2001年7月1日から7月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2001年7月31日(火)晴れ。東京(八王子)⇒

招居(まねきをき・まねきすへ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』にあって、「招居」のような和訓熟語をどのように収載しているかといえば、

(マネグ)。〔元亀本210四〕     (スユル)。〔元亀本362五〕  (ヲル) 座。 〔元亀本85十〕

(マネグ)。〔静嘉堂本239七〕    (スユル)。〔静嘉堂本441七〕 (ヲル) ―座。〔静嘉堂本105四〕

(マネグ)。〔天正十七年本中49オ三〕 ×                (ヲル) ―座。〔天正十七年本上52オ三〕

というように、それぞれを単漢字として収載する。まず「滿」部に、「」。そして、「須」部と「於」部に「」が見えている。その語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「招居」と見え、『下學集』には、こういう語は未收載にある。これを広本節用集』は、

招居(マネキスヱ/テウキヨ)[平・平] 。〔態藝門574六〕

とあって、『庭訓徃来』を継承している。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

(マネク) 。〔・言語進退170三〕 (スユル) ―關。(同) ―膳。〔・言語進退271一〕

(マネク) 。〔・言語140四〕   (スユル) ―關。(スユル) 膳。〔・言語232六〕

(マネク) 。〔・言語129七〕   (スユル) 關。(同スユル) 膳。〔・言語218五〕

とあって、『運歩色葉集』と同じく、単漢字に分字して収載するものである。また、易林本節用集』、増刊節用集』には、

(マネク) 。(同)。〔・言語143二〕 (スユル) ―鷹ヲ。家―。〔・言語242二〕 (ヲリ)。(同) 。〔・言語64二〕

(マネク) 。〔・言語上58オ六〕     ×                      (ヲル) 処。〔・言語上23ウ五〕

とあって、これも分字による収載であって、語注記は「」の字に「関を据ゆる」の例を示している。このように、広本節用集』を除く多くの古辞書が分字方式を選択するなか、広本節用集』だけが「招居」と和訓熟語「まねきすゑ」として記載をしていることは注目しておかねばなるまい。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には疉字門に、

マネク麾招(せウ)枕速。桑大口反。―遠朋也。已上同。〔黒川本中93ウ一〕

ヲリ住坐廬處止在宛巣宙宋〓〔門+千〕閭房宅〓〔广+宅〕タク〓〔處+几〕〓〔足+厘〕土集里〓〔十+回〕度已上同。〔黒川本上65オ八〕

マネク。―呼也。来也。連イ。已上同〔卷六583五〕

ヲリ居住徊里廬止在宛度巣宙宋采〓〔門+千〕閭房〓〔广+宅〕宅劇〓〔處+几〕〓〔足+厘〕土集處恩已上同。ヲリ。〔卷三66二〕

とあって、「まねく」は見えているが、「すゆる」は見えない。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、贄菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

とあって、「招居」の読みは謙堂文庫本では、「まねきをく」と「まねきすへ」という二通りの読みが見えている。語注記は、未記載にある。ここを古版『庭訓徃来註』に、

絹布(ケンフ)之類(タクヒ)(ニヱ)菓子(クワシ)ル‖賣買(バイバイ)之便(ヤウ)キ∨(ハカラ)ハ招居(マネキスヘ)(トモカラ)ハ者 絹布(ケンフ)ノ(タグヒ)(ニヱ)ノ菓子、常ニアルコトナリ。〔三十オ七・八〕

とあって、「招居」の読みは、「まねきすへ」の読みだけになっている。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

(まね)き居(すへへき)の輩(ともから)/可招居。御願所の市町へ呼よせ住居さすへき者共ハ下文の如し。〔廿三オ五〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Maneqi,u.マネキ,ク,イタ(招き,く,いた) 手を振って合図をする.§Fitouo maneqiyosuru.〔人を招き寄する〕手でさしまねく合図をして人を呼ぶ.§比喩.Batuo manequ.(罰を招く)自ら裁きと罰を受けるようにする.§Vazauaiuo manequ.(禍を招く)難儀や損失などを招く,あるいは,ひき起こす.⇒Gai(害).〔邦訳383l〕

Suye,yuru. スヱ,ユル,エタ(居・据ゑ,ゆる,ゑた) 物を置く,あるいは,据えつける.§Tacauo suyuru.(鷹を居ゆる)鷹を手に捕らえる,あるいは,手に取って持つ.§Gibanuo suyuru.(地盤を居ゆる)決定する,あるいは,設定する.§Fanuo suyuru.(判を据ゆる)署名する.§Lenuo suyuru.(膳を据ゆる)食卓〔膳〕を据える。§Ginuo suyuru.(陣を据ゆる)陣営を設定する.§Suuo suyuru.(酢を据ゆる)酢を作る.§Yaito>uo suyuru.(やいとうを据ゆる)灸を据える.§Xeqiuo sutyru.(関を据ゆる)関所を設ける,または,通行税〔関銭〕を取る,または,大勢の人々が通る通路をせき止め押さえる.§Comauo suyuru.(駒を据ゆる)馬をとどめる.§Yumino fazuuo suyuru.(弓の弭を据ゆる)弓の先端〔弓弭〕を少しばかり切り取る.§Yumiuo suyuru.(弓を据ゆる)弓を外側へ少し曲げて,矯正する.※原文はbotoes de fogo.〔Qiu>の注〕⇒Fara(腹);Giban;Ixizuye;Qeigo.〔邦訳593l〕

とそれぞれの単語レヴェルでの収載が見られる。

[ことばの実際]

2001年7月30日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「売買(バイバイ・マイバイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」と「滿」部に、

賣買(マイバイ)。〔元亀本25五〕      賣買(マイバイ)。〔元亀本206九〕

賣買(バイバイ)。〔静嘉堂本23二〕     賣買(マイバイ)。〔静嘉堂本235三〕

賣買(バイ/\)。〔天正十七年本上12ウ五〕 賣買(マイハイ)。〔天正十七年本中47オ三〕

賣買(ハイ/\)。〔西來寺本42五〕     ×

とあって、標記語「賣買」は、波部に元亀本だけが読みの表記を唐宋音「マイバイ」と表記し、他三本は漢音「バイバイ」と読んでいる。さらに、諸本「滿」部にも「マイバイ」を収載するものであり、その語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「賣買」と見え、『下學集』には、

買賣(バイバイ) 。〔態藝90三〕

とあって、標記語を「買賣」と上下逆にし、語注記は未記載にある。この点については、古写本『下學集』において、

1、「賣買」春林本147三、春良本 78二「マイバイ/ウリカウ」。

2、「買賣」亀田本 69三、東京教育大本 75三、文明十一年本 59七、榊原本 47八、前田家本 48四、文明十七年本 17一「バイマイ」。

といったように、多くの古写本が2の「買賣」表記にあるのに対し、春林本及び春良本は1の「賣買」をもって収載しているのである。何故『下學集』だけが2のような表記を用いたのかを考えておく必要がある。(中国資料に「買賣」の語は『廣漢和辞典』によれば、『戦国策』趙に、「夫良商シテ三與買賣之賈、而謹ンデ」とある)。これを広本節用集』は、

賣買(ハイバイ/ウル、カウ)[上・○] 。〔態藝門80四〕

とあって、『庭訓徃来』を継承している。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

賣買(バイバイ/ウリカウ) 。〔・言語進退25一〕

賣買(マイバイバイ/ウリカウ) 。〔・言語23五〕

賣買(バイ/\) 。〔・言語20九〕

賣買(バイバイ) 。〔・言語25二〕

とあって、四本とも「バイバイ」の読み表記が基本にあり、弘治二年本永祿二年本は、左訓に「うりかう」という和訓読みを添える。永祿二年本は、右訓に「マイ―」の読みをも添えていて、この時代の読みが二種類あったことを示唆している。だが、下記に示した『日葡辞書』には、「マイバイ」は未記載にある。こうした点から「マイバイ」の読みは、「バイバイ」の読みに対比してみた時、ある特殊性を帯びているものであることが見えてくる。残念ながら、近代の大槻文彦編『大言海』や現代の小学館『日本国語大辞典』第一版に「マイバイ【売買】」の項目は見えない。新潮国語辞典』そして、角川古語大辞典』に辛うじて「マイバイ【売買】」の項目を見るのである。だが、唐宋音読みの「マイバイ」の語が漢音読み「バイバイ」とどういう異なりで、どのように受容されていたのかを記載するものはまだない。今後当代の「座」や「交易」に関係する記録資料などをもとにさらなる“ことばの位相”について考えてみることとなる。

また、易林本節用集』、増刊節用集』には、

賣買(バイバイ) 。〔・言語22七〕

賣買(バイハイ) 。〔・言語上9ウ一〕

とあって、標記語の読みは漢音表記「バイバイ」「バイハイ」が記載され、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には疉字門に、

賣買 資{用}糧ト。ハイハイ。商賣。〔黒川本上26ウ七〕

賣買。〔215六〕

とあって、唐宋音「マイバイ」はまだ見えていないことが分かる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、贄菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

ル‖賣買(マイハイ)之便〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「賣買」の語注記は、未記載にある。ただ、真字注諸本における読み表記にあって、多くが無表記にあるなかで「バイバイ」そして「マイバイ」の両用が僅かであるが見えていることからして、その読み方は異なるが意味は同じであることが知られてくる。とすれば、“ことばの位相”という観点からこの語を考察することが尤も望ましいと考えるに至った次第である。ここを古版『庭訓徃来註』に、

絹布(ケンフ)之類(タクヒ)(ニヱ)菓子(クワシ)ル‖賣買(バイバイ)之便(ヤウ)キ∨(ハカラ)ハ招居(マネキスヘ)(トモカラ)ハ者 絹布(ケンフ)ノ(タグヒ)(ニヱ)ノ菓子、常ニアルコトナリ。〔三十オ七・八〕

とあって、「賣買」の語注記は未記載である。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

賣買(ばい/\)/贄有賣買之便之樣可相計也 。賣買ハうりかいと讀。うりかいのかね都合よろしき根に道筋根をつけよと也。〔廿三オ三・四〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Baibai.バイバイ(売買) Vri co<.(売り買ふ)売り買いすること,すなわち,商売.§Baibaiuo itasu.(売買を致す)商売をする.〔邦訳47l〕

とある。

[ことばの実際]

依之農民耕作ヲ棄(ステ)ズ、商人(アキンド)賣買ヲ快(ココロヨク)シケル處ニ、此(コノ)高家敵陣ノ近隣ニ行(ユキ)テ青麥(アヲムギ)ヲ打刈(ウチカラ)セテ、乘鞍(ノリクラ)ニ負(オフ)セテゾ歸(カヘリ)ケル。《『太平記』卷第十六・小山田太郎高家刈青麥事》

(コノ)爲ニ宋朝(ソウテウ)ヘ寶(タカラ)ヲ被渡シカバ、賣買(バイバイ)其利(ソノリ)ヲ得テ百倍(バイ)セリ。《『太平記』卷第二十四・天龍寺建立事》

2001年7月29日(日)曇り。東京(八王子)⇒多摩境

「贄(にへ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「丹」部に、

(ニエ) 。(同) 。(同) 。〔元亀本41二〕

(ニヱ) 。(同) 。(同) 。〔静嘉堂本45二〕

(ニヱ) 。(同) 。(同) 。〔天正十七年本上23オ四〕

(ニヱ) 。(同) 。(同) 。〔西來寺本74三〕

とあって、標記語「」は、同語である「」と「」の語との間に排列され、語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「」と見え、『下學集』には、

(ニヱ) 祭供。〔神祇門35六〕

とあって、神祇門にこの語を収め、語注記に「祭供」という。広本節用集』も、

(ニヱ/)[去] 祭供(サイクウ)。〔神祇門86五〕

とあって、『下學集』を継承する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

(ニエ) 祭礼供物。〔・財宝28五〕

(ニヱ) 。〔・財宝31二〕

とあって、これを収載するのは、弘治二年本両足院本とだけに留まり、いずれも「財宝」門に置く。語注記は、弘治二年本が「祭供」の語を「祭礼供物」と明らかな注記へと編成していることが注目視される。これは下記略図式で示すように、伊勢本系統『節用集』からの継承語注記であり、天正十八年本節用集』そして、易林本節用集』などに見えている。そして、両足院本には語注記は未記載にあるというぐあいに、印度本系統のなかにあって、この語の収載方法については、大いに異なりがあることが分かる。そして、永祿二年本尭空本とがこの語を採択していないことも『運歩色葉集』との連関性から見たとき重要であり、逆に『運歩色葉集』のほうは、上記に記したごとく「」と「」との語を併せ、その間に「」を収載するといった増補するといった編纂方針がここに提示されている。このように「贄」なる語について当代の特質性のある古辞書が全く異なる辞書編纂の姿勢を見せている点にある。また、易林本節用集』、増刊節用集』には、

(ニヱ) 祭礼供物。〔・器財26七〕〔・言語上10ウ七〕

とあって、弘治二年本と共通する語注記「祭礼供物」が用いられていて、両本の連関度がこの語を通じて見えてくるのである。ここで、上記の事柄を再度まとめてみるに、

庭訓徃來』語「」⇒[神祇]『下學集』「 祭供」⇒[神祇]広本節用集』「 祭供」

   |                         →[財宝/器財]天正十八年本弘治二年本=易林本節用集』「 祭礼供物」

      |                         →[言語]増刊節用集』「 祭礼供物」

      |                         →[財宝]両足院本節用集』「

      |                         ×永祿二年本尭空本節用集

   『庭訓徃來註』―……………………………………………………→『運歩色葉集』「

といった、略図式が見えてくるのである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には飲食門に、

(シ) ニヘ。〔黒川本上三〇ウ二〕

ニヘ。〔卷二262六〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

(ニヱ)―魚肉(ニク)ノ類也。〔天理図書館藏『庭訓往来註入』書込み〕

とあって、「」の語注記は、未記載にある。ここを古版『庭訓徃来註』に、

絹布(ケンフ)之類(タクヒ)(ニヱ)菓子(クワシ)ル‖賣買(バイバイ)之便(ヤウ)キ∨(ハカラ)ハ招居(マネキスヘ)(トモカラ)ハ者 絹布(ケンフ)ノ(タグヒ)(ニヱ)ノ菓子、常ニアルコトナリ。〔三十オ七・八〕

とあって、ただ「絹布の類ひ。の菓子、常にあることなり」という。『庭訓私記』(天理図書館藏、天正十年写)に、

魚肉類。

とあって、天理図書館藏『庭訓往来註入』書込み語注記に共通する。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

(にゑ)/贄菓子 舊注に、煮(にへ)熟(しゆく)したる菓子なりといえり。ある説にハ神に供(そな)へ人に送るへきくだ物なりといえり。〔廿三オ二・三〕

とある。また、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)には、

贄の菓子(にえのくわし)贄菓子ハ調進(てうしん) の品(しな)也。〔十九オ三〕〔三十三ウ三〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Niyedono.ニエドノ(贄殿) 台所.〔邦訳468l〕

とあって、「贄」そのものについては未収載にある。

[ことばの実際]

 亦作摯或作質[説文]至也(左)周鄭交質(孟)出疆載ー(左)男女同ー是無別也(莊廿四)《『韻府群玉』ゥ韻・四034左C》

それ弓の益と言(い)つぱ、遠くは外国の敵(あた)を退(しりぞ)け、近は田猟し禽獣を得て、我先君の(にへ)の助(たす)けをなせり。《仮名草子集『是楽物語』上・新大系214L》※神・天子にささげものをする意を君に対して使う。

2001年7月28日(土)曇り。東京(八王子)⇒

「絹布(ケンプ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に標記語「絹布」は未収載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「絹布」と見え、『下學集広本節用集』も、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』標記語「絹布」を未收載にある。そして、当代の古辞書のなかにあって、下記分類門系統別2Aとした『塵芥』と易林本節用集』だけには、

絹布(ケンフ) 。〔『塵芥』食服門263五〕〔・食服門145一〕

と標記語「絹布」を收載している。その語注記は未記載とする。何故この『庭訓徃來』にある「絹布之類」が当代古辞書の標記語に未收載としたかであるが、『下學集』にあって、分類門の第十一の名称として「絹布門」があり、これを統括総称語としてその類の標記語が「金襴・金紗・金羅・北絹・段子……・白張・襌」とあって、94語(元和本)をここに収載するのである。この分類門名称を広本節用集』は、継承する。だが、印度本系統の『節用集』類は、この分類門名称を用いないのである。であれば、この語を標記語として残すべきであるがこれをもしない編纂姿勢がここにはある。こうしたなか、易林本節用集』は、この「絹布門」と次の「飲食門」を捨て去り、替りにこの二門を合体した「食服」門を設け、この「計」部に「褻衣」の次にこの「絹布」の語を収載したということになる。当代の辞書分類門の意識的削除・異同と、その分類名称語の取り扱いに大いに異なった編纂姿勢をここに読み取ることができるのである。その意味で、当代の古辞書の流れを測るに、

1、『下學集』に見られる「絹布門」がそのまま継承された系統「絹布」未収載⇒広本節用集

2、『下學集』に見られる「絹布門」が他の門と合併し、異称門「食服」となった系統A「絹布」収載⇒『塵芥易林本節用集

  『下學集』に見られる「絹布門」が他の門と合併し、異称門「食服」となった系統B「絹布」未収載⇒広島大学藏『増刊節用集

3、『下學集』に見られる「絹布門」が削除され、まったく別名称「財宝」とした系統「絹布」未収載⇒伊勢本天正十八年本節用集』・印度本系統の『節用集』など

と区分されくる。こうしたなか、意義分類門を掲載しない『運歩色葉集』は、上記3の系統に付随するのである。この3の編纂立場を考えるうえで、「財宝門」は、『下學集』の「絹布門」「器財門」の二部門を合併処理するもので、この際「飲食門」は、「食物門」という名で別分類にしたのである。すなわち、人の身に纏う物と手にし足にし使う物とを一つとし、口にするものを別立てとしている。「財」は「器財」であり、「宝」は「絹布」である。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、贄菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

とあって、「絹布」の語注記は、未記載にある。ここを古版『庭訓徃来註』に、

絹布(ケンフ)之類(タクヒ)、贄(ニヱ)菓子(クワシ)ル‖賣買(バイバイ)之便(ヤウ)キ∨(ハカラ)ハ招居(マネキスヘ)(トモカラ)ハ者 絹布(ケンフ)ノ(タグヒ)。贄(ニヱ)ノ菓子、常ニアルコトナリ。〔三十オ七・八〕

とあって、ただ「絹布の類ひ。贄の菓子、常にあることなり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

絹布の類(けんふのるい)/絹布之類 絹ハきぬ。布ハ麻(あさ)也。〔廿三オ二〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Qenpu.ケンプ(絹布) Qinu,nuno.(絹,布) ある種の薄い織物と,ある種の麻布と.※原文はpecadelgada.別条Qinu(絹)に条には,Peca de seda delgada(薄い絹の織物)となっている.〔邦訳496r〕

とある。

[ことばの実際]

けんふの梨。「玄圃(けんほ)の梨」をいうに、「けんふ」すなわち「絹布」のごとき白くやわらかな梨と表現したものか。《仮名草子集『尤之双紙』上、二十三「大切なる物のしなじな」》

又飢タル乞食(コツジキ)、疲レタル訴詔人(ソセウニン)ナドヲ見テハ、分(ブン)ニ隨(シタガ)ヒ品(シナ)ニ依テ、米錢絹布(ケフ)ノ類ヲ與ヘケレバ、佛菩薩ノ悲願ニ均(ヒトシ)キ慈悲ニテゾ在(リ)ケル。《『太平記』卷第三十五「京勢重南方發向事仁木沒落事」》

2001年7月27日(金)曇り。東京(八王子)⇒

「見世棚(みせだな)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「美」部に、

見世棚(ミせダナ)。〔元亀本302一〕

見世棚(ミせダナ)。〔静嘉堂本351六〕

とあって、標記語「見世棚」とし、語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「見世棚」と見え、『下學集』は、

見世棚(ミせダナ)。〔家屋門54五〕

とあって、標記語を「見世棚」として、『庭訓徃來』の語を収載し、語注記は未記載とする。広本節用集』も、

見世棚(ミせダナ/ケン,せイ・ヨ,ホウ) [去・去・平]。〔家屋門887八〕

とあって、『下學集』に従い、標記語を家屋門に「見世棚」とし、読みを「みせだな」にして、その語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』も同じ形態で、

見世棚(ミセダナ) 。〔・天地231一〕

見世棚(ミセタナ) 。〔・天地192四〕

見世棚(ミセダナ) 。〔・天地181八〕

とあって、『下學集』、広本節用集』と同じく標記語のみで収載し、分類を天地門としている。そして、易林本節用集』は、未收載とする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、贄菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

とあって、「見世棚」の語注記は、未記載にある。ここを古版『庭訓徃来註』に、

見世棚(ミせタナ)ヲハ。食事ヲ出ス店(タナ)也。〔三十オ六・七〕

とあって、「食事を出す店なり」という。『庭訓私記』(天理図書館藏、天正十年写)に、

見世棚先食物店云也。

とあって、古版『庭訓徃来註』の注記にほぼ共通する。ただ異なるところは、「食事」を「食物」としていることである。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

見世棚(みせたな)見世棚 。〔廿三オ一〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「見世」そして「見世棚」は、

Mixe.ミセ(見世) 種々の売物を並べる店,棚,または,板.§Mixeuo dasu.(見世を出す)店,または,棚を構える.§Mixeuo torivoqu,l,fazzusu.(店を取り置く,または,外す)店を取り除ける,または,取り壊す.※原文はpartieiro(=prateleira).〔邦訳412r〕

Mixedana. ミセダナ(見世棚)売物の品物を並べて置く店,または,棚. ※原文はpartieiro(=prateleira).〔邦訳412r〕

とある。

[ことばの実際]

2001年7月26日(木)曇り。東京(八王子)⇒新宿

「辻小路(つぢこうぢ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「津」部に、「辻小路」の標記語は未収載にある。ただ、

辻子(ツジ)。〔元亀本157五〕 (ツジ)。〔元亀本160六〕

辻子(ツジ)。〔静嘉堂本172五〕 (ツシ)。〔静嘉堂本176五〕

とあって、熟語「辻子」単漢字語「」として収載し、「古」部に「小路」の標記語は排列していない。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「辻小路」と見え、『下學集』は、「辻小路」の標記語は、未収載にある。広本節用集』は、

(ツジ)[上]。〔天地門409八〕 小路(コウヂ/セウロ・ホソシ,ミチ)[○・去]。〔天地門409八〕

とあって、それぞれ標記語として見え、その語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』も同じ形態で、

(ツジ) 路。〔・天地125三〕 小路(コウヂ)。〔・天地184三〕

(ツヂ) 。〔・天地103三〕 小路(コウヂ)。〔・天地151二〕

(ツジ) 。〔・天地93六〕 小路(コフヂ)。〔・天地141二〕

(ツジ) 。〔・天地114一〕

とあって、広本節用集』と同じく標記語のみで収載する。そして易林本節用集』も、

(ツジ) 。〔乾坤102六〕 小路(コフヂ)。〔乾坤153五〕

とあって、同じ形態にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、贄菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

とあって、「辻小路」の語注記は、未記載にある。『庭訓私記』(天理図書館藏、天正十年写)に、

小路トハ十文字八方、道ヲ云ト云ヘリ。

とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

辻子小路(つじこうじ)/市町者通辻小路| たて横(よこ)の道交(まじ)りたる所を辻子と云なり。大路より脇(わき)へ行へき枝道を小路といふ也。〔廿二ウ八〕

とある。また、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)には、

辻子小路(つしこうち)辻子ハ街(かハ)也。俗(そく)にいふ四ツ辻(よつゝぢ)(こゝ)に大道(だいたう)を指(さ)す。▲小路ハ枝道(えだミち)也。〔十九オ三〕〔三十三ウ二・三〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「辻小路」は、

Tcu<ji.l,Michi tcuji.(ママ) ツゥジ,ミチツジ(辻.または,道辻) 道の交差点.§Atamano tcuji.(頭のつじ)頭のてっぺん〔つむじ〕.※Tcuji(ツジ)の誤り.〔邦訳626l〕

Co>gi.コゥヂ(小路) Chijsai michi.(小さい路)狭い街路,または,狭い横道.⇒Machi〜;Xo>gi.〔邦訳141r〕

とあって、「辻」の語は読み方を「Tcu<ji」としていて、本来の発音にあって聞き取りが「ツジ」を「ツゥジ」と聞き取ったものであろう。そして「小路」もあってそれぞれ収載している。

[ことばの実際]

2001年7月25日(水)朝雨のち晴れ。北海道(苫小牧・北大演習林⇒ウトナイ湖⇒千歳空港)⇒東京

「市町(いちまち)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

市町(イチマチ) 人皇卅代持統天皇之時諸國也。〔元亀本14四〕

市町(イチマチ) 人皇卅代持統天王之時諸国――始也。〔静嘉堂本7三〕

市町(イチマチ) 人皇卅代持統(チトウ)天皇之時諸国――始也。〔天正十七年本上5ウ八〕

※西來寺本は未収載。

とあって、標記語「市町」の語注記は、「人皇卅代、持統天皇の時、諸國に始るなり」という。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「市町」と見え、『下學集』は、「市町」の標記語は、未収載にある。広本節用集』も、「市町」は未記載とし、単に「」と「」として、

(イチ/)。齊(せイ)ノ桓公(クワンコウ)ノ(トキ)、桓仲初之毎月六度立ルヲ也。異名關?〓〔門+貴〕(クワンクワイ)市門垣――。噬?(セイカウ)。貨遂(クワスイ)。井中(せイ―)。大路。隘塗(アイト)水路。廣塗大路。〔天地門4七〕

(マチ/チヤウ)[平]。〔天地門566八〕

とあって、「」の語注記は「齊の桓公の時、桓仲初めて之を立つ。毎月六度立るを市と云ふなり」とし、異名語群をその注記末尾に配置する。「町」は語注記を未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』も同じ傾向であり、語注記を未記載にする。そして易林本節用集』は、未收載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

195定被遵行歟。市町者 佛作也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

○一月ニ六度也。○毎日也。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』書込み〕

とあって、「市町」の語注記は、「市は佛、作るなり」という。古版庭訓徃來註』には、

市町(イチマチ)ノ之興行(コウギヤウ)ト云事市(イチ)ノ起(ヲコ)リ。天竺ニテハ。檀毘尼園(ダンビニヲン)トテ。善見長者ト云人建(タテ)シナリ。諸(モロ/\)ノ寳(タカラ)ヲ集(アツメ)テ國土ノ人ニ買(カハ)せテ冨貴(フツキ)サせシナリ。此人ハ慈悲(ジヒ)第一ノ人也。麻耶夫人(マヤブニン)ノ父(チヽ)釋迦(シヤカ)ノ祖父(ヲフヂ)也。彼(カ)ノ人市ト云事ヲ仕出シ給リ。大唐ニハ。周(シユウ)ノ國ノ傍(カタハラ)ニ羊(ヤウダ)ノ市(イチ)ト云ヲ禹風(ウフウ)ト云シ者ノ建始(タテハジメ)シ也。彼ノ禹風ハ常(ツネ)ニ酒ヲ造テ沽(ウリ)ケリ。正直(ジキ)憲法(ケンバウ)ノ者ニテ終ニ利潤(リジユン)ヲ不(トラ)。然処ニ細々夜々紛(マギレ)テ人來テ酒ヲ買(カウ)事アリ。彼ガ姿(スガタ)ヲ見ニ常ノ人ニ非ズ。貌紅ニカシケテ。サスガ。ウルワシク見ヘタリ。衣裳(イシヤウ)モ人ニタクヱズ。頭(カシラ)ハヲドロノ如シ。又酒ヲ飲ム事限(カギ)リナシ。或(アル)(トキ)禹風(ウフウ)問テ曰。汝ハ何クヨリ來ルゾ。名ヲバ如何(イカン)ト云ゾト問ケレバ。今ハ何ヲカ慎(ツヽシム)ベシ。吾ハ大海ノ頭(ホト)リニ住ム猩々(シヤウジヤウ)也ト云。明日ノ暮(クレ)ホドニ潯陽(ジンヤウ)ノ江(エ)ノホトリニ御座(マシ)マせ。今一度我本体ヲ顕シテ御目ニ懸(カケ)ント云カト見レバ。其主ハ掻消(カキケス)様ニ失(ウせ)ニケリ。禹風(ウフウ)(ケウ)(サメ)テ。忙然(バウ―)トシテ居(イ)タリケリ。明日ノ暮(クレ)ホドニ成シカバ。彼ガ教(ヲシヘ)ノ如クジンヤウノ江ノ邊(ホトリ)ニテ見ニ。彼(カ)ノジンヤウノ江ト申ハ。横巨(ワウキヨ)ト云海ノ片(カタ)入江(エ)ナリ後ニハ。長山峨々ト聳(ソヒヘ)テ雲波(ウンハ)一ツニ催(モヨヲ)せリ。汀(ナキサ)ニハ波瀾(―ラン)稠波(チウ―)也。イブせキ事限(カキリ)ナシ。漸(ヤヽ)(シバラク)有テタソカレ時ノ程ニ。海中動揺(ドウヨウ)シヒカメク事。電光(デン―)ニ似タリ。潮(ウシホ)ハ雪(ユキ)ノ山ヲタヽンデ渺々(ヘウ―)タリ。ヤヽシバラク山海ヲ動カシテ。一ノ化生(ケシヤウ)ノ者出現ス。形(カタチ)ヲ見レバ。其ノ体(タイ)鬼人ニ似タリ。頭(カシ)ラハ乱(ミタレ)テヲドロノ如ニシテチヽメリ。顔(カホ)ハアラクマシクシテ。皺(シハ)メリ。赤(アカ)キ事丹(タン)ヲ塗(ヌ)ルガ如シ。衣裳(イシヤウ)ハ。濃(コマヤカ)タル薄(ハク)ノ頒(ミダレ)タルカ如シ。浪(ナミ)ノ間近(マ―)クヨレルヲ見ハ。大ナル瓶(カメ)ヲ抱(イタヒ)テ上ル。此瓶ヲ濱(ハマ)ノ(ホトリ)ニ居(スヘ)(ヲキ)至極(シゴク)(ウタヒ)(マウ)テ酒ヲ飲(ノ)ム。其後此瓶(カメ)禹風(ウフウ)ニ得サせタリ。又持(モチ)タリシ。篠(サヽ)ヲモ。トラせタリ猩々(シヤウ―)ノ云今コソ本体ヲ見ヘ申タレ。相(アヒ)(カマヘ)テヲソレ給ベカラズ。此ツボヲ取(トリ)テ家ニ皈リ給(タマヒ)テ。明日ヨリ酒ヲ賣(ウラ)せ給ベシ。其壺(ツホ)ニ此サヽノ葉(ハ)ヲ門(カド)ノ頭(ホトリ)ニ立テ給ヘ暇(イトマ)申テサラバトテ海中ヲ分テゾ入ニケル。禹風ハツボヲ抱(イタヒ)テ。家ニ皈リサヽノ葉(ハ)ヲ門(カド)ニ指(サシ)テ。明日ヨリ酒ヲ賣(ウラ)ントテ。拵(コシラ)ヘケリ。ヤウ/\夜明(ヨアケ)テ。ツボノ内ヲ見レバ。何(イツ)モナカリシ壺(ツボ)ニ酒清々(せイ/\)ト湛(タヽ)ヘタリ。是ヲ取テ人ニ。沽(ウ)レトモ不(ツキ)。此酒ヲ飲ム人ハ齢(ヨハヒ)ヲノベ。病(ヤマイ)ヲ治スト也。天ノコンツキト云。酒是ナリ。年月積(ツモ)リ行トモ尽(ツク)ル事ナシ。然禹風(ウ―)(タノシ)ミ榮(サカ)ヘ。羊唾(ヤウタ)ノ市ト云。ニギハイニケリ。此時ヨリノ市ニ。酒ト云事モアリ。又酒(サカ)バヤシトテ。サヽ箒(ハウキ)ヲ指ス事モ。此因縁ナリ。是併(シカシナガ)禹風ガ正直ナル故也。將(ハタ)又イチヲハ。六濟(サイ)ニタツル事。我朝ノ事也。聖徳太子(シヤウトクタイシ)御在世ノ御時。大和國(ヤマトノクニ)三輪(―ワ)ノ郷(サト)ニソ。市ヲ立テ玉ヒシ也。其ハ衆生濟度ノ御爲也。人ノ心猛悪不善(モウアクフゼン)ナルニ依テ。佛道ニ勸(スヽメ)入ンガ爲ニ。多ク寳(タカラ)ヲ取(トリ)出シ。市ト號シテ人ニ安ク賣(ウ)リ給シト也。諸人挙(コソツ)テ寳ヲ買(カウ)也。太子宣(ノ玉ハ)ク此市ニ立ン者。精進潔斎(ケツサイ)シテ身ヲ慎(ツヽシ)ミ。婬欲(インヨク)ヲ犯(ヲカ)サズ。正直憲法(ケンハウ)ニシテ。立ツベシサアラン人ニハ。安クタカラヲ賣(ウラ)ント觸(フレ)給ヒケレバ。強(アナガ)チ精進潔斎(シヤウシンケツサイ)ヲ實(マコト)ニスルニハ。アラネトモ。此タカラヲ安ク買(カハ)ントテ。皆々身ヲ清(キヨ)メテソ市ニ立ケル。聖徳太子天眼ヲ以テ御覧(ゴラン)シテ。身ヲ慎(ツヽシ)ミタル者ニハ。タカラヲ取(トラ)せ。サモ無キ者ニハ。タカラヲ賣(ウ)リ給ザル也。其後ハ悉ク精進ヲシタリケリ。角(カク)テ日々ニイチヲ立レバ。暇(イトマ)ヲ惜(ヲシム)者ハ。タヽザル日モアリ。然ハ所詮(シヨせン)此市細々有ハ。人例ノ事ト思テ不立也。去(サレ)バ六濟ニイチヘ出。諸人ニ向テ法ヲ説キ教化(ケウケ)シ。寳(タカラ)ヲ取(トラ)せテ。佛道ニ引(ヒキ)入シメ。給フ也。其後ハ。實(マコト)ノ志(コヽロザシ)有テ。佛道ヲ心ニカケテ立者モアリ。世ヲ營(イトナマ)ントテ立ツ族(ヤカ)ラモアリ。今ノ世マデ請(ウケ)次デ。イチノ六濟ニ立コト是也。就市場(イチバ)ニ夷(ヱビス)ヲ。イハフ事子細(シサイ)アリ。聖徳太子(シヤウトクタイシ)ト。西ノ宮(ミヤ)ノ御神(ヲンカミ)ト。御約束(ヤクソク)也。末世ノ衆生(シユジヤウ)。放逸邪見(ハウイツジヤケン)ヲ宗(ムネ)トスベシ。國々ノ者集(アツマ)リ雑言(ザウゴン)シ。酒ニ醉(ヱヒ)ナバ喧(カマヒスシ)ク刃傷(ニンシヤウ)出來ベシ。市猥(ミダリカハ)シク可成。イチ又退轉(タイテン)せバ。我願(クハン)(ムナシ)カルベシトテ市ノ中ニ跡(アト)ヲ垂(タレ)テ横難(ワウナン)ヲ拂(ハラ)ヒ。商人(アキンド)ヲ濟(スクヒ)給ヘト宣(ノベタマ)ヘバ。三郎殿御領掌(リヤウシヤウ)有テ。卑(イヤシ)キ商人(アキンド)ニ面ヲ曝(サラ)シテ手諺(テズサ)ミニ成給テ。衆生(シユジヤウ)ヲ助(タス)ケ。御座(ヲハシマ)ス。忝モ夷(エヒス)三郎殿ト申奉ハ。伊奘諾(イザナギ)ノ御子也。惣(ソウ)シテイサナギノ尊(ミコト)ニハ。一女三男ト申奉テ。四人ノ御子御座ス。日神月神素盞烏(ソサノヲ)蛭子(ヒルコ)是ナリ。天照太神ヨリ三番(バン)ニアタラせ給フ御弟(ヲトヽ)ナリ。御名ヲバ三郎殿ト申奉ル也。又西宮ト申事本地阿弥陀如來ニテ御座アル故西ノ宮トハ申ナリ。東ノ國ノ人コソ。西ノ宮ト申ベケレ。南北ノ人モ西申ハ是也。又此ノ御神ヲ蛭子(ヒルコ)ト申奉ルハ。子細アリ。是ハ神道(シンタウ)也。ヲボロケニテ人知リ難シ。知タル人モ不謂。次ニ町ト云事日ヲ差(サシ)テ幾日(イクカ)ナント云テ立ツナリ。〔十八ウ二〜二十オ四〕

とあって、とりわけ、「市」に関わる注記が天竺・震旦・本朝の三国世界の順に説明されていて詳しい。この注記内容は、天理図書館藏『庭訓私記』(天正十年写)に共通するものである。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

市町(いちまち)/市町者通辻子小路。〔廿二ウ八〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「市町」は、

Ichi.イチ(市) 市.§Ichiga tatcu.(市が立つ)市が開かれる.§Ichini tacu.(市に立つ)市に行く.§比喩.Qixeb ichiuo nasu.(貴賎市を成す)身分の高い者も低い者もすべて集まる.§Monjenni ichiuo nasu.(門前に市を成す)大勢の人々や馬などが集まる.§また,比喩.盛名が高まり栄える,大勢の人々の訪問を受ける,などの意.⇒Renjacu(連雀);Sugari,u(すがり,る);Tate,tchru.〔邦訳324l〕

Machi. マチ(町) 家々が続いて列をなしている市街・街路.これがこの語本来の意味であるけれども,一般の人々の間では,大小の町や市の意味にも取られる.〔邦訳376l〕

とあって、やはり「市」と「町」として収載している。

[ことばの実際]

2001年7月24日(火)晴れ。北海道(浦河⇒靜内⇒苫小牧)

「遵行(ジユンギヤウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

遵行(ジユンギヤウ) 自守護出之。〔元亀本314十〕

{見せ消チ}[](ジユンキヤウ) 自守護出之。〔静嘉堂本369五〕

とあって、標記語「遵行」の語注記は「守護よりこれ出る」という。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「遵行」と見え、『下學集』は、「遵行」の標記語は、未収載にある。広本節用集』は、

遵行(ジユンギヤウ・ヲコナウ/シタガウ,カウ・ユク,ツラナル)[平・平去]。〔態藝門976八〕

とあって、標記語としては見え、その語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

遵行(ジユンギヤウ)。〔・言語進退245六〕

遵行(ジユンキヤウ)。〔・言語211三〕

(シユンキヤウ)。〔・言語195四〕

とあって、標記語のみの収載となっている。そして易林本節用集』は、未收載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

195定被遵行歟。市町者 佛作也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

とあって、「遵行」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

遵行(しゆんこう)/定被遵行歟 。遵行ハ市町より野牧まての所/\を思うて見るを云。定といひ、歟といふハ推量にて定めぬ詞なり。〔廿二ウ七〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「遵行」は、未收載にある。

[ことばの実際]

當國之中、至于國領者、任状令遵行、於庄園者、移本所、致沙汰事是嚴密也《読み下し》当国ノ中、国領ニ至リテハ、状ニ任セ遵行セシメ、庄園ニ於テハ、本所ニ移シ、沙汰ヲ致サシメン事。是レ厳密ナリ。《『吾妻鏡』文治元年十一月十一日条》

2001年7月23日(月)晴れ。北海道(帯広⇒中札内⇒広尾⇒浦河)

「野牧(のまき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「乃」部に、「野伏(ブシ)・野邊(ヘ)・野等(モセ)・野〓〔革+穴〕(クヅ)・野晒(ザレ)・野經(ザシ)・野遊(アソビ)・野分(ワキ)」とあるに留まり、「野牧」の標記語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「野牧」と見え、『下學集広本節用集』は、「野牧」の標記語は、未収載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、そして易林本節用集』も、「野原」を標記語に「野邊・野中」の語を収載するだけで未收載にある。

 ただし、広本節用集』は、「野牧」を「」と「」とにして、

(ノ/・イヤシ)[上]田―。埜同。説文云郊外也。天九野。見。野羊者切。〔天地門490五〕

(マキ/ボク・ウシカウ)或云馬城(マキ)ト|。〔天地門566八〕

とあって、それぞれ一語ずつにして語注記を記載し、収載するものである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

194河狩野牧(ノマキ)之亊 ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右A〕

○ノトハ、マキニアル馬(ウマ)ヲ、ヲヒタシキ人也。〔東洋文庫藏『庭訓之抄徳本の人書込み〕

とあって、「野牧」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

野牧(のまき)/野牧之事 野牧ハ牛馬をはなち飼ふ所也。〔廿二ウ六〕

とある。また、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)には、

野牧(のまき)▲野牧ハ郊外(かうくわい)にて牛馬(うしむま)を放(はな)ち飼ふ所。〔十九オ三〕

野牧(のまき)▲野牧ハ郊外(かうくわい)にて牛(うし)馬を放(はな)ち飼ふ所。〔三十三ウ二〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「野牧」は、未收載にある。

[ことばの実際]

2001年7月22日(日)晴れ。北海道(帯広) ワイルド・ラン2001・6時間走

「河狩(かはがり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

河狩(―ガリ) 神武天皇始之。〔元亀本96八〕

河狩(カハガリ) 神武天皇始之。〔静嘉堂本120七〕

河狩(カハカリ) 神武天皇始之。〔天正十七年本上59ウ一〕

河狩(―カリ) 神武天皇始之。〔西來寺本172三〕

とあって、標記語「河狩」の語注記は「神武天皇之を始る」という。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「河狩」と見え、『下學集広本節用集』は、「河狩」の標記語は、未収載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

河狩(カワカリ)。〔・言語進退86四〕

河除(カハヨケ) ―狩(ガリ)。〔・言語83八〕

河除(カハヨケ) ―狩。〔・言語76一〕

河除(カワヨケ) ―狩。〔・言語91六〕

とあって、標記語として見えるのは弘治二年本だけで、他三写本は、標記語「河除」の注記語群として収載するものである。そして易林本節用集』は、未收載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

194河狩野牧(ノマキ)之亊 ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右A〕

とあって、「河狩」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

河狩(かわかり)/河狩 川魚を取をいふ。〔廿二ウ六〕

とある。また、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)には、

漁捕(すなどり)河狩(かハがり)▲漁捕河狩ハ共に魚(うを)をとる所。〔十九オ三〕〔三十三ウ二〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「河狩」は、未收載にある。

[ことばの実際]

2001年7月21日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)キャンパス相談会⇒北海道(帯広)

「漁捕(ギヨホ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」「須」部に、「漁捕」の標記語は未収載にある。

庭訓徃來』には、卯月五日の状に「漁捕」と見え、『下學集』は、「漁捕」の標記語は、未収載にある。広本節用集』は、

漁捕(ギヨホ/スナドリ,トル)[平・去]。〔天地門833六〕

とあって、標記語としては見え、その語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、そして易林本節用集』は、未收載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

193漁捕 住吉大明~始之也。〔謙堂文庫藏二一右A〕

※女ノカセギアワヒヲ取也。〔静嘉堂本古寫『庭訓徃来抄』書込み〕

とあって、「漁捕」の語注記は、「住吉大明~、之れを始めるなり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

漁捕(すなとり)/漁捕 海にてあみを引釣(つり)を垂(たれ)て魚を取をいふ。〔廿二ウ五〕

とある。また、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)には、

漁捕(すなどり)河狩(かハがり)▲漁捕河狩ハ共に魚(うを)をとる所。〔十九オ三〕〔三十三ウ二〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「漁捕」は、

Sunadori.スナドリ(漁り) 漁をすること,または,猟師.§Sunadoriuo suru.(漁りをする)漁をする.〔邦訳588r〕

とあって、漢字音「ギョホ【漁捕】」での収載はなく、「すなどり」として上記のようにに見える。

[ことばの実際]

2001年7月20日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢) 海の記念日

「津(ツ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「津」部に、

()。〔元亀本160八〕

()。〔静嘉堂本176七〕

()。〔天正十七年本中19ウ五〕

とあって、標記語「」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「」と見え、『下學集』は、「」の標記語は、

()。〔天地門23七〕

とあって、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

(ツ/シン)[平] 濱(ハマ)。浦(ウラ)。〔天地門409七〕

とあって、語注記は「濱.浦」とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

() 濱。〔・天地125四〕

()。〔・天地103三〕〔・天地93七〕〔・天地114一〕

とあって、標記語「」の語注記は、弘治二年本のみが「濱」とし、他三本は未記載にする。そして易林本節用集』は、未收載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、

(シン) ツ。舟舩所來也。〔黒川本中20オ七・地儀〕

とあって、十巻本伊呂波字類抄』には、

(シン) ツ。舟舩所來。〔卷四・地儀566四〕

とあって、標記語「」の語注記は「舟・舩の來る所なり」とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

192廻舩着岸并狩山 ~武御宇始也。春狩、夏蒐、秋畋、冬獵、四季也。〔謙堂文庫藏二一右@〕

とあって、「」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

廻舩着岸 諸國より舩のつく所なり。〔廿二ウ四〕

とあって、その注記に「諸国より舩の着くところなり」とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「」は、

Tcu.ツ(津) Minato(湊)に同じ.港.〔邦訳620r〕

とある。

[ことばの実際]

都ヲ出(イデ)テ十三日ト申(マウス)ニ、越前ノ敦賀(ツルガ)()ニ着(ツキ)ニケリ。《『太平記』卷第二.長崎新左衛門尉意見事阿新殿事》

2001年7月19日(木)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「着岸(チヤクガン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「知」部に、

着岸()。〔元亀本66四〕

着岸()。〔静嘉堂本77八〕

着岸()。〔天正十七年本上39オ五〕

着岸(―ガン)。〔西來寺本120一〕

とあって、標記語「着岸」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「着岸」と見え、『下學集』は、「着岸」の標記語は、未収載にする。広本節用集』は、

著岸(チヤクガン.アラワス/キル・ツク,キシ)[去・去]。〔態藝門174二〕

とあって、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

着岸(―ガン)舟。〔・言語進退53七〕

着裳(―シヤウ)―袴(クハ)。―(チヤク)(ヂン)―岸(ガン)舩。―(チヨ)(ジユツ)詩歌之――。―任(チヤクニン)。―府(フ)。―到(タウ)軍時人数書記之。―姓。〔・言語53七〕

着 ―袴。―陣。―岸。―述詩歌之――。―任。―姓。―府。―到軍時――。〔・言語53七〕

とあって、標記語「着岸」の語注記に「舩」または「舟」とある。そして易林本節用集』は、

著岸(ーガン)船。〔言辞54三〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「著岸」とし、語注記を「船」とする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、

着岸 着職ト。チヤクカン。〔黒川本上55オ五〕

とあって、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「着岸」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

192廻舩着岸津并狩山 ~武御宇始也。春狩、夏蒐、秋畋、冬獵、四季也。〔謙堂文庫藏二一右@〕

とあって、「着岸」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』に、

着岸(ヂヤクガン)之津(ツ)狩山(カリヤマ)・漁捕(スナドリ)・河狩(カハガリ)・野牧(ノマキ)之亊定ラレ遵行(ジユン―)せ歟。市町者通(トヲ)シ辻子(ツジ)小路(コウジ)ヲ|、(シメ)(カマヘ)‖ 著岸(ヂヤクガン)ノ津(ツ)。又名所(メイシヨ)也。八箇(カ)ノ津ナンドヲ云フナリ。〔廿一オ四〜六〕

とあって、「着岸」の読みを「ヂヤクガン」とし、「著岸(ヂヤクガン)ノ津(ツ)。又名所(メイシヨ)也。八箇(カ)ノ津ナンドヲ云フナリ」という。

 当代の『日葡辞書』にもこの「着岸」は、

Chacugan.チャクガン(着岸) すなわち,Funnega minatoni tcuqu.(舟が湊に着く)船が港に着くこと,または,船に乗ってきた人々が港に着くこと.〔邦訳117r〕

とある。

[ことばの実際]

之高麗國ノ王ヨリ、元朝皇帝ノ勅宣ヲ受(ケ)テ、牒使(テフシ)十七人吾(ワガ)國ニ來朝ス。此(コノ)使異國ノ至正(シセイ)二十三年八月十三日ニ高麗ヲ立テ、日本國貞治(ヂヤウヂ)五年九月二十三日出雲ニ著岸(チヤクガン)ス。道驛ヲ重(ネ)テ無程京都ニ著(キ)シカバ、洛中ヘハ不被入シテ、天龍寺ニゾ被置ケル。《『太平記』卷第三十九・高麗人來朝事.大系三450L》

2001年7月18日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「廻舩(クワイセン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、「廻舩」の標記語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「廻舩」と見え、『下學集』は、「廻舩」の標記語は、未収載にする。広本節用集』は、

廻舩(クワイせン/カヘル・メグル,フ子)[平・平]。〔態藝門536五〕

とあって、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』そして易林本節用集』は、『下學集』や『運歩色葉集』同様にこの語を未収載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「廻舩」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

192廻舩着岸津并狩山 ~武御宇始也。春狩、夏蒐、秋畋、冬獵、四季也。〔謙堂文庫藏二一右@〕

とあって、「廻舩」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』に、

廻舩(クワイせン)ハ舩(フネ)ヲ付。舩ヲ出ス浦(ウラ)(ツ)也。〔廿一オ四〕

とあって、「――は舩を付く。舩を出す浦津なり」というので、後半の「着岸の津」を注する内容がここに示されているに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』にもこの「廻舩」は、

Quaixen.クヮイセン(廻船) 商人の大船,または,普通の船.〔邦訳517r〕

とある。このように、『庭訓徃来』そして『庭訓徃来註』にみえる「廻舩」の語は、古辞書にあっては、広本節用集』に収載されるに留まっている。

[ことばの実際]

 地色 沖(おき)に何待(ま)つ桧垣作(<ひがき>(づくり))十四五端(<たん>)廻船(<くわいせん>)に。船頭(<せんどう>)舟子(かこ)は褞袍(どてら)(<き>)て足踏(<ふ>)みのばす梶(<かぢ>)枕。四五人の乘衆(<のり>(しゅ))ども櫓(やぐら)の上につっくつく。そよと波音(<なみおと>)舟影(かげ)に。心を付くる蚤取眼(<のみ>(とり)<まなこ>)物案(<あん>)じ顏も頬(<ほゝ>)すいたる。中に頭(<かしら>)の毛剃(けぞり)九右衞門。生れは長崎(ながさき)國訛(なまり)。《近松浄瑠璃集『博多小女郎波枕』大系上、三二五I》

尤上瀬大明神様は龍宮え御縁の被有ら候御神様にて、廻舩・漁船に至迄、海の安全を御守らせたもふとの御たくせんなり。《『川渡甚太夫一代記』卷三》

2001年7月17日(火)晴れ。東京(八王子)⇒神田(小川町)⇒世田谷(駒沢)

「過怠(クワタイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

過怠(クワタイ)。過貸(同)。科怠(同)。―料(レウ)。過當(タウ)。過分(ブン)。過言(ゴン)。過書(シヨ)。過上(シヤウ)。過去(コ)。〔元亀本192四〕

過怠(クワタイ)。科料(クワレウ)。過當(クワタウ)。過貸(クワタイ/上クワタイ同)。科怠(同/上同)。過分(――)。過言(――)。過書(――)。過上(――)。過去(――)。〔静嘉堂本217五〕

過怠(クワタイ)。―貸(―タイ)。科怠(クワタイ)。―料(レウ)。過當(タウ)。―分(フン)。―言(コン)。―書(シヨ)。過上(クワシヤウ)。―去(コ)。〔天正十七年本中38オ五〕

とあって、標記語「過怠」、さらに別表記の「過貸」「科怠」を列記し、語注記は未記載にある。この別表記は他の古辞書には未収載であり、『運歩色葉集』だけが収載する表記ということになる。その資料がいかなるものか検証する必要があろう。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「過怠」と見え、『下學集』は、「過怠」の標記語は、

過怠(クワタイ)。〔言辞門151六〕

とあって、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

過分(クワブン/スギル,ワカツ[去・平入]。―半(ハン/ナカバ)[去]―上(ジヤウ)[上去]算用面残分也―残(ザン/ノコル)[平去]―下(ゲ/)[上去]。―差(/シヤ,タガウ)[平去]―當(タウ/アタル)。―役(ヤク/ツカイ)[入]。―度(ド,ノリ/タビ)[去]。―失(シチ/ウシナウ)[入]―怠(タイ/ヲコタル)。―銭(せン/ぜニ)。―更(カウ,サラニ/カワル,フケル)[平去]履(クツ)鞋(ワラチ)ノ践(フミ)更(カエ)テ出錢云免。―去(コ/キヨ)[上去]―現(ゲン/ミル,アラワル)[去]。〔態藝門538一〕

とあって、「過」を冠頭語にする十五語の標記語のなかに「過怠」として収載され、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

過上(クワジヤウ)。―下(ゲ)。―失(シツ)。―度(ド)。―言(ゴン)。―差(サ)。―分(ブン)。―怠(タイ)。―役(ヤク)。―當(タウ)。・言語進退161六・七〕

過役(クワヤク) ―分(ブン)。―下(ゲ)。―度(ド)。―怠(タイ)。―上(シヤウ)。―失(シツ)。―言(ゴン)。―差(サ)。〔・言語131六〕

過役(クワヤク) ―分。―下―度―言。―怠。―上。―失。―差。〔・言語120七〕

過役(クワヤク) ―分(ブン)。―下(ゲ)。―度(ト)。―言。―怠。―上。―失。―差。〔・言語146六〕

とあって、弘治二年本は標記語を「過上」とし、永祿二年本尭空本両足院本は標記語を「過役」として、そのなかで「過怠」の語を収載するが、その排列は若干異にする。易林本節用集』は、

過當(クワタウ)―現(ゲン)。―書(シヨ)。―半(ハン)。―失(シツ)。―上(シヤウ)。―錢(せン)。―分(ブン)―怠(タイ)。―去(コ)。―料(レウ)。〔言辞133四〕

として、標記語「過當」の「過」を冠頭語とする熟語群十語のうちに収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「過怠」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

190吹過怠之疵 漢書云、吹ハ∨ヨリ。其有時毛荒其時煩所必赤。毛不ル∨則疵。言ヲ∨疵若吹求百姓等若有過怠レハ∨改必謂。刀ニモルソ∨疵。〔謙堂文庫藏二〇左F〕

とあって、この「過怠」は、語注記のなかでもそのまま「百姓等若有過怠レハ∨改必謂」と用いられており、その意味するところは、「あやまち過失」をいうのである。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

過怠之疵 人にも聞えす事の害(がい)ともならさるいさゝかのあやまちをさかし出ん事を好まされとなり。是ハ賞罰を厳重にして理非を分明にして正路にたかふましと心掛(こゝろかけ)るより図す毛を吹て疵を求るの蔽(ついへ)あるゆへ是をいましめたるなり。これまてハ民を治る者のこゝろへをいえるなり。〔廿二ウ一〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「過怠」は、

Quatai.クワタイ(過怠) ある罪科に対して課せられる罰,または,罰金.例、Quataiuo caquru.(過怠を掛くる)ある罪科に対して罰金を課する.§また,罪科,あるいは,過失.〔邦訳520r〕

とある。

[ことばの実際]

縦雖科怠(クハタイ)、若悔過帰徳、忽不被行斬刑。《『源平盛衰記』三三、頼朝征夷大将軍宣事》

況令恥辱於前司者可過怠也。《『御成敗式目』四六条》

況―當新司チヤト云テ、前司ニ恥辱ナントカヽスルコトアレハ、新司ヲ可過怠也、但―但、前司有重犯テ改易セラレハ、何モカモ新司ノハカライソ。《清原業忠『貞永式目聞書』四六条》

其已下者不可處重科、随輕重可過怠、所謂寺社修理等是也。《『御成敗式目』追加法、三四条》

奏者 さてさて汝らはむさとした。御前近(ごぜんぢこ)うくゎくゎらめいたとあって、御機嫌(ごきげん)がそこねた。今度(こんど)は今の過怠(かたい)に、また御年貢によそえ、大きな歌を一首ずつ詠めとのおことじゃ。急いでお受けを申せ。《虎明本狂言、脇狂言『餅酒』》

2001年7月16日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「静謐(セイヒツ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、標記語を「静謐」は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状、六月二十九日の状、八月五日の状などに「静謐」と見え、『下學集』は、「静謐」の標記語は、

靜謐(セイヒツ)。〔疉字門158五〕

とあって、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

静謐(セイヒツ/シヅカ,―)[去・入]。〔態藝門1095六〕

とあって、標記語を「静謐」として、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

静謐(セイヒツ)。〔・言語進退266六〕〔・言語226八〕

靜謐(セイヒツ)。〔・言語213六〕

とあって、標記語を「静謐」と「靜謐」とし、読みは「セイヒツ」としている。易林本節用集』は、

靜謐(セイヒツ)。〔言辞236三〕

として語注記を未記載にして収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「靜謐」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ其侘〓〔人+祭〕者、所領静謐之基也 史記云、失志云侘〓〔人+祭〕又過ヲ∨必靜・謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕

リ‖之堪否(カンフ)ヲ理非分明ニシテ(タヽス)‖(カン―)ヲ者、万民之所スル也。心シ‖ェ宥(クワンユウ)(タスケ)ヲ、強(シイ)テマ‖侘〓〔人+祭〕(タクサイ)ヲ者、所領静謐(せイヒツ/シツカ/\)之基(モトイ) 史記、失ヲ∨侘〓〔人+祭〕ト|又過(アヤマチ)ヲ∨ルハ∨(アラタ)‖静謐(せイヒツ)スル也。忘皃也。〔静嘉堂本藏古寫〕

とあって、この「静謐」は、語注記のなかでもそのまま「必静謐(せイヒツ)スル也」と用いられており、その意味するところは、「戦乱などが漸く治まり、世の中が泰平な状況になっていること」をいうのである。古版『庭訓往来註』には、

侘〓〔人+祭〕(タクサイ)ヲ、所領靜謐(せイヒツ)之基(モトヒ) 侘〓〔人+祭〕トハ。所領(シヨレウ)ニ六借(ムツカ)シキ事ヲ非分ニ云懸(カケ)テ。民(タミ)ヲ痛(イタ)マシムルヲ。タクサイト云也。人ノワビナヤム事ナリ。斯(カヽ)ル事無ンバ。所領靜謐(せイヒツ)成ルベシト云ナリ。〔十八オ八〕

とあって、ここでも「タクサイ」の語注記に従い、最後に「所領靜謐(せイヒツ)成ルベシト云ナリ」とそのまま引用し、「所領は静かで平和である」ということである。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

所領静謐之基也 静謐ハしつかに治れるを云。寛宥にしてしかも正路にたかハされは、自然とそれによりて静謐に治るものゆへ基也といえり。〔廿二オ七〕

とある。以上のように、「セイヒツ」なる語を見てきたが、『庭訓徃来』にあっては、行書体のこともあり、「セイ」を「静」と「靜」との表記については関心が薄いのであるが、これが古辞書のように楷書体で表記されると、この表記が俄然見えてくるのである。『下學集』や易林本節用集』は、「靜謐」であり、広本節用集』は「静謐」というぐあいにである。この観点から『庭訓徃来註』を見ると、後者の広本節用集』に共通する表記となる。

 当代の『日葡辞書』にもこの「静謐」は、

Xeifit.セイヒツ(静謐) Xizzucani vosamaru.(静かにをさまる)すなわち,平和なこと,あるいは,和らぎ静まったこと.§Tenca ima xeifitni gozaru.(天下今静謐にござる)天下(Tenca)は平和で静穏な状態である.〔邦訳745r〕

とある。

[ことばの実際]

同二十一日新院又安藝國嚴島へ御幸成る。去る三月にも御幸ありき。其故にや、中一兩月世も目出度治て、民の煩も無りしが、高倉宮の御謀反に依て、又天下亂れて、世上も靜かならず。是に依て、且は天下靜謐の爲、且は聖代不豫の御祈念の爲とぞ聞えし。今度は福原よりの御幸なれば、斗藪の煩も無りけり。手から自から御願文を遊ばいて、清書をば攝政殿せさせおはします。《『平家物語』卷第五・富士川》

現代では、中沢けい静謐の日』(1996年「海燕」所収)という小説の題名に用いられている。

2001年7月15日(日)晴れ。東京(八王子)⇒文京区大塚(お茶ノ水女子大)

「強(あながち・しいて)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「安」部に、

(アナガチニ)。〔元亀本266二〕

(アナガチ)。〔静嘉堂本302二〕

とあって、標記語を「」として、語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「」と見え、『下學集』は、「」の標記語は未収載にする。広本節用集』は、

(アナガチ,シイテ/キヤウ,ツヨシ)[平去]。〔態藝門769二〕

とあって、標記語を「」として、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

(アナカチ)。〔・言語進退205二〕〔・言語160六〕

(アナガチ)。〔・言語171六〕

とあって、標記語を「」とし、読みは「アナカチ」と「アナガチ」というように、第三拍めを清音と濁音との二種の表記がなされている。易林本節用集』は、

(アナガチ)。〔言辞174六〕

として収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、

強 アナカチ。巨良反。猛微已上同。〔下31ウ二〕

十巻本伊呂波字類抄』には、

強 アナカチ已上同。〔卷八347一〕

とあって、標記語を「」として、他に「猛・微」を収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ其侘〓〔人+祭〕者、所領静謐之基也 史記云、失志云侘〓〔人+祭〕又過ヲ∨必静謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕

とあって、この「」の語注記は未記載にある。ここで触れておきたいことは、静嘉堂本のように、「」の字を「しいて」と訓じているもの、また、天理図書館藏のように、右訓に「しいて」、左訓に「あながち」と両訓の読みを有する古写本が存することである。この類義訓「あながち」と「しいて」との使い分けによる分析が必要となってくる。すなわち、岩波古語辞典』補訂版によれば、「あながち」は「人のことなどかまっていられず動く意」であり、ここには見られない類義訓「せめて」は、「相手に肉薄して、少しでも自分の思うようにことを運ぶ意」、そして「しひて」は、「ものごとの流れに逆らって、無理にことをすすめる意」となる。用例は「しひて」「あながち」ともに『竹取物語』や『源氏物語』などに見えていることから、両語の使い分けが当然ありえたということになる。だが、同じ文脈のなかでその訓読が異なる上記のような用例については、まだ詳細な分析がなされていないかと考えている。この意味から下記に示した『日蓮遺文』の用例はその両訓が並列表記されていることから、類似意味内容を効果的に強める表現として使用されていて参考になる。

古版『庭訓往来註』には、

(アナガチ)ニ(ザル)∨(コノマ)‖ 強(アナガチ)ト云字ハ。コハシ共ヨミ。アラケナシ共。ツヨシ共。アヤニクトモヨメリ。酒(サケ)ナトシイテト云ニハ。此ノ強(キヤウ)ノ字ヲ書テ。シイルトヨム也。〔十八オ七〕

とあって、この「」の字を読みの上で多訓することについて語注記がなされていて、「あながち」を筆頭に「こはし」「あらけなし」「つよし」「あやにく」「しいて」「しいる」の読み方を順に排列注記している。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

ンハ∨〓〔+祭〕者 強とハさのミといふ義なり。ハたのむ。〓〔+祭〕ハさゝやくと訓す。寛宥にして慈悲(じひ)の心を持んとすれは人の頼ミ事をさすかにもどきかたく、終にあやまちて正路にたかふ事あるものゆへかくいましめたるなり。〔廿二オ五〕

とある。字書では、慶長十五年版倭玉篇』弓部には、

(キヤウ/ガウ)コワル、キワマル、シイテ、ツレナシ、ツトム。同上。アナガチ。〔273一〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「」は、

Anagachi.l,anagachini.アナガチ,または,アナガチニ.(強ち.または,強ちに) Xiqirini(頻りに)に同じ.無理に,あるいは,どうしても,あるいは,しつこく。§また,強く.§Anagachini sono cotouo itaso<to zonjenedomo.(強ちにその事を致そうと存ぜねども)私は無理に,あるいは,強くその事をしようとは思わないけれども.〔25l〕

とある。

[ことばの実際]

十七日△甲辰△依變異之于事、御祈祷可有之由、雖被仰下、常度之變、穴勝不可及御沙汰之趣、司天等申之仍可被差置唯眼見、心知雖謂之、慶雲壽量星見之旨、申歟〈云云〉《訓読》十七日△甲辰△変異ノ事ニ依テ、御祈祷有ルベキノ由、仰セ下サルト雖モ、常度ノ変ハ、強チ御沙汰ニ及ブベカラザルノ趣、司天等之ヲ申ス。仍テ差シ置カルベシ。唯眼ニ見、心ニ知リテ之ヲ謂フト雖モ、慶雲寿量星見ルノ旨、申スカト〈云云〉。《『吾妻鏡』建長(1251)三年閏九月》

しゐてあながちに電光朝露の名利を貪るべからず。《『日蓮遺文』持妙法華問答鈔(じみょうほっけもんどうしょう),弘長3(1263)年,274》

ぜひなぅ これに とどまって ちからを そえいでわと いえども ぶた あながちに じたい するによって とどまるにも をよばず。《天草版エソポ物語』456-15》下に打消しを伴う

2001年7月14日(土)晴れ。東京(八王子)⇒文京区大塚(お茶ノ水女子大)

「ェ宥(クワンユウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、

ェ宥(クワンユウ)。〔元亀本192三〕

ェ宥(――)。〔静嘉堂本217三〕

ェ宥(クワンユウ)。〔天正十七年本中38オ三〕

とあって、標記語を「ェ宥」として、語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「ェ宥」と見え、『下學集』は、「ェ宥」の標記語は未収載にする。広本節用集』は、

ェ宥(クワンユウ/ユルク,ナダム)。〔態藝門549四〕

とあって、標記語を「ェ宥」として、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

ェ宥(クワンユウ)。〔・言語進退102三〕〔・言語121一〕〔・言語147二〕

ェ宥(クハンユウ)。〔・言語131九〕

とあって、標記語を「ェ宥」とし、読みかたでは永祿二年本だけが「寛」の字音表記を「クハン」とハ行表記するのに対し、広本節用集』『運歩色葉集』そして他三本とも、「クワン」とワ行表記する。易林本節用集』は、

ェ宥(クワンユウ)。〔氣形132三〕

とし、分類排列を言辞門ではなく、氣形門にして収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、

ェ宥 慈悲ト。クワンイウ。〔疉字中七九ウ六〕

とあり、読みを「クワンイウ」とする。十巻本伊呂波字類抄』には、

ェ猛 々仁。々狭。々宥。々尉井カ典。々恕。〔疉字 六〕

とあって、標記語を「ェ猛」にして、「寛」を冠頭字とする熟語群の語として収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ其侘〓〔人+祭〕者、所領静謐之基也 史記云、失志云侘〓〔人+祭〕又過ヲ∨必靜・謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕

リ‖之堪否(カンフ)ヲ理非分明ニシテ(タヽス)‖(カン―)ヲ者、万民之所スル也。心シ‖ェ宥(クワンユウ)(タスケ)ヲ、強(シイ)テマ‖侘〓〔人+祭〕(タクサイ)ヲ者、所領静謐(せイヒツ/シツカ/\)之基(モトイ) 史記、失ヲ∨侘〓〔人+祭〕ト|又過(アヤマチ)ヲ∨ルハ∨(アラタ)‖必靜謐(せイヒツ)スル也。忘皃也。〔静嘉堂本藏古寫〕○心ユル/\トアルヲ云也。/廣也。○ナタム。平也。〔同傍書込み〕△ェ―トハ心ニト云也。罪人ヲナタムル義也。〔同頭冠部書込み〕

―ユルクナタムル。過ヲモユルス也。〔国会図書館左貫注書込み〕

とあって、この「ェ宥」の語注記は未記載にある。古版『庭訓往来註』には、

ェ宥(クハンユウ)(タスケ)ヲトハ。ナダメタル心也。寛ヲバ。ナダムルトヨメリ。宥(ユウ)ヲバユルカセトヨメリ。此心クツログ心也。クツロクハ扶(タス)クト云義ナリ。〔十八オ五〕

とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

シ‖ェ宥之扶| 心に存すとハ心遣るといふか如。寛宥とハ手苛(てひとき)事なく、ゆるやかにする事なり。〔廿二オ四〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「ェ宥」は、

Quanyu<.クヮンユゥ(ェ宥) 温厚さ.それがあるために人が一段と思いやり深くふるまい,他人を圧迫したり罰したりするのをやめるような心.〔520l〕

とある。

[ことばの実際]

而依自然之運、遁レ_之族、近-年聞_召及者縡已違期之上、尤就ェ-宥之儀、割所領内‖-収五分一。《鶴岡本『御成敗式目』十六条》

2001年7月13日(金)晴れ。東京(八王子)⇒

「奸直(カンチヨク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

(―チヨク)。〔元亀本93七〕

(カンチヨク)。〔静嘉堂本116二〕

(―チヨク)。〔天正十七年本上57オ四〕

(――)。〔西来寺本165六〕

とあって、標記語「」として、語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「奸直」と見え、『下學集』、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』そして、易林本節用集』は、「奸直」の標記語は未収載にする。『節用集』では、饅頭屋本節用集』に収載をみるに留まる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、

姦匿(カタマシク,カクル)[平・入] 同(カンシン)。カンチヨク。〔前田本・疉字上一〇九オ二〕

姦匿(カタマシ,カクル)同(カンシン)。カンチヨク。〔黒川本・疉字上八九オ二〕

とあって、標記語「姦匿」の語に「カンチヨク」という読みを記載している。十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「奸直」、上記「姦匿」の語も未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ其侘〓〔人+祭〕者、所領静謐之基也 史記云、失志云侘〓〔人+祭〕又過ヲ∨必靜・謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕

とあって、この「奸直」の語注記は未記載にある。古版『庭訓往来註』には、

奸直(カンチヨク)ヲ者、萬民(バンミン)ノ之所ロ∨(キ)スル也。心(ソン)ジ‖ 奸直ト云ハ。スクナシト云心也。(カン)ノ字ヲ。ワタカマシトヨメリ。是ハマガル心ナリ。直(チヨク)ノ字ハスグ。ナヲシクナンドヽヨメリ。是レハ正直ノ方ナリ。ユガミ直(スク)ナル事ヲ能々糺(タヾ)せヨト云ナリ。〔十八オ三〕

とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

スハ‖物之奸直者 糺ハたゝして明らかにする事也。正しからさるをと云。まがらさるをと云。物の直きと邪(よこしま)なるとをたゝさんにハ理非のふたつを明かにすれはたゝさるゝものなり〔廿一ウ八〕

とある。

 当代の『日葡辞書』にもこの「」は、未收載にある。

[ことばの実際]

 

2001年7月12日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「理非分明(リヒフンミヤウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部と「不」部それぞれに、

理非(リヒ)。〔元亀本71二〕 分明(フンミヤウ)。〔元亀本223九〕

理非(――)。〔静嘉堂本85二〕 分明(――) 。〔静嘉堂本256三〕

理非(リヒ)。〔天正十七年本上55ウ八〕分明(フンミヤウ) 。〔天正十七年本上55ウ八〕

理非(リヒ)。〔西来寺本129二〕

とあって、標記語「理非」と「分明」として、語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「理非分明」と見え、『下學集』は、「理非」と「分明」の標記語は未収載にする。広本節用集』は、

理非(リヒ/コトワリ,アラズ)[上・平]。〔態藝門194三〕

理非分明(リ(ヒ)フンミヤウ/コトワリ,―,ワカツ,メイ・アキラカ)[上・○・平・平] 。〔態藝門194三〕

とあって、標記語を「理非」と「理非分明」とし、読みを「リヒ」「――フンミヤウ」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

理非(リヒ)。〔・言語進退57八〕 分明(―ミヤウ)。〔・言語進退182八〕

理髪(リハツ)―論(ロン)―非(ヒ)。―敬。―乱(ラン)。―運(ウン)。―不盡(フジ)/衣裳部。〔・言語58八〕 分限(フンゲン)―際(ザイ)―明(ミヤウ)。―衛(エイ)。―捕(ドリ)。―別(ベツ)。〔・言語149八〕

理髪(リハツ) 衣裳部。―論。―非。―致。―乱。―不尽。〔・言語53三〕 分限(ブンケン)―除。―明。―衛。―捕。〔・言語139五〕

理論(リロン) ―非。―運。―不盡。〔・言語61六〕

とあって、弘治二年本だけが標記語を「理非」と「分明」とし、永祿二年本尭空本は、標記語を「理髪」「分限」とし、「理」と「分」の字を冠頭語とした熟語として収載する。また、両足院本は、標記語「理論」として、「理」の字を冠頭語とした熟語として収載する。そして、易林本節用集』においても、

理非(リヒ)。〔言語57二〕 分際(ブンザイ)―限(ゲン) 。―剤(ザイ)。―捕(ドリ)。―量(リヤウ)。―位(井)。―兩(リヤウ)。―別(ヘツ)―明(ミヤウ)。〔言辞151四〕

とあって、標記語「理非」と「分際」とし、「分明」の語は「分」の字を冠頭語とした熟語として収載する。室町時代の古辞書で、「理非分明」と四字熟語として収載するのは広本節用集』であり、『庭訓徃来』の語でありながら、これを未収載とする『下學集』は、この卯月五日の状からの継承は極めて限定された語のみの収載であることが見て取れよう。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、

理非 評定ト。リヒ。〔疉字上六〇オ二〕

分明 法家部。フンミヤウ。〓〔艸+放〕免ト。普告同。〔疉字中107オ一〕

とあり、十巻本伊呂波字類抄』には、

理非 々運。々髪。々致。々窟。々乱。々實。々不盡。〔疉字二11五〕

分明 々配。々法。々附。々別。々毫。々散。々憂。々付。々作。々怒。々竹。々給。〔疉字81三〕

とあって、標記語を「理非」と「分明」として収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ其侘〓〔人+祭〕者、所領静謐之基也 史記云、失志云侘〓〔人+祭〕又過ヲ∨必靜・謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕

――(理非)ハ善悪ヲ知義。又見非也。〔静嘉堂本書込み〕

とあって、この「理非分明」の語注記は未記載にある。古版『庭訓往来註』には、

分明ニシテ(タヽス)‖之 分明ハ。吾レ元ヨリ能(ヨク)々知タル事ヲ云フ詞(コトバ)ナリ。〔十八オ二〕

とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

理非分明ニシテ ハ道理に叶ひたるなり。ハ道理に背きたる也。分明とハ明白なる事也。〔廿一ウ七〕

とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Rifi.リヒ(理非) 道理と非道理と.例,Rifiuo vaquru.(理非を分くる)道理と非道理,または,正義と不正義とを見分ける.⇒Aqirame,uru;Arasoi,o>;Fiqiauaxe,suru.〔邦訳532r〕

Funmio<.フンミヤウ(分明) 明瞭なこと.⇒Chocu(直);Qiocuchocu;Texxo.〔邦訳278r〕

とある。

[ことばの実際]

時頼入道の政道理非分明にして、奉行頭人評定衆、其掟少しは古風に立帰るかと見えしかども、諸国の守護地頭等は尚も私欲非義のことあり、訴論更に絶えやらず、時頼入道これを歎き、《中略》二階堂入道たゞ一人を召具し、密かに鎌倉を忍び出で、貌を窶して六十余州を修行し給ふこと三箇年、在々所々の無道残虐を聞出さんが為とかや。《『北条九代記』第九、時頼入道諸国修行の条》

訴訟ノ人出來(シユツタイ)ノ時、若(モシ)下情(シモノジヤウ)(カミ)ニ達(タツ)セザル事モヤアラントテ、記録所(キロクトコロ)ヘ出御(シユツギヨ)(ナツ)テ、直(ヂキ)ニ訴(ウツタヘ)ヲ聞召(キコシメシ)(アキラ)メ、理非(リヒ)ヲ決斷(ケツダン)セラレシカバ、虞〓〔艸+丙〕(グゼイ)ノ訴(ウツタヘ)忽ニ停(トドマツ)テ、刑鞭(ケイベン)モ朽(クチ)ハテ、諌鼓(カンコ)モ撃(ウツ)人無(ナカ)リケリ。《『太平記』卷第一・關所停止事、大系一38十》

男きゝて、「もつとも、理非はまがう事なく候。たゞ今までのなさけに是非とも隠居」といへば、女腹にすゑかね、所の守護へ申上ければ、やがて召し出だし、御尋ねなさるゝ。《仮名草子『きのふはけふの物語』》

2001年7月11日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「堪否(カンヒ・−フ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

堪否(カンフ)。〔元亀本91九〕

堪否(―ヒ)。〔静嘉堂本113四〕

堪否(―ヒ)。〔天正十七年本上55ウ八〕

堪否(―ヒ)。〔西来寺本162二〕

とあって、標記語「堪否」として、読みを元亀本は「カンフ」と漢音読み、静嘉堂本天正十七年本西来寺本は「カンヒ」と漢音+呉音読みし、それぞれ第三拍めを異にしている。語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「堪否」と見え、『下學集』は、「堪否」の標記語は未収載にする。広本節用集』は、

堪否(カン/ヨシ,イナヤ)[平・上] 。〔態藝門274七〕

とあって、標記語を「堪否」とし、読みを「カンフ」と元亀本運歩色葉集』と同じくし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

堪否(―フ)。〔・言語進退88二〕

堪忍(カンニン) ―否。〔・言語83六〕 堪能(カンノウ) ―否(フ)。〔・言語84五〕

堪忍(カンニ) ―否。―忍。〔・言語76五〕

堪忍(カンニン) ―能。―否。〔・言語90三〕

とあって、弘治二年本だけが標記語を「堪否」とし、他三本は、標記語を「堪忍」とし、「堪」の字を冠頭語とした熟語として収載する。また、永祿二年本は、標記語「堪能」として、「堪」の字を冠頭語とした熟語としても収載する。読み方は「カンフ」で元亀本運歩色葉集』の読みに共通する。『運歩色葉集』が示す「カンフ」と「カンヒ」の両用の読みが併存する。そして、易林本節用集』においても、

堪否(カンフ) 。堪能(カンノウ)。堪難(カンナン)。堪忍(カンニン)。〔言辞79六〕

とあって、標記語「堪否」を先頭に四語を排列する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

189知人之堪否理非分明ニシテ物之奸直者、万民之所帰也。心ェ宥之扶(―)ヲ、強(ア―)ニ侘〓〔人+祭〕者、所領静謐之基也 史記云、失志云侘〓〔人+祭〕又過ヲ∨必靜・謐也。忘志皃。〔謙堂文庫藏二〇左D〕

とあって、この「堪否」の語注記は未記載にある。古版『庭訓往来註』には、

堪否(カンフ) ヲ理非 堪否(カンフ)トハ。人ノ浮沈(ウキシツミ)ノ事也。人間ハ一般(タビ)ハ榮(サカ)ヘ。一度(タヒ)ハ衰(ヲトロウ)ルナリ。是ニ依テ此(コノ)(カイ)ヲ穢土(ヱド)ト云リ。是ヲ堪否(カンフ)ト云フ。是ヲ知人慈悲(ジヒ)忍辱(ニンニク)ノ心ト云ナリ。〔十八オ一〕

とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

人之堪否堪否ハたゆるやいなやと訓す。堪るとハ其人賢(かしこ)くて、其職事(しよくじ)に叶ひたるなり。忌にして其職事に叶ハさるハ堪さる也。人/\の賢して其職事に叶ふと愚にして叶さるとを弁(わきまへ)にハ賞罰の二つを厳重にすれは知るし事なり。〔廿一ウ五〕

とある。ここから見るに、「カンヒ」と読んで、意味は職事における処理能力があるやいなやということであり、次に示す『日葡辞書』は、「カンプ」と読み、忍耐するやいなやということでその意味を読みによって使い分けていたことが考えられよう。

 当代の『日葡辞書』には、

†Canpu.カンプ(堪否) すなわち,Cannin,Bucannin.(堪忍,不堪忍)忍耐することと忍耐しないことと.〔邦訳91l〕

とある。

[ことばの実際]

一 右且隋奉公之浅深且糾器量之堪否各任時宜可被分充。《『御成敗式目』二七条》

2001年7月10日(火)晴れ。東京(八王子)⇒町田

「厳重(ゲンテフ・−ヂウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、

厳重(ゲンテウ)。〔元亀本216八〕

厳重(ゲンヂウ)。〔静嘉堂本246八〕

とあって、標記語「厳重」として、読みを元亀本は「ゲンテウ」(ゲンチョウ)と漢音読み、静嘉堂本は「ゲンヂウ」(ゲンジュウ)と漢音+呉音読みし、それぞれ第三拍めの清濁読みの異なりを示している。語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「厳重」と見え、『下學集』は、

厳重(ゲンチウ)。〔疉字門158五〕

とあって、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

厳重(ゲンヂヨウ/イツクシ,カサナル)[平・平去] 。〔態藝門594四〕

とあって、標記語を「厳重」とし、読みを「ゲンヂヨウ」と第二撥音拍の「ン」により第三拍めを濁音読みし、漢音「チヨウ」の読みを「ヂヨウ」とする。語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

厳重(ゲンヂウ)。〔・言語進退175五〕

厳重(ゲンデウ) ―密(ミツ)。―親(シン)。―命(メイ)。―誡(カイ)。〔・言語144三〕

厳重(ゲンデウ) ―密。―親。―命。―誡。〔・言語133九〕

とあって、標記語を「厳重」とし、読み方は弘治二年本が静嘉堂本『運歩色葉集』と同じ「ゲンジュウ」、永祿二年本尭空本が元亀本『運歩色葉集』、広本節用集』と同じ「ゲンヂョウ」とし、どうも当代において二種の読み方が併存していたようである。語注記は未記載としている。永祿二年本尭空本とは、「厳」を冠頭字とする熟語群「厳密、厳親、厳命、厳誡」の四語を割注にして収載する。そして、易林本節用集』においても、

嚴札(ゲンサツ) ―重(デウ)。―命(メイ)。―旨(シ)。―密(ミツ)。〔言辞216五〕

とあって、標記語を他『節用集』に見ない伝統ある不易語「嚴札」の語とし、「嚴」を冠頭字にする熟語として「厳重」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』に、

嚴重ゲンテウ。〔疉字中100オ四〕

とし、十巻本伊呂波字類抄』卷第七には、

嚴札 々親。々父々丈。々命。々重々制。々旨。々閤々威々孝カウ父也々粧ヨソヲヒ々刑々君々俊シユン。〔疉字ウ三〕

とある。ここには、『節用集』類の示す「嚴」を冠頭字とする熟語には未收載の語十語が見えている。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

188賞罰厳重ニシテ 黄帝蚩尤ケテ以来厳重也。雖然三皇賞、无罰。五帝有賞有罰也。〔謙堂文庫藏二〇左C〕

とあって、この「厳重」の語注記は未記載にある。古版『庭訓往来註』に、

嚴重(ゲンデウ)ニシテ而知之 嚴重トハ。有ベキ様ニアレト云心ナリ。道タル事ヲ云ナリ。〔十七ウ八〜十八オ一〕

とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Guengiu>.ゲンヂュゥ(厳重) 公平で厳格なこと.§Guegiuni xo<batuo vocono<.(嚴重に賞罰を行ふ)構成厳格に賞を与えたり,罰を加えたりする.⇒Guenmit.〔邦訳295r〕

とある。

[ことばの実際]

中ニモ梶井(カヂヰ)二品親王ハ、天台座主(テンダイノザス)ニ成(ナラ)セ給(タマヒ)テ、大塔(オホタフ)・梨本(ナシモト)ノ兩門迹ヲ●(アハ)セテ、御管領(ゴクワンリヤウ)(アリ)シカバ、御門徒(ゴモント)ノ大衆(ダイシユ)群集(クンジユ)シテ、御拜堂(ゴハイダウ)ノ儀式(ギシキ)嚴重(ゲンチヨウ)也。《『太平記』卷第五、持明院殿御即位事》

時の関白、大臣、公卿、女院、御息所、女御、更衣に至るまで、三会の暁慈尊出世の結縁の為と思しければ、道場に車を軋らし、仏前に踵をつきて、五障の雲を霽らし給ふ。既に時刻にもなりしかば、乃ち供養の儀式厳重也。当寺導師は当寺の長吏大僧正、しゆぐわんは天台座主とぞ聞えし。《お伽草子『俵藤太』》

 

2001年7月9日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「仁政(ジンセイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、「仁政」の標記語は未収載にある。「仁」を冠頭字にした熟語は、「仁義(ジンギ)・仁氣(―キ)・仁者(―シヤ)・仁躰(―タイ)」の四語にすぎない。『庭訓徃來』に「仁政」と見え、『下學集』は、「仁政」の標記語は未収載にする。広本節用集』は、

仁政(ジンセイ/ヒト,マツリゴト)[○・去] 。〔態藝門1004二〕

()(ナヲシ/ゴトシ)(ハル)ガ琴瑟(キンシツ)ヲ大絃(タイケン)(キウ)ナレバ者小絃(セウケン)(タウ)。(カルガユヘ)ニ子貢(シコウ)(ソシル)殲孫(センソン)ガ之猛法(マウハフ)ヲ而美(ホム)鄭尚(テイシヤウ)ガ仁政(ジンセイ)ヲ。同(後漢書)。〔態藝門579四〕

()(ジンセイ)(カン)ズルコト(タミ)ヲ(ズ)(サケ)猛虎(マウコ)モ礼記。〔態藝門1009六〕

とあって、標記語を「仁政」とし、読みを「ジンセイ」とし、語注記は未記載にする。そして「仁政」の語を有する故事句を二つ収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

仁政(ジンセイ)ヲ。〔・言語進退248三〕

仁政(シンセイ)ニ。〔・言語212五〕

(ソム)ク仁政(ジンセイ)ニ。〔・言語196四〕

とあって、標記語を「背仁政」とし、読み方は「仁政に(を)背く」とし、語注記は未記載としている。この語は、下記に示す『御成敗式目』からの引用に拠るものであろう。そして、易林本節用集』においても、

仁義(ジンギ) ―政(セイ)。〔言辞216五〕

とあって、標記語を「仁義」とし、「仁」を冠頭字にする熟語として「仁政」の語を収載する。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

187仁政之甚所致也 烟厚業_繁云二亊也。〔謙堂文庫藏二〇左B〕

とあって、この「仁政」の語注記は、「烟り厚く、業_繁しと云ふ二つの亊なり」という。古版『庭訓往来註』に、

仁政之甚(ハナハダシキ)カ(イタ)ス ハ人ノ祭(マツ)リゴト也。祭(マツリ)祀能ニ依テ王法モ無シ∨(ヲコタル)コトトホメタリ。〔十七ウ七〕

とあり、時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、

仁政之甚キカ 仁政ハ下をあはれミ惠ばよきまつりこと也。仁政を行(おこな)へハ甚民百姓多栄んと也。〔廿一ウ三〕

とある。

 当代の『日葡辞書』には、

†Iinxei.ジンセイ(仁政) Bujina matcurigoto,l,Vosame.(無事な政,または,治め)善い平和な政治.〔邦訳364l〕

とある。

[ことばの実際]

一 百姓逃散時逃毀損-亡事。右諸國住民逃脱之時其領主等逃_毀(ニケソコナヒ)‖-妻子‖_取資財所行之跂{企}甚仁-政[平濁,去]|。《鶴岡八幡宮藏本『御成敗式目』1232年・四二条》

2001年7月8日(日)晴れ。八王子大学セミナーハウス〔大学教員懇談会〕⇒東京(八王子)

「東西之業(トウザイのゲウ)」の語注記「西収(セイシユ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「世」部に、

西戌(―ゼウ)。〔元亀本353七〕

西戌(―ジウ)。〔静嘉堂本429三〕

とあって、標記語「西戌」として、読みを元亀本は「セイゼウ」、静嘉堂本は「セイジウ」とし、語注記は未記載とする。『庭訓徃來』に「東西之業」と見え、『下學集』は、対語である「東作」「東作業」と同じく、標記語「西収」「西成()」の両語とも未収載にある。広本節用集』は、

西収(せイシユ/―シユウ、ニシ,ヲサム)[平・平] 収秋田義。又西成同。〔態藝門1105二〕

とあって、標記語を「西収」とし、読みを「セイシュ」または「セイシュウ」とし、語注記を「秋田を収る義なり。また、西成も同じ」といった、対語「東作」の語注記と対応する注記と別標記である「西成」の語を収載するものである。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、「東作」(永禄二年本には収載)の対語を未收載にする。そして、易林本節用集』においても、同じく未収載としていることからも、『節用集』類では、広本節用集』がまさに整備しきれた辞書であるのに、他『節用集』類は、対語の意識からすれば、片手落ちの収載になっていることを認識せねばなるまい。

 そして、これと平行して、『運歩色葉集』の収載状況を推理するに、『庭訓徃來註』の語注記に示す「東作()」とその対語「西収」を編纂意識化においていたと考えねばなるまい。ところが、「西収」なる語は未收載であり、広本節用集』の語注記にいう別称語「西成」をもって標記語として収載しょうとしていたとすれば、上記に示した字形相似の「西戌」の標記語しか見出せないのである。そして、この写本二本をみるに、その読み方を異にしていることもその編纂者の意識から転写者の意識とに僅かのズレが生じていたと見ることもできるのではないか。二本どちらも、「西戌」としていることからは、編纂者の「」の文字表記が既に「」に見えるものであったにほかなるまい。ところで、「」の字音だが、漢音「シユツ」呉音「シュチ」慣用音「ジュツ」であるからして、この熟語は成立しない。さらに、これに近い文字として「」があり、「西戎」なる熟語が当時あることがこの「西成」と「西戎」とを一体化にしてしまった転写者の意識に働いていたことも重要である。編纂者が「西収」と「西成」とを并記するか注記表示していたならば、このような複雑な読み取りにならなかったのではなかろうかと思えてくる。こうして『運歩色葉集』二本の転写過程を眺めたとき、元亀本は「西成」の読み取り意識となり、静嘉堂本は「西戎」の読み取り意識となって表出しているものと考えてみた。

 この『運歩色葉集』の表記面での揺れは、当代にあって、「東作(業)」と「西収(期)」の対語意識感覚を失いつつあったことにつながる。両語を収載する広本節用集』編纂者の学問の確かさに比べ、これを対語として意識化に置かない多くの古辞書書写者の姿勢が辞書のもつ運用形態の利便度に走り、その基本となる指針の価値観を失わせしめていることをここに感じさせている。この点、下記に示すキリシタン宣教師による『日葡辞書』が本邦の古辞書である広本節用集』に匹敵する知的学問領域にあったことは、日本という国の情報性の正確さとしてここに改めて認識すべきことである。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

186東西之業繁 東作西収義也。〔謙堂文庫藏二〇左B〕

とあって、この「東西」の語注記は、「東(ハル)に作り、西(アキ)に収るの義なり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、

百姓之門東西之業繁 東ハ東作、西ハ西収、委くハ三月七日の書状に見へたり。〔廿一ウ二〕

 当代の『日葡辞書』には、

Xeixuno go.セイシュノゴ(西収の期) 稲の作物を取り入れたり,それを家の中へ収めたりする時期,すなわち,秋.〔邦訳748l〕

とある。

[ことばの実際]

同十一月十八日大嘗會遂行はる。去ぬる治承養和の比より、諸國七道の人民百姓等、源氏の爲に惱され平家の爲に亡され、家かまどを棄て山林にまじはり、春は東作の思を忘れ、秋は西收の營にも及ばず。如何にしてか樣の大禮も行はるべきなれ共、さてしもあるべき事ならねば、形の如くぞ遂られける。《『平家物語』卷第十・大嘗會沙汰》

2001年7月7日(土)曇り。東京(八王子)⇒八王子大学セミナーハウス〔大学教員懇談会〕

「東西之業(トウザイのゲウ)」から「東作」「東作業」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、

東作業(―サクギウ)東者春也。〔元亀本59五〕

東作業(―――)東者春也。〔静嘉堂本67七〕

東作業(トウサクケウ)東者春也。〔天正十七年本上34オ四〕

東作業(―サクケウ)東春也。〔西來寺本107二〕

とあって、標記語「東作業」として、語注記に「東は春なり」と記載するものである。『庭訓徃來』に「東西之業」と見え、『下學集』は、標記語「東西」「東作業」の両語とも未収載にする。広本節用集』は、

東作(トウサク/ヒガシ,ツクル)[平・去] 耕(タカヘス)‖春田ヲ|義。〔態藝門141四〕

とあって、標記語を「東作」とし、読みを「トウサク」とし、語注記を「春田を耕へす」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

東作(トウサク)―傾。―園(エン)。―西(サイ)。―海(カイ)。〔・言語45一〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「東作」とし、語注記部分に「東」を冠頭する熟語四語を収める。このなかに「東西」を収載している。ただ、これは永祿二年本のみである。そして、易林本節用集』においても、

東作業(トウサクケフ)農耕之名。〔言語46一〕

とあって、標記語を「東作」から「東作業」にしていることと、その語注記を「農耕の名」というように、農耕名の別名として位置付けている点において、広本節用集』の「東作」の語注記である「春田を耕へす」をさらに端的に表現しようとする意識をここに見ることができる。そして、『運歩色葉集』は、標記語のうえからは、広本節用集』や印度本系統の『節用集』類より、この乾本系の易林本節用集』と共通するといった不可解な関係をここにみることになる。そして、その語注記は『庭訓徃來註』の注記をどこまで意識していたのかという疑問にもなってくるのである。その意味からも、『庭訓徃來』の「東西之業」が「東作」や「東作業」という標記語形になっていったのかをさらに明らかにする必要がある。このとき、対語となる「西収」(下記『庭訓徃來註』の語注記にみえる)なる語の古辞書採録状況も考察せねばならない。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

186東西之業繁 東作西収義也。〔謙堂文庫藏二〇左B〕

とあって、この「東西」の語注記は、「東(ハル)に作り、西(アキ)に収るの義なり」という。 当代の『日葡辞書』には、

To>sacuguio>.トゥサクギョゥ(東作業) 年の初め,あるいは,春季に田を耕して準備すること.文書語.〔邦訳670l〕

とある。

[ことばの実際]

(ソノ)後后ハ宮中ヘ立歸リ、龍神ハ天ニ飛(ビ)去テ、風雨時ニ隨(シタガヒ)シカバ、農民東作(トウサク)ヲ事トセリ。《『太平記』卷第三十七○身子聲聞、一角仙人、志賀寺上人事》

始自東作西収常致五穀成就稼穡豊兆之祝。《天正本新撰類聚往来』上》

2001年7月6日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「興行(コウギヤウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、

興隆(コウリウ)。興行(―ギヤウ)。興亡(―バウ)。興衰(―ズイ)。興廃(―ハイ)。〔元亀本231五〕

興隆(コウリウ)。興行(―キヤウ)。興亡(―バウ)。興衰(―スイ)。興廃(―ハイ)。〔静嘉堂本265六〕

―行(―キヤウ)。興隆(コウリウ)。興亡(―ハウ)。興衰(―スイ)。興廃(―ハイ)。〔天正十七年本中61ウ五〕

とあって、標記語「興行」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「興行」と見え、『下學集』は、

興行(コウキヤウ)。〔言辞148七〕

とあって、標記語「興行」の語注記は未記載にある。広本節用集』は、

興行(コウギヤウ,―ヲコナフキヨウ・ヲコル,カウ・ユク・ツラナル)[去・平] 。〔態藝門680三〕

とあって、標記語を「興行」とし、読みを「コウギヤウ」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

興行(―ギヤウ) 。〔・言語進退189六〕

興行(コウキヤウ)。〔・言語155三〕

興隆(コウリウ) 。―廢。〔・言語145三〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「興行」とし、語注記は未記載としている。このうち、尭空本は、「興隆」の「興」の字を冠頭にする語群として収載する。そして、易林本節用集』においても、

興隆(コウリウ) ―行(ギヤウ)。〔言辞159一〕

とあって、標記語を「興行」とし、尭空本と同じく「興」を冠頭にする熟語として収載する。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

183久不案内之間不審千萬何等御亊候哉抑御領興行之段 百廢一到義也。〔謙堂文庫藏二〇右G〕

久不(ケイ)‖案内(アン―)ヲ|之間不審(シン)千万何等(ナンラ)ノ御亊候哉抑御領興行之段(タン) 百廢、一マルノ義也。〔静嘉堂本古写本〕

※悪亊ヲ善亊ニ行フヲ云也。〔国会図書館藏左貫注書込み〕

とあって、この「興行」の語注記は、「百廢一{新}の義なり」という。また、左貫注に、「悪亊を善亊に行ふを云ふなり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Co>guio<.コウギヤウ(興行)Vocoxi vocono<.(興し行ふ)何か遊び事とか宴会とかをするように人々にすすめ,あるいは,人々を説きつける.§Asobino co>guio<uo suru.(遊びの興行をする)自ら或る遊び事の主人役,あるいは,世話役になって,その遊び事をしようと人にすすめる.〔邦訳141l〕

とある。

[ことばの実際]

[乱拍子△不合強] シテ道成(みちなり)の卿、うけたまはり、始めて伽藍(がらん)、たちばなの、道成(みちなり)興行こおぎよおの寺(てら)なればとて、道成(どおじよお)(大乗)(じ)とは名付(なず)けたり 地や《謡曲・信光の能『道成寺』136十二》意味:創立。建立。

2001年7月5日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「不審(フシン)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「不」部に、

不審(フシン)。〔元亀本221四〕

不審(――)。〔静嘉堂本252七〕

とあって、標記語「不審」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「不審」と見え、『下學集』は、

不審(フシン)。〔言辞151五〕

とあって、標記語「不審」の語注記は未記載にある。広本節用集』は、

不審(フシン,アラズフウ・イナヤ,ツマビラカ)[平・上] 。〔不・態藝門628二〕

とあって、標記語を「不審」とし、読みを「フシン/フウ―」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

不審(―シン) 。〔・言語進退182二〕

不慮(フリヨ) ―日(ジツ)。―直(チヨク)。―熟(シユク)。―淨(ジヤウ)。―足(ソク)。―通(ツウ)。―滿(マン)。―律。―弁(ヘン)。―明(ミヤウ)。―陳(チン)。―便(ビン)悼(イタム)意。―定(ヂヤウ)。―敵(テキ)。―具(ク)。―犯(ボン)。―運(ウン)―審(シン)。―食(シヨク)。―當(タウ)。―実(ジツ)。―見(ケン)。―易(エキ)。―断。―敏(ビン)鈍(ドン)ナル皃チ。―調(デウ)婬乱義。―辨(ベン)不足之義。―快(クハイ)心中悪皃。―會(クハイ)不合義。―覺(カク)失錯義。―孝(カウ)――其子不隋順父母ノ|。―祥(シヤウ)無心義。―悉(シツ)書札。―備(ビ)同上。―合(ガウ)不和合義。―法(ホウ)懈怠(ケタイ)。―和(ワ)ノ之命也。―得心(トクシン)。―肖(セウ)卑体也似也。――トハ人倫義卑下詞也。―思儀(シギ)。〔・言語149三〕

不慮(フリヨ) ―日。―直。―熟。―淨。―足。―通。―滿。―律。―弁。―明。―便。―陳。―定。―敵。―具。―犯。―運。―審。―食。―當。―實。―見。―易。―断。―敏鈍皃也。―調婬乱義。―快。―會。―覺。―孝其子不父母之命ニ|―作。―同。―如意。―祥无義。―悉書札未用。―備同上。―合不和義。―法懈怠。―和。―肖。―遜。〔・言語139三〕

とあって、弘治二年本は標記語を広本節用集』と同じく「不審」とし、語注記は未記載としている。また、他二本については標記語「不慮」の「不」熟語群に「不審」の語を収載する。そして、永祿二年本と尭空本とでは、収録語における若干の異なりが見うけられるのである。そして、易林本節用集』においても、

不審(フシン) ―儀(ギ)。―信(シン)。―便(ビン)。―法(ホフ)。―淨(ジヤウ)。―祥(シヤウ)。―説(セツ)。―調(デウ)。―堪(カン)。―運(ウン)。―増(ゾウ)。―減(ゲン)。―退(タイ)。―通(ツウ)。―婬(イン)。―忠(チウ)。―安(アン)。―出(シユツ)。―熟(ジユク)。―孝(カウ)。―定(ヂヤウ)。―實。―慮(リヨ)。―覺(カク)。―闕(ケツ)。―快(クワイ)。―犯(ボン)。―断(ダン)。―動(ドウ)。―當(タウ)。―日(ジツ)。―具(グ)。―易(エキ)。―辨(ベン)。―敵(テキ)。―參(サン)。―如意(ニヨイ)。―知案内(チアンナイ)。―思議(シギ)。―得心(トクシン)。〔言辞150七〕

とあって、標記語を「不審」とし、「不」を冠頭にする熟語を四十語添えている。印度本系統『節用集』類とは、排列を含収録語の異なりが見られる。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

不審(イフカシ)フシン。〔黒川本、中・疉字一〇七オ,423七〕

不羈(―キ)  々覺。々通。々用。々審。々断。々日。々善。々調。々了。々意。々慮。々和。々合。々次一乍翅。々幸。々運。々澤。々諧。々肖〓(厂+肖)同。々便。々熟。々登。祥々。定々。朽々。々仕。々足。々享キヤウ。々請。々義。々欽ツヽシマス。々虞。々易エキ。々忠。々敵。々圖。々善。々當。々具。々遇。々孝。々請。々備。々情セイ。々快。々別。々思議。々中用。々足言。々周風西北風也。〔十巻本・疉字79四〕

とあって、標記語「不羈」の「不」熟語五十語を収録し、『節用集』類はこの系統によって収載するものであるが、異なりを見せている。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

183久不案内之間不審千萬何等御亊候哉抑御領興行之段 百廢一到義也。〔謙堂文庫藏二〇右G〕

遠近ノタツキモ知ヌ中ニ不審(ヲホツカナク)モヨブコ鳥カナ〔国会図書館本左貫注頭注書込み〕

とあって、この「不審」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓往来註』に、

不審(フシン)千萬(センバン)何等(ナンラ)ノ御亊候乎(ソモ/\)御領興(コウ)行之段 不審(フシン)トハ。オボツカナシト云心也。アキラメズトモヨメリ。〔十七ウ二〕

とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Fuxin.フシン(不審) Tcumabiracanarazu.(審かならず)疑問・疑惑.例,Fuxinuo farasu.(不審を晴らす)疑問を解決する,または,疑いを払い捨てる.§Fuxinuo to>.(不審を問ふ)ある疑問について質問する.§Fuxinuo sannzuru.(不審を散ずる)ある疑問を解く,あるいは,取り除く.§Fuxinuo caquru.(不審を掛くる)ある疑問を提起する.⇒Acaxi,su;Iycaqe,uru.〔邦訳288l〕

とある。

[ことばの実際]

次応永四年祖母伊子々譲状、時代不審之由、眞坂申。《『東寺百合文書』を・応永十四年十月日・細川常文元光目安案》

2001年7月4日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「案内(アンナイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、

安内(―ナイ)。〔元亀本257五〕

案内(アンナイ)。〔静嘉堂本290五〕

とあって、元亀本は「安」の字で収載するが、静嘉堂本の「案」がよい。そして、標記語「案内」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「案内」と見え、『下學集』は、この標記語「案内」の語を未収載にする。広本節用集』は、

案内(アンナイ/ヲシマヅキ・カンガヘ,ダイ・ウチ)[去・上] 。〔不・態藝門629二〕

案内(アンナイ/ヲシマヅキ・カンガウ,ダイ・ウチ)[去・去] 。〔安・態藝門751一〕

とあって、標記語を「案内」とし、読みを「アンナイ/ダイ」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

案内(アンナイ) 。〔・言語進退207五〕

案内(アンナイ) ―外(アンノホカ)。〔・言語171五〕

案内(アンナイ) ―外。如―。〔・言語160五〕

とあって、弘治二年本は標記語を広本節用集』と同じく「案内」とし、語注記は未記載としている。また、他二本については標記語「案内」の「案」熟語群に「案外」さらには「如案」を注記のなかに収載する形態になっている。そして、易林本節用集』においても、

案内(アンナイ) ―文(モン)。〔言辞172四〕

とあって、標記語を「案内」とし、「案」を冠頭にする熟語「案文」を添えている。印度本系統『節用集』類の「―外。如―」といった二語が未記載であり、これに替って「―文(モン)」の一語を収載している。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

案内アンナイ。〔黒川本、下・疉字三二ウ,492三〕

案頭 々上。々下。々内。々文。〔十巻本・疉字355六〕

と収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

183久不案内之間不審千萬何等御亊候哉抑御領興行之段 百廢一到義也。〔謙堂文庫藏二〇右G〕

とあって、この「案内」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓往来註』に、

久不案内之間ト云事兼(カネ)テ人ニ知せヌ事ヲ俄(ニハカ)ニ謂(イヒ)(シラ)スルヲ。案内(アンナイ)ト書テウチヲウカヾフト讀(ヨム)也。是ニ深キ喩(タトヘ)アリ。昔(ムカシ)太唐ニ王範(バン)ト云シ者アリ。學問(ガクモン)ノ為(タメ)ニ他國へ出ヅ。或(アル)時女房(バウ)ニ謂(イヒ)(フクメ)テ曰。我ハ學文せントテ他ノ國ヘ罷(マカリ)出ツ。汝(ナンチ)此家ニ有ツベクハ。三年せガホド居ヨ其内ニ皈ルベシトテ出ニケリ。角(カク)テ女房ハ王範(ワウハン)ガ在(アリ)シ如ク嚴(イツク)シクシテ(スミ)ニケリ。昼(ヒル)ハ掃巾(ハキヌゴ)ヒ家ヲ拵(コシラ)ヘ。夜ハ鎧(ヨロヒ)ヲ著シテ冠(カフリ)ヲキ。打物ヲ脇(ワキ)ニ捕(ハサン)デ。四壁(シヘキ)ヲ廻(メグ)ル也。サテ王範(ハン)ハ。楊州國ト云國ニ行テ學問シケルホドニ七年マデ居タリ。學文窮(キワメ)テ皈(カヘ)ラントスル時。又百日ガ程思案(シアン)ト云。二字ヲ學問シケリ。カクテ七年ト云ニ。本国ヘ皈リケリ。道ノホド遠(トヲ)シ家路(ヂ)ニ皈ル。日暮(クレ)テケリ。可波(ガハ)ト内ヘハ入廻(マワリヲ)ミケレバ。古(イニシ)ヘ我栖(スミ)シヤウニハナクテ森(シン)々トシテ人音(ヲト)せズ。門外ヨリ草深クシテ又イブセカリシカバ。此家ニハ人棲(スマ)ヌニコソト。思ヒアヂキナク物スゴクアリケリ。我出シ時三年ガホドヽ云テ七年餘リ居(イ)テ皈(カヘ)レバ妻(ツマ)モヤハ今マデ有ヌベキ我誤(アヤマツ)テ思シナリトテ。立ヤスライケリ。サテシモアラズ。虚(ムナジ)キ茅屋(バウヲク)ナリ共。ミマクホシク思テ。門(カド)ニ入テミレバ。小門ヲ閉(トヂ)テ開(ヒラカ)レズ。去(サレ)ハ若(モシ)人有モヤスラントテ入ラズ。行ミケリ。カヽル処ニ。内ヨリヨロヒ著(キ)テ冠(カフリ)(タイ)シタル者ノ。打物ノサヤヲ。ハヅシ月ノ指(サシ)タル屋カゲヲ忍(シノ)ビ/\ニ廻(マワ)リケリ。王範(バン)是ヲミテ去(サレハ)コソ問(トハ)ザリケリトテ。新枕(ニイマクラ)ヲ定(サダ)メケルガ吾ガ來(ク)ルヲ知テ害(ガイ)せントテ來ルナリ。爰ニテ今命ヲ果(ハタ)スコソ故郷ノ餘波(ナゴリ)モ是マデ成ケレ。尤(トガ)メント思シガ中ニテ心ヲ引返(カヘ)シコヽコソ學問(カクモン)ノ竒特(キドク)ノナス処ヨ、我皈國せント申せシ際(キワ)ニ百日思案(シアン)ト云。二字ヲ學文サセラレタリ。シアンせヨトテ。尤(トガ)メザリケリ。猶(ナヲ)今ノ緒(ヨロ)ヒタル武者(ムシヤ)(マハ)ル程ニ小門近寄(チカヨリ)ケリ。王範(ハン)思ヒケルハ如何様ニモ。角(カク)穏便(ヲンビン)ニテ有モ心苦(クル)シヽ。先(マツ)(ウカヾ)フテ見テ彼(カレ)ガ詞(コトバ)ニ付テ尋(タツネ)ヨラントテ。突(ツキ)タリシ杖(ツヘ)ヲ彼(カレ)ガ甲冑(カフチウ)シタル武士(フシ)ニナゲ懸(カケ)タリシ武者周章(アハテ)(サワ)ギテ云ク何ニナニ者ゾ。妻(ツマ)ガ。ナカリシ跡(アト)ニ家ヲ守ル者ナリ。誤(アヤマツ)テ誑(タボラカ)ストモ已(スデ)ニ寄(ヨツ)テ我レ恨ムナヱイトテ。持(モチ)タリシ打物ヲ。ヒラメカシケリ。其声(コヘ)ヲ聞バ古ヘチギリシ妻(ツマ)ノ声也。王範(ハン)(ヒソカニ)思ケルハ。穴賢(アナカシコク)(ヨク)コソシアンシタレ。楚忽(ソコツ)ニ誤(アヤマリ)モアラバ。我學文シタル甲斐(カイ)有ベカラズサラバ。名乗(ナノル)ニコソト思ヒ我ハコレ。古ヘ學文ニ出シ王範ゾト云ケレバ。多ク星霜(セイサウ)ヲ送リケレトモ。夫婦(フウフ)ノ契(チギ)リ絶(タヘ)ザレバ頓テ妻(ツマ)ノ声トキヽ知テ我四度計(シドケ)無ク。麁(アラ)キ姿(スガタ)ヲ恥(ハチ)テウツブシニ伏(フシ)テ。ハヂ悲(カナシ)ミケリ。其後様々語ラヒヨツテ本ノ元委王範トチギリケリ。他国ノ師匠(シヤウ)カヽル事ヲ兼(カネ)テ知テ。思案ト云。二字ヲ習ハせケリトテ。シアント云事モ。其時ヨリ始レリ。アンナイノ案ノ字ハ。冠(カフリ)シテ女ヲ書テ。ヒラギスルコト冠(カフリ)キタル女ニ杖(ツヘ)ヲ投懸(ナゲカケ)シヨリ。案内トハ。是ナリ。去バコソ内ヲウカヾフトヨミニケレ又安(アン)ノ字(ジ)カフリニ女書モ此トキヨリ始(ハジ)マレルナリ。〔十六ウ二〜十七ウ二〕

とあって、太唐の王範にまつわる故事を注記掲載する。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』に、

久不セ‖案内ヲ|之間不審千萬、久しく事の様子を申上られさるによりて君にハ案しさせ玉ふとなり。〔廿一オ四〕

という。

 当代の『日葡辞書』には、

Annai.アンナイ(案内) 前もって知らせること,あるいは,最初にことづけること.§Annaiuo yu<.l,annaiuo feru.(案内を言ふ.または,案内を経る)同上.§Annai uo vcago<(案内を窺ふ)戦争の時などに,戦場などを調べたり,偵察したりする.§Annaiuo xiru.(案内を知る)道を知る,入口や出口を知る.§Annaiuo mo<su.(案内を申す)知らせる,あるいは,ことづけする.〔邦訳27l〕

とある。ここで、古辞書のなかで、『庭訓徃來』所載の語である「案内」を未収載としている古辞書は、『下學集』だけとなり、広本節用集』、印度本系の弘治二年本節用集永祿二年本尭空本節用集』乾本系の易林本節用集』『運歩色葉集』は、読み表記を「アンナイ」とし、この語を『庭訓往来註』と同じく「案内」で採録しているのである。

[ことばの実際]

細川計略によって、<略>先禁裏仙洞両殿を宝輦を勧め奉り、其後今出河殿え案内を啓し奉る。《『応仁略記』下・今出川殿伊勢之国御下向事,群書類従20》

2001年7月3日(火)晴れ。東京(八王子)⇒新宿

「進上(シンジヤウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、

進上(―ジヤウ)。〔元亀本305I〕

進上(――)。〔静嘉堂本356C〕

とあって、標記語「進上」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「進上」と見え、『下學集』は、

この標記語「進上」の語を未収載にする。広本節用集』は、

進上(シンジヤウ/スヽム\カミ) 。〔態藝門934六〕

とあって、標記語を「進上」とし、読みを「シンジヤウ」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

進上(シンジヤウ) 。〔・言語進退246四〕

進覧(シンラン) ―發。―上。―入。―献。―退。〔・言語209九〕〔・言語194一〕

とあって、弘治二年本は標記語を広本節用集』と同じく「進上」とし、語注記は未記載としている。また、他二本については標記語「進覧」の「進」熟語群の第二に「進上」を収載し、その読みも示されていない。そして、易林本節用集』においても、

進退(シンダイ) ―物(モツ)。―納(ナフ)。―發(ハツ)。―善(ゼン)。―止(シ)。―覧(ラン)。――惟谷(コヽニキハマル)。〔言辞216四〕

とあって、標記語を「進退」とし、「進」を冠頭にする熟語を添えているが、印度本系統『節用集』類の「―上。―入。―献」といった三語が未記載であり、これに替って「―物(モツ)。―納(ナフ)。―止(シ)」の三語を収載している。ここでは当面の『庭訓徃來』使用にある「進上」の語は削除されているのである。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「進善シンセン/幡名也」「進止シンシ」「進發シンハツ」「進退往来ト/シンタイ」の三語を収載するのみで、「進上」の語はここには見えない。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

182進上玄番允殿 進上謹上下也。然有職高用也。自謹上上也。自我十分上ニハ傳奏書也。〔謙堂文庫藏二〇右E〕

とあって、この「進上」の語注記は、「進上謹上より下なり。然るを有職に用い、付て高用なり。謹上より上なり。我より十分上の人には傳奏と書くなり」とある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』や頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、

進上(しんじやう)。〔十七ウ上〕〔三十オ二〕

という。また『庭訓往来註』語注記の「傳奏」の語は『運歩色葉集』の「天」部に、

傳奏(―ソウ)。〔元亀本245二〕〔静嘉堂本283一〕

とあって、語注記は未記載にあるが、「我より十分上の人には傳奏と書くなり」という注記により意味するところが見えてくる。

 当代の『日葡辞書』には、

Xinjo<.シンジョウ(進上) 高貴な方へ捧げること.あるいは,差し上げること.例,Xinjo< itasu.〔邦訳770r〕

Tenso>. テンソゥ(伝奏) すなわち,So>monno yacu.(奏聞の役) 国王へ言葉を取り次いだり,お話し申し上げたりする役目.⇒Denso>(伝奏).〔邦訳647l〕

Denso>.l,Tenso>. デンソゥ.または,テンソゥ(伝奏) Tcutaye mo<su.(伝へ奏す)受付の職,すなわち,伝言を取り次ぎ,外から申して来たことを主君に知らせる役.⇒次条.〔邦訳184l〕

†Den so>.デンソゥ(伝奏) 国王に申し上げること.〔邦訳184l〕

とある。ここで、古辞書のなかで、『庭訓徃來』所載の語である「進上」を未収載としている古辞書は、『下學集』と乾本系の易林本節用集』だけとなり、広本節用集』、印度本系の弘治二年本節用集永祿二年本尭空本節用集』『運歩色葉集』は、読み表記を「シンジャウ」とし、この語を『庭訓往来註』と同じく「進上」で採録しているのである。

[ことばの実際]

經六百五十七部、ソノ外佛經ヤ天竺ノ宝モノナドツヽミモタシテ…太宗ニ進上セラレタゾ。《『玉塵抄』1563・巻第一》

義經恐惶謹言。元暦二年六月五日 源義經 進上 因幡守殿へとぞ書かれたる。《『義経記』卷第四・腰越の申状の事》

宮は蝉折せみをれ、小枝といふ漢竹かんちくの笛を二つ持たせられたが、その蝉折をば金堂の彌勒へ、今生の祈祷のためかまたは後生のためにか寄進させられて出させらるゝ所に、慶秀けいいうは杖にすがつて宮のお前へ參つて申したは、「私は年もすでに八十に及うでござれば、供奉ぎやうぶも叶ひがたうござるによつて、お暇を申してまかり留まる。弟子でござる俊秀しゆんいう〔マヽ〕進上いたす。これは幼少から跡懷あとふところで(*実子同様に)生ひたゝせて心の底まで知つてござる。これをばどこまでも召しつれられい」と申しもあへいで、涙に咽ぶを、宮御覽ごらうぜられて、「いつのよしみにかうは申すぞ」と仰せられて、宮も御涙を流させられた。《天草版平家物語』二》

2001年7月2日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「参會(サンクワイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、

参會(サンクワイ)。〔元亀本267I〕

参會(サンクワイ)。〔静嘉堂本304F〕

とあって、標記語「参會」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「参會」と見え、『下學集』は、

この標記語「参會」の語を未収載にする。広本節用集』は、

参會(サンクワイ/マイル,アツマル) 。〔態藝門784六〕

とあって、標記語を「参會」とし、読みを「サンクワイ」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

参會(サンクワイ) ―扣(コウ)。―篭(ロウ)。―詣(ケイ)。―暇(カ)。―禪(ゼン)。―学(ガク)斈同。―内(ダイ)。―謁(エツ)。―賀(カ)。―上(ジヤウ)。―拝(ハイ)。―入(ニウ)。―社(シヤ)。―决(ケツ)。―謝(ジヤ)。〔・言語進退214三〕

参會(サンクワイ) ―詣(ケイ)。―禪(ゼン)。―暇(カ)。―斈(ガク)。―篭(ロウ)。―賀(カ)。―入(ニウ)。―上(ジヤウ)。―謁(エツ)。―内(ダイ)。―拝(ハイ)。―决(ケツ)。―扣(コウ)。―謝(ジヤ)。―社(シヤ)。〔・言語178三〕

参會(――) ―詣。―禪。―暇。―斈。―篭。―賀。―入。―上。―謁。―内。―拝。―决。―扣。―謝。―社。〔・言語167四〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「参會」とし、語注記は未記載としている。そして、易林本節用集』においても、

参會(サンクワイ) ―列(レツ)。―候(コウ)。―社(シヤ)。―洛(ラク)。―仕(シ)。―拝(ハイ)。―謁(エツ)。―賀(カ)。―籠(ロウ)。―詣(ケイ)。―内(ダイ)。―上(ジヤウ)。―向(カン)。―集(シフ)。―著(チヤク)。―宮(グウ)。〔言辞180四〕

とあって、標記語を「參會」とし、「參」を冠頭する熟語を添えているが、印度本系統『節用集』類の「―禪(ゼン)。―暇(カ)。―斈(ガク)。―入(ニウ)。―决(ケツ)。―扣(コウ)。―謝(ジヤ)」といった七語が未記載であり、これに替って「―列(レツ)。―候(コウ)。―洛(ラク)。―仕(シ)。―向(カン)。―集(シフ)。―著(チヤク)。―宮(グウ)」の八語を収載している。

 鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「參入サンニウ。參拝サンハイ。參仕サンシ」の三語を収載するのみで、「參會」の語は見えない。

 これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、

參會可申入候之旨参会者也恐々謹言〔謙堂文庫藏二〇右B〕

とあって、この「參會」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』や頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、

参上(さんじやう)。〔十七ウ上〕〔三十オ二〕

という標記語に置換しているのである。

 当代の『日葡辞書』には、

Sanquai.サンカイ(参会) Mairivo<.(参り会ふ)親密な交際,すなわち,親交.§また,人と出会うこと,または,面会すること.例,Sanquai suru.(参会する)〔邦訳556l〕

とある。ここで、古辞書のなかで、『庭訓徃來』所載の語である「参會」を未収載としている古辞書は、『下學集』だけとなり、広本節用集』、印度本系の弘治二年本節用集永祿二年本尭空本節用集』乾本系の易林本節用集』『運歩色葉集』は、読み表記を「サンクワイ」とし、この語を『庭訓往来註』と同じく「参會」で採録しているのである。

[ことばの実際]

堅固物忌蟄居之間不參會|。《『明衡徃来』上本》

兩六波羅モ名越(ナゴヤ)尾張(ノ)守モ、足利殿ニカヽル企(クハダテ)(アリ)トハ思(オモヒ)モ可寄事ナラネバ、日々(ヒビ)參會(サンクワイ)シテ八幡(ヤハタ)・山崎ヲ可被責内談評定(ナイダンヒヤウヂヤウ)、一々(イチイチ)ニ心底(シンテイ)ヲ不殘被盡サケルコソハカナケレ。《『太平記』卷第九○山崎攻事久我畷合戰事》

2001年7月1日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

「披露(ヒロウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「飛」部に、

披露(ヒロウ)。〔元亀本339F〕

披露(ヒロウ)。〔静嘉堂本407A〕

とあって、標記語「披露」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に「披露」と見え、『下學集』は、

この標記語「披露」の語を未収載にする。広本節用集』は、

披露(ヒロ/ヒラク,ツユ・アラワス) 。〔態藝門1038G〕

とあって、標記語を「披露」とし、読みを「ヒロ」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

披露(ヒロ) 。〔・言語進退256B〕

披露(ヒロウ) ―閲。―見。―講。―分。―〔・言語218E〕

披露(ヒロウ) ―閲。―見。―講。―分。〔・言語203F〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「披露」とし、弘治二年本が同じ「ヒロ」と読み、他二本は「ヒロウ」と読み表記する。語注記は未記載だが、永祿二年本尭空本節用集』は、「披」を冠頭する熟語を添えている。そして、易林本節用集』においても、

披覧(ヒラン) ―陳(チン)―露(ロ)。―見(ケン)。―閲(エツ)。〔言辞226二〕

とあって、標記語を「披覧」とし、「披」を冠頭する熟語を添えているなかに置く。

鎌倉時代の『色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には

披露 同(雑部)。ヒロウ。〔疊字・黒川本615D〕

披露 ―覧。―見。―陳。―閲エツ。―講。〔十、疉字367E〕

とある。

 これを『庭訓往来註』三月十二日の状に、

參會可申入候之旨披露者也恐々謹言〔謙堂文庫藏二〇右B〕

とあって、この「披露」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃來註』に、

披露(ヒロウ)者也 トハ。ツユヲヒラクト書(カク)ナリ。文選(モンゼン)ノ表ノ巻ニ曰ク忍(シノ)ビ來ル邑(ユウ)人諸草(シヨサウ)ノ露(ツユ)ヒライテ後一節ノ文ハ萬人是ヲ知ト云ヘリ。人一圓(エン)(シラ)ヌ事ヲ今初(ハジメ)テ諸人ニシラスルコトナリ。〔上十六オ六〕

とあって、語注記の内容は、「披露とは、ツユヲヒラクと書くなり。『文選』の表の巻に曰く、忍び来たる邑人、諸草の露ひらいて後一節の文は萬人是を知ると云へり。人一圓、知らぬ事を今初めて諸人にしらすることなり」とその由来を説明するもので他に追随を見ない注記である。時代は降って、江戸時代の『庭訓徃来捷註』には、

披露(ひろう)▲披露ハひらきあらハすと訓す。此おもむきを君に申上玉ハれと也。〔廿ウG〕

とある。また、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃来講釈』(弘化二乙巳十二月刊)に、

披露(ひろう)▲披露、披(ひ)ハひらき、露(ろう)ハあらハす也。〔十七ウ@A〕〔三十ウC〕

という。

 当代の『日葡辞書』には、

Firo>.ヒロウ(披露) Firaqi arauasu.(披き露はす)すなわち,Xujinno mayeni monouo mo<su.(主人の前にものを申す)主人,または,貴人に話す,あるいは,進言する.§Firo>suru.(披露する)同上.〔邦訳243l〕

とある。ここで、古辞書のなかで、『庭訓徃來』所載の語である「披露」を未収載としている古辞書は、『下學集』だけとなり、広本節用集』、弘治二年本節用集』、易林本節用集』は、読み表記を「ヒロ」とし、印度本系の永祿二年本尭空本節用集』を含めた『節用集』類、『運歩色葉集』はすべて「ヒロウ」と読み表記し、この語を『庭訓往来註』と同じく「披露」で採録している。

[ことばの実際]

鹿之介は大力武勇(<ぶよう>)の大男也。しかも二刀(<たう>)を得たる者(もの)なれば、たやすく討(う)たるまじ。いかにも謀(はかりこと)を以(もつ)て打べしとして、二人の侍(<さぶらひ>)御勘氣(<かんき>)(かうぶ)りたりと披露(<ひろう>)して引込(こ)み、鹿之介が許(もと)に行ける。《仮名草子『浮世物語』》

斯かりし程に、「天に口なし、人を以て言はせよ」と、誰が披露するともなけれども、忠信が都に在る由聞えければ、六波羅より探すべき由披露す。《『義経記』》

「サラバ謀(ハカリコト)ヲ回(メグラ)スベシ。」トテ、杵臼我(ワガ)子ノ三歳ニ成(ナリ)ケルヲ舊主(キウシユ)ノ孤(ミナシゴ)ナリト披露(ヒロウ)シテ、是(コレ)ヲ抱(イダ)キカヽヘ、程嬰ハ主(シユ)ノ孤(ミナシゴ)(ミツツ)ニナルヲ我(ワガ)子ナリト云(イヒ)テ、朝夕是(コレ)ヲ養育(ヤウイク)シケル。《『太平記』卷第十八○瓜生判官老母事程嬰杵臼事》

 

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