2001年6月1日から6月30日迄
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ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2001年6月30日(土)曇り後雨。東京(八王子)⇒新宿
「条々(デウデウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「天」部に、
条々
(デウ/\)。〔元亀本245B〕条々
(――)。〔静嘉堂本283A〕とあって、標記語「
条々」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「条々」と見え、『下學集』は、この標記語「条々」の語を未収載にする。広本『節用集』は、條々
(――/デウ/\) 。〔態藝門739E〕とあって、標記語を「
條々」とし、読みを「デウデウ」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』は、條々
(デウ/\) 。〔弘・言語進退199G〕條々
(デウ/\) 。〔永・言語165A〕條々
(テウ/\) 。〔尭・言語154D〕とあって、標記語を広本『節用集』と同じく「
條々」とし、語注記を未記載にする。そして、易林本『節用集』においても、條々
(デウ/\)。〔言辞165七〕とあって、標記語を「
條々」としていて、『節用集』類はすべて「条々」を「條々」と表記していることが確認できよう。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
178
条々未∨落居候責‖_伏之ヲ|、後 可∨責‖狐疑之心ヲ|也。〔謙堂文庫藏二〇右A〕とあって、この「
条々」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、
とある。また、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
という。
当代の『日葡辞書』には、
Gio>gio>.
ヂョゥヂョゥ(条々) 箇条箇条,あるいは,項目項目.〔邦訳318r〕とある。ここで、古辞書のなかで、『庭訓徃來』所載の語である「
条々」を未収載としている古辞書は、『下學集』だけとなり、広本『節用集』や印度本系『節用集』、易林本『節用集』を含め、『節用集』類はすべて「條々」と表記し、『運歩色葉集』はこの語を『庭訓往来註』と同じく「条々」で採録している。[
ことばの実際]披覽
(ヒラン)スルニ、「不日(フジツ)ニ揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者(ハ)、恩賞(オンシヤウ)宜依請」之(ノ)由(ヨシ)、被戴。委細(イサイノ)事書(コトガキ)十七箇條ノ恩裁(オンサイヲ)被添タリ。条々何(イヅ)レモ家ノ面目(メンボク)、世ノ所望(シヨマウ)スル事ナレバ、圓心不斜悦(ヨロコウ)デ、先(マヅ)當國佐用庄(サヨノシヤウ)苔縄(コケナハ)ノ山ニ城ヲ構(カマヘ)テ、與力(ヨリキ)ノ輩(トモガラ)ヲ相招(アヒマネ)ク。《『太平記』巻第六・赤松入道圓心賜大塔宮令旨事》さて エソポわ しきょ した よしが りんごくわ まぅすに をよばず , とをい くに までも かくれが なかった ところで , エヂプトの くにの ネテナボと まぅす ていわぅ エソポが せいきょ したとゆぅ ことを きかせられ , さあるにをいてわ , ふしんを かけらりょぅずると あって , ふしんの
ぢょぅぢょぅを かきをくられた .《天草版『エソポの物語』》2001年6月29日(金)晴れ。東京(八王子)⇒多摩境
「責伏(せめふす)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「世」部に、標記語「
責伏」の語は未収載にある。『庭訓徃來』に「責伏」と見え、『下學集』は、この標記語「責伏」の語を未収載にする。広本『節用集』は、攻伏
(セメフスル/コウフク) 。〔態藝門1091D〕とあって、標記語を「
攻伏」とし、よみを「せめふする/コウフク」としていて、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語の読みは「責伏」の語も広本『節用集』の「攻伏」も未収載にする。そして、易林本『節用集』において、責懲
(せメハタル) ―使(ヅカヒ)。―伏(フス)。〔言辞236六〕とあって、標記語を「
責懲」とし、語注記の一つとして「責伏」の語を収めている。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
178条々未
∨落居候責‖_伏之ヲ|、後 可∨責‖狐疑之心ヲ|也。〔謙堂文庫藏二〇右A〕とあって、この「
責伏」の語注記は、「狐疑の心を責めるべきなり」という。古版『庭訓徃來註』には、責
‖_伏之ヲ|、後遂(トゲ)‖參上(サン―)ヲ|可キ申入|候之旨(ムネ)、可ク下令(シメ)‖ 責伏(セメフセ)テト云ハ領掌(リヤウシヤウ)ノ心ナリ。〔十六オD〕とあって、その語注記に「
責伏(セメフセ)てと云ふは領掌(リヤウシヤウ)の心なり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、
とある。また、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
という。
当代の『日葡辞書』には、
Xemefuxe,suru,seta.
セメフセ,スル,セタ(攻め伏せ,する,せた) 攻めて屈服させ,あるいは,服従させる,または,武力をもって屈服させる.〔邦訳748l〕とある。ここで、古辞書のなかで、『庭訓徃來』所載の語である「
責伏」を収載している古辞書は、易林本『節用集』ということになり、他の『下學集』、印度本系『節用集』、『運歩色葉集』などはこの語を採録していないことになる。また、広本『節用集』には、この『庭訓徃來』とは別の表記の「攻伏」で「せめふする」としている。[
ことばの実際]そこで ところの ひとびと エソポに ちえを つけられ , をのをの その ふんべツを ないて , みつきものを ささぎょぅ ことわ その いわれが ないとゆぅて , ちょくぢゃぅを そむくに よって , ちょくし かえって この よしを そぅし , ただ ぎへいをもって せめさせらりょぅことも かたからぅず。その しさいわ , かの ところに エソポとゆぅ がくしゃが いちにん きょぢゅぅ つかまつる , これを めされぬ ほど ならば , たやすぅ
せめふせらりょぅ ことわ かたぅ ござらぅずと まぅせば , かさねて ちょくしを たてさせられ , その ところに きょぢゅぅする エソポを まいらせい《天草版『エソポの物語』》堀藤次勸修坊を入(れ)奉る。鎌倉殿思召しけるは、何ともあれ、僧徒なれば、糾問は叶ふまじ。言葉を以て
責め伏せて問はんずる物をと思召しけり。《『義経記』卷第六》2001年6月28日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「落居(ラツギヨ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「羅」部に、
落居
(ラツギヨ) 。〔元亀本171A〕落居
(―キヨ) 。〔静嘉堂本190B〕とあって、標記語「
落居」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「落居」と見え、『下學集』は、落居
(ラクキヨ) 。〔言辞149@〕とあって、標記語「
落居」の読みは「ラクキヨ」とし、語注記は未記載にある。広本『節用集』は、落居
(ラクキヨ/ヲチル,イル) 。〔態藝門455D〕とあって、語注記は『下學集』と同じく未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
落居
(ラツキヨ) 。〔弘・言語進退144B〕落居
(ラツキヨ) 。〔永・言語114F〕〔尭・言語105A〕〔両・言語128@〕とあって、標記語の読みは「ラツキヨと第二拍めを促音表記していて、『運歩色葉集』とも共通する。そして、易林本『節用集』においても、
落索
(ラクサク) 日本ノ俗呼‖残杯冷炙為‖――ト|。―涙(ルイ)。―字(ジ)。―所(シヨ)。―題(タイ)。―堕(ダ)。―居(キヨ)。―髪(ハツ)。―書(シヨ)。―著(ヂヤク)。―葉(ヨフ)。―飾(シヨク)〔言辞113六〕とあって、標記語を「
落索(日本ノ俗呼‖残杯冷炙為‖――ト|)」とし、語注記の一つとして「落居」を収めている。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
178条々未
∨落居候責‖_伏之ヲ|、後 可∨責‖狐疑之心ヲ|也。〔謙堂文庫藏二〇右A〕※
未落居トハ不∨服者ヲ服ントスル依テ未――ト云也。〔静嘉堂本古写本頭注書込み〕とあって、この「
落居」の語注記は、未記載にある。静嘉堂本の頭注書込みには、「服さざる者を服させんとするに依りて未落居と云ふなり」とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、條々未
∨落居候 請願の民とも心服(しんふく)せさるゆへ承事いまた落着(かたづか)すと也。〔廿ウDE〕とある。また、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
落居
(らくきよ)△落居ハ落着(らくぢやく)といふがごとし。△おちつく意(ゐ)也。〔十七ウ@〕落居
(らくきよ)△落居ハ落着(らくぢやく)といふがごとし。▲おちつく意(い)也。〔三十ウB〕という。このことから、裁決が出て訴訟のようなもめごとが終結する意味であることが知られる。
当代の『日葡辞書』には、
Racqio.
ラッキョ(落居) すなわち,Vochitcuqu.(落ちつく)訴訟など,何か厄介な事が決定すること,または,決着すること.§Cujiga racqio xita.(公事が落居した)訴訟が決着した.§Xiroga racqio xita.(城が落居した)城が降伏した.§Xeqenga racqio xenu.(世間が落居せぬ)戦争や騒乱から国がまだ平和に返らないで、静穏にならない.〔邦訳523l〕とある。
[
ことばの実際]上裁を仰ぐ故につひに
落居せずといふ事なし。《『夢中問答』下》2001年6月27日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「荘官(シヤウグワン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、
庄官
(―グワン) 。〔元亀本316I〕庄官
(―グワン) 。〔静嘉堂本372D〕※両写本とも广の左脇に冫ありとあって、標記語「
荘官」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「荘官」と見え、『下學集』は、この語を未收載にする。広本『節用集』は、庄官
(シヤウクワ/―,ツカサ) 百姓ノ頭也。〔人倫916G〕とあって、語注記にはただ「百姓の頭なり」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
庄官
(―グワン) 百姓頭。〔弘・人倫238D〕庄主
(シヤウシユ) ―官(グハン)百姓頭。〔永・人倫198D〕庄主
(シヤウシユ) ―官(グハン)百姓類。〔尭・人倫182D〕とあって、標記語の読みは「シヤウグワン」「シヤウグハン」と第三拍めを濁音読みにしていて、『運歩色葉集』とも共通する。だが、『運歩色葉集』には「百姓のかしら」といった語注記は未記載であって、ここでは広本『節用集』と同じ語注記を示しているのである。そして、易林本『節用集』においても、
庄官
(シヤウグワン) 百姓頭。〔人倫204三〕とあって、標記語を「
庄官(广の左脇に冫あり)」とし、語注記は他の『節用集』類に共通している。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
176土民
、名主・荘官等 名主ハ戸主也。庄官ハ処ノ長(ヲサ)歟。処ノ入人歟。一庄ノ々司也。〔謙堂文庫藏一九左H〕とあって、この「
荘官」の語注記は、「庄官は、処の長か。処の入る人か。一庄の庄司なり」とある。すなわち、この時代までの名田を管理所有する人を呼称する。何故、『運歩色葉集』が『節用集』類に収載されているのに、この語を未收載としているのかを今後考える必要がある。また、古版『庭訓徃來註(庭訓抄)』(家蔵本)に、名主
(ミヤウシユ)・庄官(シヤウクハン)等(ラ)存スル 是何モ眼前ニアル事ナリ。〔十五ウ五〕とあって、「是れいずれも眼前にあることなり」として詳細な注記はなされていない。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、
名主
・庄官等 皆国姓の頭にて其なれする者なり。〔廿ウAB〕とある。また、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
荘官
(しやうくはん)△庄官ハ所の長(おさ)庄屋(しやうや)也。〔十七オG〕荘官
(しやうくはん)△庄官ハ所の長(をさ)庄屋(しやうや)也。〔三十ウA〕という。
当代の『日葡辞書』には、
Xo<guan.
ショウグヮン(庄官) Tcucasadori,u(官り,る)農民のかしら.〔邦訳791r〕とある。
[
ことばの実際]尋よと被
∨仰ければ、召‖尋庄官等|之処、暫は秘蔵不∨令∨申。《『古事談』六・康貞草池田庄解事》兼又所々下司
庄官以下仮‖其名於御家人|対‖捍国司領家之下知|。《『御成敗式目』三条》2001年6月26日(火)晴れのち曇り。東京(八王子) ⇒
「名主(ミヤウシユ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「美」部に、「
名主」の標記語は未收載にある。『庭訓徃來』に「名主」と見え、『下學集』この語を未收載にする。広本『節用集』は、名主
(ミヤウシユ/メイ―.ナ、アルシ) 百姓。〔人倫889@〕とあって、語注記にはただ「百姓」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
名主
(ミヤウシユ) ――百姓(ヒヤクシヤウ)。〔弘・人倫232@〕名主
(ミヤウシユ) 百姓。〔永・人倫192H〕〔尭・人倫182D〕とあって、広本『節用集』と同じ注記である。そして、易林本『節用集』には、
名主
(ミヤウシユ) 。〔人倫198五〕とあって、標記語を「
名主」とし語注記は未収載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
176土民
、名主・荘官等 名主ハ戸主也。庄官ハ処ノ長(ヲサ)歟。処ノ入人歟。一庄ノ々司也。〔謙堂文庫藏一九左H〕とあって、この「
名主」の語注記は、「名主は戸主なり」とある。すなわち、この時代までの名田を所有する人を呼称する。何故、『運歩色葉集』が『節用集』類に収載されているのに、この語を未收載としているのかを今後考える必要がある。また、古版『庭訓徃來註(庭訓抄)』(家蔵本)に、名主
(ミヤウシユ)・庄官(シヤウクハン)等(ラ)存スル 是何モ眼前ニアル事ナリ。〔十五ウ五〕とあって、「是れいずれも眼前にあることなり」として詳細な注記はなされていない。
時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
名主
(なぬし)△名主ハ戸主(いへぬし)也。〔十七オG〕〔三十オD〕という。
当代の『日葡辞書』には、
Mio<xu.
ミョウシュ(名主) すなわち,Fiacuxo<no votona.(百姓のおとな) 農民の長.〔邦訳409l〕とある。
[
ことばの実際]五日壬申。河越太郎重頼。依伊予前司義顕縁坐雖被誅。令憐憫遺跡給之間。於武蔵国河越庄者。賜後家尼之処。
名主百姓等不随所勘之由。就有風聞之説。向後云庄務。云雑務。一事以上。可従彼尼下知之由。所被仰下也。〔訓読〕河越の太郎重頼、伊豫の前司義顕の縁座に依って誅せらると雖も、遺跡を憐愍せしめ給ふの間、武蔵の国河越の庄に於いては、後家の尼に賜るの処に、名主百姓等所勘に随わざるの由風聞の説有るに就いて、向後庄務と云ひ雑務と云ひ、一事以上、彼の尼下知に従ふべきの由仰せ下さるる所なり。《『吾妻鏡』文治三(1187)年十月大五日》2001年6月25日(月)晴れ。北海道(湧別・常呂⇒札幌)⇒東京(八王子)
「土民(ドミン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、
土民
(ドミン)。〔元亀本54E〕土民
(トミン)。〔静嘉堂本61@〕土民
(――)。〔天正十七年本上31オG〕土民
(――)。〔西來寺本97A〕※「土民」の「土」の字は、諸本すべて増画の点あり。
とあって、標記語「
土民」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「土民」と見え、『下學集』は、この語を未收載にする。次の広本『節用集』は、土民
(ドミン/ツチ,タミ) 。〔人倫門127E〕とあって、標記語を「
土民」とし、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、土民
(ドミン)百性。〔弘・人倫42@〕土民
(ドミン)百姓。 〔永・人倫42G〕〔両・人倫46E〕土民
(ドミン)百姓。〔尭・人倫39D〕※「土民」の「土」の字は、諸本すべて増画の点あり。
とあって、標記語を広本『節用集』と同じくして、その語注記は「百姓」としている。これを『運歩色葉集』の編者が標記語だけで語注記を削除して示す形態に移行している。編纂意識の点が注目されるのである。易林本『節用集』には、
土民
(トミン) 。〔人倫41@〕とあって、標記語を「
土民」とし語注記は未収載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
176
土民、名主・荘官等 名主ハ戸主也。庄官ハ処ノ長(ヲサ)歟。処ノ入人歟。一庄ノ々司也。〔謙堂文庫藏一九左H〕※「土民」の「土」の字は、諸本すべて増画の点あり。
とあって、この「
土民」の語注記は、未収載にある。また、古版『庭訓徃來註(庭訓抄)』(家蔵本)に、土民
(ドミン)ハ田ヲ作者ナリ。〔十五ウ五〕とあって、「田を作る者なり」という簡潔な注記を収載している。
時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
土民
(どみん)△土民。〔十七オE〕〔三十オD〕という。
当代の『日葡辞書』には、
Domin.
ドミン(土民) Fiacuxo<(百姓)農民.〔邦訳188l〕とある。
[
ことばの実際]
2001年6月24日(日)晴れ。北海道(湧別⇒常呂)
サロマ湖100kmウルトラマラソン「田堵(デンド)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「天」部に、「
田堵」の標記語は未收載にある。『庭訓徃來』に「田堵」と見え、『下學集』及び広本『節用集』そして印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、この語を未收載にする。易林本『節用集』には、田舎
(デンジヤ) ―宅(タク)。―地(チ)。―園(ヲン)。―圃(ホ)。〔乾坤163F〕とあって、標記語「
田舎」の語注記に、「田宅」を収載するに留まっている。ここで、一つ注意してみておきたいことに、「デンド」または「デントウ」と発音する同音異義に位置するであろう「田頭」とこの「田堵」という語との明確な識別についてである。この点を見ていくときに、『下學集』及び広本『節用集』そして、印度本系統の『節用集』ではこの「田頭」なる語をも未收載にしていて定かではない。これを収載するのは、『運歩色葉集』に、田舎
(デンジヤ) 田樂(―ガク)。田数(―カズ)。田頭(―トウ)。田札(デンサツ)下。〔元亀本244I〕田舎
(デンジヤ) 田樂(―ガク)。田数(―ジユ)。田頭。田札(―サツ)。〔静嘉堂本282EF〕田舎
(デンシヤ) 田樂(―カク)。田数(―シユ)。田頭(―トウ)。田札(―サツ) 下。〔天正十七年本中70オE〕とあって、「田舎」の語を筆頭に第四番目に「
田頭」と収載が見えていて、当代の古辞書ではこの一書に留まり、ここでは、「(デン)トウ」と表記されている関係上、同音による摩擦はまだ避けられている。だが、第四拍の「ウ」が無表記化することと、撥音便に伴う第三拍めの濁音化がすすめば、同音による摩擦は生じてくるであろうが、この点頼りとなる『日葡辞書』にも未採録のため大いに不明である。和漢の用例をもってその是非を今後検証するしか方法がないのである。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
175橘柑
・柚以-下、心之所∨及令‖尋植|候畢。猶以‖御日記|可∨被‖仰下|也。諸亊雖下可‖申入|子細候上、御領田堵 五版ヲ爲∨堵ト。疏云、一版ノ廣二尺是ヲ五ツ合タルヲ云‖一堵|也。猶堵ハ如‖宅之屋敷|也云々。〔謙堂文庫藏一九左F〕※五
飯(ハン)ヲ爲∨堵ト。疏ニ云、一飯ノ廣サ二尺。是ヲ五ツ合タルヲ云‖一堵ト|也。猶シ堵ハ如‖宅之屋敷|也云々。〔東洋文庫藏@〕※
橘柑(キン―)・柚・以-下、心之所∨及令メ‖尋(タヅネ)植(ウヱ)|候畢ヌ。猶ヲ以テ‖御日-記ヲ|可∨被‖仰(ヲヽせ)下サ|。諸亊雖モ下∨可‖申入レ|子-細(シサイ)候ト上、御領田堵(デンド) 五版(ハン)ヲ爲∨堵ト。疏(シヨ){莊子也}ニ曰ク、一ツ版(ハン)ノ廣サ二尺。是ヲ五ツ合タルヲ曰‖一堵ト|也。猶シ堵ハ如‖宅之屋敷(ヤシキ)|也云。[書込み注]――トハ猶‖田宅|也。所帯也。屋敷也。〔静嘉堂文庫蔵古写本〕とあって、この「
田堵」の語注記は、「五版を堵と爲す。疏に曰く、一つ版の廣さ二尺。是を五つ合はせたるを一堵と云ふなり。猶、堵は宅の屋敷のごときなり云々」という。静嘉堂本の二次過程の書込みとして「田堵とは、猶ほ田宅のごときなり。所帯なり。屋敷なり」とあって、語注記の一つに記載が見える「田宅」の語をも古辞書である『下學集』『運歩色葉集』などは継承せずに未記載にある。また、古版『庭訓徃來註(庭訓抄)』(家蔵本)に、御領
田堵ハ田ノヌシナリ。〔十五ウ4〕とあって、「田のぬしなり」という簡潔な注記を収載している。時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
田堵
(デンド)△田堵。〔十七オE〕〔三十オD〕という。ここで気づくことは、この「
田堵」の意味説明が時代を経て、注釈の上に家屋門「田宅」すなわち、田の近くに位置する広々とした屋敷のようなものから人倫門「田の主」と、いわばそこに住んで管理する立場の人間へと変化してきていることであるまいか。[
ことばの実際]有
(アリ) ‖大輔房(タイブバウ)源性(ケンシヤウ)ト云[割注]源ノ進士左衛門ノ尉整子 者(モノ) |。無雙(ブサウ)ノ算術者(サンジユツシヤ)也(ナリ)。加之(シカノミナラズ)、見(ミ)テ‖田頭(デントウ)里坪(リヒヤウ)ヲ|、於テハ‖眼精(ガンセイ)ノ之所(トコロ)ニ覃(ヲヨフ) |、不(ス) ∨違(タガヘ) ‖段歩(タンフ)ヲ|云々。〔訓読〕大輔房源性(源の進士左衛門の尉整子)と云ふ者有り。無双の算術者なり。しかのみならず田頭里坪を見て、眼精の覃ぶ所段歩を違へず。《寛永版『吾妻鏡』巻第十六、治承正治二(1200)年庚申十二月三日乙酉・三三六下右@》意味は「田のほとりの広場」。
2001年6月23日(土)晴れ。北海道(札幌⇒湧別・常呂)
「柚(ゆ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木名部に、
柚
(ユ) 聖武時自‖唐渡也。〔元亀本376E〕柚
(ユ) 聖武時自唐渡。〔静嘉堂本457C〕とあって、標記語「
柚」の語注記は「聖武の時唐より渡るなり」という。『庭訓徃來』に「柚」と見え、『下學集』は、柚
(ユ) 。〔草木132A〕とあって、標記語を「
柚」とし、読み方は「ユ」で、語注記は未記載にある。次の広本『節用集』は、柚
(ユ/ユウ)。〔草木858G〕とあって、標記語を「
柚」とし、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、柚
(ユ) 聖武時自唐渡∨之。〔弘・草木225@〕柚
(ユ) 。〔永・草木187D〕柚
(ユカフ) 。〔尭・草木177@〕とあって、その語注記は弘治二年本が『運歩色葉集』と同じく「聖武の時唐より之れ渡る」とし、永祿二年本と尭空本は広本『節用集』と同じく語注記を未記載にする。そして、尭空本は読みを別筆で「ユカフ」としている。易林本『節用集』には、
柚
(ユ) 。〔草木193D〕とあって、標記語を「
柚」とし語注記は未記載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
175橘柑
・柚以-下、心之所∨及令‖尋植|候畢。猶以‖御日記|可∨被‖仰下|也。諸亊雖下可‖申入|子細候上、御領田堵 五版ヲ爲∨堵ト。疏云、一版ノ廣二尺是ヲ五ツ合タルヲ云‖一堵|也。猶堵ハ如‖宅之屋敷|也云々。〔謙堂文庫藏一九左F〕とあって、この「
柚」の語注記は未記載にある。ただし、六月十九日付記載の「柚子」の語注記に、聖武天皇
ノ御宇、~亀二{三}年自∨唐渡∨之者也云々。〔謙堂文庫藏一九左D〕とあって、「
聖武天皇の御宇、~亀二{三}年、唐よりこれ渡るものなり云々」を継承するのが、『運歩色葉集』及び弘治二年本『節用集』の語注記となっていることが見えてくる。時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
柚
(ゆ)△柚。〔十七オE〕〔三十オD〕という。
[
ことばの実際]
2001年6月22日(金)曇り。東京(八王子)⇒北海道(札幌)
「橘柑(キンカン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木名部に、
金柑
(キンカン)。〔元亀本374F〕金柑
(キンカン)。〔静嘉堂本455B〕とあって、標記語「
金柑」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「橘柑」と見え、『下學集』は、橘柑
(キンカン) 橘或ハ作ス∨金ニ。〔草木132A〕とあって、標記語を「
橘柑」とし、読み方は「キンカン」で、語注記は「橘、或は金に作す」という具合に、『庭訓徃來』における標記語「橘柑」は、『運歩色葉集』が収載する「金柑」とも表記することを説明するものである。これを受けてか次の広本『節用集』は、金橘
(キンカン/コガ子,―) 或作‖橘柑|。〔草木811B〕とあって、標記語を「
金柑」とし、語注記は「或は橘柑と作す」と『下學集』の注記語と標記語とを置き換えて説明している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、金柑
(キンカン) 金或作橘。〔弘・草木217C〕金柑
(キンカン) 金又作橘。〔永・草木181C〕金柑
(キンカン) 金又橘。〔尭・草木171@〕とあって、標記語を広本『節用集』と同じくして、その語注記は弘治二年本が「金或作橘」とし、これをさらに永祿二年本と尭空本は「金又作橘」「金又橘」と「或」の字を「又」に置換している。これを『運歩色葉集』の編者が標記語だけの語注記を削除して示す形態に移行している編纂意識の点が注目されるのである。易林本『節用集』には、
橘柑
(キンカン) 金柑(同)。〔草木186F〕とあって、標記語を「
橘柑」とし語注記に、「金柑」を「同」として収載する。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
175
橘柑・柚以-下、心之所∨及令‖尋植|候畢。猶以‖御日記|可∨被‖仰下|也。諸亊雖下可‖申入|子細候上、御領田堵 五版ヲ爲∨堵ト。疏云、一版ノ廣二尺是ヲ五ツ合タルヲ云‖一堵|也。猶堵ハ如‖宅之屋敷|也云々。〔謙堂文庫藏一九左F〕とあって、この「
橘柑」の語注記は、『下學集』の語注記を継承せず未記載にある。時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
橘柑
(きんかん)△橘柑。〔十七オE〕〔三十オD〕という。
当代の『日葡辞書』には、
Qincan.
キンカン(金柑) 実も木も小さなある種の蜜柑.〔邦訳497r〕とある。
[
ことばの実際]金柑
モ橘ノホソイ者ゾ。実(ミ)ガ黄ナゾ。《『玉塵抄』54》2001年6月21日(木)雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「雲州橘(ウンシフキツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」部に、
雲州橘
(ウンセウキツ)。〔元亀本182G〕雲州橘
(ウジユキツ)。〔静嘉堂本205B〕とあって、標記語「
雲州橘」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「雲州橘」と見え、『下學集』は、温州橘
(ウンジユキツ) 温ハ或ハ作ス∨雲ニ非ナリ也。〔草木132B〕とあって、標記語を「
温州橘」とし、読み方は「ウンジュキツ」で、語注記は「温は、或は雲に作す非なり」という具合に、『庭訓徃來』における標記語「雲州橘」を「非也」と取り扱うのである。次の広本『節用集』は、温州橘
(ウンシウキチ/アタヽカ,クニ,タチハナ) 或温ヲ作∨雲。〔草木469G〕とあって、標記語を『下學集』と同じく「
温州橘」とし、その読み方を「ウンシウキチ」とし、語注記にはただ「或は温を雲に作す」としてこの表記を『下學集』のように「非也」としないで肯定する立場の説明になっている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、温州橘
(ウンシウキツ) 柑類。〔弘・草木148A〕〔尭・草木109F〕〔両・草木133C〕温州橘
(ウンジウキツ) 柑ノ類。〔永・草木119H〕とあって、語注記は『下學集』及び広本『節用集』の語注記とは異なって、ただ「柑の類」としている。読みは弘治二年本・尭空本・両足院本の三本が「ウンシウキツ」と第三拍を清音で表記するのに対し、永祿二年本は「ウンジウキツ」と濁音表記となっている。このあたりが『運歩色葉集』の標記語の読み方として現出しているのかもしれない。易林本『節用集』には、
雲州橘
(ウンジウキツ) 。〔艸木116F〕とあって、語注記は未記載にある。
鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
174
雲州橘 温或作∨雲非也。〔謙堂文庫藏一九左F〕※―
温也。雲ハ昨也。○大唐温州多∨之。故云――。/温州ヨリ出タルト云説アリ。〔静嘉堂藏オ四、書込み〕とあって、この「
雲州橘」の語注記は「温、或は雲と作す非なり」ということで、『下學集』の語注記を継承することが見て取れるのである。時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
温州橘
(うじゆきつ)△温州橘温州(をんしう)ハ唐土(もろこし)柑橘(かんきつ)の名所(めいしよ)也。其種(たね)を傳(つた)へてなるもの歟。〔十七オE〕〔三十オD〕という。
当代の『日葡辞書』には、
Vjuqit.
ウジュキッ(温州橘) 同上(Mica(蜜柑)と呼ばれる柑橘類の一種).この語の方がまさる.〔邦訳691l〕とある。
[
ことばの実際]菓子者枩梅。黄梅
(クハウハイ)。楊梅(ヤマモヽ)。枇杷(ヒハ)。瓜茄(ウリナスビ)。覆盆子(イチコ)。岩棠子(イハナシ)。桃(モヽ)。杏(カラモヽ)。棗(ナツメ)。林檎(―ゴ)。石榴(シヤクロ)。梨(ナシ)。李(カラナシ)。柿(カキ)。〓〔木+卑(コネリ)〕。栗。椎(シイ)。金柑(キン―)。蜜柑(ミ―)。橙橘(カフチ)。鬼橘。柑子(カウ―)。鬼柑子。雲州橘(――キツ)等布施物(フセモツ)候。《寛文八年版『尺素徃来』下236D》一
雲州橘篭十。《東大史料編纂所・某手日記#116・折紙》2001年6月20日(水)雨のち薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「橘(たちばな)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺部の花木名に、
橘
(タチバナ)。〔元亀本376B〕橘
(タチハナ)。〔静嘉堂本457A〕とあって、標記語「
橘」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「橘」と見え、『下學集』は、橘
(タチバナ) 江南。〔草木132B〕とあって、語注記は単に「江南」という。次の広本『節用集』は、
橘
(タチバナ/キチ) 在‖江南ニ|橘。在‖江北ニ|枳。孔安國曰、小曰∨橘。大曰∨柚。異物志曰、橘白-花赤-實皮馨香ニシテ有∨味。春秋ノ運ヒ斗-樞〓〔王+旋〕-樞ノ星散シテ爲∨橘ト也。 異名、岩〓〔勹+米〕李太白名之有詩。木奴對。金衣。金鈴。金包苞トモ。金丸。金實无條詩。霜飽。半黄。三寸黄。韋即果又花。柑橙對。黄苞。綾霜。千頭。羅浮種君家秋實―――谷。果花。晃霜。雲衣。雲苞。雲九。温成。洞庭君子。玉〓〔艸+白為(イ)〕。皇后。欠霜。〔草木門332F〕とあって、標記語を「
橘」とし、語注記にはただ「江南に在るを橘。江北に在るを枳。孔安國の曰く、小を橘と曰ふ。大を柚と曰ふ。異物志に曰く、橘白-花、赤-實、皮馨香にして味有り。春秋の運び斗-樞〓〔王+旋〕-樞の星散らして橘と爲すなり」と説明し、異名語群二十六種を記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、橘
(タチハナ) 在江南―。在江北枳。〔弘・草木98C〕橘
(タチハナ) 。〔永・草木91B〕〔尭・草木83A〕〔両・草木100@〕とあって、語注記は広本『節用集』の語注記を簡略化した形態で弘治二年本だけが「江南に在るを橘。江北に在るを枳」としていて、他三本は標記語「
橘」のみであり、『運歩色葉集』の標記語のみ収載と同じ形態にある。易林本『節用集』には、橘
(タチバナ) 。〔草木90D〕とあって、語注記は未記載にある。
鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
173
橘 江南枳。江北昔花橘。常世(トコヨ)ノ国ヨリ渡也。宋人周良史ハ爲‖枇杷|不∨覚也云々。〔謙堂文庫藏一九左E〕○
橘トハ、常世国ヨリ献‖珎菓ヲ|。名ヲ知者无∨之。然ヲ師兄卿謂‖之橘ト|。故賜橘姓。有證哥ニ。橘ハ実サヱ其葉サヘ枝ニ霜ヲキトマシ常葉木。作者聖武天皇トモ申。師兄トモ能々可∨考。〔静嘉堂藏『庭訓徃來抄』古寫、頭注書込み〕とあって、この「
橘」の語注記は「江南の枳。江北には昔花橘。常世の国より渡すなり。宋人、周良史は枇杷と為し、覚らずなり云々」という。これは、広本『節用集』及び弘治二年本『節用集』の語注記にみえる「江南にあるを橘、江北にあるを枳」とは逆の内容説明になっていることに気づく。そして、左貫注の書込みとして、広本『節用集』にあたる説明内容の書き込みを置いている。ここで、語注記の冠注記である「江南の橘、江北にて枳」(同じ物でも土地や水質が変わると異なるものとなる意味から、人の性質も境遇によってしだいに変貌するという譬え)という慣用句は、広本『節用集』に、橘
とあって、この慣用句を引くものである。この内容を『庭訓徃来註』の編者は逆意して記載していることになる。
時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
橘
(たちばな)△橘ハ蜜柑(みかん)の事なり。今たちばなといふハ包橘(はうきつ)の事にて、金柑(きんかん)の大なるものに似(に)たり。〔十七オD〕〔三十オC〕という。
当代の『日葡辞書』には、
Tachibana.
タチバナ(橘) 小さくて酸っぱい,ある種の蜜柑.〔邦訳597r〕とある。
[
ことばの実際]四月のつごもり、五月のついたちなどのころほひ、
橘の濃くあをきに、花のいとしろく咲きたるに、雨のふりたる翌朝などは、世になく心あるさまにをかし。花の中より、實のこがねの玉かと見えて、いみじくきはやかに見えたるなど、あさ露にぬれたる櫻にも劣らず、杜鵑のよすがとさへおもへばにや、猶更にいふべきにもあらず。《『枕草子』第三七段・木の花は》2001年6月19日(火)晴れのち雨。東京(八王子)⇒八王子市内
「柚柑(ユカウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺部の花木名に、
〓〔木
+發〕〓〔木+段〕(ユカウ)。〔元亀本375@〕 橙(ユカウ)。〔376E〕〓〔木
+發〕〓〔木+段〕(ユカウ)。〔静嘉堂本455E〕 橙(ユカウ)。〔457C〕とあって、読みに従って「ユカウ」とある標記語「
〓〔木+發〕〓〔木+段〕」と標記語「橙」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「柚柑」と見え、『下學集』は、この語を未收載にするが、次の広本『節用集』における「橙(ユカウ)」の語に従えば、橙
(カフヂ) 。〔草木132A〕とあり、この読みを「かふぢ」としている。これを広本『節用集』は、
橙
(ユカウ/タウ) 柚属。〔草木門858G〕とあって、標記語を「
橙」とし、語注記にはただ「柚の属」と説明している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、橙
(ユカウ) 。〓〔木+廢〕〓〔木+段〕同。〔弘・草木225@〕橙
(ユカウ) 。〓〔木+廢〕〓〔木+段〕(ユカウ)。〔永・草木187D〕橙
(ユカウ) 〓〔木+廢〕〓〔木+段〕。〔尭・草木177@〕とあって、標記語は広本『節用集』の標記語「
橙」と『運歩色葉集』の標記語「〓〔木+發〕〓〔木+段〕」と「橙」の兩方を収載していて、はじめて「橙」と「〓〔木+發〕〓〔木+段〕」とが同じ樹木を意味するものであることが知られる。語注記はすべて未記載にある。易林本『節用集』には、柚柑
(ユカウ) 。橙(同)。〔草木193D〕とあって、『庭訓徃來』の「
柚柑」と広本『節用集』の示す「橙」とが併に収載されている。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
172
柚柑(―カウ)・々子 聖武天皇ノ御宇、~亀二{三}年自∨唐渡∨之者也云々。〔謙堂文庫藏一九左D〕とあって、この「
柚柑」の語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、
Daidai.
ダイダイ(橙) ある酸っぱい蜜柑.〔邦訳178r〕†Daidainoqi.ダイダイノキ(橙の木) ある酸っぱい蜜柑のなる木.〔邦訳178r〕
とあって、この樹木名をその木の果実名称である「だいだい」として収載する。
[
ことばの実際]丹波
√たんばの国よりのほる、/\、これらはみなかうるい(柑類)、ゆつかう(柚柑)、かうし(柑子)、たちばな(橘)、ありのみ(梨)、ざくろ(柘榴)、けんのみ(玄の実)、さてはくり(栗)の枝をり、ところ(野老)なんとまいりた、/\。《虎明本狂言・脇狂言之類『筑紫の奥』上63M》一
柚柑(ゆかう)を ○ゆつかうはわろし。ある人。柑類(かうるひ)といふは一切のくだ物のことぞと心得て。栗(くり)をも柿(かき)をもかうるひと云り。垂仁天皇(すいにむてんわう)の御宇に。筑紫(つくし)の毛理(もうり)といひしものが。とこよの國(くに)より九種(くしゆ)の柑類(かうるひ)をとりて來りとかや。いでその九種はしらねども。○橘(たちばな)○柑子(かうじ)○蜜柑(みつかん)○橘柑(きんかん)○柚(ゆ)○柚柑(ゆかう)○橙(かぶす)○枳穀(きこく)温州橘(うじゆきつ)などにや。是(これ)等(ら)を柑類(かうるひ)と申べき歟。《『片言』巻四・木部六九E》※ここでは、「柚柑」と「橙」とは別種として区別している。2001年6月18日(月)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「木練(こねり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』古部に、
木練
(―ネリ)。〔元亀本230E〕木練
(コネリ)。〔静嘉堂本264C〕木練
(―ネリ)。〔天正十七年本中61オB〕とあって、読みは静嘉堂本だけが全表記の「こねり」とあり、標記語「
木練」の語注記は未収載にある。『庭訓徃來』に「木練」と見え、『下學集』は、木練
(コネリ)。木淡(キザワシ) 以上二共ニ柿ノ之異名ナリ也。〔草木132A〕とあって、読みを「こねり」とし、標記語も「
木練」とし、語注記に下接部の標記語「木淡」と併せて「以上、二つ共に柿の異名なり」としている。これを広本『節用集』は、木練
(コネリ/ボク・レン, キ,―) 柿(カキ)也。〔草木門655@〕とあって、標記語を「
木練」とし、語注記にはただ「柿なり」と説明している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、木練
(コネリ)柿名。〔弘・草木185C〕木練
(コネリ)。〔永・草木151G〕〔尭・草木141G〕とあって、標記語は『庭訓徃来』『下學集』そして広本『節用集』の標記語「
木練」が用いられ、語注記は弘治二年本の「柿の名」以外は未記載にある。『温故知新書』には、木練
(コネリ)。〔生植門86@〕とある。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
171棗
(ナツメ)・樹淡(コサハシ) 共ニ柿ノ異名也。雖∨然少別也。〔謙堂文庫藏一九左D〕棗
(ナツメ)・樹淡(コサハシ/コネリ)・木練(コネリ) 共ニ柿ノ異名也。雖∨然少別也。〔天理本〕棗
(ナツメ)・樹淡(キ[コ]ザハシ)・木練(コネリ) 共ニ柿ノ異名也。雖∨然少別也。〔国会本左貫注〕とあって、この「
木練」の語注記は前の「樹淡」と一にして、「共に柿の異名なり」と『下學集』の語注記を継承引用し、これに「然りと雖も少しく別なり」を増補する。時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)には、「
木練」の標記語を含まない仕立てになっていることが見えてくる。このことは、謙堂文庫がこの「木練」の語を含まない仕立てになっていることと関連するものである。当代の『日葡辞書』には、
Coneri.
コネリ(木練) 柿の一種で味のよいもの.※原文はfigos de Iapao.〔Caqi(柿)の注〕.〔邦訳146l〕とある。
[
ことばの実際]柿賣
ハハア、これはいずれもお素人(しろうと)じゃ。これは、中でもこねりと申して、殊の外うまい柿でござる。とかくこちらの赤いのを食ベましょう。通行人甲イヤイヤそれはならぬ。そのこねりとやらのうまいのを食え。柿賣これを。通行人甲なかなか。柿賣心得ました。さらば食ベましょう。〔集狂言『合柿』大系下426DE〕2001年6月17日(日)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
「樹淡(こざはし)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』古部及び補遺の花木部に、標記語「
樹淡」の語注記は未収載にある。『庭訓徃來』に「樹淡」と見え、『下學集』は、木練
(コネリ)。木淡(キザワシ) 以上二共ニ柿ノ之異名ナリ也。〔草木132A〕とあって、読みを「きざわし」とし、標記語も「
木淡」とし、語注記に上接部の標記語「木練」と併せて「以上、二つ共に柿の異名なり」としている。これを広本『節用集』は、木淡
(コザワシ/ボク・タン, キ,アワシ) 柿之名也。〔草木門655@〕とあって、読みを「こざわし」と第三拍を「ハ」でなく「ワ」で表記し、標記語を『庭訓徃來』とは異なる「
木淡」とし、語注記にただ「柿の名なり」と説明している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、木淡
(コザワシ)同上(柿名)。〔弘・草木185C〕※上接部の標記語「木練(コネリ)柿名」とある。木淡
(コザハシ/キ―)。〔永・草木151G〕木淡
(コサワシ)。〔尭・草木141G〕とあって、標記語は『下學集』そして広本『節用集』の標記語「
木淡」が用いられ、語注記は弘治二年本の「同上(柿の名)」以外は未記載にある。『温故知新書』には、木漬魂
(コサハシコン)。〔生植門86@〕とあり、『頓要集』には、「淡柿(アハ―)」〔第十菓子部10@〕とあって異なる。鎌倉時代の『色葉字類抄』十巻本『伊呂波字類抄』には未収載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
171棗
(ナツメ)・樹淡(コサハシ)・{木練}(コネリ) 共ニ柿ノ異名也。雖∨然少別也。〔謙堂文庫藏一九左D〕とあって、この「
樹淡」の語注記は次の「木練」と一にして、「共に柿の異名なり」と『下學集』の語注記を継承引用し、これに「然りと雖も少しく別なり」と増補する。時代は降って、江戸時代の頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
樹淡
(きさハし) △木淡ハ柿(かき)の異名(いめう)(いミやう)也と。〔17オC〕〔31オB〕とある。
当代の『日葡辞書』には、
Cozauaxi.
コザワシ(木淡) 柿の一種.※原文はfigos de Iapao.〔Caqi(柿)の注〕.〔邦訳158r〕Qizauaxi.
キザワシ(木淡) 柿の一種.※原文はfigos de Iapao.〔Caqi(柿)の注〕. ⇒Cozauaxi.〔邦訳514r〕とあって「こざわし」と「きざわし」の両用の読み方をそれぞれ同じく示している。
[
ことばの実際]しぶかきをきつては、御所柿をつぎ
こざはしをつぎ候へば、味いみしく成侍る。《咄本『戯言養気集』下・天理図書館叢書第64巻 なぞ・狂歌・咄の本》2001年6月16日(土)曇り。東京(八王子)⇒
「棗(なつめ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
棗
(ナツメ) 。〔元亀本376C〕棗
(ナツメ) 。〔静嘉堂本457B〕とあり、標記語「
棗」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「棗」と見え、『下學集』は、棗
(ナツメ)。〔草木131F〕とあって、標記語を「
棗」とし、語注記は未記載にある。これを広本『節用集』は、棗
(ナツメ/サウ) 異名、羊角。狗牙。鷄心。牛尾。〔草木門435@〕とあって、標記語を『庭訓徃來』『下學集』と同じく「
棗」とし、語注記、異名語群の「羊角。狗牙。鷄心。牛尾」の四語を収録増補している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、棗
(ナツス[メ])。〔弘・草木137F〕※弘治二年本系統の徳遊寺本は、「ナツメ」と表記。棗
(ナツメ)。〔永・草木110B〕〔尭・草木100F〕〔両・草木122F〕とあって、標記語「
棗」で、語注記は未記載にある。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、棗
。鷄心。美棗 同。〔黒川本275A〕とあり、十巻本『伊呂波字類抄』五では、
棗
ナツメ。俗乍〓〔平+来〕。生棗。〓〔木+号〕。蹙咨。白駢。狗牙。鷄心。赤心。青花。弱枝。玉門。金蔕 已上十名出兼名苑。〔植物B〕とあって、その読みは「ナツメ」であり、先頭標記語も「
棗」で、已下「十」とあるが、十一種「棗」の文字を含めると十二種あり、「棗」の語注記は、「俗作○」形式での別表記字を示すものである。そして、『色葉字類抄』の示す十一種のうち広本『節用集』と共通する異名語は、「狗牙」と「鷄心」の二種である。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
171
棗(ナツメ)・樹淡(コサハシ)・{木練}(コネリ) 共ニ柿ノ異名也。雖∨然少別也。〔謙堂文庫藏一九左D〕とあって、この「
棗」の語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、Natcume.
ナツメ(棗) 小粒の林檎のような果実で,anafegaに似たもの.※原文のdanafegaはde anafegaに同じ.anafegaは林檎の実の総称であるが,maciera de anafegaは中国原産の棗(なつめ)をさす.〔邦訳453r〕とある。
[
ことばの実際]棗
ノアカイ実ノコマカニヒツシト、鈴(スヽ)ノヤウニナツタハ、枝ヲコマカニ、ツヾツタ如ナソ。棗(ナツメ)ノ実(ミ)ヲ、蛤ノ珠ニ比タモメツラシイソ。蛤ハ、タマヲハラム物ナリ。蛤珠ノ棗?卵ノ瓜メツラシイソ。《中略》下句ノ来々―ハ来来ナリ。漢ノ武帝ノ棗ヲ四十九、手ノ中ニカタメ、東方朔ヲメシテ相セサセラレタソ。朔マイリタソ。武帝ノシツ/\来々トヲナツタソ。叱々(シツ―)ハメス声ソ。チヤツト近(チ―)ウマイレトアル心ソ。朔カヤカテ、ウラナウタソ。シツ/\ノ声ワ七ナリ。七ヲタヽウテアルハ七々ナリ。四十九ナリ。来々ハナツメノ棗ノ字ヲ来来トモカクソ。朿ト来ト字似タソ。サテ来来トアヤマツテカイタソ。ソレカラナツメヲ来々ト云ソ。来々トコヽエ来レ/\トアルソ。コレデナツメト相シタソ。手中ノナツメ、テサウヲトマウシタソ。數ハイカホドヽアリ。四十九トマウスソ。シツ/\トメシタ声ヲ七々トシテ相シタソ。チヤウド合タソ。来々ノ霜実ハナツメナリ。秋ミガナリテ霜ヲヲヒテ赤ナルソ。モト功叔{大智ノ西堂}彦龍{法住ノ首座}同故京中出行時、比丘ヲウセイトヲル。功叔ノ句ニ路ニ逢フ‖北兵(ヒヤウ)左ニ|トアリ。彦龍ノ對(ツイ)ニ、字謬(アヤマ)ル‖東朿来ヲ|トアリ。名句ドモナリ。アル愚痴人、比丘尼ノ字ヲアヤマツテ、北-兵-左トヨウタコトアリ。比丘尼、北兵左ハ字ミナ似タソ。東朿来モ字ドモ、似タソ。ナツメハ来々ナリ。對ニシテ面白コトアラウソ。《『詩学大成抄』上,郊園門陰・秋郊136J〜137B,138A〜139D》2001年6月15日(金)粉糠雨。東京(八王子)⇒東村山(秋津)
「柘榴(ザクロ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
柘榴
(ジヤクロ) 。〔元亀本374E〕柘榴
(シヤクロ) 。〔静嘉堂本455@〕とあり、標記語「
柘榴」の読みだが、元亀本「ジヤクロ」と静嘉堂本「シヤクロ」といったように異なりを見せており、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「柘榴」と見え、『下學集』は、石榴
(ジヤクロ) 取テ∨汁(シル)ヲ入テ‖盃中ニ|経(フル)‖数日(ス[ジツ])ヲ|則(トキ)ハ成ル‖美酒(ビ[シユ])ト|也。〔草木130F〕とあって、標記語を「
石榴」とし、読みは「ジヤクロ」で語注記は「汁を取りて盃中に入れて数日を経る則は美酒と成るなり」という。これを広本『節用集』は、柘榴
(ジヤクロ/セキリウ.イシ,−) 取∨汁入‖盃中ニ|経‖数日ヲ|。作‖美酒ト|也。異名、絳英万。絳君同。丹鬚。丹花吉甫。蹙巾坡。朱實類。西域種博物志。紅裙寸。紅子路。紅牙。天漿。金房万。金玉。多子。紅榴。缺多子谷。紅瓠。玉漿。映景。紅鬚。漿水。澤塗。森紅。駁瑙。大谷。零雪。玉房。錦嚢。紅髪又花名。丹葩。焼空。紅蕚。照〓〔月+尼〕。〔草木門53C〕とあって、標記語を『庭訓徃來』と同じく「
柘榴」とし、語注記は、『下學集』を継承しつつ、注記末尾の箇所を「作‖美酒ト|也」として異なりを見せていて、これに異名語群三十一語を増補している。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、石榴
(ジヤクロ) 尓雅翼或作若榴。〔弘・草木236F〕石榴
(ジヤクロ) 取∨汁入∨盃中ニ経∨数日成∨美酒。〔永・草木197A〕石榴
(シヤクロ) 取汁入盃中ニ経‖数日|成‖美酒ト|。〔尭・草木187A〕とあって、標記語「
石榴」で、弘治二年本だけが語注記に「尓雅翼。或は若榴と作る」と収載し、永祿二年本と尭空本は、『下學集』の標記語及び語注記を継承して収載している。この語に見る限り、広本『節用集』に依拠するのではなく、『下學集』を継承して採録する姿勢が見えているのである。そして、印度本『節用集』類のなかで、連関性の高い弘治二年本と、この草木名に関しては『運歩色葉集』とではまったくその語注記の継承性がないこともこの語で見えてくるのである。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、〓〔木
+若〕榴(―リウ) サクロ。亦乍石榴。柘榴 同。〔黒川本498D〕とあり、十巻本『伊呂波字類抄』八では、
〓〔木
+若〕榴 サクロ。亦乍柘榴。〔植物B〕とあって、その読みは「サクロ」であり、表記も「
〓〔木+若〕榴」と「柘榴」そして「石榴」の三種があり、語注記は、「亦作○○」形式での別表記を示すものである。『色葉字類抄』の注記に見える別表記「石榴」が『下學集』の標記語として用いられているのである。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
170榛子
・柘榴 石留旧不着所出。州土或木生西域所々有∨之。木不‖高大|者也。〔謙堂文庫藏一九左C〕※
柘榴有黄赤ニ色取汁入‖盃中經‖数日|成‖美酒|也。――安柘国ヨリ渡也。故柘榴ト云也。〔国会図書館藏左貫注頭注書込み〕とあって、この「
柘榴」の語注記は「石留、旧くは州土を出づる所に着かず。或は木西域に生じ、所々にこれ有り。木は高大ならざるものなり」とあって、『下學集』の語注記を引用することなく、独自の語注記をここに採録しているのである。また、左貫注の頭注書込みの内容を見るに、「柘榴、黄赤に色取り、汁を盃中に入れ、数日を経て美酒と成る」とあり、印度本『節用集』類の注記に近似た説明となっている。当代の『日葡辞書』には、Iacuro.l,zacuro.
ジャクロ.または,ザクロ(石榴) 石榴の実.または, 石榴の木.※原文はRomaa,romeira. 日西辞書には単にRomeriaとしているが,これに石榴の木の意があったかどうかは疑問. 〔邦訳354r〕Zacuro.
ザクロ(石榴) ざくろの実.または,その木.⇒Iacuro.〔邦訳839r〕とある。
[
ことばの実際]榴
旧力周切。果木、石榴(ジヤクロ/セキリウ)也。《『大廣益會玉篇』巻第十二、九オ七》 「柘榴」の図絵2001年6月14日(木)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「榛子(はしばみ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
榛
(ハシバミ) 。〔元亀本376@〕榛
(ハジカミ) 。〔静嘉堂本456G〕とあり、標記語「
榛」の読みだが、元亀本「はしばみ」と静嘉堂本「はじかみ」といったように異なりを見せており、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「榛子」と見え、『下學集』は、榛栗
(ハシバミ)。〔草木132C〕とあって、標記語をやはり「
榛栗」とし、読みは「はしばみ」で語注記は未記載にある。これを広本『節用集』は、榛
(ハシバミ/シン) 。〔草木門53C〕とあって、標記語を「
榛」とし、語注記は、『下學集』と同じく未記載にある。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、榛
(ハシハミ) 或作榛栗。〔弘・草木17G〕榛
(ハシバミ) ―栗(ハシバミ)イ本。〔永・草木16B〕榛
(ハシバミ) ―栗。〔尭・草木14D〕榛
(ハシバミ) ―栗(同)。〔両・草木16F〕とあって、「
榛」の標記語は、広本『節用集』に依拠するが、『下學集』の標記語を弘治二年本は語注記に「或作榛栗」と収載し、永祿二年本、尭空本は、同じく語注記形態にして収載している。このことからも、広本『節用集』をまず継承し、そのうえで『下學集』を検討採録する姿勢が見えてくるのである。そして、印度本『節用集』類のなかで、連関性の高い弘治二年本と、この草木名に関しては『運歩色葉集』とではまったくその語注記の継承性がないことが見えてくるのである。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、榛
(シン) ハシハミ。又作〓〔木+孱〕。〓〔木+奏〕同。〔黒川本47E〕とあり、十巻本『伊呂波字類抄』巻九では、
榛
ハシハミ。亦乍〓〔木+孱〕。〓〔木+奏〕同。榛子 出七巻食凉ハシハミ。榛子人(ハシハミ)。イ本。見于本草。〔殖物151E〜152@〕とあって、その標記語は三種あり、語注記は、一番目の「榛」に「亦、〓〔木+孱〕に作る」とし、三番目の「
榛子」に「七巻に食凉ハシハミ出づ。榛子人(ハシハミ)イ本、本草に見ゆる」ということで、『節用集』類との語注記継承より、「榛子」という標記語は、『庭訓徃来』と連関するものである。また、『下學集』の「榛栗」は、ここには見られない。『色葉字類抄』や十巻本『伊呂波字類抄』が継承引用した源順撰の十巻本『和名類聚抄』に見えているものである。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
170
榛子・柘榴 石留旧不着所出。州土或木生西域所々有∨之。木不‖高大|者也。〔謙堂文庫藏一九左C〕とあって、この「
榛」の語注記は未収載にある。当代の『日葡辞書』には、Faxibami.
ハシバミ(榛) 木の実の一種. ※ボードレイ文庫本には,このあとにAuelans(はしばみの実)と書き加えてある.〔邦訳214r〕とある。
[
ことばの実際]榛
唐韻云榛<秦之軽音 亦乍〓〔木+孱〕波之波美>榛栗也。《十巻本『和名類聚抄』九》榛
實如小栗(詩)樹之―栗山有―止于―(爾雅)女贄用―以告虔也(晉趙景眞書)披―求路(唐史)城邑墟―(撰)荒―(李)戰國多荊―○(宋史)大明元年盗聚任城荊―中累世爲患謂之任―。《『韻府群玉』巻七真韻一446右C》榛
(シン/ハシバミ) 仕銀切。木叢(クサムラ)ニ生(―)。《『大廣益會玉篇』巻第十二、一ウ五》2001年6月13日(水)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「椎(しい)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
椎
(シイ) 。〔元亀本376E〕椎
(シイ) 。〔静嘉堂本457D〕とあり、標記語「
椎」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「椎」と見え、『下學集』は、椎
(シヒ) 椎ハ木ノ斷(キレ)也。然ルニ日本ノ俗呼テ‖菓子(クワシ)ヲ|曰フ∨椎(シイ)ト。不ス∨知ラ∨拠(ヨンドコロ)ヲ。〔草木135C〕とあって、標記語をやはり「
椎」とし、語注記は「椎は木の斷(キレ)なり。然るに日本の俗菓子(クワシ)を呼びて椎(シイ)と曰ふ。拠(ヨンドコロ)を知らず」という。これを広本『節用集』は、椎
(シヒ/ウツ) 椎ハ木ノ斷(キレ)也。然ヲ日本俗呼テ‖菓子ヲ|曰∨―ト。不∨知∨拠ヲ。〔草木門914C〕とあって、標記語を「
椎」とし、語注記は、『下學集』の語注記を継承していて、接続詞「然るに」を「然るを」と読むぐらいであり、語注記の増減は見えない。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、椎
(シイ) ―ハ木ノ断(キレ)也。然日本俗、呼∨菓子、曰∨―ト。不∨知∨拠。〔永・草木197F〕椎
(シヒ) ―ハ木ノ断也。然日本俗、呼菓子曰∨―ト不∨知∨拠。又柊。〔尭・草木187H〕とあって、「椎」の標記語及び語注記を弘治二年本は未収載にする。永祿二年本、尭空本は、『下學集』及び広本『節用集』を継承した語注記となっている。そして、印度本『節用集』類のなかで、連関性の高い弘治二年本に未収載のことから、『運歩色葉集』ではまったくその語注記を継承していないのである。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、
椎
(ツキ) シヒ。直追反。―子。〔黒川本565A〕とあり、十巻本『伊呂波字類抄』巻九では、
椎
シヒノミ。椎子 シ井。見本屮。櫪子 同(シ井)。出崔禹。相似而大椎。〔殖物133D〕とあって、その標記語は三種あり、語注記は、二番目の「椎子」に「『本草』に見ゆ」とし、三番目の「
櫪子」に「『崔禹』に出づ。相似たりて大椎」ということで、『節用集』類との語注記継承はこの語には見られない。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
169梨子
・椎 椎木断(キレ)也。然日本俗呼‖菓子|。曰‖――|不∨知∨拠也。〔謙堂文庫藏一九左B〕とあって、この「
椎」の語に関する語注記はまさに『下學集』に依拠するものである。当代の『日葡辞書』には、Xij.
シイ(椎) 日本にある小さい団栗の一種.※原文はbolotasで,団栗類の総称.ここでは“椎の実”をさす.⇒Tcumi,u(摘み,む).〔邦訳764r〕とある。
[
ことばの実際]木に
しゐ、如何。答、しゐは椎也。さきゑみの反。枝椎をみればおのおのさきのゑみたる也。この反。ことはりにきこえたり。《『名語記』六》椎
傳追切。撃也。又―鈍不曲撓周勃其―少文如此(漢)《『韻府群玉』巻三支韻、一160右H》2001年6月12日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「梨子(なし)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
梨
(ナシ) 。〔元亀本376C〕梨
(ナシ) 。〔静嘉堂本457A〕とあり、標記語「
梨」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「梨子」と見え、『下學集』は、梨
(ナシ)。〔草木131A〕とあって、標記語をやはり「
梨」とし、語注記は未記載とする。これを広本『節用集』は、梨
(ナシ)梨花如∨雪。魏ノ文詔ニ云、真足郡ノ梨大シテ如∨拳。甘シテ若∨密。脆シテ若∨菱(ヒシ)ノ。可‖梨以解∨煩釋∨結ヲ。本草ニ梨ヲ。曰‖快菓ト|。説文ニ曰‖梨菓|。従‖木利ノ聲ニ|。尓雅ニ曰梨ハ山檎ナリ。西京雜記ニ上林苑ニ有‖紫梨・大谷ノ梨・縹梨|。地理志ニ河中府有‖鳳栖梨|。宋ノ張敷カ之梨ハ是百菓之宗ナリ。異名、零雪。雪含消。映雪。映果。香粉。大谷。香雪。院落花。千株ノ雪。百菓。雪零。簪花。洗粧。芳梨。白雪。縹桃。雪客。紫冬。雪肥。客雪。一枝春。摩郎。坐臓斧。快果。〔草木門434D〕とあって、標記語を「
梨」とし、語注記は、「梨の花雪の如し。魏の文詔に云く、真足郡の梨、大にして拳の如し。甘くして密の若(ごと)し。脆くして菱の若(ごと)し。梨を以って煩ひを解し結ひを釋すべし。本草に梨を快菓と曰ふ。説文に梨菓と曰ふ。木利の聲に従る。尓雅に梨は山檎と曰ふなり。西京雜記に上林苑に紫梨・大谷の梨・縹梨有り。地理志に河中府に鳳栖梨有り。宋の張敷が梨は是れ百菓の宗なり」とあって、これに異名語群「零雪。雪含消。映雪。映果。香粉。大谷。香雪。院落花。千株ノ雪。百菓。雪零。簪花。洗粧。芳梨。白雪。縹桃。雪客。紫冬。雪肥。客雪。一枝春。摩郎。坐臓斧。快果」の二十四語が示されている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、梨
(ナシ)。〔弘・草木137F〕梨
(ナシ/リ)。〔永・草木110B〕梨
(ナシ) 櫨(ナシ)。又集(ナシ)木ノ花(ハナ)。〔尭・草木100G〕梨
(ナシ) 櫨(ナシ)。又集木花。〔両・草木122F〕とあって、「ナシ」語注記の方は、弘治二年本と永祿二年本は未記載にするが、尭空本と両足院本は「櫨
(ナシ)。又集木花」と別表記の語を注記している。これは、他と異なる注記内容となっている。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、梨子
(ナ{リ歟}) ナシ。大俗。會浦。棠 同。〔黒川本275A〕とあり、十巻本『伊呂波字類抄』では、
梨
ナシ。―子。正乍〓〔黎-木〕俗乍―。棠 同。云薦。探子 味酸甘。音。〓〔燧-木〕子 亦似梨而小酸音{者}。〓〔劉-艸〕子 生山中。已上三名出崔禹。紫實。紫條。縹蔕。六俗。含須 已上五種兼名苑。已上八名ナシ、見本草。〔五殖物〕とあって、注記の『色葉字類抄』の「大俗」は、『兼名苑』に「六俗」として収載されているというのである。「大」と「六」との字形相似に拠る差異であり、これが広本『節用集』に見える「大谷」と関わっている語なのかを検証せねばならないが、『節用集』類との語注記継承はこの語には見られない。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
169
梨子・椎 椎木断(キレ)也。然日本俗呼‖菓子|。曰‖――|不∨知∨拠也。〔謙堂文庫藏一九左B〕とあって、この「
梨子」の語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、Naxi.
ナシ(梨) 梨.〔邦訳454r〕Naxinoqi.
ナシ(梨の木) 梨の木.〔邦訳454r〕とある。
[
ことばの実際]〓〔黎-木〕山檎
即今〓〔黎-木〕樹。《宋本『爾雅』釋木第十四・86九》櫨
(サ) 側加切。似テ∨梨(ナシ)ニ而酸(スシ)。〓〔木+且〕同上。《『大廣益會玉篇』巻第十二、十オ一》檎
(リ) 力枝切。山梨(ヤマナシ)也。《『大廣益會玉篇』巻第十二、十オ二》〓〔黎-木〕
(リ) 力之切。果ノ名。ナシ。梨 同上。《『大廣益會玉篇』巻第十二、十オ二》〓〔沙
+木〕(サ) 所加切。果木名。〓〔沙+木〕棠(ナシ) 也。《『大廣益會玉篇』巻第十二、十オ三》棠
(タウ) 達郎切。棠梨果(アマナシ)木也。《『大廣益會玉篇』巻第十二、十オ三》〓〔黎-木〕
力脂切。果名。事見齊韻通作黎老也(書)播棄―老。《『韻府群玉』巻三支韻、一149右F》2001年6月11日(月)曇り夜半雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「柿(かき)」と「柿(こけら)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
柿
(カキ) 。〔元亀本376A〕 柿(コケラ) 。〔元亀本241F〕柿
(カキ) 。〔静嘉堂本457@〕※実際は,「柿」の字は音「シ」で「かき」、旁の「亠」と「巾」とが離れている。「柿」の字は音「ハイ」で「こけら」、旁は縦棒が上から下に突き抜けている字である。これを「木」扁に旁を「亠」に「冖」そして「亅」を書いて最後に「丿」を添える。静嘉堂本には、「古」部に「コケラ」の標記語が未収載にある。
とあり、標記語「
柿」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「柿」と見え、『下學集』は、柿
(カキ)甘果ナリ也。〓几(シヨキ)ノ切シ〓ヲ作ルハ柿ニ非也。柿ハ蒲會ノ切シ。木塵ナリ也。非ス果(コノミ)ニ也。〔草木131F〕柿
(コケラ)蒲會ノ反シ。削(ケツル) ∨木ヲ塵(チリ)云フ∨柿ト也。〔草木136@〕とあって、標記語を「
柿」とし、「かき」の語注記には「甘果なり。〓几の切(かへ)シ〓ヲ作るは柿に非ずなり。柿は蒲會の切(かへ)し。木の塵なり。果(このみ)に非ずなり」とあり、後半部の語注記は下記の『庭訓徃來註』の語注記に継承されている。また「こけら」の語注記には「蒲會の反し。木を削る塵を柿と云ふなり」という。これを広本『節用集』は、柿
(カキ)甘菓也。〓〔金+旦〕几切。○作∨柿非也。柿ハ木ノ塵也。非‖菓柿|也。柿ニ有‖七絶|也。梁侯。鳥棹之柿。異名、犬鼻悪柿名。朱(シユ)寳。花林。七絶。八稜。大傘。鹿心。猴柿。〔草木門258E〕柿
(コケラ)削(ケツル)∨木ヲ塵也。方廢切。〔器財門663C〕とあって、標記語を「
柿」とし、語注記は、前半部を『下學集』に依拠し、「柿に七絶あるなり。梁侯。鳥棹之柿」は『節用集』編者の増補であり、これに異名語群「犬鼻悪柿名。朱(シユ)寳。花林。七絶。八稜。大傘。鹿心。猴柿」の八語が示されている。そして、「こけら」は、旁を「丿+冖+亅+丿」とし、その語注記には、「木を削る塵なり。方廢の切」とし、反切の表記は『下學集』と異なっている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、柿
(カキ)。〔弘・草木76C〕〔永・草木76@〕〔尭・草木68H〕〔両・草木81D〕柿
(コケラ) 削(ケツル)∨木ヲ塵也。方廢反。又一本ニハ〓〔木+卮-巾〕トナス。〔弘・器財188C〕。柿
(コケラ) 削∨木塵也。方廢反。〔永・財宝154H〕柿
(コケラ) 削木塵也。〔尭・財宝144H〕とあって、「かき」語注記の方は未記載にするが「こけら」の語注記は、広本『節用集』を継承しつつも、三本それぞれ増減の異なりを見せている。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、
柿
(シ) カキ。〓〔木+卑〕同。〔黒川本163F〕柿
コケラ。方廢。〔黒川本440@〕とあって、『節用集』類への語注記継承性として、「こけら」の反切表記「方廢」が継承されている。因みに『下學集』は下記に示す『大廣益會玉篇』の反切表記に共通する。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
168栗
・柿 柿ハ木塵也。非∨黄{菓}。蒲會ノ反。削∨木ヲ塵也。〔謙堂文庫藏一九左B〕とあって、この「
柿」の語に関する語注記は「柿は木塵なり。黄{菓}にあらず。蒲會の反。木を削りたる塵なり」とあって、『下學集』の語注記を継承し、果実木「かき」の語注記は見えず「こけら」の説明となっている。このことを左貫注本の書込みは指摘し、『玉篇』(『大廣益會玉篇』)を繙くものとなっている。当代の『日葡辞書』には、Caqi.
カキ(柿) 林檎に似ている日本の無花果(いちじく).※原文はfigos de Iapao.figoは無花果なので,これに“日本”のという限定をつけて“柿”にあてたもの.Auaxegaqi;Coneri;Iucuxiの条など,例が多い.その一方,単独にfigoだけで“柿”にあてた例も多く,Bixarito;Cuxigaqi;Fanecaqe,uru;Tcubur,ruなどの諸条に見える.なお,ロドリゲスの日本教会史によれば,わが国の干し柿が南欧の無花果に似ているので,最初のポルトガル人たちが“柿”をfigoと呼んだのであろうという(大航海時代叢書上巻p.270).上述のようにfigoを“柿”にあてるのが一般的であったので,本来の無花果をあらわすのには,かえってfigos de portugal(ポルトガルの無花果)といって区別しなければならなかった.(Itabuの条).〔邦訳96l〕Caqi.
カキ(柿) 半ば熟した柿のような色.例,Caqini somuru.(柿に染むる)この柿の色に染める.※原文はfigos.〔前条の注〕〔邦訳96l〕Coqera.
コケラ(柿) 木片.〔邦訳148r〕とある。
[
ことばの実際]さてもさてもうまい
柿じゃ。いま一つ食びょう。ヤットナ。食ぶれば食ぶるほどうまい柿じゃ。《鬼山伏狂言『柿山伏』大系下》柿
(シ/カキ{旁の最終画に「丿」が付く})鋤几切。赤(アカ)キ實(ミ)ノ果(コノミ)也。《『大廣益會玉篇』巻第十二・木部一百五十七、一オ五,200五》柿
(ハイ/コケラ)蒲會。孚吠二切。枝附也。《『大廣益會玉篇』巻第十二・木部一百五十七、八オ六,207六》2001年6月10日(日)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)
「栗(くり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
栗
(クリ) 。〔元亀本376D〕栗
(クリ) 。〔静嘉堂本457B〕とあり、標記語「
栗」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「栗」と見え、『下學集』は、未収載にある。これを広本『節用集』は、栗
(クリ/リツ)異名、卜郡。殷七。周社。秦花。都尉。掩中。〔草木門500@〕とあって、標記語を「
栗」とし、語注記は異名語群「卜郡。殷七。周社。秦花。都尉。掩中」の六語が示されている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、栗
(クリ)。〔弘・草木156G〕〔永・草木128A〕〔尭・草木117@〕〔両・草木142@〕とあって、語注記を未記載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、
栗
(リツ) クリ。―子果木也。撰子同。〔黒川本354A〕とあって、『節用集』類への語注記継承性はない。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
168栗
・柿 柿ハ木塵也。非∨黄{菓}。蒲會ノ反。削∨木ヲ塵也。〔謙堂文庫藏一九左B〕とあって、この「
栗」の語に関する語注記は未記載だが、当代の『日葡辞書』には、Curi.
クリ(栗) 栗.⇒Faxiri,u;Iqe,uru.〔邦訳170l〕とある。
[
ことばの実際]この河にのみやは魚
(いを)は有ルと思(おも)ひて、下(お)りてその河(かは)より渡(わた)りて、北(きた)ざまに指(さ)して行(ゆ)きて、山に入リてみれば、大(おほ)いなる童(わらは)、土(つち)を掘(ほ)りて、物(もの)を取(と)り出(い)でて、火を焚(た)きて、燒(や)きあつめて、又、おほいなる木の下(した)にいきて、椎(しヒ)、いちヒ、栗(くり)などをとりて、この子ニイフヤウ「何(なに)しに、この山には有ルぞ」と問へば「魚(いを)釣(つ)りに來(き)つるぞ。御許(おもと)に<食ハ>せ奉らんとて」トいへば「山には魚(いを)はなし。又、生(い)きたるもの殺(ころ)すは罪(つみ)ぞ。これを拾(ひろ)ひて食(く)へ」と教(をし)へて、このほリひろひあつめたる物(もの)どもを取らせて、童(わらは)は失(う)せぬ。《『宇津保物語』俊蔭一78B》2001年6月9日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇔後楽園
「李(すもも)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
李
(スモヽ) 。〔元亀本374〕李
(スモヽ) 。〔静嘉堂本455〕とあり、標記語「
李」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「李」と見え、『下學集』は、李
(スモヽ)。〔草木131A〕とあって、標記語「
李」の読みは「すもも」とし、語注記は未記載にある。これを広本『節用集』は、李
(スモヽ/リ)西京雜記ニ曰、上林苑ニ有‖紫ノ李。青桃。綺李。杜陵有‖金李|。陸志衛中山之縹李也。異名、來禽。平丈紅坡。友三咽實名。素〓〔糸+尚〕。縞衣。斎〓〔糸+丸〕。〓〔糸+肖〕朶。剪雪。玉杖。袒桃。〔草木門1122G〕とあって、標記語を「
李」とし、『西京雜記』などを引用した語注記と異名語群が示されている。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、李桃
(スハイモヽ)。李(スモヽ)。〔弘・草木268A〕李
(スモヽ)。〔永・屮木229G〕李
(スモヽ)。〔尭・草木215G〕とあって、語注記を未記載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、
李
(リ) スモヽ。翠質スイシチ―子。成蹊セイケイ。黄吉同。〔黒川本642FG〕とあって、『節用集』類への語注記継承性はない。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
167李
(ス―)・揚梅(ヤマモヽ)・枇杷・杏(ア―) 生‖晋ノ州山谷|所々有∨之。其實亦数黄而圓者名金杏、扁而青黄者名木杏々。子入藥也。〔謙堂文庫藏一九左A〕李
ハ漢ニハ燕国ノ商道懸王豊家ヨリ出タリ‖好李|。大サ如‖鵞子也。〔静嘉堂本頭注書込み〕李
ハ漢ニハ燕国ノ高道縣王豊家ヨリ出‖好李|。大サ如‖鵞子|也。〔天理図書館藏頭注書込み〕とあって、この「
李」の語に関する語注記は未記載だが、静嘉堂本及び天理本の頭注書込みに「李は、漢には燕国の商道懸、王豊家より好李出たり。大きさ鵞の子のごときなり」とあって詳細な注記が見えている。当代の『日葡辞書』には、Sumomo.
スモモ(李) ある種のすもも.または,すももの木.〔邦訳588r〕とある。
[
ことばの実際]李桃
トカキテ。ヅハイモヽトヨム。李ニツハイト云フヨミアル歟。スモヽハ。ハモナキモノナレハ。李桃トカケリ。スモヽト云フコトモ重點ハツラハシキ歟。而椿ノ子ニモニタレハ。和語ニツハイモヽト云ナルヘシ。李ノ字ニツハイノヨミアルヘカラサル歟。《『塵袋』巻二・植物一二九〜一三〇頁》2001年6月8日(金)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒東村山(秋津)
「杏(アンズ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
杏子
(アンズ) 。〔元亀本374F〕杏子
(アンズ) 。〔静嘉堂本455A〕とあり、標記語「
杏子」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「杏」と見え、『下學集』は、杏
(カラモヽ)。〔草木131A〕とあって、標記語「
杏」の読みは「からもも」とし、語注記は未記載にある。これを広本『節用集』は、杏子
(アンズ/キヤウシ.カラモヽ,コ)。〔飲食門748F〕杏子
(カラモヽ/キヤウ)。異名.粉頬。翠質。又杏花名。芳姿。辟霞。軽紅。〔草木門258E〕とあって、標記語を「
杏子」とし、読みを「あんず」そして、「からもゝ」とがあり、前者の語注記は未記載にする。後者は異名の語群を「粉頬。翠質。又杏花名。芳姿。辟霞。軽紅」とし、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、杏子
(アンズ) 。〔弘・草木202B〕 杏(カラモヽ)。〔弘・草木76C〕杏仁
(アンニン) ―子(ス)。〔永・草木167E〕 杏(カラモヽ)。〔永・草木76@〕杏仁
(アンニン) ―子。〔尭・草木156F〕とあって、広本『節用集』と同じく標記語「
杏子」と「杏」とがあって、読みは前者を「あんず」、後者を「からもも」とし、語注記を未記載にする。このうち、永祿二年本・尭空本は、「杏子」を標記語「杏仁」の注記語として収載する。また、尭空本は、「からもも」の語を未收載としている。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、杏子
(カウ) カラモヽ。〔黒川本、植物163F〕とあって、語注記は未記載にある。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
167李
(ス―)・揚梅(ヤマモヽ)・枇杷・杏(ア―) 生‖晋ノ州山谷|所々有∨之。其實亦数黄而圓者名金杏、扁而青黄者名木杏々。子入藥也。〔謙堂文庫藏一九左A〕杏
在‖唐崎ニ|。此山篭奉ト云人隠居疾ヲ治メ藥代ヲトラス。杏ヲ取也。〔静嘉堂本頭注書込み〕とあって、この「
杏」の語に関する語注記は「晋ノ州山谷(サンコク)に生じ所々に之れ有り。其の實亦、数(シバ/\)黄にして、圓き者なり。金杏(カラモヽ)と名づく。扁にして青黄なる者なり。木杏(カラモヽ)と名づく。々子は藥に入るなり」とあって詳細な注記が見えている。当代の『日葡辞書』には、Caramomo.
カラモモ(杏) 桃のある種属.⇒Qio<qua.〔邦訳100r〕Qio<qua.
キャゥクヮ(杏花) Caramomono fana.(杏の花) 杏子(アンズ)に似たある種の桃の木の花.〔邦訳502r〕とある。
[
ことばの実際]
2001年6月7日(木)晴れのち大雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「枇杷(ビワ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
枇杷
(ビハ) 。〔元亀本374G〕枇杷
(ビハ) 。〔静嘉堂本455C〕とあり、標記語「
枇杷」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「枇杷」と見え、『下學集』は、未収載にある。これを広本『節用集』は、枇杷
(ヒハ)異名.盧橘。杯鈴。雲鈴。林珎。〔草木門555B〕とあって、標記語を「
枇杷」とし、語注記には異名語「盧橘。杯鈴。雲鈴。林珎」を記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、枇杷
(ビワ) 。〔弘・草木251B〕枇杷
(ビハ) 。〔永・草木215@〕〔尭・草木200C〕とあって、語注記を未記載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、
枇杷
ヒハ。果木。盧橘 同。震旦之俗以枇杷為―。〔黒川本602E〕とあって、語注記を「果木」とし、次に標記語として、「盧橘」を示して、その語注記には「震旦の(世)俗枇杷を以って為す」という。ここで、広本『節用集』の
異名語注記として「盧橘」は一致するが、他の「杯鈴・雲鈴・林珎」は一体どこからの採録語か調査しなければなるまい。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
167李
(ス―)・揚梅(ヤマモヽ)・枇杷・杏(ア―) 生‖晋ノ州山谷|所々有∨之。其實亦数黄而圓者名金杏、扁而青黄者名木杏々。子入藥也。〔謙堂文庫藏一九左A〕とあって、この「
枇杷」の語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、とある。
Biua.
ビワ(枇杷) この名でよばれる或る種の木.§また,この木の果実.〔邦訳58l〕とある。
[
ことばの実際]盧橘
ヲハ花〓(木+満)トノミ心得ヘキ歟。又枇杷ト云フ説アリ。真偽如何。 古来ノ難義ナリ。イカテカ。タヤスク定ムヘキ。{引‖為長卿上林賦盧橘夏熟。楊雄甘泉賦玉樹青葱ト云ヘルヲ|。此二ハ共ニ虚誕云々。上林ニ無盧〓(木満)|甘泉無玉樹|云々}三州入道家照入宋ノトキ宋人ニアヒテ云ケルハ。上林賦ニ盧〓(木満)ハ夏熟ト云フ。文ヲ我國ノ先賢ツタヘテ花〓(木満)トス。入宋ノ後チ土風ヲ見レハ。震旦ノ人ミナ枇杷ヲ盧〓(木満)トス。本朝ノ説ハアヤマレリト。シリヌト云ケルヲ。宋人周良史キヽテ。此ノ朝ニ来テカタリ。ケリテ云コトアリ。嚴長史詩云。冬ノ花ニハ摘(ツミ) ‖盧〓(木満)ヲ|。夏ノ菓ニハ嘗‖楊梅ヲ|ト云ヘリ。コノ心ニハマコトニ。枇杷ナリ。ハナタチハナハ。冬ハナサクコトナシ。夏ハナサク。郭公同時ノ景物コトフリニタリ。博聞後録ト云フ物ニハ枇杷ノ異名ハ盧〓(木満)。タチハナノ異名ハ木奴ト云ヘリ。コレラハ異儀ナリ。枇杷ヲ云フトキコユ。但シ上林賦ヲミレハ。盧〓(木満)ト枇杷トナラヘテ。二ツナカラ。ツラネヲク。コレヲ思ヘハ各別歟トモオホユ。サレハニヤ。江哺ハ盧〓(木満)ハ花橘ナリト云ヘリ。盧ノ字ヲハクロシトヨメリ。イツカハ〓(木満)色ノクロキ事アル。道理ニカナハス枇杷モ黄ナルイロノ分ナレトモ。二トトレハ〓(木満)ヨリハクロケレハ。クロタチハナトモ云ヘクヤ。字ハカヨハシテ用フル事ソノ例コレオヽシ。本コノ中ニハシカシ。ナカノカタハラノ字ヲカリテヨメリ。コレヲ以テ思ニハハナタチハナヲ盧〓(木満)ト云フヘキヲ盧トカケル歟。花〓(木満)ハカハヽヒロクナリ。ミハチヰサクナリテ。スヽノ子ノヤウナレハ。イホリノ中ニアルシノ住シタルニ。タルユヘニ盧ノ〓(木満)トハ云歟トオホユルナリ。但シ荒涼ノ邪推ナリ。人ノモチフヘキニアラス。枇杷ト云フ二字ハ。コノ木ノ葉琵琶ニニタレハ。玉ノツクリヲステヽ。木篇ヲシタカヘテ名トス。琵琶ハ拝[奉]ヲ∨手曰∨琵ト|。引∨手ヲ曰∨琶ト|云ヘリ。又推手ヲ曰∨琵ト|。引手ヲ曰ト∨琶トモ|見エタリ。心ハ同事歟。《『塵袋』巻二・植物、日本古典全集一二六〜一二九頁》然相如賦
‖上林|、而引‖廬橘夏熟|、楊雄賦‖甘泉|、而陳‖玉樹青葱|、班固賦‖西都|、而嘆以∨出‖比目|、張衡賦‖西京|、而述以∨遊‖海若|、假‖‐稱珍怪|、以爲‖潤色|。《然れども相如は上林を賦して、廬橘夏に熟するを引き、楊雄は甘泉を賦して、玉樹の青葱たるを陳べ、班固は西都を賦して、嘆ずるに比目を出すを以てし、張衡は西京を賦して、述ぶるに海若に遊ぶを以てし、珍怪を假稱して、以て潤色を爲す。》《文選・第四巻・@234・008.04.12b》然モ相如ハ賦
‖上‐林ヲ|而引ク‖慮橘夏ジ‐熟フヲ|。楊雄ハ賦タ‖甘‐泉ヲ|而陳(ノフ)‖玉樹青‐葱ナリト云フヲ|。班固賦タ‖西‐都ヲ|而難スルニ以シ∨出スフヲ‖比‐目ヲ|。張衡ハ賦タ‖西‐京ヲ而述(ノブルニ)以ス∨游云フヲ‖海‐若ニ|。[割注:劉曰。凡ノ此ノ‐四者皆非‖西京之所|∨有也]《和刻本文選4・19》*《和刻本文選・8.11(015.08.07a)》2001年6月6日(水)雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「楊梅(やまもゝ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
楊梅
(ヤマモヽ) 。〔元亀本374F〕楊梅
(ヤマモヽ) 。〔静嘉堂本455A〕とあり、標記語「
楊梅」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「楊梅」と見え、『下學集』は、楊梅
(ヤマモヽ) 。〔京師25E〕とあって、語注記は未記載にある。これを広本『節用集』は、
楊梅
(ヤマモヽ/ヤウバイヤ.ヤナギ,ムメ)。〔草木門555B〕とあって、標記語を「
楊梅」とし、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、「牟」部に楊梅
(ヤマモヽ) 。〔弘・草木165B〕楊梅
(ヤマモヽ) ―(/ヤナギ)柳(リウ/同)。〔永・草木135A〕楊梅
(ヤマモヽ) ―柳。〔尭・草木124@〕とあって、語注記を未記載にする。鎌倉時代の『色葉字類抄』には、
楊梅
(ヤウハイ) ヤマモヽ。櫻桃(同)。〓〔木+唐〕(同)。黒櫻子(同)。〔黒川本375G〕とあって、「
楊梅」以外の表記熟語として、「櫻桃」「〓〔木+唐〕」「黒櫻子」の異表記語群を示している。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
167李
(ス―)・揚梅(ヤマモヽ)・枇杷・杏(ア―) 生‖晋ノ州山谷|所々有∨之。其實亦数黄而圓者名金杏、扁而青黄者名木杏々。子入藥也。〔謙堂文庫藏一九左A〕とあって、この「
楊梅」の語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、とある。
Yamamomo.
ヤマモモ(楊梅) medronhos〔木苺〕のような山林の果実の一種.※潅木に生ずる苺に似た実.これを楊梅にあてている.羅葡日Arbutum;Vne>doの条には,葡語Madronho(=Medronho)をあて,日本語で“ヤマモモノタグイ”と説明している.〔邦訳809l〕とある。
[
ことばの実際]《『』》
2001年6月5日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「梅(むめ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』補遺の花木部に、
梅
(ムメ) 。〔元亀本374@〕梅
(ムメ) 。〔静嘉堂本454A〕とあり、標記語「
梅」の語注記は未記載にある。ただ、標記語として「梅」に連関する標記語群「鶯宿梅」「江南所無」「泉式部」「飛梅」「座論」の語が次に排列されている。『庭訓徃來』に「梅」と見え、『下學集』も、「梅」の標記語は未収載にあるが、「鶯宿梅」「江南所無」の標記語は語注記を有して収載がなされている。すなわち、これらを統括すべき標記語「梅」の語が未採録であるということである。これを広本『節用集』は「宇」部に、梅
(ウメ/バイ) 〓〔木+用〕(ムメ)合紀。目面(ウメ)。詩義疏ニ曰、梅杏ノ類也。其ノ樹ノ葉如∨杏ノ。面黒ク_甘シ。西京雜記凛ノ修時ニ‖上林苑|。○郡臣各献‖名菓|。○有‖候梅、朱梅、紫花、同心梅、紫蔕、梅麗、枝梅|。花ノ譜ニ、蝋梅。本ハ非‖梅ノ類ニ|。以ノ下其與∨梅同-時香シテ。又相‖_近色酷(アツキリ)似‖上器脾ニ|。故名‖蝋梅ト|。最先ニ開也。深-黄如ク‖紫烟檀ノ|。花密ニ香濃。名ク‖檀香-梅ト|。此ノ品最佳ナリ。○私ニ云、蝋梅世-間以此ヲ。而爲梅。故ニ此-存也。可∨散∨疑者也。異名。花魁。氷肌。氷姿。氷仙。玉骨。止渇。南枝。北枝。和羹。玉蘂。額黄。清客。清痩。龍鱗。瓊林。五出花。白氷。清友。花御史。瓊膚。瓊枝。素兄。万玉。妃。暗香。疎影。横斜。龍眼。仙麝。清女。和靖(セイ)愛梅人也。江南信。標霜。遥若暖。呉姫面。公主花。槍莫。木母分字。映雪麗枝。清客。時莫。圓成。紅絞。紫花。痩骨。氷雪。衡霜。皎雪。同心。落素。推骨。〔草木門470C〕とあって、標記語を「
梅」とし、その語注記も『國華合紀集』『詩義疏』『西京雜記』『花ノ譜』を典拠とした語や句を示し、さらに「私」として「蝋梅、世-間此れを以って、而るに梅と為す。故に此-存なり。疑がはしく散るべきものなり」という。その後に「異名」語群を持つ詳細なものとなっている。これを、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、「牟」部に梅
(ムメ) 。〔弘・草木145B〕〔永・草木116D〕梅
(ムメ) 泉式部。飛梅。座論。鴬宿―。紅―。白―。大白―。綸旨―。児―。蘇枋(スワウ)―。〔尭・草木106C〕とあって、弘治二年本と永祿二年本とが、語注記を未記載にするのに対し、尭空本は梅の異名群である「泉式部。飛梅。座論。鴬宿梅。紅梅。白梅。大白梅。綸旨梅。児梅。蘇枋
(スワウ)―梅」といった十語を記載する。このように、広本『節用集』と印度本系統の『節用集』類とにあって、「梅」の語は語注記を継承するものではないことが知られる。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
166
梅・桃 七月七日ニ西王母降ス‖帝宮ニ|禺強得∨之以立ス‖北極ニ|禺強ハ水神ノ名也。亦曰、禺強ハ人面鳥身ニシテ乗∨竜行与‖〓〔山而+頁〕〓〔王+頁〕|並軒轅ノ胤也。雖‖亦得ト|∨道不∨居帝位ニ|而為‖水神|。水ハ位ス‖北方|。故号‖北極|。命‖侍女ニ|索ム∨桃須臾ニシテ盤ニ乗‖七枝ヲ|母喫∨其ヲ以∨五与∨帝ニ今留∨検ヲ欲∨種。母云用∨此ヲ何カ為ン。此桃ハ三千年ニ一タヒ花三千年ニ結∨子ヲ。非‖下土宜キニ∨殖云々。西王母ハ女子也。身ハ如シテ∨豹ノ有∨尾。歯ハ如‖虎ノ齒|也。能々笑者也。〔謙堂文庫藏一九右F〕とあって、この「
梅」の語に関する語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』には、Vme.
ウメ(梅) ameixiasのような或る果実,または,ameixieira.§Vmenoqi.(梅の木)このameixieira.※ameixia(=ameixa)は,梅・すももの類の実であり,ameixieira(=amexieira,ameixeira)は,その実のなる木であるが,梅の実,梅の木にあてて用いている.本書の別のSimomoの条や羅葡日のPrunum;Prunus;Turbaなどの条にも,上掲の葡語を“梅,スモモ”,または,“梅,スモモノ木”に対して用いている。本書の説明中に,時にcerta(ある種の),como(…のような)を添えて用いているのも近似的にあてたことを示すものであるが,単にameixia,ameixa;ameixieiraだけを“梅”“梅の木”にあてている例が少なくない.〔邦訳692r〕とある。
[
ことばの実際]《『』》
2001年6月4日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「桃(もゝ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部や補遺の花木部にもこの語は未収載にある。『庭訓徃來』に「
桃」と見え、『下學集』も、「桃」の語は未収載にある。これを広本『節用集』は、桃
(モヽ/タウ) 末麼(モモ)合紀。桃李不∨言下自成蹊谷。△桃者五木之精也。○故壓‖伏邪氣ヲ|。制ス‖百鬼ヲ|。令人作ル‖桃符ヲ|。著門此仙木也通論。異名。仙果。仙菓。仙木。仙枝。仙花。成蹊。助嬌。爛漫(ランマン)紅。脂瞼。紅蕚。武陵花。玄都花。玄都英。陌上花。陌上紅。紅雨桃花記落如紅雨。○千年花。万歳實。不言。滴揩紅。千年花。金色花。紅桃。万歳。氷車方。村桃。瓶桃。銀桃。仙源。仙景。无言(ケン)。醉色。布綺。銀浪。洞中仙。〓〔酉+它〕顔。栽錦。桃源客。他都莫。三竊。啖吟。引客。領魂。燃火。金桃。巨核(カク)。紫叉。崖蜜。瓊液。蝋珠。紅〓〔米+参〕。絳衣。笑日。朱唇。始華。〔草木門1065A〕とあって、標記語を「
桃」とし、その語注記も『國華合紀集』『山谷詩集』『通論』を典拠とした語や句を示し、「異名」語群を持つ詳細なものとなっている。これを、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、桃
(モヽ) 桃同。〔弘・草木258B〕桃
(モヽ) 桃同。〔永・屮木220D〕桃
(モヽ) 。〔尭・屮木206E〕とあって、弘治二年本と永祿二年本とが、語注記に「桃」の異体字を載せているに留まる。このように、広本『節用集』及び印度本系統の『節用集』類に見られるのだが、『運歩色葉集』には未収載というものである。
これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
166梅
・桃 七月七日ニ西王母降ス‖帝宮ニ|禺強得∨之以立ス‖北極ニ|禺強ハ水神ノ名也。亦曰、禺強ハ人面鳥身ニシテ乗∨竜行与‖〓〔山而+頁〕〓〔王+頁〕|並軒轅ノ胤也。雖‖亦得ト|∨道不∨居帝位ニ|而為‖水神|。水ハ位ス‖北方|。故号‖北極|。命‖侍女ニ|索ム∨桃須臾ニシテ盤ニ乗‖七枝ヲ|母喫∨其ヲ以∨五与∨帝ニ今留∨検ヲ欲∨種。母云用∨此ヲ何カ為ン。此桃ハ三千年ニ一タヒ花三千年ニ結∨子ヲ。非‖下土宜キニ∨殖云々。西王母ハ女子也。身ハ如シテ∨豹ノ有∨尾。歯ハ如‖虎ノ齒|也。能々笑者也。〔謙堂文庫藏一九右F〕※「
桃」私曰坡ニ不∨見‖蟠桃着(ツク) ∨子〓(日+之)ノ□蟠―王母以四与帝三自食桃味甘美蟠―。漢武帝欲種∨之。母曰、此桃三千年一實シ帝乃止ム。西王母桃以‖七枚|与フ‖武帝|。鴛{ニ有之。〔国会図書館左貫注頭注書込み〕とあって、この「
桃」の語に関する語注記は、西王母に関る話として収載されている。国会図書館藏の左貫注の頭注書込みには、この譚の典拠書籍として『東坡集』に見えないこと、そして『韻府群玉』にあることをを示している。その当代の『日葡辞書』には、Momo.
モモ(桃) 桃,または,桃の木.〔邦訳418r〕とある。
[
ことばの実際]桃
―李不言下自成蹊詳蹊。宋世良守清河大赦郡無一囚獄中生―樹詳囚。《『韻府群玉』二103右D》方朔偸桃東都獻短人呼東――至短人曰王母種桃三千年一開花三千年一結子此兒不良三過―之矣(漢武故事)。《『韻府群玉』二103左I》2001年6月3日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢⇔昭和女子大学)
「陰陽頭(オンミャウのかみ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」部に、
隠陽頭
(ヲンヤウノカミ) 唐名祠部(シホウ)。大史令(タイシレイ)。大卜(ホク)博士ハカセ。〔元亀本81H〕陰陽頭
(ヲヤウノカミ) 唐名祠部。大史令。大卜博士。〔静嘉堂本100E〕とあって、標記語「
陰陽頭」の語注記は「唐名祠部。大史令。大卜博士」という。『庭訓徃來』に「陰陽頭」と見え、『下學集』に、陰陽頭
(ヲンヤウノカミ) 大史舎(―シヽヤ)。〔官位42F〕とあって、その語注記には「大史舎」といった
唐名を収載している。広本『節用集』は、陰陽博士
(ヲンヤウノハクシ/イン・カゲ,ミナミ,ヒロシ,サブライ) 権相當正七位下、唐名大卜正。〔官位門212D〕とあって、標記語を「
陰陽博士」とし、その語注記も「権相當正七位下、唐名大卜正」とあって、標記語・語注記ともに『下學集』を継承しない。これを、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、陰陽頭
(ヲンヤウノカミ) 大史人。陰陽博士(――――) 大卜博士。〔弘・官名63AB〕陰陽頭
(ヲンヤウノカミ) 大史舎(―シヽヤ)。陰陽ノ博士(――ノハカセ) 大卜博士。〔永・官名64H〕陰陽頭
(ヲンヤウノカミ) 大史舎。陰陽ノ博士(ヲヤウノハカセ) 大卜博士。〔尭・官名59C〕陰陽頭
(ヲンヤウノカミ) 大史舎。陰陽博士(ヲンヤウハクジ) 大卜博士。〔両・官名69C〕とあって、弘治二年本だけが、語注記の「大史舎」を「大史
人」と作る。また、『運歩色葉集』の語注記は、この印度本系統『節用集』における「陰陽博士」の語注記「大卜博士」の語も統括して収載していることが見て取れよう。「陰陽頭」の語注記も『下學集』そして『節用集』と接合するが、『運歩色葉集』は、「大史令」と異なる語を置く。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
164課
‖陰陽ノ頭|可∨被‖定下|歟 賀茂ノ安陪兩氏重代也。何モ朝家ノ器ニテ反-閉(ヘンハイ)御身固(カタタ)ナト申亊ニ拝趨ス。暦ノ博士・算ノ博士・天文道・陰陽頭等ノ司アリ。是モ醫陰兩局トス也。暦ハ天竺ニ有∨草自‖一日|生‖一葉|。至‖三十日|。生‖三十葉|。即晦日枯畢ヌ。其後自‖此草根|丁林ト云者出生ス。説‖暦道|。今ノ暦家ハ丁林カ曰ノ書也。支那ニハ自‖天元甲子|始也。天元者天地開闢ノ年、或伏犠降誕ノ年、或伏犠即位ノ年、未∨知‖是非ヲ|。日本ニ是ヲ後ニ子代看(コ―ミ)ト云。引‖丁林カ亊ヲ|。故和国暦謂‖之子代看ト|。然ニ賀茂在(ア)テ貞同在盛ハ先祖ヨリ暦道ヲ面トシテ毎年御暦ヲ調進ス。安陪安氏有季ハ晴明カ苗裔。安陪ノ泰親カ后胤也。當代ニハ天文道ヲ本トシ天変地震如∨此恠異ヲ卜イ侍。奉‖勘文|但_是ハ御定ニテ隨テハ∨時ニ何ニ仰付ラルヽモ依‖上意ニ|也。〔謙堂文庫藏一八左G〕とあって、この「
陰陽頭」の語に関する語注記はやはり、ここでも未記載にある。当代の『日葡辞書』には、Vonyo<no cami.
ヲンヤゥノカミ(陰陽頭) 同上.Vonyo<ji.
ヲンヤゥジ(陰陽師) Vranaiuo suru mono.l,facaxe.(占ひをする者.または,博士)呪術師,または,占い師.〔邦訳715r〕とある。
[
ことばの実際]陰陽頭
(オンヤウノカミ)・有驗(ウゲン)ノ高僧集(ツト)テ、鬼見(キケン)・太山府君(タイサンブクン)・星供(シヤウク)・冥道供(ミヤウダウク)・藥師(ヤクシ)ノ十二神將(ノ)法・愛染明王・一字文殊・不動慈救(フドウジク)延命(エンメイ)ノ法、種々ノ懇祈(コンキ)ヲ致セ共、病(ヤマヒ)日ニ隨テ重クナリ、時ヲ添(ヘ)テ憑(タノミ)少(ナ)ク見ヘ給ヒシカバ、御所中ノ男女機(キ)ヲ呑(ノ)ミ、近習ノ從者涙ヲ押ヘテ、日夜(ニチヤ)寢食(シンシヨク)ヲ忘(レ)タリ。《『太平記』巻第三十三・將軍御逝去事》太史
(タイシ)ハ。コナタノ陰陽(ヲンヤウ)ノ守ゾ。《寛永十年版『蒙求抄』巻三・荀陳徳星、251三》2001年6月2日(土)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢⇔昭和女子大学)
「吉日(キチニチ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、
吉日
(―ニチ) 。〔元亀本283E〕吉日
(――) 。〔静嘉堂本324E〕とあって、標記語「
吉日」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「吉日」と見え、『下學集』広本『節用集』はこの標記語を未收載にしている。これを、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、吉日
(―ニチ) 。〔弘・言語進退223C〕吉日(――) 。〔弘・時節217B〕吉書
(キツシヨ) ―慶(ケイ)。―亊(ジ)。―辰(シン)。―例(キチレイ)。―日(ニチ)。―凶。〔永・言語184E〕吉書
(キツシヨ) ―慶。―亊。―辰。―方。―例。―日。―凶。〔尭・言語118B〕とあって、弘治二年本だけが、言語進退部と時節部との両方に採録し、他写本は別標記語「
吉書」を標記語としてその「吉」の字に連関する熟語群として「吉日」を収載するに留まっている。この意味からも、弘治二年本の標記語収載では二部門にそれぞれ見られることが注目されてくる。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
163釿立
・礎居・柱立・精鉋(キヨ―)・棟ネ上之吉日者 史略云、軒轅黄帝受河圖見‖日月星辰ノ辰象|、始有‖星官ノ書|。又伶倫取‖〓〔山+解〕谷ノ竹|制‖十二律〓〔竹+角〕|、以聽‖風鳴|六〓〔此+鳥〕鳴六。以黄鐘之宮生六律六呂云々。一歳ヲ定‖十二月|也。軍ニハ葛雅川定‖兵宝福兵吉伐日ト|。李靖孤虎ヲ爲∨本。作‖金遺|類_多也。本朝ニ代々撰フ∨日ヲ雖∨多ト家ノ始仁王五十六代ノ御門自‖水尾天皇|以来也。小笠原ニモ自‖水尾|相傳ス。水尾者即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授∨之給ト云々。可∨秘也。〔謙堂文庫藏一八左B〕163釿
(チヨウナ)立・礎居(イシ―ヘ)・柱立・精鉋(キヨカナ/シラケ―)・棟上ノ之吉日者 史略ニ曰、軒轅(ケンヱン)黄帝受(ウクル)ニ河圖(カ―)ヲ見‖日月星辰ノ象(イヘ)ヲ|、始テ有‖星官{辰}ノ書|。又伶倫取テ‖〓〔山+解ガイ〕谷ノ竹ヲ|制(ツイツ)テ‖十二律(リツ)ノ笛ヲ|、以テ聽ク‖風鳴(メイ)六、〓〔此+鳥シ〕鳴ノ六|。以‖黄鐘(シキ)之宮ヲ|生ト‖六律・六呂(ホン)ヲ|云々。一歳ヲ定ル‖十二月ニ|也。軍ニハ葛雅川(カツチセン)定‖兵宝・兵福・兵吉・伐(ハツ)-日ト|。李靖(リセイ)カ孤虚(コキヨ)ヲ爲∨本ト。作ル‖金遺(キンイ){書也}ヲ|類多也。本朝ニハ代々撰(エラフ)コト∨日ヲ雖∨多ト、當家ノ始メ仁王五十六代ノ御門、自‖水尾(ビ)天王|以来也。小笠原(ヲカサハラ)ニモ自‖水尾|相傳コト。水尾ハ者、即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授(サヅケ)∨之給ト云也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』〕△吉日ノ見様ハ保、義、専、請、伐、平五ノ中也。一ツ虚孤ノ方、孤ノ上ニ坐スル者ハ勝。虚ノ上ニ坐スル者ハ負ル。甲子ヨリ十日、先。孤ハ子丑、虚ハ午未申辰巳(ミ)。虚ハ戌亥。甲申十日、孤午未。虚ハ子丑申戌十日、孤申酉、虚乕卯終。△葛稚川選出也。兵宝日ハ上吉。乙巳丁未、己酉、辛亥、癸卯。△兵福日ハ中吉。乙亥、丁卯、己巳、庚辰、辛丑、癸酉。△兵吉日ハ下吉。乙丑、丁酉、己亥、辛卯。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』頭注書込み〕葛稚川選出也。兵宝日上吉。乙巳、丁未、己酉、辛亥、癸卯。兵福日中吉。乙亥、丁卯、己巳、庚辰、辛丑、癸酉。兵吉日下吉。乙丑、丁酉、己亥。此日出
∨師討代勝日也。李靖孤虚方金匱云寧与千金莫∨視∨孤。甲子ヨリ旬日ハ孤ハ在‖戌亥|。虚ハ有‖辰巳|。甲戌ヨリ旬日孤在‖申酉|。虚在乕卯。甲申ヨリ旬日、孤在‖午未|。虚在子丑在‖辰巳|。虚在‖戌亥|。申辰旬日孤在‖乕卯ニ|。虚在申酉甲乕旬日孤ハ在‖子丑|。虚在‖午未|。此方ニ不向也。向孤負ル向虚勝ツ。〔国会図書館藏左貫注頭注書込み〕とあって、この語に関する語注記はやはり、ここでも未記載にある。後の書き込みではあるが、静嘉堂本『庭訓徃來抄』には上記のような注記が見えている。
当代の『日葡辞書』には、
Qichinichi.
キチニチ(キチニチ) 運のよい,あるいは,さいさきのよい,めでたい日.〔邦訳494l〕とある。
[
ことばの実際]今日
(ケフ)ヤ明日(アス)ヤト吉日ヲ撰(エラビ)ケル處ニ、英時(ヒデトキ)、小貳ガ隱謀(インボウ)ノ企(クハダテ)ヲ聞(キヽ)テ、事ノ實否(ジツピ)ヲ伺見(ウカヾヒミ)ヨトテ、長岡(ノ)六郎ヲ小貳ガ許(モト)ヘゾ遣(ツカハ)シケル。《『太平記』卷第十一、筑紫合戰事》是
(コレ)ハ細川刑部(ノ)大輔目ニ餘ル程ノ大勢也ト聞(キヽ)、「中々何トモナキ取集勢(トリアツメゼイ)ヲ對揚(タイヤウ)シテ合戰ヲセバ、臆病武者(ムシヤ)ニ引立(ヒキタテ)ラレテ、御方(ミカタ)ノ負(マケ)ヲスル事有(アル)ベシ。只一騎當千ノ兵ヲ勝(スグツ)テ敵ノ大勢ヲ懸破(カケヤブ)リ、大將細川刑部(ノ)大輔ト引組(ヒツクン)デ差違(サシチガ)ヘントノ謀也。サラバ敵ノ國中ヘ入(イラ)ヌ先(サキ)ニ打立(ウツタテ)」トテ、金谷(カナヤ)修理(ノ)大夫經氏ヲ大將トシテ、勝(スグツ)タル兵三百騎、皆一樣(イチヤウ)ニ曼荼羅(マンダラ)ヲ書(カキ)テ〓(ホロ)ニ懸(カケ)テ、兎(ト)テモ生(イキ)テハ歸(カヘル)マジキ軍(イクサ)ナレバトテ、十死一生ノ日ヲ吉日(キチニチ)ニ取(トツ)テ、大勢ノ敵ニ向ヒケル心ノ中(ウチ)、樊〓(ハンクワイ)モ周勃(シウボツ)モ未(イマダ)得(エザル)振舞(フルマヒ)也。《『太平記』卷第二十二、義助朝臣病死事付鞆軍事》2001年6月1日(金)曇り。東京(八王子)⇒浅草橋
「棟上(むねあげ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「無」部に、
棟上
(ムネアゲ) 。〔元亀本175G〕棟上
(ムネアケ) 。〔静嘉堂本195G〕棟上
(ムネアケ) 。〔天正十七年本中27ウD〕とあって、標記語「
棟上」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「棟上」と見え、『下學集』はこの標記語を未收載にしている。広本『節用集』は、棟上
(ムネアゲ/トウシヤウ) 家(イエ)ノ祝(イワイ)。〔態藝門463B〕とあって、この語を態藝門に収載し、その語注記に、「家の祝い」という。これを、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
棟上
(ムネアケ) 家祝。〔弘・言語進退147B〕棟上
(ムネアケ) ―別(ベツ)。〔永・言語118B〕〔両・言語131C〕棟上
(ムネアゲ) ―別。〔尭・言語118B〕とあって、弘治二年本だけが広本『節用集』の語注記「家(の)祝い」を継承し、他写本は別標記語「
棟別」を注記語として置くに留まっている。この意味から弘治二年本の語注記は特逸するものであり、広本『節用集』との連関度合いが密となっていることを知らしめている。このことで『節用集』の編纂改編増補に影響を与えているものとして、鎌倉時代の『色葉字類抄』の影響が期待されるところであるが、この標記語は未收載にあり、今の調査段階では、広本『節用集』の編纂者自らが記述した注記内容ということになろうか。そして、これを継承するのが弘治二年本ということになる。これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、
163釿立
・礎居・柱立・精鉋(キヨ―)・棟ネ上之吉日者 史略云、軒轅黄帝受河圖見‖日月星辰ノ辰象|、始有‖星官ノ書|。又伶倫取‖〓〔山+解〕谷ノ竹|制‖十二律〓〔竹+角〕|、以聽‖風鳴|六〓〔此+鳥〕鳴六。以黄鐘之宮生六律六呂云々。一歳ヲ定‖十二月|也。軍ニハ葛雅川定‖兵宝福兵吉伐日ト|。李靖孤虎ヲ爲∨本。作‖金遺|類_多也。本朝ニ代々撰フ∨日ヲ雖∨多ト家ノ始仁王五十六代ノ御門自‖水尾天皇|以来也。小笠原ニモ自‖水尾|相傳ス。水尾者即自‖八幡大菩薩|夢中ニ授∨之給ト云々。可∨秘也。〔謙堂文庫藏一八左B〕とあって、この語に関する語注記はやはりここでも未記載にある。
時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』は、
棟上
(むねあげ)△棟上ハ普請の組納なり。釿立より以下の五ツの事皆吉日を撰てする也。〔十九ウE〕と注記し、頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』、そして『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、
棟上
(むねあげ)△棟上ハ家(いへ)の組納(くミをさめ)は吉日をえらひてなすことなり。〔十六ウC〕棟上
(むねあげ)△棟上ハ家(いへ)の組納(くミをさめ)は吉日をえらびてなすことなり。〔二十九オC〕とある。
当代の『日葡辞書』には、
Muneague.
ムネアゲ(棟上) 家の棟木を上げること.〔邦訳432r〕とある。
[
ことばの実際]今日、鞍馬寺
棟上なり。《『中右記』大治二年七月十日》UP(「ことばの溜め池」最上部へ) BACK(「言葉の泉」へ)
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