総長より卒業生の皆さんへお祝いのメッセージ

Date:2020.03.23
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学校法人駒澤大学 総長 永井 政之 

新型コロナウイルスによる感染を予防するために、日本はもとより世界中で、さまざまな行事が中止や延期の止むなきに至っています。本学も例外ではなく、私たちは、大学生活の締めくくりともなる卒業式をめぐって、さまざまに検討を重ねてまいりました。その結果、何より卒業生の皆さんの健康が第一という原点に立ち返って、式典の部分は割愛し、学位記の交付のみを行うことといたしました。

人生の節目ともなる卒業式を、このような形で行わざるを得なかったのは、本当に残念なことですが、新型ウイルスをめぐっての治療法が確立していない現在、やむを得ない選択であったと、何卒、御理解下さい。本来であれば、学校法人駒澤大学の教職員を代表して式典の会場で読むべき「祝辞」ですが、ホームページ上に掲載して祝意を表したいと思います。

ここで あらためて大学院を修了、あるいは学部を卒業される皆様に、心からのお祝いを申し上げます。

例年以上に慌ただしい雰囲気の中での卒業ですが、多くの皆さんは、すでに4月からの新生活の見通しも立っているものと推察いたします。選ばれたそれぞれの新しい世界において、培われた叡智を存分に発揮されることを祈ります。

顧みれば平成に入学し令和に卒業される皆さんが、遠い将来において、青春そのものを過ごした本学での生活をどのように評価されるか。そしてそのような、振り返りの時に至るまでの長い人生を、どう作り上げていくのか。さらにその結果、日本が、世界がどう構築されているのか、今、私は強い関心を持っています。

マスコミなどの報道を通して、私たちは平成、令和という時代と、戦後の復興とも相まって「右肩上がり」を、誰もが実感しえたとされる「昭和」という時代とが、どこか異なっているのを肌で感じてはいないでしょうか。たしかにAIに代表されるように、まれに見るほどの科学技術の発展の結果、私たちの生活は将来ますます便利になっていくことは疑いないように思います。にもかかわらず、私たちは、政治、経済、社会をはじめとするさまざまな分野で、どこか地に足のついていない、幸福を無条件に享受しきれていない、不安定な想いを抱いてはいないでしょうか。

それは科学技術を生み出し、使い、さらに工夫発展させてきた私たち人間が、ある時期からその科学技術に使われるようになりつつある、主客転倒とも言うべき時代を迎えつつあることに気づいたからだと思います。杞憂に終われば良いと願いつつ、毎日を過ごしているのは、私だけではないように思います。識者からは、来たるべき時代を「創造社会」と位置づけ、明るい未来をめざして、変化してやまない現実をむしろチャンスに切り替えることができるようにとさまざまな提言がなされています。

しかし抱える問題の大きさに鑑みるとき、提言の実現には相当の時間と努力が必要と思われます。
進歩を止めることはできないでしょう。もちろん「なるようになる」といっただけでも済まされるわけではありません。個々の人間がなしうることは時、処、位によって異なるでしょうし、あくまでも限られた範囲に止まらざるをえない考えるのが現実的かもしれません。

ただし言えることは、未来がどのような時代になるにしても、それを構築する主体は、あくまでも「人間」だと言うことです。毎日、毎日の私たちの営みが、未来の社会を作り上げていることを忘れてはいけません。すでに何度も耳にされ理解されているように、駒澤大学は「行学一如」をもって建学の理念としています。それはブッダの説かれた縁起の教えに基づき、あらゆる存在に対して慈しみの心を持って生きていくことを意味しています。現代という時代だからこそ、ともすれば忘れてしまいがちな、「自分自身(自己)と他人自身(他己)を同価値・平等であると見る姿勢を失わない」ような生き方、「あらゆる存在にその尊厳を認める」という生き方を、「今まで以上に忘れない」ということがまず基本に置かれるべきだと、私は強く思っています。

すでに「仏教と人間」の授業において講義されたかも知れません。禅の公案に「瑞巌主人公」と題するエピソードがあります。中国、唐の時代に瑞巌師彦という禅僧がいました。瑞巌は毎日坐禅をする中で、自分自身に「主人公」と呼びかけ、自身で「ハイ」と答え、さらに言葉をついで「起きているか。だまされるなよ」「ハイハイ」と自問自答したと伝えられます。

「だまされるなよ」が、「自分を見失うな」という意味であることは言うまでもありません。
もうすこし分かりやすく言うなら「煩悩に振り回されるな」、「欲望のままに生きるな」ということになりましょう。煩悩といい、欲望というと、我々は多分良いイメージを持たないと思います。しかし欲望のない人間はいないというのも現実ですし、その欲望の延長線上に、現代の繁栄と、さまざまな問題の根源があることは自明です。繁栄をもとめることを一概に否定することはできません。しかしその方向を誤ると取り返しのつかない結果が訪れるであろうことも自明です。

「ふりまわされない」という生き方は、自己と他己を平等に見つつ、「自分を信じ自信を持って生きる」、あるいは「自覚して生きる」という意味でもあります。ここで「修行」という言葉を持ち出すと、何やら唐突のようですが、修行とは何か特別のことを行うのではなく、毎日をつつがなく過ごすための弛まない努力こそが修行の本質であり、道元禅師の『典座教訓』の言葉を借りるなら、「他は是れ吾にあらず」。他人の人生ではない、自分の人生を丁寧に自分が生きることこそが「修行」だと私は考えています。新型ウイルスの出現によって、例年のような「卒業式」ができなかった私たちは、当たり前のように享受してきた「健康」が決して当たり前の世界ではないことに気づきました。

皆さんのこれからの長い人生、予想できないこと、思い通りにならないことが、今まで以上に頻出することは疑いありません。そのような場合どう工夫し対処するか。そんなとき「振り回されない」という教えを、また修行の意味を、是非、思い起こして頂きたく思います。
そのことを切に念じて、皆さんの卒業に当たっての、私のはなむけの言葉といたします。

令和2年3月23日、24日
学校法人駒澤大学 総長 永井 政之