令和4年度 入学式 総長祝辞

Date:2022.04.11

ここに令和4年度、駒澤大学の入学式にあたり、新入生の皆さんに対してはもとより、御父母をはじめとする関係される皆様に、学校法人駒澤大学の教職員を代表して心からのお祝いを申し上げます。
令和元年秋、中国武漢にはじまるとされ、アッという間に全世界に広まった新型コロナウイルスは、わずか2年半の間に、社会のあらゆる分野に大きな影響と被害を与えたこと、大学受験のさなかにあった皆さんも十分にご承知のことと思います。
そんなコロナ禍ですが、今日の良き日、総じて3500人をゆうに超える新入生の皆さんをお迎えすることができました。
これはひとえに貴重な青春の4年間を駒澤大学で学ぼうと決意された皆さんの覚悟、また駒澤大学の教育方針に関心を寄せ、御子女の将来を託されようとされた御父母の皆さんの思いなど、さまざまな「ご縁」が結実した結果にほかならないと、私たち教職員全員、厳粛かつ真摯に受け止めております。
そしてそのようなご縁とご期待に背かないようにと、決意を新たにしております。

さて言うまでもなく、本日4月8日は「花祭り」。―正式には降誕会と呼ばれますが―仏教を開かれたブッダ・お釈迦様の誕生日とされる日です。
蛇足ながら申すなら、7日前の4月1日から、18歳をもって成人と見なすとの法律が施行されました。皆さんはその最初の対象者となられたわけですから、偶然とはいえ、皆さんの新たなる出発の日として、これ以上ふさわしい日はないと、私は考えています。

ところで皆さんは、すでにさまざまな紹介資料を通して駒澤大学が仏教、曹洞宗によって設立された、所謂、仏教系の大学であることを認識されているものと思います。
駒澤大学の淵源や歴史などについては、すでに皆さんに配られている袋の中にあるパンフレット、「学校法人駒澤大学 建学の理念」において、あらまし記されております。
また駒澤大学では入学後、全学部の一年生に、必修科目「仏教と人間」の履修をお願いしています。そこでは「宗教とは」「仏教とは」「禅とは」など、多分、今までの受験勉強では思いもよらなかった世界が、担当の先生方によって丁寧に講義されることになっております。重複なしとしませんが、駒澤大学についてその一端を述べさせていただきましょう。

駒澤大学は、文禄元年(1592)に、江戸神田台(のちの駿河台)にあった吉祥寺というお寺に開かれた、「旃檀林」という学寮から発展致しました。「栴檀は双葉より芳し」と言われる「栴檀」です。中国、唐の時代、あるお坊さんは「栴檀の林には雑木はない。そこに住めるのは百獣の王とされる獅子だけだ」という言葉をのこしました。
このようなエピソードを承け、この学寮では有意な若者を立派なお坊さんに育て上げるための教育が24時間体制でなされました。
学寮は歴史と共に発展展開し、現在では、総じて「7学部、17学科」、大学院には8研究科、15専攻を擁するにいたりました。
このように現在の駒澤大学では、仏教や禅の教えを基本として、さまざまな分野の学問研究と教育がなされています。それは仏教を創唱されたブッダ(中央に祀られる仏さま)、福井県に大本山永平寺を開かれた道元禅師(向かって右側)、現在は横浜市にある大本山総持寺を開かれた瑩山禅師(向かって左側)―この三人を私たちは「一仏両祖」と総称し尊崇しますが―このお三方が説かれた教えが、ひとりお坊さんという限られた世界のものではなく、万人の生き方に深く関わる、「普遍性」を持つと信じるからであります。

そもそもブッダは「縁起」という教えを説かれました。分かりやすく言うなら、それは「全ての存在は結びつきによって成り立っている。単独で存在するものはない」という教えです。それは「あらゆる存在は互いに支え合って存在している」、とも言い換えられましょう。「仏教」は、私たちに、そのような教えを理解し信じる、「智慧」を我がものとすること、そして「縁起」の故にこそ、常に、「慈しみの心」を忘れることなく、生きていくべきことを求めます。
駒澤大学はこれを、「行学一如」という四字の熟語で表現し、具体的な実践の徳目として「信誠敬愛」を掲げます。「行学一如」とは学びと生き方の一致を意味します。
また校歌にも歌われる「信誠敬愛」の、信は教えを信じ、個々の尊厳を信じて生きること。誠は教えに対し、また自分自身に対して誠実であること。敬は教えを敬い、他を敬いつつ生きること。愛はあらゆる存在に対して、「慈しみの心」を持って生きるべきことを言います。
現代社会における、さまざまな分野における日進月歩の発展は筆舌に尽くしがたいことを、誰もが実感していると思います。私たちは、そのような発展の成果を享受し謳歌しつつ毎日を生きています。しかし「そこに問題はないのか」とも私たちは感じています。
今に始まったことではないにせよ、「人間中心」「自己中心」、そして「自国中心」の風潮は、明らかにどこかバランスを欠いたものと思えてなりません。利便性や経済性を追求した結果、「人間性」が劣化してしまったと言ったら、言い過ぎでしょうか。近年、国連がSDGsを提唱するのは、まさしくこのような現代が持つさまざまな問題に対する、危機感の表れと言っても良いように思います。
同時に私は、そのような、人間が固有する欲望に対する対処をめぐって、すでにブッダが、「あらゆる存在」のそれぞれが、互いの尊厳を認めあい、それを現実に生かす営みを、弛まなく続けることの大切を教えられていることを思い出します。そしてそのような生き方が、今、求められているのではないかと考えています。

皆さんは、大学生として、自ら選んだそれぞれの分野を通し、より理想的な人生を送るべく歩みを進められます。大学生活が、過ごしようによっては、人生における最も有意義な時間となること、今更、言うまでもありません。そして、その有意義さを構築する、大きな柱の一つとして、「今までにない出会い」を挙げる事ができると思います。講義の場で、クラブ活動の場で、「出会い」のチャンスはいくらでもあります。
知識を得るだけなら、無理して大学に入る必要はないでしょう。あらましの知識なら、インターネットを通して知ることができます。そんな時代です。
しかし「人」と出会うためには、アナログの世界も欠いてはならないでしょう。むしろデジタル化を拒否できない現代社会だからこそ、「人」と出会う上で「対面」という出会いは、より重要な意味を持つのではないかと、私は考えています。

13世紀、鎌倉時代、道元禅師は、中国に渡って、師匠である如浄禅師という方と出会われました。そのときの「出会い」を「われ人に会うなり」と述懐されています。結果的に寝食を共にする生活を通し、ブッダ以来の「坐禅」の教えをわがものとして帰国され、のちに永平寺をひらかれました。このことは「対面」―道元禅師はこれを「面授」と表現されますが―が禅の教育の中心にある証左とも言えます。

4年という歳月は長そうですが、私自身の経験からしても、アッという間に過ぎ去ります。亡き石原慎太郎氏は、自分の人生を振り返って、「歴史の十字路に立った」と振り返られましたが、歴史の十字路に立つのは、一人、石原氏のみだけではありません。私たちの誰もが、今までも、そしてこれからも、「十字路」に立っており、そして「歴史」を作っていること、言うまでもありません。

私たち教職員一同、皆さんが「旃檀林にあって、未来の獅子たるべく成長されるよう」、お手伝いをさせていただきます。

中国のある禅僧は、まな弟子が別の師匠を求めて旅立つとき、「途中善為」と言って送りだしました。現代語に訳せば「道中、気をつけて」となります。それが単なる送別の言葉ではないこと、親しい関係にあればあるほど、「遠き道のり―それは修行でもあり、また人生そのものでもありますが―の安全を願う、心からのさけび」であることに気づきます。
くどいようですが、「出会い」には「善い出会い」も「悪い出会い」もあります。私たち以上に、皆さんの入学を祝い、将来を気遣って下さる御父母の思いに背かないよう、私もまた「途中善為」と申し上げ、皆さんの御入学への祝辞といたします。

ご入学、おめでとう御座います。

令和4年4月8日
学校法人駒澤大学 総長 永井 政之