2001年9月1日9月30日迄

 BACK(「ことばの溜め池」表紙へ)

 MAIN MENU

ことばの溜め池

ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。

2001年9月30日(日)曇り一時雨。兵庫県美方郡(村岡町ダブルフルマラソン)⇒福知山

「達者(タツシヤ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「多」部に、

達者(タツシヤ)。〔元亀本138二〕

達者(タツ―)。〔静嘉堂本146五〕

とあり、標記語として「達者」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「梵字漢字達者」とし、文明四年本は「梵字(ホンシ)漢字(カンシ)ノ達者(タツシヤ)」と見え、『下學集』には、「達者」の語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

達者(タツシヤ/イタル,モノ)[入・上]。〔態藝門357三〕

とあって、標記語として「達者」の語を収載し、語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

達者(タツシヤ)。〔・言語進退110二〕

とあって、弘治二年本だけに「達者」の語を収載し、他写本は未收載にする。さらに易林本節用集』には、

達者(タツシヤ)。〔言辞94三〕

とあって、標記語「達者」の語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「達者」の語は、

達者同(多言・多見)。タツシヤ。〔黒川本中10オ七〕

とあって、「達者」の語を収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

232梵字漢字達者 梵字天竺梵王製スル所也。日本ニハ慈惠書也。梵字廿二億漢字廿四億云々。〔謙堂文庫藏二六左E〕

とあって、「梵字漢字達者」のなかでその語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、

梵字(ボンジ)ハ。天竺(ヂク)ノ字ナリ。漢字(カンジ)達者ハ消息也。〔卅二ウ三〕

とあって、この標記語は「梵字」「漢字達者」として、「達者」の語注記は、やはり未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

梵字(ぼんじ)漢字(かんじ)の達者(たつしや)梵字漢字達者。〔廿五ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は「なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

梵字(ぼんじ)漢字(かんじ)の達者(たつしや)梵字漢字達者▲梵字ハ天竺(てんぢく)の字▲漢字ハ唐土(もろこし)の字古今(ここん)日本に通用(つうよう)する所也。▲達者ハ正月の進状(しんじやう)にみゆ。〔二十一ウ三〕

梵字(ぼんじ)漢字(かんじ)の達者(たつしや)梵字漢字達者▲梵字ハ天竺の字▲漢字ハ唐土(もろこし)の字古今日本に通用する所也。▲達者ハ正月の進状(しんじやう)にミゆ。〔三十八オ三〕

とあって、標記語「梵字漢字達者」の語注記は「▲梵字ハ天竺の字▲漢字ハ唐土(もろこし)の字古今日本に通用する所也。▲達者ハ正月の進状(しんじやう)にミゆ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「達者」の語は、

Taxxa.タッシャ(達者) Taxxita fito.(達した人)ある物事に熟達した人.例,Taxxa vomomuqiyo qirauazu.(達者趣を嫌はず)熟達した人は上等の道具を求めず,多くの器財をも求めない.§Michino taxxa.(道の達者)ある技芸に堪能な人,あるいは,完璧な人.※毛吹草,二.⇒Ichido<(一道);Ido<;Reo>yo<.〔邦訳619r〕

とあって、三語すべてを収載している。このうち「清書」は、和語で「きよがき」そして漢語で「セイジョ」と両用されていることも知られる。また、「手書」の語については、古辞書では注記説明がないものであったが、ここに「能書家」という。

[ことばの実際]

《『玉塵抄』卅五》

2001年9月29日(土)晴れ。兵庫県(美方群村岡町)大会前夜祭

「真字(マナ)」「假字(カナ)ノ能書(ノウシヨ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「滿」「賀」「能」部に、

真字(マナ)。實名(同)。〔元亀本206九〕真字(マナ)。實名(マナ)。〔静嘉堂本235二〕

假名(カリナ)。〔元亀本94五〕假名(―ナ)。〔静嘉堂本117四〕

能書(―シヨ)。〔元亀本186二〕〔静嘉堂本210一〕〔天正十七年本中〕

とあり、標記語として「真字」「假字」「能書」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「真字假名能書」とし、文明四年本は「真字(マナ)假字(カナ)ノ能書(ノウシヨ)」と見え、『下學集』には、「真字」「假字」「能書」の標記語は未收載にある。次に、広本節用集』には、

真字(マナ/シン・マコト,) [平・去]字形――。假名(カナ)。〔態藝門571四〕

能書(ノウシヨ/アタウ・ヨシ,カク) [平・平]。〔態藝門493二〕

とあって、標記語として「真字」「能書」の二語を収載し、語注記は「真字」に「字形真字。假名」という。標記語として「假字」「假名」の語は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

真字(マナ)字形。〔・言語進退171二〕〔・言語140二〕〔・言語129五〕

假字(カナ)日本ノ字ノ形。或作假名。〔・言語進退86一〕

假字(カナ)日本字形。或作假名。〔・言語83七〕

假名(カナ)日本字ノ形也。或作――字也。〔・言語75九〕

假名(カナ)日本字形也。或作假字也。〔・言語91四〕

能書(ノウジヨ)―藝(ゲイ)。―治(ヂ)。―者(ジヤ)。〔・言語126四〕

能書(ノウシヨ)―藝。―治。―者。〔・言語115四〕

とあって、「真字」「假字」「能書」の三語を収載し、語注記は「假字」に「日本の字形」で「或作○○」の形式で「假名」字を示す。尭空本両足院本はこれを逆に示している。「能書」の語は弘治二年本だけが未收載にある。さらに易林本節用集』には、

真名(マナ)。〔器財140七〕

假名(カナ) 。〔言辞84三〕

能藝(ノウゲイ)―治(チ)。―書(ジヨ)。―筆(ヒツ)。―作(サ)。〔言辞123七〕

とあって、標記語「真字」「假字」「能書」の三語を収載し、語注記は未記載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「真字」「假字」「能書」の語は、未收載である。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

230真字 《省略》

231假字能書 假字四句シテ伊路波四十八傳教御作也云々。〔謙堂文庫藏二六左D〕

△真字假字弘法坊主言相字假伊路波仁保辺登迄作ラル。智利怒留ヨリ一トモ、弘法ノ造ラルヽ。亦弘法流与(ト)ノ傳教流トハ、伊路波ノ子細在リ。弘法ノ流ニハ京ノ字ナシ。傳教ノ見∨之。京ノ字ヲ添玉也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫冠頭注書き込み〕

とあって、「真字假字能書」のなかで謙堂文庫本の標記語は「清書」であり、静嘉堂本は「精書」を持ちいて表記に異なりが見える。その語注記は、「漢字倉頡始めて作るなり。鬼~夜な夜な哭す。我が悪行記され後に正されんと思して哭するなり」というのであり、『運歩色葉集』は標記語を「漢字」にしてこの語注記を収載していることについては既に述べている。では、それぞれの語についての注記説明はどうかといえば記述していないのである。古版『庭訓徃来註』では、

真字(マナ)ハ正字。假字(カナ)能書ハイロハ字ナリ。〔卅二ウ二・三〕

とあって、この標記語は「真字」「假字能書」として、語注記を「正字」と「イロハ字」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

真字(まな)假字(かな)の能書(のうしよ)真字假字能書。〔廿五ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は「なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

真名(まな)假名(かな)の能書(のうしよ)真名假名能書。▲真名ハ正書(せいしよ)也。真字(しん―)をいふ▲假名ハ草書(さうしよ)也。いろは文字を指す▲能書ハ手書(てかき)と同じよく物を書(か)く也。〔二十一オ五〕

真名(まな)假名(かな)の能書(のうしよ)真名假名能書。▲真名ハ正書(せいしよ)也。真字(しんじ)をいふ▲假名ハ草書(さうしよ)也。いろは文字を指(さ)す▲能書ハ手書(てかき)と同じよく物を書(か)くなり。〔三十七ウ二・三〕

とあって、標記語「真字假字能書」の語注記は「▲真名ハ正書(せいしよ)也。真字(しんじ)をいふ▲假名ハ草書(さうしよ)也。いろは文字を指(さ)す▲能書ハ手書(てかき)と同じよく物を書(か)くなり」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「真字」「假字」「能書」の三語は、

Mana.マナ(真字・真名) Xin(真),または,Xo>socu(消息)と呼ばれるある種の字体.〔邦訳382r〕

Cana..カナ (仮名・仮字) 日本の文字の一種.§Cananiyu.(仮名に言ふ)皆の人が分かるように,やさしく話す.⇒Manacana.〔邦訳86r〕

†No>xo.ノウシヨ(能書) 見事な文字.No>jo(能書)と言う方がまさる.⇒No>jo.〔邦訳474r〕

No>jo. ノウジョ(能書) すなわち,Yoi monocaqi.(能い物書き)上手な書家.⇒次条.〔邦訳470r〕

†No>jo. ノウジョ(能書) Yoqu caita mono. (能い書いたもの)すなわち,Yoqi ji.(能き字)見事な文字.⇒No>xo. 〔邦訳470r〕

とあって、三語すべてを収載している。このうち「能書」は、清濁で使われ「ノウショ」と「ノウジョ」とがあり、濁音読みの方が勝るという。

[ことばの実際]

2001年9月28日(金)晴れ。東京(八王子)⇒兵庫県(村岡町)

「清書(セイシヨ)草案(サウアン)手書(テカキ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「勢」「左」「天」部に、

清書(せイシヨ)。〔元亀本353四〕〔静嘉堂本428六〕

草案(―アン)。〔元亀本269九〕〔静嘉堂本307五〕

手書(―カキ)。〔元亀本244一〕〔静嘉堂本281四〕〔天正十七年本中69ウ三〕

とあり、標記語として「清書」「草案」「手書」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「清書草案手書」とし、文明四年本は「清書(せイシヨ)草案(サウアン)手書(テカキ)」と見え、『下學集』には、

清書(せイジヨ)。〔態藝門79七〕

草案(サウアン) 中書。〔態藝79七〕

とあり、標記語「草案」の語注記に「中書」という。「手書」の語は未収載にある。次に、広本節用集』には、

清書(せイシヨ/キヨシ,カク)[平・平中]。〔態藝門1116三〕

草案(サウアン/クサ,ヲシマヅキ・カンカウ) 文中書也。裨ェ(ヒシン)始也。〔態藝門787六〕

手書(テカキ/シユウ,シヨ)。〔態藝門729二〕

とあって、標記語として「清書」「草案」「手書」の三語を収載し、語注記は「草案」に『下學集』より詳しく「文の中書なり。裨ェの始めなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

清書(―ジヨ)。〔・言語進退265五〕

清潔(せイケツ)―簾(レン)―書(ジヨ)。〔・言語九〕清潔(せイケツ)―簾(レン)―書。〔・言語六〕

草案(サウアン) 文。〔・言語進退214五〕

草案(サウアン)―紙(シ)。―亭(テイ)。〔・言語178六〕草案(サウアン)―紙。―庵。―亭。〔・言語六〕

とあって、「清書」「草案」の語を収載し、「手書」の語は未收載にする。語注記は弘治二年本だけに「草案」の「文」のみである。さらに易林本節用集』には、

清潔(せイケツ)―書(ジヨ)草案(サウアン)。―談(ダン)。―話(ワ)。―撰(せン)。〔言辞236三〕

草創(サウサウ)―案(アン) 。〔言辞181一〕

とあって、標記語「清潔」の冠頭語である「清」の熟語群の最初に「清書草案」と記載する。これは『庭訓徃來』の語を継承するものであることが知られるものである。また「草案」の語も冠頭語「草」の熟語群として記載が見える。そして、「手書」の語は未收載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「清書」「草案」「手書」の語は、

草案。文章{書}ト〔黒川本下42ウ四〕

とあって、「草案」の語を収載するにとどまる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

230検断所務之沙汰人清書草案手書真字 漢字倉頡始作也。鬼~夜哭。我悪行記後ント正思ヘハ哭也云々。〔謙堂文庫藏二六左C〕

検断(ケン―)所務沙汰人精書(せイ―)艸案(―アン)手書(テカキ)真字(マナ) 漢字倉頡(ソウケツ)始作也。鬼~夜哭(コク)ス。我悪行被(シル)ントスル也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫〕真ハ衣冠正体。行ハ行体。草ハ人也。走行ノ也。〔同別筆書込み〕△真字假字弘法坊主言相字假伊路波仁保辺登迄作ラル。智利怒留ヨリ一トモ、弘法ノ造ラルヽ。亦弘法流与(ト)ノ傳教流トハ、伊路波ノ子細在リ。弘法ノ流ニハ京ノ字ナシ。傳教ノ見∨之。京ノ字ヲ添玉也。〔同冠頭注書き込み〕

とあって、「清書草案手書・真字」のなかで謙堂文庫本の標記語は「清書」であり、静嘉堂本は「精書」を持ちいて表記に異なりが見える。その語注記は、「漢字倉頡始めて作るなり。鬼~夜な夜な哭す。我が悪行記され後に正されんと思して哭するなり」というのであり、『運歩色葉集』は標記語を「漢字」にしてこの語注記を収載していることについては既に述べている。では、それぞれの語についての注記説明はどうかといえば記述していないのである。古版『庭訓徃来註』では、

清書(せイシヨ)草案(サウアン)手書(テガキ)是又文字ニ能々達シタル書手(カキテ)ナリ。〔卅二ウ二〕

とあって、この標記語は「清書草案手書」として、語注記を「これまた文字に能々達したる書き手なり」と収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

清書(せいしよ)草案(さうあん)の手書(てかき)清書草案手書。〔廿五ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は「なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

清書(せいしよ)草案(さうあん)の手書(てかき)清書草案手書。。〔二十一オ五〕

〔三十七ウ二・三〕

とあって、標記語「清書草案手書」の語注記は「」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「清書」「草案」「手書」の三語は、

Qiyogaqi.キヨガキ(清書) 文字の書き方を習う子どもが手書きしたもの.⇒Agueji;Xeijo.〔邦訳514l〕

Xeijo.セイジョ (清書) Qiyogaqika.(清書)に同じ.書いて師匠に見せるもの〔習字したもの〕§Xeijouo mixete nauosu.(清書を見せて直す)習字したものを見せて,それを修正する.⇒Agueji;Qiyogaqi.〔邦訳746l〕

So<an.サウアン(草案) Xitagaqi.(下書)ある書状とか書物とかの草稿や下書きであって、後で書き写されるはずのもの.例,So<anuo suru.(草案をする)この草稿や下書きをつくる.〔邦訳567l〕

Tecaqi.テカキ(手書) 能書家.〔邦訳641l〕

とあって、三語すべてを収載している。このうち「清書」は、和語で「きよがき」そして漢語で「セイジョ」と両用されていることも知られる。また、「手書」の語については、古辞書では注記説明がないものであったが、ここに「能書家」という。

[ことばの実際]

又賜兵衛尉、而讓息男久長之由、申之又御堂供養願文到著草式部大夫光範清書、右少辨定長也因播守廣元、於御前、讀申之〈云云〉《読み下し文》また御堂供養の願文到着す。草は式部の大夫光範、清書は右少弁定長なり。因幡の守廣元、御前に於いてこれを読み申す。《『吾妻鏡』文治元年十月二十一日》

八日己酉被奉御願書於伊勢太神宮、大夫屬入道善信献草案是爲四海泰平萬民豐樂也〈云云〉《読み下し文》御願書を伊勢の太神宮に奉らる。大夫屬入道善信草案を献ず。これ四海泰平万民豊楽の為なり。《『吾妻鏡』養和二年二月》

2001年9月27日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「検断(ケンダン)所務(シヨム)沙汰(サタ)ノ(ひと)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「氣」部に、

検断(ケンダン)。〔元亀本214二〕検断(ケンダ)。〔静嘉堂本243五〕検断(ケンタン)。〔天正十七年本中51オ四〕

所務(―ム)。〔元亀本309七〕  所務(――)。〔静嘉堂本361六〕

沙汰(―タ)。〔元亀本270十〕  沙汰(サタ)。〔静嘉堂本309三〕

とあり、標記語として「検断」「所務」「沙汰」の三語を収載し、語注記はいずれも未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「検断所務沙汰人」とし、文明四年本は「検断(ケンタン)所務(シヨム)ノ沙汰人(サタニン)」と見え、『下學集』には、

檢断(ケンダン) 。〔態藝門89二〕

とあるのみで、他の二語は未収載にある。次に、広本節用集』には、

檢断(ケンダン・コトワル/カンガウ,タツ)[○・去] 罪科用之。〔態藝門600三〕

所務(シヨ/トコロ・・ツカサ) 。〔態藝門89二〕[上・去]。〔態藝門932四〕

沙汰(サタ/イサゴ,アラウ・ユル)[平・去]文選曰沙。〔態藝門790六〕

とあって、標記語として「検断」「所務」「沙汰」の三語を収載し、語注記は「検断」に「罪科これに用ゆ」という。「沙汰」は「文選に曰く汰を沙で金を得」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

検断(ケンダン) 罪科在之。〔・言語進退175六・176五〕

検所(ケンシヨ)―断(ダン)。―納(ナウ)。―察(サツ)。―使(シ)。―知(チ)。―注。〔・言語143九〕

検所(ケンジヨ)―断。―納。―察。―使。―知。―注。〔・言語133六〕

所望(シヨマウ)―行(ギヤウ)。―職(シヨク)。―為(イ)。―課(クワ)。―勘(クワン)―務(ム)年貢。―帶(タイ)。―領(レウ)。―役(エキ)。―當(タウ)。―勞(ラウ)。―作(サ)。―詮(セン)。〔・言語進退245二〕

所職(シヨシヨク)―行。―為。―課。―望。―勘。―領。―務(ム)。―役。―當。―勞。―詮。―帶。―作。〔・言語210四〕

所職(シヨシヨク)―行。―為。―課。―望。―勘。―領。―務(ム)。―役。―當。―勞。―詮。―帶。―作。〔・言語194五〕

沙汰(サタ)。〔・言語進退214五〕〔・言語179三〕〔・言語168三〕

とあって、「検断」「所務」「沙汰」の三語を収載し、語注記は弘治二年本のに「検断」の「罪科在之」というのみである。さらに易林本節用集』には、

檢斷(ケンダン) ―使(シ)。―料(レウ)。―見(ミ)。〔言辞146二

沙汰(サタ)。〔言辞182四〕

とあって、上記の二語を収載し、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「検断」「所務」「沙汰人」の三語は未収載にある。ただの「沙汰」の語で

沙汰 公事ト。サタ。撰擇ト。〔黒川本下42オ二〕

とあるにとどまる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

230検断所務之沙汰人清書草案手書真字 漢字倉頡始作也。鬼~夜哭。我悪行記後ント正思ヘハ哭也云々。〔謙堂文庫藏二六左C〕

とあって、標記語「検断所務之沙汰人」の語注記は、「何れも悟道發明の僧なり」というのであって、それぞれの語についての注記説明は記述していない。古版『庭訓徃来註』では、

検断(ケンダン)所務(シヨム)ノ沙汰(サタ)ハ。物ノ品(シナ)ヲ能々糾明(キウメイ)シテ。所務(ム)スル人也。検断(ケンダン)ト書テ。サラヘタツトヨムナリ。〔卅二ウ一〕

とあって、この標記語は「検断所務沙汰人」として、語注記を「物の品を能々糾明して、所務する人なり。検断と書きて。さらへだつとよむなり」と収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

検断(けんだん)所務(しよむ)の沙汰人(さたにん)検断所務沙汰人事の捌(さばき)に馴(なれ)たる者也。検断沙汰の注は後に出す。所務の注は前にあり。〔廿五ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は「事の捌きに馴れたる者なり」として、「検断沙汰の注は後に出す。所務の注は前にあり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

検断(けんだん)所務(しよむ)の沙汰人(さたにん)検断所務沙汰人ハ事に臨(のそん)て理非(りひ)を検(かんが)へわかち明白(めいはく)に決断(けつたん)する者をいふ。〔二十一オ五〕

検断(けんだん)所務(しよむ)の沙汰人(さたにん)検断所務沙汰人ハ事に臨(のぞん)て理非(りひ)を検(かんが)へわかち明白(めいはく)に決断(けつたん)するをいふ。〔三十七ウ二・三〕

とあって、標記語「検断所務沙汰人」の語注記は「事に臨んで理非を検へわかち、明白に決断する者をいふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「検断」「所務」「沙汰人」の三語は、

Qendau.ケンダン(検断) 統治をし,裁判をする職.§Qendan suru.(検断する)首長・裁判長としての上述の役目を執り行なう.※原文はpresidente.〔邦訳485l〕

Xomu.シヨム(所務) 年貢の取立て.例,Xomu suru.(所務する)〔邦訳793r〕

Satanin.サタニン(沙汰人) Sata(沙汰)の条を見よ.{§Satanin(沙汰人)裁判官,すなわち,訴訟において〔原告・被告〕双方の言い分を聞く人.⇒Caqe,uru(懸け,くる).}〔邦訳560r〕

とあって、三語すべてを収載している。

[ことばの実際]

 

2001年9月26日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「引聲短聲聲明師(インセイタンセイのシヤウミヤウシ)・一念多念名僧(イチネンタネンのメイソウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

引声(―シヤウ)二月(ニクハツ)ヲ二月(ニンクハツ)ト云。〔元亀本11三〕〔静嘉堂本168二〕〔天正十七年本中15ウ四〕〔西来寺本〕

とあり、「引聲」「短聲」「聲明師」「一念」「多念」「名僧」の六語のうち標記語として「引声」のみを収載し、語注記は「二月(ニクハツ)を二月(ニンクハツ)と云ふ」という。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・山田俊雄藏本「引聲短聲々名師一念多念名僧」・経覺筆本・建部傳内本は「引聲短聲之聲明師一念多念之名僧」とし、文明四年本は「引聲(インセイ) 短聲(タンセイ)ノ之聲明師(シヤウミヤウシ)一念(ネン)多念(タネン)ノ之名僧(メイソウ)」と見え、『下學集』には、

聲明(シヤウミヤウ) 好音。〔態藝門88五〕

とあるのみで、この一連の語句は未収載にある。次に、広本節用集』には、

唱明(シヤウミヤウ/トナエ,メイ・アキラカナリ)或唱聲。非(ヲン)也。〔態藝門969三〕

他念(タネン/フタゴヽロ,ヲモウ) 。〔態藝門349二〕

名僧(メイソウ/ナ,ヨステビト)[平・平]。〔人倫門872一〕

とあって、「名僧」だけが合致し、表記の異なる「唱明」「他念」とを収載し、語注記は「唱明」に「或は唱を聲に作す。音曲に非ざるなり」とし、「聲明」と「唱明」の書き換えがあることを示唆している。但し、「音曲」には用いないという。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

引物(インブツ)―卒(ゾツ)。―級(キユウ)。―摂(セウ)。―導。―入。―声。―唱。〔・言語7四〕

唱明(シヤウミヤウ) 音曲唱作色[声]非也。〔・言語進退248七〕

唱明(シヤウミヤウ) 唱作声非也。〔・言語211八〕

唱明(シヤウミヤウ) 唱作声非也。〔・言語195八〕

とあって、「引聲」「短聲」「聲明師」「一念」「多念」「名僧」の六語のうち標記語として「引声」は両足院本のみに収載し、あと異表記「唱明」は弘治二年本の語注記は「音曲唱を声に作すは非ざるなり」で解かるが、永祿二年本尭空本は「唱を声に作すは非ざるなり」と略注化していて意味を理解しにくいものがある。さらに易林本節用集』には、

聲明(シヤウミヤウ) ―歌(ガ)。〔言辞215六〕

名僧(―ソウ)―人(ジン)。―童(トウ)。―醫(イ)。―匠。〔人倫195五〕

とあって、六語のうち「聲明」と「名僧」の二語を収載し、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「引聲」「短聲」「聲明師」「一念」「多念」「名僧」は、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

229引声短声之声明一念多念名僧 悟道發明之僧也。〔謙堂文庫藏二六左B〕

引声(イン―)短声(タン―)ノ々明一念多念名僧 悟道發明之僧也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫〕引声―長スル心也。短声―切リ声也。一念―トハ无欲ニシテ悟ヲ得タル僧也。多念―トハ道知相応スル也。〔同書き込み〕△声明ハ昔五ツ眼ノ在。五ノ道ニナレリ。劫初梵王亦ハ云?羯羅天也。現五面。説五明。於后面声明云也。△五明者一ニハ内明。二ニハ因明。三ニハ声明。四ニハ醫方明。五ニハ工巧明也。〔同冠頭書き込み〕

声明者昔五眼アル人也。五道ナレリ。劫初梵王亦云?羯羅天ナリ。現五面。説声明論云也。五明内明。二因明。三声明。四醫方明。五工巧明也。

とあって、標記語「引声短声之声明師・一念多念名僧」の語注記は、「何れも悟道發明の僧なり」というのであって、それぞれの語についての注記説明は記述していない。古版『庭訓徃来註』では、

引聲トハ声ヲ引ト書タリ。六内ノウチニカル声ノ乙ノ声ニテヨムナリ。〔卅二オ一〕

短聲トハ。中曲(キヨク)ナリ。切拍子(キリヒヤウシ)ナリ。〔卅二オ二〕

聲明師トハ。声(コヘ)ヲアカスト書タリ。五音(イン)六調子(テウシ)ヲ兼(カネ)タリ。甲乙(カウヲツ)(コト)ニ多シ。六内切声又有夫辨(ヘン)音ト申ハ。上無調ノ乙(ヲツ)也。一調子(シ)(タカ)キ音ヲ甲(カウ)ノ音ト名ク。三調子(シ)サグル音ヲ乙(ヲツ)ノ音ト名ク。此音ニ春夏秋冬ヲ。カタトル。甲ハ声ノ始(ハジ)メ。乙(ヲツ)ハ声ノ終リ也。甲ノ声上テ天ノ五蘊(ヲン)トナリ。乙ノ音下テ地ノ五立ト成也。上ノ無調上ノ音ハ。盤渉(ハンセウ)調ヲ司(ツカサト)ル宮(キウ)ノ音ハ。黄鐘(ワウセウ)調羽(テウウ)ト云物是也。乙ノ音ハ雙平(ソウヒヤウ)調也。上ル声ハ一越調(エツテウ)カト云ヒヾキ是也。上ノ無調ハ急(キウ)ノ音(イン)ニ属(シヨク)せリ。甲ハツク息(イキ)則天也。ヒキク引息(イキ)(スナハチ)地也。爰ニ呂律(リヨリツ)ト云事アリ。呂(リヨ)ハス(ヨロコヒ)ノ声也。律(リツ)ハ悲(カナシミ)ノ声ナリ。雙調(サウテウ)黄鐘(ワウセウ)一越調(エツテウ)ハ呂ノ音トスル也。是ヲバ天ニ司(ツカサ)トル雲ノ上ニハ。樂(タノ)シミ多キ故ニス(ヨロコビ)ノ声ト云也。平調(ヒヤウテウ) 盤渉(ハンセフ)ハ律ノ音也。是ハ悲(カナシミ)ノ声トスル也。是ヲバ地ニ司(ツカサ)トル下界(ゲカイ)ニハ。苦多キガ故ニ。歎(ナゲキ)ノ音也。引声ハ加様ノ事ヲ加テ。声明(せイメイ)スルヲ上手(ズ)ト也。祝言(シユウゲン)ナドニ舞(マウ)事モ此ノ双黄越(サウワウエツ)ノ三調子(テフシ)ヲ吟ジテ。詠(エイ)ズベシ。〔卅二オ二・八〕

一念多念名僧ハ。一佛一經ヲ守リ。修行スル僧也。多念(タネン)ハ。萬善萬行ヲ志(コヽロサシ)テ大(タイ)願ヲ成就(ジユ)スル僧ナリ。〔卅二オ八〕

とあって、この標記語は「引聲」「短聲」「聲明師」「一念多念名僧」として、それぞれの語注記を収載する。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

引聲短聲聲明師五音六律(こいんりくりつ)に達したる者なり。〔廿五ウ一〕

一念多念名僧一仏一經を守りて修行(しゆきやう)するを一念僧と云。万善万行に志(こゝろさ)して大願を成就(じやうじゆ)するを多念僧といふ。〔廿五ウ二〕

とし、この標記語に対する語注記は「引聲短聲聲明師」と「一念多念名僧」として、それぞれの語注記を収載する。後者は古版『庭訓徃来註』の注記内容に従う。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

引聲(いんしやう)短聲(たんしやう)聲明師(しやうミやうし)一念(いちねん)多念(たねん)名僧(めいそう)引聲短聲聲明師ハ長(なか)く短(ミじか)く聲(こゑ)に節(ふし)をつけて経(きやう)を誦(よ)む者也。一念ハ一仏(ふつ)一経(きやう)を守(まも)りて修行(しゆきやう)する僧(そう)多念ハ万善万行(まんせんまんきやう)に志(こゝろさ)して大願(たいくわん)を成就(しやうしゆ)する僧也。〔二十一オ五〕

引聲(いんしやう)短聲(たんしやう)の聲明師(しやうミやうし)一念(いちねん)多念(たねん)の名僧(めいそう)引聲短聲聲明師ハ長(なが)く短(ミじか)く聲(こゑ)に節(ふし)をつけて経(きやう)を誦(よ)む者(もの)也。一念ハ一仏(ぶつ)一経(きやう)を守(まも)りて修行(しゆきやう)する僧(そう)多念ハ万善万行(まんせんまんきやう)に志(こゝろさ)して大願(だいくわん)を成就(じやうじゆ)する僧(そう)也。〔三十七オ三・五〕

とあって、標記語「引聲短聲聲明師一念多念名僧」の語注記は「引聲短聲聲明師」と「一念多念名僧」とに分けて記載し、後者はやはり古版『庭訓徃来註』の注記内容に従うものである。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「引聲」「短聲」「聲明師」「一念」「多念」「名僧」の六語は、

Ichinen.イチネン(一念) 一つの思念・考え.〔邦訳327l〕

Meiso>.メイソウ(名僧) 高名な僧侶.〔邦訳395r〕

とあって、「一念」と「名僧」の二語を収載する。

[ことばの実際]

聲明なども、強ちに聲明師とも人に知られず。《『雑談集』五・天運之事》

諸の名僧をして義を問はしむるに説答事妙也。《観智院本『三寳絵』中》

2001年9月25日(火)晴れ。東京(八王子)⇒南大沢

「詩歌宗匠(しいかのソウシヤウ)・管絃上手(クハンゲンのジヤウズ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部、「楚」部、「久」部に、

詩歌(シイカ)。〔元亀本306六〕〔静嘉堂本357三〕

宗匠(ソウシヤウ)。〔元亀本153七〕〔静嘉堂本168二〕宗匠(―シヤウ)。〔天正十七年本中15ウ四〕

管絃(―ゲン)。〔元亀本190一〕〔静嘉堂本214一〕管絃(―ケン)。〔天正十七年本中36ウ一〕

上手(シヤウズ) 起於碁也。〔元亀本313九〕上手(ジヤウズ) 起於碁也。〔静嘉堂本367八〕

とあり、「詩歌」「宗匠」「管絃」「上手」四語の標記語として収載し、語注記は「上手」に「起於碁なり」という。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「詩歌宗匠管絃上手」とし、文明四年本は「詩歌(シ井カ)ノ之宗匠(ソウシヨウ)管絃(クワケン)ノ之上手(シヤウス)」と見え、『下學集』には、

宗匠(ソウシヤウ) 先達義也。日本俗或シテ歌道之達者宗匠也。〔態藝門88六〕

管絃(クワンゲン)。〔態藝門81四〕

上手(―ス)。〔言辞門153六〕

とあって、「詩歌」「宗匠」「管絃」「上手」のうち標記語として「宗匠」と「管絃」「上手」とを収載し、語注記は「宗匠」に「連歌宗匠」の注記内容がこれにあたるのでここでは省略する。そして、「詩歌」を注記の説明に用いる語としては「文月」「放題」「落題」「褒貶」「梶」「六義」の六語があるが、標記語「詩歌」の語は欠く。次に、広本節用集』には、

宗匠(ソウシヤウ) 先達義也。日本俗或指シテ歌道達者宗匠――也。〔態藝門384七〕

管絃(クワンゲン/フヱ,ツル)[上・平]歌曲義也。文選注曰吹。撫スルヲ也。〔態藝門531七〕

上手(ジヤウズ/ノボル,シユウ・テ)[上去・上]――下手(ヘタ)。〔態藝門936二〕

とあって、「詩歌」「宗匠」「管絃」「上手」のうち標記語として「宗匠」と「管絃」「上手」とを収載し、語注記は「宗匠」は『下學集』に従う。「管絃」は、「歌曲義也。文選注曰吹。撫スルヲ也」とし、「上手」は「上手下手」という。そして、「詩歌」を注記の説明に用いる語としては「文月」「放題」「落題」「褒貶」「」「六義」の六語があるが、標記語「詩歌」の語は欠く点も『下學集』に従う。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

宗匠(ソウシヤウ)連歌之先達。〔・人倫118七〕

宗匠(―シヤウ)連歌。〔・人倫100六〕

宗匠(―シヤウ)連歌――。〔・人倫91一〕

宗匠(ソウシヤウ)連歌――。〔・人倫110七〕

管絃(クワンゲン)。〔・言語進退161六〕〔・言語147一〕

管絃(クハンゲン)。〔・言語131九〕

管見(クハンケン)―絃。〔・言語121一〕

上手(―ズ)。〔・言語進退245八〕

上品(シヤウボン)―手。―下。―裁。―表。―洛。―聞。〔・言語210二〕

上品(シヤウホン)―手。―下。―裁。―表。―落。―聞。〔・言語194四〕

とあって、「詩歌」「宗匠」「管絃」「上手」のうち標記語として「宗匠」と「管絃」「上手」とを収載し、語注記は「宗匠」はのみである。やはり、「詩歌」の標記語を未收載にしている。さらに易林本節用集』には、

宗匠(ソウシヤウ) ―敬(キヤウ)。〔言辞100六〕

上裁(ジヤウサイ/公方義)―根(コン)。―代(ダイ)。―分(ブン)。―品(ボン)。―足(ソク)―手(ズ)。―戸(ゴ)。―首(シユ)。―意(イ)。―智(チ)。―堂(ダウ)。―古(コ)。―覧(ラン)。―表(ヒヨウ)。―聞(ブン)。〔言辞門215七〕

とあって、四語のうち「宗匠」と「上手」のみを収載し、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「詩歌」「宗匠」「管絃」「上手」には、

管絃音楽部。クワンケン。〔黒川本疉字・中80ウ四〕〔卷〕

とあって、これも「管絃」の語だけということになる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

228詩歌宗匠管絃上手 念比有也。〔謙堂文庫藏二六左A〕

とあって、標記語「詩歌の宗匠・管絃の上手」の語注記は、「何れも前に念比に有なり」という。これは二月廿三日の状「連歌宗匠」(2000.10.16)と二月廿四日の状「詩歌管絃」(2001・03・31)をさしていう。古版『庭訓徃来註』は、

學士詩歌(―カ)宗匠(ソウシヤウ)管絃(クハンケン)ノ上手。〔卅一ウ八〕

とあって、この標記語は「詩歌宗匠・管絃の上手」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

詩歌(しいか)宗匠(そうせう)管絃(くわんけん)上手(じやうず)詩歌宗匠管絃上手詩歌管絃の注前にあり。〔廿五オ五・七〕

とし、この標記語に対する語注記も「詩歌管絃の注前にあり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

詩歌(しいか)宗匠(そうしやう)管絃(くハんげん)上手(じやうす)詩歌管絃宗匠(みな)二月の状中(しやうちう)に見ゆ。〔二十一オ四〕

詩歌(しいか)の宗匠(そうしやう)管絃(くわんげん)上手(じやうず)詩歌管絃宗匠(みな)二月の状中(じやうちう)に見ゆ。〔三十七オ三・五〕

とあって、標記語「詩歌宗匠・管絃の上手」の語注記は「皆二月の状中に見ゆ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「詩歌」「宗匠」「管絃」「上手」の四語は、

Xijca.シイカ(詩歌) シナおよび日本の詩や歌.〔邦訳765l〕

So>xo<.ソウシャウ(宗匠) すなわち,Rengano xixo<.(連歌の師匠) Renga(連歌)と呼ばれる種の歌を,一緒になって作る人々の重立った師匠.〔邦訳579l〕

Quanguen.クヮンゲン(管絃) 音楽,または,合奏.§Quaguenuo suru.(管絃をする) 合奏とともに歌う.⇒Itotaqe;So>xi,suru;Vongacu.〔邦訳518l〕

Io<zu.ジョウズ(上手) Vuate.(上手)すなわち,Io<tenomono.(上手の者) ある事に練達している者.〔邦訳370l〕

とあって、四語を収載する。ここで、古辞書が『運歩色葉集』以外である『下學集広本節用集』印度本系統の『節用集』類などが「詩歌」の語を標記語として未収載にしているのは如何なるものか、やはり注目せねばなるまい。

[ことばの実際]

2001年9月24日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「智者上人紀典仙經儒者(センギヨウノジユシヤ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「地」部、「志」部、「幾」部に、

智者(―シヤ)〔元亀本67五〕〔静嘉堂本79四〕〔天正十七年本×〕〔西来寺本122三〕

上人(―ニン)《2000.11.29に掲載参照》

紀典(―テン)《2000.11.02に掲載参照》

とあり、「勢」部と「志」部における「仙經」そして「儒者」の標記語はここには未収載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本・経覺筆本・山田俊雄藏本・建部傳内本は「智者上人紀典仙経儒者」とし、文明四年本は「智者(チシヤ)上人(シヤニン)(キテン){仙}経(センキヤウ)儒者(ジユシヤ)」と見え、『下學集』には、

儒者(ジユシヤ) 。〔人倫門39一〕

とあって、「智者上人紀典仙経儒者」のうち標記語として最後の「儒者」の語だけを収載し、語注記は未記載にある。次に、広本節用集』には、

智者(チシヤ/―,モノ・ヒト) 。〔官位門167七〕

上人(シヤウニン/ノボル,シン・ヒト)[去・○] 内智惠。外勝行。在人之上。名上人。〔官位門920二〕

儒者(ジユシヤ/ハカせ,モノ)[平・上] 唐学文而讀書(ヨミカキ)スル者也。異名翰林(カンリン)。縫掖。北門。聖徒。凰毛。〔人倫門916四〕

とあって、「智者上人紀典仙経儒者」のうち「智者」「上人」「儒者」の三語を収載し、語注記は「上人」に「内に智惠あり。外に勝行あり。人の上にあり。上人と名づく」とし、「儒者」に「唐の学文にして讀み書きする者なり」とあって、異名語群として「翰林。縫掖。北門。聖徒。凰毛」の五語を示す。ここで『下學集』に標記語はあり、語注記のない「儒者」の語に広本節用集』が語注記を増補したことが注目され、この語注記と下記の『庭訓往来註』とが交わらないことも注意する点である。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

智者(―シヤ)。〔・言語進退54一〕

智恵(チエ)―謀(ボウ)―者。〔・言語53九〕

智恵(チエ)―謀。―者。〔・言語48八〕

智恵(チエ)―者。〔・言語57六〕

聖人(シヤウニン)。〔・言語48八〕

儒者(ジユシヤ) 。〔・人倫門238八〕〔・人倫門198八〕〔・人倫門188八〕

とあって、「智者上人紀典仙経儒者」のうち「智者」「儒者」の二語を収載し、その語注記は未記載にする。さらに易林本節用集』には、

智者(―シヤ)。〔言辞52一〕

とあって、五語のうち「智者」のみを収載し、語注記は未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「智者上人紀典仙経儒者」には、

智者同。チシヤ。〔黒川本疉字・上56オ三〕

智恵(チエ)〃勇。〃謀。〃徳。〃。〔卷二470六〜471一〕

聖人シヤウニン。〔黒川本人倫・下70オ三〕

聖人(シヤウニン)。〔卷九・人倫139二〕

とあって、これも「智者」の語だけということになる。そして「シヤウニン」だが、「聖人」の語が収載されていて、上記尭空本節用集』へとつながるものであり、これは江戸時代の『庭訓往来』注釈書の標記語ともなっているのである。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

223智者上人 上人菩薩地也。釈氏要覽曰、内コ智|。勝行|。人之上|。故曰上人又般若經ヲカ上人|。佛言ンハ‖菩薩一心阿耨菩提|。心不ンハ‖散乱者是上人也云云。〔謙堂文庫藏二五左G〕

225仙經儒者 術道算道也。經家書毛詩廿巻、尚書十三巻、礼記廿巻、左傳三十巻、周易十巻、已上之經、周礼十二巻、儀礼十七巻七經、公羊傳十二巻、穀梁傳十二巻九經、論語十巻、孝經一巻十一經、老子經二巻、莊子經三十三巻、已上經家書。紀傳法家算道書凡大唐書数十二万餘巻也。陸奥守藤原佐世註文也。于時至コ元年甲子九月望書之畢。又云佛經、達術之道者也。{即算道之書也云々}。〔謙堂文庫藏二六右F〕

仙經儒者 (タツ) ス‖術道算道也。經家毛詩廿巻、尚書十三巻、礼記廿巻、左傳三十巻、周易十巻、已(イ)-上之經、周礼十二巻、義礼十七巻七經、公羊(ヨウ)十二巻、穀梁傳十二巻、九經論語十巻、孝經一巻。十一經(ラウ)子經二巻、(サウ)子經卅三巻、已上經。紀傳・法家・算道書、凡大唐書数十二万余巻也。陸奥(ムツ)ノ守藤原佐世(スケトキ)ノ注文也。于時至コ元年甲子九月望之畢(ヲハンヌ)。又云仙(せン)-經、達術之道者也。即算道之書也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫〕

とあって、標記語「仙經の儒者」の語注記は、「術道算道に達すなり」という。古版『庭訓徃来註』は、

紀典(キテン)仙經(せンキヤウ)儒者(ジユシヤ)トハ。一切ノ書籍(シヨシヤク)ヲヨムヨミ様(ヤウ)アリ。其一々ノヨミヤウヲ知人也。儒者(ジユ-)トハ。人ニ物ヲヽシユル者ヲ云ナリ。紀典(キテン)ヨミ也。仙經ヨミトテアリ。池(イケ)ノ凍(コウリ)ノ東頭(トウトウ)ハ風度(ワタツ)テ解(ト)ク。ナトヨムハ紀典(キテン)ヨミ也。池ノ凍ハ東頭ニシテ風度テ解(ト)ケリ窓(マド)ノ梅ノ比面ハ雪封シテ塞ストヨムハ仙經ノヨミナリ。何理一ツアリ。〔卅一ウ四〕

とあって、この標記語は「紀典仙経儒者」の語注記は「一切の書籍をよむよみ様あり。其の一々のよみやうを知る人なり。儒者とは、人に物ををしゆる者を云ふなり。紀典よみなり。仙經よみとてあり。池の凍の東頭は風度つて解く。などよむは紀典よみなり。池の凍は東頭にして風度つて解けり、窓の梅の比、面は雪封じて塞すとよむは仙經のよみなり。何れも理一づつあり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

智者(ちしや)聖人(せいしん)紀典(きてん)仙経(せんきやう)儒者(しゆしや)智者聖人紀典仙経儒者智者ハ賢人をさして云。聖人賢人の道を書のせたる書物を紀典と云。仙経ハ仙人の道をしるしたる書物なり。儒者ハ聖人の道を会得(ゑとく)したる者也。こゝ拾字を一句に讀へし。聖賢の紀典、仙人の書物に通達したる儒者をいふ。〔廿五オ五・七〕

とし、この標記語に対する語注記は「仙経ハ仙人の道をしるしたる書物なり。儒者ハ聖人の道を会得したる者なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

智者(ちしや)上人(しやうにん)紀典(きてん)仙經(せんきやう)儒者(じゆしや)智者ハ心に知る所あるをいふ。佛(ほとけ)在世(さいせ)乃時舎利弗(しやりほつ)智慧(ちゑ)第一といへり上人ハ内(うち)に徳智(とくち)あり。外(ほか)に修行(しゆきやう)ありて人の上(かミ)にあるの称(―よう)紀典ハ本紀(ほんき)史記(しき)漢書(かんしよ)の類、歴代(れきたい)乃典籍(ふミ)をいふ仙経ハ道教(たうきやう)仙術(せんじゆつ)の書(しよ)をいふにや。〔二十一オ二・三〕

智者(ちしや)上人(しやうにん)紀典(きてん)仙經(せんきやう)の儒者(じゆしや)智者ハ心(こゝろ) に知る所あるをいふ。佛(ぶつ)在世(ざいせ)の時(とき) 舎利弗(しやりほつ)ハ智慧(ちゑ)第一といへり上人は内(うち)に徳智(とくち)あり。外(ほか)に修行(しゆきやう)ありて人の上(かミ)にあるの称(しよう)なり紀典は本紀(ほんぎ)史記(しき)漢書(かんしよ)の類、歴代(れきたい)の典籍(ふミ)をいふ仙経ハ道教(だうきやう)仙術(せんじゆつ)の書(しよ)をいふにや。〔三十七オ三・五〕

とあって、標記語「智者聖人紀典仙経儒者」の十文字を一句とし、語注記は「智者ハ心に知る所あるをいふ。佛在世の時、舎利弗は智慧第一といへり上人は内に徳智あり。外に修行ありて人の上にあるの称なり紀典は本紀・史記・漢書の類、歴代の典籍をいふ仙経は道教・仙術の書をいふにや」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「智者」「聖人」「紀典」「仙経」「儒者」の五語は、

Chixa.チシャ(知者) Xirumono.(知る者)学識者.⇒Anxu;Ixxit;Quo<gacu.〔邦訳124r〕

Xo<nin.シャゥニン(上人) 坊主(Bozos)の間の或る位.〔邦訳794l〕

Iuxa. ジュシャ(儒者) 先に〔Iuto<で〕述べたシナの或る道徳哲学者の一派に属する人.〔邦訳373r〕

とあって、五語のうち上記三語を収載する。ここで、古辞書『運歩色葉集』が「儒者」の語を未収載にしているのは如何なるものか、意識的に収載除去したものかという点に着目せねばならない。

[ことばの実際]

權漏剋博士季親といふ物ありけり。周易の博士にて、其(その)道におぼえありけれど、風月のかたことなる聞えなかりけり。或(ある)文亭の連句の座に望(のぞみ)たりけるに、上句の番にあたりて、をそく出ければ、其(その)中にむねとの儒者のありけるが、是をあなづりたりけるやらん、  閉後來客  かく上句をそばにていひたりければ、秀親、  含先達儒  とぞ付たりける。彼(かの)儒者物云(いふ)事なかりける、是も利口の過(すぎ)たりける故也。《『古今著聞集』五七七・權漏剋博士季親が連句の事》

2001年9月23日(日)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)

「明行道(ミヤウキヤウダウ)」と「明經道(ミヤウキヤウダウ)」&「學士(ガクジ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「免」部と「賀」部に、

明經博士(―ギヤウハカせ) 唐名。国奉助教(シヨキウ)。〔元亀本297九〕 學士(―ジ)。〔元亀本93一〕

明經博士(ミヤウキヤウハカせ) 唐名。国奉助教。〔静嘉堂本346四〕  學士(―ジ)。〔静嘉堂本115三〕學士(―シ)。〔天正十七年本上56ウ四〕〔西來寺本164五〕

とあって、標記語を「明經博士」とし、静嘉堂本は「免」部に収載しながらも読みを「ミョウキョウはかせ」とし、その語注記は「唐名。国奉助教」という。標記語「學士」の語注記は未記載にある。古写本『庭訓徃來』卯月五日の状に、至徳三年本は「明法(明)道学士」と見え、建部傳内本は「明法明道学士」と見え、文明四年本は「明法(ミヤウホウ)(ミヤウキヤウタウ)学士(カクシ)」と山田俊雄藏本は「明法明学士」と見え、『下學集』には、

明經博士(ミヤウキヤウノ――) 大儒(―ジユ)。〔官位43二〕

とあって、標記語を「明經博士」とし、語注記に「大儒」という。また、標記語「學士」は未收載にする。次に、広本節用集』には、

明經博士(ミヤウギヤウノハカせ/メイ・アキラカ,ケイハクシ)[平・去・○・上] 大儒(―ダイシユ)。〔官位門889四〕

学士二人(ガクシニニン/マナブ,サブライ,ジ,シン)[入・上・○・平]相當従五位下。唐名太子賓客。〔官位門263一〕

とあって、標記語「明經博士」を収載し、読みは「ミョウギョウのはかせ」で語注記は『下學集広本節用集』と同じく「大儒」という。標記語「学士二人」の語注記は「相當従五位下。唐名太子賓客」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

明經博士(ミヤウキヤウハカセ) 大儒。〔・官名232四〕

明經博士(ミヤウキヤウノハカせ) 大儒。〔・官名193三〕

明經博士(ミヤウキヤウハカセ) 大儒。〔・官名183二〕

とあって、標記語「明經博士」を官名門とし、その語注記は『下學集広本節用集』と同じく「大儒」という。また、標記語「學士」は未收載にする。さらに易林本節用集』はこの語を未収載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「明經博士」には、

明經博士(ミヤウキヤウ――) 。〔黒川本官職・下66ウ七〕

明経博士 大學博士一人。助教二人。直講二人。音博二人。書博二人。〔卷九114三〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

227明行道(メイキヤウ―)ノ學士 堅明之儒者也。〔謙堂文庫藏二六左A〕

※―賢明ニ道ヲ行也。〔静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』古寫・書込み〕

とあって、標記語「明行道」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』は、

明行道トハ。法ヲ人ノ方ヨリ授(サツ)カルヲ云フナリ。學士《略》學士トハ。其ノ一定(デフ)の事ヲ。能々知テ。法事法會ニモ。堂場(タウテウ)莊厳(シヤウコン)以下マデ残ル所ナク知タル人ヲ學士ト云リ。觀念(クハンネン)觀法(クハンホウ)ヲ能々スルヲ云也。又潅頂(クハンテヤウ)ナト諸ノ法事ニアルナリ。〔卅一ウ七・八〕

とあって、この標記語は「明行道」の語注記は「法を人の方より授かるを云ふなり」とし、そして「學士」については、「其の一定の事を。能々知りて、法事法會にも、堂場・莊厳以下まで残る所なく知りたる人を學士と云へり。觀念・觀法を能々するを云ふなり。又潅頂など諸の法事にあるなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

明法(めうほう)明經(めうけう)学士(かくし)明法明經学士明法学士ハ国天下を治る法度に委敷学者なり。明經学士ハ聖賢の書物の義理を明らかにしたる学者也。〔廿五オ七・八〕

とし、この標記語に対する語注記は「明經学士ハ聖賢の書物の義理を明らかにしたる学者なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

明法(ミやうほふ)明經道(ミやうきやうだう)の學士(がくし)明法学士ハ律令(りつりやう)格式(かくしき)を明(あき)らめ治國(ちこく)の法度(はつと)を教(をし)ゆ。明經学士ハ經書(けいしよ)の義理(きり)を明(あき)らめ聖賢(せいけん)乃道(みち)を諭(さと)すをいふ。学士(がくし)とハ猶(なを)学者(かくしや)といふがごとし。〔二十一オ三・四〕

明法(ミやうほふ)明經道(ミやうきやうだう)の學士(がくし)明法学士ハ律令(りつりやう)格式(かくしき)を明(あき)らめ治國(ぢこく)乃法度(はつと)を教(をし)ゆ。明經学士ハ經書(けいしよ)の義理(ぎり)を明(あき)らめ聖賢(せいけん)の道(みち)を諭(さと)すといふ。学士(がくし)とハ猶(なほ)学者(がくしや)といふがごとし。〔三十七オ五・六〕

とあって、標記語「明經道」とし、語注記は「經書の義理を明らめ聖賢の道を諭すといふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「明経」の語は、未収載にある。

 以上「明経」と「明行」の表記語について見てきたが、古写本『庭訓徃來』にはそれぞれの語が見られ、これを継承したというより、鎌倉時代の古辞書三卷本色葉字類抄』と同じくして、『下學集広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』、『運歩色葉集』はすべて、「明経博士」とし、この古辞書群と深い関りのあった『庭訓往来註』の諸写本は「明行道学士」の表記語を採録している点で異なりを見せているのである。この「明行」の表記用例を今後調査していくことになる。

[ことばの実際]

男ハ紀傳・明經ノ文ヲホカレドモ、ミシラザルガゴトシ。僧ハ經論章疏アレドモ、學スル人スクナシ。日本紀以下律令ハ我國ノ事ナレドモ、今スコシ讀トク人アリガタシ。《『愚管抄』卷二・》

2001年9月22日(土)晴れ。東京(八王子)⇒大学セミナ―ハウス(大学教員研修会)

「明法(メイホウ・ミヤウボウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「免」部に、

明法博士(ミヤウボウハカセ) 唐名律斈(リツカク)。〔元亀本297九〕 

明法博士(メイボウハガセ) 唐名律学)。〔静嘉堂本346三〕

とあって、標記語「明法博士」で読みは元亀本が「ミョウボウハカセ」とし、静嘉堂本が「メイボウハガセ」とし、その語注記は「唐名律斈{学}」という。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「明法」と見え、『下學集』には、

明法博士(ミヤウホウノ――) 律学士(リツ――)。〔官名43三〕

とあって、標記語「明法」では未收載であり、官名の「明法博士」を収載し、語注記は「律学士」という。次に、広本節用集』にも、

明法博士(ミヤウホフノハカセ/メイ・アキラカ,ノリ,ハク・ヒロシ,・サブライ) [平・○・入・上] 相當正七位下。唐名律学(リツ―)博士。〔人倫門889四〕

とあって、「み」部に標記語「明法博士」を収載し、語注記は「相當正七位下。唐名律学博士」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』には、

明法博士(―ホウノ――)律斈士。〔・官名232四〕

明法博士(―ホウノ――)律学士。〔・官名193四〕

明法博士(ミヤウホウハカセ)律学士。〔・官名183三〕

とあって、「見」部に標記語「明法博士」を収載し、語注記は「律学士」という。さらに易林本節用集』はこの語を未收載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「明法」は未収載にあり、官職門に、

明法博士(ミヤウホウハカせ) 。〔黒川本官職・下66ウ七〕

明法博士 延暦十八年始被置之。博士二人。〔卷九114三〕

とあって、この語をもって収載している。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

226明法(メイ―) 式目念比堅明道者也。〔謙堂文庫藏二六左@〕

※―法度也。〔東洋文庫藏『庭訓之鈔』徳本の人書込み〕

とあって、標記語「明法」の語注記は、「是れは式目に念比と有り。堅明に道を行ずる者なり」という。この『式目』とは、『御成敗式目』を注すものかと言うと、このなかには「明法」なる語は見えず、むしろその注釈書の一本をいうのであることが考えられ、已下のように、

法家明法道儒者家也、是法度也、四家之中也、大職冠淡海公不比等之子有四人、立四流故、藤原四家云也、又四道トモ云也、四道一紀典道、是天下文章、或司經論聖教、二明法道、是律令格式聞司法度、此儒者一度渡女子(シ)ニ所帶、女子雖有不孝義、不取返定也、三ニハ明經道、是王位、司四書五經也、四算道、是天文道天下卜也、彼四人ニハ法家倫、次藤原氏也、即不比等跡相續也、餘三人藤原不次也、又四家トハ南家、法家、式家、京家也、能々此義寂要集爲見也云々、《蘆雪本御成敗式目抄』第十八条注釈・「中世法制史料集別卷」岩波書店刊153二》

という蘆雪本御成敗式目抄』第十八条注釈などの注釈書をここに示唆したものであることを述べておくことにしたい。古版『庭訓徃来註』は、

明法ハ。人ニ法ヲ傳(ツタ)ユルヲイフナリ。〔卅一ウ七〕

とあって、語注記は「人に法を傳ゆるをいふなり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

明法(めうほう)明經(めうけう)学士(かくし)明法明經学士明法学士ハ国天下を治る法度に委敷学者なり。明經学士ハ聖賢の書物の義理を明らかにしたる学者也。〔廿五オ七・八〕

とし、この標記語を「明法」とし、読みも「メウホウ」とあり、語注記は「明法学士は国天下を治る法度に委敷学者なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

明法(ミやうほふ)明經道(ミやうきやうだう)の學士(がくし)明法学士ハ律令(りつりやう)格式(かくしき)を明(あき)らめ治國(ちこく)の法度(はつと)を教(をし)ゆ。明經学士ハ經書(けいしよ)の義理(きり)を明(あき)らめ聖賢(せいけん)乃道(みち)を諭(さと)すをいふ。学士(がくし)とハ猶(なを)学者(かくしや)といふがごとし。〔二十一オ三・四〕

明法(ミやうほふ)明經道(ミやうきやうだう)の學士(がくし)明法学士ハ律令(りつりやう)格式(かくしき)を明(あき)らめ治國(ぢこく)乃法度(はつと)を教(をし)ゆ。明經学士ハ經書(けいしよ)の義理(ぎり)を明(あき)らめ聖賢(せいけん)の道(みち)を諭(さと)すといふ。学士(がくし)とハ猶(なほ)学者(がくしや)といふがごとし。〔三十七オ五・六〕

とあって、標記語「明法」とし、読みも「ミヤウホウ」とあり、語注記は「明法学士は律令格式を明らめ治國の法度を教ゆ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「明法」の語は、

Mio<bio>.ミョゥビョゥ(明法) Fo>uo aqiramuru.(法を明らむる)教法を十分に理解すること.※Mio<bo>の誤り.〔邦訳408l〕

とある。

[ことばの実際]

鎭西ニ、アル國ノ地頭、世間不調ニシテ、所領ヲワカチ賣ケルヲ、嫡子ナリケル物ノ、世間賢ク貧シカラヌ者ニテ、此所領ヲ買テ、父ニ知セケル事、度々ニナリヌ。サテ彼父死シテ後、彼嫡子ニハ不讓シテ、次男ニサナガラ跡ヲ讓リケリ。嫡子鎌倉ニ上テ訴訟ス。弟召上セテ對決ニ及ブ。〔此事共ニ其ノ謂レアリ。兄不便ニ思ハレケレドモ〕、弟讓文ヲ手ニニギリテ申上グ。ヲシテモ成敗ナクシテ、明法(みやうぼふ)〔ノ〕家へ被尋。法家ニ勘申サク、「元嫡子タリ。又奉公アリトイヘドモ、子トシテ父に事フルハ、孝養ノ義ナリ。奉公ハ他人ニトリテノ事ナリ。然バ父ニスデニ子細アレバコソ、弟ニ讓リ候ケメ。サレバ弟ガ申所、其道理アリ」ト、申ケル上ハ、弟安堵ノ下文給テ下ニケリ。《『沙石集』卷第三(二)問注ニ我ト劣タル人事、大系143十》頭注記に「律令格式を究明する家」とある。

2001年9月21日(金)曇り後雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「學匠(ガクシヤウ)」と「学生(ガクシヤウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

學匠(ガクシヤウ) 。〔元亀本92八〕 

學匠(ガクシヤウ) 。〔静嘉堂本115一〕

学匠(カクシヤウ) 。〔天正十七年本上56ウ二〕

学匠(ガクシヤウ) 。〔西來寺本164三〕

とあって、標記語「學匠」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に至徳三年本・山田俊雄蔵本は「顕密教宗學生」とし、文明十四年本は「顕教(ケンケウ)密宗(ミツシウ)学生(カクシヤウ)」、伝経覚本は「顕密學生」、そして建部傳内本は「顕教密宗學匠」と見え、『下學集』は、「學生」そして「學匠」といった語を未收載にする。次に、広本節用集』には、

學匠(ガクシヤウ/マナブ,タクミ)[入・去]。〔人倫門260三〕

とあって、標記語「學匠」を収載し、語注記は未記載とする。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

学匠(―シヤウ) 。〔・人倫77三〕〔・人倫83一〕

斈匠(ガクシヤウ)。〔・人倫76九〕

学匠(ガクシヤウ) 。〔・人倫69六〕

とあって、標記語「學匠」を人倫門とし、その語注記は未記載にある。ここで「ガク」の表記だが、「学」と「學」、「斈」の三つ表記字が確認できる。さらに易林本節用集』も、

學匠(ガクシヤウ) 。〔人倫71四〕

とあって、標記語を「學匠」の語注記は未記載にある。ここで『節用集』類及び『運歩色葉集』は、すべて「學匠」の「」文字を採録することが知られ、現行の古写本『庭訓徃來』の系統本を限定できるものであり、古版『庭訓徃来註』が依拠したものであり、建部傳内本における「顕教密宗學匠」とある系統の『庭訓徃來』に依拠したものとなってくるのである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「學匠」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

220顕教密宗之學匠 天台、密眞言、天台宗南天竺来。音声短。故曩謨(ナウマク)三滿多(サマ―)ト。眞言宗中天竺傳法来。音声長。故曩謨(ナウマク)三滿多〔謙堂文庫藏二五左A〕

とあって、標記語「學匠」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』は、

密宗(ミツシユウ)學匠(カクシヤウ)ト云フ事。舌相(セツサウ)言語(ゴンコ)皆是(カイセ)真言(シンコン)身相(シン―)挙動(キヨトウ)皆是(ゼ)密即(ミツソク)ト心得テ。阿字(アシ)不生(―シヤウ)ノ源ヨリ。即身(ソクシン)即佛ノ嶺(ミネ)ニ攀(ヨチ)テ四度不ニノ月ヲ觀ジ。大日我身(ガシン)々々大日ト信拝(シンハイ)スル宗也。是等ハ佛性宗共云フ。サレバ阿字(アシ)ヲ一見スレバ。五逆(キヤク)(タチマチ)ニ消滅ス。真言(シンコン)不思儀(フシキ)ナリ。觀誦スレバ。明ニ成也。尤(モツ)トモ八宗ノ内チニ真言宗ヲ以テ而モ第一トス。〔卅一オ七〜卅一ウ一〕

とあって、この標記語は「学匠」の語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓往来諺解大成』(元禄十五年版・勉誠社文庫27)に、

學匠(カクシヤウ)。〔巻之二夏116一〕

という。庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

学生(かくせい)學生。《前略》学生とハ学問をつとむるものをいえり。あるひハ学匠に作りし本もあり。学問の宗匠なり。僧といひ碩学と云。学生といひ、たゝ文をたかひにしたるまてなれは拘(かゝ)ハるへからす。〔廿五オ・三〕

とし、この標記語を「学生」とし、読みも「がくせい」とあり、語注記は「学生とハ学問をつとむるものをいえり。あるひハ学匠に作りし本もあり。学問の宗匠なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

學生(がくせい)学生(こゝ)にハ学問(がくもん)を義(つと)むる人をいふ。弟子(てし)なとの義にあらす。〔二十一オ一〕

學生(がくせい)学生(こゝ)にハ学問(がくもん)を勤(つとむ)る人をいふ。弟子などの義にあらず。〔三十七オ二〕

とあって、標記語「學生」とし、読みも「がくせい」とあり、語注記は「爰にハ学問を勤むる人をいふ。弟子などの義にあらず」という。すなわち、江戸時代の注釈書は、「学匠」を「學生」として、読みも「ガクショウ」を「ガクセイ」に取扱うものがあることが知られる。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「学匠」の語は、

Gacuxo<.ガクシャゥ(学匠) 同上(学者,あるいは,知者).〔邦訳290r〕

とある。

[ことばの実際]

此方便ニヨリテ、漸ク浮出侍也。學生(がくしやう)ドモハ、春日山ノ東ニ香山ト〔イフ〕所ニテ、大般若ヲ説給フヲ聽聞シテ、論義問答ナド人間に違ハズ。昔學生ナリシハ皆學生也。《梵舜本『沙石集』卷第一(六)和光ノ利益甚深ナル事、大系71十六〜72一・二》

2001年9月20日(木)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「浄土碩学(ジヤウドのセキガク)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

浄土(―ド) 。〔元亀本317五〕 ×

浄土(―ト) 。〔静嘉堂本373二〕碩学(―ガク)大也。〔静嘉堂本426三〕

とあって、標記語「浄土」と「碩学」の語を分割し、「浄土」の語注記は未記載にある。そして、「碩学」は、静嘉堂本に収載が見られ、元亀本はこの語を欠く。語注記はただ「大なり」という。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「浄土碩学」と見え、『下學集』は、

碩學(せキガク)。〔態藝75三〕

とあり、標記語「浄土」は未収載で、「碩學」を収載する。広本節用集』には、

浄土(シヤウド/キヨシ,ツチ)[○・上]。〔態藝門970三〕

碩学(セキガク/ヲヽイナリ,マナブ) [○・入]碩大也。〔1095三〕

とあって、標記語「浄土」と「碩学」の語を分割し両語を収載し、「碩学」の語注記は「碩は大なり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

碩学(セキガク)碩大也。〔・言語進退266一〕

碩斈(セキガク)―徳(ドク)。〔・言語226六〕

碩学(セキカク) ―徳。〔・言語213四〕

とあって、標記語「碩学」を言語門とし、その語注記は弘治二年本だけが広本節用集』と同じく「碩は大なり」という。さらに易林本節用集』も、

碩學(セキガク) ―徳(トク)。―才(サイ)。〔言辞236五〕

とあって、標記語を「浄土」は未収載にし、「碩學」の語のみ言辞門に収載されている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語を「碩學」は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

219浄土碩学(セキ―) 自方等部出也。血脈大-概廬山惠遠法師慈愍三蔵道綽善導等也。又有兩説。一ニハ菩薩流支惠篭道場法師曇鸞大海法上等安楽集。二菩提流支曇鸞道綽禅師懐感小康法師等(ト)云々。二宗佛心宗淨土宗加之為十宗。佛心宗如来親傳正法眼蔵涅槃妙心從迦葉。以来以心傳心者也。淨土宗專以三經一論為所依立聖道浄土二門十念成就シテ三尊来影為宗是也云々。〔謙堂文庫藏二五右F〕

▲浄土三経ハ親觀経・觀无量寿経・阿弥陀経也。〔天理図書館藏『庭訓徃来註』書込み・・国会図書館藏左貫註書込み〕

とあって、標記語「浄土碩学」の語注記は、「方等部より出るなり。血脈大-概は廬山惠遠法師慈愍三蔵道綽善導等なり。又兩説あり。一には菩薩流支惠篭道場法師曇鸞大海法上等『安楽集』より出す。二は菩提[]・流支曇鸞道綽禅師懐感小康法師等と云々。二宗は佛心宗・淨土宗これを加え、十宗と為す。佛心宗は如来親傳正法眼蔵涅槃妙心迦葉より。以来、以心傳心の者なり。淨土宗は專ら三經一論を以って所依と為し。聖道を立つ。浄土の二門十念を成就して三尊来影するを宗と為す是れなり云々」という。古版『庭訓徃来註』は、

聖道(シヤウタウ)浄土碩学(セキ―)《前略》淨土宗ト云事八宗ノ外十二宗内也。天台宗ヨリ出タル衆也。中比(コロ)比叡山ニ。法然(ネン)(ハウ)ト云人アリ。一代聖教(シヤウケフ)一千餘(ヨ)巻ヲ見開(ヒラ)キ。念佛ニ歸シ給フ立儀ナリ。西山鎮西西谷(タニ)ナンド云多クノ門派アリ。〔卅一オ三〕

とあって、この標記語は「浄土碩学」の語注記は「淨土宗と云ふ事、八宗の外十二宗内なり。天台宗より出でたる衆なり。中比比叡山に。法然房と云ふ人あり。一代聖教一千餘巻を見開き。念佛に歸し給ふ立儀なり。西山・鎮西・西谷なんど云ふ多くの門派あり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓往来諺解大成』(元禄十五年版・勉誠社文庫27)に、

浄土碩学。〔巻之二夏116一〕

という。庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

浄土碩学(じやうどのせきかく)浄土碩学。《前略》碩学とは学問の廣き者を云。《中略》僧といひ碩学と云。学生といひ、たゝ文をたかひにしたるまてなれは拘(かゝ)ハるへからす。〔廿五オ二・三〕

とし、この標記語に対する語注記は「碩学とは学問の廣き者を云ふ。《中略》僧といひ碩学と云ふ。学生といひ、たゝ文をたがひにしたるまでなれば拘はるべからず」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

浄土碩学(しやうどせきかく)浄土宗ハ馬鳴大師(めめうたいし)の法流、日本にてハ土御門院(つちミかとのいん)乃御宇法然(ほふねん)上人建立(こんりふ)す。鎮西(ちんせい)西山(にしやま)の二派(は)あり。碩学ハ大に学(かく)に達(たつ)したる人をいふ。〔二十ウ七〕

浄土碩学(しやうどせきかく)浄土宗ハ馬鳴(めめう)大師乃法流、日本にてハ土御門院(つちミかとゐん)の御宇(きよう)法然(ほふねん)上人建立(こんりふ)す。鎮西(ちんせい)西山乃二派(は)あり。碩学ハ大に学(かく)に達(たつ)したる人をいふ。〔三六ウ五〕

とあって、標記語「浄土碩学」とし、語注記は「馬鳴大師の法流、日本にては土御門院の御宇、法然上人建立す。鎮西・西山の二派あり。碩学は大いに学に達したる人をいふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「浄土碩学」の語は、

Io<do.ジャゥド(浄土) Qiyoi cuni.(浄い国)清浄な国,すなわち,仏(Fotoque)のパライゾ(Paraiso 天国).〔邦訳368l〕

Xeqigacu.セキガク(碩学) Firoi manabi.(碩い学び)広い研究と学問と.§Xeqigacuno fito.(碩学の人)大学者.〔邦訳754r〕

とある。

[ことばの実際]

上人聞此事給(タマヒ)テ、「是(コレ)ゾ神明ノ我ニ道心ヲ勸(ススメ)サセ給フ御利生(リシヤウ)ヨ」ト歡喜(クワンギ)ノ泪(ナミダ)ヲ流シ、其(ソレ)ヨリ軈(ヤガテ)京ヘハ歸(カヘリ)給ハデ、山城(ヤマシロノ)國笠置(カサギ)ト云(イフ)深山(ミヤマ)ニ卜一巖屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長(ナガク)發厭離穢土心鎭專欣求淨土勤シ給ヒケル。《『太平記』卷第十二・千種殿文觀僧正奢侈事解脱上人事》

(カノ)忠圓僧正ト申(マウス)ハ、淨土寺慈勝(ジシヨウ)僧正門弟トシテ、十題判断(ジフダイハンダン)ノ登科(トウクワ)、一山無雙(―サンブサウ)碩學(セキガク)也。《『太平記』卷第二・三人僧徒關東下向事》

2001年9月19日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「聖道(シヤウダウ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、

聖道(シヤウダウ) 。〔元亀本311四〕

聖道(シヤウタウ) 。〔静嘉堂本364一〕

とあって、標記語「聖道」の語注記は未記載にある。ただし、『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「聖道」は、至徳三年本・文明四年本・山田俊雄蔵本に「聖道」と見え、『下學集』は、この語を未収載にする。広本節用集』には、

聖道(シヤウダウせイ・ヒジリ,ミチ)[去・上] 凡呼顕密――也。〔人倫門916四〕

とあって、標記語「聖道」の語注記は「凡そ顕密の宗を呼びて聖道と云ふなり」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

聖道(シヤウダウ) 凡時顕密索曰――。〔・人倫238三〕

聖道(シヤウダウ) 凡呼顕密宗曰――。〔・人倫198四〕

聖道(シヤウタウ) 凡呼顕密曰――。〔・人倫188五〕

とあって、標記語「聖道」を人倫門とし、その語注記は「凡そ顕密宗を呼びて聖道を曰ふ」をいう。さらに易林本節用集』も、

聖道(シヤウダウ) 凡呼顕密(ケンミツ)ノ――。〔言辞241一〕

とあって、標記語を「聖道」は、人倫門に「凡そ顕密の宗を呼びて聖道と云ふなり」と収載されている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「聖道」の語は未収載にあり、「聖教シヤウケウ」〔黒川本・疉字中下77ウ二〕「聖朝」〔黒川本・疉字中下77ウ七〕の二語を収載するにとどまる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

218聖道 八宗之惣名也。〔謙堂文庫藏二五右F〕

とあって、標記語「聖道」の語注記は、「八宗の惣名なり」という。古版『庭訓徃来註』は、

聖道(シヤウタウ)浄土碩学(セキ―)ト云事惣名也。何モ佛ノ内證(ナイシヤウ)ヲ知ラルヽヲ聖道ト云也。八宗ハ何レゾ。一天台宗(テンタイシウ)、二真言宗(シンコンシウ)、三華嚴、四法相宗。五三論宗已上此五箇大乗之宗也。六倶舎(クシヤ)宗。七成實(ジツ)宗、八律宗也此三箇小乗之宗也。是ヲ聖道ト云也。《下略》。〔卅一オ三〕

とあって、この標記語は「聖道」の語注記は「惣名なり。何れも佛の内證を知らるるを聖道と云なり。八宗は何れぞ。一に天台宗、二に真言宗、三に華嚴、四に法相宗。五に三論宗已上此五箇大乗の宗なり。六に倶舎宗。七に成實宗、八に律宗なり此の三箇小乗の宗なり。是れを聖道と云ふなり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓往来諺解大成』(元禄十五年版・勉誠社文庫27)に、

聖道(シヤウタウ)。〔巻之二夏116一〕

という。庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

聖道(しやうたう)聖道。〔廿四ウ五・六〕

とし、この標記語に対する語注記は「」として人物としてこの語を記載するものである。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

聖道(しやうたう)聖道ハ法華(ほつけ)三論(さんろん)天台(てんたい)真言(しんこん)等の僧(そう)の官位(くハんゐ)に昇(のほ)る宗派(しうは)をいふとぞ。〔二十ウ六〕

聖道(しやうたう)聖道ハ法華(ほつけ)三論(さんろん)天台(てんたい)真言(しんこん)等の僧の官位(くわんゐ)に昇(のほ)る宗派(しうは)をいふとぞ。〔三六ウ四〕

とあって、標記語「聖道」とし、語注記は「法華・三論・天台・真言等の僧の官位に昇る宗派をいふとぞ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「聖道」の語は、

Xo<do<.シヤウダイ(聖道)禅宗僧以外のあらゆる坊主.〔邦訳790l〕

とある。

[ことばの実際]

 

2001年9月18日(火)晴れ。東京(八王子)⇒多摩境

「相撲(すまう)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「須」部に、

相撲(スマウ) 。〔元亀本359九〕

相撲(スマウ) 。〔静嘉堂本438一〕

とあって、標記語「相撲」の語注記は未記載にある。ただし、『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「相撲」は、至徳三年本・文明四年本・山田俊雄蔵本に「相撲」と見え、『下學集』は、

相撲(スマウ) 。〔態藝門80五〕

とあって語注記は未記載にある。広本節用集』には、

相撲(スマウ/サウハク,アイ、ウツ)[平去・入] 。〔態藝門1129四〕

とあって、標記語「相撲」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

相撲(スマウ) 。〔・人倫268五〕

相僕(スマウ) 。〔・人倫230二〕

相撲(スマウ) 。〔・人倫216二〕

とあって、標記語「相撲」を人倫門とし、その語注記は未記載にある。。さらに易林本節用集』も、

相撲(スマフ/―ボク) 。〔言辞241一〕

とあって、標記語を「相撲」は、言辞門に収載されている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

相撲(スマフ/―ボク) 。〔黒川本・疉字中〕

相撲(スマフ/―ボク) 。〔卷七疉字〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

216相撲之族 源氏惟仁惟高位争ヨリ始也。〔謙堂文庫藏二四左C〕

相撲(スマウ)之族 源氏惟仁(コレヒト)惟高位争始也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓徃來抄』古寫〕相撲ハ人皇十一代垂仁帝ノ御宇ニ野見ノ宿祢ト振速ト二人取始メシ也。禁裏ニモ昔ハ相撲ノ節會有シ古法行事ハ左右ニ兩人立タリ。北面ノ士是ヲツトム。〔同書込み〕

とあって、標記語「相撲」の語注記は、「源氏惟仁惟高の位争ひより始るなり」という。また、静嘉堂本の書込みとして、「相撲は人皇十一代垂仁帝の御宇に野見の宿祢と振速と二人取り始めしなり。禁裏にも昔は相撲の節會有し。古法行事は左右に兩人立たり。北面の士是れをつとむ」という。古版『庭訓徃来註』は、

相撲(スマイ)之族(ヤカラ)ハ。天竺ヨリ始ル。釈迦牟尼佛(――ムニフツ)因位(インイ)ノ時。悉達太子(シツダタイシ)ニテ。御座(ヲハシマシ)シ時。淨飯王(ジヤウボンワウ)ノ御弟(ヲトヽ)白飯王(ビヤクホン―)ト云シニ。提婆達多(タイハタツタ)トテ大子アリ。彼叔男伴摩耶(マヤ)大臣ノ御娘(ムスメ)耶愉多(ヤシユタ)羅女ヲ論シ給ヒテ。色々ノ態(ワサ)ヲシ。腕押(ウテヲシ)力業(チカラワザ)相撲(スマイ)ナンド取(トリ)給フ。佛ノ世ヨリ始レリ。サテコソ相撲(ソウボク)ト説キ給フ。〔三十ウ九〜四〇オ二〕

とあって、この標記語は「相撲之族」の語注記は「天竺より始まる。釈迦牟尼佛因位の時。悉達太子にて、御座し時、淨飯王の御弟、白飯王と云ひしに、提婆達多とて太子あり。彼の叔男伴、摩耶大臣の御娘耶愉多羅女を論し給ひて。色々の態をし、腕押し・力業・相撲なんど取り給ふ。佛の世より始れり。さてこそ、相撲と説き給ふ」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓往来諺解大成』(元禄十五年版・勉誠社文庫27)に、

相撲(スマイ)之族。〔巻之二夏116一〕

という。庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

相撲(すまい)相撲。〔廿四ウ五・六〕

とし、この標記語に対する語注記は「武道の藝を心得たる者なり」として人物としてこの語を記載するものである。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

相撲(すまい)相撲。〔二十オ六〕〔三六ウ三〕

とあって、標記語「相撲」とし、語注記は「」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「相撲」の語は、

Sumo<.スマゥ(相撲)相撲.§Sumo<uo toru.(相撲を取る)相撲をする.〔邦訳588r〕

とある。

[ことばの実際]

力はさのみなふて手のきいたるを頼みにして。相撲をすく男あり。又手をとる心はすこしもなくて。たゝちからのあるをうでにして。相撲をこのむ坊主あり。双方名乗あひ。僧と俗といくたひとれとも。力のつよきにより。手をやくにたてす。坊主かちとをしけれは。俗腹をたち。見物のおほき時。まけてのき様に。高高と声をあけ。いかほとの坊主ともすまひをとりたるか。あの入道ほと。すしくさいやつに。あふたことかないと悪口はかりにかちしおかしさよ。《『醒睡笑』巻之一》

2001年9月17日(月)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)

「武藝(ブゲイ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「武」部に、

武藝(―ゲイ) 。〔元亀本223三〕

武藝(―ケイ) 。〔静嘉堂本255二〕

とあって、標記語「武藝」の語注記は未記載にある。ただし、『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「武藝」は、至徳三年本・文明四年本・山田俊雄蔵本に「武藝」と見え、『下學集』は、未収載にある。広本節用集』には、

武藝(ブゲイ/タケシ,シワザ)[上・去] 。〔態藝門634五〕

とあって、標記語「武藝」の語注記は未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

武運(ブウン)。―藝(ゲイ)―家(ケ)公家――。―士(シ)―勇(ユウ)―兵(ヒヤウ)。〔・言語進退183六〕

武勇(フヨウ)―兵(ブヒヤウ)。―藝(ゲイ)。―運(ウン)。〔・言語150三〕

武勇(ブヨフ)―兵。―藝。―運。〔・言語139九〕

とあって、標記語を「武藝」は、冠頭語「」の熟語として収載されている。さらに易林本節用集』も、

武略(ブリヤク)―邊(ヘン)。―具(グ)。―家(ケ)。―藝(ゲイ)。〔言辞151三〕

とあって、標記語を「武藝」は、冠頭語「」の熟語として最後に収載されている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

武藝――ト。フケイ。武猛同。武士同。武勇同勇イ本。フヨウ。武略同。不和同。〔黒川本・疉字中107オ二〕

武士 〃者。〃勇。〃藝。〃賁。〔卷七疉字84六〕

とある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

215經師摺師縫物師武藝 弓法等心得タル云也。〔謙堂文庫藏二四左B〕

經師摺師(スリシ)・縫物師武藝 弓法等心人云也。〔東洋文庫藏『庭訓之鈔』〕

摺師(スリジ)・經師縫物師(ヌイ――)・武藝(―ケイ) 弓法等心得云也。〔静嘉堂本藏『庭訓徃來抄』古寫〕※――物摺着者。〔同書込み〕

とあって、標記語「武藝」の語注記は、「弓法等を心得たる人を云ふなり」という。古版『庭訓徃来註』は、

武藝(ブゲイ)ニ數(カズ)(ヲヽク)アリ。何モ人ノ知召(シロシメサ)ルヽ事ナリ。〔三十ウ八〕

とあって、この標記語は「武藝」語注記は「數多くあり。何れも人の知召さるる事なり」という。時代は降って、江戸時代の『庭訓往来諺解大成』(元禄十五年版・勉誠社文庫27)に、

武藝。〔巻之二夏116一〕

という。庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

武藝(ふけい)武藝武道の藝を心得たる者なり。〔廿四ウ五・六〕

とし、この標記語に対する語注記は「武道の藝を心得たる者なり」として人物としてこの語を記載するものである。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

武藝(ぶげい)武藝ハ弓馬(きうば)剱術(けんしゆつ)等をすべていふ。〔二十オ六〕

武藝(ぶけい)武藝ハ弓馬(きうは)剱術(けんしゆつ)等をすべていふ。〔三六ウ三〕

とあって、標記語「武藝」とし、語注記は「弓馬剱術等をすべていふ」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「武藝」の語は、

‡Buguei.ブゲイ(武芸) →Buguey.〔邦訳64r〕

Buguey. ブゲイ(武芸) Taqeqi xiuaza.(武きしわざ)武技,または,戦術.〔邦訳64r〕

未収載である。

[ことばの実際]

平家馬の氣を休てかけゝれは源氏大内へ引返し源氏馬の氣をつかせてかくれは平家大みやへ引のく兵共互に命をおしますいれかへ/\ふけいのみちをそほとこしける悪源太申されけるは義平御さき仕候はんとてかまた兵衞うちくしてさきをかけてそたゝかひける鎌田か下人に八町次郎と云者あり《『平治物語』》

2001年9月16日(日)晴れ後曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川)⇔浅草橋

「摺師(すりシ)「縫物師(ぬひものシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「須」部に、標記語を「摺師」そして、「奴」部に標記語「縫物師」の語は未収載にある。ただし、

(スル) 。〔元亀本362八〕〔静嘉堂本442二〕

縫物(ヌイモノ) 。〔元亀本75二〕〔静嘉堂本91二〕〔天正十七年本上45ウ二〕〔西來寺本135五〕

とあって、「」や「縫物」の語は見えている。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「摺師」と「縫物師」とは、至徳三年本に「摺縫物師」。文明四年本に「摺縫物師(スリヌ井モノシ)」そして、山田俊雄蔵本に「摺縫物師」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語を「摺師」「縫物師」の語は未収載にする。さらに易林本節用集』も未収載にある。ここで、古写本『庭訓徃來』にこの「摺師」の語が収載されていないことからも、注記の段階で補足挿入されたことが伺え、古辞書はこれを反映していてか未收載状況にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

215經師摺師縫物師武藝 弓法等心得タル云也。〔謙堂文庫藏二四左B〕

經師摺師(スリシ)・縫物師武藝 弓法等心人云也。〔東洋文庫藏『庭訓之鈔』〕

摺師(スリジ)・經師縫物師(ヌイ――)・武藝(―ケイ) 弓法等心得云也。〔静嘉堂本藏『庭訓徃來抄』古寫〕※――物摺着者。〔同書込み〕

とあって、標記語「摺師」と「縫物師」の語注記は、未記載にある。ここで、静嘉堂本が「摺師」の語を「經師」の前に排列する点が他写本『庭訓往来註』と異なるものである。そして、読みは「すり」と第三拍を濁音表記としている。その上に、「摺師」の書込みに「物の文を摺着る者」という。古版『庭訓徃来註』は、

摺縫物師經師(キヤウシ)衣裳(イシヤウ)ヲ仕立ル者ナリ。〔三十ウ八〕

とあって、この標記語は「摺師」ではなく、古写本『庭訓徃來』と同じく「摺縫物師」とし、語注記は未記載にある。時代は降って、江戸時代の『庭訓往来諺解大成』(元禄十五年版・勉誠社文庫27)に、

摺縫物師衣裳(イシヤウ)の摺絵紋(スリヱモン)を縫(ヌフ)もの也。〔巻之二夏116一〕

という。庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

摺縫物師(すりぬいもの―)摺縫物師志のぶすりなとするものを摺物師と云。今の上絵(うわゑ)師かたつけの類なり。〔廿四ウ五・六〕

とし、この標記語に対する語注記は「志のぶずりなどするものを摺物師と云ふ。今の上絵師かたつけの類なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

摺縫物師(すりぬひものし)摺縫物師ハ衣裳(いしやう)の摺絵(すりゑ)(ぬひ)絵をする者なるへし。〔二十オ六〕〔三六ウ二〕

とあって、標記語「摺縫物師」とし、読みを「すりぬひもの」とし、語注記は「衣裳の摺絵繍絵をする者なるべし」という。

 当代の『日葡辞書』には、標記語を「摺師」の語は未収載である。

[ことばの実際]

 

2001年9月15日(土)敬老の日 晴れ一時曇り所により雨。東京(八王子)⇒練馬

「經師(キヤウシ・キヤウジ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「幾」部に、標記語を「經師」の語は未収載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「經師」(至徳三年本及び文明四年本・山田俊雄蔵本は未收載)と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、標記語を「經師」の語は未収載にする。さらに易林本節用集』も未収載にある。ただし、永祿十一年本節用集』にはこの標記語「經師(キヤウジ)」が収載されている。また、『塵芥』には、「經師(キヤウシ)」とある。ここで、古写本『庭訓徃來』にこの語が収載されていないことからも、注記の段階で補足挿入されたことが伺え、古辞書はこれを反映していてか未收載状況にあり、そうしたなかでも永祿十一年本節用集』は特異な様相を見せているのである。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

215經師摺師縫物師武藝 弓法等心得タル云也。〔謙堂文庫藏二四左B〕

とあって、標記語「經師」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』は、

摺縫物師經師(キヤウシ)衣裳(イシヤウ)ヲ仕立ル者ナリ。〔三十ウ八〕

とあって、この「經師」の語注記は、未記載にある。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

經師(ふつし)經師。〔廿四ウ五〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

經師(キヤウシ)經師。〔二十オ六〕〔三六ウ二〕

とあって、標記語「經師」とし、読みを「キヤウシ」とし、語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

†Qio<jiya.キャゥジヤ(経師屋)すなわち、Qio< firaqi,coxiraye,tozzuru iye.(経開き,拵へ,綴づる家)印刷所,または,本屋.〔邦訳502r〕

とあり、標記語を「経師」での収載はないが、「経師屋」という店舗として収載が見られる。読みは「キョウジヤ」でその注記説明は「印刷所,または,本屋」とあり、経文の書写・印刷・仕立てという過程を行う家業をいう。

[ことばの実際]

 

 

2001年9月14日(金)曇り。東京(八王子)⇒浅草橋⇔世田谷(駒沢)

「佛師(ブツシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「福」部に、

佛師(―シ) 。〔元亀本223五〕

佛師(ブツシ) 。〔静嘉堂本255六〕

とあって、標記語を「佛師」とし、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「佛師」(至徳三年本は「仏師」。文明四年本は「佛師(フツシ)」と表記)と見え、『下學集』に、標記語を「佛師」の語注記は未収載にする。広本節用集』にも、

佛師(ブツシ/ホトケ,ヲシユ・モロ/\)[上濁・○] 即佛工。〔人倫門620二〕

とあって、標記語を「佛師」とし、その語注記は、「すなはち、佛工」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、『下學集』と同じくこの標記語を未収載にする。さらに易林本節用集』は、

佛祖(フツソ) ―師(シ)。〔人倫148七〕

とあり、標記語「佛祖」の冠頭字「佛」ぼ熟語として収載し、語注記は未記載にする。

  鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

佛師 フツシ。〔黒川本・人倫中102六〕

佛師 。〔卷八・人倫49三〕

とあって「佛師」の語が見えている。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

214佛師 優填王仁王畫像用栴檀|。佛此雕像始也。作者毘首羯摩帝尺十人臣下七番目也。其故釈迦帝尺ニ|優填王給也。其心釈迦帝尺モ/ミ羯摩道行人作_成優填王在所(ヤリ)給也。作終タリ。佛座像也。或時佛〓〔小+刀〕利釈迦之迎行_給時釈迦曰、汝東方万八千土ルト仰也。波斯匿王優填王造佛黄金也。造像始也。内典録云、後漢明帝使秦景徃天竺月支国。得優填王雕像ヲ|。尋(ツイ)テシム洛陽。帝金-人光有ミル西天竺使秦景也。日本嵯峨釈迦羯摩作也。本朝_亊奈良仁孝上人之。一条院時也。仁孝細工作_替之也。羯摩即天竺釈迦也。日本作者定朝一条院人。位法橋上人ニ|。綱位是始。其後-後鳥羽院人也。其弟子湛慶安阿弥陀佛云者有。今佛師其末流。〔謙堂文庫藏二四右D〕

静嘉堂本庭訓徃來抄』(古寫)は「仏師」と表記する。

とあって、標記語「佛師」の語注記は、仏像を刻む職人の祖ともいう「毘首羯摩」のことを記す。そして天竺・震旦そして本朝というこれに関る逸話やその経緯を示し、本朝の佛師の祖である「定朝」、以後の「運慶」、その弟子の「湛慶安阿弥陀佛」と記述するものである。古版『庭訓徃来註』は、

佛師ハ。毘首羯磨天(ヒシュカツマテン)トイフ。天人仕始ナリ。〔三十ウ八〕

とあって、この「佛師」の語注記を仏像創始者の名として「毘首羯磨天」を記すに留めている。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

佛師(ふつし)佛師。〔廿四ウ五〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

佛師(ぶつし)佛師。〔二十オ六〕〔三六ウ二〕

とあって、標記語「佛師」とし、読みを「ぶつし」とし、語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Buxxi.ブッシ(仏師) Fotoqe tcucuri(仏作り)に同じ.偶像〔仏像〕を彫刻して作る人.〔邦訳69r〕

とあり、読みも「ブッシ」とし、注記の説明は「仏作りに同じ.偶像〔仏像〕を彫刻して作る人」という。

[ことばの実際]

知識を引率し、佛師を勸請して、佛の耳を造ら令め、鵜田の里に堂を造りて、尊像を居きて供養す。〔引率知識 勸請佛師 令造佛耳 鵜田里造堂 居尊像以之供養〕《『日本霊異記』》

2001年9月13日(木)晴れ。京都⇒奈良・大坂⇒東京(八王子)

「繪師畫師(ヱシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「衛」部に、

畫師(エシ)。〔元亀本336八〕

畫師(ヱシ)。〔静嘉堂本402四〕

とあって、標記語を「畫師」とし、その読みは元亀本が「シ」、静嘉堂本は「シ」とする。語注記は未記載にある。『庭訓徃來』(至徳三年本。但し、文明四年本はこの語を欠く)には、卯月五日の状に「繪師」と見え、『下學集』に、

繪師(エシ)。〔人倫門39五〕

とあって、標記語を「繪師」として、その読みは「エシ」であり、語注記は未記載にする。広本節用集』にも、

繪師(ヱクワイ,ヲシユ・モロ/\)畫書(ヱカキ)。職人。〔人倫門699七〕

とあって、標記語を『下學集』と同じく「繪師」とし、その語注記は、「畫書。職人」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

畫師(エシ) 。〔・人倫193七〕

繪師(エシ) 。〔・人倫159六〕〔・人倫148七〕

とあって、弘治二年本が『運歩色葉集』と同じ「畫師」と表記し記載する。これに対し、永禄二年本尭空本の方は、『庭訓徃來』そして『下學集』⇒『庭訓徃來註』⇒広本節用集』と同じく「繪師」で表記し記載する。「」と「」という文字表記の異なりを示している。この点から、『運歩色葉集』と弘治二年本節用集』がかなり緊密な連関性を有していることを指摘できよう。だが、この二本だけが『庭訓徃來』を基軸とした「繪師」の標記語を用いずに「畫師」の表記を採録したのかという文字表記上の問題は解決されていない。通常であれば、「或作○」や「又作○」といった注記形式により別表記があることを注記するか、はたまた、表記文字を並列標記語として記載するところである。だがここには、そうした姿勢が全く見えず、「」と「」の文字表記は等価であるという書写意識のもとで採用された点に注目せねばなるまい。さらに易林本節用集』は、

繪師(ヱシ) 。〔惠部人倫220三〕

とあり、ワ行部にこの語を収載し、語注記は未記載にする。

  鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

畫師(エシ/クワ―)。繪師 同。俗用之。李放 繪師之名也。〔黒川本人倫・下84ウ七〕

畫師 ヱシ/クワ―)。繪師 俗用之。李放 繪師之名。畫公 繪師也。〔卷十人倫297五〕

とあって、標記語「畫師」と「繪師」の両表記の語を収載し、「繪師」の語注記に「俗に之を用ゆ」とある。このことからも、正規表記としては、「畫師」の語を使い、世俗では「繪師」と表記することが確認できるのである。ここで、正規表記とは、朝廷内裏などでの公的名称として使用するものであり、俗とは一般社会での名称ということになる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

213陰陽師繪師 陰陽亊。在上。繪日本ニハ金岡畫工也。一条院人也。至大納言。〔謙堂文庫藏二四右D〕

とあって、標記語「繪師」の語注記は、「繪は日本には金岡畫工なり。一条院の時の人なり。大納言に至るなり」という。古版『庭訓徃来註』は、この「繪師」の語を未收載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

繪師(ゑし)繪師。〔廿四ウ四・五〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

繪師(ゑし)繪師。〔二十オ六〕〔三六ウ二〕

とあって、標記語「繪師」とし、読みを「ゑし」とし、語注記は未記載にする。

 当代の『日葡辞書』には、

Yexi.エシ(繪師) 画家.〔邦訳821r〕

とあり、読みも「エシ」とし、注記の説明は「画家」という。

[ことばの実際]

兼房畫圖にたへずして、後朝に繪師をめして、をしへてかゝせけるに、夢にみしにたがはざりければ、悦て其影をあがめてもたりけるを、白川院、この道御このみありて、彼影をめして、勝光明院の寶藏におさめられにけり。《『古今著聞集』二〇四・清輔所傳の人丸影の事・大系181十五》

2001年9月12日(水)曇り。京都

「陰陽師(ヲンヤウジ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遠」部に、

陽師(ヲンヤウジ)。〔元亀本81十〕

陰陽師(ヲンヤウシ)。〔静嘉堂本100六〕

陰陽師(―――)。〔天正十七年本上50オ一〕

〔西來寺本はこの語を未收載にする〕

とあって、標記語「陰陽師」の読みは元亀本が「ヲンヤウジ」、静嘉堂本は「ヲンヤウシ」とする。語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「陰陽師」と見え、『下學集』に、

陰陽師(ヲンヤウシ)。〔人倫門41一〕

とあって、標記語「陰陽師」の読みは「ヲンヤウシ」であり、語注記は未記載にする。広本節用集』には、

陰陽師(ヲンヤウシイン・カゲ,ミナミ・ヲシユ)。〔人倫門211二〕

とあって、標記語「陰陽師」の語注記は、『下學集』と同様に未記載にある。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

陰陽師(ヲンヤウジ) 或作士。〔・人倫62六〕

陰陽師(ヲンヤウジ)。〔・人倫64二〕〔・人倫67七〕

陰陽師(ヲンヤウシ)。〔・人倫58二〕

とある。ここで弘治二年本は、語注記に「或作○」形式で「陰陽士」なる標記を示している。他の三本には未記載である。読みは、尭空本だけが『下學集広本節用集』と同じ「ヲンヤウシ」であり、残り三写本はすべて「ヲオヤウジ」と第五拍を濁音標記する。さらに易林本節用集』は、未收載にする。

  鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、「陰陽師」の語は未収載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

213陰陽師繪師 陰陽亊。在上。繪日本ニハ金岡畫工也。一条院人也。至大納言。〔謙堂文庫藏二四右D〕

陰陽ハ天地開闢以来至∨今。月陰陽兩歟。是気。日月出入星辰大教哥星客星雲〓〔雨+矛〕起様記之。似天下是非之官也。去安部清明天文博士タリシ時、花山院御在位、寛和三年六月廿二日夜至深更御心靜ニシテ、大集經看読御座其経文之妻子珎宝及王位臨命終時不随者唯戒及施不放逸今世后世為伴侶此文読侍御世思召立。是モ弘徽殿女御被薨。其哀情依、除ト云ヘリ。清明其夜伺。侍天子位下サレ給相星気(キ)是見タリトテ急速参載内申也。既ハヤ不明門、御出侍処参内タリ。是清明一代面目。后代家名也。陰陽師ト云ハ天下人師也。主日月星辰也。〔静嘉堂文庫藏『庭訓往来抄』古寫・頭冠書込み〕

とあって、標記語「陰陽師」の語注記は、「陰陽の亊、上に在り」という。これは三月十二日の状に見える「陰陽頭」のことで、(2001.06.03付)で扱ったことがらをさしている。古版『庭訓徃来註』は、

陰陽師(ヲンヤウシ)ハ。内典(ナイテン)外典(ゲ―)ヲ知テ。曜宿相應(ヨウシユウソウ―)ヲシル者ナリ。又ヲンヤウジトテ有。占(ウラナ) ヒ算(サン)ヲシテ。人ノ吉凶(キツケウ)ヲ知ラスル者ナリ。楊柳(ヤウリウ)觀音ノ御態(ワサ)也。〔三十ウ七〕

とあり、標記語を「陰陽師」とし、語注記は「内典・外典を知りて、曜宿相應をしる者なり。また、ヲンヤウジとて有り。占ひ算をして、人の吉凶を知らする者なり。楊柳觀音の御態なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

陰陽師(おんやう―)陰陽師三月十三日の返状陰陽の頭の下の注を見るへし。〔廿四ウ四・五〕

とし、この標記語に対する語注記は、「三月十三日の返状陰陽の頭の下の注を見るへし」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

陰陽師(をんやうし)陰陽師ハ三月返状に見ゆ。〔二十オ六〕

陰陽師(をんやうし)陰陽師ハ三月返状(へんしやう)に見ゆ。〔三六ウ二〕

とあって、標記語「陰陽師」とし、読みを「ヲンヤウシ」とし、語注記は「三月返状に見ゆ」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Vonyo<ji.ヲンヤウジ(陰陽師)Vrabaiuo suru mono.l,facaxe(占ひをする者。または,博士)呪術師,または,占い師.〔邦訳715r〕

とあり、読みも「ヲンヤウジ」と第五拍を濁るだけの記載となっている。これは、古版『庭訓徃来註』の記載からすれば、古典的な清音表記を採録しなったことにもなる。現代の多くの国語辞典でも、古語としてこの清音読みの「をんやうし」を見出し語として採録していないのが現状である。

[ことばの実際]

たゞいたづらに代々の帝の寶藏に篭め置かれたりけるを、その比一條堀河に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者あり。天下の御祈祷して有(り)けるが、これを給はりて祕藏してぞ持ちたりける。《『義経記』二》

サラバ陰陽師(オンヤウシ)ニ門ヲ封ゼサセヨトテ、符(フウ)ヲ書(カカ)セテ門々ニ押(オ)セバ、目ニモ見ヘヌ者來(キタツ)テ、符(フウ)ヲ取(トツ)テ棄(ステ)ケル間、角(カク)テハ如何(イカガ)スベキト思煩(オモヒワヅラヒ)ケル處ニ、彦七ガ縁者ニ禪僧ノ有(アリ)ケルガ來(キタツ)テ申(マウシ)ケルハ、「抑(ソモソモ)今現(ゲン)ズル所ノ惡靈(アクリヤウ)共ハ、皆脩羅(シユラ)ノ眷屬(ケンゾク)タリ。《『太平記』巻第二十三○大森彦七事》

2001年9月11日(火)雨、台風15号の影響。東京(八王子) ⇒京都

「醫師(イシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「伊」部に、

醫師(イシ)。〔元亀本10八〕

醫師(―シ)。〔静嘉堂本2一〕

醫師(イシ)。〔天正十七年本上3オ八〕

醫師(イシ)。〔西來寺本14五〕

とあって、標記語「醫師」の語注記は未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「醫師」と見え、『下學集』及びこの標記語「醫師」を未收載にする。広本節用集』には、

醫師(イシ/クスシ,ヲシユ・モロ・イクサ)自(ヨリ)岐伯(キハク)(ハシマル)也。又醫者(イシヤ)モ同。〔人倫門7一〕

とあって、標記語「醫師」の語注記は、「岐伯より始まるなり。又醫者も同じ」という。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』には、

醫師(イシ)。〔・人倫4七〕〔・人倫2六〕

醫師(イシ) ―者。〔・人倫3一〕〔・人倫3五〕

とある。ここでは、語注記をもって見た場合、二系統に分岐する様相にある。すなわち、弘治二年本永祿二年本は語注記を未記載にするのに対し、尭空本両足院本は、語注記として「醫者」を収載することである。この注記語「醫者」は広本節用集』にも収載が見られるものであり、これを付記するかしないかの基準がどうあったのかを検証せねばなるまい。さらに易林本節用集』についてみるに、

醫師(井シ) ―者(シヤ)。〔為部人倫121四〕

とあって、「伊」部から「為」部へと移行し、ワ行の「井」表記で「井シ」と読みを示している点は他の『節用集』類にないもので特徴付けられている。読みを「井シ」で表記する他古辞書では『伊京集』がある。語注記は「醫者」の語を示すものである。天正十七年本天正十八年本・黒本本・饅頭屋本増刊節用集』、そして『塵芥』は、「伊」部収載で語注記の未記載の系統となっている。

 このように、室町時代の古辞書にあって、『下學集』はこの「醫師」の標記語を収載しない状況にあり、いわば『節用集』からの収載となっている。そのなかで、伊勢本系統の多くが語注記を未記載にするなかで、広本節用集』を筆頭とした印度本系統の尭空本両足院本節用集』、はたまた乾本系統の易林本節用集』に語注記「醫者」が記載されていることは、職制呼称だけではなくして、世俗一般が用いるところの語を取り組む時代対応型の積極編纂姿勢として注目に値する。その点においては『運歩色葉集』も「醫者」なる語を収載していることを指摘しておきたい。いま、キリタン版『落葉集』本文篇「い」部と比較してみるに、

醫師(イシ)。醫骨(イコツ)。○別語「逸物」。醫書(イシヨ)。醫學(イガク)。醫者(イシヤ)。醫術(イジユツ)。〔元亀本10八・九〕

(い/くすし)・―(け/いへ) ―(しや/ひと) ―(し/つかさ) ―(じ/おとこ) ―斈士(がくじ/まなぶおとこ) ―(だう/みち) ―(はう/のり) ―(がく/まなぶ) ―(じゆつ/みち) ―(れう/いやす) ―(ほう/みち) ―(こう/つとむ) ―(しよ/かく) 。〔1オ二〕

と収載するなかで、双方とも当該の語である「醫師」も「醫者」の語も収載が見られ、排列からみると、「醫者」の方が前に収載されている分、『落葉集』の排列が世俗性の強いものとなっているといえよう。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

() 於其反。クスシ。又乍醫同。〔黒川本久部人倫中73ウ五〕

クスシ。―師。〓〔醫-巫〕同。〔卷六人倫399一〕

とあって標記語「」を収載し、読みを和訓で「くすし」とする。「伊」部に標記語「醫師」「醫者」は未收載にある。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

212并醫師 耆婆末流也。上念比タリ扁鵲末戦国名醫也。日本ニハ和氣丹波兩氏相傳也。浴朝恩家業嗜侍也。〔謙堂文庫藏二四右B〕

世話ニモ耆婆カヽツテモユカズ、扁鵲デモカナハヌト云程の名醫也。〔静嘉堂本庭訓徃來抄』古寫冠頭書込〕

とあって、標記語「醫師」の語注記は、「纏つて夜行し人に逢ふ者なり」という。古版『庭訓徃来註』は、

醫師(イシ)ハ。クスシナリ。天竺(ヂク)ニテハ耆婆(キハ)。太唐(タイタウ) ニテハ扁鵲(ヘンジヤク)。日本ニテハ。大典藥(テンヤク)ナリ。〔三十ウ五〕

とあり、標記語を「醫師」とし、語注記は「天竺にては耆婆。太唐にては扁鵲。日本にては大典藥なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

醫師(いし)醫師なり。〔廿四ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にある。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

醫師(いし)醫師。〔二十オ六〕〔三五ウ五〕

とあって、標記語「醫師」とし、読みを「イシ」とし、語注記は未記載にある。

 当代の『日葡辞書』には、

Ixi.イシ(医師) Cusuxi(薬師・医師)に同じ.医者.〔邦訳348l〕

IXa. イシャ(醫者) 医者.〔邦訳348l〕

Cusuxi. クスシ(薬師・医師) 医者.⇒I(医);Ixi(医師);Megusuxi.〔邦訳174l〕

とあって、「イシ【医師】」を統括語として、「イシャ【医者】」「くすし【薬師】」の語を収載する。

[ことばの実際]

同じき年四月二十日、尊氏卿(セナカ)に癰瘡(ヨウサウ)出て、心地(ココチ)(レイナラ)御座(オハシ)ければ、本道(ホンダウ)・外科(ゲクワ)医師(イシ)、數を盡して参集る。倉公(サウコウ)・華佗(クワタ)が術(ジユッ)を盡し、君臣佐使(サシ)の薬を施(ホドコ)し奉れ共、更(サラ)に無(シルシ)。《『太平記』巻第三十三,将軍御逝去の事・大系三254二》

2001年9月10日(月)雨、台風15号の影響。東京(八王子)

「夜發(ヤホツ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「屋」部に、「夜叉(ヤシヤ)。夜陰(―イン)。夜深(ヤジン)。夜盗(―タウ)。夜遊(―ユウ)。夜行(―カウ)。夜分(―ブン)。夜半(―ハン)。夜食(―シヨク)。夜番(―ハン)。夜學(―ガク)」の十一語を収載するが、この「夜發」の標記語は未収載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「夜發」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』さらに易林本節用集』も、この標記語「夜發」を未收載にする。

このように、室町時代の古辞書はすべて未収載の語となっている。キリタン版『落葉集』に、

夜發(やほつ/よる,をこる) 。〔58二〕

と収載している。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

夜發(ヤホツ) 夫婦ト。〔黒川本疉字中87ウ三〕

とあって、標記語「夜發」を疉字門に収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

211遊女夜發之輩 纏而夜行人者也。〔謙堂文庫藏二四右B〕

とあって、標記語「夜發」の語注記は、「纏つて夜行し人に逢ふ者なり」という。古版『庭訓徃来註』は、

遊女夜發(ヤホツ)ノ之輩并 何(イツレ)モ遊ビ者ナリ。〔三十ウ五〕

とあり、標記語を「夜發」とし、語注記は「遊女」を含め「いづれも遊び者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

傾城(けいせい)白拍子(しらひやうし)遊女(ゆふしよ)夜發(やほつ)ノ(ともから)傾城白拍子遊女夜發けいせいしらひやうしゆう女やほつハミな買女(はいちよ)なり。〔廿四ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は、「けいせい・しらひやうし・ゆう女・やほつハミな買女なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

夜發(やほつ)夜發ハ辻君(つちきミ)惣嫁(さうか)の類也。〔二十オ六〕

夜發(やほつ)夜發ハ辻君(つちきミ)惣嫁(そうか)の類也。〔三五ウ五〕

とあって、標記語「夜發」とし、読みを「やほつ」とし、語注記は「辻君(つちきミ)惣嫁(そうか)の類なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Yafot.ヤホッ(夜發) 例,Yafotno tomogara.(夜発の輩)ほかの人々を楽しませることを職とする遊女や舞女.〔邦訳807l〕

とあり、その用例は『庭訓徃來』に依拠している。

[ことばの実際]

《『サントス御作業』二》

夜發やほち【和名】○京大阪にて。そうかといふ(いにしへ辻君立君なといへるものゝたくひか、大坂にて濱君なとゝ古くいえり)。江戸にて。よたかといふ。紀州にて幻妻(げんさい)といふ。長崎にて。はいはちと云。四國にて。けんたんといふ(間短と書か)。大坂及尾州にて人の妻をげんさいと云。是は罵(の)る詞に用ゆと見えたり。【春秋左氏傳】昭八年有仍氏(シヤウ―)ノ女鬢黒シテ面光ケテ玄妻。《『物類称呼』巻一15十四》

2001年9月9日(日)雨時々曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「遊女(ユウジヨ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「遊」部に、

遊女(―ヂヨ)。〔元亀本292二〕

遊女(――)。〔静嘉堂本339二〕

とあって、標記語を「遊女」で元亀本は「―ヂヨ」とし、静嘉堂本は読みを未記載にする。それぞれ語注記を未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「遊女」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』さらに、この標記語「遊女」を未收載にする。

そして、易林本節用集』は、

遊君(ユウクン) ―女(チヨ)。〔人倫193二〕

とあって、標記語「遊君」の冠頭「遊」の熟語注記として「遊女」の語を記載し、語注記は未記載にある。このように、室町時代の古辞書では『運歩色葉集』と易林本節用集』とに見える以外はすべて未収載の語となっている。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

遊女(イウ―)アソヒ。遊行女兒同。〔黒川本人倫下23ウ七〕

遊女アソヒ。遊行女兒同。〔卷八人倫290一〕

標記語「遊女」と「遊行女兒」として、語注記は「あそび」を記載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

211遊女夜發之輩 纏而夜行人者也。〔謙堂文庫藏二四右B〕

とあって、標記語「遊女」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』は、

遊女夜發(ヤホツ)ノ之輩并 何(イツレ)モ遊ビ者ナリ。〔三十ウ五〕

とあり、標記語を「遊女」とし、語注記には「いづれも遊び者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

傾城(けいせい)白拍子(しらひやうし)遊女(ゆふしよ)夜發(やほつ)ノ(ともから)傾城白拍子遊女夜發けいせいしらひやうしゆう女やほつハミな買女(はいちよ)なり。〔廿四ウ三・四〕

とし、この標記語に対する語注記は、「けいせい・しらひやうし・ゆう女・やほつハミな買女なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

遊女(いふちよ)遊女爰にハ今俗(ぞく)にいふおやま乃類。〔二十オ六〕

遊女(いふちよ)遊女(こゝ)にハ今俗(そく)にいふおやまの類。〔三五ウ五〕

とあって、標記語「遊女」とし、読みを「いふちよ」とし、語注記は「爰にハ今俗にいふおやまの類」という。

 当代の『日葡辞書』には、

†Asobivonna.アソビヲンナ(遊女) 遊女.〔邦訳35l〕

Yu<gio.ユフジヨ(遊女) Qeixei(傾城)に同じ.遊女.〔邦訳834r〕

という。江戸時代の古辞書『書字考節用集』には、

遊女(ユウジヨ)[毛詩]又出太字。〔卷四72四〕

遊女(タハレメ)出字。〔卷四33六〕

とあって、字音「ユウジョ」の読みのほか「たはれめ」という和訓の読みを記載している。

[ことばの実際]大江匡房『遊女記』(群書類従所載)。

(あき)の水(みづ)は未(いま)遊女(いうぢよ)の佩(おもの)を鳴(な)らさず。寒雲(かんうん)は空(むな)しく望夫(ばうふ)の山(やま)に滿(み)てり。賀蘭遂(がらんすい) 秋水未鳴遊女佩 寒雲空滿望夫山 賀蘭遂《『和漢朗詠集』巻六・遊女》

亭主院(ていじのゐん)の、河尻(かはじり)におはしまししに、白女(しろめ)といふ遊女(あそび)召して、御覧(ごらん)じなどせさせたたまひて、「はるかに遠くさぶらふよし、歌につかうまつれ」と仰(おほ)せ言(ごと)ありければ、よみて奉りし、 浜千鳥(はまちどり)飛びゆくかぎりありければ雲立つ山をあはとこそ見れいといみじうめでさせたまひて、物かづけさせたまひき。「命だに心にかなふものならば」も、この白女が歌なり。《『大鏡』宇多法皇と遊女白女との出会い》

近き宿々より迎へ取て遊びける遊君遊女共、或は頭蹴破れ、腰蹈折れて、喚叫ぶ者多かりけり。《『平家物語』卷五・富士川》

又の日は兵庫迄(ひやうごまで)(き)て、遊女(ゆうぢよ)の有樣昼夜(ちうや)のわかちありて、半夜(はんや)とせはしくかぎり定めるは、今にも此津(このつ)は風にまかする身(み)とて、舟子(ふなこ)のよびたつる声(こゑ)に小歌(こうた)を聞(きゝ)さし、或(あるい)は戴(いたゞひ)てさし捨(すて)にして行((ゆく))は、こゝろのこす人はのこるべし。《井原西鶴好色一代男』》

2001年9月8日(土)曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「縣御子(あがたみこ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「安」部に、

縣神女(アガタミコ)。〔元亀本262十〕

縣神子(アカタミコ)。〔静嘉堂本298九〕

とあって、標記語を元亀本は「縣神女」とし、静嘉堂本は「縣神子」として異なり、それぞれ語注記を未記載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「縣御子」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』さらに、易林本節用集』は、この標記語「縣神女」「縣神子」「縣御子」を未收載にする。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「縣御子」を未收載にする。いわば、標記語を異にするが、「あがたみこ」を収載するうえで、『運歩色葉集』はまさに特出する古辞書いうことになる。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

209縣御子傾城 列子曰、西施病而〓〔目+賓〕。其里醜人見之美之皈亦捧(ヲサヘ)テ〓〔目+賓〕。彼知コトヲ〓〔目+賓〕而不〓〔目+賓〕之所-以ナル。西施越女也。有絶世。勾踐以与夫差々々嬖国故云傾城也。〔謙堂文庫藏二三左H〕

縣御子―巫女類也。〔国会図書館藏左貫注書込〕

とあって、標記語「縣御子」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』は、

縣御子(アガタミコ)トハ。打掛(ウチカケ)ヲシテ廻(メグ)ル者ナリ。〔廿九オ二〕

とあり、標記語を「縣御子」とし、語注記には「打掛をして廻る者なり」という。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

縣御子(あかたミこ)縣御子在所をめくるみこなり。〔廿四ウ三〕

とし、この標記語に対する語注記は、「在所をめくるみこなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

縣御子(あかたミこ)縣御子ハ今のたゝき御子をいふにや。〔二十オ五〕〔三五ウ五〕

とあって、標記語「縣御子」とし、語注記は「今のたゝき御子をいふにや」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Agata mico.アガタミコ(県巫) 占い師や呪術師として所々方々をめぐる女.〔邦訳14r〕

として、それが女人であることをはじめて記載している。江戸時代の古辞書『書字考節用集』には、

縣神子(アガタミコ)降巫。出伊。〔卷四43オ,313二〕

降巫(イチコ)又云。縣(アガタ)~子。○出安。〔卷四2オ,251二〕

とあって、静嘉堂本運歩色葉集』と同じ標記語「縣神子」が用いられている。また、「降巫」として「いちこ」とも呼称されている。上記講釈の「たたきみこ」の語は未記載である。これについては、『物類称呼』に、

梓巫 あづさみこ 東国にて降巫(いちこ)又、口よせといふ 播磨にて、たたきみこと云。〔卷第一〕

とある。

[ことばの実際]

「あらおもしろの竃神(かまがみ)や、おかまの前(まへ)に松うえて」と、すゞしめの鈴(すゞ)をならして縣御子(あがたみこ)(きた)れり。下(した)にはひはだ色の襟(ゑり)をかさね、薄衣(うすぎぬ)に月日の影(かげ)をうつし、千早(ちは)や懸帶(かけおび)むすびさげ、うす化粧(けしやう)して黛(まゆずみ)こく、髮(かみ)はおのづからなでさげて、其((その))有樣尋常(ぢんじやう)なるは中々お初尾(はつお)のぶんにて成((なる))まじ。《井原西鶴『好色一代男』口舌の事ふれ》

2001年9月7日(金)雨後曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「琵琶法師(ビハホウシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「飛」部に、標記語「琵琶法師」を未収載にする。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「琵琶法師」と見え、『下學集』、及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』さらに、易林本節用集』は、この標記語「琵琶法師」を未收載にする。ただ、古写本『下學集』のなかで春林本下學集』に、

座頭(ザトウ) 琵琶(ビハ)法師。〔春林・人倫門30六〕

座頭(サトウ) 琵琶(ビワ)法師。〔元和・人倫門40一〕

とあって、標記語「座頭」の語注記に「琵琶法師」を収載する。これは元和本下學集』も同じく語注記に収載する。これを継承する広本節用集』も、

座頭(ザトウ/ユカ,カシラ) 盲目(マウモク)琵琶法師。或頭作。〔人倫門775七〕

とあって、この語を注記語に記載する。印度本系『節用集』は標記語「座頭」の語はあるが、語注記を「盲目」として、「琵琶法師」の語はいずれも未記載にある。

 鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「琵琶法師」を未收載にする。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

208傀儡師琵琶法師 日本三琵琶也。玄象・青山・獅子丸也。法師トハ地~經引之亊也。〔謙堂文庫蔵二三左G〕

琵琶法師―座頭ノ亊也。〔天理図書館藏『庭訓徃來註』書込み〕

琵琶法師―座頭不来称仏城玄覚都テ。▲成都検校ヨリ始也。獅子丸有竜日。琵琶名海老尾轉手外兎眼。免木半壽絃藏肋絃道重_五アリ。路蹊首クヒ甲遠山甲。回ルヲ云礒。腹半月撥面落体福手張月以上象地神之形。〔国会図書館藏左貫注書込み&冠頭注記〕

とあって、標記語「琵琶法師」の語注記は、「日本に三琵琶あるなり。玄象・青山・獅子丸なり。法師とは地~經引きのことなり」という。古版『庭訓徃来註』は、

琵琶法師(ヒワボウシ)ハ中比ハ盲(メシヒ)タル者ハ。入道シテ鼠(ネスミ)色ナル衣ヲキテビワヲ袋(フクロ)ニ入テ廻(メグル)ナリ。是ヲ琵琶法師(ビハホウシ)ト云リ。近代(キン―)公家(クゲ)ニ。或公達(キムタチ)ノ盲目(モウモク)アリシヲ。直垂(ヒタタレ)ヲ著(キ)セテ京中計(ハカリ)ヲ經廻(ヘメグラセ)ラレシ也。餘(アマリ)ニ平家(ヘイケ)面白(ヲモシロ)カリシニ依テ。禁裏(キンリ)ヘ被召琵琶(ヒワ)ヲ彈ジ。物語ヲせシ也。其恩賞(ヲンシヤウ)ニ城ト云字ヲ賜(タマウ)ル也。ヤサ方ハ。上ニツクイチカタハ下ニツク也。何モ城ノ字也。公家達(タチ)ノ會合(クハイカウ)ニハ。先是ヲ崇敬(ソウキヤウ)シテ座上ニ居(スヘテ)(アイ)せラレシ也。其後ヨリ。座頭(サトウ)ニナルナリ。〔廿八ウ六・七〕

とあり、標記語を「琵琶法師」とし、語注記には「中比は盲ひたる者は、入道して鼠色なる衣を着て琵琶を袋に入れて廻るなり。是れを琵琶法師と云へり。近代、公家に。或る公達の盲目ありしを、直垂を著せて京中ばかりを經廻らせられしなり。餘りに平家面白かりしに依って。禁裏へ召させられ琵琶を彈じ、物語をせしなり。其の恩賞に城と云ふ字を賜うるなり。八坂方は。上につく。一方は下につくなり。何れも城の字なり。公家達の會合には。先ず是れを崇敬して座上に居へて愛せられしなり。其後より、座頭になるなり」とその発祥の地と展開を説明している。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

琵琶法師(ひわハうし)琵琶法師成佛といふ盲人(もうしん)平家をかたりはしめしといふ。〔廿四ウ二・三〕

とし、この標記語に対する語注記は、「成佛といふ盲人平家をかたりはしめしといふ」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

琵琶法師(びハほふし)琵琶法師ハ瞽者(こしや)に生佛(しやうふつ)の流(なかれ)にて平家を語(かた)る也。〔二十オ五〕

琵琶法師(びハほふし)琵琶法師ハ瞽者(こしや)に生佛(しやうふつ)の流(なかれ)にて平家を語る也。〔三五ウ五〕

とあって、標記語「琵琶法師」とし、語注記は「瞽者に生佛の流にて平家を語るなり」として同様の内容説明を言葉を変えていう。

 当代の『日葡辞書』には、

Biuabo>xi.ビワボゥシ(琵琶法師) Zato>(座頭)に同じ.剃髪した盲人.〔邦訳58l〕

という。

[ことばの実際]

また、或人の許(モト)にて、琵琶法師(ビハホフシ)の物語を聞かんとて琵琶を召(メ)し寄(ヨ)せたるに、柱(ヂユウ)の一つ落ちたりしかば、「作りて附(ツ)けよ」と言ふに、ある男の中(ナカ)に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ヒシヤク)の柄(エ)ありや」など言ふを見れば、爪(ツメ)を生(オ)ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(メクラホフシ)の琵琶、その沙汰(サタ)にも及ばぬことなり。《『徒然草』二三二段》

2001年9月6日(木)曇り時々晴れ。東京(八王子)⇔羽村〜立川(玉川上水)

「傀儡師(クワイライシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「久」部に、

傀儡師(クワイライシ) 鷄鳴声。〔元亀本197九〕

傀儡師(クワイライシ) 。〔静嘉堂本223二〕

傀儡師(クワイライシ) 。〔天正十七年本中41オ一〕

とあって、標記語「傀儡師」の読みを「クワイライシ」として語注記は未記載にある。元亀本の語注記「鷄鳴声」は、次の「?〔〕々々(ククク)」の標記語を脱落したものでこの語とは直接関係しない注記語である。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「傀儡師」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、この標記語「傀儡師」を未收載にする。

そして、易林本節用集』では、

傀儡師(クワイライシ) 。〔・人倫129三〕

とあって、人倫門に「傀儡師」とあって、語注記は未記載にする。

 また、院政時代の観智院本類聚名義抄』に、

傀儡師 クヽツマハシ[平・平濁・上・○・○]。傀儡子 クヽツ[平・平濁・上]。〔佛上11二・三〕

とあって、古くは「くぐつまはし」またはこれを略して「くぐつし」と呼称していた。鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

傀儡子(クイライシ)クヽツ。クヽツマハシ。郭禿同。〔黒本本人倫・中73ウ五〕

傀儡子 クヽツ。郭禿同。〔卷六人倫399二〕

とあって、三巻本では標記語「傀儡子」として音表記「ク(ワ)イライシ」を傍訓とし、註記訓に「くくつ」と「くくつまはし」の訓を収載する。これに対し、十巻本は、音表記はなく、注記訓「くくつ」とする。そして、別標記語「郭禿」の語を収載している。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

208傀儡師琵琶法師 日本三琵琶也。玄象・青山・獅子丸也。法師トハ地~經引之亊也。〔謙堂文庫蔵二三左G〕

とあって、標記語「傀儡師」の語注記は、未記載にある。古版『庭訓徃来註』は、

傀儡師(クハイライシ)是ハ。攝津(セツツ)ノ國芥河(アクタカハ)ヨリ始ナリ。〔廿八ウ六・七〕

とあり、標記語を「傀儡師」とし、読みは「クハイライシ」で語注記には「是れは、攝津の國、芥河より始まるなり」とその発祥の地をいう。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

傀儡師(くわいらいし)傀儡師。傀儡とハ人形の事なり。□に箱をかけ其中に機發(からくり)をしかけ、いろ/\の人形をおとらせて人をなくさむるもの也。〔廿四ウ一・二〕

とし、この標記語に対する語注記は、その職能を具体的に説明していう。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

傀儡師(くわいらいし)傀儡師。爰(こゝ)にハ唯(たゝ)人形(にんきやう)をあやとり遣(つか)ふ者(もの)をいふなるへし。〔二十オ五〕

傀儡師(くわいらいし)傀儡師。爰(こゝ)にハ唯(たゞ)人形(きやう)をあやとり遣ふ者をいふなるへし。〔三五ウ三〕

とあって、標記語「傀儡師」とし、語注記は「爰にハ唯人形をあやとり遣ふ者をいふなるべし」という

 当代の『日葡辞書』には、

Quairaixi.クヮイライシ (傀儡師) 操り人形などを躍らせる人.〔邦訳517l〕

とあって、その斯業をより具象化していう。

[ことばの実際]

而(シカ)ル間、此ノ目代(モクダイ)、守(カミ)ノ前ニ居(ヰ)テ、文書共(モンジョドモ)多ク取散(トリチラ)シテ、亦下文共(クダシブミドモ)ヲ書(カカ)セ、其レニ印指(ササ)スル程ニ、傀儡子(クグツマハシ)ノ者共(ドモ)多ク舘(タチ)ニ来(キタリ)テ守(カミ)ノ前ニ並(ナラ)ビ居(ヰ)テ、歌ヲ詠(ウタ)ヒ笛ヲ吹キ〓〔言+慈〕(オモシロ)ク遊ブニ、守(カミ)モ此レヲ聞クニ、我ガ心地(ココチ)ニモ極(イミジ)クスヾロハシク〓〔言+慈〕(オモシロ)ク思ヱ(オボ(エ))ケルニ、此ノ目代(モクダイ)ノ印ヲ指(サ)スヲ見レバ、前(サキ)ニハ糸(イト)吉ク指(サシ)ツル者ノ、此ノ傀儡子(クグツマハシドモ)ノ吹キ詠(ウタ)フ拍子(ヒヤウシ)ニ随(シタガヒ)テ、三度拍子(ヒヤウシ)ニ印ヲ指ス。守(カミ)此レヲ見ルニ、「恠(アヤ)シ」ト思(オモヒ)テ護(マボ)ル程ニ、目代(モクダイ)〓〔暴+皮〕(フクレ)宿徳氣(ゲ)ナル肩ヲ亦三度拍子(ヒヤウシ)ニ指(サ)ス。傀儡子(クグツマハシドモ)其ノ氣色(ケシキ)ヲ見テ、詠(ウタ)ヒ吹キ叩(タタ)キ増(マサリ)テ、急(タチマチ)ニ詠(ウタ)ヒ早(ハヤ)ス。其ノ時ニ此ノ目代(モクダイ)、太ク辛(カラ)ビタル音(コヱ)ヲ打出(ウチイダ)シテ、傀儡子(クグツマハシ)ノ歌ニ加ヘテ、詠フ。《『今昔物語集』巻第二十八・伊豆守小野五友目代語第二十七,新大系五242七》

2001年9月5日(水)晴れ。東京(八王子)⇔板橋(国立国語研究所)

「獅子舞(シシまい)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「志」部に、標記語「獅子舞」は、未收載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「獅子舞」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、この標記語「獅子舞」を未收載にする。

そして、易林本節用集』では、

獅子舞(シシマヒ) 。〔・言辞217三〕

とあって、言辞門に「獅子舞」とあって、語注記は未記載にする。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「獅子舞」を未收載にする。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

207獅子舞 田畠之祈祷也。〔謙堂文庫蔵二三左G〕

とあって、標記語「獅子舞」の語注記は、「田畠の祈祷なり」という。古版『庭訓徃来註』は、

獅子舞(シシマイ)ノ事。獅子(シ)ノ頭(カシラ)ヲ作テ。布(ヌノ)ヲ縫(ヌイ)(ナラヘ)テ。頭ヲ仕テ算所ノ者舞也。〔廿八ウ六〕

とあり、標記語を「獅子舞」とし、語注記は写本古注と全く異にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

獅子舞(しゝまい)獅子舞。〔廿四オ一〕

とし、この標記語に対する語注記は、未記載にする。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

獅子舞(シシマイ)獅子舞ハ獅子頭(ししかしら)(かふ)りて踊(おと)る神(かミ)いさめの備(そなへ)也。〔二十オ四〕

獅子舞(シシマイ)獅子舞ハ獅子(しし)頭被(かふ)りて踊(をと)る神いさめの備(そなへ)也。〔三五ウ三〕

とあって、標記語「獅子舞」とし、語注記は「獅子頭、被りて踊る神いさめの備へなり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Xiximai.シシマイ (獅子舞) 人が獅子のような装いをして,ぐるぐる回ったり、さまざまな動作やしぐさをしたりする,その行為。.〔邦訳785r〕

とあって、「シシマヒ」の読みを収載し、語注記は、人倫と飲食の二種の意味をもって記載している。

[ことばの実際]

サテ、イソギ御使者アリ。此歌ヲミテ奏シケル程ニ、ヤガテ其日、女院ノ御中ニ、シキシマト云雜仕、法師ト二人、彼御衣ヲカヅキテ、師子舞シテ、クルイマイリテケリ。《『沙石集』第五末(一)神明ノ歌ヲ感ジテ人ヲ助給ヘル事》

2001年9月4日(火)雨のち曇り。東京(八王子)⇔板橋(国立国語研究所)

「田樂(デンガク)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「天」部に、

田樂(―ガク) 。〔元亀本244十〕

田樂(―ガク) 。〔静嘉堂本282七〕

田樂(―カク) 。〔天正十七年本中70オ五〕

とあって、標記語「田樂」で、読みを元亀本及び静嘉堂本が「―ガク」とし、天正十七年本は、「―カク」と示している。いずれも語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「田樂」と見え、『下學集』は、

田樂(デンガク) 。〔態藝門78六〕

とあって、標記語「田樂」の語注記は未記載にする。次に、広本節用集』は、

田樂(テンガク/タ,―)[平・入] 豆腐(タウフ)。〔飲食門78六〕

とあって、標記語「田樂」を飲食門に収載し、その読みを「テンガク」にして語注記を「豆腐」としている。そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、

田樂(デンガク) 豆腐(ヅフ)。〔・食物198四〕

田樂(テンガク) 豆腐(タウフ/ヅフ)。〔・食物164一〕

田樂(テンカク) 豆腐。〔・食物153四〕

とあって、広本節用集』に同じく食物門とし、語注記も「豆腐」で読みを「ヅフ」または「タウフ」と記載する。そして、易林本節用集』では、

田―(ガク)。―夫(―ブ) 。〔・人倫164四〕

とあって、人倫門に「田樂」と「田夫」とを併記する。語注記は未記載にある。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

田樂 テンカク。〔黒川本人事下16ウ六〕

田樂 テンカク。常人也。〔卷七人事232四〕

とあって、標記語「田樂」を収載する。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

206田樂 入通樂也。至高足|。田畠豊饒之祈祷也。〔謙堂文庫蔵二三左F〕

とあって、標記語「田樂」の語注記は、「入通樂なり。前に至り高足を蹈む是の樂は田畠豊饒の祈祷なり」という。古版『庭訓徃来註』は、

田樂(テンカク) ト云事。山法師ノ下(シモ)部ガシ出シタリ。比叡(ヒエイ)坂本(サカモト)ヨリ始リヌ。秋田ナンドヘ行テサル樂ノマネヲシ。刀玉ヲ取ナントシテ後ニハ。神事祭礼(サイレイ)ヲ勤(ツトメ)シ也。〔廿八ウ五〕

とあり、標記語を「田樂」とし、語注記は全く異にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

田樂(でんかく)田樂。山法師の下部猿楽にかたとり比叡の坂本にてしはしめたる楽也。田畠の祈祷(きとう)の為行ふゆへ田樂と云ともいへり。又田ハ野卑(やひ)なる義なり共いふ。〔廿四オ七〕

とし、この標記語に対する語注記は、「山法師の下部猿楽にかたとり比叡の坂本にてしはじめたる楽なり」という部分は、上記古版『庭訓徃来註』を手本とするが、後半部「田畠の祈祷の為、行ふゆへ田樂と云ふともいへり。又田は野卑なる義なり共いふ」は改訂注釈部分である。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

田樂(でんかく)▲田樂ハ法師楽(ほふしかく)也。高足(たかあし)を踏(ふん)で戯技(けぎ)をなす。田畠(たはた)豊饒(ふにやう)の祈祷(きたう)たるよし〔二十オ四〕

田樂(でんかく)▲田樂ハ法師楽(かく)也。高足(たかあし)を踏(ふん)て戯技(けき)をなす。田畠(はた)豊饒(ふにやう)の祈祷(きたう)たるよし〔三五ウ一〕

とあって、語注記は、「法師楽なり。高足を踏んで戯技をなす。田畠豊饒の祈祷たるよし」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Dengacu.デンガク(田樂) 舞を舞う坊主(Bozos).§また,味噌(Miso)をつけ,串に刺して炙った豆腐(To<fus).⇒Den(田).〔邦訳184l〕

とあって、「デンガク」の読みを収載し、語注記は、人倫と飲食の二種の意味をもって記載している。

[ことばの実際]

田樂(でんがく)といひて、怪(あや)しきやうなる鼓(つゞみ)(こし)に結(ゆ)いつけて笛(ふゑ)(ふ)き、さゝらといふ物突(つ)き、さま/゛\の舞(まい)して、あやしの男(おのこ)ども歌(うた)うたひ、心地(こゝち)よげに誇(ほこ)りて十人ばかりゆく。《『榮花物語』御裳着》

2001年9月3日(月)曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「狩人(かりびと・かりうど)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、標記語「狩人」は未収載にある。そして、「獵師」(2001.02.28収録)の「獵」の字にした、

獵人(カリヒト) 。〔元亀本99三〕

獵人(カリウド) 。〔静嘉堂本124五〕

獵人(カリヒト) 。〔天正十七年本上61オ五〕※獵師(カリヒト)〔天正十七年本上61オ五〕

獵人(カリヒト) 。〔西來寺本〕

とあって、標記語「獵人」で、読みを元亀本及び天正十七年本が「かりひと」であるのに対し、静嘉堂本は、「かりうど」とウ音便化の表記を示している。いずれも語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「猟師狩人」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』は、「猟師」は収載していても、この「狩人」乃至「獵人」の標記語は未収載にする。そして、易林本節用集』では、

獵師(カリビト) 。〔・人倫71二〕

とあって、「獵師」の項目で見たように、天正十七年本運歩色葉集』が、この語を「かりひと」と標記していたのと同じく、『節用集』類として「かりびと」の読みで収載している。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

獵師(レフシ)カリヒト虞人 。〔黒川本人倫・上77オ五〕

獵師 カリヒト虞人 。〔卷三人倫・186六〕

とあって、標記語「獵師」と「虞人」とし、語注記は未記載にし、読みに「かりひと」を記載する。そして、当面の「狩人」や「獵人」の語は見えていない。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

204深草土器作葺主 (フキシ)壁塗猟師狩人 猟師下知ヲスル者也。下知付者狩人也。〔謙堂文庫藏二一左E〕

とあって、標記語「狩人」は、語注記は未收載にある。古版『庭訓徃来註』は、

狩人(カリウド) 〔廿八ウ五〕

とあり、標記語を「狩人」とし、語注記は全く未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

狩人(かりうど)狩人。〔廿四オ三〕

とし、この標記語に対する語注記は、「左官なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

狩人(かりうと)▲猟師狩人ハ共に禽獣(とりけたもの)を駈(か)る者〔二十オ三〕

狩人(かりうど)▲猟師狩人ハ共に禽獣(とりけだもの)を駈(か)る者〔三五ウ一〕

とあって、同じように語注記は、「猟師」の語と共に一つにして「禽獣を駈る者」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Caribito.カリビト(狩人) 狩人.⇒Cariu>do;Qiu<cho>.〔邦訳102r〕

‡Cariu>do. カリュゥド(狩人) 狩人.⇒Caribito.〔邦訳103r〕

とあって、「かりびと」と「かりゅぅど」の両方の読みを収載し、語注記は単に「狩人」というにすぎない。

[ことばの実際]

大野郷 郡家正西一十里廾歩 和加布都努志能命 御狩爲坐時 即郷西山 狩人立給而 追猪犀 北方上之 至阿内谷而 其猪之跡亡失。《『出雲風土記』秋鹿郡・大系154》

をぅかめ これを まことと こころえ,その ことばに あんど して かくれふいた ところに,かりゅぅど きて,その ほとりを たづぬるに,パストルも これを くきゃぅの みぎり ぢゃとをもい,ことばでわ そでも ない ところを をしえ,まなこをもって ふしどころを をしえた . 《天草版『伊曽保物語』》

禁中に御能あり。狸の腹皷を。狂言にする。狸か出けるを。狩人なんちなにものそ。我は狸の王なりといふ。何と王ちや。王ならは射ころいて。くれうすと誤ては一字をけかす恐れてもいひなをさん様なし。《『醒睡笑』七》

2001年9月2日(日)晴れのち曇り。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「壁塗(かべぬり)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「賀」部に、

(カベ) 。〔元亀本104一〕

(カベ) 。〔静嘉堂本130六〕

(カベ) 。〔天正十七年本上64オ四〕

×。〔西來寺本は、この語を未収載とする〕

とあって、標記語「壁塗」の語は未収載にあり、を「」として、読みを「かべ」とする。いずれも、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「壁塗」と見え、『下學集』は、

壁塗(カベヌリ) 。〔人倫門39五〕

とあって、標記語「壁塗」で、語注記は未記載にする。広本節用集』には、

壁塗(カベヌリ/ヘキト)[入・平濁] 。〔人倫門260六〕

とあって、標記語「壁塗」で、語注記は未記載にする。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本両足院本節用集』では、

壁塗(カヘヌリ) 職人。〔・人倫77三〕

壁塗(カベヌリ) 。〔・人倫76八〕

壁塗(カへヌリ) 。〔・人倫69六〕〔・人倫82八〕

とあって、標記語「壁塗」で、弘治二年本には、語注記に「職人」とある。そして、易林本節用集』、増刊節用集』では、

壁塗(カベヌリ) 。〔・人倫71五〕

壁塗(カベヌリ) 。〔・人倫上26ウ六〕

とあって、上記『節用集』類と同じ収載にある。『塵芥』では、

壁塗(カへヌリ) 。〔人倫門110三〕

とあって、語注記は未記載にする。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、

塗土(ト―){工也} カヘヌリ。〔黒川本人倫・上77オ六〕

塗工 カヘヌリ壁塗 俗甲。〔卷三人倫・187四〕

とあって、三卷本は標記語を「塗土{工}」とし、語注記は未記載にし、十巻本は、「塗工」と併記して「壁塗」の語を注記に「俗甲」として記載する。ここで気付くとことは、唯一『運歩色葉集』が標記語「壁塗」を未収載にしている点である。その要因は今のところ定かではない。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

204深草土器作葺主 (フキシ)壁塗猟師狩人 猟師下知ヲスル者也。下知付者狩人也。〔謙堂文庫藏二一左E〕

とあって、標記語「壁塗」は、語注記は未收載にある。古版『庭訓徃来註』は、

壁塗(カベヌリ) 〔廿八ウ五〕

とあり、標記語を「壁塗」とし、語注記は全く未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

壁塗(かべぬり)壁塗 左官なり。〔廿四オ三〕

とし、この標記語に対する語注記は、「左官なり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

壁塗(かべぬり)▲壁塗ハ今いふ左官(さくハん)〔二十オ三〕

壁塗(かへぬり)▲壁塗ハ今いふ左官(さくわん)〔三五ウ一〕

とあって、同じように語注記は、「今いふ左官なり」という。

 当代の『日葡辞書』には、なぜか「壁塗」は未収載にある。

[ことばの実際]

康平三年五月 食料、廿九日下、 五升   壁塗千童丸清忠安永  所済  過 《平安遺文『東南院文書』二ノ二3/1010》

御堂(みだう)の内(うち)を見(み)れば、佛の御座(ざ)(つく)り耀(かゞや)かす。板敷(いたじき)を見(み)れば、木賊(とくさ)・椋葉(むくのは)・桃(もも)の核(さね)などして、四五十人が手(て)ごとに居竝(ゐな)みて磨(みが)き拭(のご)ふ。桧皮葺(ひはだふき)壁塗(かべぬり)・瓦作(かはらつくり)なども數(かず)を盡(つく)したり。《『榮花物語』卷第十四・うたがひ》《『襟帯集』》

2001年9月1日(土)晴れ。東京(八王子)⇔世田谷(駒沢)

「葺主 (フキシ)

 室町時代の古辞書である『運歩色葉集』の「婦」部と「賀」部とを見るに、

葺師(フキジ) 。〔元亀本224七〕

葺師(フキジ) 。〔静嘉堂本257四〕

とあって、標記語を「葺師」として、読みを「ふきジ」とする。いずれも、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』には、卯月五日の状に「葺主」と見え、『下學集』及び広本節用集』そして、印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』、さらには易林本節用集』も、標記語「葺主」「葺師」の職種語では未収載にする。ただし、『下學集』をはじめとする古辞書には、下記の収載が見られることを指摘しておきたい。

(フク) 覆(ヲヽウ)之義也。〔言辞157一〕

とあって、標記語を動作の語で収載し、語注記に「屋を覆うの義なり」という。広本節用集』には、

(フク/シフ)[入] 覆(ヲヽウ)屋上義。〔態藝門651三〕

とあって、標記語「」で、語注記に「屋上を覆う義」という。印度本系統の弘治二年本永祿二年本尭空本節用集』では、

(フク) ―屋上ヲ。聚分韻作茸。〔・言語進退181四〕

(フク) ―屋上〔・言語150六〕

×

とあって、標記語「」で、弘治二年本には、語注記に「屋上を葺く」とし、その後に「『聚分韻略』、茸に作る」とある。尭空本は未收載である。そして、易林本節用集』、増刊節用集』では、

(フク/シフ) 屋。〔・言辞152二〕

(フク) 屋。〔・言語上63オ二〕

とあって、上記『節用集』類と同じ収載にある。『塵芥』では、

(フク) 覆屋。〔態藝門269七〕

とあって、語注記は、「屋を覆ふ」という。

 また、鎌倉時代の三卷本色葉字類抄』、十巻本伊呂波字類抄』には、標記語「葺主葺師」の語は、未收載にし、その斯業である「」の字を、

フク。七入反。盖屋〔黒川本・辞字中104ウ六〕

フク ―屋。 已上同。〔卷七辞字71三・四〕

とあって、標記語「」で収載し、語注記に「盖屋」すなわち、「屋を蓋う」という。『下學集』が示す注記内容と同様の概念が既に記載されているのである。この注記形態を『下學集』編者は確認し、これを継承したかは、さらなる例証をもってからでないと言い難いのでこのまま据え置くことにしておきたい。

 これを『庭訓往来註』卯月五日の状に、

204深草土器作葺主 (フキシ)壁塗猟師狩人 猟師下知ヲスル者也。下知付者狩人也。〔謙堂文庫藏二一左E〕

とあって、標記語「葺主」は、語注記は未收載にある。古版『庭訓徃来註』は、

葺師(フキシ) 〔廿八ウ五〕

とあり、標記語を「葺師」とし、語注記は全く未記載にする。時代は降って、江戸時代の庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、

葺師(ふきし)葺師屋根ふき也。〔廿四オ三〕

とし、この標記語に対する語注記は、「屋根ふきなり」という。これを頭書訓読庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、

葺師(ふきし)▲葺師ハ屋根葺(やねふき)也。〔二十オ三〕〔三五ウ一〕

とあって、同じように語注記は、「屋根葺きなり」という。

 当代の『日葡辞書』には、

Fuqi,u,uita.フキ,ク,イタ(葺き,く,いた) 例,Iye,l,yaneuo fuqu.(家,または,屋根を葺く)屋根に瓦などを葺く,あるいは,家の上を覆う.⇒Toma.〔邦訳279r〕

とあって、多くの職種名を積極的に採録する『日葡辞書』にあっても、上記の作業を職種とする当面の標記語「葺主葺師」の語は未收載である。

[ことばの実際]

(寛喜二年)閏正月廿一日去年閏十二月十一日第四神殿妻庇桧皮上、有死人生骨、即言上先畢《石清田中 340 2/4》

長和三年四月廿五日 此之、 今日寝屋檜皮蓋畢、但未葺瓦、檜皮工等給小禄、大工佐伯徳《小右記 3/217 400-0》

 

UP(「ことばの溜め池」最上部へ)

BACK(「言葉の泉」へ)

MAIN MENU(情報言語学研究室へ)

 メールは、<(自宅)hagi@kk.iij4u.or.jp.(学校)hagi@komazawa-u.ac.jp.>で、お願いします。

また、「ことばの溜め池」表紙の壁新聞(「ことばの情報」他)にてでも結構でございます。