[10月1日〜10月31日迄]

                              BACK(「ことばの溜め池」表紙へ)

 MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

ことばの由来。ことばの表現。ことばの妙味。ことばの流れ。とにかくみんなさんご一緒に考えてみましょう。

1999年10月31日(日)霽。名古屋<→国語学会(名古屋大学於)>

荷一つに 発表聞く 穏やかさ

「詩格」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

詩格(−カク)詩作格ハ起承轉合配四句ニ。起 一見卒都婆、(承) 永離三悪道、轉 呪造立者、合 必生安楽国。<元亀本306F>

詩格(シカク)詩作格ハ以起承轉合ヲ配四句ニ也。(起)一見卒都婆、承 永離三悪道、轉 呪造立者、合 必生安楽国。<静嘉堂本357B>

とある。標記語「詩格」に語注記として、「詩作の格は、起承轉合をもって四句に配するなり。」と“詩句の法”を説明し、さらに実例の詩句を「[起] 一見卒都婆。[承] 永離三悪道。[轉] 何呪造立者。[合] 必生安楽国。」と「起承轉合」にして挙げているのである。ここでは、「起承轉合」に読み仮名は付されていない。また詩句内容のうち、“転句”の「向」と「何」という字形相似による異同が見られる。また、元亀本は、“合句”の「必生安楽国」に固有名詞に当たる朱書長方四角の符号を施している。この引用詩句については、まだ未審である。『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未收載にある。

1999年10月30日(土)霽。名古屋<名古屋市立博物館→国語学会(名古屋大学於)>

とんと知る 学びの系譜 文字ずらり

「起承轉合」の読み

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』(天文十七(1548)年成る)の「幾部」に、

起承轉合(キセウンカウ)作。<元亀本287B>

起承轉合(キセウテン)作詩之格。<静嘉堂本332G>

とある。標記語「起承轉合」の読み方のうち、「轉合」すなわち、四拍めと六拍めにおける清濁読み「デンカウ」と「テンガウ」の異なりを両写本は示しているのである。語注記にあっては、「詩を作ることの格」だが、元亀本は、「詩」の字を「薄」のように記し、「格」の字も「拾」のように記しているがこれでは意味を解せない。『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未收載にある。

 現代の国語辞書である新潮『国語辞典』第二版に、「キショウテンケツ【起承転結】」の次の項目として「キショウテンゴウ【起承転合】−ガフ 前項に同じ。〔運歩色葉〕」と採録するものである。実に細かに採録された編者の採録力量に後学の者として頭が下がる。さて、これによれば、両写本の異同については明らかでなくして、一方の読み(静嘉堂本)だけを採択していて、も一方(元亀本)の読み方は反映されずじまいにあることを読者はここで知らねばなるまい。両写本の濁音位置による読み方は、もっと真剣に検討してよいと思う。「u音」下接語の連濁と「n音」下接語の連濁をどうみるのか考えてみることである。

1999年10月29日(金)霽。名古屋 <訓点語学会(名古屋大学於)>

中日の 破れて固唾 来季こそ

「湯女」の読み「ゆな」と「ゆヂヨ」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊部」に、

湯女 (ユヂヨ)風呂ニテ仕女ノ名。<元亀本292D>

湯女 (ユナ)風呂仕女之名。<静嘉堂本339D>

とあって、標記語「湯女」の読み方が「ゆヂヨ」と「ゆな」と異にすることを見ておきたい。語注記は、「風呂にて仕る(人の身体を洗う)女の名(称)」とあって、類語に「ゆどのひめ【湯殿姫】」が知られる。実際、「湯女」の読み方を類推すれば、「ゆをんな」「ゆめ」「ゆニヨ」なども考えられよう。これを元亀本は、「ゆヂヨ」(湯桶読み)と読み、静嘉堂本は、通常(近代の国語辞書収載の読み方)用いられるところの「ゆな」の読みを記しているのである。このように、編者がいずれの読み方を示していたのかが判別できない場合が存在する。いずれにせよ、書写者におけるこの両様読みがあったことを知っておきたい。そして、現在も用いられている「ゆな」の語源を記すと、和語「ゆをんな【湯女】」の“四字中略”として「ゆな」という説と、『日本国語大辞典』ゆな【湯女】」の項に示す「[語源説]浴室を預り管理する役僧をユイナ(湯維那)といい、さらに略してユナ(湯那)とよんだところから〔風呂と湯の話〕。」という二説があるようだ。『下学集』易林本『節用集』『温故知新書』には未收載にある。

[ことばの実際]

有馬中へ鳥目二百貫、湯女共に五十貫被下、谷中のにぎはひいと目出(めでたく)見えし。<『太閤記』巻第十六、秀吉公有馬御湯治之事・岩波文庫下193D>

 

1999年10月28日(木)霽。八王子⇒名古屋

陽射し来て 障子明かりに 葉かかやく

「迪迫(ユハク)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊部」に、

〓〔シンニョウ+臾〕迫 (ユハク)者熟−者乾。<元亀本293E>

〓〔シンニョウ+臾〕迫 (ユハク)−者熟。−者乾。<静嘉堂本341B>

とあって、標記語「〓〔シンニョウ+臾〕迫」の語注記からでは、何を意味するか判り難い内容である。

現代の国語辞書『新潮国語辞典』第二版を繙くと、

ユハク〓〔シンニョウ+臾〕迫】肥えた土地とやせた土地。〔庭訓徃來・三月〕〔『運歩色葉集』〕<2184-4>

とあって、やっと意味理解ができるというところであるまいか。(参考までに『角川古語大辞典』は未収載)。この記述を確認するに、も一つの典拠資料である『庭訓徃來』三月を見るに、

且く東作の業の事、兼ねて水旱の年を相し、須く迪迫の地を計つて、所務を致さるべし、

[脚注25 地味の肥痩。正しくは「腴迫」か。付92]<新大系15A>

92迪迫 迪ハ肥也、迫ハ乾也。△迪ハ、声テキト韻字ニ見タリ。迪ハ進也。迫、セマル、サコトト読ム也。▲〔迪〕迪(ユウ・ススム)。熟地也。〔迫〕迫(ハク・イトナム)セム・タチマチ。ヤセ地也。<新大系脚注25392下>

*底本影印(天文六年写、山田俊雄架蔵本)でみると、「〓〔シンニョウ+臾〕迫(ユウー)ノ之地ヲ」と表記し、『運歩色葉集』と同じである。

と実に詳しい。また、「畑、山畠の乾熟に随て、桑代加地子を課す可し」とあって、『運歩色葉集』の注記が示す「熟・乾」が見えてくるのである。そして、『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。

1999年10月27日(水)雨。八王子⇒世田谷駒沢

断続な 雨脚ぬって 今日も行く

「代指(つまはら)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「津部」に、

代指(ツマハラ)金徽草ノ葉。火ニテアフリ付レハウツヽキ止ナリ。<元亀本158@>

代指(ツマバラミ)金徽草葉。火ニアフリテ付レハ即ウヅキ止也。<静嘉堂本173C>

とあって、「代指(ツマハラ)」は、「金徽草の葉。火に炙りて付ければ疼(うづ)き止むなり」という。この「代指」は、指の病名「ヒョウソ【〓〔病+票〕疽】指の先が腫れて爪が生え代わるもので、官報では現代でも「代指」と云う。ブドウ球菌による。今は切開して膿を出し、抗生物質で治療。」の和語古名で、正しくは「つまばらめ」「つまばらみ」(静嘉堂本の付訓)という。注記に従えば、この治療方法として「金徽草」が用いられるのだが、同じく草名門に、「金徽草」<静嘉堂本458B>・「金微草(キンミサウ)」<元亀本380A>と標記語があって、語注記はこれには見えていない。

『下学集』には「代指」「金徽草」ともに未収載にある。易林本『節用集』には、「代指(ツマバラミ)」<支躰門103B>、『温故知新書』にも、「代指(ツマハラミ)」<支躰門147A>のみを収載する。さすれば、『運歩色葉集』の云う治療本草薬である「金徽草」については、一般的に知られていないのではなかろうか。そこで、医書に目を転じてみるに、『大同類聚方』(雅忠本)巻一百に、

都万波須乃薬 荒木戸薬共名 女手指頭痛腫腐黒色爾而惣身悪寒方。  都介度利上肌皮 都波久良 二味細利而爾呈瘡上塗覆

とあって、万葉仮名表記で「つまはすの薬」として、「荒木戸薬(畠山本に見える。)」とも名づく。女性の手指の頭(はじ)に多く出できて、卒に大いに痛み、腫れて腐り、黒色にして膿み、大いに熱く、惣身寒を悪むものの方。「つげどり(鶏)の上肌皮、焼キタルモノ」「つばくら(石燕)、焼キタルモノ」二味(二種類)を細かに磨りて、酒にて瘡上(患部)に塗り、覆うべしというのである。この処方が、中国伝来の処置方であれば、この処置方は如何なるところから伝えられたものか、これを解くカギは、どうやら「金徽草」そのものにあるようである。今後明らかにされるものとする。

1999年10月26日(火)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

煙立つ 求めて止まぬ 温もりを

「三寸(みき)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「見部」に、

神酒(−キ)。三寸(同)。<元亀本299A>

神酒(−キ)。三寸(同)。<静嘉堂本347E>

とある。この「みき」の漢字表記「神酒」はよく知られるところだが、「三寸」の表記法については、少しく古典注釈書をお読みにならないと理会に苦しむ表記であるまいか。ここでいう古典注釈書とは、『源氏物語』古注釈書の『紫明抄』と『河海抄』を指す。次にその該当箇所を揚げる。

 『紫明抄』の「御みきなとまいる」に、

酒也。三寸(ミキ)也。 飲酒去邪風三寸、故云三寸(ミキ)。<一22オG・角川20上@>

 『河海抄』の「おほみきまいるほと」に、

御酒(ミキ) 日本紀。 酒舊事本紀云、于時吾田鹿葦津姫以卜定田号狹名田。以田稲釀天甜酒嘗之矣。本朝事記云、天皇品院之代於吉野之白〓〔木+壽〕(シラカチ)上ニ作テ横臼ヲ而於其横臼釀(カマシム)大御酒(オホミキ)ヲ獻大御酒之時撃テ口鼓ヲ皮ト。或御酒(ミキ)、諸神の祭に皆酒を供する故也。神字をみきと讀也神子(ミコ)。酒をきとよむ也。又云、三季(ミキ)冬造て春熟し夏飲する故ニ三季と云也。文選にも冬釀接て夏成て十旬の兼清と云と見たり。又云、三寸(ミキ)酒を飲者去風邪三寸仍號之寸字ヲキト讀ナリ。又馬をも四寸(ヨキ)五寸(イツキ)といふ也。又万葉にも十寸と書てすき、鶴寸と書てたつきとよめり。又云、三木 杜康造酒蒙求杜康か妻男のほかへゆきける間に男の日々の飯を園木の三またにそなへをきけるか、雨露に潤て酒となりける也。これを樹伯に祭る。この事吉野の白かちの古事に相似たり。和漢の縁起一同也。<一31オK・角川210上S>

とあって、ここからの引用表記と見てよかろう。また、顯昭『古今集注』十七に、

或人云ク、サケヲミキトイフニ兩説アリ。一ニハ、孝子クフモノヽハツヲヽナキオヤニムケテ、木ノマタニオキケルガ、ヨキサケニナリテ、ソレニヨリテ、トヒユタカニナリニケリ。ソノ木ノマタ、ミツマタニテアリケルニヨリテ、ミ木トハイフトイヘリ。一ニハミキトハ、三寸トイフナリ、寸ヲバキトヨムナリ。ソノユヘハ、三人アヒグシテ、霧ヲワケテ、フカキヤマヲコエケルニ、一人ハツツガナシ。一人ハ病ヌ。一人ハ死ニケリ。ソノツヽガナキハ、酒ヲノメリ。病ルハ食ヲシタリ。死ハ空腹ナリ。シカルニ酒ハ、霧ニ三寸ヲフセグトイヒナラハシテ、ミキトハイフトイヘリ。コレハ博物志トイフフミニ、王爾、張衝、馬均トイフ三人トイヘリ。酒ハキリ三寸フセグトイフ事ハナケレド今案フニヤ。<續々群書類従137>

と相通ずる「三寸」の表記があり、『博物志』からの引用譚を記載している。

この「三寸」の表記は、『下学集』『節用集』類には未収載であり、『温故知新書』に、「神酒(ミキ)」<食服門216E>。「三寸(ミキ)酒」<数量門217B>と標記語の収載を見る。また、行誉『〓〔土+盖〕嚢鈔』にも、“杜康造酒の事”と、“三寸の事”の譚は記載を見ないが、「酒を竹葉と云ふ事付劉石の事」<巻十36>のあとに、“酒の異名事”のなかに「杜康(トカウ)」を収載する。

 このように、室町時代の古辞書のうち、『運歩色葉集』『温故知新書』に共通する標記語が確認され、この典拠は示されていないものの、古典注釈書に基づくものであることをここに記しておく。

1999年10月25日(月)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

夜なべしは 眠さ堪へて 昼仕事

「大佛(ダイブツ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

大佛(――)本尊毘盧舎那佛也。聖武天皇天平聖暦十五癸未十月鋳像。至天文十七戌申八百四年也。孝謙女帝天平勝宝四季壬辰四月九日開眼。至天文十七戌申七百八十八年也。具見后冊也。<元亀本141H>

大佛(――)本尊毘盧舎那佛也。聖武天皇天平聖暦十五癸未十月鋳像ヲ。至ル天文十七戌申八百四季也。孝謙女帝天平勝宝四壬辰四月九日開眼。至天文十七戌申七百八十八年也。具見后冊也。<静嘉堂本151F>

大佛(タイフツ) 本尊毘盧舎那佛也。聖武天皇天平聖暦十五癸未十月鋳像。至天文十七戌申八百四季也。孝謙女帝天平勝宝四季壬辰四月九日開眼。至天文十七戌申七百八十年也。具見后册也。<天正十七年本中7ウD>

とあって、「大佛」の注記は、「本尊、毘盧舎那佛なり。聖武天皇の天平聖暦十五年癸未十月像を鋳す。天文十七戌申から至る八百四季也。孝謙女帝の天平勝宝四(752)季壬辰四月九日に開眼す。天文十七年戌申から至る七百八十年なり。具見后册なり。」となっている。この最終部分「具見后册なり」の語句の意味が旨く読めないところである。

 また、『下学集』『節用集』類、『温故知新書』は未収載にある。四月九日の開眼供養は盛大であり、天子行幸に文武百官が供奉している。その折の遺品は正倉院に今も納められている。この鋳像及び開眼時には、奥州からまだ金は見つかっていない。江戸時代の『和漢三才図絵』は、この経緯を、

大佛豫(アラカシメ)、開眼成就し、事畢って後奥州より始めて黄金を貢つる。[割注]天平二十一年春、奥州小田の郡より始めて黄金を出す。國司敬福して百兩を貢つる。また、九百兩を獻ずる。帝甚だこれを喜びて、年號を勝寳と爲す。本朝未だこの寳あらず。これを得て大佛の徳に因りて、則ち東大寺幸わう。拝謝して定めて其の金箔を用ゆ。宜しく潤色あるべし。仏像彩色を以って満足す。故に改めて開眼供養の大法會有つるか。

と記述している。その「大佛」大きさだが、

面の長さ一丈六尺 廣九尺五寸。   眉五尺四寸五分。

目の長さ三尺九寸。        口三尺七寸。

鼻の口三尺 穴の徑一尺。      頸二尺六寸五分。

耳の長さ八尺五寸。        螺髪(ラホツ)九百六十六 高一尺

頤(ヲトカヒ)の長 一尺六寸。     肩の徑 二丈八尺七寸。

胸の長 二丈九尺。        腹の長さ一丈三尺。

肘(ヒチ)より腕に至るまで一丈五尺。 臂 一丈九尺。

掌(タナコヽロ)長 一丈三尺。     中指 五尺 周り四尺五寸

脛 二丈三尺八寸。        膝の厚さ 七尺。

膝の前の徑し 三丈九尺。     足の裏 一丈三尺。

と記す。

[関連ホームページ]

 東大寺大仏大仏建立世界に誇る三大仏大仏開眼供養会から現在?その後の大仏?

1999年10月24日(日)晴れ。八王子⇒二子玉川⇒世田谷駒沢

朝練に 励む若人 すれ違ふ

「石動(ゆするぎ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊部」に、

石動(ユスルギ)能州。孝謙女帝。天平勝宝八年丙申立。至テ天文十七戌申八百三年也。<元亀本292G>

石動(ユスルギ)能州。孝謙女帝。天平勝宝八季丙申立。至天文十七戌申八百三季也。<静嘉堂本339G>

とあって、標記語「石動」は、孝謙天皇の在位中の天平勝宝八年に関係する事柄であることだけが知られる。先行する『下学集』そして、『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。江戸時代の『書字考節用集』に、

不動山(ユスルギヤマ)能州能登ノ郡○事ハ見[羅山文集]。<乾坤門二19E>

とあって、「能州」という位置関係は合致するが、孝謙天皇との関係は直接の記述を見ないのである。ここでは、『羅山文集』に事の内容は見えているという指摘が注目視される。また、『合類節用集』には、

石動山(ユスルギヤマ)能州。<巻二64D>

と、標記語の漢字表記も「石動」という点で、『運歩色葉集』と合致する。

 ところで、この「石動」と漢字表記して辞書では、「ゆするぎ」とあるが、「いするぎ」「いしゆるぎ」と発音され、「石動山」は、現在の石川県鹿島郡鹿島町二ノ宮にあって、能登半島の能登国(石川県)と越中国(富山県)の国境に聳え立ち、山頂大御前は、「神の天降り、祖霊のしずまる聖地」として畏られ、崇められてきている。山の高さは山頂までの高さは、古くは565mあるとされ、石が「ゴロゴロ(5656)」と動く山として、土地の人はなれ親しんできたという。ここに伊須留岐比古神社があり、神社蔵の“古縁起”によれば、石動山の始まりは、崇神天皇の代に仙人が入山して「宝満宮」を建て「大宮防」を建立。その後、泰澄(タイチョウ)大師が講堂を建て、養老元(717)年、天平勝宝寺と改めたと云うことである。能登名跡誌には「此山は、天より星落ちて石と成、天漢石と号す。今講堂の前にあり、開山泰澄大師養老二年登山以前は、石ゆるぎて山震動してあれしに依り石動山と云り」と記されている。<石動山の歴史夏休み研究越路小学校六年、北村 望さん。古川めぐみさん。長谷川裕一さん)参照>

これを元に、『運歩色葉集』の記述内容を整理するに、「孝謙天皇の御宇、天平勝宝八年、泰澄大師が開山なり」の「泰澄大師が開山なり」が略されたものとなる。ここで、泰澄大師の天平寺開山年号の認識が“古縁起”と異なっている。そこで、『運歩色葉集』の多部の、

泰澄大師(タイテウタイシ)天智天皇白鳳十三年六月十一日生。大雪埋其産屋ヲ。至天文十七戌申八百七十六年也。神護景雲元年乙巳入滅。<元亀本145G>

泰澄大師(タイテウ――)天智天白鳳十三季六月十一日生。大雪一尺埋其産屋。至天文十七季戌申八百七十八季也。神護景雲元季乙巳入滅。至天文十七季戌申七百八十四季也。<静嘉堂本157A>

泰澄大師(タイテウ――)天智天皇白鳳十三。六月十一日生。大雪一尺埋其産屋。至天文十七戌申八百七十八季也。神護景雲元季乙巳入滅。至天文十七七百八十四季也。<天正十七年本中10ウG>

と注記記載があって、西暦685年から767年に活躍したことが知られる。今後、「泰澄大師」語注記引用を含め、上記の異なり点を明らかにせねばならない。

 また、『太平記』巻第十四「諸国朝敵蜂起の事」に、

又其日の酉剋(トリノコク)に、能登國石動山(ユスルギヤマ)の衆徒(シユト)の中より、使者を立てゝ申けるは、「去月(キヨゲツ)二十七日、越中の守護、普門寺蔵人利清、并に井上・野尻・長沢・波多野の者共、將軍の御教書(ミゲウシヨ)を以て、両國の勢を集め、叛逆(ホンギヤク)を企る間、國司中院少將定清、用害に就いて當山に楯籠らるる處に、今月十二日彼(カノ)逆徒等、雲霞(ウンカ)の勢を以て押し寄する間、衆徒等義卒に與(クミ)し、身命を輕んずと雖も、一陣全(マツタキ)事を得ずして、遂に定清戦場に於て命を墜され、寺院悉く兵火の爲に回禄(クワイロク)せしめ畢(ヲハン)ぬ。<大系二70P>

とあって、武装衆徒がこの地に集結していた事実とその顛末を引用している。

1999年10月23日(土)晴れ。八王子

窓ガラス 表と裏に 秋闌て

「弓削法皇(ゆげのホウワウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遊部」に、

弓削法皇(ノホウワウ)号ス道鏡大臣孝謙女帝夫也。馬隠過量也。可咲。<元亀本294F>

弓削法皇(ユゲノ――)号道鏡大臣孝謙女帝夫也。馬隠、過量也。可咲。<静嘉堂本342C>

とある。「弓削法皇」について、語注記は「道鏡と号す。大臣孝謙女帝の夫なり。馬隠、過量なり。咲うべし。」として、「摺鼓」の語注記にては「大物」と表現していた具体性を帯びた「馬隠、過量」という評句が用いられている。そして、この評句の「馬隠」についてさらに繙くと、

馬隠(マラ)道鏡大臣者丹波弓削人也。後洛。号ス弓削法皇ト|。即孝謙女帝之夫也。――過量也。平生讀十一面經々曰讀此經者作ル天下之主ト也。<元亀本208C>

馬隠(マラ)道鏡大臣者丹波弓削人也。後入洛。号ス弓削法皇ト|。即孝謙女帝之夫也。――過量也。平生讀十一面經ヲ々曰讀此經ヲ者作ル天下之主ト也。<元亀本208C>

と「弓削法皇」の語注記よりさらに詳しく「道鏡」について「道鏡大臣は丹波弓削の人なり。後に入洛して弓削法皇と号す。即ち孝謙女帝の夫なり。馬隠過量なり。平生、十一面經を讀み、經にいはく、この經を讀む者、天下の主となるなり」と記し、本来の「馬隠」の意味語源については一言もここにはないのである。この「まら」の連関表記語「閇隠(マラ)。末裸(マラ)。萬良(同)。玉莖(同)。男根(同)」の五語を以下に続けて記す形式にあるにすぎない。このことは、あくまでも「弓削法皇」と連続するために語注記を成しているのである。そして、多部における「道鏡」、そして久部における評語「過量」の標記語については未収載としている。

これを次に先行古辞書『下学集』に見るに、

道鏡大[太]政大臣((ダウ)キヤウーーーー)道鏡ハ法名ナリ也。丹щ|削(ユゲ)ノ人也。後ニ入洛シテ号ス弓削ノ法皇ト。即チ孝謙(カウケン)女帝ノ之夫也。馬陰過量。可笑云々。<人名47D>

と、標記語を「道鏡大政大臣」として、語注記は、『運歩色葉集』の「弓削法皇」と「馬隠」とを一つにした注記内容が記載されているのである。ここで、評句「馬隠過量」が『下学集』の編者が最初に用いた表現であり、この語を『運歩色葉集』は継承するのである。広本『節用集』も、

道鏡大政大臣(タウキヤウダイジヤウージン)道鏡法号也。丹州弓削(ユゲ)人也。後入洛(ジユラク)シテ而号弓削ノ法皇ト。即孝謙女帝之夫也。馬陰過量タリ矣可笑ツ。<人名門337B>

『下学集』の語注記を継承する。これが易林本『節用集』になると、『運歩色葉集』と同様に、

弓削法皇(ユゲノホフワウ)法名道鏡(ダウキヤウ)。即孝謙女帝之夫也。男根過量也。<人名193C>

と、まさに簡略にして注記している。ここでの評句「馬隠過量」を「男根過量」の表記に置換している点が一層ストレートなものとして辞書の読み手に受けとめられよう。この『下学集』の編者が用いた「馬隠過量」の評句が改編されていることを知っておきたい。また、久部に「過量(クワリヤウ)」の標記は見えず、「過料(クワレウ)」とある。

ここで、『運歩色葉集』編者の改編方針の一つとして、語注記の標記語化は、すべての注記語ではないにしても、近代国語辞書が持つ本邦辞書の最初のアプローチとして認識しておきたい。

また、行誉『〓(土+盖)嚢鈔』巻十九・五「神護寺事」に、

又、道鏡(ダウキヤウ)法師ヲ召シテ。寵遇(テウグ)他ニ異(コト)ナリ。初(ハシメ)ハ大臣ニ准シテ大臣禅師ト云リ。是日本ノ准(シユン)大臣ノ始也。大-師押勝(ヲシカツ)是ヲ怒(イカツ)テ。廢帝(ハイタイ)ヲ勸メ申テ上-皇ノ宮ヲ傾(カタムケ)奉ントシケルカ。事(コト)顕(アラハレ)テ恵美(ヱミ)モ誅(チウ)ヲ受(ウケ)テ。新-王モ淡路(アハヂ)ニ被?〓〔之+千〕(ウツ)給ヒケル也。此二-臣殊ニ幸人(カウジン)トシテ。威勢ヲ諍(アラソ)ヒケル故ハ。女帝當初(ソノカミ)[涅槃經(ネハンキヤウ)]所-有三千界男-子諸煩悩(シヨホンナウ)合集爲一人女人之業障ノ文ヲ。叡覧(エイラン)有テ。朕(チン)女-人也ト云共。全ク此ノ儀ナシ。佛(ホトケ)妄語(マウゴ)シ給ニケリトテ。則此[]ニ小便ヲ。シカケ給ヘリ。經-王守護(シユゴ)ノ法(ホウ)善神ヤ怒(イカ)リ給ヒケン。忽(タチマチ)ニ婬欲(インヨク)熾盛(シジヤウ)ニ成(ナリ)御シ座(マス)ノミナラズ。女-根(コン)廣傳(クハウデン)ニシテ。敢ヘテ其ノ欲ヲ停(トヾムル)者ナシ。仍天下ニ勅(チヨク)ヲ下シテ。大根(コン)ノ者ヲ求(モトメ)給。押勝(ヲシカツ)其仁ニ當ト云共。

道鏡(タウキヤウ)猶ヲ能ク是ニ叶ヘリ。爰(コヽ)ヲ以テ。天-平神護(ジンコ)元年ニ大-師ト成シ。二年丙午法皇ノ位ヲ授(サヅケ)給フ。弓削(ユケ)ノ氏_人ナル故ニ。弓削ノ法皇ト云也。誠ニ非常ノ様(タメシ)ナリ。然ニ猶正位ニ心ヲ懸テ。邪(ジヤ)-神ヲ祭テ祈誓(キセイ)ヲ事トシケレバ。邪神爰ニ神-託(タク)ヲ偽(イツハ)リテ。道鏡ニ宝-位ヲ授ケラレハ。國家安泰(アンタイ)ナラント云々。

仍テ天-皇清丸ヲ以テ。宇佐(ウサ)ノ宮ニ尋申サルヽ処ニ。大菩薩形ヲ顕(アラハ)シテ。告テ曰ク。道-鏡邪-神ヲ祭(マツリ)テ。宝-位ヲ望ム。邪神黨(タウ)多シテ謀(ハカリコト)ヲ廻(メクラ)シテ。帝(テイ)ヲシテ此讓(ユヅリ)アラントス。然レ共我邦(クニ)ハ神-國トシテ。王-種(シユ)未タ他氏ヲ雜(マジ)エス。道鏡豈ニ發セン迹ヲ哉。汝チ還テ闕(ケツ)ニ能ク奏セヨ。又善-神邪(ジヤ)-神ニ勝ン事力(チカラ)ヲ佛法ニ借ルヘシ。早ク奏シテ一ノ伽藍(ガラン)ヲ立テ。佛法ヲ興行(コウギヤウ)セヨ。我レ力ヲ合テ。帝祚(テイソ)ヲ保護(ホゴ)セント。清丸(キヨマル)宮ニ皈シ此由ヲ以-聞スルニ。道-鏡怒(イカツ)テ。和氣ヲ捕(トラヘ)片_足ヲ斬(キツ)テ。流刑(ルケイ)ニ処ス。剰(アマサヘ)赴ク配ニ時。瞻駒(イコマ)山ヲ過ル路次ニ。伏-兵ヲ置テ害(ガイ)セントスルニ。俄ニ雷電(ライテン)ニ遇(アフ)テ。降-雨(カウウ)暗-夜(アンヤ)ノ如クナル間。其_儀不∨叶(カナハ)。<398下十二ウH>

と事の成り行きが詳細に記述されている。この記述の一部が静嘉堂本『運歩色葉集』の「摺鼓」の語注記と合致し、この行誉『〓(土+盖)嚢鈔』に何らかの連関影響を持つことが明らかになった。

1999年10月22日(金)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

マンモスの 大なる姿 凍土から

「摺鼓(すりつゞみ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須部」に、

摺鼓(スリツヾミ)孝謙女帝得道鏡大物歓喜ノ余リ大ニ發ル聲ヲ百座厭之令摺鼓紛之也。<元亀本360@>

摺鼓(スリツヽミ)孝謙女-帝得道-鏡大物ヲ歓喜之餘リ大發声ヲ百宮厭之令摺鼓紛之也。彼女帝陰廣成亊所有三千界ニ男子ノ諸ノ煩悩ヲ合集メテ爲シテ一人女人之業障之亊ニテ陰婬ヲ巾故也。大集(シツ)經ノ文歟。<静嘉堂本438B>

とあって、「摺鼓」の語注釈は、「孝謙女帝、道鏡大物を得て歓喜の余り大いに聲を發する。百座{宮}これを厭うて摺鼓してこれを紛らはすなり。」と実に悩ましい内容である。ここで元亀本は注記を終えているが、静嘉堂本はさらに、「彼の女帝、所有三千界に陰廣成る亊、男子の諸の煩悩を合集して一人女人の業障を爲して、この亊にて陰婬を巾[申]す故なり。大集(シツ)經の文歟」と編者の見解とその拠り所である『大集經』を注記している。また、広本『節用集』には、

摺鼓(スリツヾミ)人皇四十六代孝謙天皇時始。<器財門1125C>

『運歩色葉集』より簡素にして、事柄の顛末については伏せ置く形式でこのことに触れている。これは『庭訓徃來』九月九日の状に「調拍子摺鼓」と見え、『庭訓徃來註』に、

調()拍子摺鼓等 仁王四十六代孝謙天王始。孝謙女帝也。孝謙得道鏡大物歓喜之餘大呼之百官摺鼓云々也。〔謙堂文庫藏四二左E〕

とあって、この語注記の箇所を引用する。広本節用集』は、前の部分を引用する。

 この「摺鼓」技巧の発祥起源を伝える意味で、虚実はともかくとして、こうした言い伝えが公の世界でない限られた人たちの中でではあるが、この時代にあったことをここに確認しておかねばなるまい。その意味からも『下学集』、多くの『節用集』類には未収載であり、『温故知新書』には、「摺鼓」<器財門118B>と標記語のみで語注記は未収載にあるということである。これ以前の古辞書には、『和名類聚抄』四20音楽具、『色葉字類抄』に標記語として収載されている。また、江戸時代の『書字考節用集』には、「摺鼓(スリツヾミ)今云小鼓」<八83A>とあるにすぎない。

1999年10月21日(木)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

芋掘りす 都会の子等の 声響く

「蝿参(はいまいり)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「波部」に、

蠅参(ハイマイリ)伊勢参附道者之尾ニ|。諸(コレ)ヲ譬(タトフ)蝿ノ附テ驥ノ尾ニ。<元亀本33@>

蠅参(ハイマイリ)伊勢参附道者之尾。諸譬蝿附驥尾ニ也。<静嘉堂本34F>

蠅参(ハイマイリ)伊勢参附道者之尾。譬諸蝿之附驥尾也。<天正十八年本上18オD>

蠅参(ハイマイリ)伊勢参附道者之尾(ヲ)。譬(タトヘ)ハ諸ノ蝿(ハイ)附ク驥尾ニ也。<西来寺本>

とあって、語注記は「伊勢参り。道者の尾に附く。これを蝿の驥の尾に附くことに譬う」で、蝿が馬の尾に集って附くように、道ゆく人の後について伊勢参りをする事を「はいまいり」と表現したということである。『下学集』『節用集』類『温故知新書』には未収載の語である。

 実際、大蔵流小名狂言「素袍落」に、

歩き出しイヤまことに、某も内々(ナイナイ)、はい参りなりと、致したい 致したいと存ずるところに、このたびは ひとえに、大神宮(ダイジングウ)にうけられた と申すものでござる。<大系上350N>*頭注23に、這ってでもお参りしたいと。どんな手段をつくしても、の意であろう。として、この『運歩色葉集』(静嘉堂本)を引用し、さらに「当時、このように、驥尾に付してでも伊勢参りをすることの意に用いられた。」と解説する.

と用いられている。

1999年10月20日(水)雨のち曇り。八王子⇒世田谷駒沢

手に蜜柑 持ちて走るや 雨の道  

「絡兎(うさぎをからくる)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、

(ウサキヲカラクル)後藤宗孝説、十二因縁絡(カラクル)之。又在之。<元亀本98@>

(ウサキヲカラクル)後藤宗孝説、十二因縁絡之。又在之。<静嘉堂本98@>

(ウサキヲカラクル)後藤宗孝説十二因縁絡之。又在之。<天正十八年本>

(ウサキヲカラクル)後藤宗孝説十二因縁之。又在之。<西来寺本>

とあって、「」は、語注記に「後藤宗孝の説、十二因縁にこれを絡(からくる)。また、これあり。」としている。この語注記にいうところの、「後藤宗孝」という人物像、そして次に「十二因縁」という連関性が見て取れないのである。ただ、「絡(からくる)」であれば、『節用集』類や『日葡辞書』にも収載され、「影であやつる」意となる。『下学集』には未収載の語である。

1999年10月19日(火)曇り夜雨。八王子⇒新宿

花束を 抱え歩くは 若き人

「珊瑚(サンゴ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「佐部」に、

珊瑚(サンゴ)生水底之石上ニ。一千歳而黄。一千歳而赤。以銕網取之。<元亀本272@>

珊瑚(サンゴ)生水底之石(セキ)上。一千歳而黄。一千歳而赤。以銕網取之。<静嘉堂本310E>

とある。語注記は、「水底の石の上に生す。一千歳にして黄、一千歳にして赤。銕の網をもってこれを取る」ということで、生育場所、歳月を経ての美色造形、採取方法という三点について簡略に示したものである。この「珊瑚」だが、貴装飾品として本邦で知られるのは、平安時代の『和名類聚抄』による。当代の『下学集』に、

珊瑚(サンゴ)似テ玉ニ紅潤(コフジユン)ナリ。生ス水底ノ盤石(バンジヤク)ノ上ニ一歳ニ黄歳ニ赤。以テ鉄網(テツマウ)ヲ沈(シツメ)テ水ニ取ル之ヲ。<器財103D>

とあり、『運歩色葉集』はこれを受けて、さらに簡略化して注記したものといえる。ここで『下学集』が歳月の見極めとして、黄を一千年、赤を二千年としているのを、同じ一千年としている点が注目される。この点をもとに、近代の国語辞書をみると、大槻文彦編『大言海』には、

さんご(名)【珊瑚】海中に棲む珊瑚蟲と称する小蟲の羣體の作れる、中軸骨格の名。海底の石に着きてあり、其状、枯木の幹枝の如し、大なるは三尺許、幹にて玉を作るを珊瑚珠(其の條を見よ)、又、珊瑚とのみも云ふに因りて、幹枝ながらなるを、珊瑚樹、又、枝(えだ)珊瑚と云て、別つ。<3-543-4>

とある。ここでは、歳月のことは見えていない。

[ことばの実際]

中将は、この幾年を恋ひ忍びて相会ふ今の心の内、優曇華の春待ち得たる心地して、珊瑚樹の上に陽台の夢長く覚め、連理の枝のほとりに、驪山の花おのづから濃やかなり。<太平記>

これは明月に当たつて光を含むなる犀の角か、しからずは海底に生ふるなる珊瑚樹の枝かなど思ひて、手に引つ下げて大神宮へ参つたりける。<太平記>

誠に天上の摩尼珠、海底の珊瑚樹もこれには過ぎじとぞ見えし。<太平記>

一度君王に面をまみえしより、袖の中の珊瑚の玉、手の上の芙蓉の花と、見る目もあやに御心迷ひしかば、しばらくその側を離れ給はず、昼は終日に輦を共にして、南内の花に酔ひを勧め、夜は終夜席を同じうして、西宮の月に宴を成し給ふ。<太平記>

1999年10月18日(月)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

夜の明けて 鳥と双ぶか 陽に向かふ

「政頼(セイライ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「勢部」に、

政頼(セイライ)日本越前、敦賀津ヘ自太唐始而居鷹來也。鷹師是也。<元亀本355B>

政頼    日本越前敦賀津、自太唐始而居。鷹來也。鷹師也。<静嘉堂本431D>

とある。語注記は、「日本越前の国敦賀の津に、太唐より始めて鷹來りて居す。鷹師これなり」として、「政頼」は、「鷹師」であるとしている。狂言・鬼類小名類に、「政頼(セイライ)」があって、せいらいという鷹匠(たかじやう)だが、

しやばにかくれもなきせいらいと申鷹じやうにて有申程に、一しほのせつしやうをいたしたるほどに、ぢごくへおとさしずると申候へは、とが人にてはなひと申が、何と ざあらふずるぞ。<大蔵家傳之書 古本能狂言・一579頁>

と、地獄の主(あるじ)、閻魔大王とのやりとりが描かれている。このように、「鷹師」と「鷹匠」との語差については、ここでは触れないでおく。そして、「鷹を使って、鳥を捕らえる技術に秀でた人物」としてとらえておきたい。さらには、一藝に精通した人物をも「せいらい」と呼称するといったことばの広がりもまだ見えていないのである。『運歩色葉集』では、この「政頼」を「太唐から敦賀の津に遣ってきた」というが、今この事実関係を他に記載する資料をまだ見出せないでいる。

 この語だが、『下学集』『節用集』『温故知新書』には未収載にある。近代の国語辞書である大槻文彦編『大言海』には、

せいらい(名)【齊頼】〔後冷泉天皇の頃に、源齊頼、鷹飼の達人なりしに起ると云ふ〕鷹師の語より移りて、一藝を極め得たる者の称。*諺草「後冷泉院の御宇、源齊頼は、鷹師の達人也、云云、俗の諺に、放鷹に限らず、凡て、一藝を極め得たるものを、彼れは、其藝の齊頼なりと云へるは、本、此の源齊頼の、放鷹を得たるより起これる詞也」<1090-1>

とあって、『諺草』からの引用による別の起源を示していていて、この『運歩色葉集』の記述とはかけ離れている。このことは、江戸時代の『書字考節用集』にも、

斎頼(セイライ/マサヨリ)今ノ世謂テ万-品堪ル事ニ者ヲ−―ト。蓋源ノ−―ノ者。金吾忠隆ノ男。後冷泉ノ朝人。出羽ノ國司鷹養(ガヒ)ノ達-人。晩-年使女ノ嫁攝津ノ貞直ニ授ク蒼黄(タカイヌ)ノ書-式ヲ云々。<人倫門四90D>

にも同じく見えていて、『運歩色葉集』とは大きな異なりとなっていることを確認しておきたい。

[連関資料]2000.08.27(日)記述「たかばかり【鷹量】」の項目により補足する。

庭訓徃來注』六月二十九日の状で、

抑世上既属(ゾク)スル静謐之間為鵜鷹逍遥参入 仁王卅七代孝徳天王時始也。曰、嶋津浮世篝火仁王十七代仁徳天王御悩時以相者相者曰、河内国片野三足。彼雉奉悩之由申也。就其唐岱山道清頼云者鷹使天下流布。帝遣シテ保昌相傳。天竺摩訶陀国人也。佛檀婆羅蜜砌、鷹鴿来科(ハカル)義也。其後清頼鷹有時、巣毎日見之不審也。子在巣。其子生長シテ父之気。父畏之去ルコト巣一尺之枝ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故呼一尺鷹科保昌傳来使‖∨彼雉也。逍遥自得云也。〔謙堂文庫藏33左E〜34右A〕

とあって、「セイライ」を「清頼」と表記する。さらに、この注記説明によれば、「清頼」は、「天竺、摩訶陀国の人」で、「佛の(います)時は、檀婆羅蜜の行の砌に、鷹と鴿と来たる行の程を科(ハカ)る義」という。「其後は清頼、鷹有る時、木に巣くうを毎日これを見るに不審なり」と前置きし、『下学集』の「鷹秤」の注記を「子在巣。其子生長シテ父之気。父畏之去ルコト巣一尺之枝ニシテ而養子也。此養鳥猛悪也。謀之使也。故呼一尺鷹科」と引用する。上記の『大言海』では、この資料を知らずか採録していない。

1999年10月17日(日)曇り午後薄日。八王子⇒二子玉川⇒世田谷駒沢

北寒し 南コスモス いざ走る

「往事(オウジ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和部」に、

徃事(−ジ)ーー渺茫ト。都(スヘテ)似リ夢ニ。旧遊零落シテ半皈ス泉ニ。<元亀本88A>

徃亊(−ジ)ーー渺茫。都似リ夢。旧遊零落半皈泉。<静嘉堂本108E>

徃亊(−ジ)ーー渺茫シテ都(スヘテ)似夢旧遊零落半(ナカハ)皈泉。<西来寺本>

とあって、この「徃事」の語注記は、「往事渺茫とすべて夢に似たり旧遊零落してなかば泉に皈す」という詩句を引用するものである。そして、この詩句が『和漢朗詠集』下巻・懐旧に見え、これを示すと、

743 往事渺茫として都(すべ)て夢に似たり。舊遊零落して半(なか)ば泉に歸す 同(白)。<大系242頁>

とある。これも『運歩色葉集』が典拠を示さずに詩句用例を示した語注記の一つなのである。そして、これも下の詩句である「旧遊」の標記語及び語注記の採録をしていない。当代の古辞書である『下学集』『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。『日葡辞書』は、『運歩色葉集』と同じくこの朗詠集の詩語を、

+Vo<xi.l,Vo<ji. ワゥシ.または,ワゥジ(往事) Suguitacoto.(すぎた事)すでに過ぎ去った事.文書語.<724r>

と収載する。

1999年10月16日(土)曇り。八王子⇒駅前

ゆくりゆく 金木犀ぞ 渡る香は

「貫入(ぬきいれ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「奴部」に、

貫入(ヌキイレ)鞭。取束(トツツカ)在之。犬追物狩場之時ーー也。其外者。不ル由シ也。<元亀本75D>

貫入(ヌキイレ)鞭取束在之。犬追物狩塲之時ーー也。其外者不入也。<静嘉堂本91E>

貫入(ヌキイレ)鞭取束在之。犬追物狩場之時ーー也。其外者不入手申也。<天正十八年本上45ウE>

貫入(ヌキ−)鞭(ヘン)取束(サク)在之。犬追物(イヌヲイモノ)狩塲(カリハ)之〓〔日+之〕ーー也。其外者(ハ)手申也。<西來寺本136C>

とあって、「貫入」の語注記は、「鞭(ベン)に取束(とつつか)これ在り。犬追物の狩場の時、貫入なり。其の外は手を入れざると申すなり。」ということである。この最後の「手を入れざると申すなり」の箇所に、異同が見えている。元亀本は「手を入れざる由(よし)なり」とし、静嘉堂本は「亊いれざると申すなり」としている。総体的には意味の差異は感じられない異同といってよかろう。鞭と手を結ぶ輪状の取束があって、犬追物の狩場で使用すること、それ以外は取束に手を通さないということを示している。

さて、この語だが、『下学集』及び『節用集』類、『温故知新書』には未収載にある。実際、院政時代の『今昔物語集』第廿七・13「近江國安義橋鬼、〓[クラフ]人」に、

異者共、「日高ク成ヌ。遅々シ」ト云テ、馬ニ移置テ引出テ取セタレバ、男、胸□ルヽ樣ニハ思ユレドモ、云ヒ立ニタル事ナレバ、此ノ馬ノ尻ノ方ニ油ヲ多ク塗テ、腹帯強ク結テ、鞭、手ニ貫入レテ、装束軽ビヤカニシテ、馬ニ乗テ行クニ、既ニ橋爪ニ行懸ル程、胸□レテ心地違フ樣ニ怖シケレドモ、可立返キ事ニ非ネバ行クニ、日モ山ノ葉近ク成テ、物心細氣也。<大系四492G>

と見えているが、「犬追物」の起る以前にもあったことが知られ、これが「犬追物」が隆盛となるに及んで『運歩色葉集』の記述内容に云うように「犬追物」の用語として定着をみたものであろう。と同時に、この「貫入」の動作は、鞭に限ることなく『平家物語』巻十二・六代では数珠に、『四河入海』巻十八・一には着物の袖などに使用されているが、この別仕様という点については、注記がされていないことも確認しておく必要があろう。

 

1999年10月15日(金)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

ひんやりと 迎へし天の 衣替え

「刑鞭(ケイベン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣部」に、

刑鞭(ケイベン)−―蒲(カマ)腐(クチ)テ 蛍(ホタル)空ク去ル 諫皷(カンコ)苔(コケ)深(フカウ)シテ 不驚(ヲドカ)鳥リ。<元亀本218A>

刑鞭(ケイベン)蒲(カマ)腐(クチ)テ 蛍(ホタル)空(ムナシク)去(サル) 諫皷(カンコ) 苔(コケ)深(フカウ)シテ 鳥不驚(ヲドカ)。<静嘉堂本248G>

*天正十八年本は、この語を欠く。

とある。この「刑鞭」に対する語注記が、意味説明でなくして、何故「刑鞭、蒲腐ちて蛍むなしく去る。諫皷、苔深うして鳥驚かず」という詩句を引用するのか見えてこないというのが実感であるまいか。これを解明する糸口として、新潮『国語辞典』第二版によれば、

ケイベン刑鞭刑罰に用いるむち。〔朗詠下・帝王〕〔和泉往来〕〔日ポ〕

とあって、意味が示される。そして、この詩句が『和漢朗詠集』下巻・帝王に見えるとあって、これを示すと、

刑鞭(ケイベン)蒲(がま)朽(クチ)テ螢(ほたる)空(むな)しく去(さ)り。諫鼓(カンコ)苔(こけ)深(ふか)くして鳥(とり)不驚(おどろかず)。 (無爲治詩) 國風<大系220頁・663>

とあって、ここからの引用であることが知られるのである。だが、この語注記には両写本とも典拠を示さずに詩句のみを引用する形態にある。このことは、朗詠集の詩句自体がかなり当代の知識階級のなかで定着していたことを物語っているのではあるまいか。そして、『下学集』及び『節用集』類、『温故知新書』には未収載とする。『運歩色葉集』と同じく『日葡辞書』には、

Qeiben. ケイベン(刑鞭) シナで、罰として鞭うつのに使う細枝,または,籐の鞭.<481r>

と朗詠集の詩句を収載する。また、『運歩色葉集』には、この下の詩句である「諫皷(カンコ)」を標記語として記載する編纂姿勢はここには見えないのである。

 鎌倉時代の『塵袋』巻三・草鳥「葦杖ト云フハアシヲツヘニシテツク歟」に、

韓詩外傳云。老蒲(ラウホ)ヲ。葦杖ハ即蒲鞭(ホヘン)也ト云ヘリ。後漢ノ劉寛(リウクワン)カトカアルモノヲハ、蒲(カマ)ノ鞭(ムチ)シテウツト云ヘル。此ハカマノツヘヲ葦杖ト云ヘキニヤ。但シ曹植(サウシヨク)カ對酒哥ニ蒲鞭葦杖(ホヘンヰチヤウ)示ス有ルコトヲト云ヘリ。二ヲナラヘテ云ヘルハ各別ノ心アル也。〔日本古典全集・上二〇四〜二〇五頁〕

といった関連することばが見えている。

[ことばの実際]

樂−天詩。刑鞭(ケイヘン)蒲_朽螢空云云。<『蒙求抄』巻十「劉寛蒲鞭」932B>

1999年10月14日(木)晴れ夕方雨。八王子⇒世田谷駒沢

蒸す暑さ やがて雨降る 夜冷たき

「属\(ショクコウ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

属\(−クワウ)人臨終時以綿ヲ\ス属鼻穴ヲ息ノ絶故呼シテ臨終ト−―ト<元亀本319@>

属\(シヨククワウ)人臨終時以綿ヲ\属鼻穴知息ノ絶ヲ故呼臨終曰−―ト<静嘉堂本375E>

とあって、「属\」は、「人の臨終の時、綿をもって属鼻穴を\す。息の絶を知る。故に臨終と呼(ヨバ)して属\といふ。」のである。この語だが、当代の『下学集』及び『節用集』類には未収載の語である。と同時に現代の国語辞書にも未採録のことばとなっている。『運歩色葉集』の特有語であると同時に、何を拠所にしてこの語を採録したのか、今後の確認作業を待ちたい。ただし、諸橋『大漢和辞典』巻四の「屬」に、

属\】19 ゾククワウ 死にかかった人の口に\をあてて、呼吸の有無をみることをいふ。\は、新しいわた。〔儀禮、既夕禮〕屬\以俟絶氣。〔注〕\、新絮。〔禮、喪大記〕疾病、男女改服、屬\以俟絶氣。〔注〕\、今之新緜、易動揺口鼻之上、以爲候。<174-2>

とあるのがそれである。

1999年10月13日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

果実二つ 並べてみるに 大きなる

「葦(ヨシ)と葦(アシ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「与部」に、

(ヨシ)(アシ)−(アシ)也。為メニ用ル家ニ−(ヨシ)ト也。梨子(ナシ)ヲ曰−(アリノミ)ト。衰日徳日。曰フ之類也。<元亀本133I>

(ヨシ)−(アシ)也。為用家曰−也。梨子曰−。衰日曰フ徳日ト之類也。<静嘉堂本140D>

とある。これは、禁忌語の用語である「葦」を「あし」から「よし」へと変じて表現したことを、この「与部」に、「梨子」と「衰日徳日」までも統括収録したものである。そして、草名花部には、「芦(アシ)。葦(同)」<元亀本381C>と元の読みで記すに留まっている。易林本『節用集』には、「阿部・草木門」に、「蘆(アシ)。葦(同)。……〓〔艸+兼〕(アシ)。葭(同)」<170C>と収載するのみである。あとの「梨子」も「奈部・草木門」に「梨(ナシ)。棠(同)」<109F>と収載するのみで「ありのみ」は未収載というところである。いわば、禁忌語という立場で、「家に用いるために葦(あし)を「よし」と云う」この語を代表収載する場所としてこの与部を選択したということになる。

1999年10月12日(火)晴れ。八王子

ヒヨドリの 来て語らふ庭 陽も豊か

「筆(ふで)」と「蒙恬(モウテン)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「福部」に、

(フデ)蒙恬始之造(ルクル)。<元亀本227G>

とあって、「」は、「蒙恬(モウテン)始めてこれを造る」というのである。さらに、「毛部」に、

蒙恬(−テン)始筆ヲ者也。<元亀本348G>

と、「蒙恬」を標記語にして、「筆を始めて造るものなり」と注記している。このことは、西崎亨編『日本古辞書を学ぶ人のために』<世界思想社1995刊>の第三節「室町時代の古辞書」(萩原執筆)で、この辞書の特徴についてあげた第三の“豊富な語”「なぜ豊富なのかという理由付けの一つとして気が付くことは、注釈文のある語の注釈文の重要語彙を見出し語として別の所にも登録されていることが挙げられるのである。<中略>現代国語辞書における「〜の項を見よ」形式より内容も充実しているように思われるのである。」<217頁>と指摘したことの証例の一つになる。『下学集』易林本『節用集』には、

標記語

傍訓仮名

注文

易林本

部門

下頁順数

易頁順数

毛穎

モウエイ

 

器財

120-1

150-5

兎豪

トガウ

 

器財

120-2

150-1

毛錐子

モウスイシ

 

×

器財

120-3

 

管城子

クワンシヤウシ

 

管城公

器財

120-4

150-3

中書君

チウシヨクン

 

×

器財

120-5

 

黒頭公

コクトウコウ

 

器財

120-6

150-6

鼠尾

ソビ

 

器財

120-7

150-8

鼠鬚

ソシユ

已上ノ八ハ者筆ノ異名ナリ也

×

器財

120-8

 

易林本には、「兎頴(トエイ)」150-2「鶏距(ケイキヨ)」150-4「象管(ザウクワン)」150-7が所載されている。

と、「ふで」の表記語「分直(フデ)・不律」<易林本150D>と“筆の異名”は収載するが、“筆の起源”を述べるこの両語の標記語は未収載にある。

 当代の資料『蒙求抄』(寛永15年刊だが、成立は享禄2(1529)年)<抄物大系・勉誠社刊662G>の「蒙恬製筆」に、

初學記ハ。マタミヌ物ノソ。博物志(ハクフツシ)ヲ引タソ。尚書−禹(ウ)ノ時ニ洛書(ラクシヨ)ノ圖(ヅ)ヲ。龜(カメ)ガ負(ヲフ)テ出タソ。其ノ洛書ノ文ハ。古文ノ字(−)デミヘヌ。字ヂヤホドニ。周公ノ其ノ時ノ文ヲ以テ。移(ウツ)サレタソ。カウ云フ心ハ。蒙恬(モウテン)ハ。秦(シン)ノ代(ヨ)ノ者ノヂヤガ周公ハ。ツンド。サキノ人ヂヤ。ホドニ。サキニモ。筆(フテ)ガアツタト云フ用ソ 曲禮−ナヲ其イワレヲ。下ヘ云程トニソ。禮記ハ。大畧夏殷ノ禮(レイ)ヲ云テ候ソ。周公ヨリナヲ。前ヂヤホトニ。蒙恬(テン)ガ作リ始メタト云フハ。ソデナイソ。 盖−下ヘコトハルソ。筆ハ。アツタレドモ。此ノ時ニ。フデト名付ナンダソ。秦ノ代ニ。筆ト名付タソ。蒙恬ハ。古ノ筆ノ道具(-グ)ヲ。ノケツ。ヨセツ。損益(ソンエキ)シテ。便道(ヘンタウ)ナヤウニシタソ。[下略]<663C>

とあって、「蒙恬が作り始めたと言うはソデナイゾ(そうではないぞ)」と注釈し講じている。さらに、

蒙恬−蔡倫−ト云フハ。皆サウテハナイソ。蒙恬ハ秦(−)ノ人也。<665B>

蒙恬ガ筆ヲ作タハ。柘榴(シヤクロ)ノ木デ。チクヲシテ鹿毛ヲ中トシ。上ヘノ毛ニ。羊(ヒツシ)ノ毛(ケ)ヲ。フスマニ。スルヂヤ。ホドニ。上ヘニキセタソ。兎毛竹管ヲ。云ニアラズトシタゾ。兎毫(-カウ)デ。シタト。馬大耳ガ云タモ。チガウタソ。ナゼニ。シタゾナレハ。秦(シン)カラ筆ト。云ソメタホドニ。只アヤマツテ。云付タマデソ。フテト云フニ仍ツテノ事ソ。<665L>

と講じている。これを整理して見るに、「秦の時代から筆と云いはじめ、この時代に蒙恬は、この古来からある筆具を品質改善につとめ、もっとも用い易くした人物」ということになる。

1999年10月11日(月)晴れ。八王子

鳥の声 聞けば聞くほど 深みます

「獲麟(カクリン)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「久部」に、

獲麟(クワクリン)曰事ノ終ヲ仲尼(チウチ)絶ス筆ヲ於−―ノ一句ニ。<元亀本193E>

獲麟(クワクリン)曰事ノ終ヲ仲尼絶筆於−―ノ一句ニ。左傳。<静嘉堂本219A>

とあって、「事の終わりを云う。仲尼(孔子の字)の著『春秋』が、「哀公十四年春、西狩獲麟」の一句に、筆を絶す」ことから、物事の終わりを「獲麟」というのである。『下学集』は、

獲麟(クワクリン)呼テ一切ノ事ノ終ヲ云フ獲麟ト|。亦呼テ人ノ之臨終〔リンジフ〕ヲ云フ獲麟ト|。左傳仲尼〔[チユウ]ヂ〕絶〔−〕ス筆ヲ於獲麟ノ一句ニ<態藝92E>

一切の事の終りを呼びて獲麟と云ふ。また人の臨終を呼びて獲麟と云ふ。左傳仲尼獲麟の一句に筆を絶す

と注記されていて、『運歩色葉集』『下学集』の語注記をさらに簡便化して記載していることが見て取れるのである。ただ、なぜか広本及び易林本『節用集』はこの語を未收載としている。『節用集』では、天正十八年本『節用集』・広島大学蔵『増刊節用集』・国会図書館蔵岡田希雄旧蔵『節用集』に、

獲麟(クワクリン)呼一切事終云−―。<言語進退上46ウF>『伊京集』も同じ。

獲麟(クワクリン)呼一切ノ事終ヲ云−―。<言語上54ウC>

獲麟(クワリン)呼一切事終云−―。<言63ウ@>

『下学集』の前半部を注記する形態で収載を見るのである。なぜ、『節用集』にあっては、このような収載と未収載といった編纂分離をしているのかは、『節用集』の研究という立場で検討せねばならない課題だと考えている。山田忠雄博士が「『節用集』天正十八年本類の研究」で、伊勢本系統にあって、天正十八年本(堺本)と増刊『節用集』、そして、空念寺本とが近似の関係にあることを指摘されていることにつながる語だといえる。

さらに前後するが、鎌倉時代の古辞書である二巻本『世俗字類抄』(天理図書館蔵)に、「獲麟」<久部畳字28オG>と語注記はないものの標記語だけが収載されている。また、『塵袋』第十一・疉字に、

一 人ノシナントスルヲ獲麟ト云フハ何事ソ。

麟ト云フハ麒麟ナリ。牡ヲハ麒ト云フ。雌ヲハ麟ト云フ。サレトモ麟ト云フ物名ニモカヨヘル歟。春秋保乾圖ニ歳星散シテ為(ナル)麟ト云ヘリ。歳星ト云フハ木曜也。コノ星クタリテ麟トナルニヤ。身ハクシカ、尾ハ牛、馬ノ足一ノ角アリ。ツノサキニ肉アリ。コノユヘニ角アレトモモノヲツクコトナシ。虫ヲフミコロサス。コノユヘニ仁獸ト云フ。杜預カ曰、麟ハ仁獸ナリ。聖王之嘉瑞也ト云ヘリ。ヒジリノ御門ヨニ出テ給フトキコノケタモノアルヘキナリ。ソレニ魯ノ哀公十四年ニ西ニカリシテ紫麟ヲエタリ。周ノ世モスタレ、又世ニ賢王ナシ。サセル麟ノミユキ世ニモアラヌニ、カヽルコトアルハ、カヘリ世ノヲトロヘヌル後遅ノイタリナレハ孔子コノ事ヲナケキイタミ給フ。春秋孔子ノシルシタマヘルフミナリ。コノ麟ヲエタルマテノコトヲシルシテ、ホトナクウセ給ヒニケリ。孔子御年七十一{二イ}ニテ杜預絶(タツ)筆ヲ於獲麟之一句ニト云ヘルハコレナリ。コレヨリ最後ニノソムヲハ獲麟ト云フナリ。獲ハエタリト云フナリ。魯ノ哀公ノ麟ヲエタリシコトナリ。<日本古典全集・下780D〜782D>

とあって、これを増補継承する行誉『塵添〓〔土+盖〕嚢鈔』は、

  獲麟事

△人ノ臨終(リンジウ)ヲ獲麟(クハクリン)ト云ハ何事ソ。○獲(クワク)ハ。得(トク)トテ。ウル也。麟(リン)ハ。麒麟(キリン)也。牡(ボ)ヲバ。ヲケダモノ。牝(ヒン)ヲハ。メケダモノトヨム也。譬(タトヘ)バ魯(ロ)ノ哀公(アイコウ)獲麟(クハクリン)ノ時。孔子薨(コウ)シ給事ヲ云習(ナラハ)セル也。[左傳]ノ保乾(ホウケン)ノ圖(ヅ)歳星(セイ)變(ヘン)シテ而爲(トル)麒(リン)トト云云。歳星トハ木曜(モクヨウ)也。此ノ星下テ爲麟ト也。身ハ〓〔鹿+章〕鹿(シヤウカ)ノ類ヒ。尾ハ牛。足(アシ)ハ馬(ムマ)也。馬ノ蹄(ヒツメ)アル故ニ。吉馬ノ類トス。額(ヒタヒ)ニ一角アリ。角ノ先ニ肉(ニク)アリ。此故ニ。角アレ共。物ヲ突(ツク)事ナシ。但麒(キ)ニハ角ナキ歟。郭〓〔玉-僕〕(クハクボク)カ曰。麒(キ)ハ似テ麟(リン)ニ而无角ト云云。爲ニ不ス虫(ムシ)ヲ蹈殺(フミコロサ)身ヲ輕(カロ)メテ飛(トブ)也。故ニ仁獸(ジンジユ)ト云。杜豫(トヨ)カ曰。麟(リン)ハ仁獸(ジンジユ)也。不レハ殺サ生命(セイメイ)ヲ曰フ仁トト云云。聖王ノ嘉瑞(カズイ)也。聖王世ニ出給時。此獸(ケタモノ)可有ル也。然ニ魯(ロ)ノ哀公(アイコウ)十四年西ニ田(カリ)シテ紫麟(シリン)ヲ得(ヱ)タリ。周ノ世モ廢(ハイ)シ。又賢王モナシ。麒麟ノ可出世ニ非ルニ。加様ノ事アルハ。返テ世ノ衰(ヲトロ)ヘヌル驗シ也ト。孔子歎(ナケキ)給フ。[春秋]ニ二百四十二年ヲ記セリ。是此ノ麟ヲ獲(エ)タルマテノ事ヲ。記シテ失給ヘリ。孔子年七十一ニシテ。爰ニ絶(セツ)シ筆ヲ給也。然ヲ杜豫(トヨ)絶(セツ)ス筆(フテ)ヲ於獲麟(クワクリン)ノ之一句ニト云。自リ茲(コレ)シテ人ノ最後(サイコ)ニ臨ムヲ。獲麟ト云也。<巻第十六・一329上A>

と、『下学集』『塵袋』の注文を合体させた内容を呈する。鎌倉時代から室町時代という中世日本にあって、この「獲麟」という語の故事談が引用する書籍資料の記載は異なるとしても、長く伝来してきたことがここに伺えるのである。

ことばの実際

無品親王静忠違例獲麟にましましければ、門徒の僧綱僧正行舜・僧正公胤・僧正賢実・座主顕真・法印遺厳・法印誉観・法眼円豪等祈祷のために『大般若』転読ありけれども、さらにそのしるしもましまさざりければ、聖人を招請したてまつりて出離の一大事を談じましましけり。<『拾遺古徳伝絵詞』五巻第五段>

重病をうけて御坊中にして獲麟にのぞむとき、聖人親鸞入御ありて危急の体を御覧ぜらるるところに、呼吸のいきあらくして、すでにたえなんとするに、称名おこたらず、ひまなし。<親鸞『口伝鈔』>

孔子ノ左傳ヲ。作ラレタ時。筆(−)スル時ハ。筆(−)シ。削(−)スル時ハ。削(−)シ。絶ス筆於獲麟(クワクリン)ノ一句ニト云ソ。<『蒙求抄』抄物大系665F>

さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。<太宰治『津輕』>

1999年10月10日(日)晴れ。八王子⇒二子玉川⇒世田谷駒沢

出雲学生選抜駅伝大会 駒澤大学陸上競技部第三位入賞

穏やかに 澄み渡る蒼穹 身のこなし

「寄語(キゴ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「記部」に、

寄語(−コ)敲(タタク)ニ(ソラ)ヲ有リ響。撃(ウツ)ニ木ヲ無声。此等ノ儀也。<元亀本282@>

奇語(−ゴ)敲(タタク)ニ(ソラ)ヲ有(アリ)響(ヒビキ)。撃(ウツ)テ木ヲ無(ナシ)声(コヘ)等之義。<静嘉堂本322C>『日本国語大辞典』は、静嘉堂本の「奇語」のみを採録引用する。

とある。ここで、注意したいのは、通常「キゴ」は、「綺語」か「奇語」と表記され、「めずらしいことば」そして「おもしろいことば」「思いがけないことば」という意に用いられる。この『運歩色葉集』の注記内容は、「虚(そら)を敲くに響きあり、木を撃つに声なし。これらの義なり」として、大元の意味を示すものである。『下学集』は、「綺語(キキヨ)」<元和本態藝86D>、『温故知新書』は、「綺語(キキヨ)」<複用門B>、広本『節用集』は、「狂言綺語(キヤウゲンキギヨ、カタル/タワブル・クルウ、コト・イフ、ウスモノ、コトハ)」<827B>とし、いずれも語注記はしない。また、『日葡辞書』にしても、

Qigo.キゴ(綺語)追従するために,うまく飾りこしらえた言葉.文書語.<邦訳496l>

として、『運歩色葉集』の注記内容とは異なっている。こうした意味から、この元亀本の「寄語」と静嘉堂本の「奇語」の注記は、『運歩色葉集』における特異な表記と語注記となっていることを示していることになる。そして、この注記内容は何か禅問答をしているが如き意味理会にも覚えてくる。

 実際、鎌倉時代、無住の『沙石集』には、

狂言綺語トイヒテ、口業ノ過ニ和歌ヲ入ル事ハ、染歌ト云テ愛情ニヒカレテ、由ナキ色ニソミ、ムナシキ詞ヲカサル故也。<巻五215左E>

カタ/\和歌ノ徳、惣持ノ義陀羅尼一ニ心ウヘシ。綺語ノ失ヲ論セハ人ノ染行ノ心ニアリ。<巻五219右G>

コレニヨリテ惣持ノ徳ヲウスナフヘカラス。經ヲ讀モ戈リアシキヲハ成論ノ中ニハ綺語ナルトイヘリ。<巻五219左@>

和歌ヲ綺語ト云ル事ハ由ナキ事ヲ云ヘルナルヲ、或ハ染汗心ニヨリテ思ハヌ事ヲモ云ヘルハ誠ニトカナルヘシ。<巻五231右A>

と、仏の教えのなかでの和歌に対する見方として、この「綺語」の表記で示されている用例を見るのである。も一つの「寄語」なる語は、書籍『日本寄語』にみるぐらいで、国語辞書には記載を見ないのが一般的のようである。漢和辞書では『廣漢和辞典』上に、

寄語キゴ ことばをよせる。ことづてする。いいやる。寄言。〔南朝梁、武帝、襄陽白銅〓〔革+是〕歌〕寄語ス故人ノ情、知ル我ガ心ニ相憶フヲ。<975−3>

と、この語を収載している。

1999年10月9日(土)晴れ。八王子⇒板橋

秋増さり 障子に映る 柿見事

「触桶(ソクツウ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「楚部」に、

触桶(ソクツウ)於西海浄入水之物。<元亀本153I>

触桶(ソクツウ)於西シテ浄|入水之物。<静嘉堂本168D>

触桶(ソクツウ)於西浄入水之物也。<天正十七年本中15ウF>

とあって、元亀本の「西海浄」と静嘉堂本・天正十七年本の「西浄」という部分に異なりが見られる。この語注記の意味するところは、「西浄において水を入れておく物」ということで、今で云えば「トイレの水桶用具」ということである。『下学集』は、

觸杖(ソクチヤウ),東司([トウ]ス)ノ具也。触桶(ソクツフ)同シ上ニ。具也。<器財113D>

とし、これを受ける易林本『節用集』には、

觸杖(ソクチヤウ)。−桶(ソクツウ)二東司具。<器財100C>

とあって、注記も「(この)二つは、東司の具」と判りやすい。語注記の説明として、“トイレ”の名称を示しているが、『運歩色葉集』の「西浄(セイチン)」、『下学集』易林本『節用集』の「東司(トウス)」といずれも禅宗用語をもって記載していることが知られる。禅宗の表現としては「雪隠(セツチン)」もあるがこれを用いていないこと。さらに、律家の「僧厠(ソウシ)」<元亀本153B>、また「後架(コウカ)」<元亀本229F>でもないことをまずここに確認しておきたい。

関連語彙「ことばの溜池」1998.02.14(土)の“「便所」の表現”を参照。

1999年10月8日(金)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

陽の遠き 鴈鳴き来る 空の果て

「居立田子(をりたつたご)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「遠部」に、

居立田子(ヲリタツタゴ)霍公名也。童子之形也。源氏之哥詞御裳之歌。<元亀本82I>

居立田子(ヲリタツタコ)霍公也。童子之形也。源氏哥詞御裳之歌。<静嘉堂本102B>

居立田子(ヲリタツタコ)霍公名也。童子之形也。源氏哥詞御裳之歌。<天正十七年本上50ウA>

居立田子(ヲリタツタコ)霍公名也。童子形也。源氏哥。調御裳之哥。<西來寺本148B>

とあって、「霍公の名なり。童子の形なり。源氏(物語)歌詞、御裳の歌」という語注記から成るものである。ここで、四本を対校したのは、「源氏哥詞御裳之歌」に対し、西來寺本の「源氏哥調御裳之哥」という注記の異なりを考えておきたかったことに他ならない。この歌は、御息所が詠んだものであり、西來寺本は「調御裳」なる語表現をしたのか、その「詞」と「調」の単なる字形相似として処理するのではなく、これに相当する意味をあえて推測してみるが未審である。実際、『源氏物語』葵の巻に、

源氏「日ごろ、すこしおこたるさまなりつる心地の、にはかにいといたう苦しげにはべるを、え引きよかでなむ」とあるを、「例のことつけ」と、見たまふものから、御息所「 袖濡るる恋路とかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き 『山の井の水』もことわりに」とぞある。<日本古典文学全集U28N>

と表現されている部分にあたる。ここで仮名遣いの「お」と「を」の違いに触れておく。『運歩色葉集』では、「を」とし、表記漢字を「居」としているのに対し、『源氏物語』では、「お」で表記され、これを受ける表記漢字として「下」を想定する。これを歌学書のなかでどう取り扱われているかを見ておく必要があろう。例えば、『藻塩草』巻十六人事部「立」56に、

おり― 河又水ヲリうゆる也。又田にもいふ。をり立田この水からといへり。<219@>

とあるのが注目される。ここでは、「お」と「を」の仮名遣いを混在していることが解る。

 

1999年10月7日(木)曇り。八王子⇒世田谷駒沢

夕闇や 西に目を馳せ 茶服みす

「炭(すみ)」

室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「須部」に、

(スミ)羊e始作也。異名、烏銀(ウキン)紅獣(コウセウ)。<元亀本362D>

とあって、「(スミ)」を始めて作った人物名「羊e」を記載する。そしてさらに、炭の異名として、「烏銀(ウキン)」と「紅獣(コウセウ)」とを記載している。この記載は、広本『節用集』にも、

(スミ/タン)羊e始焼之。異名、烏銀。烏薪。石−。紅麟。<器財門1125E>

炭斗(スミトリ/トウ。ハカル) <器財門1125F>

とあって、異名が若干異なる状況にあり、略共通する語注記内容である。

 『下学集』では、この「」の語は未収載にして、その炭を用いる時の道具「すみとり【炭斗】」を器財門に「炭斗(スミトリ)」<器財108@>と収載するに留まる。『温故知新書』は、

(スミ)火。<器財門A>

炭斗(スミトリ)唐以竹如〓(幹ノ略字)作旨者依佐身曰―ト。<器財門A>

として、「」より道具の「炭斗」に語注記を詳細に記載するものとなっている。この注記における「依佐身(よさみ)」なる語の意味が今のところ不明である。

 平安時代の源順『和名類聚抄』に、

炭籠附 蒋魴切韻云、炭他案反、和名須美。樹木以火焼之。仙人厳青造也。野王案〓〔差-火〕 [割注]乍下反、字亦作〓〔差-火〕。炭籠也。<巻十二12ウE>

とし、この注記における作り手の名が「仙人厳青」とあって、『運歩色葉集』広本『節用集』と全く異なることに注意されたい。ここに、室町時代という知識社会にあって、新機軸とした辞書編纂の有様を捉えることが出来よう。その機動力とも云える大陸からの新資料典籍の到来も考えねばなるまい。その意味からも「羊e」の名は、何に拠ったかを今後知らねばなるまい。

[補遺] 『庭訓徃來註』に、

嵯峨土器(カハラケ)奈良刀高野剃刀大原薪小野 羊〓〔王+秀〕炭ヲ始也。爰ニ有雑談|。内裡女房筑紫ニ下リ小貮殿ヘ奉公ス。有時彼女房以箸ヲ炭ヲ置。小貮殿ノ曰、何ソ以箸置乎問給ヘハ女房ノ曰、爰ニ哥アリ、何トシテ々ト焼テン河内ナル横山炭ノ白ク成ン。〔謙堂文庫藏二八左E〕

とあって、『運歩色葉集』の注記に合致する。「炭」(2000.08.23)に再度記載している。

 ところで、日本製法技術を中国から持ち帰り、国内に広めたのが「弘法大師(空海)」と云われているのだが、その根拠として、炭釜の排煙口を“弘法の穴”とか、“大師穴”と呼ぶところから流布するところであるが、ここには、「弘法大師」の名は見えていないのである。また、その「」の最大級の利用は、奈良時代、東大寺の大仏を造るのに、二年間に800tの炭を消費したという記録が見えるのである。

[関連ネット] 25 すみたてまつらむ〈木炭とは〉炭 の 話

1999年10月6日(水)晴れ。八王子⇒世田谷駒沢

汗少し 水の美味きや 昼のうち

「秦河勝(はたのかはかつ)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「葉部」に、

秦河勝(ハタノカハカツ)秦始皇第二子要明天皇時入而流。委在書物ニ|。大和長谷河流出乃金春先祖也。要明養育而誅守屋(モリヤ)ヲ|也。<元亀本34@>*他三写本略同じ記載。

とある。この注記に従えば、「秦」の姓は、「秦国」から渡来したことを示している。それも、「秦の始皇の第二の子であり、要明天皇の時に壷に入れて流さる。委しくは壷の書物にあり。大和の国長谷の河に流出す。すなわち金春が先祖なり。要明、養育して守屋(モリヤ)を誅するなり。」となる。まず、第一に秦の始皇帝の第二番目の子息である事。第二に用明天皇の時に壷に入れられ海に流された事(委細は壷のなかの書物記載されているという)。第三に大和の長谷河に流出した事。第四に金春(こんぱる)の先祖にあたる事。第五に用明天皇が養育し、守屋を誅した事という五つの話題をここに記載している。

第四の記述である「金春(こんぱる)」は、この時代を代表する能の大和猿楽四座の一つで、その祖を「秦河勝」とし、「秦氏安」を中興としている。この秦氏の先祖を秦国の皇帝の御子と示すうえで、最もショキングな記載が「守屋」を誅した人物であったことではあるまいか。その人物が壷に入りて流されたことも不思議な譚である。この譚の典拠が何に基づくか考察してみよう。

江戸時代の『和漢三才図絵』第十二巻に、「大酒ノ神社 赤穂郡坂越に在り。[注]或は大辟となす。 祭神一座 秦(ハタノ)川勝」として、

○川勝は欽明より推古に至るまで、五代の寵臣たり。嘗て欽明帝の夢に一童子來りていわく、吾れは是れ秦(シン)の始皇の後身なり。鳳闕に仕らんことを願ふと。而して後、初瀬川洪水して大甕を流出す。里人これを開き中に一少子あり。抱き取りてこれを奏す。天皇の夢に應ず。宮中に育(ソダ)てさしむ。秦氏を賜ふ。後聖徳太子に随ひて浮屠(フト)を好(コノ)み伶倫歌舞を善くす。終に自ら小舩に乗り、西海に泛ぶ。播州の浦に著す。其の形相、不生不死の如し。里人以って、奇恠となす。遂に此に終り祠を立てこれを祭る。云々。後冷泉帝[割注]治暦四年。正一位を授く。社家十二人。縁起[割注]天和二年。吉田卜部の兼連筆。<親典社刊142E>*原文は漢文表記、判読の便宜として書下し文とした。

と、この『運歩色葉集』の注記内容を裏付ける話がここに登場している。この大酒神社の縁起が天和二年(1682)年と聊か新しいので、この元になった古資料があったことになるが定かではない。

[関連ネット]渡来人の足跡をたずねて(塩川慶子さん)

1999年10月5日(火)曇り。八王子

すんと伸び 赤き薔薇咲き いま三度

「田蔵田(たくらた)」

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、

田蔵田(タクラタ)大唐ニ|ル‖麝香ヲ|−−似也。麝香香−−無香。縦(タトヒ)蚩得之依テ‖其用棄之。正是為ニ∨他出殺。是タクラタ也。今世借用如此云也。越前天澤寺中院僧正之説記之。<元亀本143A>

田蔵田(タクラダ)於テ大唐ニ麝香ヲ。−−−似之。麝香有香。−−−ハ無香。縦得之ヲ。依無其用棄ナリ之ヲ。正是為他出而被殺。是真−−−也。今ノ世借用。如止云也。越前ノ天澤寺中院僧正記之。<静嘉堂本153D>

田藏田(タクラタ)於大唐狩麝香−−−似。麝香−−−無シ∨香縦蚩之依キニ‖。正是為メニ∨殺。是真之−−−也。今世借用止云也。越前天澤寺中院僧正説記(−ス)。<天正十七年本中9オF>

とある。読み方は、静嘉堂本だけが「たくら」と第四拍めを濁る表記となっている。この「たくらた」と呼称する生き物は、「大唐において麝香を狩る。(この)タクラタこれに似たるなり。麝香は香あり、タクラタは香なし。たといこれを得がたけれど、その用無きによりてこれを棄つるなり。正しくこれ、他のために出でて殺さるる。これ真の“タクラタ”なり。今の世、(人の愚かな行状に)かくのごとく用いて云うなり。越前の天澤寺中院僧正の説、これを記す。」という。

実際に、『法華経直談鈔』一〇本に「癡の字をばタクラタと読むなり。世間の人のタクラタと云ふは、愚癡の癡の字なり。」と見え、「たくらた」を「癡」と表記することが知られる。また、御伽草子『物臭太郎』に、

「その義ならば、尋ねてたび候へ。下り用意に、使ひ銭十二三文あり、これを取らせたび候へ」と申しければ、宿の亭主は、これを聞き、さてもさても、これほどのたくらだはなしと思ひて、また言ふやうは、「その義ならば、辻取をせよ」と言ふ。<日本古典文学全集239E>

とその用例が見えている。この「たくらた」の語源を知る意味で、麝香に似た生き物の名が「たくらた」と言い、この生き物の生態をもって、人の愚行に譬えることばとなったというものである。この説の出所を「越前国天澤寺中院僧正」とすることをここに注記しているのである。

1999年10月4日(月)晴れ。八王子⇒世田谷駒澤

汗も引く 冷たき風に 朝走り

「年齢呼称」の語群

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、

志学(シガク)十五才。若冠(ジヤ―)廿才。而立(ソリツ)卅歳。不惑(−ワク)四十歳。知命(チメイ)五十歳。始衰(シスイ)同。耳順(ニジユン)六十歳。縦心(ジヨウシン)七十歳。米年(バイネン)八十歳。諍居(ジヤウキヨ)九十歳。<元亀本319A>

とある。この十代から九十代へと年齢を重ねていくうえでの刻み(節目)となる呼称をここに収載するものである。このうち、「而立(ソリツ)」「不惑(−ワク)」「知命(チメイ)」「耳順(ニジユン)」「米年(バイネン)」の五語は、“いろは部立て”でいえば、別のそれぞれの部立てに所載されるものである。その意味からも、各部立てにおけるこの五語の収載状況を検索してみると、「耳順(ニジユン/ミヽシタガイ)六十歳之事。」<丹部元亀本39B>・「耳順(ミヽシタガウ/ニシユン) 曰六十歳也。」<見部元亀本301A>、「米年(−ネン)八十八歳ヲ」<遍部元亀本51A>とあるのみで、この「米年」も「遍部」に収載されているので、「ベイネン」とその読みが異なるといった編集の緻密さが問われるのである。この意義部立ての古辞書である『下学集』においては、上記の標記語は、未収載にある。これら年齢の節目を示す語彙群を、採録するのだが、その資料として『論語』爲政第二に、「子曰、吾十有五而、三十而立、四十而不惑、五十而、六十而耳從、七十而從心所欲不踰*知。」の如きものがあって、これを各部立て毎に標記語としてそれぞれに分散するに至らなかった経緯をここに見るのである。

1999年10月3日(日)曇り一時晴れ間。八王子⇒二子玉川⇒世田谷駒澤

目一杯 走り続けて 疲労抜き

「南山(あづち)

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

南山(アツチ)昔シ蚩尤篭−―ニ。黄帝責順之。其后張的當堋(アツチ)射之中ノ黒点象ル蚩尤目ニ。為調伏之。以百手射之故−―云。―(アツチ)ト讀也。<元亀本261@>

圓物圖 圓物ハ以革張也。御所的也。堋(アツチ)之布七幅也。色青(アヲシ)面ニハ圓相ヲ廻裡ニハ鬼ノ字書也。象(カタトル)蚩尤目ニ、肴ノ樣躰。折敷、常ニハ違也。又南山ニシテ蚩尤ヲ攻伏ノ故、南山ト云テアツチト讀ム也。<圖略。中図語「ス」下図語「カサメ」「吸物」「シメアハヒ」>。九杖半打之半ヨセテ析ヲ立也。本之圓物者八寸也。桁串(ケタクシ)三尺八寸。草鹿ト同本ヲ丸ク削也。黒塗也。三方同樣縄在リ之也。<元亀本211I〜212>

とあって、この「あつち」も、“黄帝と蚩尤の戦”に基づく名称であることが知られる。この「南山」は、蚩尤が立て篭った場所の地名に由来する。弓箭で堋(あづち)の的を射るとき、中の黒点は、蚩尤の目に象(カタド)る。これを調伏するに百手もって射るがゆえに「南山」と書きて、「アツチ」と読むということである。

 さて、当代の古辞書広本『節用集』『温故知新書』とは、

(アツチ)。土+朶〕(同)。土+九木〕(同)。<広本743@・温故乾坤門上3ウA>

と、単漢字三種を示すに留まる。また、『倭名抄』『名義抄』では、「あむつち」の読みを示している。

今のところ、『運歩色葉集』にのみ注記が見える標記語である。どうも、編者はこの黄帝と蚩尤とに纏わる説話に基づく語(「武具」など)をここに収載する方針があるようである。

[補遺] 『庭訓徃來註』正月五日の条に、

草鹿(大弓ノ遊也)圓物、草鹿仁王八十三代土御門御宇正平年中頼朝冨士野御狩也。此時牧狩為稽古。鹿茅等以作无シテ足自筒上計也。頭堋尾射手習也。无ルルコト足草深而鹿足不見故也。背スルルノ形也。圓物張也御所。何レモ布皮トス布皮色々〓〔米+耳〕スルト。又的之圓相ラシ書也。蚩尤南山ニシテ蚩尤□伏也南山書而南山(アツチ)ト讀也。〔謙堂文庫藏五右I〕

とあって、「圓物」の語注記はここに合致する。

1999年10月2日(土)晴れ。八王子市街地

秋空に 何を求めむ 木の実狩り

「麻姑(マコ・マゴ)

  室町時代の古辞書『運歩色葉集』に、

麻姑   仙人也。学仙道爪暇無之。依之爬背物名之ヲ。<元亀本207H>

麻姑(マゴ)仙人也。学テ仙道ヲ剪(キル)爪ヲ暇無シ之。依之ニ爬(カク)背(セナカ)ヲ物(モノ)ヲ名之。<静嘉堂本236E>

麻姑(マコ)仙人也。学仙道剪爪暇無之。依之爬背物名之。<天正17年本中47ウD>

とあって、元亀本は傍訓がなく、静嘉堂本は、「まご」、天正十七年本は、「まこ」とある。語注記を見るに、「仙人なり。仙道を学び、爪を剪(キ)る暇(イトマ)これなく、これによりて背なかを爬(カ)く物とこれを名づく」という。現代人にも用いられている“孫の手”の名称由来である。ただ「仙人」としていて「仙女」であることは、ここでは明確でないが、後漢の時代に姑餘山で仙道を修め、鳥のような長い爪で、痒いところを掻いてもらうと心地よかったという『神仙伝』巻二「王遠」にみえる話しに基づく記載である。当代の古辞書である『下学集』易林本『節用集』『温故知新書』『日葡辞書』は、この標記語を未収載としている。このことは、『運歩色葉集』そのものが、こうした神仙伝奇説話集の語をとりわけ収載しょうとする独自の編纂意図をになっていたことを示唆しているのではあるまいか。

また、この「麻姑」だが、岩波『古語辞典』引用例である、禅僧の筆録である『蔭涼軒日録』長享三(1489)年六月十四日に、「―を倩(ヤト)ひて癢(カユ)き所を爬(カ)くが如し」とあって、この譚自体広く流布していた可能性を感じないではない。そして、器財としての「まごの手」が江戸時代の辞書『書字考節用集』中に、

麻姑手(マゴノテ)――ハ王方平カ妹。仙女ナリ。其ノ手似鳥ノ爪ニ。得テ之ヲ掻コト背痒ヲ佳ナリ焉。詳[列仙傳[三才圖繪]。爪杖(同)又云掻杖。<八47A>

として登場することになる。

1999年10月1日(金)曇り。八王子⇒世田谷駒澤

時はまた 人知れず秋 真っ盛り

「醴酒(こさけ)

 古くは、平安時代の源順編の『和名類聚抄』に、

醴 四声字苑云醴<音礼。古佐計>一日一宿酒也。

とあって、この一日一夜で作る酒という“酒の生成法”について、語注記を示している。

 室町時代の古辞書『運歩色葉集』には、

醴酒(コサケ)年中行事献――。哥ニ云、幾(イク)千代モタヘス備エン花月ノ今日ノコサケモ君カマニ/\。<元亀本234G>

醴酒(コサケ) 季中行事ニ献‖−−|。歌ニ云、幾千代モタヱスソナヱン花月ノ今日ノ−−モ君カ随意/\。<静嘉堂本270B>

とあり、語注記に注目して見るに、「年中行事に醴酒を献ずる」こと。そして、「歌に云う」として、「幾千代も たへず備へん 花月の 今日のこさけも 君がまにまに」と記す。ここでは、『和名類聚抄』の“酒の生成法”には触れずして、その用途とその折に歌われた一首の和歌をもって注記としているのである。歌の表記について両写本を比較すると、歌末の「まにまに」を「随意」と漢字表記する静嘉堂本の表記法がこの歌の解釈書に基づくものであるまいかと想定しないではない。「まにまに」ついては、鎌倉時代の語源辞書『名語記』五に、「和歌の詞に、まにまにとつかへるはこの、ままなるべし。さながら、うちまかする心也。」とある。そして、この歌の典拠を次に求めねば成るまい。

 そして、当代の古辞書記載状況を確認してみるに、『下学集』易林本『節用集』には、未記載にある。また、『温故知新書』では、「+〕(コサケ)」<食服門B>と記載し、語注記はない。

 ここで、現代の国語辞書・古語辞書に目を転じてみるに、標記語「こさけ【醴酒】」は、収載されている。その意味説明の内容は、概ね「一夜で醸造する糟のある酒。米・麹・酒を混ぜ合わせて作る。」<岩波『古語辞典』より>と、『和名抄』『新撰字鏡』注記内容に基づくものであることが確認できる。

 

UP(「ことばの溜め池」最上部へ)

BACK(「言葉の泉」へ)

MAIN MENU(情報言語学研究室へ)

 メールは、<hagi@kk.iij4u.or.jp>で、お願いします。

また、「ことばの溜め池」表紙の壁新聞(「ことばの情報」他)にてでも結構でございます。