2001年8月1日から8月31日迄

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ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2001年8月31日(金)雨のち曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「深草土器(ふかくさのかはらけ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「婦」部と「賀」部とを見るに、

深草(フカクサ) 。〔元亀本225二〕      土器(ドキ)。  〔元亀本94五〕

深草(フカクサ) 。〔静嘉堂本258一〕     土器(カハラケ)。〔静嘉堂本117三〕※『運歩色葉集』は「土」の字は増画の点が有る。

とあって、標記語「深草」は両本とも同じであるが、「土器」は、元亀本は「賀」部なのに敢えて「ドキ」と読んでいるのに対し、静嘉堂本は「かはらけ」と通常に和訓で読んでいる。いずれも、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「深草土器作」と見え、『下學集』は、標記語「深草土器」の語では未収載にし、また、個々に「深草」と「土器」とに分けても未収載にする。これを広本節用集』では、

深草(フカクサ/シンサウ)[平・上] 同(山城)。〔天地門617八〕

土器(カワラケ/トキ.ツチ,ウツワモノ)[上・去]又作瓦器。〔器財門269六〕

とあって、標記語を「深草」として、語注記に「山城」といい、標記語を「土器」として「かわらけ」と読み、語注記に「又作○○」形式による別表記字「瓦器」を示している。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

深草(フカクサ) 同(城州)。〔・天地178六〕 土器(カハラケ)。〔・財宝83五〕

深草(フカクサ) 。〔・天地146三〕     土器(カハラケ) 瓦器。〔・財宝80五〕※「土」の字は増画の点が有る。

深草(フカクサ) 。〔・天地136三〕     土器(カハラケ)。〔・財宝73三〕※「土」の字は増画の点が有る。

                    土器(カワラケ) 瓦器。〔・財宝87六〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「深草」「土器」として収載している。そして、語注記において異なりが見え、「深草」では、弘治二年本に、「同(城州)」とあり、「土器」では、永祿二年本両足院本に、「瓦器」とあるのがそれである。ここで、読みでは,両足院本だけが広本節用集』と同じ「かわらけ」としている。両語いずれも一つにすれば、広本節用集』の語注記と同じというものである。増刊節用集』では、

深草(フカクサ) 。〔天地61オ五〕     土器(カワラケ)。〔器財上28ウ五〕※「土」の字は増画の点が有る。

とあって、「土器」の読みは広本節用集』と同じく「かわらけ」であり、両語に語注記は未記載にある。『塵芥』では、

× 。                    瓦器(カハラケ) 土器。坏(同)。?〓〔土+台〕(同)〔器財上63オ二〕

とあって、標記語「深草」の語は未收載であり、標記語を「瓦器」にして、注記部分に「土器」を示し、さらに別表記字二種を示している。さらに、易林本節用集』においても、

× 。                    土器(カハラケ)。〔器財75六〕

とあって、標記語「深草」の語は未收載であり、「土器」は、読みを「かはらけ」とし、語注記は未記載にしている。已上、古辞書を見る限りにおいて、地名「深草」は、採録という点において必要であったのかということだが、採録した古辞書はこの前に「伏見」があり、「伏見。深草」で収載されていて、この語が京都周辺の限られた地域名であることから、実質面で除外されていく傾向を見ることが出来よう。当初は、『庭訓徃來』にあるような「深草土器」といった意識から採録された地名語彙と見たいところであるが、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「深草土器」の語は、未收載にするが、各部位にして「布」部に、

伏見フシミ深草フカクサ。〔黒川本・国郡中108オ四〕

深草(フカクサ)。俘。伏見(フシミ)。〔卷七・國郡100二・三〕

とあって、その標記語に「伏見。深草」で収載していることから、『節用集』類はこの形態を継承したものという見方が穏当であろう。そして、「土器」の語は未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状と四月十一日の状に、

204深草土器葺主 (フキシ)壁塗猟師狩人 猟師下知ヲスル者也。下知付者狩人也。〔謙堂文庫藏二一左E〕

256嵯峨土器(カハラケ)奈良刀高野剃刀大原薪小野羊〓〔王+秀〕始也。爰雑談|。内裡女房筑紫小貮殿奉公ス。有時彼女房以置。小貮殿ノ曰、何箸置乎問給ヘハ女房曰、爰アリトシテテン河内ナル横山炭。〔謙堂文庫藏二八左E〕

とあって、標記語「深草土器」と「嵯峨土器」は、語注記は未收載にある。古版『庭訓徃来註』は、語注記は後半部「嵯峨土器」に、

深草(フカクサ)ノ土器作(カワラケツクリ)

嵯峨土器(サガノカハラケ)内裏(ダイリ)ヘ参(マイ)ル器(ウツハモノ)也。カワラケ賣(ウリ)ハ。烏帽子(エホシ)カミシモテ参ル也。〔下2オ七・八〕

と記載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

深草土器作(ふかくさのかわらけづくり)弓矢細工深草土器作。深草ハ所の名。山城伏見(ふしみ)のほとりにあり。世に深草焼と云ハ此所の名物也。〔廿四オ一〕

とし、この標記語に対する語注記は、「深草ハ所の名。山城伏見(ふしみ)のほとりにあり。世に深草焼と云ハ此所の名物也」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

深草土器作(ふかくさのかはらけつくり)▲深草ノ土器作深草(ふかくさ)ハ山城(やましろ)伏見(ふしミ)の邊也。昔(むかし)ハ此所にて作(つく)れる土器(かはらけ)名産(めいさん)なりしや。今ハ作らす。〔二十オ二〕

深草土器作(ふかくさのかはらけつくり)▲深草ノ土器作深草(ふかくさ)ハ山城(やましろ)伏見(ふしミ)の邊也。昔(むかし)ハ此所にて作(つく)れる土器(かはらけ)名産(めいさん)なりしや。今ハ作(つく)らす。〔三五オ六〕

とあって、同じように語注記は「深草ノ土器作深草(ふかくさ)ハ山城(やましろ)伏見(ふしミ)の邊也。昔(むかし)ハ此所にて作(つく)れる土器(かはらけ)名産(めいさん)なりしや。今ハ作(つく)らす。」としている。

 当代の『日葡辞書』には、当面の標記語「深草土器」の語は未收載で、単に「土器」で、

Cauaraqe.カワラケ(土器) 粘土で作った皿または小さな碗.⇒Cogiu>;Xichidoiri.〔邦訳111r〕

とある。

[ことばの実際]

寛正五年二月 祖師汀菓子ノ代 五十文、麗香土器等ノ代《古記録:醍醐寺 2568-1 12/23》

2001年8月30日(木)曇り。東京(八王子)⇔南大沢

「弓矢細工(ゆみやのサイク)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「由」部と「左」部に、

弓箭(ユミヤ) 矢同。〔元亀本292五〕     細工(サイク)。〔元亀本270八〕

弓箭(ユミヤ)。弓矢(同)。〔静嘉堂本339六〕 細工(サイク)。〔静嘉堂本308七〕

とあって、元亀本は標記語を「弓箭」として注記に「矢同」としているのに対し、静嘉堂本は「弓箭」の次に「弓矢」を標記語として排列する。そして、標記語「細工」は別語にして収載し、こちらには語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「弓矢細工」と見え、『下學集』は、標記語「弓矢細工」では未収載にし、単に器財門に「弓矢」または「」と「」でも未收載であり、弓は「御多羅枝・楊弓・重藤」、矢は「雁股・征矢・鏑矢」というぐあいに、用途の特殊性による名称語として収載し、「細工」は態藝門に、

細工(サイク) 把(トル)者。〔態藝門85三〕

として、独立語として収載する。これを広本節用集』では、

(ユミ/キユウ)[平] 逢蒙始作和氏之弓垂竹之矢(ヤ)。何(イツレモ)黄帝之時人也。釋名云。弓穹也。張レハ之穹々然也。其末(/ユハズト)ヲ。又曰(シ)。以之。弭々然トシテ滑也。中矢曰?〓〔弓+付〕(ユンツカ)ト。人所持也。其端曰〓?〔弓+區〕(カウ)ト。弓之用-材也。曰幹角筋膠絲漆。幹(カン)ノ及。必遠。角之勢必疾。筋之力鋭スル中必深。合之以膠。則和。纏之以絲。則固シ。環(メ―)ニ之以漆則霜雪不。六材既美ニシテ。又天時。工巧不相違。此弓之所_以良也。孤木弓。嚢弓衣。赤曰〓?〔弓+山又〕。一名?〓〔韋+長〕?〓〔韋+建〕。又馬上(モル)弓矢。器-材ナリ。又弓(タメ)ナリ古史孝黄帝之臣揮作弓。又云?〓〔羽+廾〕。又云〓〔人+垂〕(スイ)ト云。弦(ツルカケ)テ。?〓〔炎+リ〕(ケツ)テ。孤矢之利。以威天下。凡弓人為(ツクル)。取テハ六材必以其時六材。既巧者和之。幹也。者以為キカ也。角也者以為キト也。筋也者以為也。膠也者以為スルカ也。絲也者以為(カタキ)カ也。漆也者以為ルカ霜雪也。凡為ルニ冬折幹而春液(ヒタス)。夏。秋合(アワス)三材。又孫子曰。天子彫弓諸侯彫弓。大夫黒弓也。異名。菰黍。桑孤。烏號。黄間。黄洞。越棘。堂溪。魚腹。下合。弯月。流星。鳴的。大黄。繁弱。稚素。大屈。大黄奴。(ユミ/)[上]弓弩。古史考云。黄帝作弩也。〔器財門861四〜862一〕

()。(同)。〓〔幹-木〕(同) 。〔器財門557六〕

細工(サイクセイコウ.ホソシ,タクム)[去・平]把(トル)者也。〔態藝門801五〕

とあって、標記語を「・弩」「・箭」「細工」の三語にして収載し、『下學集』には未收載であった「弓」そして、「矢・箭・幹」の標記文字を収載している。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

(ユミ)。(同)。〔・財宝226一〕 ()。(同)。〔・財宝166六〕 細工(サイク)。〔・言語進退214二〕

(ユミ)。。〔・財宝188三〕   ()。(同)。〔・財宝136三〕 細工(サイク)。〔・言語178九〕

(ユミ)。。〔・財宝177九〕   ()。。〔・財宝125四〕    細工(サイク)。〔・言語168一〕

とあって、標記語を広本節用集』と同じく「・弩」「・箭」「細工」の三語にして収載している。ただ異なりとしては、「」を前出しにして「」を後に排列している。増刊節用集』では、

(ユミ)。同。〔器財下15オ五〕 ()。(同)。〔器財上56オ四〕   細工(サイク)。〔言語9オ六〕

とあって、上記『節用集』類と同じ収載にある。『塵芥』では、

[東]ユミ。キウ。[平]。[模]同。コ。〔器財門下60三〕  ヤ。〔器財門下4八〕 細工(サイク)。〔言語46ウ二〕

とあって、広本節用集』と同じ体裁にあるが、「ゆみ」の第二標記語を「」とするところが異なる。さらに、易林本節用集』においても、

(ユミ/キウ)。(同/)〔器財194一〕 ※「矢・箭」は未收載。「細工」は「細字」の語注記群に収載。

とあって、標記語「・弩」と「細工」で、「や【矢・箭】」の標記語を未収載にしている。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「弓矢細工」の語は、未收載にし、各部位にして「」「矢」「細工」として、

(キウ) ユミ。居戎反。(コ) 同。木弓也。〔黒川本下55オ七〕

ユミ三礼圖云。長六尺有六寸謂之上制上制上士服之弓長六尺有三寸謂之制中士服之弓六尺謂之下制下士。但赤漆者四〓〔舟彡+弓〕黒漆者詠。〔卷九雜物11三〕

(せン) 子賤反。ヤ。白羽。〓〔竹+矢〕同。同。式視反。〓〔矢+曽〕云曽同。戈射矢也。〔黒川本中85オ八〕

俗乍矢古夷牟初作―。〓〔竹+矢〕〓〔矢+曽〕已上同。射矢也。〔卷六雜物518二・三〕

細工(サイク) 伎藝部。工匠ト。〔黒川本下42ウ七〕 細工。〔卷八445六〕

とあって、その標記語に「」「」・〓〔竹+矢〕・〓〔矢+曽〕」「細工」で収載していることから、『節用集』類はこの形態を継承したものといえよう。さすれば、『運歩色葉集』の「弓矢」として収載する形態とは異なるものであり、むしろ、『運歩色葉集』は『庭訓往来』に尤も傾倒する唯一の古辞書ともいえる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

203酢造_細工 兵具黄帝時始也。和氏弓、推矢、何皇帝時之人也。〔謙堂文庫藏二一左D〕

酢造弓矢細工 兵具黄帝時始之。和氏弓、推矢、何時之人也。〔東京大学図書館藏『庭訓往来古註』〕

酢造弓矢細工 兵具時始也。和氏弓、推矢、何皇帝時之人也。〔国会図書館藏榊原本『庭訓往來鈔』〕

酢造弓矢細工 兵具時始也。和氏弓、推{―垂}矢、何皇帝之時之人也。〔国会図書館藏左貫註〕

酢造弓矢細-工 兵具何時始也。(ケイ)カ、和氏弓、垂竹矢、何帝時之人也。〔天理図書館藏『庭訓徃来註入』〕

_弓矢細-工 兵具何時始也。、和氏弓、矢、何帝時之人也。〔東洋文庫藏『庭訓之鈔』徳本の人〕

酢造(スツクリ)弓矢(ユミヤ)ノ細工 兵具時始也。(シユウ)カ(ホコ)、和氏(クワ−)カ弓、矢、何帝之時人也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃来抄』古寫〕

△矢ツカノ長サ我手三十二束ガ本也。又人ニ依十四ソク。十五ソクモアリ。但十三ソクトハ平生イワサル也。矢ヲ五節スル亊ハ。地・水・火・風・空・木・火・土・金・水像ル也。筈ノ名所カコイツルモチ又コシマキ内ヲハエリト云也。又矢マキ目寸法ネタマキ五分。クツマキ六分。本マキ六分。上マキ三分。筈三分。ケラクビ三分。巻目モ黒ヌリノ時コイノ節カケタルヘシ。赤漆ノ時シロノナルヘシ。△小笠原流也。又矢三方二義表スル也。三方天・地・人。二義陰陽也。依是三尺二寸用也。矢亊トテハヤリ羽。前ユスリ今一トカケト云也。長四寸的矢長六寸也。キホウ羽四寸五分也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃来抄』古寫冠頭書込み〕

とあって、標記語「弓矢細工」は、語注記では「兵具」に置き換えられ、「兵具は何れも黄帝の時始るなり。充が戈、和氏が弓、{推}が矢、何れも{皇}帝の時の人なり」という。ここで諸本比較して気がつく事柄として、上記広本節用集』の「逢蒙始作。和氏之弓、垂竹之矢(ヤ)(イツレ)帝之時人也」という前半部語注記内容とが共通している点である。とりわけ、静嘉堂本とが最も良く通ずるようである。このところからも、この『庭訓往来註』と広本節用集』とが連関する資料であることを指摘できるのである。そして、天理図書館藏『庭訓私記』には、

天竺多羅樹云木御多羅枝ト云也。矢愛染明王御持物様々子細有云云。

とあって、古版『庭訓徃来註』の語注記へと継承されている。

弓矢(ユミヤ)ノ細工(サイク)深草(フカクサ)ノ土器作(カワラケツクリ)葺主(フキシ)壁塗(カベヌリ)獵師(レウシ)狩人(カリウド)弓矢ノ細工是アリ。弓矢ハ。愛染明王(アイゼンミヤウワウ)ノ召(メ)出シ給ヘルナリ。天竺多羅樹(タラジユ)ト云木アリ。其木ノ枝(エダ)ニテ作リ給フニ依テ。弓ヲ御タラシト云也。弓矢ニ付テ。色々様々ノ子細トモアリ。是ハ弓法方ノ巻物ニテ見ベシ。此書ニハ。尤可斟酌(シンシヤク)ス。〔廿八ウ五〕

とある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

弓矢細工(ゆミやのさいく)弓矢細工 弓師矢師なり。〔廿四オ一〕

とし、この標記語に対する語注記は「弓師・矢師なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

弓矢細工(ゆミやのさいく)〔十九ウ〕〔三四オ四〕

とあって、同じように語注記は未記載にしている。

 当代の『日葡辞書』には、当面の標記語「弓矢細工」の語は未收載であり、これを業とする、

Yumiya.ユミヤ(弓矢) 弓と矢と.⇒Toritcutaye,uru.〔邦訳836l〕

†Yumiya.ユミヤ(弓屋) 弓を作る家,または,弓を売る店.§また,弓を作る人.〔邦訳836l〕

Yumitcucuri. ユミツクリ(弓作り) 弓を作る者.〔邦訳836l〕

とあって、「弓屋」及び「弓作り」という標記語があり、これが「弓矢の細工」に最も類似する語であろう。また、これの素材の品である「」は、

Yumi. ユミ(弓) 弓.⇒次条.〔邦訳835r〕

†Yumi.ユミ(弓) §Yumiuo vtcu.(弓を打つ)巫女がある儀式をし,呪術を行なう際に,歌を歌いながら弓を叩く.⇒Fari,u;Faritcume,uru;Fiqi,u(引・曳き,く);Fiqitcume,uru;Suye,yuru. 〔邦訳835r〕

とあって、儀礼の弓については詳細な記述がなされている。

[ことばの実際] 「弓矢細工」「弓作り」「弓屋

2001年8月29日(水)曇り。東京(八王子)⇔中央大学

「酢造(すづくり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「須」部に、

() 音素。(同)字。〔元亀本362三〕

(スシ)。(同)。(同) 音素。(ス) 字同。(ス)。〔静嘉堂本441五〕

とあって、標記語を「」と「」として収載され、「」の語注記は「音は素」という。元亀本と静嘉堂本とでは語の認定がやや異なるが、ここは元亀本に従うべきであろう。すなわち、「ス」は、「」と「」であり、「」の語注記は「字同じ」というのである。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「酢造」と見え、『下學集』は、標記語「酢造」は未収載にし、単に飲食門に「」の標記語で、

() 音素。与醋同。酸(ス)_也。音作献-酬之義_也。〔飲食門100五〕

とあって、標記語「」に、語注記として「音は素。醋と同じ。酸(ス)也なり。音作は献酬の義なり」という。次に広本節用集』では、

()。 (同)。(同)[去]。〔飲食門1124五〕

とあって、標記語を「」「」「」の三語を収載し、『下學集』には未收載の標記文字を中間に排列し、その語注記は『下學集』を継承せずに未記載としている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

()。(同)二字義同。〔・食物270四〕

()。二字義同。〔・食物231一〕

×。〔尭空本・食物門にこの語を未收載にする〕

とあって、標記語を『運歩色葉集』と同じく「」と「」として収載するが、その語注記は「二字の義同じ」とあって、異なりを呈している。増刊節用集』では、

() 醋同。〔食服下36ウ五〕

とあって、標記語を「」として、『下學集』の注記を簡略化したもので、別字「醋」を同じとして語注記している。『塵芥』では、

() 音素。与醋同字。〔食服門下104三〕

とあって、『下學集』の語注記の前半部のみを収載する。さらに、易林本節用集』においても、

(ス/ソ)酸也。〔食服239八〕

とあって、標記語「」のみを収載し、『下學集』の語注記にあった字音「素」については、左傍に「ソ」とカタカナ表記にて示し、語注記には「酸なり」と収載している。このことからも、『下學集』の後半部の語注記内容である「音「作=サク」は献酬の義なり」は、漢詩を学び読もうとする人以外には非常に特殊な事柄であって、内容としても『節用集』類には排除され、継承されなかった語注記の説明と見てよかろう。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「酢造」の語は、未收載にし、調味料である「」について、

()倉故反。又作醋。(シユン)同。素官反。苦酒同。又カラサケ。〔黒川本下109オ七〕

亦乍醋。シユン吉酒 已上同。亦カラサケ。〔卷十飲食498二〕

とあって、その標記語に「」で字音の読み「ソ」が付訓されていて、「又作○」の形式によって、「醋」の文字が収載されている。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

203酢造_細工 兵具黄帝時始也。和氏弓、推矢、何皇帝時之人也。〔謙堂文庫藏二一左D〕

とあって、標記語「酢造」の語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』でも、標記語「酢造」の語注記は未記載にある。ここでの古版『庭訓徃来註』の注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

酢造(すづくり)酢造。〔廿四オ一〕

とし、この標記語に対する語注記は未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

酢造(すづくり)〔十九ウ〕〔三四オ四〕

とあって、同じように語注記は未記載にしている。

 当代の『日葡辞書』には、当面の標記語「酢造」の語は未收載であり、これを業とする、

Suya.スヤ(酢屋) 酢を売る家,または,それを作る家.§また,酢を作る職人.〔邦訳593r〕

とあって、「酢屋」という標記語があり、これが最も類似する語であろう。また、これの素材の品である「」は、

Su.(酢) 酢.§Su aye.(酢和へ)酢をまぜて作った食物.§Suuo co<.(酢を支ふ)喧嘩したりするように人をけしかける,あるいは,煽動する.⇒次条.〔邦訳580r〕

†SV.*(酢) §Suuo suyuru.(酢を据ゆる) 酢を作る.§Suuo sasu.(酢をさす)他の人と喧嘩したり争ったりするように,ある人をけしかける.⇒Suye,yuru.〔邦訳580r〕

とあって、この調味料に関しての詳細な記述よりも、その語の派生表現について傾斜する編纂方針であることが知られる。

[ことばの実際]

左、「あまり」といひて、酢(す)とは聞えたるを、かさねて「す」とよめるやいかゞ。右は、盂蘭盆(うらぼん)のよもすがら心太(ぶと)(う)ることしかり。心てい聞(き)く心地す。右可勝。酢造[図絵]あ、すし、きかき哉。〔中略〕左歌は、酢つくる人は、あすや/\といひて祝ごとにするといへるをよめるにや。艶(えん)に聞(き)こゆ。《『七十一番職人歌合』七十一番・新大系144頁》

2001年8月28日(火)晴れ。東京(八王子)⇔横浜(根岸)馬の博物館

「商人(あきひと・あきんど)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「安」部に、

商人(アキヒト)。〔元亀本259一〕

商人(アキ―)。〔静嘉堂本292八〕

とあって、標記語を「商人」として、読みを元亀本は「あきひと」とし、静嘉堂本は「あき―」として語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「商人」と見え、『下學集』は、標記語を「商人」を未収載にする。次に広本節用集』では、

商人(アキンド/シヤウジン、―,ヒト)[平・○]或作買人。在家曰商。在外曰賈。異名通貨。白望。〔人倫門746七〕

とあって、標記語を「商人」の読みは「あきんど」と撥音便化に伴う連濁よみであり、その語注記は「或作○○」形式による「買人」の語を最初に示し、次に「家にあるを商、外にあるを賈という」と文字による意味の分化を示し、最後に異名語「通貨・白望」を記載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

商人(アキンド) 賈人(同)。〔・人倫202六〕

商人(アキンド) 或作買_人。〔・人倫168三〕

商人(アキント) 又非買人。〔・人倫157三〕

とあって、読み方は広本節用集』と同じく「あきんど」であるが、その語注記はそれぞれ異なりを呈している。弘治二年本は「賈人」、永祿二年本が「或作○○」形式で「買人」を記載し、尭空本が「又買人に非ず」としている。さらに増刊節用集』も

商人(アキント) 或作賈―。〔人倫下4オ五〕

とあって、読みを「あきんと」とし、語注記に「或作○○」形式によって、「賈人」の表記語を示している。易林本節用集』においては、

商人(アキヒト)。〔人倫168四〕

とあって、標記語を「商人」の読みは『運歩色葉集』と同じく「あきひと」として、語注記は未記載にする。他に『塵芥』では、

商賈(アキヒト)。商客(同)。賣人(同)。〔人倫下34ウ一・二〕

とあって、標記語を「商賈」「商客」「賣人」の三語で示し、上記の古辞書とは異なる標記語で三種収載している。読みはここでは「あきひと」とある。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「商人」の語は、

商賈(シヤウ―)アキヒト商人 同。商客 同。〔黒川本人倫下23ウ六〕

商賈 アキヒト商人 ――知善悪。商客 已上同。〔卷八人倫289五〕

とあって、上記『塵芥』に見える「商客」の語もここに先に収載するものである。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

201商人 鄭玄曰、商賣商。坐カラ賈。白虎通曰、商遠近四方ニ|也。或行通賣買也。賈坐成賣買也。〔謙堂文庫藏二一左B〕

とあって、標記語「商人」の語注記は「鄭玄に曰く、商賣は物を通はすを商ひと云ふ。坐がら賣るを賈と曰ふ。白虎通に曰く、商は遠近四方に通はす。或るは行通に賣買するなり。賈は坐がら賣買を成すなり」という。古版『庭訓徃来註』では、標記語「商人」の語注記は未記載にある。この内容は、後半卯月十一日の状に、

240諸國旅客(キヤク)ノ宿所-送之賣買之律悉令遵行候交易(ケウヤク/ヱキ) 易也。京中者夷中下。日本義也。〔謙堂文庫藏二七右C〕

245濱商人鎌倉誂物 仁王七十四代鳥羽院御宇保安元年庚子鎌倉立始也。〔謙堂文庫藏二七左G〕

と見えている語と共通する内容になる。ここでの古版『庭訓徃来註』の注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

商人(あきんと)商人。〔廿四オ一〕

とし、読みは『節用集』類に同じである。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

商人(あきうと)〔十九ウ〕〔三四オ四〕

とあって、読みは「あきうと」でウ音便化の表記を示し、語注記は未記載にしている。

 当代の『日葡辞書』には、

Aqibito.アキビド(商人) 商人.〔邦訳28r〕

Aqiu<do. アキュゥド(商人) 商人.§Bio<buto,Aqiu<dotoua sugunareba miga tatanu.(屏風と,商人とは直なれば身が立たぬ)諺.屏風(bio<bus)と商人というものは,いつも盗人である,または,嘘をつくものである.⇒Aqibito.〔邦訳29l〕

とあって、標記語「商人」の読みは、「あきびと」と「あきゅうど」が採録されており、上記古辞書に見える「あきひと」「あきんど」は『日葡辞書』には未收載だが、当代における一語の読みに斯くも幅のある読み方をここに見ることとなった。そして、『庭訓徃來』の語排列内容からみたとき、多くの技術職能集団が列挙されていくなかにあって、海や山を仕事の場とし、日々の糧とする人々、人の多くが行き交う市町で生業する人々がここに紹介され、とりわけ、この「商人」という多くの別種商いにつながる職種の総称語としてここに挿入されている点は、武家側からの「士農工商」の構造社会を見ていくうえで、とりわけ詳細でない点が着目されよう。そうしたなかにあって、次の「酒沽」(2000.11.17に記載)は、米や塩以上に特出する商いであったことが知られよう。

[ことばの実際]

「罷(まかり)出たるは山城の国、薑(はじかみ)売で御ざる、又今日も商売(しやうばい)に参ふと存ずる、それ商人とは、足をはかり声をはかりに商(あきな)わねばならぬと申、まづ是から呼(よ)ばわりませう、薑(はじかみ)こん。《狂言記『酢薑』卷一・八,新大系33一》

商人「是は此辺に住む商人(あき―)で御ざる、此所御冨貴(ふつき)について、新市が立(た)つ、高札に、何成とも一の店(たな)に付(つ)いた者を末々(すへ/″\)までお付(つ)けなされませうとの事じや、早(はや)う参(まい)り、一の店(たな)に付いてをきまらせう。《狂言記・外五十番『連雀』卷三・三新大系271八》

2001年8月27日(月)曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「烏帽子織(えぼしおをり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「衛」部に、

烏帽子(エボシ)。〔元亀本337四〕

烏帽子(エボシ)。〔静嘉堂本403六〕

とあって、標記語を「烏帽子」として、語注記は未記載にする。『庭訓徃來』(至徳三年本・文明本・天文本=山田俊雄家蔵本など)には、卯月五日の状に「烏帽子」と見え、基は「織」の字を欠く(経覚筆本は「烏帽子折」とある)。『下學集』には、

烏帽子(エボシ)。〔器財門110五〕

とあって、標記語を「烏帽子」として、語注記は未記載にする。次に広本節用集』では、

烏帽子(ヱボウカウ―、クロシ・カラス,ヲヽウ,コ)。〔器財門701八〕

とあって、『庭訓徃來』⇒『下學集』と同じく標記語を「烏帽子」として、語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』は、

烏帽子(エボウシ) 日本惣冠。〔・財宝194五〕

烏帽子(エボシ)。〔・財宝160六〕

烏帽子(エホシ)。〔・財宝149八〕

とあって、読み方を含め語注記でも、弘治二年本だけが「日本の惣冠」としている。さらに易林本節用集』や増刊節用集』においても、

烏帽子(エボシ)。〔易・食服162五〕

烏帽子(エホシ)。〔増・器財上68オ六〕

とあって、標記語を「烏帽子」として、語注記は未記載にする。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「烏帽子」の語は、未收載にする。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

200櫛引烏帽子織 公家ニハ用也。摩利支。又イヲルカ∨見也。〔謙堂文庫藏二一左A〕

櫛引(クシ―キ)烏帽子織(ヱボシヲリ) 公家ニハ用也。摩利支天(マリシ―)。又(モト)イ也∨見也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、標記語を初めて「烏帽子織」として「織」の字を付加していることに気づく。語注記は「公家には用いざるなり。摩利支天(マリシ―)。又は基(モト)いをみるべからざるためなり」という。古版『庭訓徃来註』では、

櫛引 (クシヒキ)烏帽子織(エホシヲリ)商人(アキント)モ京都烏丸(カラスマル)ヨリヲコレリ。惣シテ人。モトヾリヲ放(ハナシ)テ。天ニ向(ムカ)フ事ヲソレアリ。大唐(タイトウ)ヨリ。烏〓〔者心夂〕(エシツ)ト云人來テ作始テ。自カカフリ行(ユク)ヲ人見テ作也。久ク京ニ居タリ。京童(ワラン)ヘ丸トソ名ヲ付呼(ヨ)ビシ故(ユヘ)烏丸(カラスマル)ト云也。其(ソレ)ガ去テ後モ住(スミ)シ在所ヲ烏丸ト云習(ナラ)ハス也。今ニハ。何ニテモ折也。〔廿四ウ二〜四〕

とあって、「烏帽子織」の語注記にはその名の由来を説明する。この内容は、天理図書館藏『庭訓私記』には、

烏帽子商人ハ烏〓〔?心〕(ウヒツ)ト云人大唐ヨリ來カフリ行ヲ見テ人作。此者烏丸ト云ヘハ。夫烏丸云也。

とあって、この由来説明が共通内容であることが知られる。また、『庭訓徃來』の後半卯月十一日の状に、

255大津練貫六條染物猪熊宇治布大宮烏丸烏帽子室町伯樂手嶋

と見えている「烏丸の烏帽子」は上記事柄と共通する内容となっている。ここでの古版『庭訓徃来註』の注記は「前ニ注ス」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

烏帽子織(えほうしおり)烏帽子織。〔廿四オ一〕

とし、これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、あっては注記を未記載にする。

烏帽子折(えぼしをり)〔十九ウ〕〔三四オ四〕

とあって、読みは「えぼしをり」とし、標記語の「をり」の字は「折」とし、語注記は未記載にしている。

 当代の『日葡辞書』には、

Yeboxi.エボシ(烏帽子) 昔の人がかぶったもので,今は演劇〔能〕の際に用いられる,ある種のつばなしの帽子.※原文はbarretinho.これはbarreteに指小辞のついた形.barreteは,つばのない帽子,頭巾の類で,烏帽子や頭巾にあてて用いている.〔邦訳815l〕

†Yeboxivori. エボシヲリ(烏帽子折) 演劇〔能〕で使う烏帽子を作る職人. ※原文はbarrete.〔Yeboxiの注〕〔邦訳176l〕

とあって、室町時代の後期には「烏帽子」そのものが実際の用途として武家・庶民を含め被らなくなり、もっぱら能役者が用いるものとなっていたことが分かり服装の変遷を教えてくれているのである。また、『庭訓徃來』をはじめとする室町時代の古辞書群は、専ら被り物として収載をしているのだが、これを『庭訓往来註』は、その「烏帽子」を作る職人である「えぼしをり【烏帽子織】」として初めて改めたものと言える。経覚筆本『庭訓徃來』も「烏帽子折」と改めた点では共通する意識が見え隠れしているのではなかろうか。また、この両語を『日葡辞書』が、採録していることは注目に値するものである。

[ことばの実際]

平家(ヘイ―)ニ春日明神ヤラノ。巾(コ)カ笥(シ)ウナタレテ。物ヲキカシマシタト。云コトアリ。巾笥(コ―)ト云ハ。エホシノコトソ。エホシハ。ヨホウナヤウナソ。エホシモ。家ノ樣々ガカワルソ。土岐樣。京極折。御所樣ナドヽ云ソ。烏帽子(エホシ)ヲリノ。マイニモマウソ。《叡山文庫藏『玉塵抄』卷第一・12左三〜五》

藤六「物と言ふて囃(はや)そう√信濃の国の住人、麻生殿(あそうどのゝ)の御内に 藤六と下六と 烏帽子折(ゑぼしお)に参りて 主(しう)の宿(やど)を忘(わす)れて 囃子(はやし)事をして行(い)く」《狂言記『烏帽子折』卷一・新大系8六》

2001年8月26日(日)曇り。東京(八王子)

「櫛引(くしひき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、「櫛形(クシガタ)櫛箱(クシバコ)櫛笥(―ゲ)櫛掃(―ハライ)」〔元亀本190三・四〕の四語を収載しているだけで、標記語に「櫛引」の語は未収載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「櫛引」と見え、『下學集』及び広本節用集』それに、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』、さらに易林本節用集』においても、この標記語を未收載にする。古辞書では、北野天満宮藏『初心要抄』(室町時代の名彙和名集)の四〇「諸道」に、

櫛引(クシヒキ)。〔諸道3275・近思文庫第六〕*『桂本迭名辞書』の諸藝術には未收載。

とあって、唯一確認できる。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「(シツ)クシ。云瑟。(ソ)同」〔黒川本中75ウ六・七〕とあるが、標記語「櫛引」の語は、未收載にする。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

200櫛引烏帽子織 公家ニハ用也。摩利支。又イヲルカ∨見也。〔謙堂文庫藏二一左A〕

櫛引(クシ―キ)烏帽子織(ヱボシヲリ) 公家ニハ用也。摩利支天(マリシ―)。又(モト)イ也∨見也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

√櫛ナケヌコト也。神代ヨリ始也。素盞烏尊日向国ナカシ有時、親子永違テ、櫛ナケ玉ヘハ大山隔也。又云、御即位ナケテ今ヨリ已后、我非トナゲ玉フナリ。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫脚注書込み〕

▽△櫛ナケヌ亊。素盞烏尊日向国ヨリ御ナカシア時、ヲヤコ間ヲソムイテ有ル時、クシナケタ玉ヘバ大山成ナリ。〔国会図書館藏左貫注冠頭書込み〕

とあって、「櫛引」の語注記は未記載だが、静嘉堂本の脚注書込みに、「櫛をなげぬことなり。神代より始るなり。素盞烏尊日向国へ流し有る時、親子の詞{間}を永違い有るとて、櫛をなげ給へば大山と成りて隔てるなり。また云く、御即位の時も櫛をなげて、今より已後は、我が子に非ずとなげ給ふなり」といった「櫛引」の起源譚をここに記している。古版『庭訓徃来註』では、「櫛引」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

櫛引(くしひき)櫛引ハ。〔廿三ウ八〕

とし、これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、あっては注記を未記載にする。

櫛引(くしびき)〔十九ウ〕〔三四オ三〕

とあって、読みは「くしひき」とし、語注記は未記載にしている。

 当代の『日葡辞書』には、

Cuxifiqi.クシヒキ(櫛挽き) 櫛を作る者.⇒次条.〔邦訳176l〕

†Cuxifiqi. クシヒキ(櫛挽き) 櫛を作る職人.〔邦訳176l〕

とあって、「くしひき」と読み、「櫛作りの職人」をいうとあって、『初心要抄』の語を確認できる。

[ことばの実際]

櫛挽 先こればかり挽(ひ)きて、のこぎりの目(め)を切(き)らむ。《『七十一番職人歌合』新大系87頁》

2001年8月25日(土)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「朱砂・白粉燒(しゆしや・おしろいやき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に標記語の「朱砂」は未収載であり、この語を『大和本草』卷三によれば、中国の「辰州より出るを良とし、故に辰砂と云」ことから「朱砂」を「辰砂」とも呼び、

辰砂(シンシヤ)。〔元亀本319八〕

辰砂(シンシヤ)。〔静嘉堂本376七〕

とあって、標記語「辰砂」なる語が収載され、語注記は未記載にある。また「於」部には、

白物(ヲシロ―ヲシロイ)。白粉(同(ヲシロイ)。〔元亀本79八〕

白物(ヲシロイ)。白粉(ヲシロイ)。〔静嘉堂本97八・九八一〕

白物(ヲシロイ)。白粉(ヲシロイ)。〔天正十七年本上48ウ五〕

白物(ヲシロイ)。白粉(同(ヲシロイ)。〔西来寺本143六〕

とあって、標記語を「白物」そして「白粉」として、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「朱砂白粉燒」と見え、『下學集』は、この標記語を全く未收載にする。次に広本節用集』には、

白粉(ヲシロイ/ハクフン)[入・上]或作白物。〔光彩門215二〕

とあって、標記語のうち「朱砂」は未収載とし、「白粉」だけが収載されていて、その読みは「をしろい」で、語注記として「或作○○」形式による「白物」の表記を示すものとなっている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、

白粉(ヲシロイ)或作白物。〔・財宝215二〕

白粉(ヲシロイ)或作白物。〔・財宝65五〕〔・財寳70五〕

白粉(ヲシロイ)或作白―。〔・財物59九〕

とあって、標記語を「白粉」だけで、「朱砂」は未収載にあり、語注記は広本節用集』と同じく「或作○○」形式による「白物」の表記を示すものとなっている。増刊節用集』も

白粉(ヲシロイ)或作―物。〔支躰上23オ三〕

とあって、分類を支躰門にしてこの「白粉」の語を収載し、上記『節用集』類と同様である。『塵芥』は、

白粉(ヲシロイ)。〔彩色門100四〕

とあって、分類を彩色門にして、語注記は未收載にする。印度本系統のなかには、黒本本節用集』や『和漢通用集』には、『運歩色葉集』に見える、

辰砂(シンシヤ)。〔黒本・飲食182七〕

辰砂(しんしや) 薬。〔和漢・食物409下六〕

とあって、飲食門、食物門に標記語「辰砂」の語を収載し、『和漢通用集』は語注記として「薬」としている。また、易林本節用集』では、

朱砂(シユシヤ)色。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 白粉(シロヒモノ)。〔器財210四・五〕

とあって、標記語を「朱砂」と「白粉」とにして、読みを「シュシャ」と「しろひもの」とし、その語注記は「朱砂」の標記語に「色」と記載する。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「朱砂白粉燒」の語は、

朱沙シユシヤ。〔光彩下73ウ六〕

朱砂(シユシヤ)。〔卷九光彩166二〕

とあって、逆に標記語「朱沙」の語が収載していて、「白粉」の語を未収載にする。いずれも古くから顔料として用いられており、その古辞書の記載に偏りがあるのかを今後考えねばなるまい。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉燒(ヲシロイヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客人(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ) 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「朱砂白粉燒」の語注記は、「白粉」のみについて「韓文に、粉は白なり。黛は高ネり」という。静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫及び天理図書館藏『庭訓徃來註』東洋文庫藏『庭訓之鈔』の冠頭注記に、

朱焼者日々膳六膳シテ。七五三縄ハツテ清浄ニシテ早旦タムクル也。其心ハ不知。雖專伊勢国ヨリ始。伊勢国ニハ死人埋。郊外(ヤ―)ニ。其舎利頭焼キケレハ猶不審也。六膳如何。一代弟子一人也。〔静嘉堂文庫本『庭訓徃來註』冠頭書込み〕

朱焼者ハ日々膳六膳メニシメ縄ハツテ清浄シテ早旦タムクル也。其心不知。雖專伊勢ノ国ヨリ始レリ。伊勢国ハ死人ヲ不埋野辺ステヲク。其シヤリ頭取テ焼ケレハ猶不審也。六膳ハトホライ[為]カ如何。一代弟子一人也。〔天理本『庭訓徃來註』冠頭書込み〕

朱焼者日々膳六膳シテ。七五三縄清浄早旦タムクル也。其心不知。雖然專伊勢国ヨリレリ。伊勢国ニハ死人不埋。野邊置。其シヤレ頭焼キケレハ[猶]不審也。六膳如何。一代弟子一人也。〔東洋文庫本『庭訓徃來註』冠頭書込み〕

とある。天理図書館藏『庭訓私記』には、「朱砂朱焼也」とあって、古版『庭訓徃来註』の、

朱砂(シユシヤ)白粉燒(シロヒモノヤキ)是又類(ルイ)(ヲヽシ)。〔廿八ウ二〕

とあって、標記語を「朱砂白粉燒」とし、その読みを「しゅしゃ・しろひものやき」とし、この語に対する語注記は、「是れまた、類多し」というのとは異なりを見せている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

朱砂白粉燒(しゆしやおしろいやき)朱砂白粉燒白粉ハおしろいなりとも云。又ごふんの事といふ共いえり。〔廿三ウ八〕

とし、読みは「しゆしやおしろいやき」とあり、「朱砂」については触れずじまいで、「白粉」について、「おしろい」または、「ごふん」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、あっては注記を未記載にする。

朱砂白粉燒(しゆしやおしろいやき)〔十九ウ〕〔三四オ三〕

とあって、読みは「しゆしやおしろいやき」とし、語注記は未記載にしている。

 当代の『日葡辞書』には、

†Xinxa.シンシャ(辰砂) シナの或る薬用の石.〔邦訳774l〕

Facufun.ハクフン(白粉) Voxiroi.l,faraya.(白粉,または,軽粉)おしろい.〔邦訳194r〕

とあって、鎌倉時代における「朱砂」の語を継承するのではなく、この時代に呼称されるようになった室町時代中期以降に用いられだした「辰砂」の語を収載し、その語注記には、「中国のある薬用の石」とし、「白粉」も音読みにて収載し、注記の読みとして「おしろい&はらや」として「おしろい」の語を記す。この「はらや【軽粉】」だが、上流階級の愛用した「御所おしろい」というもので、伊勢国飯南郡射和地方から産出した水銀を主原料としたことから「伊勢おしろい」とも呼ばれているものである。平安時代から鎌倉時代ころまでは、「白粉」または「」の字で「しろきもの」乃至はその音便形の「しろいもの」という読み方が用いられていて、「おしろい」と読む例の初出例としては、小学館日本国語大辞典』は下記に示す『発心集』あたりかと見ている。この写本諸本についても検討して見ねばなるまい。

[ことばの実際]

弁来云、神宝事已成了、但申無朱砂之由、先日自蔵人所可度之由、事蔵人頼宣申、而今朝申送云、朱砂八十両、昨日依召奉摂政殿了、《『小右記』寛仁元年十一月十九日》

昔佛之物リシヒトハ、生々世々ユエナキ報受。朱砂取タリシ物、ツネニテアカク侍ケリ。《宮内庁書陵部藏『寳物集』34オ十二》《校合解釈》岩波新新日本古典大系所収の第二種七巻本(吉川泰雄氏蔵本、元は島原深溝家松平忠房旧蔵本:京都深草瑞光寺本とは親子関係にある)には、この箇所を「しかのみならず、仏の物をぬすめりし人は、生々(しやうじやう)に手なきものにむまれ、朱砂(しゆしや)をとりたりし者は、世々(せぜ)に指赤く侍りけり。」〔新大系卷第五200O〕として収載する。意味は仏の物を盗みし者は、生まれながらにして手のないものとして生まれ、朱砂をとった者は、この世にあるかぎり指を赤くしてしまうという。

四五日有(アツ)テ後(ノチ)、足利左兵衞(ノ)(カミ)ノ北(ノ)方、相勞(アヒイタハ)ル事有(アツ)テ、和氣(ワケ)・丹波ノ兩流ノ博士(ハカセ)、本道・外科(グクワ)一代ノ名醫數(ス)十人被招請テ脈ヲ取(トラ)セラルヽニ、或ハ、「御勞(イタハ)リ風ヨリ起(オコツ)テ候ヘバ、風ヲ治(ヂ)スル藥ニハ、牛黄金虎丹(ゴワウキンコタン)辰沙天麻圓(シンシヤテンマヱン)ヲ合(アハ)セテ御療治候ベシ。」ト申ス。《『太平記』卷第二十五・宮方怨靈會六本杉事醫師評定事》

(そもそも)、其の女の形貌(ぎやうめう)を言へば、翡翠(ひすい)の釵(かんざし)(なめらか)に、嬋娟(せんえん)の粧(よそほひ)靜なり。芙蓉(ふよう)の瞼(まなじり)を廻らして一たび咲(ゑ)めば、百(もも)の媚(こび)を成し、青黛(せいたい)の眉を開て、半面(はたかく)しぬれば、万(よろづ)の愛を集む。(はふに)を著(つけ)ざれども、自ら白し。〓〔赤+?(べに)〕を施(ほどこ)さざるに、自ら赭(あか)し。潤(うるほ)へる唇(くちびる)は丹菓(たんくわ)の如く、膏(あぶら)つくる膚(はだへ)は、白雪(はくせつ)に似たり。腕(たふさ)は玉を論じ、齒は貝を含む。詞少して旨(むね)(あらは)れ、音(こゑ)(やはらか)にして、事を通ず。《『新猿楽記』十二の君》

(ヲシロイ)を施し、たき物をうつせど、誰かは、偽れるかざりと知らざる。《慶安四年刊本『発心集』卷四・玄賓係念亜相室事・新潮日本古典集成182一》※神宮文庫藏本は卷第五の3に収載し、「(フン/ケハイ)ヲ施シ、薫(ニホイ/クン)ヲ移せト、誰カハ、偽レル粧(カサリト)シラサル」として、「粉」に「フン/ケハイ」の左右訓を付していて、「をしろい」という語訓は見えない。

恋すとや人のみる覧おしろいのきはづくまでに流す涙を 右は、白い物の涙に際づくらん、いかさま色の黒きにや。然らば恋ざめしつべし。左勝にこそ。《『七十一番職人歌合』新大系31頁》

2001年8月24日(金)晴れ。東京(渋谷)⇔世田谷(駒沢)

「海人(あま)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「安」部に、

海士(アマ)。〔元亀本259三〕

海士(アマ)。〔静嘉堂本293二〕

とあって、標記語を「海士」として、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「海人」と見え、『下學集』は、未收載にある。次に広本節用集』には、

(アマ)深入海中者也。〔人倫門746七〕

淡海公(タンカイコウ/アワシ,ウミ,キミ)[上・上・平]諱即不比等也。鎌足(カマタリ)ノ御子。其母海人(アマ―)也。故号淡海公歟。為南都興福寺草創也。〔人名門337二〕

とあって、「あま」の標記語は、「」で示し、その語注記として、「深く海中に入る者なり」という。また、「海人」の語については、人名「淡海公(タンカイコウ)」の語注記に、「鎌足の御子、その母海人(アマ―)なり」としているのがこの語である。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、標記語を「海人」は未収載にあり、弘治二年本両足院本において、広本節用集』と同じく人名「淡海公(タンカイコウ)」の語注記に、

淡海公(タンカイコウ)鎌足御子其父海人(アマヒト)故云――。興福寺草創養老四年庚申八月三日薨。至弘治二丙辰八百四十七年也。〔・人名100六〕

淡海公(タンカイコウ)鎌足(カマタリ)ノ御子(ミコ)其父海人(アマヒト)故云――。南都興福寺草創。〔・人名101一〕

とあるにすぎない。また、易林本節用集』では、

海士(アマ)。(同)タン。〔人倫168四〕

とあって、標記語を「海士」と「」にして、読みを「あま」とし、その語注記は未記載にする。増刊節用集』は、

(アマ)。(アルシ)。海士(アマ)。〔人倫下4オ七〕

とあって、標記語「」を先出しにして、間に「あるじ【主】」の語を挟んで「海士」の語を収載している。語注記は未記載にある。『塵芥』は、

仙郎大夫(アマ)。海士(同)。〔下34ウ四〕

とあって、他にない「仙郎大夫」を標記語の先頭にして、次に「海士」の標記語を収載している。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「海人」の語は、

泉郎(せンラウ)アマ。海人同。漁人同。又イヲトリ。〔黒川本人倫・下23ウ六〕

泉郎アマ海人アマヒト漁人已上同。亦イヲトリ。〔卷八・人倫289四〕

とあって、標記語としては「泉郎」「海人」「漁人」の三語を記載している。そして、この語の使い分けについての語注記は未記載にある。読みは十巻本が「あまひと」なる読みを付加している。

 このように、室町時代の古辞書のなかで人倫門における「あま」の表記は、まちまちであり「海士」「」そして「海人」は他の標記語のなかの注記語として用いられている。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客人(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「海人」の語注記は未記載にある。読み方も注釈書では「あまひと」及び「あまうど」と読むものが見えている。古版『庭訓徃来註』では、

漁客海人(スナドリアマウド)ハ餘ノ浦(ウラ)ノ釣人(ツリビト)海士人(アマウド)。雨風ニ障(サヘ)ラレテ隣(トナ)リノ浦(ウラ)ヘ來ルヲ漁客(スナトリ)ト云也。〔廿八ウ一〕

とあって、標記語を「海人」とし、その読みを「あまうど」とし、この語に対する語注記は、「餘の浦の釣人(ツリビト)海士人(アマウド)。雨風に障られて隣りの浦へ來たるを漁客(スナトリ)と云ふ者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

海人(あまうと)海人海中取入てあわびなとを取あま乃事也。〔廿三ウ七〕

とし、読みは「あまうど」とあり、具体的に主たる貝「あわび【鮑】」をとるとしている。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

海人(あま)海人ハ海中(かいちう)に入て鮑(あはび)なとを取る者多(おほ)し。婦人(ふしん)を用ゆ。所謂(いはゆる)潜女(かつきめ)是也。〔廿オ二〕

海人(あま)海人ハ海中(かいちう)に入て鮑(あわひ)なとを取る者多(おほ)し。婦人(ふじん)を用ふ。所謂(いはゆる)潜女(かつきめ)是也。〔三五オ五〕

とあって、読みは単に「あま」となり、海中に入り「あわび【鮑】」をとること、そして、別名「かづきめ【潜女】」という語が記載されている。

 当代の『日葡辞書』には、

AMA.アマ(海士) 水中に潜り,貝類を取って生活する男や女の漁師.§Cszzuqino ama.(潜きの海士)水中に潜って或る貝を取る女,または,男.〔邦訳21l〕

とあって、ここでは標記語を単に「あま」として記載している。

[ことばの実際]

白水郎 辨色立成白水郎和名阿萬今案云日本紀云用漁人二字一云用海人二字。《十卷本和名類聚抄』卷二10オ四》

潜女 本朝式云。伊勢國等潜女和名豆岐米。《十卷本和名類聚抄』卷二10オ七》

2001年8月23日(木)朝雨のち晴れ出雲⇒松江⇒東京

「漁客人(ギヨカクニン・すのうど,すなどり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部と「須」部には、「漁客人」の標記語は未收載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「漁客人」と見え、『下學集』は、未收載にある。次に広本節用集』には、

(スナドルギヨ)[平]。〔態藝門1134一〕

とあって、動詞としての「すなどる」を収載するにとどまり、それを職業とする「漁客人」の語は未収載にある。これに近似ている天正十八年本節用集』は、「すなとり」として言語進退門にこれを収載する。また、饅頭屋本節用集』は、この標記語で「すなどり」とし、人倫門に収載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においては、

漁人(スナトリ)。〔・人倫268六〕〔・人倫216一〕

漁人(スナドリ)。〔・人倫230一〕

とあって、読み方を「すなとり」そして「すなどり」とし、標記語を「漁人」で示し、語注記は未記載にある。また、易林本節用集』では、

漁捕(スナドリ)。〔言辞241五〕

とあって、標記語を「漁捕」にして、読みを「すなどり」とし、その語注記は未記載にする。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「」「漁客」語は未記載にあるが、標記語「漁人」で、

泉郎(せンラウ)アマ。海人同。漁人同。又イヲトリ。〔黒川本人倫・下23ウ六〕

泉郎アマ海人アマヒト漁人已上同。亦イヲトリ。〔卷八・人倫289四〕

とあって、その読み方を「あま&あまひと」または、「いをとり」として収載する。

 このように、古辞書のなかで人倫門における「漁客」の標記語を継承するものはなく、「すなどり」なる語は『節用集』類での受け入れとなり、いわば、標記語から見れば、『色葉字類抄』からの継承語と見るべきものとなっている。また、易林本節用集』に至っては、別の表記「漁捕」の語を立てることになる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客人(スノウト/ギヨカクノ―)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

漁客人→他取也。―取也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫書込み〕

とあって、「漁客人」の語注記は未記載にある。ただ、静嘉堂本の書込みには、「他の海へ行きて魚を取るなり。漁を底に入れて魚を取るなり」とあって、底刺網を用いた漁法について説明するものである。この点については、専門家の意見を拝聴したいところでもある。読み方も注釈書の段階では「すなとり」及び「すなどり」と読むものなのか、また、その清濁についてもこの資料からでは明確にはできない。古版『庭訓徃来註』では、

漁客海人(スナドリアマウド)ハ餘ノ浦(ウラ)ノ釣人(ツリビト)海士人(アマウド)。雨風ニ障(サヘ)ラレテ隣(トナ)リノ浦(ウラ)ヘ來ルヲ漁客(スナトリ)ト云也。〔廿八ウ一〕

とあって、標記語を「漁客」とし、その読みを「すなどり」とし、この語に対する語注記は、「餘の浦の釣人(ツリビト)海士人(アマウド)。雨風に障られて隣りの浦へ來たるを漁客(スナトリ)と云ふ者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

漁客(すなとり)漁客あミなとにて魚をとる猟師の事也。〔廿三ウ七〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

漁客(すなどり)漁客ハ和名(わめう)いをとりといふ。網(あミ)(つりはり)等にて魚(うを)を捕る者。〔廿オ二〕

漁客(すなどり)漁客ハ和名いをとりといふ。網(あミ)(つりはり)等にて魚(うを)を捕(と)る者。〔三五オ四〕

とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Sunadori.スナドリ(漁り) 漁をすること,または,漁師.§Sunadoriuo suru.(漁りをする)漁をする.〔邦訳588l〕

とあって、ここでは読みを「すなどり」と第三拍めを濁音表記し、その動作を示す語であり、またその業を営む人の呼び名でもあるとしている。

[補遺参照] 「漁捕」の語については、同じく『庭訓徃來註』に見え、2001.07.21付で既に記載している。

[ことばの実際]

漁子 文選江賦云。蘆人漁子和名乎止利。漁與魚同。採蘆捕魚者也。《十卷本和名類聚抄』卷二9ウ九》

2001年8月22日(水)晴れ。出雲⇔松江

「梶取(かんどり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

楫取(カヂトリ)。〔元亀本94九〕梶取(カヂトリ)。(同)。。〔元亀本94九・十〕

楫取(カヂトリ)。梶取(同)。(同)。。〔静嘉堂本117八〜118一〕

楫取(カチトリ)。梶取(同)。(同)。。〔天正十七年本上58オ三〕

楫取(カントリ)舟人。梶取同。同。。〔西來寺本168三・四〕

とあって、読みを元亀本・静嘉堂本・天正十七年本が「かぢとり」としているのに対し、西來寺本は「かんとり」と第二拍を撥音便化した表記としている。標記語「楫取」「梶取」「」の三語を並列し、その最後の標記語の語注記には「下」すなわち、「下學集」という典拠を明らかにしたものが記載されている。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「梶取」と見え、『下學集』は、

(カントリ) 或(カチ)ニ。日本之俗説也。〔人倫門40一〕

とあって、読みを「かんとり」とし、『庭訓徃來』にみえる標記語「梶取」の表記字とは異にする「」をもって標記語とし、語注記に「或作○。日本之俗説也」型による『庭訓徃來』の「梶」の字を記載する。これは『庭訓徃來』の表記文字を「日本における世俗文字である」故に糺して示そうとする『下學集』編者の編纂姿勢と見てよかろう。これを何をもって「」と改めたか考えねばなるまい。これに従い古辞書における標記語の相違が発生していくこととなる。次の広本節用集』には、

(カヂトリ/シフシユ)或作日本俗説。〔人倫門260五〕

とあって、読みを「かぢとり」と撥音便化しない表記で示し、その語注記内容はほぼ、『下學集』の語注記に従うものである。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においては、

(カントリ)同。〔・人倫77二〕

(カントリ)舟。〔・人倫76七〕

(カンドリ)舟。〔・人倫76七〕

(カントリ)舟。〔・人倫82七〕

とあって、読み方を「かんとり」そして「かんどり」とし、標記語を『下學集広本節用集』に同じく「」で示し、語注記は未記載にある。また、易林本節用集』では、

楫取(カンドリ)。〔人倫71一〕

とあって、標記語を『運歩色葉集』の先頭の標記語と同じにして、読みを「かんどり」とし、その語注記は未記載にする。増刊節用集』(広島大学藏)は、

水主(カコ) 舟人。(カントリ)同上。〔人倫上26ウ六〕 

とあって、こちらは標記語を『下學集広本節用集』に同じく「」で示し、語注記は、「同上」すなわち「水主」の「舟人」と同じであるというものである。他の古辞書では、『塵芥』に、

挟抄(カチトリ)。(カント(リ)・同)。〔人倫門110二〕

とあって、標記語を「挟抄」として読みを「かちとり」、標記語を「」として読みを「かんとり・同(かちとり)」とあって、それぞれの語注記は未記載にする。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「梶取」の語は未記載にある。

 このように、古辞書のなかで人倫門における「梶取」の標記語は継承編纂の過程でいえば『下學集』で文字表記が日本世俗の文字から正当な文字体系にまず糺され、これに基づき『節用集』類での受け入れとなり、また、易林本節用集』に至っては、別の表記を立てることになる。この表記文字は『運歩色葉集』においても先頭に位置し、この排列姿勢については以前発表したものがあり、それに基づいてみるに、世俗語を先出し、後方に正統語を置くのである。詳しくは私の著した「世俗・世話攷―室町時代古辞書『下學集』を中心に―」(駒澤大学北海道教養部紀要第33号所載)を参照されたい。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「梶取」の語注記は未記載にある。読み方は「(か)ん(ど)り」なのか「(か)ん(と)り」なのか、その清濁についてはこの資料からでは明確にはできない。古版『庭訓徃来註』では、

楫取(カントリ)ハ舟ノ艪ニテ。カヂヲアツカフ者ナリ。〔廿八ウ一〕

とあって、標記語を「楫取」とし、その読みを「かんとり」と清音で示し、この語に対する語注記は、「舟の艪にて、かぢをあつかふ者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

楫取(かんとり)▲水主楫取。舟の舮(ろ)をおす者を水主といふ。かぢをとるものをかん取といふ。〔廿三ウ六〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

楫取(かんとり)楫取ハ船中(せんちう)にて楫(かち)をあやとる者。〔十九ウ一〕

楫取(かんとり)楫取ハ船(せん)中にて楫(かぢ)をあやとる者。〔三五オ四〕

とある。

 当代の『日葡辞書』には、

Candori.カンドリ(楫取・) 舵を取る人,すなわち,舵を操作する人.〔邦訳89l〕

とあって、ここでは読みを「かんどり」と第三拍めを濁音表記している。

[ことばの実際]

 文選呉都賦云。〓〔木+竹高〕工和名知止利。《十卷本和名類聚抄』卷二11オ九》

2001年8月21日(火)曇り午後雨(台風11号の影響)。出雲

「水主(かこ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部と「須」部に、

舟人(カコ/フナウト)。舟子(同)。水手 (同)。〔元亀本97二〕  水手 (―シユ)。〔元亀本359四〕

舟人(カコ)。舟子(同)。水手 (同)。〔静嘉堂本121三・四〕   水手 (―シユ)。〔静嘉堂本437三〕

舟人(カコ)。舟子(同)。水手。〔天正十七年本上59ウ五〕      ×

舟人(カツコ)。舟子(同)。水手 (同)。〔西來寺本172六〜173一〕 ×

とあって、和語読みの「かこ」に標記語「舟人」「舟子」、そして「水手」を並列し、字音読みの「スイシユ」に標記語「水手」を収載し、その語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「水主」と見え、『下學集』は、

水手(スイシユ)。〔人倫門41一〕

とあって、『庭訓徃來』にみえる標記語「水主」は未記載にある。ここで、注目しておくことは、字音読み「スイシュ」に対する漢字表記「主」と「手」とが字形相似にあることである。このあたりに、『下學集』編者の最初に伝統ある「手」の表記に戻したところから、『庭訓徃來』から古辞書へとの標記語の相違が発生していることになるのである。次の広本節用集』にはこの両標記語とも未收載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においては、

水主(カコ) 。 (カントリ)同。〔・人倫77二〕 水手(スイシユ) 或作推手(同)。〔・人倫門268六〕

水主(カコ) 舟。(カントリ)舟。〔・人倫76七〕 水手(スイシユ) 又推手。〔・人倫230一〕

水主(カコ) 舟。(カンドリ)舟。〔・人倫69五〕 水手(スイシユ) 又推手。〔・人倫216一〕

水主(カコ) 舟。(カントリ)舟。〔・人倫82七〕 ×

とあって、和語読み「かこ」で標記語を「水主」として語注記に「舟」といい、字音読みの「スイシユ」で、標記語を「水手」として、こちらは弘治二年本「或作○○」型で、後の二本は「又○○」型による別表記「推手」を示している。いわば、伝統性と実用性の板ばさみが見て取れよう。また、易林本節用集』になると、

水主(カコ) 舟人。〔人倫238六〕 水主(スイシユ) 楫取(カンドリ)。〔人倫238六〕

とあって、和語読み「かこ」の語注記には「舟人」といい、字音読み「スイシユ」の語注記には「楫取」というように、『下學集』の「スイシュ」の表記を再び武家社会における実用度の高い『庭訓徃來』の標記語に戻したという点において編纂者の姿勢をここに評価できるものとなっている。増刊節用集』(広島大学藏)にも、

水主(カコ) 舟人。(カントリ)同上。〔人倫上26ウ六〕 

とあって、こちらは和語読みの「かこ」のみを収載し、「かんとり」の語を次に排列し、注記に「同上」としている。他の古辞書では、『塵芥』に、

水主(カコ)。〔人倫門110二〕 水手(スイシユ)。〔人倫門438四〕

水手(フナコ/カコ) 舩子。〔人倫門266八〕

とあって、標記語を「水主」として和語読み「かこ」、標記語を「水手」として字音読みの「スイシユ」とあって、それぞれの語注記は未記載にする。また、「布」部に、「ふなこ」の読みで標記語「水手」が見え、その左訓には「かこ」とあって、辞書全体からの統一表記の揺れそのものを露呈している。語注記は「舩子」と読みに見合う表記字が記載されている。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「水主」で「かこ」と「スイシユ」の語は未記載にある。

 このように、古辞書のなかで人倫門における「水主」の標記語は、継承編纂の過程でいえば『下學集』で文字表記が正規の文字表記「水手」に置換され、これを基点に字音読みの「スイシュ」を正規の表記「水手」で扱い、和語読みの「かこ」を実用性の表記「水主」で取り扱うといったちぐはぐな編集が『節用集』類で起こっていたことになる。そうした、『節用集』類にあって、広本節用集』だけがこの語を未採録にしたことは意味のある除去作業であった可能性がここに出てくるのである。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「水主」の語注記は未記載にある。読み方も字音読みで「スイシユ」なのか、和語読みで「かこ」なのかこの資料からでは明確ではない。古版『庭訓徃来註』では、

水主(スイシユ)ハ舩子ノ頭(カシラ)ヲ云也。〔廿八ウ一〕

とあって、標記語を「水主」とし、その読みを字音で「スイシユ」という。この語に対する語注記は、「舩子の頭(カシラ)を云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

水主(かこ)水主舟の舮(ろ)をおす者を水主といふ。かぢをとるものをかん取といふ。〔廿三ウ六〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

水主(かこ)水主ハ舟(ふね)をはたらく者舟子(ふなこ)也。〔廿オ一〕

水主(かこ)水主ハ舟(ふね)をはたらく者舟子也。〔三五オ四〕

とあって、この標記語の語注記は『庭訓徃來捷注』にはなく、『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に「舩持・舩主の類なるべし」とさほど明瞭とはいえない注記に尽きているが、江戸時代にはこれで了解の域にあったのであろう。

 当代の『日葡辞書』には、

Caco.カコ(水主) Funaxu(船衆)に同じ.水夫.〔邦訳74l〕

Suixu.スイシュ(水手) 水夫,あるいは,船人.〔邦訳587l〕

とあって、ここでも実用性の表記で和語読み「かこ」と、正規性の表記で字音読みの「スイシユ」の両用であることが知られる。ただし、邦訳日葡辞書』が字音「スイシュ」を古辞書に遵い、「水手」の漢字をもって宛てていることから、いままでこの両者の表記形態について論考及び説明がなく、聊か判り難いものであったことをここで指摘しておきたい。今後、この上記継承過程からして、易林本節用集』の編者夢梅がとった伝統ある正規の表記より当代の文字表記の実用性を最大限に示そうとした編纂姿勢に辞書の担う実用生活に基軸する社会志向とでもいえる編纂意識について新たな評価をなすべきである。

[ことばの実際]

舟子(フナコ)水手(カコ)。《名古屋市博物館藏『和名類聚抄』永禄九(1566)年書写・微賎類第廿二12ウ二》

又は敦賀にてかかへ度候間、給金の御手当に金子拾五両拝借仕度と申候得ば、水主(かこ)何人のつまりと被申候故、十七枚引の船にて御座候へば、船頭供七人と思ひ候へ共、船によりて八人も乗り候と申候へば吉左衛門殿も尤もに被思召、左様なれば壱人前の給金何程と被仰候故、切出しは無御座候荷物と存候間壱人前大坂上下金子弐両と致候。《『川渡甚太夫一代記』卷三・安政六(1859)年成立》

2001年8月20日(月)晴れ一時曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)⇒出雲へ

「廻舩人(クワイセンニン)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、えんにょうの「廻」の字を冠頭語とする標記語は「廻文」と「廻廊」の二語を収載するのみであって、標記語「廻舩人」、そして「廻舩」の語も未收載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「廻舩人」と見え、『下學集』は、やはり未收載にある。広本節用集』は、

廻舩(クワイせン/カヘル・メグル,フネ)[平・平]。〔態藝門536五〕

とあって、人倫門に「廻舩人」の語は未收載するが、態藝門にこの「廻舩」の語を収載する。語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においても、標記語にえんにょうの「廻」の字を冠頭語とする語は、「廻録(クワイロク)。―李(リ)。―覧(ラン)。―雪(せツ)舞也」〔・言語162一〕、「廻録(クワイロク)―李(リ)。―雪(せツ)舞也。―監(ラン)」〔・言語131七〕、「廻李(クワイリ)―雪舞也。―覧」〔・言語120九〕、「廻李(クワイリ)」〔・言語146八〕とあるにとどまり、「廻舩」そして、「廻舩人」の語も未收載にある。

・財宝233一〕〔・財宝194一〕

また、易林本節用集』では、標記語にえんにょうの「廻」の字を冠頭語とする語は未收載にある。増刊節用集』(広島大学藏)にも、「廻」の字を冠頭語とする語は、「廻文(クワイブン)」〔・言語上53ウ六〕の一語のみで、「廻舩」そして、「廻舩人」の語は未收載にある。

他の古辞書では、『塵芥』に、

回舩(クワイせン)。〔態藝門222一〕

とあって、標記語をえんにょうを書かない「回」の字で「回舩」とし、同じく語注記を未記載にする。そして「廻舩人」の語は未收載にある。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「廻舩」そして、「廻舩人」の語は未收載にある。

 このように、古辞書のなかで人倫門における「廻舩人」の標記語は未採録であり、態藝門の「廻舩」という標記語も広本節用集』のみにあり、これを「回舩」として『塵芥』が収載するに過ぎないことがわかる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「廻舩人」の語注記は未記載にある。読み方では静嘉堂本に左和訓で「ふのうど」が目に付く。古版『庭訓徃来註』では、

廻舩人(クハイセンニン)ハ舟ヲ以テ商賣(シヤウバイ)ヲスルモノナリ。〔廿八オ八〜廿八ウ一〕

とあって、標記語を「廻舩人」とし、その読みを「クハイセンニン」という。この語に対する語注記は、「舟をもって商売をするものなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

廻舩人(くわいせんにん)廻舩人。〔廿三ウ六〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

廻舩人(くわいせんにん)廻舩人ハ舩持(ふなもち)舩主(ふなぬし)の類(るい)なるべし。〔十九ウ〕

廻舩人(くわいせんにん)廻舩人ハ舩持(ふなもち)舩主(―ぬし)の類(るい)なるべし。〔三五オ四〕

とあって、この標記語の語注記は『庭訓徃來捷注』にはなく、『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に「舩持・舩主の類なるべし」とさほど明瞭とはいえない注記に尽きているが、江戸時代にはこれで了解の域にあったのであろう。

 当代の『日葡辞書』には、

Quaixen.クヮィセン(廻船) 商人の大船,または,普通の船.〔邦訳517r〕

とあって、その船の語は見えているが、これを管理し運行させる人、すなわち、静嘉堂本の云う「ふのうど」についての語は未收載にある。

[関連のことば] 2001年7月18日付の「クヮィセン廻船】」の語を参照。

[ことばの実際]

2001年8月19日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「蓑賣(みのうり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「美」部に、

(ミノ)。〓〔艸+衣〕() 俗用。〔元亀本303一〕

(ミノ)。〓〔竹+衣〕() 俗用之。〔静嘉堂本353一〕

とあって、標記語を元亀本は「」、静嘉堂本は「」とその略字表記の元亀本はくさかんむりに衣の字、静嘉堂本はたけかんむりに衣の字でこの語が収載され、これを商う「蓑賣」の語は未收載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「蓑賣」と見え、『下學集』は、

(ミノ) 雨(コロモ)也。日本俗作也。〔器財門112七〕

とあって、器財門に「」とその品物を収載し、語注記に「雨の衣なり。日本の(世)俗簔に作す」とし、これを商う職業である『庭訓徃來』の標記語「蓑賣」の語はやはり未收載にある。広本節用集』は、「蓑賣」は無論こと、その品物である「」の語も未收載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、

(ミノ) 又〓〔艸+衣〕。〔・財宝233一〕〔・財宝194一〕

(ミノ) 又。〔・財宝183七〕

とあって、標記語「」の字で収載し、語注記に「又○」と略字乃至「蓑」字を示している。また、易林本節用集』、増刊節用集』(広島大学藏)にも、

(ミノ)。〔・器財200二〕〔・器財下18ウ一〕

とあって、器財門に標記語「」が収載され、語注記は未記載であり、これを売り歩く人、「蓑賣」の語は未收載にある。他の古辞書では、『塵芥』に、

(ミノ)。〔器財門369三〕

とあって、標記語を「」とし、同じく語注記を未記載にする。そして「蓑賣」の語は未收載にある。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

()蘓和反。ミノ。禦雨草衣也。〓〔艸+衣〕同。俗用之。〔雑物・下63ウ三〕

ミノ。禦雨草衣也。〓〔艸+衣〕同。俗用之。〔雑物・卷九79二・三〕

とあって、「」の語を示していて、『節用集』類そして『運歩色葉集』はこの標記語を継承することがわかる。だが、「雨を禦ぐ草衣なり」という語注記は継承されていないのである。そして「蓑賣」の語は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「蓑賣」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

蓑賣(ミノウリ)是レ註ニ不及。〔廿八オ七・八〕

とあって、標記語を「蓑賣」とし、その読みを「みのうり」という。この語に対する語注記は、「是れ注に及ばず」といたってそっけない説明である。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

蓑賣(ミのうり)蓑賣。〔廿三ウ六〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

蓑賣(ミのうり)。〔十九ウ〕〔三四ウ〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみにとどまるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』には、

†Minouri.ミノウリ(蓑売り) 日本で用いられるある種の雨合羽を売る人.〔邦訳408l〕

Mino. ミノ(蓑) 雨合羽.§Minouo qiru.(蓑を着る)日本の雨合羽をつける,あるいは,着用する.⇒Matoi,o>.〔邦訳407r〕

とあって、日本製の雨合羽を売る人とあり、その品物についても記載が見えている。因みに天草版落葉集』には、「蓑賣」は未収載にする。

[ことばの実際]

2001年8月18日(土)晴れ。河津⇒三島⇒東京(八王子)

「笠張・傘張(かさはり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、「笠」を冠頭語とする標記語としては、「笠懸・笠験・笠璽」〔元亀本95三〕の三語を収載するにとどまり、標記語「笠張」の語は未收載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「笠張」と見え、『下學集』は、

笠張(カサハリ)。〔人倫門41一〕

とあって、人倫門に『庭訓徃來』に従い標記語「笠張」で、読みを「かさはり」として記載し、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

傘張(カサハリ/サンチヤウ)[上・去]。〔人倫門260六〕

とあって、『庭訓徃來』⇒『下學集』と異なる標記語「傘張」にして収載し、語注記を未記載とする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においても、

傘張(カサハリ)。〔・人倫77三〕〔・人倫76八〕〔・人倫69六〕〔・人倫82八〕

とあって、広本節用集』における標記語「傘張」として収載し、いずれも語注記は未記載にある。また、易林本節用集』、増刊節用集』(広島大学藏)に、

傘張(カサハリ)。〔・人倫71五〕

傘張(カサハリ)。〔・人倫上26ウ六,上27オ四〕

とあって、標記語「傘張」が収載されている。ここでは、増刊節用集』(広島大学藏)がこの標記語を何故か重複させていることである。「紙漉・壁塗・傘張(カサハリ)・鍛冶」という排列と「強盗―黨傘張(カサハリ)・好士」という排列の前後関係からして、別種の資料からの取り込み状況がこの重複という未整理な編纂形態をとどめているのではあるまいか。両語とも語注記は未記載にある。他の古辞書では、『塵芥』に、

傘張(カサハリ)。〔人倫門上53ウ五〕

とあって、同じく語注記を未記載にするがこの職人としての「傘張」を収載している。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「笠張」・「傘張」のいずれの語も未収載にある。『下學集』から『節用集』への編纂継承のなかにあって、この「かさはり」の語は「笠張」から「傘張」へとその表記が移行したことが知られる。前者の「笠」は、人が頭に付けて雨や日差しから守るものであり、後者の「傘」は、人が手に持ち雨や日差しを防ぐものである。この差異がちょうど、この室町時代の応仁の乱を境目として表出してきたのではあるまいか。しかしながら、下記の『狂言記』に見える表記用例から見るに、まだその区別の程は明確ではなかったようでもある。「かさ」は「かさ」でもその品物自体が変化を遂げていくことには変わりない前出した三卷本色葉字類抄十巻本伊呂波字類抄』に、

(カサ)。同。〓〔艸+圍〕―。〔上81ウ一〕

(カサ)。同。〔卷三214四〕

とあって、頭に付けて雨や日差を防ぐ「かさ」が用いられていたことが理会できよう。しかし、手に持つ「傘」はここには存在しない。仏教装飾品の「天蓋」がヒントとなっていても、これを考案する邦人はいなかったのである。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「笠張」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

笠張(カサハリ)ノ事都(ミヤコ)ニ僧アリ。大学匠(シヤウ)ナリ。唐舩(タウせン)ノ渡(ワタリ)シ時便船(ビンせン)シ。入唐(ニツタウ)シテ唐笠(カラカサ)ヲ見テ。日本ニ帰朝(テウ)シテ。シ始シナリ。僧ノ名ヲバ不知。〔廿八オ七・八〕

とあって、標記語を「笠張」とし、その読みを「かさはり」という。この語に対する語注記は、都の大学匠の僧、唐舩が日本に渡来した折、便船して唐の國へ赴き、そこで唐笠なるものを見て、これを日本に戻ってから真似て作り始めたというその語の起源を説明するものである。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

傘張(かさはり)傘張。〔廿三ウ五〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

傘張(かさはり)。〔十九ウ〕〔三四オ〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみにとどまるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』には、

†Casafari.カサハリ(傘張) 日傘や雨傘などを作る職人.※原文はsombreros de sol,chuua.〔Casa(笠・傘)の注〕〔邦訳104r〕

とあって、日傘・雨傘を作る職人として收載している。因みに天草版落葉集』には、「傘張」は未収載にする。

[ことばの実際]

祐善と申す傘はりの候ひしが、いかにも下手にて、終にかさを張死にせられて候。《虎寛本狂言集『祐善』》

「さん候、あれはいにしへ此所に祐善と申笠張(かさはり)の候へしが、笠を張死(はりじ)ににしられ候、則是成が祐善がやどりにて候、お僧も逆縁ながら弔ふてお通り候へ。《『狂言記拾遺』卷二・新大系496下二》

2001年8月17日(金)晴れ。 暑き夏 蝉も力増す この陽差し

「唐紙師(からかみシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、標記語を「唐紙師」の語は未收載にある。そして、「多」部に、

唐紙(タウシ)。〔元亀本139二〕

唐紙(―シ)。〔静嘉堂本148一〕

唐紙(―シ)。〔天正十七年本中5ウ八〕

とあって、標記語を字音表記した器財としての「唐紙」で収載する。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「唐紙師」と見え、『下學集』は、

唐紙(タウシ/カラカミ)。〔器財門119七〕

とあって、器財門に標記語を「唐紙」で、読みを「タウシ/からかみ」と字音読みと和語読み両用記載し、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

唐紙(カラカミ/タウシ)[平・去]。〔器財門270五〕

唐紙(タウシ/カラカミ)[平・上]。〔器財門341八〕

とあって、『下學集』と同じく標記語「唐紙」にして「加」部と「タ」部に収載し、いずれも語注記を未記載にし、『庭訓徃來』の「唐紙師」は未収載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においても、「太」部に、

唐紙(タウシ)。〔・財宝105一〕〔・財宝93七〕〔・財宝85六〕〔・財宝103五〕

紙名(カミナ) 楮肉(チヨニク)。楮先生(センジヤウ)(ゼントウ)。鴉青(アセイ)。白麻(ハクマ)。魚網(キヨマウ)唐紙(タウシ)。引合(ヒキアワセ)。檀紙(ダンシ)。杉原(スキハラ)。鳥子(トリノコ)。内曇(ウチクモリ)。薄樣(ウスヤウ)。厚紙(アツカミ)。色紙(シキシ)。修善寺(シユゼンジ)。〔・財宝84八〕

とあって、『下學集』⇒広本節用集』における字音読み「タウシ」の標記語「唐紙」として収載する。その他、弘治二年本に標記語「紙名」の語群として「唐紙」が示されている。また、易林本節用集』に、

唐紙師(カラカミシ)。〔人倫71二〕

とあって、易林本節用集』人倫門にはじめて、職人としての「唐紙師」が収載されているのである。増刊節用集』(広島大学藏)には、「唐紙(タウシ)」「唐紙(カラカミ)」「唐紙師(カラカミシ)」いずれの語も標記語として未收載にある。他の古辞書では、『塵芥』に、

唐紙師(カラカミシ)。〔人倫門上53ウ五〕

とあって、同じく語注記を未記載にするがこの職人としての「唐紙師」を収載している。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には未収載だが、十巻本伊呂波字類抄』には、

唐紙(カラカミ)。〔卷三214四〕

とあって、その成立の時代差をここに捉えることができる。まだ「唐紙師」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「唐紙師」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

唐紙師(カラカミシ)紙漉(カミスキ)ナンドモ。今逸(ハヤ)ル者也。中ニモ紙ト云事。三國ニアル也。佛ノ代ニハ。ナシ。多羅樹(タラジユ)ノ葉ヲ用ル也。其後紙ヲ漉(スク)事。天竺魔訶婆委(マカハイ)ト云シ人。スキ始給也。是ハ國ノ王也。太唐ニハ。毘波多(ヒハタ)ト云人ノ。スキ始シ也。日本ニテハ。記私(キシ)ト云人漉(スキ)始シ也。其ヨリ前ニハ。木札(キフダ)ニ書テ。文(フミ)ヲ人ニ遣(ツカハ)ス也。其ヨリ御札トハ云ナリ。〔廿八オ五〜七〕

とあって、標記語を「唐紙師」とし、その読みを「からかみシ」という。この語に対する語注記は、「紙漉」を主とするが、両語の共通する注記説明として「今はやる者なり」としている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

唐紙師(からかミ―)唐紙師。〔廿三ウ五〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

唐紙師(からかミし)唐紙師(おそ)らくハ屏風張(ひやうふはり)の類(たくひ)をいふにや。昔(むかし)唐土(もろこし)より鳥襷(とりたすき)の紋絹(もんきぬ)にて張(はり)たる屏風を日本へ渡せしことありてより今も屏風の裏紙(うらかミ)に鳥襷乃紋(もん)を押(おほし)すとかや。今俗(そく)に臥間障子(ふすましやうし)を唐紙(からかミ)といふも此事によるなるへし。〔十九ウ八〕

唐紙師(からかミし)唐紙師ハ恐(おそ)らくハ屏風張(ひやうぶはり)の類(たくひ)をいふにや。昔(むかし)唐土(もろこし)より鳥襷(たすき)の紋絹(もんきぬ)にて張(はり)たる屏風を日本へ渡せしことありてより今も屏風の裏紙(うらかミ)に鳥襷(とりたすき)の紋(もん)を押(おほ)すとかや。今俗(そく)に臥間障子(ふすましやうし)を唐紙(からかミ)といふも此事によるなるべし。〔三五オ二〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみにとどまるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』には、

Caracami.カラカミ(唐紙) ダマスク織〔綾織〕のような色や文様のついた紙.〔邦訳99r〕

To<xi.タウシ(唐紙) Taito<no cami.(大唐の紙) シナの紙.〔邦訳672r〕

†Caracamixi.カラカミシ(唐紙師) ダマスク織〔綾織〕風の紙〔唐紙〕を作る職人.〔邦訳99r〕

とあって、ここでは標記語「唐紙」とそれを製造する「唐紙師」の両方とも收載している。因みに天草版落葉集』には、「唐紙(からかミ)」〔140七〕を収載するにとどまる。

 已上、『庭訓徃來』に見える「唐紙師」は、室町時代にあって、もっともその仕事が注目される時代、すなわち、応仁の乱(応仁元(1467)〜文明九(1477)年)以降になって、戦乱で灰燼赤土と化した都の文化を取り戻すべく、地方から多くの人々が再び戻り、その作業も隆盛を極めていくなかで、易林本節用集』そして、大伴広公の『温故知新書』(1484年成立)や清原宣賢の『塵芥』(1510年成立)などの古辞書にも登載されていくのであるまいか。その推測の延長線でしかないが、広本節用集』は「唐紙師」を未収載にする。それはこの大都戦乱のさなか、都を離れた安穏な地で編纂がなされていたことを示唆しているのではないかと私は考えている。その素材である紙は字音読み「タウシ」と和語読み「からかみ」と読むのだが、その作り手である「唐紙師」は、混種読みの「からかみシ」と読むのである。

[ことばの実際]

師ノ字ヲ用ル事ハ法師ナル故歟。佛師經師唐紙師ナント云男ヲハ塗士(ヌツシ)蒔繪士檜物士ナント云也。《『〓〔土+蓋〕嚢鈔』巻二15》

2001年8月16日(木)曇り。

「紙漉(かみすき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、標記語を「紙漉」の語は未收載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「紙漉」と見え、『下學集』も、

紙漉(カミスキ)。〔人倫門41二〕

とあって、人倫門に標記語を「紙漉」で語注記は未記載にする。広本節用集』は、

紙漉(カミスキ, ロク)[上・去]。〔人倫門260六〕

とあって、『庭訓徃來』⇒『下學集』の標記語「紙漉」で語注記は未記載にする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においても、

紙漉(カミスキ) 職人。〔・人倫77六〕

紙漉(カミスキ) 。〔・人倫83三〕

とあって、弘治二年本両足院本だけが『庭訓徃來』⇒『下學集』⇒広本節用集』と同じく標記語を「紙漉」とし、それにはじめて弘治二年本に語注記「職人」が示されている。そして他写本は『運歩色葉集』と同様に標記語「紙漉」を未收載にするというように、この語の収載、未收載により編纂状況が二区分されるのである。また、易林本節用集』や増刊節用集』(広島大学藏)には、

紙漉(カミスキ)。〔・人倫71二〕〔・人倫上26ウ六〕

とあって、易林本増刊節用集』とは、標記語を「紙漉」とし、語注記は未記載にする。古辞書では、『塵芥』に、

紙漉(カミスキ)。〔人倫門上53ウ三〕

とあって、語注記を未記載にする。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「紙漉」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「紙漉」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

唐紙師(カラカミシ)紙漉(カミスキ)ナンドモ。今逸(ハヤ)ル者也。中ニモ紙ト云事。三國ニアル也。佛ノ代ニハ。ナシ。多羅樹(タラジユ)ノ葉ヲ用ル也。其後紙ヲ漉(スク)事。天竺魔訶婆委(マカハイ)ト云シ人。スキ始給也。是ハ國ノ王也。太唐ニハ。毘波多(ヒハタ)ト云人ノ。スキ始シ也。日本ニテハ。記私(キシ)ト云人漉(スキ)始シ也。其ヨリ前ニハ。木札(キフダ)ニ書テ。文(フミ)ヲ人ニ遣(ツカハ)ス也。其ヨリ御札トハ云ナリ。〔廿八オ五〜七〕

とあって、標記語を「紙漉」とし、その読みを「かみすき」という。この語に対する語注記は、「唐紙師」と伴わせて「今はやる者なり」とし、とりわけ「紙」についてその歴史を天竺・中国・日本の三国世界をもって、それぞれの人物名を記載し、詳細に記述するものである。古辞書では「紙」について語注記するなかで、広本節用集』に、

(カミ)釋名曰、砥也。謂平滑砥石也。古者以。長短随之。名曰幡紙。故其字従。至後漢元興中蔡倫(サイテ)‖故布擣打作。又其字従巾。或云、倫擣(フルキ)魚網。名網帋也。 革弥(カミ)。竿弥(カミ)合紀異名、烏絲(ウシ)。魚網(キヨ−)。楮先生。楮國公。楮國。楮地。楮生。楮夫子。楮葉。楮老。鴉青紙。藤。溪藤。好時侯。方潔。蝋紙。白麻。白鷺。白雲。白萍。白雪。麻面。藤角。蔡根。金花。雲藍。素。聖板。金牋。魚牋。楮老。鶴髪。玉板紙。小紙。黄麻。楮尾紙。紙尾。轂屑。周越。奴。青江紙。蜀麻。綉衣。木膚。高又。麥光。縹紅。竹帛。藤皮。兼納。魚牋。亘繭。金花牋。染翰。代簡。蔡倫。紅牋。香牋。宣細。花牋。如破。擣花。〔器財門270五〕

とあって、典拠を「釋名」に基づき、「砥なり。謂ふに、平たく滑らかな砥石のごときなり。古くは〓〔糸+兼〕帛をもって書に依る。長短、亊に随ひてこれを載する。名を幡紙と曰ふ。故に其の字絲に従ふ。後漢の元興中に至る。蔡倫故布を坐(サイ)て擣打し帋に作す。又、其の字巾に従ふ。或は云ふ、倫故(フル)き魚網を擣ちて帋に作す。網帋と名づくなり」と説明し、紙の漢字表記を二語示した後に、異名語群六十二語を掲載する。うち、「魚牋」の語は重複していて、六十一語となる。この内容は、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』に、

()カミ。又乍帋。魚網白麻蔡倫。同。同。正字〔上81オ八〕

カミ。蔡倫作也。古乍帋。已上同。〔卷三214三〕

と同じ系統にある。だが、上記の古版『庭訓徃来註』の説明内容はこれとは出典を異にするものであり、その意味からも上記説明の典拠を今後明らかにせねばなるまい。

時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

紙漉(かミすき)紙漉。〔廿三ウ五〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

紙漉(かミすき)紙漉。〔十九オ七〕〔三四オ二〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみにとどまるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』には、この標記語「紙漉」は未收載にある。因みに天草版落葉集』も未收載である。

[ことばの実際]

女房ノ性ハ,ウマレテツキ,シワウミチレナイ者ソ。吾ト紙ヲスイタヤウ,紙スキニ本ヲヤツテ,スカセタヤウ,セハウチサイ紙ヲハ,薛濤箋ト云タソ。《『玉塵抄』卷三十六「箋」十二.叡山文庫藏100下左九》

2001年8月15日(水)曇り。

「蒔畫師・蒔繪師(まきヱシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「滿」部に、

蒔繪師(マキエシ)。〔元亀本209三〕

蒔繪師(マキヱシ)。〔静嘉堂本238六〕

蒔繪師(マキエシ)。〔天正十七年本中48ウ三〕

とあって、標記語を「蒔繪師」とし、その読みを元亀本・天正十七年は「まきエシ」とし、静嘉堂本は「まきヱシ」とする。語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「蒔畫師」と見え、『下學集』も、

蒔畫師(マキエシ)。〔人倫門39五〕

とし、人倫門で標記語を「蒔畫師」と『庭訓徃來』の標記語で示し、語注記は未記載にする。広本節用集』は、

蒔繪師(マキヱ,クワイ,モロ/\・ヲシヱ)[去・去・平]職人(シヨクニン)。〔人倫門568三〕

とあって、『庭訓徃來』⇒『下學集』の標記語である「蒔畫師」ではなく、標記語を「蒔繪師」と示し、語注記は単に「職人」とある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、

蒔繪師(マキヱシ) 職人。〔・人倫169一〕

蒔繪師(マキエシ) 職人。〔・人倫139一〕

蒔畫師(マキエシ) 職人。〔・人倫128一〕

とあって、弘治二年本永祿二年本は、広本節用集』と同じく標記語を「蒔繪師」とし、その語注記も「職人」と示し、尭空本だけが『庭訓徃來』⇒『下學集』の標記語である「蒔畫師」をもって記載している。また、易林本節用集』や増刊節用集』(広島大学藏)には、

蒔畫師(マキヱシ)。〔易・人倫139六〕

蒔繪師(マキヱシ) 。〔増・人倫上57オ六〕

とあって、易林本が標記語を「蒔畫師」とし、語注記は未記載にするのに対し、増刊節用集』は、標記語「蒔繪師」とし、いずれも語注記を未記載にする。古辞書では、『塵芥』に、

蒔繪師(マキエシ) 。〔人倫門246四〕

とあって、『運歩色葉集』と同じく、語注記を未記載にする。このように、古辞書における「まきヱシ」の収載は、当代の職人として見えていて、その標記語が「蒔畫師」と「蒔繪師」の両用であることが知られるのである。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「蒔畫師」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「蒔畫師」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

檜物師(ヒモノシ)轆轤師(ロクロシ)塗師(ヌリシ)蒔繪師(マキエシ)等今般ノ職人ナリ。〔廿八オ四・五〕

とあって、標記語を「蒔繪師」とし、その読みを「まきヱシ」という。この語に対する語注記は、この前の「檜物師・轆轤師・塗師」と伴わせて「今般の職人なり」としている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

蒔絵師(まきゑし)蒔絵師。粉金具なとにて手箱様のものへ繪を置細工人なり。〔廿三ウ四・五〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

蒔絵師(まきゑし)。〔十九ウ〕〔三四ウ〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみに留まるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』に、

Maqiyexi.マキエシ(蒔絵師) 金粉を使って絵を描いたり,彩色したりする人.〔邦訳386l〕

とあって、その作業工程に金粉を用いることを示している。

[ことばの実際]

廿六日 甲申 將軍家、日來仰畫工、於京都被圖將門合戰繪、今日到來、掃部頭入道、所調進也二十箇巻、納蒔繪櫃、殊御自愛〈云云〉。《読み下し文》廿六日甲申 将軍家、日来畫工に仰せ、京都に於いて将門合戦の繪を図せられ、今日到来す。掃部の頭入道が調え進ずる所なり。二十箇巻、蒔絵の櫃に納る。殊に御自愛すと。《『吾妻鏡』建仁四年十一月》

師ノ字ヲ用ル事ハ法師ナル故歟。佛師經師唐紙師ナント云男ヲハ塗士(ヌツシ)蒔繪士檜物士ナント云也。《『〓〔土+蓋〕嚢鈔』巻二15》

2001年8月14日(火)晴れ。東京(八王子)⇒駿河小山

「塗師(ぬつシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「路」部に、

塗師(ヌツジ)。〔元亀本75二〕

塗師(ヌツシ)。〔静嘉堂本91二〕

塗師(ヌツシ)。〔天正十七年本上45ウ二〕

塗師(ヌツシ)。〔西來寺本135六〕

とあって、標記語を「塗師」とし、その読みを元亀本は「ぬつジ」と第三拍めを濁るのに対し、他三本は「ぬつシ」と清音で表記する。語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「塗師」と見え、『下學集』も、

塗師(ヌツシ) 漆人(ウルシヒト)。〔人倫門39五〕

とし、人倫門で標記語を「塗師」と示し、語注記は「うるしびと【漆人】」という。広本節用集』は、

塗士(ヌツ/ミチ・ヌル,サブライ)[去・上]又作塗師。職人。〔人倫門200八〕

とあって、これも人倫門に標記語を「塗士」と示し、語注記に「又作○○」形式により、『下學集』の標記語である「塗師」の語を示し、さらに「職人」と記載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においても、

塗士(ヌツシ) 職人。〔・人倫59四〕

塗士(ヌツシ) 士或師。〔・人倫60五〕〔・人倫63三〕

塗士(ヌシ) 或師。〔・人倫55一〕

とあって、いずれも広本節用集』と同じく標記語を「塗士」とし、その語注記は弘治二年本が単に「職人」と示し、他三本は「士」と「師」の併表記についての説明となっている。また、易林本節用集』や増刊節用集』(広島大学藏)には、

塗師(ヌツシ) 師又作士。〔易・人倫58七〕

塗士(ヌツシ) 職人也。〔増・人倫上20ウ四〕

とあって、易林本が標記語を「塗師」とし、語注記には「○又作―」形式による別表記字「士」を示し、「塗士」とすることを示しているのに対し、増刊節用集』は、印度本系統の弘治二年本に共通する標記語「塗士」で語注記を「職人なり」とする。古辞書では、『塵芥』に、

塗師(ヌツシ) 。〔人倫門86二〕

とあって、『運歩色葉集』と同じく、語注記を未記載にする。他に古辞書では飯尾永祥の『撮壌集』に見えている。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「塗師」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「塗師」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

檜物師(ヒモノシ)轆轤師(ロクロシ)塗師(ヌリシ)蒔繪師(マキエシ)等今般ノ職人ナリ。〔廿八オ四・五〕

とあって、標記語を「塗師」とし、その読みを「ぬりシ」という。この語に対する語注記は、この前の「檜物師・轆轤師」と後の「蒔繪師」と伴わせて「今般の職人なり」としている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

塗師(ぬりし)塗師うるし細工人なり。〔廿三ウ四〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

塗師(ぬりし)塗師ハ漆(うるし)ぬり也。〔十九ウ八〕〔三五オ二〕

とあって、この標記語の語注記は「漆(うるし)細工人なり」または、「漆ぬりなり」という

 当代の『日葡辞書』に、

Nuxi.ヌシ(塗師) 漆(Vruxi)を使う塗物職人.〔邦訳478r〕

とあって、「漆を使う塗物細工の職人」という仕事をもってそれに従事する人として特定している。さらに、このあとに「塗師屋」なる語を収載する。

[ことばの実際]

師ノ字ヲ用ル事ハ法師ナル故歟。佛師經師唐紙師ナント云男ヲハ塗士(ヌツシ)蒔繪士檜物士ナント云也。《『〓〔土+蓋〕嚢鈔』巻二15》

塗師屋(ぬしや)「此辺(あた)りに住(す)塗師屋(ぬしや)じや、町へ参(まい)らふ、早漆(はやうるし)、日本一の早漆(はやうるし)/\。《狂言記・外五十番『早漆』新大系251一》

2001年8月13日(月)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「轆轤師(ロクロシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「路」部に、

轆轤(ロクロ)。〔元亀本22五〕

轆轤(ロクロ)。〔静嘉堂本19五〕

轆轤(ロクロ)。〔天正十七年本上10ウ五〕

轆轤(ロクロ)。〔西來寺本37四〕

とあって、標記語を「轆轤」と示し、「轆轤師」の語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「轆轤師」と見え、『下學集』も、

轆轤(ロクロ)。〔器財門118二〕

とし、人倫門ではなく器財門に標記語を「轆轤」と示し、語注記は未記載にある。広本節用集』は、

轆轤(ロクロ/―,ヱビラ)[入・平]鹿蘆。玉海。〔器財門45三〕

とあって、これも器財門に標記語を「轆轤」と示し、語注記に「鹿蘆。玉海」という別名を記載する。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』においても、

轆轤(ロクロ)。〔・財宝15七〕〔・財宝13六〕〔・財宝11九〕〔・財宝13五〕

とあって、いずれも標記語「轆轤」とし、人倫門には「轆轤師」を未收載にする。また、易林本節用集』や増刊節用集』(広島大学藏)には、

轆轤(ロクロ)。〔易・器財12七〕〔増・器財上5ウ六〕

とあって、いずれも器財としての「轆轤」を収載し、これを製作する職人としては記載していないことが理会できよう。古辞書では、『塵芥』に、

轆轤師(ロクロシ)。〔人倫門上9ウ一〕 轆轤(ロクロ)。〔器財門上10オ三〕

とあって、器財としての「轆轤」とその造り手である「轆轤師」がここには見えている。他に古辞書では飯尾永祥の『撮壌集』に見えている。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

轆轤(ロクロ)。〔雑物上14ウ四〕

轆轤。〔卷一雑物125三〕

とあって、標記語は見えているが、語注記はなく、さらに、「轆轤師」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「轆轤師」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

檜物師(ヒモノシ)轆轤師(ロクロシ)塗師(ヌリシ)蒔繪師(マキエシ)等今般ノ職人ナリ。〔廿八オ四・五〕

とあって、標記語を「轆轤師」とし、この語に対する語注記は、このこの前の「檜物師」と後の「塗師・蒔繪師」と伴わせて「今般の職人なり」としている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

轆轤師(ろくろし)轆轤師。茶入まる弁當(へんとう)様の物を作る者也。ろくろにて細工するゆへろくろしといふ。〔廿三ウ三〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

轆轤師(ろくろし)轆轤師ハ木椀(もくわん)木鉢(きばち)等を作(つく)る挽物師(ひきものし)也。〔十九ウ七〕

轆轤師(ろくろし)轆轤師ハ木椀(―わん)木鉢(―はち)等を作る挽物師(ひきものし)也。〔三五オ二〕

とあって、この標記語の語注記は、それぞれ異なり、「茶入・まる弁當(へんとう)様の物を作る者なり。轆轤にて細工するゆへろくろしといふ」のと「木椀木鉢等を作る挽物師なり」という細工物が異なっているが、時代と共に実際に多くの種類の物を手がけていたことが知られるのである。

 当代の『日葡辞書』に、

Rocuroxi.ロクロシ(轆轤師) 同上.〔邦訳540l〕

Rocuro fiqi. ロクロヒキ(轆轤挽き) 轆轤の職人,すなわち,轆轤師.〔邦訳539r〕

とあって、「轆轤の職人」という仕事をもってそれに従事する人として特定している。また、『日葡辞書』が示すように「ロクロひき【轆轤挽き】」という語が同じく用いられていたものと思われる。

[ことばの実際]

轆轤師どもヰて、御器ども同じ物して挽く。机たてて物食ふ。盤据ヱて、酒飮みなどす。これは、鑄物師の所。男ども集り、蹈鞴踏み、物のこ形鑄などす。《『宇津保物語』吹上》

御前の物、皆、妻の仕うまつり給フなれば、賄より始めて、女の仕うまつル沈の折敷廿、沈の轆轤挽の御坏ども、敷物、打敷心ばへ珍らかなリ。《『宇津保物語』吹上》

その日の御設、種松仕うまつれり。君達四所、國の守までに、紫檀の折敷廿、紫檀の轆轤挽の坏どもシテ、敷物、打敷〈心殊ナル錦綾ナリ。蘇芳ノ轆轤挽ノ坏据ヱテ二〉、御供の人の前毎に立てわたし、〈御〉土器始まり、御著下りて、守のぬし、少將にの給フ。《『宇津保物語』吹上》

2001年8月12日(日)曇り。東京(八王子)⇒町田

「檜物師(ひものシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「飛」部に、

檜皮師(ヒワタシ)。〔元亀本344四〕

檜皮師(ヒハダシ)。〔静嘉堂本413七〕

とあって、標記語を「檜皮師」と示し、読みも元亀本「ひわたシ」、静嘉堂本「ひはだシ」であり、「檜物師」の語は未収載にある。この「檜皮師」と「檜物師」とが同一のものかをこの調べのなかで確認しておく必要がある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「檜物師」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、この双方の語「檜皮師」と「檜物師」とを未收載にする。また、易林本節用集』や増刊節用集』(広島大学藏)には、

檜物師(ヒモノシ)。〔易・人倫222五〕〔増・人倫下28オ六〕

とあって、『庭訓徃來』の語を収載する古辞書もないわけではない。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「檜物師」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「檜物師」の語注記は未記載にあり、古版『庭訓徃来註』では、

檜物師(ヒモノシ)轆轤師(ロクロシ)塗師(ヌリシ)蒔繪師(マキエシ)等今般ノ職人ナリ。〔廿八オ四・五〕

とあって、標記語を「檜物師」とし、この語に対する語注記は、このあとの「轆轤師・塗師・蒔繪師」と伴わせて「今般の職人なり」としている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

桧物師(ひものし)桧物師木具まけ物なと作るものなり。〔廿三ウ三〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

桧物師(ひものし)桧物師ハ木具(きぐ)三方(さんばう)なと桧木(ひのき)細工(さいく)する者。〔十九ウ七〕

桧物師(ひものし)桧物師ハ木具(きく)三方なと桧木(ひのき)細工(さいく)する者。〔三五オ一〕

とあって、この標記語の語注記は「木具まげ物など作る者なり」と「木具三方など桧木細工する者」という。この「曲げ物」という総称なる品物の語から「三方」という角形の折敷という具体的な作り物へと提示が変わっていることがわかる。

 当代の『日葡辞書』に、

†Fimonoxi.ヒモノシ(檜物師) 木で円い箱や小箱〔曲げ物〕を作る職人.〔邦訳233l〕

とあって、「曲げ物を作る職人」という仕事の内容をもってそれに従事する人として特定している。

 このように、古辞書中に収載される「ひものし」だが、『下學集広本節用集』及び印度本系統の『節用集』は未收載としていて明らかだが、唯一、『運歩色葉集』だけが「檜皮師」を収載し、これについては、『日葡辞書』にも未收載であって、同等の職種かどうかを古辞書から指定し、断定することはむつかしいところである。だが、当代の古記録、古文書、文芸作品などをもって見ることで、この語が別種の職業人であることが理会できるのである。一字違いの別種職人であり、逆に『庭訓徃來』及び『庭訓徃来註』には、「檜皮師」の語は未收載ということである。

[ことばの実際]

宗藝得業申、長谷寺惣門上葺事、檜皮師可‖沙汰|由申入之歟、瓦大工申入。《『大乗院寺社雑事記』文明七年七月廿日》

檜物師のまぐるをも見よ人心しなへてこそは中まろくなれ。《『吾吟我集』卷第九》

2001年8月11日(土)曇り夜久々の雨。東京(八王子)⇒町田

「樵木(きこり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「記」部に、

(キコリ)。〔元亀本287九〕

(キコリ)。〔静嘉堂本333五〕

とあって、標記語を「」と単漢字で示し、熟語漢字「樵木」の語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「樵木」と見え、『下學集』も、

[] (キコリ)。〔人倫門41一〕

とあって、単漢字「[]」で示し、語注記は未記載にする。広本節用集』も、

(キコリ/せウ)[平] 又作樵夫。〔人倫門813二〕

とあって、標記語を『下學集』と同じく単漢字「」で示し、語注記に「又樵夫に作る」として熟語漢字「樵夫」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、

(キコリ/セウ)。樵夫(同)。〔・人倫217八〕

(キコリ) 又云樵夫。〔・人倫181九〕

(キコリ) 又云―夫。〔・人倫171六〕

とあって、広本節用集』と同じで標記語「」とし、弘治二年本は次に「樵夫」を併記し、永祿二年本尭空本とは、語注記に「又樵夫と云ふ」として熟語漢字「樵夫」の語を収載する。易林本節用集』は未收載にある。増刊節用集』(広島大学藏)は、

(キコリ)。〔人倫12オ一〕

とあって、『下學集』を継承し、語注記は未記載にある。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

樵木キコリ。上昨焦反。樵蘓同。素姑反。〔人倫・下46ウ五・六〕

樵木キコリ樵蘓樵丁采女式云。同キコリ。〔卷八495五〕

とあって、「樵木」の標記語を先頭にして「樵蘓」の語を添えている。そして、この「樵蘓」の語は『節用集』類には取り込まれないことも注意せねばなるまい。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼樵木檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシ/ボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕※「樵木」を「樵夫」と表記する。

とあって、「樵木」の語注記は未記載にあり、その読みについては、静嘉堂本庭訓徃來抄』古寫をもってすれば、「きこり」となる。この箇所を「樵夫」と表記し、古版『庭訓徃来註』にも、

樵夫(キコリ)トハ。木コリナリ。〔廿八オ四〕

とあって、標記語を「樵夫」とし、この語に対する語注記は、「木こりなり」とその和訓と同じことをいう。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

樵夫(きこり)炭焼樵夫。〔廿三ウ二〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

樵夫(きこり)。〔十九ウ〕〔三四ウ〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみに留まるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』に、

Qicori.キコリ(樵) 山林で薪を切る者.〔邦訳494r〕

とあって、「山林で薪を切る」という仕事の内容をもってそれに従事する人として特定している。

 このように、古辞書中に収載される「きこり」の表記は、単漢字「」を示し、広本節用集』及び印度本系統の『節用集』に「又作」や「又云」の語注記形式による熟語「樵夫」を収めている。作品資料中には、熟語「樵夫」を用いる傾向にある。

[ことばの実際]

其夜(ソノヨ)ハ椎柴垣(シヒシバガキ)ノ隙(ヒマ)アラハナル山ガツノ庵(イホリ)ニ、御(オン)枕ヲ傾(カタム)ケサセ給(タマヒ)テ、明(アク)レバ小原(ヲバラ)ヘト志(ココロザシ)テ、薪(タキギ)(オウ)タル山人(ヤマウド)ノ行逢(ユキアヒ)タルニ、道ノ樣(ヤウ)ヲ御尋(タヅネ)(アリ)ケルニ、心ナキ樵夫(キコリ)(マデ)モ、サスガ見知進(ミシリマヰラ)セテヤ在(アリ)ケン、薪(タキギ)ヲ下(オロ)シ地(チ)ニ跪(ヒザマヅイ)テ、「是(コレ)ヨリ小原(ヲバラ)ヘ御(オン)通リ候ハン道ニハ、玉木(タマギノ)庄司殿トテ、無貳(ムニ)ノ武家方(ブケカタ)ノ人ヲハシマシ候。此(コノ)人ヲ御語(カタラ)ヒ候ハデハ、イクラノ大勢(オホゼイ)ニテモ其(ソノ)前ヲバ御(オン)通リ候(サフラヒ)ヌト不覺候。恐(オソレ)アル申事(マウシゴト)ニテ候ヘ共(ドモ)、先(マ)ヅ人ヲ一二人御使(ツカヒ)ニ被遣候テ、彼(カノ)人ノ所存(シヨゾン)ヲモ被聞召候ヘカシ。」トゾ申(マウシ)ケル。《『太平記』卷第五・大塔宮熊野落事。大系一175十一》

2001年8月10日(金)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「炭焼(すみやき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「須」部に、標記語「炭斗(スミトリ)」と「炭竈(スミガマ)」のみで「炭焼」の語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「炭焼」と見え、『下學集』も、此語を未収載にする。広本節用集』も、「(スミ)」と「炭斗(スミトリ)」とは器財門にあるが、「炭焼」の語は未収載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』においても、広本節用集』と同じで標記語「(スミ)」と「炭斗(スミトリ)」の語のみで「炭焼」の語は未収載にある。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「炭焼」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、「炭焼」の語注記は未記載にあり、その読みについては、静嘉堂本庭訓徃來抄』古寫をもってすれば、「すみやき」となる。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

炭焼(スミヤキ)ハ。炭ヤキ。〔廿八オ四〕

とあって、この語に対する語注記は、「炭やき」とその和訓と同じことをいう。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

炭焼(すミやき)炭焼樵夫。〔廿三ウ二〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

炭焼(すミやき)。〔十九ウ〕〔三四ウ〕

とあって、この標記語の語注記はなく、単に標記語のみに留まるに過ぎない。

 当代の『日葡辞書』に、

Sumiyaqi.スミヤキ(炭焼) 木炭を作る人.〔邦訳588l〕

とあって、「木炭を作る」という仕事の内容をもってそれに従事する人として特定している。

 このように、「炭焼」なる語は、一般性における職業種を示す語として知られていても、これを収載しておく必要を有しなかったことばであり、その対象物である「」だとか、これを扱う「炭斗」「炭竈」だけが古辞書群に収載されるものであったことがわかる。

[ことばの実際]

すみたきとせんだくにんのこと.▽あるすみやき〔∫umiyaqiせんだくにんのもとにいってみれば,いえもひろぅ,ままもををいをみて,いかにあるじ,わ-がしゃくよぅしたいえわひざをいるるにもたらず,せばぅなんぎにをよべば,じひのうえからこのひとまをわれにをかしゃれといえば,あるじこたえてゆぅわ:をぅ-せわもっともなれども,わがみにとってわかないがたい:ゆえをいかにとゆぅに:みがひとなぬかのあい-だあらいきよみょぅほどのものをそなたのひとと-きめさりょぅことをもってけがさりょぅずれば,すこしのあいだもかなぅまじいと.▲したごころ.▽いいんしゃをともにしょぅひとわ,わるいものにとをざからずんば,かならずそのなも,そのとくもほろ-びょぅず.《天草版伊曽保物語』473九。角川文庫80頁》

2001年8月9日(木)曇り。東京(八王子)⇒

「牧士(まきシ・ボクジ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「滿」部に、標記語「牧狩」のみで「牧士」の語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「牧士」と見え、『下學集』も、此語を未収載にする。広本節用集』は、

牧士(ボクシ/ウシカウ,サブライ)[入・上]。〔人倫門96四〕

とあって、「牧士」の語は「ボクシ」と読み、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、標記語「牧童」の語のみで「牧士」の語は未収載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「牧士」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

199牧士(ホク―)炭焼檜物師轆轤師・(塗師)蒔畫師紙漉唐紙師笠張蓑賣廻舩人(ニン)水主梶取漁客海人(キヨカクノアマヒト)朱砂白粉(ヲシロイ)(ヤキ) 韓文(カン―)ニ白也。黛獄轣B〔謙堂文庫藏二一右H〕

牧士(マキシボクジ)炭焼(スミヤキ)樵夫(キコリ)檜物師(ヒ――)轆轤師(ロクロ―)塗師(ヌツ―)蒔畫師(マキ――)紙漉(―ミスキ)唐紙師笠張蓑賣(ミノ―リ)廻舩人(/フノウド)水主漁客(スノウト)海人(アマウド)朱砂(シユシヤ)白粉(―イモノ/ヲシロイ)燒 韓文(カ―)ニ白也。黛(タイ)ハ獄轣B〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫〕

牧士(ボクシ)―マキ奉行也。〔東洋文庫藏『庭訓之抄』徳本の人、書込み〕

とあって、「牧士」の語注記は未記載にあり、その読みについては、静嘉堂本庭訓徃來抄』古寫をもってすれば、混種語読み「まきシ」と漢語読み「ボクジ」の兩方の読みが見えている。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

牧士(ボクシ)ハ。クサカリナリ。〔廿八オ四〕

とあって、この語に対する語注記は、「くさかり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

牧士(ほくし)牧士。牧(まき)にて馬を飼付るものなり。〔廿三ウ二〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

牧士ハ牧(まき)にて牛馬(うしむま)を飼付(かひつく)る者也。〔十九ウ七〕

牧士ハ牧(まき)にて牛馬を飼付(かひつけ)る者也。〔三四ウ五〕

とあって、『庭訓徃來捷注』では、飼い付けの対象を馬に限っているが、『庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃來講釈』とは、牛馬としている。

 当代の『日葡辞書』に、

Bocuji.ボクジ(牧士) Vxico<votoco.(牧ふ士) 牛やその他の家畜の牧人.⇒次条. 〔邦訳59r〕

†Bocuji.ボクジ(牧士) 馬の草刈を務めとするような,下賤な奴僕.〔邦訳59r〕

とあって、職種としては身分の低い人ではあるが、記載すべき事項であった。そして、「まきシ」という混種語読みは未收載で、「ボクジ」の読みに拠る収載だけである。

[ことばの実際]

十九日△庚午△小笠原ノ御牧ノ牧士(ボクシ)ト、奉行人三浦ノ平六兵衛ノ尉義村ガ代官ト、喧嘩ノ事有リ。今日沙汰ヲ経ラル、此ノ如キ地下職人ニ対シ、奉行ト称シテ、恣ニ張行セシムルノ間、動スレバ喧嘩ニ及ブ。偏ニ公平ヲ忘ルルガ致ス所ナリ。早ク義村ガ奉行ヲ改ムベキノ由、仰セ出サレ、佐原ノ太郎兵衛ノ尉ヲ付ケラルト〈云云〉。《読み下し文》十九日 庚午 小笠原の御牧の牧士と、奉行人三浦の平六兵衛の尉義村が代官と喧嘩の事有り。今日沙汰を経らる、此の如き地下職人に対し、奉行と称して恣に張行せしむるの間、ややもすれば喧嘩に及ぶ。偏に公平を忘るるが致す所なり。早く義村が奉行を改むべきの由仰せ出され、佐原の太郎兵衛の尉を付けらる。《『吾妻鏡』建暦元(1211)年辛未五月》

2001年8月8日(水)曇り。東京⇒世田谷(三軒茶屋・駒沢)

「綾織(あやをり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「安」部に、標記語「綾織」は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「綾織」と見え、『下學集』も、未収載にある。広本節用集』は、

―(綾)(アヤヲル/シヨク)[○・入]。〔態藝門768一〕

とあって、「綾織」の語は見えているが、「」と返り点式の逆熟となっていて、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、未収載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「綾」は見えるが「綾織」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

とあって、「綾織」の語注記は未記載にある。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

綾織(アヤヲリ)ト云事是又用ノ物也。惣シテ。衣裳(イシヤウ)ニ紋(モン)ヲ織(ヲ)ル事。アヤ織ノ態(ワザ)也。然ニ帝(ミカド)ノ御衣(キヨイ)ニ紋(モン)ヲ織(ヲル)子細アリ。正月ヨリ。十二月至テ。三十六重ノ御衣ヲ織(オル)。一月ニ三宛(アテ)ニ配(クハツ)テ。三十六也。十日ヅヽメス也。正月一日ヨリ十日マデ被(ルヽ)∨(メサ)御衣ヲバ。子ノ日ノ衣トデ。小松ヲ織初(ハジ)ム。青(アヲ)シ中旬(ジユン)ニ召(メ)ス。御衣ヲバ。若菜(ワカナ)ノ御衣トテ。七草ヲ織。小袖紫(ムラサキ)ナリ。下旬ニハ。霞ノ衣トテ空(ソラ)色ニ織ル白シ。如此十二月ヲ注(シル)シ織也。又后(キサキ)ノ御衣ノ事月ニ。一ツ宛(ツヽ)也。都合(ツカウ)十二重(カサネ)也。爰ヲ以テ十二一重(ヱ)トハ申也。一重(ヱ)ト云事。五月五日菖蒲(シヤウブ)ヲ織(ヲリ)タル御衣一重(ヱ)餘ル也。都合十二重也。又君ガミケシノ衣ヤ著(キ)ツラント。古キ歌ニ有。ミケシトハ三十六ノ衣ノ事也。伊勢物語ニ有ベシ。惣シテ綾織(アヤヲリ)ハ。目出度者也。〔廿三オ四〕

とあって、この語に対する語注記は、『伊勢物語』第十六段の歌「これやこのあまの羽衣むべしこそ君がみけしとたてまつりけれ」を引用する語注記である。因みに、『伊勢物語闕疑抄』上に、「ミけしは御衣(ヲンゾ)也。日本紀には衣裳と出たり」とし、『伊勢物語抄』上には、「御けしハ上衣也。御衣也」とし、『伊勢物語拾穂抄』一には、「君がミけしハ御影(ミケシ)也。日本紀には衣裳(ミケシ)と有けり。《中略》一説ニ天子乃御衣をみくしげどのより奉るごとく、業平よりしたてまつらせたる衣ぞと云也。愚案此義にてハ君がミけしハ天子の御衣そとの心なり。是九條禅閤(ゼンカフ)の御説にて、三体詩ニ尚衣正翠雲(スイウン)(カハゴロモ)といふをひきて、君がミけしといふと乃字此哥の肝心と云々。兩説所好によるへきかと師説也」と記す。(古注釈資料については、奈良女子大学附属図書館藏伊勢物語古注釈画像デ―タ集を参照)。ここには、古版『庭訓徃来註』の云う「ミケシトハ三十六ノ衣ノ事也」は見えていない。さらなる、『伊勢物語』古注釈を考えねばならない。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

綾織(あやおり)綾織又織物とも云。〔廿三オ八〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

綾織ハ今の織物師(おりものし)也。〔十九ウ六〕〔三四ウ五〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

†Ayauori.アヤオリ(綾織) Aya(綾)と呼ばれるある種の織物を織る人.〔邦訳43r〕

とあって、職人でいう織物師としていている。

[ことばの実際]

ワキ「不思議の事を聞くものかな。それは昔の君が代に。唐国よりも渡されし。詞「綾織二人の人なるが。今現在に現れ給ふは。何といひたる事やらん。《謡曲集『呉服』》

2001年8月7日(火)曇り。東京(八王子)⇒虎ノ門(文化庁分館)

「染殿(そめどの)

 「染殿」は、室町時代の古辞書『下學集』『節用集』『運歩色葉集』には未収載であり、2001年12月1日付「染殿后」で取り上げた「染殿后」の語でしか確認できないものである。また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』にも、未収載の語である。古くは、宮中貴族・豪族の邸内、そして、寺社などにあって、絲や布を染料で染めるための施設を指していたが、鎌倉時代になると一つの部局名となり、さらに室町時代では、そのなかで働く染物職人を呼称するものとなっていたようである。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

とあって、「染殿」の語注記は未記載にある。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

染殿(ソメドノ)ト云事。又前ハ藍(アイ)計ニテ著(キ)ル物ヲソメシガ、後ハ紅(クレ)ナイナントニテ。ソムルナリ。〔廿三オ四〕

とあって、この語に対する語注記は、「――と云ふ事。又、前は藍(アイ)計ばかりにて着る物をそめしが、後は紅ないなんどにて、そむるなり」という具合に、「染殿」そのものを注釈せずして、その染め物の染料である「藍」そして、「紅」への移行を説明するものである。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

染殿(そめとの)染殿今云茶染(ちやそめ)紅染屋(もみそめ)や也。〔廿三オ八〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

染殿ハ今いふ茶染(ちやそめ)紅染屋(べにそめや)のるい。〔十九ウ五〕〔三四ウ四〕

とある。江戸時代になると、「茶染屋」「紅染屋」などと「屋」の字で表現する職業となっていく。

 当代の『日葡辞書』に、

‡Somedono.ソメドノ(染殿) 染物師の敬称.⇒Co>ya.〔邦訳572l〕

とあって、職人である染物師を呼称する時の敬称表現としている。

[ことばの実際]

廿八日。庚戌。武藏國染殿別當事、被仰付安房上野局系所別當事、近瀬局奉之〈云云〉《読み下し文》廿八日庚戌。武蔵の国染殿の別當の事は、女房の上野の局に仰せ付けらる。糸所の別當の事は、近衛の局これを承る。《『吾妻鏡』建久六(1195)年七月》

2001年8月6日(月)曇り。東京(八王子)⇒南大沢

「紺掻(コウカキ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に、

紺掻(―カキ)紺。〔元亀本231一〕

紺掻(コウカギ)。〔静嘉堂本265一〕

紺掻(―カキ)。〔天正十七年本中61オ八〕

とあって、標記語「紺掻」の読みを静嘉堂本は「こうかぎ」と第四拍めを濁音表記する。そして語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「紺掻」と見え、『下學集』に、

紺掻(コンカキ)。〔人倫門39五〕

とあって、「紺掻」の語注記は未記載にする。広本節用集』は、この語を未收載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

紺掻(コウカキ)職人。〔・人倫186三〕※「紺」の字の偏をゴンベンに作る。

紺掻(コウカキ)職人。〔・人倫152六〕

紺掻(コフカキ)。〔・人倫142五〕

とあって、弘治二年本永祿二年本には、「職人」という語注記が見えている。尭空本は読みを「こふかき」とし、語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、

紺掻(コンカキ)。〔人倫154四〕黒本・『伊京集』・天正十七年本饅頭屋本,塵芥もこれに同じ。

とあって、標記語を「紺掻」として語注記は未記載とする。そのなかで、岡田希雄旧蔵本(人倫75ウ六)・大谷大学本(人倫67二)・枳園本(人倫105ウ三)・経亮本(人倫221四)・新寫永禄五年本(人倫157七)・天正十八年本節用集』や増刊節用集』(人倫上64オ六)には「職人」の語注記が見えていて、いずれの古辞書も人倫門に収載しており、『下學集』の位置付けを継承するものである。ただ、広本節用集』がこの語を欠くことが注目され、また、印度本系統の弘治二年本永祿二年本に「職人」という語注記がなされていることが時のなかで辞書享受者の理会度の差を物語っているのかもしれない。この点で、広本節用集』編者の視点が語注記を新たに増補して添えているか否かの基準値は実に重要である。しかし、ここにはその形跡すら測ることが出来ないのである。いま、『節用集』全般とはいかないにしても、この「職人」という語注記の付加するか付加しないかを考察することによって、『節用集』の経緯の一端が伺えるともいえよう。 

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

紺掻。〔黒川本疉字門・〕

紺掻。〔卷第八疉字・〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

とあって、「紺掻」の語注記は未記載にある。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

紺掻(コンカキ)ノ事。今ノ世ニ有也。起(ヲコ)リハ奥州(ワウシユウ)信夫(シノブ)ト云処ニ。一人侍アリ。都ヘ上リ。大宅(ヲホヤケ)ノ事ニ。ツカフマツルニ依テ。暇(イトマ)ヲ得ズ。年月ヲ送ルホドニ。故郷ヘ下ル事。カキ絶(タヘ)タリ。彼ガ妻ノ女遠(トヲ)キ都ノ住(スマヒ)ヲオモヒヤリ。男(ヲトコ)ヲ戀(コウ)ル終日(ヒメモス)ニ泣暮(ナキクラ)シ。ヨモスガラ泣(ナキ)明ス。此涙(ナンダ)次第ニ凝(コヽツ)テ紅(クレナヒ)ニ成テコボレケル。白キ袷(アハせ)小袖(コソテ)ニ懸(カヽ)リテ。染色(ソメイロ)ニナリ。又併摺(ヘイシユ)ノ如シ。是ヲ其国ノ人見移(ウツ)シ。賢(カシコ)キ者有テ。スリト云事ニ成人多(ヲ)ク著(キせ)キテンゲリ。次第ニマヌルホドニ。信夫(シノブ)ノ摺(スリ)ト云テ都マデ上ル也。陸奥(ミチノク)ノ。シノブ文字ズリ。タレ故ニ乱(ミダレ)(ソメ)ニシ。我ナラナクニ。ト云ル歌(ウタ)是也。其後世ノ人。カシコク成テ。摺(スリ)ト云ヨリタヨリテ。紺(コウ)ト云事ニナシヌ紋(モン)ト云フ物ヲホリ出シタリ。〔廿二ウ七〜廿三オ四〕

とあって、この語に対する語注記は、『伊勢物語』第一段の「初冠」を引用する語注記である。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

紺掻(こんかき)紺掻今云紺屋なり。〔廿三オ七〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

紺掻ハ今の紺屋(こんや)。〔十九ウ五〕〔三四ウ四〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Co>caqi.コウカキ(紺掻) 着物を一度に着色〔丸染め〕する染物師.〔邦訳134r〕

とあって、職人である染物師としていて、古辞書との意味内容は共通している。

[ことばの実際]

(これ)は年(とし)ごろ義朝(よしとも)の不便(ふびん)にしてめしつかはれける(こん)かきの男(おのこ)、年來(ねんらい)獄門(ごくもん)にかけられて、後世(ごせ)とぶらふ人もなかりし事(こと)をかなしんで時(とき)の大理(だいり)にあひ奉(たてまつ)り申給(たま)はりとりおろして、「兵衞佐殿(ひやうへのすけどの)流人(るにん)でおはすれども、すゑたのもしき人なり。もし世(よ)に出(いで)てたづねらるゝ事(こと)もこそあれ」とて、東山(ひンがしやま)圓覺寺(ゑんがくじ)といふところに、ふかうおさめてをきたりけるを、文覺(もんがく)聞出(きゝいだ)して、かの紺(こん)かき(おのこ)ともにあひ具(ぐ)して下(くだ)りけるとかや。《『平家物語』卷第十二・紺掻沙汰、大系下381十四・382四》頭注三三に、「あい色で布地を染めること。またそれを職業とする者」とある。

2001年8月5日(日)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「細工(サイク)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「佐」部に、

細工(サイク)。〔元亀本270八〕

細工(サイク)。〔静嘉堂本308七〕

とあって、標記語「細工」の語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「金銀銅細工」と見え、『下學集』に、

細工(サイク) 把(トル)者。〔態藝門83三〕

とあって、「細工」の語注記は「刀を把る者」という。広本節用集』では、

細工(サイク/せイコウ.ホソシ,タクム)[去・平] 把(トル)者也。〔態藝門801五〕

とあって、「細工」の語注記は、『下學集』の注記内容を継承するものである。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

細工(サイク)。〔・言語進退214二〕〔・言語178九〕〔・言語168一〕

とあって、三写本とも同じくして、語注記は未記載にある。また、易林本節用集』には、

細字(サイジ) ―工()。―細(サイ)。〔言辞181二〕

とあって、標記語を「細字」として、「細」の冠頭語の熟語群として収載し、語注記は未記載とする。 

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

細工 伎藝部。工匠ト。〔黒川本疉字門・下42ウ七〕

細工 々辛。々タン。々。〔卷第八疉字・445六〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

とあって、「細工」の語注記は未記載にある。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

金銀銅(ゴンゴンドウ)ノ細工(サイク)。是又珍敷(メヅラシ)キ事無。〔廿二ウ七〕

とあって、この語に対する語注は見受けられない。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

金銀銅細工 今はかざりやと云。〔廿三オ七〕

とし、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

▲金銀銅細工ハ今の餝職(かさりしよく)。〔十九ウ五〕〔三四ウ四〕

とあって、江戸時代になって総称される「餝職」すなわち、貴金属などを用いた細かな飾り物を作る職人を室町時代までは、単に「細工」と呼んでいたのである。

 当代の『日葡辞書』に、

Saicu.サイク(細工) Comacani tacumu.(細かに工む) 職人,または,手先の器用な人.⇒Qiqi,u;Teguiua.〔邦訳549r〕

とあって、手先を使う細かい作業そのものより、これに従事する人として説明するもので、本邦の古辞書である『下學集』や広本節用集』と意味内容を一にするものである。ただし、本邦古辞書では人倫門に収載するのではなく、態藝門に分類する語である。

[ことばの実際]

蓮花王院御領紀伊國由良庄官、可早停止銅細工字七條宗紀大妨事。右件御庄、停止彼細工之謀計、任院宣、領家可令知行庄務之状如件、以下。文治二年八月廿六日《読み下し文》蓮花王院の御領紀伊の国由良の庄官。早く銅細工字は七條の宗紀太が妨げを停止すべき事。右、件の御庄、彼の細工の謀計を停止し、院宣に任せ、領家庄務を知行せしむべきの状件の如し。以て下す。文治二年八月二十六日《『吾妻鏡』文治二(1186)年八月二十六日》

2001年8月4日(土)曇り。東京(八王子)⇒南大沢 世界陸上男子マラソン

「金・銀・銅(キン・ギン・ドウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、

金銀(―ギン)。〔元亀本283一〕

金銀(―ギン)。〔静嘉堂本323八〕

とあり、さらに「古」部、「志」部、「安」部に、

(コカネ)。〔元亀本241六〕     (シロカネ)。〔元亀本333八〕  (アカヾネ)。〔元亀本264二〕

(コガネ)。〔静嘉堂本278六〕    (シロカネ)。〔静嘉堂本397八〕 (アカヾネ)。〔静嘉堂本299八〕

(コカネ)。〔天正十七年本中68オ五〕 ×                  ×

とあって、それぞれこの「金銀銅」の標記語を和訓読みで収載する。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「金銀銅細工」と見え、『下學集』に、

(シロカネ)。〔器財103三〕 (アカヽネ)。〔器財103七〕

とあって、「(こがね)」の語は未收載にして、「」と「」を和訓読みで収載する。広本節用集』では、

金銀(キンギン/コガネ,シロカネ)[平・平]――珠玉。〔器財門816六〕

(コガネ/キン)[平] 財貨源云、流金銀銅鉄鉛(ヱン)(シヤク)之聡名。惟(タヽ)ナル者獨(タリ)(カ)。久?(ウツマシ)テ不為之生(コケ)ヲ。百錬スレトモ軽。於フニ(アラタムル)ニ/(カク)ニ。西方之行。獨以之。彼銀白金次之銅金又次之。鉄黒金。鉛青金。錫亦白金鑞(ラフ)也。又次之。釋名曰、金紫也。為進退之禁也。金名天成地ヨリ、生商聲易羲混天曰、金山海中及益州西域。又出於華山也。〔器財門662三〕

(シロカネ/ギン)[平] 周礼荊州其利銀也。尓雅曰、白金謂也。詳也。異名、丹巨。黄鴻。含膏。〔器財門924八〕

(アカヾネ/ドウ)[平]。〔器財門749五〕

とあって、「」「」には語注記が詳細に見え、「」は語注記を未記載としている。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

金紗(キンシヤ)―屏(ビヤウ)―銀(ギン)。―羅(ロ)。〔・184二〕

金襴(キンラン)―紗。―屏。―薄。―銀。―羅。―針。〔・173九〕

(コガネ)。〔・財宝188二〕 (シロカネ)。〔・財宝241八〕 (アカヽネ)。〔・財宝204四〕

×                 (シロカネ)。〔・財宝208一〕 (アカヽネ)。〔・財宝169八〕

×                 (シロカネ)。〔・財宝192二〕 (アカヽネ)。〔・財宝159五〕

とあって、漢語読みの「金銀」は、弘治二年本には未收載で、永祿二年本尭空本には「」を冠頭語にする熟語群の一語として収載されている。和訓読みでは、弘治二年本だけが「金銀銅」をすべて揃えるのに対し、永祿二年本尭空本は「」を未記載にして「銀銅」を収載する。また、易林本節用集』には、

金銀(キンギン)。〔器財188七〕 (コガネ/キン)。〔器財158四〕 (シロカネ)。〔器財210一〕 (アカヽネ)。〔器財171七〕

とあって、字音語としては「金銀」、和訓語として「金銀銅」のすべての語を収載する。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

(コン)失聲俗。四知。コカネ。居吟反。擲也。湯玉同。黄金也。〔黒川本雑物・下6オ二〕

コカネ。 扶桑畧曰、聖武天皇廿一年巳丑正月四日。黄金曰盪、陸奥國守従五位上百済王敬福進小田郡所出黄金九百兩本朝始出黄金時也。仍敬福授従三位之。金屑最有先也。太真仙方名之。金沙黄金美也。湯玉説文云、金之美与玉門色名也。已上同。―砌金餝也。〔卷第七雑物・136五〜137三〕

(キン,コン)上聲俗。鏤盤。シロカネ。語巾反。白金謂―。同。銀屑(シロカネ/スリクツ・ス)同。〔黒川本下72ウ二〕

シロカネ。白金曰―。尓雅云、白金曰銀其美謂之―。白銀陶景注云、銀名白銀。黄銀蘓敬注云、又有黄銀本屮不載。已上シロカネ。 本朝事始云、天武天皇白鳳三―三月對馬嶋始出銀。扶桑畧云、文武天皇五年自對馬嶋始貢銀。仍為大宝元―出銀郡司等授二階位并賜絲綿布鍬等。〔卷第九雑物・155一〕

(トウ)去声俗。アカヽネ。〔黒川本雑物・下26オ八〕

アカヽネ。去声俗。赤銅屑同。〔卷第八雑物・305四〕

とあって、その注記は十巻本においてさらに詳しいものとなっている。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

とあって、「金銀銅」の読みは「キンギンドヲ」と読み、語注記は未記載にある。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

金銀銅(ゴンゴンドウ)ノ細工(サイク)。是又珍敷(メヅラシ)キ事無。〔廿二ウ七〕

とあって、「金銀銅」の読みは、「ゴンゴンドウ」とあり、その語注記は、「是れ又、珍敷き事無し」とこれらの語について深く言及しようという姿勢は見受けられない。時代は降って、江戸時代の頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

▲金銀銅細工ハ今の餝職(かさりしよく)。〔十九ウ五〕〔三四ウ四〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Qinguin.キンギン(金銀) Cogane,xirocane.(金,銀)金と銀と.〔邦訳498l〕

Qinguin xuguiocu. キンギンシュギョク(金銀珠玉) Cogane,xirocane,tama.(金,銀,珠)金,銀,および,宝石.〔邦訳498l〕

Qin. キン(金) Cogane.(金) 黄金.例,Qinuo deini sute,tamauo fuchini xizzmetaruni vonaji.(金を泥に捨て,玉を淵に沈めたるに同じ)Taif.(太平記卷三十三.)それは,黄金を泥の中へ投げ捨て,宝石を淵に投げ込んだ人と同じようなものである.※太平記,三十三,公家武家栄枯易地事.〔497l〕

Cogane. コガネ(黄金) 金.⇒Cusari; Fun(粉);Xo<jin(正身).〔邦訳140l〕

Guin.ギン(銀) Xirocane(銀)に同じ.銀.〔邦訳298r〕

Xirocane.シロカネ(銀) 銀.〔邦訳779l〕

Acagane. アカガネ(銅) 銅.〔邦訳9r〕

とあって、字音読みの「キンギン」の読み、さらに「金」は字音読みと和訓読みで記載し、「銀」も同じくであり、「銅」は、和訓読みのみで収載する。

[ことばの実際]

五箇日逗留之處、衆徒蜂起之由、依風聞、伊豫守者、假山臥(フシ)之姿(スカタ)、逐電(チクテン)(ヲハ)于時、與(アタ)數多(アマタ)金銀(タグヒ)於我、付雜色男等、欲送京而彼男共取財寳、棄置于深峯雪中之間、如此迷來〈云云〉。《読み下し文》五箇日逗留するの処に、衆徒蜂起の由風聞するに依って、伊豫の守は山伏の姿を仮て逐電しをはんぬ。時に数多の金銀の類を我に與え、雑色男等を付け京に送らんと欲す。而るに男共財宝を取り、深き峯の雪の中に棄て置くの間、此の如く迷い来ると。《『吾妻鏡』文治元(1185)年十一月十七日丙申》

相摸(サガミ)入道此(コノ)事ヲ聞及(キキオヨ)ビ、新座(シンザ)・本座(ホンザ)ノ田樂(デンガク)ヲ呼下(ヨビクダ)シテ、日夜朝暮(ニチヤテウボ)ニ弄(モテアソブ)事無他事。入興(ジユキヨウ)ノ餘(アマリ)ニ、宗(ムネ)トノ大名達ニ田樂法師(デンガクボフシ)ヲ一人ヅヽ預(アヅケ)テ裝束(シヤウゾク)ヲ飾(カザ)ラセケル間、是(コレ)ハ誰ガシ殿(ドノ)ノ田樂、彼(カレハ)何ガシ殿(ドノ)ノ田樂ナンド云(イヒ)テ、金銀珠玉(キンギンシユギヨク)ヲ逞(タクマシク)シ綾羅錦繍(リヨウラキンシウ)ヲ妝(カザ)レリ。《『太平記』卷第五・相摸入道弄田樂〓闘犬事》

2001年8月3日(金)曇りのち晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

木道(きのみち、このみち、こわき)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部に「木枯.木密.木舞.木練.木傳.木取.木屋.木居.木立.木印・刻印.木玉・樹神.木屎」の十二語、「幾」部の零語、「毛」部に「木瓜.木目.木像.木賊.木綿」の五語で、この「木道」の標記語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「木道」と見え、『下學集』及び広本節用集』、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、この語は未收載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には、未收載である。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

木道 (コワキ/コノミチ)材木見知ル者也。又ハ木ワキ大工也。〔天理図書館藏『庭訓徃來』書込み〕

木道 (コノ)モチ山ヲガヒキ也。材木ヲ見知也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫書込み〕

木道 (キワキ)材木ヲ見知ノ義。〔国会図書館藏『左貫註庭訓徃來』書込み〕

とあって、「木道」の読みは「きのみち」「このみち」「こわき」「きわき」などと読み、語注記は未記載にある。ただ、真字注諸本に上記のような書込みが見えている。ここで共通している内容は、「材木を見知る者なり」ということであり、これらの職業にある彼らを「木わき大工」とか「もち山をがひき」と呼ぶことは諸本にて異なる。この箇所を古版『庭訓徃来註』には、

木道(コノミチ)ハ。杣(ソマ)人ノ棟梁(トウリヤウ)也。木ノ品(シナ)ヲ云也。此木ニハ板(イタ)何間(ナンゲン)有ベシ。クレ何(ナニ)ホト有ベキナンド見ニ違ザル者ナリ。〔廿二ウ六〕

とあって、「木道」の語注記は、「杣人の棟梁なり。木の品を云ふなり。此の木には板何間有るべし。くれ何ほど有るべきなんど見るに違ざる者なり」とかなり具象化して説明注記している。天理図書館藏庭訓私記』には、

ハ材木見知者。又太鋸引トモ云也。

という。時代は降って、江戸時代の頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

木道ハ也。〔十九ウ五〕〔三四ウ三〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

†Qiuaqi.キワキ(木分き)木挽き.下(X.)の語.〔邦訳510r〕

とあって、「きわき」の読みをもって収載する。

 このように、『庭訓徃來』に収載されている「木道」だが、『下學集』を頂点に据えた室町時代の古辞書群がすべて未記載にあることは、辞書編纂者の立場から見ると、この用語を辞書採録しないことすなわち、社会生活の上からもこのことば自体をあまり重要視していなかったものとみてとれるのである。ただ、連歌という場にあっては、この語を引用することがあった関係上か、これを注釈した資料を下記のように見出すことができるのである。

[ことばの実際]

きのみち にかはつけしたる物をうるものなり。きのみちつくる 番匠也。《『匠材集』卷第四》

木の道とは 番匠の道などとよめり。きの道のたくみ。《『言塵集』卷第四》

2001年8月2日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

巧匠(コウシヤウ&ギヨウ{ゲウ}シヤウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「古」部、「幾」部、「計」部にも、この標記語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「巧匠」と見え、『下學集』及び印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』、易林本節用集』には、この語は未收載にある。これを広本節用集』は「幾」部に、

巧匠(ギヨウシヤウ/タクミ,タクミ)[上・去]。〔態藝門831一〕

とあって、標記語「巧匠」の読みを「ギョウショウ」とし、語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には「古」部の疉字門に、

工匠 伎藝部。――ト。〔黒川本下9ウ四〕

工商(シヤウ) 々匠。〔卷七169一〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

197巧匠番匠木道 (コノ/キノ―)并金銀銅(キンギントヲ)ノ細工・紺掻(コウ―)染殿綾織蠶養 蠶支那ニハ員〓〔山+喬〕山有氷蠶|。霜雪之。作。長一尺織文錦|。溺、入火不燒也。〔謙堂文庫藏二一右E〕

「巧匠」――トハ上手ヲ云也。〔静嘉堂本『庭訓徃來抄』古寫書込み〕

――上手ヲ云也。〔国会図書館藏左貫注書込み〕

とあって、「巧匠」の語注記は未記載にある。ここを古版『庭訓徃来註』に、

巧匠(コウシヤウ)ハ。番匠(バンシヤウ)ノナカノ棟梁(トウリヤウ)ナリ。〔廿三ウ五〕

とあって、「巧匠」の語注記は、「鋳物師は番匠のなかの棟梁なり」という。時代は降って、江戸時代の頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

巧匠ハ今いふ大工(だいく)の棟梁(とうりやう)也。〔十九ウ五〕〔三四ウ三〕

とあって、「番匠」から「大工」へと注記語の置き換えが見られるが、意味内容は同じである。

 当代の『日葡辞書』に、

Gueo>xo<.ゲゥシャゥ(巧匠) Guio>xo<(巧匠)の条を見よ.〔邦訳296r〕

Guio>xo<.ギョゥシャゥ(巧匠) Tacumi,tacumu.(巧み,匠む)大工.文書語.〔邦訳302r〕

とあって、「ギョウショウ」と「ゲウショウ」という二通りの読み方の記載が見えている。同じくキリシタン版『落葉集』本文編「け」部にも、

巧匠(げうしやう/たくむ,たくむ)〔65五〕

とあって、「ゲウショウ」の読みをもって、収載が見られるのである。

 このように、「巧匠」は表記では、鎌倉時代の『色葉字類抄』にあって「工匠」と表記され、読みは「コウショウ」であったのが、室町時代の広本節用集』や『日葡辞書』にあっては、「巧匠」と表記し、「ギョウショウ」と読むものが、再び時代が降って江戸時代になると、『庭訓徃来』の諸注釈に見えるのは、「巧匠」と表記して「コウショウ」といった鎌倉時代の読み方に戻って行く現象をここに捉えることになる。さすれば、「ギョウショウ」の読み方はまさに室町時代ならではの読み方であり、鎌倉時代そして江戸時代の間に通用していた独特な読みくせであったことが見えてくるのである。ただし、下記に示すように、天草版平家物語』では、「co>xo<」(勉誠社文庫7上)とあり、鎌倉時代の語り物作品『平家物語』に見合う読みをもって記載するものもないわけではない。これを現代の国語辞書である小学館日本国語大辞典』第二版では、「コウショウ」の見出し語だけしか採用せず、「ギョウ(ゲウ)ショウ」の見出し語を採録していないことは聊か残念でもある。

[ことばの実際]

三月十三日。戊戌晴。將軍家、御參大佛殿爰陣和卿、爲宋朝來客、應和州巧匠(シヤウ)、凡厥拜慮遮那佛之修餝、殆可謂毘首羯摩之再誕、誠匪直也人歟。《読み下し文》三月十三日。戊戌。晴。将軍家大仏殿に御参り。ここに陳和卿は、宋朝の来客として、和州の巧匠に応じ、凡そその慮遮那佛の修餝を拝み、殆ど毘首羯摩の再誕と謂うべし。誠に直なる人に非ざるか。《『吾妻鏡』建久六(1195)年》

これをものに比するときんば、蠅驥(はひき)につくに異ならず。師ここにおいて予に示し給ふは、「工匠(こうしやう)の家屋を造らんと欲するには、まづ其の器(うつはもの)を利(と)くし、漁人(ぎよじん)の魚鱗(ぎよりん)を得んと思ふときんば、退いて網を結ぶにしくことなし。《天草版平家物語』讀誦の人に対して書す.3九》

[補足付記]この「巧匠」の項目は、2001年5月25日にも掲載しているが、再度ここにおいて新たにその読み方について検討を試みたものである。

2001年8月1日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

鋳物師(いものシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

鋳物師(イノモノシ)。〔元亀本15五〕

鋳物師(イモノシ)。〔静嘉堂本8八〕

鋳物師(イモノシ)。〔天正十七年本上6ウ二〕

鋳物師(イモノシ)。〔西来寺本〕

とあって、標記語「鋳物師」とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「鋳物師」と見え、『下學集』には、この語は未收載にある。これを広本節用集』は、

鋳物師(イモノチユウ,ブツ,モロ/\・ヲシユ)[去・入・平] 職人(シヨクニン)。〔人倫門7二〕

とあって、その語注記に「職人」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

鋳物師(イモノシ) 職人。〔・人倫4七〕〔・人倫2七〕〔・人倫3一〕〔・人倫3五〕

とあって、広本節用集』と同じく、語注記をすべて「職人」としている。また、易林本節用集』、増刊節用集』には、

鋳物師(イモノシ) 。〔人倫門2二〕

とあって、語注記は『運歩色葉集』と同じく未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』には人倫門に、

鋳師イモシ。〔黒川本上4ウ五〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

196通辻小路|、見世絹布之類、贄菓子有賣買之便相計招居(ヲク/―キスヘ)者、鍛冶鋳物師 鋳物師科註云、波斯匿王聞優填王佛雎像スルヲ|、即用、此鋳之始也。日本ニハ~武始也。〔謙堂文庫藏二一右B〕

鍛冶(カジ)・鋳物師(イ――) (イ)物師科註(クワ―) ニ、波斯匿王(ハシノトク―)イテ‖優填王(―テン―)ニ彫像(キサミカタトル/チヨウソウ)|、即用テ∨金鋳(イ)ル∨、此鋳物之始也。日本ニハ~武始也。〔静嘉堂本『庭訓往来抄』古寫〕

とあって、「鋳物師」とし、その語注記に「鋳物師科註に云く、波斯匿王、優填王に佛を雎像するを聞いて即ち金を用いて像を鋳す、此れ鋳の始まりなり。日本には~武より始るなり」という。ここを古版『庭訓徃来註』に、

鋳物師(イモノシ)ノ事是ハ。天竺(ヂク)ノ中毘舎利(ビシヤリ)國ト云ヨリ始リ三國ニ傳(ツタフ)ル也。今ノ善光寺ノ。如來ヲ鋳奉ル本説也。子細(シサイ)ハ縁起ニ是有ベシ。此抄ニ載(ノス)ル事如來ノ沙汰ハ丈ノ意ニ背(ソム)ケリ。佛ノ召出サレタリ。〔廿三ウ四〕

とあって、「鋳物師」の語注記は、「鋳物師のこと是は天竺の中毘舎利國と云ふより始り三國に傳るなり。今の善光寺の如來を鋳し奉る本説なり。子細は縁起に是れ有るべし。此抄に載すること如來の沙汰は丈の意に背けり。佛の召出されたり」という。時代は降って、江戸時代の頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』に、

鋳物師ハ金銅(かね)を鎔(わか)して器物(うつわもの)を造(つく)る者(もの)。〔十九オ四〕〔三四ウ三〕

とある。

 当代の『日葡辞書』に、

Imoji.l,imonoxe.イモジ,または,イモノセ(鋳物師.または,鋳物せ)鉄や青銅の器物を鋳造する人.〔邦訳333r〕

Imonoxe. イモノセ(鋳物せ) Imoji. (鋳物師)に同じ.上のその条を見よ.※これと同じ形が上のImoji条下にもを見える.また,節用集諸本(天正十八年本・饅頭屋本・易林本)には“鋳物師イモノシ”とあるが, ImonoxeImonoxiの転訛か. 〔邦訳333r〕

とあって、本邦の古辞書の読み方と若干異なりを見せている。

[ことばの実際]

六月十九日 庚辰 五大堂の洪鐘を鋳らる。而るに今日これを鋳損ず。奉行人周防の前司鋳物師を勘発せんと欲するの処に、陳じ申して云く、銅足らざるに依って此の如し。銅を加えらるべきかと。《『吾妻鏡』文暦二(1235)年》

 

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