2002年1月1日から1月31日迄
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
謹 賀 新 年
2002年1月31日(木)晴れ。東京(八王子)⇔日本橋丸善⇒品川(パシフィック東京)
「草亭(サウテイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、「草案(―アン)、草字(―シ)、草書(―シヨ)、草菴(――)、草木(―モク)、草花(―クワ)、草創(―サウ)、草紙(―シ)」と八語あるが、標記語「草亭」の語は未収載にする。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「折節草亭見苦敷資具又散々式也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「折_節草-亭見_苦_敷、資-具又散々ノ式也」〔山田俊雄藏本〕
「折節(ヲリフシ)草_亭(サウテイ)見苦敷(グルシク)、資具(シ―)亦散々(サンザン)ノ式也」〔経覺筆本〕
「折-節(おりふし)草_亭(ソヲテイ)見-苦_敷(ミクルシク)、資具(シグ)、又散々(サン〃)ノ式ニ也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「境節」の語は未収載にある。次に広本『節用集』は、
草亭(サウテイ/クサ,ウテナ)[上・平]。〔態藝門787七〕
とあって、標記語「草亭」の語注記は、未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
草案(サウアン)―紙(シ)。―亭(テイ)。〔永・言語178六〕
草案(サウアン)―紙。―庵。―亭。〔堯・言語167七〕
とあって、弘治二年本は、標記語「草亭」を未収載とし、永祿二年本・尭空本については、標記語「草案」冠頭字「草」の熟語群として「草亭」を収載している。また、易林本『節用集』には、
草菴(サウアン)―庭(テイ)。―坊(バウ)。〔左・乾坤176二〕
草創(サウサウ)―案(アン)。〔左・言辞181一〕
とあって、標記語「草亭」の語は、「左」部の乾坤門及び言辞門にも未収載であることになる。
ここで、当代の古辞書のなかで『下學集』がこの語を標記語とせず、さらに、『運歩色葉集』や易林本『節用集』が同音語の「草庭(サウテイ)」の語をもって収載し、この「草亭」の語を収載していないことをどう見るかである。これに対し、広本『節用集』と印度本系統の永祿二年本・尭空本『節用集』がこの語を家屋門や乾坤門でなくして、態藝門乃至言辞門に収載することを考えておく必要があろう。意味理会として、下記に引く『日葡辞書』のいう「粗末な造りの藁家.また,貧しく賤しい家,などの意で,控え目に謙遜して言う語」でいえば、前半部の意味よりむしろ、後半部の意味理会語としていることを、当代の古辞書における態藝門乃至言辞門に収載する意識世界から読み取ることができよう。いわば、ことばの利便性と通用性のなかで、この語を当代の知識人や世人が一つの謙遜語表現として多用していたことをここに読み取るのである。逆に前半部意味である「粗末な造りの藁家」という負のことば表現を載せないといった辞書の品格性が働いていたことも見逃せまい。いわば、この意味の読み取り意識が高く、必要性の有無という編纂立場にある通俗辞書からすれば、収載するかいなかの採択が当然派生してきても不思議ではなかろう。そうした意味内容を包括した標記語のひとつがこの「草亭」の語なのであると考えてみたのである。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「草亭」の語は未収載にする。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
283以‖路次之便ヲ|可∨被‖打寄(ヨル)|之由、内々其ノ_聞ヘ候。折節草_亭見苦敷、資具(シグ) 使具足也。〔謙堂文庫藏三〇左D〕
とあって、標記語「草亭」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
草亭(サウチン)見苦敷(ミグルシク)トハ。藁(ワラ)ニテ葺(フキ)タル家ヘナリ。〔下五オ七〕
とあって、この標記語「草亭」の語注記は、「藁にて葺きたる家なり」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
折節(おりふし)草亭(さうてい)見苦敷(みぐるしく)/折節草亭見苦敷草亭ハわらふきの家をいふ。卑下の詞なり。〔三十一オ四〕
とし、標記語「草亭」にし、その語注記は「草亭ハわらふきの家をいふ。卑下の詞なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
折節(をりふし)草亭(さうてい)見苦敷(ミくるしく)/折節草亭見苦敷▲草亭ハ稾葺(わらぶき)の家をいふ。爰にハ我(わが)居宅(ゐたく)を指(さ)す。卑下(ひげ)の詞(ことば)也。〔二十六ウ一〕
折節(をりふし)草亭(さうてい)見苦敷(ミくるしく)▲草亭ハ稾葺(わらふき)の家をいふ。爰(こゝ)にハ我居宅を指(さ)す。卑下(ひげ)の詞(ことば)也。〔四十六ウ四〕
とあって、標記語「草亭」の語注記は、「草亭は、稾葺の家をいふ。爰には、我居宅を指す。卑下の詞なり」とある。
当代の『日葡辞書』には、
So<tei.サウテイ(草亭) Cusano vtena.(草のうてな)粗末な造りの藁家.§また,貧しく賤しい家,などの意で,控え目に謙遜して言う語.〔邦訳578l〕
とあって、その意味は「粗末な造りの藁家.また,貧しく賤しい家,などの意で,控え目に謙遜して言う語」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「そうてい【草亭】<名>@草ぶきの粗末な家。草ぶきの亭(ちん)。草屋。草庵。A自分の家を謙遜していう語。草屋」とある。それは『庭訓徃來』では、Aの意味にとり、古版『庭訓徃来註』にあっては、@の意味として解釈することで見えてきている。この注解の意識が古辞書収載の有無を決定付けていると考えたい。
[ことばの実際]
余(ヤツカリ)答曰「下官(/シモヘ)是レ客(タヒヽトナシ)ハ,觸∨事卑微(ヒビ/イヤシ),但(タヽ)避(サル)モノナラハ‖風塵ノミ|,則為‖幸(サ―)甚シ|。」遂止(ヤトス/トヽム)‖余於門側(ホトリ/ワキ)草亭(/アハラヤ)中(ウ―)|,良久(/ヤヽヒサシウシ)テ乃出タリ。《醍醐寺藏『遊仙窟』》
2002年1月30日(水)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)⇒日本橋丸善
「折節(をりふし)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」部に、
折節(―フシ)。境節(同)。〔元亀本77七〕
折節(――)。境節(同)。〔静嘉堂本94八〕
折節(―フシ)。境節(ヲリフシ)。〔天正十七年本上47オ五〕〔西来寺藏本〕
とあって、標記語「折節」と「境節」の語注記はいずれも未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「折節草亭見苦敷資具又散々式也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「折_節草-亭見_苦_敷、資-具又散々ノ式也」〔山田俊雄藏本〕
「折節(ヲリフシ)草_亭(サウテイ)見苦敷(グルシク)、資具(シ―)亦散々(サンザン)ノ式也」〔経覺筆本〕
「折-節(おりふし)草_亭(ソヲテイ)見-苦_敷(ミクルシク)、資具(シグ)、又散々(サン〃)ノ式ニ也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、
境節(ヲリフシ)境或ハ作ス∨折ニ。〔言辞門150三〕
とあって、標記語「境節」の語とし、その語注記を「境或ハ作ス∨折ニ」と記載する。次に広本『節用集』は、
折節(ヲリフシ/せツせツ,)[入・入]。或作‖折角/境節(ヲリフシ)|。〔態藝門218六〕
とあって、標記語「折節」の語注記は、「或作‖○○|」の注形式で「折角」と「境節」の別表記語を記載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
折節(ヲリフシ)折或作境。〔弘・言語進退68一〕
境節(ヲリフシ)箕節。〔永・言語66七〕
境節(ヲリフシ)箕節。折―。〔堯・言語60九〕
境節(ヲリフシ)時節。〔両・言語71六〕境節(ヲリフシ)時節。折節。〔両・言語74六〕
とあって、弘治二年本が、標記語「折節」で、その語注記も広本『節用集』を継承簡略化する。他は標記語を異にする。また、易林本『節用集』には、
折節(オリフシ)境(オリ)節。〔於・言辞126四〕
とあって、標記語「折節」は、「於」部に収載し、語注記に別表記語「境節」を記載する。ここで、当代の古辞書のなかで『下學集』がこの語を標記語とせずにするのに対し、広本『節用集』と印度本系統の弘治二年本『節用集』そして『運歩色葉集』易林本『節用集』がこの語を標記語として収載することを考えておく必要があろう。いわば、ことばの通用性についてである。ちなみに、下記に示した『吾妻鏡』には、「境節」は一例、「折節」は四十例見えている。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
境オリ。節同。剋同。據同。折同。〔黒川本・天象中62ウ五〕
境オリ。節。尅。據。折已上同。〔卷第六・天象281五〕
とあって、十巻本『伊呂波字類抄』に標記語「折節」の語を「おり」で単字として収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
283以‖路次之便ヲ|可∨被‖打寄(ヨル)|之由、内々其ノ_聞ヘ候。折節草_亭見苦敷、資具(シグ) 使具足也。〔謙堂文庫藏三〇左D〕
とあって、標記語「折節」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「折節」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
折節(おりふし)草亭(さうてい)見苦敷(みぐるしく)/折節草亭見苦敷。〔三十一オ四〕
とし、標記語「折節」にし、その語注記は未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
折節(をりふし)草亭(さうてい)見苦敷(ミくるしく)/折節草亭見苦敷。〔二十六オ六〕
折節(をりふし)草亭(さうてい)見苦敷(ミくるしく)。〔四十六ウ四〕
とあって、標記語「折節」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Vorifuxi.オリフシ(折節) Voricara(折柄)に同じ.折,好機会.⇒Fuqixiqi,u.〔邦訳718l〕
とあって、その意味は「折柄に同じ.折,好機会」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「おりふし【折節】[一]<名>@何かが行なわれる、また何かの状態にある時点。ちょうどその時節。場合。機会。Aその時その時。その場合場合。[二]<副>@この時機において。ちょうどその時。折から。A時々。時折。ときたま」とある。
[ことばの実際]
三品羽林、著伊豆國府境節、武衛、令坐北条給之間、景時、以專使伺子細《読み下し》三品羽林、伊豆ノ国府ニ著ク境節(ヲリフシ)、武衛、北条ニ坐セシメ給フノ間、景時、専使ヲ以テ子細ヲ伺フ。《『吾妻鏡』寿永三年三月二十七日条》この一例のみ。
而陸奥十郎義盛、〈廷尉爲義末子〉折節在京之間、帶此令旨、向東國、先相觸前兵衛佐之後、可傳其外源氏等之趣、所被仰含也《読み下し》而ルニ陸奥ノ十郎義盛、〈廷尉為義ノ末子〉、折節(ヲリフシ)在京スルノ間、此ノ令旨ヲ帯シ、東国ニ向テ、先ヅ前ノ兵衛ノ佐ニ相ヒ触レテノ後、其ノ外ノ源氏等ニ伝フベキノ趣、仰セ含メラルル所ナリ。《『吾妻鏡』治承四年四月九日条》他に三十九例あり。
2002年1月29日(火)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)⇒日本橋丸善
「内々(ナイナイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「那」部に、
内々(――)。〔元亀本165六〕〔静嘉堂本183七〕〔天正十七年本〕
内々(ナイ/\)。〔天正十七年本中22ウ三〕
とあって、標記語「内々」の読みを天正十七年本が示し、語注記はいずれも未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「以路次之便可打寄之由内々其聞候」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「以テ‖路-次ノ之便リヲ|可‖打_寄ス|之由、内-々其_聞候」〔山田俊雄藏本〕
「以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候」〔経覺筆本〕
「以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候 ()_-」〔文明四年本〕
また、『庭訓徃來』七月五日の状に、
自由之至得御意内々可被洩申也〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「内々」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
内々(ナイ〃/タイ,―)[去・○]。〔態藝門446八〕
とあって、標記語「内々」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
内々(――)。〔弘・言語進退141二〕
とあって、弘治二年本だけで、標記語「内々」の読みと語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、標記語「内々」は未収載にある。ここで、古辞書において広本『節用集』と印度本系統の弘治二年本『節用集』そして『運歩色葉集』がこの語を収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
内々。〔卷第五・重點64六〕
とあって、十巻本『伊呂波字類抄』に標記語「内々」の語を収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
283以‖路次之便ヲ|可∨被‖打寄(ヨル)|之由、内々其ノ_聞ヘ候。折節草_亭見苦敷、資具(シグ) 使具足也。〔謙堂文庫藏三〇左D〕
とあって、標記語「内々」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「内々」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
内々(ない/\)其(その)聞(きこ)ヘ候/内々其聞ヘ候其風聞ありと也。〔三十一オ三〕
とし、標記語「内々」にし、その語注記は「其の風聞ありとなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
内々(ない/\)其(その)聞(きこゑ)候(さふら)ふ/内々其聞ヘ候。〔二十六オ六〕
内々(ない/\)其(その)聞(きこえ)候(さふらふ)。〔四十六ウ三〕
とあって、標記語「内々」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Nainai.ナイナイ(内々) 内心で,または,こっそりと.§Nainai mo<xi ireo>to zonjita.(内々申入れうと存じた)私の方でこそあなたを招待しようと思ったのです,あるいは,望んだのです.§Nainaiuo vcago<.(内々を伺ふ)内心,あるいは,内部的ないきさつを尋ねる,あるいは,問いただす.すなわち,人前で公然と話したり議したりするに先立って,人の内心や意向を知る.§また,内心で時々,あるいは,内密でしばしば.〔邦訳443r〕
とあって、その意味は「内心で,または,こっそりと」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ないない【内々】[一]<名>@外から見えない内部。内側。A<形動>表向きでないこと。人に秘していること。また,そのさま。うちわ。内密。[二]<副>@物事をこssりとするさまを表わす。おもてだたず。ひそかに。うちうち。A表面には出さないで、心中ひそかに思うさまを表わす。内心では。心の中では。B(「内々は」の形で)実のところ。実際は」とある。
[ことばの実際]
二宮一禰宜、各領納幣物、可抽懇祈之由、内々申之。《読み下し》二ノ宮ノ一ノ祢宜、各幣物ヲ領納シ、懇祈ヲ抽ンヅベキノ由、内内(ナイ/\)之ヲ申ス。《『吾妻鏡』養和二年三月二十日条》
2002年1月28日(火)晴れ。東京(八王子)⇔日本橋丸善
「便(たより)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、
便同(タツ)。〔元亀本147六〕
便(タヨリ)。〔静嘉堂本159三〕
便(タツキ)。〔天正十七年本中12オ一〕
とあって、標記語「便」の読みをそれぞれ別にして示し、静嘉堂本が「たより」とする。その語注記はいずれも未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「以路次之便可打寄之由内々其聞候」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「以テ‖路-次ノ之便リヲ|可‖打_寄ス|之由、内-々其_聞候」〔山田俊雄藏本〕
「以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ∨被‖打寄|之由、内_々其ノ聞エ候」〔経覺筆本〕
「以テ‖路次之便(タヨリ)ヲ|可‖打_寄(ヨル)|之由、内−々其_聞候」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「便」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
便(タヨリ/ヘン,スナワチ)[平・去]。〔態藝門372五〕
とあって、標記語「便」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
便(タヨリ)。便(タツキ)。又ハ縁/千尋。〔弘・言語進退107一〕
便(タヨリ)。〔永・言語97一〕〔堯・言語88三〕〔両・言語107三〕
とあって、弘治二年本だけが、標記語「便」の読みとして「たより」と「たつき」を表記し、「たつき」の語注記に「又ハ縁/千尋」と記載がある。また、易林本『節用集』には、
便(タヨリ)。〔言語96一〕
とあって、標記語「便」の語注記は未記載にある。ここで、古辞書において『下學集』だけがこの語を未収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
便タヨリ。宜使倚風已上同。〔黒川本・辞字中8オ一〕
便タヨリ。宜使倚風已上タヨリ。〔卷第四・辞字430二〕
とあって、三卷本と十巻本ともに標記語「便」の語を収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
283以‖路次之便ヲ|可∨被‖打寄(ヨル)|之由、内々其ノ_聞ヘ候。折節草_亭見苦敷、資具(シグ) 使具足也。〔謙堂文庫藏三〇左D〕
とあって、標記語「便」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「便」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
路次(ろし)の便(たより)を以て打寄(うちよ)る可(へき)の由(よし)/以‖路次之便ヲ|道中のつゐてなり。可∨被‖打寄(ヨル)|之由。打寄とハ立寄といふか如し。〔三十一オ二〕
とし、標記語「便」にし、その語注記は「道中のついでなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
路次(ろぢ)之(の)便(たより)を以(もつて)打寄(うちよ)す可(べ)き之(の)由(よし)/以‖路次之便|。可キ∨被‖打寄ス|之由。〔二十六オ五〕
以(もつ)て‖路次(ろじ)之(の)便(たより)を|。可(へ)き‖打寄(うちよ)す|之(の)由(よし)。〔四十六ウ三〕
とあって、標記語「便」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Bin.ビン(便) Tayori.(便り)好機,ちょうどよい折.§例,Binuo vcago<.l,bin,fimauo vcago<.(便を窺ふ)好機会を探し求める.§Binnai mo<xigoto nagara.(便ない申し事ながら)気のひける,厚かましい事だけれども.⇒Funa〜;Te〜.〔邦訳56l〕
とあって、標記語を「びん」とし、その意味は「好機,ちょうどよい折」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「たより【便】[一]助けや、よすがとなるもの。@漠然と、すがってたのみになるものや人をいう。力になってくれるもの。よるべ。たのみ。A具体的にたのみになるもの、効果を期待するものをさしていう。イ手がかり、足がかりなど、よりどころ。ロよりどころとなる資金など。よすが。Bたのみとしてすがれるような間柄、関係などをいう。イ縁故。つて。てづる。ロ近い関係。縁。つながり。関連。C処理、とりはからい、またその時機など、主として有利と判断されるものをいう。イ便利。便宜。都合。ロ都合のよい時。よい機会。ついで。幸便。ハ手段。方法。方便。[二](便)連絡、通信などを伝えるもの。@消息などを伝える人。A消息を伝えるもの。音信。手紙。」とあって、Cハの意味となる。
[ことばの実際]
行實之宿坊者、參詣緇素群集之間隠密事、稱無其便、奉入永實之宅。《読み下し》行実ノ宿坊ハ、参詣ノ緇素群集スルノ間、隠密ノ事、其ノ便(タヨリ)無シト称シテ、永実ガ宅ニ入レ奉ル。《『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条》
2002年1月27日(日)小雨のち午後晴れ間。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「路次(ロシ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「路」部に、
路次(―シ)。〔元亀本22四〕〔天正十七年本上10ウ四〕
路次(ロシ)。〔静嘉堂本19四〕
とあって、標記語「路次」の読みを「ロシ」とし、語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「以路次之便可打寄之由内々其聞候」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「以テ‖路-次ノ之便リヲ|可‖打_寄ス|之由、内-々其_聞候」〔山田俊雄藏本〕
「以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候」〔経覺筆本〕
「以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候 ()_-」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「路次」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
路次(ロシ/ミチ,ツイデ)[去・去入]。〔天地門43二〕
とあって、標記語「路次」の語注記は、未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
路次(ロシ)。〔弘・天地15三〕〔永・天地13二〕
路次(ロシ)―頭。―傍。〔尭・天地11二〕〔両・天地12二〕
とあって、標記語「路次」の語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、
路次(ロシ)。〔乾坤11二〕
とあって、標記語「路次」の読みは「ロシ」とし、その語注記は未記載にある。ここで、古辞書において『下學集』はこの語を未収載にしていることが注目されよう。これに対し、広本『節用集』以降の古辞書はこの語を収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
路次同(過客分)/ロシ。〔黒川本・疉字上15ウ一〕
路次 〃頭。〃馬。〔卷第一・疉字128五〕
とあって、標記語「路次」の語を収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
283以‖路次之便ヲ|可∨被‖打寄(ヨル)|之由、内々其ノ_聞ヘ候。折節草_亭見苦敷、資具(シグ) 使具足也。〔謙堂文庫藏三〇左D〕
とあって、標記語「路次」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「路次」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
路次(ろし)の之便(たより)を以(もつ)て/以‖路次之便ヲ|道中のつゐてなり。〔三十一オ二〕
とし、標記語「路次」にし、その語注記は「道中のつゐてなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
路次(ろぢ)之(の)便(たより)を以て/以‖路次之便ヲ|。〔二十六オ五〕
以(もつ)て‖路次(ろじ)之(の)便(たより)を|。〔四十六ウ三〕
とあって、標記語「路次」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Roxi.ロシ(路次) 道.§Roxi sugara cataru.(路次すがら語る)道を歩きながら語る.〔邦訳542r〕
とあって、その意味は「道」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ろし【路次】@みちすじ。道の途中。みちすがら。途次。A⇒ろじ(露地)」とある。
[ことばの実際]
自〈平北郡〉赴廣常居所給漸臨昏黒之間、止宿于路次民屋給之處、當國住人、長狹六郎常伴、其志依在平家、今夜擬襲此御旅舘《読み下し》今日、〈平北ノ郡〉ヨリ広常ガ居所ニ赴キ給。漸ク昏黒ニ臨ムノ間、路次ノ民屋ニ止宿シ給フノ処ニ、当国ノ住人、長狭ノ六郎常伴、其ノ志平家ニ在ルニ依テ、今夜此ノ御旅館ヲ襲ハント擬ス。《『吾妻鏡』治承四年九月三日条》
2002年1月26日(土)曇りのち雨→雪。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「高家(カウケ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
高家(―ケ)。〔元亀本91二〕〔静嘉堂本112四〕〔天正十七年本上55オ七〕
とあって、標記語「高家」の語を収載し、語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「高家之人々」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「高家ノ人_々」〔山田俊雄藏本〕
「高家之人々」〔経覺筆本〕
「高家(カウケ)人_々」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「高家」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
高家(カウケ/タカシ,カ・イヱ)[平・平]。〔態藝門275六〕
とあって、標記語「高家」の語注記は、未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
高家(カウケ)。〔弘・言語進退86八〕
高名(カウミヤウ)―卑。―家/―下。―聞。―覧。―察/―声。―直。―運。〔尭・言語74八〕
とあって、標記語「高家」の語注記は、弘治二年本と尭空本に見えているが、語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、
高家(―(カウ)カ)。〔言語77四〕
とあって、標記語「高家」の読みは「カウカ」とし、その語注記は未記載にある。ここで、古辞書において『下學集』はこの語を未収載にしているが注目されよう。これに対し、広本『節用集』以降の古辞書はこの語を収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「高家」の語は未収載にする。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
282高家ノ人々 不レトモ∨領∨国ヲハ依テ‖有ニ∨位|高座也。〔謙堂文庫藏三〇左D〕
とあって、標記語「高家」の語注記は、「国をば領せざれども位有るに依りて高座なり」とある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「高家」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
抑(そも/\)関東(くわんとう)下向(げこう)乃大名(たいミやう)高家(かうけ)の人々(ひと/\)/抑關東下向ノ之大名高家之人々。逢坂(あふさか)の関(セき)より東を関東といひ西を関西と云。関東下向の大名高家乃人々とハ鎌倉(かまくら)へ参勤(さんきん)の人々をいふ。〔三十一オ一〕
とし、標記語「高家」にし、その語注記は「関東下向の大名・高家の人々とは、鎌倉へ参勤の人々をいふ」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
抑(そも/\)關東(くハんとう)下向(げかう)の大名(ダイミヤウ)高家(かうけ)之(の)人々(ひとびと)/抑關東下向ノ之大名高家之人々▲関東ハ逢坂(あふさか)の関(せき)より東をいふ。又坂東(はんとう)ともいふ也。〔二十六オ五〕
抑(そも/\)關東(くわんとう)下向(げかう)の之大名(たいミやう)高家(かうけ)之(の)人々(ひと/\)▲関東ハ逢坂(あふさか)の関より東をいふ。又坂東ともいふ也。〔四十七オ一〕
とあって、標記語「高家」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Co<qe.カウケ(高家) Tacai iye.(高い家)高貴な家,または,高貴な一族.§Co<qeno fito.(高家の人)貴人.⇒Tenxi.〔邦訳148r〕
とあって、その意味は「高貴な家,または,高貴な一族.貴人」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「こうけ【高家】B特に、武家の名門。由緒正しい武家の家柄」とあって、ここではBの意味でいう。
則(スナハチ)諸國ヘ相觸(アヒフレ)テ、或(アルヒ)ハ正税(シヤウゼイ)・官物(クワンモツ)ニ募(ツノ)リテ犬ヲ尋(タヅネ)、或ハ權門高家(ケンモンカウケ)ニ仰(オホセ)テ是(コレ)ヲ求(モトメ)ケル間、國々ノ守護國司(シユゴコクシ)、所々(シヨシヨ)ノ一族大名(ゾクダイミヤウ)、十疋(ビキ)二十疋(ビキ)飼立(カヒタテ)テ、鎌倉ヘ引進(ヒキマヰラ)ス。《古活字版『太平記』卷第五・相摸入道弄田樂并闘犬事》
2002年1月25日(金)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「大名(タイメイ&ダイミャウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、
大名(―ミヤウ)。〔元亀本136七〕
大石(―セキ)。〔静嘉堂本144五〕
大名(―メイ)。〔天正十七年本中4オ六〕
とあって、標記語「大名」の語を収載し、元亀本は「ダイミヤウ」、天正十七年本は「ダイメイ」とその読みが異なる。語注記はそれぞれ未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「抑関東下向大名」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「抑関-東下-向ノ之大-名」〔山田俊雄藏本〕
「抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名」〔経覺筆本〕
「抑関-東下-向之大-名」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「大名」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
大名(ダイミヤウ/―,メイ・ナ)[○・平]大名(メイ)ハ守護。大名(ミヤウ)ハ銭持(ぜニモチ)。〔人倫門334三〕
とあって、標記語「大名」の語注記は、表記文字は同じであっても読み方によって意味が異なることを注記説明する。すなわち、「ダイメイは守護。ダイミヤウは銭持ち」というのである。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
大名(―メイ)守護。大名(―ミヤウ)銭持。〔弘・人倫98七〕
大名(ダイミヤウ)――(タイメイ)守護/銭持。〔永・人倫91六〕
大名(タイメウ)守護/銭持。〔尭・人倫83四〕
大名(タイメイ)守護(シユゴ)/銭持(せニ―)。〔両・人倫100四〕
とあって、標記語「大名」の読みを「ダイメイ」と「ダイミヤウ」の二種読みが見られるのが基本であるが、この読み慣わしが、尭空本・両足院本ぐらいから崩れてきていることがわかる。その語注記は、広本『節用集』を継承している。また、易林本『節用集』には、
大名(タイメイ)。〔人倫90一〕
とあって、標記語「大名」の読みは「タイメイ」のみで、その語注記は未記載にある。ここで、古辞書において『下學集』だけが未収載にあることが注目する点となろう。それは、武家組織系統の「大名」ということばを収載しないといった、東麓破衲という編者の編纂途上で定めたことばの世界が浮き彫りとなってくる。これに対し、広本『節用集』以降の古辞書はこの語を収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「大名」の語は未収載にする。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山何日ニカ披ン‖蒙霧|哉非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ併期‖參會ヲ|抑大名下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
△三官者武衞・細川・畠山也。△四職ハ一式・山名・京極・赤松也。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』冠頭注記〕
○大名トハ三官領、武衞・細川・畠山是也。…三官ハ武衞―下職也・細川―當職也・畠山。四職ハ山名―上職也・一色・佐々木・赤松是也。○四職トハ一式・山名・京極・赤松是也。左京職・右京職・修理職・大膳職此カ職也。〔国会図書館藏左貫注本冠頭注記〕
とあって、標記語「大名」の語注記は、「三官領四職に外国を領する人なり」とある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「大名」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
抑(そも/\)関東(くわんとう)下向(げこう)乃大名(たいミやう)高家(かうけ)の人々(ひと/\)/抑關東下向ノ之大名高家之人々。逢坂(あふさか)の関(セき)より東を関東といひ西を関西と云。関東下向の大名高家乃人々とハ鎌倉(かまくら)へ参勤(さんきん)の人々をいふ。〔三十一オ一〕
とし、標記語「大名」にし、その語注記は未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
抑(そも/\)關東(くハんとう)下向(げかう)の大名(だいミやう)高家(かうけ)之(の)人々(ひとびと)/抑關東下向ノ之大名高家之人々▲関東ハ逢坂(あふさか)の関(せき)より東をいふ。又坂東(はんとう)ともいふ也。〔二十六オ五〕
抑(そも/\)關東(くわんとう)下向(げかう)の之大名(たいミやう)高家(かうけ)之(の)人々(ひと/\)▲関東ハ逢坂(あふさか)の関より東をいふ。又坂東ともいふ也。〔四十七オ一〕
とあって、標記語「大名」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Daimio<.ダイミョゥ(大名) 国の豪族,あるいは,貴人.⇒Tacai(他界);Xodaimeo<;Xotaimei.〔邦訳179l〕
Taimei.タイメイ(大名) Vo>qina na.(大きな名)土地を支配しているとか,vredoresのようなある職務に任じているとかする大身の主君や貴人.※これはvreadores(行政官)の誤植ともvradores(監査官)の誤植とも解し得るが,アジェダ文庫写本にはvereadoresと直して写してあり,日仏辞書にも(Vereador,Port.)と注記し,日西辞書はregidores(行政官)と訳している.⇒Daimio<〔邦訳604r〕
とあって、読みを「ダイミョウ」とし、その意味は「国の豪族,あるいは,貴人」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「だいみょう【大名】Bその名がそれぞれの集団、地域でなりひびている有勢者、分限者。「たいめい」が本来の呼称で、室町時代、有力な守護が室町幕府のもとで大名として家格化し、「だいみょう」とも称するようになった」とあって、ここではBの意味でいう。また、「たいめい【大名】Aだいみょう【大名】に同じ」と収載する。
[ことばの実際]
下△土佐國大名、國信、國元、助光入道等所△可早源家有志輩、同心合力追討平家事《読み下し》下ス。土佐ノ国ノ大名、国信、国元、助光入道等ノ所△早ク源家志有ル輩ハ、同心合力シ平家ヲ追討スベキ事。《『吾妻鏡』壽永三年三月一日条》
御るすの御所にけいこたいめいともにおほせつけらるる。《『御湯殿上日記』文明九年十一月十二日》
2002年1月24日(木)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「関東(クヮントゥ)」と「下向(ゲカウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部と「氣」部に、
関東(―トウ)。〔元亀本189十〕 下向(―カウ)。〔元亀本213三〕
関東(クハントウ)。〔静嘉堂本214一〕 下向(―カウ)。〔静嘉堂本242三〕
とあって、標記語「関東」と「下向」の語を収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「抑関東下向大名」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「抑関-東下-向ノ之大-名」〔山田俊雄藏本〕
「抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名」〔経覺筆本〕
「抑関-東下-向之大-名」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「関東」と「下向」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
関東(クワントウ/アツカル・せキ,ヒガシ)[上・平]或云‖開左ト|。又云‖坂東(バンドウ)ト|。〔天地門496二〕
下向(ゲカウ・クダル,―/シタ,キヤウ・ムカウ)[上去・去]。〔天地門597八〕
とあって、標記語「関東」の語注記は、「或は開左と云ふ。又、坂東と云ふ」とあって、別称を注記する。また、「下向」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
関東(クワントウ)。〔弘・天地155八〕〔尭・天地116二〕〔両・天地140七〕
関東(クハントウ)。〔永・天地127三〕
下向(―カウ)。〔弘・言語進退176二〕
下品(ゲボン)―向(カウ)。―知(ヂ)。―行(ギヤウ)。―国(コク)。―直(ジキ)。―劣(レツ)。―着(チヤク)。―輩(ハイ)。下戸(ゲコ)。―少(せウ)。―用(ヨウ)。―臈(ラウ)。〔永・言語144四〕
下品(ゲボン)―向。―知。―行。―国。―直。―劣。―着。―輩。―戸。―用。―臈。――。〔尭・言語134二〕
とあって、標記語「関東」の読みを「クワントウ」と「クハントウ」の二種表記が見られる。その語注記は未記載にある。標記語「下向」の語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
關東(クワントウ)。〔乾坤127七〕
下行(ゲキヤウ)―賤(せン)。―根(コン)。―知(ヂ)。―國(コク)。―馬(バ)。―座(サ)。―戸(コ)。―用(ヨウ)。―品(ホン)。―向(カウ)。―劣(レツ)。―下剋上(コクシヤウ)。―直(ヂキ)。〔言辞145六〕
とあって、標記語「關東」と「下向」の語注記は未記載にある。ここで、古辞書において『下學集』だけが未収載にあることが注目する点となろう。それは、関東に拘わることばを収載しないといった、東麓破衲という編者の編纂途上で定めたことばの世界があくまで京都周圏にあったことを示唆しているのかもしれない。これに対し、広本『節用集』の編者は、別称の語「関左」と「坂東」の語を「或云‖○○ト|。又云‖○○ト|」の形式をもって注記しているという差をここに見出すのである。それは、当代幕府権力と「応仁の乱」前後の世相とも大いに交錯するものであると推測したい。その別称である「関左」なる語については、下記にその用例を記載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「関東」と「下向」の語は未収載にする。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山何日ニカ披ン‖蒙霧|哉非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
とあって、標記語「関東」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
抑(ソモ/\)関東(クワントウ)下向(ゲカウ)之大-名高家(カウケ)之人_人以‖路次(ロシ)ノ之便(タヨリ)ヲ|可キ‖打寄(ウチヨス)|之由(ヨシ)、内_々其ノ聞(キコ)ヘ候。折_節(ヲリフシ)関東(クハントウ)トモ。坂東(ハン―)トモ書ナリ。相坂(アフサカ)ノ関(せキ)ヨリ東ハ皆々坂東ノ内チナルベシ。〔下五オ四〜六〕
とあって、この標記語「関東」の語注記は、「関東とも、坂東とも書くなり。相坂の関より東は、皆々坂東ノ内ちなるべし」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
抑(そも/\)関東(くわんとう)下向(げこう)乃大名(たいミやう)高家(かうけ)の人々(ひと/\)/抑關東下向ノ之大名高家之人々。逢坂(あふさか)の関(セき)より東を関東といひ西を関西と云。関東下向の大名高家乃人々とハ鎌倉(かまくら)へ参勤(さんきん)の人々をいふ。〔三十一オ一〕
とし、標記語「関東」にし、その語注記は、「逢坂の関より東を関東といひ、西を関西と云ふ。関東下向の大名高家の人々とは、鎌倉へ参勤の人々をいふ」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
抑(そも/\)關東(くハんとう)下向(げかう)の大名(だいミやう)高家(かうけ)之(の)人々(ひとびと)/抑關東下向ノ之大名高家之人々▲関東ハ逢坂(あふさか)の関(せき)より東をいふ。又坂東(はんとう)ともいふ也。〔二十六オ五〕
抑(そも/\)關東(くわんとう)下向(げかう)の之大名(たいミやう)高家(かうけ)之(の)人々(ひと/\)▲関東ハ逢坂(あふさか)の関より東をいふ。又坂東ともいふ也。〔四十七オ一〕
とあって、標記語「関東」の語注記は、「関東は、逢坂の関より東をいふ。又坂東ともいふなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Quanto>.クヮントゥ(関東) すなわち,To>gocu.(東国)東の地方にある日本のいくつかの国々.〔邦訳519r〕
Gueco<.ゲカゥ(下向) Cudari muco<.(下り向ふ)高い所から下ること。主として都(Miyaco)から下ること.⇒次条.〔邦訳294l〕
†Gueco<.*ゲカゥ(下向) §また,イゲレジヤ(Igreja教会)から家へ帰ること. 〔邦訳294l〕
とあって、「関東」の意味は「すなわち,東国、東の地方にある日本のいくつかの国々」で、「下向」の意味は「高い所から下ること。主として都から下ること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「かんとう【関東】[一](関所の東の意)一奈良時代以来、伊勢国の鈴鹿(すずか)、美濃国の不破(ふわ)、越前国の愛発(あらち)の三関の東の地。のち、近江(滋賀県)の逢坂(おうさか)の関より東方、またその諸国の総称。また、関東地方をさし、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八か国(関八州)を総称した。二「かんとうちほう(関東地方)」の略。三(中国で)@函谷関より東の地方。以前の満州、おもに現在の河南省北部および山東省をさす。A山海関より東の地方。現在の黒龍江、吉林、遼寧の東北三省にあたる。[二](関東における政治的な中枢をさしていう)@鎌倉幕府、または幕府方のこと。A室町時代、関東公方(くぼう)、関東管領(かんれい)のこと。B江戸幕府、またはその將軍のこと。C「かんとう(関東)の連小便」の略。D腹掛けをいう、盗人仲間の隠語」とあって、ここでは[二]@の意味をいう。また、「げこう【下向】@高い所から低い所へおりて行くこと。A都から地方へ行くこと。くだること。B「げこう(還向)」に同じ。C「げぎょう(下行)」に同じ」という。
[ことばの実際]
此間、兄弟共屬知盛卿、在京都而八月以後、頻有關東下向之旨《読み下し》此間、兄弟共ニ知盛卿ニ属シテ、京都ニ在リ。而ルニ八月ヨリ以後、頻ニ関東下向ノ旨有リ(*志有リ)。《『吾妻鏡』治承四年十月十九日条》
關左之一路、殘破者多矣。《『空華日用工夫略集』應安三年(1370)九月二日,(空華日工集)義堂周信1325-1388年・太洋社,思文閣出版》
2002年1月23日(水)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「謝(シヤ)す」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、標記語「謝」の語注記は未収載にある。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「非面談者更不可謝之」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「非ンハ‖面談ニ|者更ニ不∨可∨謝之ヲ」〔山田俊雄藏本〕
「非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更ニ不ス∨可ラ∨謝ス之ヲ」〔経覺筆本〕
「非(アラズ)ンハ‖面談(タン)ニ|者ハ更ニ不∨可∨謝ス之ヲ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』や易林本『節用集』は、標記語「謝」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
不(ズ/フウ)[平去]∨謝(ジヤ)せ[去]。可(ベシ/カ)[上]∨―ス。難(ガタシ/ナン)∨―シ。奉(タテマツル/ホウ)[上]∨―。述(ノブル/シユツ)[入]∨―ヲ。盡(ツクス/シン)[上]∨―ヲ。〔態藝門957七〕
とあって、標記語「可謝」の語を収載し、読みを「ジヤすべし」とし、その語注記は未記載にある。
また、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』に、
謝シヤス/辞夜反/辞―。〔黒川本・辞字下75オ3〕
とあって、標記語「謝」を反切「辞夜」であるからして「ジヤす」となり、収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山。何日ニカ披ン‖蒙霧|哉。非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ。併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
※謝(ムクフ・マウス/カシコマル・コトワル)〔国会図書館藏左貫注〕
とあって、標記語「謝」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
積鬱(せキウツ)如シ∨山ノ。何ノ_日カ披(ヒラカ)ン‖朦霧(モウム)ヲ|哉。非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更(サラ)ニ不ス∨可ラ∨謝(シヤ)ス∨之(コレ)ヲ。併(シカシ)ナカラ期ス‖參會(サンクワイ)ヲ|積鬱(せキウツ)トハ。イキドヲリツムト云リ。朦(モウ)ノ字(ジ)文書ニウチヲボウトヨメリ。又晴(ハレ)ヤラヌ方ヲ以テ。霧ト謂(イヒ)ツヽケタリ。文選(モンぜン)ニ朦(モウ)ノ字ヲ物思(ヲモ)ヒトヨメリ。〔下五オ二〕
とあって、この標記語「謝」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
面談(めんたん)に非(あらす)んハ更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可不(へからす)/非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更ニ不ス∨可ラ∨謝ス∨之ヲ。面談とは相見て物語(ものかた)りする事也。謝すとは申述(のふ)る事也。言こゝろハ所詮(しよせん)相逢(あ)ふて物かたりするにあらされは心中の事申のべかたしと也。此文抑二月廿三日の書状と全く同案也。〔三十一オ五〕
とし、標記語「謝」にし、その語注記は、「謝すとは、申述ぶることなり。言ふこゝろは、所詮相ひ逢ふて物がたりするにあらざれば、心中の事申しのべがたしとなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
良久(やゝひさし)く御面謁(めんゑつ)を隔(へだ)て積鬱(せきうつ)山(やま)乃如(ごと)し。何(いづれ)の日(ひ)か朦霧(もうむ)を披(ひら)かん哉(や)。面談(めんだん)に非(あら)ずん者(バ)更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可(べ)から不(す)。併(しかしながら)參會(さんくわい)を期(ご)す/良久ク隔テ‖面謁ヲ|。積鬱如シ∨山ノ何ノ日カ披カン‖朦霧ヲ|哉。非スン‖面談ニ|者。更ニ不∨可カラ∨謝ス之ヲ。併期ス‖參會ヲ|▲謝ハ侘告(わびつぐ)る也。〔二十六オ四〕
良久(やゝひさし)く隔(へた)て‖面謁(めんゑつ)を|。積鬱(せきうつ)如(こと)し∨山(やま)の何(いつれ)の日(ひ)か披(ひら)かん‖朦霧(もうむ)を|哉や。非(あら)すん‖面談(めんたん)に|者バ。更(さら)に不す∨可(へか)ら∨謝(しや)す∨之(これ)を。併(しかしなから)期(ご)す‖參會(さんくわい)を|▲謝ハ侘告(わびつぐ)る也。〔四十六ウ一〕
とあって、標記語「謝」の語注記は、「謝は、侘び告ぐるなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Iaxi,suru,ita.ジャシ,スル,シタ(謝し,する,した) 返礼をする.IA(謝)の条を見よ.〔邦訳355r〕
とあり、標記語「謝」の意味は「返礼をする」という。ちなみに、現代の『日本国語大辞典』第二版には、「しゃ-・する【謝】(古くは「じゃする」とも)[一]@いとまごいをして立ち去る。辞去する。立ち退(の)く。A花などがしぼむ。しぼんで落ちる。凋落(ちょうらく)する。おとろえる。[二]@あやまる。詫びる。謝罪する。A感謝する。礼を言う。Bことわる。謝絶する。C恨みなどを晴らす。とり除く。払い落とす。立ち切る。Dひけをとる。譲る。[補注](1)「謝」の字音は、呉音ジャ、漢音シャで、古くは濁音であった」とある。
[ことばの実際]
被仰洪水之間、不意遅留之旨、定綱等謝申之〈云云〉。《読み下し》洪水ノ間、意ナラズ遅留スルノ旨、定綱等之ヲ謝シ申スト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年八月十七日条》
2002年1月22日(火)晴れ、紅梅・白梅の花満開。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「面談(メンダン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「免」部に、
面談(メンダン)。〔元亀本296二〕
面談(―ダン)。〔静嘉堂本344二〕
とあって、標記語「面談」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「非面談者更不可謝之」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「非ンハ‖面談ニ|者更ニ不∨可∨謝之ヲ」〔山田俊雄藏本〕
「非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更ニ不ス∨可ラ∨謝ス之ヲ」〔経覺筆本〕
「非(アラズ)ンハ‖面談(タン)ニ|者更不∨可∨謝ス之ヲ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「面談」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
面談(メンダン/ヲモテ,カタル)[去・平]。〔態藝門876八〕
とあって、標記語「面談」の語を収載し、その語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』や易林本『節用集』は、「面謁」のところに収載したので、ここでは省略する。また、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』にあっても同じく省略する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山。何日ニカ披ン‖蒙霧|哉。非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ。併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
とあって、標記語「面談」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
積鬱(せキウツ)如シ∨山ノ。何ノ_日カ披(ヒラカ)ン‖朦霧(モウム)ヲ|哉。非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更(サラ)ニ不ス∨可ラ∨謝(シヤ)ス之(コレ)ヲ。併(シカシ)ナカラ期ス‖參會(サンクワイ)ヲ|積鬱(せキウツ)トハ。イキドヲリツムト云リ。朦(モウ)ノ字(ジ)文書ニウチヲボウトヨメリ。又晴(ハレ)ヤラヌ方ヲ以テ。霧ト謂(イヒ)ツヽケタリ。文選(モンぜン)ニ朦(モウ)ノ字ヲ物思(ヲモ)ヒトヨメリ。〔下五オ二〕
とあって、この標記語「面談」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
面談(めんたん)に非(あらす)んハ更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可不(へからす)/非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更ニ不ス∨可ラ∨謝ス之ヲ。面談とは相見て物語(ものかた)りする事也。謝すとは申述(のふ)る事也。言こゝろハ所詮(しよせん)相逢(あ)ふて物かたりするにあらされは心中の事申のべかたしと也。此文抑二月廿三日の書状と全く同案也。〔三十一オ五〕
とし、標記語「面談」にし、その語注記は、「面談とは、相見て物語りする事なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
良久(やゝひさし)く御面謁(めんゑつ)を隔(へだ)て積鬱(せきうつ)山(やま)乃如(ごと)し。何(いづれ)の日(ひ)か朦霧(もうむ)を披(ひら)かん哉(や)。面談(めんだん)に非(あら)ずん者(バ)更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可(べ)から不(す)。併(しかしながら)參會(さんくわい)を期(ご)す/良久ク隔テ‖面謁ヲ|。積鬱如シ∨山ノ何ノ日カ披カン‖朦霧ヲ|哉。非スン‖面談ニ|者。更ニ不∨可カラ∨謝ス之ヲ。併期ス‖參會ヲ|▲面談ハ相会(あいあふ)て物語(ものかたり)する也。〔二十六オ四〕
良久(やゝひさし)く隔(へた)て‖面謁(めんゑつ)を|。積鬱(せきうつ)如(こと)し∨山(やま)の何(いつれ)の日(ひ)か披(ひら)かん‖朦霧(もうむ)を|哉や。非(あら)すん‖面談(めんたん)に|者バ。更(さら)に不す∨可(へか)ら∨謝(しや)之(これ)を。併(しかしなから)期(ご)す‖參會(さんくわい)を|▲面談ハ相会(あいあ)うて物語(ものかたり)するなり。〔四十六ウ一〕
とあって、標記語「面談」の語注記は、「面談は、相会うて物語するなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Mendan.メンダン(面談) すなわち,Gigini cataru.(直に談る)面と向かって,または,互いに会って話すこと.例,Mendanuo toguru.(面談を遂ぐる)会って互いに話す.※Giqiniの誤植.〔邦訳396r〕
とあり、標記語「面談」の意味は「面と向かって,または,互いに会って話すこと」という。ちなみに、現代の『日本国語大辞典』第二版には、「めんだん【面談】面会して直接に話すこと。面話。面議。」とある。
[ことばの実際]
明王院僧正、被參御所將軍家、有御面談、園城寺興隆事、豫州刺史禪室以後、源家代々之間、令歸當寺給事、具述旨趣。《読み下し》明王院ノ僧正、御所ニ参ラル。将軍家、御面談有リ、園城寺興隆ノ事、予州刺史禅室ヨリ以後、源家代代ノ間、当寺ニ帰セシメ給フ事、具ニ旨趣ヲ述ブ。《『吾妻鏡』承元三年十月十五日条》
2002年1月21日(月)雨午後雷雨。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「蒙霧(モウム)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部に、「濛々(モウ/\), 濛氣(キ),蒙昧(マイ),蒙堂(タウ)禅家,蒙求(モウギウ),蒙古(コ)享徳元壬申――死骸長十六丈着于九州浦至天文十七戌申一百七年也,蒙恬(テン)始∨造∨筆ヲ|者也」「朦朧(モウロウ)」とあるにとどまり、なぜか、標記語「蒙霧」乃至「朦霧」の語は未収載にある。
古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「何日披蒙霧哉」〔至徳三年本〕「何日披朦霧哉」〔建部傳内本〕
「何レノ_日カ披ンヤ‖朦霧ヲ|哉」〔山田俊雄藏本〕
「何日ニカ披ン‖蒙霧|哉」〔経覺筆本〕
「何レノ_日カ披(ヒラカ)ン‖蒙-霧(モウム)ヲ|哉」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。この「モウム」の表記だが、古写本に「蒙霧」と「朦霧」とが見えている。古辞書『下學集』広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語「蒙霧」及び「朦霧」の語を未収載にする。また、易林本『節用集』には、
蒙求(モウギウ)書ノ名。―昧(マイ)。―愚(グ)。―霧(ブ)。―欝(ウツ)。―氣(キ)。〔言辞231四〕
とあって、標記語「蒙求」の冠頭字「蒙」の熟語群五語として注記収載する。ここで、古辞書において『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の『節用集』、『運歩色葉集』に未収載にあるのに対して、易林本『節用集』に収載されているといった偏りがこの語にあることをどう見るかが今後の鍵となろう。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、
蒙露。〔黒川本・疉字下100ウ一〕
蒙籠 〃霧。〃昧。〔卷第十・疉字423五〕
とあって、三卷本は、標記語「蒙霧」でなく、「蒙露」の語を収載する。これに対し、十巻本『伊呂波字類抄』は、標記語「蒙籠」の注記語群に「蒙霧」を収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山。何日ニカ披ン‖蒙霧|哉。非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ。併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
とあって、標記語「蒙霧」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
積鬱(せキウツ)如シ∨山ノ。何ノ_日カ披(ヒラカ)ン‖朦霧(モウム)ヲ|哉。非(アラズ)ンバ‖面談(ダン)ニ|者ハ更(サラ)ニ不ス∨可ラ∨謝(シヤ)ス之(コレ)ヲ。併(シカシ)ナカラ期ス‖參會(サンクワイ)ヲ|積鬱(せキウツ)トハ。イキドヲリツムト云リ。朦(モウ)ノ字(ジ)文書ニウチヲボウトヨメリ。又晴(ハレ)ヤラヌ方ヲ以テ。霧ト謂(イヒ)ツヽケタリ。文選(モンぜン)ニ朦(モウ)ノ字ヲ物思(ヲモ)ヒトヨメリ。〔下五オ二〕
とあって、この標記語「朦霧」の語注記は、「「朦」の字、文書にうちを「ボウ」とよめり。又晴れやらぬ方を以って。霧と謂ひつづけたり。『文選』に「朦(モウ)」の字を「物思ひ」とよめり」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
何(いつ)れ乃日(ひ)か朦霧(もうむ)を披(ひらか)ん/何日ニカ披ン‖朦霧ヲ|朦霧ハ。くらききり也。心の欝(うつ)々として気の延(の)ひさる時ハ霧のおほひたるか如くこゝろ乃晴(はれ)ぬもの故形容(けいよう)して朦霧と書しなり。云こゝろハいつのころか御邊(ごへん)と相語(あいかたら)ふて此積鬱を散(さん)せんやとなり。〔三十一オ三〕
とし、標記語「蒙霧」にし、その語注記は、「朦霧は、「くらききり」なり。心の欝々として気の延びざる時は、霧のおほひたるが如く、こゝろの晴れぬもの故、形容して「朦霧」と書きしなり。云ふこゝろは、いつのころか御邊と相語らふて、此積鬱を散ぜんやとなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
良久(やゝひさし)く御面謁(めんゑつ)を隔(へだ)て積鬱(せきうつ)山(やま)乃如(ごと)し。何(いづれ)の日(ひ)か朦霧(もうむ)を披(ひら)かん哉(や)。面談(めんだん)に非(あら)ずん者(バ)更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可(べ)から不(す)。併(しかしながら)參會(さんくわい)を期(ご)す/良久ク隔テ‖面謁ヲ|。積鬱如シ∨山ノ何ノ日カ披カン‖朦霧ヲ|哉。非スン‖面談ニ|者。更ニ不∨可カラ∨謝ス之ヲ。併期ス‖參會ヲ|▲朦霧ハうすくらき霧(きり)也。心のはれやらぬにたとふ。〔二十六オ四〕
良久(やゝひさし)く隔(へた)て‖面謁(めんゑつ)を|。積鬱(せきうつ)如(こと)し∨山(やま)の何(いつれ)の日(ひ)か披(ひら)かん‖朦霧(もうむ)を|哉や。非(あら)すん‖面談(めんたん)に|者バ。更(さら)に不す∨可(へか)ら∨謝(しや)之(これ)を。併(しかしなから)期(ご)す‖參會(さんくわい)を|▲朦霧ハうすくらき霧(きり)也。心のはれやらぬにたとふ。〔四十六ウ一〕
とあって、標記語「朦霧」の語注記は、「蒙霧は、うすくらき霧なり。心のはれやらぬにたとふ」という。
当代の『日葡辞書』には、標記語「蒙霧」及び「朦霧」の語を未収載にする。ちなみに、現代の『日本国語大辞典』第二版には、「もうむ【蒙霧・朦霧・濛霧】@もうもうと立ちこめる霧。A心の晴れないこと,胸中のふさがることのたとえ」とある。
[ことばの実際]
院宣、武士不承引歟若爲緩官軍之心、忽以被廻竒謀歟倩思次第、迷惑恐歎、未散蒙霧候也。《読み下し》院宣ヲ下サルト雖モ、武士承引セザルカ。若シ官軍ノ心ヲ緩ベンガ為ニ、忽以テ奇謀ヲ廻サルルカ。倩次第ヲ思ヘバ、迷惑恐歎、未ダ蒙霧ヲ散ゼズ候フナリ(「朦夢」)。《『吾妻鏡』寿永三年二月二十日条》
2002年1月20日(日)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(玉川⇒駒沢)
「積鬱(セキウツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、
積鬱(セキウツ)。〔元亀本352四〕〔静嘉堂本424三〕
とあって、標記語「積鬱」の語を収載し、その語注記未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「面謁隔面謁積鬱如山」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「良_久隔ツ‖面-謁ヲ|積-鬱如シ∨山ノ」〔山田俊雄藏本〕
「良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山」〔経覺筆本〕
「良_久隔(ヘタ)テ‖面-謁ヱツヲ|積-鬱(せキウツ)如シ∨山ノ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「積鬱」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
積鬱(せキウツ/ツム,フサガレ)[去入・入]。―雪(せツ/ユキ)[入]。―深(シン/フカシ)[去]。―学(ガク/マナブ)[入]。〔態藝門1094五〕
とあって、標記語「積鬱」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語「積鬱」の語を未収載にある。また、易林本『節用集』には、
積鬱(せキウツ)。〔言辞237一〕
とあって、標記語「積鬱」の語注記は未記載にある。ここで、古辞書において『下學集』、印度本系統の『節用集』に未収載にあるのに対して、広本『節用集』『運歩色葉集』易林本『節用集』に収載されているといった偏りがこの語にあることをどう見るかが今後の鍵となろう。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「積鬱」の語は、未収載にする。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山何日ニカ披ン‖蒙霧|哉非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
とあって、標記語「積鬱」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
積鬱(セキウツ)如シ∨山ノ何_ノ日カ披(ヒラカ)ン‖蒙霧(モウム)ヲ|哉非(アラズ)ンハ‖面談(ダン)ニ|者ハ更(サラ)ニ不ス∨可ラ∨謝(シヤ)ス之(コレ)ヲ併(シカシ)ナカラ期ス‖參會(サンクワイ)ヲ|積鬱(せキウツ)トハ。イキドヲリツムト云リ。朦(モウ)ノ字(ジ)文書ニウチヲボウトヨメリ。又晴(ハレ)ヤラヌ方ヲ以テ。霧ト謂(イヒ)ツヽケタリ。文選(モンぜン)ニ朦(モウ)ノ字ヲ物思(ヲモ)ヒトヨメリ。〔下五オ二〕
とあって、この標記語「積鬱」の語注記は、「積鬱とは、「イキドヲリツム」と云へり」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
積鬱(せきうつ)山(やま)の如(こと)く/積鬱(セキウツ)如シ∨山ノ。積鬱とは久しく相見(まミヘ)て語(かた)らハさるによりおもひ慕(した)ふ事の忝しくて宋のむすひをりたるをいふ山のことしとハ多きにたとへたるなり。〔三十一オ一〕
とし、標記語「積鬱」にし、その語注記は、「積鬱とは、久しく相見へて語らハざるにより、おもひ慕ふ事の忝しくて、気のむすびをりたるをいふ。山のごとしとは、多きにたとへたるなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
良久(やゝひさし)く御面謁(めんゑつ)を隔(へだ)て積鬱(せきうつ)山(やま)乃如(ごと)し。何(いづれ)の日(ひ)か蒙霧(もうむ)を披(ひら)かん哉(や)。面談(めんだん)に非(あら)ずん者(バ)更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可(べ)から不(す)。併(しかしながら)參會(さんくわい)を期(ご)す/良久ク隔テ‖面謁ヲ|。積鬱如シ∨山ノ何ノ日カ披カン‖朦霧ヲ|哉。非スン‖面談ニ|者。更ニ不∨可カラ∨謝ス之ヲ。併期ス‖參會ヲ|▲積鬱ハ念(おもひ)の欝々(むし/\)としたるか胸(むね)に積(つも)りたる也。〔二十六オ三〕
良久(やゝひさし)く隔(へた)て‖面謁(めんゑつ)を|。積鬱(せきうつ)如(こと)し∨山(やま)の何(いつれ)の日(ひ)か披(ひら)かん‖朦霧(もうむ)を|哉や。非(あら)すん‖面談(めんたん)に|者バ。更(さら)に不す∨可(へか)ら∨謝(しや)之(これ)を。併(しかしなから)期(ご)す‖參會(さんくわい)を|▲積鬱ハ念(おもひ)の欝々(むし/\)としたるが胸(むね)に積(つも)りたる也。〔四十六オ四〕
とあって、標記語「積鬱」の語注記は、「積鬱は、念ひの欝々としたるが胸に積りたるなり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Xeqiut.セキウツ(積鬱) 人が何かを欲しがったり,何かに心を奪われたりしている.その積り重なった願望や存念.文書語.〔邦訳755r〕
とあって、その意味は「人が何かを欲しがったり,何かに心を奪われたりしている.その積り重なった願望や存念.文書語」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「せきうつ【積鬱】@うっとしい天候がながく続くこと。連日、天気が晴れないこと。A苦しくつらい気持ちが積り重なること。心配がつもること。また、その心配。B長くつづく沈滞」とある。
[ことばの実際]
さればにや、御氣色(きしよく)もあしく、傍輩(はうばい)も、側目(そばめ)にかけければ、積鬱(せきうつ)たゑすかと思ひこがれて、ひそかに本國(ほんごく)にくだり、大見庄(おうみのしやう)に住(ぢう)して、《『曽我物語』卷一、伊東二郎と祐経が争論の事》
2002年1月19日(土)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢⇔上野)
「面謁(メンエツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「免」部に、
面謁(メンカツ)。〔元亀本296二〕
面謁(―エツ)。〔静嘉堂本344三〕
とあって、標記語「面謁」の語を収載し、その語注記未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「面謁隔面謁積鬱如山」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「良_久隔ツ‖面-謁ヲ|積-鬱如シ∨山ノ」〔山田俊雄藏本〕
「良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山」〔経覺筆本〕
「良_久隔(ヘタ)テ‖面-謁ヱツヲ|積-鬱(せキウツ)如シ∨山ノ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、
面展(メンテン)面拝ノ之義也。〔態藝門93七〕
とあって、標記語「面謁」や「面拝」の語はなく、別な標記語「面展」の語を収載し、その語注記に「面拝の義なり」という。次に広本『節用集』は、
面目(メンボク/ヲモテ,メ)[去・○]。―謁(ヱツ/マウス)[入]。―拝(ハイ/ヲガム)[去]。―談(ダン/カタル)[平]。―話(ワ/クワチ,カタル)[去]。―展(テン/ノブル)[上]。―賀(カ/ヨロコブ)[去]。―打(チヤウ/テイ・ウツ)[上]。―奏(ソウ/スヽム)[去]。―交(カウ/マジワル)[平]。人ヲ少シ見(ミル)義。〔態藝門876八〕
とあって、標記語「面謁」の語、さらに「面拝」や「面展」の語を収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
面目(メンボク)―謁(ヱツ)。―談(ダン)。―活(クワツ)。―打(チヤウ)。―展(テン)―謁義同。―皮(ヒ)。―拝(ハイ)。〔弘・言語進退229五〕
面拝(メンハイ)―談(ダン)。―展(テン)。―謁(エツ)。―目(ボク)。―活(クハツ)。―皮(ヒ)。―賀(カ)。―打(チヤウ)。〔永・言語191二〕
面拝(メンハイ)―談。―展。―謁。―目。―活。―皮。―賀。―打。―体。〔尭・言語180六〕
とあって、標記語「面謁」の語を収載し、さらに「面拝」や「面展」の語を収載し、語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、
面謁(メンエツ)―談(ダン).―拝(ハイ).―話(ワ).―張(チヤウ).―道(タウ).―目(モク).―會(クワイ).―皮(ヒ).―上(ジヤウ).―受口决(ジユクケツ).―壁(ヘキ).―展(テン).―打(チヤウ)。〔言辞196六〕
とあって、標記語「面謁」の語を収載し、さらに「面拝」や「面展」の語を収載し、語注記は未記載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「面謁」の語は、
面談言語部/メンタン/集會分。面謁同/メンエツ。面拝同/メンハイ。〔黒川本・疉字下60オ四〕
面目〃拝。〃覲。〃談。〃前。〃子。〃諛。〃謁。〃展。〃縛。〃勤。〔卷第九52三〕
とあって、「面謁」の語を収載する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山何日ニカ披ン‖蒙霧|哉非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
とあって、標記語「面謁」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
隔(ヘタ)テ‖面謁(ヱツ)ヲ|トハ。相_述せント云心ナリ。〔下五オ二〕
とあって、この標記語「面謁」の語注記は、「相述せんと云心なり」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
良久(やゝひさし)く御面拝(めんはい)を隔(へた)て/良_久隔ツ‖面拝ヲ|久しく相見さるをいふ。〔三十一オ一〕
とし、標記語「面拝」にし、その語注記は、未記載にある。「久しく相見さるをいふ」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
良久(やゝひさし)く御面謁(めんゑつ)を隔(へだ)て積鬱(せきうつ)山(やま)乃如(ごと)し。何(いづれ)の日(ひ)か蒙霧(もうむ)を披(ひら)かん哉(や)。面談(めんだん)に非(あら)ずん者(バ)更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可(べ)から不(す)。併(しかしながら)參會(さんくわい)を期(ご)す/良久ク隔テ‖面謁ヲ|。積鬱如シ∨山ノ何ノ日カ披カン‖朦霧ヲ|哉。非スン‖面談ニ|者。更ニ不∨可カラ∨謝ス之ヲ。併期ス‖參會ヲ|。〔二十六オ二〕
良久(やゝひさし)く隔(へた)て‖面謁(めんゑつ)を|。積鬱(せきうつ)如(こと)し∨山(やま)の何(いつれ)の日(ひ)か披(ひら)かん‖朦霧(もうむ)を|哉や。非(あら)すん‖面談(めんたん)に|者バ。更(さら)に不す∨可(へか)ら∨謝(しや)之(これ)を。併(しかしなから)期(ご)す‖參會(さんくわい)を|。〔四十六オ四〕
とあって、標記語「面謁」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Menyet.メンエツ(面謁) 行って人に会うこと,または,人に出会うこと.文書語.〔邦訳397r〕
とあって、その意味は「行って人に会うこと,または,人に出会うこと.文書語」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「めんえつ【面謁】貴人に会うこと。目上の人と対面すること。お目にかかること。拝謁。おめみえ」とある。
[ことばの実際]
三品羽林、著伊豆國府境節、武衛、令坐北条給之間、景時、以專使伺子細早相具、可參當所之由被仰仍伴參但明旦可遂面謁(エツ)之由、被仰羽林〈云云〉。《読み下し》三品羽林、伊豆ノ国府ニ著ク境節、武衛、北条ニ坐セシメ給フノ間、景時、専使ヲ以テ子細ヲ伺フ。早ク相ヒ具シテ、当所ニ参ズベキノ由仰セラル。仍テ伴ヒ参ル。但シ明旦面謁ヲ遂グベキノ由、羽林ニ仰セラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永三年三月二十七日条》
2002年1月18日(金)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(用賀⇔駒沢)
「良久(ややひさしく)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、
良(ヤヽ)。稍(同)。〔元亀本205四〕〔静嘉堂本233一〕〔天正十七年本中45ウ七〕
とあって、標記語「良」の語を和語副詞「やや」として収載し、その語注記未記載にする。次の標記語「久」の語を和語形容詞「ひさし」としては未収載している。古写本『庭訓徃來』五月九日の状に、
「良久隔面謁積鬱如山」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「良_久隔ツ‖面-謁ヲ|積-鬱如シ∨山ノ」〔山田俊雄藏本〕
「良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山」〔経覺筆本〕
「良_久隔(ヘタ)テ‖面-謁ヱツヲ|積-鬱(せキウツ)如シ∨山ノ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「良」と「久」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
良久(ヤヽヒサシ/リヤウ・ヨシ,キウ)[平・上]。〔態藝門562四〕
とあって、標記語「良久」の語を収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
良久(ヤヽヒサシ)。〔弘・言語進退167五〕〔永・言語136九〕〔尭・言語125九〕
とあって、標記語「良久」の語を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
良久(ヤヽヒサシ)。〔言辞138四〕
とあって、標記語「良久」の語を収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「良久」の語は、
稍ヤ〃。頗。良―久。差初生反/―肩。衍已上同。〔黒川本・辞字中86オ八〕
差ヤ〃。稍。衍。頗。徐緩也。安行。良已上同/―久。〔卷第六534三〕
とあって、「やや」の語訓を示す標記語中、「良」字の注記に「良久」の語を収載する。
ここで、さらに古字書をもって確認するに、観智院本『類聚名義抄』に、
良久ヤヽヒサシ[上・上・○○○]。〔法下40三〕
とあり、語訓「ややひさし」の語を確認する。
これを『庭訓往来註』五月九日の状に、
281良久隔ツ‖面謁ヱツヲ|積鬱如シ∨山何日ニカ披ン‖蒙霧|哉非ンハ‖面談ニ|者更不∨可∨謝之ヲ併期‖參會ヲ|抑関東下向之大名 三官領四職ニ外国ヲ領スル人也。〔謙堂文庫藏三〇左B〕
とあって、標記語「良久」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
良久トハ。遠クシテ相(アイ)見(ミヌ)事。〔下五オ二〕
とあって、この標記語「良久」の語注記は、「遠くして相見ぬこと」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
良久(やゝひさし)く御面拝(めんはい)を隔(へた)て/良_久隔ツ‖面拝ヲ|久しく相見さるをいふ。〔三十一オ一〕
とし、標記語「良久」に対する語注記は、未記載にある。「久しく相見さるをいふ」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
良久(やゝひさし)く御面謁(めんゑつ)を隔(へだ)て積鬱(せきうつ)山(やま)乃如(ごと)し。何(いづれ)の日(ひ)か蒙霧(もうむ)を披(ひら)かん哉(や)。面談(めんだん)に非(あら)ずん者(バ)更(さら)に之(これ)を謝(しや)す可(べ)から不(す)。併(しかしながら)參會(さんくわい)を期(ご)す/良久ク隔テ‖面謁ヲ|。積鬱如シ∨山ノ何ノ日カ披カン‖朦霧ヲ|哉。非スン‖面談ニ|者。更ニ不∨可カラ∨謝ス之ヲ。併期ス‖參會ヲ|。〔二十六オ二〕
良久(やゝひさし)く隔(へた)て‖面謁(めんゑつ)を|。積鬱(せきうつ)如(こと)し∨山(やま)の何(いつれ)の日(ひ)か披(ひら)かん‖朦霧(もうむ)を|哉や。非(あら)すん‖面談(めんたん)に|者バ。更(さら)に不す∨可(へか)ら∨謝(しや)之(これ)を。併(しかしなから)期(ご)す‖參會(さんくわい)を|。〔四十六オ四〕
とあって、標記語「良久」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Yaya fisaxu<.ヤヤヒサシュゥ(稍久しう)長時間の間.〔邦訳814l〕
とあって、その意味は「長時間の間」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「やや久(ひさ)し【良久】長時間の傾向を帯びる意。かなりの時間が経過したさま。だいぶん時が過ぎている」とある。
[ことばの実際]
大連良久(ヤヽヒサシク)シテ至ル。《『日本書紀』(720年)用明元年五月(図書寮本訓)》
又爲令見放火之煙、以御廐舎人江太新平次、雖令昇于樹之上、良久不能見煙之間、召爲宿直所被留置之加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家等被仰云、速赴山木、可遂合戰〈云云〉。《読み下し》又放火ノ煙ヲ見シメンガ為ニ、御厩舎人江太ノ新平次ヲ以テ、樹ノ上ニ昇ラシムト雖モ、良久シク煙ヲ見ルコト能ハザルノ間、宿直ノ為ニ留メ置カルル所ノ加藤次景廉、佐佐木ノ三郎盛綱、堀ノ藤次親家等ヲ召シ、仰セラレテ云ク、速ク山木ニ赴キ、合戦ヲ遂グベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年八月十七日条》
強力之甚不似若少、相爭之處、對揚良久〈云云〉《読み下し》強力ノ甚シキコト若少ニ似ズ、相ヒ争フノ処ニ、対揚ニシテ良久シト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治五年八月十日条》
2002年1月17日(木)曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「催(もよほし)進(シンず)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部に、
催(モヨヲス)。促(同)。〔元亀本351五〕〔静嘉堂本423一〕
進(スヽム)。勧(同)。前(同)。薦(同)。〔元亀本363二〕〔静嘉堂本442六〕
とあって、標記語「催」の語を和語動詞「もよをす」として収載し、標記語「進」の語を和語動詞「すすむ」として収載している。その語注記はいずれも未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「須催進御迎之夫力者也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「須ク/キ下催シ中_進ス御ノ_迎之夫力-者ヲ上也」〔山田俊雄藏本〕
「須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也」〔経覺筆本〕
「須(スヘカラク/ヘキ)催(モヨヲシ)‖進御_迎(ムカイ)ノ之夫-力者(ブリキシヤ)|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、
進(シン)。〔官位門45三〕
とある。いわゆるここで使われている標記語「催」と「進」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
催(モヨホス/サイ)。促(同/ソク)[入]。〔態藝門1078三〕
進(スヽム/シン)[去]。勧(同/ケン)[去]。奘(同/シヤウ)。薦(スヽム/せン,コモ)―人。前(スヽム/せン,マヱ・サキ)不(ス)シテ∨行(ユカ)―。〔態藝門1134一〕
進(スヽム)デハ思(ヲモ)イ∨盡(ツクサン)コトヲ∨忠(チウ)ヲ退(シリゾイ)テハ思(ヲモ)フ∨補(ヲギヌワ)ンコトヲ∨過(アヤマチ)ヲ孝經。〔態藝門1131六〕
調(トヽノエ/テウ)進(シンズル/スヽム)[去]。〔態藝門144一〕
持(モタせ/チ)進(シンズル/スヽム)[去]。〔態藝門1068六〕
とあって、標記語「催」の語を収載し、語注記は未記載にある。「進」の語は、単漢字訓「すすむ」の最前列に位置し、さらに『古文孝經』の金言句「進んでは、忠を尽くさんことを思い、退いては、過ちを補わんことを思ふ」としても収載する。また、この語を引用する金言句をいくつか収載している。漢語サ変動詞の「シンずる」では、複合動詞「調進」と「持進」で収載が見られる。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
催(モヨヲス)。促(同)。〔弘・言語進退260五〕
催(モヨヲス)促。〔永・言語222六〕〔尭・言語208九〕
前(スヽム)。勧(同)。進(同)。薦(同)―∨人。〔弘・言語進退270六〕
前(スヽム)。勧。進。薦(スヽム)―人。〔永・言語232一〕
前(スヽム)。勧(同)。進(同)。薦(スヽム)∨人。〔尭・言語217九〕
とあって、標記語「催」と「進」の語を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
催(モヨヲス)。促(同)。〔言辞231六〕
勸(スヽム)。前(同)。晋(同/シン)。〔言辞241七〕
とあって、標記語「催」と「進」の語を収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「催」と「進」の語は、
催モヨヲス/倉向反/―促。勧促策徴償已上同。〔黒川本下100オ三〕
催モヨヲス/倉向反/―較。勧較榮徴償已上同。〔卷臺十415六〕
進(スヽム)―退。勸―学/―盃。暹誘与久反/《中略》登秀―將已上進也。〔黒川本下111ウ七〕勸スヽム/六劵/―學,―盃。〓〔将+寸〕〓〔将+火〕イ/―孚朝―。羞スヽム/―膳也。進―退/前也叔也登也。前馬不―也。邸薦―挙賢。転―挙賢也/説文云、獣之所食竹也。古者科人以転遺黄帝有。〔卷臺十513二〕
とあって、それぞれの語を収載する。
ここで、さらに古字書をもって確認するに、観智院本『類聚名義抄』に、
催崔(サイ)音。モヨヲス,ウナカス,ソヽクル/ハヽム,コフル,ツクル。〔佛上17五〕
進(スヽム)音晉。スヽム,マイル,タテマツル,ノホル,タヽ,ノトル。〔佛上58六〕
とあり、語訓「もよをす」と「すすむ(まゐる)」の語をそれぞれ第一訓に確認する。次に天文本『字鏡鈔』には、
催(サイ)ツクル,ソヽクル,モヨヲス,ハヽム,ウナカス。〔人部564一〕
進[去:震]藺古。タヽ,スヽム,タテマツル,ノホル,マイル,ユク。〔娑部1150六〕
とあって、両語訓の収載を見る。慶長十五年版『倭玉篇』には、
催(サイ)モヨヲス,ウナガス,ツキクル。〔人部32一〕
進(シン)スヽム,マイル,ノボル。〔娑部165七〕
とあって、この両語訓の収載を第一訓に見る。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「催(モヨヲシ)‖_進ツ」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「須ク」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
須(すへから)く御(おん)迎(むかい)の夫力(ぶりき)を催(もよふ)し進(しん)す須(へき)者(もの)也(なり)/須ク∨催シ‖_進シ御迎ノ之夫力ヲ|者也。催とハさいそくする事也。夫力は人夫乃事なり。〔三十ウ五〕
とし、標記語「催シ‖_進シ」に対する語注記は、「催とは、さいそくする事なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
須(もちひ)て御(おん)迎(むか)ひの夫力者(ぶりきしや)を催(もよう)し進(しん)ぜん也(なり)/須テ催シ‖_進セン御_迎ノ之夫-力-者ヲ也。〔二五ウ一〕
須(もちひ)て催(もよほ)し‖_進(しん)せん御(おん)_迎(むかひ)の夫力者(ふりきしや)を|也(なり)。〔四十五オ三〕
とあって、標記語「催し進ぜん」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Moyouoxi,su.モヨヲシ,ス,イタ(催し,す,いた) そそる,または,うながす.§Xinjinuo moyouosu.(信心を催す)信仰心がそそられ,燃え立つ.§Ninjuuo moyouosu.(人数を催す)戦争などのために,軍勢をうながし,準備をする.⇒次条.〔邦訳428r〕
†Moyouoxi,su.*モヨヲシ,ス,イタ(催し,す,いた) §Icariuo moyouosu.(怒りを催す)怒りで満たされる。§Vreiuo moyouosu.(憂ひを催す)ひどく悲しくなる.§Namidauo moyouosu.(涙を催す)泣く,または,まだ落ちはしないけれども,両眼に涙が一杯たまる.⇒Auare(哀れ);Canaximi;Guifei;Icqeo>;Qeo>(興);Taigun;Zaqio>. 〔邦訳428r〕
Xinji,zuru.シンジ,ズル,ジタ(進じ,ずる,じた) 与えるとか進呈するとかの意で,丁寧に言う語.〔邦訳770r〕
とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「もよおす【催】一物事が起ころうとする。生ずるきざしがある。きざす。二@せき立てる。催促する。うながす。Aさそう。ひき起こす。ある気持などをかき立てる。B準備する。用意する。Cある物事を行なうために、人々を集める。召集する。また、人々を集めて物事を行なう。開催する。D課する。負わせる。賦課する」とあって、二@乃至Aの意味となるか。また、「しんずる【進】一@目上の人へ物をさしあげる。進上する。しんぜる。A軍陣で、旗を前方へ進める。二補助動詞として用いる。動詞の連用形に助詞「て」「で」を添えた形に付いて、…てあげる。…てさしあげる。しんぜる」とあって、一@の意味となる。
[ことばの実際]
所謂新造閑院殿遷幸之時、瀧口衆事自關東可被催進之旨、所被仰下也。《読み下し》所謂新造ノ閑院殿ニ遷幸ノ時、滝口ノ衆ノ事。関東ヨリ催シ進ゼラルベキノ旨、仰セ下サルル所ナリ。《『吾妻鏡』建長二年十二月二十九日条》
2002年1月16日(水)曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「須(すべからく/べし)(もちて)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部に、
用(モチユル)。須(同)。〔元亀本351六〕〔静嘉堂本423二〕
とあって、標記語「須」の語を和語動詞「もちゆる」として収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「須催進御迎之夫力者也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「須ク/キ下催シ中_進ス御ノ_迎之夫力-者ヲ上也」〔山田俊雄藏本〕
「須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也」〔経覺筆本〕
「須(スヘカラク/ヘキ)催(モヨヲシ)‖進御_迎(ムカイ)ノ之夫-力者(ブリキシヤ)|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「須」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
須(スベカラク/シユ)[平]。〔態藝門1134六〕
天寳(ホウ)ハ不(ズ)∨付(フ)せ‖於非仁(ヒジン)ニ|聖道(せイダウ)ハ須(スべカラク/ベシ)∨傳(ツタ)ウ‖於賢者(ケンシヤ)ニ|醫学源流。〔態藝門728五〕
為(タル)ノ∨―之道(ミチ)必(カナラズ)須(スヘカラク/ヘシ)≡先(マヅ)存(ゾン)ズ‖百姓(ハクせイ)ヲ|《後略》政要。〔態藝門847八〕
若(モシ)母(ハヽ)トせバ‖天下(テンカ)ヲ|必(カナラズ)須(スべカラク/ベシ)≡先(マヅ)正(タヾシク)ス‖其(ソ)ノ身(ミ)ヲ|《後略》政要。〔態藝門848二〕
とあって、標記語「須」の語を収載し、語注記は未記載にある。また、この語を引用する金言句をいくつか収載している。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
須(カヘカラク)。〔弘・言語進退271三〕
須(スヘカラク)。〔永・言語232三〕〔尭・言語218二〕
とあって、標記語「須」の語を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
須(モチフ)。用(同)。庸(同)。〔言辞232一〕
とあって、標記語「須」の語を和語動詞「もちふ」として収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「須」の語は、
須スヘラク/相兪反/又スヘカラク。尚同。〔黒川本下112ウ六〕
須スヘカラク/意所欲也。尚同。〔卷臺十523六〕
とあって、標記語「須」の語を収載し、その語注記は十巻本に、「意所欲なり」という。ここで、さらに古字書をもって確認するに、観智院本『類聚名義抄』に、
須脂瑜反。面毛ヽ。カナラス,ツカマツル,ツカハス/マツ,タモツ,ツカフ,ヘシ,モチイル,モト,モテス/モトム,スヘカラク――/スヘシ,オコス。和シユ。〔佛下本30七〕
とあり、ここで両語訓「もちいる」と「すへからく――すへし」の収載が見られるのである。次に天文本『字鏡鈔』には、
須(ス)鬚俗。ヲコス,スヘカラク,ヘシ,モト,ニクム,モトム,モテス。〔彡部1134二〕
とあって、両語訓の収載を見る。慶長十五年版『倭玉篇』には、
須(シユ)スベカラク,シバラク,モトム,モチフ,モチイン。〔彡部88四〕
とあって、この両語訓の収載を見る。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「須」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「須ク」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
須(すへから)く御(おん)迎(むかい)の夫力(ぶりき)を催(もよふ)し進(しん)す須(へき)者(もの)也(なり)/須ク∨催シ‖_進シ御迎ノ之夫力ヲ|者也。催とハさいそくする事也。夫力は人夫乃事なり。〔三十ウ五〕
とし、標記語「須ク/キ」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
須(もちひ)て御(おん)迎(むか)ひの夫力者(ぶりきしや)を催(もよう)し進(しん)ぜん也(なり)/須テ催シ‖_進セン御_迎ノ之夫-力-者ヲ也。〔二五ウ一〕
須(もちひ)て催(もよほ)し‖_進(しん)せん御(おん)_迎(むかひ)の夫力者(ふりきしや)を|也(なり)。〔四十五オ三〕
とあって、標記語「須ひて」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
‡Subecaracu.スベカラク(須く) ⇒Qencacu.〔邦訳581l〕
とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「すべからく【須】〔副〕(サ変動詞「す」に推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。多く下に推量の助動詞「べし」を伴って用いる)当然なすべきこととして。本来ならば。[語誌](1)「須」を訓読する際に生じた語。中古初期には単に「べし」とだけ読まれることが多かったので用例が少ないが、中期以後盛んに用いられるようになった。「べし」のほか、「む」や命令表現で再読する例もみられる。(2)中古後期の古記録では「須…、而(然而)…」(スベカラク…ベシ、シカルニ/シカレドモ)や「雖須…」(スベカラク…トイヘドモ)のように、下に逆接で続く用例が多い。これは、「本来、当然…であるべきところだが」という文脈に用いられた平安鎌倉期の古記録特有の語法と思われる」とある。また、『庭訓徃来註』などは「すべからく…べし」に読むのに対し、已下の江戸時代注釈書に見える「須」なる語を、「もちて」と読み、これを古辞書では『運歩色葉集』易林本『節用集』が収載しているのである。古字書は、『名義抄』『字鏡抄』『倭玉篇』に見えている。
[ことばの実際]
已以露顯之間、被加誅罰事、雖及御後悔、於今、無益須被廻没後之追福。《読み下し》已ニ以テ露顕スルノ間、誅罰ヲ加ヘラルル事、御後悔ニ及ブト雖モ、今ニ於テハ、益無シ。須(スベカラ/ヘ)ク没後ノ追福ヲ廻ラサルベシ。《『吾妻鏡』寿永三年正月十七日条》
2002年1月15日(火)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「夫力者(ブリキシャ)」と「力者(リキシヤ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部に、
力者(―シヤ)。〔元亀本72三〕
力者(リキシヤ)。〔静嘉堂本86七〕〔天正十七年本上43ウ一〕
とあり、標記語「力者」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「須催進御迎之夫力者也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「須ク/キ下催シ中_進ス御ノ_迎之夫力-者ヲ上也」〔山田俊雄藏本〕
「須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也」〔経覺筆本〕
「須(スヘカラク/ヘキ)催(モヨヲシ)‖進御_迎(ムカイ)ノ之夫-力者(ブリキシヤ)|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「夫力者」と「力者」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
力者(リキシヤ)[入・上]。〔人倫門189八〕
とあって、標記語「力者」の語を収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
力者(リキシヤ)。〔弘・人倫56四〕〔永・人倫56八〕〔尭・人倫51八〕〔両・人倫60一〕
とあって、標記語「力者」の語を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本『節用集』には、
力者(リキシヤ)。〔人倫56二〕
夫力者(ブリキシヤ)。〔人倫148七〕
とあって、標記語「力者」の語と「夫力者」の語とを始めて収載し、その語注記は未記載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「力者」および「夫力者」の語は、未収載にする。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「夫力者」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
須(すへから)く御(おん)迎(むかい)の夫力(ぶりき)を催(もよふ)し進(しん)す須(へき)者(もの)也(なり)/須ク∨催シ‖_進シ御迎ノ之夫力ヲ|者也。催とハさいそくする事也。夫力は人夫乃事なり。〔三十ウ五〕
とし、標記語「須ク/キ∨催シ‖_進御_迎ノ之夫力者|也」に対する語注記は、「催とは、さいそくする事なり。夫力は、人夫の事なり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
須(もちひ)て御(おん)迎(むか)ひの夫力者(ぶりきしや)を催(もよう)し進(しん)ぜん也(なり)/須テ催シ‖_進セン御_迎ノ之夫-力-者ヲ也。〔二五ウ一〕
須(もちひ)て催(もよほ)し‖_進(しん)せん御(おん)_迎(むかひ)の夫力者(ふりきしや)を|也(なり)。〔四十五オ三〕
とあって、標記語「須ひて御迎ひの夫力者を催うし進ぜんなり」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Riqixa.リキシャ(力者) 力のある者.〔邦訳536r〕
Riqixa.リキシャ(力者) 槍持ちの小姓のような人.上のRiqi(力)の条を見よ.〔邦訳536r〕
とあって、「力者」の意味は「力のある者」とあり、もう一つの意味は「槍持ちの小姓のような人」とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「りきしゃ【力者】@力の強い者。力持ち。とくに平安末期以後、髪をそった姿をし、院・門跡・公家・武家などに仕えて力仕事にたずさわった従者。輿(こし)をかつぎ、馬の口取りをし、長刀(なぎなた)を持つなどして主人の外出の供をした。力者法師。青法師。力士。A近世、頭を剃らないままで力役を勤めた従者。B相撲取り。力士」とある。そして、易林本『節用集』が唯一当代古辞書として収載し、また、『庭訓徃来註』已下の注釈書に見える「夫力者」なる語については、未収載にする。この「夫力者」という語をここで認知するか否かが問われてもいる。その複合性を否定してはなるまい。さらなる当代における用例を探すことも必要となろう。
[ことばの実際]
院宣者、不可用トテ、放種々惡口、企陵礫、御使申云、我兄弟者、於伊豫國、斬院力者二人頚、况於召使者、不及沙汰之由申之。《読み下し》院宣ニ於テハ、用ユベカラズトテ、種種ノ悪口ヲ放チ、*陵礫ヲ企テ、御使ニ申シテ云ク(*御使ニ陵礫ヲ企テテ申シテ云ク)、我ガ兄弟ハ、伊予ノ国ニ於テ、院ノ力者二人ガ頸ヲ斬ル、況召使ニ於テハ、沙汰ニ及バザルノ由之ヲ申ス。《『吾妻鏡』文治二年九月二十五日条》
2002年1月14日(月)晴れ。東京(八王子)⇔石和温泉
「下着(ゲチヤク)」と「高覧(カウラン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣・景」部に、
下着(―ヂヤク)。〔元亀本213四〕
下着(―チヤク)。〔静嘉堂本242四〕
下着(―シヤク)。〔天正十七年本中50ウ四〕
とあり、標記語「下着」の語注記は未記載にある。「賀」部に、
高覧(―ラン)。〔元亀本91二〕〔静嘉堂本112四〕〔天正十七年本上55オ七〕
とあり、標記語「高覧」を収載し、語注記は未記載ににする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「急有御下着可有高覧|歟」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「急キ有テ‖御下-着|可∨有‖高-覧|歟」〔山田俊雄藏本〕
「急キ有テ‖御下着|可キ∨有‖高覧(カウラン)|歟」〔経覺筆本〕
「急キ有テ‖御下着|可有‖高覧|歟」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「下着」と「高覧」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
下着(ゲチヤク・クタル,アラワス/カ・シタ,ツク)[上・入]。〔態藝門597八〕
高覧(カウラン/タカシ,ミル)[平・上]。〔態藝門275四〕
とあって、標記語「下着」と「高覧」の語を収載し、語注記はいずれも未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
下着(―チヤク)。〔弘・言語進退176三〕
下品(ゲボン)。―向(カウ)。―知(ヂ)。―行(ギヤウ)。―国(コク)。―直(ジキ)。―劣(レツ)。―着(チヤク)。―輩(ハイ)。下戸(ゲコ)。―少(せウ)。―用(ヨウ)。―臈(ラウ)。〔永・言語144四〕
下品(ゲホン)。―向。―知。―行。―国。―直。―劣。―着。―輩。―戸。―用。―臈。――。〔尭・言語134二〕
高覧(カウラン)。〔弘・言語進退86七〕
高名(カウミヤウ)。―聞(フン)。―覽(ラン)。―察(サツ)。―声(シヤウ)。―直(ヂキ)。―運(ウン)。〔永・言語82四〕
高名(カウミヤウ)。―卑。―家。―下。―聞。―覽。―察。―声。―直。―運。〔尭・言語74八〕
高名(カウミヤウ)。―聞。―覽。―察。―声。―直。―運。〔尭・言語90一〕
とあって、弘治二年本だけが標記語として「下着」と「高覧」の語を収載し、その語注記は未記載にする。他写本は標記語「下品」の冠頭字「下」の熟語群十二語として「下着」を収載する。標記語「高名」の冠頭字「高」の熟語群六語と九語(尭空本)として「高覧」を収載している。また、易林本『節用集』は、
高覧(カウラン)。〔言語77三〕
下行(ゲキヤウ)。―賤(せン)。―根(コン)。―知(ヂ)。―國(コク)。―馬(バ)。―座(サ)。―用(ヨウ)。―品(ホン)。―向(カウ)。―劣(レツ)。―尅上(コクシヤウ)。―直(ヂキ)。〔言辞145六〕
とあって、標記語「高覧」の語を収載し、その語注記は未記載にし、「下着」の語は標記語「下行」の熟語群にも未収載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「下着」と「高覧」の語は、
高覧 カウラン。〔黒川本疉字上89ウ二〕
高位〃官。〃家。〃名。〃祖。〃貴。〃卑。〃天。〃僧。〃濤。〃勞。〃察。〃羊。〃聲。〃堂。〃門。〃覽。〃基。〃山。〃圍。〃臺。〃巒。〃衢。〃隅。〃節。〃駕。〃氣。〃情。〃志。〃定。〃足。〃鵬ホウ/鳥名也。〔卷第三269六〕
とあって、「高覧」の語を収載し、その語注記は未記載にする。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「下着」「高覧」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「急有‖御下着可∨有‖高覧|歟」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
急(いそ)き御下向(おんけかう)有(あり)て高覽(かうらん)有(あ)る可(へき)歟(か)/急有テ‖御下向而可∨有‖高覧|歟。高覧ハあつめたる詞なり。歟ハさためぬことはなり。〔三十ウ三〕
とし、標記語「急有‖御下向可∨有‖高覧|歟」に対する語注記は、「高覧は、あつめたる詞なり。歟は、さだめぬことばなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
急(いそ)ぎ御下向(こけかう)有(あつ)て高覽(かうらん)有(あ)る可(へ)き歟(か)/急キ有テ‖御下向|可キ∨有ル‖高覧|歟。〔二五オ八〕
急(いそ)き有(あつ)て‖御下向(ごげかう)|可(へき)∨有(ある)‖高覧(かうらん)|歟(か)。〔四十五オ三〕
とあって、標記語「急ぎ御下向ありて高覧あるべきか」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Guechacu.ゲチヤク(下着) Cudaritcuqu.(下り着く)都(Miyaco),または,その他上方(かみがた)の地方から来て到着すること.〔邦訳294l〕
Co<ran.カゥラン(高覧) 高貴の人が見ること.例,Co<ranni sonayuru.(高覧に供ゆる)貴人に献上する,または,貴人に見せる.〔邦訳149r〕
とあって、「下着」の意味は「下り着く.都,または,その他上方の地方から来て到着すること」とあり、「高覧」の意味は「高貴の人が見ること」とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「げちゃく【下着】」とある。また、「こうらん【高覧】」とある。
[ことばの実際]
導師聖覺僧都。自京都令招請。夜前下着給。《読み下し》導師聖覚僧都、京都ヨリ招請セシメ、夜前下着シ給フ。《『吾妻鏡』嘉禄三年七月二十五日条》
2002年1月13日(日)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(玉川→駒沢)
「上下已神妙也(ジヤウゲすでにシンメウなり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、「上手、上意、上裁、上戸、上作、上筆、上臈、上職、上品、上界、上使、上根、上判、上坐、上旬、上方、上澣、上院、上分、上間、上人、上州、上智、上池、上聞、上覽、上洛、上氣、上都、上表、上卿、上巳、上檀、上段、上代、上律、上熱、上居」と「上」を冠頭字とする熟語群が三十八語収められているが、標記語「上下」は未収載にある。標記語「神妙」は、
神妙(―ベウ)。〔元亀本305二〕〔静嘉堂本355二〕
とあり、標記語「神妙」を収載し、その読みを漢語「シンベウ」と示し、語注記は未記載ににする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「屋作家風尋常而上下已神妙也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「屋_作家-風尋-常ニシテ而上_下已ニ神妙也(ナリ)」〔山田俊雄藏本〕
「屋作(ヤツクリ)ノ家風ハ尋常ニシテ而、上下已(スデ)ニ神妙也」〔経覺筆本〕
「屋-作(ツクリ)家-風(カフウ)尋_常(ジンシヤウ)而ニテ上_下已(ステ)ニ神妙也(ナリ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、
神妙(シンベウ)。〔言辞門153六〕
とあって、標記語「神妙」の語注記は未記載にある。次に広本『節用集』は、
上下(シヤウゲ/ノボル)[上去・上去]――万民。〔態藝門936五〕
神妙(シンヘウ/カミ,タヘナリ)[平・去]。〔態藝門938七〕
とあって、標記語「上下」と「神妙」の語を収載し、語注記は「上下」に「上下万民」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、
上品(シヤウボン)。―手。―下。―裁。―表。―洛。―聞。〔永・言語210二〕
上品(シヤウホン)。―手。―下。―裁。―表。―落。―聞。〔尭・言語194四〕
神妙(―ベウ)。〔弘・言語進退245六〕
神慮(シンリヨ)。―罰。―託。―亊(ジ)。―明(メイ)。―変(ベン)。―通。―妙。―水。―秘(ヒ)。〔永・言語209四〕
神慮(シンリヨ)。―罰。―託。―亊。―明。―変。―通。―妙。―水。―秘。〔尭・言語193六〕
とあって、標記語「上品」の冠頭字「上」の熟語群六語として「上下」を収載する。標記語「神慮」の冠頭字「神」の熟語群九語として「神妙」を収載していて、それぞれの読みは明記されていない。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「尋常」の語は、
上下シヤウケ。〔黒川本疉字下82オ七〕
上下〃天。〃陽春。〃弦。〃表。〃科。〃人。〃宰。〃腴地。〃根。〃等。〃道。〃兵。〃智。〃田。〃日。〃開。〃洛。〃服。〃京。〃卿。〔卷第九195六〕
神妙 シンヘウ。〔黒川本疉字下81ウ四〕
神祇〃明。〃道。〃通。〃化。〃器。〃秀。〃力。〃龍。〃璽。〃妙。〃神。〃霊。〃變。〃童。〃女。〃木。〃麗。〃山。〃洲。〃分。〃籬。〃休。〃池。〃威。〃境。〃酒。〃聴。〃用。〃物。〃寳。〃事。〃拝。〃速。〃田。〔卷第九190二〕
とあって、両語を収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「上下」「神妙」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。屋作(ヤツクリ)家風(カフウ)尋常(ジンジヤウ)ニシテハ。冨貴(フツキ)萬福(ハンフク)ナリト云心ナリ。千喜(キ)萬ス(エツ)珍重々々。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「上下已神妙也」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
上下(じやうけ)已(すで)に神妙(しんひやう)也(なり)/上下已ニ神妙也。所の風俗人の行政長敷(おとなしき)をほめたる也。〔三十ウ三〕
とし、標記語「上下已神妙也」に対する語注記は、「所の風俗人の行政長敷(おとなしき)をほめたるなり。」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
上下(しやうか)已(すて)に神妙(しんびやう)也(なり)/上下已神妙也。〔二五オ七〕
上下(じやうけ)已(すで)に神妙(しんめう)也(なり)。〔四十五オ二〕
とあって、標記語「上下已神妙也」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Vyexita.ウエシタ(上下) 上のものと下のものと。§また,主君と家来と.§Vyexitamo no< asobi tauamururu.(上下もなう遊び戯るる)Feiq.(平家)卷四.主君と家来との差別なく共に遊びたわむれていた.※Feiqe,p.314.〔邦訳740l〕
Xo<ca.ショウカ(上下) Io<gue(上下)に同じ.Vyexita.(上下)上と下と,または,主君と臣下と.〔邦訳788l〕
Io<gue.ジョウゲ(上下) Vye xita.(上下).上にと下にと。§また,上級のものと下級のものと.例,Io<gue banmin.(上下万民)上下貴賤すべての人々.§また,Nobori,cudaru.(上り,下る)上ると下ると.例,Camiye jo<gueuo xiguio> itasu.(上へ上下を繁う致す)都(Miyaco)へ頻繁に行き来する.〔邦訳368l〕
Xinbeo>.シンベゥ(神妙) 優秀で称賛すべきこと.§また,荘重で円熟していること.§Xinbeo>na fito.(神妙な人)人あしらいの重厚で円熟した人.〔邦訳768r〕
とあって、「上下(ジョウゲ)」の意味は「上にと下にと」とあり、「上下(うえした)」の意味は「上のものと下のものと」とあって、和漢の読みによってその意味合いを異にする。そして『庭訓徃来』は、和語読みの「上のものと下のものと」の意味となる。「神妙」の意味は「優秀で称賛すべきこと」とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「じょうげ【上下】三順序や序列を含むものの先のものと後のもの。@位や官職の上の者と下の者、また、身分の高い人と低い人を合わせたすべての人びと。A君主と臣下。主人と家来。主従。B年長者と年少者。長幼。Cある数値の上と下。また、その間をあがったりさがったりすること」とある。また、「しんびょう【神妙】(「びょう」は「妙」の漢音)@「しんみょう(神妙)@」に同じ(霊妙不可思議なこと。人間の能力を超越した霊妙不可思議な働きや現象。また、そのさま。奇特。しんびょう)。A「しんみょう(神妙)A」に同じ(けなげなこと。感心なこと。立派なこと。また、そのさま。殊勝。奇特。しんびょう)。B「しんみょう(神妙)B」に同じ(素直なこと。おとなしいこと。また、そのさま。しんびょう)」とある。
[ことばの実際]
義澄、搆盃酒強飯、殊盡美酒宴之際上下沈酔、催其興之處、岡崎四郎義實、所望武衛御水干則賜之。《読み下し》義澄、杯酒強飯ヲ構ヘ、殊ニ美ヲ尽ス酒宴ノ際。上下沈酔シテ、其ノ興ヲ催スノ処ニ、岡崎ノ四郎義実、武衛ノ御水干ヲ所望ス。則チ之ヲ賜ハル。《『吾妻鏡』治承五年六月十九日条》
次召行平仰云、今日儀尤神妙募此賞、所望一事、直可令達者行平申云、雖非指所望、毎年貢馬事、土民極愁申事也〈云云〉《読み下し》次ニ行平ヲ召シテ仰セニ云、今日ノ儀尤モ神妙ナリ。此ノ賞ニ募ツテ、所望ノ一事、直ニ達セシムベシテイレバ、行平申シテ云、指シテ所望非ズト雖モ、毎年ノ貢馬ノ事、土民極メテ愁ヘ申ス事ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡』養和元年七月二十日条》
2002年1月12日(土)晴れ。東京(八王子)⇔多摩
「尋常(ジンジヤウ&よのつね)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「与」と「志」部に、
尋常(ヨノツ子/ジンジヤウ)。普通(同・フツウ)。〔元亀本131十〕
尋常(ヨノツ子)。普通(同)。〔静嘉堂本138三〕〔天正十七年本中1ウ三〕
尋常(ジンジヤウ/ヨノツネ)。〔元亀本315一〕
尋常(――)。〔静嘉堂本369七〕〔天正十七年本〕
とあり、標記語「尋常」を収載し、元亀本はその読みを左右訓で和語「よのつね」と漢語「ジンジヤウ」とをそれぞれ示し、他本も「与」と「志」部の両部に収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「屋作家風尋常而上下已神妙也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「屋_作家-風尋-常ニシテ而上_下已ニ神妙也(ナリ)」〔山田俊雄藏本〕
「屋作(ヤツクリ)ノ家風ハ尋常ニシテ而、上下已(スデ)ニ神妙也」〔経覺筆本〕
「屋-作(ツクリ)家-風(カフウ)尋_常(ジンシヤウ)而ニテ上_下已(ステ)ニ神妙也(ナリ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』は、標記語「尋常」の語を収載し、語注記は未記載にする《標記語「尋常」の語については、既に「尋常射手」(2001.02.13)のところで古辞書内容を述べているのでここでは省略する》。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「尋常」の語は、
尋常ヨノツネ。〔黒川本疉字上96ウ二〕
尋常 (ヨノツネ)シンシヤウ。〔黒川本疉字下81オ五〕
と「与」部と「志」部の両部に収められている。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「尋常」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。屋作(ヤツクリ)家風(カフウ)尋常(ジンジヤウ)ニシテハ。冨貴(フツキ)萬福(ハンフク)ナリト云心ナリ。千喜(キ)萬ス(エツ)珍重々々。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「屋作家風尋常」の語注記は、「屋作家風尋常にしては、冨貴萬福なりと云ふ心なり。千喜萬ス珍重々々」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
屋作(やつく)り家風(かふう)尋常(じんしやう)にして/屋作家風尋常ニシテ而凡そ人の情(じやう)冨有なれハ奢侈の風に流るゝものなり。上法度(はつと)を立節檢(セツケン)を聞くは此憂(うれ)ひなし。今豊饒冨有なれと屋作家風なんとも異(こと)やうなる事なく、質素(しつそ)をまもる事古来のしるしをいえる也。〔三十ウ一〕
とし、標記語「屋作家風尋常」に対する語注記は、「凡そ人の情、冨有なれば奢侈の風に流るゝものなり。上法度を立、節檢を聞くは此の憂れひなし。今豊饒冨有なれど屋作家風なんども異やうなる事なく、質素をまもる事古来のしるしをいへるなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
屋作(やつく)り家風(かふう)尋常(じんじやう)に而して/屋作家風尋常ニシテ而〔二五オ七〕
屋作(やつく)り家風(かふう)尋常(しんしやう)に而して。〔四十五オ一〕
とあって、標記語「屋作家風尋常」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Iinjo<.ジンジョウ(尋常) 礼儀正しさ,慎み深さ,重厚さ,など.〔邦訳363r〕
†Yonotcune.ヨノツネ(尋常) 例,Yonotcuneno coto.(尋常のこと)世間並みの,普通の事.→Feijin;Feiso>〔邦訳828r〕
とあって、「尋常(ジンジョウ)」の意味は「礼儀正しさ,慎み深さ,重厚さなど」とあり、「尋常(よのつね)」の意味は「世間並みの,普通の事」とあって、和漢の読みによってその意味合いを異にする。そして『庭訓徃来』は、和語読みの「普通、世間並み」の意味となる。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「じんじょう【尋常】@(「尋」は八尺、「常」は一丈六尺)わずかな長さ。わずかな距離。A(形動)特別でない、ふつうのこと、また、そのさま。よのつね。つねなみ。なみ。通常。B(形動)見苦しくないこと。すぐれていること。また、そのさま。イ目だたないで、なんとなく品の良いこと。また、そのさま。しとやか。ロありさまがかなり立派なこと。また、そのさま。ハけなげで立派なこと。いさぎよいこと。また、そのさま。殊勝。Cじんじょうしょうがっこう(尋常小学校)の略」とあって、『庭訓徃来』はAの意味である。「よの常(つね)@特別でなく、ごく普通であること。また、そのような時。一とおり。世間並み。平常。平素。尋常。A(言葉などが平凡すぎて、事態を十分に表現できない意から)…というのでは不十分。…どころではないさま。おろか」とあって、『庭訓徃来』はここでは@の意味である。
[ことばの実際]
元來(モトヨリ)不∨見(マシカハ),他自(ヒトモワレモ)尋常(アラマシモノヲ/ナヲアラマシモノヲ,ツネナラマシモノヲ)無事(アチキナク)相ヒ逢(アフ),却(カヘリ)交(コモ/\)煩惱。《『遊仙窟』(鎌倉時代末期写)・鎌倉時代語研究第七集》
2002年1月11日(金)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「屋形(やづくり)」と「家風(カフウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、「屋別、屋並、屋内、屋取、屋形、屋葺、屋祢」の七語を収載するが、標記語「屋作」の語は未収載にする。「賀」部に、
家風(―フウ)。〔元亀本91十〕
家風(――)。〔静嘉堂本113五〕〔天正十七年本上55ウ八〕
とあり、標記語「家風」を収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「屋作家風尋常而上下已神妙也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「屋_作家-風尋-常ニシテ而上_下已ニ神妙也(ナリ)」〔山田俊雄藏本〕
「屋作(ヤツクリ)ノ家風ハ尋常ニシテ而、上下已(スデ)ニ神妙也」〔経覺筆本〕
「屋-作(ツクリ)家-風(カフウ)尋_常(ジンシヤウ)而ニテ上_下已(ステ)ニ神妙也(ナリ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「屋作」の語を未収載にする。次に広本『節用集』は、
家風(カフウ/イヱ, カぜ)[平・平]。〔態藝門283七〕
とあって、標記語「家風」の語を収載し、その語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
家風(―フウ)。〔弘・言語進退87四〕
とあって、標記語「家風」の語は、弘治二年本だけが収載し、その語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、
屋形(ヤカタ)。―祢(ネ)。―作(ツクリ)。〔乾坤136四〕
家風(―フウ)。〔言辞80六〕
とあって、標記語「屋形」の冠頭字「屋」の熟語群として「屋作」の語を収載する。標記語「家風」の語は、語注記を未記載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「屋作」と「家風」の語は、未収載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「屋作」と「家風」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
屋作(ヤツクリ)ノ家風(カフウ)尋常(ジン―)ニシテ而上下已(スデ)ニ神妙(シンメウ)也。急テ有テ‖御下着(コゲチヤク)可∨有‖高覧(カウラン)|歟(カ)。須ク/キ∨催(モヨヲ)シ‖進御迎(ムカエ)ノ之夫力(ブリキ)者ヲ|也。屋作(ヤツクリ)家風(カフウ)尋常(ジンジヤウ)ニシテハ。冨貴(フツキ)萬福(ハンフク)ナリト云心ナリ。千喜(キ)萬ス(エツ)珍重々々。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「屋作家風尋常」の語注記は、「屋作家風尋常にしては、冨貴萬福なりと云ふ心なり。千喜萬ス珍重々々」とある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
屋作(やつく)り家風(かふう)尋常(じんしやう)にして/屋作家風尋常ニシテ而凡そ人の情(じやう)冨有なれハ奢侈の風に流るゝものなり。上法度(はつと)を立節檢(セツケン)を聞くは此憂(うれ)ひなし。今豊饒冨有なれと屋作家風なんとも異(こと)やうなる事なく、質素(しつそ)をまもる事古来のしるしをいえる也。〔三十ウ一〕
とし、標記語「屋作家風尋常」に対する語注記は、「凡そ人の情、冨有なれば奢侈の風に流るゝものなり。上法度を立、節檢を聞くは此の憂れひなし。今豊饒冨有なれど屋作家風なんども異やうなる事なく、質素をまもる事古来のしるしをいへるなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
屋作(やつく)り家風(かふう)尋常(じんじやう)に而して/屋作家風尋常ニシテ而〔二五オ七〕
屋作(やつく)り家風(かふう)尋常(しんしやう)に而して。〔四十五オ一〕
とあって、標記語「屋作家風尋常」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Cafu<.カフウ(家風) Iyeno fu<.(家の風)すなわち,Catagui.(形儀)ある一家に特有なしきたり,あるいは,相伝によって伝わっているその家特有の技芸.§Cafu< jinjo<ni xite.(家風尋常にして)歌(Vtas)を作ることなど,高尚な技芸や学芸が或る家門に特有のものであって.※原文はdeducao.[Cadenの注]〔邦訳77l〕
とあって、「家風」の意味は「家の風すなわち,形儀ある一家に特有なしきたり,あるいは,相伝によって伝わっているその家特有の技芸」とある。「屋作」の語は未収載にある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「や-づくり【家造・屋造】@家を造ること。また、その造り方。A家の構え。家の体裁。家の構造」とあって、『庭訓徃来』はAの意味である。「かふう【家風】@ある家に特有の習慣やおきて。その家に伝わる流儀。A仏教で、宗派の独特な教義。特に、禅宗の各派の独特な教えや気風。門風。B家の作りよう。家の有様」とあって、『庭訓徃来』はBの意味である。
[ことばの実際]
親しく道人の隠処にいたりて其家風を見たれば、真の道人にて、前なる花にうち向て《『三体詩素隠抄』》
2002年1月10日(木)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「冨有(フユウ)」と「福祐(フクユウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「布」部に、
福祐(フクユウ)。〔元亀本221三〕〔静嘉堂本252五〕〔天正十七年本中55ウ二〕
とあり、標記語「福祐」を収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「甲乙人令冨有」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「甲-乙_人令メ‖福-祐せ|」〔山田俊雄藏本〕
「甲-乙(カウヲツ)人令メ‖冨有|」〔経覺筆本〕
「甲-乙(カウ―)人令ム‖冨有(フユウ)|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、
福祐(フクユウ)。〔態藝門90三〕
とあって、標記語「福祐」の語を収載し、その語注記は未記載にする。次に広本『節用集』は、
福祐(フクユウ/サイワイ,―)[入・去]。〔態藝門646八〕
冨宥(フウユウ/トミ,ナダム)[去・去]。或作‖冨有|。〔態藝門636三〕
とあって、標記語「福祐」の語を収載し、その語注記は未記載にある。標記語「冨宥」は、語注記に「或作‖○○|」の形式で別表記の「冨有」を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
福祐(フクユウ)。〔弘・言語進退183五〕〔永・言語150五〕〔尭・言語140一〕
冨貴(フツキ)―宥(ユウ)。〔永・言語149五〕
冨貴(フツキ)―宥。〔尭・言語139五〕
とあって、標記語「福祐」の語を収載し、その語注記は未記載にある。標記語「冨宥」の語は、標記語「冨貴」の冠頭字「冨」の熟語群として収載する。また、易林本『節用集』には、
福祐(フクイウ)。―徳(トク)。―報(ホウ)。―分(ブン)。―人(ニン)。―相(サウ)。〔言辞152二〕
冨貴(フキ)―有(イウ)。―宥(イウ)。〔言辞151二〕
とあって、標記語「福祐」の読みを「フクイウ」とし、語注記は未記載とする。「冨有」と「冨宥」の語は、標記語「冨貴」の冠頭字「冨」の熟語群として収載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「甲乙」の語は、
福祐(イウ)フクユ。〔黒川本・疉字中106ウ五〕
福禄 〃祐蒙神之――。〃人。〃祚。〃徳。〃庭。〔卷七・疉字82五〕
冨有。〔黒川本・疉字中106ウ五〕
冨貴 〃人。〃有。〃榮。〃義。〃家。〃壽。〃多。〔卷七・疉字83三〕
とあって、三卷本は、標記語「福祐」、標記語「冨有」で収載する。語注記は未記載にある。十巻本には標記語「福禄」の冠頭字「福」の熟語群として「福祐」を収載し、その語注記に「蒙神之福祐」という。標記語「冨有」も冠頭字「冨」の熟語群として「冨有」の語を収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「冨宥」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
甲乙(カウヲツ)ノ人ヲ令メ‖冨宥(フユウ)|。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「冨宥」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
甲乙(かうおつ)の人冨有(ふゆう)せ令/甲乙ノ令‖冨有セ|冨有ハ物ことゆたかなるを云なり。〔三十オ八〕
とし、標記語「冨有」に対する語注記は、「冨有は物ごとゆたかなるを云ふなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
甲乙(かふをつ)の人(ひと)富有(ふいう)せ令(し)め/甲乙ノ人令メ‖冨有セ|。〔二五ウ二〕
甲乙(かうおつ)の人(ひと)令(しめ)‖冨有(ふいう)せ|。〔四十五オ六〕
とあって、標記語「冨有」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Fucuyu<.フクユウ(福祐) 幸福と財宝と.⇒Tacuuaye tcumi,u;Yu<fucu.〔邦訳271l〕
とあって、「福祐」の意味は「幸福と財宝と」とある。「冨有」の語は未収載にある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ふくゆう【福祐】@~のたすけ。~祐。転じて、幸福。さいわい。また、そのさま。A「ふくゆう(福有)」に同じ。」と「ふゆう【冨有】多くもつこと。特に、財産を多く持つこと。富んでいること。また、そのさま。かねもち。富裕」とある。
[ことばの実際]
謂所領者、又不可雙俊兼而各衣服已下、用麁品、不好美麗故其家有冨有之聞、令扶持數輩郎從欲勵勲功汝不知産財之所費、太過分也。《読み下し》謂ハユル所領ハ、又俊兼ニ双ブベカラズ。而ルニ各衣服已下、麁品ヲ用ヰテ、美麗ヲ好マズ。故ニ其ノ家富有ノ聞エ有リテ、数輩ノ郎従ヲ扶持セシメ、勲功ヲ励マント欲ス。汝産財ノ費ル所ヲ知ラズ、太ダ過分ナリ(云云)。《『吾妻鏡』元暦元年十一月二十一日条》
2002年1月9日(水)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「甲乙人(カウヲツのひと)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、
甲乙(―ヲツ)。〔元亀本95二〕
甲乙(カウヲツ)。〔静嘉堂本118四〕〔天正十七年本上58オ六〕
甲乙人(カウヲツニン)。〔元亀本100一〕〔静嘉堂本125五〕〔天正十七年本上61ウ五〕
とあり、標記語「甲乙」及び「甲乙人」を収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「甲乙人令冨有」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「甲-乙_人令メ‖福-祐せ|」〔山田俊雄藏本〕
「甲-乙(カウヲツ)人令メ‖冨宥|」〔経覺筆本〕
「甲-乙(カウ―)人令ム‖冨有(フユウ)|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、
甲乙人(カウヲツニン)。〔態藝門77六〕
とあって、標記語「甲乙人」の語を収載し、その語注記は未記載にする。次に広本『節用集』は、
甲乙人(カウヲツニン/タカシ・男,ヒキシ・女,ヒト)[入・入・平]。上下ノ人義。〔態藝門286四〕
とあって、標記語「甲乙人」の語を収載し、その語注記は「上下の人の義」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
甲乙人(カウヲツニン)上下義。〔弘・人倫77四〕〔両・人倫83一〕
甲乙人(―――)上下義。〔永・人倫76九〕
甲乙人(カウヲツ―)上下義。〔尭・人倫69七〕
とあって、標記語「甲乙人」の語を収載し、その語注記は、広本『節用集』に同じく「上下の義」という。また、易林本『節用集』には、
甲乙人(カフヲツニン)。〔人倫71一〕
とあって、標記語「甲乙人」の読みを「カフヲツニン」とし、語注記は未記載とする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「甲乙」の語は、
甲乙 同/カウ{フ}ヲツ/又帳名。〔黒川本・疉字上90オ二〕
甲乙 同/カウ{フ}ヲツ/又帳名。〔卷七・疉字ウ一〕
とあって、三卷本、十巻本ともに標記語「甲乙人」の語はなく、標記語「甲乙」で収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「甲乙人」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
甲乙(カウヲツ)ノ人ヲ令メ‖冨宥(フユウ)|甲乙(カウヲツ)ノ人トハ。高(タカ)キト賎(イヤ)シキトノ輩(トモカ)ラナリ。〔下四ウ五〕
とあって、この標記語「甲乙人」の語注記は、「甲乙の人とは、高きと賎しきとの輩らなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
甲乙(かうおつ)の人冨有(ふゆう)せ令/甲乙ノ令‖冨有セ|。甲ハ貴き人を云、乙ハ賎き者を云。冨有ハ物ことゆたかなるを云なり。〔三十オ八〕
とし、標記語「凡御領豊饒而シテ甲乙ソ」に対する語注記は、「甲は貴き人を云ふ、乙は賎き者を云ふ。冨有は物ごとゆたかなるを云ふなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
甲乙(かふをつ)の人(ひと)富有(ふいう)せ令(し)め/甲乙ノ人令メ‖冨有セ|▲甲乙ノ人甲(かふ)ハ貴人(きにん)乙ハ賎民(せんミん)をいふ。〔二五ウ二〕
甲乙(かうおつ)の人(ひと)令(しめ)‖冨有(ふいう)せ|▲甲乙ノ人甲ハ貴人(きにん)乙ハ賎民(せんミん)をいふ。〔四十五オ六〕
とあって、標記語「甲乙人」の語注記は、「甲乙の人、甲は貴人、乙は賎民をいふ」という。
当代の『日葡辞書』には、
Co<uot.カゥヲッ(甲乙) 高下.§また,日本の時の数え方.計り方における或る時間の名前.→次条.〔邦訳155l〕
†Co<uot.カゥヲッ(甲乙)§また,Maxi,votori.(優,劣り)優劣.〔邦訳155l〕
Co<uotnin.カゥヲッニン(甲乙人) 身分の高い人と低い人と.※原文のHome>はsHomesの誤植.〔邦訳155l〕
とあって、「甲乙人」の意味は「身分の高い人と低い人と」とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「こうおつ-にん【甲乙人】@誰と限らずすべての人。貴賤上下の人。また、名をあげるまでもない一般庶民、雑人、地下人(じげにん)、凡下の者などをいう。A中世、ある所領や所職に、本来的には無権利の第三者をさす」とある。
[ことばの実際]
近年、西國諸社神人、權門寄人、好寄沙汰、致狼籍、令煩甲乙人之由、依有其聞今日被經評議於如然之輩者、相觸本所、召出其身、無所遁者、可召進關東之旨、可被仰遣六波羅〈云云〉《読み下し》近年、西国諸社ノ神人、権門ノ寄人、寄セ沙汰ヲ好ミ、狼藉ヲ致シ、甲乙人ヲ煩ハシムルノ由、其ノ聞エ有ルニ依テ。今日評議ヲ経ラル。然ル如キノ輩ニ於テハ、本所ニ相ヒ触レ、其ノ身ヲ召シ出シ、遁ルル所無クンバ、関東ニ召シ進ズベキノ旨、六波羅ニ仰セ遣ハサルベシト〈云云〉。《『吾妻鏡』仁治二年六月十八日条》
2002年1月8日(火)晴れ。東京(八王子)⇔鶯谷(書道博物館)
「御領(ゴレウ)」「豊饒(ブニヨウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、「御所(シヨ)、御供(ク)、御幸(カウ)、御器(キ)、御諚(ヂヤウ)、御悩(ナウ)、御符(フウ)、御殿(ゴテン)、御亭(テイ)、御祐(ユウ)、御座(ザ)、御報(ホウ)、御書(シヨ)、御影(ヱイ)、御前(ぜン)、御縁(ヱン)」の十六語を収載するが、標記語「御領」の語は未収載である。次に「福」部に、
豊饒(―ニウ)。〔元亀本224九〕
豊饒(ブニウ)。〔静嘉堂本257六〕
豊饒(フ子ウ)。〔天正十七年本上60ウ七〕
とあり、標記語「豊饒」の読みを「ブニウ」と「ブネウ」とし、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「凡御領豊饒而甲乙」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「凡御-領豊-饒ニシテ而甲-乙_人」〔山田俊雄藏本〕
「凡(ヲヨ)ソ御-領豊-饒(フニヨウ)ニシテ而甲-乙(カウヲツ)人」〔経覺筆本〕
「凡ソ御-領豊_饒(フ子ウ)ニ而シテ甲-乙(カウ―)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』や広本『節用集』は、標記語「御領」と標記語「豊饒」の語は未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
豊饒(フ子ウ)耕作好義。〔弘・天地183一〕
とあって、標記語「豊饒」の語を弘治二年本だけが収載し、他三本は未收載にある。読みを「ブネウ」とし、その語注記は、「耕作好き義」という。また、易林本『節用集』には、
御領(ゴリヤウ)―状(ジヤウ)。―書(シヨ)。―邊(ヘン)。―法(ハフ)。―分(ブン)。―坐(ザ)。―幸(カウ)。―方(ハウ)。〔言辞158七〕
とあって、標記語「御領」の読みを「ゴリヤウ」とし、注記は未記載ながら、当代の古辞書中唯一の収載となっており、これと下記に示した『日葡辞書』にのみで確認する語となる。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「御領」「豊饒」の二語は、
豊饒 豊稔ト/フネウ。〔黒川本・疉字中106オ一〕
豊饒 〃樂。〃足。〃家。〔卷七・疉字ウ一〕
とあって、三卷本、十巻本ともに標記語「御領」の語はなく、標記語「豊饒」を収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
徃来出入貴賎者ハ不∨異(コトン)‖京都鎌倉ニ|。凡ソ御領(レウ)豊饒(ブニウ)シテ甲乙(コウヲツ)ノ人令メ‖冨宥(ユウ)せ|屋作(ヤーリ)家風尋ノ常ニシテ而上下已ニ神妙也。急(イソキ)有テ‖御下着(チヤク)|可キ∨有ル‖高覧(ラン)|歟カ。須ク∨催(モヨヲシ)‖_進ツ御_迎(ムカイ)ノ之夫力(ブ―キ)者ヲ|也。恐々謹言〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩〕
とあって、標記語「御領豊饒」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
凡ソ御領(ゴレウ)豊饒(ブネウ)ニ而シテト云ハ。フクラカニ。カゴムト讀(ヨム)ナリ。此心ハフクラト云ハ。最中(サイ―)ノ事也。カゴムト云ハ。公方(クバウ)ヲイカガニ思ヒ忽緒(イルカセ)ニせザル事也。公方(ク―)ノ事ト云ハ。手ヲカザシ様ニスルヲカゴムト云リ。因(ヨツ)テ∨茲(コレ)ニ圍繞(イネウ)渇仰(カツガウ)トテ。人ヲ敬(ウヤマ)ヒ隨(シタカ)フ事エテアルナリ。〔下四ウ三〕
とあって、この標記語「およそ御領豊饒にして」の語注記は、「ふくらかに。かごむと讀むなり。此の心は、ふくらと云ふは。最中の事なり。かごむと云ふは。公方をいかがに思ひ忽緒にせざる事なり。公方の事と云ふは。手をかざし様にするをかごむと云へり。これによって圍繞渇仰とて。人を敬まひ隨がふ事えてあるなり」というように、「豊饒」の語についての注解となっている。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
凡(およ)そ御領(ごりやう)豊饒(ぶによう)にして而/凡御領豊饒而シテ豊も繞もゆたかなりと訓す。〔三十オ七〕
とし、標記語「凡御領豊饒而シテ」に対する語注記は、「豊も繞もゆたかなりと訓ず」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
凡(すべ)て御領(ごれう)豊饒(ふねう)に而して/凡テ御領豊饒而。〔二五オ六〕
凡(すべ)て御領(ごりやう)豊饒(ふねう)に而して。〔四十四ウ六〕
とあって、標記語「凡御領豊饒而シテ」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
†Goreo<.ゴリョウ(御領) 貴人の領地,または,財産.〔邦訳308r〕
Bunho>.ブニョゥ(豊饒) Yutaca.(豊か)豊富で,十分なこと.〔邦訳65r〕
とあって、意味は「御領」が「貴人の領地,または,財産」とし、「豊饒」が「豊富で,十分なこと」とある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「ごりょう【御領】@鎌倉・室町時代、身分の高い人の領地をいう《後略》」とある。次に「ぶにょう【豊饒】ゆたかなこと。たくさんあること。また、そのさま」とある。
[ことばの実際]
抑東州御領、如元久不可有相違留由、任二宮注文、染丹筆天、奉免畢《読み下し》抑東州ノ御領、元ノ如ク、相違有ルベカザル由、二宮ノ注文ニ任セテ、丹筆ヲ染メテ、免ジ奉リ畢ンヌ。《『吾妻鏡』養和二年二月八日条》
其ノ後、國ニ雨、時ニ随テ降リ、荒キ風不吹ズ。國ノ内ニ病ヒ无ク、五穀豊饒ニシテ、貧シキ人无カリケリ。《『今昔物語集』卷第六・身色九色鹿、住山出河邊助人語第十八》
2002年1月7日(月)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「京都(キヤウト)」「鎌倉(かまくら)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「記」部に、
京都(―ト)。〔静嘉堂本328五〕
とあって、標記語「京都」の語は静嘉堂本のみの収載であり、語注記は未記載にある。次に「賀」部に、
鎌倉(カマクラ)鳥羽院保安元庚子立。至天文十六丁未四百廿八年也。〔元亀本98八〕
鎌倉(カマクラ)鳥羽院保安元庚子立。至天文十六丁未四百廿八季。〔静嘉堂本123七〕
鎌倉(カマクラ)鳥羽院保安元季庚子立。至天文十六丁未四百廿八年也。〔天正十七年本上60ウ七〕
鎌倉(カマクラ)鳥羽院。保安元庚子立。至天文十六丁未四百二十八季也。〔西来寺本〕
とあり、標記語「鎌倉」の語注記は、「鳥羽院、保安元(年)庚子立ち。至る天文十六(年)丁未四百廿八年なり」という。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「徃来出入之貴賤者不異京都五条之辻鎌倉」〔至徳三年本〕「徃来出入之貴賤者不異京都鎌倉」〔建部傳内本〕
「徃-来出-入ノ之貴-賤(キせン)者(ハ)不∨異ナラ‖京-都鎌_倉ノ町ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「徃来出入之貴賤者(ハ)不∨異‖京都鎌倉(カマクラ)ニ|」〔経覺筆本〕
「徃_来(ワウライ)出_入(シユツニウ)之ノ貴賤(キせン)者(ハ)不(ナラス)∨異(コト)‖京-都鎌-倉ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここでの異なりはまず、至徳三年本が「五条之辻」を書き加えていること、山田俊雄藏本が「町」を付加していることである。『下學集』は、
鎌倉(カマクラ)坂東。〔天地門21四〕※245濱ノ商人鎌倉・誂物のところで触れている。
とあり、標記語「鎌倉」の語注記は「坂東」という。標記語「京都」は未収載にする。次に、広本『節用集』は、
鎌倉(カマクラ/ケンサウ)[平・平]。相模。人王七十四代鳥羽院ノ御宇。保安元年庚子建‖――ヲ|也。〔天地門251六〕
とあって、標記語を「鎌倉」の語注記は「相模。人王七十四代鳥羽院の御宇。保安元年庚子鎌倉を建てるなり」という。『下學集』と同じく標記語「京都」は未収載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
鎌倉(カマクラ)。〔弘・天地74五〕
鎌倉(カマクラ)坂東。〔永・天地74二〕〔尭・天地67二〕〔両・天地79八〕
とあって、標記語「鎌倉」の語注記は弘治二年本を除く他三本が『下學集』と同じ「坂東」とあり、標記語「京都」は未収載にする。また、易林本『節用集』には、
京都(キヤウト)。〔乾坤184二〕
鎌倉(カマクラ)関東。〔乾坤68六〕
とあって、標記語「京都」と「鎌倉」の両語を収載し、語注記は「鎌倉」に「関東」と記載する。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「京都」「鎌倉」の二語は、
鎌藏 カマクラ/ト字嶽。〔黒川本・諸寺上90ウ六〕
鎌蔵。〔卷三・諸寺324五〕
とあって、三卷本、十巻本には「京都」はなく、標記語「鎌蔵」を諸寺に収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
とあって、標記語「徃来」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
徃来(ワウライ)出入(シユツ―)ノ貴賎(キセン)者(ハ)不(ス)∨異(コト)ナラ‖京都(キヤウト)鎌倉(カマクラ)ニ|。各名物ドモナリ。〔下四ウ二〕
とあって、この標記語「徃来出入の貴賎は京都・鎌倉に異ならず」の語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
徃来(わうらい)出入(しゆつにう)の貴賎(きせん)は京都(きやうと)鎌倉(かまくら)に異ならず/徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉ニ|。京都ハ 天子の都し玉ふ所にして又足利(あしかゝ)将軍も京都にあり。鎌倉ハ頼朝公より成良親王(なりよししんわう)まて十一代乃将軍居給ひしところなれは此二ヶ所より繁花(はんくわ)なる所はあらす。それに異ならすといふハ嶋なるを甚しくいえるなり。〔三十オ五〕
とし、標記語「不∨異‖京都鎌倉|」に対する語注記は、「京都は、天子の都したまふ所にして、また、足利将軍も京都にあり。鎌倉は、頼朝公より成良親王まで十一代の将軍居給ひしところなれば、この二ヶ所より繁花なる所はあらず。それに異ならずといふは、嶋なるを甚しくいえるなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
徃来(わうらい)出入(しゆつにう)の貴賎(きせん)者京都(きやうと)鎌倉(かまくら)に異(ことな)らず/徃来出入之貴賎者不∨異ラ‖京-都鎌_倉|。▲京都ハ天子(てんし)居(きよ)したまふ地也。鎌倉ハ頼朝公(よりともこう)より成良親王(なりよししんわう)まて十一代の将軍(しやうくん)居(ゐ)給ひし所、共に繁華(はんくハ)無双(ふそう)の地(ち)を指(さ)していふ。〔二五ウ二〕
徃来(わうらい)出入(しゆつにう)の貴賎(きせん)は京都(きやうと)鎌倉(かまくら)に異(こと)ならず。▲京都ハ天子居(きよ)し給ふ地也。鎌倉(かまくら)ハ頼朝公(よりともこう)より成良親王(なりよししんわう)まて十一代将軍(しやうくん)居(ゐ)給ひし所、共に繁華(はんくハ)無双(ふそう)の地を指(さ)していふ。〔四十五オ五〕
とあって、標記語「不∨異‖京都鎌倉|」の語注記は、「京都は、天子居し給ふ地なり。鎌倉は、頼朝公より成良親王まで十一代将軍居給ひし所、共に繁華無双の地を指していふ」という。
当代の『日葡辞書』には、
Qio<to.キャゥト(京都) 首都.すなわち,国王のいる都.〔邦訳503l〕
とあって、意味は「京都」が「首都.すなわち,国王のいる都」とし、逆に「鎌倉」の地名が未収載にある。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「きょうと【京都】@京都府南東郡の地名。府庁所在地。政令指定都市。延暦一三年(794)長岡から遷都して以来、明治維新に至るまでの日本の首都。《後略》」とある。次に「かまくら【鎌倉】神奈川県南東部、三浦半島西岸の地名。建久三年(1192)、源頼朝が幕府を開いて、政治の中心となったが、室町末期には衰微。《後略》」とある。
[ことばの実際]
今日豫州妾靜依召自京都參著于鎌倉北條殿所被送也母礒禪師伴之則爲主計允沙汰、就安達新三郎宅招入之〈云云〉《読み下し》今日予州ノ妾静召シニ依テ京都ヨリ鎌倉ニ参著ス。北条殿送ラルル所ナリ(*送リ進ラセラル所ナリ)。母礒ノ禅師之ヲ伴フ。則チ主計ノ允ガ沙汰トシテ、*安達新三郎ガ宅ニ就テ(*安達新三郎ガ宅ヲ点ジテ)之ヲ招キ入ルト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治二年三月小一日》
2002年1月6日(日)晴れ。東京(八王子)⇔多摩
「徃来(ワウライ)」と「出入(シユツニウ)」「貴賎(キセン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「和」部に、
徃来(―ライ)古―ノ義也。又―/彼―此義也。〔元亀本88一〕
徃来(――) 古―今―ノ義也。又―∨被―此義也。〔静嘉堂本108四〕
徃来(ワウライ) 古―今―義也。又―彼―∨此義也。〔天正十七年本上53ウ四〕
徃来(ワウライ) 古―今来之義也。又―∨彼―∨此コレ義也。〔西來寺本156二〕
とあって、標記語「徃来」の語注記は、「古に徃き今に来るの義なり。また、彼に徃き此に来る義なり」という。また「志」部に、
出入(―ニウ)。〔元亀本310二〕
出入(――) 。〔静嘉堂本362四〕
とあり、標記語「出入」の語注記は、未記載にある。標記語「貴賤」は、「幾」部には、
貴賤(―セン)。〔元亀本281七〕
貴賤(――)。〔静嘉堂本321七〕
とあって、標記語「貴賤」と見える。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「徃来出入之貴賤者不異京都五条之辻鎌倉」〔至徳三年本〕「徃来出入之貴賤者不異京都鎌倉」〔建部傳内本〕
「徃-来出-入ノ之貴-賤(キせン)者(ハ)不∨異ナラ‖京-都鎌_倉ノ町ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「徃来出入之貴賤者(ハ)不∨異‖京都鎌倉(カマクラ)ニ|」〔経覺筆本〕
「徃_来(ワウライ)出_入(シユツニウ)之ノ貴賤(キせン)者(ハ)不(ナラス)∨異(コト)‖京-都鎌-倉ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここでの異なりはまず、至徳三年本が「五条之辻」を書き加えていること、山田俊雄藏本が「町」を付加していることである。『下學集』は、標記語「徃来」「出入」「貴賎」の語を未収載にする。次に、広本『節用集』は、
徃来(ワウライ/ユク,キタル)[上・平] 。〔態藝門238六〕
出入(シユツニウ/イテル,イル)。〔態藝門933一〕
貴賎(キセン/タトシ,イヤシ)[去・去]上下ノ義也。〔態藝門821六〕
とあって、標記語を「徃来」「出入」「貴賎」とし、このうち「貴賎」の語注記は、「上下の義なり」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
徃日(ワウジツ)―哲(テツ)。―覆(フク)。―返(ヘン)。―還(クハン)。―復(フク)。―昔(シヤク)。―生(シヤウ)。―古(ゴ)。―代(タイ)。―来(ライ)。―亊(ジ)。―年(ネン)。―時(ジ)。〔永・言語71八〕
徃日(ワウジツ)―哲。―覆。―返。―還。―復。―昔。―生。―古。―代。―来。―亊。―年。―時。〔尭・言語65五〕
徃日(ワウジツ)―還。―昔。―古。―来。―亊。―年。―時。〔両・言語77九〕
出陣(―チン) ―仕(シ)。―頭(トウ)。―御(ギヨ)。―現(ゲン)。―入(ニウ)。―錢(セン)。〔弘・言語進退246二〕
出入(シユツニウ)―頭(トウ)。―御(ギヨ)。―現(ゲン)。―張(チヤウ)。―仕(シ)。―院(シユツエン)擯出之義。〔永・言語210三〕
出入(シユツニウ)―頭。―御。―陣。―馬。―現。―挙。―張。―仕。―院。―奔。〔尭・言語194五〕
貴賤(キセン)――上下。〔弘・言語進退222二〕
貴命(キメイ)。―賤(セン)。―所。―殿。―答。―寵(テウ)。―方。―辺。―報。〔永・言語185一〕
貴命(キメイ)。―賤。―殿。―所。―答。―辺。―寵。―方。―報。〔尭・言語174五〕
とあって標記語「徃来」「出入」「貴賤」の三語すべてが収載されている。また、易林本『節用集』には、
徃来(―ライ)。〔言語67四〕
貴命(キメイ)。―邊(ヘン)。―賤(セン)。―札(サツ)。―報(ホウ)。―答(タウ)。―酬(シウ)。〔言語189四〕
とあって、標記語「徃来」と「貴賤」の語を収載し、語注記は未記載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「徃来」「出入」「貴賤」の三語は、
徃来 行旅部/ワウライ/――ト。〔黒川本・上72ウ五〕
徃古 〃来。〃還。〃反。〃年。〃月。〃復。〃昔。〃代。〃事。〃詣。〔卷三・疉字三〕
出入 ――ト/又両合ト。〔黒川本・下80七〕
とあって、三卷本は「徃来」「出入」の二語を収載し、十巻本は「徃来」のみを収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
278徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。凡御領豊饒而シテ甲乙ソ。人(ニン)令‖冨宥|屋作家(ケ)風尋常ニシテ而上下已ニ神妙也。急有‖御下着可∨有‖高覧|歟。須∨催‖進御迎之夫力者ヲ|也。恐々謹言〔謙堂文庫藏三〇右E〕
とあって、標記語「徃来」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
徃来(ワウライ)出入(シユツ―)ノ貴賎(キセン)者(ハ)不(ス)∨異(コト)ナラ‖京都(キヤウト)鎌倉(カマクラ)ニ|。各名物ドモナリ。〔下四ウ二〕
とあって、この標記語「徃来出入の貴賎は京都・鎌倉に異ならず」の語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
徃来(わうらい)出入(しゆつにう)の貴賎(きせん)は京都(きやうと)鎌倉(かまくら)に異(こと)ならず/徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。《注記略》〔三十オ三〕
とし、標記語「徃来出入ノ貴賎者」に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
徃来(わうらい)出入(しゆつにう)の貴賎(きせん)は京都(きやうと)鎌倉(かまくら)に異ならず/徃来出入ノ貴賎者不∨異‖京都鎌倉|。〔二五ウ一〕
徃来(わうらい)出入(しゆつにう)の貴賎(きせん)は京都(きやうと)鎌倉(かまくら)に異(こと)ならず。〔四十五オ五〕
とあって、標記語「徃来出入ノ貴賎者」の語注記は、未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Vo<rai.ワゥライ(徃来) Yuqi qitaru.(往き来たる)行くことと来ることと.§また,日本で作られた或る種の書物.→Faiquai;Zafit.〔邦訳717l〕
Xutniu>.シュツニュウ(出入) Ide iru.(出で入る)入ることと出ることと.※本書の一般表記法ではXutnhu<とあるべきもの.特にこの綴り方をしているのは,当時の発音を反映したものか.類例にCuniudoがある.〔邦訳803r〕
Qixen. キセン(貴賎) Tattoqi iyaxij.(貴き賤しい)貴族と平民と,あるいは,高貴な人と下賤な者と.〔邦訳513l〕
とあって、意味は「徃来」が「行くことと来ることと.また,日本で作られた或る種の書物」とし、「出入」が「入ることと出ることと」とし、「貴賎」が「貴族と平民と,あるいは,高貴な人と下賤な者と」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「おうらい【徃来】@人や事物が行ったり来たりすること。また、その人。イ、通行。ロ、交際すること。ハ、補任すること。ニ、(考えなどが)消えたり浮かんだりすること。A廻国修行の行脚。B行き来する道。道路。街道。C手紙。特に往復書簡。また、そのやりとり。訪問時の贈答。D手紙。特に往復書簡を集めて手習いの手本としたもの。近世では、寺小屋の教科書などに用いられた。Eおうらいてがた(往来手形)の略。F熱が出たり引いたりすること。G相場が一定の範囲内を上下して、大幅な値動きをしないこと。持ち合い」とあって、ここでは@Cの意味が用いられている。とりわけ、『庭訓徃来』は、@の意味である。次に「しゅつにゅう【出入】出ることとはいること。出たりはいったりすること。ではいり。また、出すことと入れること。出したり入れたりすること。だしいれ。しゅつじゅう。」とあり、「きせん【貴賤】@身分の貴いことと賤しいこと。また、身分の高い人と低い人。A金額の高いことと安いこと」とあって、これも@の意味となる。
[ことばの実際]
近代、叡岳殊成群動仍飛脚馳走東西、使節往來于都鄙公家之煩、民戸之費、職而此由也。《読み下し》近代ハ、叡岳殊ニ群動ヲ成ス。仍テ飛脚東西ニ馳セ走リ、使節都鄙ニ往来ス。公家ノ煩ヒ、民戸ノ費、職ハ而モ此ノ由ナリ。《『吾妻鏡』建保二年四月廿三日条》@イの意味。
信濃守行光、爲今日行事、隨和卿之訓説、諸人盡筋力而曳之自午剋、至申斜、然而此所之爲體、唐舩非可出入之海浦之間、不能浮出。《読み下し》信濃ノ守行光、今日ノ行事トシテ、和卿ノ訓説ニ随ヒ、諸人筋力ヲ尽シテ、之ヲ曳クコト午ノ剋ヨリ、申ノ斜ニ至ル、然レドモ此ノ所ノ為体ハ、唐船出入スベキノ海浦ニ非ザルノ間、浮カベ出スコト能ハズ。《『吾妻鏡』建保五年四月十七日条》
凡此兩三年、彼禪門及子葉孫枝、可敗北之由、都鄙貴賎之間、皆蒙夢想。《読み下し》凡ソ此両三年、彼ノ禅門及ビ子葉孫枝、敗北スベキノ由、都鄙貴賎ノ間、皆夢想ヲ蒙ル。《『吾妻鏡』治承五年正月二十一日条》
2002年1月5日(土)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「超過(テウクワ)」と「四条・五条の辻」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「天」部に、
超過(―クワ)。〔元亀本245四〕
超過(テウクワ)。〔静嘉堂本283四〕
とあって、標記語「超過」の語注記は未記載にある。また「志」部に、
四条(―テウ)下京。〔元亀本327四〕
四条(――) 下京。〔静嘉堂本388二〕
とあり、標記語「四条」の語注記は、「下京」という。標記語「五条」は未収載にあり、「津」部には、
辻(ツジ)。〔元亀本160六〕 辻子(ツジ)。〔元亀本157五〕
辻(ツシ)。〔静嘉堂本176五〕 辻子(ツジ)。〔静嘉堂本172五〕
辻(ツチ)。〔天正十七年本中19ウ三〕 辻子(ツシ)。〔天正十七年本中17六〕
とあって、標記語「辻」と「辻子」とが見える。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「超過四條五条之辻」〔至徳三年本〕「超過四条五条之辻」〔建部傳内本〕
「超‖-過ス四條五-条ノ辻ニ|」〔山田俊雄藏本〕
「超‖-過四条五條辻」〔経覺筆本〕
「超‖-過(テウクワ)せリ四-条五-条之辻ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
超過(テウクワ) 。〔疉字門158七〕
四条(――)。〔京師門25五〕
五条(――)。〔京師門25六〕
とあって、標記語「超過」「四条」「五条」の語注記は未記載にする。次に、広本『節用集』は、
超過(テウクワ/コヱ,スギル)[平・去] 。〔態藝門732八〕
辻(ツジ)路―。〔天地門409八〕
とあって、標記語を「超過」とし、語注記は未記載にする。標記語「辻」の語注記は「路辻」という。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
超遇(テウクワ)。〔弘・言語進退199三〕超過(テウクワ) ―越(ヲツ)。〔尭・言語153九〕
超過(テウクハ)―越(ヲツ)。〔永・言語164六〕
四条(――)。〔弘・京中小路名281七〕〔永・京中小路名265九〕
五条(――)。〔弘・京中小路名281八〕〔永・京中小路名266一〕〔尭・京中小路名237三〕
辻(ツジ)路。〔弘・天地125三〕
辻(ツジ)。〔尭・天地93六〕〔両・天地114一〕
辻(ツヂ)。〔永・天地103三〕
とあって標記語「超過」「四条」「五条」「辻」の四語すべてが収載されている。また、易林本『節用集』には、
超越(テウヲツ)―過(クワ)。〔言語166一〕
辻(ツジ)。〔乾坤102六〕
とあって、標記語「超過」と「辻」の語を収載し、語注記は未記載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「辻」の語は、
辻ツムシ。同(東西南北相分之道。其中央似十字也)/私曰、俗用之未祥。〔黒川本・中20ウ五〕
十字ツシ。東西南北分道。其中央也。辻同/俗用之。〔卷四地儀567六〕
とあって、この語を収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
277如∨雲似リ∨霞交易賣買之利潤者超‖-過セリ四条五条ノ辻ニ| 超過ハ見亊ナリ。〔謙堂文庫藏三〇右D〕
とあって、標記語「超過」の語注記は、「超過は見亊なり」という。古版『庭訓徃来註』では、
交易(ケウイ)賣買(バイハイ)之利潤(リシユン)ハ超‖-過(テウクワ)シ四條(デウ)五條ノ辻(ツジ)ニ|《下略》各名物ドモナリ。〔下四ウ一〕
とあって、この標記語「交易賣買の利潤は四条五条の辻に超過し」の語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
四条(しでう)五条(こでう)ノ辻(つぢ)に超過(ちやうくわ)し/超‖-過シ四条五條辻ニ|超過ハおへすぐと讀。四条五条は市町ありて賑(にぎやか)なる所ゆへたとへに引しなり。〔三十オ三〕
とし、標記語「超‖-過四条五條辻」に対する語注記は、「超過ハおへすぐと讀む。四条・五条は市町ありて、賑やかなる所ゆへ、たとへに引しなり」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
四條(してう)五條(ごてう)之(の)辻(つち)に超過(てうくハ)せり/超‖-過セリ四-條五條之_辻ニ|。▲四條五條ハ九重(こゝのへ)の都にあり。肆(いちくら)店(みせ)をつらねて賑(にき)やかなる地(ち)也。〔二五ウ一〕
超過(てうくハ)せり四條(しでう)五條(ごでう)之(の)辻(つぢ)に。▲四條五條ハ九重(こゝのへ)の都にあり。肆(いちくら)店(ミせ)をつらねて賑(にき)やかなる地(ち)也。〔四十五オ五〕
とあって、標記語「超‖-過四条五條辻」の語注記は、「四條・五條は九重の都にあり。肆・店をつらねて賑やかなる地なり」という。
当代の『日葡辞書』には、
Cho>qua.チョゥクヮ(超過) Coye suguru.(超え過ぐる)食物を食うのでも着物を着るのでも,またその他のことでも,度を過ごすこと,または,余分であること.文章語.§また,ある物をほめたり,強調したりする言葉。例,Cho>qua migotodegozaru.(超過見事でござる)これは非常に見事なものである.〔邦訳127r〕
とあって、意味は「超過」が「 Coye suguru.(超え過ぐる)食物を食うのでも着物を着るのでも,またその他のことでも,度を過ごすこと,または,余分であること.文章語.§また,ある物をほめたり,強調したりする言葉」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「ちょうか【超過】@他よりもきわだってすぐれること。すぐれまさること。A物の程度を過ぎること。程度がはなはだしいこと。Bきめられたわくをこえること。C他の上をこえて先へ出ること。順位が他よりも前に行くこと」とあって、ここでは@Aの意味が用いられている。とりわけ、『庭訓徃来』は@の意味である。
[ことばの実際]
仍討滅平家之後、判官殿、形勢、殆超過日来之儀。《読み下し》仍テ平家ヲ討チ滅ボスノ後、判官殿ノ形勢、殆ド日来ノ儀ニ超過セリ。《『吾妻鏡』元暦二年四月廿一日条》
華厳宗と真言宗は法相三論にはにるべくもなき超過の宗なり。《『日蓮遺文』開目抄(1272)》
2002年1月4日(金)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)
「利潤(リジュン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部に、
利潤(―ジユン) 。〔元亀本71二〕〔静嘉堂本85二〕〔西來寺本〕
利潤(―シユン) 。〔天正十七年本上42ウ五〕
とあって、標記語「利潤」の読みは「リジュン」で、語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「交易賣買之利潤者」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「交-易賣-買ノ之利-潤者ハ」〔山田俊雄藏本〕
「交易賣買ノ之利潤(リジユン)者」〔経覺筆本〕
「交易(カウイ)賣買(ハイハイ)ノ之利潤(リシユン)者」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、
利潤(リジュン) 。〔態藝門89四〕
とあって、標記語「利潤」の語注記は未記載にする。次に、広本『節用集』は、
利潤(リジュン/トシ,ウルヲウ)[去・去] 。〔態藝門192七〕
とあって、標記語を「利潤」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
利潤(リジユン) 。〔弘・言語進退57八〕
利盃(リハイ)―他(タ)。―潤(ジユン)。―口(コウ)。―益(ヤク)。―堺。―并。―勘(カン)。―平(ヒヤウ)。―根(コン)。―生(シヤウ)。―養(ヤウ)。―害(カイ)。―見(ケン)。―鈍(ドン)。―發(ハツ)。―分(ブン)。―釼。〔永・言語58四〕
利盃(リハイ)離別名。―他。―益。―根。―并ウ。―潤。―口。―勘。―平。―徳。―禄。―生。―養。―害。―見。―鈍。―分。―剱。―發。〔尭・言語52九〕
利盃(リハイ)―他。―潤。―口。―益。―并(ヒヤウ)。―勘。―根。―生。―分。〔両・言語61五〕
とあって標記語「利潤」は、弘治二年本がそのまま収載し、他写本は標記語「利盃」の冠頭字「利」の熟語として注記され、そのなかに「利潤」の語が見られる。また、易林本『節用集』には、
利潤(―ジユン)。〔言語57三〕
とあって、標記語「利潤」の語を収載し、語注記は未記載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「利潤」の語は、
利潤リスウン。〔黒川本・疊字上60オ五〕
利根〃鈍。〃生。〃潤。〃弁。〃苛。〃害。〃乱。〃見。〃堺。〃益。〃養。〃口。〃并。〃稲。〃舂。〃黒。〔卷三疉字10二〕
とあって、この語を収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
277如∨雲似リ∨霞交易賣買之利潤者超‖-過セリ四条五条ノ辻ニ| 超過ハ見亊ナリ。〔謙堂文庫藏三〇右D〕
とあって、標記語「利潤」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
交易(ケウイ)賣買(バイハイ)之利潤(リシユン)ハ《下略》各名物ドモナリ。〔下四ウ一〕
とあって、この標記語「交易賣買之ノ利潤」の語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
交易(かうゑき)賣買(ばいはい)の利潤(リジュン)ハ/交易賣買之利潤ハミな前に注す。〔三十オ二〕
とし、標記語「交易賣買之利潤」に対する語注記は、「みな前に注す」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
交易(かうゑき)賣買(はい/\)之の利潤(りしゆん)者ハ/交易賣買之_利潤者。〔二五オ四〕
交易(かうえき)賣買(ばい/\)之の利潤(りじゆん)者ハ。〔四十四ウ四〕
とあって、標記語「交易賣買之利潤者」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Rijun.リジュン(利潤) Ritocu(利徳)に同じ.儲け,あるいは,利益.〔邦訳532r〕
とあって、意味は「利潤」が「利徳に同じ.儲け,あるいは,利益」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「りじゅん【利潤】もうけ。利益」とある。
[ことばの実際]
是臨病患、附属非器弟子、又立名代之後、落堕世間、猶貪其利潤事、向後、可停止之由〈云云〉。《訓読》是レ病患ヲ臨ミ、非器ノ弟子ニ附属シ、又名代ヲ立ツルノ後、世間ニ落堕シ、猶其ノ利潤ヲ貪ル事、向後、停止スベキノ由ト〈云云〉。《『吾妻鏡』暦仁元(1238)年十二月七日条》
2002年1月3日(木)晴れ。箱根⇒東京(大手町→世田谷→八王子)
第78回関東大学箱根駅伝〔復路〕駒澤大学総合優勝11:03:17(往路5:36:48&復路5:28:47新記録)
区間記録:第4区松下龍治(1:02:24)・第9区高橋正仁(1:09:31)
「如雲似霞(くものごとく、かすみににたり)&如雲如霞」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「仁」部乃至「久」部に、標記語「如雲如[似]霞」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「如雲如霞」〔至徳三年本〕「如雲似霞」〔建部傳内本〕
「如ク∨雲ノ如シ∨霞ノ」〔山田俊雄藏本〕
「如ク∨雲似タリ∨霞」〔経覺筆本〕
「如(コトク)∨雲(クモ)ノ如(コトシ)∨霞(カスミ)ノ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。このなかで、至徳三年本や文明四年本、山田俊雄藏本が「如雲如霞」としているのに対し、経覺筆本と建部傳内本とが、下記に示す真字註本と同じ「如雲似霞」としている点に注目されたい。ここに二系統種の伝本形態の存在を確認する。『下學集』、広本『節用集』そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』また、易林本『節用集』には、標記語「如雲如[似]霞」の語は未収載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「如雲如霞」乃至「如雲似霞」の語は、未収載にする。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
277如∨雲似リ∨霞交易賣買之利潤者超‖-過セリ四条五条ノ辻ニ| 超過ハ見亊ナリ。〔謙堂文庫藏三〇右D〕
とあって、標記語「如雲似霞」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
如ク∨雲(クモ)ノ似タリ∨霞(カスミ)ニ《下略》各名物ドモナリ。〔下四ウ一〕
とあって、標記語を「如雲似霞」とし、その語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
雲(くも)の如(こと)く霞(かすみ)似(に)たり/如ク∨雲ノ似リ∨霞ニ名物名産領所に集(あつま)りたる乃多きにたとへたり。〔三十オ一〕
とし、標記語「如雲似霞」に対する語注記は、「名物名産領所に集まりたるの多きにたとへたり」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
雲(くも)乃如(ごと)く霞(かすみ)に似(に)たり/如ク∨雲似タリ霞ニ。〔二五オ二〕
如(ごと)く∨雲(くも)の似(に)たり∨霞(かすミ)に。〔四十四ウ一〕
とあって、標記語「如雲似霞」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、標記語「如雲如[似]霞」の語は未収載にする。この『庭訓徃來』(至徳三(1386)年最古写本)などが示す「如雲如霞」また「如雲似霞」という語は、多くの人々や多くの物品が一極に群集するさまを譬えて云う語であり、いかなるところからの引用語であるかを知りたいところである。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、訓読した「くもの如(ごと)し 人や物が多く集まることのたとえ」として收載する。
[ことばの実際]
近國御家人等、自南從北馳參、囲繞左親衛郭外之四面如雲如霞、各楊旗。《読み下し》近国ノ御家人等、南ヨリ北従馳参ジ、左親衛ノ郭外ノ四面ヲ囲繞コト、雲ノ如ク霞ノ如シ、各旗ヲ揚グ。《『吾妻鏡』宝治元年六月二日条》
武士如∨雲如∨霞、数剋令‖俟惜|給、武士乱入門内|。《『山槐記』治承四(1180)年五月十六日》
諸国之軍兵巍(ヲヒタヽ)シク馳上リ至マデ‖辺土ニ|如∨雲如∨霞充満シテ《『文正記』》
2002年1月2日(水)晴れ。東京(八王子)⇔箱根 関東大学箱根駅伝〔駒澤大学・往路往路記録5:33:40〕
「珎物(チンブツ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部「高麗」については、すでに取り上げているのでここでは取り扱わない。続く「知」部に、
珎物(―ブツ) 。〔元亀本63七〕〔西來寺本114二〕
珎物(―フツ) 。〔静嘉堂本73八〕〔天正十七年本上37オ六〕
とあって、標記語「珎物」の読みは「チンブツ」で、語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「高麗珎物」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「高麗ノ珎-物」〔山田俊雄藏本〕
「高麗(カウライ)ノ珎物」〔経覺筆本〕
「高-麗(カウライ)ノ珎-物(チンフツ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「珎物」の語は未収載にする。次に、広本『節用集』は、
珎物(チンブツ/メヅラシ,モノ)[平・入] 。〔態藝門183八〕
とあって、標記語を「珎物」とし、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
珎物(―ブツ) 。〔弘・財宝50八〕
珎重(チンテウ)―宝(ボウ)。―財(ザイ)。―菓。―物(ブツ)。―美(ミ)。−亊(ジ)。〔永・言語53八〕
珎重(――)―宝。―財。―菓。―物。―美。−亊。〔尭・言語48八〕
珎重(チンチユウ)―宝。―物。―財。―菓。〔両・言語57七〕
とあって標記語「珎物」は、弘治二年本がそのまま収載し、他写本は標記語「珎重」の冠頭字「珎」の熟語として注記され、そのなかに「珎物」の語が見られる。また、易林本『節用集』には、
珎物(チンブツ)。〔言語51五〕
とあって、標記語「珎物」の語を収載し、語注記は未記載にする。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「高麗珎物」のうち標記語「珎物」の語は、
珎物同(飲食部)。チンフツ。〔黒川本・疊字上56オ六〕
珎財〃寳。〃重。〃膳。〃恠。〃臺。〃物。〃既。〃奇。〃菓。〃美。〃舘。〃事。。〔卷一疉字オ四〕
とあって、この語を収載する。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
276奥漆・筑紫穀・或異国ノ唐物高麗ノ珎物 高麗ハ云‖朝鮮国|。又云‖三朝国|也。〔謙堂文庫藏三〇右C〕
高麗―七百六十六ケ国也.朝鮮に八道有。京幾(ケゲイ)道、江原(カンキヨク)、咸鏡(カガン)、平安(ムヘアン)、黄海(ハクシイ)、忠清(チウセイ)、慶尚(ケゲシヤウ)、全羅(デルラ)。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩書込み〕
とあって、標記語「珎物」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
高麗(カウライ)ノ珎物(チンフツ)《下略》各名物ドモナリ。〔下四オ八〕
とあって、この標記語「高麗ノ珎物」の語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
高麗(カウライ)乃珎物(チンブツ)/高麗ノ珎物。高麗は朝鮮なり。朝鮮へ渡海(とかい)の時程々のめつら敷物を持來。〔二十九ウ八〕
とし、標記語「高麗珎物」に対する語注記は、「高麗は朝鮮なり。朝鮮へ渡海の時、程々のめづらしき物を持ち來たる」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
高麗珎物(かうらいのちんぶつ)/高麗_珎物▲高麗ハ朝鮮(てうせん)を指(さ)す。〔二五オ四〕
高麗珎物(かうらいのちんぶつ)▲高麗は朝鮮(てうせん)を指(さ)す。〔四十四ウ三〕
とあって、標記語「高麗珎物」の語注記は、「高麗は朝鮮を指す」という。
当代の『日葡辞書』には、
Chinbut.チンブツ(珎物) Mezzuraxij sacana.(珍しい肴)魚とか肉とかで作った珍しい,結構な食物.→Bixu(美酒).〔邦訳122l〕
とあって、意味は「珎物」が「魚とか肉とかで作った珍しい,結構な食物」という。ところで、この『庭訓徃來』(至徳三(1386)年最古写本)が示す「高麗珎物」という語は、「高麗(朝鮮)を仲介して、日本の国にもたらされた物品を総称していう」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「こうらい-の-ちんぶつ【高麗珎物】」の語は未收載にある。
[ことばの実際]
參河守〈範頼〉、受二品之命、爲對馬守親光迎、可遣舩於對馬嶋之處、親光、爲遁平氏攻、三月四日、渡高麗國〈云云〉仍猶可遣高麗之由、下知彼嶋在廳等之間、今日既遣之。《読み下し》参河ノ守〈範頼〉、二品之命ヲ受ケ、対馬ノ守親光ガ迎ヒトシテ、船ヲ対馬ノ島ニ遣ハスベキノ処ニ、親光、平氏ノ攻メヲ遁レン為ニ、三月四日ニ、高麗国ニ渡ルト〈云云〉。仍テ猶高麗ニ遣ハスベキノ由、彼ノ島ノ在庁等ニ下知スルノ間、今日既ニ之ヲ遣ハス。《『吾妻鏡』元暦二年五月二十三日》
又當炎暑之節者、召寄冨士山之雪所、爲備珎物也。《読み下し》又炎暑ノ節ニ当リテハ、富士山ノ雪ヲ召シ寄スル所、珍物ニ備ヘン為ナリ。《『吾妻鏡』建長三年六月小五日条》
2002年1月1日(火)晴れ。東京(八王子)⇔多摩ニュータウン
「異国唐物(イコクのからもの)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、標記語「異同、異相、異様、異儀、異躰、異振、異名、異形、異類、異説、異本、異見」の十二語が見えるが、この標記語「異国」の語は未收載にある。次に標記語「唐物」についても「賀」部に、「唐櫃、唐紙、唐傘、唐門、唐名、唐瓜、唐錦、唐綾、唐羅、唐櫓舩、唐戸、唐畫、唐墨、唐筵、唐席、唐衣」の十六語を収載するが、やはり、標記語「カラモノ【唐物】」も未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月十一日の状に、
「異國唐物」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「異-国(イコク)ノ唐_物」〔山田俊雄藏本〕
「異国(イ―)唐物」〔経覺筆本〕
「異国(井コク)ノ唐物(カラモノ)」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本そカラモノて建部傳内本は、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。『下學集』は、標記語「異国」と「唐物」の語は未収載にする。次に、広本『節用集』は、
異國(イコク/コトナリ,クニ)[去・入] 。〔態藝門14四〕
とあって、標記語を「異國」とし、語注記は未記載にする。次に「唐物」の語は、器財門に「唐櫃、唐繪、唐墨、唐紙」の四語、飲食門に「唐納豆」の一語を収載するにすぎなく、この語は未收載にある。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、標記語「異国」の語は、言語門に「異相、異域、異様、異見、異人、異躰、異振、異活、異論、異治、異味、異類、異形、異儀、異父、異能、異標」の十七語を収載するもののこの語は未收載にある。そして、「唐物」は、これまた「唐櫃」のみで、この語は未收載にある。易林本『節用集』には、
異國(イコク)。〔言語7二〕
とあって、標記語「異國」の語を収載し、語注記は未記載にする。また、「唐物」の語は、未收載にある。
鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』、十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「異国唐物」のうち標記語「異国」と「唐物」の語は、未收載にある。
これを『庭訓往来註』卯月十一日の状に、
276奥漆・筑紫穀・或異国ノ唐物高麗ノ珎物 高麗ハ云‖朝鮮国|。又云‖三朝国|也。〔謙堂文庫藏三〇右C〕
異国―峡也.ノ唐物―中花也.異國名九良哈、中国・朝鮮・蝦夷・韃靼・琉球・東寧・廣東・交趾・呂宋・東京・大泥・東埔塞・占城チヤンハ・邏羅・咬璢虜(ジヤカタラ)・天竺・榜葛刺(ヘンカラ)・紅夷(ヲランダ)・蘓門答刺(サヤタラ)・阿媽港(アマカハ)西域之港名。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古冩書込み〕
とあって、標記語「異国ノ唐物」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
異国(イコク)ノ唐物(カラモノ)《下略》各名物ドモナリ。〔下四オ八〕
とあって、この標記語「異国ノ唐物」の語注記は、「各名物どもなり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
或(あるひ)ハ異国(いこく)乃唐物(からもの)/或ハ異国ノ唐物凡乃渡り物をいふ。〔二十九ウ八〕
とし、標記語「異国唐物」に対する語注記は、「凡よその渡り物をいふ」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
異国唐物(イコクのカラモノ)/異国_唐物。〔二五オ三〕
異国唐物(イコクのカラモノ)。〔四十四ウ二〕
とあって、標記語「異国唐物」の語注記は未記載にある。
当代の『日葡辞書』には、
Icocu.イコク(異国) Cotonaru cuni.(異なる国)他の国,あるいは,外国人の国.〔邦訳329l〕
Caramono.カラモノ(唐物) シナの物.〔邦訳100r〕
とあって、意味は「異国」が「他の国,あるいは,外国人の国」とし、「唐物」が「シナの物」という。ところで、この『庭訓徃來』(至徳三(1386)年最古写本)が示す「異國唐物」という語は、「シナ(中国)を仲介して、日本の国にもたらされた支那の物品を主とした各国の物品を総称していうのであるまいか。この「異国ノ唐物」を持って表現する文意を考えねばなるまい。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版にも、「いこく-の-からもの【異国唐物】」は未收載にある。
[ことばの実際]
[ことばのHP]「異国唐物」は、かって東大の日本史入試問題になっています。
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