2002年9月1日から9月30日迄
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ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2002年9月30日(月)曇り後雨。兵庫県(村岡町)→世田谷(駒沢)
「軍旅(グンリョ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「久」部に、「軍陣(クンヂン)。軍兵(ビヤウ)。軍盧{慮}(リヨ)。軍勢(ゼイ)。軍功(コウ)。軍忠(チウ)。軍率(ソツ)。軍讖(シン)。軍幕(マク&バク)」とあって、標記語「軍旅」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、
「凡虜分取者軍忠専一軍旅之高名也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「凡生_虜(イケトリ)分取ハ者軍-忠ノ之専-一軍-旅ノ之高名也」〔山田俊雄藏本〕
「虜取(イケトリ)分取(フントリ)ハ軍忠ノ専一軍-旅(グンリヨ)ノ高名也」〔経覺筆本〕
「凡ソ生_虜(イケトリ)分捕リハ者軍-忠ノ之専-一(せン―)軍-旅(クンリヨ)ノ之高-名也」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「軍旅」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「軍旅」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
軍旅(クンリヨ/イクサ,タビ) [平・上]鄭玄曰方二千五百人ヲ為∨軍。五百人ヲ為∨旅也。周礼ノ小司徒ノ職云。五人ヲ為∨伍。五位ヲ為∨兩廿五人 四兩百人為∨卒。五卒ヲ為∨旅ト。五旅ヲ為∨師。五師ヲ為∨軍ト也。〔態藝門529五〕
とあって、標記語「軍旅」の語を収載し、語注記は「鄭玄曰く、方二千五百人を軍と為す。五百人を旅と為すなり。周礼の小司徒の職に云ふ。五人を伍と為す。五位を兩廿五人 と為す。四兩百人を卒と為す。五卒を為∨旅と為す。五旅を師と為す。五師を為∨軍と為すなり」と記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
軍旅(グンリヨ) 。〔弘・言語進退163三〕
軍陣(グンヂン) ー忠。ー旅(リヨ)。ー敗(ハイ)。ー中(チウ)。〔永・言語132七〕
軍陣(グンヂン) ー忠。ー旅。ー敗。ー中。〔尭・言語121八〕
軍陣(グンヂン) ー忠。ー敗。ー旅。〔両・言語148一〕
とあって、弘治二年本が標記語「軍旅」の語を収載し、他本は標記語「軍陣」の熟語群に「軍旅」の語を収載する。語注記は未記載とするまた、易林本『節用集』には、
軍陣(グンチン) ー旅(リヨ)。ー功(コウ)。ー勢(せイ)。ー忠(チウ)。〔言語83六〕
とあって、標記語「軍陣」の熟語群に「軍旅」の語を収載する。
ここで古辞書における「軍旅」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。ここで、広本『節用集』の語注記が詳細であり、下記の『庭訓往来註』の語注記内容を増補して記載がなされていることが指摘できるのである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
344虜捕分取ハ軍忠之専一軍旅之高名也 軍トハ云‖六十騎|。万二千五百人ソ。爲∨軍。五百人ヲ爲∨旅ト也。〔謙堂文庫蔵三六左E〕
とあって、標記語を「軍旅」についての語注記は、「軍とは六十騎を云ふ。万二千五百人ぞ。軍と爲す。五百人を旅と爲すなり」と記載する。
古版『庭訓徃来註』では、
軍忠(クンチウ)ノ専一(せンー)軍旅(グンリヨ)之 トハ。モツハラ一ツナリ。〔下十一ウ二〕
とあって、この標記語「軍旅」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)之(の)専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也/軍-旅之高-名也 軍旅ハ元(もと)人數割の名目(めいもく)なり。人數万弍千五百人を軍と云。五百人を旅と云。されとも人数にはかゝわらす軍陣の事をすべて軍旅と云也。〔45オ五〕
とあって、標記語「軍旅」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
凡(をよ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)乃専一(ぜんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうめう)也(なり)能能(よくよく)用意(ようゐ)せら被(る)可(べ)き也(なり)/凡虜。分-捕。者軍-忠ノ専-一軍-旅之高-名也。能々可キ∨被‖用-意セラ|也▲軍旅ハもと隊伍(たいこ)の称(しよう)。万二千五〇〇人五百人を軍(ぐん)といひ、又百人を旅(りよ)といふ。蓋(けたし)爰(こゝ)にハ唯(たゞ)軍陣(ぐんぢん)の事と見るべし。〔三十四オ六〕
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)の専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也(なり)。能々(よくよく)可(べ)き∨被(らる)‖用意(ようい)せ|也(なり)▲軍旅ハもと隊伍(たいこ)の称(しよう)。万二千五〇〇人五百人を軍(ぐん)といひ、又百人を旅(りよ)といふ。蓋(けたし)爰(こゝ)にハ唯(たゞ)軍陣(ぐんぢん)の事と見るべし。〔60ウ六〕
とあって、標記語「軍旅」の語注記は、「軍旅は、もと隊伍の称。万二千五〇〇人五百人を軍といひ、又百人を旅といふ。蓋し、爰にハ唯、軍陣の事と見るべし」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Gunrio.グンリョ(軍旅) Icusano tabi.(軍の旅) 外征する軍隊.〔邦訳312r〕
とあって、標記語「軍旅」の意味は「外征する軍隊」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ぐん-りょ(名)【軍旅】〔支那、周の制にて、一萬二千五百人を軍と云ひ、五百人を旅と云ふ〕(一)軍隊の數を云ふ語。我が古制に、一萬人以上を大軍とし、五千人以上を中軍とし、三千人以上を小軍とし、旅帥は、百人を統ぶ。(二)いくさ。合戰。戰争。 論語、衞靈公篇「軍旅之事、未‖之學|也」太平記、十六、正成下‖向兵庫|事「軍旅の事は、兵に讓られよ」〔0550-2〕
とあって、標記語「軍旅」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぐん-りょ【軍旅】[名](「軍」「旅」ともに兵士の集団のこと。周代、軍は一万二千五百人、旅は五百人)@軍隊の編成。軍の人数。兵士。軍勢。A軍隊を動かすこと。いくさ。戦争。B百人で編制した軍隊。その長を旅帥という。C(「旅」を、旅をする意に解したもの)遠征する軍勢」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
平氏追討事武衛依被申爲令勵軍旅之功、被下廳御下文於豐後國住人等之中《読み下し》平氏追討ノ事、武衛申サルルニ依テ、軍旅ノ功ヲ励マサシメン為ニ、庁ノ御下文ヲ豊後ノ国ノ住人等ノ中ニ下サル。《『吾妻鏡』元暦二年三月二十九日の条》
2002年9月29日(日)曇り。兵庫県(村岡町) 第5回村岡ダブルフル・ウルトラランニング大会
「専一(センイチ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「勢」部に、
専一(せンイツ) 。〔元亀本353十〕
専一(せンイチ) 。〔静嘉堂文庫本117六〕
とあって、標記語「専一」の語を収載し、読みは「センイツ」と「センイチ」にし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、
「凡虜分取者軍忠専一軍旅之高名也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「凡生_虜(イケトリ)分取ハ者軍-忠ノ之専-一軍-旅ノ之高名也」〔山田俊雄藏本〕
「虜取(イケトリ)分取(フントリ)ハ軍忠ノ専一軍-旅(グンリヨ)ノ高名也」〔経覺筆本〕
「凡ソ生_虜(イケトリ)分捕リハ者軍-忠ノ之専-一(せン―)軍-旅(クンリヨ)ノ之高-名也」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
専一 せンイツ 。〔黒川本下106オ四〕
専一 〃使。〃書。〃輙。〃城。〃寺。〔卷第十疉字453三〕
とあって、標記語「専一」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「専一」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
専一(せンイチ/モツハラ,) [平・入]。〔態藝門1117七〕
とあって、標記語「専一」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、標記語「専一」の語を未収載にし、また、易林本『節用集』には、
專修(せンジユ) ー念(ネン)。ー一。ー要(エウ)。〔言語236一〕
とあって、標記語「専修」の熟語群として「專一」の語を収載する。
ここで古辞書における「専一」についてまとめておくと、『下學集』には未収載にし、『色葉字類抄』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
344虜捕分取ハ軍忠之専一軍旅之高名也 軍トハ云‖六十騎|。万二千五百人ソ。爲∨軍。五百人ヲ爲∨旅ト也。〔謙堂文庫蔵三六左E〕
とあって、標記語を「専一」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
軍忠(クンチウ)ノ専一(せンー)軍旅(グンリヨ)之 トハ。モツハラ一ツナリ。〔下十一ウ二〕
とあって、この標記語「専一」の語注記は、「もっぱら一つなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)之(の)専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也/凡虜分捕者軍忠之専一 盗専一とハ第一の事としたはげむ所といふ義なり。〔45オ三〕
とあって、標記語「専一」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
凡(をよ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)乃専一(ぜんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうめう)也(なり)能能(よくよく)用意(ようゐ)せら被(る)可(べ)き也(なり)/凡虜。分-捕。者軍-忠ノ専-一軍-旅之高-名也。能々可キ∨被‖用-意セラ|也。〔三十四オ六〕
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)の専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也(なり)。能々(よくよく)可(べ)き∨被(らる)‖用意(ようい)せ|也(なり)。〔60ウ六〕
とあって、標記語「専一」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xenichi.センイツ(専一) 必須なこと,または,用件の基づくところ.〔邦訳751l〕
とあって、標記語「専一」の意味は「必須なこと,または,用件の基づくところ」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
せん-いち(名)【専一】(一)唯、是れのみすること。力を、一途に專らにすること。「勉強專一」(二)第一。 太平記、二、長崎新左衞門意見事「君の寵臣一兩人召しおかれ、御帰依の高僧兩三人、流罪に處せられることも、武家惡行の專一と謂るべし」〔1119-3〕
せん-いつ(名)【専一】前條の(一)に同じ。 孫子、軍爭篇「民既專一、則勇者不∨得‖獨進|、怯者不∨得‖獨退|」〔1119-3〕
とあって、標記語「専一」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せん-いち【専一】[名]「せんいつ(専一)」に同じ」とし、次に「せん-いつ【専一】[名]@(形動)一つの事柄にだけ一心になって、他を顧みないこと。また、そのさま。せんいち。A第一であること。随一であること。せんいち」とあって、「せんいち」の項目に『運歩色葉集』を引用記載するが、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
和田次郎義茂飛脚、自下野國參申云、義茂未到以前、俊綱專一者、桐生六郎、爲顯隱忠、斬主人、而篭深山《読み下し》和田ノ次郎義茂ノ飛脚、下野ノ国ヨリ参ジテ申シテ云ク、義茂未ダ到ラザル以前ニ、俊綱ガ専一(センー)ノ者、桐生ノ六郎、隠忠ヲ顕ハサンガ為ニ、主人ヲ斬ツテ、深山ニ篭ル。《『吾妻鏡』養和元年九月十三日の条》
ことばの溜池「軍忠(グンチウ)」(2002.08.12)参照。
2002年9月28日(土)曇り夕方雨。兵庫県(村岡町)
「分取(ブンどり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「福」部に、
分捕(フンドリ) 。〔元亀本223八〕
分捕(―ホ) 。〔静嘉堂文庫本117六〕
分捕(―トリ) 。〔天正十七年本中57オ六〕
とあって、標記語「分捕」の語を収載し、読みは「フンどり」と「(フン)ホ」にし、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、
「凡虜分取者軍忠専一軍旅之高名也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「凡生_虜(イケトリ)分取ハ者軍-忠ノ之専-一軍-旅ノ之高名也」〔山田俊雄藏本〕
「虜取(イケトリ)分取(フントリ)ハ軍忠ノ専一軍-旅(グンリヨ)ノ高名也」〔経覺筆本〕
「凡ソ生_虜(イケトリ)分捕リハ者軍-忠ノ之専-一(せン―)軍-旅(クンリヨ)ノ之高-名也」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「分取」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「分取」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
分捕(ブンドリ/ワカツ,ホ) [平去・去]ーー高名。〔態藝門635七〕
とあって、標記語「分取」の語を収載し、語注記は「分捕高名」の四字熟語を記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
分捕(ートリ) 。〔弘・言語進退182八〕
分限(ブンゲン) ー際(ザイ)。ー明(ミヤウ)。ー衛(エイ)。ー捕(ドリ)。ー別(ベツ)。〔永・言語149八〕
分限(ブンゲン) ー際。ー明。ー衛。ー捕。〔尭・言語139五〕
とあって、弘治二年本が標記語「分捕」の語を収載し、他写本は、標記語「分限」の熟語群に「分捕」の語を収載する。語注記は未記載にある。また、易林本『節用集』には、
分際(ブンザイ) ー限(ゲン)。ー剤(ザイ)。ー捕(ドリ)。ー量(リヤウ)。ー位(ヰ)。ー兩(リヤウ)。ー別(ベツ)。ー明(ミヤウ)。〔言辞151四〕
とあって、標記語「分際」の熟語群に「分捕」の語を収載する。
ここで古辞書における「分取」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』には、「分捕」の語で収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
344虜捕分取ハ軍忠之専一軍旅之高名也 軍トハ云‖六十騎|。万二千五百人ソ。爲∨軍。五百人ヲ爲∨旅ト也。〔謙堂文庫蔵三六左E〕
とあって、標記語を「分取」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ可キ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也凡(ヲヨソ)虜(イケドリ)分捕(ブンドリ)者(ハ) 贔屓(ヒイキ)トハ。マクルヲ力ヲオコシトヨムナリ。〔下十一ウ一〕
とあって、この標記語「分取」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)之(の)専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也/凡虜分捕者軍忠之専一 盗専一とハ第一の事としたはげむ所といふ義なり。〔45オ三〕
とあって、標記語「分取」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
凡(をよ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)乃専一(ぜんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうめう)也(なり)能能(よくよく)用意(ようゐ)せら被(る)可(べ)き也(なり)/凡虜。分-捕。者軍-忠ノ専-一軍-旅之高-名也。能々可キ∨被‖用-意セラ|也。〔三十四オ六〕
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)の専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也(なり)。能々(よくよく)可(べ)き∨被(らる)‖用意(ようい)せ|也(なり)。〔60ウ六〕
とあって、標記語「分取」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「分取」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ぶん-どり(名)【分取】(一)ぶんどること。戰場にて、敵の首に、大小、刀、兜などを添へて、取り來ること。盛衰記、三十七、則綱討‖盛俊|事「越中前司盛俊が頸、猪俣近平六則綱、分捕にしたりと叫びけり」太平記、十七、山門攻事「一太刀も敵に打違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、云云」義經記、四、土佐房義經の討手に上る事「彼等を初として生捕、分捕思ひ思ひにぞしける」「分捕高名」(二)轉じて、適地の物を掠め奪ふこと。抄掠 (三)戰利品。鹵獲。〔1782-1〕
とあって、標記語「分取」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぶん-どり【分捕】[名]@ぶんどること。特に、戦場で敵の武器や軍用品、または首などを奪い取ること。また、奪い取ったもの。A戦争中、交戦権によって財産を取得すること。特に陸戦で、軍隊が国家の責任で敵国の財産を取得すること。[語誌]@は中世、合戦において使用された武者詞であり、特に兜首および甲冑武器を奪うことを手柄としたもので、「分捕高名」につながる。これに対し、敵地に入って財物を掠奪する「乱捕(らんどり)」は、手柄ではなかったが、「分捕」とともに合戦中の敵に対する行為として認められていた。しかし、後には、「乱捕」も手柄として数えられ、「分捕」と見なされるようになった」とあって、『庭訓徃来』の用例は@の用例として記載する。
[ことばの実際]
信濃四郎左衛門尉行忠決殊勝負、獲分取《読み下し》信濃ノ四郎左衛門ノ尉行忠。殊ニ勝負ヲ決シ、分取(ブンドリ)ヲ獲タリ。《『吾妻鏡』宝治元年六月五日の条》
2002年9月27日(金)曇り後雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)→兵庫県《村岡町》
「虜(いけどり)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「伊」部に、
生捕(イケドリ) 又。〔元亀本12三〕
生捕(イケドリ) 。〔静嘉堂文庫本4三〕
生捕(イケトリ) 又。〔天正十七年本上4ウ二〕
虜(イケドリ) 。〔元亀本20六〕
虜(イケトリ) 。〔静嘉堂文庫本16六〕〔天正十七年本上9ウ一〕
とあって、標記語「虜」と「生捕」の二語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月十一日の状に、
「凡虜分取者軍忠専一軍旅之高名也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「凡生_虜(イケトリ)分取ハ者軍-忠ノ之専-一軍-旅ノ之高名也」〔山田俊雄藏本〕
「虜取(イケトリ)分取(フントリ)ハ軍忠ノ専一軍-旅(グンリヨ)ノ高名也」〔経覺筆本〕
「凡ソ生_虜(イケトリ)分捕リハ者軍-忠ノ之専-一(せン―)軍-旅(クンリヨ)ノ之高-名也」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「虜」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、
生捕(イケドリ) 。〔態藝門75六〕
標記語「生捕」の語を収載し、「虜」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
虜(イケドリ/リヨ) [上]。或作‖生捕|。〔態藝門41七〕
とあって、標記語「虜」の語を収載し、語注記は、「或は生捕に作す」と記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
生捕(イケトリ)。虜(同) 。〔弘・言語進退5一〕〔永・言語2七〕
生捕(イケトリ) 虜。〔尭・言語3二〕〔両・言語三六〕
とあって、弘治二年本と永祿二年本とは、標記語「生捕」と「虜」の二語併記収載し、他本は、標記語「生捕」としてその語注記に「虜」を記載する。また、易林本『節用集』には、
虜(イケドリ) 。〔言語10七〕
とあって、標記語「虜」の語を収載する。
ここで古辞書における「虜」についてまとめておくと、『色葉字類抄』に未収載にし、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。その表記は「生捕」と「虜」とあり、『下學集』は『庭訓徃來』の「虜」を未収載としている。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
344虜捕分取ハ軍忠之専一軍旅之高名也 軍トハ云‖六十騎|。万二千五百人ソ。爲∨軍。五百人ヲ爲∨旅ト也。〔謙堂文庫蔵三六左E〕
とあって、標記語を「虜」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ可キ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也凡(ヲヨソ)虜(イケドリ)分捕(ブンドリ)者(ハ) 贔屓(ヒイキ)トハ。マクルヲ力ヲオコシトヨムナリ。〔下十一ウ一〕
とあって、この標記語「虜」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)之(の)専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也/凡虜分捕者軍忠之専一 盗専一とハ第一の事としたはげむ所といふ義なり。〔45オ三〕
とあって、標記語「虜」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
凡(をよ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)乃専一(ぜんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうめう)也(なり)能能(よくよく)用意(ようゐ)せら被(る)可(べ)き也(なり)/凡虜。分-捕。者軍-忠ノ専-一軍-旅之高-名也。能々可キ∨被‖用-意セラ|也。〔三十四オ六〕
凡(およ)そ虜(いけどり)分捕(ぶんどり)者(ハ)軍忠(ぐんちう)の専一(せんいち)軍旅(ぐんりよ)之(の)高名(かうミやう)也(なり)。能々(よくよく)可(べ)き∨被(らる)‖用意(ようい)せ|也(なり)。〔60ウ六〕
とあって、標記語「虜」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Iqedori,u,otta.イケドリ,ル,ッタ(生け捕り,る,つた) 捕虜にする.すなわち,戦争の時に生きたまま捕らえる.例,Fitouo iqedoru,l,iqedorini suru.(人を生け捕る,または,生け捕りにする)同上.→Naye,uru.〔邦訳338l〕
とあって、標記語「虜」の意味は「捕虜にする.すなわち,戦争の時に生きたまま捕らえる」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
いけ-どり(名)【生捕・生擒】(一){いけどること。萬葉集、十六30長歌「韓國の、虎と云ふ~を、生取に、八頭(ヤツ)取り持ち來(き)、其皮を、疊に刺し」下學集(文安)下、態藝門「生捕(イケドリ)」常山紀談、十五「田中兵部大輔吉政、石田(三成)を生捕にせられしが、いと懇に會釋して、云云」(二)いけどりたる人。とりこ。 小右記、寛仁三年六月廿九日、刀伊賊徒「生虜者勘間」平家物語、十一、一門大路わたされの事「平氏のいけどりども、鳥羽に着く」〔0145-1〕
とあって、標記語「生捕・生擒」の語と用例に「生取・生虜」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「いけ-どり【生捕・生取・生擒】[名](「いけ」は生かしておく意の「いける」の連用形から)@人や動物を生かしたままで、つかまえること。捕虜にすること。また、その捕らえたもの。Aそっくりそのまま取ること。丸取り」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
戌尅、藤九郎盛長僮僕、於釜殿、生虜兼隆雜色男、但被仰也《読み下し》戌ノ剋ニ、藤九郎盛長ガ僮僕、釜殿ニ於テ、兼隆ガ雑色男ヲ生虜(イケド)ル、但シ仰セヲ*被レバナリ(*依レバナリ)。《『吾妻鏡』治承四年八月十七日の条》
2002年9月26日(木)曇り。東京(八王子)→静岡(清水町)
「搦捕(からめとる)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「賀」部に、
搦捕(―トル) 。搦取(―トル) 。〔元亀本94七〕
搦捕(―トル) 。搦取(同) 。〔静嘉堂文庫本117六〕〔天正十七年本上57ウ八〕
とあって、標記語「搦捕」と「搦取」の二語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サ)ス∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラ)レ∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)ノ黨類(タウノルイ)ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ|可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也-」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「搦捕」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「搦捕」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
搦捕(カラメトル/タクホ) [入・去]。〔態藝門290四〕
とあって、標記語「搦捕」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
搦捕(カラメトル) 人。〔弘・言語進退85四〕
搦捕(カラメトル) 。〔永・言語83五〕〔尭・言語75七〕
搦捕(カラメトル) ー手。〔両・言語91二〕
とあって、標記語「搦捕」の語を収載し、弘治二年本には、語注記に「人」と記載がある。また、易林本『節用集』には、
搦捕(カラメトル) ー取(トル)。ー手(テ)。〔言語83六〕
とあって、標記語「搦捕」の語を収載する。
ここで古辞書における「搦捕」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「搦捕」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ可キ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也凡(ヲヨソ)虜(イケドリ)分捕(ブンドリ)者(ハ) 贔屓(ヒイキ)トハ。マクルヲ力ヲオコシトヨムナリ。〔下十一ウ一〕
とあって、この標記語「搦捕」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
搦(から)め捕(とら)被(る)可(へき)也/可∨被‖搦捕|也 盗賊の根葉をさかしてとらへよとなり。〔45オ三〕
とあって、標記語「搦捕」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)を誅(ちう)せ被(ら)れ強竊(かうせつ)黨類(とうるい)に至(いたつ)て者(ハ)之同意(どうゐ)贔屓(ひいき)之(の)徒黨(ととう)を尋(たづ)ね捜(さくつ)て搦(から)め捕(と)ら被(る)可(べ)き也(なり)/被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意屓贔之徒黨ヲ|可キ∨被‖搦メ捕ラ|也。〔三十四オ八〜ウ一〕
被(られ)∨誅(ちゆう)せ∨之(これ)を至(いたつ)て‖強竊(がうせつ)黨類(たうるゐ)に|者(ハ)尋(たづね)‖_捜(さぐつ)て同意(どうい)屓贔(ひいき)之(の)徒黨(とたう)を|可(べ)き∨被(る)‖搦(からめ)捕(とら)る|也(なり)。〔60ウ四〕
とあって、標記語「搦捕」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Carametori,u,otta.カラメトリ,ル,ッタ(搦捕) つかまえて,しばる.〔邦訳100r〕
とあって、標記語「搦捕」の意味は「つかまえて,しばる」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
からめ-とる(名)【搦捕】人を捕らへて、搦め縛る。くくしあぐ。捕縛 保元物語、一、親治等生捕事「一一に搦めとって、見參に入れよ」〔0443-3〕
とあって、標記語「搦捕」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「からめ-とる【搦捕】[動他ラ四]つかまえてしばる。捕縛する。からめとらう」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
爰景頼郎從等搦捕之〈云云〉《読み下し》爰ニ景頼ガ郎従等。之ヲ搦(カラ)メ捕(ト)ルト〈云云〉。《『吾妻鏡』宝治元年六月九日の条》
2002年9月25日(水)晴れ後曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「尋捜(たづね‐さぐ・る)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」「左」部に、
尋(タヅヌル) 。原(同) 。温(同) 新智旧。〔元亀本148一〕
尋(タツヌル) 。原(同) 畧。温(同) ―新智旧。〔静嘉堂文庫本160一〕
尋(−) 。原(−) 略。温(−) ―新知旧。〔天正十七年本中12オ六〕
捜(サクル) サスカ/太平。探(同) 。攪(同) 。〔元亀本279十〕
捜(サグル) 太平。探(同) 。撹(同) 。〔静嘉堂文庫本77六〕
とあって、標記語「尋」と「捜」の二語にして収載し、読みを「たづぬる」と「さぐる」にする。当該の語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サ)ス∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラ)レ∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)ノ黨類(タウノルイ)ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ|可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也-」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「尋捜」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「尋捜」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
尋探(タヅネサグル/ジンタン) [平・平]。〔態藝門354七〕
とあって、標記語「尋捜」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、標記語「尋捜」の語を未収載する。また、易林本『節用集』には、
尋(タツヌ)。原(同)。〔言語97一〕
探(サグル)。捜(同)。〔言語182七〕
とあって、標記語「尋」と「捜」の二語にして収載する。
ここで古辞書における「尋捜」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にし、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』は単漢字にして収載され、広本『節用集』には、標記語「尋探」の語で収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「尋捜」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「尋捜」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
同意(どうゐ)贔屓(ひゐき)の徒黨(ととう)を尋(たつ)捜(さがつ)て/尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ。尋捜ハたつねさかすなり。同意ハこゝろを合する事なり。一味したるを云。贔ハくつかへらんとするをおこす事也。屓ハたをれんとするを背負(せお)ふ事也。其人の善悪事の理非をも弁へす己(おのれ)か私欲にまかせて助力するを贔屓と云。〔45オ一〕
とあって、標記語「尋捜」の語注記は、「尋捜は、たづねさがすなり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)を誅(ちう)せ被(ら)れ強竊(かうせつ)黨類(とうるい)に至(いたつ)て者(ハ)之同意(どうゐ)贔屓(ひいき)之(の)徒黨(ととう)を尋(たづ)ね捜(さくつ)て搦(から)め捕(と)ら被(る)可(べ)き也(なり)/被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意屓贔之徒黨ヲ|可キ∨被‖搦メ捕ラ|也。〔三十四オ八〜ウ一〕
被(られ)∨誅(ちゆう)せ∨之(これ)を至(いたつ)て‖強竊(がうせつ)黨類(たうるゐ)に|者(ハ)尋(たづね)‖_捜(さぐつ)て同意(どうい)屓贔(ひいき)之(の)徒黨(とたう)を|可(べ)き∨被(る)‖搦(からめ)捕(とら)る|也(なり)。〔60ウ四〕
とあって、標記語「尋捜」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Tazzunesaguri,uru,utta.タヅネサグリ,ル,ッタ(尋ね探り,る,つた) 綿密に探し求め,問い尋ねる.〔邦訳620r〕
とあって、標記語「尋捜」の意味は「綿密に探し求め,問い尋ねる」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「たづね-さがす(名)【尋捜】」という複合動詞の語では見出し語として収載していない。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「たずね-さぐ・る【尋探】[動他ラ五(四)]調べてさがし求める。追求してつきとめる」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
早尋捜之、不廻踵、可令誅戮之趣、被仰遣源九郎主許〈云云〉《読み下し》早ク之ヲ尋ネ捜(サガ)シ、踵ヲ廻ラサズ、誅戮セシムベキノ趣、源ノ九郎主ノ許ニ仰セ遣ハサルト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦元年八月三日の条》
もんたうけっしがたきに付ては、其郷内の百しゃうどもめしいだし、これを尋ねさくり、其うへの是非により、そのさた有べきなり。《『塵芥集』(1536年)八二条》
2002年9月24日(火)霽。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「同意(ドウイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、
同意(―イ) 。〔元亀本55二〕〔天正十七年本上31ウ五〕
同意(――) 。〔静嘉堂文庫本61六〕
とあって、標記語「同意」の語を収載し、語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サ)ス∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラ)レ∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)ノ黨類(タウノルイ)ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ|可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也-」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「同意」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「同意」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、標記語「同意」の語を未収載にする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
同氣(トウキ) ―母。―穴。―門。―僚。―舩。―類。―腹。―莟。―等。―道。―宿。―法。―族。―行。―車。―蜿。―士軍。―罪。―巷。―篇。―途。―伴。−事。―斈。―心。―意。〔尭・言語42一〕
とあって、尭空本だけが標記語「同意」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
同意(―イ)。〔言語43五〕
とあって、標記語「同意」の語を収載する。
ここで古辞書における「同意」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、に未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「同意」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「同意」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
同意(どうゐ)贔屓(ひゐき)の徒黨(ととう)を尋(たつ)捜(さがつ)て/尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ。尋捜ハたつねさかすなり。同意ハこゝろを合する事なり。一味したるを云。贔ハくつかへらんとするをおこす事也。屓ハたをれんとするを背負(せお)ふ事也。其人の善悪事の理非をも弁へす己(おのれ)か私欲にまかせて助力するを贔屓と云。〔45オ一〕
とあって、標記語「同意」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)を誅(ちう)せ被(ら)れ強竊(かうせつ)黨類(とうるい)に至(いたつ)て者(ハ)之同意(どうゐ)贔屓(ひいき)之(の)徒黨(ととう)を尋(たづ)ね捜(さくつ)て搦(から)め捕(と)ら被(る)可(べ)き也(なり)/被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意屓贔之徒黨ヲ|可キ∨被‖搦メ捕ラ|也。▲同意ハ心を合す也〔三十四オ八〜ウ一〕
被(られ)∨誅(ちゆう)せ∨之(これ)を至(いたつ)て‖強竊(がうせつ)黨類(たうるゐ)に|者(ハ)尋(たづね)‖_捜(さぐつ)て同意(どうい)屓贔(ひいき)之(の)徒黨(とたう)を|可(べ)き∨被(る)‖搦(からめ)捕(とら)る|也(なり)▲同意ハ心を合す也。〔61オ四〕
とあって、標記語「同意」の語注記は、「同意は、心を合すなり」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Do>-i.ドウイ(同意) Vonaji cocoro.(同じ意) 同じ心,または,同じ意見.〔邦訳187r〕
とあって、標記語「同意」の意味は「同じ心,または,同じ意見」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
どう-い(名)【同意】(一)おなじこころ。思ひの同じきこと。 甲陽軍鑑、五、品第十三「人間の小袖色色を着して、云云、見ては面面様様なれども、其の寒さを防ぐは同意なり」孫子、始計篇「道者、令‖親民與∨上同|∨意」(二)同じ意味。義理(わけ)の同じきこと。同義 史記、樂書「夫南風之詩者、生長之音也、舜樂好∨之、樂與‖天地|同∨意」(三)他の意見に同ずること。賛成すること。平治物語、一、信頼卿滅‖信西|議事「一族皆朝恩を蒙り、恨あるまじければ、よも同意せじと思ひ止る」曾我物語、七、逢‖二宮太郎|事「我等が死に行くと語らはんに、同意する者や候べき」〔1382-3〕
とあって、標記語「同意」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「どう-い【同意】[名]@(―する)他人の示した意見と同じ意見をもっているということを言動で示すこと。また、他の意見に賛成するという意思。A法律で、他人の行為に賛成ないし肯認の意志表示をすること。B同じ意味であること。同義。また、連歌などで同じ意をもつ語、同じこころで付句をすること。C(形動)同一であるさま。同様。同然」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
日者候御共、雖似有其功、石橋合戰之時、令同意景親、殊現無道之間、今不被糺先非者、依難懲後輩、如此〈云云〉《読み下し》日者御共ニ候ジ、其ノ功有ルニ似タリト雖モ、石橋合戦ノ時、景親ニ同意セシメ、殊ニ無道ヲ現スノ間、今先非ヲ糺サレズンバ、後輩ヲ懲ラシ難キニ依テ、此ノ如シト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年十一月十二日の条》
2002年9月23日(月)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「黨類(トウルイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「登」部に、標記語「黨類」の語を未収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類(とうるい)者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サ)ス∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラ)レ∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)ノ黨類(タウノルイ)ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ|可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也-」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「黨類」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語「黨類」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「黨類」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』といったすべての古辞書に未収載な語である。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「黨類」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「黨類」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
強竊(がうせつ)黨類(とうるい)に至(いたつ)て者(ハ)/至テ‖強竊黨類ニ|者。注解(ちうかい)前状にあり。〔44ウ六〕
とあって、標記語「黨類」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)を誅(ちう)せ被(ら)れ強竊(かうせつ)黨類(とうるい)に至(いたつ)て者(ハ)之同意(どうゐ)贔屓(ひいき)之(の)徒黨(ととう)を尋(たづ)ね捜(さくつ)て搦(から)め捕(と)ら被(る)可(べ)き也(なり)/被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意屓贔之徒黨ヲ|可キ∨被‖搦メ捕ラ|也。〔三十四オ八〜ウ一〕
被(られ)∨誅(ちゆう)せ∨之(これ)を至(いたつ)て‖強竊(がうせつ)黨類(たうるゐ)に|者(ハ)尋(たづね)‖_捜(さぐつ)て同意(どうい)屓贔(ひいき)之(の)徒黨(とたう)を|可(べ)き∨被(る)‖搦(からめ)捕(とら)る|也(なり)。〔60ウ四〕
とあって、標記語「黨類」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
To<rui.トウルイ(党類) 同類の仲間,または,何か悪事をするために,同じ考え,同じ意志をもって結ばれている者ども.→Toto<(徒党).〔邦訳670lr〕
とあって、標記語「黨類」の意味は「同類の仲間,または,何か悪事をするために,同じ考え,同じ意志をもって結ばれている者ども」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
たう-るゐ(名)【黨類】なかま。くみ。徒黨。 後漢書、陳蕃傳「左右羣竪、惡‖傷黨類|」盛衰記、二、日向太郎通良懸∨頸事「通良以下の黨類三百三十五人、討ち取るの由、家貞が許より交名を注し申し上げ」〔1198-5〕
とあって、標記語「黨類」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「とう-るい【黨類】[名]なかま。くみ。一味の者」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
三浦輩者、依及暁天、宿丸子河邊、遣郎從等、焼失景親之黨類家屋《読み下し》三浦ノ輩ハ、晩天ニ及ブニ依テ、丸子河ノ辺ニ宿シ、郎従等ヲ遣ハシ、景親ガ党類ノ家屋ヲ焼失ス。《『吾妻鏡』治承四年八月二十三日の条》
2002年9月22日(日)曇り一時雨。東京(八王子)→世田谷(玉川→駒沢)
「誅(チュウ)・す」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部に、
誅(チウスル) ―伐。〔元亀本70九〕〔静嘉堂文庫本84五〕〔天正十七年本上41ウ七〕〔西來寺本九〕
とあって、標記語「誅」の語を収載し、読みを元亀本は「チウする」とし、語注記には「誅伐」の語を示す。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サ)ス∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラ)レ∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)ノ黨類(タウノルイ)ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ|可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也-」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「誅」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、
白膠木(ヌルデ)然ルニ聖徳太子爲(タメ)ニ∨誅(チウ)センカ‖守屋(モリヤ)ヲ|造(ツクル)ニ‖四天王ノ之像(ザウ)ヲ|用ユ‖此ノ木ヲ|也。〔草木132六〕
とあって、標記語には「誅」の語を未収載にするが、「聖徳太子」「鎌足大臣」「雪耻」そして上記「白膠木」の注文のなかに用いられている。次に広本『節用集』には、
被∨誅(チウせラル/ヒ,−) [去・○]。〔態藝門181三〕
とあって、標記語「被∨誅」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語「誅」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「誅」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「誅」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「誅」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
之(これ)を誅(ちう)せ被(られ)/被レ∨誅セ∨之ヲ。誅ハ罪に行ふ事なり。こゝに言こゝろハ反逆乃怨人原ハ後々の見こらしの為(ため)根葉(ねは)をけして罪(つみ)せられよとなり。〔44ウ六〕
とあって、標記語「誅」の語注記は、「誅は、罪に行ふ事なり。こゝに言こゝろは、反逆の怨人原は、後々の見こらしの為、根葉をけして罪せられよとなり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
之(これ)を誅(ちう)せ被(ら)れ強竊(かうせつ)黨類(とうるい)に至(いたつ)て者(ハ)之同意(どうゐ)贔屓(ひいき)之(の)徒黨(ととう)を尋(たづ)ね捜(さくつ)て搦(から)め捕(と)ら被(る)可(べ)き也(なり)/被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意屓贔之徒黨ヲ|可キ∨被‖搦メ捕ラ|也。〔三十四オ八〜ウ一〕
被(られ)∨誅(ちゆう)せ∨之(これ)を至(いたつ)て‖強竊(がうせつ)黨類(たうるゐ)に|者(ハ)尋(たづね)‖_捜(さぐつ)て同意(どうい)屓贔(ひいき)之(の)徒黨(とたう)を|可(べ)き∨被(る)‖搦(からめ)捕(とら)る|也(なり)。〔60ウ四〕
とあって、標記語「誅」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Chu'.チュウ(誅) Vtcu.(誅つ) 斬ること.例,Chu>suru.(誅する)〔邦訳129l〕
とあって、標記語「誅」の意味は「斬ること」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ちュう・す(他動、左變)【誅】法に由りて殺す。成敗す。又、兵力を以て惡人を攻め討つ。 漢書、刑法志「夫征∨暴誅∨悖、治之威也」悉集‖親族(ヤカラ)|而欲宴」曾我物語、十、五郎被∨斬事「其の意趣のがれがたし、然れば向後(キヤウコウ)のために、汝をちゅうすべし、怨みを殘すべからず」〔1290-3〕
とあって、標記語「誅」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ちゅう・す【誅】[動・他サ変]@罪のある者を殺す。罪人を死刑に処する。成敗する。A攻め討つ。攻めほろぼす」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
然間且爲國敵、且令插意趣給之故、先試可被誅兼隆也《読み下し》然ル間、且ハ国敵タリ、且ハ*意趣ヲ挿マシメ(私ノ意趣)給フノ故ニ、先ヅ試ミニ兼隆ヲ誅(チウ)セラルベシトナリ。《『吾妻鏡』治承四年八月四日の条》
2002年9月21日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「族(やから)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、標記語「族」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サ)ス∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラ)レ∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)ノ黨類(タウノルイ)ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨(トタウ)ヲ|可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也-」〔文明本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
族 昨木反/ヤカラ/丁三―五―九―。宣賦席陳類彙已上同。〔黒川本・人倫門中83ウ八〕
族 ヤカラ/亦作牝。豈宣イ。賦。席。陳。類。彙。〔卷第六・人倫門508三〕
とあって、標記語「族」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「族」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
族(ヤカラ/ソク) [去]。〔人倫門556二〕
とあって、標記語「族」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
族(ヤカラ) 。〔弘・人倫165七〕〔永・人倫135五〕〔尭・人倫124五〕
とあって、標記語「族」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
族(ヤカラ)。〔言辞139一〕
とあって、標記語「族」の語を収載する。
ここで古辞書における「族」についてまとめておくと、『下學集』、『運歩色葉集』に未収載にし、『色葉字類抄』、広本『節用集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「族」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「族」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
後昆(こうこん)乃為(ため)与同(よとう)張本(ちやうぼん)の族(やから)を貽(のこさ)不(ず)/爲‖後昆ノ|不∨貽‖与同張本之族ヲ|。〔44ウ五〕
とあって、標記語「族」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
反逆(ほんぎやく)の輩(ともがら)に於(おいて)ハ後昆(こうこん)の為(ため)與同(よとう)張本(ちやうほん)之(の)族(やから)を貽(のこさ)不(ず)/於‖反逆輩ニ|者。爲‖後昆ノ|。不∨貽サ‖与同張本之族ヲ|。〔三十四オ八〜ウ一〕
於(おい)て‖反逆(ほんきやく)の輩(ともがら)に|者(ハ)。爲(ため)‖後昆(こうこん)の|。不(ず)∨貽(のこ)さ‖与同(よとう)張本(ちやうぼん)之(の)族(やから)を|。〔60ウ四〜61オ三〕
とあって、標記語「族」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Yacara.ヤカラ(族) Tomogara(輩)に同じ.同じ種類の人々の複数を示すための語.§また,Yacara.l,yacaramono.(やから.または,やから者)気まぐれ者で,ちょっとしたことで口論をしかける者.※原文はque pornada arma contendas.これを日仏辞書に,qui pour rien au monde ne dispute(どんあことがあっても口論しない)と訳しているのは誤り.〔邦訳805r〕
とあって、標記語「族」の意味は「同じ種類の人々の複数を示すための語」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
やか-ら(名)【族】〔家族(やから)の義か〕(一){一家の親族。うから。一族。 景行紀、廿七年十二月「悉集‖親族(ヤカラ)|而欲∨宴」(二)ともがら。なかま。黨 十訓抄、上、第一、序「かたへを欺きて、其の祿を望むやからをば、深く退くべし」「盗人のやから」謀叛のやから」〔2028-3〕
とあって、標記語「族」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「やか-ら【族】[名](「や」は「家」、「から」は「うから」「はらから」などの「から」と同じく、血縁関係にあることを表わす)@一家の親族。一族。同族。うから。A(「輩」とも書く)ともがら。仲間。てあい。連中」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
彼國源氏等、到信濃國、於歸伏之輩者、早相具之、至驕奢之族者、可加誅戮之旨、依含嚴命也《読み下し》彼ノ国ノ源氏等ヲ相ヒ伴ヒ、信濃ノ国ニ到ツテ、帰伏ノ輩ニ於テハ、早ク之ヲ相ヒ具シ、驕奢ノ族(ヤカラ)ニ至テハ、誅戮ヲ加フベキノ旨、厳命ヲ含ムニ依テナリ。《『吾妻鏡』治承四年九月八日の条》
2002年9月20日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「張本(チヤウボン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「知」部に、
張本(―ボン) 左。〔元亀本66三〕
張本(―ホン) 左。〔静嘉堂文庫本77六〕〔天正十七年本39オ二〕
張本(――) 左。〔西來寺本119四〕
とあって、標記語「張本」の語を収載し、読みを元亀本は「(ちゃう)ぼん」と第三拍を濁り、静嘉堂本と天正十七年本は「(ちゃう)ほん」清音にする。語注記には「左」とあり、典拠として『左傳』を示している。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者同尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕
「不貽與同張本族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔宝徳三年本〕
「不貽与同張本族被誅之至強竊黨類者尋捜同意屓贔之徒黨可被搦捕也」〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サス)∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラレ)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)黨類(タウノルイ)ニ|者尋_捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)之徒黨(トタウ)ヲ可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
張本 流例ト/チヤウホン。〔黒川本・疉字門上55ウ二〕
とあって、標記語「張本」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「張本」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
張本(チヤウボン/ハル,モト)[平・上]。〔態藝門175二〕
とあって、標記語「張本」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
張本(チヤウボン) 。〔弘・言語進退53一〕
張芝(ーシ) 硯名。―本(ボン)。―行(ギヤウ)。〔永・言語53五〕
張芝(チヤウシ) 硯名。―本。―行。〔尭・言語48六〕〔両・言語57五〕
とあって、弘治二年本が標記語「張本」の語を収載し、他三本は標記語「張芝」の冠頭字「張」の熟語群として「張本」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
張本(ーボン)。〔言辞53二〕
とあって、標記語「張本」の語を収載する。
ここで古辞書における「張本」についてまとめておくと、『下學集』に未収載にし、『色葉字類抄』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「張本」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「張本」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
後昆(こうこん)乃為(ため)与同(よとう)張本(ちやうぼん)の族(やから)を貽(のこさ)不(ず)/爲‖後昆ノ|不∨貽‖与同張本之族ヲ|後も昆ものちと訓す。与同は悪人にくミしたる同類也。張本ハ其事を企(くわたて)たる發頭人(ほつとうにん)なり。〔44ウ五〕
とあって、標記語「張本」の語注記を「張本は、其の事を企てたる發頭人なり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
反逆(ほんぎやく)の輩(ともがら)に於(おいて)ハ後昆(こうこん)の為(ため)與同(よとう)張本(ちやうほん)之(の)族(やから)を貽(のこさ)不(ず)/於‖反逆輩ニ|者。爲‖後昆ノ|。不∨貽サ‖与同張本之族ヲ|▲張本ハ其事を企(くハだ)つる發頭人(ほつとうにん)也。〔三十四オ八〜ウ一〕
於(おい)て‖反逆(ほんきやく)の輩(ともがら)に|者(ハ)。爲(ため)‖後昆(こうこん)の|。不(ず)∨貽(のこ)さ‖与同(よとう)張本(ちやうぼん)之(の)族(やから)を|▲張本ハ其事を企(くハだ)つる發頭人(ほつとうにん)也。〔60ウ四〜61オ三〕
とあって、標記語「張本」の語注記は、「張本は、其の事を企つる發頭人なり」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Cho<bon.チャウボン(張本) 頭(かしら),または,長.例,Areua mufonnino cho<bongia.(あれは謀叛人の張本ぢや)あの男は反逆者の首領であり,大将である.〔邦訳125r〕
とあって、標記語「張本」の意味は「頭(かしら),または,長」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ちゃう-ぼん(名)【張本】〔書言故事、六「預爲‖後地|曰‖張本|」〕(一)事の起る原由。おこり。したぢ。 左傳、隠公五年、杜注「晉内相攻伐、不∨告∨亂、故不∨書、傳具‖其事|、爲‖後晉事張本|」(二)次條の語の略。 平家物語、二、西光被∨斬事「海賊の張本三十餘人、搦め進ぜられ」「盗人の張本」事件の張本」〔1282-5〕
とあって、標記語「張本」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ちょう-ほん【張本】[名](古くは「ちょうぼん」)@文章で、後に書く事柄の伏線として前もって書いておく事柄。Aあとになって起こることに備えて、前もって準備しておくこと。あらかじめ後の素地を築いておくこと。B悪事のたくらみや事件を起こすなどのもとになること。また、その人。首謀。張本人」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
逆徒敗北討亡者、九十餘人、其内張本四人、冨田進士家助、前兵衛尉家能、家清入道、平田太郎家繼入道等也《読み下し》逆徒敗北シテ討亡スル者、九十余人、其ノ内張本(チヤウー)四人、富田ノ進士家助、前ノ兵衛ノ尉家能、家清入道、平田ノ太郎家継入道等ナリ。《『吾妻鏡』元暦元年八月二日の条》
2002年9月19日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「与同(ヨドウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「与」部に、
与同(―ドウ) 。〔元亀本131九〕
与同(ヨドウ) 。〔静嘉堂文庫本138二〕
与同(―トウ)〔天正十七年本中1ウ三〕
とあって、標記語「与同」の語を収載する。読みは「ヨドウ」と「ヨトウ」とする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「不貽与同張本之族被誅之至強竊黨類等者尋捜同意屓贔徒黨可被搦捕也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也」〔山田俊雄藏本〕
「不∨貽(ノコサ)‖与同張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊ノ黨類等ニ|者(ハ)尋‖捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)ノ徒黨ヲ|可∨被‖搦捕(カラメトラ)|也ハ-」〔経覺筆本〕
「不(サス)∨貽(ノコ)‖与同(ヨトウ)張本(チヤウ―)之族ヲ|被(ラレ)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至(イタツ)テ‖強竊(カウせツ)黨類(タウノルイ)ニ|者尋_捜(サクツ)テ同意屓贔(ヒイキ)之徒黨(トタウ)ヲ可シ∨被ル‖搦捕(カラメトラ)|也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「与同」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「与同」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
與同(ヨトウ/クミス・アタウ,ヲナシ)[上去・平]。〔態藝門320二〕
とあって、標記語「與同」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
与同(ヨドウ) 。〔弘・言語進退94二〕
與奪(ヨダツ) ―同(ドウ)。〔永・言語88九〕
與奪(ヨダツ) ―同。〔尭・言語80八〕
與奪(ヨタツ) ―同。〔両・言語97五〕
とあって、弘治二年本が標記語「与同」の語で収載し、他写本は標記語「與奪」の「與」の冠頭字熟語郡に「與同」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
與奪(ヨダツ) ―善(ゼン)。―同(トウ)。〔言語86三〕
とあって、標記語「與奪」の語を収載し、冠頭字「與」の熟語群に「與同」の語を収載する。
ここで古辞書における「与同」もしくは「與同」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
343不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之至‖強竊黨類等ニ|者尋捜テ同意屓贔ノ徒黨ヲ可∨被‖搦捕|也 贔屓ハ以∨力扶∨人之皃也。屓(マクル)ヲ贔(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左C〕
とあって、標記語を「与同」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
後昆(コウコン)ノ|不(ス)∨貽(ノコサ)‖與同(ヨトウ)張本ノ之族(ヤカラ)ヲ|被(ラル)∨誅(チウ)せ∨之ヲ至テ‖強竊(ガウセツ)ノ黨類(タウルイ)ニ|者尋(タツネ)‖_捜(サクツ)テ同意後昆(コウコン)ハノチノマジハルトヨムナリ。〔下十一オ七〕
とあって、この標記語「與同」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
後昆(こうこん)乃為(ため)与同(よとう)張本(ちやうぼん)の族(やから)を貽(のこさ)不(ず)/爲‖後昆ノ|不∨貽‖与同張本之族ヲ|後も昆ものちと訓す。与同は悪人にくミしたる同類也。張本ハ其事を企(くわたて)たる發頭人(ほつとうにん)なり。〔44ウ五〕
とあって、標記語「与同」の語注記を「与同は、悪人にくみしたる同類なり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
反逆(ほんぎやく)の輩(ともがら)に於(おいて)ハ後昆(こうこん)の為(ため)與同(よとう)張本(ちやうほん)之(の)族(やから)を貽(のこさ)不(ず)/於‖反逆輩ニ|者。爲‖後昆ノ|。不∨貽サ‖与同張本之族ヲ|▲与同ハ与力(よりき)同意(とうゐ)とて心を合せて力(ちから)を添(そ)ふる者をいふ。〔三十四オ八〕
於(おい)て‖反逆(ほんきやく)の輩(ともがら)に|者(ハ)。爲(ため)‖後昆(こうこん)の|。不(ず)∨貽(のこ)さ‖与同(よとう)張本(ちやうぼん)之(の)族(やから)を|▲与同ハ与力(よりき)同意(どうい)とて心を合せて力(ちから)を添(そ)ふる者をいふ。〔60ウ四〜61オ三〕
とあって、標記語「与同」の語注記は、「与同は、与力同意とて心を合せて力を添ふる者をいふ」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Yodo>.ヨドウ(与同) Vonajiqu cumisu.(同じく与す) 一体となること.§Yodo> to<rui(与同党類)同じ組や仲間の多くの者,あるいは,互いに団結している多くの者.〔邦訳824r〕
とあって、標記語「与同」の意味は「一体となること」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
よ-どう(名)【與同】同意して與力すること。同意して與(くみ)すること。 易林本節用集(慶長)上、言辭門「與同、ヨトウ」 庭訓徃來、六月「於‖反逆|輩者、爲‖後昆|、不∨貽‖与同張本之族ヲ|被∨誅∨之」〔2093-4〕
とあって、標記語「与同」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「よ-どう【与同】[名]同意して力を貸すこと。仲間にはいること。また、その人」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
老軍等云、早可令與同之趣、僞而先令領状之後、可度之也者則云遣其旨《読み下し》老軍等ガ云ク、早ク与同(ヨトウ)セシムベキノ趣、偽ツテ先ヅ領状セシムルノ後、之ヲ度ルベキナリテイレバ、則チ其ノ旨ヲ云ヒ遣ハス。《『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日の条》
2002年9月18日(水)晴れ。大阪→東京(八重洲)→世田谷(駒沢)
「沙汰(サタ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、
沙汰(ータ)。〔元亀本270十〕
沙汰(サタ)。〔静嘉堂本309三〕
とあって、標記語「沙汰」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「但的矢蟇目等無沙汰憚入候」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「但シ的(マト)_矢蟇_目(ヒキメ)等無沙-汰憚_入候」〔山田俊雄藏本〕
「但シ的矢蟇目等、無ク‖沙汰|憚リ入リ候」〔経覺筆本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
沙汰 公事ト。サタ。撰擇ト。〔黒川本・疉字門下42オ二〕
とあって、標記語「沙汰」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「沙汰」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
沙汰(サタ/イサゴ,アラウ・ユル)[平・去]文選曰沙テ∨汰ヲ得∨金ヲ。〔態藝門790六〕
とあって、標記語「先逼」の語を収載し、語注記は「『文選』に曰く、汰を沙で金を得」と記載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
沙汰(サタ)。〔弘・言語進退214五〕〔永・言語179三〕〔尭・言語168三〕
とあって、標記語「沙汰」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
沙汰(サタ)。〔言辞182四〕
とあって、標記語「沙汰」の語を収載する。
ここで古辞書における「沙汰」についてまとめておくと、『下學集』に未収載にし、『色葉字類抄』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。ここで、広本『節用集』と『庭訓往来註』正月十一日の状における注記内容を比較してみるに、共通する内容であることが見て取れるのである。但し、「沙汰」のところを逆にしている部分が異なる点でもある。そして、他の古辞書がこの注記を未記載にしていることから、その結びつきには大いに注目せねばなるまい。両書の成立状況を考察していくうえで重要な部分でもある。
さて、『庭訓往来註』正月十六日の状に、
030蟇目等ハ/トウ无沙汰憚入候 蟇目一束ト云廿四。一腰ト云ハ四也。穴ハ蝦蟇ノ目ニ象ル也。音不∨合‖五音|響ニ魔畏ル。佛ハ有‖納受|。故用‖祈祷ニ|也。沙汰ハ文選ニ曰、汰∨沙ヲ得∨金ヲ云々。〔謙堂文庫藏七右H〕
沙汰―取是去非譬如淘汰得金也。〔国会図書館藏左貫注書込み〕
他に、「沙汰」〔六月十一日の状・同三六左B〕
とあって、標記語を「沙汰」についての語注記は、「沙汰は、文選に曰く、沙を汰し金を得る云々」と記載する。
古版『庭訓徃来註』では、
蟇目(ヒキメ)等(トウ)無(ブ)沙汰(サタ)憚(ハヾカリ)入リ候 〔上三ウ六〕
先規也可∨被∨申‖沙汰|於テ‖反逆(ホンキヤク)ノ輩ニ|者為ニ先規(センキ)ハ前ヲウカガフ心ナリ。〔下十一オ六・七〕
とあって、この標記語「沙汰」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
無(ぶ)沙汰(さた)憚(ハゞかり)入(い)り候/无沙汰憚入候。沙汰の字義(じぎ)は後に見へたり。こゝにて無沙汰と云ハ不案内(ぶあんない)抔(なと)といふこゝろ也。的矢ハ奉射の的の矢を云。奉射も蟇目もいろ/\の式(しき)あり。容易(ようい)に知かたきゆへ卑下(ひげ)していふ。此等(これら)の式にハ不案内ゆへ恥(はぢ)はゞかるとなり。〔44オ六・七〕
とあって、標記語「沙汰」の語注記を「後に見えたり」と記載し、実際八月三日の状の「沙汰」の注記に、「沙汰とハ事の理非(りひ)をわかち定る事也。是ハもと沙ハすなの事也。汰ハ水にてゆなける事也。金の沙に交りあるを水にてゆなけわけるを言故に事の理非を取捌(とりさば)くを沙汰といふなり。今噂(うわさ)といふ事に用るハ又一轉したる也」とある。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|〔三十四オ三〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|。〔60ウ二〕
とあって、標記語「沙汰」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Sata.サタ(沙汰) 話,または,噂.例,Fitono vyeuo sata suru.(人の上を沙汰する)ある人の事について話す,あるいは,話題にする.§Satauo caguitta coto.l,satano caguiri.(沙汰を限つた事.または,沙汰の限り)ひどく奇異な,そしてひどく不出来な事,など.§また,Sata.(沙汰)ある訴訟に関する話,または,取調べ.§Satanin.(沙汰人)裁判官,すなわち,訴訟において[原告・被告]双方の言い分を聞く人.→Caqe,uru(懸け,くる).〔邦訳560r〕
とあって、標記語「沙汰」の意味は「話,または,噂」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
さ-た(名)【沙汰】沙(すな)を、水にて淘(ゆ)りて、沙金を擇(え)り取ること。物の、精粗を擇り分くること。淘汰。 續一切經音義(希麟)十、沙汰「切韻、沙、亦汰也、汰、考聲云、濤汰、洗也、案、即如下沙中濤洗‖其金|、取中精妙者上也」 杜甫、上‖韋左相|詩「沙汰‖江河ノ濁|」集注、「沙汰、以篩貯沙、去‖其細|、而存‖其大|、曰∨汰」 晉書、習鑿齒傳「沙∨之汰∨之、瓦石在∨後、簸∨之敵∨之、糠粃在∨前」同、魏舒傳「欲下沙‖汰郎官|、非才者罷上∨之」〔0808-4〕
さ-た(名)【沙汰】〔前條の語より、理非を辨別する意に移る、或は、沙汰は借字にて、定(さだ)の義なり、との説もあれど、清濁の差もあり、妥當ならず〕(一)政務を截斷、處分すること。其職に在る人を、沙汰人と云ふ。 名義抄「沙汰、タダス」吾妻鏡、一、治承四年十月五日「武藏國諸雜事等、仰‖在廳官人、并、諸郡司等|、可∨令∨致‖沙汰|」同、二、治承五年七月三日「可召進武藏國、淺草、大工、字郷司之旨、被下三御書於‖彼所沙汰人等中|」同、十、建久元年十月五日「下‖陸奥國諸郡郷、新地頭等所|、云云、御目代不‖下向|之間、隨‖留守家景、并、在廳之下知|、可∨致‖沙汰|」庭訓徃來(元弘)三月「御領入部、云云、四至傍爾(榜示)之境、阡陌、聊不∨可∨被∨混‖亂他所|、被∨致‖精廉之沙汰|之條、奉公忠勤也、云云、課‖沙汰人等|、地下目録、云云、可∨被‖召進|也」「公事沙汰」御前沙汰」(二)官府の指令、命令。官命()。 吾妻鏡、二、治承五年七月三日「若宮營作事、有‖其沙汰|」同、三十三、延徳元年十二月十六日、三島春日大社~樂「將軍家有‖御立願|、是レ已ニ可∨爲‖莫大用途|、毎月被‖沙汰|之條、御家人ノ煩也」(三)君の命。御諚。君命。吾妻鏡、二、養和元年十月廿日「件甲(よろひ)可∨被‖奉納|事、同月十六日、於‖京都|有‖御沙汰|」(四)知らせ。おとづれ。左右(サウ)。通知。報道。宇治拾遺、一、第三條「今日より、此翁、かやうの御遊びに、必參れ、と云ふ、翁、申すやう、さたに及び候はば、參り候ふべし」「沙汰無し」無沙汰」(五)うはさ。風説。評判。評議。流言。宇治拾遺、一、第三條「何をか取るべきと、各云ひさたするに、横坐の鬼の云ふやう」「世上の取沙汰」〔0808-4〕
とあって、標記語「沙汰」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「さ-た【沙汰】[名](「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意)@水中でゆすって砂の中から砂金や米などをえり分けること。転じて、物、人物の精粗をえり分けること。淘汰。A物事の是非をえらび分けて正しく処理すること。始末すること。処置すること。(イ)政治上の処理。政務のとりさばき。(ロ)知行すること。(ハ)年貢諸役をとりたてること。また、それを納入すること。(ニ)弁償すること。支払うこと。負債等を分担すること。(ホ)とりたてて行うこと。考えて取り計らうこと。(ヘ)殺すこと。成敗すること。B物事の是非や善悪などをとりさばくこと。(イ)裁判。訴訟。公事。(ロ)問題として議論すること。検討。評議。(ハ)論議される点。教理。C情報を与えること。(イ)決裁されたことについての指令。指図。命令。下知。(ロ)報知。報告。通知。消息。たより。また、吹聴すること。(ハ)話題にすること。評判。うわさ。(ニ)(他の語に付けて接尾語のように用いることもある)話題になっている事件」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
同月國々源氏、并興福、園城兩寺衆徒中、應仲綱令旨之輩悉以可被攻撃之旨、於仙洞、有其沙汰〈云云〉《読み下し》同キ月ニ国国ノ源氏、并ニ興福、園城ノ両寺ノ衆徒中、*仲綱ガ令旨ニ応ズルノ輩ハ(*件ノ令旨ニ)、悉ク以テ攻メ撃タルベキノ旨、仙洞ニ於テ、其ノ沙汰有リト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年五月二十七日の条》
2002年9月17日(火)雨。高野山(釈迦門院)→高野山大学図書館→大阪(梅田)
「先規(センギ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、
先規(―ギ)。〔元亀本352十〕
先規(―キ)。〔静嘉堂本425三〕
とあって、標記語「先規」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「且嘉例且先規也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「且ハ佳-例(カー)且ハ先-逼也」〔山田俊雄藏本〕
「且ハ嘉例且ハ先規也」〔経覺筆本〕
「且ハ嘉-例(カレイ)且ハ先-規(キ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「先規」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「先規」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
先逼(せンキ/マヅ,ノリ)[平・平]。〔態藝門1087八〕
とあって、標記語「先逼」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
先規(ーキ) 。〔弘・言語進退265三〕
先規(せンキ) ー判(ハン)。ー例(レイ)。―蹤(ぜウ)。ー途(ド)。ー条(デウ)。〔永・言語226四〕
先規(せンキ) ー判。ー例。―蹤。ー途。ー条。〔尭・言語213二〕
とあって、標記語「先規」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
先コ(せンドク) ―度(ド)。―條(デウ)。―代(ダイ)。―例(レイ)。―規(キ)。―陣(ヂン)。―約(ヤク)。―蹤(せウ)。―非(ヒ)。〔言辞235七〕
とあって、標記語「先コ」の語を収載し、冠頭字「先」の熟語群に「先規」の語を収載する。
ここで古辞書における「先規」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』に未収載にし、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
342侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰ヲ|於‖反逆之輩|者為後昆(コウゴン)ノ今自以後之義也。昆ハ明也。〔謙堂文庫蔵三六左B〕
とあって、標記語を「先規」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
先規也可∨被∨申‖沙汰|於テ‖反逆(ホンキヤク)ノ輩ニ|者為ニ先規(センキ)ハ前ヲウカガフ心ナリ。〔下十一オ六・七〕
とあって、この標記語「先規」の語注記は、「先規は、前をうかがふ心なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
且(かつ)は嘉例(かれい)且は先規(せんき)也/且嘉例、且ハ先規也。嘉例とは其むかし吉事ありしによりて仕來りしならハせなり。先規ハ前々よりし來りし式なり。〔44オ六・七〕
とあって、標記語「先規」の語注記を「先規は、前々よりし來りし式なり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲先規ハ先(さき)に例(ためし)あるの法度(のり)也。〔三十四オ三〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲先規ハ先(さき)に例(ためし)あるの法度(のり)也。〔60ウ二〕
とあって、標記語「先規」の語注記は、「先規は、先に例あるの法度なり」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xenqi.センキ(先規) Mayeno fatto.(前の法度) 昔の掟,または,以前のしきたり.〔邦訳752l〕
とあって、標記語「先規」の意味は「昔の掟,または,以前のしきたり」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
せん-き(名)【先規】先先(さきざき)よりの規格(おきて)。前例。前規。 武后、拝‖雅樂|章「乾乾遵‖後命|、翼翼奉‖先規|」 平家物語、一、殿上闇撃事「夫れ、雄剱を帶して公宴に列し、兵杖を給はッて宮中を出入するは、皆是れ、格式の禮を守る綸命、由ある先規なり」〔1120-3〕
とあって、標記語「先規」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せん-き【先規】[名](古くは「せんぎ」とも)前からのおきて。以前からのしきたり。前例。先例」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
粗勘先規、於鎮守府宣下者、坂上中興以後、至藤原範季、<安元二年三月、>雖及七十度、至征夷使者、僅爲兩度歟《読み下し》粗先規ヲ勘フルニ、鎮守府ノ宣下ニ於テハ、坂上ノ中興ヨリ以後、藤原ノ範季ニ至ルマデ、<安元二年三月、>七十度ニ及ブト雖モ、征夷使ニ至リテハ、僅カニ両度タルカ。《『吾妻鏡』寿永三年正月十日の条》
2002年9月16日(月)晴れ一時曇り。和歌山(高野山釈迦門院)
「嘉例(カレイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、「嘉瑞(カズイ)。嘉祥(シヤウ)。嘉定(チヤウ)。嘉吉(キツ)」と冠頭字「嘉」の熟語群には「嘉例」の語は未記載にし、
佳例(―レイ)。〔元亀本91五〕
佳例(カレイ)。〔静嘉堂本112七〕〔天正十七年本上55ウ三〕〔西来寺本161四〕
とあって、標記語「佳例」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「且嘉例且先規也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「且ハ佳-例(カー)且ハ先-逼也」〔山田俊雄藏本〕
「且ハ嘉例、且ハ先規也」〔経覺筆本〕
「且ハ嘉-例(カレイ)、且ハ先-規(キ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「嘉例」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、
佳例(カレイ) 佳ハ或ハ作ス∨嘉ニ。〔態藝門151一〕
とあって、標記語「佳例」でその注記「佳は或は嘉に作す」とあって「嘉例」の語を意味している。次に広本『節用集』には、
佳例(カレイ/ヨシ,ナラフ・タメシ)[平・去]又作‖嘉例。嘉齢。〔態藝門272六〕
とあって、標記語に「佳例」の語を収載し、語注記に「また、嘉例・嘉齢に作す」とし、「嘉例」の語を収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
嘉例(カレイ) 或作佳例。〔弘・言語進退85四〕
佳例(カレイ) ー會(クハイ)。ー名。ー節(せツ)。〔永・言語82六〕
佳例(カレイ) ー會。ー名。ー節。〔尭・言語75一〕〔両・言語90二〕
とあって、弘治二年本だけが標記語を「嘉例」とし、語注記に「或は佳例に作す」と広本『節用集』と標記語と語注記の語とを逆にした形式で収載する。他二写本は、標記語を「佳例」とするにとどまり、この点からいえば『運歩色葉集』はこれに近いものといえる。また、易林本『節用集』には、
佳例(カレイ) 。〔言辞80六〕 嘉例(ーレイ) 。〔言語83一〕
とあって、標記語「嘉例」の語を収載する。
ここで古辞書における「嘉例」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『運歩色葉集』印度本系統の永禄二年本・尭空本『節用集』は未収載にし、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本『節用集』、易林本『節用集』に収載が見られるものである。このなかで、標記語に「嘉例」とした弘治二年本『節用集』がもっとも『庭訓往来』に近い収載語となっていて、『下學集』編者が何故「佳例」を標記語とし、註記に「嘉例」を置いたのかについて今後検討せねばなるまい。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
342侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰ヲ|於‖反逆之輩|者為後昆(コウゴン)ノ今自以後之義也。昆ハ明也。〔謙堂文庫蔵三六左B〕
とあって、標記語を「嘉例」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
規模(キボ)也且ハ嘉例(カレイ)且ハ規模(キボ)ノウカガヒシルスナリ。〔下十一オ五・六〕
とあって、この標記語「嘉例」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
且(かつ)は嘉例(かれい)且は先規(せんき)也/且嘉例、且ハ先規也。嘉例とは其むかし吉事ありによりて仕來りしならハせなり。先規ハ前々よりし來りし式なり。〔44オ六・七〕
とあって、標記語「嘉例」の語注記を「嘉例とは其むかし吉事ありしによりて仕來りしならハせなり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲嘉例ハ前(まへ)に吉例(よきためし)ありての仕来(しきた)り。〔三十四オ三〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲嘉例ハ前(まへ)に吉例(よきためし)ありて乃仕来(しきた)り。〔60ウ二〕
とあって、標記語「嘉例」の語注記は、「嘉例は、前(まへ)に吉き例ありての仕来り」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Carei.カレイ(佳例・嘉例) Yoqi tamexi.(佳き例)正月(Xo<guachi)やその他の祝祭日に主君を訪問するなど,いつもすることになっているめでたい慣例.例,Careino gotocu.(佳例の如く)いつものめでたい慣例に従って.〔邦訳102l〕
とあって、標記語「嘉例」の意味は「佳き例、正月やその他の祝祭日に主君を訪問するなど,いつもすることになっているめでたい慣例」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
か-れい(名)【嘉例・佳例】めでたき例(ためし)。吉例。 盛衰記、四十一、大嘗會事「治暦の嘉例に任せて、太政官廳にして行はれたり」〔0448-2〕
とあって、標記語「嘉例・佳例」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「か-れい【嘉例】[名]めでたい先例。よい定め。吉例」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
今來臨尤恊彼佳例之由、被感仰〈云云〉《読み下し》今来臨尤モ彼ノ佳例ニ恊フノ由、感ジ仰セラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年十月二十一日の条》
2002年9月15日(日)晴れ。大阪(難波)→和歌山(高野山)
「規模(キボ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、
規模(キボ)。〔静嘉堂本427七〕※元亀本は、この語を脱す。
とあって、標記語「規模」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「將軍家御教書執亊施行侍所奉書者規模也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「將軍家御教書執亊之施行侍所之奉書者規模也」〔建部傳内本〕
「將-軍-家ノ御教-書執-亊(シツ―)ノ施-行(シ−)侍_所ノ奉-書ハ者規-模也」〔山田俊雄藏本〕
「將軍家之御教書執事之施行(シ−)侍所(サフライ―)之奉書(ホウシヨ)ハ者規模(キホ)也」〔経覺筆本〕
「將-軍-家ノ御-書執-亊(シツシ)ノ施-行(セ−)侍_所ノ奉-書者(ハ)規-模(キホ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
逼摸 流例卜/キホ。〔黒川本・疉字下50ウ一〕
逼模 〃矩ク。〃避ヒヤク。〔卷第八・疉字524六〕
とあって、標記語「規模」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、
規模(キボ) 。〔態藝門158五〕
とあって、標記語「規模」の語を収載する。次に広本『節用集』には、
逼模 (キボ/ノリ,ノリ・イタ)[平・平]。〔態藝門828七〕
とあって、標記語「規模」の語を収載し、語注記は未記載とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
逼模(キボ) 。〔弘・言語進退223三〕
規矩(キク) 法度、規式(シキ)。―摸(モ)。〔永・言語184七〕
とあって、標記語「規模」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
規模(キボ) 。〔言辞190一〕
とあって、標記語「規模」の語を収載する。
ここで古辞書における「規模」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
342侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰ヲ|於‖反逆之輩|者為後昆(コウゴン)ノ今自以後之義也。昆ハ明也。〔謙堂文庫蔵三六左B〕
とあって、標記語を「規模」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
規模(キボ)也且ハ嘉例(カレイ)且ハ規模(キボ)ノウカガヒシルスナリ。〔下十一オ五・六〕
とあって、この標記語「規模」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
規模(きぼ)也/規模也規も模も皆のりと讀。手出とすべきをいいふ。〔44オ五〕
とあって、標記語「規模」の語注記を「規も模も皆のりと讀。手出とすべきをいいふ」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲規模ハ物の定木(ぢやうぎ)亀鏡(ことのかゞミ)の義。猶面目(めんぼく)といふがごとし。〔三十四オ三〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲規模ハ物の定木(ちやうき)亀鏡(きかん)の義。猶(なほ)面目(めんぼく)といふがごとし。〔60ウ二〕
とあって、標記語「規模」の語注記は、「規模は、物の定木、亀鏡の義。猶面目といふがごとし」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Qibo.キボ(規模) 名誉.例,Core vaga iyeno qibo nari.(これ我が家の規模なり) これは我が家の名誉である.§また,成果,または,利得.例,Soregaxi core made sanjita qibomo nai.(某これ迄参じた規模も無い)私はここまで来たが,それについての褒賞も得ず,また私の労苦の成果も得られない.これは人が自分の望んでいた物が得られない時に言うものである.〔邦訳493l〕
とあって、標記語「規模」の意味は「名誉」としている。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
き-ぼ(名)【規模】〔規は、ぶんまはし、模は、型(かた)〕(一)物事の廣さ、狹さ。かまへ。かかり。結構。繩張(なはばり)。論語、八含篇「管仲之器、小哉」注「不∨知‖聖賢之道|、故局量褊淺、規模卑狹」漢書、高帝紀「雖‖日不|∨暇給、規模弘遠矣」(二)法度(のり)。法式。模範。據るべき例(ためし)。手本。張衡、歸田賦「陳三皇之軌模」(軌は規に通ず)徒然草、九十九段「廳屋の唐櫃、見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由、仰せられけるに、云云、累代の公物、古弊を以て規模とす、たやすく改められがたき由、故實の諸官等、申しければ」(三)ほまれ。面目。名譽。光榮。他の模範となるべき意。庭訓徃來、六月十一日「將軍家之御教書、執事之施行、侍所之奉書、尤規模也」宗吾大雙紙「中臈は、格子の織物、打ちまかせては、得召し候はず候、線簾(すぢみす)などを召し候、御免にて、格子をば召し候、きぼにて候」〔0480-5〕
とあって、標記語「規模」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「き-ぼ【規模・規涕】[名](「規」は、円形をかく道具、コンパスのこと。「模」は、物の型のこと)@物の構え。結構。しくみ。また、全体の計画。企画。構想。きも。A正しい例。模範。手本。法則。規範。B(他への手本、模範となるところから)ほまれ。名誉。ほこり。てがら。面目。C眼目。重要な点。D面子(めんつ)。めんもく。多く「きぼが立つ」の形で用いられる。Eききめ。甲斐(かい)。効果。多く「きぼがある(ない)」の形で用いる。F報い。代償。また、返札。G根拠。証拠。よりどころとなるもの」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
誠是希代之嚴重、濁世之規摸、何事加之《読み下し》誠ニ是レ希代ノ厳重、濁世ノ*規摸(*規模)(キボ)、何事カ之ニ加ン。《『吾妻鏡』文治五年十二月九日の条》
2002年9月14日(土)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)→大阪
「奉書(ほうしょ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「保」部に、
奉書(―シヨ)。〔元亀本42二〕〔静嘉堂本46二〕〔天正十七年本上24オ二〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「奉書」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「將軍家御教書執亊施行侍所奉書者規模也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「將軍家御教書執亊之施行侍所之奉書者規模也」〔建部傳内本〕
「將-軍-家ノ御教-書執-亊(シツ―)ノ施-行(シ−)侍_所ノ奉-書ハ者規-模也」〔山田俊雄藏本〕
「將軍家之御教書執事之施行(シ−)侍所(サフライ―)之奉書(ホウシヨ)ハ者規模(キホ)也」〔経覺筆本〕
「將-軍-家ノ御-書執-亊(シツシ)ノ施-行(セ−)侍_所ノ奉-書者(ハ)規-模(キホ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「奉書」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「奉書」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
奉書(ホウシヨ/ウクル・タテマツル,カク)[上・平]。〔態藝門100三〕
とあって、標記語「奉書」の語を収載し、語注記は未記載にする。続いて、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
奉書(ホウ―) 。〔弘・財宝32二〕
奉書(ホウシヨ) 。〔永・財宝32七〕〔堯・財宝31二〕〔両・財宝37三〕
とあって、標記語「奉書」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
奉書(ホウシヨ) 。〔言語32七〕
とあって、標記語「奉書」の語を収載する。
ここで古辞書における「奉書」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、には未収載にして、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
342侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰ヲ|於‖反逆之輩|者為後昆(コウゴン)ノ今自以後之義也。昆ハ明也。〔謙堂文庫蔵三六左B〕
とあって、標記語を「奉書」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
執亊(シツジ)ノ施行(せキヤウ)侍所(サフライトコロ)ノ奉書(ホウシヨ)者ハトハ執事ハ。ホドコス一行也。執事ノコトハ。其家ノ侍頭(サムラヒカシラ)也。〔下・十一オ五〕
とあって、この標記語「奉書」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
侍所(さむらひところ)の奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也/侍所(サフライトコロ)ノ奉書(ホウシヨ)者侍所の事下に見へたり。奉書ハ上乃仰せを奉(うけたまハ)りて判形せられし状なり。〔44オ四〕
とあって、標記語「奉書」の語注記を「奉書は、上の仰せを奉りて判形せられし状なり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲侍所之奉書ハ公方(くばう)の仰(おふせ)を承(うけ)て奉行(ぶぎやう)より出る文書をいふ。〔三十四オ三〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲侍所之奉書ハ公方(くばう)の仰(おふせ)を承(うけ)て奉行(ぶぎやう)より出る文書をいふ。〔60ウ一〕
とあって、標記語「奉書」の語注記は、「奉書は、公方の仰せを承て奉行より出る文書をいふ」とする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Fo>xe.ホゥショ(奉書) 主君の命令,掟として,役所とか代官とかから示達される書付,または,免許状.※配列の位置と説明とから見て,恐らくはFo>xoの誤植であろう.日西・日仏両辞書とも原文のままに従っている.〔邦訳267l〕
‡Fo>xo.ホゥショ(奉書) →前条.〔邦訳267l〕
とあって、標記語「奉書」の意味を「主君の命令,掟として,役所とか代官とかから示達される書付,または,免許状」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ほう-しょ(名)【奉書】(一)室町家の頃、公方の命を奉りて、執事奉行より下す文書(かきもの)の稱。己れが名の下に、奉の一字を書す。(直書(ヂキシヨ)に對す)簡禮記、四、御下知之法式「御下知之事、奉行書より書出す状也、是れを奉書とも云ふ、然れども御下知と云ふ時、多くは竪紙なり、奉書多くは折紙なるべし」(二)徳川幕府に、任官の辭令書の稱。御奉書とも云ふ。奉行人の、將軍の意を得て、其趣を書き、己れが名判を居ゑて、支配下のものに出す文書。柳營秘鑑、三、老中奉書連判之次第「奉書を以、御用被‖仰付|候類、云云」(三)奉書紙の略。紙譜「奉書類、越前より出る所、官家の奉書に用るに堪たり、故にこれを奉書と云ふ、云云、但、紙の目を量て賣買す、各上品を眞草、中品を半草、下品を刮と云ふ」〔1825-3〕
ほう-しょう(名)【奉書】〔ほうしょ(奉書)の延〕(一)次條の語に同じ。(二)ほうしょつむぎ(奉書紬)に同じ。〔1825-4〕
とあって、標記語「奉書」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ほう-しょ【奉書】[名]古文書の様式の一つ。広く主人の意をうけて従者がみずからの名を署して出す文書をいう。ふつう、本文書留に「依∨仰、執達如∨件」「綸旨如∨此」のように上位者の意をうけたまわって出す文書であることを明らかにする文言があり、また、日付の下に書かれる名目上の差出人である奉者の位署の右下に「奉」の字を小さく書き加えてあることが多い。命令を下す上位者の地位・身分によって、奉書は綸旨(天皇の奉書)・院宣(上皇)・令旨(りょうじ=親王など)・御教書(三位以上)と特別の呼び方をする。本来、書状と同様の私的な文書として発生したが、上位者の政治的な地位によって内容が公的になる場合は公文書の性質を帯びるようになり、公文書としての側面が分化し固定していった。綸旨・院宣・御教書などの奉書は上位者の名をとって関白家御教書のように呼ばれるが、その他の場合は奉者の名によって、大江広元奉書・幕府奉行奉書のように呼ばれる。後には、文書の一種の美称となり、正しくは直書(じきしょ)である室町将軍の「御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)」もその名でよばれた。また、寺院などの文書にも奉書形式にとらわれないものが多い。A「ほうしょがみ(奉書紙)」の略。B「ほうしょたび(奉書足袋)」の略。C「ほうしょつむぎ(奉書紬)」の略」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
早可被献領状之奉書常胤之心中、領状更無異儀、《読み下し》早ク領状ノ奉書(ホウシヨ)ヲ献ゼラルベシト。*常胤ガ心中(常胤云、心中)、領状更ニ異儀無シ。《『吾妻鏡』治承四年九月九日の条》
2002年9月13日(金)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「侍所(さぶらいどころ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、標記語「侍所」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「將軍家御教書執亊施行侍所奉書者規模也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「將軍家御教書執亊之施行侍所之奉書者規模也」〔建部傳内本〕
「將-軍-家ノ御教-書執-亊(シツ―)ノ施-行(シ−)侍_所ノ奉-書ハ者規-模也」〔山田俊雄藏本〕
「將軍家之御教書執事之施行(シ−)侍所(サフライ―)之奉書(ホウシヨ)ハ者規模(キホ)也」〔経覺筆本〕
「將-軍-家ノ御-書執-亊(シツシ)ノ施-行(セ−)侍_所ノ奉-書者(ハ)規-模(キホ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「侍所」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、
侍所(サブライトコロ) 。〔態藝門90四〕
とあって、標記語「侍所」の語を収載する。次に広本『節用集』には、
侍所(サブライドコロ/シシヨ)[去・上]。〔家屋門773一〕
とあって、標記語「侍所」の語を収載し、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
侍所(サブライトコロ) 。〔弘・天地208八〕
侍所(サフライドコロ) 。〔永・天地173五〕
侍所(サムライトコロ) 。〔堯・天地162七〕
とあって、標記語「侍所」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
侍所(サブラヒドコロ) 。〔乾坤176三〕
とあって、標記語「侍所」の語を収載する。
ここで古辞書における「侍所」についてまとめておくと、『色葉字類抄』には未収載にして、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
342侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰ヲ|於‖反逆之輩|者為後昆(コウゴン)ノ今自以後之義也。昆ハ明也。〔謙堂文庫蔵三六左B〕
とあって、標記語を「侍所」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
執亊(シツジ)ノ施行(せキヤウ)侍所(サフライトコロ)ノ奉書(ホウシヨ)者ハトハ執事ハ。ホドコス一行也。執事ノコトハ。其家ノ侍頭(サムラヒカシラ)也。〔下・十一オ五〕
とあって、この標記語「侍所」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
侍所(さむらひところ)の奉書(ほうしよ)者(ハ)/侍所(サフライトコロ)ノ奉書(ホウシヨ)者侍所の事下に見へたり。奉書ハ上乃仰せを奉(うけたまハ)りて判形せられし状なり。〔44オ四〕
とあって、標記語「侍所」の語注記を「侍所の事下に見へたり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲侍所之奉書ハ公方(くばう)の仰(おふせ)を承(うけ)て奉行(ぶぎやう)より出る文書をいふ。〔三十四オ三〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲侍所之奉書ハ公方(くばう)の仰(おふせ)を承(うけ)て奉行(ぶぎやう)より出る文書をいふ。〔60ウ一〕
とあって、標記語「侍所」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
†Saburaidocoro.サブライドコロ(侍所) 身分の高い人〔武士〕が,奥座敷に入る前に待っている,手前の方にある部屋.〔邦訳545l〕
とあって、標記語の例として「侍所」の意味を「身分の高い人〔武士〕が,奥座敷に入る前に待っている,手前の方にある部屋」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
さぶらひ-どころ(名)【侍所】〔家臣の侍(さぶら)ひ居る所〕(一)院、親王家、攝政、關白、三位以上の家家にて、家臣等の、其家の事務を扱ふ所。さぶらひとのみ云ふことあり。別當、所司、勾當、年預などの職を設けたり。拾芥抄(文安)中、末、院司「關白家、大臣家、大略同‖攝關|、侍所、別當職事」中右記、大治四年十月廿三日、親王宣下、大盤の饗「舁≡居大盤於‖侍所|」兵範記、久安五年十月十九日、左府若宮元服(左大臣藤原頼長、子、師長)「家司(けいし)、職事(しきじ)、下家司(しもけいし)、云云、奉∨仰退出、侍所召集、云云、侍所別當、云云」(二)鎌倉幕府、建つに及び、將軍の館の内に、攝政大臣家の例に倣ひ、侍所を設け、武士の、宿直、侍衞の詰所(つめしよ)としたり、内侍(うちさぶらひ)、遠侍(とほ)、等の別あり。侍と云ふは、侍所の下略なり、内侍(うち)とは、遠侍に對する稱、即ち、侍所のことにて、遠侍とは、別棟に作り、建具も無く、板敷にて、詰居る武士共、其武器を飾り置く。保元、平治物語、盛衰記などに、外侍と書きて「とほざむらひ」と假名をつけたる、所所にあり、(家屋雜考、四)其外、東侍西侍などに云ふあるは、其方向、位置に因る稱なり。平家物語、八、征夷大將軍院宣事、鎌倉、頼朝の館「内外に侍あり、共に、十六間までありけり、外侍には、家の子、郎等、肩をならべ、膝を組みて、並み居たり、内侍には、一門の源氏、上座して、末座には、八箇所の大名、小名、居流れたり」吾妻鏡、一、治承四年十二月十二日「侍所」註「十八箇間」盛衰記、三十四、鼓判官知康事「先づ、鼓を取て、初には、居ながら打ちけるが、云云、結句は、座を起て、十六間の侍を打廻りて」合類節用集(元禄)二、乾坤門「侍所(さぶらひどころ)、關白家諸侍伺候處、頼朝卿於‖鎌倉|又建∨焉」貞丈雜記、十四、家作「侍、云云、主殿の内、疊を敷きたる外廻りの、廣く長き板敷を云ふ也、家臣の、祗候して侍らふ所と云ふ意なり」〔0825-4〕
さぶらひ-どころ(名)【侍所】〔組織は、前條の侍所の擴張なれど、語義は、侍人(さぶらひびと)、即ち、家人、武士管理の義と變じたるならむ〕(一)鎌倉幕府の職名。守護、地頭を支配し、將士を進止し、宿衞、扈從の武士を選擧し、檢斷、决罰の事を掌り、戰時には、軍事を監す、政所、問注所と併立して、樞要の職たり。其長を、別當と稱し、次に、所司(シヨシ)、開闔、寄人、等の職員あり、治承四年、和田義盛、始めて別當に補したりしが、建保元年、執權北條義時、別當を兼ぬる事となりて後は、執權の兼職となりて、北條氏の世襲となりぬ。吾妻鏡、一、治承四年十一月十七日「和田小太郎義盛、補‖侍所別當|」同、十二月十二日「入御于‖寢殿|之後、御共輩、參‖侍所|、二行對座、義盛候‖其中央|」(二)室町幕府も亦、侍所を設け、別當を置かず、所司を長とす、其他、職員、職掌、鎌倉の侍所に同じけれど、更に、朝廷、及、幕府の警衞、洛中の雜事、公武の領邑、寺社領、等の事をも管せり、所司の家人の、代はりて勤むるを、所司代と云ふ。所司(しよし)の條(二)を見よ。又、さむらひどころ。下學集(文安)下、態藝門「侍所(サブラヒドコロ)」撮壤集(享コ)下、武職「侍所、開闔、所司代」〔0825-5〕
とあって、標記語「侍所」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「さぶらい-どころ【侍所】[名]@平安時代、院・親王・摂関家などで、その家の事務をつかさどった所。また、その侍の詰所。主殿に近いものを内侍(うちさぶらい)、遠いものを遠侍(とおさぶらい)、その他、東侍、西侍、北侍、小侍などがある。さぶらい。A鎌倉・室町幕府で、政所(まんどころ)、問注所とともにあった役所の名。鎌倉幕府では、守護・地頭を支配し、武士の進退や、罪人の処罰、宿衛扈従(こじゅう)の武士の選挙、また、戦時には軍務をつかさどった。その長官を別当(べっとう)という。室町幕府では、以上の仕事の他に宮中・幕府の警備、洛中の雑事の管理、公武の所領および寺社領などのことをつかさどった。その長官を所司(しょし)という。さむらいどころ。BAの長官」そして、標記語「さむらい-どころ【侍所】[名]@「さぶらいどころ(侍所)@」に同じ。A「さぶらいどころ(侍所)A」に同じ。B「さぶらいどころ(侍所)B」に同じ」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
侍所著到等事、義盛、景時、故障之時者、可致沙汰之由、被仰付大友左近將監能直〈云云〉《読み下し》侍所(サフラヰドコロ)ノ著到等ノ事、義盛、景時、故障ノ時ハ、沙汰ヲ致スベキノ由、大友左近ノ将監能直ニ仰セ付ケラルト〈云云〉《『吾妻鏡』建久五年五月二十四日の条》
2002年9月12日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「施行(セギヤウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」部に、
施行(せキヤウ)。〔静嘉堂本427七〕※元亀本は、この語を脱す。
とあって、標記語「施行」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「將軍家御教書執亊施行侍所奉書者規模也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「將軍家御教書執亊之施行侍所之奉書者規模也」〔建部傳内本〕
「將-軍-家ノ御教-書執-亊(シツ―)ノ施-行(シ−)侍_所ノ奉-書ハ者規-模也」〔山田俊雄藏本〕
「將軍家之御教書執事之施行(シ−)侍所(サフライ―)之奉書(ホウシヨ)ハ者規模(キホ)也」〔経覺筆本〕
「將-軍-家ノ御-書執-亊(シツシ)ノ施-行(セ−)侍_所ノ奉-書者(ハ)規-模(キホ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「施行」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「施行」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
施行(せギヤウ・ヲコナウ/シカウ,ホドコス,ツラナル・ユク)[去・平]。食物施‖非人|義。嵯峨ノ天皇ノ時始(ハシマル)。〔態藝門1091一〕
とあって、標記語「施行」の語を収載し、語注記に「食物を非人に施す義。嵯峨の天皇の時始まる」とする。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
施行(セギヤウ) 。施‖物ヲ於非人|。〔弘・言語進退266五〕
施行(セギヤウ) 。施‖物ヲ於非人ニ|。〔永・言語227三〕
施行(セキヤウ) 。施‖物於非人|也。〔堯・言語213九〕
施行(シキヤウ) 。〔永・言語211三〕
施行(シカウ/セキヤウ) 。〔堯・言語195四〕
とあって、標記語「施行」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
施行(せギヤウ) ―物(モツ)。―主(シユ)。〔言辞236四〕
とあって、標記語「施行」の語を収載する。
ここで古辞書における「施行」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、には未収載にして、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「施行」についての語注記は、「官符は、関白接政の言なり」という。
古版『庭訓徃来註』では、
執亊(シツジ)ノ施行(せキヤウ)侍所(サフライトコロ)ノ奉書(ホウシヨ)者ハトハ執事ハ。ホドコス一行也。執事ノコトハ。其家ノ侍頭(サムラヒカシラ)也。〔下・十一オ五〕
とあって、この標記語「施行」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
將軍家(しやうぐんけ)の御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)の施行(せぎやう)/將軍家ノ御教書執亊ノ施行執事ハ大老(たいらう)乃事也。くわしくハ八月七日乃書状の注に見へたり。施行ハ下にいえる奉書のたぐひなり。〔43オ三〕
とあって、標記語「施行」の語注記を「施行は、下にいえる奉書のたぐひなり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「施行」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語の例として「施行」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
せ-ぎゃう(名)【施行】(一)僧侶、窮民などに、物を、施(ほどこ)し與ふること。布施。賑給。 法句經、上「愚人施行、爲∨身招∨悲」太平記、一、關所停止事「自、帝コの、天に背ける事を嘆き思召して、朝餉の供御を止められて、飢人、窮民の施行に引かれけるこそ、ありがたけれ」(二)布達すること。盛衰記、十三、頼朝施行事「國國の源氏等に施行せらる、其状に云く」(三)足利時代に、御教書に竝べて、管領より守護に布達する書。庭訓徃來、六月十一日「將軍家之御教書、執事之施行、侍所之奉書、尤規模也」〔1105-1〕
とあって、標記語「施行」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「せ-ぎょう【施行】[名](「せ」は「施」の、「ぎょう」は「行」の呉音)@仏語。布施(ふせ)の行。ほどこし行なうこと。僧侶や乞食などに物をほどこし与えること。A「しぎょう(施行)@に同じ」Bしこう(施行)」とあって、『庭訓徃来』の用例を記載する。
[ことばの実際]
以出雲國安東郷、先日令寄附于鴨社神領給訖、而可爲冬季御神樂料所之旨、被仰遣廣元、施行之《読み下し》出雲ノ国安東ノ郷ヲ以テ、先日*鴨ノ社(*鴨祖)神領ニ寄附セシメ給ヒ訖ンヌ。而ルニ冬ノ季ノ御神楽ノ料所タルベキノ旨、仰セ遣ハサル。広元、之ヲ施行(セギヤウ)ス。《『吾妻鏡』元暦二年正月二十二日の条》
[ことばの補遺]古くは「シギョウ」と読み、中国から渡来した書籍に関してだけ、日本で施行された書、未施行の書と用いていた。詳細な論としては、『太田晶二郎著作集』1の「漢籍の施行」1949年〔1991年、吉川弘文館刊〕が参考になる。
2002年9月11日(水)晴れ。東京(八王子)→茗荷谷→世田谷(駒沢)
「執事(シツジ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、
執事(シツシ)。〔元亀本307八〕
執事(シツジ)。〔静嘉堂本358八〕
とあって、標記語「執事」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「將軍家御教書執亊施行侍所奉書者規模也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「將軍家御教書執亊之施行侍所之奉書者規模也」〔建部傳内本〕
「將-軍-家ノ御教-書執-亊(シツ―)ノ施-行(シ−)侍_所ノ奉-書ハ者規-模也」〔山田俊雄藏本〕
「將軍家之御教書執事之施行(シ−)侍所(サフライ―)之奉書(ホウシヨ)ハ者規模(キホ)也」〔経覺筆本〕
「將-軍-家ノ御-書執-亊(シツシ)ノ施-行(セ−)侍_所ノ奉-書者(ハ)規-模(キホ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「執事」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「執事」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
皆(ミナ)好(コノン)テ‖其(ソノ)聞(キイ)テ∨命(メイ)ヲ奔走(ホンソウ)スル者(モノ)ヲ|不(ズ)∨好(コノマ)‖其(ソノ)直(ナヲウ)シテ∨己(ヲノレ)ヲ而行(ヲコナウ)∨道(ミチ)ヲ者(モノ)ヲ|聞(キイ)テ∨命(メイ)ヲ奔走(ホンソウ)スル者(モノ)ハ好(コノム)∨利(リ)ヲ者也(ナリ)直(ナヲウ)シテ∨己(ヲノレ)ヲ而行(ヲコナウ)∨道(ミチ)ヲ者(モノ)ハ好(コノム)∨義(ギ)ヲ者(モノ)也(ナリ)未(イマダ/ジ)∨有(アラ)下好(コノン)デ∨利(リ)ヲ而愛(アイ)スル‖其(ソノ)君(キミ)ヲ|者(モノ)ハ上未(イマダ/ジ)∨有(アラ)下好(コノム)デ∨義(ギ)ヲ而忘(ワスルヽ)‖其(ソノ)君(キミ)ヲ|者(モノ)ハ上今(イマ)之(ノ)王公大人(ワウコウダイジン)ニハ惟(タヽ)執亊(シツシ)ノミ可(ベシ)≡以(モツ)テ聞(キイ)ツ‖此(コノ)言(コト)ヲ|。同(上張僕射書)。〔態藝門901六〕
とあって、成句語として「執亊」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
執亊(シツジ) 。〔弘・言語進退238三〕
執行(シユキヤウ) ―筆。―亊。〔永・人倫198四〕
執心(シウシン) ―着。―亊。―奏。〔永・言語209五〕
執行(シユキヤウ) ―亊代。―亊。―筆。〔堯・人倫188四〕
執心(シフシン) ―着。―亊。―奏。〔堯・言語193六〕
とあって、標記語「執事」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
上方。…。執事(シユジ) 或主―已上十二者禅家官。〔人倫204一〕
とあって、標記語「執事」の語を収載する。
ここで古辞書における「執事」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、には未収載にして、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』、江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「執事」についての語注記は、「執亊は、執権なり」という。
古版『庭訓徃来註』では、
執亊(シツジ)ノ施行(せキヤウ)侍所(サフライトコロ)ノ奉書(ホウシヨ)者ハトハ執事ハ。ホドコス一行也。執事ノコトハ。其家ノ侍頭(サムラヒカシラ)也。〔下・十一オ五〕
とあって、この標記語「執事」の語注記は、「執事のことは、其家の侍頭なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
將軍家(しやうぐんけ)の御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)の施行(せぎやう)/將軍家ノ御教書執亊ノ施行執事ハ大老(たいらう)乃事也。くわしくハ八月七日乃書状の注に見へたり。施行ハ下にいえる奉書のたぐひなり。〔43オ三〕
とあって、標記語「執事」の語注記を「執事は、大老の事なり。くわしくは、八月七日の書状の注に見へたり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲執事ハ將軍家の長臣(ちやうしん)大老(たいらう)をいふ。後見(こうけん)執権(しつけん)管領(くハんれい)いづれも同じ。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲執事ハ將軍家の長臣(ちやうしん)大老(たいらう)をいふ。後見(こうけん)執権(しつけん)管領(くわんれい)いづれも同し。〔59ウ五〜60ウ一〕
とあって、標記語「執事」の語注記を記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xixxi.シッシ(執事) 主君の家中にあって,万事を管理する頭株の人.〔邦訳786l〕
とあって、標記語「執事」の意味を「主君の家中にあって、万事を管理する頭株の人」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
しつ-じ(名)【執事】(一)高官、貴人の家政を掌る役人。家扶。 史延、與‖韋少翁|書「過爲‖宰相執事|」(二)攝政、關白家にて、家司の、專ら、家政を掌るものの稱。拾芥抄、中、末「關白家、執事、年預、辨、別當」(三)鎌倉幕府の頃、政所、問注所、等の職名。吾妻鏡、十一、建久二年正月十五日「被∨行‖政所吉書始|、云云、問注所執事、中宮大夫屬、三善康信法師」(四)足利將軍の頃、執政の職。後に、管領と改む。竝嚢鈔、七、第十七條「管領と申すは、近比の事也、本は執事と云ひき」(五)人を貴び、直ちに其姓名を云ふを憚り、執事に取次を請ふ意に云ふ語。轉じて、貴人の名宛に添へて書き、又、直ちに貴人の代名詞にも用ゐる。爲身招∨‖悲」太平記左傳、ニ公廿六年「展喜告‖齋孝公|曰、寡君使≡下臣犒‖執事|」〔0905-4〕
とあって、標記語「執事」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しつ-じ【執事】[名](古くは「しっし」とも。「し」は「事」の漢音)(一)事をとり行うこと。また、その人。(二)@局にあたって事務を執行する者。また、有力諸家の主人の近くに侍して家政をもっぱらとり行なう者。しゅじ。A内豎所(ないじゅどころ)で別当。頭(かみ)に次ぐ職。また、進物所で別当・預(あずかり)に次ぐ職。B院庁の長官。執事の別当。大別当。C親王・摂政・関白・大臣の家で、家政をつかさどった家司の長官。D鎌倉幕府の執権(しっけん)の異称。E鎌倉幕府の政所(まんどころ)の職員。また、問注所の長官。F室町幕府の将軍および鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職。→管領C、関東管領A。G江戸幕府の若年寄(わかどしより)の異称。また、藩の用人の異称。H寺社で、事務をとりしきり、監督の任に当たる人。I新羅(しらぎ)の官庁の一つ。(三)キリスト教で、主教(監督)、司祭(長老)に従属し、教会の実際面の奉仕に当たる役職。また、その人。助祭。輔祭。(四)手紙の脇付(わきづけ)として用いる語。貴人などへの手紙の宛名に添えて敬意を表わす。また、貴人の敬称」とあって、(二)Fの用例として『庭訓徃来』の用例を記載する。
[ことばの実際]
被建問注所於郭外、以大夫属入道善信、爲執事、今日始有其沙汰《読み下し》問注所ヲ郭外ニ建テラル、大夫属入道善信ヲ以テ、執事トシテ、今日始メテ其ノ沙汰有リ。《『吾妻鏡』建久十年四月一日の条》
2002年9月10日(火)曇り。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「將軍家(シヤウグンケ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、標記語「將軍家」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「將軍家御教書執亊施行侍所奉書者規模也」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「將軍家御教書執亊之施行侍所之奉書者規模也」〔建部傳内本〕
「將-軍-家ノ御教-書執-亊(シツ―)ノ施-行(シ−)侍_所ノ奉-書ハ者規-模也」〔山田俊雄藏本〕
「將軍家之御教書執事之施行(シ−)侍所(サフライ―)之奉書(ホウシヨ)ハ者規模(キホ)也」〔経覺筆本〕
「將-軍-家ノ御-書執-亊(シツシ)ノ施-行(セ−)侍_所ノ奉-書者(ハ)規-模(キホ)也」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「將軍家」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本『節用集』印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』、には、標記語「将軍家」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「將軍家」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』には未収載にして、下記に示す『日葡辞書』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「將軍家」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
信用(シンヨウ)ノ之限(カキリ)ニ|也將軍家御教書(―ゲウシヨ)信用(シンヨウ)ノ限(カキリ)ハ定ムルニ猶(ナヲ)定ルト云心ナリ。〔下・十一オ四〕
とあって、この標記語「將軍家」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
將軍家(しやうぐんけ)の御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)の施行(せぎやう)/將軍家ノ御教書執亊ノ施行執事ハ大老(たいらう)乃事也。くわしくハ八月七日乃書状の注に見へたり。施行ハ下にいえる奉書のたぐひなり。〔43オ三〕
とあって、標記語「將軍家」の語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲將軍家ハ即(すなハ)ち公方家(くばうけ)なり。此号(がう)鹿苑院(ろくをんいん)義満公(よしミつこう)に始る。官位(くハんい)ハ太政大臣(だいじやうだいじん)従(じう)一位に至(いた)り武家(ぶけ)の棟梁(とうりやう)として征夷(せいい)将軍を兼任(けんにん)し給ひしより将軍の任(にん)一人に帰(き)して他家(たけ)にわたらず故に尓(しか)いふ。〔三十三ウ五〜三十四オ一〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲將軍家ハ即(すなハ)ち公方家(くばうけ)なり。此号(がう)鹿苑院(ろくをんゐん)義満公(よしミつこう)に始る。官位(くわんゐ)ハ大政大臣(たいじやうだいしん)従(しゆう)一位に至(いた)り武家(ぶけ)の棟梁(とうりやう)として征夷(せいい)将軍を兼任(けんにん)し給ひしより将軍の任(にん)一人に帰(き)して他家(たけ)にわたらず故に尓(しか)いふ。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「將軍家」の語注記を記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xo<gunqe.シャゥグンケ(將軍家) Xogunno iye.(将軍の家)すなわち,Cubo< sama.(公方様) ※Xo<gunnoの誤り.〔邦訳791r〕
とあって、標記語「將軍家」の意味を「将軍の家)すなわち、公方様」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
しゃう-ぐん-け(名)【將軍家】(一)公家(くげ)に對して、幕府を云ひ、又、征夷大將軍、其人をも云ふ。 吾妻鏡、三十八、寳治元年八月一日「恒例贈物事、可‖停止|之由、被∨觸‖諸人|、令∨進‖將軍家|之條、猶兩御後見之外者、禁制、云云」〔0962-2〕
とあって、標記語「將軍家」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しょう-ぐん‐け【將軍家】[名]@将軍(特に、征夷大将軍)の家柄。代々将軍に任ぜられる家柄。A征夷大将軍の略称」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
景良、康定歸洛先從將軍家、馬十三疋、桑絲百十疋、越布千端、紺、藍摺布百端、令餞送之給〈云云〉《読み下し》景良、康定帰洛ス。*先ヅ将軍家ヨリ(*是レヨリ先)、馬十三疋、桑糸百十疋、越布千端、紺、藍摺ノ布百端、之ヲ餞送セシメ給フト〈云云〉。《『吾妻鏡』建久三年七月二十九日の条》
2002年9月9日(月)雨一時曇り。東京→世田谷(駒沢)
「信用(シンヨウ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、
信用(シンユウ)。〔元亀本306二〕
○。進用(―ヨウ)。○。〔静嘉堂本356六〕
とあって、標記語「信用」の語を収載する。ここで元亀本の読みは「シンユウ」とする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「大將軍副將軍御教書傍輩軍勢催促又非信用之限」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「大將副將軍御教書傍輩軍勢催促者非信用之限」〔建部傳内本〕
「大-將-軍副-將-軍(フク――)ノ御_教-書(ミゲフシヨ)傍-輩軍-勢催-促非ス‖信-用ノ之限リニ|」〔山田俊雄藏本〕
「大將軍副將軍ノ御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限(カギリ)ニ|」〔経覺筆本〕
「大將軍副-將-軍(フク――)ノ御教-書傍-輩(ハウハイ)軍-勢(グン―)ノ催-促(サイソク)亦{又}(マタ)非ス‖信用(シンヨウ)之限(カキリ)ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「信用」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「信用」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
信用(シンヨウ/マコト,モチイル)[去・去]。〔態藝門1010一〕
於(ヲイ)テ∨―ニ信‖-用(シンヨウ)スレバ之(コレ)ヲ|於(ヲイ)テ∨諌(イサメ)ニ如(コトク)スル仇(アタ)ノ者(モノ)亡(ホロブ)三畧記。〔態藝門788六〕
とあって、標記語「信用」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
信用(シンヨウ) 。〔弘・言語進退245二〕
信仰(シンガウ) ―施。―用。―心。〔永・言語209八〕
信仰(シンカウ) ―施。―用。―心。〔堯・言語193九〕
とあって、標記語「信用」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
信用(シンヨウ) ―解(ゲ)。―仰(ガウ)。―知(チ)。―心(ジム)。―疑(ギ)。―受(ジユ)。―力(リキ)。〔言辞216四〕
とあって、標記語「信用」の語を収載する。
ここで古辞書における「信用」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』には未収載にして、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』、江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「信用」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
信用(シンヨウ)ノ之限(カキリ)ニ|也將軍家御教書(―ゲウシヨ)信用(シンヨウ)ノ限(カキリ)ハ定ムルニ猶(ナヲ)定ルト云心ナリ。〔下・十一オ四〕
とあって、この標記語「信用」の語注記は、「信用の限りは定むるに猶定ると云ふ心なり」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)は又信用(しんよう)の限(かきり)に非さる也/傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。これ文義疑(うたか)乃へし。軍中にありたる大將軍副将軍の御教書を信用の限りにあらすと云ハゝ一軍の政乱れさる事あらんいかゝ。〔43ウ八〜44オ二〕
とあって、標記語「信用」の語注記を「一軍の政乱れさる事あらん、いかが」という。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「信用」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Xinyo>.シンヨゥ(信用) Xinji mochiiru.(信じ用ゐる) 敬意をこめて尊重すること.例、Deusuno xinyo> xitatematcuru.(デウスを信用し奉る)〔邦訳774r〕
とあって、標記語「信用」の意味を「敬意をこめて尊重すること」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
しん-よう(名)【信用】(一)信(まこと)なりとして、用ゐること。僞りなしと、思ひこむこと。信向。 左傳、宣公十二年「其君能下∨人、必能信‖用其民|矣」盛衰記、廿八、頼朝義仲中惡事「何の遺恨ありてか、謀反の企あるべき、人の讒言に侍(はべる)か、信用に及べからず」(二)慥かなりと、信ずること。頼むこと。信頼。「信用して、大事を托す」(三)評判、よきこと。〔0953-2〕
とあって、標記語「信用」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「しん-よう【信用】[名](連声(れんじょう)で「しんにょう」とも)@信じて任用すること。信任。A信じて疑わないこと。確かだと信ずること。B人望があること。評判のよいこと。信望。C将来、義務を履行することを推測して信認すること。D(英Creditの訳語)一方の給付がなされたあと、一定期間後に必ず反対給付がなされるという経済上の信認」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
先日逗留吉野山之由申之太以不被信用者靜申申云、非山中、當山僧坊也《読み下し》先日吉野山ニ逗留スルノ由之ヲ申ス。太ダ以テ信用セラレズテイレバ、静申シテ云ク、山中ニハ非ズ、当山ノ僧坊ナリ。《『吾妻鏡』文治二年三月六日の条》
2002年9月8日(日)晴れ。東京→世田谷(駒沢)
「催促(サイソク)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「左」部に、
催促(サイソク)。〔静嘉堂本213二〕※元亀本は、この語を脱す。
とあって、標記語「催促」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「大將軍副將軍御教書傍輩軍勢催促又非信用之限」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「大將副將軍御教書傍輩軍勢催促者非信用之限」〔建部傳内本〕
「大-將-軍副-將-軍(フク――)ノ御_教-書(ミゲフシヨ)傍-輩軍-勢催-促非ス‖信-用ノ之限リニ|」〔山田俊雄藏本〕
「大將軍副將軍ノ御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限(カギリ)ニ|」〔経覺筆本〕
「大將軍副-將-軍(フク――)ノ御教-書傍-輩(ハウハイ)軍-勢(グン―)ノ催-促(サイソク)亦{又}(マタ)非ス‖信用(シンヨウ)之限(カキリ)ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
催促 サイソク。〔黒川本・疉字門下43オ五〕
催促(サイソク) ―?不絶―。〔卷第八疉字449二〕
とあって、標記語「催促」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「催促」の語を未収載にする。次に広本『節用集』には、
催促(サイソク/モヨホス,モヨホス・ウナガス)[平・入]。〔態藝門802一〕
とあって、標記語「催促」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
催促(サイソク) 。〔弘・言語進退215六〕〔永・言語179三〕〔堯・言語168四〕
とあって、標記語「催促」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
催馬樂(サイバラ) ―神歌也。―勤(キン)。―促(ソク)。〔言辞181三〕
とあって、標記語「催馬樂」の冠頭字「催」の熟語群の語として「催促」の語を収載する。
ここで古辞書における「催促」についてまとめておくと、『下學集』、には未収載にして、『色葉字類抄』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「催促」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
副將軍(フクシヤウ―)ノ御教書(ミゲフシヨ)傍輩(ハウバイ)軍勢(グンぜイ)ノ催促(サイソク)又非ハサル‖副将軍ハ大將ニ副(ソヘ)タル大將ナリ。車ノ二輪ノ如シ。傍輩ハ。カタハラノトモガラト云也。〔下・十一オ二〜四〕
とあって、この標記語「催促」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)は又信用(しんよう)の限(かきり)に非さる也/傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。これ文義疑(うたか)乃へし。軍中にありたる大將軍副将軍の御教書を信用の限りにあらすと云ハゝ一軍の政乱れさる事あらんいかゝ。〔43ウ八〜44オ二〕
とあって、標記語「催促」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「催促」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Saisocu.サイソク(催促) Moyouxi,su.(催し,す)説得,または,勧告.§また,時としては,人に圧迫を加え,強制して強力に説得すること.§Saisocuuo tcucuru.(催促を付くる)人に借金などを支払わせるために,その人の家に誰かを入り込ませる.〔邦訳551l〕
とあって、標記語「催促」の意味を「説得,または,勧告」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
さい-そく(名)【催促】もよほし、うながすこと。はたること。せつくこと。督促。 後漢書、楊倫傳「詔書勅‖司隷|、催促發遣」白氏文集、三十三、間居春靜「冬裘夏葛相催促、垂∨老光陰速刈ニタリ∨飛」太平記、三、笠置軍事「催促をも不∨待、諸國の軍勢、夜晝、引きも不∨切」〔0759-2〕
とあって、標記語「催促」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「さい-そく【催促】[名]早くするようにせかすこと。せっつくこと。特に、課役や借金の徴収をせまったり、軍勢の徴発を要請したりすること」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。
[ことばの実際]
而彼所司神人等、寄事於騒動、又號有兵粮米之責、所當神税上分等依令難濟、任先例、遣宮使、令加催促之處、辨濟既少對捍甚多《読み下し》而ルニ彼ノ所司神人等、事ヲ騒動ニ寄セ、又兵糧米ノ責メ有リト号シテ、所当ノ神税ノ上分等、難済セシムルニ依テ、先例ニ任セ、宮使ヲ遣ハシ、催促(サイソク)ヲ加ヘシムルノ処ニ、弁済既ニ少ク、対捍甚ダ多シ。《『吾妻鏡』寿永元年五月二十九日の条》
2002年9月7日(土)曇り雨。東京
「軍勢(グンゼイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、
軍勢(―ぜイ)。〔元亀本189五〕〔静嘉堂本213二〕
軍勢(―せイ)。〔天正十七年本中36オ二〕
とあって、標記語「軍勢」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「大將軍副將軍御教書傍輩軍勢催促又非信用之限」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「大將副將軍御教書傍輩軍勢催促者非信用之限」〔建部傳内本〕
「大-將-軍副-將-軍(フク――)ノ御_教-書(ミゲフシヨ)傍-輩軍-勢催-促非ス‖信-用ノ之限リニ|」〔山田俊雄藏本〕
「大將軍副將軍ノ御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限(カギリ)ニ|」〔経覺筆本〕
「大將軍副-將-軍(フク――)ノ御教-書傍-輩(ハウハイ)軍-勢(グン―)ノ催-促(サイソク)亦{又}(マタ)非ス‖信用(シンヨウ)之限(カキリ)ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「軍勢」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)に、
軍勢(グンゼイ) 。〔態藝門75五〕
とあって、標記語「軍勢」の語を収載する。次に広本『節用集』には、
軍勢(グンせイ/イクサ,イキヲイ)[平・去]。〔人倫門501一〕
とあって、標記語「軍勢」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
軍勢(グンぜイ) 。〔弘・人倫157七〕〔両・人倫143二〕
軍勢(クンせイ) ―兵(ビヤウ)。〔永・人倫129一〕
軍勢(グンせイ) ―兵。―陣。〔堯・人倫117九〕
とあって、標記語「軍勢」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、
軍陣(グンチン) ―旅(リヨ)。―功(コウ)。―勢(せイ)。―忠(チウ)。〔言辞134四〕
とあって、標記語「軍陣」の冠頭字「軍」の熟語群の語として「軍勢」を収載する。
ここで古辞書における「軍勢」についてまとめておくと、『色葉字類抄』には未収載にして、、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』、江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「軍勢」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
副將軍(フクシヤウ―)ノ御教書(ミゲフシヨ)傍輩(ハウバイ)軍勢(グンぜイ)ノ催促(サイソク)又非ハサル‖副将軍ハ大將ニ副(ソヘ)タル大將ナリ。車ノ二輪ノ如シ。傍輩ハ。カタハラノトモガラト云也。〔下・十一オ二〜四〕
とあって、この標記語「軍勢」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)は又信用(しんよう)の限(かきり)に非さる也/傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。これ文義疑(うたか)乃へし。軍中にありたる大將軍副将軍の御教書を信用の限りにあらすと云ハゝ一軍の政乱れさる事あらんいかゝ。〔43ウ八〜44オ二〕
とあって、標記語「軍勢」の語注記を未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「軍勢」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Gunjei.グンゼイ(軍勢) 軍勢,あるいは,兵士の集団.〔邦訳312l〕
とあって、標記語「軍勢」の意味を「軍勢,あるいは,兵士の集団」とする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ぐん-ぜい(名)【軍勢】(一)いくさのいきほひ。 三國志、魏志、王朝傳「孝武之所下以能舊‖其軍勢|、拓中其外境上也」晉書、姚泓載記「軍勢彌盛」(二)軍に從ふ、一群(ひとむれ)のつはもの。軍隊。略して、勢。兵衆。太平記、十二、公家一統政道事「可∨有‖軍勢恩賞沙汰|トテ、洞院左衛門督實世卿を被∨定‖上卿|」「數萬の軍勢」其勢、百餘騎」〔0548-5〕
とあって、標記語「軍勢」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ぐん-ぜい【軍勢】[名](「ぐんせい」「くんぜい」とも)軍の勢力。軍の威勢。軍の人数。軍隊。摂政・関白から、政務に関して下す文書」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。
[ことばの実際]
俣野五郎景久、相具駿河國目代橘遠茂軍勢、爲襲武田一條等源氏、赴甲斐國《読み下し》俣野五郎景久、駿河ノ国ノ目代橘ノ遠茂ガ軍勢(―ゼイ)ヲ相ヒ具シ、武田一条等ノ源氏ヲ襲ハンガ為ニ、甲斐ノ国ニ赴ク。《『吾妻鏡』治承四年八月二十五日の条》
軍勢(―ゼイ) 。姚泓載記ニ軍勢彌/\盛也。《岡田挺之輯『常語藪』(寛政六年)巻上久部46オ六》
2002年9月6日(金)雨。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「傍輩(ホウバイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「葉」部に、
傍輩(ハウハイ)。〔元亀本26一〕〔天正十七年本13オ四〕
傍輩(―バイ)。〔静嘉堂本24二〕〔西来寺本〕
とあって、標記語「傍輩」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「大將軍副將軍御教書傍輩軍勢催促又非信用之限」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕
「大將副將軍御教書傍輩軍勢催促者非信用之限」〔建部傳内本〕
「大-將-軍副-將-軍(フク――)ノ御_教-書(ミゲフシヨ)傍-輩軍-勢催-促非ス‖信-用ノ之限リニ|」〔山田俊雄藏本〕
「大將軍副將軍ノ御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限(カギリ)ニ|」〔経覺筆本〕
「大將軍副-將-軍(フク――)ノ御教-書傍-輩(ハウハイ)軍-勢(グン―)ノ催-促(サイソク)亦{又}(マタ)非ス‖信用(シンヨウ)之限(カキリ)ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
傍倩(ハウハイ)。〔黒川本・疉字門上25ウ八〕
傍官 〃倩。〃例。〃像。〃徨―クハウ/タチモトハル。傍若无人。〔卷第一疉字209四〕
とあって、標記語「傍倩」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、
傍輩(ハウバイ) 同位ノ之者也(ナリ)。〔言辭門152六〕
とあって、標記語「傍輩」の語を収載し、その語注記に「同位の者なり」とする。次に、広本『節用集』には、
傍輩(ハウバイ/カタワラ,タグイ)[平・○]同位等倩。〔態藝門69四〕
とあって、標記語「傍輩」の語を収載し、語注記に「同位等倩」とする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
埓倩(ハウバイ)。〔弘・人倫18八〕
傍倩(ハウバイ) 。〔永・人倫17四〕
傍輩(ハウハイ) 。〔堯・人倫15四〕
傍輩(ハウバイ) 。〔両・人倫24四〕
とあって、標記語「傍輩」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、標記語「傍輩」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「傍輩」についてまとめておくと、易林本『節用集』には未収載にして、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類に収載が見られるものである。このうち、語注記を記載する辞書として、『下學集』と広本『節用集』とをここに確認しておく。その注記内容は下記に示す『庭訓往来註』とは合致していない独自のものとなっている。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
341御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限ニ|將軍家ノ御教書執亊(シツシ)ノ施行(セ−) 公方也。又其日ノ御旗給向人也。故傍輩之勢非‖信用ノ限ニ|。執亊ハ執権也。施行ハ者別當之位也。〔謙堂文庫蔵三六左@〕
とあって、標記語を「傍輩」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
副將軍(フクシヤウ―)ノ御教書(ミゲフシヨ)傍輩(ハウバイ)軍勢(グンぜイ)ノ催促(サイソク)又非ハサル‖副将軍ハ大將ニ副(ソヘ)タル大將ナリ。車ノ二輪ノ如シ。傍輩ハ。カタハラノトモガラト云也。〔下・十一オ二〜四〕
とあって、この標記語「傍輩」の語注記は、「傍輩は、カタハラノトモガラと云ふなり」と記載する。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)は又信用(しんよう)の限(かきり)に非さる也/傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。これ文義疑(うたか)乃へし。軍中にありたる大將軍副将軍の御教書を信用の限りにあらすと云ハゝ一軍の政乱れさる事あらんいかゝ。〔43ウ八〜44オ二〕
とあって、標記語「傍輩」の語注記を「摂政・関白の仰せを官符宣といふ」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「傍輩」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Fo<bai.ハウバイ(傍輩) 仲間.→Maneqi atcume,uru.〔邦訳254r〕
とあって、標記語「傍輩」の意味は「仲間」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ほう-ばい(名)【傍輩】(一)同じ君に仕ふる者の、互に相稱する語。とも。なかま。同役。同僚。 盛衰記、十四、三位入道入寺事「入道、三井寺へ落ち給ひけるに、傍輩共、此の事を競に告げ知らせんとす」(二)同じ師に事ふる者の、相稱する語。同窓。同門。(三)俗に、なかま、ともだち。〔1561-1〕
とあって、標記語「傍輩」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ほう-ばい【傍輩・朋輩】[名](「朋」はあて字)@同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。A共謀者・共犯者・博徒の仲間をいう、盗人仲間の隠語」とあって、『庭訓徃来』の用例は未記載にする。
[ことばの実際]
除書來十一日大畧一定云々。大廈之勤已軼‖傍輩|給耳。《『明衡徃来』中本》
仍其賞可抽傍輩之旨、直被仰下〈云云〉《読み下し》仍テ其ノ賞傍輩(ハウバイ)ニ抽ンヅベキノ旨、直ニ仰セ下サルト〈云云〉。《『吾妻鏡』治承四年十一月七日の条》
2002年9月5日(木)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「副将軍(フクシヤウグン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「布」部に、標記語「副将軍」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「大將軍副將軍御教書傍輩軍勢催促又非信用之限」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「大-將-軍副-將-軍(フク――)ノ御_教-書(ミゲフシヨ)傍-輩軍-勢催-促非ス‖信-用ノ之限リニ|」〔山田俊雄藏本〕
「大將軍副將軍ノ御教書傍輩軍勢ノ催促又非‖信用之限(カギリ)ニ|」〔経覺筆本〕
「大將軍副-將-軍(フク――)ノ御教-書傍-輩(ハウハイ)軍-勢(グン―)ノ催-促(サイソク)亦{又}(マタ)非ス‖信用(シンヨウ)之限(カキリ)ニ|」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「副将軍」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「副将軍」の語を未収載にする。次に、広本『節用集』には、
副将軍(フクシヤウグン/ソヱル,ヒキイル,イクサ)[去・去・平]當ル∨助(スケ)ニ。若將軍打死。又ハ違例ノ之時ノ用意之將軍也。〔官位門621一〕
とあって、標記語「副将軍」の語を収載し、語注記に「助に當る。若し將軍打死す。または、違例の時の用意の將軍なり」とする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語「副将軍」の語を未収載にする。また、天正十八年本『節用集』には、
副将軍(フクシヤウグン)。〔人倫下7ウ七〕
とあって、標記語「副将軍」の語を収載する。
ここで古辞書における「副将軍」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』には未収載にして、広本『節用集』、天正十八年本『節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
340副將軍 官領ナリ。〔謙堂文庫藏三六右H〕
とあって、標記語を「副将軍」についての語注記は、「官領なり」という。
古版『庭訓徃来註』では、
副將軍(フクシヤウ―)ノ御教書(ミゲフシヨ)傍輩(ハウバイ)軍勢(グンぜイ)ノ催促(サイソク)又非ハサル‖副将軍ハ大將ニ副(ソヘ)タル大將ナリ。車ノ二輪ノ如シ。傍輩ハ。カタハラノトモガラト云也。〔下・十一オ二〜四〕
とあって、この標記語「副将軍」の語注記は、「副将軍は、大將に副たる大將なり。車の二輪の如し」という。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大將軍(たいしやうくん)副将軍(ふく――)の御教書(ミげうしよ)/大將軍副將軍ノ御教書 大将軍ハ前に注す。副将軍ハ添大将也。此両將軍ハ事の起りたるに臨(のそ)んて立らるゝなり。下の將軍家とハ別也。御教書ハ下知の書付なり。〔43ウ六〜八〕
とあって、標記語「副将軍」の語注記を「副将軍は、添え大将なり」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
大將軍(だいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)の御教書(ミげうしよ)。傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さひそく)は又(また)信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に非ざる也。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執事(しつじ)之(の)施行(せぎやう)。侍所(さむらひどころ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)且(かつ)ハ嘉例(かれい)ハ且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)沙汰(さた)し申(まう)さ被(る)可(べ)し/大將軍副將軍ノ御教書傍輩ノ軍勢催促者又非‖信用之限ニ|也。將軍家ノ御教書執亊ノ施行侍所之奉書ハ規模也。且嘉例、且ハ先規也。可∨被∨申‖沙汰シ|▲副将軍ハ大將軍の添大将(そへたいしやう)也。〔三十三ウ五〜八〕
大將軍(たいしやうぐん)副將軍(ふくしやうぐん)御教書(ミげうしよ)傍輩(はうばい)の軍勢(ぐんぜい)催促(さいそく)又(また)非(あらざる)‖信用(しんよう)之(の)限(かぎり)に|也(なり)。將軍家(しやうぐんけ)之(の)御教書(ミけうしよ)執亊(しつじ)之(の)施行(せぎやう)侍所(さむらひところ)之(の)奉書(ほうしよ)者(ハ)規模(きぼ)也(なり)。且(かつ)嘉例(かれい)、且(かつ)ハ先規(せんき)也(なり)。可(べ)し∨被(る)∨申(まう)さ‖沙汰(さた)し|▲副将軍ハ大將軍の添大将(そへたいしやう)也。〔59ウ五〜60オ四〕
とあって、標記語「副将軍」の語注記は、「副将軍は、大將軍の添え大将なり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Fucuxo<gun.フクシャゥグン(副将軍) Soyedaixo<(副大将)に同じ.副大将.〔邦訳271r〕
とあって、標記語「副将軍」の意味は「副大将(そえだいしょう)に同じ。副大将」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ふく-しゃう(名)【副将】主將の副たる人。 欽明紀、廿三年七月「是月遣‖大將軍紀男麻呂宿禰|、將∨兵出‖偃劍|、副將河邊臣瓊缶、出‖居會山|」松隣夜話、上「松山の副將北條玄庵」〔1734-1〕
とあって、標記語「副将軍」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「ふく-しょう-ぐん【副将軍】[一][名]大将軍または、将軍の副官として軍を統率する武官。副将。副帥。裨将軍(ひしょうぐん)。[二]水戸家、特に、第二代藩主徳川光圀の俗称。隠居して諸国漫遊したのを扱った講談などからでた呼び名と思われる」とあって、『庭訓徃来』の用例を記載する。
[ことばの実際]
「寄手の大将は誰ぞ」と問ふに、「前帝第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顕朝臣」と聞えければ、「さては軍の成敗心憎からず。源は同じ流れなりと言へども、江南の橘、江北に移されて、枳と成る習ひなり。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と戦ひを決せんに、武家勝たずと言ふ事あるべからず」と、各々勇み進みて七千余騎、大宮面にうち寄りて、寄手遅しとぞ待ち懸けたる。《『太平記』卷第八・主上自ら金輪の法を修せしめ給ふ事付千種殿京合戦の事》
「ミギョウショ【御教書】」は、ことばの溜め池(2002.08.05)を参照されたし。
2002年9月4日(水)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「官符宣(クハンフセン)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、標記語「官符」、「官符宣」の両語とも未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「綸旨院宣者大底之規式令旨官符宣者非今指南」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「綸-旨院-宣者ハ大-底ノ之規-式令-旨官-符-宣ハ者非ス‖今ノ指-南ニ」〔山田俊雄藏本〕
「綸旨(リンシ)院宣(インせン)者大底(ヲウヨソ)之規式(キシキ)令旨官符宣者(ハ)非ス‖今指南(シ―)ニ|」〔経覺筆本〕
「綸-旨(リンシ)院-宣(いンせン)者ハ大-底(ヲホヨソ)ノ規-式(キ―)令-旨(リヤウシ)官-符-宣(―フせン)ハ者非(アラ)ス‖今ノ指-南(シナン)ニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「官符宣」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語「令旨」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「官符宣」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』には未収載にして、江戸時代の『書字考節用集』(1717年)に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
337令旨官符宣者 令旨ハ春宮ノ太子。又ハ自‖后方|被∨下也。春宮太子トハ親王ノ太子也。官符ハ関白接政之言也。〔謙堂文庫藏三六右C〕
とあって、標記語を「官符」についての語注記は、「官符は、関白接政の言なり」という。
古版『庭訓徃来註』では、
令旨(レイシ)官符(クハンフ)宣(せン)者非ス‖今ノト云ハ。諸卿(ケイ)達(タチ)アツマリ合(アフ)テ評定(ヒヤウデフ)有テ出ル処也。〔下・十ウ七・八〕
とあって、この標記語「官符宣」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)/大底ノ規式令旨官符宣者。宮方(ミやかた)乃仰を令旨と云。摂政(せつしやう)関白(くわんばく)乃仰を官符宣といふ。〔43オ三〕
とあって、標記語「令旨」の語注記を「摂政・関白の仰せを官符宣といふ」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)今(いま)の指南(しなん)に非(あら)ず/綸旨。院宣。者大底之規式。令旨。官符宣。者非ス‖今指南ニ|▲官符宣ハ摂政(せつしやう)関白(くハんはく)より仰(おふせ)出(いだ)さるゝ所以上共に文書(もんじよ)也。〔三十三ウ二・三〕
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)之(の)規式(ぎしき)令旨(りやうじ)官符宣(くわんふせん)者(ハ)非(あら)す‖今(いま)の指南(しなん)に|▲官符宣ハ摂政(せつしやう)関白(くハんはく)より仰出さるゝ所。以上共に文書(もんしよ)也。〔59ウ一〜三〕
とあって、標記語「官符宣」の語注記は、「官符宣は、摂政・関白より仰せ出さるゝ所。以上共に文書なり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語の例として「官符宣」の語を未収載にする。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
くはん-ぷ-せん(名)【官符宣】關白、攝政の、下(くだ)す文書。 庭訓徃来、六月「令旨、官符宣」倭訓栞、くゎんふせん「庭訓に、官符宣と見ゆ、關白、攝政の御詞を文に認むるを云ふ、政事也」〔0590-1〕
とあって、標記語「官符宣」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「かん-ぷ-ぜん【官符宣】[名]摂政・関白から、政務に関して下す文書」とあって、『庭訓徃来』の用例を記載する。
[ことばの実際]
吉日官符宣并勧進状等、依‖路次難治|俄到來之間、社中以下迷惑無‖是非|云々。《『大乗院寺社雑事記』文正元年(1466)九月二十六日の条》
2002年9月3日(火)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「令旨(リヤウジ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「利」部、「礼」部ともに、標記語「令旨」の語を未収載にする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「綸旨院宣者大底之規式令旨官符宣者非今指南」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「綸-旨院-宣者ハ大-底ノ之規-式令-旨官-符-宣ハ者非ス‖今ノ指-南ニ」〔山田俊雄藏本〕
「綸旨(リンシ)院宣(インせン)者大底(ヲウヨソ)之規式(キシキ)令旨官符宣者(ハ)非ス‖今指南(シ―)ニ|」〔経覺筆本〕
「綸-旨(リンシ)院-宣(いンせン)者ハ大-底(ヲホヨソ)ノ規-式(キ―)令-旨(リヤウシ)官-符-宣(―フせン)ハ者非(アラ)ス‖今ノ指-南(シナン)ニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
令旨 リヤウシ。〔黒川本・疉字門上59ウ五〕
令律 〃旨。〃條。〔卷第三・疉字門12四〕
とあって、標記語「令旨」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』、易林本『節用集』には、標記語「令旨」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「令旨」についてまとめておくと、『下學集』、広本『節用集』、『運歩色葉集』、印度本系統の『節用集』類、易林本『節用集』には未収載にして、『色葉字類抄』、江戸時代の『書字考節用集』に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
337令旨官符宣者 令旨ハ春宮ノ太子。又ハ自‖后方|被∨下也。春宮太子トハ親王ノ太子也。官符ハ関白接政之言也。〔謙堂文庫藏三六右C〕
とあって、標記語を「令旨」についての語注記は、「令旨は、春宮の太子。または、后方より下さるるなり。春宮太子とは、親王の太子なり」という。
古版『庭訓徃来註』では、
令旨(レイシ)官符(クハンフ)宣(せン)者非ス‖今ノト云ハ。諸卿(ケイ)達(タチ)アツマリ合(アフ)テ評定(ヒヤウデフ)有テ出ル処也。〔下・十ウ七・八〕
とあって、この標記語「令旨」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)/大底ノ規式令旨官符宣者。宮方(ミやかた)乃仰を令旨と云。摂政(せつしやう)関白(くわんばく)乃仰を官符宣といふ。〔43オ三〕
とあって、標記語「令旨」の語注記を「宮方の仰せを令旨と云ふ」と記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)今(いま)の指南(しなん)に非(あら)ず/綸旨。院宣。者大底之規式。令旨。官符宣。者非ス‖今指南ニ|▲令旨ハ東宮親王(ひつきのミこ)宮方(ミやかた)などの宣旨(せんし)也。〔三十三ウ二・三〕
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)之(の)規式(ぎしき)令旨(りやうじ)官符宣(くわんふせん)者(ハ)非(あら)す‖今(いま)の指南(しなん)に|▲令旨ハ東宮親王(ひつきのミこ)宮方(ミやかた)などの宣旨(せんし)也。〔59オ三〕
とあって、標記語「令旨」の語注記は、「令旨は、東宮親王・宮方などの宣旨なり」という。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
†Reixi.リャウジ(令旨) Norino mune.(令の旨) すなわち,公布するために国王の下す,文書になった法令.文書語.〔邦訳528l〕
とあって、標記語の例として「令旨」の語を収載し、意味は「すなわち,公布するために国王の下す,文書になった法令.文書語」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
りゃう-じ(名)【令旨】又、れいし。東宮、三宮(太皇太后、皇太后、皇后)の命令を記したる文書。後世、女院、親王、諸王などの皇族の命令をも云へり。 名目抄、諸公事言説篇「令旨(リヤウジ)、春宮、四宮、女院等仰也、又、親王等之所∨命、同歟」平家物語、四、源氏沙汰事「君もし思し立たせ給ひて、令旨を賜ひつる程ならば、云云」〔2129‐2〕
とあって、収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「りゃう-じ【令旨】[名]公式様(くしきよう)文書の一つ。皇太子ならびに三后(太皇太后、皇太后、皇后)の命令を伝えるために出される文書。後には親王・法親王・王・女院などの皇族から出される文書をもいう。平安時代以降の令旨の様式は綸旨・御教書と同様に奉書形式で、書留文言に「令旨」の語が含まれることが多い。れいし」とあって、『庭訓徃来』の用例を記載する。
[ことばの実際]
仍仰散位宗信、被下令旨而陸奥十郎義盛、〈廷尉爲義末子〉折節在京之間、帶此令旨、向東國、先相觸前兵衛佐之後、可傳其外源氏等之趣、所被仰含也。《読み下し》仍テ散位宗信ニ仰セ、令旨(リヤウジ)ヲ下サル。而ルニ陸奥ノ十郎義盛、〈廷尉為義ノ末子〉、折節在京スルノ間、此ノ令旨(リヤウジ)ヲ帯シ、東国ニ向テ、先ヅ前ノ兵衛ノ佐ニ相ヒ触レテノ後、其ノ外ノ源氏等ニ伝フベキノ趣、仰セ含メラルル所ナリ。《『吾妻鏡』治承四年四月九日の条》
2002年9月2日(月)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「規式(キシキ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「記」部に、
規式(―シキ)。〔元亀本・282六〕
規式(ギシキ)。〔静嘉堂本・323一〕
とあり、標記語「規式」の語を収載し、その読みを静嘉堂本は「ぎしき」とする。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「綸旨院宣者大底之規式令旨官符宣者非今指南」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「綸-旨院-宣者ハ大-底ノ之規-式令-旨官-符-宣ハ者非ス‖今ノ指-南ニ」〔山田俊雄藏本〕
「綸旨(リンシ)院宣(インせン)者大底(ヲウヨソ)之規式(キシキ)令旨官符宣者(ハ)非ス‖今指南(シ―)ニ|」〔経覺筆本〕
「綸-旨(リンシ)院-宣(いンせン)者ハ大-底(ヲホヨソ)ノ規-式(キ―)令-旨(リヤウシ)官-符-宣(―フせン)ハ者非(アラ)ス‖今ノ指-南(シナン)ニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
標記語「規式」の語を未収載にする。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「規式」の語を未収載にする。次に、広本『節用集』には、
規式(キシキ/ノリ,シヨク・ノリ)[平・入]又作儀式。〔態藝門828七〕
とあって、標記語「規式」の語を収載し、語注記に「また、儀式に作る」とする。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
規式(キシキ)。〔弘・言語進退221六〕
規矩(キク)法度。―式(シキ)。―模(モ)。〔永・言語184七〕
とあって、標記語「規式」の語を収載する。また、易林本『節用集』には、標記語「規式」の語を未収載にする。
ここで古辞書における「規式」についてまとめておくと、『色葉字類抄』、『下學集』、易林本『節用集』には未収載にして、広本『節用集』、『運歩色葉集』印度本系統の『節用集』類に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
336院宣者大底之規式 院宣ハ自‖仙院|下ル也。天子ノ御位ヲ須部良世給テ、有‖太上皇帝ノ尊号|。院ノ御所ニ渡セ給ヲ太上皇ト申。仙院仙洞ト申侍也。又和歌ノ諺ニ鹿姑射山・酷エト申也。故公武僧俗共ニ詣侍ヲ院參号。御出ヲ御幸申侍也。就‖政務|勅定ヲ院宣ト申侍也。高倉ノ御宇ニ法王竊ニ北条蛭小嶋ニ流ルヽ被∨下‖頼朝|。是院宣ノ始也。折居之自∨君出ヲ云也。〔謙堂文庫藏三六右@〕
とあって、標記語を「規式」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
院宣(井ンせン)ハ大底(テイ)ノ規式(キシキ)ハ帝(ミカド)ノ御位ヲスベラせ給ヒテ院(イン)ニ成給テ。仰(ヲホせ)出(イタ)サルヽ御詞也。是ハタヾ大底(タイテイ)ノ規式(キシキ)ト云義ナリ。〔下・十ウ六〕
とあって、この標記語「規式」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)/大底ノ規式令旨官符宣者。宮方(ミやかた)乃仰を令旨と云。摂政(せつしやう)関白(くわんばく)乃仰を官符宣といふ。〔43オ三〕
とあって、標記語「規式」の語注記を記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)今(いま)の指南(しなん)に非(あら)ず/綸旨。院宣。者大底之規式。令旨。官符宣。者非ス‖今指南ニ|。〔三十三ウ二〕
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)之(の)規式(ぎしき)令旨(りやうじ)官符宣(くわんふせん)者(ハ)非(あら)す‖今(いま)の指南(しなん)に|。〔58ウ六〜59オ一〕
とあって、標記語「規式」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、標記語「規式」は未収載にし、標記語「Guixiqi.儀式(ギシキ)」にて収載が見られるに過ぎない。静嘉堂本『運歩色葉集』がこの読みを「ギシキ」としていることと、広本『節用集』が「また儀に作る」としていることから、本来の「規式」と「儀式」の区別が曖昧化してきているのかもしれない。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「き-しき(名)【規式】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「き-しき【規式】[名]定まった作法。きまり。規則」とあって、『庭訓徃来』の用例を記載する。
[ことばの実際]
若ハ強テ坐シ、若ハ規式(キシキ)ヲ守テ坐禅スルニ似タレドモ、《『雜談集』(1305年)四・養性事》
規式(キシキ)文獻通考ニ其賞罰規式皆總フ∨之ヲ。《『常語藪』卷下・由部24オ三》
2002年9月1日(土)晴れ。東京(八王子)→世田谷(駒沢)
「大底(タイテイ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、「大海(タイガイ)。大事(―ジ)。大學(カク)。大工(ク)。大犯(ホン)。大黒(コク)。大塔(タウ)。大音(ヲン)。大豪(ガウ)。大欲(ヨク)。大膽(タン)。大熱(ネツ)。大寒(カン)。大厄(ヤク)。大冊(サツ)本。大帖(テ)同。大門(モン)。大慈(ジ)。大悲(ヒ)。大坊(バウ)。大乗(ゼウ)。大姉(シ)。大施(せ)。大貮(ニ)。大進(シン)唐名大属。大弼(ヒツ)弾状之唐名。大膳(ぜン)唐名光禄膳部。大度(ト)。大儀(ギ)。大半(ハン)。大慶(ケイ)。大木(ボク)。大切(せツ)。大破(ハ)。大數(スウ)。大名(ミヤウ)。大概(ガイ)。大功(コウ)。大國(コク)。大敵(テキ)。大験(ケン)。大才(サイ)。大将(シヤウ)。大畧(リヤク)。大酒(シユ)。大食(シヨク)。大人(ニン)。大石(せキ)。大舩(せン)。大府(フ)大蔵之唐名。大倉(サウ)大炊之唐名。大理(リ)大判司之唐名。大醫(イ)典藥之唐名。大樂(カク)雅楽之唐名。大傳(フ)春宮之唐名。大凡(バン)。大利(ダイリ)。大望(バウ)。大呂(リヨ)十二月名。大便(ベン)。大綱(カウ)。大宅(タク)。大夜(ヤ)宥忘事。○。大簇(タイソク)正月名。○大布(タフ)」の語が収載されているだけであり、標記語「大底」の語を未収載にする。次に和訓読みをも考えて「遠」部を見るに、
大抵(―テイ)史。〔元亀本78二〕
大抵(同[ヲホ]ムネ)同/史。〔静嘉堂本95六〕
大抵 同/史。〔天正十七年本上47ウ三〕〔西来寺本140四〕
とあり、標記語「大抵」の語を収載し、その読みを元亀本は「(タイ)テイ」とし静嘉堂本は前の「大概(ームネ)」の語と同じとして「(をほ)むね」とする。語注記には「史」とあって、典拠を『史記』と示唆している。
古写本『庭訓徃來』六月七日の状に、
「綸旨院宣者大底之規式令旨官符宣者非今指南」〔至徳三年本〕〔宝徳三年本〕〔建部傳内本〕
「綸-旨院-宣者ハ大-底ノ之規-式令-旨官-符-宣ハ者非ス‖今ノ指-南ニ」〔山田俊雄藏本〕
「綸旨(リンシ)院宣(インせン)者大底(ヲウヨソ)之規式(キシキ)令旨官符宣者(ハ)非ス‖今指南(シ―)ニ|」〔経覺筆本〕
「綸-旨(リンシ)院-宣(いンせン)者ハ大-底(ヲホヨソ)ノ規-式(キ―)令-旨(リヤウシ)官-符-宣(―フせン)ハ者非(アラ)ス‖今ノ指-南(シナン)ニ」〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本と建部傳内本とは、読み点を一切加えていないのに対し、文明四年本、山田俊雄藏本と経覺筆本は、読み点を施して記載している。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)、室町時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、
大底 同(雜部)/タイテイ/云大宗也。〔黒川本・疉字門中10ウ二〕
大底 ―テイ/ヲホムネ 〃業。〃聖。〃小。〃陽日名也。〃陰。〃智。〃夫。〃概カイ。〃虚。〃清。〃呂十二月。〃人。〃官。〃器。〃飲。〃食。〃切。〃匠。〃将。〃輅ロ 車名也。〃都ヲホムネ。〃理。〃道。〃位。〃臣。〃史。〃師。〃傳。〃子。〃學。〃階帝位也。〃任。〃法。〃神。〃廟。〃較。〃望。〃簇正月。〃保。〃貮。〃守。〃漸病事也。〃節。〃厦カ 宅名。〔卷第・疉字443一〕
とあって、標記語「大底」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立)には、標記語「大底」の語を未収載にする。次に、広本『節用集』には、
大底(タイテイ/ヲヽイ也,ソコ)[去・上]。〔態藝門343五〕
とあって、標記語「大底」の語をもって収載する。そして、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
大略(タイリヤク)―儀(キ)。―切(せツ)。―犯(ボン)謀叛殺害刃傷。―綱(カウ)。―幸(カウ)。―亊(ジ)。―概(ガイ)。―功(コウ)。―都(ト)大略ノ義。―慶(ケイ)。―旨(シ)。―底(テイ)。―望(バウ)。―赦(シヤ)。―饗(キヤウ)。―營(ヱイ)。―膽(タン)。〔永・言語94九〕
大略(タイリヤク)―儀。―切。―犯謀叛殺害刃傷。―綱。―幸。―亊。―概。―功。―都大略ノ義也。―慶。―旨。―営。―底。―望。―赦。―饗。―膽。〔尭・言語86六〕〔両・言語進退105二〕
とあって、標記語「大略」とし、冠頭字「大」の熟字群の語のなかに収載する。また、易林本『節用集』には、
大般若(タイハンニヤ)―乘經(せウキヤウ)。―學(カク)。―事(シ)。―力(リキ)。―物(モツ)。―概(カイ)。―綱(カウ)。―訴(ソ)。―數(スウ)。―躰(タイ/テイ)。―都(ト)。―望(ハウ)。―旨(シ)。―儀(ギ)。―乱(ラン)。―切(せツ)。―魁(クワイ)。―酒(シユ)。―碗(バン)。―飯(ハン)。―意(イ)。―略(リヤク)。―要(ヨウ)。―慶(ケイ)。―篇(ヘン)。―食(シヨク)。〔言辞94一〕
とあって、標記語「大般若」の語で、冠頭字「大」の熟字群中には未収載にする。
ここで古辞書における「大底」についてまとめておくと、『下學集』、『運歩色葉集』、易林本『節用集』には未収載にして、『色葉字類抄』、広本『節用集』、印度本系統の『節用集』類に収載が見られるものである。
さて、『庭訓往来註』六月十一日の状に、
336院宣者大底之規式 院宣ハ自‖仙院|下ル也。天子ノ御位ヲ須部良世給テ、有‖太上皇帝ノ尊号|。院ノ御所ニ渡セ給ヲ太上皇ト申。仙院仙洞ト申侍也。又和歌ノ諺ニ鹿姑射山・酷エト申也。故公武僧俗共ニ詣侍ヲ院參号。御出ヲ御幸申侍也。就‖政務|勅定ヲ院宣ト申侍也。高倉ノ御宇ニ法王竊ニ北条蛭小嶋ニ流ルヽ被∨下‖頼朝|。是院宣ノ始也。折居之自∨君出ヲ云也。〔謙堂文庫藏三六右@〕
とあって、標記語を「大底」についての語注記は、未記載にする。
古版『庭訓徃来註』では、
院宣(井ンせン)ハ大底(テイ)ノ規式(キシキ)ハ帝(ミカド)ノ御位ヲスベラせ給ヒテ院(イン)ニ成給テ。仰(ヲホせ)出(イタ)サルヽ御詞也。是ハタヾ大底(タイテイ)ノ規式(キシキ)ト云義ナリ。〔下・十ウ六〕
とあって、この標記語「大底」の語注記は、未記載にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)/大底ノ規式令旨官符宣者。宮方(ミやかた)乃仰を令旨と云。摂政(せつしやう)関白(くわんばく)乃仰を官符宣といふ。〔43オ三〕
とあって、標記語「大底」の語注記を記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)の規式(きしき)令旨(れいし)官符宣(くわんふせん)者(ハ)今(いま)の指南(しなん)に非(あら)ず/綸旨。院宣。者大底之規式。令旨。官符宣。者非ス‖今指南ニ|。〔三十三ウ二〕
綸旨(りんし)院宣(ゐんぜん)者(ハ)大底(たいてい)之(の)規式(ぎしき)令旨(りやうじ)官符宣(くわんふせん)者(ハ)非(あら)す‖今(いま)の指南(しなん)に|。〔58ウ六〜59オ一〕
とあって、標記語「大底」の語注記は、未記載にする。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Taitei.タイテイ(大底) 大部分.§また,何か物の本質.〔邦訳605r〕
とあって、標記語の例として「大底」の語を収載し、意味は「大部分」という。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「 たい-てい(名)【大底】」の語を未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版には、標記語「たい-てい【大体・大抵・大底】[一][名]@その事柄の根本を形成する要素や部分。思想、考え方などの本質。大宗。おおもと。A事柄のあらまし。大略。おおよそ。また、多くを数えあげる中での大部分。おおかた。だいたい。Bある事柄に該当するもののうちの大多数。特異なものに対して、普通一般をいう。なみ。おおよそ。[二](副)@事物、事態の数量や度数が、全部ではないにしてもほとんどすべてに及ぶさまを表わす。ほとんど全部。おおよそすべて。あらかた。だいたい。A(否定表現を伴って、状態が普通の程度にとどまらないさまを強調する用法)並一通りのさま。ありきたりに。B(否定表現を伴うことなしに)状態が普通の程度にとどまらないさまを表わす。ずいぶん。たいそう。とても。C一つの判断が、絶対確実とはいえないまでも、ほぼ間違いなく成り立つという気持を表わす。多分。まず…だろう。[三](形動)ある事柄に該当するものの中で、特別でない一般の部類に属するさまをいう。@普通であるさま。あたりまえで通りいっぺんなさま。並大抵。下に打消の表現を伴って、逆に特別であることを強調する場合に用いることが多い。A(「たいていでない」の意を込めていう)たいそう。B多くを数えあげる中での大部分を占めるさま。十中八九。おおかた」とあって、『庭訓徃来』の用例を未記載にする。
[ことばの実際]
則召廣澤三郎、令張之、自引試給、殊相叶御意之由、被仰、直賜御盃於行平、仰曰、西國者大底見之歟《読み下し》則チ広沢ノ三郎ヲ召シ、之ヲ張ラシメ、自ラ引キ試ミ給フニ、殊ニ御意ニ相ヒ叶フノ由、仰セラル、直ニ御杯ヲ行平ニ賜ハリ、仰セニ曰ク、西国ハ大底(タイテイ)之ヲ見ルカ。《『吾妻鏡』元暦二年八月二十四日の条》
「リンジ【綸旨】」は、ことばの溜め池(2001.02.07)参照。
「インゼン【院宣】」は、ことばの溜め池(2001.01.04)参照。
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