2001年10月1日から10月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2001年10月31日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「室兵庫の舩頭(むろヒャウゴのセンドウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「牟」「飛」「勢」部に、

(ムロ)。〔元亀本177十〕  兵庫(―ゴ)唐名武庫。〔元亀本341十〕

(ムロ)。〔静嘉堂本198七〕 兵庫(―ゴ)唐名武庫。〔静嘉堂本409八〕舩頭(―ドウ) 。〔静嘉堂本425六〕

〔天正十七年本中2ウ四〕

とあって、「」と「舩頭」の語注記は未記載にあり、「兵庫」は、「唐名武庫」として収載する。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

室兵庫舩頭」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

室兵-舩-頭()」〔山田俊雄藏本〕

室兵庫舩頭」〔経覺筆本〕

室兵庫舩頭」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』には、標記語を「」「兵庫」「舩頭」の三語は未収載にある。次に、広本節用集』は、

(ムロシツ,イヱ)[入]。〔家屋門459一〕

兵庫(ヒヤウヘイ・ツワモノ,クラ)[平・去]攝州。〔天地門1026八〕

舩頭(せンドウ/フネ,カシラ)[平・平] 又作舩通舟主。〔人倫門1081五〕

とあって、標記語を「」「兵庫」「舩頭」とし、その語注記は「兵庫」に「攝州」、「舩頭」に「又作舩通。舟主」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

(ムロ)。〔・天地145一〕〔・天地116二〕〔・天地106二〕

兵庫(ヒヤウゴ)攝州。〔・天地250五〕

兵庫(ヒヤウゴ)。〔・天地214五〕〔・天地199八〕

舩頭(―ドウ) 舟主。〔・人倫263一〕

舩頭(―ドウ) 舟主(フナヌシ)。又―通。〔・人倫224二〕

舩頭(―ドウ) 舟主。又―通。〔・人倫211一〕

とあって、標記語「」「兵庫」「舩頭」とあり、その語注記は、標記語「兵庫」は、弘治二年本だけが「攝州」という。標記語「舩頭」の語注記は「舟主」が三本共通であり、あとの「又舩通」は永祿二年本尭空本のみにある。また、易林本節用集』は、

(ムロ)。〔乾坤114一〕

兵庫(ヒヤウゴ)。〔乾坤221二〕

船頭(せンドウ) 舟主。〔人倫233六〕

とあって、標記語を「」「兵庫」「船頭」とし、標記語「船頭」の語注記は「舟主」というにとどまる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

(シツ)ムロ。〔黒川本・地儀中42オ五〕  ムロ。〔卷第五・地儀103一〕

兵庫寮ヒヤウコ。〔黒川本・官職下95ウ二〕

兵革 〃士。〃具。〃舩。〃庫。〃伏。〃乱。〃器。〃戈。〔卷第十364四〕

舩舫(フネ,フネ)舟楫ト/せンハウ。船頭同。〔黒川本・疉字下104ウ四〕

舩筏 〃舫。〃頭。〔卷第十458三〕

とあって、標記語「」「兵庫」「舩頭」の語のうち三卷本は標記語「兵庫」としては未収載にある。また、十巻本はこの三語を収載するが、語注記は未記載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

247室兵庫(モロヒウコ)ノ-(トウ)淀河尻(ヨトカハシリ)ノ刀根(トネ) 山城旅人宿所云刀根|。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來註』古寫〕「刀根」大夫唐名也/力賃取物也。〔同上書込み〕※「室兵庫-」の語句を謙堂文庫藏『庭訓徃來註』は、脱句。

とあって、標記語「室兵庫舩頭」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

室兵庫(ムロヒヤウコ)ノ舩頭(せントウ)ト云事ハ。室兵庫(ムロヒヤウゴ)ニハ舩(フネ)ニヨク乗(ノル)者アリ。舩ノ道ヲ知(シル)也。〔下初ウ四〕

とあって、この標記語「室兵庫舩頭」の語注記は、「舩によく乗る者あり。舩の道を知るなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

室兵庫(むろひやうご)ノ舩頭(せんどう)…問丸(とひまる)室兵庫舩頭問丸。廿七オ五〕

とし、標記語「室兵庫舩頭」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

室兵庫(むろひやうご)ノ舩頭(せんどう)室兵庫舩頭ハ播磨(はりま)兵庫ハ攝津(せつつ)。〔二十二ウ七〕

室兵庫(むろひやうご)ノ舩頭(せんどう)ハ播磨(はりま)兵庫ハ攝津(せつつ)。〔四十オ六〕

とあって、標記語「室兵庫舩頭」の語注記のうち「室は播磨。兵庫は攝津」という。

 当代の『日葡辞書』には、地名を意味する標記語「」と「兵庫」の語は、未収載にある。

[ことばの実際]

壽永三年四月五日 池大納言家沙汰  布施庄〈播磨〉石作庄〈同〉六人部庄〈丹波〉兵庫三箇庄〈攝津〉熊坂庄〈加賀〉 真清田庄〈尾張〉服織庄〈駿河〉  宗像社〈筑前〉 三箇庄〈同〉國冨庄〈日向〉已上八條院御領《『吾妻鏡』寿永三年四月六日》

是石清水別當法印宗清、執務鎮西筥崎宮之間、天台末寺、大山寺神人、舩頭長光安、爲筥崎宮留主相摸寺主行遍、并子息左近將監光助等、被殺害。《読み下し文》これ石清水の別途法印宗清、鎮西箱崎の宮を執し務むるの間、天台末寺大山寺の神人舩頭の長光安、箱崎の宮の留守相模の寺主行遍並びに子息左近の将監光助等が為に殺害せらる。《『吾妻鏡』建保六年九月二十九日》

2001年10月30日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇔築地

「淀河尻(よどがはじり)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「與」部に、標記語「淀河尻」「淀河」ではなく、

(ヨド)。〔元亀本134一〕

(ヨト)。〔静嘉堂本140六〕〔天正十七年本中2ウ四〕

とあって、「」の語注記は未記載にある。そして、「賀」部に「河狩, 河内,河州,河童」とあるにとどまり、「河尻」の語も未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

淀河尻刀祢」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

淀河__(トネ)」〔山田俊雄藏本〕

淀河尻刀祢」〔経覺筆本〕

淀河尻刀祢」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』には、

(ヨド)。〔天地門24二〕

とあって、標記語を「」として、その語注記は未記載にある。次に、広本節用集』は、

淀河(ヨドガワ/チンカ)[去・平]山城。〔314二〕

とあって、上記『下學集』とは異なり、標記語を「淀河」とし、その語注記は「山城」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(ヨト)音殿。山城。〔・天地90四〕明応五年本天正十七年本増刊下學集』はこれに同じ。

(ヨド)。〔・天地87二〕〔・天地79二〕〔・天地94七〕饅頭屋本はこれに同じ。『伊京集』は、語注記に「山城」とある。

とあって、標記語「」の語注記を弘治二年本だけが「音は殿。山城」という。他三本の語注記は未記載にある。標記語「河尻」の語は未収載にある。さらに、天正十八年本節用集』は、

(ヨド)城州有之。〔天地上27ウ五〕

とあり、語注記に「城州にこれあり」という。また、易林本節用集』は、

淀河(ヨドカハ)。〔乾坤85三〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「淀河」とし、語注記は未記載にある。ここで、『節用集』類における諸写本は、この標記語の収載が大きく二つに区分されていることを知る。すなわち、「淀河」とするものと、単に「」とするものにである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「淀河」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

247淀河刀根 山城旅人宿所云刀根|。〔謙堂文庫藏二八右@〕

とあって、標記語「淀河尻」の語注記は、「山城に在り。旅人宿所を刀根と云ふ」という。古版『庭訓徃来註』では、

淀河(ヨドカハジリ)ノ刀根(トネ)トハ。河舩ニ人ヲ乗(ノせ)テ上下スル者ナリ。〔下初ウ四〕

とあって、この標記語「淀河尻刀祢」の語注記は、「河舩に人を乗せて上下する者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

淀河尻(よどかわじり)刀祢(とね)…問丸(とひまる)淀河尻刀祢問丸。刀祢ハ淀河の舩頭なり。……〔廿七ウ二〕

とし、標記語「淀河尻刀祢」に対する語注記は、「刀祢」についてのみ示し、「淀河尻」については未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

淀河尻(よどかわじり)刀祢(とね)淀河尻刀祢ハ山城(やましろ)。▲刀祢ハ舟子(ふなこ)をいふにや。〔二十二ウ七〕

淀河尻(よどかわじり)刀祢(とね)ハ山城(やましろ)。▲刀祢ハ舟子(ふなこ)をいふにや。〔四十オ六〕

とあって、標記語「淀河尻刀祢」の語注記のうち「淀は山城」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語「淀河尻」と「刀祢(既に掲載のため省略する)の語は、未収載にある。

[ことばの実際]

赤松入道圓心(ヱンシン)ハ、三千余騎ニテ(ヨド)・古河(フルカハ)・久我畷(コガナハテ)ノ南北三箇所ニ陣ヲ張(ハル)。《『太平記』卷第九・山崎攻事久我畷合戰事》

2001年10月29日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「宰府(サイフ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

宰府(―フ)。〔元亀本271七〕

宰府(サイフ)。〔静嘉堂本310二〕

とあって、標記語「宰府」とし、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

宰府交易」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

--」〔山田俊雄藏本〕

宰府交易」〔経覺筆本〕

宰府交易」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「宰府」の語注記は未収載にある。さらに、易林本節用集』は、

宰府(サイフ)在鎮西。〔乾坤176一〕

とあって、標記語を「宰府」とし、語注記は「鎮西にあり」とある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「宰府」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

246宰府之-(ヱキ) 日本ニハ弘法始也。九州ヘノ交物易義也。交易(ヲシテ)ヲ取合也。。漢旧儀、諸候正印黄金(タクタ)(チウ)(ジ)ト。列侯黄金鈕文。丞相金亀鈕文曰章。二千石至マテ六百石者銀印鼻鈕文印也。交易法也。〔謙堂文庫藏二七左H〕

宰府(サイフ)ノ-(カウエキ) 日本ニハ弘法始也。九州(マシハ)テ(カユ)ル義也。交易トハ(ヲシテ)ヲ取合也。(キサン)テ。漢旧儀(キウ―)、諸候正-印(イン)ハ-(タクタ){シヱス本弓ブクロ也。ムルマキ也/ソコナシフクロ}鈕(チウ)(ジ/ヲシアキ)ト。列-侯(レツ―)ハ黄金鈕文丞相(カン―)ハ金亀鈕文曰(セウ)ト。二千石至六百石者銀-印鼻-鈕(チウ)印也。交(マシハ)ヘ(カヘ)ル法也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來註』古寫〕宰府―九州筑前也。天神社文宛也。〔同上書込み〕△弘法唐校(カンカ)(ヲキ)舟五百艘約束也。〔同上巻頭書込み〕

とあって、標記語「宰府」の語注記は、未記載にある。静嘉堂本の書込みに、「九州筑前なり。天神の社文宛なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

節季(せツキ)ノ-(ネンヨ)(サラ)ニ遁避(ト―ヒ)ス|(カ)(ヲヨソ)町人(マチウド)(ハマ)ノ商人(アキンド)鎌倉(カマクラ)ノ誂物(アツラヘモノ)宰府(サイフ)ノ-(ケウエキ)節季(せツキ)ノ年預(ネンヨ)トハ。歳(トシ)ノ末(スヘ)ニ何ニ_事モ嘉例(カレイ)ニ進退(シンタイ)スルヲ云ナリ。〔下初ウ二〜四〕

とあって、この標記語「宰府交易」の読みは「サイフのケウエキ」で、その語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

宰府(さいふ)交易(こうゑき)…問丸(とひまる)宰府交易〜問丸。是ハ其所からによりて其事に巧者(こうしや)なるものをいへるなり。京濱鎌倉宰府宝兵庫淀河尻大津坂本鳥羽白河ハ皆地の名なり。刀祢ハ淀河の舩頭なり。……〔廿七オ三〕

とし、標記語「宰府交易」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

宰府(さいふ)交易(かうゑき)宰府交易宰府ハ筑前(ちくぜん)の地。〔二十二ウ六〕

宰府(さいふ)交易(かうゑき)宰府ハ筑前(ちくせん)の地。〔四十オ六〕

とあって、標記語「宰府交易」の語注記のうち「筑前の地」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語「宰府」と「交易(既に掲載のため省略する)の語は、未収載にある。

[ことばの実際]

然者雖不著甲冑、乗于自身進退之舩、先登欲任意〈云云〉將帥解纜爰三州曰、周防國者、西隣宰府東近洛陽自此所、通子細於京都與關東、可廻計略之由、有武衛兼日之命。《読み下し文》然らば甲冑を着せずと雖も、自身進退の船に乗り、先登して意に任せんと欲すと。将帥纜を解く。爰に三州が曰く、周防の国は、西は宰府に隣り、東は洛陽に近し。この所より子細を京都と関東に通じて、計略を廻らすべきの由、武衛兼日の命有り。《『吾妻鏡』元暦二年一月二十六日》

2001年10月28日(日)雨。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

鎌倉誂物(かまくらのあるらへもの)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

鎌倉(カマクラ)。〔元亀本68七〕

鎌倉(カマクラ)。〔静嘉堂本81四〕〔天正十七年本上39オ三〕

鎌倉(――)。〔西來寺藏119五〕

とあって、標記語「鎌倉誂物」とし、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

鎌倉誂物」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

__」〔山田俊雄藏本〕

鎌倉誂物」〔経覺筆本〕

鎌倉誂物」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』には、

鎌倉(カマクラ)坂東。〔天地門21四〕

とあって、標記語「鎌倉」の語注記として「坂東」という。また、標記語「誂物」の語は未収載にある。次に、広本節用集』には、

鎌倉(カマクラ/ケンサウ)[平・平]相模。人王七十四代。鳥羽院御宇。保安元年庚子建――也。〔天地門251六〕

(アツラヱ)。〔態藝門769三〕

とあって、標記語「鎌倉」の語注記は、『下學集』とは異なり、「相模。人王七十四代。鳥羽院御宇。保安元年庚子、鎌倉を建つるなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

鎌倉(カマクラ)。〔・天地74五〕〔・人名70八〕〔・人名84六〕

鎌倉(カマクラ)坂東。〔・天地74二〕〔・天地67二〕〔・天地79七〕

誂物(アツラヘ)。〔・言語進退207一〕

(アツラヘ)。〔・言語171六〕〔・言語160六〕

とあって、標記語「鎌倉」の語注記を永祿二年本尭空本両足院本は、「坂東」としている。また、「誂物」の語注記を未記載にする。さらに、易林本節用集』は、

鎌倉(カマクラ)関東。〔乾坤68六〕

(アツラユル)。〔言辞174三〕

とあって、標記語を「鎌倉」とし、語注記は「関東」とある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「鎌倉」「誂物」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

245濱商人鎌倉誂物 仁王七十四代鳥羽院御宇保安元年庚子鎌倉立始也。〔謙堂文庫藏二七左G〕

とあって、標記語「鎌倉」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

節季(せツキ)ノ-(ネンヨ)(サラ)ニ遁避(ト―ヒ)ス|(カ)(ヲヨソ)町人(マチウド)(ハマ)ノ商人(アキンド)鎌倉(カマクラ)ノ誂物(アツラヘモノ)宰府(サイフ)ノ之交-(ケウエキ)節季(せツキ)ノ年預(ネンヨ)トハ。歳(トシ)ノ末(スヘ)ニ何ニ_事モ嘉例(カレイ)ニ進退(シンタイ)スルヲ云ナリ。〔下初ウ二〜四〕

とあって、この標記語「鎌倉誂物」の読みは「かまくらのあつらへもの」で、その語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

鎌倉(かまくら)誂物(あつらへもの)…問丸(とひまる)鎌倉誂物〜問丸。是ハ其所からによりて其事に巧者(こうしや)なるものをいへるなり。京濱鎌倉宰府宝兵庫淀河尻大津坂本鳥羽白河ハ皆地の名なり。刀祢ハ淀河の舩頭なり。……〔廿七オ三〕

とし、標記語「鎌倉誂物」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

鎌倉(かまくら)誂物(あつらへもの)鎌倉誂物鎌倉ハ相模(さがミ)の地名。〔二十二ウ六〕

鎌倉(かまくら)誂物(あつらへもの)鎌倉ハ相模(さがミ)の地名(ちめい)。〔四十オ六〕

とあって、標記語「鎌倉誂物」の語注記のうち「鎌倉」について「相模の地名」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語「鎌倉」と「誂物」の語は、未収載にある。

[ことばの実際]

2001年10月27日(土)晴れ。東京(八王子)⇒新浦安

「町人(チヤウニン・まちうど)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、

町人(ヂヤウニン)。〔元亀本68七〕

町人(チヤウニン)。〔静嘉堂本81四〕〔天正十七年本上39オ三〕

町人(――)。〔西來寺藏119五〕

とあって、標記語「町人」とし、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

凡京町人濱商人」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

凡京__」〔山田俊雄藏本〕

(キヤウ)ノ町人(ハマ)ノ商人」〔経覺筆本〕

(ヲヨ)ソ(キヤウ)ノ町人(マチウト)(ハマ)ノ商人(アキヒト)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』及び広本節用集』には、標記語「町人」は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

町人(チヤウニン)。〔・人倫49一〕〔・人倫46一〕〔・人倫54三〕

町人(チヤウニン/マチウド)。〔・人倫50三〕

とあって、弘治二年本尭空本両足院本は、標記語「町人」の読みを音読「チヤウニン」のみを示し、語注記を未記載にする。そして、永祿二年本だけが、標記語「町人」の読みに右訓を音読で「チヤウニン」、左訓に訓読で「まちうど」と示している。さらに、易林本節用集』は、

町人(チヤウニン)。〔言辞48七〕

とあって、標記語を「町人」とし、語注記は未記載にある。当代の古辞書のなかで、『下學集』にはこの語はなく、広本節用集』には、

町人(ヂヤウニン/テイジン・マチ,ヒト)[平・平]。〔態藝門186三〕

とあって、標記語「町人」で、その読みを「ヂヤウニン」とし、語注記は未記載にある。印度本系『節用集』・易林本節用集』、『運歩色葉集』に見えるといったこの時代の辞書の表層がここには感得されるのである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「町人」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

244更不遁避ス|歟。京町人 仁王廿代宣化天王御宇、大和国也。仁王代天智天王御字、近江国。仁王五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷平安城。彼平安城九重東西十八町也。南北三十八町也・横小路、一條・正親町・土御門・鷹司・近衛・勘解由小路・中御門・春日・大炊・御門・冷泉・二条・押小路・三条坊門・姉小路・三条六角・四条坊門・錦小路・四条綾小路・五条坊門・高辻・五条通口・六条坊門・楊梅・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅小路・八条針小路・信乃(ノ)小路・唐橋・九条・巳上三十八町也。堅小路、朱雀・坊城・壬生・櫛笥・大宮・猪熊・堀川・油小路・西洞院町・室町・烏丸・東洞院・高倉・万里小路・冨小路・京極・朱雀、巳上十八町也。以内裡中央|。町人之置樣、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金也。〔謙堂文庫藏二七右H〕 

とあって、標記語「町人」の語注記は、「町人之置樣は、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

節季(せツキ)ノ-(ネンヨ)(サラ)ニ遁避(ト―ヒ)ス|(カ)(ヲヨソ)町人(マチウド)(ハマ)ノ商人(アキンド)鎌倉(カマクラ)ノ誂物(アツラヘモノ)宰府(サイフ)ノ之交-(ケウエキ)節季(せツキ)ノ年預(ネンヨ)トハ。歳(トシ)ノ末(スヘ)ニ何ニ_事モ嘉例(カレイ)ニ進退(シンタイ)スルヲ云ナリ。〔下初ウ二〜四〕

とあって、この標記語「町人」の読みは「まちうど」で、その語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(をよそ)町人(まちうど)(はま)ノ商人(あきんど)町人商人。〔廿七オ三〕

とし、標記語「町人」に対する語注記は、「」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(をよそ)町人(まちうど)(はま)ノ商人(あきんど)町人商人。〔二十二ウ一〕

(をよそ)町人(まちうど)(はま)ノ商人(あきんど)〔三十九オ四〕

とあって、標記語「京の町人」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Cho<nin.チャウニン(町人) Machudo.(町人) 町(Machi),すなわち,町の中の人.〔邦訳127r〕

とあって。標記語を「町人」の語は、音読み「チャウニン」で示し、意味説明の前に訓読み「まちうど」の語を示して「町の中の人」という。

[ことばの実際]

町人以下、鎌倉中諸商人、可定員數之由、被仰下朝光、奉行之。《読み下し文》町人以下鎌倉中の諸商人、員数を定むべきの由仰せ下さる。朝光これを奉行す。《『吾妻鏡』建保三年七月十九日》

2001年10月26日(金)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

「遁避(トンヒ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、

遁避(―ヒ)。〔元亀本57六〕〔天正十七年本上33ウ二〕〔西來寺藏103六〕

遁避(トンヒ)。〔静嘉堂本65二〕

とあって、標記語「遁避」とし、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

更不可遁避」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-ス|」〔山田俊雄藏本〕

ル∨遁避ス|」〔経覺筆本〕

(サラ)ニカラ遁避(トンヒ)ス|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』には、

遁避(トンヒ)。〔疉字門160四〕

とあって、標記語「遁避」の語注記は未記載にある。読みは、古写本では前田家本〔言辞門98一〕に収載され、「トンヒ」とある。次に、広本節用集』には、

遁避(トンヒ/ノガルヽ,サク)[上・去]。〔態藝門141二〕

とあって、標記語を「遁避」はここで収載するが、その語注記はここでも未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

遁避(トンヒ)。〔・言語進退46六〕〔・言語45七〕〔・言語50四〕

遁避(トンヒ)―世。〔・言語42三〕

とあって、弘治二年本永祿二年本両足院本は、標記語「遁避」の語を収載し、語注記を未記載にする。尭空本だけは、標記語「遁避」で「節」の冠頭字熟語群を注記にして「遁世」の一語を収載している。さらに、易林本節用集』は、

遁避(トンヒ)。〔言辞46四〕

とあって、標記語を「遁避」とし、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

遁避 ――ト。所渋詞。トンヒ。〔黒川本疉字・上50オ二〕

遁世 トンせイ/ヨヲノカル。〃避。〃甲。〔卷第二427三〕

とあって、標記語「遁避」を三卷本は収載している。十巻本は、冠頭字「遁」の熟語群注記にして収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

244更不遁避ス|歟。京町人 仁王廿代宣化天王御宇、大和国也。仁王代天智天王御字、近江国。仁王五十代桓武天皇御宇、延暦十三年甲戌遷平安城。彼平安城九重東西十八町也。南北三十八町也・横小路、一條・正親町・土御門・鷹司・近衛・勘解由小路・中御門・春日・大炊・御門・冷泉・二条・押小路・三条坊門・姉小路・三条六角・四条坊門・錦小路・四条綾小路・五条坊門・高辻・五条通口・六条坊門・楊梅・六条目牛(サメウシ)・七条坊門・北小路・七条塩小路・八条坊門・梅小路・八条針小路・信乃(ノ)小路・唐橋・九条・巳上三十八町也。堅小路、朱雀・坊城・壬生・櫛笥・大宮・猪熊・堀川・油小路・西洞院町・室町・烏丸・東洞院・高倉・万里小路・冨小路・京極・朱雀、巳上十八町也。以内裡中央|。町人之置樣、一水・二火・三木・四金・五土・六水・七火・八木・九金也。〔謙堂文庫藏二七右H〕 

とあって、標記語「遁避」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

節季(せツキ)ノ-(ネンヨ)(サラ)ニ遁避(ト―ヒ)(カ)(ヲヨソ)町人(マチウド)(ハマ)ノ商人(アキンド)鎌倉(カマクラ)ノ誂物(アツラヘモノ)宰府(サイフ)ノ之交-(ケウエキ)節季(せツキ)ノ年預(ネンヨ)トハ。歳(トシ)ノ末(スヘ)ニ何ニ_事モ嘉例(カレイ)ニ進退(シンタイ)スルヲ云ナリ。〔下初ウ二〜四〕

とあって、この標記語「遁避」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さら)遁避(とんひ)(からさる)(か)遁避遁避ハのかれさくとよむ。請願の民上乃恩沢(おんたく)になつきたれはその下知に背き課役なとを遁れ避る者ハあらしと也。〔廿七オ三〕

とし、標記語「遁避」に対する語注記は、「遁避ハのかれさくとよむ。請願の民上乃恩沢(おんたく)になつきたれはその下知に背き課役なとを遁れ避る者ハあらしと也」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さら)遁避(とんひ)(べ)から(ざ)(か)カラ遁避。〔二十二ウ一〕

(さら)に(ざる)(べから)遁避(とんひ)す|(か)。〔三十九オ四〕

とあって、標記語「遁避」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「遁避」の語は、未収載にある。意味は、「逃げ避ける、受諾を渋り避ける」ことをいう。

[ことばの実際]

然者奉之勇士者、可備面目之處、稱下劣之職、遁避條、甚自由也《読み下し文》然からばこれを承る勇士は、面目を備ふべきの処に、下劣の職と称して遁避するの條、甚だ自由なり。《『吾妻鏡』建暦二年正月十九日》

2001年10月25日(木)薄晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

「節季(せツキ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、

節季(―キ)。〔元亀本×〕〔静嘉堂本426三〕

とあって、標記語「節季」とし、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

節季年預」〔至徳三年本〕

-季年-(ヨ)」〔山田俊雄藏本〕

節季(セツキ)ノ年預(ヨ)」〔経覺筆本〕

節季(せツンキ)年預(ネンニヨ)」〔文明四年本〕

節季年預」〔建部傳内本〕

と見え、至徳三年本そして山田俊雄藏本経覺筆本は、「節季年預」と準体助詞にあたる「之」の表記を記載しないのに対し、文明四年本と、建部傳内本とは「之」を記載して示している。『下學集』には、標記語「節季」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

節季(せツキ/トキ・フシ,スヱ)[入・去]。〔時節門1080三〕

とあって、標記語を「節季」はここで収載するが、その語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

節季(―キ)。〔・時節262三〕

節季(せツキ)。〔・時節262三〕

節供(せツク)―季。―分。〔・時節262三〕

とあって、弘治二年本永祿二年本は、広本節用集』と同じく標記語「節季」の語を収載し、語注記を未記載にする。尭空本は、標記語「節供」の冠頭字「節」の熟語群に「節季」の語を収載している。さらに、易林本節用集』は、

節季(せツキ)―分(ブン)。―供(ク)。〔言辞232七〕

とあって、標記語を「節季」とし、語注記に冠頭字「節」の熟語群「節分・節供」の二語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「節季」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

243節-- 国々倉主一年中利倍勘定シテリヲ内裏節季-スルヲ云也。預字心之義也。〔謙堂文庫藏二七右G〕

--預 国々倉_主一季中利倍勘定シテ其餘リヲ内裡節季進貢スルヲ云也。預字心之義也。〔天理図書館藏〕

とあって、標記語「節季」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

節季(せツキ)ノ-(ネンヨ)(サラ)ニ遁避(ト―ヒ)ス|(カ)(ヲヨソ)町人(マチウド)(ハマ)ノ商人(アキンド)鎌倉(カマクラ)ノ誂物(アツラヘモノ)宰府(サイフ)ノ之交-(ケウエキ)節季(せツキ)ノ年預(ネンヨ)トハ。歳(トシ)ノ末(スヘ)ニ何ニ_事モ嘉例(カレイ)ニ進退(シンタイ)スルヲ云ナリ。〔下初ウ二〜四〕

とあって、この標記語「節季年預」の語注記は、「歳の末に何に事も嘉例に進退するを云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

節季(せつき)年預(ねんよ)節季年預節季といふも十二月のすゑなり。年の末に正月用る品々を上へ奉る事を年預といふ。〔廿七オ二・三〕

とし、標記語「節季年預」に対する語注記は、「節季といふも十二月のすゑなり。年の末に正月用る品々を上へ奉る事を年預といふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

節季(せつき)年預(ねんよ)節季年預節季年預ハ年(とし)の暮(くれ)取る所の行年(とし)を人に預(あづ)けて呪(ましな)ふやうの事なるべし。〔二十二ウ五・六〕

節季(せつき)年預(ねんよ)節季年預ハ年(とし)の暮(くれ)に取る所の行年(とし)を人に預(あづ)けて呪(まじな)ふやうの事なるべし。〔四十オ五〕

とあって、標記語「節季年預」の語注記は、「年の暮に取る所の行年を人に預けて呪なふやうの事なるべし」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Xecqi.セツキ(節季) Toxino suye.(年の末)年末.〔邦訳744l〕

とあって、標記語を「節季」の語は、「年末」を意味している。

[ことばの実際]

節氣ハ、一月ニフタタビアリ。一年ニハ廿四氣也。《『名語記』卷六》

2001年10月24日(水)薄晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

「上分(ジヤウブン)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

上分(―ブン)。〔元亀本314二〕〔静嘉堂本368四〕

とあって、「月迫上分」という標記語「月迫」については、「ことばの溜め池(2000.11.19)」で説明しているのでここでは省略し、標記語「上分」についてのみ確認すると、読みを「 (ジヤウ)ブン」とし、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

月迫上分」〔至徳三年本〕

-迫上分」〔山田俊雄藏本〕

-(ハク)ノ-」〔文明四年本〕

月迫上分(シヤウフン)」〔経覺筆本〕

月迫上分」〔建部傳内本〕

と見え、至徳三年本そして山田俊雄藏本は、「月迫上分」と準体助詞にあたる「之」の表記を記載しないのに対し、文明四年本経覺筆本建部傳内本とは「之」を記載して示している。『下學集』には、標記語「月迫」と「上分」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、標記語を「月迫」(省略)は収載するが標記語「上分」の方は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、広本節用集』と同じく標記語「上分」の語を未収載にする。さらに、易林本節用集』は、

上裁(ジヤウサイ/公方義)―根(コン)。―代(ダイ)―分(ブン)。―品(ボン)。―足(ソク)。―手(ズ)。―戸(ゴ)。―首(シユ)。―意(イ)。―智(チ)。―堂(ダウ)。―古(コ)。―覧(ラン)。―表(ヒヨウ)。―聞(ブン)。〔言辞215七〕

とあって、標記語を「月迫」(省略)はそのまま収載するが、「上分」の語は、標記語を「上裁」にして、冠頭字「上」の熟語群に十五語として収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「月迫」そして「上分」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

242公事-時之課--上分 暦圖ル‖臘月也。上分一国一郡ヨリ定年貢之外、臘月ニ|内裡進貢スルヲ云也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

公事-時之課--上分 暦圖(セー)ル臘月也。上-分一国一郡ヨリ季貢之外、臘月内裡進貢スルヲ云也。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』〕

とあって、標記語「月迫上分」の語注記は、「迫は『暦圖』に見ゆ。臘月の迫るなり。上分は、一国一郡より定める年貢の外に、臘月に内裡へ進貢するを云ふなり」という。古版『庭訓徃来註』では、

月迫(ハク)ノ上分トハシワスノ際(キハ)ニ成(ナリ)テ納(ヲサム)ル物ヲ云也。〔下初ウ二〕

とあって、この標記語「月迫上分」の語注記は、「しわすの際に成りて納むる物を云ふなり」というようにその納め物について注釈するものとなっている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

月迫(けつはく)の上分(じやうふん)月迫上分月迫ハ十二月の末也。上分ハ年の末に上へ納る物をいふ。〔廿七オ一〕

とし、標記語「月迫上分」に対する語注記は、「月迫ハ十二月の末なり。上分ハ年の末に上へ納る物をいふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

月迫(けつはく)の上分(じやうふん)月迫上分▲月迫上分ハ歳暮(としのくれ)に例(れい)乃祝義(志う―)を述(のべ)んとて地頭(ぢとう)へ捧物(さゝげもの)をするやうの事なるべし。〔二十二ウ五・六〕

月迫(げつはく)上分(じやうぶん)▲月迫上分ハ歳暮(としのくれ)に例(れい)の祝義(しうぎ)を述(のべ)んとて地頭(ぢとう)捧物(さゝけもの)をするやうの事なるべし。〔四十オ五〕

とあって、標記語「月迫上分」の語注記は、「歳の暮れに例の祝義を述べんとて地頭に捧物をするやうの事なるべし」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Io<bun.ジヤウブン(上分) Vyeno bun.(上の分)すぐれた部分・方.〔邦訳367r〕

とあって、標記語を「月迫」と「上分」の語は、それぞれに独立し、「月迫」の語は「Xiuasu(師走)」を意味し、「上分」の語は「すぐれた部分・方」を意味する。これを併合しても上記の『庭訓徃来』の注釈書の云う意味にはならない。

[ことばの実際]

平家知行之時、本宮御上分、國絹佰拾參疋外、雖不能神用、當于此御時、爲公私御祈祷、正官物、并所被奉免也《読み下し文》平家知行するの時、本宮の御上分、国絹百拾三疋の外、神用すること能はずと雖も、この御時に当たつて、公私御祈祷の為に、正官物並びに免し奉らるる所なり。《『吾妻鏡』建久三年十二月二十八日》

2001年10月23日(火)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

「臨時課役(リンジのクハヤク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部と「久」部に、

臨時(リンジ)。〔元亀本72一〕〔静嘉堂本86四〕

臨時(リンシ)。〔天正十七年本上43オ七〕

臨時(―ジ)。〔西來寺本131二〕

課役(クワヤク)。〔元亀本189十〕〔静嘉堂本213八〕〔天正十七年本中36オ八〕

とあって、標記語「臨時」と「課役」とにそれぞれ区分し収載し、語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

臨時課役」〔至徳三年本〕

臨-時-」〔山田俊雄藏本〕

臨-時(リン―)-(クワヤク)」〔文明四年本〕

臨時之課役(クワヤク)」〔経覺筆本〕

臨時之課役」〔建部傳内本〕

と見え、至徳三年本そして山田俊雄藏本は、「臨時課役」と準体助詞にあたる「之」の表記を記載しないのに対し、文明四年本経覺筆本、建部傳内本とは「之」を記載して示している。『下學集』には、標記語「臨時」の語は、未收載にある。『庭訓徃來』にあって、「臨時」の語は、五月五日と十月三日の状に「臨時客人」、八月十三日の状に「--」、九月十五日の状に「臨時纏頭者」、十二月日の状に「臨時之点-」とあって、全部で五例使用されている語である。こうした『庭訓徃來』に多用語されている語であっても『下學集』の編者がなぜ採録しなかったことに現代の吾人はもっと注意喚起すべきであろうと考えている。この点を指摘し、この解明は今後の課題としておく。そして、

課役(クワヤク)。〔態藝門76六〕

とあって、標記語「課役」として、語注記は未記載にある。次に、広本節用集』には、

臨時(リンジ/ノゾム,トキ)[平・平]。〔態藝門194五〕

課役(クワヤク/コヽロム,ツカイ)[去・入]。〔態藝門543一〕

とあって、標記語を「臨時」と「課役」と両語に区分して収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

臨時(リンジ)。〔・言語進退58二〕                 課役(クワヤク)。〔・言語進退162三〕

臨幸(リンカウ) ―川(セン)()。―終(ジウ)。〔・言語58五・六〕 課役(クワヤク)―試(シ)。〔・言語131八〕

臨幸(リンカウ) ―川。―時。―終。―舌。〔・言語53一〕       課役(クワヤク)―試。〔・言語121一〕

臨幸(リンガウ) ―川。―時。―終。〔・言語61六〕          課役(クワヤク)―試。〔・言語147一〕

とあって、広本節用集』と同じく標記語「臨時」の語を弘治二年本は独立した標記語として収載する。それ以外の写本は、標記語「臨幸」の冠頭字「臨」の熟語群として「臨時」の語を収載している。その排列は必ずしも同じとはいえない。標記語「課役」の語については、弘治二年本が独立した標記語としてこの語だけを収載するのに対し、他三本はこの注記に「―試」という熟語群一語を添えている。さらに、易林本節用集』は、

臨時(―ジ)。〔言語57五〕

課役(クワヤク)。〔言辞133四〕

とあって、標記語を「臨時」と「課役」の両語にして収載し、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「臨時」そして「課役」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

242公事---迫之上分 暦圖ハ‖臘月也。上分一国一郡ヨリ定年貢之外、臘月ニ|内裡進貢スルヲ云也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

とあって、標記語「臨時課役」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

臨時(リンシ)ノ課役(クハヤク)ハ不慮(リヨ)ノ外ニ。ヤクヲヱテ課(ヲホ)せラルヽ事ナリ。〔下初ウ一〕

臨時(リンシ)ノハ。トキニ。ノゾムコトナリ。〔下5ウ一〕

とあって、この標記語「臨時課役」の語注記は、「不慮の外に。やくをえて課せらるる事なり」「ときにのぞむこと」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

臨時(りんじ)の課役(くわやく)臨時課役定式の外不意にあてらるゝ課役なり。〔廿六ウ八〕

とし、標記語「臨時課役」に対する語注記は、「公事は公辺の事にかぎりて公事といふがごときにあらず」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

臨時(りんし)課役(くハやく)臨時課役▲臨時課役ハ不時(ふし)にさしかゝりて課(おほ)する役(やく)也。〔二十二ウ五〕

臨時(りんじ)の課役(くわやく)▲臨時課役ハ不時(ふじ)にさしかゝりて課(おほ)する役(やく)なり。〔四十オ四〕

とあって、標記語「臨時課役」の語注記は、「不時にさしかゝりて課する役なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Rinji.リンジ(臨時) ある人に対して,いつもの仕事以外に課したり,付け加えたりされる仕事,または,奉公.§Rinjino quayacu.(臨時の課役)上のように,人がいつもする例になっていること以外に追加される役目,あるいは,義務的な仕事.〔邦訳533r〕

Quayacu.クヮヤク(課役) 主君が人に負わせる役目.§Quayacuuo caquru.(課役を掛くる)主君がある役目,あるいは,任務を負わせる.〔邦訳521r〕

とあって、標記語を「臨時」と「課役」の語は、それぞれに独立し、「臨時」の語は「ある人に対して,いつもの仕事以外に課したり,付け加えたりされる仕事,または,奉公」を意味し、「課役」の語は「主君が人に負わせる役目」を意味する。これを併合すると「臨時課役」の意味は、「主君から慮ひの外に役を得て課せらるる事」となる。

[ことばの実際]

於在京國司者、或數濟物之上、相營恒例臨時課役、其外又所抽勤節也。《読み下し文》在京の国司に於いては、或いは済物を赦すの上、恒例臨時の課役を相営み、その外また勤節を抽んずる所なり。《『吾妻鏡』文治六年二月二十五日》

2001年10月22日(月)曇りのち雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

「公事(クジ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、

公亊(―ジ)。〔元亀本189二〕

公亊(ヲフシ)。〔静嘉堂本212八〕

公亊(―シ)。〔天正十七年本中35ウ八〕

とあるのだが、標記語「公亊」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

定役公事」〔至徳三年本〕

定役(ジヨヤク/ケ[テ]イ―)ノ公事(クシ)」〔文明四年本〕

-公事」〔山田俊雄藏本〕

定役(―ヤク)ノ公事」〔経覺筆本〕

定役公事」〔建部傳内本〕

と見え、いずれも「公事」と示している。『下學集』には、標記語「公事」の語は、未收載にある。次に、広本節用集』には、

公亊(クコウ・キミ,コト・ワザ)[平・去]。〔態藝門538四〕

とあって、標記語を「公亊」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

公役(クヤク)。―務()。―并(ビヤウ)年貢義。―亊()。―用(ヨウ)。―平(ヒヤウ)。〔・言語進退162七〕

公界(クガイ) ―平(ヒヤウ)―事()。―務(ム)。―用(ヨウ)。―役(ヤク)。〔・言語132五〕

公界(クガイ) ―平。―事。―務。―田[用]。〔・言語121六〕

公界(クガイ) ―平(ヒヤウ)―事()。―務(ム)。―田(デン)。―用(ク―)。―役(ヤク)。―物(クモツ)。〔・言語132五〕

とあって、標記語「公事」の語を弘治二年本は独立した標記語として収載する。それ以外の写本は、標記語「公界」の冠頭字「公」の熟語群として「公事」の語を収載している。その排列は必ずしも同じとはいえない。さらに、易林本節用集』は、

公物(クモツ)―用(ヨウ)。―役(ヤク)。―庭(テイ)。―請(シヤウ)。―領(リヤウ)。―務(ム)。―平(ビヤウ)。―界(ガイ)―事()。〔言辞132七〕

とあって、標記語を「公物」とし、冠頭字「公」の熟語群九語の末尾に「公事」を記載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「公事」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

242公事-時之課--迫之上分 暦圖ハ‖臘月也。上分一国一郡ヨリ定年貢之外、臘月ニ|内裡進貢スルヲ云也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

とあって、標記語「公事」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

定役(デフヤク)ノ公事ハ。公方(クハウ)(ハタクシ)ニ知(シリ)タルヤクナリ。〔下初ウ一〕

とあって、この標記語「公事」の語注記は、「公方、私に知りたるやくなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

定役(ぢやうやく)の公事(くじ)定役公事。定式の公役也。公事ハ公辺(こうへん)の事にかきりて公事といふかこときにあらす。〔廿六ウ六〕

とし、標記語「公事」に対する語注記は、「公事は公辺の事にかぎりて公事といふがごときにあらず」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

定役(ぢやうやく)の公事(くじ)定役公事▲定役ハ定式(ぢやうしき)の公役(こうやく)也。〔二十二ウ五〕

定役(ぢやうやく)の公事(くじ)▲定役ハ定式(ぢやうしき)の公役(こうやく)也。〔四十オ四〕

とあって、標記語「公事」の語注記は、「定式の公役なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Cuji.クジ(公事) 主君の課する税,または,課役.§Cujiuo tcutomuru.(公事を勤むる)主君の命ずるある課役の義務を果たす.§Icaricuji.(碇公事)碇泊税. ※原文はAncorajem.日西辞書には,Ancorar(碇泊する)とあるが,別条Icaricujiの説明と同じようにAnclajeとすべきであろう.⇒Funa〜.〔邦訳165l〕

とあって、標記語を「公事」の語は、「主君の課する税。または、課役」を意味する。

[ことばの実際]

可早令安房國須宮、免除萬雜公事事  右件宮、萬雜公事者、先日御奉免畢重神官等訴申事、實者尤不敵也早可令免除之状如件、仍在廳等、宜承知、勿違失 治承五年二月日《読み下し文》早く安房の国須の宮の萬雑公事を免除せしむべき事 右件の宮、萬雑公事は先日御奉免しをはんぬ。重ねて神官等訴へ申す。事實ならば尤も不敵なり。早く免除せしむべきの状件の如し。よって在廰等宜しく承知すべし。違失することなかれ。治承五年二月日《『吾妻鏡』治承五年二月十日》

2001年10月21日(日)曇り。福井《国語学会》⇒東京(八王子)

「定役(ヂヤウヤク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、「定座(チヤウザ)定詰(ヅメ)。定使(ヅカイ)。定灯(ツウ)。定説(せツ)。(ハン)。定器(ギ)。定木(ギ)。定衆(シユ)。定命(メイ)。定業(コウ)。定張(バリ)。定石(せキ)碁」とあるのだが、標記語「定役」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

定役公事」〔至徳三年本〕

定役(ジヨヤク/ケ[テ]イ―)ノ公事(クシ)」〔文明四年本〕

-公事」〔山田俊雄藏本〕

定役(―ヤク)ノ公事」〔経覺筆本〕

定役公事」〔建部傳内本〕

と見え、「定役」と示している。『下學集』には、標記語「定役」語は、未收載にある。次に、広本節用集』には、

定役(ヂヤウヤクテイ,ツカイ)[去・入]。〔態藝門181六〕

とあって、標記語を「定役」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「定役」の語は未収載にある。さらに、易林本節用集』は、

定役(ヂヤウヤク)。〔言辞53五〕

とあって、標記語「定役」とし、その語注記は未記載にある。ここで、当代の古辞書として広本節用集』及び易林本節用集』に、この標記語「定役」が収載されていることは注目されるところである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「定役」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

241合期公--色何_之哉-(チヤウー)ノ 年貢等也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

とあって、標記語「定役」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

定役(デフヤク)ノ公事ハ。公方(クハウ)(ハタクシ)ニ知(シリ)タルヤクナリ。〔下初ウ一〕

とあって、この標記語「定役」の語注記は、「公方、私に知りたるやくなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

定役(ぢやうやく)の公事(くじ)定役公事。定式の公役也。公事ハ公辺(こうへん)の事にかきりて公事といふかこときにあらす。〔廿六ウ六〕

とし、標記語「定役」に対する語注記は、「定式の公役なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

定役(ぢやうやく)の公事(くじ)定役公事▲定役ハ定式(ぢやうしき)の公役(こうやく)也。〔二十二ウ五〕

定役(ぢやうやく)の公事(くじ)▲定役ハ定式(ぢやうしき)の公役(こうやく)也。〔四十オ四〕

とあって、標記語「定役」の語注記は、「定式の公役なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Giiyacu.ヂャゥヤク(定役) 変わることのない通常の職,あるいは,役目.〔邦訳319r〕

とあって、標記語を「定役」の語は、「変わることのない通常の職。あるいは、役目」を意味する。

[ことばの実際]

二十日△庚戌△諸国ノ守護人緩怠ノ間、群盗動スレバ蜂起セシメ、庄保ノ煩ヒタルノ由、国衙ノ訴ヘ出来ス。之ニ依テ条条、群儀ヲ凝ラサル。一身ノ定役タルニ於テハ、還ツテ故実ニ誇リ、懈緩ノ儀有ルベシ。結番ノ人数各相ヒ替リ、年ノ限リヲ差シ、奉行セシムベキカ。《『吾妻鏡』承元三年十一月二十日》

2001年10月20日(土)晴れ。福井《国語学会

「潤色(ジユンシヨク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

潤色(―シヨク)。〔元亀本314十〕

潤色(シユンシヨク)。〔静嘉堂本369六〕

とあって、標記語「潤色」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

交易合期公程潤色何事如之哉」〔至徳三年本〕

交易合期公-(テイ)ノ-(ジユン―)_事如ン∨」〔山田俊雄藏本〕

交易(ケウヤク)合期公私(シ)ノ潤色(ジユン―)、何事ン∨」〔経覺筆本〕

交易(カウエキ/ケウ―)合期(カウコ)シ公私(コヲウシ)ノ潤色(シユンシヨク)何事如(シカ) ン∨之哉」〔文明四年本〕

交易合期公私之潤色何事如之哉」〔建部傳内本〕

と見え、「潤色」と示している。『下學集』には、標記語「潤色」語は、

潤色(ジユンシヨク)。〔態藝門89四〕

未收載にある。次に、広本節用集』には、

潤色(シユンシヨク/ウルヲウ,イロ)[去・入]。〔態藝門976三〕

とあって、標記語を「潤色」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

潤色(ジユンショク)。〔・言語進退247三〕

潤色(シユンショク)。〔・言語210八〕

潤色(ジユンショク)。〔・言語194九〕

とあって、標記語「潤色」の語注記は未記載にある。さらに、易林本節用集』は、

潤澤(ジユンタク)―色(シヨク)。〔言辞216一〕

とあって、標記語「潤澤」とし、その熟語群として「潤色」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「潤色」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

241合期公--_之哉-(チヤウー)ノ 年貢等也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

とあって、標記語「潤色」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

交易(キヨウヱキ)合期(ガウコ)シ-(コウシ)ノ-(ジユンシヨク)_ンヤ之哉 交易トハ。ウリ物多ケレトモ障(サハ)リノナキヲ。交易(キヤウイ)ニ合期(カウ―)ト云也。〔下初オ八〕

とあって、この標記語「潤色」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

公私(こうし)潤色(じゆんしよく)公私潤色。公私の注前に見へたり。潤色とハよくとゝのひたるこゝろなり。〔廿六ウ六〕

とし、標記語「潤色」に対する語注記は、「潤色とハよくとゝのひたるこゝろなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

公私(こうし)潤色(じゆん志よく)何事(なにごと)(これ)(し)かん(や)公私潤色何事カン。〔二十二オ五・六〕

公私(こうし)の潤色(じゆんしよく)何事(なにごと)か(しか)ん(これ)に(や)。〔三十九オ六〕

とあって、標記語「潤色」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Iunxocu.ジユンショク(潤色) 新鮮な色,あるいは,新鮮さ.天から下る恵み,あるいは,高貴な方からの恩恵の意味に取られる.文書語.〔邦訳373l〕

とあって、標記語を「潤色」の語は、文書語で「新鮮な色,あるいは,新鮮さ.天から下る恵み,あるいは,高貴な方からの恩恵の意味に取られる」を意味する。

[ことばの実際]

潤色 子産−−之(語)。《『韻府群玉』職韻・五333左H》

(コノ)事敵ニシラセジトセシカドモ、隱(カクレ)アルベキ事ナラネバヤガテ聞ヘテ、哀(アハレ)潤色(ジユンシヨク)ヤト、悦ビ勇(イサ)マヌ者ハナシ。《『太平記』卷第十・三浦大多和合戰意見事》

2001年10月19日(金)晴れ一時曇り。福井《訓点語学会

「公程(コウテイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、標記語「公程」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、

交易合期公程潤色何事如之哉」〔至徳三年本〕

交易合期-(テイ)-(ジユン―)_事如ン∨」〔山田俊雄藏本〕

交易合期公私之潤色何事如之哉」〔建部傳内本〕

交易(ケウヤク)合期公私()ノ潤色(ジユン―)、何事ン∨」〔経覺筆本〕

交易(カウエキ/ケウ―)合期(カウコ)シ公私(コヲウシ)ノ潤色(シユンシヨク)何事如(シカ) ン∨之哉」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本と山田俊雄藏本は、「公程」とし、経覺筆本建部傳内本は、「公私」として異なる表記をここに示している。『下學集』には、標記語「公程」と「公私」の両語とも未收載にある。次に、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』にも、この「公程」の語は未収載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「公程」の標記語は、未収載にする。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

241合期--色何_之哉-(チヤウー)ノ 年貢等也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

とあって、標記語を「公私」とし、その語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

交易(キヨウヱキ)合期(ガウコ)シ-(コウシ)-(ジユンシヨク)_ンヤ之哉 交易トハ。ウリ物多ケレトモ障(サハ)リノナキヲ。交易(キヤウイ)ニ合期(カウ―)ト云也。〔下初オ八〕

とあって、この標記語を同じく「公私」とし、その語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

公私(こうし)潤色(じゆん志よく)公私潤色公私の注前に見へたり。潤色とハよくとゝのひたるこゝろなり。〔廿六ウ六〕

とし、標記語を「公私」とし、その語注記は未記載にある。さらに、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

公私(こうし)潤色(じゆん志よく)何事(なにごと)(これ)(し)かん(や)公私潤色何事カン。〔二十二オ五・六〕

公私(こうし)の潤色(じゆんしよく)。何事(なにごと)か(しか)ん(これ)に(や)。〔三十九オ六〕

とあって、標記語を「公私」とし、その語注記は、未記載にあり、上記古写『庭訓徃来』の「公程」の語を引用する『庭訓徃来』の注釈書は一つもないと言ってよかろう。

 当代の『日葡辞書』には、「公程」の語は未収載にある。この語を収載する辞書として、小学館『日本国語大辞典』が収載していて、意味を「おおやけの役目。公務」とし、下記の謡曲『張良』を用例としている。だが、上記『庭訓徃来』古写本(至徳三年本山田俊雄藏本)がこの語を用いていることを知らない。ここに報告しておく。

[ことばの実際]

ワキ詞「これは漢の高祖の臣下張良とは我が事なり。われ公庭に隙なき身なれども。或る夜不思議の夢をみる。《謡曲『張良』》

2001年10月18日(木)小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)→福井

「合期(ガウゴ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

合期(―コ)。〔元亀本92五〕

合期(ガウコ)。〔静嘉堂本114四〕

合期(カウコ)。〔天正十七年本117七〕〔西來寺本163五〕

とあって、標記語「合期」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「交易合期」と見え、『下學集』には、標記語「合期」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

合期(ガフ/アワス,ノリ・カギリ)[去・平]。〔態藝門629二〕

とあって、標記語を「合期」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

合期(ガウゴ)。〔・言語進退86六〕

合戦(カツせン)―力(カウリヨク)。―點(カツテン)。―躰(テイ)。―宿(シユク)。―壁(ヘキ)―期(ガウゴ)。―木(カウモク)。―食禁(ガツシヨキン)。〔・言語82四〕

合戦(カツセン)―力。―。―体。―宿。―薬。―壁。―期。―食禁。―木。〔・言語74八〕

合戦(カツセン)―力。―點。―躰。―宿。―壁。―期。―木。―食禁。〔・言語74八〕

とあって、標記語「合期」の語を弘治二年本は標記語としているが、他二本は標記語「合戦」の熟語群注記として収載している。さらに、易林本節用集』も、「合食禁(カツシヨクキン)合點(ガツテン)合歡(クワン)合掌(シヤウ)合戰(せン)合宿(シク)」「合力(カフリヨク)」の熟語群を言辞門に収載するのみで、この「合期」の語は未収載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「合期」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

241合期--色何_之哉-(チヤウー)ノ 年貢等也。〔謙堂文庫藏二七右E〕

-(ゴ)―約束ヲ含心也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古寫書込み〕

とあって、標記語「合期」の語注記は、未記載にある。静嘉堂本の書込みには、「約束を含む心なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

交易(キヨウヱキ)合期(ガウコ)シ-(コウシ)ノ-(ジユンシヨク)_ンヤ之哉 交易トハ。ウリ物多ケレトモ障(サハ)リノナキヲ。交易(キヤウイ)合期(カウ―)ト云也。〔下初オ八〕

とあって、この標記語「合期」の語注記は、「うり物多けれども障りのなきを、交易に合期と云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

交易(かうゑき)合期(がうご)交易合期。交易ハ賣買する事也。合期ハ年都合といふか如し。〔廿六ウ五〕

とし、標記語「合期」に対する語注記は、「年都合といふがごとし」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

交易(かうゑき)合期(がふご)交易合期▲交易ハまじハりかふると訓(よミ)て商物(あきなひもの)を互(たがひ)に取遣(とりやり)し賣買(うり―)するをいふ。〔二十二オ七〕

交易(かうえき)合期(がふご)。▲交易ハまじハりかふると訓(よミ)て商物(あきなひもの)を互(たがひ)に取遣(とりやり)し賣買(うりかひ)するをいふ。〔三十九ウ二〕

とあって、標記語「合期」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Go<go.ガゥゴ(合期) すなわち,Vgqi fataraqu.(動きはたらく)動くこと.§Go<go itasu,l,itasanu.(合期致す.または,致さぬ)動く,あるいは,動くことも歩くこともできない.〔邦訳306l〕

とあって、標記語を「合期」の語は、文書語で「すなわち、Vgqi fataraqu.(動きはたらく)動くこと」を意味する。

[ことばの実際]

九日戊子、爲大庭平太景義奉行、被始御亭作事但依難致合期沙汰、暫點知家事〈兼道〉山内宅、被移建立之比屋、正暦年中、建立之後、未遇回禄之災晴明朝臣、押鎮宅府之故也。《読み下し文》大庭の平太景義奉行として、御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致し難きに依って、暫く知家事(兼道)が山の内の宅を点じて、移されこれを建立す。この屋は正暦年中に建立するの後、未だ回録の災ひに遭はず。晴明の朝臣鎮宅の府を押すが故なり。《『吾妻鏡』治承四年十月九日》

而南郡國役責勘之間、云地頭得分、云代官經廻、於事不合期之由、所歎申也。《読み下し文》而るに南の郡の国役責勘の間、地頭の得分と云い、代官の経廻と云い、事に於いて合期せざるの由歎き申す所なり。《『吾妻鏡』元暦元年四月二十三日》

2001年10月17日(水)小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「交易(ケウエキ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、「交名(キウミヤウ)」「交羅(ラ)」の二語を収載するのみで、標記語「交易」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「交易合期」と見え、『下學集』には、標記語「交易」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

交易(ケウエキ・ヤスシカウ・マジワル,カワル)[平・入]賣買。〔態藝門602二〕

とあって、標記語を「交易」とし、語注記はただ「賣買」とある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

交易(ケウイ)。〔・言語進退176八〕

交會(ケウカイ)―衆(シユ)。―名(ミヤウ)。―替(タイ)―易()。〔・言語144一〕

交會(ケウクワイ)―衆。―名。―替。―易。〔・言語133八〕

とあって、標記語「交易」の語を弘治二年本は標記語としているが、他二本は標記語「交會」の熟語群注記として収載している。さらに、易林本節用集』も、

交易(ケウヤク) ―乱(ラン)。―接(セフ)。―名(ミヤウ)。〔言辞146六〕

とあって、言辞門に標記語「交易」として収載し、読みは「ケウヤク」とする。語注記には熟語群三語を従えている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「交易」の標記語は、

交易ケウヤク。〔黒川本・疉字門中99ウ八〕

交易 〃開。〃替。〃米。〃衆。〃樓。〃横。〔卷六・疉字門19二〕

とあって、標記語「交易」が収載されていて、読みは上記易林本節用集』が引き継いでいる。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

240諸國旅客(キヤク)ノ宿所-送之賣買之律悉令遵行交易(ケウヤク/ヱキ) 易也。京中者夷中下。日本義也。〔謙堂文庫藏二七右C〕

とあって、標記語「交易」の語注記は、「物の易なり。京中の者夷中に下り。日本の者は唐に渡す義なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

交易(キヨウヱキ)合期(ガウコ)シ-(コウシ)ノ-(ジユンシヨク)_ンヤ之哉 交易トハ。ウリ物多ケレトモ障(サハ)リノナキヲ。交易(キヤウイ)ニ合期(カウ―)ト云也。〔下初オ八〕

とあって、この標記語「交易」の語注記は、「うり物多けれども障りのなきを、交易に合期と云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

交易(かうゑき)合期(がうご)交易合期。交易ハ賣買する事也。合期ハ年都合といふか如し。〔廿六ウ五〕

とし、標記語「交易」に対する語注記は、「賣買する事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

交易(かうゑき)合期(がふご)し交易合期▲交易ハまじハりかふると訓(よミ)て商物(あきなひもの)を互(たがひ)に取遣(とりやり)し賣買(うり―)するをいふ。〔二十二オ七〕

交易(かうえき)合期(がふご)し。▲交易ハまじハりかふると訓(よミ)て商物(あきなひもの)を互(たがひ)に取遣(とりやり)し賣買(うりかひ)するをいふ。〔三十九ウ二〕

とあって、標記語「交易」の語注記は、「交易は、まじハりかふると訓みて商物を互ひに取遣し賣買するをいふ」とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Qeo>yeqi.ケゥエキ(交易) まざり合い.文書語.〔邦訳489l〕

とあって、標記語を「交易」の語は、文書語で「まざり合い」を意味するとある。

[ことばの実際]

十七日丙戌。雜物等、依有高直之聞、被定其法今日所被施行也。炭・薪・萱・藁・糠事。高直過法之間依爲諸人之煩、先日雖被定下直於自今以後者、不可有其儀、如元可被免交易但至押買并迎買者、可令停止也以此旨、可被相觸相摸國如然之物交易所也者依仰、執達如件  建長六年十月十七日  相摸守  陸奥守  筑前々司殿。《読み下し文》雑物等高直の聞こえ有るに依ってその法を定められ、今日施行せらるる所なり。  炭、薪、萱、藁、糠の事 高直法に過ぐるの間、諸人の煩いたるに依って、先日直を定め下さるると雖も、自今以後に於いてはその儀有るべからず。元の如く交易を免さるべし。但し押買並びに迎買に至っては停止せしむべきなり。この旨を以て相模の国の然る如きの物交易の所に相触れらるべきなり。といえば、仰せに依って執達件の如し。  建長六年十月十七日  相模の守  陸奥の守  筑前の前司殿。《『吾妻鏡』建長六年(一二五四)十月十七日丙戌》

2001年10月16日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)

「運送(ウンソウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」部に、

運送(―ソウ)。〔元亀本179二〕〔静嘉堂本200二〕〔天正十七年本中29オ八〕

とあって、標記語「運送」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「賣買之津」と見え、『下學集』には、言辞門に「運賃」の語はあるが、標記語「運送」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

運送(ウンソウ/ハコブ,ヲクル)[上・去]。〔態藝門478一〕

とあって、標記語を「運送」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

運送(―ソウ)。〔・言語進退152四〕

運命(ウンメイ)―否(フ)。―上(ジヤウ)。―賃(ヂン)。―載(サイ)―送(ソウ)。〔・言語122六〕

運命(ウンメイ)―否。―上。―送。―賃。―載。〔・言語112三〕

運命(ウンメイ)―否(フ)。―上(ジヤウ)―送(ソウ)。―載。添(ソウ)。〔・言語122六〕

とあって、標記語「運送」の語を弘治二年本は標記語としているが、他三本は標記語「運命」の熟語群注記として収載している。さらに、易林本節用集』も、

運命(ウンメイ) ―載(サイ)―送(ソウ)。―上(ジヤウ)。―否(フ)。〔言辞119三〕

とあって、言辞門に標記語「運命」の熟語群注記として「運送」の語を収載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「運送」の標記語は、未收載にある。ただし、

運漕資用部。ウンサウ。〔黒川本・疉字門中53ウ六〕

運命〃轉。〃漕サウ。〃賃。〃上。〃送。〔卷五・疉字門204六〕

とあって、標記語「運漕」が収載されていて、後の庭訓徃來捷注』の語に相当する。十巻本は、両語とも標記語「運命」の熟語群にして収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

240諸國旅客(キヤク)ノ宿所-之賣買之律悉令遵行候交易(ケウヤク/ヱキ) 易也。京中者夷中下。日本義也。〔謙堂文庫藏二七右C〕

とあって、標記語「運送」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

-(ウンソウ)ス賣買(バイバイ)ノ(ツ)ニ(コト/\ク)(シ)メ遵行(ジユン―)|運送 (ウンソウ)トハ。餘所(ヨソ)ヨリ市マチ間。宿(ヤト)ニ賣物(ウリ)ヲツカハスヲ問ニ。心得テウル事ナリ。〔下初オ六・七〕

とあって、この標記語「運送」の語注記は、「餘所(ヨソ)ヨリ市マチ間。宿(ヤト)ニ賣物(ウリ)ヲツカハスヲ問ニ。心得テウル事ナリ旅の客人なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

旅客(りよかく)宿所(しゆくしよ)-之賣買之律。運ハはこふ事也。漕ハ舟に積送る事なり〔廿六ウ三・四〕

とし、標記語「旅客」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

旅客(りよかく)宿所(しゆくしよ)-之賣買之律。〔二十二オ七〕

旅客(りよかく)宿所(しゆくしよ)。〔三十九ウ一〕

とあって、標記語「旅客」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Vnso>. ウンソウ(運送) Facobivocuru.(運び送る)車で運んで行かせること,または,運んで来させること.§Vuso> baibaino tcu.(運送売買の津)種々の商品の中継地である港. ※庭訓徃來,四月返状.〔邦訳695l〕

とあって、標記語を「運送」の語は、「車で運んで行かせること,または,運んで来させること」といい、用例は上記『庭訓徃來』より引用している。

[ことばの実際]

凡奥州御下向之間、自御出鎌倉之日、至于御還向之今、毎日御羞膳盃酒、御湯殿、各三度、更雖無御懈怠之儀遂以所不令成民庶之費也。運送上野下野兩國乃貢〈云云〉人以莫不欽仰、又河野四郎通信、令持土器食事毎度用之榛谷四郎重朝洗乗馬事、日々不怠是等則今度御旅舘之間、珎事之由、在人口〈云云〉《読み下し文》凡そ奥州御下向の間、鎌倉を御出での日より御還向の今に至るまで、毎日、御羞膳、盃酒、御湯殿、各々三度更に御懈怠の儀無しと雖も、遂に以て民庶の費えを成さしめざる所なり。上野、下野両国の乃貢を運送する。人以て欽仰せざること莫し。また河野の四郎通信、土器を持たしめ、食事に毎度これを用ゆ。榛谷の四郎重朝、乗馬を洗ふ事日々怠らず。これ等則ち今度御旅館の間、珍事の由人口に在り。《『吾妻鏡』文治五年十月一日丁亥》

兵粮(ヒヤウラウ)運送(ウンソウ)ノ道絶(タエ)テ、千劒破(チハヤ)ノ寄手(ヨセテ)以外(モツテノホカ)ニ氣ヲ失(ウシナ)ヘル由聞ヘケレバ、又六波羅ヨリ宇都宮(ウツノミヤ)ヲゾ下(クダ)サレケル。《『太平記』卷第七・新田義貞賜綸旨事》

2001年10月15日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)開講記念日

「旅客(リヨカク)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部に、「旅宿(リヨシユク)旅行(カウ)旅羈(キ)旅所(シヨ)旅泊(ハク)旅店(テン)旅邸(テイ)旅舘(クワン)旅友(ユウ)旅人(ジン)旅懷(クワイ)旅雁(ガン)」という十二語が収載されていているが、標記語「旅客」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「旅客」と見え、『下學集』には、「旅」の字を冠頭にする語は、態藝門に「旅籠(ハタコ)」のみで、標記語「旅客」は未收載にある。次に、広本節用集』には、

旅客(リヨカク/タビ,―)[上・平]。〔人倫門189八〕

とあって、標記語を「旅客」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「旅客」語を『下學集』『運歩色葉集』同様に未収載する。さらに、易林本節用集』も、言辞門に「旅宿(リヨシユク)旅所(シヨ)旅行(カウ)」の三語を収載するに留まる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「旅客」の標記語は、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

240諸國旅客(キヤク)ノ宿所-送之賣買之律悉令遵行候交易(ケウヤク/ヱキ) 易也。京中者夷中下。日本義也。〔謙堂文庫藏二七右C〕

とあって、標記語「旅客」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

旅客(リヨカク)宿所(シユク―)ハ旅(タビ)ノ(キヤク)人ナリ。〔下初オ六〕

とあって、この標記語「旅客」の語注記は、「旅の客人なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

旅客(りよかく)宿所(しゆくしよ)旅客宿所。〔廿六ウ三〕

とし、標記語「旅客」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

旅客(りよかく)宿所(しゆくしよ)旅客宿所。▲旅客宿所ハ旅人(たびゝと)のとまるはたごや也。〔二十二オ七〕

旅客(りよかく)宿所(しゆくしよ)▲旅客宿所ハ旅人(たびゝと)のとまるはたごやなり。〔三十九ウ一〕

とあって、標記語「旅客」の語注記は、「旅客の宿所は旅人のとまるはたごやなり」とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Reocacu.レョカク(旅客) Tabino marebito.(旅の客)客人.⇒次条.〔邦訳529r〕

†Reocacu. レョカク(旅客) Tabino qiacu.(旅の客)客人.〔邦訳529r〕

とあって、標記語を「旅客」の語は、「客人」という。

[ことばの実際]

四十餘年ガ間本朝大ニ亂(レ)テ外國(グワイコク)(シバラク)モ不靜。此(コノ)動亂ニ事ヲ寄セテ、山路ニハ山賊有テ旅客(リヨカク)緑林(リヨクリン)ノ陰(カゲ)ヲ不過得、海上ニハ海賊多(ク)シテ、舟人白浪(ハクラウ)ノ難ヲ去兼(サリカネ)タリ。《『太平記』卷第三十九・高麗人來朝事》

2001年10月14日(日)晴れ。東京(八王子)⇒練馬

「藝才(ゲイサイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、標記語「藝才」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「藝才」と見え、『下學集』には、標記語「藝才」は未收載にある。次に、広本節用集』には、

藝才(ゲイサイ/シワザ,シワザ)[去・平]。〔態藝門601八〕

とあって、標記語を「藝才」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「藝才」語を『下學集』『運歩色葉集』同様に未収載する。さらに、易林本節用集』にも、

藝能(ゲイノウ)―才(サイ)。〔言辞147二〕

とあって、標記語を「藝能」の「藝」の字熟語群として「藝才」の語を収載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「藝才」の標記語は、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

239被仰下之旨畏拝見仕候。畢就先度御亊(ゴジ)ニ|藝才(ザイ)七座之店(タナ) 藝才トハ自始学スルヲ藝。七座魚米器塩刀衣藥之七也。〔謙堂文庫藏二七右B〕

藝才トハ―ハ自好学スルヲ云藝也。才ハワカツ也。言ハ我学所之物ヲワカチウル也。〔天理図書館藏『庭訓徃来註』冠頭書込み〕

藝才――分ツ心也。言ハ我斈物ヲ分チ賣心也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃来抄』古寫書込み〕

藝才(ツカサ也)トハ――ハ自好学ヲ云ナリ。才ハワツカ也。言ハ我学所之物ヲハカツケウル也。抄云、藝才――自好斈スルヲ云也。才ハワカツ也。言ハ我斈所之物ヲ分チ賣也。〔国会図書館藏左貫註冠頭書込み〕

とあって、標記語「藝才」の語注記は、未記載にあり、静嘉堂本の書き込み注記に「藝才と書くは、我より主人の書なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

藝才(ザイ) (ヲヨソ)藝才(ゲイサイ)ハ。銅堀(アカヽネホリ)鉄堀(クロカネホリ)ノ事ナリ七座(ナヽザ)ノ之店(タナ)諸國商人(アキント)。七座ノ店(タナ)トハ先(サキ)ノ文ニ市(イチ)町ノ事有ニ依(ヨツ)テ。此ノ返事ニ七座の店(タナ)トハ有也。惣(ソウ)シテ市ニハ。百賣(ハイ)千買(ハイ)トテ百(モヽ)ノ賣(ウリ)物ニ千ノ買(カイ)物有ナリ。又市毎(コト)ニ。七座ハ有也。座ト云事ハ。物ヲ賣座也。一ニハ(キヌ)ノ座。二ニハ(スミ)ノ座。三ニハ米ノ座。四ニハ檜物(ヒモノ)座。五ニハ千朶積ノ事也。六ニハ相物(アヒモノ)座トテ魚(ウヲ)(シホ)ウル座也。此座不審(シン)ナリ。紙(カミ)ノ座トモ云ヘリ。七ニハ(ムマ)(アキナフ)座是(コレ)ナリ。其外(ソノホカ)ニ手買振賣(テガヒフリウリ)トテアリ。皆々此七座ニ與力(ヨリキ)スル賣物(ウリモノ)(ドモ)(ヲヽ)シ。諸國ノ商人(アキンド)(イチ)ニ集(アツマル)也。〔下初オ二・三〕

とあって、この標記語「藝才」の語注記は、「凡そ藝才は、銅堀・鉄堀の事なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

藝才(げいさい)七座(なゝざ)(たな)藝才(ザイ)七座之店。七座とハ一に絹(きぬ)。二にハ炭(すミ)。三には米。四には桧(ひ)物。五にハ千朶積(せんたつミ)。六には相物座とて魚塩をうる。七には馬商なり。〔廿六ウ二〕

とし、標記語「藝才」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

藝才(げいさい)七座(なゝざ)(たな)藝才七座之店▲藝才ハわざくれの惣名(そうめう)也。〔二十二オ四〕

藝才(げいさい)七座(なゝざ)(たな) ▲藝才ハわざくれの惣名(そうミやう)也。〔三十九オ六〕

とあって、標記語「藝才」の語注記は、「わざくれの惣名なり」とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Gueisai.ゲイサイ(藝才) 技芸と才知と.〔邦訳295l〕

とあって、標記語を「藝才」の語は、「技芸と才知と」という。

[ことばの実際]

藝才(さい)とは為業(しはざ)才覺(さいかく)(かしこ)きをいふ。《『譬喩盡』け之部346頁上》

2001年10月13日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「先度(センド)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、

先度(―ド)。〔元亀本352八〕

先度(―ド)。先度(同)。〔静嘉堂本424八〕

とあって、標記語「先度」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「先度」と見え、『下學集』には、

先途(センド) 難義(ナンギ)ノ(コヽロ)ナリ也。〔言辞154五〕

という同音の標記語「先途」はあるが、標記語「先度」は未收載にある。次に、広本節用集』には、

先度(せンド・ノリ/マヅ,ハカル)[平・去入]。〔態藝門1087七〕

先途(せンド・/マヅ,ミチ)[平・平]難義意也。〔態藝門1087八〕

とあって、標記語を「先度」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

先途(―ド)難義。〔・言語進退265三〕

先規(せンキ)―判(ハン)。―例(レイ)。―蹤(ゼウ)―途(ド)。―条(デウ)。〔・言語226四〕

先規(せンキ)―判―例。―蹤。―途。―条。〔・言語213二〕

とあって、いずれも標記語「先度」の語は未収載であり、弘治二年本は、標記語「先途」に語注記として「難義」とする。他二本である永祿二年本尭空本は、標記語「先規」とし、「先」の字を冠頭に据えた熟語群のなかに同音の「先途」の語を収載するにすぎない。さらに、易林本節用集』にも、

先徳(せンドク)―度()。―條(デウ)。―代(ダイ)。―例(レイ)。―規(キ)。―陣(ヂン)。―約(ヤク)。―(せウ)。―非(ヒ)。〔言辞235七〕

とあって、標記語を「先徳」とし、「先」の字を冠頭に据えた熟語群の筆頭に「先度」の字で収載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「先度」「先途」両語の標記語は、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

239被仰下之旨畏拝見仕候。畢就先度御亊(ゴジ)ニ|藝才(ザイ)七座之店(タナ) 藝才トハ自始学スルヲ藝。七座魚米器塩刀衣藥之七也。〔謙堂文庫藏二七右B〕

とあって、標記語「先度」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

ルヽ仰下之旨畏(カシコマ)ツテ拝見(ハイケン)ヌ。先度御事書ニ|藝才(ゲイサイ)。凡(ヲヨソ)藝才(ゲイサイ)ハ。銅堀(アカヽネホリ)鉄堀(クロカネホリ)ノ事ナリ。〔下初オ二〕

とあって、この標記語「先度」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

先度(せんど)(おん)事書(ことかき)(つい)て/。先度御事書ニ|君より仰せ遣ハされる書付なり。〔廿六ウ一〕

とし、この標記語に対する語注記は、「君より仰せ遣ハされる書付なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

先度(せんど)(おん)事書(ことがき)(つい) て/先度御事書ニ|。〔二十二オ三〕

(つい)て先度(せんど)の(おん)事書(ことがき)に|。〔三十九オ三〕

とあって、標記語「先度」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Xendo.センド(先度) Saqino tabi.(先の度)過ぎ去った日々,または,先般.〔邦訳750r〕

とあって、標記語を「先度」の語は、「過ぎ去った日々,または,先般」という。

[ことばの実際]

小人のいひけるは、「先度、汝大般若の御讀經つかうまつりしに驗ありき。はじめあゆみ來りつる物は邪氣也。彼經によりて足燒損じて調伏せられぬ。後のたびの、金剛般若の御讀經奉仕の時は驗なかりき。此由を奏聞して、大般若の御讀經をつとめよ。我はこれ稲荷神なり」とてうせ給ぬ。《『古今著聞集』第三「貞崇法師勅に依りて念佛の時稻荷神託宣の事」》

右下シ給ハリ候フノ折紙、謹ミテ以テ拝見セシメ候ヒ畢ンヌ。先度仰セ下サルルノ刻、子細言上シ(候ヒ)畢ンヌ。《『吾妻鏡』文治三年八月八日》

2001年10月12日(金)晴れ。東京(八王子)⇒有楽町

「拝見(ハイケン)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、

拝見(―ケン)。〔元亀本30六〕〔西來寺本53六〕

拝見(――)。〔静嘉堂本30六〕〔天正十七年本上16オ六〕

とあって、標記語「拝見」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、「拝見」と見え、『下學集』には、標記語「拝見」は未收載にある。次に、広本節用集』には、

拝見(ハイケン/ヲガム,ミル)[去・去]。〔態藝門63四〕

とあって、標記語を「拝見」とし、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

拝見(―ケン)。〔・言語進退25七〕

拝除(ハイヂヨ)政理部。―謝(ジヤ)(シル)面部。―領(リヤウ)。―披(ヒ)―見(ケン)。―礼(ライ)。―賀(ガ)。―(シ)。―(エツ)。―迎(カウ)。―覲(キ)。―談(ダン)。―(ニン)。―謁(エツ)。―悦(エツ)。―顔(ガン)。―受(ジユ)。―面(メン)。〔・言語21九〕

拝除(ハイヂヨ)政理部。―謝對面部。―領。―披。。――見。―礼。―賀。―迎。―覲。―談。―謁。―面。―。―悦。―顔。―受。―。―。―。―。〔・言語19七〕

拝領(ハイリヤウ)。拝披(ハイヒ)。拝覧(ハイラン)。拝顔(ハイガン)。〔・言語24二〕※「拝見」の語は未收載。

とあって、標記語「拝見」として収載しているのは弘治二年本のみで、他二本である永祿二年本尭空本は、標記語「拝除」とし、「拝」の字を冠頭に据えた熟語群のなかに「拝見」の語を収載する。両足院本は、熟語をそれぞれ独立にして標記語として収載するがこの語は未收載にある。さらに、易林本節用集』にも、

拝披(ハイヒ)。拝受(―ジユ)。拝進(―シン)。拝領(―リヤウ)。拝顔(―ガン)。拝讀(―ドク)。拝覆(―フク)。拝晉(―シン)。拝呈(―テイ)。(ハイジヤウ)。(―ケン)。(―ラン)。〔言辞22一〜三〕

とあって、標記語を「」の字でない「」の字で「ハイケン」の語を収載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「拝見」の標記語は、未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、

239被仰下之旨畏拝見仕候。畢就先度御亊(ゴジ)ニ|藝才(ザイ)七座之店(タナ) 藝才トハ自始学スルヲ藝。七座魚米器塩刀衣藥之七也。〔謙堂文庫藏二七右B〕

拝見――ト書ハ自我主人ノ書也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古寫書込み〕

とあって、標記語「拝見」の語注記は、未記載にあり、静嘉堂本の書き込み注記に「拝見と書くは、我より主人の書なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

ルヽ仰下之旨畏(カシコマ)ツテ拝見(ハイケン)ヌ。先度御事書ニ|藝才(ゲイサイ)。凡(ヲヨソ)藝才(ゲイサイ)ハ。銅堀(アカヽネホリ)鉄堀(クロカネホリ)ノ事ナリ。〔下初オ二〕

とあって、この標記語「拝見」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(おふ)せ(くた)(むね)(かしこま)拝見(はいけん)(つかまつ)(さふら)。(おハん)ぬ/るゝ仰下之旨畏拝見仕候畢。畏とハつゝしむこゝろなり。〔廿六オ八〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(おふ)せ(くだ)(むね)(かしこま)つて拝見(はいけん)(つかまつ)り候畢サ|之旨拝見仕候ス。〔二十二オ三〕

旨畏(かしこま)つて拝見(はいけん)候畢るゝ(おほ)せ(くだ)さ|(むね)(かしこま)り拝見(はいけん)(つかまつ)り(さふら)ひ(をハん)ぬ。〔三十九オ二〕

とあって、標記語「拝見」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Faiqen.ハイケン(拝見) Vogami,miru.(拝み,見る)うやうやしく手紙を読むこと.§Gojo<uo faiqen tcucamatcutta.(御状を拝見仕つた)あなたのお手紙を見ました.または,読みました.⇒Fo<bocu;Fumi;Sonopo>.〔邦訳199l〕

とあって、標記語を「拝見」の語は、「うやうやしく手紙を読むこと」という。

[ことばの実際]

六月一日ノ御教書、七月二十八日ニ到来ス。謹テ以テ拝見セシメ候ヒ訖ンヌ。《訓読》六月一日の御教書、七月二十八日に到来す。謹んで以て拝見し候いをはんぬ。《『吾妻鏡』文治二年(一一八六)丙午八月五日己卯》

2001年10月11日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「中務(なかつかさ・なかづかさ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「那」部に、

中務(ナカツカサ)唐名。中書。〔元亀本166二〕〔天正十七年本中23オ二〕

中務(―ヅカサ)唐名。中書。〔静嘉堂本184五〕

とあって、標記語「中務」の語注記は「唐名中書」という。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、「中務丞殿」と見え、『下學集』には、

中務卿(ナカツカサキヤウ) 中書令(――レイ)。〔官位門42四〕

とあって、標記語「中務卿」とし、その語注記は、「中書令」という。次に、広本節用集』には、

中務省(ナカヅカサせイチウフ)[平去・去・○] 當中書省。又号鳳閣。卿一人。相當正四位上。唐名門下侍中書令。大輔一人。権大輔一人。相當正五位上。唐名中書。大卿。或中書監。少輔一人。相當従五位上。唐名中書少卿。或中書侍郎。丞。相當六位。大正六位上。少従六位上。唐名舎人。録。唐名中書主亊。〔官位門436二〕

とあって、標記語を「中務省」とし、その語注記は、『下學集』の注記内容とは異なっていて、「唐の中書省に當る。又、「鳳閣」と号す。卿一人。相當正四位上。唐名門下侍中書令。大輔一人。権大輔一人。相當正五位上。唐名中書。大卿。或は中書監。少輔一人。相當従五位上。唐名中書少卿。或は中書侍郎。丞。相當六位。大は、正六位上。少は従六位上。唐名舎人。録。唐名中書主亊」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

中務(ナカツカサ) ――太輔。―卿。―丞。―少輔。―尉。以上在之唐名皆中書也。〔・官名138五〕

中務(ナカヅカサ) ――大輔。―卿。―丞。―少輔。―尉。唐名中書。〔・官名110七〕〔・官名101五〕〔・官名123八〕

とあって、標記語「中務」の読みは、弘治二年本が「なかつかさ」他三本は「なかづかさ」とし、語注記も弘治二年本だけが最後の注記を「以上、これ在り。唐名皆中書なり」としている。他三本は「唐名中書」というに留まる。さらに、易林本節用集』にも、

中務(ナカヅカサ)中書。〔官位109五〕

とあって、標記語を「中務」で所載し、読みは「なかづかさ」とし、語注記は「中書」という。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には「中務」の標記語は、

中務省卿輔丞録/ナカツカサ/省宰史主。〔黒川本・官職中38ウ五〕

中務省親王為卿 卿。輔。丞。録/侍従。内舎人/内記房。監物。主鎰。典鎰。〔卷第五・官職76五〕

とあって、標記語を「中務省」として、その三卷本注記に「卿輔丞録/ナカツカサ/省宰史主」とあり、十巻本には「親王為卿 卿。輔。丞。録/侍従。内舎人/内記房。監物。主鎰。典鎰」とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

238中務丞殿〔謙堂文庫藏二六左H〕

中務丞殿―唐名中書令也。〔国会図書館藏左貫注書き込み〕

中務(ツカサ)ノ丞殿 相當/大ハ正六位。小ハ六位上。唐名中書舎人。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』冠頭書込み〕

中務丞殿相當六位。唐名中書舎人。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』徳の人書込み〕

進上 中務丞殿〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、標記語「中務」の語注記は、未記載にあり、国会本左貫注の書込みに、「唐名中書令なり」という。また、静嘉堂本は「進上」の語を「中務丞殿」の上に添えている。古版『庭訓徃来註』では、

中務(ナカツカサ)ノ(ぜウ)殿(ドノ)。〔卅二ウ八〕

とあって、この標記語「中務丞殿」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

中務(なかつかさ)(ぜう)殿(との)。/中務丞殿。〔廿六オ七〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

中務(なかつかさ)(じよう)殿(どの)。/中務丞殿中務。大丞(だいしよう)ハ正六位上。少丞(せうじよう)ハ従(じう)六位上に相當す。唐名(からな)ハ中書舎人(ちうしよしやじん)といふ。〔二十二オ一・二〕

中務(なかつかさ)の(じよう)殿(どの)。▲中務。大丞(だいしよう)ハ正六位(ゐ)ノ上。少丞(せうじよう)ハ従(じゆう)六位(ゐ)ノ上に相當(さうとう)す。唐名(からな)中書舎人(ちうしよしやじん)といふ。〔三十八ウ六〕

とあって、標記語「中務」の語注記は「大丞ハ正六位の上。少丞ハ従六位の上に相當す。唐名ハ中書舎人といふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「中務」の標記語は、未収載にある。

[ことばの実際]

御親の深草(ふかくさ)の帝の御時の承和(じようわ)三年丙辰(ひのえたつ)正月七日、四品(しほん)したまふ。御年七。嘉祥三年正月、中務卿(なかつかさきやう)になりたまふ。御年二一。《『大鏡』五十八代光孝天皇・時康》

是は清和天皇より十代の後胤攝津守頼光かおとゝ大和守頼親か三代の孫中務丞頼治か孫下野守親弘か嫡子宇野七郎親治と名乗安藝判官基盛それは宣旨によりて御上洛か又院宣に依て御上洛か其段うけ給はらんといふ親治何とか思ひけん《『保元物語』上》

其比十ヶ夜ばかり、曉にをよびて、八省院と中務省の東の道とのあひだに、人馬のこゑ、東にむかひておほくきこえけり。《『古今著聞集』十七・593》

一宮(イチノミヤ)中務卿(ナカツカサノキヤウ)親王(シンワウ)ヲバ佐々木判官(ハングワン)時信(トキノブ)、妙法院(メウホウヰン)二品(ニホン)親王ヲバ長井左近大夫將監(サコンタイフシヤウゲン)高廣(タカヒロ)、源中納言(ゲンヂユウナゴン)具行(トモユキ)ヲバ筑後前司(チクゴノゼンジ)貞知(サダトモ)、東南院(トウナンヰン)僧正ヲバ常陸(ヒタチノ)前司時朝(トキトモ)、萬里小路(マデノコウヂ)中納言藤房・六條(ノ)少將忠顯(タダアキ)二人ヲバ、主上ニ近侍(キンジ)シ奉ルベシトテ、放召人(ハナチメシウド)ノ如クニテ六波羅ニゾ留(ト)メ置(オカ)レケル。《『太平記』卷第三・主上御沒落笠置事》

2001年10月10日(水)雨夜雷雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「卯月(うづき)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」部に、標記語「卯月」は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、「卯月」と見え、『下學集』には、

卯月(ウ―) 此月卯花盛。故卯月也。〔時節29一〕

標記語「卯月」の語注記は、「此の月、卯の花盛んに開く。故に卯月と云ふなり」という。当代、四月の異名を「卯の花が咲く月」ということで、『奥義抄』や鎌倉時代の『名語記』などと一にする見解をここに注記したものとなっている。次に、広本節用集』には、

卯月(ウヅキ/バウゲツ)[上・入] 倭國四月異名。或作余月。此月卯花盛開。故云――也。〔時節門468七〕

とあって、標記語「卯月」の語注記は、『下學集』の注記内容の前部に「倭國四月の異名。或は、余月と作す」の文句を増補し、「此の月、卯の花盛んに開く。故に卯月と云ふなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

卯月(ウツキ) 或作余月。四月名。〔・時節147八〕

卯月(ウヅキ) 或作餘月。四月之名。此月卯花盛開。故云――。〔・時節119五〕

卯月(ウツキ) 或作余月。四月之名。此月卯花盛開。故云――。〔・時節109二〕

卯月(ウヅキ) 或作余月。四月之名。此月卯花盛開。故云――。〔・時節132五〕

とあって、標記語「卯月」の語注記は弘治二年本だけが短く略注記しているが、他三写本は広本節用集』の注記内容に近い「或は、余月と作す。四月の名。此の月、卯の花盛んに開く。故に卯月と云ふ」というものである。さらに、易林本節用集』にも、

卯月(ウヅキ)四月。〔乾坤115七〕

とあって、標記語を「卯月」で所載し、語注記は「四月」をいう。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「卯月」の標記語は、

四月ウツキ/俗曰卯月。〔黒川本・天象中47オ一〕

四月ウツキ/律中仲呂。俗曰卯月。〔卷第五・天象142四〕

とあって、標記語を「四月」として、その注記に「俗に○○と云ふ」ということで「卯月」の語を収載している。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

236尤大切候也。招_居有(アル)ノ(トリヘ)ヲ|‖_公私ニ|。毎亊期後日候。恐々謹言卯月五日 此月卯花盛也。故云卯月|。〔謙堂文庫藏二六左G〕

卯月異名(ウツキ)。初夏中呂。〔国会図書館藏左貫注書込み〕

とあって、標記語「卯月」の語注記は、「この月、卯の花盛んなり。故に卯月と云ふ」とあって、『下學集』の語注記に依拠する内容にある。古版『庭訓徃来註』では、

卯月五日。〔卅二ウ八〕

とあって、この標記語「卯月」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

卯月(うづき)五日。/卯月五日卯月ハ四月の異名なり。〔廿六オ六〕

とし、この標記語に対する語注記は、「卯月ハ四月の異名なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

卯月(うづき)五日(いつか)。/卯月五日卯月ハ四月の異名。〔二十二オ一〕

卯月(うづき)五日(いつか)卯月ハ四月の異名(いミやう)。〔三十八ウ四・六〕

とあって、標記語「卯月」の語注記は「四月の異名」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「卯月」の標記語は、

Vzzuqi.ウヅキ(卯月) 日本の〔陰暦の〕四月.〔邦訳740l〕

とあって、「日本の〔陰暦の〕四月」という。

[ことばの実際]

[語源補遺]「卯月」の語源は、干支の四番目に「卯」が来ているところから、「四月」を「うづき」と呼称する説がある。大槻文彦編『大言海』は、「植月(うつき)の義、稲種を植(う)うる月」としている。

2001年10月9日(火)薄晴れ。東京(八王子)⇒西早稲田⇒世田谷(駒沢)

「采女(うねめ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」部に、

采女(ウネメ)唐名令。〔元亀本181三〕

采女(ウネメ)唐名采令。〔静嘉堂本203二〕〔天正十七年本中30ウ七〕

とあって、標記語「采女」の語注記は「唐名、米[采]令」という。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、

采女」〔至徳三年本〕〔山田俊雄藏本〕〔建部傳内本〕

(サキ)ノ采女(ウネヘ)ノ(カミ)」〔文明四年本〕

(サキ)ノ采女(ウネメ)ノ(カミ)壬生」〔経覺筆本〕

と見え、経覺筆本が末尾に「壬生」を追加している。後はすべて「采女」とする。『下學集』には、標記語「采女」の語は、未收載にある。次に、広本節用集』には、

采女司(ウネメノツカサ/サイヂヨシ,トル,ヲンナ)[去・去・平]唐名采女署(サイチヨシヨ)。正相當。正六位下。唐名采女令。佑相當正八位上。唐名采女丞令史。唐名采女史。〔官位門473一〕

とあって、標記語「采女司」の語注記は「唐名采女署。正相當。正六位下。唐名采女令。佑相當正八位上。唐名采女丞令史。唐名采女史」と唐名を示し、その官位を示す。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

采女正(ウネメノカミ)男官。非女官。〔・官名148八〕

采女正(ウネメノカミ)男之官。非女官。〔・官名120九〕

采女正(ウネメノカミ) 非女官。男官。〔・官名110七〕〔・官名134六〕

とあって、標記語を「采女正」で所載し、語注記は「男の官、女の官にあらず」という。さらに、易林本節用集』にも、

采女正(ウネメノカミ)。〔官位116四〕

とあって、標記語を「采女正」で所載し、語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「采女」の標記語は、

{采女}ウナメツカサ。正佐令史。〔黒川本・官職中54ウ六〕

采女司   一人。正六位下/良〓〔酉-温〕令。 一人/良〓〔酉-温〕丞。令史 一人/良〓〔酉-温〕史。史生 二人。采部 六人。使部 六人。

采女  本朝事始云 履中天皇之代倭(ヤマト)ノ(アタヒ)吾子(ワカコ)籠等貢采女盖始于時。〔卷第五219一〜五〕

とあって、『伊呂波字類抄』の語注記は、典拠として『本朝事始』を引用し、「履中天皇之代倭の直、吾子籠等、貢采女盖始于時」という。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

237前采女正 字有心、官有職原。〔謙堂文庫藏二七右@〕

(サキ)ノ采女(ウナメ)ノ(カミ)爰幹(チカトモ) 字有心、官職原也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫〕唐名采女/昔諸國ヨリ内裡ヘ美人ヲ献スルヲ取リアツカウ官也。〔同上書込み〕

采女正 字有心、官有職原。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』徳の人〕唐名采女署/昔国々ヨリ内裡美人スル取アツカイ官也。〔同上書込み〕

采女正 字有心、官有職原。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』〕唐名采女令/昔自諸國内裡美人献スルノ官也。〔同上書込み〕

采女正 前字有心、官有職原。〔国会図書館藏左貫注〕旧使氏/唐―采女令/爰幹(チカモト)采女男官也。非女官。雖内裡ニシテ女官也。其故土器(カワラケ)トアリ。爰ニハ男官也。〔同上書込み〕

とあって、標記語「采女」の語注記は、未記載にある。いま、静嘉堂本の書込みに、「昔諸国より内裡へ美人を献ずるを取りあつかう官なり」とあってその官職名が使われているのである。さらには、人物名「爰幹」を記載する。古版『庭訓徃来註』では、

(サキ)ノ采女(ウネメ)ノ(カミ)。〔卅二ウ八〕

とあって、この標記語「采女」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さき)采女(うねめ)(かミ)。/前采女正。〔廿六オ六〕

とし、この標記語に対する語注記は、「後の便りをいふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さき)の采女(うねめ)の(かミ)。/前采女正。〔二十一オ八〕〔三十七ウ四〕

とあって、標記語「采女」の語注記はやはり未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「采女」の標記語は、未收載にある。

[ことばの実際]

是月、廬城部連枳喩女幡媛、偸取物部大連尾輿瓔珞、獻春日皇后。事至發覺、枳喩、以女幡媛、獻采女丁、【是春日部采女也。】《『日本書紀』卷第十八・閏十二月己卯朔壬午》

豊嶋采女〔1026〕,於是有前采女 風流娘子〔3807〕。《『万葉集』》

菊吐滋為題、内膳遅供御膳、依采女正代早不申文也、又遅取文台筥、《『九暦』天徳元年十月五日卷一20頁》

2001年10月8日(月)曇りのち雨。東京(八王子)⇒

「後日(ゴニチ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、「後」の字を冠頭とする熟語群で「ゴ」と発音されるものとして、「後生(ゴシヤウ)・後宴(―エン)・後家(―ケ)・後住(―チウ)・後手(―テ)」の五語が収載されているだけで、当該語「後日」は未收載にある。

古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、

毎事期後日」〔至徳三年本〕〔文明四年本〕〔建部傳内本〕

-事期シ‖-ヲ|」〔山田俊雄藏本〕

毎事期シ‖后信ヲ|」〔経覺筆本〕

と見え、経覺筆本が「后信」と異なる表記を示している。後はすべて「後日」とする。『下學集』には、標記語「後日」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

後日(―シチ・ニチ/ノチ,ヒ)[上去・入]。〔態藝門668三〕

とあって、標記語「後日」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、標記語「後日」は未収載にある。さらに、易林本節用集』には、

後朝(コウテウ/ゴ―) ―日(ジツ)。―(ネン)。/―日(ニチ)。―年。〔乾坤152七〕

とあって、標記語を「後朝」で所載を乾坤門とし、同じ漢字表記でも読み方によって意味の異なりを示す注記説明として「後日」を注記に収載する。ここでは、左側の注記で「ゴニチ」ということになる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「後日」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

236尤大切候也。招_居有(アル)ノ(トリヘ)ヲ|‖_公私ニ|。毎亊期後日候。恐々謹言卯月五日 此月卯花盛也。故云卯月|。〔謙堂文庫藏二六左G〕

とあって、標記語「後日」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

_(マネキスヘ)(アル)ノ(トリヘ)之族ヲ|‖_(メシツカフ)公私之役ニ|。毎事期ス‖後日ヲ| (トリヘ)トハ何事モ一色(イロ)。人ノ役(ヤク)ニ立ル事ヲ知タル人ヲ屑人(トリヘヒト)ト云ナリ。公方(クハウ)。私(ワタクシ)ノ役ニタツト云義也。〔卅二ウ五・六〕

とあって、この標記語「後日」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

毎事(まいじ)後日(ごにち)(ご)す/毎事期ス‖後日ヲ|毎亊ハ万事といふかことし。後日ハ後の便りをいふ。〔廿六オ四〕

とし、この標記語に対する語注記は、「後の便りをいふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

毎事(まいじ)後日(ごにち)(ご)す/毎事期ス‖後日ヲ|。〔二十一オ八・ウ一〕〔三十七ウ六〕

とあって、標記語「後日」の語注記はやはり未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「後日」の標記語は、

Gonichi.ゴニチ(後日) Nochino fi.(後の日)来るべき時期,あるいは,これから以後の時.§Gonichino tameni mo<su.(後日のために申す)私は,これから後のため,あるいは,将来のために言う,話す.⇒Co>jit.〔邦訳307r〕

Co>jit. コゥジッ(後日) Nochino fi.(後の日).下(X.)の語.これから先,あるいは,今後の別の時に.上(Cami)では, Gonichi(後日)と言う. 〔邦訳143r〕

とあって、「コゥジッ」と「ゴニチ」の両読で収載し、「コウジツ」の注記説明に「上(Cami)では, Gonichi(後日)と言う」とある。ここで易林本節用集』が示唆するこの読みの具体的な異なりを知るのである。

[ことばの実際]

内大臣實定。重服之間令後日可還任。《『愚管抄』皇帝年代記・後鳥羽十五年》

而法華經之讀誦、終一千部之功後、宜顯其中丹之由、雖有兼日素願縡已火急之間、殆難延及後日。《読み下し文》而るに法華経の読誦一千部の功を終えて後、[宜しく]その中丹を顕わすべきの由、兼日に素願有ると雖も、ことすでに火急の間、殆ど後日に延べ及ぼし難し。《『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)庚子七月五日》

小島ト河野(カウノ)トハ一族ニテ、名和ト陶山(スヤマ)トハ知人也。日比(ヒゴロ)ノ詞(コトバ)ヲヤ恥(ハヂ)タリケン、後日(ゴニチ)ノ難(ナン)ヲヤ思(オモヒ)ケン、死(シシ)テハ尸(カバネ)ヲ曝(サラ)ストモ、逃(ニゲ)テ名ヲバ失(ウシナハ)ジト、互(タガヒ)ニ命(イノチ)ヲ不惜、ヲメキ叫(サケン)デゾ戰ヒケル。《『太平記』卷第八・主上自令修金輪法給事千種殿京合戰事》

2001年10月7日(日)晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

「毎事(マイジ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「滿」部に、

毎事(―ジ)。〔元亀本206四〕〔静嘉堂本234四〕

毎事(―シ)。〔天正十七年本中46ウ四〕

とあって、標記語「毎事」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、

毎事期後日」〔至徳三年本〕〔文明四年本〕〔建部傳内本〕

-シ‖-ヲ|」〔山田俊雄藏本〕

毎事シ‖后信ヲ|」〔経覺筆本〕

と見える。『下學集』には、標記語「毎事」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

毎亊(マイジ/ツネ・ゴト,ワザ・コト)[上・去]。〔態藝門573五〕

とあって、標記語「毎事」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

毎年(マイネン)―月(グハツ)。―度(ド)。―日。―亊(ジ)。――(マイ/\)。〔・言語139九〕毎年(マイネン)―月。―日。―亊。―度。―年。―葉。〔・言語129三〕

とあって、永祿二年本尭空本の二本が、標記語「毎年」の冠頭字「」の熟語群として「毎亊」を収載している。弘治二年本は未収載にある。さらに、易林本節用集』には、

毎〃(マイ/\) ―度(ド)。―遍(ヘン)―事()。〔言辞141七〕

とあって、標記語を「毎々」とし、冠頭字「」の熟語群として「毎事」を収載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「毎事」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

236尤大切候也。招_居有(アル)ノ(トリヘ)ヲ|‖_公私ニ|。毎亊後日候。恐々謹言卯月五日 此月卯花盛也。故云卯月|。〔謙堂文庫藏二六左G〕

とあって、標記語「毎事」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

_(マネキスヘ)(アル)ノ(トリヘ)之族ヲ|‖_(メシツカフ)公私之役ニ|。毎事ス‖後日ヲ| (トリヘ)トハ何事モ一色(イロ)。人ノ役(ヤク)ニ立ル事ヲ知タル人ヲ屑人(トリヘヒト)ト云ナリ。公方(クハウ)。私(ワタクシ)ノ役ニタツト云義也。〔卅二ウ五・六〕

とあって、この標記語「毎事」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

毎事(まいじ)後日(ごにち)(ご)す/毎事期ス‖後日ヲ|毎亊ハ万事といふかことし。後日ハ後の便りをいふ。〔廿六オ四〕

とし、この標記語に対する語注記は、「万事といふがごとし」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

毎事(まいじ)後日(ごにち)(ご)す/毎事ス‖後日ヲ|〔二十一オ八・ウ一〕

毎事(まいじ)後日(ごにち)(ご)す/毎事ス‖後日ヲ|。〔三十七ウ六〕

とあって、標記語「毎事」の語注記はやはり未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「毎事」の標記語は、

Maiji.マイジ(毎事) Cotogotoni.(事毎に)事毎に.〔邦訳380l〕

とあって、「ことごとに」という。

[ことばの実際]

京都ノ事ハ道遠(トホキ)ニ依(ヨツ)テ未ダ分明(ブンミヤウ)ノ説モ無ケレバ、毎事(マイジ)無心元トテ、長崎勘解由(カゲユ)左衛門入道ト諏方木工(スハノモク)左衛門入道ト、兩使ニテ被上ケル處ニ、六波羅ノ早馬、駿河(スルガ)ノ高橋(タカハシ)ニテゾ行合(ユキアヒ)ケル。《『太平記』卷第十・千壽王殿被落大藏谷事》

2001年10月5日(金)晴れ。東京(八王子)⇒飯田橋(小石川「印刷博物館」)

「公私(コウシ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、

公私(―シ)。〔元亀本232一〕

公私(コウシ)。〔静嘉堂本266五〕〔天正十七年本中62オ四〕

とあって、標記語「公私(コウシ)」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、

可召仕公私」〔至徳三年本〕

可召仕公私」〔建部傳内本〕

_ワル‖-ニ|」〔経覺筆本〕〔山田俊雄藏本〕

(ヘ)シ_(メシツカ)ワル‖-(コウシ)ノ(ヤク)ニ|」〔文明四年本〕

と見える。『下學集』には、標記語「公私」の語は未收載にある(ただし、標記語「觸穢」語注記に、「公私(コウシ)ノ之穢(ケカルヽ)義也」〔態藝門83三〕とある)。次に、広本節用集』には、

公私(コウシキミ,ワタクシ)[平・平]。〔人倫門655七〕

とあって、標記語「公私」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本には、

公私(コウシ)。〔・人倫186四〕〔・人倫152六〕

公道(コウタウ)―案。―儀。―用。―私。〔・人倫145五〕

とあって、読みを弘治二年本永祿二年本は、「コウシ」とし、尭空本は標記語「公道」の冠頭字、「」の熟語群四例の末尾に収載されている。さらに、易林本節用集』には、

公私(コウシ) ―儀(ギ)。―文(ブン)。〔言辞158七〕

とあって、標記語を「公私」とし、熟語群に「公儀・公文」の二語を添えている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「公私」の標記語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

236尤大切候也。招_居有(アル)ノ公屑(トリヘ)ヲ|‖_公私ニ|。毎亊期後日候。恐々謹言卯月五日 此月卯花盛也。故云卯月|。〔謙堂文庫藏二六左G〕

とあって、標記語「公私」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

_(マネキスヘ)(アル)ノ(トリヘ)之族ヲ|‖_(メシツカフ)公私(コウシ)之役ニ|。毎事期ス‖後日ヲ| 公私(コウシ)トハ何事モ一色(イロ)。人ノ役(ヤク)ニ立ル事ヲ知タル人ヲ屑人(トリヘヒト)ト云ナリ。公方(クハウ)。私(ワタクシ)ノ役ニタツト云義也。〔卅二ウ五・六〕

とあって、この標記語「公私」の語注記は、「公方。私の役にたつと云ふ義なり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

公私(こうし)召仕(めしつか)(へ)し‖_公私ニ|公私の注前に出。〔廿六オ三〕

とし、この標記語に対する語注記は、「注前に出」といい、二月廿四日の状に見える「公私」をいう。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

公私(こうし)(えき)召仕(めしつか)(べ)しシ∨シ‖_公私之役ニ|。〔文意〕公務(おもてつとめ)私用(うち/\こと)。〔二十一オ一〕

(べし)∨‖_(めしつかふ)公私(こうし)ノ之役(えき)に|。〔文意〕公務(おもてつとめ)私用(うちこと)。〔三十八オ一〕

とあって、標記語「公私」の語注記は未記載だが、「文意」に「公務・私用」とある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「公私」の標記語は、

Co>xi.コウシ(公私) Qimi,vatacuxi.(公,私)主君と私と.例,Co>xi fima naqini yotte.(公私隙なきに依つて)主人への奉公や私個人の用事のために,私には時間がないので.〔邦訳155r〕

とあって、その意味を「主君と私と」している。

[ことばの実際]

實平重申云、今別離者、後大幸也公私全命、廻計於外者、盍雪會稽之耻哉〈云云〉依之、皆分散、悲涙遮眼、行歩失道〈云云〉《読み下し文》實平重ねて申して云く、今の別離は後の大なる幸わいなり。公私命を全くし、計りを外に廻らさば、なんぞ会稽の恥を雪がざらんやと。これに依って皆分散す。悲涙眼を遮り、行歩に道を失う。《『吾妻鏡』治承四年(1180)八月二十四日》

松山其(ソノ)色ヲ見テ、覿面(テキメン)ノ勝負敵ヨリモ猶怖(オソロシ)クヤ思(オモヒ)ケン、「暫(シバラク)シヅマリ給ヘ、公私(コウシ)ノ大事此(コノ)時ナレバ、我(ワガ)命惜(ヲシ)ムベキニアラズ。イデ一戰シテ敵ニミセン。」ト云侭(イフママ)ニ、ハナヽク/\走(ワシ)リ立(タツ)テ、傍(ソバ)ニアリケル大石ノ、五六人シテ持(モチ)アグル程ナルヲ輕々(カルガル)ト提(ヒツサゲ)テ、敵ノ群(ムラガツ)テ立(タチ)タル其(ソノ)中ヘ、十四五程大山ノ崩ルヽガ如(ゴトク)ニ投(ナゲ)タリケル。《『太平記』卷第二十・八幡炎上事》

2001年10月5日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「屑(トリヘ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、

(トリヘ)。〔元亀本62五〕〔天正十七年本上36ウ一〕〔西來寺本112二〕

(――)。〔静嘉堂本71八〕

とあって、標記語「(トリヘ)」の語注記は典拠である冠頭字「」とあり、この『庭訓徃來』卯月五日の状から引用収載ということが知られる。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、

招居有屑」〔至徳三年本〕

招居有屑族」〔建部傳内本〕

キ‖_ルノ(トリエ)ヲ|」〔経覺筆本〕

キ‖_(トリエ)ラヲ|」〔山田俊雄藏本〕

‖_(マネキスヘ)テ(アラン)(トリエ)(ヤカラ)ヲ|」〔文明四年本〕

と見える。『下學集』には、標記語「」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

(トリドコロ)取所也。見猿樂記。又作。〔態藝門343三〕

とあって、標記語「」の語注記に、「取所なり。『猿樂記』に見ゆ。また「」に作す」とあって、「とりどころ」の語として収載が見えるのである。当然、典拠は異なっていて、ここでは『猿樂記』とし、「又作○」形式の注記による当該字「」は、何に依拠するか触れていないが、当代の文献からして、この『庭訓徃來』及びこれに連関する資料を示唆しているものと見ておく。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

(トリドコロ)取所也。見猿樂記。〔・言語進退44四〕〔・言語44一〕

(トリトコロ)取所也。見猿樂記。〔・言語47二〕〔・言語52一〕〔・言語45一〕

(とりどころ)取所也。〔『和漢通用集』82上三〕

(トリトコロ)。〔慶長四年本節用集』60四〕

(トリトコロ)取所也。見猿樂記。〔慶長四年本節用集』63二〕

とあって、読みを弘治二年本尭空本は、「とりどころ」とし、永祿二年本両足院本は、「とりところ」としている。語注記は四本とも同じで、広本節用集』の語注記末部「又作○」形式の注記当該字「」を省略したものである。この意味からは、上記印度本系統の『節用集』は、当代の『庭訓徃來』の語を意識していなかったことにもなる。この点で、これら『節用集』の古辞書、とりわけ、弘治二年本と『運歩色葉集』とが大きく異なるところとなっている。その意味で見ると、広本節用集』と『運歩色葉集』との連関性がクローズアップされてもくることになる。また、慶長四年本節用集』が当該字「」をもって「とりところ」としていることからも、「とりへ」と「とりところ」とは同じ事象を示すものであり、且つ又、「」と「」の文字も共通することがここで理会できるのである。さらに、易林本節用集』には、

(トリヱ)。〔言語47三〕

とあって、標記語を「」とし、読みを「とりゑ」で収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「」と「」の標記語は未収載にある。逆に平安時代末の観智院本類聚名義抄』に、

トリエ 〔法下91四〕

とあって、この語を収載しているが、現行の『日本国語大辞典』第二版にても気づかずじまいにあるようだ。ただ、「」の字では未採録である。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

236尤大切候也。招_居有(アル)ノ(トリヘ)ヲ|‖_公私ニ|。毎亊期後日候。恐々謹言卯月五日 此月卯花盛也。故云卯月|。〔謙堂文庫藏二六左G〕

とあって、標記語「」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

_(マネキスヘ)(アル)ノ(トリヘ)之族ヲ|‖_(メシツカフ)公私之役ニ|。毎事期ス‖後日ヲ| (トリヘ)トハ何事モ一色(イロ)。人ノ役(ヤク)ニ立ル事ヲ知タル人ヲ(トリヘヒト)ト云ナリ。公方(クハウ)。私(ワタクシ)ノ役ニタツト云義也。〔卅二ウ五・六〕

とあって、この標記語「」の語注記は、「何事も一色。人の役に立る事を知りたる人を人と云ふなり。公方。私の役にたつと云ふ義なり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(とりへ)(ある)(やから)(まね)き(す)へ/_居有之族ヲ|。有とハ何事にても人乃役に立へき事を覚たる者を云。〔廿六オ二〕

とし、この標記語に対する語注記は、「何事にても人の役に立つべき事を覚えたる者を云ふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(とりえ)(ある)の之族(やから)を(まね)(す)え_之族ヲ|。〔二十一オ八・ウ一〕

_(まねきすゑ)(ある)(とりえ)の之族(やから)を|。〔三十七ウ六〕

とあって、標記語「」の語注記はやはり未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「」の標記語は未収載にある。「とりえ」「とりどころ」で確認するに、

Toriye.トリエ(取得) きっかけ,または,口実.例,Coreuo toriyeni xite.(これを取得にして)このことをきっかけとして.〔邦訳669r〕

Toridocoro.トリドコロ(取所) 物を手に取るのに,手で持ったり掴んだりする所,あるいは,部分.§また,比喩.ある人に具わっている生まれつきの才能,あるいは,技量.§Toridocoronai fito.(取所ない人)何一つ役に立たず,少しも勝れた才能のない人.〔邦訳666l〕

という具合に、この両語は現代でも用いられている類語性のある語であることが、当代の古辞書広本節用集』や『運歩色葉集』との連関性を通じて見えてくるのである。

[ことばの実際]

まことに、ものにはとりえがござるは。彼の者が犬などを飼うておいたらばかように參ることはなるまいに、犬を飼わぬがこれが一つのとりえでござる。《狂言『釣狐』》

實に遲くさへあらんはとりどころなければ、さばれとて、そらさむみ花にまがへてちるゆきにと、わななく/\書きてとらせて、いかが見たまふらんと思ふもわびし。《『枕草子』141段》

2001年10月4日(木)曇り一時雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「大切(タイセツ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、

大切(―せツ)。〔元亀本136六〕〔静嘉堂本144四〕〔天正十七年本中4オ七〕

とあって、標記語「大切(タイセツ)」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「大切」とし、文明四年本は「(モツトモ)大切(タイセツ)(ナリ)」と見え、『下學集』には、標記語「大切」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

大切(タイせツ・ヲヽシ/ヲヽイ也,キル)[去・去入]。〔態藝門343三〕

とあって、標記語「大切」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

大切(―セツ)。〔・言語進退109二〕

大略(タイリヤク)―儀(キ)―切(せツ)。―犯(ボン)謀叛殺害刃傷。―綱(タイカウ)。―幸(カウ)。―亊(ジ)。―概(ガイ)。―功(コウ)。―都(ト)大略ノ義。―慶(ケイ)。―旨(シ)。―底(テイ)。―望(バウ)。―赦(シヤ)。―饗(キヤウ)。―營(エイ)。―膽(タン)。〔・言語94八〕

大略(タイリヤク)―儀。―切。―犯謀反殺害刃傷。―綱大略ノ義。―幸。―亊。―概。―功。―都大義也。―慶。―旨。―営。―底。―望。―赦。―饗。―膽。〔・言語86六〕

大略(タイリヤク)―儀。―切。―犯謀叛殺害。―綱。―幸。―亊。―概。―功。―都大略義。―慶。―旨。―営。―底。―望。―赦。―饗。―膽。〔・言語105一〕

とあって、弘治二年本は、単独語として収載するが、永祿二年本尭空本両足院本は、標記語を「大略」とし、その「大」の冠頭語の熟語群として二番目に「大切」を収載する。さらに、易林本節用集』には、

大般若(タイハンニヤ)―乗(せウ)。―經(キヤウ)。―學(カク)。―亊(シ)。―力(リキ)。―物(モツ)。―概(カイ)。―綱(カウ)。―訴(ソ)。―數(スウ)。―躰(タイ)。―都(ト)。―望(ハウ)。―旨(シ)。―儀(ギ)。―乱(ラン)。―切(せツ)。―魁(クワイ)。―酒(シユ)。―破(ハ)。(ハン)。―意(イ)。―略(リヤク)。―要(ヨウ)。―慶(ケイ)。―篇(ヘン)。―食(シヨク)。〔言語94二〕

とあって、標記語を「大般若」とし、その「大」の冠頭語の熟語群として十七番目に「大切」を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

大節雑部。――詞。又切。〔黒川本中10ウ一〕

大底テイ/ヲホムネ。〃業。〃聖。〃小。〃陽日名也。〃陰。〃智。〃夫。〃概カイ。〃虚。〃清。〃呂十二月。〃人。〃官。〃器。〃飲。〃食。〃切。〃匠。〃将。〃輅ロ 車名也。〃都ヲホムネ。〃理。〃道。〃位。〃臣。〃史。〃師。〃傳。〃子。〃學。〃階帝位也。〃任。〃法。〃神。〃廟。〃較。〃望。〃蔟正月。〃保。〃貮。〃守。〃漸病事也。〃節。〃廈カ 宅名。〔卷第四444二〕

とあって、標記語を「大底」とし、その「大」の冠頭語の熟語群として十七番目に「大切」を収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

236尤大切也。招_居有(アル)ノ(トリヘ)ヲ|‖_公私ニ|。毎亊期後日候。恐々謹言卯月五日 此月卯花盛也。故云卯月|。〔謙堂文庫藏二六左G〕

とあって、標記語「大切」の語注記は、未記載にある。ここで注目すべきは、『庭訓往来註』諸本が「大切候也」と敬意表現の「候」の語を付加していることである。これは、『庭訓往来』古写本及び後世の注釈書にはない文字である。古版『庭訓徃来註』では、

仲人等(ナカウドラ)大切ハ。取賣(トリウリ)スル者也。是卑(イヤシ)キ者也。〔卅二ウ五・六〕

とあって、この標記語「大切」の語注記は、『庭訓往来註』と同じく未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(もつとも)大切(たいせつ)(なり)大切。〔廿六オ二〕

とし、この標記語に対する語注記は、やはり未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(もつとも)大切(たいせつ)(なり)大切。〔二十一オ八〕〔三十七ウ六〕

とあって、標記語「大切」の語注記はやはり未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「大切」の語は、

Taixet.タイセツ(大切) 愛.§Taixetni moyuru.(大切に燃ゆる)愛に燃える.§taixetuo tcucusu.(大切を尽す)この上なく愛する.あるいは,深い愛と厚遇を示す.§Taixetni zonzuru,l,vomo>.(大切に存ずる,または,思ふ)愛する.※原文はAmor.〔Coi(恋)の注〕〔邦訳606l〕

とあって、「大切」の語注記は「愛」というのであり、『庭訓徃来』の意味とは異なったものとなっている。

[ことばの実際]

就中筆是成佛教書写之功徳、為男女和合之用物。其質輕其實重。尤大切也。尤神妙也。《『明衡徃来』中末》

2001年10月3日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

(ワウキウ)「仲人(ナカウド)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「和」部に「(ワウジヤク)」の語を収載するに過ぎず、標記語として「」は未収載にある。「奈」部にも「仲」の熟語群はなく、「地」部に、

仲人(―ニン)。〔元亀本64九〕〔天正十七年本上38オ三〕〔西来寺本116四〕

仲人(――)。〔静嘉堂本75七〕

とあって、音読みの「チュウニン」で収載し、語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「給仲人」とし、文明四年本は「(ワウキウ) 仲人(ナカウト)(トウ)」と見え、『下學集』には、標記語「」と「仲人」の両語とも未收載にある。次に、広本節用集』には、「和」部に「(ワウジヤク)」の語を収載するに過ぎず、標記語として「」は未収載にある。また、「奈」部に、

仲人(ナカウド/チウジン・ヒト)。[去・○]。〔人倫門435四〕

とあって、標記語「仲人」とし、その語注記は未記載にある。さらに、「伴惹(ハンチヨク)」の語注記に「仲人(チウニン)」〔態藝門77七〕とある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

仲人(ナカフト)。〔・人倫138一〕〔・人倫100九〕

仲人(ナカウド)。〔・人倫110五〕〔・人倫123一〕

とあって、弘治二年本尭空本は、「なかふと」と読み表記し、このうち永祿二年本両足院本は、「なかうど」と読み表記していて、語注記はいずれも未記載にある。さらに、易林本節用集』には、「和」部に「(ワウジヤク)」の語を収載するに過ぎず、標記語として「」は未収載にある。また、「奈」部に、

仲人(ナカフド)中媒(同)。〔言辞111一〕

とあって、語注記に「中媒」の語を示す。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「」と「仲人」は、標記語「」はなく、「(チカラナシ)人躰部。ワウシヤク。――詞」と「雑部。ワウルイ」「仲人」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

235給仲人 少也。言仲人ニシテ兩方取人也云々。〔謙堂文庫藏二六左F〕

(ハウキウ)仲人(ナカウド) 少也。言仲人ニシテ兩方取人也云々。〔国会図書館藏左貫注〕ノ字アマスケハナトヨム。言左傳。大唐一人アリシガ、鼻穴上向テ付ク也。久不雨。天旱スル也。是何亊ソト云ヘハ、雨ケルナラバ、被人穴ヘ水入ンコトヲ恐テ天ヨリ、雨ナキナリ。サラバ是ヲ殺ントス。殺せハ悪シト。但助テ置テ、賣買ノ仲人ヲサセテ、身命ヲ續せヨトテ、助テ置ク也。是ヲト云也。〔同上冠頭注記〕

(ヲウキウ)仲人(ナカウト) 少也。言仲人ニシテ兩方人也云々。〔天理図書館藏『庭訓徃来註』〕―又説ニ媒ト作テ物ヲ取人也。左傳アマウケ鼻トヨム也。―ツクノイマイナイヲ取人也。〔同上書込み注記〕

(ワウ―)仲人 少也。言仲人ニシテ兩方人也云云。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』徳本の人〕□或人曰、媒ト作テ左傳アマウケ鼻トヨム也。〔同上書込み注記〕

(/アウギウ)仲人等 少也。言仲人ニシテ兩方(トク/マイナイ)ヲ人也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓往来抄』〕―又説云、媒ト作テ物ヲ取人也。左傳アマウケ鼻トヨム也。〔同上書込み注記〕

とあって、「給仲人」のなかでその語注記は、「は少なり。言は仲人にして兩方より賭を取る人なり云々」という。諸本のなかには書込み注記があって、その典拠として『左傳』を引用し、これを左貫注は、最も詳細に故事由来について説明する。古版『庭訓徃来註』では、

(ワウキウ)トハ皮屋ノ者ナリ。仲人等(ナカウドラ)大切也ハ。取賣(トリウリ)スル者也。是卑(イヤシ)キ者也。〔卅二ウ五・六〕

とあって、この標記語は「」と「仲人等尤大切也」として、「」の語注記は、「皮屋の者なり」とし、「仲人等尤大切也」の語注記は「取り賣りする者なり。これ卑しき者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(わうきう)仲人等(なかうとら)給仲人等舊注に云。とハ皮屋(ひや)の者也。仲人ハ取うりする者なり。〔廿六オ一・二〕

とし、この標記語に対する語注記は「舊注に云ふ。とハ皮屋の者なり。仲人は取りうりする者なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(わうきふ)仲人等(なかうどとう)給仲人等ハ未詳。仲人ハ物の媒酌(なかだち)する者也。〔二十一ウ四〕〔三十八オ五〕

とあって、標記語「給仲人等」の語注記は「は詳らかならず。仲人は物の媒酌する者なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「」「仲人」の語は、

Naco<do.ナカゥド(仲人) 仲介者.〔邦訳439r〕

とあって、「」の語は未収載にする。「仲人」の読みは、「ナカゥド」で意味は「仲介者」とある。

[ことばの実際]

2001年10月2日(火)雨一時曇り。東京(八王子)⇒神田

「辧舌(ベンゼツ)博覧(ハクラン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遍」部と「波」部に、

辧説(ヘンぜツ)。〔元亀本48五〕      愽覧(ハクラン)。〔元亀本26二〕

辧説(ベンせツ)。〔静嘉堂本56一〕     愽覧(ハクラン)。〔静嘉堂本24二〕

辧説(ヘンせツ)。〔天正十七年本上29オ一〕 愽覧(ハクラン)。〔天正十七年本上13オ五〕

辧説(ベンセツ)。〔西来寺本90六〕     愽覧(ハクラン)。〔西来寺本44三〕

とあり、標記語として「辧説」「愽覧」として、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「辧舌博覧類」とし、文明四年本は「辧舌(べんせツ)博覧(ハクラン)ノ(ルイ)」と見え、『下學集』には、

博覧(ハクラン)。〔態藝門88四〕

とあって、標記語「辧舌」の語は未收載にし、標記語「博覧」を収載し、語注記は未記載にある。次に、広本節用集』には、

辧説(ベンぜツ/ワキマヱ,ヨロコブ・トク)[去・去入]。〔態藝門117七〕

愽覧(ハクラン/ヒロシ,ミル)[入・上]。〔態藝門65三〕

とあって、標記語「辧説」と「愽覧」とし、その語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

辧説(ベンゼツ)又―舌。〔・言語進退39二〕  愽覧(―ラン)廣見心。〔・言語進退25八〕

辧舌(――)又―説。〔・言語40二〕       愽陸(ハクロク)関白名。―聞(ハクブン/ヒロシ)。―奕(―エキ/ハクチ)。―士(ハカせ)。―愛(アイ)。―斈(カク)―覧(ラン)。〔・言語22一〕

辧舌(ベンセツ) 又―説。―口。〔・言語36九〕 愽陸(ハクロク)関白名。―聞。―奕。―覧。―愛。―士。―学。〔・言語19九〕

辧説(ベンぜツ)。〔・言語43四〕      博覧(ハクラン)。〔・言語24三〕

とあって、弘治二年本両足院本は、「辧説」とし、このうち弘治二年本は、語注記に「又○○」の形式で「辧舌」の語を収載する。これに対し、他写本は、標記語を「辧舌」とし、語注記に「又○○」の形式で「辧説」の語を収載する。標記語「愽覧」は弘治二年本のみに語注記「廣見心」という。他写本は「愽陸」の冠頭語「愽」の熟語群として「愽覧」の語を収載する。さらに、易林本節用集』には、標記語「宏才」も「口才」も未収載にあり、「利口」は、

辧説(ベンぜツ)。〔言語37五〕  博覧(―ラン)。〔言語22四〕

とあって、その語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「辧舌」と「博覧」は、

弁説へンせツ。〔黒川本上42ウ二〕博覧同(才智ト)。ハクラン。〔黒川本上26ウ一〕

辨才〃説。〃定。〃備。〃済。〃論。〃補。〃官。〃智。〔卷第二362五〕

博學〃士。〃覧。〃陸関白。〃物。〃識。〃戯。〃奕。〃聞。〃達。〃愛。〔卷第一208二〕

とあって、標記語「辧舌」と「博覧」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

234辧舌博覽之類(ターイ) 理非分者也。〔謙堂文庫藏二六左F〕

―廣也。―望也。見也。〔国会図書館藏左貫注書込み〕〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古写本〕〔東洋文庫藏『庭訓之抄』徳本の人〕

とあって、「辧舌博覧の類」のなかでその語注記は、「これは理非を分たず者なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

辧舌(ベンゼツ)ハ有事モ無事モ掻刷(カキツク)ロウテ云フモノナリ。愽覧類(ハクランノタグヒ)トハ。愽士(ハカせ)ノ事モ掌(タナコヽロ)ノ内ニ握(ニキ)ル占(ウラナヒ)勘(カンガウ)ル人ナリ。〔卅二ウ四・五〕

とあって、この標記語は「辧舌」と「博覧類」として、「辧舌」の語注記は、「有事も無事も掻き刷ろうて云ふものなり」とし、「愽覧類」の語注記は「愽士の事も掌の内に握る占なひ勘がうる人なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

辧舌(べんぜつ)博覧(はくらん)の(たぐひ)辧舌博覧ハ也。〔廿五ウ七・八〕

とし、この標記語に対する語注記は「なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

辧舌(べんぜつ)博覧(はくらん)の(たぐひ)辧舌博覧。〔二十一ウ三〕〔三十八オ四〕

とあって、標記語「辧舌博覧の類」の語注記は「」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「弁舌」「博覧」の語は、

Benjet.ベンゼツ(弁舌) 話しかたがよどみなく,よくしゃべること.〔邦訳53l〕

Facuran.ハクラン(博覧) Firoqu miru.(博く覧る)広く学問を修めること.または,広い学問.§Facuranno fito.(博覧の人)偉大な研究者.学者.〔邦訳195l〕

とあって、二語すべてを収載している。このうち「宏才」の読みは、「コゥザイ」で意味は「智恵と才知のあること」であり、「利口の者」については、「利口」と「利口者」の二語を収載している。意味はそれぞれである。

[ことばの実際]

 

2001年10月1日(月)雨一時曇り。福知山⇒東京(世田谷駒沢)

「宏才利口の者(コウザイリコウのもの)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、

宏才(コウザイ)。〔元亀本233三〕     利口(リクウ)。〔元亀本71三〕

宏才(コウザイ)。〔静嘉堂本268三〕    利口(リコウ)。〔静嘉堂本85三〕

宏才(コウサイ)。〔天正十七年本中63オ二〕 利口(―コウ)。〔天正十七年本上42ウ六〕

    利口(――)。〔西来寺本129三〕

とあり、標記語として「宏才」「利口」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「宏才利口者」とし、文明四年本は「宏才(コウサイ)利口(リコウ)ノ(モノ)」と見え、『下學集』には、

宏才(クワウサイ)。〔態藝門88五〕

とあって、読みを「クワウサイ」とし、下記に示す十巻本伊呂波字類抄』と同じ読みをもって記載する。そして、語注記は未記載にある。次に、広本節用集』には、

口才(コウザイ/クチ,シワザ)[上・平]或作宏才。〔態藝門357三〕

利口(リコウ/トシ,クチ)[去・上]弁佞之口也。〔態藝門192七〕

とあって、標記語「口才」は、その語注記に「或作○○」の形式で「宏才」の語を収載している。次に「利口」は、語注記に「弁佞の口なり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

口才(コウザイ)或作宏才。〔・言語進退190三〕  利口(リコウ)。〔・言語進退57八〕

口入(コウジユウ)―才(ザイ)。―状(シヤウ)。―論(ロン)。〔・言語155三〕 利口(リコウ)。〔・言語58四〕

口入(コウシユ)―才。―状。―論。〔・言語145三〕  利口(リコウ)。〔・言語52九〕

                         利口(リコウ)。〔・言語61五〕

とあって、弘治二年本だけに「口才」の語注記に「或作○○」の形式で「宏才」の語を収載し、他写本は、標記語「口入」の冠頭語「口」の熟語群として「口才」の語のみ収載する。さらに、易林本節用集』には、標記語「宏才」も「口才」も未収載にあり、「利口」は、

利口(―コウ)。〔言辞57三〕

とあって、その語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「宏才」と「利口」は、

宏才(クワウサイ)〃達。〃麗レイ。〔卷第六451六〕

利口弁才ト。リカウ。〔黒川本上60オ二〕

利根〃鈍。〃生。〃潤。〃弁。〃苛。〃害。〃乱。〃見。〃〓〔木+界〕。〃益。〃養。〃口。〃并。〃稲。〃舂。〃黒。〔卷第三疉字10三〕

とあって、標記語「宏才」は十巻本にだけ見え、三卷本は「利口」の語を「弁才ト。リカウ」と収載する。十巻本は「利根」の標記語で、冠頭語「利」の熟語群として「利口」を収める。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

233宏才利口(モノ) 是非分者也。〔謙堂文庫藏二六左F〕

とあって、「宏才利口」のなかでその語注記は、「是非を分つ者なり」という。古版『庭訓徃来註』では、

宏才(コウザイ)ハ不習不學事ヲ中ニ浮(ウカ)ヘテ謂(イヒ)サバク者ナリ。漢字利口者(リコウノモノ)ハ。別ノ事闕(カ)ケタリ共愽(ヒロク)(イフ)事。計(バカリ)(スグ)レタル者也。〔卅二ウ三〕

とあって、この標記語は「宏才利口の者」として、「宏才」の語注記は、「習はず學ばず事を中に浮かべて謂ひさばく者なり」とし、「利口の者」の語注記は「別の事闕けたり共、愽く謂ふ事。計り勝れたる者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

宏才(こうさい)利口(りこう)の(もの)宏才利口(モノ)宏才ハ才智のすくれたる也。宏ハおほひなりと讀。利口ハ口のきゝたる也。〔廿五ウ七・八〕

とし、この標記語に対する語注記は「宏才ハ才智のすくれたるなり。宏ハおほひなりと讀む。利口ハ口のきゝたるなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

宏才(くわうさい)利口(りこう)の(もの)宏才利口宏才ハ才智(さいち)の廣(ひろ)くたくましき也。▲利口ハくちきゝ也。〔二十一ウ三〕〔三十八オ四〕

とあって、標記語「宏才利口の者」の語注記は「宏才ハ才智の廣くたくましきなり。▲利口ハくちきゝなり」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「宏才」「利口の者」の語は、

Co>zai.コゥザイ(宏才) 智恵と才知のあること.例,Co>zaina fito.(宏才な人)才知があって利発な人.〔邦訳158r〕

Rico>.リコウ(利口) 話し方が明敏で賢いこと.§Rico>uo yu<.(利口を言ふ)やや尊大な高ぶった態度で,賢いことを言う.§また,活気があって熱心なことの意にも用いるが,本来の正しい言い方ではない.例,Rico>na mono.(利口な者)活気があり,はきはきした人.〔邦訳532l〕

†Rico<ja.リコゥジャ(利口者) Surudona cuchino mono.(利な口の者)物言いがはきはきしており,鋭敏で賢い人.〔邦訳532l〕

とあって、二語すべてを収載している。このうち「宏才」の読みは、「コゥザイ」で意味は「智恵と才知のあること」であり、「利口の者」については、「利口」と「利口者」の二語を収載している。意味はそれぞれである。

[ことばの実際]

しゆいんをうけてしゆようをつたへすといへともしよ道をけんかくして諸事にくらからす九流をわたりて百家にいたり當世ふさうのこうさいはくらん也《『平治物語』上》

カヤウノ物語ノ、シカモ人ノ利口、ソラ事ナラヌハ、ヲリ/\ニイクラトモナシ。《『愚管抄』卷第四》

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