2001年11月1日から11月30日迄
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2001年11月30日(金)晴れ夜小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「上野綿(かうづけのわた)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
上野(カウツケ)十四―。上州。〔元亀本97一〕〔静嘉堂本121二〕
上野(――)十四―。上州。〔天正十七年本上59ウ四〕
とあって、標記語「上野」の語注記は、「十四(郡)。上州」という。また、「諸國郡之名・東山道」に、
上野十三郡。雄氷(ヘウ)。片堽。山田。甘樂(カンナリ)。多故。那波。郡馬、吾妻。利根。邑樂(ヲヽアラキ)。新。田数三万八千五百四十四町。〔元亀本113三〕
上野十二郡。雄氷。片堽。山田。甘樂。多故。那波。那馬、吾妻。利根。邑樂。新。田数三万八千五百四十四丁。〔静嘉堂本472一〕
上野十一郡。雄氷。片堽。山田。甘樂。多故。那波。郡馬、吾妻。利根。邑樂。新。田数三萬八千五百四十四町。〔天正十七年本上72オ一〕
とある。標記語「綿」については、「和」部に、
綿(ワタ)。〔元亀本90三〕〔天正十七年本上54ウ六〕
綿(ハタ)。〔静嘉堂本111三〕
とあって、元亀本・天正十七年本は「ワタ」と読みを表記し、静嘉堂本は「ハタ」と読みを表記している。語注記をいずれも未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「上野綿」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「上_野綿」〔山田俊雄藏本〕
「上_野(カウヅケ)ノ綿(ワタ)」〔経覺筆本〕
「上_野(カウツケ)ノ綿(ハタ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「上野綿」の語のうち、「綿」の語で、
綿(ワタ)。\。絮三-字同-義。〔絹布門95七〕
として、標記語を「綿」の語注記は未記載にする。次に、広本『節用集』は、
上野(カウヅケ/シヤウ,ヤ、―,ノ)[上去・上] 上州十四郡。水田二万八千五百三十四町。碓氷(ウスイ)異(イ)ニ氷ト作∨見。片岡(カタヲカ)。甘樂(カンラ)。多胡(タコ)。緑野(ミドリノ)。那波(ナハ)。群馬(クルマ)府。吾妻(ワヅマ)。利根(トネ)。勢多(セタ)。佐位(サイ)。新田(ニヒタ)。山田(ヤマダ)。邑樂(ヲフアラキ)。〔天地門251五〕
とあって、標記語「上野」の語注記は、「上州十四郡。水田二万八千五百三十四町。碓氷異に氷を見に作る。片岡。甘樂。多胡。緑野。那波。群馬府。吾妻。利根。勢多。佐位。新田。山田。邑樂」という。次に「綿」の語は、
綿(ワタ/メン)[平]。\(同/クワウ)。絮(同/シヨ)。〔絹布門237二〕
とあって、「綿」「\」「絮」の三種の表記をもって収載する。この語については、『下學集』からの継承ということになる。語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
上野(カウヅケ) 上(ジヤウ)州十三郡。碓氷(ウスヒ)。片岡(カタヲカ)。山田(ヤマダ)。甘樂(カンカリ)。多胡(タゴ)。那波(ナワ)。群馬(クルマ)。吾妻(ワカツマ)。利根(トネ)。邑樂(ヲヽアラキ)。新田(ニツタ)。田数三万八千五百四十四町。〔弘・日本國六十余州名数・東山道290六〕
上野(カウツケ) 上(シヤウ)州十四郡。〔永・日本國六十余州名數・東山道263二〕
上野(――) 大野州/十四郡。碓氷(ウスヒ)。片岡。甘樂(ムツラ)。邑樂(ヲホアラキ)。多胡。山田。緑野(ミトノ)。那波。群馬(クルマ)。吾妻(ワカツマ)。利根(トネ)。新田(ニツタ)。勢多(ヒタ)。佐位(サイ)。〔尭・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・東山道233二〕
とあって、標記語「上野」の語注記は「上州十三郡。碓氷。片岡。山田。甘樂。多胡。那波。群馬。吾妻。利根。邑樂。新田。田数三万八千五百四十四町」とする弘治二年本が広本『節用集』に最も近い注記内容であり、続いて尭空本、いちばん簡略化した注記が永祿二年本ということになる。標記語「綿」は、
綿(ワタ)。\(同)。絮(同)。〔弘・絹布門72一〕〔尭・絹布門65三〕
綿(ハタ)。絮。\。〔永・絹布門71六〕
綿(ワタ)。絮。\。〔両・絹布門77四〕
とあって、『下學集』広本『節用集』を継承する。そして、易林本『節用集』には、
上野(――)上(ジヤウ)州,大管十四郡, 東西四日。路暖氣桑_多シテ而絹綿豐也。以テ∨弉(カウ)ヲ致∨貢ニ。大〃上國也。碓氷(ウスヒ),吾妻(アヅマ),利根(トネ),勢田(せタ)又多,佐位(サ井),新田(ニツタ),片岡(カタヲカ),邑樂(ヲフラ),群馬(グンマ/クルマ)府,甘羅(カンラ)又樂,多胡(タコ),緑埜(ミドリノ),那波(ナハ),山田(ヤマダ)。〔南瞻部州大日本國正統圖・東山道266六〕
とあって、標記語「上野」の語注記は、「上(ジヤウ)州,大管十四郡, 東西四日。路暖氣桑_多くして絹綿豐かなり。弉を以って貢に致す。大〃上國なり。碓氷,吾妻,利根,勢田又多,佐位,新田,片岡,邑樂,群馬府,甘羅又樂,多胡,緑埜,那波,山田」という。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「上野綿」の語は、
上野カムツケ大東山元守才守以介受領 碓氷(ウスイ)。片岡(カタヲカ)。甘樂(カンラ)。多胡。緑野(ミトノ)。那波(ナハ)。群馬(クルマ)東西府。吾妻(アカツマ)。利根(トネ)。勢多。佐位(―井)。新田(ニツタ)。山田。邑樂(ヲハラキ)。〔黒川本・國郡上91オ二〕
上野國(――)管十四。碓氷ウスヒ。片岡カタヲカ。甘樂カムラ。多胡タコ。緑野ミトノ。那波ナハ。群馬クルマ/府。吾妻アカツマ。利根トネ。勢多せタ。佐位サ井。新田ニフタ。山田。邑樂オホアラキ。本田二万八千五百四十四丁。上廿九日下十四日。〔卷三・國郡332一〕
とあって、標記語を三卷本「上野」の語注記は、「大東山、元守・才守・以介、受領 碓氷。片岡。甘樂。多胡。緑野。那波。群馬東西府。吾妻。利根。勢多。佐位。新田。山田。邑樂」とする。これに対し、十巻本は、「管十四。碓氷。片岡。甘樂。多胡。緑野。那波。群馬府。吾妻。利根。勢多。佐位。新田。山田。邑樂。本田二万八千五百四十四丁。上廿九日下十四日」とあって語注記の排列内容は同じである。標記語「綿」は、
綿ワタ。又乍緜。絮シヨ同似綿麁悪也。\同。〔雜物上71オ一〕
綿ワタ。絮/似綿麁悪也。\已上同/亦乍洗。〔卷三・雜物120三〕
とあって、その注記内容は、若干異なっている。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
264信濃布・常陸細(美)・上野綿・上総鞦・武藏鐙 鐙ハ一ト_懸ト可∨申也。〔謙堂文庫藏二九右D〕
とあって、標記語「上野綿」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
上野綿(カウヅケノワタ)大内ヘ参ル綿ナリ。〔下三オ七〕
とあって、この標記語「上野綿」の語注記は、「大内へ参る綿なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
上野綿(かうつけわた)上総鞦(かつさしりかい)/上野綿上総鞦。〔二十九オ一〕
とし、標記語「上野綿」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
上野綿(かうづけわた)/上野綿。〔二三ウ五〕
上野綿(かうづけわた)。〔四十二オ三〕
とあって、標記語「上野綿」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Vata.ワタ(綿) (木綿.または,木棉綿)木棉.→Muxiri,u;tcu-mi,u(摘み,む);Tcumugui,Gu.〔邦訳630r〕
とあって、標記語「綿」の語を収載し、意味は「木綿」という。地名「上野」の語は未収載にする。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統が、この「上野綿」の語を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、見出し語を「こうずけ-わた【上野綿】群馬県(上野国)に産した綿。品質がよいので知られた」として、この複合名詞を収載している。
[ことばの実際]
2001年11月29日(木)晴れ夜小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「常陸細(ひたちつむぎ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、
常陸(ヒタチ)十六―。〔元亀本340六〕
常陸(ヒタチ)。〔静嘉堂本407八〕
とあって、標記語の「常陸」語注記は未記載にある。静嘉堂本「諸國郡之名・東海道」に、
常陸十一郡。真壁、那賀、筑波、茨城、鹿嶋、新沼、河内、行方、信太、久慈、多河。田数一万二千卅八町。〔静嘉堂本467五〕
とある。標記語「細」については、
紬(ツムギ)。〔元亀本160八〕 紬(ツムギ)。〔天正十七年本中19ウ五〕
細(ツムキ)。〔静嘉堂本176七〕
とあって、元亀本・天正十七年本は「紬」と表記し、静嘉堂本は「細」の表記という異なりをみせている。語注記をいずれも未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「常陸細」〔至徳三年本〕「常陸紬」〔建部傳内本〕
「常_陸ノ紬(ツムキ)」〔山田俊雄藏本〕
「常陸紬(ヒタチツムギ)」〔経覺筆本〕
「常陸紬(ヒタチツムキ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、「つむぎ」の表記を至徳三年本は「細」とし、他写本がすべて「紬」とにすることが見えてくるのである。この点において、至徳三年本の発見は重要な位置をしめていることが指摘できよう。これを受けて『下學集』は、標記語「常陸細・紬」の語のうち、「つむぎ」の語で、
細(ツムキ)。〔元和本・絹布門95七〕
紬(ツムキ)。〔東教本・絹布門79五〕〔文明十七年本・絹布門21三〕〔前田家本・絹布門51九〕〔文明十一年本・絹布門65四〕〔榊原本・絹布門51五〕〔亀田本・絹布門74五〕〔春良本・絹布門〕
紬(ツムギ)。〔春林本・絹布門93五〕
細美(サイミ)。〓〔糸+貰〕(サイミ)。〔春良本・絹布門〕
として、標記語を元和本が「細」とし、古写本類が「紬」として異なる表記文字で収載をしていることに繋がっていくのである。次に、広本『節用集』は、
常陸(ヒタチ/ジヤウ,リク、ツネ,クガ)[上・平] 常州十二郡。水田四万二千三十八町。新治(ニイハリ)。茨城(ウバラキ)府。真壁(マカベ)。筑波(ツクハ)。河内(カワチ)。信太(シンタ)。行方(アメカタ)。鹿島(カシマ)。那珂(ナカ)。多珂(タカ)。豊田(トヨタ)。〔天地門1026二〕
とあって、標記語「常陸」の語注記は、「常州十二郡。水田四万二千三十八町。新治・茨城府・真壁・筑波・河内・信太・行方・鹿島・那珂・多珂・豊田」という。次に「細」の語は、
紬(ツムギ/チウ)[去]。〔絹布門414五〕
とあって、「紬」の表記をもって収載する。この語については、古写本『下學集』からの継承ということになり、上記古写本は、『庭訓徃来』の古写のうち、山田俊雄藏本や建部傳内本の系統にある諸本を用いていることも考えておく必要もある。語注記は未記載にある。
そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
常陸(ヒタチ) 常(ジヤウ)州十一郡。真壁(マカベ)。那河(ナカウ)。筑波(ツクハ)。茨城(ウバラキ)。鹿嶋(カシマ)。新治(ニイハリ)。河内(カワチ)。行方(ナメカタ)。信太(シノダ)。久慈(クシ)。多河(タカ)。田数万二千卅八町。〔弘・日本國六十余州名数・東海道289八〕
常陸(ヒタチ) 常(ジヤウ)州十一。〔永・日本國六十余州名數・東海道262八〕
常陸(――) 大常州/十一郡。新治(ニイハリ)。真壁(マカベ)。筑波(ツクハ)。河内。信太(シタ)。茨城(ムハラキ)。行方(ナスカタ)。鹿島(カ―)。那珂(ナカ)。久慈(クジ)。多珂(タカ)。〔尭・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・東海道232六〕
とあって、標記語「常陸」の語注記は「常州十一郡。真壁。那河。筑波。茨城。鹿嶋。新治。河内。行方。信太。久慈。多河。田数万二千卅八町」とする弘治二年本が広本『節用集』に最も近い注記内容であり、続いて尭空本、いちばん簡略化した注記が永祿二年本ということになる。そして、易林本『節用集』には、
常陸(――)常州,管十一郡, 四方四日。田宅市炙 (イチクラ/シテン)逐テ∨日ヲ盛也。牛馬充ツ∨牧ニ。蠶(カイコ)多シ綿繞。大〃中國也。新治(ニイハリ),眞壁(マカベ),筑波(ツクハ),河内(カハチ),信太(シダ),茨城(ウバラキ)府,行方(ナメガタ),鹿島(カシマ),那珂(ナカ),久慈(―シ),多河(タカ)。右為‖遠國ト|。〔南瞻部州大日本國正統圖・東海道264十〕
とあって、標記語「常陸」の語注記は、「常州,管十一郡, 四方四日。田宅市炙日を逐て盛んなり。牛馬牧に充つ。蠶(カイコ)多し綿繞。大〃中國也。新治,眞壁,筑波,河内,信太,茨城府,行方,鹿島,那珂,久慈,多河。右遠國と為す」という。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「常陸細」の語は、
常陸无守才以介爲受領/ヒタチ大東海 新治(ジハリ),眞壁(マカヘ),筑波(ツクハ),河内,信太(シタ),茨城(ムバラキ)國府,行方(ユメカタ),鹿嶋,那珂(ナカ),久慈(ク―),多珂(―カ)。〔黒川本・國郡下95オ四〕
常陸國(――)管十一。新治ニヒツリ,眞壁マカヘ,筑波ツクハ,河内カムチ,信太,茨城カツラキ/ムハラキ延喜式云,行方ナメカタ,鹿嶋カシマ,那珂ナカ,久慈クシ,多河タカ。本田四万二千三十八丁。上三十日下十五日。
とあって、標記語を三卷本「常陸」の語注記は、「无守才以介爲受領/ヒタチ大東海 新治,眞壁,筑波,河内,信太,茨城國府,行方,鹿嶋,那珂,久慈,多珂」とする。これに対し、十巻本は、「管十一。新治,眞壁,筑波,河内,信太,茨城延喜式云,行方,鹿嶋,那珂,久慈,多河。本田四万二千三十八丁。上三十日、下十五日」とあって語注記の内容は異なるものである。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
264信濃布・常陸細(美)・上野綿・上総鞦・武藏鐙 鐙ハ一ト_懸ト可∨申也。〔謙堂文庫藏二九右D〕
とあって、標記語「常陸細(美)」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
常陸細(ヒタチツムキ)紫(ムラサキ)ニソムル也。奥ノ紫ト云是也。上代ハ人ノ血(チ)ニテ染(ソメ)シト云ヘリ。〔下三オ六〕
とあって、この標記語「常陸細」の語注記は、「紫にそむるなり。奥の紫と云ふは是れなり。上代は、人の血にて染しと云へり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
常陸(ひたち)の紬(つむぎ)/常陸ノ紬常州前橋(まへはし)といふ所より多く出す。〔二十八ウ八〕
とし、標記語「常陸紬」に対する語注記は、「常州前橋といふ所より多く出す」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
常陸紬(ひだちつむぎ)/常陸紬。▲常陸紬ハ前橋(まへばし)より出る。紫(むらさき)に染(そむ)るとぞ。〔二四オ七〕
常陸紬(ひたちつむき)▲常陸紬ハ前橋(まへばし)より出る。紫(むらさき)に染(そめ)るとぞ。〔四十三オ四〕
とあって、標記語「常陸紬」の語注記は「常陸紬は、前橋より出る。紫に染めるとぞ」という。
当代の『日葡辞書』には、
Tcumugui.ツムギ(紬) 日本の真綿で織った織物.〔邦訳630r〕
とあって、標記語「紬」の語を収載する。地名「常陸」の語は未収載にする。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統が、この「常陸細」の語を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、見出し語を「ひたちつむぎ【常陸紬】常陸国から産出する紬」として、この複合名詞を収載している。
[ことばの実際]
主馬は、常陸紬の着流しで陽当りのいゝ座敷に、小野と、柴田の二人を招じて、父の事、兄の事、諏訪の事、それから、左門の潜入してきたことを聞いてゐた。《直木三十五著『仇討浄瑠璃坂』虚実一より》
[ことばのHP]「信太(しだ)は珍姓か?」
2001年11月28日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「信濃布(しなのぬの)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、
信濃。〔静嘉堂本356五〕
とあって、元亀本は未収載であり、「諸國郡之名・東山道」に、
信濃十郡。筑摩、更級、佐久、諏訪、垣科、安曇、水臼、伊那、高井、小縣。田数一千三百六町。〔元亀本112八〕
信濃十郡。筑摩、安曇、更級、水臼、佐久、伊那(ナ)、諏訪、高井、垣科、小縣。田数一千三百六町。〔静嘉堂本471六〕
とある。標記語「布」については、「宇治布」のところで取扱ったので省略する。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「信濃布」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「信濃ノ布」〔山田俊雄藏本〕
「信濃布(シナノヌノ)」〔経覺筆本〕
「信濃布(シナノヌノ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「信濃布」の語のうち、「信濃」も「布」の語も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
信濃(シナノ/シン,ヂヨウ、マコト,コマヤカ)[上・平] 信州十郡。水田千六百五十六町。伊那(イナ)。諏訪(スワ)。筑摩(チクマ)府。安曇(アツミ)。更級(サラシナ)。水内(ミツウチ)。高井。埴科。小縣(チイサカ)。佐久(サク)。〔天地門904五〕
とあって、標記語「信濃」の語注記は、「信州十郡。水田千六百五十六町。伊那・諏訪・筑摩府・安曇・更級・水内・高井・埴科・小縣・佐久」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
信濃(シナノ) 信(シン)州十郡。筑摩(チクマ)。安曇(アツミ)。更級(サラシナ)。水内(ミツウチ)。佐久(サク)。伊那(イナ)。諏訪(スワ)。高井(タカイ)。埴科(ハニシナ)。小縣(チイサガタ)。田数一千三百六町。〔弘・日本國六十余州名数・東山道290五〕
信濃(シナノ)信(ビ)州十二。〔永・日本國六十余州名數・東山道263一〕
信濃(――) 上信州/八郡。伊那(イナ)。諏訪(スワ)。筑摩(ツクマ)。安曇(アンノモ)。更便(サラシナ)。水内(ミノウチ)。高井(―イ)。埴科(ハニシナ)。小縣(チイガタ)。佐久(サク)。豊縣(トヨカタ)。〔尭・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・東山道233二〕
とあって、標記語「信濃」の語注記は「信州十郡。筑摩・安曇・更級・水内・佐久・伊那・諏訪・高井・埴科・小縣。田数一千三百六町」とする弘治二年本が広本『節用集』に最も近い注記内容であり、続いて尭空本、いちばん簡略化した注記が永祿二年本ということになる。そして、易林本『節用集』には、
信濃(――)信州,上管十郡, 南北五日。陰氣深シテ草不長。海阻テ而塩味希(マレ)也。地深キコト一丈。桑麻(サウマ)厚シテ而帛綿(キヌワタ)多シ。大〃下國也。水内(ミツチ),高井(タカ井),埴科(ハニシナ),小縣(チイサガタ),佐久(サク),伊那(イナ),諏訪(スハ),筑摩(チクマ)府,安裹(アツミ)又曇,更級(サラシナ),右為中国。〔南瞻部州大日本國正統圖・東山道266三〕
とあって、標記語「信濃」の語注記は、「信州,上管十郡, 南北五日。陰氣深くして草不長。海阻めて塩味希なり。地深きこと一丈。桑麻厚くして帛綿多し。大〃下國也。水内,高井,埴科,小縣,佐久,伊那,諏訪,筑摩府,安裹又曇,更級右為中国」という。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「信濃布」の語は、
信濃シナノ上東山 伊那(イナ)。諏方(スハ)。筑摩(ツクマ)府。安曇(アツミ)。更級(サラシナ)。水田(ミノチ)。高井。埴科(ハニシナ)。小縣(チイサカタ)。佐久(サク)。〔黒川本・國郡下83オ八〕
とあって、標記語を三卷本「信濃」の語注記は、「上東山 伊那・諏方・筑摩府・安曇・更級・水田・高井・埴科・小縣・佐久」とする。これに対し、十巻本は、この志部の国郡を未収載にしている。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
264信濃布・常陸細(美)・上野綿・上総鞦・武藏鐙 鐙ハ一ト_懸ト可∨申也。〔謙堂文庫藏二九右D〕
とあって、標記語「信濃布」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
信濃布(シナノヌノ)雪ニテ曝(サラ)ス布也。細(ホソ)ク白シ。〔下三オ六〕
とあって、この標記語「信濃布」の語注記は、「雪にて曝す布なり。細く白し」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
信濃(シナノ)乃布(ぬの)/信濃ノ布雪にてさらしたる布なり。伊北布(いほふぬの)といふ。〔二十八ウ八〕
とし、標記語「信濃布」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
信濃布(しなのぬの)/信濃布。▲信濃布ハ雪(ゆき)にてさらすとぞ細(ほそ)く色白し伊北布(いほふぬの)といふ。〔二四オ七〕
信濃布(しなのぬの)▲信濃布ハ雪(ゆき)にてさらすとぞ細(ほそ)く色(いろ)白(しろ)し伊北布(いほうぬの)といふ。〔四十三オ三〕
とあって、標記語「信濃布」の語注記は「信濃布は、雪にてさらすとぞ。細く色白し。伊北布といふ」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「信濃」の語を未収載にする。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統が、この「信濃布」の語を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、見出し語を「しなのぬの【信濃布】信濃国(長野県)で産するシナノキの皮をさらして、細く糸に割いて織った布。布目あらく艶があり、色はやや赤く黒みがある」にしてこの複合名詞を収載している。
[ことばの実際]
則(すなはち)御使につれて、参(まい)りて、中門にたてり。人々見れば、長(たけ)高き僧の、鬼のごとくなるが、信濃布(しなのぬの)を衣にき、椙(すぎ)のひらあしだをはきて、大木げん子(だいもくげんじ)の念珠(ねんず)を持(もて)り。《『宇治拾遺物語』一九三・相応和尚都卒天にのぼる事・染殿の后祈たてまつる事[巻一五・八]》
2001年11月27日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「尾張八丈(おわりハチジョウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」部に、
尾張(シナノ)八―。〔元亀本80二〕〔静嘉堂本98五〕
〔天正十七年本は、この語を未収載としている。〕
とあって、標記語「尾張」の語注記は、「八―」とあって「八郡」ということである。標記語「八丈」については、未収載としている。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「尾張八丈」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「尾張ノ八丈」〔山田俊雄藏本〕
「尾張(ヲハリ)八丈」〔経覺筆本〕
「尾張(ヲハリ)八丈(テウ・チヤウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「尾張八丈」の語のうち、「尾張」も「八丈」の語も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
尾張(シナノ/ビ,チヤウ)[上・平] 尾州八郡。水田万千九百三十町。海部(アマベ/カイフ)。中島(ナカシマ)府。葉栗(ハクリ)。丹羽(ニハ)。春部(カスヘ)又春日(カスカ)部。山田(ヤマダ)。愛智(アイチ)。智多(チタ)。〔天地門208三〕
とあって、標記語「尾張」の語注記は、「尾州八郡。水田万千九百三十町。海部・中島府・葉栗・丹羽・春部又春日部・山田・愛智・智多」という。標記語「八丈」は未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
尾張(ヲワリ) 尾(ビ)州八郡。海部(アマヘ)。中島(ナカシマ)。葉栗(ハクリ)。丹羽(ニハ)。山田(ヤマダ)。愛智(アイチ)。智多(チタ)。春部野(カスカベ)。田数一万六町。〔弘・日本國六十余州名数・東海道288四〕
尾張(ヲワリ)尾(ビ)州。〔永・日本國六十余州名數・東海道262五〕
尾張(――) 上尾州/八郡。海部(アマ)。中島。葉栗(ハクリ)。丹葉(ニハ)。春部(カスカヘ)。山田。愛智(アイ―)。智多(チタ)。〔尭・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・東海道231九〕
尾張(――)尾州。〔両・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・東海道66六〕
とあって、標記語「尾張」の語注記は「尾州八郡。海部・中島・葉栗・丹羽・山田・愛智・智多・春部野。田数一万六町」とする弘治二年本が広本『節用集』に最も近い注記内容であり、続いて尭空本、いちばん簡略化した注記が永祿二年本・両足院本ということになる。標記語「八丈」は、未収載にする。そして、易林本『節用集』には、
尾張(――)尾(ビ)州下管八郡南北三日。地厚シテ土肥(コヘ)タリ。種坐千部里多勝レリ‖日本圀ニ|也。中上国也。海部(アマベ)府,中島(ナガシマ),羽栗(ハグリ),丹羽(ニハ),春日部(カスガベ),山田(ヤマダ),愛智(エチ/アイチ),智多(チタ),當資島(タウシノシマ)。〔南瞻部州大日本國正統圖・東海道262一〕
とあって、標記語「尾張」の語注記は、「尾州下管八郡南北三日。地厚して土肥へたり。種坐千部里多日本圀に勝れりなり。中上国なり。海部府,中島,羽栗,丹羽,春日部,山田,愛智,智多,當資島」という。標記語「八丈」は、未収載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「尾張八丈」の語は、
尾張上 東海 海部東西相分,中嶋府,葉栗(ハクリ),丹羽(ニハ),春部(カスカヘ),山田,愛智(アイ―),智多。〔黒川本・國郡中70ウ一〕
尾張國 管八 海部アマ,中嶋府,葉栗ハクリ,丹羽ニハ,春部カスカヘ,山田,愛智アイチ,智多チタ。〔卷三・國郡101四〕
とあって、標記語を三卷本「尾張」の語注記は、「上 東海 海部東西相分,中嶋府,葉栗,丹羽,春部,山田,愛智,智多」とする。これに対し、十巻本は、「尾張國」とし、その語注記は「管八 海部アマ,中嶋府,葉栗ハクリ,丹羽ニハ,春部カスカヘ,山田,愛智アイチ,智多チタ」として異なる注記となっている。標記語「八丈」の語は未収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
263尾張八丈 能絹也。又細美也。〔謙堂文庫藏二九右D〕
とあって、標記語「尾張八丈」の語注記は、「能き絹なり。また、細美なり」という。古版『庭訓徃来註』では、
尾張(ヲハリ)八丈ハ絹ナリ。〔下三オ五〕
とあって、この標記語「尾張八丈」の語注記は、「絹なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
尾張(をはり)の八丈(はちじやう)/尾張ノ八丈信濃ノ布尾張乃宮津雪にてさらしたる布なり。伊北布(いほふぬの)といふ。〔二十八ウ八〕
とし、標記語「尾張八丈」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
尾張八丈(をハりはちぢやう)/尾張八丈。▲尾張八丈ハ丈ハ縞絹(しまぎぬ)也。〔二四オ六〕
尾張八丈(をハりはちぢやう)▲尾張八丈ハ縞絹(しまきぬ)也。〔四十三オ三〕
とあって、標記語「尾張八丈」の語注記は「尾張八丈は、縞絹なり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Xeigo<.セイガゥ(八丈) 絹(Quinu)と呼ばれる織物の一種.〔邦訳745r〕
とあって、標記語「尾張」「八丈」の語を未収載にする。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統が、この「尾張八丈」の語を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、見出し語を「おわり」「ハチジョウ」の二語にして収載している。また、尾西市歴史民族資料館には、「尾張八丈」の資料が展示されているようである。
[ことばの実際]
去程に押松申は、権大夫が「十善の君に申せ」と候つるは、「是や此数の染物巻八丈、白銀金、夷が隠羽、貢馬上馬、一年に二度三度進上仕る。面目に候らん。何を不足に思食されて、加様の宣旨は下候哉らん。武士の召候なれば、西国の武士に召合られて、軍をさせて、御簾の隙より御覧ぜよ。猶、軍にあかせ玉はぬものならば、己が様なる足早からん脚力を下しらべ。義時も十万騎にて馳上り、手の際軍仕て、見参に入らんと申せ」と申しければ、上下万人是を聞、皆伏目にこそ成にけれ。《『承久記』》
2001年11月26日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「丹後精好(タンゴセイゴウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」「勢」部に、
丹後(―コ)六―。〔元亀本137四〕
丹後(―ゴ) 六―(グン)。〔静嘉堂本145三〕
〔天正十七年本は、この語を未収載としている。〕
精好(セイカウ)。〔静嘉堂本427一〕
とあって、標記語「丹後」の語注記は、未記載にある。天正十七年本は、「加州」の語を注記形式にしている。「精好」については、元亀本は未収載としているが、静嘉堂本は収載している。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「丹後精好」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「丹後ノ精好」〔山田俊雄藏本〕
「丹後精好(セイガウ)」〔経覺筆本〕
「丹後(タンコ)ノ精好(セイカウ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「丹後精好」の語のうち、「丹後」も「精好」の語も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
丹後(タンゴ/アカシ, ゴ・ヲクルヽ・ノチ)[平・上去] 丹州五郡。本田五千五百三十七町。伽佐(カサ)。與謝(ヨサ)府。丹後。竹野(タケノ)。熊野(クマノ)。〔天地門328三〕
精好(セイガウ・クワシヽ,コノム/アキラカ,ヨシ)[平・去] 絹類。〔絹布門1085四〕
とあって、標記語「丹後」の語注記は、「丹州五郡。本田五千五百三十七町。伽佐・與謝府・丹後・竹野・熊野」という。標記語「精好」の語注記は、「絹類」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
丹後(―ゴ) 丹州五郡。竹野(タカノ)。熊野(クマノ)。加佐(カサ)。丹波(タニハ)。與謝(ヨザ)府。田数五千五百廿七町。〔弘・日本國六十余州名数・山陰道292六〕
丹後(タンコ)丹(タン)州五。〔永・日本國六十余州名數・山陰道263七〕
丹後(――)中丹州/五郡。加佐。与謝(―サ)。丹後。竹野(タカ―)。熊野(クマノ)。巨濃。〔尭・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・山陰道234三〕
精好(セイガウ)絹類。〔弘・財宝264五〕〔永・財宝225八〕〔尭・財宝212六〕
とあって、標記語「丹後」の語注記は「丹州五郡。竹野・熊野・加佐・丹波・與謝府。田数五千五百廿七町」とする弘治二年本が広本『節用集』に最も近い注記内容であり、続いて尭空本、いちばん簡略化した注記が永祿二年本ということになる。標記語「精好」の語注記は、「絹類」として、広本『節用集』に共通する。そして、易林本『節用集』には、
丹後(――)丹(タン)州。中管五郡。南北一日半。魚鼈(ベツ)桑麻饒以テ‖精好ヲ|為ス‖國産ト|。中上国也。伽佐(カサ),與謝(ヨザ)府,丹後(タンゴ),片野(カタノ)片又作竹,熊野(クマノ)。〔南瞻部州大日本國正統圖269九〕
精好(セイガウ)。〔食服234七〕
とあって、標記語「丹後」の語注記は、「丹州。中管五郡。南北一日半。魚鼈桑麻饒精好をもって國産となす。中上国也。伽佐・與謝府・丹後・片野片又作竹・熊野」という。標記語「精好」の語注記は、未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「丹後精好」の語は、
丹後中山陰无才字。加佐国府。與謝(ヨサ)丹波。丹後。田五千五百三十五丁、上七日、下四日。竹野。熊野。〔黒川本・國郡中11ウ六〕
丹後國 管五 參期十月。和銅六年癸丑初爲国割丹波国五郡号之。加佐。與謝ヨサ。丹波。竹野タカノ。熊野クマノ。本田五千五百三十七丁、上七日、下四日。〔卷四・國郡486二〕
精好 同(衣裳部)。セイカウ。〔黒川本・疉字下105ウ六〕
精好 〃珎。〃義。〃誠。〃勤。〃兵。〃~。〃微。〃華。〔卷十452四〕
とあって、標記語を三卷本「丹後」の語注記は、「中山陰无才字。加佐国府。與謝(ヨサ)丹波。丹後。田五千五百三十五丁、上七日、下四日。竹野。熊野」とする。これに対し、十巻本は、「丹後國」とし、その語注記は「管五 參期十月。和銅六年癸丑初爲国割丹波国五郡号之。加佐。與謝ヨサ。丹波。竹野タカノ。熊野クマノ。本田五千五百三十七丁、上七日、下四日。」として異なる注記となっている。標記語「精好」の語も収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
261東山ノ蕪・西山心太、此外加賀絹・丹後精好 能精好也。大口ニ有ルハ別也。〔謙堂文庫藏二九右C〕
とあって、標記語「丹後精好」の語注記は、「能く精好なり。大口に有るは別なり」という。古版『庭訓徃来註』では、
丹後精好(タンゴセイガウ)ハ大口ノ爲ナリ。〔下三オ四〕
とあって、この標記語「丹後精好」の語注記は、「大口の爲なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
丹後(たんご)の精好(せいこう)/丹後精好丹後乃宮津(ミやづ)より出精好ハよき絹の事なり。〔二十八ウ六〕
とし、標記語「丹後精好」に対する語注記は、「丹後の宮津より出づる精好はよき絹の事なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
丹後精好(たんごせいこう)/丹-後精-好。▲精好ハよき絹(きぬ)をいふ。丹後宮津(ミやづ)より出る大口(おほくち)袴(はかま)に作(つく)るべし。〔二四オ六〕
丹後精好(たんごせいこう)▲精好ハよき絹(きぬ)をいふ。丹後(たんご)宮津(ミやつ)より出る大口(おほくち)袴(はかま)に作(つく)るべし。〔四十三オ二〕
とあって、標記語「丹後精好」の語注記は「精好は、よき絹をいふ。丹後宮津より出る大口袴に作るべし」という。
当代の『日葡辞書』には、
Xeigo<.セイガゥ(精好) 絹(Quinu)と呼ばれる織物の一種.〔邦訳745r〕
とあって、標記語「精好」の語を収載し、その語注記は「絹(Quinu)と呼ばれる織物の一種」という。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統と『日葡辞書』が、この「精好」の語を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、見出し語を「タンゴ」「セイゴウ」の二語にして収載している。
[ことばの実際]
この外兼ねて御塗籠に納れらるる物等、美精好絹五十疋、美絹二百疋、帖絹二百疋、紺絹二百端、紫五十端、糸千両、綿二千両、檀紙三百帖、厚紙二百帖、中紙千帖。《『吾妻鏡』建長四(一二五二)年壬子四月一日》
2001年11月25日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)
「加賀絹(かがぎぬ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
加賀(―カ)。〔元亀本92四〕
加賀(――)。〔静嘉堂本114三〕
加賀(―カ)加州。〔天正十七年本上56オ五〕
絹(キヌ)。〔元亀本287七〕〔静嘉堂本333三〕
とあって、標記語「加賀」の語注記は、未記載にある。天正十七年本は、「加州」の語を注記形式にしている。「絹」については、「大宮絹」(2001.11.12)のところで報告しているのでここではふれないでおく。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「加賀絹」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「加-賀ノ絹」〔山田俊雄藏本〕
「加-賀絹(キヌ)」〔経覺筆本〕
「加-賀絹(キヌ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「加賀絹」の語のうち、「加賀」も「絹」の語も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
加賀(カガ/クワヱ,ヨロコブ)[平・去] 賀州四郡。水田。万二千五百三十六町。江沼(ヱヌマ)。能美(ノミ)府。加賀。石川。〔天地門241三〕
とあって、標記語「加賀」の語注記は、「賀州四郡、水田、万二千五百三十六町。江沼・能美府・加賀・石川」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
加賀(カガ)賀(カ)州四郡 江沼(エヌマ)。能美(ノウミ)。石川(イシカハ)。加北(カボク)。田数一万二千五百卅六町。〔弘・日本國六十余州名数・北陸道291七〕
加賀(カガ)賀(カ)州四。〔永・日本國六十余州名数・北陸道263四〕
加賀(――)大賀州四郡。江沼(エヌマ)。能美(ノミ)。加賀。石川。〔尭・日本國六十余州受領之高下并片名同郡数事・北陸道233八〕
とあって、標記語「加賀」の語注記は「賀州四郡 江沼・能美・石川・加北。田数一万二千五百卅六町」とする弘治二年本が広本『節用集』に最も近い注記内容であり、続いて尭空本、いちばん簡略化した注記が永祿二年本ということになる。そして、易林本『節用集』には、
加賀(――)加(カ)州上管四郡東西二日半地_冷カニ 酢醯酒漿久澄五穀(コク)絹帛夥(―タダシ)中上國也。江沼(ヨネ)。能美(ノミ)。石川(イシカハ)。加賀(カガ)府。加北(カホク)。〔南瞻部州大日本國正統圖268七〕
とあって、標記語「加賀」の語注記は、「加州上管四郡、東西二日半、地_冷やかに、酢醯酒漿久しく澄み五穀・絹帛夥し。中上の國なり。江沼・能美・石川・加賀府・加北」ということで、「絹帛」を紹介している。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「加賀絹」の語は、
加賀カ〃。上北陸。江沼(ヱヌ)。能美/田万二千五百廿六丁、上十八日下九日/加賀(カガ)府。石川。〔黒川本・國郡上91オ三〕
加賀國 管四 准中國而格云、天長二―正月十日今件國准諸上國課丁田疇其數差(ヤヽ)益(アマレリ)。弘仁十四年割越前江沼加賀二郡為國従四位下紀朝臣未成始為守元者越前守如元/江沼ヱヌ。能美ノミ、府。加賀府。石川。/本田一万二千五百四十六丁、上六日下。〔卷四・國郡332五〕
とあって、標記語を三卷本「加賀」の語注記は、「上北陸。江沼・能美/田万二千五百廿六丁、上十八日下九日/加賀府・石川」とする。これに対し、十巻本は、「加賀國」とし、その語注記は「管四。准中國而格云く、天長二年正月十日、今件國准諸上國課丁田疇、其の數やや益れり。弘仁十四年、割越前、江沼・加賀二郡を國となす。従四位下紀の朝臣未だ始めて守と為し无き者越前守如无成らず/江沼・能美府・加賀・石川。本田一万二千五百四十六丁、上六日下」として異なる注記となっている。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
261東山ノ蕪・西山心太、此外加賀絹・丹後精好 能絹也。大口ニ有ルハ別也。〔謙堂文庫藏二九右C〕
とあって、標記語「加賀絹」の語注記は、未記載にする。古版『庭訓徃来註』では、
加賀絹(―キヌ)ノ事餘(ヨ)ノ國ノ絹(キヌ)ヨリ幅(ハタバ)リ廣(ヒロ)シ。又長シ。是一ノ規模(キボ)ナリ。古ヘハ加賀ノキス竹ノ下ト云在処ヨリ、天子ノ御衣(ギヨイ)ノキヌニ参(マイ)ル也。爰ヲ以テ国ノ名物也。〔下三オ二〕
とあって、この標記語「加賀絹」の語注記は、「餘の國の絹より幅り廣し。又長し。是一の規模なり。古へは、加賀のきぬ{す}竹の下と云ふ在処より、天子の御衣のきぬに参るなり。爰を以って国の名物なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
此外(このほか)加賀(かが)の絹(きぬ)/此外加賀ノ絹加州の小松又は竹の下といふ所よりおり出す。〔二十八ウ六〕
とし、標記語「加賀絹」に対する語注記は、「加州の小松、又は竹の下といふ所よりおり出す」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
加賀絹(かがぎぬ)/加-賀_絹。▲加賀絹ハ竹(たけ)の下(した)小松(こまつ)よりも出るよし機(はた)ばり廣(ひろ)く丈(たけ)も亦(また)長(なが)しとぞ。〔二四オ五〕
加賀絹(かゞきぬ)▲加賀絹ハ竹(たけ)の下(した)小松(こまつ)よりも出るよし機(はた)ばり廣(ひろ)く丈(たけ)も亦(また)長(なが)しとぞ。〔四十三オ二〕
とあって、標記語「加賀絹」の語注記は「加賀絹は、竹の下・小松よりも出づるよし、機ばり廣く、丈もまた長しとぞ」という。
当代の『日葡辞書』には、
Cagaguinu.カガギヌ(加賀絹) 加賀(Caga)の国に産する上等の絹織物.〔邦訳77r〕
とあって、標記語「加賀絹」の語を収載し、その語注記は「加賀(Caga)の国に産する上等の絹織物」という。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統と『日葡辞書』が、この複合名詞「加賀絹」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、「かがぎぬ」の語を見出し語として収載しているが、ただし、「文明年間(1469〜1487)に起こり、前田利常の奨励で発展した」という意義説明の箇所は、この『庭訓徃来』(至徳三(1386)年写)に見える「加賀絹」の語からすると、この起源説は遡源し、これは聊か矛盾するものであることをここに指摘しておきたい。また、『庭訓徃来』の注釈書類には、この産物の特徴と産出地を端的に示しているといえよう。現代に伝わる「加賀友禅」は、この「加賀絹」を梅の樹皮の煎汁に浸して染める無地染があり、この無地染めに彩色が施され発展したものである。
[ことばの実際]
あたち絹、常盤紬、加賀絹、伊豆の八丈絹など大名衆其外にも有徳なる人達きたまひぬ。綾緞子ねり羽二重など京染きたるを見ては、此人は京気のものを着たりと云ってほめうらやみしなり。《三浦浄心『慶長見聞集』慶長十五(1614)年)・改訂『史籍集覧』参照》
2001年11月24日(土)晴れ。東京(八王子)⇒
「西山ノ心太(にしやまのこころぶと)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、
心太(コヽロブト)。〔元亀本230三〕〔静嘉堂本263八〕
心太(コヽロフト)。〔天正十七年本中60ウ七〕
とあって、標記語「心太」の語注記は、未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「西山心太」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「西_山ノ心太」〔山田俊雄藏本〕
「西山ノ心太(コヽロブト)」〔経覺筆本〕
「西_山心太(フト/トコロテン)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「西山ノ心太」の語のうち、「西山」も「心太」の語も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
心太(コヽロブト/シンタイ)[平・去] 海藻。〔草木門654七〕
とあって、標記語「心太」の語注記は、「海藻」という。標記語「西山」の京内地名語は、未收載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
心太(コヽロブト)同(海藻)。〔弘・草木185六〕
心太(コヽロブト)海藻。〔永・草木152二〕〔尭・草木141九〕
とあって、標記語「西山」の語注記は「毘沙門」という。そして、易林本『節用集』には、
心太(コヽロブト)。〔草木156一〕
とあって、標記語「心太」の語注記は未記載にある。また、標記語「西山」の語は、古辞書『下學集』そして『節用集』類は未収載とする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「西山ノ心太」の語は、
大凝菜(―キヨ―)コヽロフト/コルモハ。凝海藻同。心太同。/俗用之。意強菜同。〔黒川本・植物下2ウ八〕
心太コヽロフト/俗用之。大凝菜コヽロフト。凝海藻。意強菜已上同。〔卷七・植物四〕
とあって、標記語を三卷本は、「こころぶと」の語表記を「大凝菜」「凝海藻」「心太」「意強菜」と四語を示して、このなかで「心太」は、「俗にこれを用ゆ」とする。これに対し、十巻本は、俗用の「心太」を前に排列し、後に「大凝菜」「凝海藻」「意強菜」を「同」として、排列している。また、標記語「西山」は未收載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
261東山ノ蕪・西山心太、此外加賀絹・丹後精好 能絹也。大口ニ有ルハ別也。〔謙堂文庫藏二九右C〕
とあって、標記語「西山ノ心太」の語注記は、未記載にする。古版『庭訓徃来註』では、
醍醐(タイゴ)ノ鳥頭布(ウドメ)・東山(ヒカシ―)ノ蕪(カブラ)・西山(ニシヤマ)ノ心太(コヽロブト)、此ノ_外(ホカ)皆々アリ。不審(―シン)モナシ。子細(シサイ)モナシ。都ノ名物ナリ。〔下三オ二〕
とあって、この標記語「西山ノ心太」の語注記は、「皆々あり。不審もなし。子細もなし。都の名物なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
西山(にしやま)の心太(こゝろぶと)/西山ノ心太漢語抄(かんごせう)に心太ハ大根なりといふ。〔二十八ウ四〕
とし、標記語「西山ノ心太」に対する語注記は、「楊氏『漢語抄』に心太ハ大根なりといふ」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
西山(にしやま)の心太(こゝろぶと)/西山ノ心太。▲東山西山共に城州の地、心太ハ凝海藻と書てところてんをいふなれども醍醐も西山も海邊にあらざれバあたらず。漢語抄(かんごせう)に大凝菜(たいぎよさい)と書(かき)て大根(だいこん)の事とす。これ亦大根とせバ然(しか)るべきやうなれども大凝菜(だいぎよさい)と書(かき)たるも猶ところてんの義にちかし如何(いかゞ)。〔二四オ二〕
西山(にしやま)の心太(こゝろぶと)/西山ノ心太▲東山西山共に城州の地(ち)、心太ハ凝海藻と書てところてんをいふなれども醍醐も西山も海辺(かいへん)にあらざれバあたらず。漢語抄(かんごせう)に大凝菜(たいきやうさい)と書(かき)て大根(だいこん)の事とす。これ亦大根とせバ然(しか)るべきやうなれども大凝菜(だいぎやうさい)と書(かき)たるも猶(なほ)ところてんの義(ぎ)にちかし如何(いかゞ)。〔四十二ウ四・五〕
とあって、標記語「西山ノ心太」の語注記は「西山ノ心太」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「西山」と「心太」の語はいずれも未収載にある。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「西山ノ心太」を収載していることになる。近代国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、
[ことばの実際]
大寺の鐘の聲、遺愛寺の聞を驚し、西山の雪の色、香爐峯の望を催す。夜霜に寒き砧の響、幽に御枕に傳ひ、曉氷を輾る車の跡、遙に門前に横はれり。《『平家物語』卷第三・城南離宮》
盂蘭盆の半の秋の夜もすがら月にすますや我が心てい
2001年11月23日(金)晴れ。東京(八王子)⇒有楽町(皇居)
「東山ノ蕪(ひがしやまのかぶら)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
蕪(カブラ)。〔元亀本104六〕
蕪(カブ)。〔静嘉堂本131二〕
蕪(カフラ)。〔天正十七年本上64オ八〕
とあって、標記語「蕪」の語注記は、未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「東山蕪」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「東_山ノ蕪」〔山田俊雄藏本〕
「東山ノ蕪(カブラ)」〔経覺筆本〕
「東_山(ヒカシヤマ)ノ蕪(カフラ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「東山ノ蕪」の語のうち、「東山」も「蕪」の語も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
蕪(カブラ/ブ,アルヽ)[平]。蔓草ノ根也。〔草木門258三〕
とあって、標記語「蕪」の語注記は、「蔓草の根なり」という。標記語「東山」の京内地名語は、未收載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
蕪(カフラ)。〔弘・草木76六〕
蕪(カブラ)。〔永・草木76二〕〔尭・草木69一〕〔両・草木82二〕
とあって、標記語「蕪」の語注記は、未記載にある。そして、易林本『節用集』には、
蕪(カブラ)。〔草木73四〕
とあって、標記語「蕪」の語注記は未記載にある。また、標記語「東山」の語は、古辞書『下學集』そして『節用集』類は未収載とする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「東山ノ蕪」の語は、
蕪菁カフラ。菁根同。下軆同。菲同。〔黒川本・植物上75オ三〕
蕪菁カフラ。蕪。菲根。下軆。蔓菁根或用菁根。菲已上同/見毛詩。〔卷三・植物149一〜三〕
とあって、標記語を三卷本は、「かぶら」の語表記を「蕪菁」「菁根」「下軆」「菲」と四語を示しているが、「蕪」の単漢字では、未収載とする。これに対し、十巻本は、「蕪菁」「蕪」「菲根」「下軆」「蔓菁根&菁根」「菲」とあって、標記語を増語して、単漢字「蕪」の語を収載している。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
261東山ノ蕪・西山心太、此外加賀絹・丹後精好 能絹也。大口ニ有ルハ別也。〔謙堂文庫藏二九右C〕
とあって、標記語「東山ノ蕪」の語注記は、未記載にする。古版『庭訓徃来註』では、
醍醐(タイゴ)ノ鳥頭布(ウドメ)・東山(ヒカシ―)ノ蕪(カブラ)・西山(ニシヤマ)ノ心太(コヽロブト)、此ノ_外(ホカ)皆々アリ。不審(―シン)モナシ。子細(シサイ)モナシ。都ノ名物ナリ。〔下三オ二〕
とあって、この標記語「東山ノ蕪」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
東山(ひがしやま)の蕪(かぶら)/東山ノ蕪。〔二十八ウ四〕
とし、標記語「東山ノ蕪」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
東山(ひがしやま)の蕪(かぶら)/東山ノ蕪▲東山西山共に城州の地、心太ハ凝海藻と書てところてんをいふなれども醍醐も西山も海邊にあらざれバあたらず。漢語抄(かんごせう)に大凝菜(たいぎよさい)と書(かき)て大根(だいこん)の事とす。これ亦大根とせバ然(しか)るべきやうなれども大凝菜(だいぎよさい)と書(かき)たるも猶ところてんの義にちかし如何(いかゞ)。〔二四オ四〕
東山(ひがしやま)の蕪(かぶら)/東山ノ蕪。▲東山西山共に城州の地(ち)、心太ハ凝海藻と書てところてんをいふなれども醍醐も西山も海辺(かいへん)にあらざれバあたらず。漢語抄(かんごせう)に大凝菜(たいきやうさい)と書(かき)て大根(だいこん)の事とす。これ亦大根とせバ然(しか)るべきやうなれども大凝菜(だいぎやうさい)と書(かき)たるも猶(なほ)ところてんの義(ぎ)にちかし如何(いかゞ)。〔四十二ウ六〕
とあって、標記語「東山ノ蕪」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
To>zan.トウザン(東山) Figaxi yama.(東山)東の山,あるいは,東の方向にある山.〔邦訳674l〕
Cabu.カブ(蕪) かぶらの根,または,かぶら.これは婦人語である.Cabura(蕪)と言う方がまさる.〔邦訳71l〕
とあって、標記語「東山」と「蕪」の語を二語にして収載する。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「東山ノ蕪」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は未収載にある。『庭訓徃来』の注釈書類に、その名前の由来が示されているのである。
[ことばの実際]「東山ノ蕪」現代の「聖護院蕪」室町時代の食文化参照のこと。
東山の麓鹿の谷といふ所は、後は三井寺に續いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。《『平家物語』潅頂卷》
2001年11月22日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「鞍馬の木芽漬(くらまのきのめづけ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、
鞍馬寺(クラマテラ) 桓武天皇延喜十五丙子立。至天文十七戌申七百五十三年也。〔元亀本197十〕
鞍馬寺(クラマデラ) 桓武天皇延暦十五丙子立。至天文十七戌申七百五十三季也。〔静嘉堂本223二〕
鞍馬寺(クラマテラ) 桓武天皇延暦十五丙子立。至天文十七戌申七百五十三季也。〔天正十七年本中41オ三〕
とあって、標記語「鞍馬寺」の語注記は「桓武天皇、延暦十五(796年)丙子に立す。至る天文十七戌申より七百五十三季なり」とある。ここで、元亀本は、「延喜十五年」と記し、醍醐天皇の御代の年号を用いていることで、その誤りをここに指摘できるのである。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「鞍馬木芽漬」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「鞍_馬ノ木_芽_漬」〔山田俊雄藏本〕
「鞍馬(クラマ)ノ木芽漬(―ノメヅケ)」〔経覺筆本〕
「鞍_馬(クラムマ)ノ木_芽_漬(キノ目スツケ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「鞍馬ノ木芽漬」の語のうち、「鞍馬」も未収載とする。次に、広本『節用集』は、
鞍馬(クラマ/アンハ,ムマ)。山城毘沙門也。〔天地門496二〕
木芽漬(キノメヅケ/ボクガシ,―キザス―)[入・平・去]。鞍馬(クラマ)在∨之。〔飲食門816二〕
とあって、標記語「鞍馬」の語注記は、「山城の毘沙門なり」とし、「木芽漬」の語注記は、「鞍馬にこれ在り」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
鞍馬(クラマ)毘沙門。〔弘・天地155八〕〔両・天地141五〕
とあって、標記語「鞍馬」の語注記は「毘沙門」という。そして、易林本『節用集』には、
鞍馬(クラマ)。〔乾坤127六〕
木芽漬(キノメヅケ)。〔食服187六〕
とあって、標記語「鞍馬」と「木芽漬」の語注記は未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「鞍馬ノ木芽漬」の語は、
鞍馬クラマ。〔黒川本・諸寺中81ウ六〕
鞍馬寺本朝文集云 鞍馬寺者造東寺長官従四位藤原朝臣伊勢人寞弘誓所建立也。素懷之旨非無由緒蓋則我奉 勅命雖造東寺私願未遂争建一堂安観音像謂其宿志現當之間爲仰本誓伏願大悲観音示建立道場之勝地遂數年浄心之蓄懷然間夢洛城之北有一深山當山東西高山錯峙介兩山之間有平正之地澗水閑流宜洗塵心我在其所直望地形爰老人出来齢八十族鬢髪晧々麑齒眉壽即相語云。汝知地否伊勢人答云、目所不視耳所不聽也。老人重云、斯地之勝 天下建立道場尤得地宜伊勢人云、公爲誰人我未曾知老人云、我是王城鎮守貴舩明神也。感汝堅固之道心教斯殊勝之地勢也。但當北有山號絹笠山前有山稱松尾人傍山有西流水名賀茂川上流也。示斯山水之号老人忽去其夢方驚心神感動即數年有騎用之白馬而被鞍於其馬相語而云汝雖受畜生之身豈非諸佛之垂跡宜爲遂利益衆生之願早到夢想見之地是則笠法蘭之來大漢載正教於白馬之法水東流濫觴在斯即建伽藍納其經論号白馬寺盖有以哉。我思其旨意汝宜遂宿慮忽然放馬東西任意其後從蒼頭一人尋白馬去跡其跡顯然也。到北山歡喜之涙暗落踊躍之意於催。即登嶺上廻頭望東平地生萱草我馬在中北頭而立眼前視宛然昔夢合掌礼拝稱念而南光大慈大悲観世音菩薩一心之間百遍已畢。近見萱草之内有毘沙門天像自頭及趺遍身見之非丹青之綵非金銀之装兼又非我朝所造之像心眼所及非木非石其色鈍色喜悦礼拝即以歸去重人誓云、我有造道塲安觀音願然逢毘沙門之像知宿志之相違。但金口誠言真實無妄重蒙示現知其是非其夜入夢有十六歳許童子容顔端麗匪直也。人示云、汝未断惑凡夫也。未覺因果也。疑念之心豈以可生即誦云、觀世音音則是毘沙門伊勢人聞此誦而問云、童子爲誰何故朱童子答云、我是多聞大天侍者所謂禅樺子童子而己若可信觀世音者毘沙門是也。譬猶般若法花名別實同也。深可信伏勿生疑惑其夢忽覺感涙滂耗不歴幾程招工匠而深山採材木而運此地構造三間四面堂奉安置彼毘沙門天像以所願相叶致歸依無貮已歴年爲遂本懐造觀音安置此寺鞍馬寺稱无意如此々々。〔卷六・諸寺474〜477〕
とあって、標記語を三卷本は、「鞍馬」としこれに対し、十巻本は、「鞍馬寺」とあって、その注記内容も増加し、異なるものである。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
259姉小路ノ針・鞍馬ノ木芽漬(キノメ―) 葛實或櫻實ヲ塩ニ漬也。〔謙堂文庫藏二九右B〕
姉小路(アネカ―)ノ針・鞍馬(クラ―)ノ木芽漬(―ノメツケ) 葛(クス)ノ実(ミ)。或ハ櫻ノ実。塩漬(シヲツケ)也。云云。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』〕木芽漬―万ノ木ノ縁也。クキノ心也。〔同上注記書き込み〕木牙ハ茎ノ亊也。本ニ唐皮也。山女葛ノ塩漬也。〔同上頭注書き込み〕
○木牙ハ莖ノ亊也。本ニハ唐皮也。山女葛ノ塩漬也。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』頭注書き込み〕
とあって、標記語「鞍馬ノ木芽漬」の語注記は、未記載にする。古版『庭訓徃来註』では、
姉小路ノ針(アネガコウヂノハリ)トハ。山椒(シヨウ)ノ木(キノ)皮(カハ)ヲ剥(ハヒ)テ煮染(ニソメ)テ賣(ウル)也。〔下四オ一〕
とあって、この標記語「鞍馬ノ木芽漬」の語注記は、「山椒(シヨウ)ノ木(キノ)皮(カハ)ヲ剥(ハヒ)テ煮染(ニソメ)テ賣なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
鞍馬(くらま)の木芽漬(このめつけ)/鞍馬ノ木芽漬。〔二十八ウ四〕
とし、標記語「鞍馬ノ木芽漬」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
鞍馬(くらま)の木芽漬(きのめつけ)/鞍_馬ノ木ノ_芽_漬▲鞍馬ノ木芽漬鞍馬(くらま)ハ山城の地(ち)。古注爰(こゝ)に山椒(さんせう)の木の皮(かハ)を剥(む)き煮染(にしめ)て賣(う)ると云々。〔二四オ二〕
鞍馬(くらま)の木芽漬(きのめづけ)▲鞍馬ノ木芽漬鞍馬(くらま)ハ山城の地(ち)。古注爰(こゝ)に山椒(さんしやう)の木の皮(かハ)を剥(む)き煮染(にしめ)て賣(う)ると云々。〔四十二ウ四・五〕
とあって、標記語「鞍馬ノ木芽漬」の語注記は「鞍馬ノ木芽漬鞍馬は山城の地。古注爰に山椒の木の皮を剥き煮染て賣ると云々」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「鞍馬」と「木芽漬」の語はいずれも未収載にある。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「鞍馬ノ木芽漬」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は「くらまのきのめづけ」の語を副見出し語として収載する。『庭訓徃来』の注釈書類に、その名前の由来が示されているのである。
[ことばの実際]
淨土僧その事足ろうたお方より、お齋(とき)を下さるるとあって行けば、膳のまわりには、中(なか)には麩(ふ)、鞍馬(くらま)の木(き)の芽漬(めづけ)、醍醐(だいご)の獨活芽(うどめ)、牛蒡(ごぼう)・はべん、種々樣々な物を取り調(ととの)えて下さるるによって、アラうまやと思うて、まんまと齋を行う。《虎明本狂言『宗論』》
2001年11月21日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「姉小路の針(あねのこうじのはり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「安」「波」部に、
姉小路(アネガコウジ) 下京。〔元亀本262三〕
姉小路ノ針(アネカコウヂ) 下京。〔静嘉堂本297六〕
針(ハリ)。〔元亀本35三〕〔静嘉堂本37四〕〔天正十七年本上19ウ一〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「姉小路」と「針」とを収載し、「姉小路」の語注記は「下京」とある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「姉小路針」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「姉_小_路ノ針」〔山田俊雄藏本〕
「姉小路(アネコウヂ)ノ針(ハリ)」〔経覺筆本〕
「姉小路(アネカコウチ)ノ針(ハリ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
姉小路(アネガ――)。〔京師25四〕
標記語「姉小路ノ針」の語のうち、「姉小路」を京師に記載する。次に、広本『節用集』は、
姉小路(アネカ――)。〔洛中横小路1150三〕
針(ハリ/シン)[平]。鍼(同/シン)[平]。〔器財門60五〕
とあって、標記語「姉小路」と「針・鍼」の語注記は、未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
姉小路(アネカ――)。〔弘・京中小路名、南北横三十八町281五〕
針(ハリ/シン)鍼(同)。〔弘・財宝21二〕
針(ハリ)。〔永・財宝19七〕
針(ハリ)鍼。〔尭・財宝18三〕
針(ハリ/シン)鍼。〔両・財宝22五〕
とあって、標記語「姉小路」「針」の語注記は未記載にある。そして、易林本『節用集』には、
鍼(同(ハリ))針(シン)/同。〔器財20一〕
とあって、標記語「鍼」の表記にして注記に「針」の表記を示す。「姉小路」は未収載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「姉小路ノ針」の語は、
針(シン)ハリ。鍼歟/又作鐵。菽同。〔黒川本・雜物上21ウ八〕
針ハリ。菽同/縫衣具。〔卷二・雜物180四〕
とあって、標記語を三卷本は、読みを記し、その後に「鍼」の字を示す。さらに、「又作○」の形式で「鐵」の字を示す。これに対し、十巻本は、「菽同/縫衣具」とあって、その注記内容は異なるものである。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
259姉小路ノ針・鞍馬ノ木芽漬(キノメ―) 葛實或櫻實ヲ塩ニ漬也。〔謙堂文庫藏二九右B〕
とあって、標記語「姉小路ノ針」の語注記は、未記載にする。古版『庭訓徃来註』では、
姉小路ノ針(アネガコウヂノハリ)聖徳太子ノアネ御前ニ裁田姫(タツタヒメ)ト申奉ル女人アリ。天皇(―ワウ)ノ御息女(ソクチヨ)ニテハ渡(タ)ラセ給(タマ)ヘ共。片輪(カタワ)ナル人ナリ。大内ヲ追(ヲイ)出サレタリ。コヽヤカシコヲ。迷(マヨ)ヒ行キ給フヲ。人目見苦(ミグル)シトテ。御舎弟(シヤテイ)ノ太子。不敏(ビン)ニ思食(ヲホシメ)シ。土壇(ドタン)ノ小屋(コヤ)ヲ作テヲキ奉リ業(ワサ)ノ爲ニトテ。針(ハリ)ト云事ヲ聖徳太子ノ訓(ヲシ)ヘ玉フ。其後針ト云フ事出來也。聖徳太子ノ御嫡(チヤク)女ニテワタラせ給ヘハ。皆人アネガ小路(―チ)ト申傳(ツタ)ヘ侍(ハンベ)リキ。〔下三ウ六〜四オ一〕
とあって、この標記語「姉小路ノ針」の語注記は、「聖徳太子のあね御前に裁田姫と申し奉る女人あり。天皇の御息女にては渡らせ給ヘ共。片輪なる人なり。大内を追出されたり。ここやかしこを。迷ひ行き給ふを。人目見苦しとて。御舎弟の太子。不敏に思食し。土壇の小屋を作りてをき奉り業の爲にとて。針と云ふ事を聖徳太子の訓へ玉ふ。其後、針と云ふ事出來なり。聖徳太子の御嫡女にてわたらせ給へば。皆人あねが小路と申し傳へ侍りき」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
姉(あね)か小路(こうぢ)の針(はり)/姉カ小路ノ針姉か小路ハ聖徳太子の姉裁田姫(たちたひめ)居給ひし所といふ。〔二十八ウ三〕
とし、標記語「姉小路ノ針」に対する語注記は、「姉が小路は聖徳太子の姉裁田姫居給ひし所といふ」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
姉(あねが)小路(こうぢ)の針(はり)/姉_ガ小_路ノ_針▲姉ガ小路ノ針ハ古注(こちう)に聖徳太子(しやうとくーし)の御姉(あね)裁田姫(たつたひめ)と申ハかたわにておはせしかバ内裏(だいり)の御住居(すまゐ)かなハで山城に來(きた)りて針(はり)を商(あきな)はせ給ひしよし其(その)名残(なごり)の趣(おもむき)也。如何(いかが)。〔二四オ二〕
姉小路(あねがこうぢ)の針(はり)▲姉ガ小路ノ針ハ古注(こちゆう)に聖徳太子(しやうとくたいし)の御姉(あね)裁田姫(うゑたひめ)と申ハかたわにておはせしかバ内裏(だいり)の御住居(すまゐ)かなハで山城に來(きた)りて針(はり)を商(あきな)はせ給ひしよし其(その)名残(なごり)の趣(おもむき)也。如何(いかゞ)。〔四十二オ六〕
とあって、標記語「姉小路ノ針」の語注記は「姉ガ小路ノ針は古注に、聖徳太子の御姉裁田姫と申はかたわにておはせしかば内裏の御住居かなはで山城に來りて針を商はせ給ひしよし、其の名残の趣なり。如何」という。
当代の『日葡辞書』には、
Fari.ハリ(針・鍼) 針,または,鍼.§Fariuo fineru.(針・鍼を捻る)身体のある部分に,治療のために或る針,または,鍼を刺し入れる.§Fariuo tcuco<.(針・鍼を使ふ)馬の血を取る時などに,刺絡針を刺しこむ。§また,Fari.(針)蜂や虫などの刺す針.⇒次条〔邦訳208r〕
†Fari.*ハリ(針)§また,釣針.§Farini cacaru.(針に掛かる)釣針にひっかかる.⇒Qinxocu(金色);Saxi,su(指し,す);Tate,tcuru;Yeba. 〔邦訳208r〕
とあって、標記語「針」の語は、「針,または,鍼」とある。標記語「姉小路」の語は未収載にある。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「姉小路ノ針」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は「あねがこうじのはり」の語を見出し語とする標記語は未収載にする。『庭訓徃来』の注釈書類に、その名前の由来が示されているのである。
[ことばの実際]
あねが小路の針の永日<貞徳>《俳諧『玉海集』付句、上春》
2001年11月20日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「仁和寺眉作(ニンワジのまゆつくり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「仁」部に、
仁和寺(ニンワジ)洛西陽成――二丙午立。〔元亀本40二〕
仁和寺(―――)洛西陽成――二丙午立。〔静嘉堂本44一〕
とあって、標記語「仁和寺」を収載し、読みは「ニンワジ」とし、その語注記は「洛西陽成仁和二丙午に立つ」とある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「仁和寺眉作」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「仁和寺ノ眉_作リ」〔山田俊雄藏本〕
「仁和寺眉作(マユヅクリ)」〔経覺筆本〕
「仁和寺(ハシ)ノ眉作(マイツクリ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「仁和寺眉作」の語のうち、「眉」を記載するものに過ぎない。次に、広本『節用集』は、
仁和寺(―――)。〔比丘尼五山1154二〕
とあって、標記語「仁和寺」の語注記は、未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、標記語「仁和寺」「眉作」の語は未収載にある。そして、易林本『節用集』には、標記語「仁和寺」「眉作」は未収載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「仁和寺眉作」の語は、
仁和寺 ニクワシ/ニンワシ歟。〔黒川本・諸寺上32ウ五〕
仁和寺 ニクワシ/ニンワシ歟。光孝天皇御宇造之。仁和四―八月日供養道師増天僧都真然仁和年中建立。依之号仁和寺。保延元―乙卯五月十八日供養。去元永二―焼已更建立安本佛也。格云寛平御代奉為。仁和先帝所創立也。其定額僧十口円堂院量年分度者一人也。〔卷二・諸寺284二〕
とあって、標記語を三卷本は、読みを記し、十巻本は、「光孝天皇の御宇之を造る。仁和四―八月日供養道師増天僧都真然、仁和年中建立。之に依り仁和寺と号す。保延元―乙卯五月十八日供養。去る元永二―焼已更建立安本佛なり。格云く、寛平御代奉為。仁和先帝創立する所なり。其の定額僧十口円堂院量年分度者一人なり」とあって、その注記は異なるものである。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
258仁和寺ノ眉作 北山ニ在眉ヲ掃(ハラウ)物也。蒙求云張敝畫∨眉注云。前漢張敝字ハ子高。為‖京兆ノ尹|。以‖經術|自輔‖其ノ政|。又為∨婦畫∨眉ヲ長安中ニ傳‖張京兆カ尹眉媚(コヒ)タリト|作∨眉自∨是始也。〔謙堂文庫藏二九右@〕
仁和寺―宇多院旧跡也。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』注記書き込み〕
とあって、標記語「仁和寺ノ眉作」の語注記は、「北山に眉を掃ふ物あるなり。蒙求に云く張敝眉を畫く注に云ふ。前漢張敝、字は子高。京兆の尹と為る。經術をもって|自其の政を輔く。また婦と為し、眉を畫く。長安中に張京兆が尹眉媚びたりと傳ふ。眉作り是より始るなり」と記載されている。古版『庭訓徃来註』では、
仁和寺ノ眉作(ニンワ―ノマユツクリ)彼ノ寺ハ。皆混尼ナリ。此比丘尼(ビクニ)達(タチ)トノワザニスル也。〔下三ウ六〕
とあって、この標記語「仁和寺ノ眉作」の語注記は、「彼の寺は。皆混尼なり。此の比丘尼達とのわざにするなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
仁和寺(にんわじ)の眉作(まゆつくり)/仁和寺ノ眉作北山御室(おむろ)なり。〔二十八ウ二〕
とし、標記語「仁和寺ノ眉作」に対する語注記は、「北山御室なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
仁和寺(にんわじ)乃眉作(まゆつくり)/仁和寺ノ眉作▲仁和寺ノ眉作ハ城州(やましろ)北山にあり。むかし比丘尼(びくに)たち住み(すミ)て手業(てわざ)に眉(まゆ)はきを作(つく)られしと云々。▲然(しか)れども當寺ハ仁和四年光孝天皇(くはうかうてんくはう)の勅願寺(ちよくぐはんじ)にして高野山を兼帶(けんたい)し諸僧(しよそう)の長(ちやう)たり。比丘尼(ひくに)の住持(ぢうじ)ありしこと、いまだ聞(き)かず。後考あるべしと關牛(くハんぎう)翁いはれき。〔二十三ウ八〜二四オ二〕
仁和寺(にんわじ)の眉作(まゆつくり)▲仁和寺ノ眉作ハ城州(やましろ)北山にあり。むかし比丘尼(びくに)たち住み(すミ)て手業(てわざ)に眉(まゆ)はきを作(つく)られしと云々。▲然(しか)れども當寺ハ仁和四年光孝天皇(くわうかうてんわう)の勅願寺(ちよくぐわんじ)にして高野山を兼帶(けんたい)し諸僧(しよそう)の長(ちやう)たり。比丘尼(びくに)の住持(ぢゆうぢ)ありしこと、いまだ聞(き)かず。後考あるべしと關牛翁(くハんきうおう)いはれき。〔四十二オ六〕
とあって、標記語「仁和寺ノ眉作」の語注記は「城州北山にあり。むかし比丘尼たち住みて手業に眉はきを作られしと云々。▲然れども當寺は、仁和四年光孝天皇の勅願寺にして高野山を兼帶し、諸僧の長たり。比丘尼の住持ありしこと、いまだ聞かず。後考あるべしと關牛翁いはれき」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「仁和寺」の語は未収載にある。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「仁和寺ノ眉作」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は「にんわじのまゆづくり」の語を見出し語とする標記語は未収載にする。江戸時代の『庭訓徃来』の注釈書に、その名前の由来が示されているのである。
[ことばの実際]「眉作」
2001年11月19日(月)薄晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「城殿扇(キデンのあふぎ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「阿」部に、
扇(アウギ)。〔元亀本264三〕
扇(アヲギ)以扇。〔静嘉堂本301四〕
とあって、標記語「扇」を収載し、読みは「あうぎ」「あをぎ」とし、その語注記は静嘉堂本に「以扇」とある。また、標記語「城殿」は、未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「城殿扇」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「城-殿扇」〔山田俊雄藏本〕
「城殿(キドノ)ノ扇(アフギ)」〔経覺筆本〕
「城殿(キトノ)ノ扇(ハウキ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「城殿扇」の語は
扇(アフギ)本朝ノ之初メ無シ∨扇キ。見テ‖蝙蝠(コウムリ)ノ之羽ヲ|学フ∨之ニ。故ニ扇ノ形チ相似タリ‖蝙蝠ノ羽ニ|。又タ商ノ代ニハ雉尾扇(チビセン)。周ノ代ニハ鵲翅(シヤクシ)扇也。〔器財109七〕
とあって、標記語「扇」で、その語注記は「本朝の初め扇無し。蝙蝠の羽を見てこれに学ぶ。故に、扇の形ち蝙蝠の羽に相似たり。また商の代には、雉尾扇。周の代には鵲翅扇なり」という。また、標記語「城殿」は、未収載にある。次に、広本『節用集』は、
扇(アホギ/せン,アホグ)[平]楊雄法言ニ扇自∨開而東ニシ謂‖之湲ト|自∨開南西ニハ謂‖之ヲ扇ト。四聲字苑ニ所‖_以取|∨風也。又作∨扇。一名湲音ハ接。作ル∨湟。異名輕湲(せフ)枕。白羽同。蒲葵。仁風。團霜。雪蕉。九花。合歓扇。桃花扇。鳳尾扇。同心扇。白團。蝉餓扇。素蜍。輕羅。京霜。五明對。雪懷。風裁。瞿尾児。瞿羽。班詩。犀牛。雉尾。條融。仄影。龍枝。青羅扇誠。鵲翅同。懷風。裁雪。五薄。白綺。蜂翼。比翼。招凉。同舎。〔器財門749五〕
とあって、標記語標記語「扇」の語注記は、「楊雄法言ニ扇自∨開而東ニシ謂‖之湲ト|自∨開南西ニハ謂‖之ヲ扇ト。四聲字苑ニ所‖_以取|∨風也。又作∨扇。一名湲音ハ接。作ル∨湟」とし、その後に異名語群を添える。また、標記語「城殿」の語は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
扇子(アフギ)。〔弘・財宝204一〕
扇(アフギ)本朝初ハ無∨―。見テ‖蝙蝠ノ羽ヲ|斈也。故扇ノ形相‖_似蝙蝠ノ羽ニ|也。又云商ノ代ニハ雉尾扇。周ノ代ニハ鵲翅扇。〔永・財宝169六〕
扇(アフギ)本朝初ハ無∨―。見テ‖蝙蝠羽|斈∨之。故扇ノ形相‖似蝙蝠羽|也。又商代ニハ雉尾扇。周代鵲翅扇。〔尭・財宝159一〕
とあって、標記語「扇」の語注記は『下學集』に従うものである。また、標記語「城殿」の語は未収載にある。そして、易林本『節用集』には、
扇(アフギ) 五明(メイ)。雉尾(チビ)。以上異名。〔器財171七〕
とあって、標記語「扇」として収載し、その語注記は「五明(メイ)。雉尾(チビ)。以上異名」とある。また、人名と推する「城殿」については未収載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「城殿扇」の語は、
扇 雉尾。五明/アフキ/或戦反。又乍狄。〔黒川本・雑物下27オ一〕
扇 周武王作之/アフギ。亦乍狄舜作五明―/右軍作六角竹扇趙飛略。〔卷七・雑物308四〕
とあって、標記語を三卷本は、「扇」の語注記は「雉尾。五明/アフキ/或戦反。又乍狄」という。十巻本は、「周武王作之/アフギ。亦乍狄舜作五明―/右軍作六角竹扇趙飛略」とあって、その注記は異なるものである。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
257小柴ノ黛・城(キ)殿ノ扇 扇ハ日本巧也。唐ノ扇圓也。骨ヲ為‖十二表‖十二月|。自‖日本|始渡∨唐ヘ。其ノ返ニ差笠渡也。文選ニ曰、班〓〔女+捷〕、カ詩ニ曰、新ニ裂‖齊ノ?〓〔糸+丸〕素|皎潔トシテ如‖霜雪ノ|。栽シテ為‖合歓扇|團々トシテ似‖明月ノ|。扇ハ日本ニハ見‖蝙蝠ノ羽ヲ|学∨之。故ニ形相似‖蝙蝠|。又五明ハ舜之作也云々。〔謙堂文庫藏二八左G〕
とあって、標記語「城殿ノ扇」の語注記は、未記載にあり、普通の「扇」の語注記となっている。古版『庭訓徃来註』では、
城殿ノ扇(キドノヽアフギ)ト云事都(ミヤコ)ニ城殿(キドノ)ト云人アリ。十一年ニ入唐(カラ)シテ其後漢國(カンコク)ヨリ扇(アフギ)ヲ見習ヒテ折也。凡(ヲヨソ)扇ト云事大唐ニ班謦蕘(ハンセウヨ)ト云女房仕出シタリ。彼(カノ)班女ガ扇ハ病(ヤマイ)有者ヲアヲゲバ。忽(タチマチ)ニ平癒(ヘイユ)シ。老タル者ハ若(ワカ)キニカヘルト云ヘリ。後漢書(ゴカン―)ニ云ク班姫(ハンセフ)扇(アフギ)ヲ裁(タツ)テ猶應誇尚ト云リ。班女(ハンニョ)ガ閨(ネヤ)ノ中ニハ。秋ノアフギノ色(イロ)トモ云リ。扇ノ興(ヲコ)リ是也。蝙蝠(カウモリ)ノ羽(ハ)ヲ以テ仕(シ)出シタル事ナリ。〔下三ウ三〕
とあって、この標記語「城殿扇」の語注記は、「都に城殿と云ふ人あり。十一年に入唐して、其後、漢國より扇を見習ひて折るなり。凡そ扇と云ふ事、大唐に班謦蕘と云ふ女房仕出したり。彼の班女が扇は病ひ有る者をあをげば。忽ちに平癒し。老たる者は若きにかへると云へり。後漢書に云く、班姫扇を裁つて、猶應誇尚と云へり。班女が閨の中には。秋のあふぎの色とも云へり。扇の興り是れなり。蝙蝠の羽を以って仕出したる事なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
城殿(きどの)ノ扇(あふき)/城殿ノ扇上京長者町に有。檜扇(ひあふき)なるへし。〔二十八ウ一・二〕
とし、標記語「城殿扇」に対する語注記は、「上京長者町に有り。檜扇なるべし」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
城殿(きどの)の扇(あふぎ)/城殿ノ扇▲城殿ハ家(いへ)の名(な)今も上京(かミきやう)長者町(ちやうじや―)にあり。檜扇師(ひあふぎし)とぞ。〔二十三ウ八〕
城殿(きどの)の扇(あふぎ)▲城殿ハ家(いへ)の名(な)今も上京(かミきやう)長者町(ちやうじや―)にあり。檜扇師(ひあふぎし)とぞ。〔四十二オ六〕
とあって、標記語「城殿扇」の語注記は「城殿は、家の名今も上京長者町にあり。檜扇師とぞ」という。
当代の『日葡辞書』には、
Vo<gui.アフギ(扇) 扇子。.〔邦訳704l〕
とあって、「扇」の語として収載し、「扇子」としている。「城殿」という人名を冠にした「城殿扇」の語は見えない。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「城殿扇」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は「きどののおうぎ」の語を見出し語とする標記語は未収載にする。江戸時代の『庭訓徃来』の注釈書に、その名前の由来が示されているのである。
[ことばの実際]史料にみる扇屋 《『蜷川親元日記』》
2001年11月18日(日)薄晴れ。東京(八王子)⇒御茶ノ水・駿台史学会
「小柴黛(こしばのまゆずみ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「滿」部に、
黛(マユズミ)。〔元亀本210一〕〔静嘉堂本239五〕〔天正十七年本中49オ一〕
とあって、標記語「黛」を収載し、読みは「まゆずみ」とし、その語注記は未記載にある。また、標記語「小柴」は、未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「小柴黛」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「小_柴黛」〔山田俊雄藏本〕
「小柴(コシバ)ノ黛(マユズミ)」〔経覺筆本〕
「小_柴(シハ)ノ黛(マイスミ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「小柴黛」の語は
黛(マユズミ)。〔彩色136七〕
とあって、語注記は未記載にする。また、標記語「小柴」は、未収載にある。次に、広本『節用集』は、
黛(マユズミ/タイ)[入]。〔光彩門570四〕
とあって、標記語標記語「黛」の語注記は、未記載にする。また、標記語「小柴」の語は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
黛(マユスミ)。〔弘・財宝169八〕〔永・財宝139六〕〔尭・財宝129一〕
とあって、標記語「黛」の語注記は未記載にする。また、標記語「小柴」の語は未収載にある。そして、易林本『節用集』には、
黛(マユスミ)。〔支躰141五〕
とあって、標記語「黛」として収載し、その語注記は未記載にある。また、地名と推する「小柴」については未収載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「小柴黛」の語は、
黛(タイ)マユスミ。云代。盡ク∨眉ニ黒_也。〔黒川本・雑物中92オ七〕
黛マユスミ。亦乍〓〔月+寮-黒〕。盡眉墨。〔卷六・雑物575四〕
とあって、標記語を三卷本と十巻本は、「黛」の語注記は「眉に盡く黒[墨]なり」という。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
257小柴ノ黛・城(キ)殿ノ扇 扇ハ日本巧也。唐ノ扇圓也。骨ヲ為‖十二表‖十二月|。自‖日本|始渡∨唐ヘ。其ノ返ニ差笠渡也。文選ニ曰、班〓〔女+捷〕、カ詩ニ曰、新ニ裂‖齊ノ?〓〔糸+丸〕素|皎潔トシテ如‖霜雪ノ|。栽シテ為‖合歓扇|團々トシテ似‖明月ノ|。扇ハ日本ニハ見‖蝙蝠ノ羽ヲ|学∨之。故ニ形相似‖蝙蝠|。又五明ハ舜之作也云々。〔謙堂文庫藏二八左G〕
とあって、標記語「小柴ノ黛」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
小柴ノ黛(コシバノマユスミ)ハ都(ミヤコ)ニ小柴ト云処ニ有ルナレバ小柴ノ黛(マユズミ)ト云也。〔下三ウ三〕
とあって、この標記語「小柴黛」の語注記は、「都に小柴と云ふ処に有るなれば小柴の黛と云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
小柴黛(こしばのまゆずみ)城殿(きどの)ノ扇(あふき)/小柴ノ黛城殿ノ扇。〔二十八オ八〜ウ一〕
とし、標記語「小柴黛」に対する語注記は、未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
小柴黛(こしばのまゆずみ)/小柴ノ黛。▲小柴ハ都(ミやこ)乃地名(ちめい)といへどさだかならず。黛ハ眉(まゆ)を画(ゑか)く墨(すミ)也。〔二十三ウ八〕
小柴黛(こしばのまゆずミ)▲小柴ハ都(ミやこ)の地名(ちめい)といへどさだかならず。黛ハ眉(まゆ)を画(ゑか)く墨(すミ)也。〔四十二オ六〕
とあって、標記語「小柴黛」の語注記は「小柴は都の地名といへどさだかならず。黛は眉を画く墨なり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Mayuzumi.マユズミ(黛) 人工的な眉で,日本でインク[墨]を使って,ほんとうの眉の上に作り描くもの.〔邦訳391l〕
とあって、「黛」の語として収載し、「小柴」という地名を冠にした「小柴黛」の語は見えない。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「小柴黛」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は「こしばまゆずみ」の語を見出し語としては未収載にする。すでに、江戸時代の『庭訓徃来』の注釈書に、その名前が定かでないこととしていることからして、室町時代応仁の乱以降には、この語を冠語とする地域から産出する「黛」そのものが途絶えたことを意味しているのかもしれない。現代語では、「まゆずみ」の語は、「アイ・ブロウ」とし、括弧書きに「まゆずみ」とするものであるようだ。
[ことばの実際]
翠帳紅閨にかはれるは、土生の小屋の葦簾、薫爐の煙に異る蘆火燒く屋の賤きに附ても、女房達盡せぬもの思ひに、紅の涙塞敢ず、緑の黛亂つゝ、其人とも見え給はず。《『平家物語』卷第八・太宰府落》
2001年11月17日(土)薄晴れ。東京(八王子)⇒新宿(西新宿)語彙・辞書研究会
「奈良刀(ならかたな)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「奈」部に、
奈良(ナラ)。〔元亀本165三〕〔静嘉堂本183三〕〔天正十七年本中22オ六〕
刀(カタナ)。〔元亀本104八〕〔静嘉堂本131四〕〔天正十七年本上64ウ2〕
とあって、標記語「奈良」と「刀」とを個々に収載し、読みは「なら」と「かたな」とになり、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「奈良刀」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「奈_良刀」〔山田俊雄藏本〕
「奈良(ナラ)刀」〔経覺筆本〕
「奈_良(ナラ)刀」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「奈良」と「刀」の語は未収載にある。次に、広本『節用集』は、
奈良(ナラ/―リヤウ,ナンゾ、ヨシ)同(倭州)。或作∨櫟(ナラ)ト。見‖万葉ニ|。又云‖南都ト|。〔天地門432六〕
刀(カタナ/タウ)[平]釋名曰、刀ハ者到也。以∨斬ヲ至‖其所ニ|也。説文云、兵也。異名、呂虎。子労。千牛。梁五。嬖女。〔器財門270二〕
とあって、標記語を「奈良」の語注記は「倭州。或櫟と作す。万葉に見ゆ。又、南都と云ふ」という。また、標記語「刀」の語は、「釋名に曰く、刀は到なり。斬をもって其所に至るなり。説文に云く、兵なり。異名は、呂虎。子労。千牛。梁五。嬖女」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
奈良(ナラ)和。〔弘・天地136三〕
奈良(ナラ)南都(ナント)。〔永・天地109二〕〔尭・天地99七〕〔両・天地121五〕
刀(カタナ)。〔弘・財宝84一〕
とあって、標記語「奈良」の語注記は弘治二年本が「和州」、他三本が「南都」とする。次に標記語「刀」の語は、語注記を未記載にする。そして、易林本『節用集』には、
奈良(ナラ)。〔乾坤109二〕 刀(カタナ)。〔器財77二〕
とあって、標記語を「奈良」と「刀」として収載し、その語注記は未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「奈良刀」の語は、
刀()カタナ。〔黒川本・雑物〕
刀()カタナ。〔卷四・雑物〕
とあって、標記語を三卷本と十巻本は、「刀」としてその語注記は未記載とする。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
256嵯峨土器(カハラケ)・奈良刀・高野剃刀・大原薪・小野ノ炭 羊閼焼∨炭ヲ始也。爰ニ有‖雑談|。内裡女房筑紫ニ下リ小貮殿ヘ奉公ス。有時彼女房以∨箸ヲ炭ヲ置。小貮殿ノ曰、何ソ以∨箸置乎問給ヘハ女房ノ曰、爰ニ哥アリ、何トシテ々ト焼テン河内ナル横山炭ノ白ク成ン。〔謙堂文庫藏二八左E〕
△刀ハ鬼神大夫刀工{不審也}也。始メ云紀ノ氏名乘ハ行幸新大夫刀ヲ作ル時、鬼神出テ來テ助鎚打故云‖鬼神大夫ト|也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古寫冠頭書き込み〕大津六条嵯峨大原薪北野仁和寺等京之内也。〔同上注記書き込み〕
とあって、標記語「奈良刀」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
奈良刀(ナラカタナ)ハ奈良ノテンガイニ。文殊四郎ト云鍛冶(カヂ)アリ。般若寺(ハンニヤジ)ノ文殊ノ剣(ケン)ヲウチテ奇特(キトク)ヲ顕(アラハ)スカヂナリ。殊(コト)ニ刀(カタナ)小刀上手(シヤウズ)ナリ。然(シカ)ル間ダナラ刀ト云ナリ。〔下三ウ一〕
とあって、この標記語「奈良刀」の語注記は、「奈良のてんがいに。文殊四郎と云ふ鍛冶あり。般若寺の文殊の剣をうちて奇特を顕はすかぢなり。殊に刀、小刀上手なり。然る間だ、なら刀と云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
奈良刀(ならかたな)/奈良刀。〔二十八オ八〜ウ一〕
とし、標記語「奈良刀」に対する語注記は、未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
奈良刀(ならかたな)/奈良刀▲奈良刀ハ。〔二十三ウ一・二〕
奈良刀(ならかたな)▲奈良刀ハ。〔四十一ウ二・三〕
とあって、標記語「奈良刀」の語注記は「奈良刀は、「」という。
当代の『日葡辞書』には、
Catana.カタナ(刀) 日本の剣.§〔邦訳107r〕
とあって、「刀」の語として収載し、「奈良」という地名を冠にした「奈良刀」の語は見えない。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「奈良刀」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版には、この語は「ならがたな」の見出し語として収載する。また、三省堂『時代別国語辞典』―室町時代編―には、見出し語を「ならかたな」としてこの語を収載する。
[ことばの実際]
御物まいりの御下かうとて、御宮げにならかたなまいらせらるゝ。《『お湯殿日記』延徳二年四月十三日》
2001年11月16日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「大原薪(おおはらたきぎ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、
薪(タキヾ)。〔元亀本147一〕
薪(タキヽ)。〔静嘉堂本158五〕〔天正十七年本中11ウ四〕
とあって、標記語「薪」を収載し、読みは「たきぎ」と「たきき」に分れる。その語注記は未記載にある。また標記語「大原」の語は、未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「大原薪」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「大_原ノ薪」〔山田俊雄藏本〕
「大原(ヲハラ)ノ薪(タキヾ)」〔経覺筆本〕
「大_原(ヲハラ)ノ薪(タキ/\)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「大原」と「薪」の語は未収載にある。次に、広本『節用集』は、
薪(タキヾ/シン)。〔草木門333一〕
とあって、標記語を「薪」とその語注記は未記載にある。また、標記語「大原」の語は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
薪(タキヽ)。〔弘・草木98五〕〔永・草木91四〕〔尭・〕〔両・99八〕
とあって、標記語「薪」は、いずれもその語注記を未記載にする。そして、易林本『節用集』には、
薪(タキヽ)。〔草木90五〕
とあって、標記語を「薪」とし、その語注記は未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「大原薪」の語は、
薪(シン)タキ〃。〔黒川本・雑物中5オ八〕
薪タキヽ。樵。痰已上同。〔卷四・雑物410二〕
とあって、標記語を三卷本と十巻本は、「薪」としてその語注記は未記載とする。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
256嵯峨土器(カハラケ)・奈良刀・高野剃刀・大原薪・小野ノ炭 羊閼焼∨炭ヲ始也。爰ニ有‖雑談|。内裡女房筑紫ニ下リ小貮殿ヘ奉公ス。有時彼女房以∨箸ヲ炭ヲ置。小貮殿ノ曰、何ソ以∨箸置乎問給ヘハ女房ノ曰、爰ニ哥アリ、何トシテ々ト焼テン河内ナル横山炭ノ白ク成ン。〔謙堂文庫藏二八左E〕
とあって、標記語「大原薪」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
大原薪(ヲホハラノタキヽ)大原ヨリ出ルフスベ木(キ)是也。〔下三ウ二〕
とあって、この標記語「大原薪」の語注記は、「大原より出づるふすべ木、是れなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大原(おほはら)の薪(たきゞ)/大原ノ薪・小野ノ炭丹波の小野ほそ川と云所よりやき出す。〔二十八オ八〜ウ一〕
とし、標記語「大原薪」に対する語注記は、未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大原(おほはら)の薪(たきゞ)/大原ノ薪▲大原ノ薪ハ文治(ふんぢ)元年平家(へいけ)滅亡(めつばう)の後(のち)、建礼門院(けんれいもんいん)此地(ち)寂光院(じやくくハういん)に閑居(かんきよ)し給ひしとき阿波(あハ)の内侍(ないし)など世(よ)のいとなミに黒木(くろき)を樵(こ)りて賣(う)られし名残(なごり)とかや。〔二十三ウ一・二〕
大原(おほはら)ノ薪(たきゞ)▲大原ノ薪ハ文治(ふんぢ)元年平家(へいけ)滅亡(めつばう)の後(のち)、建礼門院(けんれいもんゐん)此地(ち)寂光院(じやくくわうゐん)に閑居(かんきよ)し給ひしとき阿波(あハ)の内侍(ないし)など世(よ)のいとなミに黒木(くろき)を樵(こ)りて賣(う)られし名残(なこり)とかや。〔四十一ウ二・三〕
とあって、標記語「大原薪」の語注記は「大原薪は、文治(ふんぢ)元年平家(へいけ)滅亡(めつばう)の後(のち)、建礼門院(けんれいもんゐん)此地(ち)寂光院(じやくくわうゐん)に閑居(かんきよ)し給ひしとき阿波(あハ)の内侍(ないし)など世(よ)のいとなミに黒木(くろき)を樵(こ)りて賣(う)られし名残(なこり)とかや」という。
当代の『日葡辞書』には、
Taqigui.タキギ(薪) 薪.⇒Cube,uru;Firoi,o>;Vorisoye,ru.〔邦訳613r〕
とあって、「薪」の語として収載し、「大原」という地名を冠にした「大原薪」の語は見えない。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞「大原薪」を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版にも、この語は見出し語として未収載にある。
[ことばの実際]
道譽兼(カネ)テハ可參由領状(リヤウジヤウ)シタリケルガ、態(ワザ)ト引(キ)違(チガ)ヘテ、京中ノ道々ノ物ノ上手共、獨(ヒトリ)モ不殘皆引具(ヒキグ)シテ、大原野ノ花ノ本(モト)ニ宴(エン)ヲ設(マウ)ケ席ヲ妝(ヨソホウ)テ、世ニ無類遊(アソビ)ヲゾシタリケル。已(スデ)ニ其(ソノ)日ニ成(リ)シカバ、輕裘肥馬(ケイキウヒバ)ノ家ヲ伴(トモナ)ヒ、大原ヤ小鹽(ヲシホ)ノ山ニゾ趣(オモム)キケル。《『太平記』卷第三十九・諸大名讒道朝事付道譽大原野花會事》
「サラバ。」トテ城中(ジヤウチユウ)ニ大(オホキ)ナル穴ヲ二丈許(バカリ)掘(ホリ)テ、此間(コノアヒダ)堀ノ中(ナカ)ニ多ク討(ウタ)レテ臥(フシ)タル死人(シビト)ヲ二三十人穴ノ中(ナカ)ニ取入(トリイレ)テ、其(ソノ)上ニ炭(スミ)・薪(タキギ)ヲ積(ツン)デ雨風(アメカゼ)ノ吹洒(フキソソ)グ夜(ヨ)ヲゾ待(マチ)タリケル。《『太平記』卷第三・赤坂城軍事》
2001年11月15日(木)晴れ。東京(渋谷)⇒世田谷(駒沢)
「高野剃刀(カウヤかみそり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
高野(カウヤ)嵯峨弘仁丙申七月八日弘法四十六歳而立。至天文十六丁未七百三十二年也。〔元亀本91三〕
高野(―ヤ)嵯峨弘仁丙申七月八日弘法四十六歳而立。至天文十六季丁未七百三十二季也。〔静嘉堂本112五〕
高野(―ヤ)嵯峨弘仁丙申七月八日弘法四十六歳而立。至天文十六[丁]未七百卅二季也。四十九代光仁天皇宝亀五乙卯誕生也。其後弘仁丙申迄ハ四十三季也。{注記:花マデモ心アリケリ高野山ウキヨノ春ヲノガレテゾサク 高野ハ六月花サクナリ}〔天正十七年本上55ウ一〕
剃刀(カミソリ)。〔元亀本92二〕〔天正十七年本上56オ四〕
刺刀(カミソリ)。〔静嘉堂本114一〕
とあって、標記語「高野」と「剃刀」の二語にて収載し、「高野」の語注記は、「嵯峨弘仁丙申七月八日弘法四十六歳而立。至天文十六年丁未七百三十二年なり」までは三本共通であり、この後に天正十七年本は、「四十九代光仁天皇、宝亀五年乙卯誕生なり。其の後、弘仁丙申までは、四十三季なり」と補足注記が見え、かつ書込みに「花までも心ありけり高野山うきよの春をのがれてぞさく」という和歌が記され、その注記に「高野は、六月花さくなり」という。また、標記語「剃刀」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「高野剃刀」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「高-野剃_刀(カミソリ)」〔山田俊雄藏本〕
「高野剃刀(カウヤカミソリ)」〔経覺筆本〕
「高野剃刀(カウヤカミソリ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
刺刀(カミソリ)。〔器財110三〕
とあって、標記語「剃刀」の語でその語注記は未記載にある。次に、広本『節用集』は、
高野山(カウヤサン/タカシ,ノ,ヤマ) [平・平・平]同(紀州)。〔天地門253六〕
剃刀(カミソリ/テイタウ・ソル,カタナ)[去・平]。〔器財門268五〕
とあって、標記語を「高野山」と「剃刀」との二語にし、「高野山」の語注記は、「同(紀州)」とし、「剃刀」の語注記は、未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
高野(カウヤ)。〔弘・天地74五〕 剃刀(カミソリ/テイタウ)。〔弘・財宝83三〕
高野(カウヤ)。〔永・天地74二〕 剃刀(カミソリ)。〔永・財宝80三〕
高野山(カウヤサン)。〔尭・天地67二〕 剃刀(カミソリ)。〔尭・財宝73一〕
高野(カウヤ)。〔両・天地79七〕 剃刀(カミソリ)。〔両・財宝87四〕
とあって、標記語「高野」、尭空本だけが、広本『節用集』と同じ「高野山」としているが、いずれも語注記は未記載にあり、標記語「剃刀」の語注記も未記載にある。そして、易林本『節用集』には、
高野山(カウヤサン)紀州。〔乾坤68六〕 剃刀(カミソリ)。〔器財76五〕
とあって、標記語を「高野山」と「剃刀」の二語で示し、語注記は「高野山」に「紀州」としている。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「高野剃刀」の語は、
高野カウヤ。〔黒川本・諸寺上90ウ六〕
高野山弘仁七年建之。弘法大師御入定地也。号金剛峯寺是也。件處委注仍略之。〔卷三諸寺318三〕
剃刀カミソリ。〔黒川本・雑物上80ウ五〕〔卷三・雑物212五〕
とあって、標記語を三卷本は「高野」と十巻本は、「高野山」として語注記に「弘仁七年建之。弘法大師御入定地也。号金剛峯寺是也。件處委注仍略之」という。また、標記語「剃刀」の語注記未記載とする。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
256嵯峨土器(カハラケ)・奈良刀・高野剃刀・大原薪・小野ノ炭 羊閼焼∨炭ヲ始也。爰ニ有‖雑談|。内裡女房筑紫ニ下リ小貮殿ヘ奉公ス。有時彼女房以∨箸ヲ炭ヲ置。小貮殿ノ曰、何ソ以∨箸置乎問給ヘハ女房ノ曰、爰ニ哥アリ、何トシテ々ト焼テン河内ナル横山炭ノ白ク成ン。〔謙堂文庫藏二八左E〕
とあって、標記語「高野剃刀」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
高野剃刀(カウヤカミソリ)トハ。善ニハアラズ。諸人志(コヽロサ)シ有ニ随(シタカヒ)テ。高野ニテ髪(カミ)ヲソル也。然レバ頓(ヤカ)テカミソリヲモ買(カウ)也。用ユル処ヲ以テ高野ト云也。〔下二ウ一・二〕
とあって、この標記語「高野剃刀」の語注記は、「善ニハアラズ。諸人志し有るに随ひて。高野にて髪をそるなり。然れば、頓てかみそりをも買うなり。用ゆる処を以て高野と云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
高野剃刀(かうやかミそり)/高野剃刀かうやの山乃ふもとにあり。〔二十八オ六〕
とし、標記語「高野剃刀」に対する語注記は、「かうやの山乃ふもとにあり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
高野剃刀(かうやかミそり)/高野剃刀▲高野剃刀ハ紀州高野山乃麓(ふもと)にありとかや。〔二十三オ八〜ウ一〕
高野剃刀(かうやかミそり)▲高野剃刀ハ紀州高野山乃麓(ふもと)にありとかや。〔四十一ウ一〕
とあって、標記語「高野剃刀」の語注記は「高野剃刀は、紀州高野山の麓にありとかや」という。
当代の『日葡辞書』には、
Camisori.カミソリ(剃刀) 剃刀.⇒Ai,o<(合ひ,ふ);Auaxe,auasuru.〔邦訳85r〕
とあって、「剃刀」の語として収載し、「高野」を冠にした「高野剃刀」の語は見えない。いわば、『庭訓徃来』そして、その注釈本の系統だけが、この複合名詞を収載していることになる。そして、現代の国語辞書である小学館『日本国語大辞典』第二版にも、この語は見出し語として未収載にある。
[ことばの実際]
直義此(コレ)ヲ見テ、「始(ハジメ)ヨリコソ留(トドマ)ルベキニ、敵ヲ見テ引返スハ臆病ノ至(イタリ)也。アハレ大高ガ五尺六寸ヲ五尺切(キツ)テステ、剃刀(カミソリ)ニセヨカシ」ト欺(アザムカ)レケル。《『太平記』卷第十六・多々良濱合戰事付高駿河守引例事》
2001年11月14日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「筵(むしろ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「牟」部に、
筵(ムシロ)。〔元亀本177九〕
筵(ムシロ)。席(同)。〔静嘉堂本198五〕〔天正十七年本中28ウ七〕
とあって、標記語「筵」「席」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「烏丸烏帽子・室町伯樂・手嶋莚」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚」〔山田俊雄藏本〕
「烏丸ノ烏帽子(エボシ)・室町(ムロマチ)ノ伯樂(ハクロ)・手島(テシマ)ノ莚(ムシロ)」〔経覺筆本〕
「烏丸(カラスマル)ノ烏帽子(ヱボシ)・室町(ムロマチ)ノ伯樂(ハクラク)・手嶋(テジマ)莚(ムシロ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「莚[筵]」の語は未収載にある。次に、広本『節用集』は、
筵(ムシロ/ヱン)[平]。席(同/せキ)[入]。釋名云、席ハ釋也。可シ∨釋(ユク)也。毛詩曰、我心匪∨席ニ。不∨可∨巻也。廣曰、薦∨席又籍也。大戴礼ニ曰、周ノ武王践髏シテ有‖席銘|。亦姓ナリ。晋ノ席坦(タン)也。異名、冬設安樂心。敬茅藪碧蒲。六采年皮。桃友。耆睇。〔器財門461五〕
とあって、標記語を「筵」と「席」との二表記し、語注記は、「釋名に云く、席は釋なり。釋くべきなり。毛詩に曰く、我が心席に匪す。巻くべからざるなり。廣に曰く、席の薦また、籍なり。大戴礼に曰く、周の武王践髏して席銘にあり。また、姓なり。晋の席、坦なり」として、次に異名語群として、「冬設安樂心。敬茅藪碧蒲。六采年皮。桃友。耆睇」を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
席(ムシロ)。筵(同)。〔弘・言語進退146六〕
席(ムシロ)筵。〔永・財宝117七〕
席(ムシロ)。莚(同)。〔尭・財宝107五・六〕
席(ムシロ/せキ)筵(同/エン)。〔両・財宝130七〕
とあって、標記語「席」と「筵[莚]」と逆に排列表記し、その語注記は、未記載にある。そして、易林本『節用集』には、
筵(ムシロ)。席(同)。〔器財114七〕
とあって、標記語を「筵」と「席」の排列表記で示し、語注記は未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「莚」の語は、
莚(エン)ムシロ。竹席也。碧蒲。半月。席同。〔黒川本・雑物中44オ五〕
筵ムシロ。云延。龍鬢―今案/竹席/俗従サ非也。筵草名也。〔卷第五・雑物118四〕
とあって、三卷本は、語注記に「竹席なり」とし、別名「碧蒲」と「半月」を示す。十巻本は、語注記に「云く延。龍鬢筵今案ずるに/竹席/俗に従ひサは非ずなり。筵は草名なり」という。畳の普及とともに屋内での使用から屋外に限って使用するものへと移行していくのだが、その利用変遷状況は、古辞書からは、窺い知れない。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
とあって、標記語「莚」の語注記は、「莚は、九尺間の莚なり」という。古版『庭訓徃来註』では、
豊嶋(テシマ)莚(ムシロ)是ハ攝津(セツツ)ノ國ノ十徳也。多ク有也。藺(井)ヲ多ク作ル所(トコ)ロナリ。〔下二オ六・七〕
とあって、この標記語「莚」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
手島(てしま)莚(むしろ)/手島莚。〔二十八オ六〕
とし、標記語「手島莚」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
手島(てしま)筵(むしろ)/手嶋莚▲手_嶋_筵ハ攝州(つのくに)十徳(とく)の一ツ也とぞ。〔二十三オ七〕
手嶋(てしま)莚(むしろ)▲手_嶋_筵ハ攝州(つのくに)十徳(とく)の一ツ也とぞ。〔四十一ウ一〕
とあって、標記語「手嶋莚[筵]」の語注記は「手_嶋_筵は、攝州十徳の一つなりとぞ」という。
当代の『日葡辞書』には、
Muxiro.ムシロ(筵) 筵.§Muxirouo vtcu.(筵を打つ)筵を作る.§Muxirouo xiqu.(筵を敷く)地面に筵を広げる.§Muxironi tcuqu.(筵に就く)寝床に臥す.〔邦訳437l〕
とある。
[ことばの実際]
悲歎(ヒタン)ノ思(オモヒ)胸ニ滿(ミチ)テ、生産(ウブヤ)ノ筵(ムシロ)未乾、中院(ナカノヰンノ)中將定平(サダヒラ)ノ許(モト)ヨリ、以使、「御産(ゴサン)ノ事ニ付(ツイ)テ、内裡(ダイリ)ヨリ被尋仰事候。モシ若君ニテモ御渡(ワタリ)候ハヾ、御乳母(メノト)ニ懷(イダ)カセテ、是(コレ)ヘ先(マヅ)入進(イレマヰラセ)ラレ候ヘ。」ト被仰ケレバ、母上(ハハウヘ)、「アナ心憂(ウ)ヤ、故(コ)大納言ノ公達(キンダチ)ヲバ、腹ノ中(ナカ)マデモ開(アケ)テ可被御覧聞(キコ)ヘシカバ、若君(ワカギミ)出來(イデキ)サセ給(タマヒ)ヌト漏聞(モレキコ)ヘケルニコソ有(アリ)ケレ。《『太平記』卷第十三・北山殿謀叛事》
2001年11月13日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「烏丸・室町・手嶋(からすまる・むろまち・てしま)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」「牟」「天」部に、
烏丸(カラスマル)京小路。〔元亀本97八〕〔静嘉堂本122二〕
烏丸(カラス―)京小路。〔天正十七年本上60オ三〕
室町(ムロマチ)京。〔元亀本176四〕〔静嘉堂本197一〕〔天正十七年本中28オ四〕
とあって、標記語「烏丸」「室町」の二語があり、その語注記は「烏丸」の語に「京小路」とあり、「室町」には「京」と語注記が見える。そして、「手嶋」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「烏丸烏帽子・室町伯樂・手嶋莚」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚」〔山田俊雄藏本〕
「烏丸ノ烏帽子(エボシ)・室町(ムロマチ)ノ伯樂(ハクロ)・手島(テシマ)ノ莚(ムシロ)」〔経覺筆本〕
「烏丸(カラスマル)ノ烏帽子(ヱボシ)・室町(ムロマチ)ノ伯樂(ハクラク)・手嶋(テジマ)莚(ムシロ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
烏丸(カラスマロ)。〔京竪門26五〕
室町(ムロマチ)。〔京竪門26五〕
とあって、京竪門にこの語を収載する。語注記は未記載にある。そして、「手嶋」の語は未収載にする。次に、広本『節用集』は、
烏丸(――)東ノ洞院。〔洛中竪小路1151二〕
室町(ムロ―)。〔洛中竪小路1151二〕
とあって、標記語を「烏丸」「室町」と表記し、語注記は未記載にある。「手嶋」の語は未収載にする。「てしま」という語では、攝津の国として「豊嶋」が見えている。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
烏丸(カラスマル)。〔弘・東西竪十八町282八〕〔永・東西竪十八町266七〕〔尭・東西竪十八町237八〕
室町(ムロマチ)。〔弘・東西竪十八町282八〕〔永・東西竪十八町266七〕〔尭・東西竪十八町237八〕
とあって、標記語を広本『節用集』と同じく「烏丸」「室町」とし、さらに、標記語「手嶋」は、未収載であり、「豊嶋」〔弘・287七〕〔尭・231五〕の標記語で、広本『節用集』と同じく、攝津國の語注記として見えている。そして、易林本『節用集』には、上記の三語は未収載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「烏丸」「室町」「手嶋」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
△烏帽子ハ大唐ニハ絹ヲ以テ作也。頭黒キ故烏ヲ用也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫冠頭書き込み〕
とあって、標記語「烏丸」「室町」の語注記は、未収載にある。標記語「手嶋」は、「丹後攝州に在り」とある。古版『庭訓徃来註』では、
烏丸(カラスマル)ノ烏帽子(ヱホシ)前ニ注ス。室町(ムロマチ)ノ伯樂(ハクラク)是モ前ニ注ス。豊嶋(テシマ)莚(ムシロ)是ハ攝津(セツツ)ノ國ノ十徳也。多ク有也。藺(井)ヲ多ク作ル所(トコ)ロナリ。〔下二オ六・七〕
とあって、この標記語「烏丸」と「室町」の語注記は、「前に注す」とし、これは卯月五日の状を指している。さらに、「手嶋」の語は「豊嶋」で表記し、その語注記は、「是は、攝津の國の十徳なり。多く有るなり。藺を多く作る所ろなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
烏丸(からすまる)の烏帽子(ゑほうし)。室町(むろまち)の伯樂(はくらく)/烏丸ノ烏帽子唐より烏實(ゑしつ)と云者渡りて帽子を作れり。烏氏(ゑうぢ)の作り出せし帽子ゆへ烏帽子と云。今の烏丸ハ此人の住居したる□也。といふ。室町ノ伯樂馬の鈴乃事也。前の注等とは前なり。〔二十八オ四〕
とし、標記語「烏丸ノ烏帽子」に対する語注記は、「唐より烏實(ゑしつ)と云者渡りて帽子を作れり。烏氏(ゑうぢ)の作り出せし帽子ゆへ烏帽子と云。今の烏丸ハ此人の住居したる□也。といふ」という。標記語「室町ノ伯樂」に対する語注記は、「馬の鈴乃事なり。前の注等とは前なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
烏丸(からすまる)の烏帽子(ゑほうし)。室町(むろまち)の伯樂(はくらく)/烏丸ノ烏帽子室町ノ伯樂▲烏丸ハ洛陽也。昔(むかし)唐土(もろこし)の烏氏(うし)。此地(ち)に居(きよ)して烏帽子(ゑぼし)を作(つく)り出せし名残(なごり)とかや。▲室町ハ洛陽也。伯楽未考。▲但し進状(しんじやう)にいつる伯楽とハ異(こと)なるべし。〔二十三オ七〕
烏丸(からすまる)の烏帽子(ゑほうし)。室町(むろまち)の伯樂(はくらく)▲烏丸ハ洛陽也。昔(むかし)唐土(もろこし)の烏氏(うし)。此(この)地(ち)に居(きよ)して烏帽子(えぼし)を作(つく)り出せし名残(なごり)とかや。▲室町ハ洛陽也。伯楽未∨考。但し進状(しんじやう)にいづる伯楽とハ異(こと)なるや。〔四十一オ五〕
とあって、標記語「烏丸ノ烏帽子」「室町ノ伯樂」の語注記の前者は「烏丸は洛陽なり。昔、唐土の烏氏。此の地に居して烏帽子を作り出せし名残とかや」という。後者は「室町は洛陽なり。伯楽未だ考えず。但し進状にいづる伯楽とは、異なるべし[や]」という。
当代の『日葡辞書』には、未収載にする。
[ことばの実際]
2001年11月12日(月)小雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「大宮絹(おおみやのきぬ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」「記」部に、
大宮(―ミヤ)京。〔元亀本78二〕〔静嘉堂本95六〕〔天正十七年本上47ウ三〕
絹(キヌ)。〔元亀本287七〕〔静嘉堂本333三〕
とあって、標記語「大宮」「絹」の二語であり、その語注記は「大宮」の語に「京」とあり「絹」は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「大宮絹」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「大宮ノ絹」〔山田俊雄藏本〕
「大宮ノ絹」〔経覺筆本〕
「大宮(ヲホミヤ)ノ絹(キヌ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
大宮(ヲホミヤ)。〔京竪門26四〕
とあって、京竪門にこの二語を収載する。語注記は未記載にある。次に、広本『節用集』は、
大宮(ヲヽミヤ)。〔洛中竪小路1151一〕
とあって、標記語を「大宮」と表記し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
大宮(ヲウミヤ)。〔弘・東西竪十八町282六〕
大宮(ヲヽミヤ)。〔永・東西竪十八町266六〕
大宮(――)。〔尭・東西竪十八町237七〕
とあって、標記語を広本『節用集』と同じく「大宮」とし、その読みを「をうみや」「ををみや」と表記を異にするが示している。さらに、標記語「絹」は、
絹(キヌ)。〔弘・衣服220二〕〔永・衣服184二〕〔尭・衣服173七〕
とあって、語注記を未記載にする。そして、易林本『節用集』には、
絹(キヌ)迄同。〔食服187三〕
とあり、標記語「絹」を示し、語注記に別表記の「迄」の字を同じと示している。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「大宮ノ絹」の語は
迄(ケム) キヌ。桑孫/去椽反/驗帛反。〔黒川本・雑物下47ウ五〕
とあって、注記に別名「桑孫」をあげ、その反切音を「去椽反」と「驗帛反」で示す。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
とあって、標記語「大宮絹」の語注記は、未収載にある。古版『庭訓徃来註』では、
大宮(ヲホミヤ)ノ絹(キヌ)是モ都(ミヤコ)ノ名物ナリ。〔下初二オ六〕
とあって、この標記語「大宮ノ絹」の語注記は、「是も、都の名物なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大宮(おほミや)の絹(きぬ)/大宮ノ絹。京の大宮より西を西陣と云。絹を織出す。〔二十八オ四〕
とし、標記語「大宮ノ絹」に対する語注記は、「京の大宮より西を西陣と云ふ。絹を織出す」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大宮(おほミや)の絹(きぬ)/大宮ノ絹▲大宮絹ハ洛陽西陣(にしぢん)乃織物(をりもの)也。〔二十三オ六〕
大宮(おほミや)の絹(きぬ)。▲大宮ノ絹ハ洛陽西陣(にしぢん)の織物(おりもの)也。〔四十一オ五〕
とあって、標記語「大宮ノ絹」の語注記は「大宮の絹は、洛陽西陣の織物なり」という。
当代の『日葡辞書』に、
Qinu.キヌ(絹) 薄い絹の織物.⇒Fari,u;Vori,ru.ka(織り、る).〔邦訳500l〕
標記語「絹」は、「薄い絹の織物」とある。
[ことばの実際]
2001年11月11日(日)晴れ。広島⇒東京(世田谷駒沢)
「宇治布(うぢぬの)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」部に、
宇治(ウヂ)。〔元亀本179十〕
宇治(ウジ)。〔静嘉堂本201三〕
宇治(ウチ)。〔天正十七年本中30オ二〕
布(ヌノ)。〔元亀本75八〕〔静嘉堂本92一〕〔天正十七年本上46オ一〕
とあって、標記語は「宇治」と「布」であり、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「宇治布」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「宇治ノ布」〔山田俊雄藏本〕
「宇治ノ布」〔経覺筆本〕
「宇治(ウヂ)ノ布(ヌノ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、この標記語を未収載にする。次に、広本『節用集』は、
宇治(ウヂ/ノキ・ヲホゾラ,ヲサム)[上・平]城州郡ノ名。茶ノ名所也。〔天地門467四〕
布(ヌノ)布ハ帛又陳也。用札ニ銭也。行(ヲコナウ)∨之。曰∨布ト蔵ヲ∨之曰∨泉。四聲字苑云繊麻及紆ヲ為(ツクル)∨帛ニ。詳ニ見‖錦注ニ|也。〔絹布門201八〕
とあって、標記語を「宇治」と表記し、語注記に「城州郡の名。茶の名所なり」という。また、標記語「布」の語注記は、「布は帛又陳なり。用札に銭なり。これを行なう。布と曰ひ、これを蔵と泉に曰ふ。『四聲字苑』に云く、繊麻及び紆を帛に為る。詳らかに錦の注に見ゆなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
宇治(ウヂ)山城。〔弘・天地147六〕
宇治(ウジ)。〔永・天地119四〕
宇治(ウヂ)。〔尭・天地109一〕
とあって、弘治二年本だけは、標記語を広本『節用集』と同じく語注記に「山城」とし示している。そして、易林本『節用集』には、
宇治(ウチ)。〔乾坤116一〕
布(ヌノ)。〔食服59三〕
とあり、標記語「宇治」と「布」で示し、語注記は未記載にしている。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「宇治布」の語は、
宇治ウチ。国史乍兎道。〔黒川本・國郡中54ウ四〕
布(ホ) ヌノ。黄洞。〔黒川本・上62オ五〕
とあって、標記語「宇治」と「布」の二語で示し、「宇治」の語注記は「国史乍兎道」とし、「布」は「黄洞」という。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮・絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
とあって、標記語「宇治布」の語注記は、未収載にある。古版『庭訓徃来註』では、
宇治布(ウヂヌノ)ノ事山城(シロ)ノ十徳ノ内也。縦ヘバマキノ島(シマ)ヨリ曝(サラ)スナリ。宇治川立瀬(せ)ニ。ク井ヲ打テ布ヲ懸テサラスト云。〔下初二オ五〕
とあって、この標記語「宇治布」の語注記は、「山城の十徳の内なり。縦へば、まきの島より曝すなり。宇治川立瀬に。くゐを打ちて布を懸けてさらすと云ふ」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
宇治(うち)の布(ぬの)/宇治ノ布。宇治のまき嶋にてさらす布也。〔二十八オ二・三〕
とし、標記語「宇治布」に対する語注記は、「宇治のまき嶋にてさらす布なり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
宇治(うち)の布(ぬの)/宇治ノ布▲宇治ノ布是も山城十徳の内(うち)也。槙(まき)の嶋(しま)にてさらす。〔二十三オ六〕
宇治(うち)の布(ぬの)▲宇治ノ布是(これ)も山城十徳の内(うち)也。槙(まき)の嶋(しま)にてさらす。〔四十一オ五〕
とあって、標記語「宇治布」の語注記は「宇治の布是れも山城十徳の内なり。槙の嶋にてさらす」という。
当代の『日葡辞書』に、
Nuno.ヌノ(布) 麻で作った布.〔邦訳476l〕
標記語「宇治布」は、「麻で作った布」とある。
[ことばの実際]
コレハ一定ノ説ハ知ネドモ、滿仲ガ末孫ニ多田藏人行綱ト云シ者ヲ召テ、「用意シテ候ヘ」トテ白シルシノ料ニ、宇治布三十段タビタリケルヲ持テ、平相國ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、攝津國ノ福原ト云所ニ常ニハアリケル。《『愚管抄』卷第五》
2001年11月10日(土)晴れ。広島⇒北広島〔広島大学〕
「猪熊の紺(いのくまのこん)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」「古」部に、
猪熊(イノクマ)京之小河。〔元亀本13七〕
猪熊(イノクマ)京之小路。〔静嘉堂本6三〕〔天正十七年本上5ウ一〕
紺(コウ)染物。〔元亀本241六〕
紺(コン)染物。〔静嘉堂本278六〕
とあって、標記語「猪熊」語注記は「京之小路」といい、標記語「紺」は、読みを「こう」と「こん」として、「染物」という。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「猪熊紺」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「猪熊ノ紺」〔山田俊雄藏本〕
「猪熊ノ紺」〔経覺筆本〕
「猪熊(井ノクマ)ノ紺(コン)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
猪熊(井ノクマ)。〔京竪門26四〕
とあって、京竪門にこの語を収載する。語注記は未記載にある。次に、広本『節用集』は、
猪熊(イノ―)。〔洛中竪小路1151二〕
とあって、標記語を「猪熊」と表記し、語注記は未記載にあり、また、標記語「紺」は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
猪熊(イノクマ)。〔弘・東西竪十八町282七〕〔永・東西竪十八町266六〕〔尭・東西竪十八町237七〕
とあって、三本に標記語を広本『節用集』と同じく「猪熊」と表記し、東西竪十八町に収載している。逆に「紺」の標記語は、未収載にある。そして、易林本『節用集』には、標記語「猪熊」「紺」の二語を未収載にしている。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「猪熊ノ紺」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮・絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
とあって、標記語「猪熊ノ紺」の語注記は、未収載にある。古版『庭訓徃来註』では、
猪熊紺(井ノクマノコン)ハ都(ミヤコ)ノ名物(メイブツ)ナリ。北(キタ)ノ物ナシト云事是也。紅(クレナヒ)ヲサスナリ。北物ト云ニ一説(せツ)アリ。織物板(ヲリ―イタ)ノ物舊(フルビ)タルヲ張拵(ハリコシラ)ヘテ。国裏(クニウラ)ヲ属(ツク)ル也。綿(ワタ)ヲ多ク今夜(ヨ)ルノ物トテ。夜著(ヨキ)ニスルナリ。又ヒヱナド共云也。然(シカ)ルニ彼(カ)ノヨギヲ北(キタ)ノ物ト云事ハ裏(ウラ)ニ越後(エチコ)ヲスルニ依テ北(キタ)ノ物ト云也。又ヲヒヱト云事モ。冬ハ北ヨリ來ル物也。越後ノ國則チ北ナリ。此縁ヲ取テ云ナリ。惣シテ国裏(―ニウラ)ト云ハ。越後ヨリ外ニツクベカラス。絹裏(キヌウラ)ノ外ヲハ。只(タヽ)裏布(ウラヌノ)ノウラナンドヽ云也。又何(イヅ)クノ国ニモ布(ヌノ)ハ有ニ依テ。クニ裏(ウラ)ト云カ。悉(コト/\)ク公家(クケ)ヨリ出ル詞(コトバ)ナリ。布子(ヌノコ)ヲバ綿(ワタ)入ト云ナリ。是ハヲヒヘト云義チガフナリ。〔下初二オ二〜五〕
とあって、この標記語「猪熊ノ紺」の語注記は、「都の名物なり。北の物なしと云ふ事是れなり。紅をさすなり。北物と云ふに一説あり。織物板の物舊びたるを張り拵へて。国裏を属るなり。綿を多く、今夜るの物とて。夜著にするなり。また、ひゑなど共云ふなり。然るに彼のよぎを北の物と云ふ事は、裏に越後をするに依りて、北の物と云ふなり。また、をひゑと云ふ事も。冬は北より來る物なり。越後の國、則ち北なり。此の縁を取りて云ふなり。惣じて国裏と云ふは。越後より外につくべからず。絹裏の外をば。只、裏布のうらなんどと云ふなり。また、何くの国にも布は有るに依りて。くに裏と云ふが、。悉く公家より出る詞なり。布子をば綿入と云ふなり。是は、をひへと云ふ義ちがふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
猪熊(ゐのくま)乃紺(こん)/猪熊ノ紺。〔二十八オ三〕
とし、標記語「猪熊ノ紺」に対する語注記は、未収載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
猪熊(ゐのくま)乃紺(こん)/猪熊ノ紺▲猪熊ハ洛陽の西。〔二十三オ五・六〕
猪熊(ゐのくま)の紺(こん)▲猪熊ハ洛陽の西。〔四十一オ四・五〕
とあって、標記語「猪熊ノ紺」の語注記は「猪熊は、洛陽の西」という。
当代の『日葡辞書』に、
Con.コン(紺) Coi asagui.(濃い浅黄)黒ずんだ藍色、または、その藍色に染める染料.例,Coni,l,conno ironi somuru.(紺に,または,紺の色に染むる)この色,すなわち,濃い藍色に染める.〔邦訳145r〕
標記語「紺」は、「黒ずんだ藍色、または、その藍色に染める染料」とある。
[ことばの実際]
一塩小路猪熊敷地寄進状以下七通《『大徳寺文書』貞和五年十一月廿七日、122・ 1/74》
2001年11月9日(金)晴れ。広島⇒北広島〔広島大学〕
「六条の染物(ロクデフのそめもの)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「路」部に、
六条(―デウ)同(下京小路)。〔元亀本23四〕〔静嘉堂本20六〕
六条(――)同(下京小路)。〔天正十七年本上11オ七〕
とあって、標記語「六条」語注記は「下京小路」で、標記語「染物」は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「六條染物」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「六條ノ染物」〔山田俊雄藏本〕
「六條ノ染物」〔経覺筆本〕
「六條(ロクデフ)ノ染物(ソメモノ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
六条(――)。〔京師門25六〕
とあって、標記語「六条」の語を京師門に収載する。語注記は未記載にある。また、「染物」の語は未収載にする。次に、広本『節用集』は、
六條(ロクテウ/リク・ムツ,ヱダ)[入・平]。〔飲食門44八〕
とあって、標記語を「六條」と表記し、飲食門に収載されている。語注記は未記載にある。『下學集』と同じく、標記語「染物」の語は未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
六条(ロクテウ)自‖六条ノ道場|初テ出故号――。〔弘・飲食16一〕
とあって、弘治二年本だけに、標記語を広本『節用集』と同じく「六条」と表記し、語注記に「六条の道場より初めて出す故に六条と号す」という。そして、易林本『節用集』には、
染革(ソメガハ)―付。―物。〔器財100三〕
とあり、標記語「六条」は未収載にあり、「染物」の語は標記語を「染革」で、語注記に冠頭字「染」の熟語群二語にこの語を収載している。
すなわち、古辞書にあっては、『下學集』と広本『節用集』印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』とでは、その収載状況が異なりはじめているのである。そして『運歩色葉集』には、この語を『下學集』というよりはむしろ、『庭訓徃来註』をもとに採録しているのである。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「六条ノ染物」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮・絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
△六条ヨリ室町ニテ京ノ町小路也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫冠頭書き込み〕
とあって、標記語「六條ノ染物」の語注記は、未収載にある。古版『庭訓徃来註』では、
六條ノ染物(ソメモノ)是アリ。〔下初二オ一〕
とあって、この標記語「六條ノ染物」の語注記は、「是あり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
六条(ろくでう)の染物(そめもの)/六条ノ染物。〔二十八オ二・三〕
とし、標記語「六條ノ染物」に対する語注記は、未収載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
六條(ろくでう)の染物(そめもの)/六-條ノ染_物▲六條ハ洛陽(らくよう)の南(みなミ)。〔二十三オ六〕
六條(ろくでう)の染物(そめもの)。▲六條ハ洛陽(らくよう)の南(みなミ)。〔四十一オ四〕
とあって、標記語「六條ノ染物」の語注記は「六條は、洛陽の南」という。
当代の『日葡辞書』に、
Rocugio>.ロクヂョゥ (六條) 干した固い豆腐(Tofus)で作ったある種の食物.※To<fusとあるべきもの.〔邦訳539r〕
†Somemono.ソメモノ(染物) 染物師の染めた布地や反物.〔邦訳572l〕
とあって、標記語「六条」は、「干した固い豆腐(Tofus)で作ったある種の食物」とあり飲食物をいうのである。※六浄豆腐 月山のふもと岩根沢に伝わる変わった豆腐で、大豆チーズとでも呼びたい水分をとばした硬い豆腐です。脂肪分こそ少ないものの良質のたんぱく質で、消化がよく整腸効果もあり、何より保存がききます。京の六條で作られていたものを修験者がもたらしたといいますが、今はもう京都にはなくこの地だけで作られています。山に登るとき唱える「六根清浄」という仏教の言葉から「六條」が「六浄」に変わったようです。削って使うので精進節ともいいます。《健康と郷土料理・山形参照》
[ことばの実際]
坊状、執事助成事 後日千疋・染物一進上之、」(礼紙切封)《『醍醐寺文書』(年未詳)三月四日、1172 6/172》
2001年11月8日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)→広島
「大津の練貫(おほつのねりぬき)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「祢」部に、
練貫(ネリヌキ)。〔元亀本163三〕〔静嘉堂本180四〕〔天正十七年本中21オ四〕
とあって、標記語「練貫」の読みは「ねりぬき」であり、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「大津練貫」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「大津ノ練貫」〔山田俊雄藏本〕
「大津ノ練貫」〔経覺筆本〕
「大津(ヲホツ)ノ練貫(ネリヌキ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
練貫(ネリヌキ)。〔絹布門95七〕
とあって、絹布門にこの語を収載する。語注記は未記載にある。次に、広本『節用集』は、
練緯(ネリヌキ/レンイ)或作‖練貫(ネリヌキ)ト|。絹(キヌ)之類也。〔絹布門95七〕
とあって、標記語を「練緯」と表記し、語注記に「或作‖○○ト|」の形式で「練貫」の語を示している。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
練緯(ネリヌキ)絹類。練貫(同)。〔弘・財宝134二〕
練緯(ネリヌキ)練貫。〔永・財宝107八〕
練貫(ネリヌキ)―緯。〔尭・財宝98六〕〔両・財宝120六〕
とあって、弘治二年本だけは、標記語を広本『節用集』と同じく「練緯」と表記し、語注記に「絹類」とし、標記語「練貫」を後半に示している。永祿二年本は、注記にして「練緯」の語を示す。また、尭空本・両足院本は、「練緯」の語を標記語とし、逆に「練緯」を注記にしている。そして、易林本『節用集』には、
練貫(ネリヌキ)―緯(ヌキ)。―色(イロ)。〔食服108二〕
とあり、標記語「練貫」を示し、語注記に冠頭字「練」の熟語群二語を収載している。
すなわち、古辞書にあっては、『下學集』と広本『節用集』印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』とでは、その収載状況が異なりはじめているのである。そして『運歩色葉集』には、この語を『下學集』というよりはむしろ、『庭訓徃来註』をもとに採録しているのである。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「大津ノ練貫」の語は未収載にある。
大津〔オ〃ツ〕。〔黒川本國郡・中70ウ二〕
大津。〔卷六・國郡367五〕
とある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
255大津ノ練貫・六條ノ染物・猪熊(イノグマ)ノ紺・宇治布・大宮・絹・烏丸ノ烏帽子・室町ノ伯樂・手嶋莚 手嶋ハ在‖丹後接州ニ|。莚ハ九尺間之莚也。〔謙堂文庫藏二八左C〕
とあって、標記語「大津ノ練貫」の語注記は、未収載にある。古版『庭訓徃来註』では、
大津ノ練貫(ネリヌキ)。是ハ山城(シロ)十徳也。〔下初二オ一〕
とあって、この標記語「大津ノ練貫」の語注記は、「是は、山城の十徳なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大津(おほつ)の練貫(ねりぬき)。/大津ノ練貫。〔二十八オ二・三〕
とし、標記語「大津ノ練貫」に対する語注記は、未収載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大津(おほつ)の練貫(ねりぬき)。/大津ノ練貫。▲大津練貫ハ山城(やましろ)の十徳(しつとく)とて名物(めいぶつ)。十ヲある其一ツにて、其地(ち)乃名水(めいすい)を以て練(ね)りたる絹(きぬ)也。〔二十三オ五・六〕
大津(おほつ)の練貫(ねりぬき)。▲大津練貫ハ山城(やましろ)の十徳(じつとく)とて名物(めいぶつ)。十ヲある其一ツにて、其地(ち)乃名水(めいすゐ)を以て練(ね)りたる絹(きぬ)也。〔四十ウ五・六〕
とあって、標記語「大津ノ練貫」の語注記は「大津練貫は、山城の十徳とて名物。十をある其の一つにて、其の地の名水をもつて練りたる絹なり」という。
当代の『日葡辞書』に、
Nerinuqi.ネリヌキ(練貫) すなわち,Qinuno taguy.(絹の類)織物の一種.〔邦訳459r〕
標記語「大津ノ練貫」は、「(絹の類)織物の一種」とある。
[ことばの実際]
仕事にははかいかず、日がな一日立ちずくみ、モなにをするやらのらくらと、急げば廻る瀬田鰻ただいま膳所(ぜぜ)から貰ひまして、練貫(ねりぬき)水の大津酒ゆめ/\しうござりますれども、この春からお仕合せが直って鰻の穴から出るやうに、御世にお出でなされませ。《『傾城反魂香 』土佐将監閑居の段》
2001年11月7日(水)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「俶載(シユクサイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、標記語「俶載」の読みは「シユクサイ」であり、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「任叔載運送之」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「任テ‖叔載ニ|運‖-送ス之ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
「任テ‖叔載ニ|運‖-送ス之ヲ|」〔経覺筆本〕
「任(マカせ)テ‖俶載(シユクサイ)ニ|運‖-送(ウンソウ)ス之(コレ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語「俶載」を未収載にしている。
すなわち、古辞書にあっては、『下學集』そして広本『節用集』印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』、そして『運歩色葉集』には、この語を採録していないことが知られる。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「俶載」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
254任テ‖俶載(シユウ−/ワリフ・シヤウザイ)ニ|運‖-送ス之ヲ。次大舎人ノ綾 昔ハ舎人ノ居所也。〔謙堂文庫藏二八左B〕
俶載(セウサイ)―厚也。割符ノ亊也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫注記書き込み〕
とあって、標記語「俶載」の語注記は、未収載にある。古版『庭訓徃来註』では、
湊々(ミナト/\)ノ替銭浦々(ウラ/\)ノ問丸(トヒマル)同以テ‖俶載(シユクサイ)ヲ|進‖-上(シン―)ス之ヲ|任テ‖俶載(シユクサイ)ニ|運‖-送(ウンソウ)ス之ヲ。湊々ノ替銭(カイセン)ハ田舎(イナカ)ヨリ替(カハ)シテ約束(ヤクソク)ノ津(ツ)ニテ取(トル)ヲ云ナリ。〔下初ウ七・八〕
とあって、この標記語「俶載」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
俶載(しゆくさい)に任(まか)せて之(これ)を運送(うんそう)す/任テ‖俶載ニ|運‖送ス之ヲ。俶載とハ、賃銭を取、物をのせ持はこふもの也。運送ハはこひおくると讀。〔二十八オ一・二〕
とし、標記語「俶載」に対する語注記は、「賃銭を取、物をのせ、持はこぶものなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
俶載(しゆくさい)に任(まか)せて之(これ)を運送(うんそう)す/任テ‖俶載ニ|運‖送ス之ヲ。▲俶載俶(しゆく)ハ始(はしめ)。載(さい)ハ事(こと)也。始て事をなしおこすの義。〔二十三オ二〕
任(まかせ)て‖俶載(しゆくさい)に|運‖送(うんさう)す之(これ)を。▲俶載俶(しゆく)ハ始(はじめ)。載(さい)ハ事(こと)也。始(はじめ)て事をなしおこすの義。〔四十ウ四〕
とあって、標記語「俶載」の語注記は「俶載、俶ハ始。載ハ事なり。始めて事をなしおこすの義」という。
当代の『日葡辞書』にも、標記語「俶載」は、未収載にある。
[ことばの実際]
曠遠綿貎 巌岫杳冥 治本於農 務茲稼穡 俶載南畝 我芸黍稷 税熟貢新 勧賞黜陟《『千字文』》
2001年11月6日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「割符(わりフ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「和」部に、
俶載(ワリフ)。○○。破付(ワリフ)。〔元亀本87九・十〕
俶載(ワリフ)。○○。破付(ワリツケ)。〔静嘉堂本108三〕
俶載(ワリフ)。○○。破付(―ツケ)。〔天正十七年本上53ウ二〕〔西來寺本〕
とあって、標記語「俶載」にて、読みは「わりふ」であり、その語注記は未記載にある。この語は同じく『庭訓徃來註』四月十一日の状の「泊々ノ之借_上」の語注記に「券ハ今ノ俶載也」とあるのに合致する。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「以割府進上之」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「以テ‖割-符ヲ|進‖-上シ之ヲ|」〔山田俊雄藏本〕
「以‖割符ヲ|進‖-上ス之ヲ|」〔経覺筆本〕
「以(モツ)テ‖割符(ワリフ)ヲ|進‖-上(シンジヤウ)ス之(コレ)ヲ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』に、
割符(ワリフ)兩所通スルノ∨錢ヲ之義也。〔態藝門90三〕
とあって、標記語「割符」を態藝門に収載し、その語注記は「兩所に錢を通ずるの義なり」という。次に広本『節用集』には、
割符(ワリフ/カツ、フダ)[入・○]。〔器財門237七〕
とあって、標記語「割符」を器財門に収載し、その読みは「わりフ」とあり、語注記はなぜか未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、標記語「割符」そして『運歩色葉集』と饅頭屋本『節用集』の「俶載」の語も未収載にある。また、易林本『節用集』には、
割符(サイフ/ワリフ)兩處通錢義。〔言辞182二〕
とあって、「左部」の言辞門にあり、読みは右訓に「サイフ」、そして左訓に「わりフ」とし、その語注記は、『下學集』を継承した「兩處通錢義」という。
すなわち、古辞書にあっては広本『節用集』印度本系統の『節用集』類、そして『運歩色葉集』は、『下學集』には従わず、別に取扱うものとなっている。逆に『下學集』を継承するのが易林本『節用集』ということも留意すべき点となってくる。そして、「割符」を収載する古辞書では、その表記が区々であるのも、この時代におけることば使用の広がりの反映と見ることができるのである。地域差などの位相語として、それぞれの用い方を採録したものと見てよいからである。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「割符」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
253以‖割符ヲ|進‖-上ス之ヲ| 自‖政所|進上也。割符ハ輔也。信也。扶也。兩相符不∨差(タカハ)也。漢ニハ以∨竹ヲ長六寸分テ相合。漢文帝初爲‖郡守ノ銅虎符竹使符ヲ|。音義ニ曰、銅唐ハ自‖第一|至‖第五ニ|。使フニ∨々ヲ至∨郡ニ、符合乃所∨受∨之、竹使符ハ以‖竹箭五枝ヲ|長五寸鐫(エリ)‖刻ム篆書ヲ|。又自‖第一|至‖第五|与‖郡守ニ|。各分ツ‖其半ヲ|左留‖京師|右ハ以与∨之。唐ノ与服{眼}志ニ云、高祖入‖長安|罷‖隋竹使符|應‖銀兎符ニ|。其ノ後改爲‖銅魚符|也。〔謙堂文庫藏二八右G〕
とあって、標記語「割符」の語注記は、「政所より進上するなり。割符は輔なり。信なり。扶なり。兩相符、差はざるなり。漢には竹をもって長さ六寸に分けて相ひ合はす。漢の文帝、初めて郡守の銅虎符・竹使符を爲る。音義に曰く、銅唐は第一より第五に至る。使ひを使ふに郡に至り、符合のこれを受くる所に、竹使符は、竹箭五枝をもって、長さ五寸に篆書を鐫り刻む。又、第一より第五に至り、郡守に与ふ。各、其半を分つ。左に京師を留め、右はこれをもって与ふ。唐の服{眼}志に与ふと云ふ、高祖、長安に入り、隋竹使符に罷り、銀兎符に應ず。其の後、改めて銅魚符を爲るなり」という。この注記は、後世の随筆『本朝世事談綺』二・器用門に、「割符(ワリフ)竹の長さ六寸にして、二つに割りて是を合。竹付と云声にしたがふ。よつて符と云。漢文帝、竹使符を作らしめ、郡国守にあたふ。半合(わけ)て右は京師にとどめ、左りは郡守にあたふると也。これ割符のはじめ也」と引用している。古版『庭訓徃来註』では、
湊々(ミナト/\)ノ替銭浦々(ウラ/\)ノ問丸(トヒマル)同以テ‖割符(ワリフ)ヲ|進‖-上(シン―)ス之ヲ|任テ‖俶載(シユクサイ)ニ|運‖-送(ウンソウ)ス之ヲ。湊々ノ替銭(カイセン)ハ田舎(イナカ)ヨリ替(カハ)シテ約束(ヤクソク)ノ津(ツ)ニテ取(トル)ヲ云ナリ。〔下初ウ七・八〕
とあって、この標記語「割符」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
同(おなじ)く割符(わりふ)を以(もつ)て之(これ)を進上(しんしやう)し/同以‖割符ヲ|進‖-上シ之ヲ|。割符ハ竹にてこしらへ弍つにわりてたかひに其ひとつを持ち、物を請取渡しの時、それを合せた證拠(しやうこ)とするなり。進上とハおくりのほせるなり。〔二十七ウ六・七〕
とし、標記語「割符」に対する語注記は、「割符は、竹にてこしらへ、弍つにわりてたがひに其のひとつを持ち、物を請取り渡しの時、それを合せた證拠とするなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
同(おなじ)く割符(わりふ)を以(もつ)て之(これ)を進上(しんじやう)し/同以‖割符ヲ|進‖-上シ之ヲ|。▲割符ハもと竹(たけ)にて作(つく)り、二ツに分(わか)ち、双方(さうほう)に持居(もちゐ)て荷物(にもつ)など請取(うけとり)渡(わた)しの時の合文(あひもん)とす。今ハ多く印判(いんばん)を二ツに切(きつ)て用る也。〔二十三オ一〕
同(おなじく)以(もつて)‖割符(わりふ)を|進‖-上(しんじやう)し之(これ)を|。▲割符ハもと竹(たけ)にて作(つく)り、二ツに分(わか)ち、双方(そうはう)に持居(もちゐ)て荷物(にもつ)など請取(うけとり)渡(わた)しの時の合文(あひもん)とす。今ハ多く印判(いんばん)の押形(おしがた)を二ツに切(きつ)て用る也。〔四十ウ三・四〕
とあって、標記語「割符」の語注記は「割符は、もと竹にて作り、二ツに分ち、双方に持ち居て荷物など請け取り渡しの時の合文とす。今は、多く印判の押形を二ツに切つて用るなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Varifu.ワリフ(割符) 二枚にした紙とか半分に割った二本の竹とかにつけた封印の片方であって,後日双方のものが互いに符号するかどうかを知るためのもの.§Varifuga vo<ta.(割符が合うた)封印の片方の半分が他の半分と合致する.〔邦訳680l〕
とあって、標記語「割符」は、「二枚にした紙とか半分に割った二本の竹とかにつけた封印の片方であって、後日双方のものが互いに符号するかどうかを知るためのもの」という。
[ことばの実際]
券書ハ文証ノ割符ノヤウナルモノソ。《『史記抄』十二・孟嘗》
2001年11月5日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「浦々問丸(うらうらのとひまる)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「宇」「登」部に、
問丸(ドウマル)。〔元亀本57五〕
問丸(イトマル)。〔静嘉堂本65一〕
問丸(トイマル)。〔天正十七年本上33オ八〕〔西來寺本〕
とあって、標記語「問丸」の読みは「といまる」がよいのだが、諸本に読みの揺れが見うけられる。その語注記は未記載にある。また、標記語「浦々」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「浦々問丸」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「浦_々ノ問(トヒ)_丸」〔山田俊雄藏本〕
「浦々(ウラ/\)ノ問丸(トヒマル)」〔経覺筆本〕
「浦々(ウラ/\)ノ問丸(トヒマル)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』、易林本『節用集』には、標記語を「浦々」「問丸」の二語は未収載にある。次に広本『節用集』には、
刀禰(トネ/タウネイ,カタナ)[平・上]。問(トイ/フン)[上去]二共就∨舩云義。又云‖問丸(トイマロ)ト|。〔人倫門127八〕
とあって、標記語「問」の語注記に「又云‖○○ト|」の形式で「問丸」を収載し、その読みには「といまろ」とある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
標記語「浦々」「問丸」の二語とも未収載にある。とりわけ、『節用集』類が「問丸」ではなくして、類語の「問屋」の語で収録しているところに、時代の差異が感ぜられないでもない。ただ、黒本本『節用集』には、
問(トイ)舩又曰問丸(トイマル)。〔人倫33二〕
とあって、広本『節用集』と同じく標記語「問」における語注記に「又曰○○」の形式で「問丸」の語を収載し、読みは「といまる」とある。
すなわち、古辞書にあっては広本『節用集』、黒本本『節用集』そして『運歩色葉集』にこの語が採録されているにことにが興味を引く。逆に『下學集』、上記引用の印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』にはこの語が未収載であることも留意すべき点となってくる。そして、「問丸」を収載する古辞書ではその読みが区々であるのも、この時代のことば使用の広がりの反映として見ておくことになる。地域差を含め、それぞれの用い方を採録したものと見てよいからである。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「浦々」と「問丸」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
252浦々ノ問丸 舩商人ノ宿所也。〔謙堂文庫藏二八右G〕
とあって、標記語「浦々ノ問丸」の語注記は、「舩商人の宿所なり」という。古版『庭訓徃来註』では、
湊々(ミナト/\)ノ替銭浦々(ウラ/\)ノ問丸(トヒマル)同以テ‖割符(ワリフ)ヲ|進‖-上(シン―)ス之ヲ|任テ‖俶載(シユクサイ)ニ|運‖-送(ウンソウ)ス之ヲ。湊々ノ替銭(カイセン)ハ田舎(イナカ)ヨリ替(カハ)シテ約束(ヤクソク)ノ津(ツ)ニテ取(トル)ヲ云ナリ。〔下初ウ七・八〕
とあって、この標記語「浦々ノ問丸」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
湊湊(みなと/\)の替銭(かへせん)。浦々(うら/\)の問丸(とひまる)/湊々ノ替銭。浦々ノ問丸。…問丸とハ問屋乃事なり。〔二十七ウ三〜六〕
とし、標記語「浦々の問丸」に対する語注記は、「問丸とは、問屋の事なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
浦々(うら/\)の問丸(とひまる)…之(これ)を運送(うんそう)す/浦_々ノ問丸。〜運‖-送ス之ヲ|。…▲浦ハ舩(ふね)をよせて風待(かぜまち)などする所。問丸ハ今いふ問屋(とひや)也。〔二十二八〜二十三オ一〕
浦々(うら/\)の問丸(とひまる)▲浦ハ舩(ふね)をよせて風待(かぜまち)などする所。問丸(とひまる)ハ今いふ問屋(とひや)也。〔四十ウ三〕
とあって、標記語「浦々の問丸」の語注記は「浦は舩をよせて風待ちなどする所。問丸は今いふ問屋なり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Vravra.ウラウラ(浦々) 港々,または,海沿いの所々.⇒Catame,uru.〔邦訳732l〕
とあって、標記語「浦々」は、「港々。または、海沿いの所々」という。標記語「問丸」の語は、未収載にある。
[ことばの実際]
商賣(しやうばい)の道(みち)をしらではと、春日(かすが)の里に秤目(はかりめ)しるよしして、三条通の問丸(といまる)に着(つき)て、けふは若草(わかくさ)山のしげりを詠(ながめ)、暮(くれ)てはひかりあるむしの飛火野(とぶひの)、いま幾日(いくか)過て京にかへるも惜(お)しまれ、其比((そのころ))は卯月十二日、十三鐘(かね)のむかしをきくに、哀(あは)れ今も鹿(しゝ)ころせし人は其科((その)とが)を赦(ゆる)さず大がきをまはすとかや。《井原西鶴『好色一代男』》
2001年11月4日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
全日本学生駅伝〔熱田〜伊勢〕駒澤大学陸上競技部優勝[5時間14分12秒の大会新記録]
「湊々替銭(みなとみなとのかいせん&かへせん)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
替錢(―せン)。〔元亀本98三〕
替錢(カイせン)。〔静嘉堂本123二〕〔天正十七年本上60ウ二〕
とあって、標記語「替銭」の読みは「カイセン」で、その語注記は未記載にある。また、標記語「湊々」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「湊々替銭」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「湊_々ノ替(カハシ)_銭」〔山田俊雄藏本〕
「湊湊(ミナトミナト)ノ替銭(カヘセン)」〔経覺筆本〕
「湊々(ミナト/\)ノ替銭(カハせン)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』、広本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語を「湊々」「替銭」の二語は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
替錢(カワシ)。〔弘・言語進退88六〕
替錢(カハシ)。〔永・財宝80四〕
替錢(カハシセニ)。〔尭・財宝73二〕
替錢(カハシセン)。〔両・財宝87五〕
とあって、標記語「替銭」の収載が弘治二年本だけが言語進退に収めているのに対し、他三本は財宝部にこの語を収めている。その読みも四本それぞれ異なっている。語注記はいずれも未記載にある。そして標記語「湊々」は未収載にある。
ここで、古辞書にあっては印度本系統の『節用集』と『運歩色葉集』にこの語が採録されているにことに気がつく。『下學集』、広本『節用集』、易林本『節用集』にはこの語が未収載であることが注目視すべき点となってくる。そして、「替銭」を収載する古辞書では、その読みが区々であるのもこの時代のことばということも反映しているのかもしれない。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「湊々」と「替銭」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
251湊々ノ替銭(カワシ) 永樂銭ハ崗部ノ六弥太忠澄ヨリ始。忠澄ハ可ヲ∨生‖女子|。変成男子ノ行∨法ヲ生‖男子|。故ニ面ハ女人ノ顔也。上野国世良田ノ村建‖-立長楽寺|。故今又唐ノ王ト生ス。有時其王夢‖其謂ヲ|、王夢醒テ云ク、然ハ本朝ニ渡‖使者|。彼寺ヲ可‖修理|由詔也。長楽ノ長ノ字ノ替∨音ヲ借∨讀ヲ永楽ト云字ヲ以鋳∨銭ヲ而渡ス。我朝濁乱国ノ故長門国赤間関ニテ彼ノ代ヲ無理ニ取也。終長楽寺ニ不ソ∨來。〔謙堂文庫藏二八右D〕
とあって、標記語「湊々ノ替銭」の語注記は、「永樂銭ハ崗部ノ六弥太忠澄ヨリ始。忠澄ハ可ヲ∨生‖女子|。変成男子ノ行∨法ヲ生‖男子|。故ニ面ハ女人ノ顔也。上野国世良田ノ村建‖-立長楽寺|。故今又唐ノ王ト生ス。有時其王夢‖其謂ヲ|、王夢醒テ云ク、然ハ本朝ニ渡‖使者|。彼寺ヲ可‖修理|由詔也。長楽ノ長ノ字ノ替∨音ヲ借∨讀ヲ永楽ト云字ヲ以鋳∨銭ヲ而渡ス。我朝濁乱国ノ故長門国赤間関ニテ彼ノ代ヲ無理ニ取也。終長楽寺ニ不ソ∨來」という。古版『庭訓徃来註』では、
湊々(ミナト/\)ノ替銭浦々(ウラ/\)ノ問丸(トヒマル)同以テ‖割符(ワリフ)ヲ|進‖-上(シン―)ス之ヲ|任テ‖俶載(シユクサイ)ニ|運‖-送(ウンソウ)ス之ヲ。湊々ノ替銭(カイセン)ハ田舎(イナカ)ヨリ替(カハ)シテ約束(ヤクソク)ノ津(ツ)ニテ取(トル)ヲ云ナリ。〔下初ウ七・八〕
とあって、この標記語「湊々ノ替銭」の語注記は、「湊々の替銭は、田舎より替して約束の津にて取るを云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
湊湊(みなと/\)の替銭(かへせん)…之(これ)を運送(うんそう)す/湊々(ミナト/\)ノ替銭〜運‖-送ス之ヲ|。…替銭ハ両替屋なりとも云。又かはせ金かハせ銭をする者なりとも云。はる/\の道を金銭持て行ん事覚束なきゆへかはせ金といふ事あり。是ハたとへハ江戸より大坂に行んとするに、先江戸乃かはせ金をする家に至り金銭を渡し大坂乃何某か方にて更取ねと云書付と引替、扨大坂に至り何某か方にて其書付を渡し別の金銭と引替に是をかはせ金かハせ銭と云。湊は諸国より舟の着(つき)て徃来の繁き所ゆへ替せ銭をする者あり。〔二十七ウ三〜六〕
とし、標記語「湊々の替銭」に対する語注記は、「替銭は両替屋なりとも云。又かはせ金かはせ銭をする者なりとも云。はるばるの道を金銭持ちて行かん事覚束なきゆへかはせ金といふ事あり。是はたとへば、江戸より大坂に行かんとするに、先ず江戸のかはせ金をする家に至り、金銭を渡し、大坂の何某が方にて更に取ねと云ふ書付と引替へ、さて大坂に至り何某が方にて其の書付を渡し、別の金銭と引替へに是れをかはせ金かハせ銭と云ふ。湊は諸国より舟の着きて徃来の繁き所ゆへ替せ銭をする者あり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
湊湊(みなと/\)の替銭(かえせん)…之(これ)を運送(うんそう)す/湊々(ミナト/\)ノ替銭〜運‖-送ス之ヲ|。…湊ハ商舶(しやうはく)の會(あつま)る所。替銭ハ両替(りやうがへ)銭屋(せにや)をいふ。〔廿七ウ二・八〕
湊湊(みなと/\)の替銭(かいせん)▲湊ハ商舶(しやうはく)の會(あつま)る所。替銭ハ両替(りやうがへ)銭屋(せにや)をいふ。〔四十ウ二〕
とあって、標記語「湊々の替銭」の語注記は「湊は、商舶の會まる所。替銭は、両替銭屋をいふ」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「湊々」と「替銭」の二語は、未収載にある。
[ことばの実際]
二石五斗一升、関東ヘノ替銭本一貫三百文、利四百五十五文《『東寺百合文書』・は函、正和元年十月十六日59・1/627》
2001年11月3日(土)曇りのち雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「泊々借上(とまりとまりのかしあげ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、標記語「泊々」「借上」の二語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「泊々借上」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「泊_々ノ借_上(アケ)」〔山田俊雄藏本〕
「泊々(トマリトマリ)ノ借上(―シアゲ)」〔経覺筆本〕
「泊々(ト/\)ノ借上(カシアケ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』及び広本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語を「泊々」「借上」の二語は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
泊々(トマリ/\)。〔弘・言語進退47三〕〔永・言語48二〕〔尭・言語44三〕〔両・言語52二〕
泊々(トマリ/〃\)。〔黒本本・言語36一〕
とあって、標記語「泊々」の読みは四本とも「とまりとまり」としているが、同じ印度本系統の黒本本は「とまりどまり」とある。因みに、『和漢通用集』・村井本・慶長九年本も「とまりとまり」とある。いずれも語注記は未記載にする。そして標記語「借上」は未収載にある。
ここで、古辞書にあっては印度本系統の『節用集』にこの語が採録されているにことに気がつく。『下學集』、広本『節用集』、易林本『節用集』そして『運歩色葉集』にこの語が未収載であったことが注目視すべき点となってくる。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「泊々」と「借上」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
250泊々ノ之借_上 蒙求曰、馮煖折-券(ケン)、后漢馮煖齊人也。貧乏シテ不∨能‖自存{在}|。本トシテ‖邏齊|頼‖孟掌君ヲ|。々カ使シテ行∨薛ニ薛ノ民君カ債(ヲ−メ)アリ。是ヲ責ルニ君使シテ∨煖ヲ持シム∨券ヲ。持_来リテ民ニ當ツ民悉ニ合ス∨是ヲ。券ハ今ノ俶載也。借上ハ利倍也。自∨是以後借上ト云義始也。〔謙堂文庫藏二八右B〕
借シ_上ケ替銭也。銭也。銭ヲ借シテ其利分ヲ取テ進上スル也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古寫書き込み〕
とあって、標記語「泊々之借上」の語注記は、「蒙求曰、馮煖折-券、后漢馮煖は齊の人なり。貧乏にして自在あたはず。邏齊を本として孟掌君を頼る。君が使ひして薛に行き、薛の民君が債めあり。是れを責るに君煖を使はして券を持たしむ。持ち来りて、民に當ひつ。民悉くに是を合はす。券は今の俶載なり。借上は利倍なり。是れより以後借上と云ふ義始まるなり」という。古版『庭訓徃来註』では、
泊々(トマリ/\)ノ借上(カリアゲ)トハ。銭(せニ)ヲカシテ。十-日々-々ニ利(リ)ヲ加(クハ)ヘ上ルヲ云ナリ。〔下初ウ六・七〕
とあって、この標記語「泊々借上」の語注記は、「銭をかして、十日、十日に利を加ヘ上るを云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
泊々(とまり/\)の借上(かしあけ)…問丸(とひまる)/泊々ノ借上〜問丸。…泊/\とハ道中の宿/\(しゆく/\)なり。借上は錢をかす者なり。人に錢を貸して十日目/\に利を加ヘ上る故借上と云。〔廿七ウ二・三〕
とし、標記語「泊々ノ借上」に対する語注記は、「泊泊とは、道中の宿宿なり。借上は錢をかす者なり。人に錢を貸して十日目、十日目に利を加ヘ上ぐる故、借上と云ふ」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
泊々(とまり/\)の借上(かしあげ)/泊々ノ借上▲泊ハ舩路(ふなぢ)の宿(やど)り借上ハ錢(ぜに)を貸(かし)て十日毎(ごと)に利(り)を加(くハ)へ上るをいふとぞ。〔二十二ウ八〕
泊々(とまり/\)の借上(かしあげ)▲泊ハ舩路(ふなぢ)の宿(やど)り借_上ハ錢(ぜに)を貸(かし)て十日毎(ごと)に利(り)を加(くハ)へ上るをいふとぞ。〔四十ウ二〕
とあって、標記語「泊々ノ借上」の語注記は「泊は舩路の宿り借上は、錢を貸して十日毎に利を加へ上るをいふとぞ」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「泊々」と「借上」の語は、未収載にある。
[ことばの実際]
天平五年贈入唐使歌一首[并短歌] [作主未詳]虚見都山跡乃國青<丹>与之平城京師由忍照難波尓久太里住吉乃三津尓<舶>能利直渡日入國尓所遣和我勢能君乎懸麻久乃由々志恐伎墨吉乃吾大御神舶乃倍尓 宇之波伎座船騰毛尓御立座而佐之与良牟礒乃埼々許藝波底牟泊々尓荒風浪尓安波世受平久率而可敝理麻世毛等能國家尓《『万葉集』卷第十九・4245》
庄者正員地頭殿出羽守殿令請于借上而所知行来也、今行村庄務即此《『東大寺文書』図未(文永六年十月廿七日)582-8・14/84》
2001年11月2日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「鳥羽白河の車借(とばしらかはのくるまかし)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、
鳥羽(トバ) 。〔元亀本56六〕
鳥羽(―バ) 。〔静嘉堂本63六〕
鳥羽(トハ) 。〔天正十七年本上32ウ五〕
とあって、標記語「鳥羽」の語注記は未記載にある。そして、標記語「白河」「車借」の語は、未収載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「鳥羽白河車借」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「鳥_羽白_河ノ車_借()」〔山田俊雄藏本〕
「鳥羽(トバ)白河ノ車借(―マカセ)」〔経覺筆本〕
「鳥-羽(トハ)白-河(シラカワ)ノ車_借(クルマカヱシ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』には、標記語を「鳥羽」「白河」「車借」の三語は未収載にある。次に、広本『節用集』は、
鳥羽(トバ/テウウ・トリ,ハネ)[上・上]山城南村。〔天地門124六〕
とあって、標記語「鳥羽」の語注記は「山城南村」という。「白河」と「車借」の語は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
鳥羽(トバ)山城南。〔弘・天地40五〕
鳥羽(トバ)。〔永・天地41四〕〔両・天地44六〕
鳥羽(トハ)。〔尭・天地38三〕
※東山道陸奥 白河(シラカハ)。〔弘・天地290八〕白河(――)。〔尭・天地233四〕
車借(クルマカシ) 。〔弘・人倫157七〕〔永・人倫128八〕〔尭・人倫118一〕〔両・人倫143三〕
とあって、標記語「鳥羽」「車借」とあり、標記語「鳥羽」の語注記は、弘治二年本だけが「山城南」とするのみで、他本は未記載にある。標記語「白河」は、未収載であり、弘治二年本と尭空本の附載の「東山道陸奥」に「白河」が見えるもので、この箇所にはあたらない。また、標記語「車借」は、その読みは「くるまかし」と和訓読みし、語注記は未記載とする。また、易林本『節用集』は、
鳥羽(トバ) 山城。〔乾坤39三〕
車借(クルマガシ)。〔人倫129三〕
とあって、標記語「鳥羽」の語注記を「山城」とし、標記語「車借」は、読みを下記に示す『日葡辞書』のも一方の読みである「くるまがし」にして、語注記は未記載にある。標記語「白河」は未収載にする。以上、当代の古辞書群を一望して気づくことは、山城(京)の地名としての「白河」は、辞書採録が見られないこと。次に人倫「車借」は、読みを「くるまかし」と「くるまがし」という二通りの読み方が使われていること。そして、古辞書では印度本系統の『節用集』及び易林本『節用集』にこの語が採録されているに過ぎず、『下學集』、広本『節用集』そして『運歩色葉集』にはこの語が未収載であったことが注目視すべき点である。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
鳥羽トハ。〔黒川本・國郡上51オ五〕〔卷第二・國郡441四〕
とあって、標記語「鳥羽」を収載し、標記語「白河」と「車借」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
249鳥羽白河ノ車_借(カシ) 在‖山城|車賃遂也。河原者也。車ハ夏ノ后氏・奚仲作ソ。〔謙堂文庫藏二八右A〕
とあって、標記語「鳥羽白河ノ車借」の語注記は、「山城に在り。車賃を遂るなり。河原者なり。車は夏の后氏・奚仲の作ぞ」という。古版『庭訓徃来註』では、
鳥羽白河(トバシラカハ)ノ車借(クルマカシ)トハ車(クルマ)ノ遣(ヤ)リ手(テ)ト云者アリ。〔下初ウ六〕
とあって、この標記語「鳥羽白河ノ車借」の語注記は、「車の遣り手と云ふ者あり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
鳥羽白河(とばしらかハ)の車借(くるまかし)…問丸(とひまる)/鳥羽白河ノ車借〜問丸。馬借車借ハ賃錢をとりて馬車を貸者なり。〔廿七ウ二〕
とし、標記語「鳥羽白河ノ車借」に対する語注記は、「賃錢をとりて馬・車を貸す者なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
鳥羽白河(とばしらかハ)の車借(くるまかし)/鳥羽白河ノ車借▲鳥羽白河ハ共に城州(やましろ)の地▲車借ハ賃錢(ちんせん)を取てはたらく車(くるま)のやりて也。〔二十二ウ七・八〕
鳥羽白河(とばしらかハ)の車借(くるまかし)▲鳥羽白河ハ共(とも)に城州(じやうしう)の地(ち)▲車借ハ賃錢(ちんせん)を取てはたらく車(くるま)のやりて也。〔四十ウ一・二〕
とあって、標記語「鳥羽白河ノ車借」の語注記は「鳥羽白河は共に城州の地」「車借は賃錢を取りてはたらく車のやりてなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
‡Curumacaxi.クルマカシ(車借) ⇒次条.〔邦訳172l〕
Curumagaxi.クルマガシ(車借) または,Curumacaxi(車借)とも言い,むしろその方がまさる.すなわち,Vxicai(牛飼)人に賃貸した車に付き添って行く車引き〔御車〕.〔邦訳172l〕
とあって、地名を意味する標記語「鳥羽」と「白河」の語は、未収載にあり、標記語「車借」については、「牛飼人に賃貸した車に付き添って行く車引き〔御車〕」とある。
[ことばの実際]
加之(シカノミナラズ)國母(コクボ)・皇后(クワウグウ)・女院(ニヨウヰン)・北政所(キタノマンドコロ)・三台(サンタイ)・九卿(キウケイ)・槐棘(クワイキヨク)・三家(サンカ)ノ臣・文武百司(ブンブハクシ)ノ官・并(ナラビニ)竹園(チクヱン)門徒ノ大衆(ダイシユ)・北面以下(ホクメンイゲ)諸家(シヨケ)ノ侍(サブラヒ)・兒(チゴ)、女房達ニ至(イタル)マデ我(ワレ)モ々(ワレ)モト參集(マヰリアツマリ)ケル間、京中ハ忽(タチマチ)ニサビカヘリ、嵐ノ後(アト)ノ木葉(コノハ)ノ如ク、己(オノ)ガ樣々(サマザマ)散行(チリユケ)バ、白河(シラカハ)ハイツシカ昌(サカエ)テ、花一時(ヒトトキ)ノ盛(サカリ)ヲ成セリ。《『太平記』卷第九・足利殿着御篠村則國人馳參事》
妖物共、住むべき在所を定めけるに、あまりに人里遠くては、食物の便あるぺからずとて、船岡山の後、長坂の奥と定めて、皆々かしこに居移り、常には京白河に行て、捨てられし仇をも報じ、又は食物の為に貴賤男女は申すに及ばず、牛馬六畜までも取りければ、人皆悲しむ事限りなし。《御伽草子『付喪~』》
其レニ皆ナ賢ク翔ケレバ、如此クシテ有ル程ニ、女、鎰ヲ一ツ取出テ男ニ教ヘテ云ク、「此レ、六角ヨリハ北、□ ヨリハ□ ニ、然〃云ハム所ニ持行テ、其ニ蔵何ツ有ラム。其ノ蔵ノ其方ナルヲ開テ、目ニ付カム物ヲ吉ク拈メ結ハセテ、其ノ邊ニハ車借ト云フ者数有リ。其レヲ呼セテ積テ持来」トテ遣タリケレバ、男教フルマ丶ニ行テ見ケルニ、實ニ蔵共有ル中ニ、教ヘツル蔵ヲ開テ見レバ、欲キ物皆此ノ蔵ニ有リ。《『今昔物語集』卷第二十九・不被知人女盗人語第三大系五141七》※運送業者。庭訓徃来に「鳥羽白河車借」と見える。
2001年11月1日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
「大津坂本の馬借(おほつさかもとのバシャク・まがし,むまがし)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」と「滿」部に、
坂本(―モト) 。〔元亀本271八〕
坂本(サカモト) 。〔静嘉堂本310四〕
馬借(マカシ) 。〔元亀本208四〕〔天正十七年本中48ウ二〕
馬借(マガシ) 。〔静嘉堂本237四〕
とあって、標記語「坂本」と「馬借」の語注記は未記載にある。そして、標記語「大津」は、未収載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「大津坂本馬借」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「大_津坂_本ノ馬借(かせ)」〔山田俊雄藏本〕
「大津(ヲウツ)坂本(サカモト)ノ馬借(マカセ)」〔経覺筆本〕
「大-津(ツ)坂-本(サカモト)ノ馬-借(バシヤク)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そして建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』には、
馬借(ムマカシ) 。〔人倫門39六〕
とあって、標記語を「車借」として、読みを「くるまかし」で、その語注記は未記載にある。次に、広本『節用集』は、
大津(ヲヽツ/タイシン)[去・平]江州。〔天地門208五〕
坂本(サカモト/バンホン)[上・上] 江州叡山。又在書寫山(シヨシヤサン)ニ|。〔天地門459一〕
馬借(バシヤク・カス/ムマ,カル)[上・去入] 商人(アキンド)取(トル)‖駄賃(ダチン)ヲ|者也。〔波部・態藝門75八〕
馬借(ウマカシ/ハシヤク)[上・入] 今者馬借(バシヤク)。〔宇部・人倫門471三〕
とあって、標記語を「大津」「坂本」「馬借」とし、それぞれの語注記は「大津」に「江州」、「坂本」に「江州叡山。また書寫山に在り」というようにその地の所在を注記している。標記語「馬借」については、波部と宇部にそれぞれあって、その注記内容が「商人より駄賃を取者なり」と「今は馬借(バシヤク)」というの二種類になっている点が注目される。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、
大津(ヲウツ)。〔弘・天地61八〕
大津(ヲヽツ)。〔永・天地63二〕〔尭・天地57三〕
坂本(サカモト)在江州。又在播州。〔弘・天地208五〕〔永・天地173四〕〔尭・天地162六〕
馬借(バシヤク) 。〔弘・人倫18六〕
馬借(バシヤク) 商人。〔永・人倫17一〕〔尭・人倫15二〕
とあって、標記語「大津」「坂本」「馬借」とあり、標記語「大津」は、読みが弘治二年本だけが「をうつ」で他本は「ヲウツ」という。語注記については、標記語「坂本」は、「江州にあり。また播州にあり」という。標記語「馬借」の読みは「バシャク」と音読みし、語注記は弘治二年本だけが未記載で、他二本は、ただ「商人」という。また、易林本『節用集』は、
馬借(マガシ)。〔人倫139五〕
とあって、標記語を「馬借」とし、語注記は未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
大津オ〃ツ。〔黒川本・國郡中70ウ二〕 大津。〔卷第六・國郡367五〕
坂本サカモト。〔黒川本・姓氏下44ウ五〕〔卷第八・姓氏481六〕
とあって、標記語「大津」「坂本」の二語を収載し、標記語「馬借」の語は未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
248大津坂本ノ馬借 在‖江州ニ|駄賃(-チン)遂也。〔謙堂文庫藏二八右A〕
とあって、標記語「大津坂本ノ馬借」の語注記は、「江州に在り。駄賃を遂なり」という。古版『庭訓徃来註』では、
大津坂本(ヲフツサカモト)ノ馬借(バシヤク)トハ。駄賃(ダチン)ヲ取(トツ)テ馬(ムマ)ヲ徃來(ユキキ)スル人ナリ。〔下初ウ四〕
とあって、この標記語「大津坂本ノ馬借」の語注記は、「駄賃を取って馬を徃來する人なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大津坂本(おほつさかもと)の馬借(ばしやく)…問丸(とひまる)/大津坂本ノ馬借〜問丸。馬借車借ハ賃錢をとりて馬車を貸者なり。〔廿七ウ二〕
とし、標記語「大津坂本ノ馬借」に対する語注記は、「賃錢をとりて馬・車を貸す者なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大津坂本(おほつさかもと)の馬借(ばしやく)/大津坂本ノ馬借▲大津坂本ハ共に江州(あふみ)乃地▲馬借ハ駄賃(だちん)を取て馬(むま)を徃來(ゆきゝ)さす者。〔二十二ウ七〕
大津坂本(おほつさかもと)の馬借(ばしやく)▲大津坂本ハ共(とも)に江州(あふみ)の地(ち)▲馬借ハ駄賃(だちん)を取て馬(うま)を徃來(ゆきゝ)さす者。〔四十ウ一〕
とあって、標記語「大津坂本ノ馬借」の語注記は「大津坂本ハ共に江州の地」「馬借ハ駄賃を取て馬を徃來さす者」という。
当代の『日葡辞書』には、
Baxacu.バシャク(馬借) Magaxi.(馬借)馬子・馬方.〔邦訳51l〕
Baxacu.バシャク(馬借) すなわち,jtqi(一揆)暴動.§Baxacuga vocoru.(馬借が起る)この暴動が起こる.※本書の一般表記ではitqi,または,むしろ,icqi.〔邦訳51l〕
とあって、地名を意味する標記語「大津」と「坂本」の語は、未収載にあり、標記語「馬借」については、「馬子・馬方」とある。
[ことばの実際]
『新猿楽記』に馬借を話題に取り上げ、当時の女人は「馬借・車借の妻たらんと願ふ」と記述していて、馬借、車借の妻になりたいという具合に、女人の憧れの職種であったといいます。それはなぜかと申しますと、馬借・車借は「東は大津・三津に馳せ、西は淀の渡し山崎に走る。一日として休むことなし」とあります。
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