裏(イロリ) 。〔弘・天地3F〕
囲炉裡(イロリ) 。〔永・天地1H〕〔尭・天地1D〕
囲爐裡(イロリ) 。〔両・天地1D〕〔黒本本・天地1E〕
とあって、その読みはすべて「イロリ」で、これも語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
113裡板葺侍御厩・會所囲炉裡之間 宮殿ニ无∨囲也。故ニ別構‖炉室|。〔謙堂文庫藏一五右A〕
とあって、その語注記は「宮殿に囲の无きなり。故に別に炉室を構える」という。当代の『日葡辞書』には、
Irori.イロリ(囲炉裡) 火をおこす炉.⇒Iruri.〔邦訳341r〕
‡Iruri.イルリ(囲炉裡) →Irori; Voqi〜.〔邦訳342l〕
Yururi.ユルリ(ゆるり) 家の中央にある小さい炉.§Yururiuo qiru.(ゆるりを切る)この炉を作る,すなわち,切りあける.⇒Irori.〔邦訳838l〕
とあって、『運歩色葉集』の四写本における二通りの読みがなの表記を併用収載しているだけではなく、「ユルリ」の語をも収載し、意味と用例を記載する。以上この室町時代における三様の読みが古辞書『節用集』や『日葡辞書』に見え、それぞれがどのような場面状況で使用されてきたのかを見て行かねばなるまい。また、『庭訓徃來註』の語注記にはそれぞれの読み方については測ることができないが、意味あいの点からは独立したものとなっている。
[ことばの実際]五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏哉《芭蕉『茶の菓子』》
2001年4月10日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「早稲(わせ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和」部に、
早稲(ワセ) 。〔元亀本87G〕
早稲(ワセ) 。〔静嘉堂本108A〕
早稲(ワセ) 。〔天正十七年本上53ウ@〕
とあって、標記語「早稲」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
早稲(ワセ) 。〔草木128E〕
とあって、語注記は未記載にある。広本『節用集』は、
早稲(ワセ/サウタウ.ハヤキ、イネ) 。〔草木門234G〕
とあって、これも語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
早稲(ワセ) 。種(同) 。〔弘・草木70D〕
早稲(ワセ) 。〔永・草木70C〕〔尭・草木64C〕〔両・草木76@〕
とあって、これも語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
098可∨令∨耕‖作糠(ウルシ/ウルシネ)糯(モチ)・早稲(ワセ)・晩稲(ヲクテ)等 糠此即常人所食米。但有赤白小大異族。四五種尤同一類也。〔謙堂文庫蔵一四右A〕
とあって、その語注記は無い。当代の『日葡辞書』には、
Vaxe.ワセ(早稲) Fayai ine.(早い稲)早く成熟する稲.§Vaxe,vocute.(早稲,晩稲)早く成熟する稲とおそく成熟する稲と. ※原文のsorodeoはserodioに同じ.⇒Nacate;Vocute.〔邦訳681r〕
とある。
2001年4月9日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「濟例(セイレイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢」部に、
済例(―レイ) ――ハ成也。〔元亀本352〕
済例(―レイ) ――ハ成也。〔静嘉堂本424C〕
とある。標記語「濟例」の語注記は「済例は成なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は未收載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
089文書ノ濟例納法註文、悉可∨被‖召進|也 定コト‖文書|仁王第五孝霊天王ノ御宇ニ始也。濟ハ成也。言地下人成付之例也。同‖恒例|也。納法ハ年貢也。召進者(ト)ハ前代之以‖引付|可∨召‖-進百-姓|也。〔謙堂文庫蔵一三右F〕
濟例ハ恒例也。又濟ハナヲ[ラ歟]スト云訓有。言心ハ地下人ノナシツケタル例也。〔天理図書館本『庭訓私記』〕
とあって、その語注記に「濟は成なり。言は地下人の成付たるの例なり。恒例に同じなり」で、『運歩色葉集』の語注記は、この語注記の冠頭部に共通する。いわばここに依拠したものであることが知られ、古辞書のなかで『運歩色葉集』だけがこの『庭訓徃來』そして『庭訓徃來註』の語を引用するものである。[補記] 『庭訓徃來註』の語注記にいう「地下人の成付(なしつけ)たるの例なり」の動詞「なしつく【成付】」なる語については、他に用例を見出せていない。また、現代の国語辞書にも未収載の語である。
[字書参考]私記の云う「ナヲ[ラ歟]ス」の訓は以下の字書では確認できない。
濟 正 禾タル{ス}、スクフ、ナス{ル}、マサシ、サタマル、ハル、マスキ、ハマル、ウラヤム、ヒトシ、ヤム、マサル、禾タル、イク。《観智院本『類聚名義抄』法上五@》
濟 セイ、ウラヤム、スクフ、ヒトシ、ワタル、ナカル、キハマル、トヽノフ、ナス、イク、マス、ナル、トヽム、セム、サタマル、ワタリ、ハル、フネ、マサシ《天文本『字鏡鈔』167D》
2001年4月8日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)入学式(花まつり)
「納法(ナツポウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「奈」部に、
納法(―ホウ) ――者年貢也。〔元亀本165E〕
納法(―ホウ) 季貢也。〔静嘉堂本183G〕
納法(ナツハウ) 季貢。〔天正十七年本中23オA〕
とある。標記語「納法」の語注記は「納法は年貢なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は未收載にある。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
089文書ノ濟例納法註文、悉可∨被‖召進|也 定コト‖文書|仁王第五孝霊天王ノ御宇ニ始也。濟ハ成也。言地下人成付之例也。同‖恒例|也。納法ハ年貢也。召進者(ト)ハ前代之以‖引付|可∨召‖-進百-姓|也。〔謙堂文庫蔵一三右F〕
とあって、『運歩色葉集』の語注記は、これに共通する。いわばここに依拠したものであることが知られるのである。当代の『日葡辞書』には、
Nappo>.ナッポゥ(納法) 主君が自分の領地から取立てる,ある一定の収益.あるいは,年貢.文書語.〔邦訳450l〕
とある。いわゆる、古辞書のなかで『運歩色葉集』だけが『庭訓徃來註』を引用する語である。
2001年4月7日(土)晴れ。東京(八王子)⇒
「文書(モンジョ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「毛」部に、
文書(―シヨ) 。〔元亀本348H〕
文書(―シヨ) 。〔静嘉堂本419E〕
とある。標記語「文書」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にあり、広本『節用集』は、
文書(モンジヨ/ブン・フミ、カク) 支證。〔器財門1067F〕
とあって、その語注記に「支證」という。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にも、
文書(モンジヨ) 支證。〔弘・財宝259E〕
文書(モンジヨ) 支證。〔永・財宝221F〕
文書(モンシヨ) 支證。〔尭・財宝208@〕
とあって、広本『節用集』の語注記を継承する。これを『庭訓徃來註』三月三日の状には、
089文書ノ濟例納法註文、悉可∨被‖召進|也 定コト‖文書|仁王第五孝霊天王ノ御宇ニ始也。濟ハ成也。言地下人成付之例也。同‖恒例|也。納法ハ年貢也。召進者(ト)ハ前代之以‖引付|可∨召‖-進百-姓|也。〔謙堂文庫蔵一三右F〕
とあって、語注記は「文書を定むること仁王第五、孝霊天王の御宇に始るなり」といったその発祥を記すものであり、上記『節用集』類の語注記とは異なるものである。当代の『日葡辞書』には、
Bunjo.ブンジョ(文書) 書状などを書く際の立派な文体について説いた書物.〔邦訳65r〕
Monjo.モンジョ(文書) 今後のために,すなわち,将来のために残される書付,証書.〔邦訳420l〕
とあって、文字表記は同じでもその読み方によって異なることを示唆している。そして意義説明は『節用集』類の意味に相通ずるものである。
2001年4月6日(金)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「椀飯(ワウバン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和」部に、
椀飯(ワウバン) 正月武家ノ出仕。〔元亀本88D〕
椀飯(ワウバン) 正月武家ノ出仕。〔静嘉堂本109@〕
椀飯(ワウハン)(ワウハン) 正月武家出仕。〔天正十七年本上54オ@〕
椀飯(ワウハン)(ワウバン) 正月武家之出仕。〔西来寺本157@〕
とある。標記語「椀飯」の語注記は、「正月武家の出仕」という。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
椀飯(ワウバン) 正月ニ武家ノ出仕。〔態藝79D〕
とある。この語注記が基礎となっている。広本『節用集』は、
椀飯(ワウハン/ワン、イヽ) 正月武家ノ出仕ノ義也。〔態藝門241D〕
とあって、末尾に「の義也」を付加しているが、『下學集』の語注記を継承している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』にも、
椀飯(同(ワウバン)) 正月武家之出仕義。〔弘・時節70C〕
椀飯(ワウバン) 正月武家之出仕之義也。〔永・天地70B〕
椀飯(ワウハン) 正月武家之出仕之義也。〔尭・天地64B〕
椀飯(ワウバン) 正月武家之出仕之義也。〔両・天地75F〕
とあって、部門を弘治二年本が時節門、他三本は天地門に収載し、語注記は『下學集』⇒広本『節用集』を継承するものである。また、『庭訓徃來註』三月三日の状に、
087被∨致‖精(原註一)廉ノ沙汰|之條、奉公之忠勤也。厨椀飯无‖相違|者 厨ハ荘子曰、庖人ノ掌ル物也。今ノ大宮也。即供膳也。大宮名也。其ノ内ノ供膳也。日本ニハ奉膳也。椀飯ハ正月武家ノ出仕也。又地下人翫ナス‖入部人ヲ|義也。〔謙堂文庫藏一三右C〕
とあって、これもまた、『下學集』を継承し、さらに「また、地下人、入部人を翫なす義なり」と増補している。その意味では、『庭訓徃來』から『下學集』、『下學集』から二分派して、その一つが『節用集』類・『運歩色葉集』への継承であり、もう一つが『庭訓徃來註』への継承かつ語注記の増補ということになる。当代の『日葡辞書』には、
Vo<ban.ワゥバン(椀飯・瀏飯) 正月(Xo<guachi),内裏(Dairi),あるいは,ある屋形(Yacata)に,あらゆる種類の狩や漁などの獲物を携えて行って催される宴会.〔邦訳696l〕
とあって、その裏付けとなる。そして、江戸時代のことばとして「オウバンぶるまい【椀飯振舞】」なる語も生まれてくる。またこれを、「節振舞」とも云うようになっていく。
[ことばの実際]
正月七日椀飯(ワウバン)事終て、同十一日雪晴風止て、天氣少し長閑なりければ、里美伊賀守を大將として、義治五千餘人を金崎の後攻の爲に敦賀へ被‖差向|。《『太平記』巻第十八、越前府軍并金崎後攻事・二238@》
2001年4月5日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「厨(くりや)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久」部に、
厨(クリヤ)。〔元亀本198C〕
厨(クリヤ)。〔静嘉堂本225A〕
厨(クリヤ)。〔天正十七年本中42オ@〕
とある。標記語「厨」の語注記は、未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。広本『節用集』は、
厨(クリヤ/チユ) 庖―。〔家屋門497G〕
とあって、語注記に「庖厨」という。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』にも、
庖(クリヤ)。〔弘・天地156C〕〔尭・天地116E〕〔両・天地141C〕
とあって、標記語を「庖」とし、語注記は未記載にある。
『庭訓徃來註』三月三日の状に、
087被∨致‖精廉ノ沙汰|之條、奉公之忠勤也。厨椀飯无‖相違|者 厨ハ荘子曰、庖人ノ掌ル物也。今ノ大宮也。即供膳也。大宮名也。其ノ内ノ供膳也。日本ニハ奉膳也。椀飯ハ正月武家ノ出任也。又地下人翫ナス‖入部人ヲ|義也。〔謙堂文庫藏一三右C〕
とあって、語注記に「厨は荘子に曰く、庖人の掌る物なり。今の大宮なり。即ち供膳なり。大宮の名なり。其の内の供膳なり。日本には奉膳なり」とあるが、古辞書群の語注記とは異なっている。当代の『日葡辞書』には、
Curiya.クリヤ(厨) 炊事場.〔邦訳171l〕
とある。
[ことばの実際]
御車副は嵯峨の院の庖の人の子なるを丈等しく、容貌有ルをえらびて、十二人掻練がさねの下襲深沓履きて後には宮の蔵人所の衆ぞ仕うまつる。《『宇津保物語』三314D》
2001年4月4日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「殆(ほとんど)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保」部に、
殆(ホトンド)。〔元亀本47B〕
殆(ホトント)。〔静嘉堂本52G〕
殆(ホトント)。〔天正十七年本上27オF〕
殆(ホトント)。〔西来寺本82B〕
とある。標記語「殆」の語注記は、未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。広本『節用集』は、
殆(ホトンド/タイ) 又幾(ホトント)。危也。将也。又義ニ云‖此題目ト|義也。〔態藝門111C〕
とあって、語注記に「また幾(ホトント)。危なり。将なり。また義に此の題目と云ふ義なり」とある。これは伊勢本系統の『節用集』類では唯一、語注記を有するものである。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』にも、
殆(ホトント) 動(同)。幾(同)。危(同)。〔弘・言語進退36A〕
殆(ホトント) 動。幾。危。〔永・言語36C〕
殆(ホトント) 動。危。幾。〔尭・言語33@〕
殆(ホトント) 。〔両・言語39G〕
とあって、その語注記は、広本『節用集』と稍異なりを見せていて「動。幾。危」と『色葉字類抄』の語排列に依拠して記載している。ここで、『庭訓徃來註』二月廿四日の状に、
076然トモ而被∨召‖_加人数一-分ニ|者殆ト可∨招‖後日ノ恥辱ヲ| 殆ハ危也。近也。粗之義也。〔謙堂文庫藏一一左E〕
とあって、その語注記には、「殆は危なり。近なり。粗の義なり」というのであり、最初の「危也」が『節用集』類と合致するが、後の二つは異なっているのである。また、次の「近也」については、鎌倉時代の古辞書『塵袋』の意味内容に合致する。当代の『日葡辞書』には、
Fotondo.ホトンド(殆) Voyoso(凡そ)に同じ.大部分,または,最も頻繁に.〔邦訳265r〕
とあって、古辞書『節用集』類や『庭訓徃來註』の語注記における意味内容とは異なっていることが確認できる。
[文字参考の古辞書資料]
殆〓{ト夕+台} 今正音待。アヤフシ。ホト/\[平平上平濁]。マヌカル。オトロク。オコタル。ヤフル[平平濁上]。ヤウヤク。始ヽ。チカシ[平平上]。アヤマチ[平平平平]。オヨフ。《観智院本『類聚名義抄』法下131E》
殆(ホトヲ{ン}ト)。動。幾。危。〓〔糸+乞〕。勲。已上同《黒川本『色葉字類抄』上37オC》
一 ホトヲトヽ云フハイカナル心ソ 殆(ホトヲト)ハ近也ト釈せリ。似ヨリタル心歟。《『塵袋』巻十・詞字、日本古典全集六九六頁》
2001年4月3日(火)晴れのち雨。さくらの花散り始める。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「頗(すこぶる)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須」部に、
頗(スコフル)。〔元亀本362八〕〔静嘉堂本442二〕
とある。標記語「頗」の語注記は、未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。広本『節用集』は、
頗(スコブル)ハ 多義。〔須部態藝門1134三〕
とあって、その語注記は「多義」という。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』も、
頗(スコフル)。〔弘・言語進退270七〕〔尭・言語217九〕
頗(スコブル)。〔永・言語232一〕
とあって、語注記は『運歩色葉集』と同じく未記載にする。
『庭訓徃來註』二月廿四日の返状に、
075頗如二猿猴ノ似レ人ニ。同二蛍火猜ニ一レ灯ヲ 頗ハ不正ノ辞也。猿似レ人。又非レ似。諸虫ハ雖レ入レ火ニ蛍不レ入也。是猜之義歟。又以レ小ヲ窺レ大ヲ之義也。〔謙堂文庫藏一一左4〕
詩(し)聯句(れんく)者(ハ)菅家(くはんけ)江家(がうけ)之(の)旧流(きうりう)を汲(くみ)乍(なから)更(さらに)忘レ下序(しよ)表(へう)賦(ふ)題(たい)傍(はう)絶(せつ)韻(いん)聲(せい)の質(すかた)を頗(すこふる)如二猿猴(ゑんかう)の人(ひと)に似(にた)り。蛍火(けいくは)の灯(ともしひ)を猜(そねむ)に同(おな)じ然(しかう)而(して)人数(にんじゆ)の一-分(いちふん)に召(め)し加(くは)へ被(られ)れ者(は)殆(ほとん)ど後日(ごにち)の恥辱(ちじよく)を招(まね)く可(へ)し。詩聯句者乍レ汲二菅家江家之旧流ヲ一更忘レ下序表賦題傍絶韻聲(シヤウ)ノ質(スカタ)ヲ頗如二猿猴ノ似レ人ニ。同二蛍火猜ニ一レ灯ヲ然トモ而被レ召二_加人数一-分ニ一者殆ト可レ招二後日ノ恥辱ヲ一 〔八ウ1〜5〕○頗(すこふる)ハ前に注す〔十二ウ8〕⇒○頗(すこふる)ハ韻會(インヱ)曰差(ヤヽ)多(オホキヲ)曰二頗(すこふる)多ト一良久(ヤヽヒサシク)曰二頗久ト一云々〔二ウ2〕
とあって、標記語「頗」で訓みを「すこぶる」にして語注記は「韻會(インヱ)曰ふ、差(ヤヽ)多(オホキヲ)を頗(すこふる)多しと曰ふ良久(ヤヽヒサシク)を頗久と曰ふ云々」と記載する。当代の『日葡辞書』〔一六〇三(慶長八)年〜〇四年〕には、
Sucoburu.スコブル(頗る) 副詞.非常に,あるいは,大へん.例,Sucoburu fonyuo somuqu.(頗る本意を背く)ひどく自分の義務を怠る.たとえば,訪問しなければならない義理を欠く,など.⇒次条.〔邦訳582l〕
†Sucoburu.*スコブル(頗る) §また,少し,軽く.時にはこの意味で用いられる. ※二条より上,北山東西ことごとく焼野原と成て,すこぶる残る所は,將軍の御所許也(応仁略記,下) 〔邦訳582l〕
とし、語注記における内容は古辞書のなかで唯一広本『節用集』の「多義」とあるが、ここからは相互の連関性は図りにくい。
すこ‐ぶる【頗】〔副〕(1)多くはなく、やや。すこしく。いささか。ちょっと。それ相当に。すこむる。*観智院本三宝絵〔九八四(永観二)〕中「抑説き給ふ経の文についてすこふるうたがひあり、すべからくあながちおぼつかなさをあきらめむ」*史記呂后本紀延久五年点〔一〇七三(延久五)〕「平陽侯頗(スコフル)其の語(こ)を聞く」*大日経義釈延久承保点〔一〇七四(承保元)〕四「如来の腰は亦頗(スコフル)綻り曲ること数珠鬘の形のごとくせよ」*大鏡〔一二C前〕二・時平「老の気のはなはだしき事は、みなこそわすれ侍にけれ。これはただ頗おぼえ侍なり」*今昔物語集〔一一二〇(保安元)頃か〕五・一「寝たる顔美麗ながら頗る気踈き気有り」*成就瑜伽観智十二天儀軌久安三年点〔一一四七(久安三)〕「風指各直く堅てて、頗(スコフル)中の節を屈せよ」*応仁略記〔一四六七(応仁元)〜七〇頃か〕下「二条より上、北山東西ことごとく焼野原と成て、すこぶる残る所は将軍の御所計也」*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)〜〇四〕「Sucoburu(スコブル)〈訳〉少し、ほんの」(2)かなりの程度であるさま。たいそう。非常に。はなはだ。*極楽遊意長承四年点〔一一三五(保延元)〕「此小身を観る者前想頗(スコフル)難を去りて易に就くこと難し」*平家物語〔一三C前〕一・殿下乗合「侍ども皆馬より取って引きおとし、頗る恥辱に及びけり」*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)〜〇四〕「Sucoburu (スコブル)〈訳〉大いに。非常に。Sucoburu(スコブル) ホンイヲ ソムク」*黄表紙・米饅頭始〔一七八〇(安永九)〕「すこぶる空腹になってきた」*大坂繁花風土記〔一八一四(文化一一)〕「大分などを、すこぶる」*尋常小学読本〔一八八七(明治二〇)〕〈文部省〉六「あるふれっどは、後二十三歳の時、いぎりす国の王位に登りて、頗る善政をしき」*浮雲〔一八八七(明治二〇)〜八九〕〈二葉亭四迷〉一・六「昇はまた頗る愛嬌に富でゐて、極て世辞がよい」*吾輩は猫である〔一九〇五(明治三八)〜〇六〕〈夏目漱石〉二「馬鹿なと主人は頗る冷淡である」*真空地帯〔一九五二(昭和二七)〕〈野間宏〉七・一一「しかしやがてそれがすぎるとまた温かい船底のなかで彼の体はすこぶるつめたく冷えてくるのだ」【補注】「すこし」「すくなし」などの語根に、「ひたぶる」などと同じ接尾語のついたものか。「いくらか、ある程度」の意味が「かなり、相当」の意味に強化された。【発音】〈標ア〉[ブ]〈ア史〉室町●●○○〈京ア〉[0]【辞書】色葉・名義・和玉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【頗】色葉・名義・和玉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン・言海【少婆】色葉【微・漸々】名義
と記載し、庭訓往来の語例は未収載とする。
[文字参考の古辞書資料]
一 偏頗ト云フハ偏ハヒトヘニト云ヘハ心ヤスシ。頗ハスコフル歟。心ヲエス如何。 頗ノ字ヲハカタフクトヨム。文選ノ第八ニ行(ヲコナフ)二頗僻(ハヘキ)ヲト一云ヘルヲハ、注ニ頗ハ傾(カタフク)トナリ。僻ハ邪(ヨコシマ)ナリト云ヘリ。心ヨセニ思テ一方ヘカタフキタルヲ偏頗トハ云フナリ。《『塵袋』巻十一・疉字、日本古典全集七七五〜七七六頁》
*「行二頗僻一而獲レ志兮、循二法度一而離レ殃。{頗僻(ハヘキ)を行(おこな)ひて志を獲、法度に循つて殃に離ふ}」《文選・第十五巻・A245・039.15.03a》
2001年4月2日(月)晴れ。東京(八王子)→文京区(駒込)
「反古・反故(ホウグ・ホング・ホンゴ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保」部に、
反古(ホウク/ホンコ)。翻古(同)。〔元亀本42H〕
反古(ホング)。翻古(同)。〔静嘉堂本47A〕
反古(ホンコ)。翻古(ホンコ)。〔天正十七年本上24ウA〕
反古(ホンゴ)。翻古(ホク)。〔西來寺本77E〕
とある。標記語「反古」の語注記は、未記載にある。読み方も諸本それぞれであるが、「ホウグ」「ホング」「ホンゴ」と読みなしてていたことが見て取れよう。この語は『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、
反古(ホムゴ/―グ) 舊文(フルキフミ)也。〔器財119@〕
とあって、語注記は「舊(フル)き文(フミ)なり」という。広本『節用集』は、
反故(ホング/ハンコ、ソムク・クツカヘス―グ、フルシ) 旧文也。〔器財門99G〕
とあって、標記語を「反故」としているが、その語注記は『下學集』を継承する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』も、
反古(ホウグ) 古紙。〔弘・器財32B〕
反故(ホウグ) 古紙。〔永・器財32F〕
反故(ホウク) 古紙。〔尭・器財31A〕
反古(ホンゴ) 古紙。〔両・器財37B〕
とあって、弘治二年本と両足院本とが標記語を「反古」とし、永禄二年本と尭空本とが標記語を「反故」と二分する。そして、語注記は「古紙」という。
これを『庭訓徃來註』七月日の状に、
薄紙拂底之間所∨用‖反故|也 古文ヲ、又來書ノ内ニ書ク。別ノ非‖反故ニ|來レル書也。〔謙堂文庫藏四〇左@〕
とあって、「反古」に関する語注記は「古文を、又來書の内に書く。別の反故に非ず、來れる書なり」というのであって、「古き文」という点で共通するが、語注記における相互の連関性は図りにくい。当代の『日葡辞書』には、
Fo>gu.ホゥグ(反古) 書きよごした紙.または,もう役に立たない紙.または,書き直したり書きよごしたりした習字手本.⇒Fongo(反古).〔邦訳258l〕
Fongo.ホンゴ(反古) Fo>gu(反古)の条を見よ.それというのは、このように〔Fongoと〕書かれるけれども,Fo>gu(ほうぐ)と発音されるからである.書きよごした紙などの意.〔邦訳260l〕
とあって、この語の意味と読み方をも指摘している。
[ことばの実際]
元和(けんわ)九癸亥(ミつのとい)の年(とし)。天下泰平(たいへい)人民豊楽(にんみんはうらく)の折(をり)から。某(それかし)小僧(こそう)の時より耳(ミゝ)にふれておもしろくおかしかりつる事を。反故(はうこ)の端(はし)にとめをきたり。《寛永版『醒睡笑』序》
2001年4月1日(日)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「薄紙(ハクシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波」部に、
薄紙(ハクシ)。〔元亀本26E〕
薄紙(ハクシ)。〔静嘉堂本24F〕
薄紙(ハクシ)。〔天正十七年本上13ウA〕
薄紙(ハクシ)。〔西來寺本45@〕
とある。標記語「薄紙」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』広本『節用集』印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』も、この熟語は未收載であり、いわば『庭訓徃來』と『運歩色葉集』との連関となっている。因みに、『庭訓徃來註』七月日の状に、
薄紙拂底之間所∨用‖反故|也 古文ヲ、又來書ノ内ニ書ク。別ノ非‖反故ニ|來レル書也。〔謙堂文庫藏四〇左@〕
とあって、「薄紙」に関する語注記は見えていない。当代の『日葡辞書』には、
Facuxi.ハクシ(薄紙) Vsui cami.(薄い紙)薄い紙.〔邦訳195r〕
とある。
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