2002年3月1日から3月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2002年3月31日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「保」部に、

奔走(ホンソウ)。〔元亀本42B〕

奔走(ソフ)。〔静嘉堂本46B〕

奔走(ソウ)。〔天正十七年本上24オB〕〔西來寺本〕

とあって、標記語「奔走」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

抑客人光臨結構奔走奉察候〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

抑客-人光-臨結-奔走リ∨〔山田俊雄藏本〕

抑客人光臨結構奔走察候〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

奔走(ホンサウ)。〔疉字門160C〕

とあって、標記語「奔走」の語注記は未記載にする。次に広本節用集』は、

奔走(ホンソウ)ワシリ,ハシル[去・上]。〔態藝門108D〕

とあって、標記語「奔走」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

奔走(ホンソウ)。〔・言語進退33E〕

奔走(ホンソウ) ―営(ホンエイ)。―波()。〔・言語35B〕

奔走(ホンソウ)ハシル,ハシル ―営。―波。〔・言語32B〕

奔走。〔・言語39二〕

とあって、標記語「奔走」で語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

奔走(ソウ)。〔言語32四〕

とあって、標記語「奔走」の語を収載する。

 平安時代後期の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

奔走行旅部/ホンソウ 行歩分。〔黒川本疉字上38ウ四〕

奔營〃走。〃箭。〃競。〃漓。〃波。〃雷。〃龜。〃。〔卷第七18四〕

とあって、標記語「奔走」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月{ }日の状に、

300抑客人光臨結構奔走察候借用之具足所持分ニ|者令之候灯臺火鉢蝋燭臺雖不註文進也能米大豆(マクサ)味噌塩梅(シホムメ)《注記省略》。〔謙堂文庫藏三二左C〕

とあり、またその前には『庭訓徃來註』正月十五日の状に、

032賭引出物者亭主奔走注記省略》。〔謙堂文庫藏七左B〕

六月十一日の状には、

389---之所--又定被存知歟然-而先-懸分-捕者武-士名-誉夜-詰後(ウシロ)-詰者陳旅之軍致()也棄一命(ツク)粉骨者書-證判ニ|-(イン)之亀-ニ|注記省略》。〔謙堂文庫藏三八左H〕

とあって、標記語を「奔走」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

(ソモ/\)客人光臨(リン)結構(ケツコウ)奔走(ホンソウ)《注記省略》。〔下六ウF〕

引出物(ヒキデモノ)者亭主(テイシユ)奔走(ホンソウ)()内内可御意。トハ。是又亭(テイ)主課(ヲフせ)歟。〔上五オA〕

とあって、この標記語「奔走」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そもそも)客人(きやくじん)光臨(くわうりん)結構(けつこう)乃奔走(ほんそう)(さつ)(たてまつ)(さふら)。/客人光臨結構奔走奔走ハ馳走(ちそう)なり。既(すて)に前に注せり。〔三十四ウB〕

亭主(ていしゆ)奔走(ほんそう)()/亭主(テイシユ)奔走(ホンソウ)()《注記前略奔走ハはせはすると讀無事の世話(せわ)する事を云。馳走(ちそう)といふも同し。歟とハ定めぬ詞なり。先方へ差圖(さしづ)かたき故歟の字を重たる也。〔五ウG〕

とあって、標記語「奔走」についての語注記は、「奔走ハ馳走なり。既に前に注せり」でその前の注記は「奔走ハはせはすると讀む。無事の世話する事を云ふ。馳走といふも同じ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

奔走ハ正月の返状(へんじやう)に見ゆ。〔五十ウD〕

奔走ハ馳走といふに同じ。はせはすると訓(よミ)て事の世話するをいふ。〔四ウA〕

とあって、標記語「奔走」の語注記は、「奔走は、正月の返状に見ゆ」とし、その注記は「奔走は、馳走といふに同じ。はせはすると訓みて事の世話するをいふ」とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Fonso>.ホンソゥ(奔走) 歓待.例,To>zaini fonso> suru.(東西に奔走する)親切に心を配り,てきぱきと動き回って,非常に手厚くもてなす.招宴の座中では,時としては,褒めて次のように言うことがある.Coto nai gofonso> degozaru.(殊ない御奔走でござる)われわれに対してご主人は大変なもてなしをなさる,などの意。〔邦訳261r〕

とあって、標記語を「奔走」とし、その意味は「歓待」と実に分りやすくいう。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

ほん-さう(名)【奔走】(一)はしること。馳せまはること。書經、酒誥篇「妹土、嗣爾股肱、純其藝黍稷奔走厥考厥長(二)馳走。饗應。庭訓徃來、上、五「一種一瓶者、衆中課役、賭引出物者、亭主奔走歟」(三)馳走するの意より轉じて、大事に取扱ふこと。又小兒などを愛でいつくしむこと。寵愛。文治五年大内裡修造の命に頼朝の奉答せし書「愚力の及候はん程は、奔走仕るべく候」集昨日は今日の物語(寛永)「色色さまざまの古筆集めて、ほんさうする、中にも近衛殿の御手跡程見事なるは、有るまいと沙汰する」和訓栞奔走は馳走の意也、彼是と心くばりをするを、親の奔走子などいふ」〔1856-4〕

とあって、この語を収載する。これを現代の日本国語大辞典』第二版には、「ほん-そう【奔走】<名>@(古くは「ほんぞう」とも)走りまわること。忙しく立ちまわること。A物事がうまく運ぶようにかけまわって努力すること。いろいろ世話をやくこと。また、その心づかい。B(走りまわって用意する意から)手厚くもてなすこと。馳走すること。饗応することC大事にすること。かわいがること。また、そのもの。秘蔵。ほんそ」とある。※『庭訓徃來』の意味はBの意味となる。

[ことばの実際]

然間、被寄進東大寺造寺料之後、留跡、在廳、窮民等、運無二之忠、勵隨分之奔走、引營未曽有大物之處、云不輸別納、云新立庄々之加納、寄事於左右、敢無隨催促役之地《読み下し》然ル間、東大寺造寺料ニ寄進セラルルノ後、跡ニ留マル、在庁、窮民等、無二ノ忠ヲ運ラシ、随分ノ奔走(ホンソウ)ヲ励マシ、未曽有ノ大物ヲ引キ営ムノ処ニ、別納ヲ輸サズト云ヒ(不輸ノ別納ト云ヒ)、新立ノ庄庄ノ加納ト云ヒ、事ヲ左右ニ寄セ、敢テ催促ノ役ニ随フノ地無シ。《『吾妻鏡』文治三年四月二十三日条》

2002年3月30日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「結構(ケツコウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「計」部に、

結構(ケツカウコウ)。〔元亀本214四〕

結構(ケツコウ)。〔静嘉堂本244一〕〔天正十七年本中51オ八〕

とあって、標記語「結構」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

抑客人光臨結構奔走奉察候」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

抑客-人光--奔走奉リ∨」〔山田俊雄藏本〕

抑客人光臨結構奔走奉察候」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「結構」の語は未収載にする。次に広本節用集』は、

結構(ケツコウ/ムスブ・カマヱル)[入・去]奔走/義同。〔態藝門598二〕

とあって、標記語「結構」の語注記は、「奔走の義同じ」という。この注記は『庭訓徃來』の「結構奔走」という熟字構成につながっているように見えるのである。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本『節用集』には、

結構(ケツコウ)奔走。〔・言語進退175四〕

結構(ケツコウ)―句。―衆(シユ)。―縁(エン)/―解(ゲ)。―願(グハン)。―番(ハン)。〔・言語143九〕

結構(ケツコウ)―句。―衆。―縁/―解。―願。―番。〔・言語133七〕

とあって、標記語「結構」で広本節用集』と同じ語注記「奔走」を収載するのは弘治二年本のみであり、他写本は標記語を「結構」とし、「結」を冠頭字とする熟語群を収載する。また、易林本節用集』には、

結解(ケツケ)―構(コウ)。―願(グハン)/―縛(バク)。―句(ク)。〔言辞147一〕

とあって、標記語「結解」の冠頭字「結」の熟語群として「結構」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

結構伎藝部/ケツコウ)工匠ト。〔黒川本疉字中99ウ六〕

結解(ケツケ)〃政。〃衆。〃縁。〃跏。〃婚。〃交。〃果。〃綬シウ/交錺也。〃義。〃番。〃束。〃恨/〃使煩悩〃構(コウ)/〃願。〔卷第七18四〕

とあって、標記語「結構」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月{ }日の状に、

300抑客人光臨結構奔走奉察候借用之具足所持分者令之候灯臺火鉢蝋燭臺雖不註文進也能米大豆(マクサ)味噌塩梅(シホムメ) 以汝爲揖橈|、汝爲塩梅古亊也。〔謙堂文庫藏三二左C〕

とあって、標記語を「結構」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

(ソモ/\)客人光臨(リン)結構(ケツコウ)奔走(ホンソウ)。〔下六ウ七〕

とあって、この標記語「結構」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そも/\)客人(きやくじん)光臨(くわうりん)結構(けつこう)奔走(ほんそう)(さつ)し(たてまつ)り(さふら)ふ。/客人光臨結構奔走奉。〔三十四ウ二〕

とあって、標記語「結構」についての語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)客人(きやくじん)光臨(くハうりん)結構(けつかう)奔走(ほんそう)(さつ)(たてまつ)(さふら)ふ。/(ソモ/\)客人光臨結構奔走リ∨フ。〔二十八オ八〕

(そも/\)客人(きやくじん)光臨(くわうりん)の結構(けつかう)奔走(ほんさう)(たてまつ)り(さつ)し(さふら)ふ。〔五十オ五〕

とあって、標記語「結構」の語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Qecco>.ケツカウ(結構) Musubi,camayuru.(結び,構ゆる)何か物事の準備をすること,あるいは,備えること.例,Monouo qecco> suru.(物を結構する)§また,立派で華やかな物を見事に整えて飾ること.〔邦訳479r〕

とあって、標記語を「結構」とし、その意味は「何か物事の準備をすること,あるいは,備えること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「けっ-こう【結構】《一》<名>[一](―する)組み立てつくり上げること。@物をつくり出すこと。多くの場合、善美を尽してつくること。また、そうしてでき上がった物やその構造。こしらえ。意匠。(イ)家屋などの構築物についていう。(ロ)抽象的なものごとや論理の構成など、イ以外のいろいろなものについていう。A心の中で、ある考えを作りかまえること。計画。意図。企て。B物事の準備をととのえること。用意。支度。C実現すること。執行すること。Dぜいたくをすること。[二]植物「みょうが(茗荷)」の異名。《二》<形動>(一の意から転じて)よく出来上がっているさま。申し分のないさま。よいさま。@すぐれているさま。立派なさま。好ましいさま。Aねんごろなさま。手厚いさま。B心がけがよいさま。気立てのよいさま。好人物のさま。お人よし。C十分なさま。満足なさま。それでよいとみなされるさま。Dそれ以上必要としないさま。丁寧に断る場合に用いる。「『お茶はいかがですか』『結構です』」《三》<副>十分満足であるというほどではないが、一応よいといえるさまをいう。程度が低いと見こんでいた予想からは、案外程度が高いことを表わす。かなり」とある。※『庭訓徃來』の意味は《一》Bの意味となる。

[ことばの実際]

彼司馬一族等兼日有結搆之儀、殊申案内〈云云〉《読み下し》彼ノ司馬ノ一族等、兼日ニ結構(ケツコウ)ノ儀有リテ、殊ニ案内ヲ申スト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承五年六月十九日条》

2002年3月29日(金)雨。静岡県(河津)⇒東京(世田谷⇒八王子)

「光臨(クワウリン)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、

光臨(―リン)。〔元亀本191六〕〔静嘉堂本216三〕〔天正十七年本中37ウ二〕

とあって、標記語「光臨」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

抑客人光臨結構奔走奉察候」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

抑客---奔走奉リ∨」〔山田俊雄藏本〕

抑客人光臨結構奔走奉察候」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「光臨」の語は未収載にする。次に広本節用集』は、

光臨(クワウリン/ヒカリ・ノゾム)[平・平]。〔態藝門534二〕

とあって、標記語「光臨」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

光臨(クワウ)。〔・言語進退161二〕

光陰(クハウイン)―儀。―臨(リン)。―降(カウ)/―花(クハ)。―賁(ヒ)。〔・言語131五〕

光陰(クワウイン)―儀。―臨。―降/―花。―賁。―明。〔・言語120六〕

光陰(クワウイン)―儀。―臨。―降/―花(クハ)。―賁(フン)。―明。〔・言語146五〕

とあって、標記語「光臨」で収載するのは弘治二年本のみで、他本は標記語を「光陰」とし、「光」の冠頭字の熟語群として「光臨」の語を収載する。また、易林本節用集』には、

光臨(クワウリン)―儀(ギ)。―降(カウ)。―彩(サイ)/―明(ミヤウ)。―幸(カウ)。―賁(フン)。〔言辞133六〕

とあって、標記語「光臨」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「光臨」の語を未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月{ }日の状に、

300抑客人光臨結構奔走奉察候借用之具足所持分者令之候灯臺火鉢蝋燭臺雖不註文進也能米大豆(マクサ)味噌塩梅(シホムメ) 以汝爲揖橈|、汝爲塩梅古亊也。〔謙堂文庫藏三二左C〕

とあって、標記語を「光臨」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

(ソモ/\)客人光臨(リン)結構(ケツコウ)奔走(ホンソウ)。〔下六ウ七〕

とあって、この標記語「光臨」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(そも/\)客人(きやくじん)光臨(くわうりん)結構(けつこう)奔走(ほんそう)(さつ)し(たてまつ)り(さふら)ふ。/客人光臨光臨ハ來らるゝと云事を華美(くわび)にしいひたるなり。結構奔走奉。〔三十四ウ二〕

とあって、標記語「光臨」についての語注記は、「光臨は、來らるゝと云ふ事を華美にし、いひたるなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(そも/\)客人(きやくじん)光臨(くハうりん)結構(けつかう)奔走(ほんそう)(さつ)(たてまつ)(さふら)ふ。/(ソモ/\)客人光臨結構奔走リ∨光臨ハ入來(いりきた)る也。〔二十八ウ四〕

(そも/\)客人(きやくじん)光臨(くわうりん)の結構(けつかう)奔走(ほんさう)(たてまつ)り(さつ)し(さふら)ふ光臨ハ入來(いりきた)る也。〔五十ウ四〕

とあって、標記語「光臨」の語注記は、「光臨は、入り來るなり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Quo<rin.クヮゥリン(光臨) すなわち,Von ide.(御出で)貴人が行くこと,または,来ること.〔邦訳522r〕

とあって、標記語を「光臨」とし、その意味は「すなわち,Von ide.(御出で)貴人が行くこと,または,来ること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「こう-りん【光臨】<名>他人を敬って、その人がある場所に出席することをいう語」とある。

[ことばの実際]

走湯山住僧良覺、申子細之間、武衛、有御對面、以上人之光臨用亡魂再來由、被盡芳讃〈云云〉《読み下し》走湯山ノ住僧良覚ニ属シ、子細ヲ申スノ間、武衛、御対面有リ、上人ノ光臨ヲ以テ亡魂ノ再来ヲ用ウルノ由、芳讃ヲ尽サルト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦二年三月二十七日条》

2002年3月28日(木)晴れ。東京(八王子)⇒静岡県(河津)

「本望(ホンマウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「保」部に、「本尊、本末、本領、本来、本所、本役、本懐、本復、本主、本名、本道、本祖、本卦、本朝、本草、本手、本方、本儀、本願、本韻、本守、本山、本迹、本蘇」といった標記語が収載されているが、標記語「本望」の語はいずれも未収載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

以便宜被徘徊者尤本望」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

便-徘徊者尤-」〔山田俊雄藏本〕

便宜(ビンギ)ヲ徘徊者尤本望」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「本望」の語は未収載にする。次に広本節用集』は、

本望(ホンマウ・―,ノソミ/モト,ノゾム)[上・平去]。〔態藝門101三〕

とあって、標記語「本望」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

本望(ホンマウ)遂―。〔・言語進退33七〕

本末(ホンマツ)―意(ホンイ)。―系(/モトヲツク)。―來(ライ)。―復(フク)。―懐(クワイ)。―性(シヤウ)。―跡(せキ)。―所/―領(リヤウ)。―体(タイ)。―樣。―望(マウ/モウ)。―分(フン)。―訴(ソ)。―券(ケン)。〔・言語35一〕

本望(ホンマツ)―意。―系。―來。―復。―懐。―性。―跡/―所。―願。―体。―樣。―望。―分。―訴。―地。〔・言語31九〕

本望(ホンマウ)。〔・言語38七〕

とあって、標記語「本望」の語注記は未記載にする。また、易林本節用集』は、

本望(ホンマウ)。〔言語32二〕

とあって、標記語「本望」の語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「本望」の語を未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月{ }日の状に、

299不審千万之處到來怱到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、標記語を「本望」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

(ラレ)徘徊(ハイクハイ)せ(ハ)本望(マウ)也 徘徊立メグル事。本望ハ本(モト)ヲ望(ノソ)ム也。〔下六ウ六〕

とあって、この標記語「本望」の語注記は、「本を望むなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

便宜(べんぎ)を以(もつ)徘徊(はいくわい)(ら)(ハ)(もつとも)本望(ほんもう)也/便宜徘徊者尤本望。是ハ前の書状に参言を期すといひ又参物の時を期すとあるによりていえるなり。徘徊ハたちもとほる事也。言こゝろハはるである頃こゝえへ來りて遊ひ玉ハゝ本望に叶ひしことなり。〔三十四オ七〕

とあって、標記語「本望」についての語注記は見えない。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

便宜(びんぎ)を以(もつ)て徘徊(はいくわい)せら(れ)(バ)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)便宜徘徊セラ者尤本望〔二十八オ七〕

(もつ)て便宜(びんぎ)を(れ)徘徊(はいかい)せらる(バ)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)。〔五十オ四〕

とあって、標記語「本望」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Fonmo<.ホンマウ(本望) 願望.例,Fonmo<uo togueru,l,tassuru.(本望遂ぐる,または,達する)自分の望みを達する.⇒Soquai.〔邦訳260r〕

とあって、標記語を「本望」とし、その意味は「願望」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ほん・まう【本望】<名>@本来の望み。かねがね抱いている志。本懐。A望みを達して喜びを感じること。満足であること」とある。

[ことばの実際]

廷尉、日來所存者、令參向關東者、征平氏間事、具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由、思儲之處、忽以相違、剰不遂拜謁、而空歸洛其恨已深於古恨〈云云〉《読み下し》廷尉、日来ノ所存ハ、関東ニ参向セシメバ、平氏ヲ征スル間ノ事、具ニ芳問ニ預カリ、又大功ヲ賞セラレ、本望ヲ達スベキカノ由、思ヒ儲クルノ処ニ、忽チ以テ相違シ、剰ヘ拝謁ヲ遂ゲズシテ、空シク帰洛ス。其ノ恨ミ已ニ古ノ恨ミヨリモ深シ〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦二年六月九日条》

2002年3月27日(水)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「便宜(ビンギ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「飛」部に、

便宜(ヒンギ)〔元亀本340七〕

便宜(―ギ)〔静嘉堂本408一〕

とあって、標記語「便宜」とし、語注記はいずれも未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

便宜徘徊者尤本望也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

便-徘徊者尤本-」〔山田俊雄藏本〕

便宜(ビンギ)ヲ徘徊者尤本望也」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「便宜」の語は未収載にする。次に広本節用集』は、

便宜(ビンギ・タヨリ―/スナワチ,ヨロシ)[平去・平]。〔態藝門1041六〕

とあって、標記語「便宜」の語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

便宜(ビンギ)。〔・言語進退256七〕

便宜(ビンギ)―舩。〔・言語218八〕

便宜(ビンギ)―舩。―風/―路。〔・言語203九〕

とあって、標記語「便宜」の語注記は未記載にする。また、易林本節用集』は、

便舩(ビンせン)―風(フウ)―宜()。〔言辞226五〕

とあって、標記語を「便舩」の冠頭字「便」の熟語群として「便宜」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

便宜ヒンキ。〔黒川本下94オ五〕

便宜ヒンキ。〃風。〃人。〃所。〃車。〃舩。〃脚。〔卷第十364三〕

とあって、標記語「便宜」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月{ }日の状に、

299不審千万之處到來怱到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望也 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、標記語を「便宜」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

便宜ハ。タヨリヨロシキト謂也。〔下六ウ六〕

とあって、この標記語「便宜」の語注記は、「たよりよろしきと謂ふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

便宜(べんぎ)を以(もつ)徘徊(はいくわい)(ら)(ハ)(もつとも)本望(ほんもう)也/便宜徘徊者尤本望也。是ハ前の書状に参言を期すといひ又参物の時を期すとあるによりていえるなり。徘徊ハたちもとほる事也。言こゝろハはるである頃こゝえへ來りて遊ひ玉ハゝ本望に叶ひしことなり。〔三十四オ七〕

とあって、標記語「便宜」についての語注記は、「是ハ前の書状に参言を期すといひ又参物の時を期すとあるによりていえるなり」と解釈していう。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

便宜(びんぎ)を以(もつ)て徘徊(はいくわい)せら(れ)(バ)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)便宜徘徊セラ者尤本望也〔二十八オ七〕

(もつ)て便宜(びんぎ)を(れ)徘徊(はいかい)せらる(バ)(もつとも)本望(ほんまう)(なり)。〔五十オ四〕

とあって、標記語「便宜」の語注記は、未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Bingui.ビンギ(便宜) Tayori(便り)に同じ.ちょうどよい使いの者,好機会,よい折.§Binguini macaxete fumiuo caqu.(便宜に任せて文を書く)好都合な使いの者に恵まれて,または,いい折に恵まれて手紙を書く.〔邦訳56r〕

とあって、標記語を「便宜」とし、その意味は「便りに同じ.ちょうどよい使いの者,好機会,よい折」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「びん・ぎ【便宜】<名>@つごうのよいこと。たよりのよいこと。好都合。また、そのおり。好機。ついで。べんぎ。A状況を伝える手紙や情報。たより。おとずれ。音信。べんぎ」とある。

[ことばの実際]

筑後前司頼時、去夜自京都下向、當時可勤前駈已下事之輩、不幾之間、所被召下也此便宜、定家朝臣、進消息并和歌文書等《読み下し》筑後ノ前司頼時、去ヌル夜京都ヨリ下向ス、当時前駆已下ノ事ヲ勤ムベキノ輩、幾ナラザルノ間、召シ下サルル所ナリ。此ノ便宜(ビンギ)ニ、定家ノ朝臣、消息并ニ和歌ノ文書等ヲ進ズ。《『吾妻鏡』建暦二年九月二日条》

2002年3月26日(火)小雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「餘鬱(ヨウツ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「與」部に、

餘鬱(―ウツ)〔元亀本131三〕〔天正十七年本中1オ三〕

餘鬱(―ウツ/クモル)〔静嘉堂本137三〕

とあって、標記語「餘鬱」とし、このうち静嘉堂本は、左訓に「くもる」と読みを添えている。語注記はいずれも未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

不審之處玉章怱到來更無貽餘鬱」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

不審之處-章怱-スコト-(ヨ―)ヲ」〔山田俊雄藏本〕

不審千万之處玉章怱到來(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集広本節用集』は、標記語「餘鬱」の語は未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

餘鬱(ヨウツ)。〔・言語進退93四〕

とある以外は、未収載にある。そして、弘治二年本の語注記は未記載にある。また、易林本節用集』は、

餘慶(ヨキヤウ)―流(リウ)。―殘(サン)。―殃(アウ)。―義(キ)。―念(ネン)。―乗(ぜウ)。―氣(キ)―欝(ウツ)/―命(メイ)。―薫(クン)。―分(ブン)。―風(フウ)。―勢(せイ)。―寒(カン)。―黨(タウ)。―裔(エイ)。〔言語86三〕

とあって、標記語を「餘慶」の冠頭字「餘」の熟語群として「餘鬱」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「餘鬱」の語を未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月{ }日の状に、

299不審千万之處到來怱到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望也 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、標記語を「餘鬱」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

玉章怱(タチマチ)ニ到來(タウライ)ス(サラ)ニ(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ玉章トハ。タマヅサナリ〔下六ウ五〕

とあって、この標記語「餘鬱」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さら)餘欝(ようつ)(のこ)事無(ことなし)餘鬱。こゝに言こゝろハ久/\音信もなかりし故いかゝあるやといぶかしく思ひ居たりしに書状を打ひらき見て案しわづらひたる心もこと/\しくはれたりと也。〔三十四オ六〕

とあって、標記語「餘鬱」についての語注記は、「案じわづらひたる心」と解釈していう。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さら)餘欝(ようつ)(のこ)すこと(な)し/餘鬱。▲餘鬱ハ欝々(むし/\)と物思ふことの猶(なほ)(あまり)あるをいふ。〔二十八ウ三〕

(さら)ニ(な)し(のこ)すこと餘鬱(ようつ)を。▲餘鬱ハ欝々(むし/\)と物思ふことの猶(なほ)(あまり)あるをいふ。〔五十ウ四〕

とあって、標記語「餘鬱」の語注記は、「餘鬱ハ欝々と物思ふことの猶餘りあるをいふ」とある。

 当代の『日葡辞書』には、「氣鬱」と「積鬱」の二語が見られるが、標記語「餘鬱」の語は未収載にする。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「よ・うつ【餘鬱】<名>胸中に残っている鬱憤」とある。

[ことばの実際]『塵芥』「餘鬱(ヨウツ)」〔与部・態藝上66ウ七〕

2002年3月25日(月)晴れ。[卒業式]東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

今宵見し 庭さくら花 咲き貽し いにしへ思ふ 汝が心汲む

「貽(ノコス)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「乃」部に、

(ノコル)()(同)。〔元亀本187八〕

(ノコル)(ノコス)(同)。〔静嘉堂本212二〕

(ノコル)()(同)。〔天正十七年本中35ウ三〕

とあって、標記語「」「」「」と三語を併記し、このうち静嘉堂本は、「」の字だけを「のこる」と読み、「」「」の字を「のこす」と読む。語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

不審之處玉章怱到來更無餘鬱」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

不審之處-章怱-コト-(ヨ―)ヲ」〔山田俊雄藏本〕

不審千万之處玉章怱到來(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「」の語は未収載にする。次に広本節用集』は、

(ノコル/ザン)[平上去](同/)[平]()[平去]。〔態藝門495五〕

とあって、標記語「」「」「」の順に三語を併記し、その語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』にも、

(ノコル)(同)()。〔・言語進退154六〕

(ノコル)。〔・言語126五〕〔・言語140二〕

とあって、四写本のうち弘治二年本尭空本両足院本が収載し、その語注記は未記載にある。また、易林本節用集』は、

(ノコル)()。〔言辞124二〕

とあって、標記語を「」「」の二語を収載するのみで「」は未収載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

ノコル/昨干反―孫/云飴(井 以進反)詒飴潰殱折戔餘賂移已上同。〔黒川本・辞字中61オ三〕

ノコル/拾―()ノコス/訓同詒飴潰殱折戔餘賂移已上同。〔卷第五269四〕

とあって、標記語「」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

299不審千万之處到來怱到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望也 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

玉章怱(タチマチ)ニ到來(タウライ)ス(サラ)ニ(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ玉章トハ。タマヅサナリ〔下六ウ五〕

とあって、この標記語「」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さら)餘欝(ようつ)(のこ)事無(ことなし)餘鬱。こゝに言こゝろハ久/\音信もなかりし故いかゝあるやといぶかしく思ひ居たりしに書状を打ひらき見て案しわづらひたる心もこと/\しくはれたりと也。〔三十四オ六〕

とあって、標記語「」についての語注記は、「こと/\しくはれたり」と解釈していう。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さら)餘欝(ようつ)(のこ)すこと(な)し/餘鬱。〔二十八オ六〕

(さら)ニ(な)し(のこ)すこと餘鬱(ようつ)を。〔五十オ四〕

とあって、標記語「」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Nocoxi,su,oita.ノコシ,ス,イタ(残し,す,いた) 残しておく.〔邦訳469r〕

とあって、標記語を「」とし、その意味は「残しておく」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「のこ・す【】<他サ五>@一部分をあとにとどめておく。なくさないようにする。A[]人が立ち去ったあと、また、死んだ後にとどめておく。後世に伝える。[]事のすんだあとも消えずにあるようにする。B言わずにとっておく。隠しておく。Cある範囲や期限までに、なお余地や余裕をもつ。また、気持に余裕をもつこともいう。「あと五日を残すのみ」D囲碁で、終局して互いの地を数えあったとき、相手より何目か勝っている。あます。E相撲で、相手の攻めに対し土俵ぎわで踏みこらえる。「よく残した」【】(イ)のちの人に贈りのこす。伝えのこす。「貽訓」「貽範」「貽謀」《のこる・のこす・おくる》」とある。

[ことばの実際]

貴客雖令蒙生虜之號、始終不可沈淪之恨歟《読み下し》貴客(今)生虜リノ号ヲ蒙ラシム(蒙ル)ト雖モ、始終沈淪ノ恨ミヲ貽スベカラザルカ。《『吾妻鏡』文治五年九月七日条》

2002年3月24日(日)晴れ。東京(:)⇒世田谷(駒沢)

「到來(タウライ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、

到來(タウライ)。〔元亀本138九〕

到來(――)。〔静嘉堂本147五〕

到來(―ライ)。〔天正十七年本中5ウ五〕

とあって、標記語「到來」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

不審之處玉章怱到來更無貽餘鬱」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

不審之處-章怱-スコト-(ヨ―)ヲ」〔山田俊雄藏本〕

不審千万之處玉章怱到來(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「到來」の語は未収載にする。次に広本節用集』は、

到來(タウライ/イタル・キタル)[去・平]。〔態藝門348六〕

とあって、標記語「到來」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』にも、

到來(タウライ)。〔・言語進退110七〕

とあって、四写本のうち弘治二年本だけが収載であり、その語注記は未記載にある。また、易林本節用集』は、

到來(タウライ)。〔言辞94五〕

とあって、標記語を「到來」の語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

到來(タウライ)。〔黒川本・疉字中10ウ四〕〔卷第四453六〕

とあって、標記語「到來」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

299不審千万之處到來怱到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望也 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、標記語を「到來」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

玉章怱(タチマチ)ニ到來(タウライ)ス(サラ)ニ(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ玉章トハ。タマヅサナリ〔下六ウ五〕

とあって、この標記語「到來」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

玉章(ぎよくしやう)(たちまち)到來(とうらい)玉章怱(タチマチ)ニ到來玉章ハ書状をいふ。譽たる詞也。到來ハ書状のとゝきたる事也。〔三十四オ五〕

とあって、標記語「到來」についての語注記は、「到來は、書状のとどきたる事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

玉章(ぎよくしやう)(たちまち)到來(とうらい)玉章怱到來。〔二十八オ六〕

玉章(ぎよくしやう)(たちまち)到來(とうらい)〔五十オ三〕

とあって、標記語「到來」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

To<rai.タゥライ(到來) Itari,qitaru.(到り,来たる)やって来ること,あるいは,到り達すること.例,Iicocuto<rai suru.(時刻到来する)何か物事をすべき時期や時刻が来る,あるいは,その時になる.⇒Iibun(時分);Iixet.〔邦訳663r〕

To<rai.タゥライ(到來) 知らせ.例,To<raiga aru,l,gozaru.(到来がある,または,ござる)知らせがある,あるいは,来る.下(X.)の語.〔邦訳664l〕

とあって、標記語を「到來」とし、その意味は「やって来ること,あるいは,到り達すること」と「知らせ」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「とう-らい【到來】<名>@とどくこと。到達すること。いたりつくこと。到着。A機運などが向いてくること。時機がくること。Bよそからの贈り物が届くこと。他から物を贈ってくること。また、その物。到来物」とある。

[ことばの実際]

十七日丙午板垣三郎兼信飛脚、去夜到來鎌倉今日判官代邦通披露彼使者口状、其趣應貴命爲追討平家、赴西海〈去八日出京云云〉也《読み下し》十七日丙午。板垣ノ三郎兼信ガ飛脚、去ヌル夜鎌倉ニ到来ス。今日判官代邦通披露ス。彼ノ使者ノ口状、其ノ趣貴命ニ応ズ。平家ヲ追討センガ為ニ、西海ニ赴ク〈去八日ニ出京ト云云〉*ナリ(*所ナリ)《『吾妻鏡』寿永三年三月十七日条》

2002年3月23日(土)晴れ一時雷雨。東京(八王子)⇒大船⇒世田谷(駒沢)

「玉章(ギヨクシヤウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部と「多」部に、

玉章(―シヤウ/タマツサ)。〔元亀本283四〕 玉章(タマヅサ)。〔元亀本137九〕

玉章(ギヨクシヤウ)。〔静嘉堂本324三〕  玉章(タマツサ)。〔静嘉堂本146一〕

×                    玉章(―ツサ)。〔天正十七年本中5オ二〕

とあって、標記語「玉章」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月{ }日の状に、

不審之處玉章怱到來更無貽餘鬱」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

不審之處--スコト-(ヨ―)ヲ」〔山田俊雄藏本〕

不審千万之處玉章怱到來(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ」〔経覺筆本〕

欠落〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「玉章」の語注記は、未収載にする。次に広本節用集』は、

玉章(タマヅサ―シヤウ・アキラカ)[○・平]。或云玉札。〔器財門341四〕

とあって、「多」部に標記語「玉章」の語注記は、「或云○○」形式による別語標記を示す。「氣」部にはこの語の字音読み「ギヨクシヤウ」は未収載にしている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』にも、

玉章(タマヅサ)玉札(同)。〔・財宝104六〕〔・財宝93六〕〔・財宝85六〕

玉章(タマツサ)玉札(同)。〔・財宝103四〕

とあって、広本節用集』の注記語を後排列の標記語にして、継承するものである。また、易林本節用集』は、

玉躰(ギヨクタイ)―章(シヤウ)。〔言辞190六〕

とあって、標記語を「玉躰」として収載し、注記に「玉」冠頭字の熟語群として「玉章」の語を収載する。古辞書では『伊京集』に、

玉章(タマヅサ/ギヨクシヤウ)玉札(同)〔多部・財宝40九〕

とあって、和訓「たまづさ」を右訓にし、左訓には字音読み「ギヨクシヤウ」をもって収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「玉章」の語を未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

299不審千万之處玉章到來シテ更无コト餘鬱便宜徘徊者尤本望也 徘徊‖_我所義也。〔謙堂文庫藏三二左B〕

とあって、標記語を「玉章」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

玉章(タチマチ)ニ到來(タウライ)ス(サラ)ニ(ノコス)コト餘鬱(ヨウツ)ヲ玉章トハ。タマヅサナリ〔下六ウ五〕

とあって、この標記語「玉章」の語注記は「たまづさなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

玉章(ぎよくしやう)(たちまち)到來(とうらい)玉章(タチマチ)ニ到來玉章ハ書状をいふ。譽たる詞也。到來ハ書状のとゝきたる事也。〔三十四オ五〕

とあって、標記語「玉章」についての語注記は、「玉章は、書状をいふ。譽めたる詞なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

玉章(ぎよくしやう)(たちまち)到來(とうらい)玉章(タチマチ)ニ到來。▲玉章玉ハ稱美(志ようひ)の詞。章ハ文章(ぶんしやう)にて先方(さき)の書状をいふ。〔二十八ウ三〕

玉章(ぎよくしやう)(たちまち)到來(とうらい)玉章玉ハ稱美(しようび)の詞(ことバ)。章ハ文章(ぶんしやう)にて先方(さき)の書状をいふ。〔五十ウ三〕

とあって、標記語「玉章」の語注記は、「玉章玉は、稱美の詞。章は、文章にて先方の書状をいふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Guiocuxo<.ギョクシャウ(玉章) Tamazzusa.(たまづさ)すなわち,Fumi.(文)書状.§また,何枚かの紙に和歌を書いて、封をするか結ぶかしたもの.§また,詩〔和歌〕を書いてある紙.それ〔和歌〕を送ってくれた人を尊敬してこう言うのである.例,Guiocuxo<uo cudasareta.(玉章を下された)あなたは,私に詩〔和歌〕を書いて送って下さった.※原文はVersos,ou cantigas.〔Vacaの注〕〔邦訳300r〕

とあって、標記語を「玉章」とし、その意味は「たまづさ,すなわち,文.書状」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ぎょく-しょう【玉章】<名>(「玉」は美称)@立派な詩文。美しい詩文。A相手を敬って、その手紙をいう語。たまずさ」とある。

[ことばの実際]

悚欝之処故投玉章。《『明衡徃来』上本》

いま御ことのりしておほせたまふことは、秋の水にうかびては、ながるゝ木葉とあやまたれ、秋の山をみれば、をりひまなき錦とおもほえ、もみぢの葉のあらしにちりて、もらぬ雨ときこえ、菊の花の岸にのこれるを、空なる星とおどろき、霜の鶴河邊にたちて雲のおるかとうたがはれ、夕の猿山のかひになきて、人のなみだをおとし、たびの雁雲ぢにまどひて玉札(たまづさ)と見え、あそぶかもめ水にすみて人になれたり。《『古今著聞集』卷第十四・四七九,亭子院御時大堰川行幸に紀貫之和歌の假名序を書く事》

秋風(あきかぜ)にはつかりがねぞきこゆなるたがたまづさをかけてきつらむ 友則(とものり)《『和漢朗詠集』》

2002年3月22日(金)曇り後雨。東京(八王子)⇔飯田橋⇔大船

「不具(フグ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、

不具(―グ)。〔元亀本222二〕〔静嘉堂本253八〕

不具(―ク)。〔天正十七年本中56オ四〕

とあって、標記語「不具」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

敢以不可被捐併期參拝不具謹言」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

敢以不-(キ―)せ|ス‖-ヲ|-恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

棄捐併期ス‖參拝ヲ|不具謹言」〔経覺筆本〕

弃捐併期ス‖參言不具謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

不具(―グ)無衣裳(ブイシヤウ)。日本ロナリ也。〔言辞門152四〕

とあって、標記語「不具」の語注記は、「無衣裳。日本の俗の言ふ所ろなり」という。次に広本節用集』は、

不具(フグ・アラズ/フウ・イナヤ,ソナフ・ツフサ)[平去・去]衣裳。日本俗所言。〔態藝門628八〕

とあって、標記語を「不具」として収載し、語注記は『下學集』を継承する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

不具(フグ)。〔・言語進退182一〕

不慮(フリヨ)―日(ジツ)。―直(チヨク)。―熟(シユク)。―浄(ジヤウ)。―足(ソク)。―通(ツウ)。―滿(マン)。―律(リツ)。―弁(ヘン)。―明(ミヤウ)。―陳(チン)/―便(ビン)悼(イタム)意。―定(ヂヤウ)。―敵(テキ)―具()。―犯(ボン)。―運(ウン)。―審(シン)。―食(シヨク)。―當(タウ)。―実(ジツ)/―見(ケン)。―易(エキ)。―断(ダン)。―敏(ビン)鈍(ドン)ナル皃チ。―調(デウ)婬乱義。―辧(ベン)不足之義。―快(クハイ)心中悪皃。―會(クハイ)不合義。―覺(カク)失錯義。―孝(カウ)――其子不隨順父母ノ|之命也。―祥(シヤウ)無心義。―悉(シツ)書札ノ末ニ用/―備(ビ)同上。―合(ガウ)不和合義。―法懈怠(ホウケタイ)。―和義(ワギ)。―得心(トクシン)。―肖(シヤウ)卑体也肖ハ似也/――トハ似人倫(ギ)卑下(ヒゲ)ノ詞也。―思儀(シギ)。〔・言語149三〕

不慮(フリヨ)―日。―直。―熟。―浄。―足。―通。―滿。―律。―弁。―明。―便。―陳。―定。/―敵。―具。―犯。―運。―審。―食。―當。―實。―見―易。―断。―敏鈍皃也。―調婬乱義。―快。―會。―覚。―孝其子不父母之命ニ|。―作。―同。―如意/―祥无義。―悉書札末用/―備同上。―合不和義。―法懈怠。―和。―肖。―遜。〔・言語139三〕

とあって、弘治二年本が標記語「不具」を収載し、語注記を未記載にする。他二本は、標記語「不慮」の冠頭字「不」の熟語群として収載する。また、易林本節用集』は、

不審(フシン)―儀(ギ)。―信(シン)。―便(ビン)。―法(ホフ)。―淨(ジヤウ)/―祥(シヤウ)。―説(せツ)。―調(デウ)。―堪(カン)。―運(ウン)/―増(ゾウ)。―減(ゲン)。―退(タイ)。―通(ツウ)。―婬(イン)。―忠(チウ)。―安(アン)。―出(シユツ)。―熟(ジク)。―孝(カウ)。―定(ヂヤウ)。―實。―慮(リヨ)。―覺(カク)。―闕(ケツ)/―快(クワイ)。―犯(ボン)。―断(ダン)。―動(ドウ)。―當(タウ)。―日(ジツ)―具()。―易(エキ)。―辧(ベン)。―敵(テキ)。―參(サン)。―如意(ニヨイ)。―知案内(チアンナイ)。―思議(シギ)。―得心(トクシン)。〔言辞151一〕

とあって、標記語を「不審」として収載し、注記に「不」の冠頭字の熟語群語として「不具」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

不具フク。〔黒川本・疉字中107ウ三〕

不羈―キ。〃覺〃通〃用〃審〃断〃日〃善〃調〃了〃意〃慮〃和〃合〃次一作翅。〃幸〃運〃澤〃諧〃肖同。〃便〃熟〃登〃祥〃定〃朽〃仕〃足〃享キヤウ。〃請〃義〃欽ツヽシマス。〃虞〃易エキ。〃忠〃敵〃圖〃善〃當〃具〃遇〃孝ケウ。〃請〃備〃情せイ。〃快〃別〃思議〃中用〃足言〃周風西北風也。〔卷第七・疉字79四〜80四〕

とあって、標記語「不具」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296一-兩輩可(ヤトハカシ)。萬事奉-(フボ)ノヲ|。敢以不併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「不具」とし、その語注記は未記載にする。また、『庭訓徃來註』二月廿三日の状に、

056併期参會之次不具謹言 不具我位下人詞也。不具衣裳義也。監物弾正忠下官也。故不具云也云々。〔謙堂文庫蔵九左C〕

とあり、これについては「ことばの溜池」(2000.10.18)を参照されたい。

 古版『庭訓徃来註』では、

不具ト云フ事。トヽノハサルガ故ニ不具(フク)ト書ケリ。恐惶謹言。〔下六ウ一〕

とあって、この標記語「不具」の語注記は「トヽノハザルガ故ニ不具ト書ケリ」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかしなか)ら參拝(さんはい)(とき)(ご)不具謹言/併期シ‖參拝之時ヲ|不具謹言〔三十三ウ八〕

とあって、標記語「不具」についての語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(しかしなが)ら參拝(さんはい)(の)(とき)(ご)(さふら)不具(ふぐ)恐惶(きやうくハう)謹言(きんげん)併期シ‖參拝之時ヲ|不具恐惶謹言不具ハ二月の進状(しんじやう)に見ゆ。〔二十七ウ二〕

(しかしなが)ら(ご)し‖參拝(さんはい)(の)(とき)を|(さふら)ふ不具(ふぐ)恐惶(きようくわう)謹言(きんげん)不具ハ二月の進状(しんじやう)に見ゆ。〔四十九オ一〕

とあって、標記語「不具」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Fugu.フグ(不具) Tcubusa narazu.(具さならず)手紙でこまごまと書いたり,くどく言ったりしないこと.例,Fugu tcuxxinde moo<su.(不具謹んで申す)私はこれ以上くだくだしく申したり,これ以上こまごまと書きしるしたりすることはしません.〔邦訳273l〕

とあって、標記語を「不具」とし、その意味は「手紙でこまごまと書いたり,くどく言ったりしないこと」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ふ-ぐ【不具】<名>@(形動)そなわらないこと。そろわないこと。また、そのさま。不備。Aわずらわしい。やみ。病気。B(形動)身体の一部に障害があること。また、その人やさま。C手紙の末尾に付して、意を尽くさず整わないの意に用いる語」とある。

[ことばの実際]

凡御車等、不具之間、今度儀式、不及被刷之〈云云〉《読み下し》凡ソ御車等、不具ノ間、今度ノ儀式ハ、之ヲ刷ハルルニ及バズト〈云云〉。《『吾妻鏡』建長四年四月十四日条》

2002年3月21日(木)晴れ後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「參拝(サンハイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、

參拝(―バイ)。〔元亀本268二〕

参拝(―ハイ)。〔静嘉堂本304八〕

とあって静嘉堂本のみが収載し、標記語「{}」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

敢以不可被捐併期參拝不具謹言」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

敢以不-(キ―)せ|ス‖-ヲ|-具恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

棄捐併期ス‖參拝ヲ|不具謹言」〔経覺筆本〕

弃捐併期ス‖不具謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「參拝」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

參拝(サンハイ/マイル,ヲガム)[平・去]。〔態藝門784六〕

とあって、標記語を「參拝」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

参拝(―ハイ)。〔・言語進退214四〕

参會(サンクハイ)―詣(ケイ)。―禅(ぜン)。―暇(カ)。―斈(ガク)。―篭(ロウ)。―賀(カ)/―入(ニウ)。―上(ジヤウ)。―謁(エツ)。―内(ダイ)―拝(ハイ)。―决(ケツ)/―扣(コウ)。―謝(ジヤ)/―社(シヤ)。〔・言語178三〕

参會(――)―詣。―禅。―暇。―斈。―篭。―賀。―入。―上/―謁。―内。―拝。―决。―扣。―謝。―社。〔・言語167四〕

とあって、弘治二年本が標記語「參拝」を収載し、語注記を未記載にする。他二本は、標記語「参會」の冠頭字「参」の熟語群15語として収載する。また、易林本節用集』は、

參會(サンクワイ)―列(レツ)。―候(コウ)/―社(シヤ)。―洛(ラク)。―仕(シ)―拝(ハイ)。―謁(エツ)。―賀(カ)。―籠(ロウ)/―詣(ケイ)。―内(ダイ)。―上(ジヤウ)。―向(カン)。―集(シフ)。―著(チヤク)。―宮(グウ)。〔言辞180五〕

とあって、標記語を「參會」として収載し、注記に「参」の冠頭字の熟語群16語として「参拝」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

参拝同/サンハイ。〔黒川本・疉字下43オ四〕

参詣〃啓。〃拝。〃進。〃洛。〃陣。〃内。〃入。〃仕。〃期。〔卷第八・疉字444一〕

とあって、標記語「參拝」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296一-兩輩可(ヤトハカシ)。萬事奉-(フボ)ノヲ|。敢以不併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「參拝」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

棄捐(キエン)せ|ス‖参拝ヲ|棄捐トハ。見ステキヽステ給フナト云心ナリ。〔下六ウ一〕

とあって、この標記語「參拝」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(しかしなか)ら參拝(さんはい)(とき)(ご)候不具謹言併期シ‖參拝之時ヲ|候不具謹言〔三十三ウ八〕

とあって、標記語「參拝」についての語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(しかしなが)ら參拝(さんはい)(の)(とき)(ご)(さふら)不具(ふぐ)恐惶(きやうくハう)謹言(きんげん)併期シ‖參拝之時ヲ|候不具恐惶謹言〔二十七ウ二〕

(しかしなが)ら(ご)し‖參拝(さんはい)(の)(とき)を|(さふら)ふ不具(ふぐ)恐惶(きようくわう)謹言(きんげん)〔四十九オ一〕

とあって、標記語「參拝」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Sanpai.サンパイ(參拝) Mairi vogamu.(参り拝む)行って敬礼すること.§Sanpaiuo motte mo<xi agubequ soro.(参拝を以て申し上ぐべく候)あなた様の手に接吻しに行った折にお話ししましょう.〔邦訳555r〕

とあって、標記語を「參拝」とし、その意味は「行って敬礼すること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「さん-ぱい【參拝】<名>@神社や寺にお参りして神仏をおがむこと。参朝。Aある人、特に目上の人を訪問すること」とある。

[ことばの実際]

先進使者於仙洞、申云、爲遁鎌倉譴責、零落鎮西最期雖可參拝、行粧異體之間、已以首途〈云云〉《読み下し》先ヅ使者ヲ仙洞ニ進ジテ、申シテ云ク、鎌倉ノ譴責ヲ遁レン為、鎮西ニ零落ス。最期ニ参拝スベシト雖モ、行粧異体ノ間、已ニ以テ首途スト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治元年十一月三日条》

2002年3月20日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「棄捐(キエン)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、

棄捐(キヱン)。〔静嘉堂本327四〕

とあって静嘉堂本のみが収載し、標記語「棄捐」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

敢以不可被併期參拝不具謹言」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

敢以不-(キ―)せ|ス‖-ヲ|-具恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

棄捐併期ス‖參拝ヲ|不具謹言」〔経覺筆本〕

弃捐併期ス‖參言不具謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「棄捐」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

棄捐(キヱン/ステ,ステル)[去・平]。〔態藝門832一〕

とあって、標記語を「棄捐」として収載し、語注記に「同じ」とする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、標記語「棄捐」を未収載にする。また、易林本節用集』は、

(キエン)―捨(シヤ)。〔言辞189六〕

とあって、標記語を「」として収載し、語注記に「」の冠頭字の熟語「捨」を置く。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「棄捐」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296一-兩輩可(ヤトハカシ)。萬事奉-(フボ)ノヲ|。敢以不併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

棄捐(キエン)ス‖参拝ヲ|棄捐トハ。見ステキヽステ給フナト云心ナリ。〔下六ウ一〕

とあって、この標記語「棄捐」の語注記は、「棄捐とは、見すて・ききすて給ふなど云心なり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(あへ)(もつ)棄損(きゑん)(ら)(へから)(す)敢以不棄損棄捐ハすてすつると讀ム。言こゝろハ父母のことく思ひて頼入るゝ事なれはかまへて見すてたまハるましとなり。〔三十三ウ七〕

とあって、標記語を「棄捐」についての語注記は、「棄捐は、「すてすつる」と讀む。言ふこゝろは、父母のごとく思ひて頼り入るゝ事なればかまへて見すてたまはるまじとなり」とある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(あへ)(もつ)棄損(きゑん)(ら)(へから)(す)敢以不棄損〔二十七ウ二〕

(あへ)て(もつ)て(ず)∨(べから)∨(る)‖棄損(きえん)せら|〔四十八ウ六〕

とあって、標記語「棄捐」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

†Qiyen.キエン(棄捐) Sute,tcuru.(棄て,つる)投げ捨てること.〔邦訳513r〕

とあって、標記語を「棄捐」とし、その意味は「投げ捨てること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「き-えん【棄捐】<名>@(―する)捨てて用いないこと。捨ててかえりみないこと。A法例によって貸借関係を破棄すること。特に江戸時代、強制的に債務の一部または全部を棒引きにしたり、低利の長期返還にしたりしてしまうことが行なわれた。B(―する)私財を投げ出して他に恩恵を施すこと」とある。

[ことばの実際]

而自美濃〈一村有御志間、在國、〉上洛、募御息女之威、在京之間、姦曲之輩、多以屬之、捧往日弃捐古文書、寄附不知行所々於件姫公之後、又稱其使節、押妨《読み下し》而シテ美濃(国)ヨリ〈一村御志有ルノ間、在国、〉上洛シ、御息女ノ威ニ募リ、在京ノ間、姦曲ノ輩、多ク以テ之ニ属シ、往日棄捐(キエン)ノ古キ文書ヲ捧ゲ、不知行ノ所所ヲ件ノ姫公ニ寄附スルノ後、又其ノ使節ト称シ、権門ノ庄公等ヲ押シ妨グ。《『吾妻鏡』元暦二年三月三日条》

2002年3月19日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「敢以(あえてもつて)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「阿」部に、標記語「敢以」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

敢以不可被棄損併期參拝不具謹言」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕〔宝徳三年本〕

敢以棄損併期參拝不具恐々謹言」〔山田俊雄藏本〕

棄捐併期參拝不具謹言」〔経覺筆本〕

弃捐併期參言不具謹言」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「敢以」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

敢以(アヱテモツテカン,)。〔態藝門759八〕

とあって、標記語を「敢以」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

敢以(アヘテ―)。〔・言語進退207一〕

敢以(アヘテ―テ)。〔・言語171五〕〔・言語160五〕

とあって、標記語「敢以」を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

(アヘテ)。〔阿・言辞175三〕 (モツテ)呂/同。〔毛・言辞232一〕

とあって、標記語を「」と「」とにして収載し、語注記は未記載にある。他に明応本・天正十八年本・黒本本に収載が見られる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

アヘテ/古覧反。更歴拾遂均普総辨傍肯毳手没反/已上同。〔黒川本・辞字下30オ七〕

アヘテアタフ。イ。已上同。〔卷第八347六〕

モテ/羊已反玩毘將即良反。持去老者衰者等也。茂望寅以之正字也。〔黒川本・辞字下98ウ八〕

モテ玩毘将モタリ。老云識/―遊徴也。以之正字也。〔卷第十412一〕

とあって、標記語を「」と「」とにして収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296一-兩輩可(ヤトハカシ)。萬事奉-(フボ)ノヲ|敢以棄損併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「敢以」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|。萬事奉リ∨-母之ヲ|(アヘ)(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「敢以」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(あへ)(もつ)棄損(きゑん)(ら)(へから)(す)敢以棄損セ|棄捐ハすてすつると讀ム。言こゝろハ父母のことく思ひて頼入るゝ事なれはかまへて見すてたまハるましとなり。〔三十三ウ七〕

とあって、標記語を「敢以」についての語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(あへ)(もつ)棄損(きゑん)(ら)(へから)(す)敢以棄損セ|〔二十七ウ二〕

(あへ)て(もつ)て(ず)∨(べから)∨(る)‖棄損(きえん)せら|〔四十八ウ六〕

とあって、標記語「敢以」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Ayete.アエテ(敢) Vqego<te(肯うて)に同じ.ある事を禁止したり,その事をしないように申し出たりすること〔に対して,その禁止・申し出〕に同意・納得し,それを実行できるように努力して.§Ayete xirizoqu coto nacare.(敢へて退く事勿れ)君たちは〔命令を〕納得して,その場を離れてはならない.文書語.※原文はConsentindo,&fazedose capazprohibir algua cousa,ou propor de a nao fazer.とあるが,Ayete(敢へて),Vqego<te(肯うて)の意から見て,上記のような意味になろう.〔邦訳44l〕

Motte.モテ(以) 前置詞.“…で,…をもって”,または,“…によって”.例,Iesusuno minauo motte.(ゼズスの御名を以て)ゼズス(Iesusu イエズス)の聖なる御名をもって.※原文はCom,ou per.Vomotteの注および補説6参照.〔邦訳425r〕

とあって、標記語を「」と「」とにし、その意味は「肯うてに同じ.ある事を禁止したり,その事をしないように申し出たりすること〔に対して,その禁止・申し出〕に同意・納得し,それを実行できるように努力して」と「前置詞.“…で,…をもって”,または,“…によって”」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「あえ-て【】<副>」の小見出しに、「あえて以(もっ)て 「あえて」を強調していう語」とある。

[ことばの実際]

北條殿、敢以不可然、早可奉尋武衛旨、被命間、各走攀登數町險阻之處、武衛者、令立臥木之上給、實平候其傍《読み下し》北条殿、敢テ以テ然ルベカラズ、早ク(早早)武衛ヲ尋ネ奉ルベキ旨、命ゼラルルノ間、各走ツテ数町ノ険阻ニ攀ヂ登ルノ処ニ、武衛ハ、臥木ノ上ニ立タシメ給ヒ、実平其ノ傍ニ候ズ。《『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条》

2002年3月18日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「父母(フボ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、標記語「父母」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

万事奉父母之思候訖」〔至徳三年本〕「萬事奉成父母之思候了」〔建部傳内本〕

萬事奉成父母之思畢」〔宝徳三年本〕

-事奉リ∨-之思ヲ|」〔山田俊雄藏本〕

万事奉リ∨父母ヒヲ|」〔経覺筆本〕

()事奉リ∨シ‖-(フモ)(ヲモイ)ヲ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

父母(フボ)。〔人倫門38三〕

とあって、標記語「父母」の語を収載し、その語注記は未記載にする。次に広本節用集』は、

父母(/チヽ,ホウ・ハヽ)[上・上]。〔人倫門620二〕

とあって、標記語を「父母」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

父母(ブモ)。〔・人倫179七〕〔・人倫147六〕〔・人倫137六〕

とあって、標記語「父母」を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

父祖(――)―母/―子。〔人倫148六〕

とあって、標記語「父母」を収載し、語注記のところには「父」を冠頭字にする熟語群が二語記載されている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

父母人倫部/――分。〔黒川本・疉字中106オ五〕

父母〃子。〃兄。〃老。〃祖。〔卷第七86四〕

とあって、標記語「父母」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296一-兩輩可(ヤトハカシ)。萬事奉-(フボ)ノヲ|。敢以不棄損併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「父母」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|。萬事奉リ∨-ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「父母」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やとハ)(しめ)(たまハ)(へき)(もの)万事(ばんじ)父母(ふぼ)(の)(おも)ひを(なし)(たてまつり)(おわん)ぬ/雇給者也万事奉父母之思ヲ|其元にかゝる事まて打かけて猶入るゝ事ハ畢竟(ひつきやう)其元を父母のことく思ひ居ゆへとなり。〔三十三ウ五〕

とあって、標記語を「父母」についての語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(やと)(し)(たま)(べ)(なり)萬事(ばんじ)父母(ふぼ)(の)(おもひ)(な) (たてまつ)(おハん)ぬ/キ‖メ∨フ|。萬事奉シ‖父母之思ヲ|〔二十七ウ一〕

(べき)‖(しめ)∨(やとハ)(たまふ)|(なり)萬事(ばんじ)(たてまつり)∨(なし)‖父母(ふぼ)(の)(おもひ)を|(をハん)ぬ〔四十八ウ五〕

とあって、標記語「父母」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Banji.ブモ(父母) Chichi faua.(父母)父と母と.〔邦訳64r〕

Banji.フボ(父母) Chichi faua.(父母)父と母と.〔邦訳268r〕

とあって、標記語「父母」の意味は「父と母と」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ふ-ぼ【父母】<名>父と母。両親。ぶも」とある。また、「ぶ-も【父母】<名>(「も」は「母」の呉音)「ふぼ(父母)」に同じ」とある。

[ことばの実際]

兼備父母之壯士等、被撰定御使〈云云〉《読み下し父母(フボ)ヲ兼備スルノ壮士等ヲ、御使ニ撰ビ定メラル〈云云〉。《『吾妻鏡』寿永元年八月十三日条》

2002年3月17日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)

「萬事(バンジ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、「萬歳(バンぜイ/マンサイ)。萬端(タン)。万悦(エツ)。万幸(カウ)。万方(ハウ)。万々(バン/\)」の六語を収載するが、標記語「萬事」の語は未収載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

万事奉父母之思候訖」〔至徳三年本〕「萬事奉成父母之思候了」〔建部傳内本〕

萬事奉成父母之思畢」〔宝徳三年本〕

-リ∨-之思ヲ|」〔山田俊雄藏本〕

万事奉リ∨父母ヒヲ|」〔経覺筆本〕

()事奉リ∨シ‖-(フモ)(ヲモイ)ヲ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「萬事」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

万亊(バンジヨロヅ,コト・ワザ)[去・去]。〔態藝門70七〕

とあって、標記語を「万亊」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

万里(ハンリ)―機(ハンキ)。―嶋(タウ)。―端。―乗(せウ)天子部。―雉(チ)城名。―福(フク)―亊()。〔・言語21九〕

万里(バンリ)―機。―嶋。―端。―乗天子部/―福。―雉城名―亊。〔・言語19八〕

とあって、標記語「万里」を収載し、冠頭字「万」の熟語群の最末尾に収載する。また、易林本節用集』には、

万事(―シ)。〔言語21四〕

とあって、標記語「万事」を収載し、語注記は未記載にある。古辞書では広本節用集』、そして、印本『節用集』のなかの永祿二年本尭空本・そして、易林本節用集』にこの語を見出すことができる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「萬事」の語を未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

034萬亊シテ間不一二| 柳文曰、一二落着辞也。爰ニモ次第是可申云之義也。〔謙堂文庫藏七左F〕

296一-兩輩可(ヤトハカシ)萬事-(フボ)ノヲ|。敢以不棄損併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「萬事」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

萬亊(ブツソウ)之間不()一二(ツマビラカニ)萬ト云ハ一ツ二ツカラ十迄(マテ)謂(イハン)為(タメ)ナリ。〔上5オ三・四〕

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|萬事リ∨-母之ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「萬事」の語注記は「萬と云ふは、一つ二つから十迄(マテ)謂(イハン)為(タメ)なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やとハ)(しめ)(たまハ)(へき)(もの)万事(ばんじ)父母(ふぼ)(の)(おも)ひを(なし)(たてまつり)(おわん)ぬ/雇給者也万事父母之思ヲ|其元にかゝる事まて打かけて猶入るゝ事ハ畢竟(ひつきやう)其元を父母のことく思ひ居ゆへとなり。〔三十三ウ五〕

とあって、標記語を「万事」についての語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(やと)(し)(たま)(べ)(なり)萬事(ばんじ)父母(ふぼ)(の)(おもひ)(な) (たてまつ)(おハん)ぬ/キ‖メ∨フ|萬事シ‖父母之思ヲ|〔二十七ウ一〕

(べき)‖(しめ)∨(やとハ)(たまふ)|(なり)萬事(ばんじ)(たてまつり)∨(なし)‖父母(ふぼ)(の)(おもひ)を|(をハん)ぬ〔四十八ウ五〕

とあって、標記語「萬事」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Banji.バンジ(万事) Yorozzuno coto.(万の事)すべての事.〔邦訳49l〕

とあって、標記語「萬事」の意味は「すべての事」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ばん-じ【萬事】<名>@すべてのこと。あらゆること。A「ばんじ(万事)限(かぎ)り」の略」とある。

[ことばの実際]

怖畏、招下六波羅相州、欲令談合萬事是日來所存也〈云云〉《読み下し》怖畏ハ、六波羅ノ相州ヲ招キ下シ、万事ヲ談合セシメント欲ス。是レ日来ノ所存ナリト〈云云〉。《『吾妻鏡』寛元四年九月一日条》

2002年3月16日(土)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「雇(やとひ・やとはかす)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、

(ヤトフ)(同)。〔元亀本205四〕

(ヤトウ)(同)。〔静嘉堂本232八〕〔天正十七年本中45ウ七〕

とあって、標記語「」と「」との二語をもって収載し、語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

或盛物以下故実職者一両輩可令給也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_物以-下故-之職-(シヨク―)--輩可メ∨(ヤトハカサ)」〔山田俊雄藏本〕

物以下故実(―シツ)ノ職者一両輩可キ‖ム∨(ヤトヒ)ハラ|」〔経覺筆本〕

或盛物(モリモノ)已下故実(コシツ)ノ職者(シヨク―)-兩輩可令(シメ)∨(ヤトハカサ)(タマ)フ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

(ヤトフ)二字義同。以(チン)ヲ使也。然ルニ日本世俗呼(ツラ/\)ノ之讀(ヨミ)ヲ。不(カンカウ)也。〔態藝門93四〕

とあって、標記語「」「」の語を収載し、その語注記に「二字の義同じ。賃を以って人を使ふなり。然るに、日本の世俗倩の字を呼びて熟の讀みを作す。其の意を得ず、これをふべしなり」と文字使用についていう。次に広本節用集』は、

(ヤトウ/)[去](同/せン)[去]二字同。以使也。然ルニ日本俗呼(ツラ/\)(ヨミ)ト。不其意(ケン)ズ之也。〔態藝門93四〕

とあって、標記語を「」「」として収載し、語注記は『下學集』を継承し、「二字同じ。賃を以って人を使ふなり。然るに、日本の俗「倩」の字を呼びて、熟の讀みと作す。其の意を得ず、これを検ずべしなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

(ヤトウ)(ヤトフ)人。〔・言語進退167一〕

(ヤトウ)(同)―/人。以賃使人也。然日本世俗呼(ツラ/\)之讀。不其_意可之。〔・言語137二〕

(ヤトウ)(同)―人。以賃使人也。然日本世俗呼字作(ツラ/\)之讀。不其_意之。〔・言語126三〕

とあって、標記語「」「」を収載し、語注記は『下學集』を継承し、弘治二年本は簡略注記をもって収載し、他二本はそのまま引用記載する。また、易林本節用集』には、

(ヤトフ)(同)。〔言辞138六〕

とあって、標記語「」「」を収載し、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

ヤトウ/云願。七致反咄續已上同。〔黒川本・辞字中86ウ二〕

ヤトウ/九―鳥也。假―也已上同。〔卷第六・辞字522四〕

とあって、標記語「」「」を収載し、語注記は独自の注記を示している。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296一-兩輩可(ヤトハカシ)。萬事奉-(フボ)ノヲ|。敢以不棄損併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「」とし、その語注記は未記載にする。このことは、古辞書に反映された語注記をこの真字注にあっては採用していないことも知られよう。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|。萬事奉リ∨-母之ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(やとハ)(しめ)(たまハ)(へき)(もの)万事(ばんじ)父母(ふぼ)(の)(おも)ひを(なし)(たてまつり)(おわん)ぬ/者也万事奉父母之思ヲ|其元にかゝる事まて打かけて猶入るゝ事ハ畢竟(ひつきやう)其元を父母のことく思ひ居ゆへとなり。〔三十三ウ五〕

とあって、標記語を「」についての語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(やと)(し)(たま)(べ)(なり)萬事(ばんじ)父母(ふぼ)(の)(おもひ)(な) (たてまつ)(おハん)ぬ/キ‖メ∨フ|。萬事奉シ‖父母之思ヲ|〔二十七ウ一〕

(べき)‖(しめ)∨(やとハ)(たまふ)|(なり)萬事(ばんじ)(たてまつり)∨(なし)‖父母(ふぼ)(の)(おもひ)を|(をハん)ぬ〔四十八ウ五〕

とあって、標記語「」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Yatoi,to>,o>ta.ヤトヒ,ゥ,ゥタ(雇ひ,ふ,うた) 賃銭を出して人などを雇う.〔邦訳813l〕

とあって、標記語「」の意味は「賃銭を出して人などを雇う」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「やと-ふ【】<他ワ五(ハ四)>@賃金や料金を払って、ある期間人や乗り物などを使う。A借りて用いる。利用する」とする。さらに、古写本『庭訓徃来』に見える訓は、「やとわ-か・す【】<他サ四>(「かす」は接尾語)雇わせる。雇うのを許す」とある。

[ことばの実際]

諸家へ渡て、御訪肝要にて、身をやとはかし申間《『布衣記』(1295年頃)群書類従8装束部・文筆部》

むかしとりけだもののものをゆぅたとき,をぅかめひつじをくらわぅとすれば,ひつじわそのなんをのがりょぅとていぬをやとぅてけいごさせた.《天草版『エソポ物語』》

2002年3月15日(金)雨上り晴れ、春一番。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「一両輩(イチリヤウハイ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、標記語「一両(リヤウ)具足。藥。車」「一輩(ハイ)蟹(カニ)」という数名詞の語が収載されるに過ぎず、標記語「一両輩」は未収載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

或盛物以下故実職者一両輩可令雇給也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_物以-下故-之職-(シヨク―)--メ∨(ヤトハカサ)」〔山田俊雄藏本〕

物以下故実(―シツ)ノ職者一両輩キ‖ム∨(ヤトヒ)ハラ|」〔経覺筆本〕

或盛物(モリモノ)已下故実(コシツ)ノ職者(シヨク―)-兩輩可令(シメ)∨(ヤトハカサ)(タマ)フ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「一両輩」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

一兩輩(イツリヤウハイ/ヒトツ,フタヽビ,トモガラ)[入・○・去]。〔態藝門36七〕

とあって、標記語「一兩輩」を収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

一兩輩(―リヤウハイ)。〔・人倫4八〕〔・人倫2八〕〔・人倫3三〕〔・人倫3七〕

とあって、標記語「一兩輩」を収載し、語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、標記語「一両輩」は未収載にある。この語を標記語として採録する当代の古辞書としては、広本節用集』と印度本系統や明応本・天正十八年本の『節用集』類ということになる。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「一両輩」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

296-兩輩(ヤトハ)カシ。萬事奉-(フボ)ノヲ|。敢以不棄損併期參拝不具謹言〔謙堂文庫藏三二右C〕

とあって、標記語を「一両輩」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|。萬事奉リ∨-母之ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「一両輩」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)或盛物以下故實識者一兩輩。はいぜんくわんはいれうりハうてうもりかたなとミなそれ/\の作法礼義あるゆへ故実と云。識者は故実を能知たる者をいふ。〔三十三ウ三〕

とあって、標記語を「一両輩」の語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)或盛_物已下故実識者一両輩。〔二十七オ八〕

(あるひ)盛物(もりもの)已下(いげ)故実(こじつ)の識者(しきしや)一両輩(いちりやうはい)。〔四十八ウ四〕

とあって、標記語「一両輩」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

†Ichireo<fai. イチレャゥハイ(一両輩) Ichireo<nin.(一両人)一,二人.〔邦訳328l〕

‡Ichirio<fai.イチリャゥハイ(一両輩) →Ichireo<fai.〔邦訳328l〕

とあって、標記語「一両輩」の意味は「一,二人」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「いちりょう-はい【一両輩】<名>「いちりょうにん(一両人)」に同じ(一人か二人)」とある。

[ことばの実際]

サラバ軈(ヤガ)テ觀心寺ヘ皇居ヲ移シ進(マヰ)ラスベシトテ臨幸ナルニ、無用(ムヨウ)ナラン人々ヲ、ソヾロニ召具(メシグ)サセ給(フ)ベカラズト申(シ)ケル間、ゲニモトテ傳奏(テンソウ)ノ上卿(シヤウキヤウ)兩三人・奉行ノ職事(シキジ)一兩輩(ハイ)・護持僧(ゴヂソウ)二人・衞府(ヱフノ)官四五人許(バカリ)ヲ召具セラレ、此(コノ)外ハ何地(イヅチ)ヘモ暫(シバラ)ク落忍(オチシノビ)テ、御敵退散(タイサン)ノ時ヲ可待ト被仰出ケレバ、攝政關白・太政大臣・左右ノ大將・大中納言・七辨・八史・五位・六位・後宮(コウキユウ)ノ美婦人(ビフジン)・青上達部(ナマカンダチメ)・内侍・更衣(カウイ)・上臈女房・出世・房官ニ至ルマデ、或ハ高野(カウヤ)・粉川(コカハ)・天河(テンノカハ)・吉野・十津河(トツガハ)ノ方ニ落行テ、淺猿(アサマシ)ゲナル山賎共(ヤマガツドモ)ニ、憂身(ウキミ)ヲ寄(ス)ル人モアリ、或ハ志賀ノ古郷(フルサト)・奈良ノ都・京白河ニ立歸リ、敵陣ノ中ニ紛(マギ)レ居テ、魂(タマシヒ)ヲ消ス人モアリ。《『太平記』卷第三十四・和田楠軍評定事諸卿分散事》

2002年3月14日(木)晴れ。三重(松坂)[本居宣長記念館]・名古屋⇒東京(八王子)

「職者(シヨクシヤ)⇒識者(シキシヤ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、「職人(シヨクニン)。職敵(―テキ)。職林(―リン)。職源(―ゲン)自清和天皇六番目貞紀天皇之時始之也」の四語を記載するのみで、標記語「職者」は未収載にある。また、標記語「識者」の語も「」を冠頭字とする熟語群を未採録にする。

古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

或盛物以下故実職者一両輩可令雇給也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_物以-下故--(シヨク―)--輩可メ∨(ヤトハカサ)」〔山田俊雄藏本〕

物以下故実(―シツ)ノ職者一両輩可キ‖ム∨(ヤトヒ)ハラ|」〔経覺筆本〕

或盛物(モリモノ)已下故実(コシツ)ノ職者(シヨク―)-兩輩可令(シメ)∨(ヤトハカサ)(タマ)フ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「識者」の語を未収載にする。次に広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「職者」も「識者」も未収載にある。この語を標記語として採録する当代の古辞書は、見当たらないのである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「識者」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

295或盛物以下、故實職者 故古也。實道也。知其道也。〔謙堂文庫藏三二右B〕

とあって、標記語を「職者」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)或盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|。萬事奉リ∨-母之ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「職者」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)或盛物以下故實識者一兩輩。はいぜんくわんはいれうりハうてうもりかたなとミなそれ/\の作法礼義あるゆへ故実と云。識者は故実を能知たる者をいふ。〔三十三ウ三〕

とあって、標記語を「職者」から「識者」と置換し、その語注記は、「識者は故実を能く知りたる者をいふ」とある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)或盛_物已下故実識者一両輩。▲故実識者ハ故事(ふること)の是(きつとし)たる所を辨(わきま)へ知(し)りたる者(もの)をいふ。〔二十七オ八〕

(あるひ)盛物(もりもの)已下(いげ)故実(こじつ)の識者(しきしや)一両輩(いちりやうはい)。▲故実識者ハ故事(ふること)の是(きつとし)たる所を辨(わきま)へ知(し)りたる者(もの)をいふ。〔四十八ウ四〕

とあって、標記語「識者」の語注記は、「故実識者は、故事のきつとしたる所を辨へ知りたる者をいふ」とある。

 当代の『日葡辞書』には、標記語「職者」も「識者」の語も未収載にあり、いずれの標記語も当代の上記古辞書には認知されていないことが知られる。ただし、清原宣賢自筆・伊呂波分類體辭書『塵芥』(1510〜1550年頃成立)には、

職者(シヨクシヤ)。〔人倫門375二〕

とある。このことは、『庭訓徃来』を視野に古辞書の収載語をみていくとき、編纂者の知られた資料と言う点から注目しておきたいことである。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「しき-しゃ【識者】<名>@見識のある立派な人。教養のある人。分別のある人。また、故実によく通じた人。A有職によく通じた人。職者(しょくしゃ)」とあり、「しょく-しゃ【職者】<名>故実をよく知っている人。有職(ゆうそく)に通じた人。有職家。識者(しきしゃ)」とある。

[ことばの実際]

サテ應保二年三月七日、又經宗大納言ハメシカヘサレテ、長寛二年正月廿二日ニハ大納言ニカヘリナリテ、後ニハ左大臣一ノ上ニテ多年職者ニモチヰラレテゾ候ケル。コノ經宗ノ大納言ハマサシキ京極大殿ノムマゴナリ。人ガラ有テ祖父ノ二位大納言經實ニハ似ズ、公事ヨクツトメテ職者ガラモアリヌベカリケレバ、知足院殿の知足院ニウチコメラレテ腰イテオハシケル、人マイリテツネニ世ノ事ナラヒマイラセケレバ、法性寺殿ノ方ニハイヨ/\アヤシミ思ヒケリ。《『愚管抄』(1220年)卷第五》

サテソノ二月ノ廿日ノ曉、コノ内大臣ネ死ニ頓死ヲシテケリ。コノ人ハ三ノ舟ニノリヌベキ人ニテ、學生職者、和漢ノ才ヌケタル人ニテ、廿一ナル年ノ人トモ人ニヲモハレズ。《『愚管抄』卷第六》

2002年3月13日(水)晴れ。三重(伊勢)⇔斎宮[斎宮歴史博物館]⇒三重(松坂)

盛物(もりもの)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「毛」部に、

盛物(モリモノ)。〔元亀本348十〕〔静嘉堂本419七〕

とあって、標記語「盛物」を収載し、その語注記を未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

盛物以下故実職者一両輩可令雇給也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_-下故-之職-(シヨクシヤ)--輩可メ∨(ヤトハカサ)」〔山田俊雄藏本〕

以下故実(―シツ)ノ職者一両輩可キ‖ム∨(ヤトヒ)ハラ|」〔経覺筆本〕

盛物(モリモノ)已下故実(コシツ)ノ職者(シヨク―)-兩輩可令(シメ)∨(ヤトハカサ)(タマ)フ|」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「盛物」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

供具(クキヨウ,―)[平去・去]霊前盛物(モリモノ)。〔飲食門503六〕

とあって、標記語「供具」の語注記に「霊前の盛物」という表現で用いられている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、標記語「盛物」の語は未収載にある。いわば、この語を標記語として採録する当代の古辞書は、『運歩色葉集』ということになる。因みに鎌倉時代の観智院本類聚名義抄』(1241年)の僧中38七には、「盛」の字訓として「モリ物」の語が収載されている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「盛物」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

295或盛物以下、故實職者 故古也。實道也。知其道也。〔謙堂文庫藏三二右B〕

とあって、標記語を「盛物」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

庖丁(ハウテウ)盛物(モリモノ)已下(イゲ)故實(コジツ)ノ職者(シヨクシヤ)-(リヤウ)(ハイ)(ヘキ)‖(シメ)∨(ヤトハ)フ|。萬事奉リ∨-母之ヲ|(アヘ)テ(ラル)‖庖丁ハ人是爼(マナイ)タノ役(ヤク)ナリ。〔下六オ七〕

とあって、この標記語「盛物」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)盛物以下故實職者一兩輩。はいぜんくわんはいれうりハうてうもりかたなとミなそれ/\の作法礼義あるゆへ故実と云識者は故実を能知たる者をいふ。〔三十三ウ三〕

とあって、標記語「盛物」の語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(あるひ)盛物(もりもの)以下(いげ)故実(こじつ)識者(しきしや)一兩輩(いちりやうはい)_已下故実職者一両輩。〔二十七オ八〕

(あるひ)盛物(もりもの)已下(いげ)故実(こじつ)の識者(しきしや)一両輩(いちりやうはい)。〔四十八ウ四〕

とあって、標記語「盛物」の語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Morimono.モリモノ(盛物) 御器(Goqui)や茶椀(Chauan)などによそった食物やその他の物.§Morimonouo mori cobosu.(盛物を盛り零す)物を皿や御器(Goqui)などによそう時にこぼす.〔邦訳423l〕

とあって、標記語「盛物」の意味は「御器や茶椀などによそった食物やその他の物」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「もり-もの【盛物】<名>@食物を盛って膳に供える物。A神前、仏前に供える供え物。供物(くもつ)。おもりもの」とある。

[ことばの実際]

「それは何事なれば」といふに、「尤けふの葬(そう)は七五三程結構にあれ共、膳(ぜん)は出なんだ。あまりな事じやと思て盛物に手をかけたれば、隠坊めが「たゝきころそ」といふた」。《江戸笑話集『輕口露がはなし』葬禮の七五三・大系281五》※墓前に供える、菓子などの供物。

2002年3月12日(火)晴れ。三重(伊勢)⇔

料理(レウリ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「礼」部に、

料理(―リ)。〔元亀本149五〕〔静嘉堂本162六〕〔天正十七年本中13オ六〕

とあって、標記語「料理」を収載し、その語注記を未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

配膳勧盃料理包丁」〔至徳三年本〕「配膳勧盃料理庖丁」〔建部傳内本〕

-(ハイ―)-(ケン―)--」〔山田俊雄藏本〕

配膳(ハイせン)勧盃(カンハイ)料理(レウリ)庖丁(ハウテウ)」〔経覺筆本〕

-(ハイせン)-(ケンハイ)-(―リ)-(ハウチヤウ)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

料理(レウリ)。〔態藝門85四〕

とあって、標記語「料理」の語を収載し、その語注記は未記載にする。次に広本節用集』は、

料理(リヨウリ/ハカル,コトワリ)[去・上]調味。〔態藝門195二〕

とあって、標記語を「料理」として収載し、語注記は「調味」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

料理(レウリ)調味。〔・言語進退116四〕〔・言語99二〕〔・言語89九〕〔・言語109三〕

とあって、標記語「料理」として収載し、語注記は広本節用集』と同様に「調味」という。また、易林本節用集』には、

料理(レウリ)―帋(ハ)。―足(ソク)。〔言辞98五〕

とあって、標記語「料理」として、冠頭字「料」の熟語群二語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

料理飲食部/レウリ。〔黒川本・疉字中15オ一〕

料簡〃理レウリ。〔卷第四・疉字516二〕

とあって、標記語「料理」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

294料理包丁 莊子曰、包丁能解牛。又包丁文惠君牛。手觸。肩所倚。足履。膝(サス)。生石(ケキ)トシテ嚮然タリ。奏(クワク)タリニ云包丁トハ(アテラル)役人。今供膳也。言名也。文君梁惠王也。此時用鑾刀。鑾鈴也。鈴タル刀也。拍子好也。包丁牛三年ニシテ其数々千疋。是一疋當歟。良包コトニ(サケ)ハナリ曰良善也。包猶未(ア―)。經一歳。更-易其刀。小学人也。包丁大草入唐シテ傳也。莊子曰、包丁云字用也。言包丁解牛以也。解角刀牛心也。又易四季也。包丁九寸五分九重煩悩為切也。箸一尺二寸ニスル十二因縁也。箸金壱兩部是也。〔謙堂文庫藏三一左F〕

とあって、標記語を「料理」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

料理(レウリ)ハ魚(ウヲ)ノ類(ルイ)。精進(シヤウジン)其共ニ味(アシワ)ヒシタワル者是也。〔下六オ六〕

とあって、この標記語「料理」の語注記は、「魚の類。精進其れ共に味ひしたわるもの是れなり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

料理(りやうり)庖丁(ハうてう)料理庖丁。庖丁ハ元唐土(もろこし)の人にて牛を料理するに妙を得たる者なり。庖ハ料理役、丁ハ其人の名、事ハ莊子(さうじ)に見へたり。其名をかり用ひて魚(うを)(とり)なとを料理するを庖丁といふ。今ハ料理する刃物(はもの)の名と轉(てん)じたる也。〔三十三ウ一〕

とあって、標記語「料理」の語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

配膳(はいぜん)勧盃(くわんハい)料理(りやうり)庖丁(はうてう)配膳勧盃料理庖丁▲料理庖丁ハまないたの役(やく)を指(さ)す。昔(むかし)唐土(もろこし)に庖丁(ほうてう)といへる人あり。よく牛(うし)を解(と)けるゆへに假(かり)て料理人(れうりにん)の称(しよう)とす。後(のち)又轉(てん)じて刀(はもの)の名(な)とせり。〔二十七ウ四〕

配膳(はいぜん)勧盃(くわんハい)料理(りやうり)庖丁(はうてう) ▲料理庖丁ハまないたの役(やく)を指(さ)す。昔(むかし)唐土(もろこし)に庖丁(はうちやう)といへる人あり。よく牛(うし)を解(と)けるゆゑに假(かり)て料理人(れうりにん)の称(しよう)とす。後(のち)又轉(てん)じて刀(はもの)の名(な)とせり。〔四十九オ三〕

とあって、標記語「料理」の語注記は、「料理庖丁は、まないたの役を指す。昔唐土に庖丁といへる人あり。よく牛を解けるゆへに假て料理人の称とす。後また轉じて刀の名とせり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Reo>ri.リョウリ(料理) 食物をととのえて味をつけること.例,Reo>ri suru(料理する)調理する.〔邦訳530l〕

とあって、標記語「料理」の意味は「食物をととのえて味をつけること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「りょう-り【料理】<名>@(―する)物事を整えおさめること。うまく処理すること。A(―する)食物として口に合うように材料を整え加工すること。調理。割烹(かっぽう)。B調理した食物。また、その膳部。Cしつらい。または、しつらいすること。D(―する)相手を痛めつけたり、やっつけたりすること」とある。

[ことばの実際]

關白秀次公の御時、塗師屋の盛阿彌所へ、出頭衆二三人數寄に申入、茶過ぎてのち、しよゑんにてゆるゆると御あそびなさるる所に、ひる時分に盛阿彌、重箱をもつてまかりいで、「をのをの様ゆるりと御はなし、滿足つかまり候。少夜食を料理いたし候。參らぬか」といふて、ふたをあけたるを見れば、砂糖餅ぢや。《『きのふはけふの物語』》

2002年3月11日(月)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

勧盃(ケンハイ・クワンハイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、「勧進(クワンジン)。勧請(―ジヤウ)/歓喜(クワンギ)。勧ス(―エツ)。勧抃(―ベン)。歓楽(―ラク)」の五語を収載し、また、「氣」部にも「勧賞(クワンシヤウ)」の一語を収載するが、標記語「勧盃」は未収載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

配膳勧盃料理包丁」〔至徳三年本〕「配膳勧盃料理庖丁」〔建部傳内本〕

-(ハイ―)-(ケン―)--」〔山田俊雄藏本〕

配膳勧盃料理庖丁」〔経覺筆本〕

配膳勧盃料理庖丁()」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「勧盃」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

勧盃(ケンハイ/スヽメ,サカヅキ)[去・平]。〔態藝門603七〕

とあって、標記語を「勧盃」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

勧賞(ケンシヤウ)―盃(ハイ)。〔・言語144七〕

勧賞(クワンシヤウ)―盃。〔・言語134四〕

とあって、標記語「勧盃」として収載し、語注記は未収載にする。この読み方だが、永祿二年本尭空本とで異なる。また、易林本節用集』には、

勸進(クワンジン)―賞(シヤウ)。―學(ガク)。―化(ケ)。―農(ノウ)―盃(ハイ)。〔言辞134一〕

とあって、標記語「勸進」として、冠頭字「勸」の熟語群として「勸盃」の語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

勸盃盃酒分/クワンハイ。〔黒川本・疉字中80ウ三〕

勸賞(クヱンシヤウ)―盃ハイ。―學。―益ヤク/―課。―進シム。―請シヤウ/―勵。〔卷第六疉字444三〕

とあって、標記語「勧盃」を収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

293并家来之仁等皆以无骨田舎人(――ニン)配膳勧盃(クワンハイ) 酌取也。〔謙堂文庫蔵三一左E〕

とあって、標記語を「勧盃」とし、その語注記は、「酌取なり」という。

 古版『庭訓徃来註』では、

勸盃(ケンハイ)ハ座敷(サシキ)奉行(フキヤウ)ナリ。其座ノ興(ケウ)ヲ取ス人ナリ。〔下六オ六〕

とあって、この標記語「勧盃」の語注記は、「座敷奉行なり。其の座の興を取らす人なり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

勧盃(くわんばい)勧盃酒をすゝめ客人をもてなす役なり。〔三十三オ八〕

とあって、標記語「勧盃」の語注記は、「酒をすゝめ客人をもてなす役なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

配膳(はいぜん)勧盃(くわんハい)料理(りやうり)庖丁(はうてう)配膳勧盃料理庖丁▲勧盃ハ盃(さかつき)を勧(すゝ)め酌(しやく)をとるをいふ。〔二十七ウ四〕

配膳(はいぜん)勧盃(くわんハい)料理(りやうり)庖丁(はうてう) ▲勧盃ハ盃(さかづき)を勧(すゝ)め酌(しやく)をとるをいふ。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「勧盃」の語注記は、「勧盃は、盃を勧め酌をとるをいふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、

†Quanpai.クヮンパイ(勧盃) Sacazzuqi,susumuru.(盃,勧むる)酒宴などの際に,客に酒を飲むようにすすめること.〔邦訳519l〕

とあって、標記語「勧盃」の意味は「酒宴などの際に,客に酒を飲むようにすすめること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「カン-パイ【勧盃】<名>さかずきを差し出して、酒をすすめること。また、その杯。けんぱい」とある。

[ことばの実際]

勸盃之間、依仰、各語申徃事景能、語保元合戰事此間《読み下し勧盃ノ間、仰セニ依テ、各往事ヲ語リ申ス。景能ハ、保元ノ合戦ノ事ヲ語ル。《『吾妻鏡』建久二年八月一日条》

2002年3月10日(日)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(玉川⇒駒沢)

配膳(ハイゼン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「波」部に、

配膳(ハイゼン)。〔元亀本25七〕

配膳(ハイセン)。〔静嘉堂本23六〕〔天正十七年本上13オ一〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「配膳」を収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

配膳勧盃料理庖丁」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-(ハイ―)-(ケン―)--」〔山田俊雄藏本〕

配膳勧盃料理庖丁」〔経覺筆本〕

配膳勧盃料理庖丁()」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「配膳」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

配膳(ハイゼン/タグイ,ソナヱ)[去・去]或作(ハイせン)。〔態藝門66八〕

とあって、標記語を「配膳」として収載し、語注記は、「或作○○」形式にして「排」という別表記の字を示すものである。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

配膳(ハイゼン)又作排膳。〔・言語進退24六〕

配膳(ハイせン)。〔・言語24七〕

とあって、標記語「配膳」として収載し、語注記は弘治二年本だけに「又作」形式で「排膳」の表記字を収載する。永祿二年本尭空本は未収載にする。また、易林本節用集』には、

配饌(―せン)。〔言語21七〕

とあって、標記語「配饌」として収載し、語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「配膳」は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

293并家来之仁等皆以无骨田舎人(――ニン)配膳勧盃(クワンハイ) 酌取也。〔謙堂文庫蔵三一左E〕

とあって、標記語を「配膳」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

配膳(ハイぜン)ハ膳ヲチワルトヨムナリ。〔下六オ六〕

とあって、この標記語「配膳」の語注記は、「膳をわるとよむなり」とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

配膳(はいぜん)配膳膳をくはる讀?ひ乃事なり。〔三十三オ八〕

とあって、標記語「配膳」の語注記は、「膳をくはる讀?ひ乃事なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

配膳(はいぜん)勧盃(くわんハい)料理(りやうり)庖丁(はうてう)配膳勧盃料理庖丁▲配膳ハ膳(ぜん)を配(くば)り給仕(きうじ)するをいふ。〔二十七ウ四〕

配膳(はいぜん)料理(りやうり)勧盃(くわんハい)庖丁(はうてう)▲配膳ハ膳(ぜん)を配(くば)り給仕(きふじ)するをいふ。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「配膳」の語注記は、「配膳は、膳を配り給仕するをいふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Faijen.ハイゼン(配膳) Ienuo cubaru.(膳を配る)座敷(Zaxiqi)に,順序に従って日本の食卓〔膳〕を据えること.⇒次条.〔邦訳198r〕

†Faijen.ハイゼン(配膳) §また,日本の食卓〔膳〕を座敷(Zaxiqui)へ運び出す前に,奥で整えること.〔邦訳198r〕

とあって、標記語「配膳」の意味は「座敷に,順序に従って日本の食卓〔膳〕を据えること」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ハイ-ゼン【配膳】<名>食事の膳を客の前に配ること。食卓に箸、茶椀などをしつらえ食事の用意をすること。また、それをする人」とある。

[ことばの実際]

2002年3月9日(土)晴れ。東京(八王子)⇔千葉佐倉(国立歴史博物館⇒駒沢)

田舎人(いなかうど)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

夷中(イナカ)。〔元亀本11二〕〔静嘉堂本2五〕〔天正十七年本上3ウ四〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「夷中」と異なる表記で収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

家人若黨并家来仁等皆以無骨田舎人」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人若_黨并家来之仁皆_以無骨__(イナカウト)ニ」〔山田俊雄藏本〕

家人(―ノコ)若党并家来之仁等皆以無骨田舎人(イナカウト)」〔経覺筆本〕

-(いへのこ/イヱノコ)若黨(ワカタウ)-之仁等皆_以無骨之__(イナカウト)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「田舎人」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

田舎(イナカ/デンシヤ,タ・イヱ)[平・上去]。〔天地門4五〕

とあって、標記語を「田舎」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には

夷中(イナカ)或作為中(同)。又作田舎(同)。〔・天地3七〕

田舎(イナカ)田家(同)為中(同)夷中(同)。〔・天地1七〕

田舎(イナカ)田家為中夷中。〔・天地1五〕〔・天地1六〕

夷舎人(イナカウド)為中人(同)田舎人(同)。〔・人倫4七〕

夷舎人(イナカウド)為中人(同)田舎人(同)。〔・人倫2六〕

田舎人(イナカウト)夷舎人(同)為中人(同)。〔・人倫3一〕〔・人倫3五〕

とあって、標記語「田舎」と「田舎人」として収載し、語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、

田舎人(井ナカフド)。〔人倫121四〕

とあって、標記語「田舎人」として収載し、語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

田舎井ナカ田家。〔黒川本・地儀中55オ六〕〔卷第五222四〕

田舎人井ナカヒト。〔黒川本・人倫中55ウ八〕〔卷第五227四〕

とあって、標記語「田舎」と「田舎人」を収載し、その読みを「ゐなか」「ゐなかひと」として、語注記は未記載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

293并家来之仁等皆以无骨田舎人(――ニン)配膳勧盃(クワンハイ) 酌取也。〔謙堂文庫蔵三一左E〕

とあって、標記語を「田舎人」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

ク_シ_使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「田舎人」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならひ)家来(けらい)(じん)(とう)(ミな)(もつ)無骨(ふこつ)田舎人(いなかひと)也/家人若黨并家来之仁等皆以無骨田舎人。《前畧》田舎ハ野卑(やひ)にして礼義を知らさるをいふ。〔三十三オ八〕

とあって、標記語「田舎人」の語注記は、「田舎は、野卑にして礼義を知らざるをいふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならび)家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ふこつ)田舎人(いなかうど)(なり)家人若黨家来之仁__以無骨__。〔二十七オ六〕

家人(けにん)若黨(わかたう)(ならび)に家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ぶこつ)の田舎人(ゐなかうど)(なり)。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「田舎人」の語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Inacabito.イナカビト(田舎人) 田舎者.〔邦訳334l〕

とあって、標記語「田舎人」の意味は「田舎者」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「いなか-びと【田舎人】<名>「いなかもの(田舎者)@」に同じ(田舎の人。田舎育ちの人。田舎から出てきた人。いなかびと。いなかうど。田夫。いなかもん)」とある。

[ことばの実際]

來月七日、御息所、依可有御參鶴岡八幡宮、注供奉人數、可進覽但於如田舎人者、不可書加之由、被仰小侍所、行方傳之〈云云〉《読み下し》来月七日、御息所、鶴岡八幡宮ニ御参リ有ルベキニ依テ、供奉ノ人数ヲ注シ、進覧スベシ。但シ田舎人(イナカフド)ノ如キ者ニ於テハ、書キ加フベカラザルノ由、小侍所ニ仰セラレ、行方之ヲ伝フト〈云云〉。《『吾妻鏡』文応二年正月二十五日条》

2002年3月8日(金)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢⇒青山・明治記念館)

「無骨(ブコツ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「無」部に、

無骨(―コツ)(ナキ)ヲ(コツ)(カク)ノ也。〔元亀本222九〕

無骨(ブコツ)曰――格也。〔静嘉堂本254八〕

無骨(フコツ)(ナキ)ヲ(コツ)(カク)。〔天正十七年本中56ウ四〕

とあって、標記語「無骨」として収載し、その語注記は、「骨格の無きを曰ふなり」という。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

家人若黨并家来仁等皆以無骨田舎人也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人若_黨并家来之仁皆_無骨__(イナカウト)ニ」〔山田俊雄藏本〕

家人(―ノコ)若党并家来之仁等皆以無骨田舎人(イナカウト)」〔経覺筆本〕

-(いへのこ/イヱノコ)若黨(ワカタウ)-之仁等皆_無骨之田__(イナカウト)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

無骨(ブコツ)。〔態藝門81七〕

とあって、標記語「無骨」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』は、

無骨(ブコツ/ナシ,ホネ)[平・入]。〔態藝門635三〕

とあって、標記語を「無骨」として収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には

無骨(ブコツ)。〔・言語進退182六〕

無道(ブダウ)。―音(イン)。―為(イ)。―力(リヨク)。―災(サイ)―骨(コツ)。―双(サウ)/―礼(レイ)。―亊(ジ)。―菜(サイ)。―難(ナン)。―興(ケウ)。―頼(ライ)。〔・言語149七〕

無道(ブタウ)。―音。―為。―力。―災。―菜。―興。―沙汰。―四調。―骨。―双/―礼。―亊。―難。―頼。―所存。―心得。〔・言語139六〕

とあって、標記語「無骨」として収載するのは弘治二年本のみで、他二本は標記語「無道」の冠頭字「無」の熟語群として「無骨」を収載する。語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、

無禮(ブレイ)―來(ライ)。―道(タウ)。―性(シヤウ)。―頼(ラク)。―功(コウ)。―コ(トク)。―興(ケウ)。―骨(コツ)。―為(井)。―事(ジ)。―沙汰(サタ)。―器用(キヨウ)。―人数(ニンジユ)。/―力(リヨク)。―勢(せイ)。―人(ニン)。―雙(サウ)。―音(イン)。―覺悟(カクゴ)。―故實(コシツ)。―所存(ソゾン)。―興隆(コウリウ)。―案内(アンナイ)。/无単袴(ブタゴ)。〔言辞151七〕

とあって、標記語「無禮」として収載し、冠頭字「無」の熟語群として「無骨」を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「無骨」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

293并家来之仁等皆以无骨田舎人(――ニン)配膳勧盃(クワンハイ) 酌取也。〔謙堂文庫蔵三一左E〕

とあって、標記語を「無骨」とし、その語注記は未記載にする。ここで、注目すべきことは『庭訓往来註』に語注記が見られないところに、『運歩色葉集』が「骨格の無きを曰ふなり」という語注記を記載している点にある。この注記内容は如何なるところから引用したものか今後明らかにせねばなるまい。

 古版『庭訓徃来註』では、

ク_シ_使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「無骨」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならひ)家来(けらい)(じん)(とう)(ミな)(もつ)無骨(ふこつ)田舎人(いなかひと)也/家人若黨并家来之仁等皆以無骨田舎人也。周旋(たちまハり)品なきを無骨と云。〔三十三オ七〕

とあって、標記語「無骨」の語注記は、「周旋、品なきを無骨と云ふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならび)家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ふこつ)田舎人(いなかうど)(なり)家人若黨家来之仁__無骨__人也。▲無骨ハ挙動(たちふるまひ)其(その)式(のり)を得ざる也。俗(そく)に役(やく)にたゝぬ者(もの)を指(さ)して腰抜(こしぬけ)といふがごとし。〔二十七オ六〕

家人(けにん)若黨(わかたう)(ならび)に家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ぶこつ)の田舎人(ゐなかうど)(なり)。▲無骨ハ挙動(たちふるまひ)其(その)式(のり)を得ざる也。俗(そく)に役(やく)にたゝぬ者(もの)を指(さ)して腰抜(こしぬけ)といふがごとし。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「無骨」の語注記は、「無骨は、挙動其の式を得ざるなり。俗に役にたゝぬ者を指して腰抜といふがごとし」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Bucotna.ブコツナ(無骨な) すなわち,Iiguiuo xiranu mono.(辞儀を知らぬ者)粗野で,礼儀作法を心得ていない(人).〔邦訳63r〕

とあって、標記語「無骨」の意味は「辞儀を知らぬ者」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「ぶ-こつ【無骨】<名>[一](無作法の意の「こちなし(無骨)の音読み」)@(形動)無作法なこと。無礼なこと。あるいは不風流なこと。また、そのさま。A(形動)役に立たないこと。才のないこと。また、そのさま。不才。B(形動)具合の悪いこと。都合の悪いこと。また、そのさま。C(武骨)武術にすぐれていること。D(形動)(男性の)行動・性格などが骨張っていること。角張って堅くごつごつしていること。洗練されていなくて粗野であること。また、そのさま。[二]@(体に骨がないように見えるところから)軽業などの曲芸。A⇒むこつ(無骨)」とある。

[ことばの実際]

大蔵卿泰経、院宣を伝えて云く、前の内府、並びにその息清宗、三位の中将重衡等、義経相具して参洛する所なり。而るに生きながらの入洛無骨なり。近江の辺に於いて、その首を梟首すべし。《『玉葉』》

2002年3月7日(木)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

家来(ケライ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、

家来(―ライ)。〔元亀本214八〕〔静嘉堂本244四〕〔天正十七年本中51ウ四〕

とあって、標記語「家来」として収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

家人若黨并家来仁等皆以無骨田舎人也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-人若_黨并家来之仁皆_以無骨__(イナカウト)ニ」〔山田俊雄藏本〕

家人(―ノコ)若党并家来之仁等皆以無骨田舎人(イナカウト)」〔経覺筆本〕

-(いへのこ/イヱノコ)若黨(ワカタウ)-之仁等皆_以無骨之田__(イナカウト)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

家來(ケライ)家人之義也。〔態藝門91三〕

標記語「家来」の語を収載し、語注記は「家人の義なり」とする。次に広本節用集』は、

家來(ケライ・イヱ,キタル)[平・平]家人義也。〔態藝門605二〕

とあって、標記語を「家来」として収載し、その語注記は『下學集』を継承し「家人の義なり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には

家来人(ケライ―)。〔・人倫173二〕

家来人(ケライノヒト)。〔・人倫142三〕

家来人(ケライヒト)。〔・人倫131九〕

とあって、標記語「家来人」として収載し、語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

家務(ケム)―來(ライ)。―風(フウ)。―業(ゲフ)/―内(ナイ)。―中(チウ)。〔言辞146一〕

とあって、標記語「家務」として収載し、冠頭字「家」の熟語群の語として「家來」を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「家来」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

293并家来之仁等皆以无骨田舎人(――ニン)配膳勧盃(クワンハイ) 酌取也。〔謙堂文庫蔵三一左E〕

とあって、標記語を「家来」とし、その語注記は未記載にする。

 古版『庭訓徃来註』では、

ク_シ_使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「家来」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならひ)家来(けらい)(じん)(とう)(ミな)(もつ)無骨(ふこつ)田舎人(いなかひと)也/家人若黨并家来之仁等皆以無骨田舎人也。〔三十三オ六〕

とあって、標記語「家来」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならび)家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ふこつ)田舎人(いなかうど)(なり)家人若黨家来之仁__以無骨__人也。〔二十七オ六〕

家人(けにん)若黨(わかたう)(ならび)に家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ぶこつ)の田舎人(ゐなかうど)(なり)。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「家来」の語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Qerai.ケライ(家来) 一族の人々,あるいは,一家に属する人々.§Qeraino mono.(家来の者)ある家に属する人々.または,家臣,召使ども.〔邦訳489r〕

とあって、標記語「家来」の意味は「一族の人々,あるいは,一家に属する人々」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「け-らい【家礼家来家頼】<名>(「け」「らい」はそれぞれ「家」「礼」の呉音)[一](家礼)親や家の長上、主人などを敬い礼をつくすこと。転じて、他人に礼を表すること。⇒かれい(家礼)。[二]@朝廷の公事(くじ)、故事などを習うために、摂政家などに出入りする者。A封建制度下の武家社会で、主君につかえること、また、その者。家臣。B江戸時代、庄屋、地主の従者、小作人、家抱(けほう)、また、商家での雇人などの称。C(転じて、一般に)服従する者。従者。手下」とある。

[ことばの実際]

源氏人々者、家禮猶可被怖畏、矧亦如抑留下國事、頗似服仕家人《読み下し》源氏ノ人人ニ於テハ、家礼猶怖畏セラルベシ、矧ヤ亦下国ヲ抑留スルガ如キ事、頗ル家人ニ服仕スルニ似タリ。《『吾妻鏡』治承四年十月十九日条》[二]Aの意味。

本間孫四郎ハ、元ヨリ將軍家來ノ者ナリシガ、去(サンヌ)ル正月十六日ノ合戰ヨリ新田左中將ニ屬(シヨク)シテ、兵庫ノ合戰ノ時ハ、遠矢ヲ射テ弓勢(ユンゼイ)ノ程ヲアラハシ、雲母坂(キララサカ)ノ軍(イクサ)ノ時ハ、扇(アフギ)ヲ射テ手垂(テダレ)ノ程ヲ見セタリシ、度々(ドド)ノ振舞惡(ニク)ケレバトテ、六條川原ヘ引出(ヒキイダ)シテ首(クビ)ヲ被刎ケリ。《『太平記』卷第十七還幸供奉人々被禁殺事》

2002年3月6日(水)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

若黨(わかタウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「和」部に、

若黨(―タウ)。〔元亀本87七〕〔静嘉堂本107八〕〔天正十七年本上53オ八〕〔西来寺本155四〕

とあって、標記語「若黨」として収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

家人若黨并家来仁等皆以無骨田舎人也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-_家来之仁皆_以無骨__(イナカウト)ニ」〔山田俊雄藏本〕

家人(―ノコ)若党家来之仁等皆以無骨田舎人(イナカウト)」〔経覺筆本〕

-(いへのこ/イヱノコ)若黨(ワカタウ)-之仁等皆_以無骨之田__(イナカウト)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

若黨(ワカタウ)。〔人倫門39二〕

とあって、標記語「若黨」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』は、

若黨(ワカタウジヤク,トモガラ)[入・上]。〔人倫門235六〕

とあって、標記語を「若黨」として収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

若黨(ワカタウ)。〔・人倫70八〕

若衆(ワカシユ)―黨(タウ)。―君(キミ)。〔・人倫70六〕

若君(ワカギミ)―衆。―黨。―子,雅子。〔・人倫64八〕

若衆(ワカシユ)―黨。―君。〔・人倫76四〕

とあって、弘治二年本が標記語「若黨」として収載し、語注記は未記載にする。他写本は、標記語を「若衆」や「若君」とし、冠頭字「若」の熟語群の一語として収載する。また、易林本節用集』には、

若黨(―タウ)。〔人倫65五〕

とあって、標記語「若黨」として収載し、語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「若黨」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

292以下進注文悉以借預者使者家人(ケ―)若黨 日本ニハ若黨遊佐殿也。又武衛ニハ甲斐垣屋香川等也。遊佐七人衆若黨司賜也。故御公方樣一献申時、自初献出、相伴申也。甲斐垣屋一献申。是若黨故、御銚子出相伴參也。遊佐畠山若黨云亊非也。遊佐六葉紋也。有子細云々。〔謙堂文庫蔵三一左B〕

とあって、標記語を「若黨」とし、その語注記は、「日本には、若黨と云ふは遊佐殿なり。また、武衛の内には甲斐・垣屋・香川等なり。遊佐は、七人衆より若黨司を賜はるなり。故に御公方樣へ一献申す時、初献より出でて、相伴申すなり。甲斐・垣屋も一献申す。是は、若黨の故、御銚子出でて相伴に參るなり。遊佐を畠山の若黨と云ふ亊は非ざるなり。遊佐は、六葉をの紋なり。子細あり云々」という。〔補遺〕

古版『庭訓徃来註』では、

ク_シ_使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「若黨」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならひ)家来(けらい)(じん)(とう)(ミな)(もつ)無骨(ふこつ)田舎人(いなかひと)也/家人若黨并家来之仁等皆以無骨田舎人也。〔三十三オ六〕

とあって、標記語「若黨」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならび)家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ふこつ)田舎人(いなかうど)(なり)家人若黨家来之仁__以無骨__人也。〔二十七オ六〕

家人(けにん)若黨(わかたう)(ならび)に家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ぶこつ)の田舎人(ゐなかうど)(なり)。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「若黨」の語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Vacato<.ワカタウ(若党) ある主君に仕える若者.§また,下(Ximo)では,奉公する下僕の意.§Matavacato<(又若党)或る主君の身分ある家臣に仕える若い兵士.〔邦訳675r〕

とあって、標記語「若黨」の意味は「ある主君に仕える若者、また、下では、奉公する下僕の意」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「わか-とう【若黨】<名>@年若い従者。若い従僕。A年若い侍。若侍。また、屈強の若者。B江戸時代、武家で足軽よりも上位にあった小身の従者。若徒」とある。

[ことばの実際]

一條次郎、「唯今名乘は、大將軍ぞ。餘すな、洩すな、若黨、討や。」とて大勢の中に取籠て、我討取んとぞ進ける。《『平家物語』木曾最後》

2002年3月5日(火)曇りのち小雨。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

家人(ケニン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、

家人(―ニン)。〔元亀本214八〕〔天正十七年本中51ウ三〕

家人(ケニン)。〔静嘉堂本244四〕

とあって、標記語「家人」と収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

家人若黨并家来仁等皆以無骨田舎人也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

-_黨并家来之仁皆_以無骨__(イナカウト)ニ」〔山田俊雄藏本〕

家人(―ノコ)若党并家来之仁等皆以無骨田舎人(イナカウト)」〔経覺筆本〕

-(いへのこ/イヱノコ)若黨(ワカタウ)-之仁等皆_以無骨之田__(イナカウト)」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語「家人」の語を未収載にする。また、易林本節用集』には、

家人(ケニン)。〔人倫144五〕

とあって、標記語「家人」として収載し、語注記は未記載にする。『節用集』類では、易林本に収載が見るにとどまる語である。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「家人」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

292以下進注文悉以借預者使者家人(ケ―)若黨 日本ニハ若黨遊佐殿也。又武衛ニハ甲斐垣屋香川等也。遊佐七人衆若黨司賜也。故御公方樣一献申時、自初献出、相伴申也。甲斐垣屋一献申。是若黨故、御銚子出相伴參也。遊佐畠山若黨云亊非也。遊佐六葉紋也。有子細云々。〔謙堂文庫蔵三一左B〕

とあって、標記語を「家人」とし、その語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「家人」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならひ)家来(けらい)(じん)(とう)(ミな)(もつ)無骨(ふこつ)田舎人(いなかひと)也/家人若黨并家来之仁等皆以無骨田舎人也。〔三十三オ六〕

とあって、標記語「家人」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

家人(けにん)若黨(わかとう)(ならび)家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ふこつ)田舎人(いなかうど)(なり)家人若黨家来之仁__以無骨__人也。〔二十七オ六〕

家人(けにん)若黨(わかたう)(ならび)に家来(けらい)(の)(じん)(ら)(ミな)(もつ)て無骨(ぶこつ)の田舎人(ゐなかうど)(なり)。〔四十八ウ二〕

とあって、標記語「家人」の語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Xixa.ケニン(家人)  Iyeno fito.(家の人)親戚関係とか主従関係とかのつながりなどによって,ある家,または,一族に所属する家来,または,人.〔邦訳485r〕

とあって、標記語「家人」の意味は「親戚関係とか主従関係とかのつながりなどによって,ある家,または,一族に所属する家来,または,人」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「け-にん【家人】@令制で、賎民の一つ。主家に隷属して労役に服していたが、奴婢(ぬひ)よりも地位が上で、家族生活を営むことが許されていた。A平安時代以降、貴族の家や武士の棟梁に隷属していた侍(さぶらい)。家の子郎等。B中世、將軍家と主従関係を結んでいた家臣。鎌倉・室町幕府の將軍家の譜代の家臣。また、戦国大名の家臣をいうこともあった。C江戸初期、將軍に直属していた一万石以下の直参(じきさん)。また、中期以降は旗本より低い身分の御目見以下(おめみえいか)の武士をいう。D家につかえる者。主人の家来。従者。また、江戸時代の町家・農家の譜代奉公人。かじん。E明治以降、皇室や華族・元堂上に仕えていた家令、家扶、家従などの総称」とある。

[ことばの実際]

位につかせたまひて後(のち)、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代(たうだい)家人(けにん)にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせたまへる帝も、ありがたきことぞかし。《『大鏡』五十九代・宇多(うだ)天皇・定省(さだみ)

仍源三位入道近衛河原亭、自放火、相率子姪家人等參向宮御方〈云云〉《読み下し》仍テ源三位ノ入道近衛河原ノ亭ニ、自ラ火ヲ放チ、子姪家人等ヲ相ヒ率シテ、宮ノ御方ニ参向スト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年五月十九日条》

2002年3月4日(月)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

使者(シシヤ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

使者(―シヤ)。〔元亀本307一〕〔静嘉堂本357六〕

夫丸(―マル)。〔元亀本223四〕夫丸(フマル)。〔静嘉堂本255五〕

とあって、標記語「使者」と「夫丸」として収載し、その語注記は未記載にする。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

悉以借預者可進史者候也」〔至徳三年本〕「悉以借預者可進史者」〔建部傳内本〕

_ス_ラハ夫丸」〔山田俊雄藏本〕

使者」〔経覺筆本〕

借預者可進使者」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。ここで、「シシヤ」の表記を「史者」とする写本類と別語「夫丸(ぶまる)」とする写本とがある。古辞書『下學集』は、標記語「使者」と「夫丸」ともに未収載にする。次に広本節用集』は、

使者(シシヤ/ツカイ,ヒト)[○・上]使節・使臣皆同義。〔人倫門917一〕

とあって、標記語を「使者」として収載し、語注記に「使節・使臣皆同義」という。そして「夫丸」の語は未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

使者(―シヤ)。〔・人倫238四〕

使節(シセツ)―者。〔・人倫188五〕

とあって、標記語「使者」として収載し、語注記は未記載にする。そして「夫丸」の語は未収載にする。また、易林本節用集』には、

使者(シシヤ)。〔人倫205二〕

とあって、標記語「使者」として収載し、語注記は未記載にする。そして「夫丸」の語は未収載にする。『節用集』類では、饅頭屋本に収載が見られるにとどまる語である。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「使者」と「夫丸」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

292以下進注文悉以借預者使者家人(ケ―)若黨 日本ニハ若黨遊佐殿也。又武衛ニハ甲斐垣屋香川等也。遊佐七人衆若黨司賜也。故御公方樣一献申時、自初献出、相伴申也。甲斐垣屋一献申。是若黨故、御銚子出相伴參也。遊佐畠山若黨云亊非也。遊佐六葉紋也。有子細云々。〔謙堂文庫蔵三一左B〕

とあって、標記語を「使者」とし、その語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

ク_シ_使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「使者」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと/\)(もつ)借預(かしあつか)らハ使者(ししや)(しん)(へき)(なり)悉以借_ラハ悉とハ残すといふに同し。使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔三十三オ四〕

とあって、標記語「使者」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(こと/〃\)(もつ)借預(かしあづか)(ハ)使者(ししや)(しん)(べ)(さふら)(なり)_以借シ_使者。〔二十七オ四〕

(こと/〃\)く(もつ)て借預(かしあづか)ら(バ)(べ)く(しん)ず使者(ししや)を(さふら)ふ(なり)。〔四十八ウ一〕

とあって、標記語「使者」の語注記は未記載にする。そして、「夫丸」をもって注釈する書は見えない。

 当代の『日葡辞書』には、

Xixa.シシヤ(使者) Tcucaino fito.(使の者)使者,または、使節.〔邦訳785l〕

Bumaru.ブマル(夫丸) 人足,すなわち,荷物などを運搬する者.⇒Bufio<;Iicho<.〔邦訳64r〕

とあって、標記語「使者」の意味は「使者,または、使節」とし、「夫丸」の意味は「人足,すなわち,荷物などを運搬する者」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「し-しゃ【使者】@人からの命令や依頼を受けて使いをする人。つかいもの。つかい。A神仏の使役する人や鳥獣。神仏の使。仕者。つかわしめ。B特に、法律上、他人の決定した意思表示の内容を他に伝達する者をいう。他人のために自ら意思を決定し表示する「代理人」と異なる」とし、「ぶ-まる【夫丸】(童の名や下級の役職名の下に「丸」を付けて呼んだところから)中世から江戸時代初期のころの人夫・人足・陣夫の称。よぼろ」とある。

[ことばの実際]

散位康信使者、參著于北條也《読み下し》散位康信ガ使者、北条ニ参著スルナリ。《『吾妻鏡』治承四年六月十九日条》

二月八日 武井夕庵(「夕庵爾云」)、松井友閑(「友閑」)が腫物を煩ったため近江国芦浦観音寺に滞在している耶蘇会宣教師の医師を早急に招致するため織田信長(「殿様」)が直接折紙を発給したが、返答も無く「くすし」も到来せず、この事態はどういうことなのかを譴責す。早急なる招致のため、夫丸・馬の件は佐久間信栄(「佐甚九」)が準備すること、速やかに招致に応ずることを督促。〔「観音寺文書」〕【天下統一期年譜より】

2002年3月3日(日)曇り。東京(八王子)⇔世田谷(玉川⇒駒沢)

借預(かし・あづかる)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部と「阿」部に、

(カル)音昔(シヤク)(カス)音舎(シヤ)。〔元亀本106六〕

(カリル)音(カス)音。〔静嘉堂本75七〕

(カル)音昔(カス)音舎。〔天正十七年本上65ウ三〕〔西来寺本〕

(アヅカル)(同)(同)―。〔元亀本264十〕

(アツカル)(同)(同)―情。〔静嘉堂本300七〕

とあって、標記語「」と「」とにして、収載する。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

悉以借預者可進史者候也」〔至徳三年本〕「悉以借預者可進史者也」〔建部傳内本〕

_ス_ラハ夫丸」〔山田俊雄藏本〕

使者」〔経覺筆本〕

借預者可進使者」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「」と「」ともに未収載にする。次に広本節用集』は、

(カルシヤ/カス)[去](カル)則音昔(シヤク)/借(カス)音舎(シヤ)(カル/)。(同・シユウ)。〔態藝門312四〕

(アヅカル/)[去](同/クワン・せキ)。〔態藝門769二〕

とあって、標記語を「」と「」とにして収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

(カル/シヤク)(コヘ)昔/(カス/シヤ)(コヘ)舎。〔・言語進退82六〕

(カル/シヤ・シヤク)(コヘ)昔。(シ/シヤ)(―ヘ)舎。〔・言語85四〕

(カル)音。(カス)音舎。〔・言語77三〕

(アツカル)。〔・言語進退205二〕〔・言語160六〕

(アツカル/アラカシメ)。〔・言語171六〕

とあって、標記語「」と「」とにして収載する。また、易林本節用集』には、

(カル)物。〔言語81三〕

(アヅカル)(同)。〔言辞174二〕

とあって、標記語「」と「」とにして収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」と「」とにして、

カル/カス/カシ{リ歟}。暇貸已上同。〔黒川本・辞字上83オ五〕

カル/カリ/カス。―首具也。已上/カル。〔卷第三239六〕

アツカル/云豫間開与與関索欹掌事領曁已上同。〔黒川本・辞字下31オ六〕

アツカル俗作関。俗。与與関索欹掌事領曁備跨已上同/アツカル/亦アフトコフ。〔卷第八341六〕

とあって、標記語「」と「」とにして収載する。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

292以下進注文悉以借預使者家人(ケ―)若黨 日本ニハ若黨遊佐殿也。又武衛ニハ甲斐垣屋香川等也。遊佐七人衆若黨司賜也。故御公方樣一献申時、自初献出、相伴申也。甲斐垣屋一献申。是若黨故、御銚子出相伴參也。遊佐畠山若黨云亊非也。遊佐六葉紋也。有子細云々。〔謙堂文庫蔵三一左B〕

とあって、標記語を「借預」とし、その語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

ク_シ_使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔下六オ三〕

とあって、この標記語「借預」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(こと/\)(もつ)借預(かしあつか)らハ使者(ししや)(しん)(へき)(なり)悉以_ラハ悉とハ残すといふに同し。使者家人(ケ―)若黨(ワカタウ)家来之仁_等皆_無骨(ブコツ)ノ田舎人(イナカウト)。〔三十三オ四〕

とあって、標記語「借預」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(こと/〃\)(もつ)借預(かしあづか)(ハ)使者(ししや)(しん)(べ)(さふら)(なり)_シ_使者。〔二十七オ四〕

(こと/〃\)く(もつ)て借預(かしあづか)ら(バ)(べ)く(しん)ず使者(ししや)を(さふら)ふ(なり)。〔四十八ウ一〕

とあって、標記語「借預」の語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Cari,u,atta.カリ,ル,ツタ(借り,る,つた) 借り受ける.⇒Qen(権);Qen-i.〔邦訳102l〕

Azzucari,u,atta.アヅカリ,ル,ッタ(預) 受け取る,または,預かる.§Tcucaini azzucaru.(使に預る)目上の人から伝言を受け取る.§Gojo<ni azzucaru.(御状に預る)目上の人からの手紙を受け取る.§Ximexi azzucaru.(示し預る)ある事について教示される.⇒Chocumen;Fensat;Fo<jo;Fo<xei;Fo<xi;Fo<xin;Gansat;Inmon;Qechiyen;Qenjo<;Rixo<;Xo<(賞).〔邦訳45l〕

とあって、標記語「」の意味は「借り受ける」とし、「」の意味は「受け取る,または,預かる」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「かし-あずかる【借預】」で見出し語としていない。やはり、二語別扱いとして収載する語である。

[ことばの実際]「借預

素子さんから一日借預権いただいたから。《『卵の裏』2》

2002年3月2日(土)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

注文(チウモン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、

註文(―モン)。〔元亀本64十〕〔天正十七年本上38オ三〕〔西来寺本〕

注文(―モン)。〔静嘉堂本75七〕

とあって、標記語「注文」は、静嘉堂本に見え、他写本は、「註文」と表記していて、その語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

輪以下進注文」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_輪以-下進-」〔山田俊雄藏本〕

_輪以下進注文」〔経覺筆本〕

_(カナワ)-下進注文」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、標記語「注文」「註文」の語を未収載にする。次に広本節用集』は、

注文(チウモン/アラワス・シルス,フン・フミ)[去・平]。〔器財門162七〕

とあって、標記語を「注文」と収載し、その語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

註文(チウモン)。〔・言語進退51一〕

注文(―モン)。〔・言語進退54三〕

注文(チウモン)。〔・言語54四〕〔・言語58一〕

注進(チウシン)―文。〔・言語49二〕

とあって、標記語「注文」をもって収載し、弘治二年本は「註文」の標記語も収載する。いずれも語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、

註文(チウモン)。註与注同。〔言語53一〕

とあって、標記語「註文」を収載し、その語注記に、「「註」、「注」ともに同じ」という。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、「」を冠頭字とする熟語はあるが、標記語「注文」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

292以下進注文悉以借預者使者家人(ケ―)若黨 日本ニハ若黨遊佐殿也。又武衛ニハ甲斐垣屋香川等也。遊佐七人衆若黨司賜也。故御公方樣一献申時、自初献出、相伴申也。甲斐垣屋一献申。是若黨故、御銚子出相伴參也。遊佐畠山若黨云亊非也。遊佐六葉紋也。有子細云々。〔謙堂文庫蔵三一左B〕

とあって、標記語を「注文」とし、その語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

(タカツキ)-入合子(ガウシ)(サラ)(サカツキ)(アブラ)(ラウソク)鐵輪(カナワ)-下進注文〔下六オ二〕

とあって、この標記語「注文」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

注文(ちうもん)(しん)ず/注文其色品をしるしたる書付なり。〔三十三オ一・三〕

とあって、標記語「注文」の語注記は、「其色品をしるしたる書付なり」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

以下(いげ)注文(ちうもん)(しん)ず/以下進注文注文ハ借用物(しやくようもの)の色書(いろがき)也。〔二十七オ六〕

以下(いげ)注文(ちうもん)(しん)ず▲注文ハ借用物(しやくようもの)の色書(いろがき)也。〔四十八ウ一〕

とあって、標記語「注文」の語注記は、「注文は、借用物の色書なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Canaua.チュゥモン(注文・註文) 覚書きの表や書付.§また,贈物として,織物や沈香などが贈られる時の品目表.なぜならば,贈物が馬,太刀,樽(Tarus),肴(Sacanas)であれば,Mocurocu(目録)と呼ばれるからである.〔邦訳130r〕

とあって、標記語「注文註文」の意味は「覚書きの表や書付」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「かな-わ【注文註文】<名>@注進の文書。注進状Aある事柄についての要件を列記した文書。書き付け。記録。B(―する)あつらえること。品種・数量・形式などを指定して、製作・送付・購入などを依頼すること。また、その依頼。Cあつらえるものの条件。製作や送付を依頼する場合、あらかじめ申し送る希望。また、その文書。D(―する)こうしたい、ああしたいと望むこと。願望。期待。E特に注意すべき事柄。特徴」とある。

[ことばの実際]

任二宮注文、染丹筆〈天〉、奉免畢《読み下し》抑東州ノ御領、元ノ如ク、相違有ルベカザル由、二宮ノ注文ニ任セテ、丹筆ヲ染メテ、免ジ奉リ畢ンヌ。《『吾妻鏡』養和二年二月八日条》

2002年3月1日(金)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

銕輪(かなわ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

銕輪(カナワ) 夏禹始也。〔元亀本94三〕

銕輪(カナワ)禹始也。〔静嘉堂本117一〕

鉄輪(カナハ) 夏禹始。〔天正十七年本上57ウ三〕〔西来寺本〕

とあって、標記語「銕輪」にして語注記は、「夏の禹始めて造るなり」とあって、古写『庭訓徃来註』に依拠するものである。読みは天正十七年本が「かなは」とし、他の写本は「かなわ」とする。そして、この語注記における異同箇所として「つくる」の表記字を「造」にして記載している。古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、

以下進注文」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕

_-下進-」〔山田俊雄藏本〕

_以下進注文」〔経覺筆本〕

_(カナワ)-下進注文」〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本山田俊雄藏本経覺筆本は、読み点を施して記載している。古辞書『下學集』は、

鉄輪(カナワ)〔器財門107六〕

とあって、標記語「鉄輪」の語を収載し、語注記は未記載にする。次に広本節用集』は、

鐡輪(カナワ/テツリン/クロカネ,マワス)[入・平]。〔器財門269三〕

とあって、標記語を「鐵輪」と収載し、その語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には

鉄輪(カナワ)。〔・財宝83四〕〔・財宝80四〕〔・財宝73二〕〔・財宝87五〕

とあって、標記語「鉄輪」を収載し、その語注記は未記載にする。また、易林本節用集』には、

銕輪(カナワ)。〔器財76一〕

とあって、標記語「銕輪」を収載し、その語注記は未記載にする。ここで、語注記を有する古辞書としては、『運歩色葉集』が唯一であり、その語注記の内容は、真字注『庭訓徃来註』に依拠する内容であることを指摘しておきたい。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、室町時代の十巻本伊呂波字類抄』には、「」を冠頭字とする熟語はあるが、標記語「」の語は未収載にする。

 これを『庭訓往来註』五月五{九}日の状に、

291鐡輪 夏禹始作之也。〔謙堂文庫蔵三一左A〕

とあって、標記語を「鐵輪」とし、その語注記は「夏の禹始めて之を作る」という。古版『庭訓徃来註』では、

(タカツキ)-入合子(ガウシ)(サラ)(サカツキ)(アブラ)(ラウソク)鐵輪(カナワ)-下進注文〔下六オ二〕

とあって、この標記語「鐵輪」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(さら)(さかつき)(あふら)(らうそく)鐵輪(かなわ)以下(いけ)-鉄輪以下銕輪ハ五徳の事也。ある説に云輪を上にして足を下につけたるを鉄輪と云。輪を下にし両足を上にむけ奉るを五徳といふ。以下ハ此外の品々畧したる詞なり。右縵幕以下の品々人乃常に見及さる物はくわしく図説にのせたり。〔三十三オ一・三〕

とあって、標記語「鉄輪」の語注記は、「銕輪は、五徳の事なり。ある説に云く、輪を上にして足を下につけたるを鉄輪と云ふ。輪を下にし両足を上にむけ奉るを五徳といふ」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(さら)(さかづき)(あぶら)(らうそく)鐵輪(かなわ)以下(いげ)-_以下鉄輪ハ五徳(ごとく)をいふとぞ。〔二十七オ六〕

(さら)(さかづき)(あぶら)-(らうそく)_(かなわ)以下(いげ)鉄輪ハ五徳(ごとく)をいふとぞ。〔四十八ウ一〕

とあって、標記語「鉄輪」の語注記は、「鉄輪は、五徳をいふとぞ」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Canaua.かなわ(鉄輪) 鉄製の三脚五徳.※原文は,Trempe de ferro.日西辞書はTrebedes del hierroと訳すべきところを,Temperra(焼き)と見誤ったのか,別条Canaxiuo(鉄しほ)と同じくTemple del hierroと訳している.なお,日仏辞書は,trepied de ferとあって正しい.⇒Gotocu(五徳).〔邦訳87r〕

とあって、標記語「鉄輪」の意味は「鉄製の三脚五徳」という。ちなみに、『日本国語大辞典』第二版には、「かな-わ【金輪鉄輪】<名>@火鉢や囲炉裏(いろり)に置いて、鍋ややかんをかける鉄製の台。三本足で、輪を上にする場合と下にする場合とある。五徳。《後略》」とある。

[ことばの実際]

[ノリ地]  沈みしは水の、青き鬼、 シテ われは/貴船(きぶね)の、/川瀬(かわせ)の/螢火(ほたるび)、  /頭(こおべ)に頂く、/鉄輪(かなわ)の足の、シテ /炎(ほのお)の赤き、鬼となつて、  臥したる/男(おとこ)の、枕に寄り添ひ、いかに/殿御(とのご)よ、珍らしや。《謡曲『鉄輪』大系下351五》

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