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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2000年10月31日(火)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

じふみいに あきすゑすきあ にいみふじ

十三井に 秋末好き空 新美冨士

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊」部に、

一行阿闍梨(―ギヤウアジヤリ) 唐玄宋楊貴妃名立テ。掛羅(クワラ)國流。彼國。綸地道御幸道也。遊地道雜人道也。闇穴道重科者行。一行名立。犯人ニ。闇穴道ニテ|。七日七夜不見日月。冥々(メイ―)トシテ而无人。暗々トシテ而谷深。一行實罪。天愍(アワレン)之九曜現シテ。即食切(クイキツ)指(ユヒ)写(ウツ)九曜。和漢真言本尊曼荼羅是也。當日本元正女帝養老三年巳未十月十八日。至天文十六戊申八百四十九年也。〔元亀本17E〕

一行阿闍梨 唐玄宋時楊貴妃名立掛羅國被流。彼有三道。綸地道御幸道也。遊地道雜人道也。闇穴(アンケツ)道重科者一行。一行名立。犯人ニ。闇穴道七日七夜不見日光。冥々トシテ而無人。暗々トシテ而谷深。蓋(ケタシ)一行實无罪。天愍之九曜現照形。即食右指左袖写九曜。和漢真言本尊曼荼羅是也。當日本元正女帝養老三巳未十月十八日寂。至天文十七戊申八百四十年也。〔静嘉堂本11G〕

一行阿闍梨 唐玄宋楊貴妃名立掛羅國(クワラク―)流彼三道。綸地道(リチタウ)御幸道也。遊地道(ユウチタウ)雜人道也。闇穴道重科者行。一行名立犯人之故闇穴道七月七夜。不日月。冥々トシテ無人。暗々トシテ而谷深。蓋一行實無罪天愍之九曜現照形。即食切右指左袖写九曜。和漢真言之本尊曼荼羅是也。當日本元正女帝養老三巳未十月十八日寂。至天文十七戊申八百四十季也。〔天正十七年本〕

一行阿闍梨 唐玄宋楊貴妃立。掛羅国(クワ――)流。彼国三道。綸地道(リン――)御幸幸道也。遊地道(ユウチ−)雜人道也。闇穴道重科。一行名()立。犯人遣(ヤラ)闇穴道。七日七夜不日月光。冥々トシテ人。暗々トシテ。蓋一行實トニ罪。天愍(アハレンテ)之九曜照(テラス)。即。左九曜。和漢之真言本尊曼荼羅是也。當日本元正女帝。養老三巳未十月十八日寂。至天文十七戊申八百四十季也。〔西来寺本〕

とある。標記語「一行阿闍梨」の語注記は、「唐の玄宋の時楊貴妃に名を立つ掛羅國へ流さる。彼の國に三道あり。綸地道は御幸の道也。遊地道は雜人の道なり。闇穴道は重科者行く。一行名立。犯人ニ。闇穴道七日七夜不見日光。冥々トシテ而無人。暗々トシテ而谷深。蓋(ケタシ)一行實无罪。天愍之九曜現照形。即食右指左袖写九曜。和漢真言本尊曼荼羅是也。當日本元正女帝養老三巳未十月十八日寂。至天文十七戊申八百四十年也」とあって、これは『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』九月九日の状に、

薄濃墨畫一對九曜曼多羅 一行阿闍梨ハ玄宗御持楊貴妃。掛落国流仲ニハ道有。綸地道カエノ御幸道遊地道トテ雜人道闇穴道トテ重科行。一行立犯人故闇穴ス。七日七夜程不日月之光行也。冥々トシテ深々トシテ山深行歩千度ンヲ只函谷一声計ニテ凋衣干敢也。一行實罪天道九曜給照一行也。一行食_切九曜。和漢真言之本尊也。九曜之曼多羅是也云々。〔謙堂文庫藏五〇左F〕

とあって、この箇所からの引用であることが知られる。『節用集』類の広本節用集』や印度本系統の弘治二年本節用集』・永禄二年本節用集』・尭空本節用集』には『下學集』と同じく未収載にある。ここからは、『運歩色葉集』と『庭訓徃來註』との繋がりしかないことになる。いずれにせよ、室町時代にあって、「一行阿闍梨」の譚をかくも伝える本邦の資料はといえば、下記に示す『平家物語』ということになる。これをもって見るに、「行歩に前途まよひ、深々として山ふかし。只澗谷に鳥の一聲ばかりにて、苔のぬれ衣ほしあへず」箇所がある『庭訓徃來註』が本であり、これを引用する『運歩色葉集』には、この箇所未記載にすることから成立過程を裏付けることができよう。すなわち、原資料『佛祖統記』(中国資料)⇒『宝物集』⇒『平家物語』⇒『庭訓徃來註』⇒『運歩色葉集』の順である。今後この原資料をもとに「一行阿闍梨」説話の細分析をしていく必要がある。

[ことばの実際]

昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にておはしけるが、玄宗の后楊貴妃に名を立給へり。○昔もいまも、大国も小国も、人の口のさがなさは、跡かたなき事なりしか共、其疑によッて果羅国へながされ給。○件の国へは三の道あり。○林池道とて御幸みち、幽地道とて雑人のかよふ道、闇穴道とて重科の者をつかはす道也。○されば彼一行阿闍梨は大犯の人なればとて、闇穴道へぞつかはしける。○七日七夜が間、月日の光をみずして行く道なり。○冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、深々として山ふかし。○只澗谷に鳥の一聲ばかりにて、苔のぬれ衣ほしあへず。○無實の罪によッて遠流の重科をかうぶる事を、天道あはれみ給て、九曜のかたちを現じつゝ、一行阿闍梨をまもり給。○時に一行右の指をくひきッて、左の袂に九曜のかたちを寫れけり。○和漢兩朝に眞言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。《『平家物語』大系・上149A〜K》

シテツレ傳へ聞く、かの一行の 果羅の旅、かの一行の 果羅の旅、闇穴道の 巷にも、九曜の曼荼羅の 光明、赫奕として 行く末を、照らし給ひ けるとかや。《謡曲集『弱法師』大系・上407@》

2000年10月30日(月)晴れ後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とをみれば かかしたしかか はれみをと

遠見れば 案山子確か歟 晴れ見男と

「一宇(イチウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊」部に、

一宇(―ウ) 。〔元亀本19B〕

一宇(―ウ) 。〔静嘉堂本14E〕

一宇(―ウ) 。〔天正十七年本上8ウE〕

一宇(―ウ) 。〔西來寺本29D〕

とある。標記語「一宇」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』九月九日の状に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』に、

一宇(――) 々々家也。〔謙堂文庫蔵四九H〕

とあって、語注記に「一宇、家なり」とある。『節用集』類の広本節用集』は、

一宇(イチウ/ヒトツ、ソラ) 家之義。棟(ムネ)ノ之心也。〔家屋門5C〕

とあって、この語を「数量門」で取り扱うのではなくして「家屋門」に収載すること、そして語注記が「家の義。棟の心なり」と『庭訓徃來註』の語注記より委しいことに気づく。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には未收載となってしまうことは、この語を「数量門」の語すなわち、「数助詞」として把握するのではなく、あくまで家屋の語として捉える意識が編纂者のなかに働いていることも考えられないだろうか。

 当代の『日葡辞書』に、

Ichiv.イチウ(一宇) Fitotcuno iye.(一つの宇)一軒の家。〔邦訳328r〕

とある。

ことばの実際

その魚の主(ぬし)が家、ただ一宇(いちう)、その事を免(まぬか)るによりて、僧都のもとへ参り向ひて、この由(よし)を申す。《『宇治拾遺物語』七 永超(やうてう)僧都(そうづ)(うお)を食ふ事[巻第四・一五]》

さる程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始めありて、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人、詩を献じ、伶倫、楽を奏す。めでたかりしに、幾程無く、また安元二年に日吉山王の御祟りに依つて、大内の諸寮一宇も残らず焼けにし後は、国の力衰へて、代々の聖主も今に至るまで造営の御沙汰も無かりつるに、今、兵革の後、世いまだ安からず、国の費え民苦しみて、馬を華山の陽に帰せず、牛を桃林の野に放たざるに、大内裏作らるべしとて、昔より今に至るまで我が朝にはいまだ用ゐざるに紙銭を作り、諸国の地頭・御家人の所領に課役を懸けらるる条、神慮にも違ひ、驕誇の端とも成りぬと、眉も顰むる智臣も多かり。《『太平記』巻第十二・書写山行幸の事付けたり新田注進の事》

[特別コラム]

 昨日の国語学会においてB会場研究発表、三保忠夫さん(島根大学)ご発表の“『正倉院文書』における助数詞研究”のなかで、5、国産の助数詞[建物]の部で「口」「間」そしてこの「宇」がとりわけ「付表」『正倉院文書』:建物を数える助数詞「宇」(末尾省略に難あり)として取り扱われた。ここにご提示いただいた用例を伺うに、勝宝七年から宝亀四年〔八世紀なかば〕の資料に見られるのだが、中国側や朝鮮半島の資料に未だ見出せないことから和風助数詞の一つではないかと推定されたわけである。このときに私自身、質問をさせていただいたのだが、私の考えのなかにはこの語を当時から室町時代の長い歴史のなかで助数詞として意識していたのかという疑問があった。その読みも正しく継承されてきたのかという観点にたって考えてみたとき、幾世代たっても文化保持の意識《ここでは建築物》が薄れない限り、この表現も継承されつづけてきたことを信じることがなによりも第一義にしたいという立場にあり、このことをもってするに、古辞書の分類仕立ての編纂意識にあって、単に「数量門」ではなくして「家屋門」に位置付けていることからして、数詞認定の検証意識そのものを現代人であるわたしたちの範疇理会だけで考えて果たしてよいものであろうかといった疑問であることをここに付記しておきたいのである。これは、「一紀」を「時節門」で扱う仕立て意識に通ずるものである。それは、「口」や「間」といった助数詞とどう異なる用い方をするのかにも言及せねばなるまいが、そして、この「宇」には「一宇」のほかに「若干宇」の用例しかない。この「若干宇」の使用状況もこの時代だけのものなのか、「一宇」と同じように後世に継承されているのかについても知りたいところである。

2000年10月29日(日)晴れ後曇り。広島⇒東京(八王子)  国語学会(安田女子大学)

とをにくく やまうみうまみ くくにをと

遠難く 山海旨味 九九煮音

「八講(ハツカウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「葉」部に、

八講(―カウ) 法花問答。〔元亀本31A〕

八講(―カウ) 法花問答。〔静嘉堂本〕

八講(ハツカウ) 法華問答。〔天正十七年本上16ウD〕

八講(―カウ) 法花問答。〔西来寺本〕

とある。標記語「八講」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見えているにもかかわらず、『下學集』は、この語を未収載にする。『庭訓徃來註』の三月三日の状に、

佛像經巻讃嘆者不子細堂塔供養并法花八講者相‖_當大法會儀式 八講法花問答講也。後二条関白御悩時、北政所三願有。一ニハ大鳥{山王ノ}ヨリ社々御宝前ヨリ此社マテ‖-ント廻廊也。二八王子(シタ)ト殿ナル頑-人一千日宮仕セント也。三毎日法花問答末代怠(アテ)也。兩ハリ也。問答神喜コヒ三年命延給也。紀伊国田中庄ヲハ八王子起-進シテ毎日問答也。法花論義也。役者八人シテ問答也。問答八人答者八人也。〔謙堂文庫蔵五二右H〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記はこの前半部を引用するものである。『節用集』類の広本節用集』は、

八講(ハツカウ/ヤツ、マツリ) 法華――。〔態藝門72A〕

とあって、語注記は「法華八講」とあって異なるものである。印度本系統の永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にも、これと同じである。

八講(ハツカウ) ―〓〔人+ム月〕(イツ)。―虎(コ)。―教(ケウ)。―重(テウ)款冬名。―難(ナン)。〔永・言語21G〕

八講(ハツカウ) ―〓〔人+ム月〕。―虎。―教。―苦。―難。―方。―重款冬名。―億四千ノ思。〔尭・言語17F〕

とあって、その語注記は「八」を冠頭にする熟語群であり、また異なっている。この語については、『運歩色葉集』による『庭訓徃來註』からの連関引用というこになる。当代の『日葡辞書』に、

†Facco>.ハッカウ(八講) シナから入って来るある種の麻布。〔邦訳193l〕

とあって、別の意で収載が見える。

2000年10月28日(土)晴れ後曇り。広島  国語学会(安田女子大学)

とをにはち あまみつみあま ちはにをと

遠に蜂 甘蜜味甘 乳は匂と

「依怙(エコ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「衛」部に、

依怙(エコ) 。〔元亀本336A〕

依怙(エコ) 。〔静嘉堂本401E〕

とある。標記語「依怙」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見えているにもかかわらず、『下學集』は、この語を未収載にする。『庭訓徃來註』の三月三日の状に、

毎年實検之節_以不自由依怙 依怙我身云也。言眞實之検法自由、我依怙也。〔謙堂文庫蔵一四左B〕

とあって、「依怙は、我身を娯しむを云ふなり。言は、眞實の検法を自由に遂げて、我は依怙をなすべからざるなり」という。『節用集』類の広本節用集』は、

依怙(ヱコ―、ヨル・タノム) 自由――。〔態藝門710B〕

とあって、『庭訓徃來註』より『庭訓徃來』の表現を語注記に引く形態にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にも、

自由(―ユウ) 依怙。〔弘・言語進退245B〕依怙(ヱコ)自由――。〔弘・言語進退195D〕

依怙(エコ)自由――。〔永・言語161A〕〔尭・150C〕

とあって、広本節用集』に等しい。『運歩色葉集』は、なぜかこの「自由依怙」の注記すら未記載にある。当代の『日葡辞書』には、

Yeco.エコ(依怙) 自分に役立てること,または,利益.§Yecouo camayuru.(依怙を構ゆる)利用する,または,利益を求める.〔邦訳815r〕

とある。

2000年10月27日(金)晴れ後曇り。東京(八王子) ⇒広島  訓点語学会(安田女子大学)

とをにつな ゆめよさよめゆ なつにをと

遠に綱 夢夜小夜め游 撫づに緒と

「斟酌(シンシヤク)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

斟酌(シンシヤク) 。〔元亀本311B〕

斟酌(シンシヤク) 。〔静嘉堂本364@〕

とある。標記語「斟酌」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見えているにもかかわらず、『下學集』は、この語を未収載にする。『庭訓徃來註』の三月三日の状に、

斟酌之儀 斟酌取行讀也。日本俗爲思慮誤也。〔謙堂文庫蔵一四左F〕

『節用集』類の広本節用集』は、

斟酌(シンシヤク/クム、クム) 計行(ハカライヲコナフ)意也。〔態藝門976D〕

とあって、語注記は「計らい行なふ意なり」と異なるものである。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』では、

斟酌(シンシヤク) 計行意。〔弘・言語進退245C〕

斟酌(シンシヤク) 。〔永・言語211C〕〔尭・言語195C〕

とあって、弘治二年本は、広本節用集』を継承し、他の二本は、『運歩色葉集』同様、語注記を未記載にする。当代の『日葡辞書』には、

Xinxacu.シンシャク(斟酌)招待してくれた人とか,何事かを勧めてくれる人とかに対して,態度に表してする挨拶,または,ことわりや弁解.〔邦訳774l〕

とある。

2000年10月26日(木)晴れ後曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)  

とをにろく ろくすぽすくろ くろにをと

十に六 碌すっぽ優路 玄児於莵

「棟門(むなかど)」と「唐門(からモン)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「無」部に、

棟門(ムナカド) 立林。〔元亀本175G〕   唐門(―モン)。〔元亀本93C〕

棟門(ムネモン) 。〔静嘉堂本195G〕    唐門(―モン)。〔静嘉堂本115F〕

棟門(ムナカド) 。〔天正十七年本中27ウD〕 唐門(―モン)。〔天正十七年本上56ウG〕

とある。標記語「棟門」の読みは「むなかど」だが、静嘉堂本は「むねモン」と表記する。語注記は、元亀本のみが「立林」という。「唐門」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見えているにもかかわらず、『下學集』は、両語とも未収載にある。『庭訓徃來註』の三月三日の状に、

棟門(カト)唐門(モン) 棟門棟也。唐門唐樣云。丸棟作也。〔謙堂文庫蔵一四左F〕

とあって、「棟門は棟を立つるなり。唐門は唐様と云ひ、丸棟に作るなり」という。『節用集』類の広本節用集』は、「棟門」を未収載にする。また、「唐門」は標記語のみの収載である。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』にも、これと同じである。

2000年10月25日(水)曇り。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)  

とをついつ すすみはみすす ついつをと

戸を遂いつ 進みは見ずす 突射つ音

「小豆(あづき)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「阿」部に、

紅豆(アヅキ) 。〔元亀本259D〕

紅豆(アヅキ) 。〔静嘉堂本〕

とある。標記語「紅豆」の語注記は未記載にある。通常、「あづき」の表記は「小豆」と書き用いられるのだが、この表記漢字は未収載にある。『庭訓徃來』三月三日の状には「大豆小豆」と見え、『下學集』には、「大豆(マメ)」〔草木門128F〕は見えているが、「小豆」は見えない。これを『庭訓徃來註』三月三日の状に、

大豆小豆 大豆大山平沢。今処々之。有黒白。黒雄豆。入藥。尤佳白藥者也云々。小豆大豆同條。今江淮間尤多。種蒔関西河北京東西尤多。食之者也。〔謙堂文庫蔵十四右D〕

とあって、「大豆は大山平沢に生ず。今は、処々にこれあり。黒白あり。黒は薬に入れ、小は雄豆と為し薬に入る。尤も佳白は薬に入れざるものなり云々。小豆は、旧くは大豆と條を同じくす。今は、江の淮の間に尤も多し。種蒔くこと関西河北の京の東西に尤も多し。これを食するものなり」という。『節用集』類は広本節用集』に、

(マメ/トウ) 異名、七歩。蕪萎亭(ブ――)。〔草木門567F〕

小豆(アヅキ/セウトウ・ホソシ、マメ)。〔草木門745D〕

とあって、逆に「大豆」は未記載で、「」と「小豆」が収載されており、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

(マメ)。〔弘・草木168G〕 小豆(アツキ) 。〔弘・草木202A〕

(マメ/ツ)。〔永・草木138E〕 小豆(アヅキ) 。〔永・草木167F〕

(マメ)當門子。〔尭・草木127E〕 小豆(アツキ) 。〔尭・草木156F〕

とあって、広本節用集』に従う体裁にあって、尭空本の「」に語注記「當門子」とあるのが異なるところである。このようにして見たとき、『運歩色葉集』の「紅豆」の標記語は特殊であり、また『庭訓徃來註』の注記とも全く接触を持たないものであることに気づかされるのである。この標記語及び語注記の編纂過程における親疎の問題について問わねばなるまい。当代の『日葡辞書』には、

Azzuqi.アズキ(小豆)。豌豆(えんどう)のような小さな豆.〔邦訳45r〕

とある。

2000年10月24日(火)朝霧、晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)  

とをつよも よなべすべなよ もよつをと

遠つ夜も 夜なべ為べなよ 慕寄つ音

「農具(ノウグ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「乃」部に、

農具(―グ) 唐尭始作也。於日本人皇第二代綏清天皇始作也。〔元亀本186C〕

農具(―ク) 唐ニハ尭始作也。於日本人皇第二代綏清天皇始作之。〔静嘉堂本210A〕

天正十七年本は、この語を欠く。

とある。標記語「農具」の語注記は、「唐の尭、始めて作るなり。日本においては人皇第二代綏清天皇、始めて作るなり」という。『下學集』は「鋤・鍬」の語注記に、

(スキ)。(クワ) 二字同義。農具(ノウ[グ])也。〔器財門113EF〕

とある。『庭訓徃來』に見え、『庭訓徃來註』三月三日の状に、

(ウナカシ)鋤鍬(クワ)犂等農具| 農具尭始作也。日本ニハ仁王第二綏靖天王始作也。田畠等已下皆々於綏靖之代始也。〔謙堂文庫蔵十三右H〕

とあって、前半部分が『運歩色葉集』の語注記に引用されていることが見て取れよう。『節用集』類の広本節用集』には、標記語「農具」は未記載にある。『下學集』同様、

(クワ)。(同/ライ・スキ) 農具。〔器財門505A〕

(スキ)。 (同)。(同) 合紀司詰(スキ)。〔器財門1125B〕

とあり、「くわ」の語注記に「農具」と見えている。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』には、

農耕(ノウカウ)―業。―具。―作。〔尭・言語115B〕〔両・言語140@〕

(クワ) 農具。〔弘・財宝159F〕

(スキ)。(同)。(同)。〔弘・財宝269F〕

(スキ)。永・財宝231B〕〔尭・財宝217A〕

とあって、「農具」自体を収載する資料は、上記の如くとなっている。ここで『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』との繋がりは見られるのだが。『下學集』及び『節用集』類の語注記については、別箇の立場にあることが見てとれるのである。当代の『日葡辞書』には、

No>gu.ノゥグ(農具) すなわち,Co<sacuno di<gu.(耕作の道具)田畑用の道具,すなわち,耕作用の道具.〔邦訳470r〕

とある。

2000年10月23日(月)雨、夜止む。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)  

とをつみに かごかきかごか につみをと

遠積荷 籠担き籠か 荷積み音

「贔屓(ひいき)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「飛」部に、

贔屓(ヒイキ) 。〔元亀本339I〕

贔屓(ヒイキ) 。〔静嘉堂本407D〕

とある。標記語「贔屓」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、

贔屓(ヒイキ) 着(ツケ)テ(タスクル)ナリ。〔疊字門159F〕

とある。『庭訓徃來註』六月十一日の状には、

与同張本之族之至強竊黨類等ニ|者尋捜同意屓贔徒黨搦捕 贔屓力扶人之皃也。屓(マクル)ヲ(ムスクル)ト讀也。〔謙堂文庫蔵三六左D〕

とあって、『下學集』の語注記を引用する。広本節用集』は、

贔屓(ヒイキ/ヒイキトチカラヲヲシメ) 文選形讀――偏頗(ヘンバ)。〔態藝門1049@〕

とあって、注記そのものが異なる。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

贔屓(ヒイキ) ――偏頗(ヘンハ)。〔弘・言語進退256B〕

贔屓(ヒイキ) 。〔永・言語218H〕〔尭・言語204@〕

とあって、弘治二年本広本節用集』の語注記を継承し、永祿二年本尭空本は、『運歩色葉集』と同じく語注記を未記載する。当代の『日葡辞書』には、

Fijqi.ヒイキ(贔屓) ある人に味方すること.または,その人のために尽力すること.例,Fitono fijqiuo suru.(人の贔屓をする)⇒Catabijqi;Cato<do;Fenba.〔邦訳231r〕

とあり、「Fenba.」の語も引く。

2000年10月22日(日)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(玉川⇒駒沢)  

とをつつや やまさとさまや やつつをと

遠砲や 山郷狹間や 矢筒音

「琴(こと)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「古」部に、

(―) 伏義造。龍八寸。通八方。鳳池四寸。四時合。長三尺六寸。象一年三百六十日。廣六寸象六合天地四方。前廣。象尊。後狹。象卑。上圓法天。下方法地。五絃五行。大絃者君。小絃者。第一爲宮次商。角徴羽。次少宮少商。楽器之上。六張双之彈也。絃之名。一二三四五六七八九十計為。巾已上十三絃也。文王加一絃。曰文絃武王加一絃曰武絃。〔元亀本241@〕

(―) 伏義(フツキ)(ツクル)。竜池八寸八方。鳳池四寸。合四時。長三尺六寸象(カタト)ル一季三百六十日。廣六寸象六合天地四方。前廣。象尊(ソン)。後狹(カウ)。象卑(ヒ)。上圓法天。下方法地。五絃(ケン)五行大絃ヲハ君。小絃ヲハ者臣。第一(タリ)(キウ)。次商角徴羽。次少宮少商。(カク)器之上。弓六張双(ナラヘ)也。絃之名。一・二・三・四・五・六・七・八・九・十計為巾(ケイイキン)。已上十三絃也。文王加一絃。曰文絃|。武王加一絃曰武絃。〔静嘉堂本278@〕

・天正十七年本はこの語を欠く。

とある。『下学集』は、

(コト) 伏義(フツキ)(ツクル)∨。龍池八寸通八風。鳳池四寸合四時。長三尺六寸象三百六十日。廣(ヒロサ)六寸象(カタト) ル六合(リツカウ)ニ天地四方也。前廣(ウシロ)(セハキ)ハ尊卑(ソンヒ)ニ。上圓(マルク)下方(ノツトル)天地。五絃(ケン)ハ五行。君小絃臣。第一ヲハ宮商(キウシヤウ)ト。次キハ角徴羽(カクチウ)。次キハ少宮少商也。〔器財門111A〕

とあり、これは『韻府群玉』に、

琴 巨金切[説文]神農作洞越練朱五絃周加二絃○又云伏羲―龍池八寸通八風。鳳池四寸合四時。長三尺六寸象三百六十日。廣六寸象六合。前廣後狹象尊卑。上圓下方法天地。五絃象五行。大絃君小絃臣絃第一爲宮次〓〔立冂古〕。角羽徴。次小宮小商○唐太宗増九絃(筆談)舜在床ー(孟)雍門周彈―而悲 詳悲(吟詠)手舞石上月膝横花間―(李)活計雖貧七絃爲九象九星。〔二486左H侵韻〕

とあり引用する。『運歩色葉集』の「昔は」以降の語注記の説明を記載していない。これについては後述する。まず、『庭訓徃來註』八月三日の状に、

 琴時有也。修羅琴シテ撫如韻云々。將軍來レハ賊軍来々々々韻也。如来来給時無上来々々々韻也。唐ニハ皇帝臣女禍氏造是科註説也。或琴大也。瑟少也。秦蒙恬造。又秦始皇后林中听知シテ琴造移。后死去時秘曲一張置女二人譲。二人是争。是智惠ヨリ為也。一方十三絃ヲハ渡。十二絃〓〔女+弟〕渡也。故琴筝之字書也。此十三絃日本渡也。又或人五十川(―スヽカ―)ヲ渡也。蹈音面白。后彼十三絃学作也。其音如筝自是用也。絃元五十絃。其后廿五絃。是十二、十三分也。神農記曰。琴伏犠造。龍池八寸。鳳池四寸四時。長三尺六寸。象三百六十日。廣六寸六合。天地四方也。前廣。後狹。象尊卑。上圓下方法天地。五-絃五行大絃君。小絃臣。絃第一宮次商角徴羽。次少宮少商。或琴ヲ号焦尾。是異名也。集桐云。後漢蔡邑竈下爆桐以造琴。殊音絶之。其桐尾尚集故呼琴云焦桐。又云桐君ニハ五絃。周七絃也。公任哥曰桐於志茂筝ニトヤ五十川哉。被レリ遊。〔謙堂文庫蔵四一左B〕

とあって、「『神農記曰。琴」はの後の語注記は『下學集』に基づくものである。『運歩色葉集』は、ここから引用するものではなく、直接『下學集』から引用していることも記載内容から知れよう。また、『運歩色葉集』における「昔は」以降の語注記のうち、「楽器之上。六張双之彈也」のところは、『庭訓徃來註』八月三日の状の「和琴」の注記である、

和琴(―ゴン) 東(アツマ)我朝ニハ賞翫也。故諸楽器置。六張双之也。学而作之者也云々。〔謙堂文庫蔵四一左A〕

とあって、ここに依拠するものである。以下の「絃之名。一二三四五六七八九十計為。巾已上十三絃也。文王加一絃。曰文絃武王加一絃曰武絃」は、また別の資料に依拠するのであるが未審である。

 『節用集』類の広本節用集』は、

(コト/キン) 合紀賀多(コト)帝王世記曰炎帝作五絃桓譚新論曰、神農始制シテ。又曰周文王{或作}各加一絃礼儀纂曰、使母句(ホコウ)ヲ琴五絃礼記曰、五絃。歌南風廣雅云、琴長三尺六寸六分。象基之。廣六寸。象六合。五絃象五行周文武時二絃琴操曰、伏義作琴。以修身理。反(カヘス)其天真也。白虎通曰、琴者禁也。禁-止於邪。以正(タヽ)ス人心也。又上池。下曰M(ハマ)ト廣後狹象尊卑。上圓下方法天地也。大絃。小絃為。文武二絃以合(アワス)君臣之恩。詩正義云、属手陽。舜歌シテ南風。以養万物馬犬畜也。伯牙秣(マクサカフ)也。又云伏犠始造。龍池八寸。鳳池四寸(カナフ)四時。長(ナカサ)三尺六寸(カタトル)三百六十日。廣(ヒロ)サ六寸(カタトル)六合六合トハ天地四方也。前(ヒロク)。後(セハシ)。象(カタトル)尊卑。上圓下方。法(ノツトル)天地大絃君。小絃臣。絃第一宮。次〓〔立冂古〕角徴羽。次少宮少〓〔立冂古〕。首楞嚴曰、佛謂阿難譬如琴瑟箜篌琵琶雖妙音。若無妙指終不能發。汝與衆生亦復如是。 ○異名、焦桐。別鶴。雅操。清〓〔立冂古〕。絲桐。響泉。離〓〔亦+鳥〕。玉指白居易。雅音。朱絃。高山。流水伯牙曲名。桐聲。龍門。琴瑟礼記。焦尾。桐梧。愛桐。桐君。獅子筋酉陽絃也。鐘子知音。逓(テイ)鐘。清角黄帝澤桐。抓桐。素桐。桐尾。琴得。指鳴。桐孫。舜下残。没絃。魚尾。〓〔ヨヨ+金〕氷。清脩咒。繞梁楚莊。飛燕。積雪。春波。離鳴。五絃。七玄。〔器財門661C〕

とあって、『下學集』からの継承を含め、増補改編が著しいものである。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

(コト)。〔弘・財宝188A〕

(コトキン) 伏義造之。竜(レウ)池八寸八風。鳳池四寸(カナウ) ∨。長三尺六寸三百六十日。廣六寸六合(リツ―)ニ天地四方也。前尊卑。上カニ也。(ノツトル)天-地。五五行。大絃君。小絃臣。絃第一宮。次〓〔立冂古〕角徴羽。次少宮少〓〔立冂古〕。〔永・財宝154D〕

(コト) 伏義造之。竜池八寸通八風。鳳池四寸四時。長三尺六寸象三百六十日。廣六寸象六合天地四方也。前廣後狹象尊卑。上圓下方天地。五絃象五行。大絃君。小絃臣。絃第一為宮。次〓〔立冂古〕角徴羽。少宮少〓〔立冂古〕。〔尭・財宝144C〕

とあって、広本節用集』のような増補改編はなく、『下學集』を継承する。ただし、弘治二年本は簡略化により語注記を未記載にしている。当代の『日葡辞書』には、

Coto.コト(琴) 日本のハープシコード.〔邦訳152R〕

とある。

2000年10月21日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)  

とほにいき をみうくうみを きいにほと

十に生き 御身浮く海を 奇異に程

「傍尓(バウジ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「波」部に、

傍尓(―ジ) 。〔元亀本26@〕

傍尓(バウジ) 。〔静嘉堂本24A〕

傍尓(―シ) 。〔天正十七年本上13オC〕

傍尓(―) 。〔西來寺本44A〕

とある。標記語「傍尓」の語注記は未記載にある。『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

之四至籠尓 法意ニハ四至。依町段田地。武家ニハ四至。但町段者尤可四至|。亊式目公家武家成敗无差別。又至方也。即云所帯也。傍尓〓〔片+旁〕也。言〓〔片+旁〕シテナトニ埋也。故云傍尓。境分亊也。仁王卅七代孝徳天王御宇始定給。京地奉行者白殿也。境タル〓〔示+失〕定持給也云々。〔謙堂文庫蔵一二左H〕

之四至籠尓 法意ニハ四至。依町段田地。武家ニハ四至。但町段者尤可四至|。亊式目〓〔日+之〕公家武家成敗无差別。又至方也。即云所帯也。傍尓〓〔片+旁〕也。言〓〔片+旁〕シテ(カト/スミ)埋也。故傍尓。境分亊也。仁王卅七代孝徳天王御宇始定給。京地奉行(ハク)殿也。境タル案〓〔示+失〕(チツ)持給也。〔天理図書館蔵八@〕

とあって、「籠尓」の語注記として、「傍尓は〓〔片+旁〕なり。言ふこころは境に〓〔片+旁〕を指して角なとに埋むるなり。故に傍尓と云ふ。境を分つ亊なり。仁王卅七代、孝徳天王の御宇、始めて定め給ふ。京の地奉行は白殿なり。境を記したる書を案〓〔示+失〕定と号しめ持ち給ふなり云々」という。さらに、『庭訓私記』には、

籠尓籠札也。境目ナトヲ埋ヨト云意也。〔天理図書館蔵一〇左I〕

とあって、地点を表す「角(かど/すみ)」を同じ「すみ」という燃料物である「炭(すみ)」にして置換えて注記する。『節用集』類の広本節用集』は、

籠尓(ハウジ/ノリ・シカリ) 或作傍尓(ハウジ)。〔態藝門69B〕

とあって、標記語を「籠尓」とし、読みを「ハウジ」とし、語注記にて「或は傍尓と作る」と別表記を示す形態のものである。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』には、

傍尓(ハウジ) 籠尓(同) 。〔弘・天地17A〕

傍尓(ハウジ) 。籠尓(ハウジ) 。〔永・天地15E〕

傍尓(ハウジ) 籠― 。〔尭・天地13E〕〔両・天地15C〕

とあって、読みは広本節用集』と同じで「ハウジ」とし、標記語「傍尓」の語を前に置き、「籠尓」の語を後に置く。これは、広本節用集』の標記語と語注記の語排列を逆にしたものであり、いずれも『庭訓徃來註』の語注記に見えるものである。だが、古辞書『節用集』及び『運歩色葉集』は『庭訓徃來註』の語注記の説明部分は引用していない。さらに、『運歩色葉集』は「籠尓」の語を未記載としている点も注意しておく必要があろう。何故この表記を示さなかったのか。そして、どういう点から注記説明を簡略化削除したのかを今後検証せねばなるまい。

 

2000年10月20日(金)曇りのち小雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

仏教文学研究所公開講演会15:00〜17:00〔於本館中央講堂〕

とおにおく もみぢにぢみも くおにおと

遠に奥 紅葉に滋味も 九尾に緒と

「目録(モクロク)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「毛」部に、

目録(モクロク) 。〔元亀本348D〕

目録(モクロク) 。〔静嘉堂本419@〕

とある。標記語「目録」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未收載にある。『庭訓徃來註』三月三日の状に、

沙汰人等ラニ|地下目録取帳以下 目録民之記戸口書也云々。〔謙堂文庫蔵一三右E〕

とあって、「目録は民の戸口を記す書なり。云々」という。『節用集』類の広本節用集』は、

目録(モクロク/メ,シルス) 帳。〔器財門1067E〕

とあって、語注記に「帳」とだけ記す。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

目録(モクロク) 帳。〔弘・財宝259E〕〔永・財宝221F〕〔尭・財宝208@〕

とあって、広本節用集』と同じである。当代の『日葡辞書』には、

Mocurocu.モクロク(目録)。Nauo xirusu(名を録す).書物の目次.§また,贈物として送られる品物,たとえば,酒樽,肴(Sacanas),馬,太刀などの品目表.もし,他の品物,たとえば,反物などの品目表であれば,Chu<mon(注文)と言われる。⇒Chu<mon(注文).〔邦訳416r〕

とあって、最初の意味が『庭訓徃來註』の注記に相当するものである。

2000年10月19日(木)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

短大国文秋季講演会〔1−301演題「良寛の心」栗田勇さん〕

ことといく みすかはかすみ くいととこ

古都問い来 魅す香は霞み 杭と所

「暴風(ボウフウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「保」部に、

暴風(―フウ) 。〔元亀本44H〕

暴風(ボフウ) 。〔静嘉堂本50@〕

暴風(―ホウ) 。〔天正十七年本上25ウG〕

暴風(――) 。〔西來寺本81E〕

とある。標記語「暴風」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は、未收載にある。『庭訓徃來註』二月廿四日の状に、

若今明之際ラハ‖暴風霖雨者 暴ハ俄也。風ハ陰陽ノ気也。又雨モ陰陽之気也。〔謙堂文庫蔵一〇右C〕

とあって、「暴は俄かなり。風は陰陽の気なり。また雨も陰陽の気なり」という。『節用集』類の広本『節用集』は、

暴風(ボフウ/ホウー・ニワカカゼ) 。〔天地門94D〕

とあって、『運歩色葉集』同様に、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

暴風(ボフウ) ノワキノ風。ニワカ風。〔天地31B〕

暴風(ボフウ/ニワカ―) 。〔天地31G〕

暴風(ボフウ/ニハカ―) ―雨。〔天地29C〕

暴風(ボウフウ) ―雨。〔天地34C〕

とあって、弘治二年本が語注記に「のわきの風、にわか雨」と記載するものであり、永禄二年本や尭空本は左訓に「にはか」と訓をおく。標記語「暴風」の読みを広本節用集』に従って「ボフウ」とする。当代の『日葡辞書』には、

Bofu>.ボフウ(暴風)。Arai caje.(暴い風)激しい風.〔邦訳60l〕

とある。

2000年10月18日(水)曇り。木枯らし一番が吹く。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

はちいふじ はきまつきは じふいちは

八云ふ字 掃き待つ木は 十一は

「不具(フグ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「av部に、

不具(―グ) 。〔元亀本222A〕

不具(―グ) 。〔静嘉堂本253G〕

不具(―ク) 。〔天正十七年本中56オC〕

とある。標記語「不具」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』に、

不具(フグ) 無衣裳(ブイシヤウ)。日本俗ノ所ロナリ也。〔元和本・言辞152C〕

不具(フグ) 無衣裳義。日本俗所言。〔古写本亀田本・言辞126D〕

とあって、「無衣裳(ブイシヤウ)。日本の俗の言ふ所ろなり」という。『庭訓徃來註』二月二十日の状に、

併期参會之次不具謹言 不具自我位下人詞也。不具衣裳義也。監物弾正忠下官也。故不具云也云々。〔謙堂文庫蔵九左C〕

とあって「不具、我より位の下人に用いる詞なり。不具は衣裳なき義なり。監物は弾正忠より下官なり。故に不具と云ふなり云々」とある。この語注記を見るに、『下學集』からの直接引用とは言い難いが、「衣裳」のところは共通する。『節用集』類の広本節用集』は、

不具(フグ) 無衣裳義也。日本俗所言。〔態藝門628G〕

とあって、『下學集』を継承する。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には、

不具(―グ) 。〔弘・言語進退182@〕〔永・言語149Bの注記〕〔尭・言語139Bの注記〕

とあって語注記は『運歩色葉集』同様、未記載にある。この「書簡用語」については、簡略化削除の方向性がのちの編纂姿勢に顕著であることになる。当代の『日葡辞書』には、

Fugu.フグ(不具) Tcubusa narazu.(具さならず)手紙でこまごまと書いたり,くどく言ったりしないこと.例,Fugu tcuxxinde moo<su.(不具謹んで申す)私はこれ以上くだくだしく申したり,これ以上こまごまと書きしるしたりすることはしません.〔273L〕

とある。

2000年10月17日(火)曇り後小雨。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

といなくや やみくらくみや やくないと

問い鳴くや 闇暗く見や 厄無いと

「草鹿圖(くさしかのズ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「久」部に、

草鹿圖(―――) 〔図絵省略:長三尺八寸。胸五寸。○四寸。七寸、八寸。尻太。長三尺八寸。〕十二杖打之一杖寄之。桁立也。(クイ)之上一尺也。燻革又柿渋布テ裏(ツヽム)之。以小蟇目(−ヒキ−)也。神動ナラハ三所刻黒塗(ヌル)也。又以(アヲ)キ作也。神動悪也。小丸せヨ。人皇八十三代、土御門御宇。正平年頼朝富士牧狩(マキカリ)稽古(ケイ−)シテ之射也。定無之筒斗也。足草深(フカ)クシテ足不見之也。佐礼者如此注之。但不實也。〔元亀本199F〕

草鹿圖(―――) 〔図絵省略:胸厚五寸。○四寸。七寸、八寸。尻太。長三尺八寸。〕十二杖打之。一杖寄之。桁立也。之上一尺也。燻革又柿渋布テ裏之。以小蟇目射之也。神動ナラハ三所刻黒塗也。又以青糸作也。神動悪也。小せヨ。人王八十代、土御門御宇。正平年頼朝為冨士牧狩稽古作之射也。定无之以斗也。足無草深シテ足不見之射也。佐礼者如此注之。但不實也。〔静嘉堂本226D〕

草鹿圖(―――) 〔図絵省略:胸厚五寸。○四寸。七寸、八寸。尻太。長三尺八寸。〕十二杖打之一杖寄之桁立也。机之上一尺也。燻革(フスヘカハ)又柿渋(カキシフ)布ニテ裏(ツヽム)。以小蟇目(ヒキメ)ヲ之也。神動(シントウ)ナラバ三所刻テ[ハ](ヌル)也。又菁絲作也。神動(サキ)ノ竿悪也。小丸クせヨ。人皇八十三代土御門御宇。正平年頼朝富士牧狩稽古作之射之。定無之筒斗也。足之無キハ草深シテ足不躰也。佐礼者如此注之。但不實也。〔天正十七年本中43オ@〕

とある。標記語「草鹿圖」は、図絵が描かれ、その下に語注記がなされている。その語注記は、「十二杖これを打つ。一杖これに寄せ、桁を立つるなり。杭の上一尺なり。燻革(フスヘカハ)又、柿渋(カキシフ)布にてこれを裏む。小蟇目を以ってこれを射るなり。神動ならば三所を刻みて黒く塗るなり。又青き絲をもって作るなり。神動の先の竿は悪しきなり。小さく丸くせよ。人皇八十三代、土御門の御宇。正平年、頼朝富士の牧狩りの稽古にこれを作りこれを射る。定めてこれなき筒ばかりなり。足の無きは草深くして足見えざるを射るなり。佐礼はかくの如くこれを注す。但し不實なり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』正月五日の状に、

草鹿圓物草鹿仁王八十三代土御門御宇正平年中頼朝冨士野御狩也。此時牧狩為稽古鹿茅等以作シテ足自筒上計也。頭堋尾射手習也。ルルコト足草深而鹿足不故也。背スルルノ形也。圓物張也御所皈。何レモ布皮トス布皮色々〓〔米+耳〕七野スルト。又的之表圓相ラシ書也。的蚩尤南山ニシテ蚩尤□伏也南山書而南山(アツチ)ト讀也。〔謙堂文庫藏五右I〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記の後半部と共通する。『庭訓徃來註』の語注記の方が稍詳しく、「鹿を藁や茅等を以って作る」や「頭を堋に向けて尾を射手の方にけるが習ひなり」「背を見することは比ぶるの形なり」のところを簡略化して注記していることが見て取れよう。『節用集』の広本節用集』や印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』には未収載の語であり、いまのところ、この『庭訓徃來註』と『運歩色葉集』とが収載するものである。そして、『運歩色葉集』には『庭訓徃來註』に見えない別の語注記が前半部にあって、これは、この「冨士野牧狩」に関連する資料から「草鹿図絵」とともに引用したところであるまいか。この図絵が如何なる資料に基づくものかは今後の検証を待ちたい。

2000年10月16日(月)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)

いといろか くりかきかりく かろいとい

いと色香 栗柿狩り来 軽い問い

「宗匠(ソウシヤウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「楚」部に、

0223-101「宗匠(ソウシヤウ)」(051-2000.10.16)

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「楚」部に、

宗匠(ソウシヤウ) 。〔元亀本153F〕

宗匠(ソウシヤウ) 。〔静嘉堂本168A〕

とある。標記語「宗匠」には語注記は見えない。『庭訓徃來』二月廿三日の状に、

 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

連歌宗匠和歌達者一兩輩可有御誘引〔至徳三年本〕

連歌宗匠和歌達者一兩輩可有御誘引〔宝徳三年本〕

連歌宗匠和歌達者一兩輩可有御誘引〔建部傳内本〕

連歌宗匠和哥達者一両輩可御誘引〔山田俊雄藏本〕

連歌宗匠和歌達者一両輩御誘引〔経覺筆本〕

×〔文明十四年本〕

と見え、標記語「連歌」とし訓みは凡て未記載にする。

 古辞書、『下學集』〔(1444年成立・元和三年(1617年)版)〕に、

宗匠(ソウシヤウ) 先達義也。日本俗或シテ歌道之達者宗匠也。〔態藝88E〕

とある。語注記は「先達の義なり。日本の俗、或は歌道の達者を指して宗匠と云ふなり」という。『庭訓徃來註』に、

051連歌宗匠 賦物五字心。宗匠先達義也日本俗指哥道達者。〔謙堂文庫蔵九右C〕

とあって、『下學集』の語注記から引用継承したものである。『節用集』類の広本節用集』には、

宗匠(ソウシヤウ) 先達義也。日本シテ歌道達者――。〔人倫門384F〕

とあって、『下學集』の語注記を継承する。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本『節用集』は、

宗匠(ソウシヤウ) 連歌之先達。〔弘・人倫118F〕

宗匠(−シヤウ) 連歌。〔永・人倫100E〕

宗匠(ソウシヤウ) 連歌――。〔尭・人倫91@〕〔両・人倫110F〕

とあって、語注記は簡略化され、和歌の道から連歌の道に置き換えられて注記がなされていることが見て取れよう。いま、『運歩色葉集』はこの簡略化置換の語注記をも採録していない。このあたり、編者の和歌や連歌に対する位置付けに対する姿勢の異なりを感得する。いわば、熟知している限りの語であるが故に記載しないか、はたまた、この注記を意識して削除したかである。私は前者の立場であろうかと推察する。今後の語の収録全体像を鑑みて検証することが望ましい。

 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

So>xo<.ソウシャウ(宗匠)すなわち,Rengano xixo<.(連歌の師匠) Renga(連歌)と呼ばれる種の歌を,一緒になって作る人々の重立った師匠.〔邦訳579l〕

とあって、標記語「連歌」の語を収載し、意味を「(連歌の師匠)(連歌)と呼ばれる種の歌を,一緒になって作る人々の重立った師匠」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

そう(ソウ)-しゃう(シヨウ)〔名〕【宗匠】(一)大工のかしら。棟梁。工師。袁宏、三國名臣序贊「莫宗匠陶鈞、而羣才緝煕、元首經略、而股肱肆一レ力」(二)文藝の達人。舊唐書、權コ輿傳「其文、雅正而弘博、王侯將相、?(オヨビ)當時名人薨歿、以銘紀爲請者、什八九、時人以爲宗匠焉」(三)和歌、連歌、等の先達の稱。後には、俳諧、茶道、活花、等の師にも云ふ。古今著聞集、五、和歌、柿本人麿畫讚「斯道宗匠、我朝前賢」元可法師集、春「宗匠爲定卿、詠ませ侍りし歌の中に」『下學集』、下、態藝門「宗匠、先達義也。日本俗、或指歌道之達者、云宗匠也」庭訓往來、二月「連歌宗匠、和歌達者」〔3-108-3〕

とあって、標記語「れん‐が連歌」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、

そう-しょう[:シャウ]【宗匠】〔名〕文芸・技芸にすぐれ、師である人。特に、和歌、連歌、俳諧、茶道、香道、華道などの師匠をいう。*続日本紀‐養老三年〔七一九〕一一月乙卯「神叡法師〈略〉由是服膺請業者已知実帰。函丈?教者悉成宗匠」*春のみやまぢ〔一二八〇〕六月二九日「明日より百日の御歌合たるべしとて、宗匠題を出す」*文机談〔一二八三頃〕五「当道には宗匠とはおぼしめされながら、旧労を賞せられける御こころの底こそ、かたじけなくもたのもしく侍けれ」*文明本節用集〔室町中〕「宗匠 ソウシャウ 先達義也」*実隆公記‐長享二年〔一四八八〕三月二八日「宗祇法師来、連哥会所奉行〈自宗砌法師時世此奉行人宗匠云々〉事自大樹出之」*仮名草子・身の鏡〔一六五九〕下「今時はいかいの点取とて、一句を二銭三銭づつにて宗匠(ソウシヤウ)にみするなれば」*俳諧・三冊子〔一七〇二〕赤双紙「景気は大事のもの也。連歌に景曲といひ、いにしへの宗匠深くつつしみ、一代一両句に不過(すぎず)」*末枯〔一九一七〕〈久保田万太郎〉「新聞に関係してゐる小山さんだの、小梅の宗匠だのといふ好いちかづきもそこに出来た」*隋書‐儒林「為宗匠」【発音】ソーシー〈標ア〉[ソ]〈京ア〉[ソ]【辞書】下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【宗匠】下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン・言海

とあって、標記語「そう‐しやう宗匠」の語を収載し、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。ここで、古辞書の用例として広本(文明本)『節用集』を収録しているが、なぜ『下學集』の用例を引用しないのか……。因みに、『大言海』そして、角川『古語大辞典』には、『下學集』の「宗匠 ソウシヤウ〈先達の義也。日本の俗、或は歌道之達者を指して宗匠と云ふ也〉」〔下学集〕」を訓み下して引用している。

ことばの実際]

宗匠(=為世)云、俊成は幽玄にて難及。定家義理ふかくて難学。たゝ民部卿入道躰を学之由。源相存也云々。〔頓阿著『井蛙抄』卷第六〕

2000年10月15日(日)曇り後小雨。東京(八王子)⇒多摩境

とをいごや つきせぬせつき やごいをと

遠異語や 尽きせぬ節季 野語彙乙

「異体之形(イタイのギヤウ)」

 室町時代の古辞書運歩色葉集』の「伊」部に、

異躰(イタイ) 。《別語略》異形(―ギヤウ)。〔元亀本10E〕

異躰(イテイ) 。《別語略》異形(―キヤウ)。〔静嘉堂本1E・F〕

異躰(イテイ) 。《別語略》異形(―キヤウ)。〔天正十七年本上3オD〕

異体(イテイ) 。《別語略》異形(―ギヤウ)。〔西來寺本13E・14@〕

とある。標記語「異躰」「異体」及び「異形」には語注記は見えない。読みは、元亀本が「異躰」を「イタイ」としているのに対し、他三本は、「イテイ」と読む。

 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

花下好士諸家狂仁如雲似霞遠所花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔至徳三年本〕

花下好士諸家狂仁如雲似霞遠所之花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔宝徳三年本〕

花下好士諸家之狂仁如雲似霞遠所之花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔建部傳内本〕

(モト)好士諸家狂仁如タリ遠所之花者乗物僮僕難合期近隣之名花以歩行之儀事候雖トモリト左道之樣異躰之形チヲ明後日御同心候ハヽ者本望也〔山田俊雄藏本〕

花下好士諸家狂仁如タリ遠所之花乗物僮僕難合期近隣之茗花歩行之儀候雖リト左道之樣異躰之形明後日御同心候ハヽ者本望也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、標記語「異躰之形」とし訓みは凡て未記載にする。

 真名本『庭訓徃來註』に、

050以異体明後日御同心候者本望 異体({倡})-化之義也。元来貴賎分也。易形故也。是曰、云先生也。〔謙堂文庫蔵九右A〕

とあって、「異体({倡})-化の義なり。元来、貴賎を分かたずなり。形(かたち)易(やす)き故なり。是を曰く、先生と云ふ」という。

 古辞書では、院政時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)・鎌倉時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

異躰イテイ/已上別樣詞。〔前田本上卷・伊部畳字門13オE〕

異躰 〃道。〃遷せン/罪。〃言。〔十巻本第八冊・左部畳字門ウD〕

とあって、三巻本の標記語「異躰」に語を収載し訓みを「イテイ」と記載する。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には未収載にする。広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

 次に『節用集』類の広本節用集』には、

異體(イテイ)コトナリ、カタチ異形(イギヤウ)―ケイ・カタチ。〔態藝門14B〕

とあって、「異體」と「異形」の語は連続して排列する。語注記は未記載にある。これに対し、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、

異躰(イテイ) 。《別語略》異形(―ギヤウ)−カタチ。〔弘・言語進退11D・E〕

異躰(イテイ) 。《別語略》異形(―ギヤウ)−カタチ。〔永・言語6F・G〕

異相(イサウ) ―域。―樣。―味。―形。―父。―能。―見。―体。―活。―治。―標。―論。―類。―儀。―人。〔尭・言語6@〕

とあって、排列は必ずしも同じではない。弘治二年本の《別語略》の箇所には、「異振(フリ)。異活(クハツ)。異論(ロン)。異治()。異味()。異類(ルイ)」が排列され、永禄二年本の《別語略》の箇所には、「異活(クハツ)。異論(ロン)。異治()。異味()。異類(ルイ)」が排列されている。『運歩色葉集』は、「異振(フリ)。異名(ミヤウ)」が排列され、大いに異なることが判る。古辞書にあって、『庭訓徃來註』の如き語注記は採録されずにあることが何を意味するのか今後の検証を待たねばなるまい。

 古版庭訓徃来註』では、

(モト)好士諸家狂人如(クモ)(ニタリ)(カスミ)遠所(エンジヨ)之花()乗物(ノリモノ)僮僕(ドウボク)(ガタ)合期(ガウゴ)近隣(キンリン)之名(メイ)花以行之儀候雖ヘトモ(タリ)左道之樣(ヨウ)異躰(イテイ)()(カタチ)明後()日御同心候ハヽ者本望(マウ)(モト)好士(カウジ)其比ノ代ニハ。名花木ニハ。級主樹(キウシユジユ)トテ達(タツ)シケル者ヲ主(アルジ)ト定ラレシナリ。花盛(ザカ)リニハ彼(カレ)ガ許(モト)ニ集(アツマツ)テ會ヲ仕興發ヲ遊フ也。其比ノ好士ト謂(イヒ)習ハシタリ。狂仁(キヤウジン)ト云者ハ。餘ノ事ヲ捨(ステ)テ。花ニ心ヲ移(ウツ)シ營(イチナ)ム。渡世(トせイ)ヲモ目ニ懸(カケ)ス。花ノミヲ心ロニ懸テ狂(クル)ヒ行ク人ヲ狂人ト云也。〔6オB〜G〕

とあって、標記語「異躰」の語を収載し語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いへども)(たりと)左道(さたう)()(やう)(もつて)異體(いてい)()(かたちを)明後日(ミやうごにち)御同心(ごどうしん)(さふらハ)()本望(ほんまう)(なり)。/左道之樣異體之形明後日御同心候者本望也。〔7ウ〕

とあって、この標記語「異體」の語を収載し語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(はなの)(もとの)好士(かうし)諸家(しよけの)狂仁(きやうじん)(ごとく)(くもの)(にたり)(かすミに)遠所(ゑんしよ)()(はな)()乗物(のりもの)僮僕(どうほく)(がたし)合期(かふこし)(まづ)近隣(きんりん)()名花(めいくわ)(もつて)歩行(ほかう)()(ぎを)(おもひ)(たつ)(ことに)(ざふらふ)(いへども)(たりと)左道(さたう)()(やう)(もつて)異體(いてい)()(かたちを)明後日(ミやうごにち)御同心(ごどうしん)(さふらハ)()本望(ほんまう)(なり)▲異躰ハ躰(からだ)をやつす義()なり。たとへバ馬車(むまくるま)に乗るべき人の足置(あしをき)なとうち来()てありくやうの意()也。〔9オ@〜E、9ウ@〜A〕

とあって、標記語「異躰」の語を収載し語注記は「躰(からだ)をやつす義()なり。たとへバ馬車(むまくるま)に乗るべき人の足置(あしをき)なとうち来()てありくやうの意()なり」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Itei.イテイ(異体)Cotonaru tai.(異なる体)見かけや服装が並外れて醜くて卑しいこと。例、Vareraua naricoso itei naredomo,&c.(我らはなりこそ異体なれども、云々)Monog(物語)私は、見かけや様子こそ醜くて卑しくても、しかし…。¶Iteina catachi.(異体な貌)人のやせこけて、ぶざまで卑しい姿形や顔つき。〔邦訳346l〕

とあって、標記語「異躰」の語を収載し、意味を「見かけや服装が並外れて醜くて卑しいこと」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

い‐てい〔名〕【異體】尋常に異なる體(すがた)。異風。〔1-323-3〕

とあって、標記語「-てい異体】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、

い‐てい【異体】〔名〕(形動)普通とは違う風変わりなさま。異様。いたい。@身なりや容貌についていう場合。*今昔物語集〔一一二〇頃か〕一〇・三二「我は異躰の様を作り、此を荷ひ持て」*色葉字類抄〔一一七七〜八一〕「異様 イヤウ 異体 イテイ 已上別様詞」*私聚百因縁集〔一二五七〕一・三「仙人なれば其の有様異躰(イテイ)なり」*日葡辞書〔一六〇三〜〇四〕「Itei(イテイ)。コトナル タイ〈訳〉身振りや衣服などが醜くて異常に下品なこと。例、ワレラワ ナリコソ itei(イテイ)ナレドモ〔物語〕Iteina(イテイナ)カタチ」*音訓新聞字引〔一八七六〕〈萩原乙彦〉「異体 イテイ コトナルカラダ」A事柄についていう場合。*中右記‐天永三年〔一一一二〕一二月二九日「今日内裏中院有放火事、人々見付滅了、誠是希有異体事也」*随筆・折たく柴の記〔一七一六頃〕上「今おもふに、異体の事也しかど、人もとがめず」【発音】イティ〈標ア〉[0]【辞書】色葉・文明・天正・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【異体】色葉・文明・天正・易林・書言・ヘボン・言海

とあって、標記語「-てい異体】」の語を収載し、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。

[ことばの実際]

三日壬午前備前守行家、〈櫻威甲〉伊豫守義經、〈赤地錦直垂、萠黄威甲、〉等赴西海先進使者於仙洞、申云、爲遁鎌倉譴責、零落鎮西最期雖可參拝、行粧異體(イテイ)之間、已以首途〈云云〉《訓み下し》三日壬午前ノ備前ノ守行家、〈桜威ノ甲〉伊予ノ守義経、〈赤地ノ錦ノ直垂、萌黄威ノ甲、〉等西海ニ赴ク。先ヅ使者ヲ仙洞ニ進ジテ、申シテ云ク、鎌倉ノ譴責ヲ遁レン為、鎮西ニ零落ス。最期ニ参拝スベシト雖モ、行粧異体(イテイ)ノ間、已ニ以テ首途スト〈云云〉。《『吾妻鏡』文治元年十一月二日状》

2000年10月14日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とおいよは にほひのひほに はよいおと

遠い夜は 匂ひの紐に 琶良い音

「左道(サタウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「於」部に、

左道(サタウ) 韜一。〔元亀本270I〕  左道(サタウ) 子經句義曰――猶不便。又戯之義也。〔元亀本273B〕

左道(サウタウ) 韜一。〔静嘉堂本309B〕 左道(サタウ) 子經句義曰――猶不便。又戯之義也。〔静嘉堂本312E〕

とある。ここで標記語「左道」だが、別の箇所に二語収載されていて、それぞれに異なる注記が見られる。このうち元亀本は両語ともに「サタウ」と読むのに対し、静嘉堂本はT「サウタウ」とU「サタウ」といった別仕立ての読みをもって示されているのである。そして、語注記はT「()一」と兵書からの引用、U「孝子經の句義に曰く左道猶ほし不便。又は戯の義な

り」と『孝子經』からの引用というこになる。

 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

花下好士諸家狂仁如雲似霞遠所花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔至徳三年本〕

花下好士諸家狂仁如雲似霞遠所之花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔宝徳三年本〕

花下好士諸家之狂仁如雲似霞遠所之花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔建部傳内本〕

(モト)好士諸家狂仁如タリ遠所之花者乗物僮僕難合期近隣之名花以歩行之儀事候雖トモリト左道之樣異躰之形チヲ明後日御同心候ハヽ者本望也〔山田俊雄藏本〕

花下好士諸家狂仁如タリ遠所之花乗物僮僕難合期近隣之茗花歩行之儀候雖リト左道之樣異躰之形明後日御同心候ハヽ者本望也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、標記語「左道」で訓み凡て未記載にする。
 古辞書では、院政時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)・鎌倉時代の十巻本伊呂波字類抄』には、

左道監分/サタウ。〔前田本下卷・左部畳字門52ウ@〕

左右 〃道。〃遷せン/罪。〃言。〔十巻本第八冊・左部畳字門ウD〕

とあって、三巻本の標記語「左道」に語を収載し訓みを「サタウ」と記載する。

この語も『庭訓徃來』二月廿三日の状に見え、『下學集』は、

左道(サタウ)。〔態藝門82@〕

とあって、語注記を未記載にする。

 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には未収載にする。広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

 次に『節用集』類の広本節用集』を見るに、

左道(サタウ) 乏少義也。言悪亊リノヨリ也。韻會左人道尚右。故非正之述左道。謫左遷。不適(カナウ)左計前漢王商傳左道。以亂師古注左道僻左之道謂不正。《態藝門七八九C》

とあって、最初に「乏少(わずかですくない)の義なり」と説明し、「言うこころは、悪事は左の耳より入るなり」とその意味に付加している。次に『古今韻會挙要』を引用し、「左道」を説明する。さらに、連関語である「左遷」や「左計」を引く。『前漢王商傳』『師古注』を続けて引用するといった体裁になっている。これまた別の注記説明をなすものである。また、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、

左道(サタウ) 乏少義。〔弘・言語進退215A〕

左右(サイウ) ―道(タウ)。―礼(ザレ)戯義。―遷(―セン)。〔永・言語178A〕

左右(サイウ) ―道。―礼戯義。―遷。〔尭・言語167B〕

とある。弘治二年本は、広本節用集』を冠頭箇所のみの簡略化記載であり、永禄二年本及び尭空本はさらに標記語「左右」の注記にコンパクトに収納していると言った具合に、簡略化の編纂作業過程が進行している体裁にある。この体裁の分派過程として易林本節用集』などは、

左傳(サデン) 本也。―道(タウ)。《言辞181E》

といった体裁を見せたりもしている。ここで、『運歩色葉集』のTの注記はまだ検証されていない。ただUの注記については、『庭訓徃來註』からの引用と見てよかろう。そして、何故二種の「左道」を別の離れたところに排列収載するのかといえば、別の引用資料に拠るものであり、編纂状況にあって、統括しきれなかったその状況が見えてくる。静嘉堂本の書写者は、このことに気づき、読みをあえて替えたのではなかろうか。今後の検証を待ちたい。

 さて、真字本『庭訓往来註』二月廿三日の状には、

049雖左道 逆心也。老子經句義曰、左道不便。又戯義也。〔謙堂文庫蔵九右A〕

とあって、この注記内容は、『運歩色葉集』のUの語注記に同じく引かれるているのである。ここで「子經」を『運歩色葉集』は、「子經」と字形相似による誤りをする。だが、この注記からの継承であることには変わりない。とあって、標記語「左道」の語を収載し語注記は「逆心なり。『老子經』の句義に曰く、左道猶ほ不便のごとし。又戯れの義なり」と記載する。
 古版庭訓徃来註』では、

(モト)好士諸家狂人如(クモ)(ニタリ)(カスミ)遠所(エンジヨ)之花()乗物(ノリモノ)僮僕(ドウボク)(ガタ)合期(ガウゴ)近隣(キンリン)之名(メイ)花以行之儀候雖ヘトモ(タリ)左道之樣(ヨウ)異躰(イテイ)()(カタチ)明後()日御同心候ハヽ者本望(マウ)(モト)好士(カウジ)其比ノ代ニハ。名花木ニハ。級主樹(キウシユジユ)トテ達(タツ)シケル者ヲ主(アルジ)ト定ラレシナリ。花盛(ザカ)リニハ彼(カレ)ガ許(モト)ニ集(アツマツ)テ會ヲ仕興發ヲ遊フ也。其比ノ好士ト謂(イヒ)習ハシタリ。狂仁(キヤウジン)ト云者ハ。餘ノ事ヲ捨(ステ)テ。花ニ心ヲ移(ウツ)シ營(イチナ)ム。渡世(トせイ)ヲモ目ニ懸(カケ)ス。花ノミヲ心ロニ懸テ狂(クル)ヒ行ク人ヲ狂人ト云也。〔6オB〜G〕

とあって、標記語「左道」の語を収載し語注記は未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(いへども)(たりと)左道(さたう)()(やう)(もつて)異體(いてい)()(かたちを)明後日(ミやうごにち)御同心(ごどうしん)(さふらハ)()本望(ほんまう)(なり)。/左道之樣異體之形明後日御同心候者本望也。〔7ウ〕

とあって、この標記語「左道」の語を収載し語注記は未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(はなの)(もとの)好士(かうし)諸家(しよけの)狂仁(きやうじん)(ごとく)(くもの)(にたり)(かすミに)遠所(ゑんしよ)()(はな)()乗物(のりもの)僮僕(どうほく)(がたし)合期(かふこし)(まづ)近隣(きんりん)()名花(めいくわ)(もつて)歩行(ほかう)()(ぎを)(おもひ)(たつ)(ことに)(ざふらふ)(いへども)(たりと)左道(さたう)()(やう)(もつて)異體(いてい)()(かたちを)明後日(ミやうごにち)御同心(ごどうしん)(さふらハ)()本望(ほんまう)(なり)▲左道とハ頼道(よりミち)をいふとき正(たゝし)からず。逆なる道也。是ハ右を尚(たつと)び左(ひだり)を卑(いやし)むるよりいへる詞(ことば)。〔9オ@〜E、9ウ@〜A〕

とあって、標記語「左道」の語を収載し語注記は「左道とは、頼道(よりミち)をいふとき正(たゝし)からず。逆なる道也。是は右を尚(たつと)び左(ひだり)を卑(いやし)むるよりいへる詞(ことば)」と記載する。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Sato<.サタウ(左道)Fidari michi.(左道)すなわち、Bocuxo>no gui.(乏少の義)貧弱、または、僅少。¶また、ある人の才能、地位に不釣り合いなこと、または、それらにぴたりと適合しないこと。例、Sato<no sama tarito iyedomo,iteino catachiuo motte,&c.(左道の樣たりと雖も、異体の形を以て、云々)服装や様子はこんな格好ではいけなかったのだけれども、奇妙な服装、身なりをして云々。¶Sato<nigozaredomo,miye qitatta mama xinjo<itasu.(左道にござれども、見え来たつたまま進上致す)これは貧弱で僅かな物ではありますが、私がそれを見つけた、あるいは、私の所に到来したそのままで、あなたに差し上げます。※1)雖為左道之様以異躰之形(庭訓往来、二月往状)。※2原文はassi como a achei,ou veo a offereco a v,m.日西辞書は…lo vengo a ofecer a v.m.(それをあなたにさし上げるために来ました)と訳している。〔邦訳561l〕

とあって、標記語「左道」の語を収載し、意味を「すなわち、Bocuxo>no gui.(乏少の義)貧弱、または、僅少。また、ある人の才能、地位に不釣り合いなこと、または、それらにぴたりと適合しないこと」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、

さ‐だう〔名〕【左道】〔出典を見よ〕不正の道。常に違う術。韻會「人道尚右爲貴、故非正之術、曰左道」(左遷(サセン)の語原を見よ)禮記、王制篇、疏「左道、謂邪道」顔師古、注「僻左之道、謂不正也」漢書、杜欽傳「背經術、惑左道」庭訓往來(元弘)二月「近隣之名花、以歩行之儀思立候、雖左道之樣異體之形、明後日御同心候者本望也」〔2-499-1〕

とあって、標記語「-たう左道】」の語を収載する。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、

さ‐とう[:タウ]左道】〔名〕(「さどう」とも。古代中国で、右を尊び左を正しくないこととしたところから)@正しくない道。不正な道。邪道。また、不都合なこと。真面目でないこと。*続日本紀‐天平元年〔七二九〕二月辛未「无位中臣宮処連東人等告密。称左大臣正二位長屋王私学左道、欲上レ国家」*台記‐天養元年〔一一四四〕一〇月二〇日「法皇、私乗女車、有御見物、隠居之尊、為民之行、可左道矣」*色葉字類抄〔一一七七〜八一〕「左道 監分 サタウ」*御伽草子・梵天国〔室町末〕「葦原国の御門、あまりに御心さとうにて十郎姫が姿が見たきよし宣旨也」*コンテムツスムンヂ(捨世録)〔一五九六〕一・二五「ギャウギ sato<ni(サタウニ)シテ ラッシヲ ミダラシ」*読本・南総里見八犬伝〔一八一四〜四二〕五・五〇回「件の術は左道(サドウ)にして、勇士の行ふべきものならず」*礼記‐王制「析言破律、乱名改作、執左道以乱政殺」Aわずかですくないこと。粗末であること。謙遜して用いる語。*金沢文庫古文書‐(年月日未詳)〔鎌倉末〕金沢貞将書状(一・五一二)「兼又、雖左道、茶一種」*教言卿記‐応永一五年〔一四〇八〕一〇月一七日「壬生老僧御庵へ小袖、左道の物也。進上憚入者哉」*文明本節用集〔室町中〕「左道 サタウ 乏少義也。言悪事入左耳也」*政基公旅引付‐文亀元年〔一五〇一〕九月三日「仍雖軽微之至為恐候、御樽三荷御肴三種〈素麺折一合昆蒻干一籠鮎鮨桶五〉進上申候、誠左道其憚多候」*実隆公記‐享祿元年〔一五二八〕九月一六日「左道之躰雖憚、当時表寸志計也」*日葡辞書〔一六〇三〜〇四〕「Sato<ni(サタウニ) ゴザレドモ ミエキタッタママ シンジャウ イタス」【発音】サトー〈標ア〉[サ][0]【辞書】色葉・下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言【表記】【左道】色葉・下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言

とあって、標記語「-たう左道】」の語を収載し、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。

[ことばの実際]

人道ハ右ヲ尚(タト)ブ、サルホドニ正シカラヌ術(ミチ)ヲ左道ト云。…今人ニ物ヲ出ヲ左道ナト云モ、本々ニナク、ソサウナト云心ニ云リ。《『六韜秘抄』巻一(『室町時代別国語辞典』から引用)》

七日僞方(ギハウ)異技(イギ)巫蠱(フコ)左道不祥(セウ)之言(コト)以幻惑スルハ良民王者必ヲ 僞方(ギ―)トハ醫()ノ本方(ホン―)ヲモシラスシテ。ソバツラヲカケル藥方ニテ療治(リヨウヂ)スルコトナリ。異技(イキ)トハ傀儡(クハイライ)猿樂(サルガク)ナトノ事ナリ。巫蠱(フコ)トハミコカンナギノコトソ。女ノミコヲ巫ト云ソ。左傳楚子元蠱() 文夫人ト云注ニ蠱ハ惑(ワク)ナリトアリ。ミコカンナキノ体(タイ)モナイコトヲ云テ神託ナトヽ云テ人ヲマトハスヲ巫蠱ト云ソ。漢武帝ノ時ニ戻太子ノ事ニ巫蠱(ブコ)ト云コトアリ。桐(キリ)ノ木ニテ人形ヲツクリテ地ニ埋シコトナリ。サヤウノ類ソ。左道トハ直日不正之道也。鴛{左ノ字ノ下ニ見タソ。道ハ右ヲ尚(タツト)フナリ。不正ノ道ナルホトニ左道ト云ソ。流罪(ルザイ)ヲモ左遷(サセン)ト云ナリ。事ノ宜ニカナハヌコトヲ左計ト云ソ。前漢王?左道師古左道僻左之道謂不正トアルソ。不祥ノ之言トハ不善ノ言(コトハ)ト云ノ義ナリ。人ノイム言(コトハ)ヲ云ソ。イロ/\ノ事ヲ云テ良民ヲ幻惑シテマトハカスカヤウノ者ヲハ王者必ス停止(テウシ)シ禁スルナリ。良民トハ良善ノ民人ト云義ソ。コレマテヲ七害ト云ナリ。《『六韜抄』巻一・下(家蔵本・慶安版)一九オE〜二〇オE》

[ことばの実際]
○〔原文〕〔『吾妻鏡』建久元年九月廿日條〕

2000年10月13日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

まとういみ はまかぜかまは みいうとま

纏う忌み 浜風が間は 身云う苫

「歩行(ホカウ)」

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「保」部に、

歩行(ホカウ) 。〔元亀本44F〕

歩行(ホカウ) 。〔静嘉堂本49F〕

歩行(ホカウ) 。〔天正十七年本上25ウE〕

歩行(ホカウ) 。〔西來寺本81B〕

とある。標記語「歩行」の語を収載し語注記は未記載にする。
 古写本『庭訓徃來二月廿三日の状に、

花下好士諸家狂仁如雲似霞遠所花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔至徳三年本〕

花下諸家狂仁如雲似霞遠所之花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔宝徳三年本〕

花下好士諸家之狂仁如雲似霞遠所之花者乗物僮僕難合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候雖爲左道之樣以異躰之形明後日御同心候者本望也〔建部傳内本〕

(モト)好士諸家狂仁如タリ遠所之花者乗物僮僕難合期近隣之名花以歩行之儀事候雖トモリト左道之樣異躰之形チヲ明後日御同心候ハヽ者本望也〔山田俊雄藏本〕

花下好士諸家狂仁如タリ遠所之花乗物僮僕難合期近隣之茗花歩行之儀候雖リト左道之樣異躰之形明後日御同心候ハヽ者本望也〔経覺筆本〕

×〔文明四年本〕

と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本山田俊雄藏本・経覺筆本に「歩行」と記載する。
 古辞書では、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「歩行」の語は未収載にする。
 室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))、広本節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、

歩行(ホカウ)アユム、ユク。〔態藝門104E〕

とあり、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』に、

歩行(ホカウ) 。〔弘・言語進退33G〕〔永・言語35D〕〔両・言語39B〕

歩卒(ホソツ) ―行。〔尭・言語32C〕

とあって、同じく語注記は未記載にする。
易林本節用集』は未収載にする。
 このように、上記当代の古辞書においては、広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本・尭空本・両足院本節用集』には、標記語「歩行」の語を収載し、これを古写本『庭訓徃來』及び下記真字本が収載しているのである。
 さて、真字本『庭訓往来註』二月廿三日の状には、

048先近隣名花(クワ)歩行思立亊候 歩行徒歩之義裹頭之義也。〔謙堂文庫藏九右@〕

とあって、標記語「歩行」の語を収載し語注記は「歩行は徒歩(かちだち)の義に非ず、裹頭(くわとう)の義なり」と記載する。
 古版庭訓徃来註』では、

(モト)好士諸家狂人如(クモ)(ニタリ)(カスミ)遠所(エンジヨ)之花()乗物(ノリモノ)僮僕(ドウボク)(ガタ)合期(ガウゴ)近隣(キンリン)之名(メイ)花以行之儀候雖ヘトモ(タリ)左道之樣(ヨウ)異躰(イテイ)()(カタチ)明後()日御同心候ハヽ者本望(マウ)(モト)好士(カウジ)其比ノ代ニハ。名花木ニハ。級主樹(キウシユジユ)トテ達(タツ)シケル者ヲ主(アルジ)ト定ラレシナリ。花盛(ザカ)リニハ彼(カレ)ガ許(モト)ニ集(アツマツ)テ會ヲ仕興發ヲ遊フ也。其比ノ好士ト謂(イヒ)習ハシタリ。狂仁(キヤウジン)ト云者ハ。餘ノ事ヲ捨(ステ)テ。花ニ心ヲ移(ウツ)シ營(イチナ)ム。渡世(トせイ)ヲモ目ニ懸(カケ)ス。花ノミヲ心ロニ懸テ狂(クル)ヒ行ク人ヲ狂人ト云也。〔6オB〜G〕

とあって、標記語「名花」の語を収載し上記の如く記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

(がたし)合期(かふこし)(まづ)近隣(きんりん)()名花(めいくわ)(もつて)歩行(ほかう)()(ぎを)(おもひ)(たつ)(ことに)(ざふらふ)合期先近隣之名花以歩行之儀思立事候。〔7ウ〕

とあって、この標記語「名花」の語を収載し語注記は「」と記載する。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

(はなの)(もとの)好士(かうし)諸家(しよけの)狂仁(きやうじん)(ごとく)(くもの)(にたり)(かすミに)遠所(ゑんしよ)()(はな)()乗物(のりもの)僮僕(どうほく)(がたし)合期(かふこし)(まづ)近隣(きんりん)()名花(めいくわ)(もつて)歩行(ほかう)()(ぎを)(おもひ)(たつ)(ことに)(ざふらふ)(いへども)(たりと)左道(さたう)()(やう)(もつて)異體(いてい)()(かたちを)明後日(ミやうごにち)御同心(ごどうしん)(さふらハ)()本望(ほんまう)(なり)▲花下好士とハ花(はな)に心を移(うつ)し詩歌(しいか)をもてあそぶ風流(ふうりう)の人をいふ。諸家狂仁といへるも同く美景(びけい)に浮(うか)れて所々春(はる)を探(さぐ)る雅遊(がゆう)の徒()なり。俊成卿(しゆんぜいきやう)の哥(うた)花さかり四方(よも)の山邊(やまべ)にあこがれて春(はる)ハ心の身()にそハぬ哉と讀(よめ)る類(たぐひ)なり。〔9オ@〜E、9ウ@〜A〕

とあって、標記語「名花」の語を収載し語注記は未記載にする。
 当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、

Foco<.ホカゥ(歩行).Ayumi yuqu.(歩み行く)行くこと,または,歩くこと.§Foco< suru.(歩行する)同上.〔邦訳255r〕

とあって、標記語「歩行」の語を収載し、意味を「(歩み行く)行くこと,または,歩くこと」と記載する。
だが、真字本『庭訓往来註』が解くところの「歩行は、徒歩の義にあらず。裹頭の義なり」という語註釈の観点に目を注がねばならない。『日葡辞書』でも「行くこと、歩くこと」の意でしか収載していない。しかし、古辞書類である『節用集』及び『運歩色葉集』がこの意味にとるのか、はたまた、『庭訓徃來』のそして、『庭訓徃來註』の「裹頭(クワトウ)」の意に解するのかが語注記を未記載としていることで現代の私たちの感性では明確にできないことになってしまっているからだ。このことについて山田俊雄先生は、岩波新古典大系『庭訓徃來・句双紙』の補注41で、「また某氏蔵の旧注古写本には「歩行 或説ニ馬ニノルベキガ、アヨム心也。又、見物ノ時、面カクスモホカウト云フ。歩行ト書也、此字也」とあって、「歩行」がこの文脈では、恐らく、ただ「徒歩で行く」のみでなく、いわゆる「微行」の意を有していたことを明らかにされている。その裏付けとし、現代方言に「頬被り」を「ホツコカブリ」「ホウコウカブリ」などという語形でいうことがあるのも、ここに関連するであろう。」と述べておられる。このことから、正に国語学研究の語の意味史にとって示唆に富んだ推考といえる。この点を更に浮き出す語注釈に、真名註の注記者も要意となる語注説明であったことを改めて浮き彫りにしておくことにする。狭意であっても、この注釈を盛んにした文明年間の時代に「歩行」の意をただ歩き行く意だけでなくして面を隠すこと、またそのものを「ホカウ」と称したことが茲に伺えるのである。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、「標記語「ほくわう歩行】」の語は未収載にする。これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、

ほ‐こう[:カウ]【歩行】〔名〕歩いて他の所へ行くこと。あるくこと。かちありき。*明月記‐治承四年〔一一八〇〕二月二一日「博陸已下、自閑院于五条内裏歩行云々」*撮壌集〔一四五四〕「歩行 ホカウ」*集義和書〔一六七六頃〕一五「諸国のをとづれも遠く、人の歩行もいそがずゆるやかなりしかば、日本ひろく東西遠かりし也」*歌謡・山家鳥虫歌〔一七七二〕下・佐渡「座敷も杖をつきてほこうする盲人なれども」*史記‐項羽本紀「令騎皆下歩行」【方言】行楽。遊山。《ほこう》和歌山市691【発音】ホコー〈標ア〉[0]〈京ア〉(0)【辞書】色葉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・ヘボン【表記】【歩行】色葉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・ヘボン

とあって、標記語「-こう歩行】」の語を収載し、『庭訓徃來』のこの語用例は未収載にする。
 

2000年10月12日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とういつは もみじのじみも はついうと

統一は 紅葉の滋味も 初言うと

「醍醐(ダイゴ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「多」部に、

醍醐(タイゴ) 山城。〔元亀本141二〕

醍醐(ダイゴ) 山城。〔静嘉堂本151一〕

醍醐(タイコ) 山城。〔天正十七年本中7オ七〕

とある。標記語「醍醐」の語注記は、「山城」と地名をいう。『下學集』は未収載にある。 『庭訓徃來註』二月廿三日徃状に、

041猶以千悔々々抑醍醐()林院ウン――)ノ花 醍醐山階。真言宗也。梅道地也。雲林院道地也。雲林也。〔謙堂文庫藏八右7〕

とあって、「醍醐は山階にあり。真言宗なり。梅の道地なり」という。『節用集』類の広本節用集』は、

醍醐(ダイゴ) 山城〔多部天地門三二八頁4〕

とあって、『運歩色葉集』と共通する注記にある。次に、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』も、

醍醐(ダイゴ) 山城〔弘・天地95二〕

醍醐(ダイゴ) 〔永・天地90二〕〔両・天地98四〕

醍醐(タイコ) 〔尭・天地82二〕

とあって、弘治二年本は共通するが、他三本は地名「山城」の注記を未記載にしているのである。ここで、『節用集』及び『運歩色葉集』がその注記に示す地名を「山城」としているが、『庭訓徃來註』は、「山階」とした点について検証しておく必要があろう。現在の私たちが知る地名は、京都伏見区の東部、醍醐山の西側麓あたりの地名「山科」として認知するものでもある。江戸時代の『書字考節用集』には、

醍醐(ダイゴ) 城州宇治ノ郡。〔一60三〕

とあって、これも「城州宇治の郡」を注記記載している。これを正確に唱えるのであれば、「山城国宇治郡山科醍醐」というのでる。

 小学館『日本国語大辞典』第二版に、

だい‐ご 【醍醐】【一】〔名〕(1)仏語。牛乳を精製して作った純粋最上の味のもの。非常に濃厚な甘味で薬用などに用いる。また、如来の最上の教法にたとえる。*三教指帰〔七九七(延暦一六)頃〕下「無福之徒、不論貴賤、不知辛臭、常沈蓼溷、已忘醍醐」*十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕四「醍醐 蘇敬曰醍醐〈啼胡二音世間音内五 醐字或又作餬 見唐韻〉是酥之精液也」*撰択本願念仏集〔一一九八(建久九)頃〕「醍醐之味乳酪酥中微妙第一。能除諸病諸有情身心安楽」*教行信証〔一二二四(元仁元)〕五「従般若波羅蜜大涅槃猶如醍醐、言醍醐者喩於仏性、仏性者即是如来」*最暗黒之東京〔一八九三(明治二六)〕〈松原岩五郎〉二三「渇きたる口腹に醍醐を灌ぎて以て彼等が娯楽とせる最一の華門を解放せざるべからず」*吾輩は猫である〔一九〇五(明治三八)〜〇六〕〈夏目漱石〉四「醍醐の妙味を甞めて言詮の外に冷暖を自知するが如し」*北本涅槃経‐一四「善男子。譬如牛出乳従乳出?酪。従酪出生?。従生?熟?。従熟?醍醐醍醐最上若有服者衆病皆除。所有諸薬悉入其中」*新唐書‐穆寧「四子賛・質・員・賞、兄弟皆和粋、世以珍味之。賛少俗然有格為酪、質美而多入為酥、員為醍醐、賞為乳腐云」(2)「だいごりゅう(醍醐流)」の略。*声決書〔一三九六(応永三)〕(古事類苑・宗教部四)「此時正諸流声明、即相応院、醍醐、進流是也」【二】〔一〕京都市伏見区の東部にある地名。醍醐山の西側の麓一帯をいう。醍醐寺、醍醐・朱雀天皇陵があり、奈良街道が通じる。*平家物語〔一三C前〕一二・泊瀬六代「醍醐の山にこもりたるよしきこえしかば、おしよせてさがせどもなし」*俳諧・玉海集〔一六五六(明暦二)〕二・夏「醍醐あたりにて雨に逢て」〔二〕滋賀県浅井(あざい)町の地名。縄文中期の遺跡がある。〔三〕「だいごじ(醍醐寺)」に同じ。*今昔物語集〔一一二〇(保安元)頃か〕一四・一二「醍醐に僧有けり」*浮世草子・好色五人女〔一六八六(貞享三)〕一・四「醍醐(ダイゴ)の法印、高山の茶筅師、丹波の蚊屋うり」【語誌】牛乳を精製するにあたって発酵の段階により五つ(乳、酪、生酥(しようそ)、熟酥、醍醐)に分け、それら五つの味を「五味」という。後のものほど美味で、「醍醐」がその最高の味とされる。そこから「醍醐味」という語も生まれた。【語源説】梵語dadhi から〔外来語辞典=荒川惣兵衛・外来語辞典=楳垣実〕。【発音】ダイ〈標ア〉[ダ]〈京ア〉(0)【辞書】和名・色葉・名義・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・言海【表記【醍醐】和名・色葉・名義・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・言海

2000年10月11日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とおいいね はるかにかるは ねいいおと

遠い稲 遥かに刈るは 音好い音

「爆竹(サギツチヤウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「左」部に、

爆竹(サキツチヤウ)  神異經云、方山中有人。長一尺余人見之。則病(ヤム)寒熱(カンネツ)。名山〓〔月-繰〕。以竹焼有声則驚去来。正月用――。自此始也。又曰西儀長。又曰三毬打。一説曰太唐白馬寺而佛經置左徳書置于石。試放火焼之佛經不燒也。佛法繁盛也。故唱云西儀長東土。〔元亀本273D〕

爆竹(サギツチヤウ) 神異經云、西方山中有人。長一尺余人見之。則病寒熱。名山〓〔月-繰〕。以竹焼有声則驚去。不来。正月用之。自此始也。又曰儀長。又曰三毬打。一説曰、大唐白馬寺而佛經置于左儒書置于右試火放焼之。佛經不燒也。佛法繁盛也。故唱曰儀長東土。〔静嘉堂本312F〕

とある。標記語「爆竹」の語注記は、「神異經に云く、四方の山中に人あり。長さ一尺余の人これを見るに、則ち寒熱を病む。山〓〔月-繰〕と名づく。竹をもって焼く声ある則は驚き去りて来たらず。正月爆竹を用る。此れより始るなり。又西儀長と曰ふ。又三毬打と曰ふ。一説に曰く、大唐白馬寺にて佛の經左に置き、儒書を右に置く。試みに火を放ちこれを焼く。佛の經燒けずなり。佛法繁盛なり。故に唱へて云く、西儀長東土」という。『下學集』に、

爆竹(サギツチヤウ) 神異経([シン][キヤウ])西方山中リ∨人。長(タケ)一尺餘人見(トキ)ハ寒熱(カンネツ)ヲ|。山〓〔月-繰〕([サン]サウ)ト|。テ∨(タク)ニ∨、爆竹(バクチク)〓〔火+朴〕(ボク)ノルトキハ∨則驚(ヲトロキ)去不ス∨。正月ルコトハ爆竹リ∨ルカ∨歟。〔器財門108C〕

とあって、直接ではないが、この『下學集』を継承する。ここに『庭訓徃來註』を見るに、同じく『下學集』から引用した語注記が正月十五日の状に、

正月十五日 此日有爆竹(サキチチヤウ)。神異經、西方山中人。長一尺餘人見之。則病寒熱。名山〓〔月-繰〕。以竹焼火爆〓〔火+朴〕〓〔火+朴〕(ホク)声則驚去。不来。正月用之。自此始也。又西義式(サキツトヤウ)東土。如モ此書也。尺素徃来曰、七設ノ蒸粥ハ上元之世礼也。〔謙堂文庫藏七左H〕

と見え、ここでは、「又曰三毬打。一説曰、大唐白馬寺而佛經置于左儒書置于右試火放焼之。佛經不燒也。佛法繁盛也。故唱曰」を削除し、簡略注記する。そのあとに、『尺素徃来』を引くのである。しかし、その典拠『下學集』の名は未記載である。『節用集』類の広本節用集』は、

爆竹(サギチヤウ/バクチク.ヒバシル、タケ) 神異経云。西方山中(タケ)一尺。諸人見之則病(ヤム)寒熱|。(タイ)テ竹以テ∨(タク)ニ∨〓〔火+朴〕(クワホク)聲則驚去来云々。正月‖――|。リ∨(ハシム)ル∨者也。又名曰山〓〔月-繰〕。〔器財門781C〕

左義長(サギチヤウ/ヒダリ、ヨシ、ナカシ) 一説曰於白馬寺而佛經ヲハ(ヲキ)、儒書ヲハ。試(―)ヲ(タケ)ハ、左佛經(ヤケ)。故佛法成就スル也。東土哉(トウトナト)唱也矣。〔器財門781D〕

とあって、『運歩色葉集』の語注記の「一説曰」を別の標記語「左義長」で示している。因みに、『運歩色葉集』には「左義長」の語は、注記未記載にして後に排列されている。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』も、

爆竹(サギチヤウ) 神異経方山中有長一尺人也。諸人見之則病寒熱焼竹有声驚不来。〔弘・器財門212D〕

左義長(同) 一説曰白馬寺ニシテ佛經ヲハ置、儒書ヲハ。試放火焼、左佛經焼。故法成就也。東土哉(トウドヤ)云々々唱也。〔弘・器財門212E〕

爆竹(サギチヤウ) 神異経。西方山中長一尺也。諸人見之則病寒熱竹有声、驚去不来。〔永・器財門177C〕

左義長(サギチヤウ) 一説曰白馬寺仏經置、儒書右置。試火焼、左仏経焼。故法成就也。東土哉(―トヤ)々々々唱也。〔永・器財門177D〕

爆竹(サギチヤウ) 神異経。西方山中長一尺人也。諸人見之病寒熱竹有声、驚去不来。〔尭・器財門166@〕

左義長(サギチヤウ) 一説曰白馬寺仏經左置、儒書右置。試火焼、左佛經不焼。故法成就也。東土哉(―トヤ)々々々唱也。〔尭・器財門166@〕

とあって、注記の形態は広本節用集』と同じであり、「驚去不来」のあとの「正月‖――|。リ∨(ハシム)ル∨者也。又名曰山〓〔月-繰〕」を削除し、簡略化をはかっている。このことから、『運歩色葉集』は、『節用集』のこの二分注記を一まとめにし、「爆竹」の注記としているところに大きな編纂作意が見て取れるのである。また、『下學集』『節用集』を継承する語注記については、『庭訓徃來註』から引用していないことも明確である。

2000年10月10日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とうとうと やくもおもくや とうとうと

鼕々と 八雲重くや トウトウと

「中絶(チユウゼツ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「地」部に、

中絶(―ゼツ) 久ツテーー(チウセツ)スルヲ(ツイヘ)ト云也。曽子。〔元亀本64@〕

中絶(――) ――費。曽子。〔静嘉堂本74C〕

中絶(―セツ) 久交――費。曽子。〔天正十七年本上37ウA〕

中絶(―セツ) 久交――費。君(ツカヘ)テ忠孝。事少(ハカク)シテ学問シテ而忘曽子云。此三之費之。〔西来寺本〕

とある。標記語「中絶」の語注記は四写本それぞれ異なりを見せている。なかでも最も注記が長いのが西来寺本の「久しく交はつて中絶するを費へと云ふなり。君に事 (ツカヘ) へて忠孝を以って儀に肖の事少 (ハカク) くして学問を極め老して忘れり。曽子に云ふ。此の三つ之之れ費へか」という。

庭訓徃來』二月廿三日の状に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』に、

面拝之後中絶良久遺恨如山何時散意霧 中絶君子道也。詩云子夏過曽子。々々曰、入セヨ。子夏曰、不之費乎。曽子曰、君子三費飲食其中ニ|。少シテ而学老忘是一費也。亊功輕負是一費久交中(ナカコロ)。是一。其中々絶。〔謙堂文庫藏八右C〕

とあって、「中絶は君子の道なり。詩に云く、子夏曽子に過ぐ。曽子曰く、入て食せよ。子夏曰く、公が費へとせず乎。曽子曰く、君子に三費有り。飲食は其中にあらず。少くして学び老て忘る。是れ一の費へなり。君に亊してしかも功有り。輕く負く。是一費久交中(ナカコロ)絶う。是一の費へ。其の中に中絶は悪ろし」という。この注記の一部を抜粋化したのが『運歩色葉集』の語注記である。『節用集』類の広本節用集』は、

中絶(チウセツ・アタル/ナカ、タヱル)。〔態藝門166@〕

とあって語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』も、

中絶(―ゼツ)。〔弘・言語進退51G〕〔永・言語52F〕〔尭・言語52F〕

とあって、これも同じく、語注記を未記載にする。『運歩色葉集』のみがこの箇所から簡略抜粋しているのである。また、『庭訓徃來註』の注記に見える「三費」については、1999年3月27日の「三費」のところを参照されたい。

2000年10月9日(月)雨。東京(八王子) 出雲学生駅伝《三位》

るなとうく つきみちみきつ くうとなる

ルナトーク 月満ち神酒つ 空と成る

「一二(つまびらか)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「津」部に、

一二(ツマヒラカ) 。〔元亀本158A〕

一二(ツマビラカ) 。〔静嘉堂本173F〕

一二(ツマヒラカ) 。〔天正十七年本中18オF〕

とある。標記語「一二」には語注記は未記載にある。『庭訓徃來』正月十五日の状に見え、『下學集』は未收載にある。これを『庭訓徃來註』に、

萬亊物?シテ間不一二| 柳文曰、一二落着辞也。爰ニモ次第是可申云之義也。〔謙堂文庫藏七左F〕

とあって、「柳文に曰く、一二は落着せずの辞なり。爰にも次第に是れより申すべしと云ふこの義なり」という。もう少し噛み砕いてみるに、「一二、これは落着せずの辞(ことば)であり、これも次第に順序だって説明申し上げるという意味から「つまびらかに」と訓読する」というのであろう。左貫注の書き込みに、「――ハ孟子ニハ一二トヨム也。又ヲチカタトヨム也。○漢書司馬遷傳云、交事カ未□□(ヤスカラ)一二ニ為言也」とあり、また、『庭訓往來鈔』の書き込みにも、「ヲチツカタト読也。又孟子ニ在也」とあって、この語の典拠を『孟子』とし、読みも「をちつかた」を挙げている。

 この「一二」を「つまびらか」と訓読する資料として、鎌倉時代の古辞書、黒川本色葉字類抄』に、「一二 ツマヒラカ也」〔都・畳字、中二八ウA〕『伊呂波字類抄』(室町初期写)に、「一二 ツハヒラカス」〔都・畳字〕二巻本世俗字類抄』に「一二 ツマヒラカ也」〔畳−〕に見えている。

 『節用集』類の広本節用集』に、

(ツマビラカ/シン) 。(同/)。(同/シヤウ)或作一二|。〔態藝門423C〕

とあって、「一二」の表記漢字を「或作○○」の表現形式で注記する。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、

一二(ツマヒラカナリ) 。〔言語進退131C〕

一二(ツマヒラカ也) 詳。審。〔言語106@〕

一二(ツマビラカ) 詳。審。〔言語96C〕

一二(ツマヒラカ) (同)。(同)。〔言語118A〕

とあって、広本節用集』の注記を標記語化し、『運歩色葉集』とも同様で語注記は未記載にある。易林本節用集』も、

一二(ツマヒラカ) 詳審(同)。〔言語105D〕

と共通する。この古辞書『節用集』や『運歩色葉集』には語注記がないので、『庭訓徃來註』の注記内容を何故に取り込もうとしなかったのか、その編纂意図が今後取り沙汰されよう。そして、当代の『日葡辞書』に、

Tcumabiracana.ツマビラカナ(詳かな・審かな)明白な(こと),あるいは,はっきりしたこと.Tcumabiracani(審かに)副詞.明白に.Tcumabiracasa.(審かさ)〔邦訳628l〕

とある。

[ことばの実際]

一二(ツマヒラカ)〔『冨士野徃來』〕

2000年10月8日(日)薄晴れのち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)

とうやみね けむもやもむけ ねみやうと

遠矢峰 煙靄も無碍 根命と

「御意(ギョイ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「記」部に、

御意(ーイ) 。〔元亀本281五〕

御意(ーイ) 。〔静嘉堂本321五〕

とある。標記語「御意」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓徃來註』正月十五日の状に、

内々可御意 可得与得易也。可被云左衛門殿主人ヘシト得也。可得云大臣達御遊トシテアル間就而佐樣之人之方御意也。〔謙堂文庫藏七左D〕

とあって、「御意」そのものの注記でない。『節用集』類の広本節用集』は、

御意(ギヨイ)/ヲサム、コヽロ・ヲモフ 〔幾部態藝門八三〇8〕

とあって、やはり、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、未収載にある。易林本節用集』は、

御感(ギヨカン)―遊(イウ)。―句()。―札(サツ)。―意()。〔幾部言辞門190四〕

とあって、「御」の熟字語のひとつとして収載する。当代の『日葡辞書』には、

Guioi.ギヨイ(御意) Micocoro.(御意) 貴人の命令.§Guioini macasuru.(御意に任する)主君や尊敬すべき人の意向と命令に従う.§Guioi xidai.(御意次第)主君などの命令や要求のとおりに.§Guioiuo vru.(御意を得る)主君とか尊敬すべき人から忠告を受ける,そういう人と交際する,または,そういう人に物事を尋ねる.§Guioini iru.(御意に入る)ある貴人の愛顧を受ける,あるいは,気に入られる.§Guioini,l,guioiuo somuqu.(御意に,または,御意を背く)主君などの命にそむく,または,主君などに不満の念を抱かせる.⇒Chigai,o<;Monari,u.〔邦訳301l〕

とある。ここで、『庭訓徃來註』の「御意を得る」についての意味も説明が見えている。古辞書『運歩色葉集』や広本節用集』がどの意味を具体的に示すのかが語注記未記載のため測ることができないが、これらすべての意を含有する意識にあったか、はたまた、『庭訓徃來註』の「御意を得る」についてだけに限定したものか明確ではない。

[ことばの実際]エソポが ゆぅわ : われ にぎょぅと をもわぅずる ときわ , ごへんえ その guioyuoba yemajij(ぎょいをば えまじい).〔天草版伊曽保物語』エソポの生涯の事〕

2000年10月7日(土)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とうなすや みもころこもみ やすなうと

唐茄子や 実も頃子も実 安綯うと

「蟇目(ひきめ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「比」部に、

蟇目(ヒキメ) 。引目(同)。〔元亀本340G〕

蟇目(ヒキメ) 。引目(同)。〔静嘉堂本408A〕

とある。標記語「蟇目」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には、

蟇目(ヒキメ) 蟇或ハ作ル引ニ。〔器財116E〕

とある。語注記「蟇、或は引に作る」と別字表記をいう。『庭訓徃來註』正月十五日の状に、

蟇目ハ/トウ无沙汰憚入候 蟇目一束云廿四。一腰四也。穴蝦蟇也。音不五音魔畏。佛納受。故用祈祷也。沙汰文選曰、汰云々。〔謙堂文庫藏七右H〕

とあって、「蟇目一束と云ふは廿四。一腰と云ふは四なり。穴は蝦蟇の目に象どるなり。音五音に合はずして響きに魔畏る。佛は納受に有り故に祈祷に用るなり」という。『節用集』類の広本節用集』は、

蟇目(ヒキメ/ハクボク、カクル―) 矢也。或作引目。〔器財門1036B〕

とある。語注記は「矢なり。或は引目に作す」として、『下學集』の注記を継承する。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、

蟇目(ヒキメ) 矢也。或作引目。〔弘・財宝衣服253G〕

蟇目(ヒキメ) 矢也。或作引目。〔永・財宝217@〕

蟇目(ヒキメ) 矢也。引目。〔尭・財宝202G〕

とあって、広本節用集』と同じであり、尭空本が「或作」を「又」に置換して注記する。この系統の引用に『運歩色葉集』の語も位置し、ここにはこれらの古辞書群と『庭訓徃來註』との連関性は見えない。

2000年10月6日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とうろめす やみのひのみや すめろうと

燈篭召す 闇の灯の宮 統めろうと

「青陽(セイヤウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「勢」部に、

青陽(―ヤウ) 。〔元亀本355@〕

青陽(――) 。〔静嘉堂本431B〕

とある。標記語「青陽」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』正月十五日の状に見え、『下學集』は未収載にある。『庭訓往来註』正月十五日の状に、

自他嘉幸千萬々々御芳札披見之處青陽遊遊宴殊珍重 青東色也。言陽気自東發之間云青陽也。珎翫也。爰ニハ二字トモニ翫也。念比之義也。〔謙堂文庫藏七右A〕

とあり、「青は東色なり。言ふこころは、は陽気、東より發るの間、青陽と云ふなり。《下略》」という。『節用集』類の広本節用集』は、未収載にあり、印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』は、

青陽(セイヤウ) 春。〔弘・時節262B〕〔永・時節223E〕〔尭・時節210D〕

とあって、語注記は、ただ「春」という。これも『庭訓往来註』の注記簡略化と見ることが出来る。「珍重」の語も語注記は未記載にして「珎重(チンテウ)」〔元亀本63F〕と収載する。

[ことばの実際]

青陽 漢正月上辛史祠 甘泉春歌――(前律暦)〔『韻府群玉』陽韻・二174右C〕

曰春日載陽有鳴〓〔倉+鳥〕〓〔庚+鳥〕。月令衣青衣服蒼玉。又爾雅春曰青陽。凡三春時不得復赤也。今里語曰相斥角牛原其所以言不當角牛春從人求索也。斥與赤音相似。〔『太平御覧』巻二〇.時序部五、春下九七上左E〕

2000年10月5日(木)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

かすみをか もくせいせくも かをみすか

霞み丘 木犀急くも 香を見すか

「恐々(ケウケウ)」に「頓首(トンシユ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「氣」部に、

恐々(キウ/\) 。〔元亀本215D〕

(ケウ/\) 。〔静嘉堂本245B〕

恐々(――) 。〔天正十七年本中52オA〕

とある。標記語「恐々」には、語注記は見えない。意味は、恐れ畏まるさまをいう。『庭訓徃來』正月五日の状に見え、『下學集』はこの語を未収載としている。『庭訓徃來註』に、

恐々謹言 敬白謹上上也。又頓首敬恭也。墨黒(クロミ)賞翫也。恐々畫亊自俗家□家ヘハ恐々敬白可畫。其餘真草行上中下有。被官ニハ恐々不畫。恐々謹言畫。〔謙堂文庫藏6右A〕

恐々謹言 敬白自謹言上也。又頓首敬恭也。墨黒賞翫也。恐々畫亊自俗家出家恐々敬白可畫。其余真・草・行、上・中・下有。被官ニハ恐々不畫。恐々謹言字草可畫。〔左貫注本3右A〕

とある。『節用集』類の広本節用集』は、『下學集』と同様にこの語を未収載にする。そして、「遠」部に「恐入(ヲソレイル/キヨフシフ)」「恐怖(ヲソレヲノヽク)怖与惶同」〔態藝門223G〕の語を記すにすぎない。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』は、

恐々(ケウ/\) 。〔・言語進退177@〕恐惶謹言(ケウクハウツヽシンテマウス) 。〔言語進退177B〕

恐恨(ケウコン)―惶(クハウ)。―怖(フ)。――(ケウ/\)。―欝(ウツ)。―ス(エツ)。〔永・言語144D〕

とあり、語注記は未記載だが、収載されている。この書簡用語だが、「敬白」「謹上」「頓首」といった語が『庭訓徃來註』で取り上げられているが、『運歩色葉集』には、「敬白」でなく「啓白(ケイヒヤク),啓上(―シヤウ),啓達(―タツ)」〔元亀本215@〕が収載され、「謹上」は未収載、そして、「頓首(トンシュ)」は、『下學集』に、

頓首(――) 恭敬ヲ也。〔態藝86F〕

とあって、『庭訓徃來註』のこの語の注記は、これを引用する。さらに、『運歩色葉集』も、

頓首(―シユ) 恭敬之義也。頓〓〔+頁〕(―サウ)同。〔元亀本56D〕

頓首(――) 恭敬之義也。頓〓〔+頁〕(―サウ)同。ヒタイ。〔静嘉堂本63CD〕

頓首(――) 恭敬之義。頓〓〔+頁〕(―サウ)同。〔天正十七年本上32ウC〕

頓首(――) 恭敬之義。頓〓〔+頁〕(―サウ)同。〔西来寺本〕

とあって、標記語「頓首」の語注記「恭敬之義也」とあって、『下學集』から引用する。『庭訓徃來註』の語注記は近似ているが、「」の字を「」としている点2000年7月26日(水)持ってみれば、直接『下學集』から引用したものと見る。この「頓首」については、2000年7月26日(水)を参照されたい。また、当代の『日葡辞書』に、

Qeo>qeo>.l,qio>qio>.ケゥケゥ.または,キョウキョウ(恐々) Vosore,vosore.(恐れ,恐れ)書状の末尾にしるす語.“あなたに手紙を書くのはおそれ多い”などと言うのに当たる.文書語.〔邦訳488r〕

Qio>qio>. キョゥキョゥ(恐々) Vosore,uru.(恐れ,るる)恐縮と敬意と.謙遜して、書状の末尾に書く語.⇒Qeo>qeo>.〔邦訳502r〕

とある。

2000年10月4日(水)曇り。東京(八王子)

とうよるひ きとはにはとき ひるようと

問う夜日 木と葉には時 昼用と

「土貢(トコウ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「登」部に、

土貢(トコウ) 孝徳天皇始定也。〔元亀本54F〕

土貢(トコウ) 孝徳天皇始定也。〔静嘉堂本60G〕

土貢(トクウ) 孝徳天皇始定ナリ。〔天正十七年本上31ウA〕

土貢(トクウ) 孝徳天皇始定也。〔西來寺本96@〕

とある。標記語「土貢」の読み方は、元亀夲と静嘉堂本とが「トコウ」に対し、天正十七年本と西來寺本が「トクウ」とある。その語注記は、「孝徳天皇、始ねて定むるなり」という。『庭訓徃來』に見え、『下學集』には未收載にある。『庭訓徃來註』に、

土貢員数等 其土之土産奉也。年貢乾熟云也土貢定始亊仁王卅代孝徳天王御宇分国境年貢等。〔謙堂文庫蔵17右G〕

とあって、『運歩色葉集』はこの注記を改編引用する。また、この注記に見える「年貢」について見るに、『運歩色葉集』は「年貢(−グ)」〔元亀本163I〕語注記を未記載にしている。次に『節用集』類の広本節用集』に、

土貢(トコウ/ツチ、ヲサム)。〔態藝門137F〕

とあって、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本節用集』、永禄二年本節用集』、尭空本節用集』、両足院本節用集』も、

土貢(−コウ)。〔言語進退45@〕

土木(トボク) −代。−毛。−餌(ジ)夫婦事,餌。―貢(コウ)。−公(クウ)。―産(サン)。―人(ニン)。―徳(トク)長者名。〔言語45@〕

土木(トホク) −代。−毛。−餌。―貢。−公。―産。―人。―徳長者名。〔言語41F〕

土貢(トコウ)。〔言語49F〕

とあって、語注記を未記載にして収載することがわかる。ここに『運歩色葉集』が独自の編纂注記として、この『庭訓徃來註』から引用する姿勢を見るのである。

2000年10月3日(火)曇りのち霽。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

とをみねか こえゆくゆえこ かねみをと

遠峯か 越え行く故籠 鐘み音

「目薬(めぐすり)」そして「目薬の木」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「免」部に、

目藥(―グスリ)。〔元亀本296H〕

目藥(―クスリ)。〔静嘉堂本345B〕

とある。標記語「目藥」には語注記は見えない。『下學集』及びは『節用集』類は、未収載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Megusuri.メグスリ(目藥)目藥。〔邦訳393r〕とある。

 ところで、この「目薬」のもと(原料)は何かといえば、やはり「めぐすりのき」という名の植物樹木があがってこよう。しかし、民間ではこの樹木が「目薬」として効くと知っていても古辞書そして近代の国語辞書にはなかなか反映されていないのが現実であろう。実際、大槻文彦編『大言海』は未記載にある。そして、現代の国語辞書『広辞苑』第五版に、

めぐすり‐の‐き【眼薬の木】カエデ科の落葉高木。山地に生え、葉は3小葉から成る複葉で、裏面と葉柄に細毛を密生。樹皮を煎じて洗眼に用いるのでこの名がある。長者の木

とあり、三省堂大辞林』第二版に、

めぐすり-の-き [2] 【眼薬の木】カエデ科の落葉高木。山地に生える。葉は楕円形の小葉三個から成る。葉の裏や柄に毛が多い。翼果は大きく密毛がある。樹皮を煎じて目薬とした。チョウジャノキ

とある。『広辞苑』『大辞林』ともに同程度の内容説明であり、大きな特徴は見られない。小学館国語大辞典』にも、

めぐすり‐の‐き【眼薬の木】カエデ科の落葉高木。本州、四国、九州の山地に生える。高さ一五b、径六〇センチbに達する。樹皮は灰色。葉の裏や葉柄などに粗毛を密布。葉は三出複葉で太い柄をもち対生し、各小葉は長楕円形で縁に不規則な鈍鋸齒(きょし)がある。五月、ごく小さな白い五弁花が咲く。翼果は長さ三〜四センチb。材は器具用。樹皮の煎(せん)汁を眼の洗浄に用いたところからの名。ちょうじゃのき。おおみつかえで。めぐろ。こちょうのき。*日本植物名彙<松村任三>「メグスリノキ」[方言]植物、はっか(薄荷)。宮崎県一部024。[発音]メグスリノキ<標ア>

とある。ここでは、さらに葉を煎じて肝臓藥として用いることや、この樹木の名を民間で通称「ミツバハナノキ」と呼称することを記していない。さらに、この樹木は秋真っ赤に紅葉すること。じめじめした地域でない乾いた蔭地が自生に適することなど触れず仕舞いにある。来月から刊行される『日本国語大辞典』第二版のこの項目内容もどう改編されるかが必見である。

[ことばの実際]

物を書くには、句のきりやうが專ぢや。下京に目くすし有。たれ布に、「金こ目くすりや」とあり。三いろまで賣り物あるとて、人々買ひにくれども、このうち一いろもなし。迷惑して、のちには、かねこ めぐすり屋 此ごとくなをしける。〔江戸笑話集『きのふはけふの物語』上、大系63J〕金・米・藥の三種。

2000年10月2日(月)曇りのち小雨。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

とをつうみ わたりきりたわ みうつをと

遠つ海 渡りきりたワ 身打つ音

「十月(ジフグワツ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「志」部に、

十月(――) 應鐘。初冬。孟冬。小春。神無月 諸神皆集出雲大社也。出雲ト者神有ル月。。〔元亀本329F〕

十月(――) 應鐘。初冬。孟冬。小春。神無月 諸神皆集出雲ノ大社故云也。出雲者神有月也。〔静嘉堂本391D〕

とある。標記語「十月」の語注記は、「應鐘。初冬。孟冬。小春。神無月、諸神皆出雲の大社集ふ故に云ふ也。出雲は、神有月なり」という。『下學集』は、

應鐘(ヲウシヨウ)十月。〔時節門30C〕

神無月(カミナツキ) 十月諸神皆ル‖出雲大社ニ|。故神無月ト|也。出雲ニハ神有月(カミアリツキ)也。〔時節門30C〕

とある。『運歩色葉集』の「神無月」の語注記は、これを継承している。『節用集』類の広本節用集』は、

神無月(カミナヅキ/シンブケツ) 倭國十月異名。或作陽月十月諸神皆集出雲大社。故云―――ト|也。出雲ニハフ‖神有月(カミアリツキ)ト|也。〔時節門30C〕

十月(シフグワツ/―ゲツ,トヲツキ) 斗建亥月令注――之辰日在房[尾月令注孟冬。○亊林廣記云、十月一日。宰臣已下受衣著錦襖云。士庶民出城享墳禁中車馬出道院。及西京朝陵宗室車馬。亦如寒食節有司進煖爐炭民間皆作煖爐會。○異名。下无十五日也。應鐘月令孟冬日――。良月十月為――。吉月漢書陽朔為―。應陽十月万物――。始氷月令注水――。納禾十月――小春十月――梅葉綻。陽月慕要孟冬孟冬初冬。玄冬。爽月。霜朝。軽寒雨。雪納稼開爐一日也。重衾。旦月。玄冥。霜寒。開冬。玄莫。卜養。神無月。早月。閉塞。六陰。陰月。〔時節門911A〕

とあって、「神無月」の語注記は、『下學集』を継承し、これを増補する。これに対し、「十月」の語注記の方は、『節用集』が別に記述するといった内容にある。印度本系統の『節用集』類は、

神無月(カミナツキ) 或作陽月。日本十月異名。〔弘治二年本・時節75E〕

小春(――)十月。〔弘治二年本・時節236B〕

神無月(カミナツキ) 或作陽(カミナシ)月。日本十月異名。十月諸神皆集出雲大社ニ|。云―――ト|也。出雲云神有月ト|也。〔永祿二年本・時節門75B〕

神無月(カミナツキ) 或作陽月日本十月異名。十月諸神皆集出雲大社。故云―――ト|也。出雲ニハ神有月ト|也。〔尭空本・時節68A〕

とあって、標記語「十月」はいずれも未収載であり、「神無月」の語注記は、広本節用集』に依拠し、弘治二年本だけが冠頭部のみの省略化記載であり、永祿二年本尭空本はすべて継承するものである。用字の差異では、「倭國」を「日本」に置換している。伊勢本の天正十八年本節用集』も、

神無月(カミナツキ)日本十月異名。又云陽月。〔時候上23オH〕

とあって、弘治二年本の語注記と同じく簡略化され。語文を逆排列にしたものとなっている。

 当代の『日葡辞書』に、

Caminazzuqi.カミナヅキ(神無月) 詩歌語.Juguachi.(十月)十月.〔邦訳85r〕

とある。

[補遺]左貫本庭訓徃來註』の「十月三日」の後書き込みに、「――異名。陽(カミナツキ)。應鐘。神無月」と見え、『節用集』類からの引用かと推定できる。

[類語] 開炉(カイロ)十月朔云。――節。〔『伊京集』賀部時節D〕

 小春(――)十月異名。〔『伊京集』之部時節C〕

 應鐘(オウシヨウ)唐十。〔『温故知新書』下40ウC〕

[ことばの実際]

[十月] 良月 陽月 斗建亥 日在リ∨ニ  小春 十月小春ト|荊楚歳時記天時和暖ニシテタリ∨。故フ‖小春ト|。此フルフ‖液雨ト|百虫飲而藏蟄。俗ス‖藥水ト|。至テ‖来春二月雷鳴ルニク∨。 一日 十月一日。宰臣已下受ケ∨ルコト‖錦襖ヲ|三日東京夢華録。士庶皆テ∨ル∨禁中車馬出ツ‖道院ニ|。及西京ニ 陵宗室車馬。亦如シ‖寒食ノ|有司進ム‖煖炉ヲ|民間皆作ス‖煖炉ヲ|。〔『事林廣記』巻一、和刻本類書集成第一輯(汲古書院刊)190下左A〕

2000年10月1日(日)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川⇒駒沢)

とをひほに くきといときく にほひをと

遠紐に くッきと絲聞く 匂ひ音

「風呂(フロ)」

 今回、室町時代の古辞書運歩色葉集』の「福」部に、

風呂(―ロ)湯殿(ユトノ)。〔元亀本222C〕

風呂(―ロ)湯殿。〔静嘉堂本254@〕

風呂(フロ)。〔天正十七年本中56ウA〕

とある。標記語「風呂」の語注記は、「湯殿」という。『庭訓徃來』十二月晦日の状にみえ、『下學集』には、

風呂(フロ) 湯殿(ユドノ)也。日本之俗呂(ナス)(ロ)ニ。大誤ナリ。又云火器也。風呂温室義同也。〔家屋門55B〕

とあって、『運歩色葉集』は、これを冠頭部のみに簡略して継承するものである。『庭訓徃來註』は、

之湯治風呂温泉等者 風呂相國寺也。〔謙堂文庫蔵61左H〕

とあって、「風呂は相国寺より起るなり」とその発祥説明の注記となっている。『節用集』類の広本節用集』は、

風呂(フロ/フウリヨ、カゼ―) 湯殿(ユドノ)也。日本俗、呂(ロ)ト。大誤也。爐者火(ヒ)ノ器也。――温室義同。〔家屋門618E〕

とあって、『下學集』を概ね継承する。用字「炉」を「爐」と表記する程度の差異である。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、黒本本『節用集』は、

風呂(フロ)浴室。〔弘・天地178G〕〔黒・天地127F〕

風呂(フロ)浴室。ユアブル。〔永・天地146E〕

風呂(フロ)俗。浴室(ヨクシツ)。〔尭・天地136D〕

とあって、語注記を共通するところ「浴室」という。『運歩色葉集』が「湯殿」と簡略化したのに対し、この印度本系統の『節用集』類は、簡略化に加え、さらに類義語置換がなされていることになる。また、『庭訓徃來註』の発祥説明は古辞書には、その反映を見ないのである。

 当代の『日葡辞書』に、

Furo.フロ(風呂) 家の中にある浴場。§Furoni iru.(風呂に入る)浴場に入る.§Furouo taqu.(風呂を焚く)風呂の湯をわかす.§Furoga tatcu,l,tatta.(風呂が立つ,または,立つた)湯が沸き、浴室が大釜から立ちのぼる湯気で熱くなって,風呂がちょうどよい加減になる.§Furoagari.(風呂上り)風呂から出ること.§Furoagarino furumai.(風呂上りの振舞)風呂から上がって後に行なわれる招宴。〔邦訳283r〕

とある。

[類語表現] 開浴(カイヨク)風呂。〔『伊京集』時節D〕

[ことばの実際]

風呂に入りたりける人の、をばをよびければ  風呂のうちにてをばをよびけり わがおやのあねが小路の湯に入りて〔連歌集『菟玖波集抄』巻十九・雜體92頁33〕

 

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