2002.04.12更新

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2001年度迄

 鎌倉時代に成る百科辞書塵袋を読む。

『塵袋』と『土+蓋嚢鈔』

―知的体系を模索する―

武士・庶民の教育の土台

 一二六九年(文永六)、稲荷法橋経尊(いなりほつきようきょうそん)という僧侶は、長い間かけてまとめた『名語記(みようごき)』という六巻の辞書を北条実時に献上した。経尊については、詳しいことは何もわからないが、実時のほうは名高い人物で、北条義時の孫にあたり、当時の武士にはめずらしく学問に深い関心を抱き、数々の典籍を集めて、武藏国金沢郷に営んでいた別荘の近くに金沢文庫を創建したのは、つい先年ことであった。文永六年の鎌倉は、蒙古襲来の情報でただならぬ緊張に包まれていた。前年の正月にフビライの使者が九州の太宰府に現れて、国交を開くことを要求し、幕府は蒙古と高麗の国書を朝廷に奏上し[p65]たが、朝廷では使者に返書を与えることを認めず、異国の使者を空しく帰された。それ以来、幕府は蒙古の来襲に備えて、防備を固めるための指令を出して御家人の統一をはかり、朝廷では異国降伏の祈祷が続けられていた。

 実時は、幕府の引付衆や評定衆をつとめた人物で、幕府の中心的な指導者の一人であったから、そのころは蒙古への対策に緊張していたに違いないが、かねてから求めていた新しい辞書を手にして喜んだことであろう。『名語記』は、主として鎌倉時代の日常の言葉を広く集め、第二音節までいろは順に配列し、その語源を問答体で記したものであった。

 ところで、いろは引きの辞典としては、平安時代末に橘忠兼が三十数年を費やして作り上げた『伊呂波葉字類抄』があったが、その辞典は日本の言葉からそれにあたる漢字を知るためのもので、単語の最初の音によって、取り上げられた言葉がいろはの四十七部に分けられ、「い」「ろ」などの各部は、@天象・付歳時 A地儀・付居処并居宅具 B植物・付植物具……というような二十余の項目に分類され、漢字を出してその音訓を記し、簡単に意味を述べるという形になっていた。『名語記』は、『伊呂波[p66]字類抄』に倣いながら、当時の日常語に注意を払い、その言葉の由来を詳しく書いた点で新しい形式を生み出しており、中世の辞典の先駆というべきものであった。

経尊は全六巻の『名語記』を献上した後、重ねて増補改訂の仕事を続け、第一回の蒙古の襲来である文永の役の翌年、一二七五年(建治元)の六月二十五日に、全一〇巻に増補された『名語記』を実時に献上しなおした。実時は新しい辞典の巻末に、受け取った日付などを書き入れて、金沢文庫に収めた。『名語記』は、現在第一巻の欠けた鎌倉時代の写本が残っているだけであるが、その本は重要文化財に指定されている。

貴族社会では、律令制下の大学以来の学問の伝統があり、子弟の教育もさまざまな方法で行われていた。第二章で紹介した『口遊』をはじめ、往来物と呼ばれる種々の教科書も作られ、学習を指導する学者も程度に応じてさまざまな専門家があった。ところが、東国に成立した鎌倉幕府では、上層の武士の一部は貴族的な学問を習得しようと努力したが、多くの武士は文字や文章とはあまり縁のない生活をしていた。幕府は京都から下ってきた貴族の文筆能力に頼り、多くの貴族を迎え入れて事務処理にあたらせた。幕府の記録を整理し、法制を整え、京都の公家政権と折衝したのは、すべて貴族であった。そして、幕府は、武士の間からそういう文筆にたけた人物が出てく[p67]るのをうながすために、新しい教育制度を作ろうとはしなかった。鎌倉幕府は一五〇年に及ぶ歴史を持ちながら、武士の教育のための学校を持たず、武士たちの教育は、幕府の年中行事への参加、大規模な巻狩、武芸の競技などすべて実地の活動の中で行われていた。

しかし、幕府の力が安定し、さまざまな制度が整えられてくると、武士の生活も文字と没交渉では成り立たなくなった。そこで、そうした中で、武士の教育のうえで大きな役割を果たすようになるのが寺院であった。いうまでもなく、六世紀に仏教が伝来して以来、寺院は知識・学問のセンターであったが、貴族社会では中国伝来の知識・学問が正統的なものとして根を下ろしており、仏教はそれと別のもう一つの流れを形成していた。二つの系統の学問が並立するなかで、一般の貴族が中国の典籍を学ぶ道を選んだのはいうまでもない。ところが、都を離れた草深い地方の武士からみれば、文字を知り、文章を書く能力を身につけるためには、二つの系統のうちどちらを選んでもよいわけで、国衙に近い所に住む武士は国衙の官人から文字と文章の知識を得、近くに官人がいない武士は、寺院の僧侶から学問の手ほどきをうけることも多かった。そうした動きに、この時代に活発になった僧侶の布教活動が重なり、武士や庶民の教[p68]育のうえで寺院や僧侶の果たす役割は、時代が下がるにつれて大きくなっていった。有力な武士は、一族が住みついている地域の中心に氏寺をたてることが多かったが、氏寺は一族の知識・学問の中心にもなったのである。 『名語記』の著者は、その経歴を詳らかにしない僧侶であるが、先行の『色葉字類抄』が漢字を求めるだけの辞典であるのに対して、『名語記』が言葉の由来を説明することによって学識を集成するという性格を持っていることは、この辞典が、実用的な辞典のうえに学識・教養の書という性格を合わせ持たせようとしていることを示しており、鎌倉時代の上層の武士たちの関心に応えようとするものであったことを物語っていると思われる。

 

鎌倉時代の知恵袋−『塵袋』

名語記』より少し後れて、中世の人々に広く用いられた『塵袋』という辞書が現れた。生活万般の知識を網羅的に集めたこの辞書は、文永・弘安のころ(一二六四〜八七)に作られたものと考えられているが、作者がどのような人物であったかは、現在知ることができない。内容は『名語記』と同じように、日常の生活をめぐる言葉[p69]を集め、その意味や語源を問答体で記したもので、『塵袋』の方が、説明が詳しく、多くの古典を引用して書かれている。編集の仕方は、『色葉字類抄』の影響を受けており、

@ 天象・神祇・諸国・内裏

A 地儀・殖物(土地と栽培される植物)

B 草・鳥(薬用植物と鳥類)

C 獣・虫(獣類と虫・魚など)

D 人倫(官職・職業・家族など)

E 人体・人事(身体各部・人の行為)

F 仏事・宝貨・管紘

G 雑物(武器・生活用具・書状など)

H 飲食・員数・本説・禁忌

I 詞字(さまざまな専門用語など)

J 畳字(とくに注意すべき熟語)

という一一巻の編成の中で、六二〇の項目が解説さ[p70]れている。例えば、巻一を開くと、[p70]一、畿内ト云ハ何ナル心ゾ。

是ニ二ノ心アリ。一ニハ、カギレルウチト云フ心也。鄭玄曰、畿ハ猶限云々。シカラバ王畿ノサカイヲカギレルヨシナルベシ。二ニハ、チカキウチト云義也。畿ハ近義也。王城ヨリチカキ也。山城、大和、河内、和泉、摂津の国ヲバ、五畿内トナヅクル也。チカキクニナル故へ歟。

というような項目があり、巻九を見ると、

一、沙糖ト沙棠トハ一物歟、各別歟。

各別也。沙糖ハ唐ノアメ也。甘蔗ト云ウ草ハ、タカクオヒアガリテ、クキハ、マキモノノ如シ。アマキ草也焉。コレヲコノミクラフ人モ、コノ草ノクキヲ、ワギリニキシテ、スワブレバ、アマキシルアリ。コレヲ煎ジテ、ツツハカシタルヲ、沙糖ト云ウ。沙棠ハ仙菓ノ名也。ツネニアルモノニ非ズ。山海経ニ曰、崑崙ノ丘ニ木有焉。其ノ状チ、棠ノ如クシテ黄ナル花、赤キ実アリ。其ノ味ヒ李ノ如クシテ、椀無シ。名テ沙棠ト云フ。用ヲ御スル也。水ヲ泳グ人、食ラヘバ溺レザラシムト云ヘリ。呂氏春秋曰、果ノ美ナル者、沙棠之実ト云ヘリ。

[p71]一、味曽ト云ハ、正字歟、アテ字歟。

正字ハ末醤ナリ、ソレヲカキアヤマリテ未醤トカキナス。末は搗抹ノ義也。末セザルハ常ノヒシホ、末シタルハミソナリ。コノユヘニ、末ヲ用ルヘキヲ、字ノ相似タルユヘニ末ヲ未トカケリ。今ノ世ニハ、未ノ字ニ口偏ヲクハヘテ味トカキ、醤ヲバ曽トシテ、アテ字ニナリタル様ナリ。醤ノ字ヲバ、ヒシホトモ、アエモノトモトム。

というような文章があって,畿内、沙棠、味噌といった言葉の解説を見ることができる。沙棠は、「唐ノアメ」であると記されているが、鎌倉時代の日本では滅多に口に入れることのできない高価なもので、薬品の品であった。ここではその沙糖の説明が詳しく書かれ、製法も記されていて興味深い。また、味曽もこの時代に中国から入ってきた食品であったが、ここでは、その名の正しい意味を説明して、表記の誤りを指摘している。

塵袋』の編者は、鎌倉時代の貴族や武士が、生活するうえで知っていれば便利なこと、書物を繙くときや、社交の場で役に立つことなどを六二〇選び、丁寧な解説を付け、検索に便利なように一一巻の巻ごとに分類を加えたが、それは、まさに鎌倉時[p72]代の人々の知恵袋というに相応(ふさわ)しいもであった。この辞典を繰り返し読むことによって、日常生活に必要な知識・教養を身につけることができたのである。そして、編者はこの辞典の内容に大きな自信を持ちつつも、中世の人に特有の趣向から、世の中の塵をかき集めて、それを詰め込んだ袋のようなものという意味で、『塵袋』という書名をつけたのであった。

 

引く辞典から読む事典へ

塵袋』は、『伊呂波字類抄』などに学びながら、何かを表現するために、漢字を探し求める実用的な辞典から、日常の生活をめぐるさまざまな知識を得ることのできる事典へと、発展させたものであり、同時期の『名語記』と比較してみても、引く辞典から読む事典へと記述を充実させて、一般教養としての性格を持たせたものであった。南北朝の内乱を経て、社会は大きく変わり、武家政権が京都にその中心を据えたことによって、室町時代に入ると、文化の面にも変化が現れてきた。『塵袋』から一五〇年後に、その性格を発展させ、さらに百科事典的な内容に近付けた『土+蓋嚢鈔』という書物があらわれたが、この二つの事典を比べてみると、その間の文化の変[p73]化が読みとれる。

土+蓋嚢鈔』は、一五巻から成る大部の事典であるが、前半の部分は一四四五年(文安二)一二月にまとまり、後半はその翌年の五月に完成した。そのころは、永享・嘉吉の乱で権威を失った室町幕府は、一四四一年(嘉吉元)に、将軍足利義教が赤松満祐に殺されて、一四四九年(宝徳元)に足利義成(義成は四年後に義政と名を改めた)が将軍に任ぜられるまで、将軍は不在という混乱の時代であった。そして、そうした政治的な混乱の中で、五山の禅僧が詩文を競い、一条兼良や一休宗純が活動を始めていた。

土+蓋嚢鈔』の著者は、全巻の終わりに「観勝寺金剛仏子行誉」と自分の名を書き記しているが、仏教についてはいうまでもなく、広く和漢の古典[p74]に通じた博識の真言僧であったという以外に、その生涯について知ることはできない。

土+蓋嚢鈔』は、書名の土+蓋の字が塵と同じ意味であり、嚢はいうまでもなく袋と同意の文字であるから、『塵袋』に倣って作られたものであることは明らかであるが、さきにも述べたように両書の内容はかなり異なっている。まず外見を見ると、問答体をとっている点は同じであるが、『伊呂波字類抄』や『塵袋』のような項目の分類をしておらず、整った形を持っていない。この辞典が取り上げた項目は、五三五項目で、『塵袋』に比して八五項目も少ないが、一項目当たりの記述ははるかに詳しく、例えば、巻第四の、

八、漢ハ高祖ヲ始ト為ス。

という項を見ると、

氏ハ劉。姓名ハ劉邦。字ハ季。沛県豊邑人也。漢ニ前後アリ。王莽之ヲ隔ツルガ故也。王莽ヲバ新室ト日。在位十五年ニシテ。遂ニ光武ニ亡サレタリ。前漢[p75]ヲバ。西漢共日。西ノ方ニ。長安ニ都スル故ニ。尓日也。子孫十四代。会テ二百十四年也。後漢ヲ東漢共日。東ノ方洛陽ニ都スル故也。後漢ノ始ヲバ。世祖ト日。光武皇帝是也。高祖九代ノ孫。長沙ノ定王六代ノ孫也。子孫十三代。合一百九十五年也。都合廿七主。合四百九年ヲ治也。

と言う書き出しで、以下、秦の始皇帝がいかに横暴であったかということ、正しい政治の確立を目指して劉邦が立ち、項羽と激しい戦いの後に漢の王朝をひらいた物語、さらに、王莽によっていったん亡びた漢が、光武帝の力で再興されたことなどが、簡潔な文章で記されている。それは、まさに百科事典というに相応しい記述であろう。また、巻第七の、

十二、人ノ五臓六腑トハ、何ゾ。并其躰如何。

という項は、人体の内臓についての解説を、各臓器の体内の位置、形、大きさ、色、機能、五行、六根の見方による説明、血脈の虚実、などにわたって詳しく書き、それぞれの臓器についての病気と薬方に及んでいる。五三五に及ぶ項目は、場合によっては、さまざまに考証を試みた論文に近いものや、随筆のようなものもあって単なる言葉の辞書とは趣を異にしているのである。[p76]

項目ごとの解説が詳しくなり、内容が多岐にわたるようになると、それを整然と分類することは難しくなる。そのために『土+蓋嚢鈔』の著者行誉は、五三五の項目を順序正しく並べることを断念したらしい。項目の見出しが、単語だけでなく、著者の意図と内容をわからせるような文章になっているために、いろはの音で順次配列することも困難であった。『土+蓋嚢鈔』は、形のうえから見ても、引く辞典ではなく、読む事典であった。人々は『土+蓋嚢鈔』を通読し、繰り返し読むことによって室町時代中期の一般教養とでもいうべきものを身につけることができたのである。それは、たしかに知恵が一杯つまった袋であった。

 

公家文化の秩序の崩壊

それでは、『土+蓋嚢鈔』が百科事典の形で集大成した室町時代の一般教養というものは、どのような特色を持っているのであろうか。まず考えられることは、記紀の神話や、和歌・物語・宮中の年中行事などに現れる日本の古典に関する知識と、儒教・法家・老荘などの古典や、中国の歴史書・詩文集などに見られるさまざまな知識、さらに、仏教の経典や諸宗派はにわたる教義書・僧史僧伝などに関する知識という、和・漢・[p77]仏の知識教養がここで総合されているという点である。

鎌倉時代までの学問・知識の世界では、和・漢・仏の三つの系統は、複雑に重なり合いながら、他面ではそれぞれのあいだに明確な一線を画していた。日本の古典に関する知識は、神祇の官人や、和歌・有職などを家業とする人々を中心に伝えられていたし、中国の古典に関する知識は、紀伝・文章の博士の家系に連なる人々によって保持されていた。また、仏教に関する様々な知識は、僧侶が独占的に修学するものとされていた。したがって、そうした学問・知識を、一般の貴族や武士に教えようとする場合にも、それぞれの系統分野ごとに、啓蒙的な書物を作ってゆくのがほとんどで、複合的な性格を持つ場合でも、和歌の理論を仏教の思想で体系化すると[p78]か、日本の制度を中国の法制で説明するというように、二つの系統にまたがるのが精一杯で、三つの学問を総合的に包み込もうとする試みはなされなかった。前章までに取り上げた百科辞典的な書についても、そのことは、明らかであろう。

ところが、『土+蓋嚢鈔』は、鎌倉時代までの文化の中にあった和・漢・仏の知識の中にあった一線をすべて取り払って、三つの分野を同じ次元に並べようとしている。『土+蓋嚢鈔』の中に書かれている和・漢・仏のさまざまな知識は、この事典を読む人にとっては、まったく等価値のものであり、どれか一つを正統とするわけではなく、すべて知っておくことが望ましいものなのであった。

南北朝の内乱を経て、公家のあり方が変化し、武家が京都に進出する中で、それまでの公家社会の中にあった文化の秩序が崩れ、仏教を含めてすべての知的活動の所産が、同一の平面に並べられたのであった。そのうえで、仏教の布教活動がさかんになるにつれて、仏教も外来の知識という枠にとどまっていることが難しくなり、神祇信仰との習合を活発に進めたり、世俗的な道徳思想としての、儒教などとの関係を調整することが必要になった。吉田兼倶の『唯一神道名法要集』が、神・儒・仏の一致を主張したのも同じ時代であった。和・漢・仏という区分けのうえで、均衡を保っていた伝統的な文化のあり方の変化を、『土+蓋嚢鈔』もまたよく反映したいると考えることができるであろう。

さて、『土+蓋嚢鈔』が集大成した、室町時代の一般教養のもう一つの特色は、学問・知識が、経典や古典の抽象的な論議や観念的な理解として伝えられるのではなく、すべて生活の次元に現れる具体的なものとの関連でとらえられているという点である例えば、『土+蓋嚢鈔』は、中国やインドのさまざまな故事を解説しているが、それらは、単に説話として面白いという理由や、昔から伝えられているという根拠だけで取り上げられたのではない。室町時代の寺院や邸宅には、障壁画が多く描かれ、床の間には掛け軸が掛けられたが、その画題には和・漢・仏の故事が選ばれることが多かった。中国の聖賢や神仙、さまざまな菩薩や修行者、日本の年中行事や歌枕などは、しばしば画題になったが、『土+蓋嚢鈔』を読んでいれば、それらの絵を見たときにすぐに意味がわかったであろう。また、当時は社交の場で和漢連句や連歌がさかんに催された。和[p80]漢連句は、五七五の和句に五言の漢句を連ねるもので、和漢にわたる広い知識を必要としたし、連歌の場合にも豊かで奇抜な連想のためには、まさに百科事典的な知識が必要であり、そうした知識を共有している人々の存在が前提になっていなければならなかった。そう考えてくると、『土+蓋嚢鈔』に取り上げられている五三五の項目は、一見観念的、抽象的で知識のための知識のように見えて実は、室町時代の生活と密接に結びついていたものであったことがわかる。この百科事典は実用的な面でも大きな価値を持つものであった。

さまざまな文化が社会の変動の中で並列的に見えるようになり、その中から新しい生活文化が生まれてくる。『土+蓋嚢鈔』という百科事典は、そういう背景の中で生まれ、室町時代の文化を支えた。それは、『塵袋』に倣って作られたものであったが、両者の間にある一五〇年の時代の差によって、それぞれの性格は大きく変わった。そこで、中世の末から近世の初めにかけて文化のあり方が再び大きな変化を見せると、それぞ[p81]れに特色を持つこの二つの辞典を合体することが試みられ、『塵袋』を添加した『土+蓋嚢鈔』という意味の『塵添土+蓋嚢鈔』という百科事典が作られた。中世の人々のもの知り辞典として用いられた二つの書は、江戸時代から現在まで、もっぱら『塵添土+蓋嚢鈔』という一つの書として受け継がれ、利用されてきたのである。

<参考資料>大隈和雄『事典の語る日本の歴史』四[64頁〜81頁参照]

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