[7月1日〜7月31日迄]                             

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

 

2000年7月31日(月)晴れ。北海道(増毛→天売島)

 広がりの 果てや何処に 悠空は

「雜羽矢(まぜはのや)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「萬部」に、

雜羽矢 (マセハノヤ) 鵠羽、鴾羽、寉本白、此三鳥ノ羽也。此時一鳥ト云也。〔元亀本209C〕

雜羽矢 (マセハノヤ) 鵠羽(ヨウノハ)、鴾羽(トキノハ)、鶴(ツル)ノ本白、此三鳥ノ羽也。此時一鳥ト云也。〔静嘉堂本238E〕

雜羽矢 (マゼハノヤ) 鵠羽、鴾羽、鶴本白、此三鳥ノ羽。此時一鳥ト云也。〔天正十七年本中48ウC〕

とある。標記語「雜羽矢」の語注記は、「鵠の羽・鴾の羽・鶴の本白、此の三鳥の羽なり。此の時一鳥と云ふなり」という。『下学集広本節用集』は未收載にある。

 

2000年7月30日(日)朝方雨、濃霧後晴れ。北海道(雨竜→暑寒別岳→増毛)

 心眼か 山頂晴るゝや 海魅する

「屑巻(くつまき)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

(クツマキ) 矢。〔元亀本192E〕

沓巻 (クツマキ) 矢。〔静嘉堂本217F〕

沓巻 (クツマキ) 矢。〔天正十七年本中38オF〕

とある。標記語「くつまき」の表記を元亀本は「屑巻」とし、静嘉堂本・天正十七年本は「沓巻」としている。正しくは、「沓巻」その語注記は、「矢」という。『下学集』は未收載にある。広本節用集』には、

(ヤハズ/クワツクツマキ)括同。〔器財門557E〕

とあって、標記語を異にする。鎌倉時代の語源辞書『名語記』に、

矢ノ尻ノクツマキ、如何。コレハクチマキ歟。ワラジトテ、マク糸ノ名也。〔巻第九〕

とある。江戸時代の『書字考節用集』には、

矢足(クツマキ)[釋名]矢ノ本ヲ曰足。 (同)[孟子]。〔器財門八41A〕

とあり、標記語も語注記についても全く異なっている。

[ことばの実際]

新中納言是をめしよせて見給へば、しらのに鶴のもとじろ、こうの羽をわりあはせてはいだる矢の、十三束ふたつぶせあるに、くつまきより一束ばかりをいて、和田小太郎平義盛とうるしにてぞかきつけたる。〔『平家物語』巻第十一・遠矢、大系下332B〕 

2000年7月29日(土)晴れ。北海道(雨竜→旭川)

 一息の 凉なる川風 汗ぬぐふ

「管見(クワンケン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

管見 (ーケン) 管見天実小智之義ヲ也。〔元亀本190@〕

管見 (ーケン) 以管見ノ天実小智之義也。〔静嘉堂本214@〕

管見 (ーケン) 以管見天実ニ小智之義。〔天正十七年本中36ウ@〕

とある。標記語「管見」の語注記は、元亀本は「天実小智の義を管見すなり」という。静嘉堂本・天正十七年本は「管もって天を見、実に小智の義なり」という。意味は竹の管のような狭いところから天を見るように見識や視野などが乏しいことをいう。また、自分の意見や見解を述べる時にへりくだって表現する場合にこの語を用いる。『下学集』、広本節用集』は未收載にある。ただし、印度本系統の弘治二年本節用集』をみるに、

管見 (ーケン) 小智義。〔言語進退161E〕

とある。また、尭空本節用集』の「管見 (クワンケン)−絃」〔言語121@〕や両足院本節用集』の「管見 (クワンケン)」〔言語147@〕とあるように注記語を未記載にする。易林本節用集』にも、

管見 (クワンケン) 小知義。〔言辞135E〕

とある。逆に未収載とするものに、永祿二年本節用集』、『和漢通用集』がある。そして、ここには広本節用集』が記載しない標記語という観点からの研究がある。これを単なる見落としとしてみるか、かつまた、意図的編纂姿勢の表出とみるか今後考えてみたい。また、古くは鎌倉時代の『色葉字類抄』に、「管見(クワンケン)」〔370G〕と標記語のみが見える。また、『伊呂波字類抄』(室町初期写)にも、「々(管)見」〔445A〕と同じく標記語のみの記載が見えている。

 

2000年7月28日(金)曇り。八王子⇒北海道(札幌→雨竜)

 オリオンの 星座低きや 山の端に

「月蝕(グワツシヨク)日蝕(ニツシヨク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

月蝕 (ーシヨク) 月ノ盈則(トキン)ハ−(カクル)。日蝕(ニツシヨク)。〔元亀本191G〕

月蝕 (ーシヨク) 月盈則−。易〔静嘉堂本216C〕日蝕(ニツシヨク)。〔静嘉堂本41D〕

月蝕 (クワツシヨク) 月盈則−(カクル)。〔天正十七年本中37ウC〕日蝕(ニツシヨク)。〔天正十七年本上21ウ@〕

とある。標記語「月蝕」の語注記は「月の盈る則(トキン)ば蝕(カクル)」という。元亀本は、これに標記語「日蝕」を共に添える収載方法を取っている。そして、「丹部」にも「日蝕(−ジヨク)」〔元亀本38D〕の標記語を収載する。これには語注記は見えない。静嘉堂本は典拠を『周易』として、注記の最後に添える。『下学集』にも、

日蝕(−シヨク)。月蝕 (ーシヨク)。〔時節32A〕

と標記語のみを収載する。広本節用集』には、

月蝕 (グワツシヨク/ツキ、カワル) 日―。月―。〔時節門499A〕

とあって、注記語は、「日蝕、月蝕」というに留まる。

[ことばの実際]

 

2000年7月27日(木)曇り後小雨。八王子

しずく雨 夕陽の赤に 映えにけり

「弦(つる)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登部」に、

(ツル) 十二筋ヲ云一桶ト筋ヲ云一張ト。一ヲハ曰一筋ト也。〔元亀本160E〕

(ツル) 十二筋ヲ曰一桶ト。(七筋ヲ)曰一張ト。一ツヲハ曰一筋ト也。〔静嘉堂本176D〕

(−) 十二筋ヲ曰一桶ト筋ヲ曰一張ト。一ツヲバ曰一筋ト也。〔天正十七年本中19ウB〕

とある。元亀本は「一張」を「七筋」とするところを「筋」と誤る。静嘉堂本は、この「七筋」を脱する。標記語「」の語注記は、「十二筋を一桶と云ふ。一筋を一張と云ふ。一をば一筋と曰ふなり」という。『下学集』には、

(ツル)。〔器財116E〕

とあって、注記語は見えない。広本節用集』は、

(ツル/ケン)−与絃同字。〔器財116E〕

とあって、その語注記は「絃と同字」という文字表記についてのもである。ところが、印度本系統の多くが、

(ツル) 弓ノ―。〔永禄二年本、財宝105@〕〔尭空本、財宝95E〕〔兩足院本、財宝117A〕

と、「弓の弦」と注記するのに対し、弘治二年本節用集』は、

(ツル) 十二筋曰一桶。筋曰一張。一ヲハ一筋也。〔財宝127F〕(徳遊寺本も同じ)

とあって、『運歩色葉集』の注記内容に尤も近似ている。異なり語として最後に典拠を『庭(訓徃來註)』と記載しているところがあるにすぎない。そこで、この『庭訓徃來註』六月十一日の状を見るに、

弦巻 百筋十二筋ヲ云一桶一張。一ヲハ一筋也。〔謙堂文庫藏三七左H〕

とあって、これより弘治二年本節用集』、そして『運歩色葉集』がそれぞれ引用したことが見えてくる。この書写編集過程を鑑みるに、やはり、『庭訓徃來註』があって、これを弘治二(1556)年本節用集』さらには永禄十一(1568)年本節用集』(学習院大学藏、未見)の親本(未詳)とこの『運歩色葉集』(1547年成立)とが採録編集したということになる。となれば、『庭訓徃來註』の成立年代がただの室町末期写から『運歩色葉集』の編集年である天文十六(1546)年から天文十七(1547)年以前のほぼ数十年くらいの間になったものと推定が出来よう。今後『庭訓徃來註』からの成立年代研究に待ちたい。

2000年7月26日(水)雨。八王子

敬視する 草木も泥も 金色の身

「頓首(トンシユ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登部」に、

頓首 (トンシユ) 致恭敬之義也。〔元亀本56D〕

頓首 (――) 致恭敬之義也。〔静嘉堂本63C〕

頓首 (――) 恭敬之義。〔天正十七年本上32ウC〕

頓首 (――) 恭敬之義。〔西來寺本101@〕

とある。標記語「頓首」の語注記は、「恭敬致すの義なり」という。『下学集』には、

頓首 (トンシユ) 致恭敬ヲ也。〔態藝86F〕

とあって、『運歩色葉集』は、これを継承するものである。だが、この類語として『下学集』には、

稽首(ケイシユ) 稽ハ至也。首ハ至テ地ニ致ス恭敬ヲ也。〔態藝86F〕

と「稽首」なる語が収載されているのだが、『運歩色葉集』には未收載にあるといった一筋縄では行かない継承性を有している。これに代って「頓〓〔桑+頁〕(−サウ)同」の語を次に排列収載する。広本節用集』は、

頓首 (トンシユ、−ハジメ/ニワカ・タチマチ・ウナタルル、シユウ・カウベ) 謂(イワエル)頭(カウベ)向(ムカウ)下。虚揺而不至地。周礼第二ノ拝也釋氏要覧。〔態藝145D〕

稽首(ケイシユ、−ハジメ/イタダク・カンガウ。シユウ・カウベ) 稽ハ至也。言ハ至テ首於地ニ敬義也。釋氏要覧曰。謂屈シテ頭ラ至地ニ。周礼ノ九拝之砌也。〓〔桑+頁〕(−サウ/ヒタイ) 同上義也。〔態藝601E〕

とあって、こちらは『下学集』の語注記を「頓首」の語はすべて継承していない。「稽首」は、前文の注記は共通し、後半を増補するものとなっている。新たに「〓〔桑+頁〕」の標記語を添えている。さらに弘治二年本節用集』を見るに、

頓首 (トンシユ) 拝也。〔態藝門47A〕

稽首(ケイシユ) 稽ハ至也。言ハ首ノ至地致敬粛義。〔態藝門177G〕

とあって、「頓首」は、広本節用集』の「周礼第二ノ拝也」の部分を簡略化して「拝也」と注記する。「稽首」は前半部を収載するが「致敬義」のところを「致敬粛義」(永禄二年本も同じ)としている。易林本節用集』は両語とも標記語のみとなる。

[補遺] 『庭訓徃來註』に、

恐々謹言 敬白謹上上也。又頓首敬恭也。墨黒(クロミ)賞翫也。恐々畫亊自俗家□家ヘハ恐々敬白可畫。其餘真草行上中下有。被官ニハ恐々不畫。恐々謹言畫。〔謙堂文庫藏6右A〕

恐々謹言 敬白自謹言上也。又頓首敬恭也。墨黒賞翫也。恐々畫亊自俗家出家恐々敬白可畫。其余真・草・行、上・中・下有。被官ニハ恐々不畫。恐々謹言字草可畫。〔左貫注本3右A〕

とある。これも『下学集』からの引用と見る。

[ことばの実際]

如淳カ曰。嘉語テ其ノ吏ニ曰。今便行(ヲ−)テ斬之ヲ。通頓首(トン−)シテ首盡ニ。出血ト。史記ニ。アルソ。カウヘヲ。タヽイテイタスソ。〔『蒙求抄』963F〕

稽〓〔桑+頁〕(――)ハ。ヒタイ。タスノ義ソ。ヒタイヲ。地ニイタスソ。〔『蒙求抄』巻九「陳寔遺盗」825A〕

 

2000年7月25日(火)雨。八王子

 雨もまた 溢れる降りに 天耳得ず

「日勢(ヒノセイ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「比部」に、

日勢 (ヒノセイ) 一千由旬。〔元亀本343E〕

日勢 (ヒノセイ) 一千由旬。〔静嘉堂本412G〕

とある。標記語「日勢」の語注記は、「一千由旬」という。『下学集』『節用集』類は未收載にある。注記語「一千由旬」は、標記語には未収載にある。また、この語を現代の国語辞書・漢和辞書・古語辞書に求めてみるが、収載を見ない。

2000年7月24日(月)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

暑き日の 少しく風 和らぎて

「〓〔亥+欠〕逆・〓〔口+宛〕労(シヤクリ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古部」に、

〓〔亥+欠〕逆 (シヤクリ) 。〓〔口+宛〕労(同) 。〔元亀本316G〕

〓〔亥+欠〕逆 (シヤクリ) 。〓〔口+宛〕労(同) 。〔静嘉堂本372AB〕

とある。標記語「〓〔口+宛〕労」の語注記は典拠である『下(学集)』とあって、この『下学集』には、

〓〔口+宛〕(シヤクリ)。〔態藝76F〕

とある。広本節用集』に、

〓〔口+宛〕(シヤクリ)息(イキ)ノ病。〔態藝923C〕

とあって、注記に「息の病」という。ここで、『運歩色葉集』の「〓〔口+宛〕労」の語は「労」を付加していることで改編されたものとなっている。また、同部の単漢字排列群には、

〓〔口+宛〕(シヤクリ)。〓〔口+歳〕(同)。〔元亀本334C〕

〓〔口+宛〕(シヤクリ)。〔静嘉堂本398D〕〓〔口+歳〕(シヤクリ)。〔静嘉堂本398E〕

とあるが、語注記は未記載にある。当代の『日葡辞書』にも、

Xacuri.シャクリ(〓〔口+歳〕) 泣きじゃくり・しゃっくり.§Xacuriuo suru.泣きじゃくり・しゃっくりをする.〔邦訳741r〕

とある。

2000年7月23日(日)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

蝉鳴く樹 草に馬追ひ 人に汗

「六合(リクガウ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古部」に、

六合(ーカウ) 。〔元亀本73B〕

六合(――) 。〔静嘉堂本88B〕

六合(リクカウ) 。〔天正十七年本上44オD〕

六合(リクガウ) 。〔西来寺本133E〕

とある。標記語「六合」については、四写本とも注記語を見ない。そして、標記語「琴」の語注記〔2000.10.22の箇所参照〕のなかにおいて記載があり、これは『下学集』では「六合」標記を収載しないが、「」の注記語に、

(コト) 伏義(フツキ)造(ツクル)之ヲ。龍池ハ八寸通ス八風ニ。鳳池四寸合ス四時ニ。長サ三尺六寸象ル三百六十日ニ。廣(ヒロサ)六寸象(カタトル)六合(リツカウ)ニ天地四方也。前廣ク後(ウシロ)狹(セハキ)ハ象尊卑(ソンヒ)ニ。上圓(マルク)下方ハ法(ノツトル)天地ニ。五絃(ケン)ハ象ル五行ニ。君小絃ハ臣第一ヲハ爲ス宮商(キウシヤウ)ト。次キハ角徴羽(カクチウ)。次キハ少宮少商也。〔器財,111A〕

と用いられているのに当たる。広本節用集』は「計部」の「賢人」の引用句に、

賢人(ケンシン)ノ所(トコロ)ハ帰()スル、則(スナワチ)其(ソノ)國(クニ)強(ツヨク)聖人(セイジン)ノ所(トコロ)ハ帰()スル、則(スナワチ) 六合(リツカフ)同(ドウ)ズ。同(三畧)。〔態藝門608B〕

とある。この「六合」の読みは、『下学集』が「リツカウ」、広本節用集』が「リクカフ」と記載する。『名數語彙』(静嘉堂文庫藏、室町末期写・古辞書叢刊に依拠)に、

六合(−−) 事林廣記云ク、天地四方云也。

とあり、典拠を『事林廣記』としている。また、惟高妙安玉塵抄』(慶長九年写・国会図書館藏に依拠)に、

始皇ハ莊襄ノ子ナリ。始皇ノ代ニナツテ諸侯ヲナイカシロニシテ、天下ノ王ノ至尊ヲ足ニフミツケテ、天地四方アワセテ六ナリ。此ヲ六合(リツ−)ト云ソ。天下ノ心ソ。〔第44、古辞書抄物17−419M〕

とあって、意味は、天地四方すなわち全宇宙をいう。江戸時代の『書字考節用集』に、

六合(リクカフ) 郭〓〔王+僕〕云四方上下ヲ曰――ト。○出久。〔乾坤門一34G〕

六合(リクカフ) 六極。―幕。―幽。並仝。○天。地。四方。〔數量門十三43E〕

とある。

[ことばの実際]

是の時に、天手力雄神、磐戸の側に侍ひて、則ち引き開けしかば、日神の光、六合(クニノウチ)に滿(いは)みにき。〔『日本書紀』巻第一・神代上、大系上118B〕

然して後に、六合(クニノウチ)を兼ねて都を開き、八紘(アメノシタ)を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。〔『日本書紀』巻第三・神武天皇、大系212I〕

道(ダウ)、規矩(キク)に邁(ス)ぎ、明(メイ)、烏兎(ウト)に齊(ヒト)し。露(ツユ)、文下(ブンカ)に沈むで、六合(リクカフ)、無為(ブヰ)なり。〔『遍照發揮性靈集』巻第四、大系242J〕

同(おなじき)二十三年二月(きさらぎ)、かさねて託宣し給しに、「日月(ジツゲツ)は四州をめぐり、六合(リクガフ)を照すと云(いへ)ども正直の頂(いただき)を照すべし。」とあり。〔『神皇正統記』仁徳、大系82G〕

天照太神(アマタラスオホムカミ)、是(コレ)をよしなき事に思召(オボシメシ)て、八百萬神達(ヤホヨロヅノカミタチ)を引具して、葛城(カヅラキ)の天(アマ)の岩戸(イハト)に閉(ト)ぢ籠(コモ)らせ給ひければ、六合内(クニノウチ)、皆常闇(トコヤミ)に成(ナツ)て、日月の光も見えざりけり。〔『太平記』巻第二十五・伊勢より宝剣を参らする事、大系二457C〕

2000年7月22日(土)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

百日紅 花やわらかに 日射し傘

「和合(こねあはする)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古部」に、

和合(コネアハスル) 福。〔元亀本233E〕

和合(コネアハスル) 福。〔静嘉堂本268E〕

和合(ワカウ) 。〔天正十七年本中63オC〕

とある。標記語「和合」の語注記は「(有林)(田方)」という。『下学集』には、標記語は未収載であるが、「甘草(カンザウ)」の注記語に、

甘草(カンザウ) 異名(イ[ミヤウ])ヲ云フ國老(コクラウ)ト。言ハ若シ藥(クスリ)ト与藥投合スルニ相敵シテ成ス毒ヲ時以テ甘草ヲ加フル之ヲ則(トキ)ハ兩藥和合シテ不ス成(ナサ)害(カイ)ヲ。故ニ一切ノ藥ニ必ス加フウル甘草ヲ也。然ルニ若シ兩國相敵シテ成ス害ヲ時ハ有リ國老。來テ而弁(ベン)シ理非ヲ和睦([ワ]ボク)スル之ヲ則(トキ)ハ不ル成サ害ヲ也。故ニ以テ之ヲ爲ス喩(タトヘ)ヲ。詳ニ見タリ本草ニ。〔草木127@〕

とあって、「両薬和合して」と用いられている。広本節用集』には、

和合(ワガフ/−アワス) 。〔和部、態藝門238C〕

とあって、語注記は未記載にある。

[ことばの実際]

あまたの食らひ残し、呑み残したるものを、とりあつべ、こねあはせ一段うまさうなる料理也。〔仮名草子『可笑記』三〕

2000年7月21日(金)薄晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

百合の花 遠めに白く 美しき

「桴・枹、撥(ばち)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

(バチ) 音(コヘ)ハ孚(フ)。聚分韻云。太皷槌也。(バチ) 琵琶(ビハ)。〔元亀本35@〕

(バチ) 音孚。聚分韻云。太皷槌也。(バチ) 琵琶。〔静嘉堂本37B〕

(ハチ) 音ハ孚。聚分韻云。大皷槌也。(ハチ) 琵琶。〔天正十七年本上19オG〕

(バチ) 音(コヘ)ハ孚(フ)。太鼓槌也。聚分韻云。(バチ) 琵琶(ビハ)。〔西来寺本〕

とある。標記語「〓〔桴+枹木扁に旁は「爪」に「巳」と作る」の語注記は、「音(コヘ)は孚(フ)。太鼓の槌なり。聚分韻略にいふ」とあり、標記語「」の語注記は「琵琶」という。ここで、『運歩色葉集』の注記にいう「」の注記語を『聚分韻略』(無刋記原形十行版)をもって確かめてみるに、

(フ/ハチ) 鼓槌。音浮。〔巻二、尤侯幽第十一・器財門354H〕*慶長版・文明十一年版は、音表記を「フウ」と表記する。文明十一年版(東洋文庫藏)には、書き込みとして「ヒウ」の音が見える。

〓〔木+戻〕(レイ)琵琶〓〔木+戻〕也。〔巻四、霽祭第八・器財門428B〕

とあって、上部の標記語はこれに依拠するものであることを知る。『下学集』は、

(バチ) 琵琶ノ撥也。〔器財111D〕

とあって、後者の方だけを収載するに留まっている。広本節用集』は、

(バチ) 撃(ウツ)鼓。枚也。或作。〓〔木+戻〕。〔木+爪已〕。〔器財門60A〕

と記載する。慶長十八年版倭玉篇』に、

(フ)バチ。イカダ。〔中203E〕(ハウ)ツヽミノバチ。バチウツ。〔中203F〕

とある。鎌倉時代成立の天文本字鏡鈔』巻第二には、

(ホウ・ハウ)ハチ、エタ、ツヽミノハチ。〔木部251@〕

といった和訓が見えている。

[ことばの実際]

列四十六枹鼓。ハ。バチ也。罪ヲコトハルニ。皷(ツヽミ)ヲウツニ。今咎人少キ。ホドニ。鼓ヲナラス事マレ也。師古。ハ撃鼓ヲ椎也。音桴其ノ字從木ニ也。トヨム時ハ。木ノ名也。コノ不鳴ハ。諫皷苔(コケ)深シテト云フ處ソ。〔『蒙求抄』張敝畫眉988I〕

2000年7月20日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢) 海の記念日

 アゲハ蝶 ひらり舞ふや 暑き昼

「祇園(ギヲン)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「記部」に、

祇園(ギヲン) 陽成→五十七代帝元慶二戌立。至天文十七戌申六百七十一年也。圓融→六十四代天禄三壬申ーー會始。至天文十七戌申五百七十年也。〔元亀本282F〕

祇園(ギヲン) 陽成元慶二戌立。至天文十七戌申六百七十一季也。圓融禄三壬申ーー會始。至天文十七戌申五百七十七季。〔静嘉堂本323B〕{西暦878年→1548年}{西暦972年→1548年}

とある。標記語「祇園」の語注記は、「陽成→五十七代帝元慶二年戌立つ。天文十七年戌申至る六百七十一年なり。圓融→六十四代天禄三年壬申祗園會始る。天文十七年戌申至る五百七十七年なり」という。ここで、元亀本と静嘉堂本とで文字表記のうえで異なりが二箇所見えるが、補正の範疇にあるものである。

また、「祗園會」については標記語はないが、「祗園社」として標記語が見えていて、

祗園社(−ヲンヤシロ) 貞觀五十六代清和十八丙申始勧請。至天文十七戌申六百九十四年也。〔元亀本285E〕

祗園社(ギヲンシヤ) 貞觀十八季丙申始勧請。至天文十七戌申六百九十四季也。〔静嘉堂本330C〕{西暦876年→1548年=673年}

とある。語注記「貞觀五十六代清和十八年丙申勧請を始る。天文十七年戌申至六百九十四年なり」という。ここで、年号を逆算した数値は694年とあるが、実数値は673年で数え違いをしている。この「祗園社」だが、現在の八坂神社で、お社は貞觀十八(876)年に勧請を始め、二年後の元慶二(878)年に建立され、「祗園會」こと「祗園祭り」は天祿三(972)年に始まったということになる。『下学集』は身収載にある。広本節用集』は、

祗園會(ヲンノヱ/ヲニツカミ・クニツカミ、ヱン・ソノ、クワイ・アツマル) 八月十五日也。〔時節門811A〕

とあって、注記内容はただ、「八月十五日なり」とあるだけで、詳細な記載は見えないのである。さらに、江戸時代の『書字考節用集』には、

祗園(ギヲン) 城州愛宕ノ郡八坂ノ郷。出加{祗園(カミノソノ)出幾}。〔二17G{一50G}〕

とあり、所在地を示すといった注記内容となっているのである。むしろ、『和漢三才図絵』の「祗園社」〔912下右〕に詳しい。

2000年7月19日(水)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

赤とんぼ 宙に悠にや 舞ひ遊び

「解倒懸(ゲダウケン・カイタウケン)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「賀部」に、

解倒懸(ゲダウケン) 七月十五日梵語ニハ盂蘭盆此(ココ)ニハ曰ーート言ハ、此日於冥府ニ暫ク脱ク罪人之倒懸ヲ。故ニ曰ーーート。聖武天皇天平聖暦五癸酉始行之。至天文十六丁未八百五十年也。〔元亀本101B〕

解倒懸(カイタウケン) 七月十五日梵語盂蘭盆此曰ーート言ハ、此日於冥府暫ク脱罪人之倒懸。故曰ーーート。聖武天皇天平聖暦五季癸酉始行之。至天文十六季丁未八百五十年也。〔静嘉堂本127C〕

解倒懸(カイタウケン) 七月十五日梵語盂蘭盆此日ーーート言ハ。此日於冥府暫脱罪人之倒懸。故曰ーーー。聖武皇帝天平聖暦五季癸酉始行之。至天文十六季丁未八百十五年也。〔天正十七年本上62ウB〕

解倒懸(カイタウケン) 七月十五日梵語盂蘭盆。此曰ーー云言(コヽロ)ハ。此日於冥府、暫脱罪人之倒懸ヲ。故ニ曰二ーーー。聖武皇帝天平聖暦五季癸酉始行之。至天文十六丁未八百五十季也。〔西来寺本〕

とある。標記語「解倒懸」の語注記は、「七月十五日、梵語盂蘭盆、此倒懸と曰ふ。言ふこころは、此の日冥府において暫く罪人の倒懸を脱く。故に解倒懸と曰ふ。聖武天皇、天平聖暦五季癸酉始めて之を行なふ。天文十六季丁未に至り八百五十年なり」という。すなわち、をいうのである。『下学集』は、「盂蘭盆」の項目で、

盂蘭盆(ウランホン) 七月十五日ナリ也。梵ニハ盂蘭盆。此ニハ云解倒懸(ケタウケン)ト|。言ハ此ノ日於冥府(メイ[フ])ニ暫ク脱ス罪人ノ之倒懸ヲ|。 故ニ云解倒懸ト。我朝聖武天皇天平五年ニ始テ行フ之ヲ也。〔時節29F〕

とあって、この注記語として、「解倒懸」の語を示している。その読み方は、元亀本と同じく呉音読みの「ケタウケン」であり、この当代にあって、この語を漢音読みで「カイタウケン」とも読まれていたことが考えられるのである。実際、広本節用集』も、「宇部」に、

盂蘭盆(ウランボン/ハチ・ホトキ、ラン・アララギ、ホトキ) 七月十五日。梵語也。此ニハ翻(ホン)ス解倒懸(カイタウ−)|。言ハ此日於冥府(ミヤウフ)ニ暫(シバラ)ク脱ス罪人ノ之倒(サカシマ)ニ懸(カカル)ヲ|。 故云解倒懸ト。我朝ハ聖武天皇天平五年ニ始テ行之也。〔時節門468G〕

とあって、『下学集』を継承する語注記内容である。ただし、「解倒懸」の読み方を「カイタウケン」と漢音読みし、また「冥府」の読みも「ミヤウフ」としていて、『下学集』と異なりを見せていることが『運歩色葉集』の元亀本と静嘉堂本・天正十七年本・西来寺本との読み方の差異と関わっているのである。とりわけ、元亀本が「賀部」にこの語を置きながら、この読みをあえて記載していたことは、書写者自体が『下学集』そのものからの直接的な継承に基づく判断がくだされていたことを示唆しているのである。また、『運歩色葉集』の編者は、「盂蘭盆」の標記語をどう収載しているのかと言えば、

盂蘭盆(ウランホン) 聖武天皇天平聖暦五癸酉始行之。至、天文十七戌申八百十六年也。〔元亀本182G〕

盂蘭盆(ウランホン) 聖武天皇天平聖暦五癸酉始行之。至天文十七戌申八百十六季也。〔静嘉堂本205A〕

盂蘭盆(ウランホン) 聖武天皇天平聖暦五癸酉始行之。至天文十七戌申八百十六季也。〔天正十七年本中31ウG〕

とあって、語注記の前半部を削って、「聖武天皇、天平聖暦五季癸酉始めて之を行なふ」として、「解倒懸」では、「天文十六季丁未八百十五年」とするところを「天文十七年に至る」とし、その年数を「戌申八百十六年」としているあたりが編集過程での時差となっているのである。この語において、『運歩色葉集』編者の標記語としての取り扱いが“梵語読み”より世俗的な“漢語読み”の「解倒懸」を主にしていることに注目しておきたい。『〓〔土+蓋〕嚢鈔』巻第五に、

[四十二] 盂蘭盆(ウラボン)ト云ハ何事ソ。七月十五日ヲ云ト云云。梵ニハ盂蘭盆ト曰。此ニ解倒懸(ケタウケン)ト曰。其故ハ、此日於テ冥途{土}(メイド)ニ暫ク脱ク罪人ノ倒懸ヲ|。解倒懸(ケタウケン)ト曰。本朝ニ、盂蘭盆始テ行事ハ、聖武天皇天平五年也ト云々。此二箇條ハ、年中行事ノ所ニ、付ルヘケレ共、名字ニ付テ、別シテ御尋ノ間、此ニ註シ侍リ。〔日本古典全集184K・古辞書叢刊三69〕

とあって、『下学集』に共通する内容である。すべて、「此ニハ解倒懸(ケタウケン)ト曰ふ」というように、指示代名詞「此に」が用いられているが、何を指しているのか不明確である。

[ことばの実際]

 

2000年7月18日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

夜に入り 梅雨明け空に 月朧ろ

「弦巻(つるまき)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「津部」に、

弦巻(ツルマキ) 不ハ塗(ヌラ)不着(ツク)。〔元亀本158D〕

弦巻(ツルマキ) 不ハ塗(ヌラ)不着(ツケ)。〔静嘉堂本174@〕

弦巻(ツルマキ) 不塗不着。〔天正十七年本中18ウ@〕

とある。標記語「弦巻」の語注記は、「塗(ヌラ)ずは、着くべからず」と意味不明な注記内容である。これが何を意味するものなのかは未解明にある。古くは「つるぶくろ【弦袋】」といい、『運歩色葉集』「津部」に「弦袋(ツルブクロ)」〔元亀本158D〕と標記語のみで収載されている。また、『安斎随筆』巻五に、「弦袋即弓の弦袋なり。足利公方の頃より弦巻とも云ひて二名あり。一物なり。」とある。『下学集』は未収載にある。広本節用集』には、

〓〔勝-巾〕(ツルマキ/シヨウ)或作弦巻(ツルマキ)ト。〔器財門415B〕

とあって、『運歩色葉集』の標記語を「或いは弦巻と作す」と語注記にて示しているのみで、異なりを見せているのである。

[ことばの実際]

亦、弓ノ絃・胡録ノ緒・絃巻等、皆喰損ジタリ。〔『今昔物語集』巻第五・天竺國王、依鼠護勝合戰語第十七〕

けさ(今朝)との(殿)ゝ朝かり(狩)につるまき(弦巻)をおといた つるまきわしよたい(正体)な(無)や五ちやう(帖)紙おといた〔中世歌謡「田植草紙」大系260・21〕

2000年7月17日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

芙蓉今 ここぞとばかり 咲き誇る

「指懸(ゆがけ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遊部」に、

指懸(ユカケ) 十結(同)。决拾(同)。論語(ロンコ)。〓〔革+合〕(同)。〓〔革+乗〕(同)。〓〔革-蝶〕(同)毛詩尚書〓〔弓+京〕(同)。〓〔革+必〕(同)。〓〔革+建〕(同)。白革−冨士野紫皮三星縫-目ユカケヲ緩々トハ不云。〔元亀本295F〕

指懸(ユカケ) 十結(同)。决拾(同)。論語毛詩〓〔革+也〕(同)。〓〔革+合〕(同)。〓〔革-蝶〕(同)毛詩尚書〓〔弓+糸〕(同)。〓〔革+必〕(同)。〓〔革+建〕(同)。白革−冨士野紫三星縫−(同)−ヲ俵トハ不云。歩射ノ−右――トハ云也。指時ハ右ヨリ指、取時ハ左ヨリ取ナリ。小児被申也。〔静嘉堂本343D〕

とある。標記語「指懸」の語注記は、元亀本が「白革−冨士野紫皮三星縫-目ユカケを緩々とは云はず」というのに対し、静嘉堂本は、「白革−冨士野紫三星縫−(同)−を俵とは云はず。歩射の−右――とは云ふなり。指す時は右より指し、取る時は左より取るなり。小児に申されるなり」と若干長く注記する。『下学集』には、

指懸(ユガケ)。决拾(ユガケ)異本詳ニ見ル。〓〔弓+葉〕(ユガケ)三字ノ義同シ。〔器財110E〕

とあり、広本節用集』には、

弓懸(ユガケ)。指懸(ユガケ/シケン)。〓〔革-謁〕(ユガケ) 。〓〔革+必〕(同)。〓〔弓+系〕(同)。〓〔革+合〕(同)日本世話ニ曰。此字ニハ有説多但有口傳云。决拾(ユガケ/ケツシフ)。决拾ノ二字ハ毛詩并論語ノ疏善詳在之。〔器財門862A〕

とあって、やや標記語の排列に異なりがみられ、注記内容は大いに異なっている。印度本系統の弘治二年本節用集』や永禄二年本節用集』には、

决拾(ユガケ) ――字者毛詩并論語疏詳見也。日本俗秘シテ其字ヲ|而不書。有口傳云々。指懸()。〓〔革-謁〕()。〓〔革-蝶〕(同) 口傳在之。〓〔革+合〕(同)。弓懸()。〓〔革+必〕(同)。〓〔弓+系〕(同)。繍〓〔革+?〕()冨士野往来在之。〔財宝226A〕

决拾(ユガケ) ――字者毛詩并論語疏見詳也。日本之俗秘其字ヲ|而不書。有口傳云々。指懸()。〓〔革-謁〕()。〓〔革+合〕(同)。弓懸()。〓〔革-蝶〕(同) 口傳在之。〓〔革+必〕(同)。〓〔弓+系〕(同)。〔財宝188C〕

とあって、注記の排列や記述説明を若干異にし、広本節用集』に無い語をも収載している。

[連関項目]2000.08.31(木)「六具(ロクグ)」参照。

2000年7月16日(日)晴れ。東京(八王子)

百合草に聞く 夕暮れ時の 愛らしさ

「弓(ゆみ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「遊部」に、

(―) 荒木藤放白木傍白木笛藤弓冨士野節藤弓同重藤弓本滋(シケ)藤檀弓槻(ツキ)弓梓弓。出人握解(トキ)弦ヲ紙ヨリニテ握ヨリ一尺斗上紐結ニシテ出也。小児説也。〔元亀本295E〕

(―) 荒木藤故白木傍白木笛藤弓冨士野節藤―同重故弓本滋弓檀弓槻弓梓弓。弓出人握ヲ解(トキ)弦ヲ紙ヨリニテ握ヨリ一尺斗上紐結ニシテ出也。小児ノ覽也。〔静嘉堂本343C〕

とある。標記語「」の語注記は、「荒木藤故白木傍白木笛藤弓冨士野節藤―同重故弓本滋弓檀弓槻弓梓弓。弓出人握ヲ解(トキ)弦ヲ紙ヨリニテ握ヨリ一尺斗上紐結ニシテ出也。小児ノ覽也」という。『下学集』は、「」の語は未收載にある。広本節用集』に、

(ユミ/キユウ) 逢蒙始作和氏之弓垂竹之矢(ヤ)。何(イツレモ)黄帝之時人也。釋名云。弓ハ穹也。張レハ之穹々然也。其末ヲ曰筝(ユハスト)ヲ。又曰弭(シ)。以骨ヲ爲之。弭々然トシテ滑也。中ル矢曰〓〔弓+付〕(ユンツカ)ト。人所持也。其端曰〓〔弓+區カウ〕ト。弓之用材ハ也。六ツ。曰幹角筋膠絲漆。幹(カン)之本ハ強ムルトキハ所ヲ及。必遠カル角之勢ハ順發ス必疾(シ)。筋之力鋭スル所ヲ申。必深合之以膠。則和ス。纒ニ之以絲。則固シ。環(メ−)ニ之以漆則霜雪不爲サ之カ損ヲ。六材既美ニシテ。又天ノ時。工巧不相違セ。此レ弓之所-以良也。孤ハ木弓嚢ハ弓衣。赤曰〓〔弓+山又〕。一名ク〓〔韋+長〕〓〔韋+建〕ト。又馬上ニ盛ル弓矢ヲ。器材ナリ。弓ノ檠(タメ)ナリ。古史ニ孝黄帝之臣ノ揮作弓。又云〓〔ヨヨ+廾〕ト。又云〓〔人+垂スイ〕ト。ニ云。弦(ツルカケ)テ木ニ為孤ト。〓〔炎+リケツ〕テ木ヲ為(ス)矢ト。孤矢之利。以威ス天下ヲ。凡ソ弓人為(ツクル)ニ弓ヲ取コトハ六材ヲ必以ス其時ノ六材ヲ。既ニ聚テ巧者和ス之。幹ハ也者以為メ遠キカ也。角也者以為疾キカ也。筋也者以為深キ也。膝也者以為和スルカ也。絲也者以為固(カタキ)カ也。漆也者以為受ルカ霜露ヲ也。凡為ルニ弓ヲ冬折ラ幹而春液(ヒタス)角ヲ。夏ハ治筋ヲ。秋合(アワス)三材ヲ。又孫子ニ曰、天子ハ彫弓。諸侯ハ彫弓。大夫ハ黒弓也。異名、菰黍。桑孤。烏號。黄間。黄洞。越棘。堂渓。魚腹。下合。弯月。流星。鳴的。大黄。繁弱。稚素。大屈。大黄奴。〔器材門861C〕

とあって、これも異なっている。『庭訓徃來註』六月十一日条には、

弓者 云御多羅枝|。言ハ初ニ截多羅樹ノ枝弓故云尓。騎馬弓ハ塗籠之弓也。〔37左F〕

とあって、武具の一つともいえるこの語はいずれも『運歩色葉集』とは注記内容を継承するものではなく、それぞれ独自の見解を付与した注記内容を見せているのである。

2000年7月15日(土)晴れのち小雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

恋愛せふ 夏松待つな 風情あれ

「七曜(シチヨウ)」と「九曜(クヨウ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」と「久部」に、

七曜(―ユウ) 日曜。月−。火−。水−。木−。金−。土−。〔元亀本328A〕

七曜(―ユウ) 日曜。月−。火−。水−。木−。金−。土−。〔静嘉堂本389D〕

九曜(―ユウ) 羅。土。水。金。日。火。計。月。木。〔元亀本194B〕

九曜(―ユウ) 羅。土。水。金。日。火。計。月。木。〔静嘉堂本220B〕

九曜(―ヨウ) 羅。土。水。金。日。火。計。月。木。〔天正十七年本中39ウB〕

とある。標記語「七曜」は、「日曜。月曜。火曜。水曜。木曜。金曜。土曜」とあり、現代の曜日排列と同じということになる。これに対し、標記語「九曜」は、「羅。土。水。金。日。火。計。月。木」という略表記にあり、その排列順が「羅〓〔目+候〕」という日月の光を蔽って蝕する星を先頭に土・水・金・日・火、そして、計都という昴宿の星を置いて、月・木としている。この「九曜」については、『下学集』に、

九曜(クヨウ) 羅〓星(ラコフセイ)。土曜星(トヨウ[セイ])。水曜星(スイ[エウセイ])。金曜星(コン[エウセイ])。日曜星。火曜星。計都星(ケイト[セイ])。月曜星。木曜星(モク[エウセイ])也。〔數量,143@〕

とあって、『下学集』からの継承注記であることが確認できる。『節用集』類は、この語は未収載にある。この語注記は、「七曜星」または「七星」に、「羅〓〔目+候〕星(ラゴセイ)=蝕星」と「計都星(ケイトセイ)=彗星」を加え九つとする。当代の『日葡辞書』には、

Cuyo>.クヨウ(九曜) Coconotcuno foxi.(九つの曜)空にある,或る九つの星.〔176r〕

と記載されている。江戸時代の『書字考節用集』には、

九曜(クヨウ) 又云−執。○羅〓〔目+候〕。土曜。水曜。金曜。日曜。火曜。計都。月曜。木曜。〔十三60D〕

とあって、ここでも排列順序は一致しているのである。

[ことばの実際]

無實の罪によッて遠流の重科をかうぶる事を、天道あはれみ給て、九曜のかたちを現じつゝ、一行阿闍梨をまもり給。時に一行右の指をくひきッて、左の袂に九曜のかたちを寫れけり。和漢兩朝に眞言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。〔『平家物語』巻第二、大系上149IJK〕

『庭訓往来註』九月九日の状

薄濃墨畫一對九曜曼多羅 一行阿闍梨ハ玄宗御持楊貴妃。掛落国流仲ニハ道有。綸地道カエノ御幸道遊地道トテ雜人道闇穴道トテ重科行。一行立犯人故闇穴ス。七日七夜程不日月之光行也。冥々トシテ深々トシテ山深行歩千度迷ンヲ只函谷一声計ニテ凋衣千敢也。一行實罪天道九曜給照一行|也。一行則右食_切九曜。和漢真言之本尊也。九曜之曼多羅是也云々。〔謙堂文庫藏五〇左F〕

[補遺]「九曜(クヨウ)の紋平将門公の紋章が九曜紋であり、のちに縁起紋として、平安時代末期より衣装や牛車の紋様に見ることができる。中村屋の社章、右馬の図上に「九曜の紋」<相馬氏 陸奥中村六万石 九曜>。

2000年7月14日(金)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

 デデューイと 叢の虫 せせり鳴き

「八曜(ハチヨウ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波部」に、

八曜(―ヨウ) 北斗七星。又有北星ニ。〔元亀本30G〕

八曜(―ヨウ) 北斗七星。又有。〔静嘉堂本31@〕

八曜(―ヨウ) 北斗七星。又有星ニ。〔天正十七年本上16ウA〕

八曜(―ヨウ) 北斗七星。又有北星ニ。〔西來寺本54C〕

とある。標記語「八曜」の語注記は、「北斗七星。又は北星にあり」という。注記語「北斗七星」について標記語と語注記は未記載にある。『下学集広本節用集』には未收載にある。この「北斗七星」の別名は、「曜魄」という語が用いられる。また、「本命元辰」と「七星」の項目でいうところの「貪狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星」という北斗七星それぞれに名が付いているのである。ここで疑問なのは、何故「七曜」でなくして「八曜」というのか?この点をさらに明確にせねばなるまい。

ことばの実際]“北斗七星”“北斗七星”“『烏の北斗七星』”“北斗七星の日

頭注に「大悲妙見菩薩は、天の北極においでになる。衆生の願いを満足させようというので、空に北辰として姿を現していらっしゃる。⇒補「妙見七仏八菩薩所説大陀羅尼神咒経二「我北辰菩薩。名曰妙見。今欲神咒護諸国土。所作甚奇特。故名曰妙見。処於閻浮提。衆星中最勝。神仙中之仙。菩薩之大将。光目諸菩薩。曠濟諸群生。有大神咒。名胡捺波。晋言擁護国土。佐諸国王。消災却敵。莫之」とあり、妙見菩薩は中国で生まれた仏で、日本では密教と陰陽道で祭られて「北斗七星」の化身と考えられていたようだ。

平良文将門の叔父。武蔵国大里郡村岡(埼玉県熊谷市)を本拠地とす。良文は、妙見菩薩を深く信仰し、北の地を目指し、朝廷から陸奥守鎮守府将軍を賜り、陸奥国胆沢(いざわ)城に赴任する。後の世に、坂東八平氏と呼ばれた畠山、千葉、上総、土肥、三浦などの名家を生むことになる。

2000年7月13日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

百合草の花 一歩前に出 時を聞く

「八草(ハツサウ)」

室町時代の古辞書運歩色葉集』の「礼部」に、

八草(――) 菖蒲。蓬。胡麻。〓〔艸繁〕〓〔艸婁〕羊負木(ラウ)。芥子。荷葉。又者、荷葉。蓬。杓杞。菖蒲。白朮。芍藥。石菖。車前草。〔元亀本31A〕

八草(――) 菖蒲。蓬。胡麻。〓〔艸繁〕〓〔艸婁〕。羊負木。結柄。芥子。荷葉。又者、荷葉。蓬。杓杞。菖蒲。白朮。芍藥。石菖。車前草。〔静嘉堂本31E〕

八草(――) 菖蒲。蓬。胡麻。〓〔艸繁〕〓〔艸婁〕。羊負木。結柄。芥子。荷葉。又、荷葉。蓬。杓杞。菖蒲。白朮。芍藥。石菖。車前草。〔天正十七年本上16ウD〕

八草(――) 菖蒲。蓬。胡麻。〓〔艸繁〕(ハコヘ)〓〔艸婁〕。羊負木。結。芥子。荷葉。又、荷葉。蓬。杓杞。菖蒲。白朮。芍藥。石菖。車前屮。〔西来寺本55B〕

とある。標記語「八草」の語注記は、「菖蒲。蓬。胡麻〓〔艸繁〕〓〔艸婁〕羊負木佶柄(ラウ)芥子。荷葉。又者、荷葉。蓬。杓杞。菖蒲。白朮芍藥石菖車前草」という二種類の薬草があるというものである。この二種類のどこが異なるかといえば、「八草」のうち、六つが異なるのである。『下学集広本節用集』は未収載にある。『庭訓徃來註』に、

八草(――) 菖蒲。蓬。胡麻。〓〔艸繁〕(ハコヘラ)。奈茂免。結柄(-イヤフ)。芥子。車前草。又、蓬。荷葉。杓杞。車前草。菖蒲。白朮。芍藥。石菖也。〔十二月晦日の条、六一左G〕

とあって、大概では共通するのだが、

@「ハコベラ」の「〓〔艸婁〕」の字を欠字。

A「オナモミ【羊負木】」を「奈茂免」と表記する。

B「荷葉」を「車前草」とする。

C「又は」以下の「八草」の排列順序に異同が見られる。

といった細部的には異なりが見られるのである。

 また、この『運歩色葉集』の二種の「八草」について、後編補遺部の「草花名」をもって見るに、「芍藥(シヤクヤク)」「菖蒲(シヤウブ)」「石菖(セキシヤウ)」「芥子(ケシ)」「胡麻(コマ)」「白朮(ヲケラ/ヒヤクジユツ)」「車前草(シヤセンサウ)」「蓬(エモギ)」の語が収載されているに留まり、「ハコベラ【〓〔艸繁〕〓〔艸婁〕】」「ナモミ【羊負木】」「ユイヤウ【結柄】」「クコ【枸杞】」の記載を見ないのである。この点について見る限り、前編イロハ部と後編補遺部とでは、編纂の統一性がなされていないことが明確となってくる。すなわち、引用資料の異なりという編纂手続きにおいて別個の作業編纂の取組みを後に一つに仕立て上げたものともとれるのである。

江戸時代の『書字考節用集』には、

八草(ハツサウ) 菖蒲。艾葉。車前。荷葉。蒼耳(ナモミ)。忍冬馬鞭。〓〔艸繁〕〓〔艸婁〕。〔数量、十三58E〕

としている。

2000年7月12日(水)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

向日葵や 丈二倍なる 夏の昼

「列子乗風(レツシはかぜにのる)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「礼部」に、

列子 乗(レツシハカゼニノル) 仙人也。〔元亀本151E〕

列子 乗(レツシハカセニノル) 仙人也。〔静嘉堂本165A〕

とある。標記語「列子乗」の語注記は、「仙人なり」という。これは、『莊子』逍遥游の「列子は風にうち乗りて駆け巡り、軽やかですばらしい。十五日経って、風が変わると戻ってくる」というもので、『述異記』巻下にも「列御寇は鄭の出身、風にうち乗り駆け巡り、常に立春の日に八荒に遊び、立秋の日に風穴に帰る。この風が吹くようになると草木が皆生え、吹かなくなると草木が皆枯れる。その風を離合風という」とある。『運歩色葉集』には、この「離合風」の語は未収載である。『下学集広本節用集』は未收載にある。

 1999年11月13日(土)の「ことばの溜池」に記述した内容をここで再度検討したものである。

[ことばの実際]

莊子曰、列子御風而行冷然經旬五日而後返司馬彪注曰列子御人禦寇也。御迎也。冷然凉皃。〔『太平御覧』天部九・風。一45下左I〕

陸機要覧曰、列子御風常以立春歸于八荒、立秋遊乎風穴。是風至草木、皆生去、則揺落、謂之離合風。

列子は風にうち乗り、常に立春に八荒に帰り、立秋に風穴に遊ぶ。この風が吹くようになれば、草木がみな生え、吹かなくなれば揺れ落ちる。この風を離合風という。〔『太平御覧』巻第九、{西晋代の}陸機『要覧』一47上右A〕

2000年7月11日(火)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

乙女子の おはようといふ 声を聞き

「業平(なりひら)」と「伊勢物語(いせものがたり)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「那部」と「伊部」に、

業平(ナリヒラ) 陽成院元慶五辛丑五月廿六日卒。至天文十七年戌申六百六十八年也。〔元亀本167B〕

業平(ナリヒラ) 陽成院元慶五辛丑五月廿六日卒。至天文十七年戌申六百六十八年也。〔静嘉堂本186B〕

業平(ナリヒラ) 陽成元慶五季丑五月廿六日卒。至天文十七戌申六百六十八年也。〔天正十七年本中23ウE〕

とある。標記語「業平」の語注記は、「陽成院、元慶五辛丑、五月廿六日に卒す。天文十七年戌申より至ること、六百六十八年なり」という。ここにあって、次の「伊勢物語」との連関性は全く未注記となっている。

伊勢物語(イセモノガタリ)。〔元亀本16G〕

伊勢物語(――――)。〔静嘉堂本10G〕

とあって、標記語「伊勢物語」の語注記は未記載にあり、この二語の連関性は見れない。さらにまた、「安部」に「在原」なる語も見えていないのである。『下学集』『節用集』類は未収載にある。ここで、『庭訓徃來註』を見るに、

隼人佑在原 偖モ彼伊勢物語ト申ハ業平ノ中將ノ一生涯ヲ語也。彼業平ト申ハ平生天王ニ第四ノ王子阿保親王ニ第五ノ王子、御母ハ桓武天皇ノ御娘伊豆ノ内親王ノ御子也。天長二年丁ノ巳年生レ給フ。淳和天王ノ御時ニ童ハ七歳ニテ天上成セ給イ梟リ。深草ノ御門ノ時、三笠山ノ臨時之役ニ被レサセ指給テ内裡ヨリ蝶ノ姿ニ出立透額ノ冠ヲ召シ忍摺ノ於祢衣ヲ被召、角白ト申午ヲ被セ給々テ、五節ノ伶人ニ立シ故ニ五節ノ中將ト申ナリ。其後、承和十四年乙卯歳、在原ノ姓ヲ給リ在原ノ中將トモ申也。其後ニ業平娑婆ノ芳札尽給テ、大和国布流ノク布原寺ト云寺ニ御名残サセ給ヘリ。其レ迄テハ業平ノ一生涯ヲ語也。然ニ彼伊勢物語ヲ當宮ノ御所ニテ被レケルニ作、冬サレク色ノ衣ヌ着タル一人来、此物語ヲ作給フ者哉。其モ哥ノ二首入ント有リシ時、自ノ四方御使ソト問ケレハ、其ノ返亊云。不シテ神風ヤ伊勢ノM荻折敷テ旅寢ヤスラン荒M辺ニ。思フ亊云テヤ只ニ休カマシ我ト等キ人シ无ケレハ。加様ニ詠シテ立皈ントシ給フ時、佐モアレ自四方何ツ方ヘ御通リ有ソト問ケレハ、是ハ自ト伊勢斗ニテ如ニ消ルカ失給。佐テハ無疑処伊勢大神宮ノ御使也トテ心謂伊勢物語ト申也。〔63左H〕

とあって、この『伊勢物語』(名の由来)と「在原業平」(人物略伝)とが連関して記述されているのである。これと一部類似する内容を収載するものに、『塵荊鈔』(国会図書館藏・室町期写本)があって、

問、伊勢物語之内、深秘ノ歌在ト云ヘリ。何(イヅレ)ノ歌ニテ侍リケル哉。答、其コソ此道ノ秘中ノ秘ニテ候。先此物語ト申ハ、在原ノ中將業平卿作給テ、未ダ世ニ弘メ給ハデ失ニキ。紀ノ在経ガ女(メ)、伊勢ニ遺言シテ世上ニ伝フ。凡一部ノ内、大概(ガイ)ハ伊勢ガ事ヲ書給ヘリ。故ニ是ヲ伊勢物語ト名付給者也。又曰、昔物語ヲ春宮ノ御所ニテ作給時、聴(ユルシ)ノ色ノ衣ニ懸帯カケタル女房来テ、難有モ此物語ヲ製(ツク)リ給物哉、然バ歌ヲ二首入ベキ由言梟。是ハ何(イヅク)ヨリ如何ナル人ノ宣(ノ)ゾト問。返事ハ無シテ二首ノ歌ヲ詠ケリ。

  伊勢ノ浜浙(ヲリニ)々ハヘテ旅寝ヤスラン荒キ浜辺ニ

  思フ事言ハデ只ニヤ休マシ我トヒトシキ人シナケレバ

トバカリニテ出給フヲ、袖ヲヒカヘテ問梟バ、伊勢ヨリトテ失ニケリ。サテハ忝モ太神宮ノ御使ト心得、其ヨリ伊勢物語トハ申共云ヘリ。〔古典文庫上、346〜347頁〕

といった具合である。『庭訓徃來註』と『塵荊鈔』との接点があって、かつ、『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との接点もあって、今後、これらの時代共通性の話題内容がどのように伝播されていったのか注目視していかねばなるまい。この記述中、「透額ノ冠」については、以前2000年6月3日(土)の「ことばの溜池」で記述した。この注釈には、業平の没年月日が記載されていないのが大きな特徴であろうか。この話の典拠は、『伊勢物語難義注』(「口決」のように、重要な事項についての秘伝を伝承する。書陵部・桃園・鉄心齋文庫が所蔵)に同じく見えている。

 替わって江戸時代の『和漢三才図絵』に、

業平朝臣ノ家 三条坊門南高倉ノ西

とあって、没年月日が記されるのであるが、ここに「廿六」と「廿八」の違いがある。また、『和漢三才図絵』では、「透額ノ冠」の記述を欠いている。

2000年7月10日(月)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

楽しきに 言をなすにや 宵のいり

「雅意(ガイイ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「加部」に、

雅意(ガイ) −者我也。〔元亀本133D〕

とある。標記語「雅意」の語注記は、「雅は我なり」という。『下学集』には、

雅意(ガイイ) 我意ノ義也。〔態藝76@〕

とあって、語注記内容を継承する。広本節用集』には、

雅意(ガイ/タダシ・マサシ、ヲモフ・ココロ) 随意ノ義。我意也。〔態藝282@〕

とあって、多少異同が見えてはいるが、やはり継承するには変わりがない。この部分を『庭訓徃來註』に、

而土貢(ドコウ)之現利巨多萬亊任雅意(ガイ−)ニ下学集ニハ我意ノ義正キ義也。世俗取狼藉ニ誤也。〔十二月日条65右E〕

とあるが、『運歩色葉集』の注記内容は、これには基づいていないのである。このように、『庭訓徃來註』から注記内容全てを引用するのではなく、あくまでも取捨選択がなされた編纂方式が執られていたことを確認するのである。

[ことばの実際]

雅意 叔蕭望之ーー在。夲朝(夲)。〔『韻府群玉』ゥ韻四068左H〕

 

2000年7月9日(日)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

にぃにぃと 蝉鳴き出し 唐黍も

「富士山(フジサン)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「部」に、

冨士山(フシサン) 万葉集云、不尽山。此山至テ高シ。瞻望スル不ル尽故也。又四時雪不尽故也。今日、今日ト此山神女体也。冨男子ト故也。世俗祝シテ以テ、名――也。人皇第七代孝霊帝善記三年甲辰三月十五日一夜ニ自地、涌出。其高コト一由旬也。至天文十七戌申千二十五年也。〔元亀本225D〕

冨士山(フジ−) 万葉集云、不尽山。此山至高。瞻望不尽故也。又四時雪不尽故也。今曰‖―――。此ノ山神女体也。欲冨男子故世俗祝シテ以テ、―――也。人皇第七代孝霊帝善記三季甲辰三月十五日一地涌出ス。其ノ高一由旬也。至天文十七季戌申ニ。千二十五季也。〔静嘉堂本258D〕

冨士山(―――) 万葉集云、不尽山。此ノ山至テ高シ。瞻望スル不尽キ故也。又四時雪キ不尽故也。今曰‖―――|。此山神女体也。欲冨男子ヲ故ニ世俗祝(シユク)シテ以テ、名―――也。人皇第七代孝霊帝(カウレイーイ)善記三季三月十五日一夜從地涌出。其高一由旬也。至天文十七戌申。千二十五季也。〔天正十七年本中58オF〕

とある。標記語「冨士山」の語注記は、「『万葉集』に「不尽山」と云ふ。此の山、至つて高し。瞻望するに尽きざる故なり。又、四時に雪尽きざる故なり。今、冨士山と曰ふ、此の山神は女体なり。心男子に冨まんことを欲する故に世俗祝して以って、冨士山と名づくなり。人皇第七代、孝霊帝の善記三年甲辰、三月十五日、一夜に地より涌出す。其の高きこと一由旬なり。天文十七戌申に至ること、千二十五年なり」という。『下学集』は、

冨士山(フジサン) 萬葉集ニハ云不尽山(フジ[サン])ト|。言(イフココロ)ハ此ノ山至テ高シテ而瞻望(センバウ)スルニ不尽。故ニ云フ尓(シカ)。又タ四時ノ之雪キ不尽キ故ニ云フ尓。冨士ハ者此ノ山ノ之神女体ニシテ而心([ココ]ロ)欲冨ンコトヲ|。故ニ世俗祝シテ以テ名クーー(フジ)也。人王第七代孝霊帝ノ時一夜ニ従リ地涌出ス。其高サ一由旬繕那也。〔天地21D〕

とあって、若干の注記語の異同は見えるが、『運歩色葉集』はこれを継承するものである。このうち、最後の「至天文十七戌申。千二十五季也」は、『運歩色葉集』編者の独自の注記箇所である。さらに、広本節用集』には、

冨士(フウ、トム。サブライ) 駿河冨慈(フシ)天童。冨二義祖。婦盡(フシ)。不二。不盡。大明一統史不児。又万葉集ニ云不盡山|。心ハ此ノ山至テ高シテ、而瞻望スルニ不盡(ツキ)。故云尓。又四時雪不盡。故云不盡ト。此山ノ神女体ニシテ而心欲冨(トマ)ンコトヲ|。故世俗祝シテ以テ、名冨士。人王第七代孝靈帝ノ時、一夜ニ従地涌出ス矣。高サ一由旬也。〔天地門617B〕

とあって、上部に「駿河冨慈(フシ)天童。冨二義祖。婦盡(フシ)。不二。不盡。大明一統史不児。」と増補注記し、「又」以下の注記内容を『下学集』から継承する。注記語の継承状況は、脱語の「心ハ」や改字の「男ニ(男ニ)」といったように『運歩色葉集』より正確に引き継いでいることがわかる。印度本系統の永祿二年本節用集』と尭空本節用集』は、

冨士山(フジサン) 万葉集不尽山言ハ此山至高ニシテ而瞻望ルニ不尽。故云尓。又四時(シイシ)ノ之雪不尽故ニ云尓。云――者此山之神女体ニシテ而心欲故ニ世俗祝シテ以テ名ーー也。人王第七代孝霊帝ノ時、従地涌出シテ。其高サ一由繕那也。〔永祿本天地146B〕

冨士山(フ――) 万葉集不尽山言ハ此至高而瞻望スルニ不尽。故云尓。又四時之雪不尽故ニ云――者此山之神女体而心欲|。故世俗祝以名ーー也。人王第七代孝霊帝時、従涌出其高一由繕那也。〔尭空本天地146B〕

とあって、これも『下学集』の標記語及び注記内容を素直に継承するのである。ただし、弘治二年本節用集』は、

冨士山(フジサン) 萬葉集不尽山〔天地178F〕

と冒頭部分のみの省略注記による簡略化した引用となっている。この語の簡略化注記をとるのは他に、『和漢通用集』や図書陵零本節用集』が、

冨士山(ふじのやま) 萬葉集不盡山(同)〔天地292D〕

冨士山(フジサン) 萬葉集不盡山〔天地23F〕

とある。さすれば、この「冨士山」の注記内容だが、一体何に依拠するものなのか?冒頭の『万葉集』に「不盡山」という注記表現に始まることからして、これに関連する注釈書の類がまず想定されよう。

江戸時代の『書字考節用集』には、

富士山(フジサン) 不盡不死不二。並ニ通シ用。○駿州――郡。[本朝文粋]古老傳テ云フ。山ヲ名ルハ――ト郡ノ名ヲ也。又宋ノ景濂日東ノ曲ニ蟠根直壓シテ三州ノ間云々。今按ニ三州ハ謂駿。豆。甲ヲ也。〔乾坤一92A〕

とある。

[ことばの実際]「富士山」「富士山」の由来。

都良香(834?879年)『富士山記』に、(11世紀成立と言われる漢詩文集『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に含まれる)には、富士山についての伝聞記事がいくつか含まれる。そのなかに「承和年中、従山峯落来珠玉、玉有小孔、盖是仙簾之貫珠也」とある「其の遠きに在りて望めば、常に煙火を見る」(原漢文)

2000年7月8日(土)雨のち晴れ。八王子⇒

雨の音 消えて鳥鳴く 日和知る

「阿摩乃波(あまのがは)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「安部」に、

阿摩乃波(アマノガハ) 万。〔元亀本263E〕「賀」の字を脱す。

阿摩乃賀波(アマノカハ) 万。〔静嘉堂本299D〕

とある。標記語「阿摩乃賀波」の語注記は典拠である「万」とだけあり、『万葉集』に見えるということを示唆している。そこで実際に『万葉集』に見える「あまのがは」の語を検索してみるに、「天河原」〔二0167・八1520・八1528〕「天之河原」〔十2092〕「天河」〔十2019・十2070〕「天川原」〔三0420〕「天漢」〔八1519・九1764・十2001・十2040〕「天漢原」〔八1527・十1997・十2003〕「天之漢原」〔十2093〕とあるにすぎない。万葉仮名による表記をもって示すのは万葉集に関係する別の資料ということになってくる。因みに、源順和名類聚抄』には、

天河 兼名苑云一名天漢。今按又名河漢銀河也。和名阿萬乃加八.〔元和三年古活字版二十巻本、巻第一三オBC〕

とあって、万葉仮名は「阿萬乃加八」としている。『下学集』には標記語「銀河」の注記に、

銀河(ギンカ) 天河也。〔天地17C〕

(ウキヽ) 張博望乗(ノツ)テ一ノ槎ニ窮(キワム) 天河也。〔器財118A〕

と「あまのがは【天河】」の語が見えているに留まる。『運歩色葉集』には、同じ「安部」に二語排列語群にして、

天河(アマノカワ)。銀河()。銀漢()。銀渚()。〔元亀本258AB〕

天河(アマノカハ)。銀河()。銀漢()。銀渚()。〔静嘉堂本291EF〕

といったように、「あまのがは」の表記字が列挙され、日本的表記字(世俗字)から漢語表記字の順に排列されている。広本節用集』には、

天川(アマノガワ/テンセン)同(河内國酒ノ出所)。天漢(アマノガワ)又天河銀河銀漢。〔天地門742B〕

とあり、「天川」の表記は、河内の国の酒の出所の意であり、「天漢」の表記が星座を意味する。注記には「天河」「銀河」「銀漢」の三語が収載されていて、『運歩色葉集』の最後の「銀渚」は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』や永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

天河(アマノガワ) 或云天漢(同)。又云銀河(同)。朗詠集銀河云、和名阿摩乃賀波(アマノガワ)。〔弘治天地200G

天河(アマノカハ) 或天漢。又銀河。又朗詠集銀河之注ニ云、和ニハ名テ曰阿摩乃賀波。〔永禄天地166C

天河(アマノカハ) 或天漢。又銀河。又朗詠銀河之云、和名曰阿摩乃賀波。〔尭空天地155C

とあって、ここに『運歩色葉集』と同じ万葉仮名の和名語が収載されている。そして、この典拠を「朗詠集」すなわち、『和漢朗詠集』の「銀河」の注としているのである。しかし、『和漢朗詠集私注』巻之二「秋」の「七夕」には、

七夕 銀河遠キ渡リニ在ネ共君カ般ル手ハ年コソ増セ乎 人丸。一年ニ一夜ト思エト――ノ逢見ル秋ノ限無哉 貫之。續斉記曰桂陽城ノ武丁有仙道。忽ニ謂テ其ノ弟トニ曰、七月七日ニ織女當ニ河。弟ト問ク。織女何亊カ渡河。答曰、暫臻ルコト牽牛ニ。世人至テ今ニ云リ織女ハ。嫁ルト牽牛ニ是ナリ。〔内閣文庫藏室町古写本影印「和漢朗詠集私注」新典社刊138下〕

とあるだけで、これに該当する内容の箇所が見えていないのである。さらに、『和漢通用集』には、

天河(あまのがわ)。天漢(同)。銀河(同)。阿摩乃賀波(同) 和名ニ。〔天地330F〕

とあって、『運歩色葉集』の語と共通する。但し、典拠を『和漢朗詠集』ではなくして、「和名」すなわち、『和名類聚抄』としているのであり、上記引用の元和本の表出順に排列され、最後の万葉仮名表記の語だけが異なる『倭名抄』からの引用となるのだろうか。狩谷掖齋箋注倭名類聚抄』には、「阿萬之加波」「阿波」の表記が見えるが、未だ当該の仮名表記資料は見出せていない。それと「銀渚」も『運歩色葉集』独自の採録語と見てよかろう。当代の『日葡辞書』には、

Amauogaua.アマノガワ(天の河) 銀河.〔邦訳22l〕

とある。

[ことばの実際]

夜に入りければ、兩陣共に引き退きて陣々に篝(かがり)を燒(たき)たるに、將軍の御陣を見渡せば、四方五六里に及て、銀漢(ギンカン)高くすめる夜に、星を列ぬるが如くなり。〔『太平記』巻第三十一「笛吹峠軍の事」大系三〕

稀の契りはさらに七夕 天川(あまのがは) 交野の花に御幸して  心敬〔『竹林抄』巻第一88新大系24I〕

2000年7月7日(金)曇りのち雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

七夕に しとど濡れけり 短冊は

「洗車雨(センシヤのあめ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢部」に、

洗車雨(センシヤノアメ) 七夕一日夜雨曰――ト。〔元亀本356B〕

洗車雨(セイシヤノアメ) 七夕一日之夜雨曰―――ト。〔静嘉堂本432F〕

とある。標記語「洗車雨」の語注記は、「七夕の一日夜の雨を洗車雨と曰ふ」という。元亀本は注記内容のなかで「前」の字を欠く。また、読み方を静嘉堂本は、「セイシヤのあめ」と表記している。現代の国語辞書である小学館日本国語大辞典』には、

せんしゃ-う洗車雨】《名》陰暦七月七日に降る雨。一説に七月六日に降る雨。《季・秋》*俳諧・増山の井-七月「西涙雨 七日の雨也、六日の雨は洗車雨と云」*俳諧・改正月令博物筌-七月「洗車雨(センシャウ)六日に降る雨をいへり。七夕の車を洗ふと云亊なりとぞ」*杜牧-七夕詩「最恨明朝洗車雨、不脚渡天河

とその標記語の読みを「センシャウ」とし、その内容について当日説と前日説とを説明する。引用資料からもその名の由来が知られる。注記語「七夕」は「志部」に、

七夕(――) 牛織女之二星會合之夕也。〔元亀本328@〕

七夕(――) 牽牛織女之二星會合之夕也。〔静嘉堂本389B〕

とある。注記内容は、「牽牛・織女の二星、會ひ合ふの夕べ」という。注記語の「牽牛織女」は、

牽牛織女(ケンギウシヨクジヨ)。〔元亀本220A〕

牽牛織女(ケンギウシヨクヂヨ)。〔静嘉堂本251@〕

牽牛織女(ケンキウ――)。〔天正十七年本中54オB〕

とあって、語注記は未収載にある。広本節用集』は、

七夕(―セキ/−ユフベ) 七月七日之夜謂七夕。又乗槎設爪星夕續齋諧記云、桂陽城武帝有仙道。忽謂其弟ニ曰、七月七日織女當河。吾向已被召弟問。織女何亊渡河。答曰、暫詣牽牛ニ。世人至今云織女。嫁牽牛是也。傳玄擬天問曰、七月七日牽牛織女相會。守夜者感懐私願。或云見天漢中有變々白氣光曜五色。以此爲徴應見者便拝顔乞福乞壽乞子。又風土記云。七月七日其夜灑-掃於庭露於几筵。設酒祭ル河皷(コ)ヲ河皷者牽牛也。或ハ見ルニ天漢ノ中ヲ変々タル白氣。以此爲徴ト見ル者拝シテ而願ハ乞リ壽ヲ乞フ子ヲ唯得其ノ一ヲ乞ノ不二ツラ三年ニシテ乃チ得也。〔時候門910C〕

とある。そして、「洗車雨」の標記語も語注記もともに未記載にある。

 さらに「七月」の語注記に「文月七夕晒文書献二星故云」とあり、また、標記語「星節」「星夕」に、

星節(―セツ) 七夕亊。〔元亀本353B〕

星節(―セツ) 七夕亊。星夕(セイセキ)同。〔静嘉堂本428D〕

とあって、注記に「七夕のこと」という。『下学集』『節用集』類はこれらの語は未収載にある。

[ことばの実際]

 きょうは七夕七夜月(ななよづき)、愛逢月(めであいづき)、袖合月(そであいづき)など、七月の旧暦には七夕を思わせる名前が多い。だが、新暦の七夕のころは梅雨の最中で、織女牽牛(けんぎゅう)のめぐりあいはなかなかかなわない。妨げる雨を灑涙雨(さいるいう)と呼ぶが、涙雨になる可能性が大きいのだ。〔本日、朝日新聞夕刊・平沼洋司「空の色風の音」夏気分より抜粋〕

2000年7月6日(木)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

朝顔の 花めぐるやは 涼しさに

「回章(クワイシヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久部」に、

回章(クワイ−) 反亊。〔元亀本191C〕

回章(−シヤウ) 返事。〔静嘉堂本215G〕

回章(−シヤウ) 返事。〔天正十七年本中37オG〕

とある。標記語「回章」の語注記は、「返事」という。すなわち、返事の書状をいうのである。『下学集』には未収載にある。広本節用集』は、

廻章(クワイシヤウ/カヘル・メグル、アキラカ)。〔態藝門536D〕

とあって、標記語を「廻章」としていて、語注記は未記載にある。弘治二年本節用集』は、

回章(−シヤウ) 回魚イ。以上書札返報之書。〔言語進退162D〕

とあり、永祿二年本尭空本兩足院本は、標記語「回章」を未記載にし、「回鯉(クハイリ)書札返報之書」〔言語、永132A・尭121B・両147C〕としていて、弘治二年本の注記語「回魚」は「回鯉」の字であることが確認できる。

江戸時代の『書字考節用集』には、

回章(クワイシヤウ)−状。義仝。〔器財八41D〕

とあって、「回状」の語と同義であることを注記している。

[ことばの実際]

12月7日(月)から11日(金)の5日間にわたり、英国ロンドンにおいて開催されていたIMO海上安全委員会(MSC)において、12月9日(現地)、本年8月31日の北朝鮮によるロケット推進物体の発射事件に関して、「世界航行警報サービス」に関する国際海事機関(IMO)総会決議A.706(17)の 厳格な遵守が盛り込まれた回章(Circular)が審議され、承認された。「Circular《名》チラシ,広告ビラ,案内状,回状」

2000年7月5日(水)晴れ。八王子⇒世田谷(駒沢)

公園に 烏と遊ぶ 子等がいて

「申楽&猿楽(さるガク)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「佐部」に、

申楽(サルガク) 大和。猿楽(サルガク) 近江。〔元亀本267A〕

申楽(サルガク) 大和。猿楽(同) 近江。〔静嘉堂本303CD〕

とある。標記語「申楽」の語注記は「大和」、「猿楽」の語注記は「近江」という。『下学集』は、「猿樂(サルガク)。〔態藝78E〕とあるのみで注記も未記載にある。広本節用集』は、

猿楽(サルガクヱン) 猿將(ヒキ)。遊人。又作申楽(サルカク)ト。此義好シ。四座(ヨ−)ハ金剛→坂戸。金春→圓滿井。観世→結崎。保昌→外山。是也。〔態藝門804B〕

とあって、この『運歩色葉集』のような地域による文字表記分けはしていない。『運歩色葉集』の注記を明らかにする資料として『庭訓徃來註』卯月五日の状に、

申楽{猿} 四座ノ内。金春ハ公家也。其故ハ仁王卅二代用明天王ノ御宇大和国長谷川ニ壺一ツ流来也。取上テ見給ニ二三歳ノ有童子。同其ノ内ニ有系圖。披テ見ニ秦ノ始皇ノ第二ノ子也。有子細被流給也。日本難波津ニ可ト有畫留ム。用明天王被養育。氏ヲ秦(ハタ)ト定メ名乗ヲ河勝ト号。河勝トハ水ニ不溺。成人故河ニ勝ト号。用明天王ノ左大臣ニ立。位ハ正二位也。王子聖徳太子同卅四代推古天王接政ト成給テ守屋退治ノ砌、所々ニテ致忠。終ニ守屋ヲ於稲倉カ城頸ヲ事モ彼河勝故也。河勝カ子ニ有氏安ト云者。其ノ子有三人。金衣金春滿太郎ト云テ有三人。金衣ハ絶テ无也。第二ノ子金春春日宮仕則爲先祖。立秦楽寺。此ノ門前ニ金春有屋敷。其ノ内ニ天照太神ノ御霊八咫鏡陰ヲ移シ給ト云傳也。故ニ金春ノ家ヲ云滿井也。大和山城兩国ノ竹田ト云所ヲ知行也。故ニ彼家ハ竹田ヲ在名トシテ、紋ニハ丸ノ内ニ二ツ鷹ノ羽也。今ノ宮王ハ氏安カ第三滿太郎カ流也。有時金春ト有不-和ノ義。其ノ故ニ大和ヲ出江州ヘ下リ山王ノ申楽ト成リ、日吉大夫ト名乗也。金春ノ形義(カタキ)ヲ引替ヘ近江ミ懸リトテ謠ノ節シ拍子等マテ替也。金春以許ヲ大和ヘ皈時弟ヲハ近江ニ留置キ、金春ノ流トテ日吉大夫ト定置、我ハ大和ヘ皈リ、本ノ滿太郎ノ務ル役ヲ也。氏名字モ惣領同也。 観世保昌ト云ハ児ノ名也。彼人々ハ伊賀ノ国服部殿ノ子也。彼等兄弟春日ノ御霊夢ニ春日ノ神楽衆ヘ爲ヨリ参有告。其時奉ル故名字ヲハ服部ト名乗リ観世衆ヲモ夕鷺ト云ハ伊賀ノ国ニ有ル在名也。保昌ヲハ土肥衆ト云。大和国ノ在名也。是ヲ知行ス。観世保昌ノ紋ハ矢筈也。 金剛是モ児ノ時金剛房ト申也。上野国小(ヲ)畑一黨也。坂戸衆ト申也。大和ノ坂戸ヲ知行也。割(ワリ)鷹羽違ヘテ爲紋也。何モ四座ハ至従四位也。四座ニ藤ノ丸ヲ爲(スル)紋ニ亊ハ多武峰談山大明神ノ能ノ始メ大職冠ノ御子淡海公、不比等ハ藤原ノ依將棟タルニ藤ノ丸ヲ毎年ノ能ノ依恩賞ニ下也。位ハ上正四位今モ正四位也。夫申楽(カウ)ト云ハ本ハ春日ニ神楽衆トテ有リ。是ハ六十楽ノ調子ヲ司ル。伶人ハ天王寺ニ祇候ス。百廿楽ヲ司也。何モ宿神ハ一体也。神楽(シンラク)有時勅勘ノ身ト成リ被流申時、神ノ字ノ篇ヲ剥(ハキ)作リ計ヲ被畫楽(ラク)ノ字ヲ楽(カク)ノ音ニ被成故至于今ニ申楽ト畫也猿楽ト畫亊ハ日吉流也猿ノ字畫ヲハ近江猿楽ト可心得又猿楽ト爲畫付色々ノ有内裡又ハ八乙女達ニ山王ノ使者猿カ通テ爲持子也能ク彼ノ子物ノ成学ヲ也其彼ノ者ヲ山王ノ手猿楽ト被定也是ハ不用也。 夫翁ト云ハ天神六代目ノ尊面足ノ尊伊弉諾伊弉並ニ譲ル代ヲ御申有時地神五代有テ六代目ニハ成ト仁王ト云。被證文ヲ案ノ五代〓〔茲+鳥〕ノ羽葺不合尊マテ神代ハ傳リ終ニ神武天王ノ代ト成ル。是仁王ノ始也。天神ノ内ニモ面足ク尊ハ目出度御代也。故至于今ニ翁ト申也。翁ノ面二スル亊面足ハ身体竜也。故ニ阿-義下ル。二ニスル亊ハ表天地也。又陰陽ノ二也。天-下ノ祈祷ニスル亊ハ翁其ノ体千秋万歳ノ心也。故守君神ト三波面ハ黒亊表陰陽。又昼夜ノ二也。是賀志木根(コネ)ノ命也。是ハ陰神面足陽神也。翁ノ舞静カナル故三波ノ舞佐々免共(メク)也。此ノ六代マテハ雖有男女夫婦和合(ミトマクワヘ)ト云亊无也。故不陰-陽ノ所也。七代目伊弉諾伊弉並尊鶺鴒ノ見跳ヲ心付給テ男-女ノ語イ有也。依其ニ次第ニ神ノ位モ劣リ結句仁王ト也。今ハ王ト云亊ヲ有知有知亊。 夫千歳歴(フル)トハ御代ヲ立始ル命地神第三ノ命天津彦火々(ホ)耳々(ニ)義命ヨリ日月ハ顕給也。彼自命夜ル晝ル年ナトモ定メ給也。御代ノ間卅一万八千五百四十二年也。故君ノ代ヲ可ト守云誓也。彼ノ奉神也。故ニ次第ニ千秋万歳ト謂イ始給也。此楽ヲ千秋ノ楽ト申也。六十楽ノ内最初ノ楽也。此ヲ爲スル本ト亊ハ自神武有中比ロ絶タル也。有時悪霊多シテ万民ヲ悩ス亊无限。春日託宣ニ曰、式三番ヲ奏ハ軈テ可ト止ム有リ。故ニ有勅定。則彼ノ楽ヲ奏ス則成就ス。自シテ夫用也。 夫延命冠者トハ地神代四彦火々出見ノ命也。代ヲ修メ給亊六十三万七千八百九十二年也。弥ヨ目出度トテ其名ヲ引替命ヲ延ル童ワハ畫テ延命冠者ト云也。夫父ノ詔トハ第五彦諾(ナキ)佐々竹〓〔茲+鳥〕萱葺不合尊也。御代政(ヲサメ)給亊八十三万六千四十二年也。是仁王ノ父也。故父ノ詔ト号。此代マテ御代ヲ修メ給亊久シ。葺不合命ノ第四ノ御子御即位アル亊辛ノ酉ノ年也。御年百廿七ニシテ死給也。御代ヲ修メ給亊七十六年是仁王ノ初神武天王ノ御亊也。如此仁王成位モ下リ命モ短。此時釈迦佛入滅ヨリ此ノ方三百九十年ニ當ル。天竺ノ波斯匿王ノ御代也。天竺ニハ祗園精舎月海[悔]長者建立ノ砌ニ彼ノ楽ヲ有奏ト云亊。夫ハ釈迦佛ノ十第ノ御弟子各狂言奇語ヲ延テ有供養云々。日本ニハ春日ノ祭ニ奏ス彼ノ楽ヲ。十一月廿七日春日ノ祭礼也。廿六日夜旅所ヘ御幸也。渡物アリ。百物百ノ随兵也。其内四座渡也。次第ノ亊金春金剛観世宝生何モ於志氣ノ時ノ差抜襴衫(カリキヌ)也。旅所ニシテ礼神ノ内式三番アリ。伶人ハ黒冠ニ撞通(ツヽ-シ)差抜ヲ着也。夫千歳歴ルハ一人充ツヽ也。能ノ次第ハ取鬮ヲ也。又金春ノ座ニハ有傳者。聖徳太子ノ幡竿也。又太子自天竺|之傳授ノ舎利九十粒計カリ家繁昌ノ時ハ多ク成也。又尼ノ面一面アリ。是ハ自天降ルコト云説アリ。故天ノ面ト名付也ト云々。〔謙堂文庫蔵二一左F〕

とあって、実に長編の注釈として収載されている。このなかで、

神楽(シンラク)、あるとき勅勘の身と成り流され申すとき、神の字の篇を剥(ハキ)、作りばかりを畫せられ、楽(ラク)の字を楽(カク)の音に成され、故に今に至り申楽畫くなり。また、猿楽と畫くことは日吉流なり。猿の字を畫くをば近江猿楽と心得べし。また、猿楽と畫き付け為すに色々の説あり。内裡、または八乙女達に山王の使者猿が通ひて持子と為すなり。能く彼の子、物の学を成すなり。其れによりて彼の者を山王の手猿楽と定めらるなり。是は用いるべからずなり。

とある譚話の箇所が相当する部分である。このように、「申楽」の譚話構成自体が古辞書『運歩色葉集』のなかに、どのように再編され、収載されたのかをさらに詳しく見ていくうえで実に恰好な資料といえよう。当代の『日葡辞書』には、

Sarugacu.サルガク(猿楽) 演劇〔能〕,あるいは,笑劇〔狂言〕を演ずる人々.その人々の間における長あるいは頭を太夫(Tayu)と言う.§Sarugacuuo tcukamatcuru.(猿楽を仕る).演劇〔能〕を演ずる。〔邦訳559r〕

とあるようにごく普通の説明に留まるものである。

[ことばの実際]

されば其の勲功、他に異なりとて、數箇所の恩賞を給りてんげり。此悦びに誇つて、一族共、様々の遊宴を盡し、活計しけるが、猿楽(さるがく)は是れ遐齢延年(カレイエンネン)の方なればとて、御堂の庭に桟敷を打つて、舞台を布き、種々の風流を盡さんとす。近隣の貴賎、是れを聞きて、群集する事建〓〔立心+多〕(おびたた)し。彦七も其の猿楽の衆なりければ、様々の装束共下人に持たせて楽屋へ行きけるが、山頬(やまぎは)の細道を直樣(すぐさま)に通るに、年の程十七八許(ばかり)なる女房の、赤き袴に柳裏の五衣(いつつぎぬ)着て、鬢(ビン)深く〓〔金+殺そ〕ぎたるが、指し出でたる山端(やまのは)の月に映じて、只獨りたたずみたり。〔『太平記』第二十三「大森彦七ガ事」大系二390KM〕

その夜の酒宴にこの謀叛の事を仰せ合はされてあつたれば、淨憲の申されたは、「さてもこれほどあまたの人の聞きまらすに、左樣の事はな仰せられそ。若し洩れ聞えたらば、天下の大事に及びまらせうずる。」といはれた所で、成親卿氣色をかへて、ざつと立たれたが、お前にあつた瓶子を裝束の袖にかけて引倒されたを、法皇「あれは。」と仰せられたれば、新大納言立歸つて、「平氏へいじ倒れてござる。」と申されたれば、法皇笑壺に入らせられ、「猿樂ども參つて曲をつかまつれ。」と仰せられた所に、康頼といふ人、「あまりへいじの多いにもて醉うた。」と申されたれば、俊寛、「それをばなんとせうぞ。」といはれたれば、西光法師、「首を取るにはしかぬ。」と云ひさまに、瓶子の首を取つて内に入られた。〔天草本平家物語』〕

[参考資料] 能勢朝次著『能楽源流考』〔〕

2000年7月4日(火)晴れ一時雷鳴雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

朝顔の 蔓のびだすや 待ちねかな

「暖席(ノンセキ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「能部」に、

暖席(−セキ) 畳事。〔元亀本186D〕

暖席(ノセキ) 畳事。〔静嘉堂本210B〕

暖席(−セキ) 畳事。〔天正十七年本中34ウC〕

とある。標記語「暖席」の語注記は、「畳のこと」という。注記語「疂」だが、「多部」に、

(タヽミ)。〔元亀本147C〕

(タヽミ)。〔静嘉堂本158G〕

と注記語は未記載で示されている。『下学集』は未収載にある。広本節用集』は、

暖席(ノンセキ/タン−.アタヽ、カムシロ) 畳(タヽミ)ノ名。〔器財門492C〕

とあって、語注記は「畳の名」という。弘治二年本暖席(ノンセキ)疂〔財宝154@〕」、永祿二年本暖席(ノンセキ)疂也〔財宝1254G〕」、尭空本暖席(ノンセキ)疂也〔財宝115@〕」、兩足院本暖席(ノンセキ)疂(タヽミ)也〔財宝139D〕」、和漢通用集暖席(のんせき)疂(たゝみ)也〔財宝245E〕」、図書陵零本暖席(ノンセキ)疂(タヽミ)也〔財宝8F〕」、村井本暖席(ノンセキ)疂〔財宝125@〕」、天正十八年本暖席(ノンセギ)疂〔財宝上43オB〕」とある。さらに、当代の『日葡辞書』にも、

Nonxeqi.ノンセキ(暖席) 畳(Tatami),すなわち,藁製の敷物.〔邦訳471r〕

とあって、室内用の敷物として、唐宋音の語として「ノンセキ【暖席】」という語が示され、和語で云うところの「たたみ【畳】」なる語であることが示されているのである。この「暖席」である「」自体が寺院・武家・公家の邸宅、そして庶民の暮しへとしだいに流布し、世に多く使用されていく“萌し”をここから感得することができる語でもある。

[ことばの実際]

2000年7月3日(月)晴れ一時雷雨。八王子⇒世田谷(駒沢)

 向日葵の 上にすくっとや 花を見せ

「足半(あしなか)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「安部」に、

足半(−ナカ) 草履。〔元亀本257I〕

足半(−ナカ) 。〔静嘉堂本291B〕

とある。標記語「足半」の語注記は、「草履」という。『下学集』『節用集』類は未収載にある。当代の『日葡辞書』に、

Axinaca.アシナカ(足半) 日本式の藁製の履物で,足裏の半分だけにかかるもの.〔邦訳42r〕

とあって、鼻緒を前結びにしたかかとの部分のない小さな草履で、軽くて走るのに便利であったようだ。古くは、武士も用いていたが、現在でも「足半」は、農山漁村の作業用として用いられている。

[ことばの実際]

小熊は、鼠色の木綿あはせに、あさきの木綿はかまを着、足半(あしなか)をはき、乏少(ぼうせう)なる姿にて〔『北条五代記』巻第七〕

2000年7月2日(日)晴れ。八王子⇒西池袋(立教大学)仏教文学研究会

陽は既に 高き空にあり 暑盛り

「手教(シユケウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

手教(―ケウ) 状之義。〔元亀本317H〕

手教(―ケウ) 状之義。〔静嘉堂本373G〕

とある。標記語「手教」の語注記は、「状之義」という。意味は「手紙・消息・書状」のことで、とりわけ目上の人からの書状をいうのである。この語は『下学集』に、

手教(シユケフ) 書状ノ義也。〔態藝90@〕

とあり、「書状の義なり」と正確に注記する。広本節用集』も、

手教(シユケフ.−ヲシユ/シユウカウ.テ、ナラウ) 書状義也。〔態藝門944@〕

とあって、『下学集』を継承する。印度本系統の弘治二年本節用集』は、

手教(シユケウ) 書状義。〔言語進退248B〕 {永禄二年本〔言語210E〕と尭空本〔言語194F〕は、「手段」の注記として収載}

とあって、『運歩色葉集』に最も近似た注記内容にある。また、易林本節用集』は、

手教(シユケウ) 書状也。―跡(セキ)。―札(サツ)。〔言辞215@〕

としている。『運歩色葉集』が『節用集』の注記形態をとる系統本と同様に、「書状」を「状」として冠の「書」の字を簡略化もしくは脱字して記載するものであることを知るのである。

2000年7月1日(土)晴れ。八王子⇒市ヶ谷(アルカディア)第8回情報教育方法研究発表会

じんわりと 汗ぐむ昼に ラジオ聞き

「七月(シチグワツ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志部」に、

七月(――) 文月七夕晒文書献之。親月此月諸親墳墓故夷則。孟秋。初秋。〔元亀本328A〕

七月(――) 文月七夕晒文書献二星故云。親月此月諸人詣墳墓故云。夷則。孟秋。初秋。〔静嘉堂本389C〕

とある。標記語「七月」の語注記は、両本を対校して『下学集』によって補読するに、「文月とは七夕に文の書献を晒し、(もって)二星に(供す)故に云ふ。親月とは此の月、諸人墳墓を詣ずるが故に云ふ。夷則。孟秋。初秋」という。注記語の「文月」「親月」は、

文月(フミヅキ) 七月。親月(フミツキ)。〔元亀本222G〕

文月(フミツキ) 七月。親月() 七月。〔静嘉堂本254E〕

とあり、「文月」の語注記は「七月」とあって、現代の辞書表現で言えば、「七月の条を見よ」ということであろう。「親月」の語を「志部」の「親」の字を冠とした「親子・親父・親族・親切・親疎・親王・親近・親衛」といった熟語群におかないのも特徴である。また、「夷則」の語は、

夷則(―ソク) 七月之異名。〔元亀本11A〕

夷則(―ソク) 七月ノ異名。〔静嘉堂本2E〕

とあって、語注記は「七月の異名」として、「異名」というひとつの語認定を示している。これは次に示す広本節用集』などの語注記にみえる「異名」という語認定形式の表現を受け継ぐものともいえるのである。

下学集』には、

夷則(イソク)七月。〔時節29D〕

文月(フミ―)此ノ月七夕。諸人以テ詩歌ノ之文ヲ献(−)ス於二星ニ。或ハ晒(サラシ)テ書篇ヲ以テ供(−)ス星ニ。故ニ云文月ト也。〔時節29E〕

親月(シンゲツ)此ノ月諸人詣(モフス)親(ヲヤ)ノ墳墓(フンホ)ニ。故ニ云フ親月ト也。〔時節29F〕

とあって、標記語「七月」は立項せずに、注記語の「夷則」「文月」「親月」を立項している。広本節用集』には、

七月(シチ―/ナヽツツキ) 異名斗建申日在張。夷則孟秋律中――。金神七月――按節。商風唐詩――動葉初。招揺指甲淮時節訓――烹詩。大火流――後西―。伏雨杜詩蘭風――秋紛々。凉風至孟秋――。少昊。乗允漢書――月秋。孟秋。蘭月。新秋。凉月。桐月。乗槎七日。設瓜。佛喜日十五日也。?秋。凉天。微凉。皓月。登穀。乞巧。搗練。初〓〔立冂古テキ〕。今秋。跡疎。肇秋。清風。白藏。夷種。首秋。新〓〔立冂古〕。〓〔立冂古〕飆。金柔。烹葵。和神。申月。上秋。孟〓〔立冂古〕。相月。相(フツキ)。〔時節門910C〕

とあって、標記語「七月」を立項する。だが、ここには上記『下学集』の語注記内容の継承はうかがえない。かつ、『下学集』の「夷則」「文月」「親月」の語のうち、「文月」は、

文月(フミヅキ/フンケツ) 倭國七月ノ異名也。此月ノ七夕ニ、諸人以詩歌(シイカ)ノ文ヲ獻ス二星ニ。或晒(サラシ)テ書篇ヲ、以供星ニ。故云――ト也。

とあって、冒頭の「倭國七月の異名なり」が増補され、その後の語注記内容は『下学集』を継承するものである。そして「夷則」と「親月」の標記語は未記載にある。とりわけ「親月」の語が標記語・語注記にあって全く記載されていないことに気づく。何故、広本節用集』は、この語を記載しなかったのだろうか?この疑問を解くにあたり、他の『節用集』類における「親月」の語の取り扱いについてまず確認しておく必要があろう。印度本系統の弘治二年本節用集』の「不部」をみるに、

文月(フミツキ) 倭七月異名也。此月七夕諸人以詩歌ヲ献ス二星ニ。或ハ晒(サラス)書ヲ、以供星。故云――。親月(フツキ) 同上。此月諸人詣親之墓ニ|。故ニ云――。〔時節門179A〕{永禄二年本〔時節146G〕。尭空本〔136F〕}

とあって、『運歩色葉集』と同じく「文月」のすぐ下に「親月」を収載しているのである。このことから広本節用集』編者は、とりわけこの語を書き落とした可能性が高くなってくるのである。

 

[今日のことばのニュース]

朝日新聞《青鉛筆》 ▽「今川焼き」という呼び方は関東にほぼ限られ、全国的には「大判焼き」、関西や九州では「回転焼き」が主流。広島大学生による調査がまとまり、ホームページ「中国・四国言語地図」で公開された。

 ▽国語学の講義で、愛知県出身の玉木佐知さん(21)が「故郷では大判焼きなのに、冷凍食品は今川焼きなのはなぜ」との疑問から、同級生と手分けし、半年かけ全国2300人に聞いた。

 ▽京阪神で「御座候(ござそうろう)」、南九州で「蜂楽饅(ほうらくまん)頭(じゅう)」など商品名が普通名詞化する現象も。広辞苑には「今川焼き」しかないが、「正しい答えはいくつもあったんですね」と玉木さん。

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