2001年5月1日から5月31日迄
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ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2001年5月31日(木)雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「精鉋(きよかんな)」
室町時代の古辞書である『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にはこの標記語は未収載にある。『庭訓徃來』に「
精鉋」と見えている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
163釿立
・礎居・柱立・精鉋(キヨ―)・棟ネ上之吉日者 史略云、軒轅黄帝受河圖見‖日月星辰ノ辰象|、始有‖星官ノ書|。又伶倫取‖〓〔山+解〕谷ノ竹|制‖十二律〓〔竹+角〕|、以聽‖風鳴|六〓〔此+鳥〕鳴六。以黄鐘之宮生六律六呂云々。一歳ヲ定‖十二月|也。軍ニハ葛雅川定‖兵宝福兵吉伐日ト|。李靖孤虎ヲ爲∨本。作‖金遺|類_多也。本朝ニ代々撰フ∨日ヲ雖∨多ト家ノ始仁王五十六代ノ御門自‖水尾天皇|以来也。小笠原ニモ自‖水尾|相傳ス。水尾者即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授∨之給ト云々。可∨秘也。〔謙堂文庫藏一八左B〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
精鉋
(きよかんな)△精鉋 仕あけのかんなをかくるなり。〔十九ウD〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
精鉋
(きよかんな)△精鉋ハ仕上(しあけ)の鉋(かんな)をかくる也。〔十六ウC〕精鉋
(きよかんな)△精鉋ハ仕上(しあげ)の鉋(かんな)をかくる也。〔二十九オC〕とある。読み方は「きよかんな」とあって、語注釈に「仕上げの鉋をかくるなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Qiyoganna.
キヨガンナ(清鉋) 大工が木材に最後の加工をして削るのに用いる鉋.§Qiyogannauo caquru.(清鉋を掛くる)木材に鉋をかけて滑らかにする.〔邦訳514l〕とある。
何故、室町時代の古辞書群はいずれもこの語を未収載としたのか、その編纂状況は何も見えてきていない。
[
ことばの実際]十一日、両宮
キヨカンナ【内宮卯ノ時、外宮辰ノ時】同日 御神宝来ル、【内宮三十七ツリ、外宮二十七ツリ】行事官ツキテ来ラル」(『(今井田)日記』寛延2年8月11日,宣長全集:16-22)。金箔銀箔瑠璃真珠水精以上合せて五宝、丁子沈香白膠薫陸白檀以上合せて五香、其他五薬五穀まで備へて大土祖神埴山彦神埴山媛神あらゆる鎮護の神々を祭る地鎮の式もすみ、地曳土取故障なく、さて龍伏は其月の生気の方より右旋りに次第据ゑ行き五星を祭り、釿初めの大礼には鍛冶の道をば創められし天の目一箇の命、番匠の道開かれし手置帆負の命彦狭知の命より思兼の命天児屋の命太玉の命、木の神といふ句々廼馳の神まで七神祭りて、其次の
清鉋の礼も首尾よく済み、東方提頭頼〓(口+「托」の右側)持国天王、西方尾〓(口+魯)叉広目天王、南方毘留動叉増長天、北方毘沙門多聞天王、四天にかたどる四方の柱千年万年動ぐなと祈り定むる柱立式、天星色星多願の玉女三神、貪狼巨門等北斗の七星を祭りて願ふ永久安護、順に柱の仮轄を三ツづゝ打つて脇司に打ち緊めさする十兵衛は、幾干の苦心も此所まで運べば垢穢顔にも光の出るほど喜悦に気の勇み立ち、動きなき下津盤根の太柱と式にて唱ふる古歌さへも、何とはなしにつくづく嬉しく。《『五重塔』其廿三》奈良時代に起源をもつと伝えられ,御所に務め,建築を監督指揮し,技術も優れた大工を番匠と呼ばれます。宮殿や神社,寺院などの造営の際には,棟上げをはじめ,地曳(じびき),
清鉋(きよかんな),立柱(たてはしら)などの番匠儀式がおこなわれました。《京の伝統行事芸能(冬)》住職らによる読経に続く釿始祭(ちょうしさい)では、工匠らが、用材に印を付ける墨矩(すみかね)、墨打(すみうち)、粗削りする釿打(ちょうなうち)、仕上げを行う
清鉋(きよかんな)の儀式を次々に行った。また、四方の柱をつき固める槌打(つちうち)、棟を上げる曳綱(ひきつな)では、工匠の威勢の良い掛け声が響いた。《津観音で五重の塔の立柱式》
2001年5月30日(水)曇りのち雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「柱立(はしらだて)」
室町時代の古辞書である『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にはこの標記語は未収載にある。『庭訓徃來』に「
柱立」と見えている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
163釿立
・礎居・柱立・精鉋(キヨ―)・棟ネ上之吉日者 史略云、軒轅黄帝受河圖見‖日月星辰ノ辰象|、始有‖星官ノ書|。又伶倫取‖〓〔山+解〕谷ノ竹|制‖十二律〓〔竹+角〕|、以聽‖風鳴|六〓〔此+鳥〕鳴六。以黄鐘之宮生六律六呂云々。一歳ヲ定‖十二月|也。軍ニハ葛雅川定‖兵宝福兵吉伐日ト|。李靖孤虎ヲ爲∨本。作‖金遺|類_多也。本朝ニ代々撰フ∨日ヲ雖∨多ト家ノ始仁王五十六代ノ御門自‖水尾天皇|以来也。小笠原ニモ自‖水尾|相傳ス。水尾者即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授∨之給ト云々。可∨秘也。〔謙堂文庫藏一八左B〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷抄』は、
柱立
(はしらだて)△柱立ハ家(イヘ)を組初(クミソム)る也。〔十六ウC〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
柱立
(はしらたて)△柱立 普請を組初るなり。〔十九ウD〕柱立
(はしらだて)△柱立ハ家(イヘ)を組初(クミソム)る也。〔二十九オC〕とある。読み方は「はしらたて」「はしらだて」とあって、語注釈に「普請を組初るなり」「家を組初る也」という。
当代の『日葡辞書』には、
Faxiradate.
ハシラダテ(柱立て) 建物や家を建てる場所に木の柱を立てること.例,Faxiradateuo suru.(柱立てをする)〔邦訳215l〕とある。
何故、室町時代の古辞書群はいずれもこの語を未収載としたのか、その編纂状況は何も見えてきていない。
[
ことばの実際]こうりやうの上に、棟の小屋がまへと云事をしたる也、これが
柱立也。《『石山本願寺日記』宇野主水日記・天正□六月廿八日》2001年5月29日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「礎居(いしずえ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、
石居
(―ズヘ) 又。〔元亀本11G〕石居
(―ズヱ) 。〔静嘉堂本3C〕石居
(―スヱ) 又。〔天正十七年本上4オB〕石居
(―ズヘ) 又衝。〔西來寺本16D〕とあって、その読み表記は第四拍に「いしずゑ
へ」(元亀本・西來寺本)と「いしずゑ」(静嘉堂本・天正十七年本)とハ行・ワ行とが諸本両用に見られる。標記語は「石居」であり、語注記とはいかないまでも「又」という文字が静嘉堂本を除く他三本には見られ、このうち西來寺本はこの「又」のあとに「衝」の字を置き、「また、石衝」とする。他本では「石衝」は次に標記語として収載している。ここで、この「又」の字が意味することがらだが、前後の標記語との連関性を意味するものか、または、典拠となる語の頭文字か即断は避けたい。『下學集』には、未收載にある。ただし、増補改編系の春良本『下學集』(慶長年間写本)には、礎
(イシスヱ) 。〓〔石+桑〕(イシスヱ) 二字同。〔家屋門45F・46@〕とある。広本『節用集』には、
礎
(イシズヱ/ソ) 〓〔石+桑〕(同/サク) 〓〔石+真〕(同) 三字義同。柱(ハシラ)ノ下(シタ)ノ石也。〔家屋門5BC〕とあって、標記語は最大の単漢字三種(伊勢本系統『節用集』、天正十八年本・黒本本・岡田希雄旧蔵本などの多くは「礎」の字一種にすぎない。天正十七年本は伊勢本の一種だが、これに印度本系の弘治二年本に近い書込み「又作作〓〔石+真〕」がなされている)を以って示し、語注記に「三字の義同じ。柱の下の石なり」とある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』(永禄五年本・経亮本・枳園本や『塵芥』など。乾本系統の易林本『節用集』)には、
礎
(イシズヘ) 又作〓〔石+真〕。〔弘・天地3B〕〓〔石+真〕
(イシスヘ)。礎(同)。〔永・天地1E〕〔両・天地1F〕〓〔石+真〕
(イシスヘ)。礎。〔尭・天地1E〕とあって、広本『節用集』同様に単漢字を以って示すのだが、その数が二種に留まっている。ここで、三種の標記語のうち、「
〓〔石+桑〕」の字を収載しないのである。このことは、春良本『下學集』が逆に二種収載するに際し、印度本系統の『節用集』が有する「〓〔石+真〕」を欠くことから、そして、弘治二年本を除く他写本がこの字を先出しすることも含め、定まった「いしずへ」の表記法が古辞書編纂者及び再編纂者にまだなかったことを示唆しているといえよう。このことは、『庭訓徃來』所載の「礎居」なる語を、古辞書編集指の針基盤となる『下學集』編者がまずとりこまなかったことが要因とも言えよう。このことで、広本『節用集』、そして印度本系統『節用集』の編者は個々にその語を編纂収録するきっかけとなったのではあるまいか。また、『運歩色葉集』の編者も『庭訓徃來註』に目を向けつつもこの語を「礎居」から「石居」としたこと、そして、語注記に「又」の字を置いて『節用集』系の別漢字種をそこに示そうとしていた意志表示が書き写されているのではなかろうか。さらに、印度本系統『節用集』の読み表記は、すべて「いしずへ」で第四拍をハ行「へ」で記していて異同はない。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
163釿立
・礎居・柱立・精鉋(キヨ―)・棟ネ上之吉日者 史略云、軒轅黄帝受河圖見‖日月星辰ノ辰象|、始有‖星官ノ書|。又伶倫取‖〓〔山+解〕谷ノ竹|制‖十二律〓〔竹+角〕|、以聽‖風鳴|六〓〔此+鳥〕鳴六。以黄鐘之宮生六律六呂云々。一歳ヲ定‖十二月|也。軍ニハ葛雅川定‖兵宝福兵吉伐日ト|。李靖孤虎ヲ爲∨本。作‖金遺|類_多也。本朝ニ代々撰フ∨日ヲ雖∨多ト家ノ始仁王五十六代ノ御門自‖水尾天皇|以来也。小笠原ニモ自‖水尾|相傳ス。水尾者即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授∨之給ト云々。可∨秘也。〔謙堂文庫藏一八左B〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷鈔』は、
礎居
(いしずゑ)△礎居ハ地堅(ちかた)めして柱下(はしらした)の石(いし)をすゑる也。〔二十九オB〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
礎居
(いしすゑ)△礎居ハ地堅(ちかた)めして柱下(はしらした)の石(いし)をすゑる也。〔十六ウC〕〔二十九オB〕とある。読み方は「いしすゑ」とあって、語注釈に「地堅
(ちかた)めして柱下(はしらした)の石(いし)をすゑる也」という。このように、室町時代の古辞書及び注記資料からは、「いしずゑ{へ}」の語を『庭訓徃來』及び『庭訓徃來註』から収載し、語注記することが見られないことが知られ、各辞書間を系ぐ継承過程も甚だ薄い。さすれば、「
〓〔石+桑〕」や「〓〔石+真〕」の語を何から採録したのかが次の検証課題となってくる。院政時代の字書観智院本『類聚名義抄』に、礎
音楚 ツミイシ[平平平上],ツメイシ,イシスヘ。〔法中3B〕〓〔石+真〕
田真二音〓〔石-潟〕声。又刃珎反 ツメ{ミ}イシ[平平{平}平上],イシスヱ[上上上濁上]。〔法中4@A〕〓〔石+桑〕
桑朗反。礎。〔法中12C〕とあり、「
礎」と「〓〔石+真〕」の字に「いしずゑ{へ}」の和訓が見え、「〓〔石+桑〕」には「礎」の字を注記する。次に鎌倉時代の字書である永正五年本『字鏡鈔』に、〓〔石+真〕
(平[真]テン,シン)ツメイシ,イシタヽミ,ツミイシ,イシスヱ。〔石部13行4〕礎
(ソ,シヨ)ツミイシ,イシスヘ,ツメイシ,メイシ。〔石部44行4〕〓〔石+桑〕
(上[蕩]サウ)先曩反。ツミイシ。〔石部46行A〕とあり、寛元本『字鏡集』にも、
礎
([語]シヨ/ク{ソ})ツミイシ,イシスヘ,ツメイシ,メイシ。〔石部85E〕〓〔石+桑〕
([蕩]サウ)先曩反。ツミイシ。〔石部86A〕〓〔石+真〕
([真]シン/テン)ツメイシ,イシタヽミ,ツミイシ,イシスヱ。〔石部80D〕とあって、三種の漢字を見るに共通する読み訓として、「つみいし」があり、「
〓〔石+桑〕」の字には「いしすゑ{へ}」の読み訓はないが、こうした異字同義としての意識はこの時代既に整っていたと考えられる。第四拍の「ゑ」と「へ」の表記はここでは揺れている。鎌倉時代の古辞書である前田家本『色葉字類抄』地儀付居處并居宅具に、〓〔石+真〕
イシスヘ,又、ツミイシ。柱礎(―ソ) 同。柱下石也。〔三オBC〕※平安時代の古辞書である十巻本『和名類聚抄』三に、「
柱礎 唐韻云〓〔石+真〕<徒年反,都美以之。一云以之須惠>柱礎也。礎<音楚>柱下石也」とあって、『色葉字類抄』の語注記は、ここに依拠している。とあって、広本『節用集』の語注記「柱の下の石なり」は、ここに依拠していることが知られると同時に、ここでも「
〓〔石+桑〕」は見出せないことから上記字書との連関を考えねばなるまい。広本『節用集』には『色葉字類抄』そしてこれらの字書が参考資料となっていることも既に先学の字書研究において明らかとなってきている。当代の『日葡辞書』には、Ixizuye.
イシズエ(礎) 木造の建物の下に据える礎石.§Ixizuyeno iye.(礎の家)この礎石の上に土台をおいた家.§Ixizuyeuo suru.l,ixiuo suyuru.(礎をする.または,石を据ゆる)建物の土台石を据える.〔邦訳349l〕とある。
[
ことばの実際]△重源始
(ハジメ)テ入リ‖周防ノ國ニ|。採(トリ)‖料材(レウザイ)ヲ|。致(イタ)シ‖柱礎(チウソ)シ|。搆(カマヘ)∨企テント‖土木ノ功ヲ|。載(ノスル)ノ‖柱(ハシラ)一本ヲ|之車。駕(カ)シ‖牛(ウシ)百廿頭(トウ)ニ|。令(シムル)∨牽(ヒカ)∨之ヲ也。《西教寺蔵『吾妻鏡抄録』(零古写本)影印18C》鳳
(ホウ)ノ甍(イラカ)翔天虹ノ梁(ウツバリ)聳雲、サシモイミジク被造雙タリシ大内裏(ダイダイリ)、天災(テンサイヲ)消(ケス)ニ無便、回祿(クワイロク)度々ニ及(オヨン)デ、今ハ昔ノ礎(イシズヱ)ノミ殘レリ。《『太平記』巻第十二・大内裏造營事付聖廟御事》2001年5月28日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「釿立(てをのだて・てうなたて)」
室町時代の古辞書である『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にはこの標記語は未収載にある。『庭訓徃來』に「
釿立」と見えている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
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釿立・礎居・柱立・精鉋(キヨ―)・棟ネ上之吉日者 史略云、軒轅黄帝受河圖見‖日月星辰ノ辰象|、始有‖星官ノ書|。又伶倫取‖〓〔山+解〕谷ノ竹|制‖十二律〓〔竹+角〕|、以聽‖風鳴|六〓〔此+鳥〕鳴六。以黄鐘之宮生六律六呂云々。一歳ヲ定‖十二月|也。軍ニハ葛雅川定‖兵宝福兵吉伐日ト|。李靖孤虎ヲ爲∨本。作‖金遺|類_多也。本朝ニ代々撰フ∨日ヲ雖∨多ト家ノ始仁王五十六代ノ御門自‖水尾天皇|以来也。小笠原ニモ自‖水尾|相傳ス。水尾者即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授∨之給ト云々。可∨秘也。〔謙堂文庫藏一八左B〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
釿立
(てうのたて)△釿立 普請の初發釿をつかひ初る祝ひなり。〔十九ウC〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
釿立
(てをのだて)△釿立ハ、普請(ふしん)初(はじめ)の祝儀(しうぎ)也。〔十六ウBC〕〔二十九オB〕とある。読み方は「てうのたて」と「てをのだて」の二種あって、語注釈を「普請初めに釿を用いる祝いの儀式」をいう。このように、室町時代の古辞書及び注記資料からはこの語を収載し、語注記することが見られないことが知られ、何故、このような状況にあったのかを今後考えなければなるまい。
[
ことばの実際]寛政七年(1795)四月再建の決定をみ、以来五年の準備の末、同十二年
釿立、七月三十日棟揚、八月二日竣功した。 棟梁は小黒町村大工重兵衛等三人棟梁、木引きは鯖江町木屋市平。 文化元年(1804)二月二十日楊揚賀祭・槌供養斎行。《舟津神社大鳥居》「平山日記」明和六年(1769)の記事に「当年住家建直シ作事二月九日
釿立、大工木挽十三人、四月十六日棟上ゲ・・・」《旧平山家住宅》2001年5月27日(日)雨のち曇り、夜雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「修理職(シユリシキ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
修理進
(シユリノシン)。〔元亀本321D〕 修理大夫(―リノ――) 唐名匠作。〔元亀本〕修理進
(―リノシン)。〔静嘉堂本378G〕 修理大夫(――――) 唐名匠作。〔静嘉堂本382C〕とあって、標記語「
修理職」はなく、「修理進」と「修理大夫」とが収載されていて、後者の語注記は「唐名、匠作」とある。この標記語は『庭訓徃來』に「修理職」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』には修理大夫
(シユリノ―) 匠作(シヤウ―)。〔官位門44C〕とあって、標記語を「
修理大夫」として、語注記はただ「匠作(シヤウ―)」とある。広本『節用集』には、修理職
(シユリノシヨク/シユウ・ヲコナウ・ヲサム,ヲサムル,―) 唐名匠作大夫一人。相當従四位下。唐名匠作大尹。権大夫一人。亮相當従五位下。唐名匠作少尹。尉進大少。属大少。唐名匠作録亊。〔官位門920C〕とあって、標記語を『庭訓徃來』と同じく「
修理職」と表記し、語注記は「唐名匠作、大夫一人。相當従四位下。唐名匠作、大尹。権大夫一人。亮相當従五位下。唐名匠作、少尹。尉進大少。属大少。唐名匠作、録亊」と最も詳しいものとなっている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、修理
(シユリ) ―大夫。―亮。―進。已上三唐名匠作。〔弘・官名239E〕修理
(シユリ) ――大夫。――亮。――進。以上之唐名匠作。〔永・官名200E〕〔尭・官名190E〕とあって、標記語を「
修理」とし、語注記を弘治二年本は「―大夫。―亮。―進。已上の三つの唐名は匠作」とし、他二本は「――大夫。――亮。――進。以上、これ唐名は匠作」としていて、二種類の語注記がそれぞれ収載されている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
162仰
‖木工寮修理職(シキ)ノ大工ニ|、被∨召‖_下巧匠| 官、唐名位巳下何モ在‖職原ニ|。作亊奉-行ノ官也。大工ハ大概爲‖下知|者也。巧匠ト云ハ上-手ノ亊也。〔謙堂文庫藏一八左A〕※
修理職ハ仏神又ハ禁中ノ造営奉行也。/修――唐名匠作掌‖宮中ノ修理ノ亊ヲ|。《天理図書館藏頭注書込み》とあって、この語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、
Xuri.
シュリ(修理) 家や建物などを改造したり修繕したりすること.§Xuriuo cuuayuru.l,xuriuo suru.〔邦訳803l〕とあって、その役職について説明するのではなく、あくまでその仕事内容を説明するものである。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
修理職
(しゆりしよく)△仰テ‖木工ノ寮修理職ノ大工ニ| 木工の寮修理職ハ、皆ふしんかゝりの役なり。普請奉行の類ひなり。《下略》。〔十九ウAB〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
修理職
(しゆりしよく)△修理職唐名(からな)ハ、匠作(しやうさく)といふ。内裏御修造(しゆぞう)の奉行職(ぶぎやうしよく)也。〔十六ウA〕〔二十九オA〕とある。読み方は「シュリショク」とあって時代が降ることで「―シキ」から「―ショク」へと変更が見え、ここで、
唐名を「匠作」と称し、その職内容である「内裏ご修造の奉行職」ということが記載されるのである。[
ことばの実際]去月廿四日、藤中納言〈資實卿〉奉仰、被相觸云、堤事被仰關東時、全可費煩諸國之由、不思食寄而仰九箇國御家人、不論權門勢家神社佛寺領、可充催由、被加下知之間、賀茂八幡已下庄々、面々訴申就中
修理職、杣役事、於此所々者、奉公異他之地也又大甞會、卜合兩國、在此中彼是可免許〈云云〉惟義申云、件杣分、可充催何所乎〈云云〉而此申状事、太以不足言也仍直被遣奉書之由、同廿五日、重被仰之旨〈云云〉《寛永版『吾妻鏡』建暦二年(1212)七月七日辛亥》去る月の二十四日に、藤の中納言(資實卿)仰せを奉り、相触れられて云く、堤の事、関東に仰せられん時、全く諸国を費やし煩わすべきの由、思し食し寄らず。而して九箇国の御家人に仰せ、権門、勢家、神社、佛寺領を論ぜず、充て催すべき由、下知を加えらるるの間、賀茂・八幡以下の庄々、面々訴え申す。就中
修理職杣役の事、この所々に於いては、奉公他に異なるの地なり。また大甞會両国を卜合してこの中に在り。彼是免許すべしと。惟義申して云く、件の杣分何れの所を充て催すべきやと。而るにこの申し状の事、太だ以て言うに足らざるなり。よって直に奉書を遣わさるるの由、同二十五日に重ねて仰せらるの旨と。《上記読み下し文》2001年5月26日(土)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「木工寮(むくのかみ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「無」部に、
木工允/助
(ムク―)唐名工部尚書。〔元亀本176E〕木工允/助
(ムク―) 唐名工部尚書。〔静嘉堂本197A〕とあって、標記語「
木工允/助」の語注記は「唐名、工部尚書」とある。この標記語は『庭訓徃來』に「木工寮」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』には木工頭
(ムクノ―) 工部(クホウ)尚書。〔官位門44@〕とあって、語注記はただ「工部
(クホウ)尚書」とある。広本『節用集』には、木工寮
(ムクノ―/ボクコウレウ.キ,タクミ,―) 唐名將作監頭一人。権相當従五位上。唐名工部尚書。又云將作大匠。又木(ボク)作尹。助権。相當正六位下。唐名工部侍郎允。唐名工部郎中。又云將作丞。又左校(カウ)丞。又云木作丞・属大少。唐名工部主亊。又云左校史。又云將作主簿。〔官位門460D〕とあって、標記語を『庭訓徃來』と同じく「
木工寮」と表記し、語注記は「唐名將作監頭一人。権相當従五位上。唐名工部尚書。又云將作大匠。又木(ボク)作尹。助権。相當正六位下。唐名工部侍郎允。唐名工部郎中。又云將作丞。又左校(カウ)丞。又云木作丞・属大少。唐名工部主亊。又云左校史。又云將作主簿」と最も詳しいものとなっている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、木工頭
(ムクノカミ) ―助。―允。〔弘・官名145F〕木工頭
(ムクノカミ) 工部。尚書。〔永・官名117@〕〔尭・官名107A〕〔両・官名130A〕とあって、『下學集』と同じく標記語を「
木工頭」とし、弘治二年本だけが語注記を「―助。―允」とし、他三本は『下學集』と同じく「工部。尚書」としていて、二種類の語注記がそれぞれ収載されている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
162仰
‖木工寮修理職(シキ)ノ大工ニ|、被∨召‖_下巧匠| 官、唐名位巳下何モ在‖職原ニ|。作亊奉-行ノ官也。大工ハ大概爲‖下知|者也。巧匠ト云ハ上-手ノ亊也。〔謙堂文庫藏一八左A〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、未収載にある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
木工の寮
(もくのかみ)△仰テ‖木工ノ寮修理職ノ大工ニ| 木工の寮修理職ハ、皆ふしんかゝりの役なり。普請奉行の類ひなり。《下略》。〔十九ウAB〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
木工の寮
(もくのりやう)△木工寮唐名(からな)ハ、將作監(しやうさくかん)といふ。工匠(てつくり)の事を司(つかさと)る。今も内裏(だいり)已下の御普請(ふしん)ミな此寮(りやう)の沙汰(さた)也と云々。〔十六ウA〕木工の寮
(もくのれう)△木工寮唐名ハ、將作監(しやうさくかん)といふ。工匠(ていくり)の事を司(つかさど)る。今も内裏(だいり)已下の御普請(ふしん)ミな此寮(れう)の沙汰(さた)也と云々。〔二十九オ@〕とある。読み方は「もくのかみ」「もくのリヤウ」とあって時代が降ることで「むく」から「もく」へと変更が見え、ここで、広本『節用集』に取り上げられている
唐名「將作監」が見え、その職内容が記載されるのである。[
ことばの実際]サテモ故
(コ)大納言殿滅(ホロ)ビ給フベキ前表(ゼンベウ)ノアリケルヲ、木工頭(モクノカミ)孝重(タカシゲ)ガ兼(カネ)テ聞(キヽ)タリケルコソ不思議ナレ。《『太平記』第十三・龍馬進奏事》2001年5月25日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「巧匠(ゲウシヤウ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣」部に、
巧妙
(ギウメウ)。〔元亀本217G〕巧妙
(――)。〔静嘉堂本248A〕とあって、標記語「
巧匠」の語は未収載で、「巧妙」の語で語注記は未記載である。この標記語「巧匠」は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には未収載にある。広本『節用集』には、△聖人
(ジン)ハ常(ツネ)ニ能(ヨク)救(スクウ)∨人(ヒト)ヲ。故(カルガユヘ)ニ無(ナシ)∨棄(スツル)コト∨人(ヒト)ヲ常(ツネ)ニ善(ヨク)救(スクウ)∨物(モノ)ヲ故(カルガユヘ)ニ無(ナシ)∨棄(スツル)コト∨物(モノ)ヲ。明王(メイワウ)ノ之任(ツカウ)∨人(ヒト)ヲ如(ゴトシ)‖巧匠(ケウシヤウ)ノ之。制(キル)ガ∨木(キ)ヲ直(ナヲキ)者(モノ)ヲバ以(モ)テ為(ツクル)∨轅(ナガヱ)ニ。曲(マガレ)ル者(モノ)ヲバ以(モ)テ為(ツクル)∨輪(ワ)ニ。長(ナガキ)者(モノ)ヲバ以(モ)テ為(ツクル)‖棟梁(トウリヤウ)ニ|。短(ミジカキ)者(モノ)ヲバ以(モ)テ為(ツクル)‖拱角(コウカク)ニ|。無(ナク)‖曲(キヨク)直(チョク)長(チヤウ)短(タン)ト|各(ヲノ/\)有(アリ)∨所(トコロ)∨施(ホドコス)明王(メイワウ)ノ任(ツカフ)∨人(ヒト)ヲ。亦(マタ)猶(ナヲシ)如(ゴトシ)∨是(カク)ノ智(チ)アル者(モノ)ヲバ取(トル)‖其(ソノ)謀(ハカリコト)ヲ。愚(グ)ナル者(モノ)ヲバ取(トル)‖其(ソノ)力(チカラ)ヲ|。勇(ユウ)ナル者(モノ)ヲバ取(トル)‖其(ソノ)威(イ)ヲ|怯(ヲソルヽ)者(モノ)ヲバ取(トル)‖其(ソノ)慎(ツヽシミ)ヲ|。無(ナク)‖愚智(グチ)勇怪(ユウクワイ)ト|兼(カネ)テ而モ用(モチイル)∨之(コレ)ヲ。故(カルガユヘ)ニ良匠(リヤウシヤウ)ハ無(ナク)∨棄(スツル)コト材(サイ)ヲ明君(メイクン)ハ無(ナシ)∨棄(スツル)コト∨士(シ)ヲ。不(ザレ)下以(モ)テ‖一悪(イチアク)ヲ|忘(ワスレ)中其(ソ)ノ善(ゼン)ヲ上勿(ナカレ)以(モ)テ‖小瑕(セウカ)ヲ|掩(ヲオフ)コト中其(ソ)ノ功(コウ)ヲ上。帝範。〔態藝門1112E〕△明王(メイワウ)ノ之任(ツカウ)∨人(ヒト)ヲ如(ゴトシ)‖巧匠(ギヨウシヤウ)ノ之。制(セイ)スルガ∨木(キ)ヲ。直(ナヲキ)者(モノ)ヲバ以(モツ)テ為(ナス)∨轅(ナガヱ)ト。曲(マガレ)ル者(モノ)ヲバ以(モツ)テ為(ナス)‖棟梁(トウリヤウ)ト|。短(ミジカキ)者(モノ)ヲバ以(モツ)テ為(ナス)‖拱角(コウカク)ト|。帝範。〔態藝門875G〕
とあって、『帝範』における文中に「巧匠」なる語が見えている。この読み方がかたや「ゲウシヤウ」とし、かたや「ギヨウシヤウ」の二種の読みが認められるのである。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、『運歩色葉集』と同じく「巧妙」の語が見えるに留まる。
巧妙
(ケウメウ)。〔弘・言語進退177E〕 巧妙(キヨウメウ)。〔弘・言語進退223A〕巧妙
(ゲウメウ) ―弁。〔永・言語144G〕〔尭・言語134D〕とあって、弘治二年本では、二種の読みをそれぞれ収載している。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
162仰
‖木工寮修理職(シキ)ノ大工ニ|、被∨召‖_下巧匠| 官、唐名位巳下何モ在‖職原ニ|。作亊奉-行ノ官也。大工ハ大概爲‖下知|者也。巧匠ト云ハ上-手ノ亊也。〔謙堂文庫藏一八左A〕とあって、この語に関する語注記は「巧匠と云ふは上-手の亊なり」という。当代の『日葡辞書』には、
Gueo>xo<.
ゲゥシャゥ(巧匠) Guio>xo<(巧匠)の条を見よ.〔邦訳296r〕Guio>xo<.
ギョゥシャゥ(巧匠) Tacumi,tacumu.(巧み,巧む)大工.文書語.〔邦訳302r〕とあって、「ゲゥシャゥ」と「ギョゥシャゥ」といった二とおりの読み方が示され、意味は「ギョウショウ」の方に「大工」の文書語とある。
時代は降って、江戸時代の古版『庭訓往来註』(無刊記の家蔵本)には、
巧匠
(ゲウシヤウ)ヲ|釿立(テウノダテ)・礎居(イシズヘ)・柱立(ハシラダテ)・精鉋(キヨカンナ)・棟上(ムネアゲ)吉日者課(ヲホセ)テ‖ 巧匠(ゲウシヤウ)ト云事ハ大工(ダイク)番匠(バンジヤウ)ノ頭ラ居(イ)ナガラ物ヲタクム者ナリ。〔十五オE〕とあって、「大工(ダイク)番匠(バンジヤウ)ノ頭ラ居(イ)ナガラ物ヲタクム者ナリ」という。また、『庭訓徃来捷註』は、
巧匠
(こうしやう)△被∨召‖_下巧匠ヲ| 巧匠ハ、いまの大工の事也。〔十九オBC〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
巧匠
(こうしやう)△巧匠ハ、常(つね)の大工を指(さ)す。〔十六ウB〕〔二十九オA〕とある。
[ことばの実際]
ある所(ところ)を見(み)れば、御佛(ほとけ)仕(つか)うまつるとて、巧匠(<かうしやう>/<ケウ―>)多(おほ)く佛師百人ばかり率(ひき)ゐて仕(つか)うまつる。《『榮花物語』巻第十五・大系上446N》頭注に、「熟練した細工人」とある。
2001年5月24日(木)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「大工(ダイク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多」部に、
大工
(―ク)。〔元亀本136A〕大工
(―ク)。〔静嘉堂本143D〕とあって、標記語「
大工」の語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には未収載にある。広本『節用集』にも、大工
(―ク/―,キヨウ・タクミ)番匠。〔態藝門334B〕とあって、語注記は「番匠」とある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
大工
(ダイク) 職人。〔弘・人倫98F〕〔永・人倫91E〕大工
(タイク) 職人。〔尭・人倫83C〕大工
(タイク) 職人(シヨクニン)。〔両・人倫100C〕とあって、読みは「ダイク」「タイク」に二分されるが、語注記は広本『節用集』と異なり「職人」とある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
162仰
‖木工寮修理職(シキ)ノ大工ニ|、被∨召‖_下巧匠| 官、唐名位巳下何モ在‖職原ニ|。作亊奉-行ノ官也。大工ハ大概爲‖下知|者也。巧匠ト云ハ上-手ノ亊也。〔謙堂文庫藏一八左A〕とあって、この語に関する語注記は「
大工は大概、下知する者なり」とある。当代の『日葡辞書』には、Daicu.
ダイク(大工) 大工.〔邦訳178l〕とある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
仰
テ‖木工寮修理職ノ大工ニ| 木工の寮修理職ハ、皆ふしんかゝりの役なり。普請奉行、作事奉行の類ひなり。大工ハ巧匠の頭にして木工の寮修理職の支配下なり。〔十九ウAB〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
△大工
ハ、工匠(こうしやう)の頭(かしら)を指(さ)す。木工寮修理職の支配下(しはひした)也。大工・小工・撞大工・撞小工とてあるよし。〔十六ウB〕〔二十九オA〕とある。
[
ことばの実際]昔
(むかし)唐土(もろこし)郢(<てい>)の國に匠石(<しやうせき>)といふ大工(<く>)の有けるが、壁(<かべ>)を塗(ぬ)る者(もの)の(ゝ)鼻(<はな>)の端(<さき>)に堊(<しらつち>)の付(つ)きたりしを、匠石(<しやうせき>)すなはち釿(<てうの>)を以(もつ)て堊(<しらつち>)を削(けづ)り落(おと)すに、この人目も瞬(まじろ)かず、顏(<かほ>)をも動(うご)かさず、堊(<しらつち>)は洗(あら)ひ拭(ぬぐ)ふたる如(ごと)くに削(けづ)り落(おと)したり。《仮名草子『浮世物語』第二》諸職
(<しよしよく>)の中に大工(<く>)は良(よ)きものなりと思(おも)ひ、ある人を頼(たの)みて大工(<く>)の弟子(<でし>)となりけり。まづ釿(<てうの>)を使(つか)ひ習(なら)へとて、柱(<はしら>)を削(けづ)らせける程(ほど)に、うち外(はづ)して足ぐひをしたゝかに切(き)りたり。《仮名草子『浮世物語』第二》2001年5月23日(水)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「用意(ヨウイ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「与」部に、
用意
(ヨウイ)。〔元亀本132G〕用意
(ヨウイ)。〔静嘉堂本116E〕とあって、標記語「
用意」の語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には未収載にある。広本『節用集』にも、用意
(ヨウイ/モチイル,ヲモウ・コヽロ)。〔態藝門317G〕とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
用心
(ヨウジン) ―意(イ)。―明(メイ)。―捨(シヤ)。―否(ヒ)。〔永・言語88G〕〔両・言語97B〕用心
(ヨウシン) ―意。―明。―捨。―否。〔尭・言語80F〕とあって、弘治二年本は『下學集』同様、未收載にあり、他三本は標記語でなく、割書注記の熟語掲載の先頭に置かれている。すなわち、古辞書のなかで標記語として「
用意」を収載するのは広本『節用集』と『運歩色葉集』に限定される。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
161釿并
ニ造作ノ釘、金物者、用‖意シ炭鐵|、召‖_居(ス)ヘ鍛冶ヲ|令∨造候也 日本ノ俗爲‖鍛治|大誤也。雖∨然干∨今不∨可∨改也。仁王廿七代雄略天王伊勢国山田原ニ大~宮作リ自リ‖震旦|始渡也。〔謙堂文庫藏一八右H〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、
Yo>i.
ヨウイ(用意) 準備,あるいは,支度.〔邦訳825r〕とある。
[
ことばの実際]折ふし坊主は、鮑の腸和の料理をなさるゝが、檀那に見られ、かくす間はなし、前にきつとかまへ、「さてさて奇特の御参詣、内々今日は御親父さまの命日にて候ほどに、さだめて御参りなされうと存、酒は
用意仕候へ共、精進にて酒がのまれぬと、つねづね仰候ほどに、ゑんとりをして、是を調へたる」と申されける。《仮名草子『きのふはけふの物語』》2001年5月22日(火)曇り後雨。東京(八王子)⇒世田谷(瀬田:静嘉堂文庫)
「金物(かなもの)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
金物
(―モノ)。〔元亀本93I〕金物
(―モノ)。〔静嘉堂本116E〕金物
(―モノ)。〔天正十七年本上57オG〕金物
(―モノ)。〔西来寺本〕とあって、標記語「
金物」の語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には未収載にある。広本『節用集』にも、九輪
(クリン/キウツ・コヽノツ,メグル・ワ) 塔ノ最上ノ飾(カサリ)ノ金物(カナモノ)。〔器財門506C〕とあって、標記語としては未收載にあり、「
九輪」の語注記にのなかに見えるにすぎない。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、『下學集』同様、未收載にある。すなわち、古辞書のなかで標記語として「金物」を収載するのは『運歩色葉集』に限定される。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
161釿并
ニ造作ノ釘、金物者、用‖意シ炭鐵|、召‖_居(ス)ヘ鍛冶ヲ|令∨造候也 日本ノ俗爲‖鍛治|大誤也。雖∨然干∨今不∨可∨改也。仁王廿七代雄略天王伊勢国山田原ニ大~宮作リ自リ‖震旦|始渡也。〔謙堂文庫藏一八右H〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、
Canamono.
カナモノ(金物) 鉄製品,あるいは,銅などの金属の板金.⇒Canaka(金). 〔邦訳87r〕とある。
[
ことばの実際]荒尾弥五郎ガ甲
(カブト)ノ眞向(マツカウ)、金物(カナモノ)ノ上(ウヘ)二寸計(バカリ)射碎(イクダイ)テ、眉間(ミケン)ノ眞中(マンナカ)ヲクツマキ責(セメ)テ、グサト射篭(イコウ)ダリケレバ、二言(ニゴン)トモ不云、兄弟(キヤウダイ)同枕(オナジマクラ)ニ倒重(タフレカサナツ)テ死(シヽ)ニケリ。《『太平記』卷第三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」》2001年5月21日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「造作(ザウサク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左」部と「久」部に、
造作
(ザウサク/―サ)。〔元亀本270B〕造作
(――)。〔静嘉堂本308A〕とあって、標記語「
造作」の語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には、造作
(ザウサク) 。〔態藝93B〕とあって、語注記は未記載にある。広本『節用集』にも、
造作
(ザウサク/ツクル,―) 家作(ツクル)義也。―作(―サ) 煩敷(ワツラワシキ)義也。〔態藝門785@〕とあって、標記語を読みによって二語に設定し、前の読みの語は『下學集』と共通し、語注記は『下學集』にないがこれを増補して「家作る義なり」、次に後の語の読みは「ザウサ」で語注記を「煩わしき義なり」と読み方によって意味を区別している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
造作
(ザウサク) 造(ツクル)∨家。造作(ザウサ) 煩敷(ワツラハシク)。〔弘・言語進退213G〕造作
(ザウサク/―サ) ―畢(ヒツ)。―意(イ)。―營(エイ)。〔永・言語178A〕造作
(サウサク) ―畢。―意。―営。〔尭・言語167B〕とあって、弘治二年本だけが広本『節用集』と同じく標記語を読みに従って二語並列させ、語注記も前者を「家造る」、後者を「煩はしく」と簡略化して示している。他二本のうち永祿二年本は、読みを右と左とにして標記語一語で示し、この形態は元亀本『運歩色葉集』に近い。また尭空本は、「ザウサク」の読みしか記載を見なく、語注記は「造」を冠頭にした熟語を置くものである。
ここで、注目したいことは、『節用集』の編者は、読み方「ザウサク」と「ザウサ」とで意味の異なりを示そうとしていることである。だが、『運歩色葉集』や印度本系統の『節用集』のうち永祿二年本や尭空本ではその異なりを再び意識しようとはしない編纂姿勢が見て取れるのである。下記の『日葡辞書』の訳語部分からもこのような明確さが見えないことから、ごく一部で一時的にその姿勢が保たれていたが、やがて、その意識も薄れてしまったというところであろうか。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
161釿并
ニ造作ノ釘、金物者、用‖意シ炭鐵|、召‖_居(ス)ヘ鍛冶ヲ|令∨造候也 日本ノ俗爲‖鍛治|大誤也。雖∨然干∨今不∨可∨改也。仁王廿七代雄略天王伊勢国山田原ニ大~宮作リ自リ‖震旦|始渡也。〔謙堂文庫藏一八右H〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、
Zo<sacu.
ザウサク(造作) Tcucuri,tcucuru.(造り,作る)工事,あるいは,製作. 〔邦訳844l〕Zo<sa.
ザウサ(造作) Tcucuri tcucuru.(造り作る)工事,あるいは,製作.§また,苦労,出費,入費,など.§Zo<sano iru coto gia.(造作のいる事ぢや)たいへん手間と出費などのかかる事である.〔邦訳844l〕とあって、読み方によって意味の異なりを明確に記述できているとは言いにくいものがある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
并
ニ造作ノ釘、金物者 釘金物なとハ、ミな普請に用る物ゆへ造作と置たる也。〔十九オCD〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
造作
(ざうさく)の釘(くぎ)/造作ノ釘。〔十六オD〕〔二十八オC〕とあって注記は未記載とする。
[
ことばの実際]造作
(ザウサク)は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万(ヨロヅ)の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。《『徒然草』第五十五段》2001年5月20日(日)晴れ。大阪⇒神戸(神戸松蔭大学於「国語学会」)
「釿(チウナ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「知」部に、
釿
(テウナ)。〔元亀本249I〕釿
(テウナ)。〔静嘉堂本289A〕と区分けして見えるだけで、標記語を熟語化して「
釿」という語は未収載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には、釿
(テウノ) 手斧。〔器財114@〕とあって、その読み方を「テウノ」とし、語注記に「手斧」という。広本『節用集』にも、
釿
(テウノ) 或作‖手斧ト|。番匠ノ具足。〔器財門717B〕とあって、読みは『下學集』と共通し、語注記も『下學集』を増補改編して「或作
‖○○|」型で「手斧」を示し、さらに「番匠の具足」を増補している。この点で言えば、増補改編系統の春良本『下學集』にも、釿
(テウフ) 或ハ作‖手_斧(テヲノ)ト|。〔器財門106D〕とあって、読み方は「テウフ」とし、第三拍の「フ」表記は片仮名の「ノ」と「ナ」に近い文字表記であることから生じたものかもしれない。「或作
‖○○|」型で「手斧」を示している。この点は『節用集』に近接した増補と見て取れよう。しかし、『節用集』にはさらに後半部分に増補した「番匠の具足」という語注記が見えているが、春良本『下學集』には存在しない点もこの継承関係を明らかにしていくうえで大いに検討せねばなるまい。次に印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、釿
(テウノ) 或作リテ‖手斧(テウノ)ト|。番匠ノ具。〔弘・財宝198@〕釿
(テウノ) 或作手斧。又属〓〔木+属〕番匠具足也。〔永・財宝163F〕釿
(テウノ) 又作手斧。又属〓〔木+属〕番匠ノ具足也。〔尭・財宝153A〕とあって、広本『節用集』と同じく語注記も「或作
‖○○|」型で示そうという編纂意識が見えている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
161
釿并ニ造作ノ釘、金物者、用‖意シ炭鐵|、召‖_居(ス)ヘ鍛冶ヲ|令∨造候也 日本ノ俗爲‖鍛治|大誤也。雖∨然干∨今不∨可∨改也。仁王廿七代雄略天王伊勢国山田原ニ大~宮作リ自リ‖震旦|始渡也。〔謙堂文庫藏一八右H〕※〔東洋文庫蔵〕
※付訓
釿(テウノ)。〔天理図書館蔵本〕とある。当代の『日葡辞書』には、
Cho<no.
チョゥノ(釿・手斧) 手斧.〔邦訳127r〕とある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
鋸釿
(のこきり,てうの)/山造ノ斧鐇鋸釿 おのまさかりなとの四品ハ皆杣の木を切、材木にけづり立る道具故山造と置たる也。〔十九オC〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
釿
(テウナ)●釿ハ木をはつりて豫(あらかた)平(たいら)にするもの。以上(いしやう)の具(ぐ)ハミな杣木(そまき)を用材(ようざい)に仕立(したつ)るものゆへ山造といひし也。〔十六ウ@〕〔二十八ウE〕と注記する。
[
ことばの実際]まづ
釿<てうの>を使(つか)ひ習(なら)へとて、柱<はしら>を削(けづ)らせける程(ほど)に、うち外(はづ)して足ぐひをしたゝかに切(き)りたり。《仮名草子『浮世物語』》2001年5月19日(土)晴れ。大阪⇒神戸(神戸松蔭大学付属高校講堂於「国語学会」講演)
「津湊(つみなと)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「都」部と「美」部にそれぞれ、
津
(ツ)。〔元亀本160G〕 湊(ミナト)。〔元亀本303B〕津
(ツ)。〔静嘉堂本176F〕 湊(ミナト)。〔静嘉堂本353A〕と区分けして見えるだけで、標記語を熟語化して「
津湊」という語は未収載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には、津
(ツ)。〔天地23F〕のみで、「
湊」の標記語は見えない。広本『節用集』にも、津
(ツ/シン) 濱(ハマ)。浦(ウラ)。〔天地門409F〕 湊(ミナト/ソウ) 津―。〔天地門887A〕とあって、それぞれの標記語に区分けし、「
津」は「濱。浦」と語注記し、「湊」は「津湊」と語注記している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、津
(ツ) 濱。〔弘・天地125C〕 湊(ミナト) 津。〔弘・天地230F〕津
(ツ) 。〔永・天地103B〕〔尭・天地93F〕 湊(ミナト) 。〔永・天地192A〕〔尭・天地181E〕津
(ツ/シン) 。〔両・天地114@〕とあって、広本『節用集』と同じく標記語をそれぞれ区分けしたうえで、語注記も広本『節用集』以上に簡略化し、「
津」は「濱」のみの語注記とし、「湊」は「津」のみの語注記としているのは弘治二年本だけで、残りの諸本は語注記を未記載にしている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
159水門
、葺地之具足者、於‖津湊ニ|可∨令∨買∨之 日本ニ在‖三津八濱|。筑前国冷泉津、薩摩坊津、伊勢ノ穴ノ津也。濱湊ハ何方モ不∨定也。〔謙堂文庫藏一八右F〕とあって、この語に関する語注記は「日本に三津八濱在り。筑前国冷泉津、薩摩坊津、伊勢の穴の津なり。濱湊は何方も定めずなり」とある。また東洋文庫本・天理図書館本・国会図書館藏左貫注本では、語注記に多少の異同が見えている。当代の『日葡辞書』には、この語は見えない。
Tcu.
ツ(津) Minato(湊)に同じ.港.〔邦訳620r〕Minato.
ミナト(湊) 港.§Minatoni tcuqu.(湊に着く)港に到着する.§Funeuo minatoni iruru.(船を湊に入るる)船を港内に入れる.〔邦訳407l〕時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
津湊
(ツミナト) /津湊。〔十九オ@〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
津湊
(ツミナト)●津湊ハ諸国(しよこく)乃商船(しやうせん)出入(いでいり)して交易(とりかひごと)繁(しげ)き濱(はま)なり。〔十六オC〕〔二十八オD〕と注記する。
[
ことばの実際]2001年5月18日(金)晴れ。東京(八王子)⇒大阪・神戸(神戸山手大学於「近代語研究会」)
「葺地之具足(ふきぢのグソク)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「福」部には、
葺師
(フキジ)。葺板(フキイタ)。〔元亀本224F〕葺師
(フキジ)。葺板(フキイタ)。〔静嘉堂本257C〕と見えるだけで、標記語「
葺地」の語は未収載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には未収載にある。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
159水門
、葺地之具足者、於‖津湊ニ|可∨令∨買∨之 日本ニ在‖三津八濱|。筑前国冷泉津、薩摩坊津、伊勢ノ穴ノ津也。濱湊ハ何方モ不∨定也。〔謙堂文庫藏一八右F〕※□
葺地具足ハ水門之葺地。〔東洋文庫蔵頭注書込み〕※
葺地具足トハ水門ノ葺地也。〔天理図書館蔵頭注書込み〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。また東洋文庫・天理図書館の頭注書込みをもってみても、ただ単に「水門の葺地なり」というものである。当代の『日葡辞書』には、この語は見えない。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
葺地
(フキジ) /葺地。〔十九オ@〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
葺地
(フキジ)〔十六オC〕〔二十八オC〕と注記する。
[
ことばの実際]2001年5月17日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「水門(スイモン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須」部に、
水門
(ーモン)。〔元亀本359C〕水門
(――)。〔静嘉堂本437C〕と見え、標記語「
水門」語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には未収載にある。広本『節用集』に、水門
(スイモン/ミヅ、カド) 。〔家屋門1122@〕とあって、語注記は未記載にあるが、この語を記載している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
水門
(スイモン) 。〔弘・天地267F〕〔永・天地229B〕〔尭・天地215B〕とあって、これも広本『節用集』を同じく継承するものである。ここで、『下學集』だけが何故この語を『庭訓徃来』から採録しなかったのかが問われるところでもある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
159
水門、葺地之具足者、於‖津湊ニ|可∨令∨買∨之 日本ニ在‖三津八濱|。筑前国冷泉津、薩摩坊津、伊勢ノ穴ノ津也。濱湊ハ何方モ不∨定也。〔謙堂文庫藏一八右F〕※
水門ニ譬ハ五十里モ地也。□□ヲ堀テ上ヲ葺ヲ云。〔東洋文庫蔵頭注書込み〕※
水門トハ譬ハ五十里モ卅里モ地ノ底ヲ人ノサワラヌ様ニ堀テ上ヲ葺ヲ云也。〔天理図書館蔵頭注書込み〕※
水門トハ譬ヘハ五十里モ地底ヲ人ノサワラヌ様ニ堀テ上ヲフクヲ云也。〔国会図書館蔵左貫註書込み〕とあって、この語に関する語注記は未記載にある。ただし、東洋文庫本・天理図書館本・国会図書館左貫本には上記内容の書込みがあり、それぞれが、共通することがらを示している。ただし、天理図書館本がもっとも詳しい注記書込みとなっている。当代の『日葡辞書』に、
Suimon.
スイモン(水門) Mizzu cado.(水門) 水を外へ流れ出させるための水路,または,導管.〔邦訳586l〕とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
水門
(スイモン) /水門。檜〓〔木+曽〕ハ水につよき木ゆへこれにて水門を作るなり〔十九オ@〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
※
水門ハ水(ミづ)ぬきの事歟。〔十六オC〕〔二十八オC〕と注記する。
[
ことばの実際]水門
(スイモン) 。《黒川本『色葉字類抄』642@》様
(やう)ありとおぼえて、引(ひく)かたに出給(いでたまふ)に、思(おもひ)かけぬ水門のあるよりひき出(いだ)しつ。《『宇治拾遺物語』》幽法公も歌の會なんどにての御行跡右のごとくに侍し。又有時御まかなひ者の恩齋、御前に來り、「今朝襲の石、
水門(すゐもん)へおびたゞしく落て候ほどに、愛宕(あたご)山の下の坊へ、御祈念をたのみにつかはすべき」と申されければ、打わらひ給ふて、「若(もし)水門のいし共が、やねへのぼりたらば祈祷すべし。上なる襲の石の下へ落たるは、なにのあやしき事ならん」と仰られき。《『戴恩記』55C》頭注に、「水を引く樋の口で、石などで囲ってある」とある。2001年5月16日(水)雨のち晴れ間。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「棟桶(むなび/とひ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、標記語「
棟桶」は未収載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、その読みをもとに「武」部を検索するが未収載であり、「登」部を見るに、樋井
(トイ)。〔元亀本57G〕桶
井(トイ)。〔静嘉堂本65D〕桶
井(トイ)。〔天正十七年本上33ウC〕桶
井(トイ)。〔西来寺本〕と見え、標記語は「
樋井」または「桶井」とあって、語注記は未記載にある。この「とひ【樋{桶}井】」の語は『下學集』及び広本『節用集』にも未収載にある。また、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、桶
(トイ)。〔弘・財宝43D〕〔永・財宝44C〕桶
(トイ) 艫舟―。〔尭・財宝41@〕※「艫」は本来「とも」の標記語で別語。樋
(トイ)。〔両・財宝48G〕とあって、三写本が単漢字「
桶」で「トイ」と読んでいる。なかでも両足院本だけが、「樋」で表記されていて、この「桶」と「樋」は字形類似による辞書記載がなされていたことがここで知られる。易林本『節用集』にあっては、棟樋
(トヒ)。〔乾坤40@〕とあって、語注記は未記載だが、文字は『庭訓徃来』の熟語になっており、「
樋」に正している。『伊京集』には、問瓦
(トイ)。〔乾坤〕 樋(トヒ) ヒ。〔財宝〕とあって、乾坤門の「門瓦」は異なり表記であり、別種を示すものか。そして財宝門の「
樋」は印度本に共通するものである。また、『節用集』以外では『温故知新書』に、濘
(トヒ)。土通(トヒ)水。土水見(同)。〔156D〕とあって、標記語の字形を異にする。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
156障子
ノ骨・棟桶(ムナビ/トイ) 棟ノ上ニ逆(サ―)ニ覆桶也。〔謙堂文庫藏一八右D〕とあって、読みは右訓に「むなび」、左訓に「とい」とあり、語注記は「棟の上に逆さに覆ふ桶なり」という。これは、なぜか上記の古辞書の語注記には反映されずにある。後世の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』には、
棟樋組
(むなひくミ) ●棟樋組ハ棟(むね)の上に逆(さか)に樋(ひ)をおほふといふ。〔十六オA〕とあり、上記『庭訓往来註』の語注記を継承している。『庭訓徃来捷註』は、
棟樋組
(むなひくミ) 棟樋組 棟と天井との間にくミあけたるくミものなり。〔十八F〕としている。当代の『日葡辞書』に、
Toi.
トイ(樋) 建物に取り付けた木製の導管であって,これを通って屋根の水が外へ流れ出るもの.§Toiuo caquru.(樋を掛くる)この樋をそのあるべき場所に取り付ける.〔邦訳657r〕とある。
[
ことばの実際]桶
他孔切。又音動。木器受六升。《『韻府群玉』董韻三6右A》※東韻に「樋」の字は、未収載。樋
俗通字。ヒ。《観智院本『類聚名義抄』佛下本102A》樋
(トウ) ヒ。《白河本『字鏡集』183A》桶
音動。又他動反。ヲケ[平上]。《観智院本『類聚名義抄』佛下本110@》桶
(ツウ) ヲケ正。《白河本『字鏡集』206A》南北朝時代までは、この両字を「ひ」と「をけ」とそれぞれ訓読され、まだ「とい」の読みは見えない。また、『庭訓徃來註』が示す「むなひ」の訓も他では見出せないのである。
現代では、この「とい【樋】」を方言で「とよ」という地域があることが報告されている。
2001年5月15日(火)晴れ。東京(八王子)⇒南大沢(都立大)
「桁(けた)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣」部に、
桁
(ケタ)。〔元亀本220F〕桁
(ケタ)。〔静嘉堂本251D〕桁
(ケタ)。〔天正十七年本中55オC〕と見え、標記語「
桁」語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、桁
(ケタ) 見‖韻府ニ|。〔家屋57A〕とあって、語注記は、「『韻府』に見ゆ」とあり、この『韻府』とは『韻府群玉』を注していることは、本学の片山晴賢さんが既に指摘している。広本『節用集』に、
桁
(ケタ/カウ) 見‖韻府ニ|。〔家屋589B〕とあって、『下學集』を継承する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
桁
(ケタ) 見鴛{。〔弘・天地172A〕〔尭・天地131A〕桁
(ケタ) 見韻府。〔永・天地141D〕とあって、これも『下學集』広本『節用集』と同じく継承するものである。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
140作亊者
桁(ケタ)梁柱長押(ナケシ)棟木板敷材木ハ者爲‖虹梁|之間 桁見‖韻府ニ|。長押漢ニハ云‖承塵ト|。虹梁ハ家ノ水府也。梁ノ上ニ曲折ノ木ヲ横也。即虹ノ形也。梁ハ魚梁。石絶∨水曰∨梁也云々〔謙堂文庫蔵一七左@〕とあって、この語に関する語注記は『下學集』から継承して「
桁見‖韻府ニ|」という。当代の『日葡辞書』に、Qeta.
ケタ(桁) 柱の上にのせる細長い材で,あとでこの上に垂木を据えるもの. ※原文はaguieiros.日西辞書のaguierosはaguierosと同じ語.〔邦訳489r〕†Qeta.
ケタ(桁) すなわち,fogueta.(帆桁)時として,船の帆桁の意.〔邦訳489r〕とある。
[
ことばの実際]桁
屋楹上横木也。《『韻府群玉』二304右G》2001年5月14日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「組押榑(くみをそいのくれ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、標記語「
組押榑」は未収載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』にも未収載にある。また、広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にもこの語を未收載としている。いわば、古辞書にはこの標記語では採録されず、一つは「榑」の語(2000.08.13を参照)として採録されているのである。そして、元和本『下學集』に、組押
(クミヲソイ)。〔家屋57B〕※古写本『下學集』には未収載。とあって、語注記は未記載にある。すなわち、元和本『下學集』の編者は、『庭訓徃来』のこの部分を「
組押」で一語、「榑」で一語と二語に分割して認識しているのである。この「組押」の語も広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には未收載となっていることは、古写本『下學集』の未收載ということが大いに連関しているのであろう。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
157
組押榑(クミヲソイノクレ)襲ノ木 榑日本ノ俗爲‖葺∨屋板|。不∨知‖本拠|。字書ニ曰∨−(クワイ)ト也。〔謙堂文庫藏一八右D〕とあって、この語に関する語注記は見えない。これを他写本書込みによれば、
組
トハ井桁之様ヲ家之上ニ置ナリ。押擣トハ四角之木ヲ家ノ上ニ置ク也。私之組――ト可也。言ハ木ヲ組合テ家之上ニ置ク也。童衣木同所也。〔東洋文庫蔵頭注書き込み〕組
トハ井桁(ケタ)ノ様ニサシテ家ノ上ニ置也。押榑トハ四角ノ木ヲ家ノ上ニ置也。私ニ云組――トハ可一ツ/\言ハ木ヲクミ合テ家ノ上ニヲク也。竜衣木其内也。〔国会図書館蔵左貫注頭注書き込み〕●
押榑ハ榑風(ちぎ)の類(るい)。襲ノ木ハ鰹木(かつほき)の類ならんこと云々。上代(じやうたい)の屋脊(やね)ハミな茅(かや)稾(わら)等にて葺(ふ)きたるものゆへ風(かせ)押(おさ)へのために千木(ちき)鰹木(かつほき)を置(おき)し也。社頭(しやとう)には限(かぎ)らざる事とぞ。頭注には「組押榑(くみおさへのき)」とある。〔頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』(天保十四年四月刊)十六オA〕とある。そして、江戸時代の『庭訓徃来』注釈書のなかには、「
組押榑」とせずに、「組」の字を前の「棟樋」と合わせ、「棟樋組(むなひくミ)」とし、その語注記に「棟と天井との間にくミあけたるくみものなり」とする。次に「押榑(おさいのくれ)襲ノ木(おそひのき)」とし、語注記に「宇立の上にのる物なり」とした『庭訓徃来捷註』(寛政十二年庚申秋七月刊、筆者、野州壬生藩片岡長住)もある。当代の『日葡辞書』にも未収載にある。2001年5月13日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「〓〔木+叉〕首(サス)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「佐」部に、
〓〔木+叉〕首
(サス)。〔元亀本272E〕〓〔木+叉〕首
(サス)。〔静嘉堂本311D〕と見え、標記語「
〓〔木+叉〕首」語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、〓〔木+叉〕首
(サス)。〔家屋57A〕とあって、語注記を未記載にする。広本『節用集』及び印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にはこの語を未收載としている。ここには、『節用集』編者の採択意識が如実に表出しているのである。そしてなぜ、『節用集』類が家屋門に位置する「
决入」やこの語「扠首」に関して、『庭訓徃來』⇒『下學集』を継承して収録しなかったのかをも問わねばなるまい。また、『運歩色葉集』との連関度合いが見られた印度本系統の『節用集』類とも一線を画するものでもある。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
155
〓〔木+叉〕首(サス)・足堅メ・天井ノ縁 有ヲ∨覆云天井|也。〔謙堂文庫藏一八右C〕とあって、この語に関する語注記は見えない。
当代の『日葡辞書』に、
Sasu.
サス(扠首) 家の骨組みの合掌材. ※原文はAsnas.[Gaxxo<の注] ⇒Muco<zasu.〔邦訳560l〕とある。
因みに、次の「
足堅」や「天井ノ縁」だが、古辞書類では、増補改定系統の春良本『下學集』に、足
_堅(アシカタメ)。欄干(ランカン)。天井縁(テンシヤウノフチ)。〔家屋45F〕とあるのと、『温故知新書』に、
天井縁
(テンシヤウフチ)。〔乾坤153A〕とあるに留まるぐらいで、そして、『日葡辞書』には未收載にある。このことは、春良本『下學集』の編者が再度『庭訓徃來』から古写本『下學集』に未収載のこれらの語を採取する姿勢が理会できよう。
[
ことばの実際]~祭る榊は
〓〔木+叉〕首(さす)になりにけり夕月夜にも大幣に見し《平安鎌倉私家集『好忠集』冬十514・大系120C》※頭注に、「〓〔木+叉〕首―木の枝を二股にし、ものを高く掛けるもの」とある。2001年5月12日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「高欄(カウラン)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
高欄
(―ラン)。〔元亀本91C〕〔静嘉堂本112F〕〔天正十七年本上55ウA〕〔西來寺本160E〕と見え、標記語「
高欄」の読みだが、四本ともに「(カウ)ラン」と示す。そして語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、高欄
(コウラン) 檻也。〔家屋56E〕とあって、読みの表記を「コウラン」とし、語注記に「檻なり」という。広本『節用集』は、
高欄
(―ラン/タカシ、ヲワシマ) 高楼ノ檻也。〔家屋門255E〕とあって、「高」の読みは無表記にし、上記『下學集』の語注記に、「高楼の」を加味した「高楼の檻なり」としている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』にはこの語は未收載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
154
高欄・宇立 虹梁ノ上ニ立柱也。〔謙堂文庫藏一八右C〕とあって、この語に関する語注記は見えない。このことは、『下學集』の語注記「檻也」や広本『節用集』の「高楼
ノ檻也」を継承せずに編纂されているということになる。当代の『日葡辞書』に、
Co<ran.
カウラン(高欄) Tacai Vobaxima.(高い欄)よりかかるところ,あるいは,欄干.※原文はbalaustes(=balaustres)で,Vobaxima;Rancanの条にも例がある.〔邦訳149r〕とある。
[
ことばの実際]斯
(カヽ)ル處ニ新座ノ樂屋八九歳ノ小童(ワラハ)ニ猿ノ面ヲキセ、御幣ヲ差上テ、赤地ノ金襴ノ打懸ニ虎(ノ)皮ノ連貫(ツラヌキ)ヲ蹴(フミ)開キ、小拍子ニ懸テ、紅緑(コウリヨク)ノソリ橋ヲ斜(ナノメ)ニ踏(フム)デ出タリケルガ高欄(カウラン)ニ飛上リ、左ヘ回(マハリ)右ヘ曲(メグ)リ、抛(ハネ)返(リ)テハ上リタル在樣(アリサマ)、誠ニ此(コノ)世ノ者トハ不見、忽(チ)ニ山王神託(シンタク)シテ、此奇瑞(キズヰ)ヲ被示カト、感興身ニゾ餘リケル。《『太平記』卷第二十七・田樂(デンガクノ)事付長講見物事、大系三56I》2001年5月11日(金)晴れ午後一時曇り、夜は朧月。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢⇔目黒)
「决入(さくりばみ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「佐」部に、
决入
(サクリイレ/―ハミ)。〔元亀本273@〕决入
(サクリバメ)。〔静嘉堂本312A〕と見え、標記語「
决入」の読みだが元亀本は「さくりいれ」と「さくりはみ」の二種類の読み方を示し、静嘉堂本は「さくりばめ」と示す。語注記は未記載にある。この標記語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』広本『節用集』印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には未収載にある。ただし、『下學集』は、决
(サクリ)。〔家屋57A〕として、語注記は未記載で収載する。広本『節用集』は家屋門にこの語も未収載である。『節用集』類では易林本『節用集』に、
决入
(サクリバメ)。〔乾坤176A〕とあり、饅頭屋本『節用集』に、
决入
(サクリ)。〔天地127F〕とある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
153隔子
・遣戸・妻戸・織戸・决入(サクリハミ) 板ヲ折(ハク)時兩ノ合ルヲ∨目ヲ云也。〔謙堂文庫藏一八右B〕とあって、「
决入」の語の読みは元亀本左訓と同じ「さくりはみ」とし、その語注記には「板を折(ハク)時、兩の目を合するを云ふなり」という。当代の『日葡辞書』に、†Sacuri.
サクリ(决) Xiqi(閾).とかCamui(鴨居)とか言われる木に作ってある溝のような所で,戸が走る所.〔邦訳547r〕とあるだけで、「さくりはみ」「さくりばめ」などの語は見えない。
[
ことばの実際]サクリハミ
如何。サクルハ決也。决食トカケル歟。シタクルハサクル也。《『名語記』巻第十30ウJ1378頁》决込
サクリハメ。《黒川本『色葉字類抄』地儀497G》2001年5月10日(木)濃霧のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「妻戸(つまど)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津」部に、
妻戸
(ツマド)。〔元亀本157F〕妻戸
(ツマト)。〔静嘉堂本172G〕妻戸
(ツマト)。〔天正十七年本中18オ@〕と見え、標記語「
妻戸」の読みだが元亀本は「つまど」と第三拍めを濁音表記し、静嘉堂本・天正十七年本は「つまと」と清音表記する。語注記はどれも未記載にある。この標記語のうち後の方が『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』には未収載にある。広本『節用集』は、妻戸
(ツマド/セイコ)。〔家屋門410C〕とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
妻戸
(ツマド)。〔弘・天地125C〕〔尭・天地93E〕妻戸
(ツマト)。〔永・天地103A〕とあって、『運歩色葉集』と同じく第三拍めが清濁両方になっているのである。そして、語注記はどれも未記載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
153隔子
・遣戸・妻戸・織戸・决入(サクリハミ) 板ヲ折(ハク)時兩ノ合ルヲ∨目ヲ云也。〔謙堂文庫藏一八右B〕とあって、単に「
妻戸」の語に対する語注記はここでも未記載にある。当代の『日葡辞書』に、Tcumado.
ツマド(妻戸) 肘金で取り付けたり,柱に取り付けたりして開閉する狭い戸.〔邦訳628r〕とある。
因みに、次の「
織戸(ヲリド)」だが、当代の古辞書及び『日葡辞書』には全く採録が見られないのである。[
ことばの実際]頃は十二月廿七日の夜ふけがたの事なれば、御裝束は白小袖一重、藍摺ひきかさね、精好の大口に唐織物の直垂着篭めにして、太刀脇挾み、暇申(し)て出で給へば、姫君はこれや限りの別れなるらんとかなしみ給へり。
妻戸に衣被きてひれ臥し給ひけり。〔『義経記』大系92E〕頭注に、「妻戸という時は正玄関の入口という程の意である。そこであらたまった挨拶をするのである。「是も主殿にある戸也。両方へひらく舞戸也」(貞丈雑記)、「妻戸の出入之事。何共沙汰承り候はず候。但常には無出入候か。正月其外きとしたる時は。必妻戸の間より出入候」云々(宗五大草紙)とある。2001年5月9日(水)曇り後小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「遣戸(やりど)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「也」部に、
遣戸
(ヤリド)。〔元亀本202D〕遣戸
(ヤリド)。〔静嘉堂本229A〕遣戸
(ヤリド)。〔天正十七年本中44オG〕と見え、標記語「
遣戸」の語注記はどれも未記載にある。この標記語のうち後の方が『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、遣戸
(ヤリ―)。〔家屋56E〕とあって、「
遣戸」の語注記は未記載にある。広本『節用集』は、遣戸
(ヤリド/ケンコ、ツカウ,―) 或作‖像戸(ヤリド)ヽ|。〔家屋門554F〕とあって、語注記に「或作
‖○○ト|」の形式で、「像戸」という異表記の語を示している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、遣戸
(ヤリド)。〔弘・天地165A〕〔永・天地134H〕〔尭・天地123G〕とあって、『下學集』『運歩色葉集』と同じく語注記はどれも未記載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
153隔子
・遣戸・妻戸・織戸・决入(サクリハミ) 板ヲ折(ハク)時兩ノ合ルヲ∨目ヲ云也。〔謙堂文庫藏一八右B〕とあって、単に「
遣戸」の語に対する語注記はここでも未記載にある。当代の『日葡辞書』に、Yarido.
ヤリド(槍戸) たくさんの木の縁〔桟〕を双方から横に渡した扉.〔邦訳811l〕とある。ただ、邦訳編者が用いた表記は「槍戸」とあって、古辞書とはまったく異なった表記である。
[
ことばの実際]洛陽ニモ、天文博士ト云ケルガ妻ノモトニ、朝日ノ阿闍梨ト云僧カヨヒテケリ。アル時夫他行シタリケルヒマト思テ、ウチトケテヰタル所ニ、夫俄ニ來ル。逃(ニグ)ベキ方ナウシテ、西ノ方
遣戸(ヤリど)ヲ開(アケ)テ逃(ニゲ)ケルヲ、ミツケテカクゾ云ケル。《無住『沙石集』巻第七・一「無‖嫉妬心|人ノ事」大系295L》※頭注に「引き戸。鴨居と敷居との溝にはめて左右に開閉する戸」とある。また、同412Gの頭注に、遣戸は後松日記五「鴨居と敷居にみぞをほり、これも一間に二枚を立て、よこさまに引やれば遣戸とはいふなるべし」と見える。2001年5月8日(火)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「隔子(カウシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀」部に、
校子
(カウシ)。隔子(同)。〔元亀本95@〕校子
(カウシ)。隔子(同)。〔静嘉堂本118B〕校子
(カウシ)。隔子(同)。〔天正十七年本上58オD〕校子
(カウシ)。隔子(同)。〔西来寺本〕と見え、標記語「
校子」「隔子」の語注記はどれも未記載にある。この標記語のうち後の方が『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、隔子
(カウシ)。〔家屋56B〕とあって、「
隔子」の語注記は未記載にある。広本『節用集』は、隔子
(カフシ/ヘダテ,コ)。〔家屋255F〕とあって、読みは「カフシ」とある。『下學集』の読み表記と異なっている。そして、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
隔子
(カウシ)。〔弘・天地75@〕〔永・天地74F〕〔尭・天地67G〕〔両・天地80C〕とあって、語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、
格子
(カウシ) 或作隔子。〔乾坤69E〕とあって、標記語を「
格子」とし、語注記に「或作○○」形式によって「隔子」を注記している。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
153
隔子・遣戸・妻戸・織戸・决入(サクリハミ) 板ヲ折(ハク)時兩ノ合ルヲ∨目ヲ云也。〔謙堂文庫藏一八右B〕とあって、単に「
隔子」の語に対する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』に、Co<xi.
カゥシ(格子) 格子. ⇒Samagoxi.(狹間格子)〔邦訳156l〕Samagoxi.
サマガゥシ(狹間格子) 窓の格子. ※Samago<xiの誤植.〔邦訳552l〕とある。
[
ことばの実際]ある數寄者、
格子の内をのぞき、この壺を見て、「扨扨異風物かな。口がひろくば、だひ壺によからふ」といひて、手を入て見れば、入からこの手がぬけず、迷惑してまづ代を問ふ。《仮名草子『きのふはけふの物語』》2001年5月7日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「厨子(ヅシ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津」部に、
厨子
(ヅシ)。〔元亀本159B〕厨子
(ヅシ)。〔静嘉堂本175A〕厨子
(ツシ)。〔天正十七年本中19オ@〕と見え、標記語「
厨子」の語注記はどれも未記載にある。この語は『庭訓徃來』に見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、厨子
(ヅス)。〔器財106B〕とあって、「
厨子」の読みは「ヅス」で、語注記は未記載にある。広本『節用集』は、厨子
(ヅシ/チウ―,クリヤ、コ) 佛舎。〔器財門415E〕とあって、標記語「
厨子」は、「豆子(ヅス) 或作‖逗子(ツス)ト|椀(ワン)ノ―」のあとに収載し、読みは「ヅシ」とある。『下學集』の標記語「厨子」の読みとは異なっている。そして、語注記は「佛舎」すなわち「佛龕」仏像を安置するに用いる戸棚をいう。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、厨子
(ヅシ) 佛舎。〔弘・財宝127B〕厨子
(ヅシ) 仏舎。〔永・財宝104G〕厨子
(ヅシ) 佛ノ舎。〔尭・財宝95C〕厨子
(――) 佛ノ舎。〔両・財宝116G〕とあって、語注記は広本『節用集』を継承する「佛舎」を記載する。また、易林本『節用集』には、
厨子
(ヅス)。〔器財105@〕とあって、その読みも『下學集』を継承している。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
151
厨子・連子 或作‖連滋ニ|。〔謙堂文庫蔵一八右A〕とあって、単に「
厨子」の語に対する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』に、Zzuxi.
ヅシ(厨子) 開閉される扉のついた,イドロ(Idolo 偶像)〔仏像〕を納める小さい箱.〔邦訳845r〕とある。
[
ことばの実際]鎌倉ニ或武士二人、知音ナリケルガ、地藏ヲ信ジテ、共ニ崇
(アガメ)供養シケリ。一人ハ世間貧シカリケレバ、古キ地藏ノ相好モ〔調ヲラヌヲゾ〕、花香奉リテ崇(アガメ)ケル。一人ハ世間豊(ユタカ)ナリケレバ、忌敷(イミジク)建立シテ、厨子(ヅシ)ナド美麗(ビレイ)ニシタテ、崇(アガメ)供養シケリ。此人先立テ世ヲ早(ハヤク)シケル時、貧キ知音ニ、地藏ヲ信ズル人ナレバトテ、本尊ヲ讓テケリ。悦テ今ノ本尊ヲ崇(アガメ)供養シテ、年來ノ古地藏ヲバ、傍(カタハ)ラニ置テ供養セザリケリ。《無住『沙石集』大系112J》2001年5月6日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
「障子(シヤウジ)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「飛」部に、
障子
(シヤウジ)。〔元亀本314H〕障子
(シヤウジ)。〔静嘉堂本369C〕衝立障子
(ツイタチシヤウジ)。〔元亀本160A〕 歩障(ツイタチシヤウシ)。〔元亀本159A〕衝立障子
(ツイタチシヤウジ)。〔静嘉堂本176A〕 歩障(ツイタチシヤウシ)。〔静嘉堂本175@〕襖障子
(フスマシヤウジ)。〔元亀本225H〕〔静嘉堂本258F〕と見え、標記語「
障子」の語注記はどれも未記載にある。また、別種の「衝立障子・歩障」と「襖障子」を収載する。この語は『庭訓徃來』には、「椙障子」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、衝立障子
(ツイタチシヤウジ)。〔器財105D〕襖障子
(フスマシヤウジ)。〔器財118E〕とあって、「
障子」のみの標記語としては収載されていない。語注記は未記載にある。広本『節用集』は、障子
(シヤウシ・ヘダテ,−/サヽウ,コ)。〔家屋門908A〕衝立障子
(ツイタテシヤウジ/シヨウリツ,ヘダテ・サヽワル,コ) 或作‖歩障|。又呼‖座頭屏風(サテウヒヤウフ)ヲ|。云‖歩障ト|也。〔器財門414F〕襖障子
(フスマシヤウジ/アウ, サヽウ,コ)。〔器財門623@〕明障子
(アカリシヤウジ・―ヘダツ―/メイ, サヽウ,コ)。〔器財門749B〕とあって、標記語「
障子」を家屋門に収載し、『下學集』の標記語「衝立障子」と「襖障子」とは器財門に収載する。さらに、「明障子」をも新たに収載して語種の拡張を図っている。そして、語注記は「衝立障子」に、「或は歩障と作す。又、座頭屏風を呼ぶに歩障と云ふなり」とある以外は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、障子
(――)。〔弘・財宝243@〕衝立障子
(ツイタテシヤウジ)。歩障(同)呼座頭屏風。〔弘・財宝127C〕衝立障子
(ツイタチシヤウジ)。〔永・財宝104G〕 歩障(ツイタチシヤウジ)。〔永・財宝104H〕衝立障子
(ツイタテシヤウシ)。歩障(同)。〔尭・財宝95C〕襖障子
(フスマシヤウジ)家具。〔弘・財宝180D〕襖障子
(フスマシヤウジ)。〔永・財宝148E〕襖障子
(フスマシヤウシ)。〔尭・財宝138G〕明障子
(アカリシヤウジ)立具。〔弘・財宝204B〕明障子
(アカリシヤウジ)。〔永・財宝169G〕明障子
(アカリシヤウシ)。〔尭・財宝〕とあって、弘治二年本だけが標記語「
障子」を収載し、各種の「障子」にはそれぞれ語注記を記載する。また、易林本『節用集』には、衝立障子
(―タテシヤウジ)。〔器財104F〕 襖障子(フスマシヤウジ)。〔器財150A〕とあって、『下學集』と同じく二種の「
障子」の語だけを収載するものである。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
150透墻
・柴垣・築垣・檜垣・椙障子 杉日本ノ俗作∨椙ニ非歟。〔謙堂文庫蔵一八右A〕とあって、単に「
障子」の語に対する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』に、Xo<ji.
シヤウジ(障子) 紙の戸〔障子・襖〕. ⇒Fari,u;Macuri,u;Vori,u(折り,る);Voritate,tcuru.〔邦訳792l〕とある。
[
ことばの実際]乳母
(めのと)も、名月も、神崎(かんざき)の者と聞召、吹(ふ)き来(く)る風(かぜ)も懐(なつ)かしくて、障子(しやうじ)を細(ほそ)めに開(あ)け、その隙(ひま)よりも見出(いだ)せば、年(とし)にも足(た)らぬ修行者(しゆぎやうじや)なり。《舞の本『築島』新大系167A》いはんや、
紙障子(かみしやうじ)の一重、破(やぶ)らん事は易けれども、日比の情(なさけ)、当座の会釈(ゑしやく)、九年連れたる情(なさけ)に、吾御前(わごぜ)は心変るとも、景清(かげきよ)は心(こゝろ)変(かは)るまじ」。[舞の本『景清』新大系250P]舞も過(す)ぎ時分になりし時、
障子(しやうじ)の内に、金物(かなもの)の音(をと)が、からりと鳴(な)った。「さればこそ」と思ひ、「こゝをちつと御免(めん)なれや」と言(い)ふまゝに、間(あひ)の障子(しやうじ)をざつと開(あ)け、内をきつと見(み)てあれば、何(なに)は知(し)らねども、六尺豊(ゆた)か成大男(おとこ)の、胸板(むないた)見れば真白(まつしろ)なるが、五尺余(あま)り成太刀(たち)を七八寸寛(くつろ)げ、懸(かゝ)らば切(き)りよげに見えしかば、鬼(をに)のやうなる朝比奈(あさいな)も、たゞ膝(ひざ)震(ふる)うてぞ立たりける。《舞の本『和田酒盛』新大系490P・491@》2001年5月5日(土)晴れ。東京(八王子)⇒南大沢
「檜垣(ひがき)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「飛」部に、
檜垣
(―ガキ)。〔元亀本340B〕檜垣
(―ガキ)。〔静嘉堂本411E〕と見え、標記語「
築垣」の語注記はどれも未記載にある。この語は『庭訓徃來』には、「檜垣」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、檜垣
(ヒガキ)。〔家屋57A〕とあって、この語の語注記は未記載にある。広本『節用集』は、
檜墻
(ヒガキ/クワイシヤウ) 垣(カキ)同。〔家屋門1027F〕とあって、「かき」の標記字を「墻」として、語注記に「垣、同じ」と注記する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、未收載にある。ただし、「柴垣・築垣」同様、永禄十一年本『節用集』には、「
檜垣(ツイカキ)家材」が収載されているとのことである。また、易林本『節用集』に、檜垣
(ヒガキ) ―皮葺(ヒワダブキ)。―曾(ソ)。〔乾坤221D〕とあって、『下學集』と同じく「かき」の字を「垣」で表記している。饅頭屋本『節用集』も同じ。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
150透墻
・柴垣・築垣・檜垣・椙障子 杉日本ノ俗作∨椙ニ非歟。〔謙堂文庫蔵一八右A〕とあって、この語に対する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』に、
Figaqi.
ヒガキ(檜垣) 糸杉のような或る木〔檜〕の皮で作った塀,あるいは垣. ※原文はacipreste.cipresteに同じ.〔邦訳230r〕とある。
[
ことばの実際]昔筑前の太宰府に。庵に
檜垣しつらひて住みし白拍子。後には衰へて此白河の辺に住みしなり。《謡曲集『檜垣』》2001年5月4日(金)晴れ。東京(八王子)⇒南大沢
「築垣(ついがき)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津」部に、
築垣
(ツイガキ)。〔元亀本159C〕築垣
(ツイカキ)。〔静嘉堂本175B〕築垣
(ツイチカキ)。〔天正十七年本中19オB〕と見え、標記語「
築垣」の読みは静嘉堂本「ついかき」元亀本「ついがき」そして、天正十七年本「ついちかき」と三本がそれぞれ異なる。語注記はどれも未記載にある。この語は『庭訓徃來』には、「築垣」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、未收載にある。ただし、「柴垣」同様、永禄十一年本『節用集』には、「築垣(ツイカキ)」が収載されているとのことである。また、易林本『節用集』に、築墻
(ツイカキ)。〔乾坤102D〕とあって、「かき」の字を「墻」で表記しているのが特徴的でもある。当代の「垣」と「墻」との用字法については、『下學集』広本『節用集』などの「
透垣」の語注記によって確認してきているが、この「ついかき」の用字についても追従しておく。また、北野天満宮蔵『初心要抄』の二十七・屋躰部にも、「築垣(ツイカキ)。柴垣(シハカキ)。透墻(スイカキ)」の三語だけが『庭訓徃來』の逆排列によって示されている。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
150透墻
・柴垣・築垣・檜垣・椙障子 杉日本ノ俗作∨椙ニ非歟。〔謙堂文庫蔵一八右A〕とあって、この語に対する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』に、
Tcuicaqi.
ツイカキ(築垣) ある様式の垣,塀,または,囲い壁.〔邦訳627l〕とあって第三拍を清音表記で示している。
[
ことばの実際]義經はつはもの共に矢表を防がせ、「義經は院の御所の覺束ないに守護し奉らうずる。」とて、六條殿へ馳せ參らるれば、大膳の大夫だいぶ六條殿の東の
築垣(ついかき)に上つて、わなゝくわなゝく世間を窺ひみる所に、東の方から武者が五六騎のけかぶと(*仰け兜。緒が緩み、兜が後ろに傾いていること)に戰ひなつて、いむけの袖(*射向けの袖。鎧の左袖)吹き靡かせ、白旗ざつと差上げ馳せ參るによつて、「あはや木曾が參るは。此の度ぞ世は失せ終らう。」と申したれば、法皇を初め奉つて、公卿・殿上人ことに騷がせられた。《天草本『平家物語』第三 義經つはもの共に敵をば防がせて、その身は院の御所へ參つて、御所を守護せられた事。》是
(コレ)ヲ見テ、築垣(ツイガキ)ノ上ニ三百餘箇所掻雙(カキナラ)ベタル櫓(ヤグラ)ヨリ、指攻(サシツメ)引攻(ヒキツメ)射ケル矢、雨ノ降(フル)ヨリモ猶滋(シゲ)シ。《『太平記』卷第九》2001年5月3日(木)雨。東京(八王子)⇒南大沢
「柴垣(しばがき)」
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志」部に、
柴垣
(―ガキ)。〔元亀本316F〕柴垣
(シハガキ)。〔静嘉堂本371G〕と見え、標記語「
柴垣」の語注記は未記載にある。この語は『庭訓徃來』には、「柴垣」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、未收載にある。ただし、永禄十一年本『節用集』には、「柴垣(シハガキ)」が収載されているとのことである。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
150透墻
・柴垣・築垣・檜垣・椙障子 杉日本ノ俗作∨椙ニ非歟。〔謙堂文庫蔵一八右A〕とあって、この語に対する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』に、
Xibagaqi.
シバガキ(柴垣) 木の枝〔柴〕で作った垣.〔邦訳758r〕とある。
[
ことばの実際]是ヲ怪ムデ出テ見ルニ、
柴ノ垣ノ上ニ白帖ニ被裹タル者有リ。香档Wテ馥シキ事無限シ。《『今昔物語集』巻十一、義淵僧正、始造竜蓋寺語第三十八・新大系三95E》其夜
(ソノヨ)ハ椎柴垣(シヒシバガキ)ノ●(ヒマ)アラハナル山ガツノ庵(イホリ)ニ、御(オン)枕ヲ傾(カタム)ケサセ給(タマヒ)テ、明(アク)レバ小原(ヲバラ)ヘト志(コヽロザシ)テ、薪(タキヾ)負(オウ)タル山人(ヤマウド)ノ行逢(ユキアヒ)タルニ、道ノ樣(ヤウ)ヲ御尋(タヅネ)有(アリ)ケルニ、心ナキ樵夫(キコリ)迄(マデ)モ、サスガ見知進(ミシリマヰラ)セテヤ在(アリ)ケン、薪(タキヾ)ヲ下(オロ)シ地(チ)ニ跪(ヒザマヅイ)テ、「是(コレ)ヨリ小原(ヲバラ)ヘ御(オン)通リ候ハン道ニハ、玉木(タマギノ)庄司殿トテ、無貳(ムニ)ノ武家方(ブケカタ)ノ人ヲハシマシ候。《『太平記』卷第五》2001年5月2日(水)晴れ。東京(八王子)⇒南大沢
「透垣(すきがき
・すいかき)」室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須」部に、
透垣
(スキガキ)。〔元亀本360A〕透垣
(スイカキ)。〔静嘉堂本438D〕と見え、標記語「
透垣」の読みを元亀本「すきがき」と第三拍を濁音表記し、静嘉堂本は「すいかき」と第二拍をイ音便で示し、第三拍を清音とする。そして語注記は未記載にある。この語は『庭訓徃來』には、「透墻」と見え、室町時代の古辞書である『下學集』に、透垣
(スイカキ) 透或ハ作ス∨洗(セン)ニ。〔家屋55A〕とあって、読みは「すいかき」と静嘉堂本の読みと同じである。語注記は「透、或いは洗に作す」といった異表記を示す「○或
ハ作ス∨●ニ」形式のものであり、これをそのまま示せば、「洗垣」と表記するということになる。むしろ、『庭訓徃來』に、「透墻」とあるのであるから、「垣或ハ作ス∨墻ニ」とあるところだろうと考えるのだが実際はそうではない。これを広本『節用集』は、透垣
(スイカキ/トウヱン.トヲル,―) 又作洗墻(スイカキ)ト|。〔天地門1122@〕とあって、語注記は、『下學集』の「○或
ハ作ス∨●ニ」形式ではなく、「又作‖●●ト|」形式に変更し、「また、洗墻と作す」として「すいかき」の異表記を「洗墻」と記すことで、はじめて『庭訓徃來』の「墻」の異表記が反映されているのである。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、透垣
(スイカキ) 又作洗―。〔弘・天地267D〕〔永・天地229A〕透垣
(スイカキ) 又洗―。〔尭・天地215A〕とあって、異表記を示す「又作
‖●●ト|」形式は、広本『節用集』と同じく共通するものの、異表記を「洗―」と示すため、後の「墻」の表記が見えてこない。この点からして広本『節用集』は、まさに特異な注記となっているのである。そして『節用集』類の読みは「すいかき」であり、『運歩色葉集』元亀本の読み「すきがき」は、他に反映されていないことになる。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
150
透墻・柴垣・築垣・檜垣・椙障子 杉日本ノ俗作∨椙ニ非歟。〔謙堂文庫蔵一八右A〕とあって、この語に対する語注記は未記載にある。そして、この「すいかき」の表記だけを真字注の諸本すべてが「かき」の字を「
垣」とせずに「墻」の字で表記されていることにも注意されたい。その元である『庭訓徃來』には、「透垣」〔東洋文庫蔵〕と表記して示すものもある。この「
すいかき【透垣】」の語についてみるとき、「洗墻」「透墻」といった異表記のあり方とも一つは読みである「すいかき」と「すきがき」について見てきたのであるが、その読みについては、当代の『日葡辞書』に、Suicaqi.
スイカキ(透垣) 柵のように,目のあらい垣.⇒次条.〔邦訳585l〕†Suicaqi.
スイカキ(透垣) 竹,あるいは,それに類する物で作った垣で,その間を通して両側から見えるような具合に作ったもの.〔邦訳585l〕とあって、古辞書の多くが示す「すいかき」の読みを採録している。続いて、「
垣」と「墻」の用字についてだが、観智院本『類聚名義抄』には、〓
〔土+广求今回〕〓〔广求今回〕二或、牆字。カキ[上平]、音常。和去。〓〔土+广生回〕〓〔土+生回〕俗。カキカヘ。〔法中49C〕築垣
ツイカキ[上上○○]、ツイヒケ[上上○○]。一云垣 音園[平]。カキ[上平]、カタム、ソコ[上上]。《正・古の字は省略》〔法中55@〕とあって、いずれも「かき」の和訓が見えている。前田本『色葉字類抄』巻上には、
壁
(ヘキ)カヘ。墻及肩。障カキ、周―。〓〔土+广生回〕。〓〔土+生回〕。垣(ヱン)。院。〓〔土+庸〕(ヨウ)。〓〔阜+卑〕(ヒ)。〓〔广+鬼〕。城。屏。藩(ハン)籬也。〓〔宀火+兪〕(ト)門邉小〓〔穴+責〕也。已上墻也。〔地儀91ウEF〕とあって、これらを「かべ」や「かき」の字として、集合して収載する。
いま、これを佐藤喜代治編『字義字訓辞典』(角川書店刊)によってその差異を示すと、「『経典釈文』によれば、「卑
(ひく)キヲ曰(い)ヒ∨垣ト、高キヲ曰フ∨〓〔土+庸〕ト」。」とあって、「垣」と「〓〔土+庸〕」の字仕様についての意義説明となっていて次にまた、「墻」については「壁」のところで、「慧琳『一切経音義』巻四、「牆壁(シヤウ―)」の注に「字書ニ云(いは)ク、築クヲ∨土ヲ曰(い)ヒ∨牆ト、編ミ‖竹木ヲ|〓〔泥+土〕(デイ)モテ塗ルヲ∨之(これ)ニ曰フ∨壁ト」。また「字書ニ云ク、外ニ露(あら)ハレタルヲ曰(い)ヒ∨牆ト、室内ナルヲ曰フ∨壁ト」。」とあって、「牆」の字は家屋の外の「かき」としている。中世日本の知識人にとって、こうした分別に基づき、「垣」と「墻」の両方の字を意識して用いていたかについては、実際の用例を鑑み、今後の課題としたい。また、『下學集』及び『節用集』が示す「透」を「洗」と表記する「洗垣」「洗墻」の実際用例についても追従確認していくことになる。[
ことばの実際]サテモ猶
(ナホ)今ヨリ後ノ御有樣如何(イカガ)ト心苦(クルシク)覺(オボエ)テ、透垣(スイガキ)ノ中ニ立紛(タチマギレ)テ見玉(ミタマ)ヘバ、大納言殿ヲ請取(ウケトリ)進(マヰラセ)ントテ、長年物具(モノノグ)シタル者共(ドモ)二三百人召具(メシグ)シテ、庭上(テイジヤウ)ニ並居(ナミヰ)タリ。《『太平記』卷第十三》かく問
(と)ふが無念(むねん)ならば、かう申重忠(しげたゞ)が、君に御暇(いとま)申、武藏(むさし)へ下(くだ)つてあらん時、大御所へ忍(しの)び入(い)り、面廊(めんらう)透垣(すきがき)にても、狙(ねら)ひたくは狙(ねら)ひ候へ。重忠(しげたゞ)があらん程は、ふつつと叶(かな)ふまじい」と、真白(まつしろ)に言(い)はれ申。《舞の本『景清』新大系244M》2001年5月1日(火)曇り。東京(八王子)⇒南大沢
「唐垣(からかき)」
この語は『庭訓徃來』に、
唐垣
(カラカキ)。〔文明十四年写〕と見え、室町時代の古辞書である『下學集』広本『節用集』印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』『運歩色葉集』は、すべてこの語を未收載にする。何故、この語を採録しないのかを解明することが今後残された課題でもある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
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角木縁短柱簀子唐垣 中唐ニシテ見ヘ不∨通也。〔謙堂文庫蔵一八右@〕※東洋文庫蔵『庭訓往来抄』は、「唐_垣」の語注記に「中
〓〔虍+丘〕{居イ}ニシテ見ヘ不∨通也」とする。とあって、この語に対する語注記は「中
唐{〓〔虍+丘〕{居イ}}にして見へ通はざるなり」という。当代の『日葡辞書』にも、この語は未收載にある。いわば、室町時代の辞書とは無縁のことばとなっているのである。[
ことばの実際]中にも
唐垣(からがき)のほとりにて「案内(あない)申さん」と仰せらるれば 内(うち)より折節(おりふし)冷泉(れいぜい)は立(た)ち出(い)でて 「怪(あや)しや誰(た)そ」と咎(とが)むれば 客僧(きやくそう)此由(よし)聞(き)こし召(め)し 「いや苦(くる)しうも候はずわれらと申は 都(みやこ)へ上(のぼ)る者(もの)なるが これよりも駿河(するが)の国蒲原宿(かんばらじゆく)より 年(とし)の齢(よはひ)は十四五なる冠者(くはじや)殿(どの)の方(かた)よりも 文(ふみ)を一(ひと)つ託(ことづ)かりて候」とて冷泉方(れいぜいかた)へ渡(わた)させ給ひて 掻(か)き消(け)すやうに失(う)せ給ふ《説経集『浄瑠璃御前物語』新大系・80D》脚注に、「草木や竹の茎幹(から)で編んだ垣とする説と唐風の塗り塀の説とある。本絵巻では唐風の立派な編垣に描く。」とある。中將其
(ソノ)怨聲(ヲンセイ)ニ心引(ヒカ)レテ、覺(オボ)ヘズ禁庭(キンテイ)ノ月ニ立吟(タチサマヨヒ)、アヤナク心ソヾロニアコガレテケレバ、唐垣(カラカキ)ノ傍(カタハラ)ニ立紛(マギ)レテ伺(ウカヾヒ)ケルヲ、内侍(ナイシ)ミル人アリト物侘(ワビ)シゲニテ、琴ヲバ引カズナンヌ。《『太平記』》UP(「ことばの溜め池」最上部へ) BACK(「言葉の泉」へ)
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